――わたしと、わたしの友人の話をします。
夏と秋の間の夕刻は、黄昏という言葉のとおり、べっこう飴に似た黄色い光で包まれていた。
昼間の光は、遠い記憶になるように空の奥へと沈んでいく。天井が迫ってくるように、夜は人々を圧迫する。あれほどまでに眩しく自己主張をしていた太陽は嘘のように顔を隠し、代わりに現れたのは白ずんだあざとい満月。
とろける飴細工の黄昏時は、あの世とこの世の交わる時間だから短いのだとか――頭の中で呟きながら、わたし、マエリベリー・ハーンは、大学の空き教室から一歩出た。背後から、ガラリ、とスライド式の扉が閉まる音。続いて出てきたのは、わたしの友人、宇佐見蓮子。
「あなたが扉を閉めるなんて」
振り返り言うと、彼女はつんと顔を逸らして、それからちらり、横目を合わせて、笑う。
「開けっ放しじゃ、淑女としてのマナーがないわ」
宇佐見蓮子はそう言って、先を歩くわたしを軽く追い抜かして廊下を歩んでいく。
わたしと宇佐見蓮子は、この大学に通う同期であり、オカルトサークル秘封倶楽部のメンバーであり、誰より親しい友人である。
宇佐見蓮子はわたし以上にわたしを知っているし、
わたしは宇佐見蓮子以上に宇佐見蓮子を知っている。
親友、といえば聞こえはいいのだろうが、結局のところ、それが正しい言葉なのかはわからない。時々彼女に見える境界も、時折感じる違和感も、わたしはどんな言葉で表せばいいのかを知らない。
あら、それって――誰より彼女の事を知らないってことなんじゃないかしら、
そう気付いてまた一歩、私は宇佐見蓮子に距離を感じる。
「十八時と、半」
暗闇に蛍光灯が目に痛い廊下を歩みながら、硝子窓の向こうの夜空を見て蓮子が言う。
廊下に時計は見当たらない。ましてや彼女の腕にも、そんなものはない。またお得意の引き算ね、ぼんやり聞いていると、
「まずいわ」
蓮子が、そんなことを言い出すので。
「まずいわね」
わたしは、そう返す。
先を歩く蓮子は、わたしの相槌にもまともな返事をせず、ただ窓の向こうを眺めながら歩みを続けるばかりだった。わたしは、返事が無いのも気にせず、ただその後を続く。何がまずいのかは知らない。とりあえず、言ってみただけ。
そこに、違和感はない。突然会話が途切れても、気にならない。いつも通りの、関係。
ただ一つ感じる異変と言えば――
「蓮子、急いでる?」
宇佐見蓮子は、親しい自覚のあるわたしから見てもニヒルで、すまし顔が似合う女性。だから、わたしがそう尋ねても――彼女は、表情を崩すことはなかった。
それでも、彼女が進める脚は素直に、早く。
「ええ――あと三十分で、待ち合わせの時間なの。勿論、この時間とここの距離では間に合わないけれど」
浮足立って進む歩みと同様に、口から出る言葉も素直だった。
「そう」
わたしは、それだけ言って、黙って彼女の背中を追いかける。
白いブラウス、黒いスカート。
わたしとほとんど変わらない大きさの背中、細い腕。
いつも通り、当たり前の、見慣れた後ろ姿。わたしが今日も、明日も、見つめながら歩く背中。
それを少しだけ、遠くに感じるようになったのは今が始まったことではない。ついでにいうと、それは定期的に、訪れる。
彼女の背中に見えた境界に気付いて、わたしは目を逸らした。
そういう時期、なんだわ。
そう、自分に言い聞かせて。
校舎を出たときにはもう、数刻前の黄昏はまるで幻想。
東の空に沈んだ太陽が現れるのに、数百年はかかりそうな、そんな黒――夜が、わたしたちを、圧迫する。
「メリー、それじゃあ。また、明日」
「ええ、また」
駅へ向かうより先に、校門で別れの言葉を交わす。
蓮子は、ひらり手を振りながら刹那――夜空を見て、星と月で時間を計算した。
このまま月が落ちてしまえばいいのに。
わたしの友人である宇佐見蓮子は今夜も、わたしの知らない男へ会いに行く。
*
