宇佐見蓮子が消えたのは、どうしてだろう。
『もしかしたら』
そんな不安が頭を垂れる。
秘封倶楽部という関係がある。
とある大学のオカルトサークル。秘密にしている封印を暴くだけの倶楽部。たった二人だけのサークル。ただそれだけの関係だけれど、それでも私にとってはなくてはならない関係だ。それくらいに重要で。それくらいには大切に想ってる。けれどそれは永遠じゃない。それくらいは知っている。でも、それでも、大人になったって、ずっといまみたいな関係でいられたら、って考えてしまう。無理かも知れない。
それでも、私はずっと蓮子と友達でいたいんだ。
◆
朝。
目が覚める。
寝惚け眼で辺りを見回すと、ふと違和感に気付く。
頭が痛かった。
そうだ。昨日は蓮子と二人で飲み会してたんだ。それで、二日酔いだ。いまは何時だろう。時計が指すのは十二時。もう昼だ。どうりで朝日が眩しすぎると思った。強烈な夏の日差し。汗が噴き出る。
違う。
そうじゃない。
この違和感は、そうじゃない。
蓮子は私よりも早く潰れた。私はそれを放置してしばらく飲んだ後、寝た。
ならば――この部屋には彼女がいるはずだ。
この部屋には宇佐見蓮子がいるはずなのだ。
ベッドの上。いない。
ガラステーブルの下。いない。
私のいた床。当然、いない。
テレビの裏なんかにいたら、それはそれで笑っていたけれど、それもやはり、いない。
シャワーの音なんかしない。
どこにもいなかった。
帰ったのかな?
と思って、携帯の画面を見る。
着信はない。メールもない。
まぁ、蓮子のことだ。大丈夫だろう、と思うと違和感も気にならなくなった。
立ち上がり、私は服を脱いだ。タオルと下着を取り出して、お風呂に向かう。シャワーを浴びれば、すっきりするだろう。そんな願いと、単純に汗が気持ち悪いのだ。
ふらふらとした危なっかしい足取り。昨日はどんだけ飲んだんだ。
脱衣所を開ける。下着を脱ぎ捨てる。扉を開ける。
いつもの、浴室。
なにも、変わりない。
中で蓮子が吐いてたり死んでたり、なんてことはない。何時もと、同じ。
だから、どうしてだろう。それが違和感だ。
何時もと同じだけれど、何時もと同じことが違和感なのだ。
それがどうしてなのかはわからないけれど。
熱いシャワーを浴びる。
頭が醒めていく。目も覚める。どろっとした粘液が、身体中から流れ落ちるような感じだ。心地よい感覚に目を細める。ボディソープを手に取り、タオルに出して、ゆっくりと泡立てる。何時もしている作業が、安心感を与えてくれる。
普段より時間をかけて身体を洗って、髪の毛を洗う。
シャワーが泡を流し、それが胸を伝って、腹を伝って、太ももを伝って、排水溝に吸い込まれていく。
シャワーを止めると、もうすっかり目は覚め切っていた。
バスタオルで身体を包んで、しっかり水を吸わせて、下着を身に着ける。脱衣所を出て、キッチンで、頭にタオルを巻いたまま、ゆったりと珈琲を淹れる。
テレビの前で座り込んで珈琲を啜れば、もう普段通りだ。
今日は幸い学校がないので安心。だが蓮子は心配だ。電話してみよう。起きているだろうか。
呼び出し音が耳に当てた携帯から響く。
程なくしてプッと音が鳴る。
「あ、もしもし蓮子。無事?」
『…………メリー』
酷くだるそうな声が聞こえる。
『無事じゃないわ……あたま、いた』
「あー、うん。二日酔いね。ごめんね」
『うん。いや、いいけど、なーに?』
「昨日何時帰ったのかなって」
『え、帰ってない……けど?』
「え?」
不意に、先ほどまでの違和感がのそりと首を擡げる。
昨日、蓮子は帰っていないと言った。でも、いま、蓮子はいないのだ。私の目の前には。
『それよりメリー、いまどこに行ってるの?』
「…………メリーの家、だけど?」
『かくれんぼしてるの?』
「そんなわけないじゃない」
『……だよねぇ……えっ、え、じゃあいまどこ?』
「テレビの前」
『私もそこ』
「え」
『え?』
◆
私が蓮子の住んでいるアパートに行ってみると、その部屋の表札は「宇佐見」ではなく「田中」だった。幾度となく足を運んでいるアパートの部屋を、私が見間違えることなんて絶対にないのだ。なのに、こうだ。一通りその階の部屋を見てみたが、宇佐見と言う苗字は見つけることができなかった。
学校に足を運んでみた。蓮子の所属している研究室を覗き込んで見る。そこに見えるのは、蓮子以外の誰かの背中。蓮子のゼミの教授に聞いてみた。
