昼下がりの、命蓮寺仏堂。
そこでは、白蓮、星、響子、マミゾウがせっせと掃除をしていた。ちなみにぬえもいるのだが、他四人に比べて真面目にやっていない。
それを星やらマミゾウやらが注意しながらも、平穏な時間は過ぎてゆく。
そんな折、頭巾をかぶった少女が戸を開けて入ってきた。
「姐さーん」
「あら一輪、どうしたの?」
ほっかむりをした白蓮が背後から呼びかけられて振り向くと、戸を開けて入ってきたのは雲居一輪と、彼女の肩に小さな雲山。
一輪は何故だか少し慌てた様子で、すたすたと白蓮のもとまで歩み寄り口を開いた。
「村紗のこと、見なかった?」
「村紗? 彼女なら部屋にいるのではないかしら?」
「わたしもそう思ってさっき村紗の部屋に行ったけど、少し変なの」
「変とは?」
そう疑問を口にしたのは、白蓮と共に仏堂の埃をはたいていた星。
星もまたほっかむりをして、不思議そうな眼差しを一輪へ向けた。
それに応えるべく、一輪は自分が村紗の部屋で見たことを口早に述べ始めた。
「今日は村紗とわたしが買い出し担当だったから、そろそろ出掛けようと部屋まで村紗を呼びに行ったの。そしたら部屋には誰もいなくて、それで変なのはここからなんだけど……」
一呼吸置いて、一輪はまた言葉を発し始めた。
「文机の上には写しかけのお経と飲みさしの湯飲み。それと柄杓。床には脱ぎ捨てられた村紗の服だけが広がっていたの。 湯飲みはまだ温かかったからわたしが部屋に入る直前までそこいいたんだろうけど、お寺の中にはどこにもいなくて……」
一輪がここまで話したところで、その話を雑巾がけしながら聞いていたマミゾウがすくっと立ち上がった。
「ふむ。それはまるで、まりい・せれすと号の話のようじゃのう」
「まりい・せれすと号……?」
聞きなれぬ言葉に一輪が首をかしげていると、マミゾウは眼鏡をくいっと直し、桶で雑巾を濯ぎながら説明した。
「外の世界の異国の話でのう。何でもある船が航海しておる最中、漂流船を見つけたそうじゃ。様子を窺おうと船乗りたちが乗り込むと、その船には積み荷は無事残っておったが船乗りは誰一人乗っておらんかったそうじゃ。その漂流していた船の名が、まりい・せれすと号」
「…………」
マミゾウは濯ぎ終わった雑巾を絞る。
その横顔を、一輪は固唾を飲んで見守っていた。
「今の話だけでも不気味なのじゃが、こういう話には色々と尾ひれがつくものでのう。何でもまりい・せれすと号が発見されたとき、船の中にはまだ温かい食べかけの朝食があったとか」
「それって……」
「そっくりじゃろう? 村紗の状況に」
なるほど確かにそうである。
もぬけの殻の室内に、つい先ほどまでそこにいたことを示す湯飲み。
しかし、そこにいたはずの人物はどこにもいない。命蓮寺のどこにも。
言い知れぬ不安に駆られた一輪は、身を乗り出すようにしてマミゾウに続きを聞いた。
正確には、聞こうとした。
「それで……」
「そのことについて気になってることがあるんだけどさあ」
割って入ってきたのはぬえだった。
「き、気になる事?」
マミゾウの話よりもより深くて恐ろしそうなぬえの言葉に、一輪は顔を方向転換。
ぬえは少し気だるそうに頭を掻きながら口を動かした。
「あー何日か前の事なんだけど、村紗のやつ気味悪いくらいに笑顔でさ。何がそんなに楽しいのか聞いたんだよ。そしたら『聖も戻ってきたし、毎日が楽しいよ』って笑っててさ」
「あ、わたしも似たようなことありました」
今まで一言も口にしていなかった響子も、首をぶんぶん縦に振って話し出す。
「村紗さん前に言ってたんです。『昔は色々やんちゃしてきたけど、最近は丸くなったなって自分でも感じる』って、笑いながら」
響子の話に重ねるように、今度はまたぬえが首肯しながら話を続ける。
「何だかんだ言っても村紗って幽霊だろう? あんまり満足した日々を送って、それに写経なんて功徳つんでさ、こう、フワッと逝っちゃったとか……」
「っ!!?」
「わわっ!」
「………!」
ぬえの言葉に一輪はがくりと膝を落とした。慌てて受けとめたのは星と雲山。
支える手から、一輪の震えが強く感じられた。
「む、村紗がいなくなって……消えて……フワッと……」
「一輪落ち着いて! もう、マミゾウさんもぬえも響子もちょっと言い過ぎです!」
「す、すまん! 別に驚かせるつもりは無かったんじゃが」
「い、いやこっちもちょっとした冗談で……」
「ごめんなさい!」
船つながりでふと思い出しただけだったのを不用意におどろおどろしく話しすぎたとマミゾウは頭を下げ、ぬえは悪ふざけが過ぎたバツの悪さに目が泳ぎ、響子は深々とこうべを垂れた。
そしてずっと話を聞いていた白蓮は、優しく一輪の頭を撫でる。
