開け放した窓からの夜風は涼しげで、しげる虫の音と鈴音をはこんでいる。今はまだ暦上の存在である秋が、目に見えて実感できるようにまで、そう長くないだろう。今も軒端には風鈴がつるされているが、そろそろ外してやらねば、透明な硝子を泳ぐ二尾の金魚が紅葉に赤々ともゆることになる。一見すれば明媚かもしれぬ光景だが、季節に背いている点で風流からは縁遠くある。
そういった時節をふまえて、明日にでも片づけるべきだと、おぼろげな月明かりが明滅するなか、烏天狗の射命丸 文は思案した。
ただ、そう寝がなに思いつつも、文は秋風に鳴る鈴音を子守唄にしていた。頭を枕に預けて久しいというのに、意識はいっこうに手元から離れようとしない。
文の眠れぬ原因は明確であった。寝付こうとしても、ある悩みの種がそれをさまたげるのだ。活発な思考は睡魔を寄せ付けないまま、答えのない問題を追つづける。それは手綱を外した奔馬と同じく、文の意思は無力かまたは無関係であった。
それにくわえて、すぐかたわらには安らかな寝息が立っているのだから、八つ当たり的な不愉快さもある。心地良さそうな寝息は、白狼天狗の犬走 椛のものであり、この椛なる天狗こそが、文の持つ最大の悩みの種である。
椛は何がそうさせるのか、文にたいして日頃から反抗的な態度でいどんでくる。文の一挙一句に監視の目を敷いているらしく、少しでも油断があれば自分のことは棚にあげて、生意気にも苦言や嫌味を口にしてやまないのだ。ときには、危害をくわえる素振りすら見せるのだから性質が悪い。
かくのように、ただ邪険にされるだけなら、文も簡単にかまえていられるが、椛はかなりの曲者であった。憎まれ口をたたくついでに、何かにつけて食事や寝床をせがんでくる。それは馴れ馴れしいというよりも、ただひたすらに不可思議な性質である。
今晩もまさにそれで、椛は雨が降りそうだからと、綺麗な夕日のなか敷居を跨いだ。その手には大きなお腹をした鮎が数竿握られており、文は、わざわざ七輪に炭を入れるはめになった。
それから椛は文に焼かせた鮎を肴にして、たらふく白米を飲んだのち、そのまま文が入れた新湯を盗んだうえに、今は文のお気に入りの薄手の毛布に身をつつんでいる。
しかも、椛の寝相はおそろしく悪い。今宵も寝返りを打ちつづけて、文の布団になかば闖入している。
椛のはだけた寝間着からのぞくお腹は、夕餉の鮎とは趣を異にしているが、この寝間着もお古とはいえ文のものである。特別の理由はないが捨てずに箪笥の肥料としていたのを、椛が掘り出して無許可に私物化したのだ。
盗人猛々しいとはこのことかと、文は場違いな感心をいだきながらも、この闖入者の不防備に白いお腹へ、自分の掛け布団をわけ与えてやった。当然ながら、お礼の言葉はかえってこない。
いよいよ寝付けられない文は、枕元に積んでいる草紙に手を伸ばした。これは友人から借りたものだが、返却の期日はとうの昔にすぎている。ざっと見積もるに数年であり、貸した本人も忘れているにちがいない。そんな草子であるからこそ、眠気を誘う効用に富んでいると考えた。
けれど、表紙をめくるまでもなく、文はふたたび草紙を枕元においた。開放された窓から射しこむ光は弱々しく、文字を追いかけるには適さないのである。
手持ちぶさたが手遊びを呼んだ。文は思い出しかのように椛の灰白色の髪に指をいれた。手櫛と称するには繊細さを欠く指使いは、火桶の火を名残惜しむそれと近かった。この秘かな夜遊びは、今宵が初めてのことではない。今までにも幾度となく、宿賃代わりに椛から徴収してきたが、そのなかで椛を起こしてしまったことは一度もない。
椛の眠りが深いことを、文は知悉していた。
「……ちゃんと手入れしているのかしら」
ただ、椛の髪質はお世辞にも上等とはいえない。椛の灰がちの髪は、その色に反して、霜柱のような脆弱な頑なさを宿している。そのため、手櫛の指を素直に流そうとはしないで、水草が舟棹を取るように絡むから、慰みものとしては強情さが目立っている。
しかし、この強情な髪を文は嫌いになれず、むしろ好ましいとしていた。素行の生意気な椛にしては、分をわきまえていると感じられるし、さらには自身の艶やかな黒髪を引き立てる色合いをしている。
さらに椛の髪からは、かすかに樹木と大瀑布の気配とが混ざった奇妙な匂いがする。それは雨あがりの朝の山道を、初々しい木漏れ日のもと散歩する気配に似ており、文を晴れやかな気分にする。
事実、その一房を鼻先に当てると、やはり清々しい気配に鼻孔をくすぐられ、文は明日の朝のことを思い浮かべた。
……もしも明日の朝、早く起きられたなら、もしくはこのまま夜を明かしたら、朝餉の前に椛を連れて山を散策してみよう。多分、椛は億劫がるだろうけど、朝餉を餌にすればいい。何か餌を与えてやらないと、椛は私の言うことを聞けないのだ。そういう性分なのだ、この子は。
そういったように自分で考えておきながら、おかしくなった文は笑いをこぼした。そして、あたたかな吐息は、椛の狼耳を撫でるらしく、小ぶりな三角の耳がぴくりと跳ねた。
肉体の無意識の反応を見た文は、腕をまわしてその身体を軽く抱きすくめてやった。腕に伝わる肉感は弾力に富んでおり、適度に色のついた肌の奥の膂力が、確かであることを伝えている。
天狗としての椛は半人前と一人前の境目にいるが、その体躯の背丈の乏しいことをのぞけば、汗馬を思わせるほど練り上げられている。
本当にただ単純な力比べでは、近いうちに、一歩譲ってしまうかもしれない。文がそう感じる程度には、昨今の椛の成長には著しいものがある。一人前の天狗になるのも、そう遠くはないだろう。それを考えると、文の胸中は複雑にうずまいた。