「宇佐見と言う学生はいませんか?」
と。教授は怪訝そうな顔をして、
「そんな子はいないけど……何? 怪談?」と言った。
私は「いえ、ちょっと間違っちゃったみたいで」みたいにお茶を濁す。礼をして研究室から飛び出した。
事務室で聞いてみようかと思ったけど、きっと意味がないだろう、と思った。
蓮子がいなくなってしまった。
多分。
向こうからすれば、私がいなくなったんだろうけど。
何が起きているのかはわからない。
でも。
私たちの道が、完全にわかれてしまったのは、わかった。
平行線上の世界。
二つ並んで、交わらない。
それでも。
私たちの持ってる携帯電話は、通じてる。
だから私は電話をかける。
「もしもし蓮子?」
『メリー?』
「こっちはなかったけど、そっちはどう?」
『私んち? あるよぉ』
「そう……」
『これってどうなんだろう……? やっぱり境界とか関わってるのかなぁ』
「それは、暗に私の所為だと言ってるように聞こえるんですけどー」
『あ、いや。そうじゃなくってね。ん、いや、でもそうか』
「ん、まあそうでしょうね。ごめんなさい。巻き込んじゃった」
『いいよ。だいたい、よくあることだし』
「そう言ってのけるのは蓮子だけよ」
『てへへ』
「褒めてない!」
『しかし。これ、どうするの?』
「しばらく放置してみましょう。何か異変でもあれば連絡頂戴」
『わかった。んじゃ、切るね。しかし、お互い講義入れてなくて助かったね』
「本当に、そうだわ」
通話を切って、ポケットにしまう。
――本当に。
学校があれば、必然、蓮子に会う。けれど、いま、蓮子はいない。
ならば私は、蓮子ではない誰かに会ってしまうことになるのだ。それはあの田中かもしれない。私はそんな人は知らないし、その人が蓮子の代わりになるだなんて思いたくなかった。
蓮子は向こうから連絡を入れられる。
私はこちらから連絡を入れることができる。
私たちの世界は平行線上だけど、携帯だけは通じてる。
おかしな状態だ。
奇妙な、状態だ。
どうしてこうなったのかは、さっぱりわからない。
いつもふらふらしてる(蓮子談)な私が言うのもなんだけど、まるでその何時もの私みたいだ。ふらふらしてて、あやふや。
ぐにゃぐにゃしてて、さっぱりだ。
この言い分も、さっぱりわからない。
でも、さっぱりわからないのは何時も通り。
原因の究明なんてできるわけがないのだ。私たちにできるのは、探索だけなのだから。
隠された境界を暴く。
ただそれだけなのだから。
私は大学を出ると、家に帰る。一直線に帰るつもり。そして寝てしまおう、なんて。
夢にしてしまえれば、どれだけ楽なのだろうか。
けれどここは、頬を抓ると痛い現実なのだ。
蓮子のいない、現実なのだ。
とりあえず。
わかるのはそれだけ。
認識できるのは、そこまで。
後は、きっとどうにかなるだろう。
今までもそうだったし、きっと、これからも。
いまは、家に帰ろう。
◆
夢。
そう。
夢だ。
――――夢を見る。
私は夢を見る。
私は夢の中で歩いている。
どこまでも広がるタールみたいな暗闇。
暗闇の中を、ひたすら真っ直ぐに歩いている。
どこに向かっているのかは知らない。
わからない。
音がする。
はぁ、はぁ、と。
荒い呼吸。
誰の。
いや、私のだ。
暗い。
一歩先さえ見えない中で。
呼吸が反響して、私の呼吸じゃないみたい。
まるで、私の後ろに誰かがいて、私のすぐ傍で、私のことを見てるんじゃないかって錯覚する。錯覚なのはわかってるんだけど、それでも――それでも、怖い。
知らない誰かが私の夢にいる。
もしかしたらそいつは知ってる奴なのかもしれないけれど、それはそれで、嫌だ。考えてみて欲しい。自分の知っている人が、自分の真後ろで声もかけずにひたすら呼吸を繰り返すのだ。怖い。怖い。もしもそれが宇佐見蓮子だったとしても、その恐怖は尋常ではない。
私は歩く。
私は歩く。
ひたすらに歩く。
暗闇から抜け出したい一心で、しっかりとした足取りで、歩く。
自分では、しっかりしていると思っていても、その実足取りは不鮮明かもしれない。
そんなことはわからない。
ゆっくり、ゆっくり。けれど、前へは確実に進んでいる。
光が見えた。
そう。
あれが出口だ、と確信した。
足の回転が速くなる。
走っているのだ。
私は光を求めた。
そうだ。