「貴女たちはわたしが封印されている間、地底で一緒に暮らしていたものね。その絆はとても強い。不安になるのも分かるわ。でも、勝手に想像を膨らませて悪いことばかり考えては駄目。気を取り直して」
「あ、姐さん……」
柔らかくも芯のある白蓮の言葉に、一輪は少し心をもちなおした。星と雲山にお礼を言って、自力で立ち上がる。
それを見た白蓮はにっこり笑って、そして次の瞬間には目をキリッとさせて星にこう言った。
「星、ナズーリンを呼んできて」
「は、はい!」
白蓮の本気になった表情。星はその内面から見え隠れする大きな不安を感じ取る。
星もまた研ぎ澄まされた表情となり、急ぎ空へ駆けた。
「話はここに来る途中ご主人から聞いたよ。要は村紗がどこかに消えたから、どの方角にいるかをつきとめればいいんだろう?」
「ええ、お願いしますね」
仏堂に入ってきて早々言葉を並べるナズーリンに、白蓮は若干強張った笑顔で答えた。
その剣呑な雰囲気に驚きつつ、ナズーリンはお安い御用さと言い、ダウジングロッドをかかげて目を瞑った。
というより、この場にいる全員がただならぬ気配を発していることにナズーリンはやや気圧されていたが、それでも集中を乱さず村紗の居場所を探る。
そしてついに、ダウジングロッドが動き出した。
「ロッドは、西の上の方を指しているね。結構高い」
「西の、上……?」
一輪が真っ先に反応した。
ナズーリンの言う上とは、子どもが地図を見ながら北のことを言うものではない。三次元空間での上そのものである。
そして西の方角には何があるかと言えば、仏門に入っているものなら分からぬ者はない。
「西方浄土……そう、村紗は弥陀のお導きに……」
白蓮の、悲しみのこもった小さなつぶやき。
それを耳にした一輪は、再びその場に崩れてしまった。
「ううっ……村紗……」
「…………」
村紗の部屋。
残された村紗の水夫服を抱きしめ、喪服に身を包んだ一輪は泣いていた。付き添いの雲山は、敢えて何も言わない。
先ほど白蓮が言っていた通り、一輪と村紗は一緒に地底に封じられていた。およそ一千年近く。付き合いは一番長い。
その別れ悲しさたるや、分からないはずもない雲山。ただ黙って一輪の背をさする。
「村紗の馬鹿……逝くなら逝くで、一言くらい残しておきなさいよぉ……」
長い長い付き合いの、あまりにも突然であっけなさすぎる終わり。
最後に村紗と交わした言葉は何だったろうか。確か昨晩、村紗の饅頭を一輪が食べただ何だで軽く喧嘩したのが最後だ。
「……まだ、きちんと仲直りしてなかった」
今日の買い出しでお詫びの饅頭を買って、それで謝ろうと思っていた。
結局それも果たせずじまい。心はどんどん重くなる。
その時、部屋の障子戸が開いて、白蓮が入ってきた。葬式用の法衣に身を包んで。
「姐さん……」
「村紗のお葬式の準備ができたわ。貴女も……」
言おうとして、最後まで言えなかった。
言い切る前に、一輪が抱きついてきたのだ。
「うん、出るよ……出るけど、少し待って……まだ、涙が止まらないの……」
しゃくりをあげて、一輪は泣き続ける。
これでは白蓮の法衣も汚れてしまうが、気にすることも無く思う存分泣かせてあげた。
「村紗は幸せ者ね」
「え……?」
ポツリと、白蓮の口から零れ、一輪は顔を見上げた。
そこには、優しい微笑み。
「自分のために一輪がここまで泣いてくれる。それほどまでに大切に想ってくれる。幸せ者よ」
あやすように、諭すように、柔らかい口調で語りかける。
「思い切り泣きなさい、村紗のために。そして思い切り菩提を弔いなさい、村紗のために」
「……はい!」
一輪は力強く答えた。村紗のために。
そんな二人の様子を見つつ、相変わらずの白蓮の大きさに、雲山はただただ敬服した。
日の傾きかけた頃、一輪と雲山、そして白蓮が寺内の式場に赴くと、星、ナズーリン、マミゾウ、ぬえ、響子全員が喪服に身を包み、正座して待っていた。
そして、彼女らの前には仏花に囲まれた棺。一輪はその中に、村紗の服と柄杓を入れた。
「体だけフワッとしちゃったみたいだから、裸じゃ大変でしょう? 服を送るわ。それに柄杓も」
軽口を叩きながら棺に入れる。その方がらしくていいと思ったからだ。
しかしながら、いざ棺を閉めて着座し、白蓮がお経を読み上げ始めると、すぐに限界がきた。
涙があふれる。
「ううっ……」
『思い切り泣きなさい、村紗のために。そして思い切り菩提を弔いなさい、村紗のために』
白蓮の言葉が思い出される。その通りにしてやろうと思った。
勝手に逝ってしまった村紗のために、泣くだけ泣いて、弔うだけ弔ってやる。
「村紗の馬鹿……」
一輪の発した非難の言葉を、雲山は勿論、この場にいる誰もが咎めはしなかった。
そうこうしている内に焼香とあいなった。一人一人順番に仏前で焼香し、合掌する。