文に椛の成長を厭う気持ちはさらさらない。むしろ強く望んでいるくらいなのだが、拭いきれない疑問もあった。
はたして一人前になった後も椛は、今までの関係のままでいてくれるのか。それとも、ほかの白狼天狗や烏天狗がそうであるように、敬して遠ざけるような態度にかわるのか。
椛から気安く扱われることは不満だが、しかし不快に思うわけでもなく、今さら他人行儀な態度をとられても気に障る。
できることなら、時と場所を選んで、お互いの接し方を切り替えるようにしたいが、椛にそこまで願っては高望みもはなはだしい。椛は不器用である。
「うぅ、うぅん」
さすがに椛も寝苦しくなってきたのか、しだいに苦しげな呼気をもらしはじめた。あれこれ考えているうちに思いかけず、腕によぶんな力が込められていたのだ。それは溺者が流木にすがりつくような、心細さと恐ろしさにまみれた行為だった。
それからしばらくの間をおいて、椛は大きく寝返りをうって目をさましたものの、ちょうど文と対面するように身を転がしたのは、意図せぬことらしかった。間近に迫った文の顔に気付いた椛は、鳶色の目を大きく見ひらいてみせた。
「なんですか、なにかありましたか」
「そろそろ起きる時間だから」
「えっ、ほんとうに?」
「ほら見てごらん。もう日も昇りそう」
「でも、まだ暗いようです」
「あらら、めざといわね」
「……射命丸様のうそつき、馬鹿」
眠たげな椛から率直な苦言を呈されたが、文にも言い分はあった。
「馬鹿とはなんです。寝床を貸してあげているだけ、ありがたいと思いなさい」
「だからって、起こすことはないじゃないですか」
「寝付けなくて暇なのよ、秋の夜長って面倒よね」
「面倒なのは射命丸様です」
「椛に言われたくないな」
文が鈴を転がすように笑うと、ちょうど本物の鈴音が室内に響いた。軒端の風鈴が、鈴虫の鳴き声をのせた微風にふかれて、小さくゆれうごいたのだ。
少し肌寒いだけの風も、季節はずれの鈴音に手伝われるのか、その冷気を強めるらしかった。
二人は同じ布団のなかで身を寄せあって、体温をわかちあうが、椛のお腹は出しっぱなしである。平時から体温が高めの椛とはいえ、みすみすお腹を冷やしては身体に障ってしまいかねない。
文は器用にも横になったままで、その乱れた寝間着を着付けてやり、先ほどの考えを口にする。
「明日の朝、ちょっと散歩に付き合いなさい」
「朝ご飯は」
「付き合ってくれたら」
「それならいいですけど、どうしたのです」
「特別な理由はないの。ただ、椛と散歩するのも乙だろうと思って」
「なんですか、それ。意味がわかりませぬ」
「椛が嫌ならやめておきます。むろん朝ご飯もないですが」
「嫌じゃないです。けど、このままだと起きるのは、お昼になってしまいます」
「椛は昼からお仕事?」
「明日は一日お休み」
「それなら、昼からも付き合ってもらおうか」
「お昼ご飯」
「欲張りな子ですね」
文が椛から約束を取り付けるのと、寝間着の紐帯を結びおえるのは同時であった。すると、帯の結び目を確認する文の手に、椛の手が添えられた。
こうした細やかな気づかいは、文の好むところであるはずが、椛の手はしだいに文の紐帯を緩めはじめた。どうやら共襟の間隙をひろげて、秘めた肌に忍びこむ算段のようである。
甘えついた手の甲を、文はうすく痕が残る程度につねり上げて、その気安さを諫めてやった。すると、予期せぬ痛みにおどろき微動する椛の手は、文に言葉にならない幸福感をもたらした。
ただ、それを椛は味気なく感じるようで、表情や言葉をつくらずとも口先はとがらせた。
「朝は散歩としても、お昼はなにをするんですか」
「そろそろ季節が移るからね。早めに冬の用意をしたいの」
「なにを買うの」
「まだはっきり決めていないけど、日用品をひととおり」
「それで私が荷物運びですか。人使いがあらい」
「無銭飲食のうえ居座る子がいるからね。その子の分だけ、荷物は多くなってしまうから」
これを文は軽口のつもりで告げたが、椛はそう受けとめなかったらしい。にわかに表情をくもらせた椛が、ぽつりと呟いた。
「私も出した方がいい?」
「今回は荷物運びだけで十分です」
文は助け船を即座にだした。ここで下手にからかいなどしたら、いよいよ椛が本気にとらえてしまい、軽口が軽口でなくなってしまうと思えたのだ。
「椛には今年も雪かきと薪割りと大掃除と宛名書きとその配達と年末年始の羽繕い、そのほかにもいろいろ手伝ってもらうから、明日のはお駄賃の先払いです」
「やっぱり人使いがあらい。それなら、もっと色をつけてください」
「お年玉は別にしてあげているんだから、素直に感謝なさい」
「作りすぎたお節料理は、お年玉とは呼びませぬ」
「椛が美味しいと言ってくれるから、つい」
「たしかに美味しいけど、限度はあります」
「だけど、足りないって怒るのも椛じゃない」
「では、栗金団と数の子を多めにしてください」
「そんなわがまま言わないの」
二人が苦笑を交わしあうと、待ちかまえていたかのごとく、またしても鈴音がなった。さらに宵が深くなった分だけ、今度の風は一段と寒さをましている。
文と椛はとっさにお互いを庇うように身を強ばらせたところ、椛の額が文の下唇をしたたかに打った。
「いたっ」
文がわずかに切れた唇に舌先を押し当てると、少し塩辛い鉄の味が口内に広がり、かたちの優れた眉はひそめられた。
それを間近に見て不安に思うのか、それとも文の血のにおいに興奮するのか。椛がひゅんひゅんと鼻を鳴らしはじめた。これを鎮めるため文は、椛の背なかを二度三度と撫でたが、文の胸に伝わる椛の心音はいっそう早まった。