私はその光に宇佐見蓮子の存在を見たのだ。
別れてしまった宇佐見蓮子の存在を。
私は光に向かって走り、その中へ飛び込んだ。
そこに、蓮子がいると思って。
駆けた。
全力で。
そうすれば、届くと思って。
私は手を伸ばした。
光に向かって、精一杯に手を伸ばした。
掴む。
光はまるで扉で、私はそれをこじ開ける。
溢れる。
暗闇が晴れる。
音が聞こえる。
そして、蓮子は確かにそこにいた。
「ん? 誰? メリー? あー、ちょっと待って直ぐ終わるから…………って、え、ちょっとメリーなんか若くない? あれ? メリー? え、うそ!? 大学生メリーだ! うわ、ちょ、え、懐かしい! ってか若っ! 当て付けか!」
ちょっと喧しい。
見た目三十代の宇佐見蓮子がそこにいた。
…………………………………………………………………………………………へっ!?
◆
「懐かしいわぁ。秘封倶楽部とかやってた時じゃないの。え、なに? 元気、そっちの私」
「え、うん。まあ元気だと思う……」
「そっかそっか。もう十年も前だかんねー。いろいろさっぱり忘れちゃってるわ。うん。元気ならいいわ」
ずず、と出してもらった珈琲を啜る。
いや。
いやいやいや。
いやいやいやいやいやいや。
意味がわからない。トンネルを抜けたら雪国でしたどころじゃない。トンネルを抜けたら大人の蓮子がいて、何故か私は蓮子のオフィスらしきところでテーブルを挟んでお茶してる。どこか面接めいている感じ。ふかふかのソファにおっきなテーブル。貧乏学生してた蓮子とは比較にならないくらい、綺麗でしっかりとしている。
そして、そんなことはどうでもいい。
そのくらい意味がわからない。
どうしてこうなったのか。その意味さえわからない。確かに、私は地に足が着いてないようだけど、それでも行ったことがあるのは筍掘りとか衛星とか夢幻の世界だ。けれど未来ってのは想像してなかった。想像以上に、いまとあまり変わらなかったけれど。
「しっかしまあ、過去のメリーかぁ……やだなあ。若いなあ。あの頃を思い出して寂しくなっちゃう」
「なっちゃう、とか見た目に合わなくて……ちょっと」
「…………やだ、若さって怖いわ」
「やかましい」
目の前の蓮子は少しシワが増えているように見えた。勿論化粧でしっかりカバーしてる。蓮子とは全然違った存在に見える。キャリアウーマンみたいに見える。服装もまた。種族;OLと表記してもいいくらいに、そのままを体現している。
だから、想像もつかない。
あの自由奔放な蓮子が、きっちりかっちり嵌った歯車になっていることが。
「え、でもメリー。どうしてこんなとこに?」
「それは私が知りたいんだけど……」
蓮子はいつもの口調と変わらない。
変わらないから、違和感も覚えない。
ああ、ここは未来なのだ、と漠然に思ってしまう。
「うーん。まあそうか……んでも、私もあの頃とは違うしねぇ……いまオカルト知識を出せと言われても、むぅ」
「だろうとは思ってたけどさ」
「失礼な。これでもまだ若いわ」
「でも私よりか十は上よ」
「ちくしょう若さに殺される」
でも、それがどうしようもない違和感を私に燻らせる。どうして、どうしてこうなったのか? オフィスの隅の観葉植物は応えない。
「……心当たりとかないの? メリー」
ほら、そう言って。
何時ものように、心配そうに覗き込んでくる。
でも、違うのよ。決定的に。
「……私の過去で、あなたが消えたのよ。蓮子」
「………………へぇ!?」
「うん、いや、消えてないかもしれないけれど、でも少なくとも目の前からは消えたわね。私たちを繋ぐのは電話だけよ」
「それなんてロマンチック」
「うっさいわ」
「メリーが冷たいわ。いったい何時からこんなになったんでしょう……」
「昔からだわ」
「私の知ってるメリーじゃない……」
いじけだした蓮子を放って、私は思考を繰り返す。
蓮子は知らなかった。
少なくとも、私にはそう見えた。この宇佐見蓮子の記憶の中では、確かに私たちが秘封倶楽部を作ってた、という記憶はあるのだ。けれど私が体験しているこの、奇妙な事件については心当たりがない。
この時点で、多分きっとこの蓮子は私の知っている宇佐見蓮子ではない。
それでも、どうしようもなく、私の知っている蓮子なのだけれど。
例えば、そう、まるで古いSF映画だ。タイムスリップした男が過去へ帰ろうとする、そんな在り来たりのSF映画。