まずは一輪と雲山。長く長く手を合わせた。そして星、ナズーリン、マミゾウ、ぬえ、響子、村紗の順に、次々と焼香する。
全員もとの座に戻った所で、悲痛な表情をして顔を下げる星に、隣の村紗から小声でふと疑問が投げかけられた。
「帰ってきたら葬式してるからわたしも喪服に着替えてきたけど、これって誰の葬式なの? 喪主の姿もないし。というか、何で一輪あんなに泣いてるの?」
「ええ、これは村紗という我々の仲間の葬式で……一輪は特に村紗と仲が良かったですから……」
「ふむふむなるほど……これは命蓮寺のムラサって人のお葬式か……」
一瞬の間。
「……ってなんでやねん!!」
村紗による謎のエセ関西弁が、式場に木霊した。
その瞬間、その場にいる全員が固まった。そして誰かが合図したわけでもなし、異口同音。
「「「「「「む、村紗(さん)が化けて出た!!?」」」」」」
「失礼ね! こちとら元々化けて出た身よ!!」
お経と木魚の音が支配していた式場は、一気に阿鼻叫喚地獄へと様変わり。
怒り心頭の者、驚き飛び上がる者、それを宥めようとする者、全員がてんやわんやの大騒ぎである。
「………………」
「………………」
ただ、事態が一切飲み込めず、まさに魂の抜けたような一輪と、彼女以外その言葉を聞き取れない寡黙な雲を除いては、であるが。
「……で、何? 人がちょっと出掛けてたのをいい事に勝手に消息不明にしてくれちゃって、挙句の果てにフワッと成仏させてくれちゃったわけ?」
「ご、ごめんなさい……」
「返す言葉もありません……」
阿鼻叫喚地獄も収まったところで事情を聞いた村紗は胡坐をかいて座り、目もしっかりと据わっていた。
白蓮と星が深々と頭を下げたところで、後ろからナズーリンのヤジが飛ぶ。
「内心変だなとは思ってたんだ、いきなり葬式なんて。聖もご主人もおっちょこちょいすぎるんじゃないか?」
「ナ、ナズーリン! お言葉ですけど、貴女が西の上の方なんて言うからこちらも西方浄土なんて勘違いを……」
「あ、あれはご主人が『村紗がどちらの方角にいるかダウジングしてほしい』なんて曖昧な言い方をするから、わたしはその通りにしただけじゃないか。村紗を探すと言ってくれればそれで探しに出たんだ」
「わ、わたしのせいですか!?」
「……そもそもややこしくなった全ての根源ってマミゾウが、まりい何とかって言い出したからじゃないの?」
「……そもそもややこしくなった全ての根源ってマミゾウが、まりい何とかって言い出したからじゃないの?」
「な、何を言い出すんじゃぬえ! 響子も都合のいい山彦を発動させるな! 第一フワッと成仏とか言い出したのはおぬしらじゃろう!」
「わ、わたしはちゃんと冗談だって言ったのに、悪化させたのはナズーリンの言葉だったよな響子?」
「わ、わたしはちゃんと冗談だって言ったのに、悪化させたのはナズーリンの言葉だったよな響子?」
「ふ、二人までわたしのせいだと言うのか!? 響子も山彦はやめないか!」
再び阿鼻叫喚地獄がおっぱじまらんとする元式場において、村紗は棺から取り出した柄杓で床をガンッと気持ちよく叩いた。
「ねえ、ここで今一番怒るべきはわたしなんだけど、そこんとこ理解してる?」
「「「「「「はい、すいませんでした」」」」」」
六つの頭がきれいに下がった事に幾分かの心地よさを感じつつ、村紗は未だ停止状態の少女へと目を向けた。
「もしもーし、生きてる? 生きてるなら返事してくださーい。いーちりんさーん」
呼びかけても、目の前で手を振っても、ほっぺをつねっても、柄杓で頭を小突いても、返事がない、ただの入道使い状態。
これには雲入道の方もお手上げのようで、首をぶんぶんと横に振った。
「こうなったら仕方無いわね。ちょっと荒療治……とりゃあ!」
「……ヘブッ!?」
「おお、起きた」
村紗が頭から突進し、一輪は後方へ倒れた。
そのまま村紗は一輪にのしかかった体制となり、そこでようやく一輪は目を覚ました。
「む、むむむむ村紗大変よ! 成仏した船幽霊の村紗が成仏しきれず幽霊になって化けて出たの!」
「それは大変ね、特にあんたの精神状態が。はいしんこきゅー」
「すぅー、はぁー。すぅー、はぁー」
何度か深呼吸したためか、ようやく落ち着きをとりもどしてきた一輪。事態の把握も進んできたようである。
しかし落ち着いたのもつかの間、今度は涙を流し始め、自分にのしかかったままの村紗に抱きついた。
「村紗のばかばかばか~! 何であんな部屋の状態にしておくのよ~!?」
「えっ、ちょ、何!?」
これには流石に村紗も面喰う。あんな部屋の状態とはどういうことだろうか。確かに散らかっていたかもしれないが。
とここで、マミゾウの声。頭を下げたまま話し始めたのだ。