そして、軽度とはいえ傷を負ったことは、文に窓を閉じることを一考させた。
だが、それでも文は、このまま夜風にかこつけると決めた。椛とより密着すれば、椛のやや高めの体温が湯たんぽ代わりの暖になる。そのうえ、二人の心音と体温を重ねれば、ひとつの息吹に融けあわせられる。
椛も文の考えを斟酌したのか、先ほどの仕打ちを気にする様子もなく、素直に文の腕のはたらきに従った。椛は文の首もとに鼻をうずめるほど、身体を預けたのである。これで少なくとも頭突く心配はなくなった。
「こう肌寒いと、秋どころか冬もすぐね」
「そうなったら、私の風鈴も外してしまうの?」
「嫌なの?」
「嫌です」
「そんなに風鈴が好きなんだ」
「夏祭りで景品にもらった上等なやつですよ」
「でも、私はそれを知らないからね。どうして誘ってくれなかったの」
「新聞で、お忙しそうにしていたから」
「誘ってくれたら行きましたよ。浴衣だって新調していたかもしれないのに」
「それなら、秋祭りは一緒に行きましょう」
「ええ、気が向いたらね」
「射命丸様のいじわる」
そう言って椛は、にわかに文の首筋を犬歯の先で捉えた。ほんの少しでも力加減を誤れば、文の白い首はあたたかな赤色に染まり、さらに力加減を間違えたなら、そのまま青白く冷たくすることもできようものだ。
それにくわえて、犬歯からの生理的な刺激と、文の急所を捕らえた興奮とで、椛の頬内には生唾がせり上がるようだった。温かなそれは、文の白い肌と黒髪の幾本かと寝間着の襟を、しだいにねっとりと浸していった。
しかし、急所に粘度ある体液をぬられながらも、文の毅然とした態度は崩れなかった。椛のこうした悪癖には慣れており、飼い慣らした仔狼の甘噛みにもひとしい。ゆえに、喉元を犬歯の先で舐められながらも、文が紡ぐ言葉はむしろ挑発的であった。
「椛はお祭りでなにを買ったの」
「りんご飴」
「一番小さいあんず飴ではないのね」
「ちがいます、一番大きいやつです」
「あんな大きいの食べきれるの?」
「手早く噛んで食べてしまえば簡単です」
「舐めずに噛じっちゃうのね。もったいない」
「舐めて食べきれない方が無駄ですよ」
不器用な椛にしては珍しく、犬歯で喉元を捕らえたまま文と言葉を交わす芸当を見せた。ただ、生唾の垂れるのは抑えられないようで、文の首筋から鎖骨までは、つややかな光沢がともなった。
そして、これがまた椛に興奮をもたらすらしく、口元から垂れるよだれはもちろん、胸の鼓動もいっそう早鐘を打つようになった。
とはいえ、やはり文に恐怖は微塵もなかった。もしあれば、喉を噛み砕かれるだろうし、それでは椛をいたずらに喜ばせてしまう。対価もないのに生命を差しだすほど、文はお人好しではない。
椛の思考そのものはあまりに不明瞭だが、望んでいるものは肌をぬらす粘液から伝わってくる。ゆえに、文は喉をおさえられたままの状態で、椛の鳶色の瞳が興奮に潤んでいると想像しえた。
「射命丸様は食べないんですか、りんご飴」
「同じ飴なら綿菓子のほうが好きですね。白くて、そうね、雲みたいだし」
「赤いりんご飴のほうが、おいしいのに」
「あんなに大きいのは食べきれないわ」
「それなら飴の部分だけ食べて、りんごはください」
「りんご、好きなの?」
「りんご飴のりんごが好きなんです。本当にりんごなのか怪しいものですけど」
「りんごだから、りんご飴なのでしょう?」
「りんごのまがい物かもしれません」
「それで好きなら、それで良いじゃない」
「むずかしいです」
「おいしいなら、それで十分ということです」
「そっか、そうですね」
「おかしな子」
「射命丸様には負けます」
椛の降伏と同時に、喉もとの冷たくかたい圧迫感が消えた。いれかわるように添えられたのは、あたたかく柔らかな頬肉であったが、わずかに産毛があるらしく、野趣な肌ざわりが文の喉をくすぐった。
ただ、椛は無責任なことに、自らが垂らした唾液を避けるようだった。粘つきのないまっさらな肌だけを、より好みして賞味しはじめたのである。
この不作法が文の機嫌を少なからず傾けた。多少の粗相や無礼はゆるせても、気安く扱われるのは我慢ならない。椛を相手に今さらという感じは否めないが、それでも口調は皮肉めいたものに転じた。
「結局、なにがしたいの?」
「なにがですか」
「私に甘噛みしてくる悪癖のこと」
「ただ、なんとなくです」
「首まわりが好きみたいだけど、私を猫の仔と勘違いしていません?」
「猫の仔に失礼です」
「狼のくせして猫の肩を持つのね」
「烏よりは親近感がありますゆえ」
「それなら、猫みたいに鳴いてみなさい」
「射命丸様が三回まわって、わんと言ってくれるなら」
文に対抗するように、椛は強気な口調を見せたが、その手は文の寝間着の端を頑なに握っている。このいじらしい仕草に文の機嫌は取り直されて、あとに続く言葉は普段の軽口程度に和らいだ。
「生意気ですよね」
「どこがです?」
「その目。あの忌々しい鳶どもと同じ色」
「生まれついたものです」
「髪だって当てつけたように真っ白」
「これも生まれつき」
「その態度と言動は? それも生まれつき?」
「とてもいじわるな方に影響されました」
「そうなの、かわいそうね」
「そうです、たいへんです」
椛の言うそれが誰のことかは明白だが、文はあくまで白を切ってやる。
「ちなみに誰のこと?」
「射命丸様に心当たりは」
「ありません」
「それは残念」
「私も知っている子?」
「古い付き合いのはずです」