わたしたち秘封倶楽部は、霊能者サークルだけどメンバーは二人しかいなくて、周りからはろくな研究もしていない不良サークルだと言われているけれど、しっかり大学の外で研究活動はしているのよ、まあ、課外活動多めなぶん、大学に行くことは少ないけれど――ほら、結局。大学なんて、勉強しにいく場所ではないのよ。学問する場所だって。進学する時、教師もそう言っていたわ。だからわたしたちは勉強していないのではなくて――あくまでも自分たちなりに学んで――たまに、そんな言い訳をしたくなる時がある。
今日、どうしてそんな言い訳をしているかというと、
「ああでも、私、もう無理だわ」
「まあまあ、蓮子。もう次の一杯にいく? 今日は酔いなさい」
二人で履修している五限目も出ずに、居酒屋で二人の宴を開いていたからである。
京都駅の雑踏は、世界の都市の中でも断トツに騒がしく、それでいて油のにおいがするような、擦れた都会の雰囲気がする。
田舎から首都圏に出てきた人間なら、数日はノイローゼになるような――そんな、典型的な街。それでも、所謂駅チカで、静かに、個室で呑める居酒屋はあるもので。
わたしと宇佐見蓮子の間に、今更何を気取るわけでもなく。可愛くカクテル、とりあえずサラダ、なんて頼み方はせず。筆ペンで店員が書いたであろう本日のおすすめメニューや、暑さに合わせて冷やされた御絞りが、可哀そうに思えるくらいテーブルの端に追いやられるようにして――ジョッキのビールが二杯と、冷奴、串揚げ、極めつけにレバ刺しが、仮にも華の女子大生二人には似つかわしくなく、綺麗に鮮やかに、広がっていた。
「私だって、このままじゃいけないって。頑張ってみたのよ」
わたしのジョッキより随分と量の減ったビールを片手に、どん、と机を叩きながら、もう蕩けた目をしている宇佐美蓮子。
今日の会合は、蓮子の一言から始まった。
「もういいわ、むしゃくしゃしたの。飲みましょう」って。
最近ずっと、違和感があって。妙な境界が見えるとは、思っていたけれど。
今回は、存外早かったわ――私はジョッキを両手で持ち、眼前の友人を見つめながら思い返す。結構、荒れてるな、とか、呑気に考えながら。
「大学生なんだから、普通だと思っていだけど」
「ええ」
「違ったのよ」
「そうね」
「彼と公園に行って、そう、流れがあったから」
「うん」
「近づいてくるの、彼の顔が。私だって、ベつに、嫌じゃなかった」
もう何も刺さっていない串を、片手で摘み、二本の指の間で転がしながら、既に出来上がった蓮子は淡々と、それでも子供の用に言葉を紡いだ。
この居酒屋は、もう何回か二人で訪れている場所で、隠れ家という言葉そのものが似合う毎度個室に案内してくれる優良店。和の雰囲気を出す為か、土の壁で仕切られた部屋では、他の客の声も、自分たちの声も聞こえない。
だから、わたしが聞き役に徹している今、響くのは自暴自棄になった友人の声だけ。
「あともう三センチ。二センチ、一センチって、近づいてきて。触れたの、彼の唇が」
「ええ」
彼女は、誰に怒りをぶつけるわけでもなく、苛立った様子で、
「何も、感じなかったわ」
言って、蓮子はぽとりと、摘まんでいた串をテーブルに落とした。
本当に落ちたのは、わたしの気分だけれど。
わたしは宇佐見蓮子以上に宇佐見蓮子を知っている。
彼女が他で、どんな男と会ってきたかは知らないけれど。
そこになんの関係もなかったのを、分かっている。
彼女に男の影が出来たときは必ず、いつも追いかける背中の境界が歪んで見えて。わたしには、そもそも、宇佐見蓮子がそういった行動に向いていないのを知っている。
だけど今回は、その境界が少し色づいて見えたから。もしかしたら、とは思っていたけれど。
「そうね、キスくらい、普通だけど。それで何か感じなきゃいけないなんて、誰が決めたの」
「わかってるわよ、私にだって。でもね、ここまで何もないと、自分に落胆するわ。私、あなたとオカルトを辿っている方がよっぽど楽しいのよ。あまりにも女子大生らしくはないけれど」
ぐい、と、中途半端に残っていたビールを飲み干す――確かに、テーブルに広がるつまみだって、女子大生らしくはないけれど。
「それでいいじゃない」
空になった宇佐見蓮子のジョッキ。次は何を飲むのかと、メニューを開いて彼女に見せる。カクテルの項目なんて見向きもせず、彼女はワイン、日本酒、焼酎と目を流して、結局生ビールを指差して、項垂れる。