「そういえば部屋には写しかけのお経と飲みさしのお茶に脱ぎっぱなしの服があったそうじゃが、何でそんな風になってたんじゃ? じゃから儂はまりい・せれすと号とか言い出したんじゃが」
「あー、あれか」
村紗も相変わらず一輪にのしかかったまま、というか一輪に抱きつかれて身動きが取れないのだが、答えた。
「写経に熱中するあまり買い出しに行く時間を忘れててさ。今日はわたしの当番なのにって思って慌てて出ようとしたんだけど、服が墨で汚れてる事に気付いて。急いで脱いで着替えたの」
「えっと、それはおかしいですよ?」
今度は白蓮が頭を下げながら話し始めた。
「今日は買い出し当番と食事当番を村紗と一輪に任せて、他は仏堂の掃除に当たる日なのだけど」
「あれ? そうだっけ?」
村紗がその事をうっかり忘れてしまって一人で買い出しに出掛けている間、うっかり村紗は成仏した事になり、うっかり葬式が挙げられていたのである。
ナズーリンの言った西の上とは、西の方角にある人里へ向かって村紗が飛んでいただけのこと。
いくつかの偶然といくつかの勘違いが見事な化学反応を引き起こし、今回の騒動が出来上がったわけである。
「つまり……」
「今回の事件は……」
「誰にも責任がないという事で……」
「誰にも責任がないという事で……」
「いや、それはない」
星、ナズーリン、ぬえ、響子の言葉はしかし、村紗に一蹴された。
あの後何が大変だったかと言えば、緊張の糸が一気に切れた一輪が村紗に抱きついたまま眠ってしまったため、しばらく身動きが取れなかった事。
そのため遅れに遅れた夕食では、今回の罰として村紗特製・精進料理を遥かに飛び越すスパルタ料理が振る舞われ、お腹を空かせた一同は空腹という一番のご馳走だけを心行くまで噛みしめた。
ちなみに村紗一人だけは、他の皆の目の前で特製のカレーをとても美味しそうに召しあがりました。
「あーお腹空いた……」
空腹のあまり寝付けない一輪は、縁側に出て月夜を眺め、収まらない腹の虫を誤魔化そうとしていた。
「まあ誤魔化せるわけも無いんだけど……ん?」
不意に、隣の部屋の障子戸が開いた。
月明かりに浮かぶその部屋の住人は、いつもの水夫服に身を包んで、コソ泥の如く忍び足で近付いてきた。
「……ん」
「……何これ?」
コソ泥村紗は一輪の隣に座り、小さな紙袋を手渡した。
一輪は怪訝な顔を村紗の方へと向けるが、当人はそっぽを向くばかり。
それならそれでいいと、一輪は紙袋の方へと向き直った。
「まあ別に危険物が入ってるとは思わないけど。どれどれ……」
封を開け、中身を確認する。中には白くて丸い物。
一輪がその正体を月明かりに照らしたところで、村紗は小さく口を開いた。
「……昨日のお詫び」
「……え?」
「昨日は饅頭一個で怒りすぎた。だからそのお詫び……」
そっぽを向いたままの村紗の言葉に、思わず笑みが零れる。
「な、何笑ってるのよ?」
「あ、ごめんなさい。ただ、一緒だなって思って」
「一緒? 一緒って何が?」
村紗が振り向くと、一輪は大層嬉しそうだった。
「わたしも思ってたのよ。昨日村紗のお饅頭食べちゃったから、謝らないといけないなって」
「えっ、いいよ別に。悪いのはわたしの方なんだし」
「悪いのはこっちも同じ。だから今日のところはこうするの」
そう言って、一輪は手にしたお詫びの饅頭を半分に割って、片方を村紗に渡した。
「今日は村紗が買ったお饅頭を二人で分ける。次はわたしが買ったお饅頭を二人で分ける。これでおあいこね」
「一輪……」
渡した一輪、受け取った村紗。両方とも手にした饅頭を一口食べ、ニコッと笑いあった。
この瞬間、ほんの少しだけ、一輪に不安がよぎる。
「ねえ村紗、本当に成仏したりしないわよね?」
「何よ薮から棒……でもないか、今日みたいな事があれば。でも、とにかく大丈夫よ」
ごほんっ、とわざとらしく咳払いして、一輪の方を向き直す。
「確かに今は充実した楽しい生活を送ってるけど、この一千年で溜まりに溜まったあんたへの恨みつらみはそう簡単に晴らせるものじゃないわ。悪いけど、一輪が死ぬまで死んでも成仏なんかしないわよ」
「もう死んでるくせに」
「うるさいわね。そっちこそ寂しくってピーピー泣いてたくせに」
「あ、あれはこれでせいせいしたなっていう喜びの涙よ!」
「どうだか。どっちにしてもあんなに目を真っ赤にされちゃこっちも寝覚めが悪いから、成仏なんか絶っ対にしない!」
「こっちこそ、今度こそ絶っ対に村紗の菩提を弔ってあげるわよ!」
月明かりに蠢く二人の姿は、犬なら確実に無視するであろう。
「………………」
ただ、この光景を遠巻きに眺めていた、いつもしかめっ面の雲おじさんの顔を珍しくほっこりさせるほどの効果はあったようである。
そこでは、白蓮、星、響子、マミゾウがせっせと掃除をしていた。ちなみにぬえもいるのだが、他四人に比べて真面目にやっていない。