いまの状況は、それに似ている気がしないでもない。
帰りたいの確かだけど、私のいる場所からいなくなった蓮子を見つけたいのだ。
「メリー。メリーさーん。羊さーん」
「だれが羊か」
「髪の毛とかもふもふしてるし」
「刈るの!?」
「やだメリーったら冗談よ」
「やだこわい」
「ところでメリー。その、メリーのいた過去の私って、本当に消えたの?」
「え、うん。痕跡もなく、綺麗さっぱり。蓮子の家の表札は田中さんになってたわ」
「ふうん……でも私にはそんな記憶はないわ」
「でもこれは事実よ」
「そうなんだろうね」
蓮子は珈琲を啜る。落ち着いてる。まるで蓮子じゃないみたいに。だからだろう。私には違和感しか持てない。それはそうだ。十年も経てば人は変わるのだ。
彼女は、蓮子は、蓮子のままで変わってないつもりなのだろうが、しかし私から見れば彼女は別人だ。同じ名前の、同じ姓の――――他人に見える。
別人だ。
彼女は、私の知ってる蓮子では、ない。
「とにかく、メリーはそれをどうにかしたいってわけね」
「概ね、というか、その通りなのだけど……」
「なにをすればいいのかわからないってとこね」
「よくわかってらっしゃる」
「だってメリーですもの」
「……そう」
「それに。なにをすればいいかなんて決まってるわ」
「なによ」
「何時も通り」
と、蓮子は天井を見やる。そこにどんな意味があるのかは、わからない。ただ、なにか考えてるだけ。
それだけは、わかる。
それだけじゃ、わからない。
「――――何時も通り」
蓮子はもう一度呟く。
「何時も通り?」
「そう――」
そうして蓮子にやりと笑う。
まるで、
そう、まるで私の知っている蓮子のような、自信に満ちた笑顔。
他人に見えるけれど、それは紛れもなく私の知っている顔だった。
「私たちは秘封倶楽部なのだから」
と、蓮子は言う。
――――――あ、え、ちょっと、なんか視界が薄くなっていってるんだけど。
唐突に。それは起こる。
私の意識が、ここから消える。それがわかる。
だがそれは、いまここで聞くべきことが聞けたからだ。
「境界を暴く。ただそれだけで、いいのだから」
――そっか。
それだけだ。
何時も通り。
これは、秘封倶楽部の活動なのだ。
「ねえ、蓮子」
「ん。なに?」
「私と一緒にいて、良かったと思う?」
何時も通りだから、私はそんなことも聞いてしまえる。
「私はね――――」
そして、私の意識は完全に消えた。
◆
最初に聞こえたのは電話の呼び出し音だ。
私の耳元で鳴っている。
ベッドから身を起こす。布団を剥がす。携帯を手に取る。宇佐見蓮子の名前。
「おぁようれんこ」
『おおぅ……おはようメリー。随分眠そうね』
「さっき起きたばっかりよ」
『そうなの?』
「ええ」
『こっちはまだ一日も経ってないわ』
「なにそれこわい」
『電話しても出ないんですもの。こっちが怖いわ』
「寝てたからね。変な夢を見たの」
『何時も通りじゃないの?』
「うん。でもね。OLみたいになっちゃった蓮子を見たの」
『うぇ、まじで?』
「まじで。全然変わらないのね」
『そっか。んで、その夢でメリーはどうだった?』
「んん。私は見当たらなかったわ」
『ふうん。ま、それも一つの可能性よね』
「…………そうね」
『およ、もしかしてメリーは私との関係を保ったまま生きたい?』
「そりゃそうよ」
『だね。私だってそうだよ』
「うん」
『ところで。その夢って、なんか妙な感じとかしない? ほら筍とって来たときみたいにさ』
「さっぱりわからないわー」
『やっぱメリーって当てにならないわー』
「ばかにしてる?」
『ううん。何時も通りって意味』
「どう言う意味よそれ!?」
『そのまんま。曖昧であやふやなのよ。それはいいとして、そっかー。なんもなしかー。こっちもなんにも』
「そんなもんでしょうよ。ただでさえ意味がわからないのに」
『ま、いいじゃない。たまには。この状況を楽しみましょうよ』
「どうやって」
『新鮮でしょ』
「まぁね」
『ん。それじゃ、引き続き適当に。と言っても私は境界なんてけったいなもん、見られやしないんだけどね』
「はい、それじゃ、また」
電子音。
通話終了。
どうしようか。
なにもやることがないんだ。
夢。
奇妙な夢。
夢の続き。
寝たら、直前見ていた夢の続きが見られるって話がある。
なら、寝たらいまの状況を解決できるのでは?