「椛とも古いの?」
「そこそこ」
「でも、いじわるするんだ」
「ええ、気持ちよく寝ていると、わざわざ起こしてきます」
「それだけ?」
「あと、つねってきます」
椛の不満気な声音が、はたして演技なのか本物なのか、文には判別しきれない。
ただ、文の寝間着の端は今でも握られたままだから、椛の言葉の真偽はともかく、その本音は存分に伝わってくる。
「そんな子とは、縁を切ればいいのに」
ぼそりと文は疑問を口にした。その声音は自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
「切りたいのは、やまやまなのですが」
「なのですが?」
「その方は、お料理がお上手です」
「それで?」
「お風呂と寝床もわけてくれます」
「大したことに思えませんが」
「あたたかくて、やわらかくて、すべすべしています」
「それは少し重要なことね」
「あと、おいしいです。りんごみたいに」
「そう、それはとても大切なことね」
応答のさなかに感ずるものがあったらしい、椛が文の首もとを、舌先でちらりとひと舐めした。
それは先までのものとはちがい、感情の自然な発露であったから、文の肉体の反応も先までとはちがった。椛の舌のざらついた肌ざわりに、一寸とはいえ身ぶるいをおこし、弓の反るようにしたのだ。
そして、文の顔は羞恥と悔しさに紅潮して、熟れたりんごになった。
この突然の刺激と身体の過敏が、文はうらめしかった。文は逆恨んだ仕返しがてら、椛の首まわりをくすぐってやるが、椛はただ気持ちよいらしく喉をさらすだけだった。
与える刺激を強めることも一考したが、いたずらに喜ばせるだけと判断しえてやめた。泥沼にはまることは目に見えている。そうして文が不貞腐れていると、椛はそれを狸寝入りだと考えたようで。
「射命丸様、眠たそうですね」
「あらら、ばれましたか」
「だったら、おとなしく寝ましょう」
「でも、早起きは無理そうだから」
「私は起きられます」
「いつもみたいに?」
「はい」
「起きたら、私も起こして」
「いつもみたいに?」
「少し優しく」
「努力します」
「是非ともそうして」
それだけ言うと、文は椛の勘違いに便乗して、寝付くための努力を再開した。すると、胸に抱いた椛の体温の効用なのか、先までは縁遠くあった睡魔の足音が、すぐ近くで聞こえるようであった。だが、その足音が椛の心音だと気付くまえに、文の意識は布団のなかに沈みいった。
「射命丸様」
そして、ようやくまどろみはじめた頃に、椛から呼び起こされた。
「どうしたの」
眠りをさまたげられた憤りはあるが、それを口にするほど文は傲慢でない。あくびの混じった声は安穏としており、心持ちかすれたのも眠気のためであった。
目を閉じたまま聞き耳を立てれば、椛の物寂しげな声が耳朶にとどいた。
「私の風鈴かたづけないで」
「だめ、さすがに季節はずれ」
「いじわる」
「また来年もつけてあげるのに?」
「来年だけ?」
椛の不安げに問う声音と、わずかに緊張したその身体が、文のやわらかな部分をくすぐった。
「再来年も」
「もっと、たくさん、ずっと」
「椛の努力しだい」
「私だけ?」
そして、椛のきょとんとした声に、文はことさら弱かった。
「もちろん、私からも善処します」
そう告げてやると、椛は安堵を得たようだった。身体の緊張もほぐしていくようで、犬猫のたぐいがそうして眠るのと同じく、やがて全身をちいさく丸めたが、こうした寝姿は文にとって、この上なく抱きづらい体位であった。丸まった身体を抱きすくめるには限界があり、せいぜい腕を添えてやる程度の軟弱にならざるをえなかった。
それだというのに、椛は気にする素振りも見せず、間もなく安らかな寝息を立てはじめた。文は椛の身勝手さに不満を持ちつつも、されど口もとを苦笑でゆらめかせ、やわらかな頬をひそかに秋めかせた。
そして、その胸裏では理性的な気恥ずかしさと、本能的な生理作用が呼応して、身体の奥底からのじんわりとした火照りを生んでいた。
……椛の表層的な頑なさと内奥の脆弱さ、それらにくわえてその寝姿から、文は椛を抱いて寝ることに、あろうことか、巣ごもりの抱卵を想像させられた。さらには、そうした考えが頭から離れなくなってしまった。
自らの想像を一蹴できないことは、文をおおいに悩ませた。つぎからつぎへとうたかたに思い浮かぶ光景に、文の吐息は病的なまでに熱く湿っていった。気の迷い特有の鮮明さと後味の悪さが尾をひいて、よりいっそうの想像をかき立て、芯からの発熱をうながしてくる。
かくして熱病にうなされる文は、はたしてのぼせた想像を打ち消すには、想像を現実で上書きすることが、もっとも効果的だと定めた。つまりは、椛を懐におさめるよう半身で被さり、それでも特別の感慨を得ないことで、抱卵の想起を思いちがいだと立証しようというのだ。
しかしながら、文が意を決する寸前に、またしても秋風が風鈴をゆらしめて、その鈴虫の声のまじる音色で、文の火照る心身をにわかに冷やし尽くした。想像を否定するために、真似とはいえそれを実行してしまえば、理由はともあれ、想像を受肉させるだけだと気付いたのである。
ただし、それは同時に羞恥心が心身を焦がす火打ち石でもあった。あやうく犯しかけた妄挙を客観視することで、一度冷えたはずの肉体と精神は、別種の熱病にさいなまれるのだった。
そのため結局のところ、文はなにも知らず呑気に眠る椛を相手に、朝まで脚を組みかえて身をよじり続けるはめになった。秋の夜長の風鈴と鈴虫を、文がこれほどまで呪ったことは、後にも先にもこの夜だけである。けれど、椛の額に浮かぶわずかな寝汗をみとめたことで、いくぶんかの鬱憤を晴らすことを叶えられたのだった。