それを星やらマミゾウやらが注意しながらも、平穏な時間は過ぎてゆく。
そんな折、頭巾をかぶった少女が戸を開けて入ってきた。
「姐さーん」
「あら一輪、どうしたの?」
ほっかむりをした白蓮が背後から呼びかけられて振り向くと、戸を開けて入ってきたのは雲居一輪と、彼女の肩に小さな雲山。
一輪は何故だか少し慌てた様子で、すたすたと白蓮のもとまで歩み寄り口を開いた。
「村紗のこと、見なかった?」
「村紗? 彼女なら部屋にいるのではないかしら?」
「わたしもそう思ってさっき村紗の部屋に行ったけど、少し変なの」
「変とは?」
そう疑問を口にしたのは、白蓮と共に仏堂の埃をはたいていた星。
星もまたほっかむりをして、不思議そうな眼差しを一輪へ向けた。
それに応えるべく、一輪は自分が村紗の部屋で見たことを口早に述べ始めた。
「今日は村紗とわたしが買い出し担当だったから、そろそろ出掛けようと部屋まで村紗を呼びに行ったの。そしたら部屋には誰もいなくて、それで変なのはここからなんだけど……」
一呼吸置いて、一輪はまた言葉を発し始めた。
「文机の上には写しかけのお経と飲みさしの湯飲み。それと柄杓。床には脱ぎ捨てられた村紗の服だけが広がっていたの。 湯飲みはまだ温かかったからわたしが部屋に入る直前までそこいいたんだろうけど、お寺の中にはどこにもいなくて……」
一輪がここまで話したところで、その話を雑巾がけしながら聞いていたマミゾウがすくっと立ち上がった。
「ふむ。それはまるで、まりい・せれすと号の話のようじゃのう」
「まりい・せれすと号……?」
聞きなれぬ言葉に一輪が首をかしげていると、マミゾウは眼鏡をくいっと直し、桶で雑巾を濯ぎながら説明した。
「外の世界の異国の話でのう。何でもある船が航海しておる最中、漂流船を見つけたそうじゃ。様子を窺おうと船乗りたちが乗り込むと、その船には積み荷は無事残っておったが船乗りは誰一人乗っておらんかったそうじゃ。その漂流していた船の名が、まりい・せれすと号」
「…………」
マミゾウは濯ぎ終わった雑巾を絞る。
その横顔を、一輪は固唾を飲んで見守っていた。
「今の話だけでも不気味なのじゃが、こういう話には色々と尾ひれがつくものでのう。何でもまりい・せれすと号が発見されたとき、船の中にはまだ温かい食べかけの朝食があったとか」
「それって……」
「そっくりじゃろう? 村紗の状況に」
なるほど確かにそうである。
もぬけの殻の室内に、つい先ほどまでそこにいたことを示す湯飲み。
しかし、そこにいたはずの人物はどこにもいない。命蓮寺のどこにも。
言い知れぬ不安に駆られた一輪は、身を乗り出すようにしてマミゾウに続きを聞いた。
正確には、聞こうとした。
「それで……」
「そのことについて気になってることがあるんだけどさあ」
割って入ってきたのはぬえだった。
「き、気になる事?」
マミゾウの話よりもより深くて恐ろしそうなぬえの言葉に、一輪は顔を方向転換。
ぬえは少し気だるそうに頭を掻きながら口を動かした。
「あー何日か前の事なんだけど、村紗のやつ気味悪いくらいに笑顔でさ。何がそんなに楽しいのか聞いたんだよ。そしたら『聖も戻ってきたし、毎日が楽しいよ』って笑っててさ」
「あ、わたしも似たようなことありました」
今まで一言も口にしていなかった響子も、首をぶんぶん縦に振って話し出す。
「村紗さん前に言ってたんです。『昔は色々やんちゃしてきたけど、最近は丸くなったなって自分でも感じる』って、笑いながら」
響子の話に重ねるように、今度はまたぬえが首肯しながら話を続ける。
「何だかんだ言っても村紗って幽霊だろう? あんまり満足した日々を送って、それに写経なんて功徳つんでさ、こう、フワッと逝っちゃったとか……」
「っ!!?」
「わわっ!」
「………!」
ぬえの言葉に一輪はがくりと膝を落とした。慌てて受けとめたのは星と雲山。
支える手から、一輪の震えが強く感じられた。
「む、村紗がいなくなって……消えて……フワッと……」
「一輪落ち着いて! もう、マミゾウさんもぬえも響子もちょっと言い過ぎです!」
「す、すまん! 別に驚かせるつもりは無かったんじゃが」
「い、いやこっちもちょっとした冗談で……」
「ごめんなさい!」
船つながりでふと思い出しただけだったのを不用意におどろおどろしく話しすぎたとマミゾウは頭を下げ、ぬえは悪ふざけが過ぎたバツの悪さに目が泳ぎ、響子は深々とこうべを垂れた。
そしてずっと話を聞いていた白蓮は、優しく一輪の頭を撫でる。
「貴女たちはわたしが封印されている間、地底で一緒に暮らしていたものね。その絆はとても強い。不安になるのも分かるわ。でも、勝手に想像を膨らませて悪いことばかり考えては駄目。気を取り直して」