「生ね。じゃあ――」
わたしは、テーブルの端に置かれた店員の呼び出しボタンに手を伸ばす。
生ひとつと、あさりの酒蒸しでも頼もうかしら――
「――まって」
わたしの指は、呼び出しボタンに触れるより先に、自分以外の力で止められた。
爪の先はもうボタンに触れそうだった。触れる寸前に、真正面から伸びてきた蓮子の手によって止められた。
「……なあに?」
わたしがボタンを押すのを諦めたのを察してから、彼女は握っていた私の指を離しながら言葉を紡ごうとした。
「メリー、私ね――」
その時。
カシャン。
腕を引いた彼女の肘が、更に置いていた箸を、落とした。
「ああ、箸も新しいのをもらわないと――」
「――いいの。大丈夫だから」
蓮子はそう言うと、腰を掛けていた椅子から降りて、しゃがみ、落とした箸を自ら拾い始めた。
こういう失敗をするのは珍しいと思いながら、視線だけ落として蓮子を見る。すると、わたしの足もとに、彼女の白い指が伸びてきて。
――ああ、箸の片方は、わたしの方まで転がってきていたのね。
わたしのつま先に落ちた一本を拾うと、彼女は立ち上がる。
鈍い照明の光が、目の前に立つ彼女の影によって、隠れて。顔を上げると、そこには座るわたしを見下ろす、友人の姿。
「――分かってるんでしょう」
そう一言だけ、口に出された。
「――そうね、私は、貴女の親友だものね」
「狡いわ」
「そっちこそ」
宇佐見蓮子はわたし以上にわたしを知っているし、
わたしは宇佐見蓮子以上に宇佐見蓮子を知っている。
立ち尽くしたまま、わたしをわたし以上に知っている彼女は、言葉を続ける。
「今回も駄目だったのよ」
「ええ」
「男の人だったからとかじゃない」
「そうね」
「私、メリーが好き」
最後の一言に対する相槌は、意識せず、出なかった。
立ち尽くす彼女が握り締める箸は、震えている。
アルコールのせいで赤く染まった目元には、決壊寸前の潤む瞳。
「ごめんなさい、メリー、でも私、ここまでして、今回も無理だったから。隠せなくて」
「分かってるくせに、って言ってたでしょう。隠せてないわよ、元から」
「性格、悪いのね」
「……貴女こそ」
何度も繰り返す。わたしと宇佐見蓮子は、互いを自分以上に知っている。
彼女がわたしを、親友以上に想っていることも。
結果いつかこうなることも。
分かっていた。見えていた。例え境界が見えずとも、月と星で計算せずとも。
「メリー、ねえ、でもね、でも――」
拾った箸を置いて、わたしの隣に座った蓮子の手は、箸の代わりに私の片手を握り締める。
「わたし、女よ」
「知ってるわ、蓮子が男だったら、困る」
「メリーも、女よ?」
「知ってる。私が男でも、困るわ」
「……ごめんなさい、気持ち悪いって、思ってるでしょう」
おおよそ、私の知る宇佐見蓮子という女は――ニヒルですまし顔が似合う数学者、なのだが――今ばかりはただの、愛らしい、少女に見えた。そこに、他意はなく。
「メリー、私だって、頑張ったのよ、でも、駄目だったの、何も感じなかったの、こんなものかって、」
「だから、それはね、それでいいじゃない」
「でも、私女に生まれてきてるの、おかしいじゃない、どうして――これじゃ、誰も――」
わたしに、その気がないのを蓮子は知っている。だからこそ、らしくもなく、子供の用にそんなふうに言う。
でもわたしは何故だかそれが、今まで見続けていた彼女の、どんな姿よりも愛らしく見えた。可憐な花、このまま見惚れていたいとも、水を与えなければとも、握ってこの手で壊してしまいたいとも、思った。
だから、次の瞬間には、
「私がいるじゃない」
彼女に握られていた手で逆に彼女の手首を掴んで、抱き寄せて、そんなセリフを口に出していた。
「――メリー、」
「――わたしが、いるわ」
いつもわたしが背中を追いかけて歩く彼女が、今はわたしの腕の中、胸に頭を預け抱かれている。
わたしは、彼女の親友で、それ以上ではあっても、そういう関係になるつもりはない。
それでも腕の中、どうしてかしら、こうなると嫌に心臓が騒ぎ出すもので。