そういった時節をふまえて、明日にでも片づけるべきだと、おぼろげな月明かりが明滅するなか、烏天狗の射命丸 文は思案した。
ただ、そう寝がなに思いつつも、文は秋風に鳴る鈴音を子守唄にしていた。頭を枕に預けて久しいというのに、意識はいっこうに手元から離れようとしない。
文の眠れぬ原因は明確であった。寝付こうとしても、ある悩みの種がそれをさまたげるのだ。活発な思考は睡魔を寄せ付けないまま、答えのない問題を追つづける。それは手綱を外した奔馬と同じく、文の意思は無力かまたは無関係であった。
それにくわえて、すぐかたわらには安らかな寝息が立っているのだから、八つ当たり的な不愉快さもある。心地良さそうな寝息は、白狼天狗の犬走 椛のものであり、この椛なる天狗こそが、文の持つ最大の悩みの種である。
椛は何がそうさせるのか、文にたいして日頃から反抗的な態度でいどんでくる。文の一挙一句に監視の目を敷いているらしく、少しでも油断があれば自分のことは棚にあげて、生意気にも苦言や嫌味を口にしてやまないのだ。ときには、危害をくわえる素振りすら見せるのだから性質が悪い。
かくのように、ただ邪険にされるだけなら、文も簡単にかまえていられるが、椛はかなりの曲者であった。憎まれ口をたたくついでに、何かにつけて食事や寝床をせがんでくる。それは馴れ馴れしいというよりも、ただひたすらに不可思議な性質である。
今晩もまさにそれで、椛は雨が降りそうだからと、綺麗な夕日のなか敷居を跨いだ。その手には大きなお腹をした鮎が数竿握られており、文は、わざわざ七輪に炭を入れるはめになった。
それから椛は文に焼かせた鮎を肴にして、たらふく白米を飲んだのち、そのまま文が入れた新湯を盗んだうえに、今は文のお気に入りの薄手の毛布に身をつつんでいる。
しかも、椛の寝相はおそろしく悪い。今宵も寝返りを打ちつづけて、文の布団になかば闖入している。
椛のはだけた寝間着からのぞくお腹は、夕餉の鮎とは趣を異にしているが、この寝間着もお古とはいえ文のものである。特別の理由はないが捨てずに箪笥の肥料としていたのを、椛が掘り出して無許可に私物化したのだ。
盗人猛々しいとはこのことかと、文は場違いな感心をいだきながらも、この闖入者の不防備に白いお腹へ、自分の掛け布団をわけ与えてやった。当然ながら、お礼の言葉はかえってこない。
いよいよ寝付けられない文は、枕元に積んでいる草紙に手を伸ばした。これは友人から借りたものだが、返却の期日はとうの昔にすぎている。ざっと見積もるに数年であり、貸した本人も忘れているにちがいない。そんな草子であるからこそ、眠気を誘う効用に富んでいると考えた。
けれど、表紙をめくるまでもなく、文はふたたび草紙を枕元においた。開放された窓から射しこむ光は弱々しく、文字を追いかけるには適さないのである。
手持ちぶさたが手遊びを呼んだ。文は思い出しかのように椛の灰白色の髪に指をいれた。手櫛と称するには繊細さを欠く指使いは、火桶の火を名残惜しむそれと近かった。この秘かな夜遊びは、今宵が初めてのことではない。今までにも幾度となく、宿賃代わりに椛から徴収してきたが、そのなかで椛を起こしてしまったことは一度もない。
椛の眠りが深いことを、文は知悉していた。
「……ちゃんと手入れしているのかしら」
ただ、椛の髪質はお世辞にも上等とはいえない。椛の灰がちの髪は、その色に反して、霜柱のような脆弱な頑なさを宿している。そのため、手櫛の指を素直に流そうとはしないで、水草が舟棹を取るように絡むから、慰みものとしては強情さが目立っている。
しかし、この強情な髪を文は嫌いになれず、むしろ好ましいとしていた。素行の生意気な椛にしては、分をわきまえていると感じられるし、さらには自身の艶やかな黒髪を引き立てる色合いをしている。
さらに椛の髪からは、かすかに樹木と大瀑布の気配とが混ざった奇妙な匂いがする。それは雨あがりの朝の山道を、初々しい木漏れ日のもと散歩する気配に似ており、文を晴れやかな気分にする。
事実、その一房を鼻先に当てると、やはり清々しい気配に鼻孔をくすぐられ、文は明日の朝のことを思い浮かべた。
……もしも明日の朝、早く起きられたなら、もしくはこのまま夜を明かしたら、朝餉の前に椛を連れて山を散策してみよう。多分、椛は億劫がるだろうけど、朝餉を餌にすればいい。何か餌を与えてやらないと、椛は私の言うことを聞けないのだ。そういう性分なのだ、この子は。
そういったように自分で考えておきながら、おかしくなった文は笑いをこぼした。そして、あたたかな吐息は、椛の狼耳を撫でるらしく、小ぶりな三角の耳がぴくりと跳ねた。
肉体の無意識の反応を見た文は、腕をまわしてその身体を軽く抱きすくめてやった。腕に伝わる肉感は弾力に富んでおり、適度に色のついた肌の奥の膂力が、確かであることを伝えている。
天狗としての椛は半人前と一人前の境目にいるが、その体躯の背丈の乏しいことをのぞけば、汗馬を思わせるほど練り上げられている。
本当にただ単純な力比べでは、近いうちに、一歩譲ってしまうかもしれない。文がそう感じる程度には、昨今の椛の成長には著しいものがある。一人前の天狗になるのも、そう遠くはないだろう。それを考えると、文の胸中は複雑にうずまいた。
文に椛の成長を厭う気持ちはさらさらない。むしろ強く望んでいるくらいなのだが、拭いきれない疑問もあった。