「あ、姐さん……」
柔らかくも芯のある白蓮の言葉に、一輪は少し心をもちなおした。星と雲山にお礼を言って、自力で立ち上がる。
それを見た白蓮はにっこり笑って、そして次の瞬間には目をキリッとさせて星にこう言った。
「星、ナズーリンを呼んできて」
「は、はい!」
白蓮の本気になった表情。星はその内面から見え隠れする大きな不安を感じ取る。
星もまた研ぎ澄まされた表情となり、急ぎ空へ駆けた。
「話はここに来る途中ご主人から聞いたよ。要は村紗がどこかに消えたから、どの方角にいるかをつきとめればいいんだろう?」
「ええ、お願いしますね」
仏堂に入ってきて早々言葉を並べるナズーリンに、白蓮は若干強張った笑顔で答えた。
その剣呑な雰囲気に驚きつつ、ナズーリンはお安い御用さと言い、ダウジングロッドをかかげて目を瞑った。
というより、この場にいる全員がただならぬ気配を発していることにナズーリンはやや気圧されていたが、それでも集中を乱さず村紗の居場所を探る。
そしてついに、ダウジングロッドが動き出した。
「ロッドは、西の上の方を指しているね。結構高い」
「西の、上……?」
一輪が真っ先に反応した。
ナズーリンの言う上とは、子どもが地図を見ながら北のことを言うものではない。三次元空間での上そのものである。
そして西の方角には何があるかと言えば、仏門に入っているものなら分からぬ者はない。
「西方浄土……そう、村紗は弥陀のお導きに……」
白蓮の、悲しみのこもった小さなつぶやき。
それを耳にした一輪は、再びその場に崩れてしまった。
「ううっ……村紗……」
「…………」
村紗の部屋。
残された村紗の水夫服を抱きしめ、喪服に身を包んだ一輪は泣いていた。付き添いの雲山は、敢えて何も言わない。
先ほど白蓮が言っていた通り、一輪と村紗は一緒に地底に封じられていた。およそ一千年近く。付き合いは一番長い。
その別れ悲しさたるや、分からないはずもない雲山。ただ黙って一輪の背をさする。
「村紗の馬鹿……逝くなら逝くで、一言くらい残しておきなさいよぉ……」
長い長い付き合いの、あまりにも突然であっけなさすぎる終わり。
最後に村紗と交わした言葉は何だったろうか。確か昨晩、村紗の饅頭を一輪が食べただ何だで軽く喧嘩したのが最後だ。
「……まだ、きちんと仲直りしてなかった」
今日の買い出しでお詫びの饅頭を買って、それで謝ろうと思っていた。
結局それも果たせずじまい。心はどんどん重くなる。
その時、部屋の障子戸が開いて、白蓮が入ってきた。葬式用の法衣に身を包んで。
「姐さん……」
「村紗のお葬式の準備ができたわ。貴女も……」
言おうとして、最後まで言えなかった。
言い切る前に、一輪が抱きついてきたのだ。
「うん、出るよ……出るけど、少し待って……まだ、涙が止まらないの……」
しゃくりをあげて、一輪は泣き続ける。
これでは白蓮の法衣も汚れてしまうが、気にすることも無く思う存分泣かせてあげた。
「村紗は幸せ者ね」
「え……?」
ポツリと、白蓮の口から零れ、一輪は顔を見上げた。
そこには、優しい微笑み。
「自分のために一輪がここまで泣いてくれる。それほどまでに大切に想ってくれる。幸せ者よ」
あやすように、諭すように、柔らかい口調で語りかける。
「思い切り泣きなさい、村紗のために。そして思い切り菩提を弔いなさい、村紗のために」
「……はい!」
一輪は力強く答えた。村紗のために。
そんな二人の様子を見つつ、相変わらずの白蓮の大きさに、雲山はただただ敬服した。
日の傾きかけた頃、一輪と雲山、そして白蓮が寺内の式場に赴くと、星、ナズーリン、マミゾウ、ぬえ、響子全員が喪服に身を包み、正座して待っていた。
そして、彼女らの前には仏花に囲まれた棺。一輪はその中に、村紗の服と柄杓を入れた。
「体だけフワッとしちゃったみたいだから、裸じゃ大変でしょう? 服を送るわ。それに柄杓も」
軽口を叩きながら棺に入れる。その方がらしくていいと思ったからだ。
しかしながら、いざ棺を閉めて着座し、白蓮がお経を読み上げ始めると、すぐに限界がきた。
涙があふれる。
「ううっ……」
『思い切り泣きなさい、村紗のために。そして思い切り菩提を弔いなさい、村紗のために』
白蓮の言葉が思い出される。その通りにしてやろうと思った。
勝手に逝ってしまった村紗のために、泣くだけ泣いて、弔うだけ弔ってやる。
「村紗の馬鹿……」
一輪の発した非難の言葉を、雲山は勿論、この場にいる誰もが咎めはしなかった。
そうこうしている内に焼香とあいなった。一人一人順番に仏前で焼香し、合掌する。
まずは一輪と雲山。長く長く手を合わせた。そして星、ナズーリン、マミゾウ、ぬえ、響子、村紗の順に、次々と焼香する。