などと戯言を思う。けれど、それくらいしかないことも事実ではある。私が夢現の境界を彷徨うのは主に寝てるときだし、それはまあ夢と勘違いする程である。
なので寝る。
それでいいの。
だってこの世界は蓮子がいないのだから。
◆
「あら」
暗闇のトンネルを潜り抜けた私の目の前に出てきたのは白衣に眼鏡の蓮子だった。やたらと似合ってるのは理系だから? 関係ないかな。
「メリーじゃない。あれ? なんか若返ってる?」
「まあ大学生だし」
「大学生!? 若っ!」
手に持った紙コップからコーヒーを零さないように必死で動揺を抑える蓮子がいた。あ、コーヒー零した。
「あっ、っつい。もう驚かさないでよ……」
「うわ、反応が同じだ」
ふーふー、と手に息を吹きかけながら、蓮子はハンカチで手を拭く。涙目で、余程熱かったろうに。蓮子だ。
「うん。まあいいや」
いいのかな?
「いいのだよメリー君。とりあえず座ったらいいよ」
と蓮子はやたらと安っぽいパイプ椅子を指差す。素直に座ることにする。
正面を向いて両手を膝に置いて背筋を正してみると、まるで面接に来たみたいだ。
やっぱり蓮子は、私の知ってる蓮子よりも年嵩だ。
けれど、私の知ってる蓮子なのだ、やっぱり。
どっこいしょ、なんて年寄り臭いことを呟きながら蓮子は正面の椅子に座る。ぐーっとコーヒーを飲み干し、床に置く
「昔からメリーって地に着いてなかったけど、これは予想外だわ」
「私だって予想外だったわ」
「んでさ、どうしてこうなったの?」
即座に突っ込んできた。蓮子ってそんなだったっけ? いや、でもたまにストレートに問題に頭を突っ込んできたことがあったっけ。
「説明が難しいんだけどね……目が覚めると、蓮子との、これは私と同年代の蓮子なんだけど、それが私の部屋にいなかったのよ」
「ん? 一緒の部屋にいたの?」
「ええ、吞んでたの」
「大学生がそれでいいのか……いや、私もだけど」
「いいのよ。それでね、蓮子がいなくて、家に帰ったのかなって思ったんだけど、そうでもなかったのよ」
「どゆこと?」
「蓮子から電話がかかってきて、そしたら蓮子、まだ私の家の、私と同じ場所にいるんだって。それで蓮子の家に行ってみたんだけど、表札が全く違う人だったのよ」
「あら私消えたの」
「うん」
蓮子は考えるように顎に手を当てる。
冷めたコーヒーを一気に飲み干し、紙コップをゴミ箱に放り投げる。かつん、と縁に当たって床に転がった。
「ねえメリー。境界の向こう側には別の世界があるのよ」
なんて、言った。
よくわからないことを蓮子は言う。
それは確かにその通りだろうとは思う。
思うのだけれど、それを知る蓮子は一体なんなのか。
「私ね、ずっと境界の研究を続けてきたんだ」
と、私の知らない蓮子は、私を知っている風に言う。
「メリーの原因を調べたかったから」
ご都合のようなことを言う。
まるで夢のように。
と、言うか、これは夢だった。
ならばこれは、きっと私の願望で都合のいい解釈。
夢幻の――夢現の世界だ。
「例えば宇佐見蓮子と言う少女がいるとする」
少女とは呼べない年齢だけれども。
「その少女には幾つもの可能性があるとする。なら、あなたが会ってるこの私は」
それはきっと未来の可能性ってもので。
でも本当にそうなのだろうか?