はたして一人前になった後も椛は、今までの関係のままでいてくれるのか。それとも、ほかの白狼天狗や烏天狗がそうであるように、敬して遠ざけるような態度にかわるのか。
椛から気安く扱われることは不満だが、しかし不快に思うわけでもなく、今さら他人行儀な態度をとられても気に障る。
できることなら、時と場所を選んで、お互いの接し方を切り替えるようにしたいが、椛にそこまで願っては高望みもはなはだしい。椛は不器用である。
「うぅ、うぅん」
さすがに椛も寝苦しくなってきたのか、しだいに苦しげな呼気をもらしはじめた。あれこれ考えているうちに思いかけず、腕によぶんな力が込められていたのだ。それは溺者が流木にすがりつくような、心細さと恐ろしさにまみれた行為だった。
それからしばらくの間をおいて、椛は大きく寝返りをうって目をさましたものの、ちょうど文と対面するように身を転がしたのは、意図せぬことらしかった。間近に迫った文の顔に気付いた椛は、鳶色の目を大きく見ひらいてみせた。
「なんですか、なにかありましたか」
「そろそろ起きる時間だから」
「えっ、ほんとうに?」
「ほら見てごらん。もう日も昇りそう」
「でも、まだ暗いようです」
「あらら、めざといわね」
「……射命丸様のうそつき、馬鹿」
眠たげな椛から率直な苦言を呈されたが、文にも言い分はあった。
「馬鹿とはなんです。寝床を貸してあげているだけ、ありがたいと思いなさい」
「だからって、起こすことはないじゃないですか」
「寝付けなくて暇なのよ、秋の夜長って面倒よね」
「面倒なのは射命丸様です」
「椛に言われたくないな」
文が鈴を転がすように笑うと、ちょうど本物の鈴音が室内に響いた。軒端の風鈴が、鈴虫の鳴き声をのせた微風にふかれて、小さくゆれうごいたのだ。
少し肌寒いだけの風も、季節はずれの鈴音に手伝われるのか、その冷気を強めるらしかった。
二人は同じ布団のなかで身を寄せあって、体温をわかちあうが、椛のお腹は出しっぱなしである。平時から体温が高めの椛とはいえ、みすみすお腹を冷やしては身体に障ってしまいかねない。
文は器用にも横になったままで、その乱れた寝間着を着付けてやり、先ほどの考えを口にする。
「明日の朝、ちょっと散歩に付き合いなさい」
「朝ご飯は」
「付き合ってくれたら」
「それならいいですけど、どうしたのです」
「特別な理由はないの。ただ、椛と散歩するのも乙だろうと思って」
「なんですか、それ。意味がわかりませぬ」
「椛が嫌ならやめておきます。むろん朝ご飯もないですが」
「嫌じゃないです。けど、このままだと起きるのは、お昼になってしまいます」
「椛は昼からお仕事?」
「明日は一日お休み」
「それなら、昼からも付き合ってもらおうか」
「お昼ご飯」
「欲張りな子ですね」
文が椛から約束を取り付けるのと、寝間着の紐帯を結びおえるのは同時であった。すると、帯の結び目を確認する文の手に、椛の手が添えられた。
こうした細やかな気づかいは、文の好むところであるはずが、椛の手はしだいに文の紐帯を緩めはじめた。どうやら共襟の間隙をひろげて、秘めた肌に忍びこむ算段のようである。
甘えついた手の甲を、文はうすく痕が残る程度につねり上げて、その気安さを諫めてやった。すると、予期せぬ痛みにおどろき微動する椛の手は、文に言葉にならない幸福感をもたらした。
ただ、それを椛は味気なく感じるようで、表情や言葉をつくらずとも口先はとがらせた。
「朝は散歩としても、お昼はなにをするんですか」
「そろそろ季節が移るからね。早めに冬の用意をしたいの」
「なにを買うの」
「まだはっきり決めていないけど、日用品をひととおり」
「それで私が荷物運びですか。人使いがあらい」
「無銭飲食のうえ居座る子がいるからね。その子の分だけ、荷物は多くなってしまうから」
これを文は軽口のつもりで告げたが、椛はそう受けとめなかったらしい。にわかに表情をくもらせた椛が、ぽつりと呟いた。
「私も出した方がいい?」
「今回は荷物運びだけで十分です」
文は助け船を即座にだした。ここで下手にからかいなどしたら、いよいよ椛が本気にとらえてしまい、軽口が軽口でなくなってしまうと思えたのだ。
「椛には今年も雪かきと薪割りと大掃除と宛名書きとその配達と年末年始の羽繕い、そのほかにもいろいろ手伝ってもらうから、明日のはお駄賃の先払いです」
「やっぱり人使いがあらい。それなら、もっと色をつけてください」
「お年玉は別にしてあげているんだから、素直に感謝なさい」
「作りすぎたお節料理は、お年玉とは呼びませぬ」
「椛が美味しいと言ってくれるから、つい」
「たしかに美味しいけど、限度はあります」
「だけど、足りないって怒るのも椛じゃない」
「では、栗金団と数の子を多めにしてください」
「そんなわがまま言わないの」
二人が苦笑を交わしあうと、待ちかまえていたかのごとく、またしても鈴音がなった。さらに宵が深くなった分だけ、今度の風は一段と寒さをましている。
文と椛はとっさにお互いを庇うように身を強ばらせたところ、椛の額が文の下唇をしたたかに打った。
「いたっ」
文がわずかに切れた唇に舌先を押し当てると、少し塩辛い鉄の味が口内に広がり、かたちの優れた眉はひそめられた。
それを間近に見て不安に思うのか、それとも文の血のにおいに興奮するのか。椛がひゅんひゅんと鼻を鳴らしはじめた。これを鎮めるため文は、椛の背なかを二度三度と撫でたが、文の胸に伝わる椛の心音はいっそう早まった。
そして、軽度とはいえ傷を負ったことは、文に窓を閉じることを一考させた。