全員もとの座に戻った所で、悲痛な表情をして顔を下げる星に、隣の村紗から小声でふと疑問が投げかけられた。
「帰ってきたら葬式してるからわたしも喪服に着替えてきたけど、これって誰の葬式なの? 喪主の姿もないし。というか、何で一輪あんなに泣いてるの?」
「ええ、これは村紗という我々の仲間の葬式で……一輪は特に村紗と仲が良かったですから……」
「ふむふむなるほど……これは命蓮寺のムラサって人のお葬式か……」
一瞬の間。
「……ってなんでやねん!!」
村紗による謎のエセ関西弁が、式場に木霊した。
その瞬間、その場にいる全員が固まった。そして誰かが合図したわけでもなし、異口同音。
「「「「「「む、村紗(さん)が化けて出た!!?」」」」」」
「失礼ね! こちとら元々化けて出た身よ!!」
お経と木魚の音が支配していた式場は、一気に阿鼻叫喚地獄へと様変わり。
怒り心頭の者、驚き飛び上がる者、それを宥めようとする者、全員がてんやわんやの大騒ぎである。
「………………」
「………………」
ただ、事態が一切飲み込めず、まさに魂の抜けたような一輪と、彼女以外その言葉を聞き取れない寡黙な雲を除いては、であるが。
「……で、何? 人がちょっと出掛けてたのをいい事に勝手に消息不明にしてくれちゃって、挙句の果てにフワッと成仏させてくれちゃったわけ?」
「ご、ごめんなさい……」
「返す言葉もありません……」
阿鼻叫喚地獄も収まったところで事情を聞いた村紗は胡坐をかいて座り、目もしっかりと据わっていた。
白蓮と星が深々と頭を下げたところで、後ろからナズーリンのヤジが飛ぶ。
「内心変だなとは思ってたんだ、いきなり葬式なんて。聖もご主人もおっちょこちょいすぎるんじゃないか?」
「ナ、ナズーリン! お言葉ですけど、貴女が西の上の方なんて言うからこちらも西方浄土なんて勘違いを……」
「あ、あれはご主人が『村紗がどちらの方角にいるかダウジングしてほしい』なんて曖昧な言い方をするから、わたしはその通りにしただけじゃないか。村紗を探すと言ってくれればそれで探しに出たんだ」
「わ、わたしのせいですか!?」
「……そもそもややこしくなった全ての根源ってマミゾウが、まりい何とかって言い出したからじゃないの?」
「……そもそもややこしくなった全ての根源ってマミゾウが、まりい何とかって言い出したからじゃないの?」
「な、何を言い出すんじゃぬえ! 響子も都合のいい山彦を発動させるな! 第一フワッと成仏とか言い出したのはおぬしらじゃろう!」
「わ、わたしはちゃんと冗談だって言ったのに、悪化させたのはナズーリンの言葉だったよな響子?」
「わ、わたしはちゃんと冗談だって言ったのに、悪化させたのはナズーリンの言葉だったよな響子?」
「ふ、二人までわたしのせいだと言うのか!? 響子も山彦はやめないか!」
再び阿鼻叫喚地獄がおっぱじまらんとする元式場において、村紗は棺から取り出した柄杓で床をガンッと気持ちよく叩いた。
「ねえ、ここで今一番怒るべきはわたしなんだけど、そこんとこ理解してる?」
「「「「「「はい、すいませんでした」」」」」」
六つの頭がきれいに下がった事に幾分かの心地よさを感じつつ、村紗は未だ停止状態の少女へと目を向けた。
「もしもーし、生きてる? 生きてるなら返事してくださーい。いーちりんさーん」
呼びかけても、目の前で手を振っても、ほっぺをつねっても、柄杓で頭を小突いても、返事がない、ただの入道使い状態。
これには雲入道の方もお手上げのようで、首をぶんぶんと横に振った。
「こうなったら仕方無いわね。ちょっと荒療治……とりゃあ!」
「……ヘブッ!?」
「おお、起きた」
村紗が頭から突進し、一輪は後方へ倒れた。
そのまま村紗は一輪にのしかかった体制となり、そこでようやく一輪は目を覚ました。
「む、むむむむ村紗大変よ! 成仏した船幽霊の村紗が成仏しきれず幽霊になって化けて出たの!」
「それは大変ね、特にあんたの精神状態が。はいしんこきゅー」
「すぅー、はぁー。すぅー、はぁー」
何度か深呼吸したためか、ようやく落ち着きをとりもどしてきた一輪。事態の把握も進んできたようである。
しかし落ち着いたのもつかの間、今度は涙を流し始め、自分にのしかかったままの村紗に抱きついた。
「村紗のばかばかばか~! 何であんな部屋の状態にしておくのよ~!?」
「えっ、ちょ、何!?」
これには流石に村紗も面喰う。あんな部屋の状態とはどういうことだろうか。確かに散らかっていたかもしれないが。
とここで、マミゾウの声。頭を下げたまま話し始めたのだ。
「そういえば部屋には写しかけのお経と飲みさしのお茶に脱ぎっぱなしの服があったそうじゃが、何でそんな風になってたんじゃ? じゃから儂はまりい・せれすと号とか言い出したんじゃが」
「あー、あれか」