「わからないけどね。境界が未来に繋がってるかどうかなんてさ」
それが本当にそうなのか、段々わからなくなってくる。
それが願望でないとどうして判断できるのか。
――――私は、蓮子に助けてもらいたいのか。
それさえも、わからなくなってくる。
「ねえ、蓮子」
「ん。なに?」
「私と一緒にいて、良かったと思う?」
わからないから、私はそんなことを聞いてしまう。
「私はね――――」
くすりと笑って彼女は言った。
◆
科学者の蓮子に会った。教授の蓮子に会った。ニートの蓮子に会った。会社員の蓮子に会った。ホームレスの蓮子に会った。ガソリンスタンド店員の蓮子に会った。コンビニ店長の蓮子に会った。研究員の蓮子に会った。走り屋の蓮子に会った。探険家の蓮子に会った。 旅人の蓮子に会った。吞んだくれの蓮子に会った。世紀末覇者の蓮子に会った。ニンジャの蓮子に会った。魔法使いの蓮子に会った。剣士の蓮子に会った。自衛隊の蓮子に会った。人間じゃない蓮子に会った。人間じゃなくなった蓮子に会った。探偵の蓮子に会った。不老不死の蓮子に会った。英雄の蓮子に会った。宇宙飛行士の蓮子に会った。ヒットマンの蓮子に会った。殺されかけたあいつこわい。
etc…
◆
様々な蓮子を見た。
蓮子だけを見た。
それだけだった。
蓮子しか見なかった。
私はいなかった。
私は見なかった。
私を見なかった。
私はどこにもいない。
蓮子しか、見えなかった。
それは、
それは私にとって、どうしようのない恐怖だ。
けれど、
けれど、蓮子は覚えてた。
そのどれも全然違う未来の蓮子だけれど、それでも私のことを覚えてた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
だから私はこの状況を夢だと仮定する。都合のいい、夢。私の、夢。けれどここからの脱出方法は、わからないのだ。
歩いたってかわらない。
「しかしまあメリーさんや」
「…………」
「あれ? おーい。メリー?」
「なんでよ」
「うぇ?」
「なんであなたがいるの」
「はーっはっはっ、私が魔法使いの宇佐見蓮子さんだからさ!!」
「ふーん」
「……メリーが冷たい」
何故かいる魔法使いの蓮子。
私の部屋でいじけてる。さて、この状況はなんだろう。繋がらない。さっぱりだ。整合性がとれない。意味がわからない。でもそんなことはどうでもいい。ようはいま、私に彼女がどんな影響を与えるか、だ。
いやまあ筍とか持ってきちゃってたりしたこともあったけどさ。でも人間持ってきちゃったのは初めてよ。やだー。
って電話が。
このタイミングで蓮子!?
「ええと……」
「出れば?」
「う、ええ、まじで? この状況で? なにそれ」
タイミングおかしいじゃない。こわいわ。なにそれ。
言いながらも手は動く。
通話状態へ。
「も、もしもしっ?」
『あ、もしもしメリー』
「……蓮子」
『いやさ、何回も電話したのにメリーったら出てくれないの。どーしたの? 寝てた?』
「そうなのだけど……何回ってどのくらい?」
『三十回くらい?』
「こわっ! ストーカーか!?」
『冗談よ』
「冗談っぽくないから怖いわ」
くすくす、と電話の向こうから笑い声。多分なにも進行していないだろうけど、それが逆に安心する。何時も通りなんだってわかるから。やっぱり蓮子は、離れていても蓮子なんだ。だからこうして、何時ものように接するのだ。
「ちょっと」
と魔法使い蓮子が言う。
「貸してよ」
「え、でも」
渡してしまっていいのだろうか。
過去の蓮子が、この蓮子と話してなにか影響はないだろうか?