だが、それでも文は、このまま夜風にかこつけると決めた。椛とより密着すれば、椛のやや高めの体温が湯たんぽ代わりの暖になる。そのうえ、二人の心音と体温を重ねれば、ひとつの息吹に融けあわせられる。
椛も文の考えを斟酌したのか、先ほどの仕打ちを気にする様子もなく、素直に文の腕のはたらきに従った。椛は文の首もとに鼻をうずめるほど、身体を預けたのである。これで少なくとも頭突く心配はなくなった。
「こう肌寒いと、秋どころか冬もすぐね」
「そうなったら、私の風鈴も外してしまうの?」
「嫌なの?」
「嫌です」
「そんなに風鈴が好きなんだ」
「夏祭りで景品にもらった上等なやつですよ」
「でも、私はそれを知らないからね。どうして誘ってくれなかったの」
「新聞で、お忙しそうにしていたから」
「誘ってくれたら行きましたよ。浴衣だって新調していたかもしれないのに」
「それなら、秋祭りは一緒に行きましょう」
「ええ、気が向いたらね」
「射命丸様のいじわる」
そう言って椛は、にわかに文の首筋を犬歯の先で捉えた。ほんの少しでも力加減を誤れば、文の白い首はあたたかな赤色に染まり、さらに力加減を間違えたなら、そのまま青白く冷たくすることもできようものだ。
それにくわえて、犬歯からの生理的な刺激と、文の急所を捕らえた興奮とで、椛の頬内には生唾がせり上がるようだった。温かなそれは、文の白い肌と黒髪の幾本かと寝間着の襟を、しだいにねっとりと浸していった。
しかし、急所に粘度ある体液をぬられながらも、文の毅然とした態度は崩れなかった。椛のこうした悪癖には慣れており、飼い慣らした仔狼の甘噛みにもひとしい。ゆえに、喉元を犬歯の先で舐められながらも、文が紡ぐ言葉はむしろ挑発的であった。
「椛はお祭りでなにを買ったの」
「りんご飴」
「一番小さいあんず飴ではないのね」
「ちがいます、一番大きいやつです」
「あんな大きいの食べきれるの?」
「手早く噛んで食べてしまえば簡単です」
「舐めずに噛じっちゃうのね。もったいない」
「舐めて食べきれない方が無駄ですよ」
不器用な椛にしては珍しく、犬歯で喉元を捕らえたまま文と言葉を交わす芸当を見せた。ただ、生唾の垂れるのは抑えられないようで、文の首筋から鎖骨までは、つややかな光沢がともなった。
そして、これがまた椛に興奮をもたらすらしく、口元から垂れるよだれはもちろん、胸の鼓動もいっそう早鐘を打つようになった。
とはいえ、やはり文に恐怖は微塵もなかった。もしあれば、喉を噛み砕かれるだろうし、それでは椛をいたずらに喜ばせてしまう。対価もないのに生命を差しだすほど、文はお人好しではない。
椛の思考そのものはあまりに不明瞭だが、望んでいるものは肌をぬらす粘液から伝わってくる。ゆえに、文は喉をおさえられたままの状態で、椛の鳶色の瞳が興奮に潤んでいると想像しえた。
「射命丸様は食べないんですか、りんご飴」
「同じ飴なら綿菓子のほうが好きですね。白くて、そうね、雲みたいだし」
「赤いりんご飴のほうが、おいしいのに」
「あんなに大きいのは食べきれないわ」
「それなら飴の部分だけ食べて、りんごはください」
「りんご、好きなの?」
「りんご飴のりんごが好きなんです。本当にりんごなのか怪しいものですけど」
「りんごだから、りんご飴なのでしょう?」
「りんごのまがい物かもしれません」
「それで好きなら、それで良いじゃない」
「むずかしいです」
「おいしいなら、それで十分ということです」
「そっか、そうですね」
「おかしな子」
「射命丸様には負けます」
椛の降伏と同時に、喉もとの冷たくかたい圧迫感が消えた。いれかわるように添えられたのは、あたたかく柔らかな頬肉であったが、わずかに産毛があるらしく、野趣な肌ざわりが文の喉をくすぐった。
ただ、椛は無責任なことに、自らが垂らした唾液を避けるようだった。粘つきのないまっさらな肌だけを、より好みして賞味しはじめたのである。
この不作法が文の機嫌を少なからず傾けた。多少の粗相や無礼はゆるせても、気安く扱われるのは我慢ならない。椛を相手に今さらという感じは否めないが、それでも口調は皮肉めいたものに転じた。
「結局、なにがしたいの?」
「なにがですか」
「私に甘噛みしてくる悪癖のこと」
「ただ、なんとなくです」
「首まわりが好きみたいだけど、私を猫の仔と勘違いしていません?」
「猫の仔に失礼です」
「狼のくせして猫の肩を持つのね」
「烏よりは親近感がありますゆえ」
「それなら、猫みたいに鳴いてみなさい」
「射命丸様が三回まわって、わんと言ってくれるなら」
文に対抗するように、椛は強気な口調を見せたが、その手は文の寝間着の端を頑なに握っている。このいじらしい仕草に文の機嫌は取り直されて、あとに続く言葉は普段の軽口程度に和らいだ。
「生意気ですよね」
「どこがです?」
「その目。あの忌々しい鳶どもと同じ色」
「生まれついたものです」
「髪だって当てつけたように真っ白」
「これも生まれつき」
「その態度と言動は? それも生まれつき?」
「とてもいじわるな方に影響されました」
「そうなの、かわいそうね」
「そうです、たいへんです」
椛の言うそれが誰のことかは明白だが、文はあくまで白を切ってやる。
「ちなみに誰のこと?」
「射命丸様に心当たりは」
「ありません」
「それは残念」
「私も知っている子?」
「古い付き合いのはずです」
「椛とも古いの?」
「そこそこ」
「でも、いじわるするんだ」
「ええ、気持ちよく寝ていると、わざわざ起こしてきます」
「それだけ?」
「あと、つねってきます」
椛の不満気な声音が、はたして演技なのか本物なのか、文には判別しきれない。