村紗も相変わらず一輪にのしかかったまま、というか一輪に抱きつかれて身動きが取れないのだが、答えた。
「写経に熱中するあまり買い出しに行く時間を忘れててさ。今日はわたしの当番なのにって思って慌てて出ようとしたんだけど、服が墨で汚れてる事に気付いて。急いで脱いで着替えたの」
「えっと、それはおかしいですよ?」
今度は白蓮が頭を下げながら話し始めた。
「今日は買い出し当番と食事当番を村紗と一輪に任せて、他は仏堂の掃除に当たる日なのだけど」
「あれ? そうだっけ?」
村紗がその事をうっかり忘れてしまって一人で買い出しに出掛けている間、うっかり村紗は成仏した事になり、うっかり葬式が挙げられていたのである。
ナズーリンの言った西の上とは、西の方角にある人里へ向かって村紗が飛んでいただけのこと。
いくつかの偶然といくつかの勘違いが見事な化学反応を引き起こし、今回の騒動が出来上がったわけである。
「つまり……」
「今回の事件は……」
「誰にも責任がないという事で……」
「誰にも責任がないという事で……」
「いや、それはない」
星、ナズーリン、ぬえ、響子の言葉はしかし、村紗に一蹴された。
あの後何が大変だったかと言えば、緊張の糸が一気に切れた一輪が村紗に抱きついたまま眠ってしまったため、しばらく身動きが取れなかった事。
そのため遅れに遅れた夕食では、今回の罰として村紗特製・精進料理を遥かに飛び越すスパルタ料理が振る舞われ、お腹を空かせた一同は空腹という一番のご馳走だけを心行くまで噛みしめた。
ちなみに村紗一人だけは、他の皆の目の前で特製のカレーをとても美味しそうに召しあがりました。
「あーお腹空いた……」
空腹のあまり寝付けない一輪は、縁側に出て月夜を眺め、収まらない腹の虫を誤魔化そうとしていた。
「まあ誤魔化せるわけも無いんだけど……ん?」
不意に、隣の部屋の障子戸が開いた。
月明かりに浮かぶその部屋の住人は、いつもの水夫服に身を包んで、コソ泥の如く忍び足で近付いてきた。
「……ん」
「……何これ?」
コソ泥村紗は一輪の隣に座り、小さな紙袋を手渡した。
一輪は怪訝な顔を村紗の方へと向けるが、当人はそっぽを向くばかり。
それならそれでいいと、一輪は紙袋の方へと向き直った。
「まあ別に危険物が入ってるとは思わないけど。どれどれ……」
封を開け、中身を確認する。中には白くて丸い物。
一輪がその正体を月明かりに照らしたところで、村紗は小さく口を開いた。
「……昨日のお詫び」
「……え?」
「昨日は饅頭一個で怒りすぎた。だからそのお詫び……」
そっぽを向いたままの村紗の言葉に、思わず笑みが零れる。
「な、何笑ってるのよ?」
「あ、ごめんなさい。ただ、一緒だなって思って」
「一緒? 一緒って何が?」
村紗が振り向くと、一輪は大層嬉しそうだった。
「わたしも思ってたのよ。昨日村紗のお饅頭食べちゃったから、謝らないといけないなって」
「えっ、いいよ別に。悪いのはわたしの方なんだし」
「悪いのはこっちも同じ。だから今日のところはこうするの」
そう言って、一輪は手にしたお詫びの饅頭を半分に割って、片方を村紗に渡した。
「今日は村紗が買ったお饅頭を二人で分ける。次はわたしが買ったお饅頭を二人で分ける。これでおあいこね」
「一輪……」
渡した一輪、受け取った村紗。両方とも手にした饅頭を一口食べ、ニコッと笑いあった。
この瞬間、ほんの少しだけ、一輪に不安がよぎる。
「ねえ村紗、本当に成仏したりしないわよね?」
「何よ薮から棒……でもないか、今日みたいな事があれば。でも、とにかく大丈夫よ」
ごほんっ、とわざとらしく咳払いして、一輪の方を向き直す。
「確かに今は充実した楽しい生活を送ってるけど、この一千年で溜まりに溜まったあんたへの恨みつらみはそう簡単に晴らせるものじゃないわ。悪いけど、一輪が死ぬまで死んでも成仏なんかしないわよ」
「もう死んでるくせに」
「うるさいわね。そっちこそ寂しくってピーピー泣いてたくせに」
「あ、あれはこれでせいせいしたなっていう喜びの涙よ!」
「どうだか。どっちにしてもあんなに目を真っ赤にされちゃこっちも寝覚めが悪いから、成仏なんか絶っ対にしない!」
「こっちこそ、今度こそ絶っ対に村紗の菩提を弔ってあげるわよ!」
月明かりに蠢く二人の姿は、犬なら確実に無視するであろう。
「………………」
ただ、この光景を遠巻きに眺めていた、いつもしかめっ面の雲おじさんの顔を珍しくほっこりさせるほどの効果はあったようである。
命蓮寺はほっこりする話が多くて良いですねぇ。
その中でも特にこの二人が好きです。
村紗はやはり海や水難に関連する事件が似合いますね
その後のドタバタもムライチ展開も楽しかったです。
村紗部屋の謎があっさりしすぎていたのが少し残念です。