最近までわたしの知らない男の元に行っていた親友が戻ってきたと思うと、それだけで独占欲が満たされて。安心して。可愛くて、優越感があって。
この時初めて、体が熱く、疼くという感情を知った。
男性とのキスで何も感じなかったと言ったばかりの彼女に口付けたいとは思わなかったけれど、せめて額になら、とか、
ああもう終電が近いわ、帰らなきゃ、帰さなきゃ、蓮子を帰したくないわ、でもここで帰さなかったらいけないような、よくわからない罪悪感が浮かんできたりして――。
大学の掲示板を一人見ていた時、あからさまな下心から声を掛けてきた同期だという男性の考えている最低なことも、今はなんとなく、分かってしまうような気がして、もう。
「――だから、いいじゃない。男のひととなにか、感じなくたって」
わたしがいる。わたしに、少しでも、なにか、なんて。
*
――わたしと、わたしの友人の話をします。
わたしと宇佐見蓮子は、この大学に通う同期であり、オカルトサークル秘封倶楽部のメンバーであり、誰より親しい友人である。
宇佐見蓮子はわたし以上にわたしを知っているし、
わたしは宇佐見蓮子以上に宇佐見蓮子を知っている。
あの呑み屋での一件のあと? ――ああ、あのあと。
そうね、あのあとね。ええ、それは、また、つぎのお話。あなたがまだ、その境界からわたしたちを見ていたら、きっといずれは知るお話。
――もっとも、その時は、わたしと、わたしの『友人』――という関係ではないかもしれないけれど――、
性別を分かつ境界なんて、今の私には、見えなかったわ。
夏と秋の間の夕刻は、黄昏という言葉のとおり、べっこう飴に似た黄色い光で包まれていた。
昼間の光は、遠い記憶になるように空の奥へと沈んでいく。天井が迫ってくるように、夜は人々を圧迫する。あれほどまでに眩しく自己主張をしていた太陽は嘘のように顔を隠し、代わりに現れたのは白ずんだあざとい満月。
とろける飴細工の黄昏時は、あの世とこの世の交わる時間だから短いのだとか――頭の中で呟きながら、わたし、マエリベリー・ハーンは、大学の空き教室から一歩出た。背後から、ガラリ、とスライド式の扉が閉まる音。続いて出てきたのは、わたしの友人、宇佐見蓮子。
「あなたが扉を閉めるなんて」
振り返り言うと、彼女はつんと顔を逸らして、それからちらり、横目を合わせて、笑う。
「開けっ放しじゃ、淑女としてのマナーがないわ」
宇佐見蓮子はそう言って、先を歩くわたしを軽く追い抜かして廊下を歩んでいく。
わたしと宇佐見蓮子は、この大学に通う同期であり、オカルトサークル秘封倶楽部のメンバーであり、誰より親しい友人である。
宇佐見蓮子はわたし以上にわたしを知っているし、
わたしは宇佐見蓮子以上に宇佐見蓮子を知っている。
親友、といえば聞こえはいいのだろうが、結局のところ、それが正しい言葉なのかはわからない。時々彼女に見える境界も、時折感じる違和感も、わたしはどんな言葉で表せばいいのかを知らない。
あら、それって――誰より彼女の事を知らないってことなんじゃないかしら、
そう気付いてまた一歩、私は宇佐見蓮子に距離を感じる。
「十八時と、半」
暗闇に蛍光灯が目に痛い廊下を歩みながら、硝子窓の向こうの夜空を見て蓮子が言う。
廊下に時計は見当たらない。ましてや彼女の腕にも、そんなものはない。またお得意の引き算ね、ぼんやり聞いていると、
「まずいわ」
蓮子が、そんなことを言い出すので。
「まずいわね」
わたしは、そう返す。
先を歩く蓮子は、わたしの相槌にもまともな返事をせず、ただ窓の向こうを眺めながら歩みを続けるばかりだった。わたしは、返事が無いのも気にせず、ただその後を続く。何がまずいのかは知らない。とりあえず、言ってみただけ。
そこに、違和感はない。突然会話が途切れても、気にならない。いつも通りの、関係。
ただ一つ感じる異変と言えば――
「蓮子、急いでる?」
宇佐見蓮子は、親しい自覚のあるわたしから見てもニヒルで、すまし顔が似合う女性。だから、わたしがそう尋ねても――彼女は、表情を崩すことはなかった。