ただ、文の寝間着の端は今でも握られたままだから、椛の言葉の真偽はともかく、その本音は存分に伝わってくる。
「そんな子とは、縁を切ればいいのに」
ぼそりと文は疑問を口にした。その声音は自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
「切りたいのは、やまやまなのですが」
「なのですが?」
「その方は、お料理がお上手です」
「それで?」
「お風呂と寝床もわけてくれます」
「大したことに思えませんが」
「あたたかくて、やわらかくて、すべすべしています」
「それは少し重要なことね」
「あと、おいしいです。りんごみたいに」
「そう、それはとても大切なことね」
応答のさなかに感ずるものがあったらしい、椛が文の首もとを、舌先でちらりとひと舐めした。
それは先までのものとはちがい、感情の自然な発露であったから、文の肉体の反応も先までとはちがった。椛の舌のざらついた肌ざわりに、一寸とはいえ身ぶるいをおこし、弓の反るようにしたのだ。
そして、文の顔は羞恥と悔しさに紅潮して、熟れたりんごになった。
この突然の刺激と身体の過敏が、文はうらめしかった。文は逆恨んだ仕返しがてら、椛の首まわりをくすぐってやるが、椛はただ気持ちよいらしく喉をさらすだけだった。
与える刺激を強めることも一考したが、いたずらに喜ばせるだけと判断しえてやめた。泥沼にはまることは目に見えている。そうして文が不貞腐れていると、椛はそれを狸寝入りだと考えたようで。
「射命丸様、眠たそうですね」
「あらら、ばれましたか」
「だったら、おとなしく寝ましょう」
「でも、早起きは無理そうだから」
「私は起きられます」
「いつもみたいに?」
「はい」
「起きたら、私も起こして」
「いつもみたいに?」
「少し優しく」
「努力します」
「是非ともそうして」
それだけ言うと、文は椛の勘違いに便乗して、寝付くための努力を再開した。すると、胸に抱いた椛の体温の効用なのか、先までは縁遠くあった睡魔の足音が、すぐ近くで聞こえるようであった。だが、その足音が椛の心音だと気付くまえに、文の意識は布団のなかに沈みいった。
「射命丸様」
そして、ようやくまどろみはじめた頃に、椛から呼び起こされた。
「どうしたの」
眠りをさまたげられた憤りはあるが、それを口にするほど文は傲慢でない。あくびの混じった声は安穏としており、心持ちかすれたのも眠気のためであった。
目を閉じたまま聞き耳を立てれば、椛の物寂しげな声が耳朶にとどいた。
「私の風鈴かたづけないで」
「だめ、さすがに季節はずれ」
「いじわる」
「また来年もつけてあげるのに?」
「来年だけ?」
椛の不安げに問う声音と、わずかに緊張したその身体が、文のやわらかな部分をくすぐった。
「再来年も」
「もっと、たくさん、ずっと」
「椛の努力しだい」
「私だけ?」
そして、椛のきょとんとした声に、文はことさら弱かった。
「もちろん、私からも善処します」
そう告げてやると、椛は安堵を得たようだった。身体の緊張もほぐしていくようで、犬猫のたぐいがそうして眠るのと同じく、やがて全身をちいさく丸めたが、こうした寝姿は文にとって、この上なく抱きづらい体位であった。丸まった身体を抱きすくめるには限界があり、せいぜい腕を添えてやる程度の軟弱にならざるをえなかった。
それだというのに、椛は気にする素振りも見せず、間もなく安らかな寝息を立てはじめた。文は椛の身勝手さに不満を持ちつつも、されど口もとを苦笑でゆらめかせ、やわらかな頬をひそかに秋めかせた。
そして、その胸裏では理性的な気恥ずかしさと、本能的な生理作用が呼応して、身体の奥底からのじんわりとした火照りを生んでいた。
……椛の表層的な頑なさと内奥の脆弱さ、それらにくわえてその寝姿から、文は椛を抱いて寝ることに、あろうことか、巣ごもりの抱卵を想像させられた。さらには、そうした考えが頭から離れなくなってしまった。
自らの想像を一蹴できないことは、文をおおいに悩ませた。つぎからつぎへとうたかたに思い浮かぶ光景に、文の吐息は病的なまでに熱く湿っていった。気の迷い特有の鮮明さと後味の悪さが尾をひいて、よりいっそうの想像をかき立て、芯からの発熱をうながしてくる。
かくして熱病にうなされる文は、はたしてのぼせた想像を打ち消すには、想像を現実で上書きすることが、もっとも効果的だと定めた。つまりは、椛を懐におさめるよう半身で被さり、それでも特別の感慨を得ないことで、抱卵の想起を思いちがいだと立証しようというのだ。
しかしながら、文が意を決する寸前に、またしても秋風が風鈴をゆらしめて、その鈴虫の声のまじる音色で、文の火照る心身をにわかに冷やし尽くした。想像を否定するために、真似とはいえそれを実行してしまえば、理由はともあれ、想像を受肉させるだけだと気付いたのである。
ただし、それは同時に羞恥心が心身を焦がす火打ち石でもあった。あやうく犯しかけた妄挙を客観視することで、一度冷えたはずの肉体と精神は、別種の熱病にさいなまれるのだった。
そのため結局のところ、文はなにも知らず呑気に眠る椛を相手に、朝まで脚を組みかえて身をよじり続けるはめになった。秋の夜長の風鈴と鈴虫を、文がこれほどまで呪ったことは、後にも先にもこの夜だけである。けれど、椛の額に浮かぶわずかな寝汗をみとめたことで、いくぶんかの鬱憤を晴らすことを叶えられたのだった。
なかなかカワイイ
でも作者さんの綺麗な書き方で荒々しい関係を書いたら、それも見てみたいなぁ。
おもしろかったです。
椛可愛いなぁ