わからない。
わからないけれど。
それでも、この蓮子(魔法使い)がいるってことはなにか意味があるということで。
ならばそれで、なにか進行するのかもしれない。
そんな安易な思考で渡してしまう。
そして、私の携帯を持って、耳に当てる。魔法使い蓮子はにやりと笑う。
「ねえ」
そしてその言葉を口にする。
「あなた、誰よ」
◆
宇佐見蓮子と出会ったのは、確か大学に入ってすぐだったように思う。
そこまで昔じゃないはずなのに、もう随分昔のように思う。
それだけ長い時間一緒にいたのだ、と思うと感慨深い。
思い出すのは、そうだ。初対面のときだ。蓮子は私を見て、一目で異常性を看破した。
境界を見る目だ。
小中高と、ずっと、親からさえも奇異な目で見られてきたし、だからこそ隠してきたそれを。
それに、彼女は気付いたのだ。
気付いたのは、蓮子だけだった。たまたま二人だけになった講義室で言われた。はぐらかしてみたけど、彼女に真正面から見詰められると、そんなことをする気もなくなった。自分の目のことも言ってくれた。気持ち悪いって言われた。冗談めかして。私も同じように返してみた。酷く傷ついた顔をされた。私も傷つく。
そんなことが切欠で一緒にご飯を食べた。
そんなことが切欠で――
◆
目が覚めると何時も通り/何時もと違う。
ベッドの上。朝早く。
隣に蓮子が寝てる/未だ蓮子はいない。
魔法使いの蓮子はいる/秘封倶楽部の蓮子がいない。
蓮子は――いない。
居て欲しい人がいない。
いないから、携帯に手を伸ばす。着信履歴から宇佐見蓮子を選択。呼び出し音。出ない。
宇佐見蓮子は電話に出ない。
あれから、蓮子からの電話はない。電話しても、出ない。
なにかぽっかり穴が開いたみたいに。
蓮子は電話に出ない。
かけてくることもない。
なにをすることもなくなってしまう。考えるとこを放棄してしまう。
それが依存と言うことはわかっているのだけれど。
私にとって、宇佐見蓮子は、そう、まるで魔法使いのような存在だ。私を連れ出して、使い道のないこの目を存分に使ってくれる。道を示してくれた。それだから、私は蓮子に寄っていく。行ってしまう。
蓮子は一人では生きていけるけれど、
メリーは一人では生きられないのだ。
そんな考えが頭を過ぎる。
仕方がないじゃないか。どうしようもないんだから。
「……メリー?」
「あ、起きた」
しばらくして、魔法使い蓮子が起き上がる。まるで、私の知っている蓮子みたい。歳も変わらないように見える。
「起こしてくれなかったの?」
「寝顔を見てたのよ」
「あらそう」
「うん」
魔法使いと私は彼女を呼称するけれど、実は私は彼女が魔法を使うだなんて光景を、ただの一度も見ていない。けれど彼女がそう名乗っているし、私もそう思っているのだ。
「ねえ蓮子」
「なに?」
「あなたは、蓮子なの?」
「そうだよ。メリーの蓮子」
「私の、蓮子なんだ」
「そう。メリーを連れ出す蓮子さんだよ」
「そっか、じゃああなたは蓮子じゃないんだ」
「正解」
違和感は最初から。
蓮子がいない時点で。
摩訶不思議な世界なら、そこは夢だろう。私は寝てばっかりだった。
けれど、
そこに不都合は存在しなかった。
そこに不具合は存在しなかった。
ならば、それは夢なのだ。お腹は減らないし、学校に行かなくたっていい、夢なのだ。
私は、夢を見ているのだ。
「でも、どうして?」
「安心したかったのよ」
「安心?」
「そ。メリーは安心したかったの。だって、言葉に出すと、絶対、なんてことはありえなくなっちゃうからね」
――――――聞くのが怖いのよ。
と、蓮子はくすりと笑う。
ぱりん。
と、硝子が砕ける音が響く。
部屋がひび割れる。世界が崩れる。ベッドの上で、二人。静かに座ってる。
「安心は、できた?」
「わからない。でも、そうだって確信は持てたかも」
「ならそれを捨てるべきよ。確信なんて何時も間違ってるわ」
「でも信じたいのよ」
「ならいいよ」
蓮子は笑う。
優しく笑う。
私の知らない宇佐見蓮子は、
私の知っている笑顔で笑う。
真っ黒な世界の、
真っ白なベッドの上で、
宇佐見蓮子は私を抱き締める。
「もう自分で慰めるのはよそうよ」
「でも」
「でも、でもないよ。そろそろ歩こう」
でも、と私は繰り返す。だって仕方がないじゃないか。その言葉を口にして、その言葉を否定されたらどうしたらいいのだろう。私には思いつかない。きっと真っ白になってしまう。心も、身体も。溶けて消えてしまいたくなって、事実その通りになるだろう。
でも、彼女は聞けと言うのだ。