それでも、彼女が進める脚は素直に、早く。
「ええ――あと三十分で、待ち合わせの時間なの。勿論、この時間とここの距離では間に合わないけれど」
浮足立って進む歩みと同様に、口から出る言葉も素直だった。
「そう」
わたしは、それだけ言って、黙って彼女の背中を追いかける。
白いブラウス、黒いスカート。
わたしとほとんど変わらない大きさの背中、細い腕。
いつも通り、当たり前の、見慣れた後ろ姿。わたしが今日も、明日も、見つめながら歩く背中。
それを少しだけ、遠くに感じるようになったのは今が始まったことではない。ついでにいうと、それは定期的に、訪れる。
彼女の背中に見えた境界に気付いて、わたしは目を逸らした。
そういう時期、なんだわ。
そう、自分に言い聞かせて。
校舎を出たときにはもう、数刻前の黄昏はまるで幻想。
東の空に沈んだ太陽が現れるのに、数百年はかかりそうな、そんな黒――夜が、わたしたちを、圧迫する。
「メリー、それじゃあ。また、明日」
「ええ、また」
駅へ向かうより先に、校門で別れの言葉を交わす。
蓮子は、ひらり手を振りながら刹那――夜空を見て、星と月で時間を計算した。
このまま月が落ちてしまえばいいのに。
わたしの友人である宇佐見蓮子は今夜も、わたしの知らない男へ会いに行く。
*
わたしたち秘封倶楽部は、霊能者サークルだけどメンバーは二人しかいなくて、周りからはろくな研究もしていない不良サークルだと言われているけれど、しっかり大学の外で研究活動はしているのよ、まあ、課外活動多めなぶん、大学に行くことは少ないけれど――ほら、結局。大学なんて、勉強しにいく場所ではないのよ。学問する場所だって。進学する時、教師もそう言っていたわ。だからわたしたちは勉強していないのではなくて――あくまでも自分たちなりに学んで――たまに、そんな言い訳をしたくなる時がある。
今日、どうしてそんな言い訳をしているかというと、
「ああでも、私、もう無理だわ」
「まあまあ、蓮子。もう次の一杯にいく? 今日は酔いなさい」
二人で履修している五限目も出ずに、居酒屋で二人の宴を開いていたからである。
京都駅の雑踏は、世界の都市の中でも断トツに騒がしく、それでいて油のにおいがするような、擦れた都会の雰囲気がする。
田舎から首都圏に出てきた人間なら、数日はノイローゼになるような――そんな、典型的な街。それでも、所謂駅チカで、静かに、個室で呑める居酒屋はあるもので。
わたしと宇佐見蓮子の間に、今更何を気取るわけでもなく。可愛くカクテル、とりあえずサラダ、なんて頼み方はせず。筆ペンで店員が書いたであろう本日のおすすめメニューや、暑さに合わせて冷やされた御絞りが、可哀そうに思えるくらいテーブルの端に追いやられるようにして――ジョッキのビールが二杯と、冷奴、串揚げ、極めつけにレバ刺しが、仮にも華の女子大生二人には似つかわしくなく、綺麗に鮮やかに、広がっていた。
「私だって、このままじゃいけないって。頑張ってみたのよ」
わたしのジョッキより随分と量の減ったビールを片手に、どん、と机を叩きながら、もう蕩けた目をしている宇佐美蓮子。
今日の会合は、蓮子の一言から始まった。
「もういいわ、むしゃくしゃしたの。飲みましょう」って。
最近ずっと、違和感があって。妙な境界が見えるとは、思っていたけれど。
今回は、存外早かったわ――私はジョッキを両手で持ち、眼前の友人を見つめながら思い返す。結構、荒れてるな、とか、呑気に考えながら。
「大学生なんだから、普通だと思っていだけど」
「ええ」
「違ったのよ」
「そうね」
「彼と公園に行って、そう、流れがあったから」
「うん」
「近づいてくるの、彼の顔が。私だって、ベつに、嫌じゃなかった」
もう何も刺さっていない串を、片手で摘み、二本の指の間で転がしながら、既に出来上がった蓮子は淡々と、それでも子供の用に言葉を紡いだ。
この居酒屋は、もう何回か二人で訪れている場所で、隠れ家という言葉そのものが似合う毎度個室に案内してくれる優良店。和の雰囲気を出す為か、土の壁で仕切られた部屋では、他の客の声も、自分たちの声も聞こえない。
だから、わたしが聞き役に徹している今、響くのは自暴自棄になった友人の声だけ。
「あともう三センチ。二センチ、一センチって、近づいてきて。触れたの、彼の唇が」
「ええ」
彼女は、誰に怒りをぶつけるわけでもなく、苛立った様子で、
「何も、感じなかったわ」
言って、蓮子はぽとりと、摘まんでいた串をテーブルに落とした。
本当に落ちたのは、わたしの気分だけれど。
わたしは宇佐見蓮子以上に宇佐見蓮子を知っている。
彼女が他で、どんな男と会ってきたかは知らないけれど。
そこになんの関係もなかったのを、分かっている。
彼女に男の影が出来たときは必ず、いつも追いかける背中の境界が歪んで見えて。わたしには、そもそも、宇佐見蓮子がそういった行動に向いていないのを知っている。
だけど今回は、その境界が少し色づいて見えたから。もしかしたら、とは思っていたけれど。
「そうね、キスくらい、普通だけど。それで何か感じなきゃいけないなんて、誰が決めたの」
「わかってるわよ、私にだって。でもね、ここまで何もないと、自分に落胆するわ。私、あなたとオカルトを辿っている方がよっぽど楽しいのよ。あまりにも女子大生らしくはないけれど」
ぐい、と、中途半端に残っていたビールを飲み干す――確かに、テーブルに広がるつまみだって、女子大生らしくはないけれど。
「それでいいじゃない」
空になった宇佐見蓮子のジョッキ。次は何を飲むのかと、メニューを開いて彼女に見せる。カクテルの項目なんて見向きもせず、彼女はワイン、日本酒、焼酎と目を流して、結局生ビールを指差して、項垂れる。
「生ね。じゃあ――」
わたしは、テーブルの端に置かれた店員の呼び出しボタンに手を伸ばす。
生ひとつと、あさりの酒蒸しでも頼もうかしら――
「――まって」
わたしの指は、呼び出しボタンに触れるより先に、自分以外の力で止められた。
爪の先はもうボタンに触れそうだった。触れる寸前に、真正面から伸びてきた蓮子の手によって止められた。
「……なあに?」
わたしがボタンを押すのを諦めたのを察してから、彼女は握っていた私の指を離しながら言葉を紡ごうとした。
「メリー、私ね――」
その時。
カシャン。
腕を引いた彼女の肘が、更に置いていた箸を、落とした。
「ああ、箸も新しいのをもらわないと――」
「――いいの。大丈夫だから」
蓮子はそう言うと、腰を掛けていた椅子から降りて、しゃがみ、落とした箸を自ら拾い始めた。
こういう失敗をするのは珍しいと思いながら、視線だけ落として蓮子を見る。すると、わたしの足もとに、彼女の白い指が伸びてきて。
――ああ、箸の片方は、わたしの方まで転がってきていたのね。
わたしのつま先に落ちた一本を拾うと、彼女は立ち上がる。
鈍い照明の光が、目の前に立つ彼女の影によって、隠れて。顔を上げると、そこには座るわたしを見下ろす、友人の姿。
「――分かってるんでしょう」
そう一言だけ、口に出された。
「――そうね、私は、貴女の親友だものね」
「狡いわ」
「そっちこそ」
宇佐見蓮子はわたし以上にわたしを知っているし、
わたしは宇佐見蓮子以上に宇佐見蓮子を知っている。
立ち尽くしたまま、わたしをわたし以上に知っている彼女は、言葉を続ける。
「今回も駄目だったのよ」
「ええ」
「男の人だったからとかじゃない」
「そうね」
「私、メリーが好き」
最後の一言に対する相槌は、意識せず、出なかった。
立ち尽くす彼女が握り締める箸は、震えている。
アルコールのせいで赤く染まった目元には、決壊寸前の潤む瞳。
「ごめんなさい、メリー、でも私、ここまでして、今回も無理だったから。隠せなくて」
「分かってるくせに、って言ってたでしょう。隠せてないわよ、元から」
「性格、悪いのね」
「……貴女こそ」
何度も繰り返す。わたしと宇佐見蓮子は、互いを自分以上に知っている。
彼女がわたしを、親友以上に想っていることも。
結果いつかこうなることも。
分かっていた。見えていた。例え境界が見えずとも、月と星で計算せずとも。
「メリー、ねえ、でもね、でも――」
拾った箸を置いて、わたしの隣に座った蓮子の手は、箸の代わりに私の片手を握り締める。
「わたし、女よ」
「知ってるわ、蓮子が男だったら、困る」
「メリーも、女よ?」
「知ってる。私が男でも、困るわ」
「……ごめんなさい、気持ち悪いって、思ってるでしょう」
おおよそ、私の知る宇佐見蓮子という女は――ニヒルですまし顔が似合う数学者、なのだが――今ばかりはただの、愛らしい、少女に見えた。そこに、他意はなく。
「メリー、私だって、頑張ったのよ、でも、駄目だったの、何も感じなかったの、こんなものかって、」
「だから、それはね、それでいいじゃない」
「でも、私女に生まれてきてるの、おかしいじゃない、どうして――これじゃ、誰も――」
わたしに、その気がないのを蓮子は知っている。だからこそ、らしくもなく、子供の用にそんなふうに言う。
でもわたしは何故だかそれが、今まで見続けていた彼女の、どんな姿よりも愛らしく見えた。可憐な花、このまま見惚れていたいとも、水を与えなければとも、握ってこの手で壊してしまいたいとも、思った。
だから、次の瞬間には、
「私がいるじゃない」
彼女に握られていた手で逆に彼女の手首を掴んで、抱き寄せて、そんなセリフを口に出していた。
「――メリー、」
「――わたしが、いるわ」
いつもわたしが背中を追いかけて歩く彼女が、今はわたしの腕の中、胸に頭を預け抱かれている。
わたしは、彼女の親友で、それ以上ではあっても、そういう関係になるつもりはない。
それでも腕の中、どうしてかしら、こうなると嫌に心臓が騒ぎ出すもので。
最近までわたしの知らない男の元に行っていた親友が戻ってきたと思うと、それだけで独占欲が満たされて。安心して。可愛くて、優越感があって。
この時初めて、体が熱く、疼くという感情を知った。
男性とのキスで何も感じなかったと言ったばかりの彼女に口付けたいとは思わなかったけれど、せめて額になら、とか、
ああもう終電が近いわ、帰らなきゃ、帰さなきゃ、蓮子を帰したくないわ、でもここで帰さなかったらいけないような、よくわからない罪悪感が浮かんできたりして――。
大学の掲示板を一人見ていた時、あからさまな下心から声を掛けてきた同期だという男性の考えている最低なことも、今はなんとなく、分かってしまうような気がして、もう。
「――だから、いいじゃない。男のひととなにか、感じなくたって」
わたしがいる。わたしに、少しでも、なにか、なんて。
*
――わたしと、わたしの友人の話をします。
わたしと宇佐見蓮子は、この大学に通う同期であり、オカルトサークル秘封倶楽部のメンバーであり、誰より親しい友人である。
宇佐見蓮子はわたし以上にわたしを知っているし、
わたしは宇佐見蓮子以上に宇佐見蓮子を知っている。
あの呑み屋での一件のあと? ――ああ、あのあと。
そうね、あのあとね。ええ、それは、また、つぎのお話。あなたがまだ、その境界からわたしたちを見ていたら、きっといずれは知るお話。
――もっとも、その時は、わたしと、わたしの『友人』――という関係ではないかもしれないけれど――、
性別を分かつ境界なんて、今の私には、見えなかったわ。
>「知ってるわ、蓮子が男だったら、困る」
>「メリーも、女よ?」
>「知ってる。私が男でも、困るわ」
このセリフが好きです。
「男だとか女だとか関係ない私は『蓮子』だから好きなの」
というのではなく、
「あくまで『女』である蓮子」が好き」
メリーの気高いガチレズ力にゾクゾクします。
こういう感じのSSを、よければまた見たいです……。
ステキやん
書き足したか別ルートにした感じですかね、中盤以降。
それに、概要から察するに、この先があるとしても欝な話になりそう……。
でもって、この話、百合蓮子を、ノンケメリーが独占欲のままに振り回しているようにしか
自分には読めませんでした。
自分の読み方が足りないか、間違っているのかもしれませんが、あまり楽しいssではなかったですね。
そうか、こういうメタ的な見方もさせられるんだなぁ、となりました。
下品な感想ですが、とても、淫靡です