前に歩けと言うのだ。
それは、
それは、
苦行に等しい。私は、できることなら、このままで。
「このままでなんていられないよ」
けれどその通りなのだろう。
そう。
宇佐見蓮子の言うとおりなのだ。
「だから魔法を掛けてあげる」
「え」
「だから、私は魔法使いの宇佐見蓮子なんだって」
「どんな魔法を?」
「こんな魔法を」
すぅっと、蓮子は息を吸い込んだ。そして吐き出す。深呼吸。
「…………メリー、私と一緒に行こう」
あ、と思った。真っ黒な世界に光が差し込んだ気がした。私は呆然としてしまう。その言葉に。懐かしい言葉に。衝撃に、頭をやられてしまう。だめだ。だめだよ。そんな言葉を聴いたら、私は行かなくちゃいけなくなる。歩き出さなくちゃいけなくなる。
だから、私は歩き出す前に聞くのだ。
「ねえ」
「なに?」
「あなたは、誰なの?」
蓮子は笑って、
「私は、あなたよ」
と、言ったのだ。
金髪の少女が、言ったのだ。
◆
「メリー、メリー起きろー」
「………………ん」
「あ、メリー起きた」
「んぇ」
最初に目に入ったのは、蓮子の――私の知っている蓮子の顔だった。私はベッドの上で見上げている。電灯の明かりが目に染みた。
何故か身体がだるい。
やたらと、眠かった。
「おはよ、メリー」
「…………おはよう蓮子」
「全く寝ぼすけさんだねメリーは」
「うん?」
「三日ぶりの朝よ」
「三日…………?」
「三日。随分寝てたわね……いや、三日じゃないかもしれないけど。ずっと連絡取れないんだもの。ついさっき来て、ようやくわかったのよ。あんた寝てたのね」
「うー。うん、まあそうかな」
などと納得してみる。別に、いまに始まったことじゃないし。こう言うことは稀によくあるのだ。私にとっては。
「まったくもう、心配させないでよ……」
蓮子は心底安心したように笑う。気が抜けたみたいに。思えば蓮子は立ち上がっていない。私のベッドに腰を下ろしている。蓮子は恥ずかしそうに「腰が抜けちゃった。……何度遭遇しても慣れないや」と笑った。
沈黙が少し。
ふぅ、と深呼吸。
蓮子が向き直る。
「んでさ、今度はどこに行ってたの?」
「なによ?」
「また夢で筍でもとりに行ってた?」
「ああ」
うん。
でもね蓮子。それは今回は言えないや。
「特に」
「ふぅん」
けれど蓮子はなにも言わなかった。
「ねぇ、蓮子」
「なに?」
「え、とね」
「うん」
「あのさ」
「うん」
「大学を卒業してもさ」
「うん」
「私と一緒にいてくれる?」
「それはちょっと――約束できないよ?」
「それも、そうよね」
「これからを考えるとさ、絶対に時間、少なくなるじゃん」
「ま、就職とかあるしね」
「そうそう。だから約束できないけど、でも連絡くらいは取りたいじゃん」
「うん」
「だからまぁ、メリーはさ、卒業しても一番の友達」
と、蓮子は誇らしげに笑った。
「……そうね」
と、私は笑った。
安心した。蓮子は私を覚えてるし、私は蓮子を覚えてる。
それだけでいいのだ。
「ほら、外に行こうよ。メリー、ご飯食べに行きましょう。お腹ぺこぺこでしょうに」
「……うん、行こう。…………っていうかこう言うシチュエーションなら、料理して待ってるのが普通じゃない?」
「メリーの冷蔵庫、なにもないじゃない。私だって、研究室にカンヅメでようやく終わったのに、材料買って来るなんて……」
蓮子は腕をぷるぷると振るわせる。キーボードを叩きすぎて疲労困憊のようだ。
「無茶に決まってるわ!」
「そうね」
「んじゃまあ、メリーが目覚めた記念&私の研究が一段落した記念にどっか行きましょうよ!」
私の手に伝わる温もり。
私の手を掴んで、何時だって蓮子は引っ張っていく。
そんな蓮子だから、一緒にいたいって思ったの。
でも、だから。
すっと、私は先に出る。
玄関を、蓮子よりも先に潜る。
きょとんとした顔で、蓮子は小さく笑った。
「ねえ! 蓮子!!」
「ん。なーに?」
「私と一緒にいて、良かったと思う?」
手を繋いで、走りながら、私はそんなことを聞いてしまう。
直接、いまの蓮子に聞くのは恥ずかしいけど、それでも、
それでも聞きたかったのだ。
蓮子は少し顔を赤くして、
「私はね――――――」
と、蓮子は笑って言ったのだ。
了
『もしかしたら』
そんな不安が頭を垂れる。
秘封倶楽部という関係がある。
とある大学のオカルトサークル。秘密にしている封印を暴くだけの倶楽部。たった二人だけのサークル。ただそれだけの関係だけれど、それでも私にとってはなくてはならない関係だ。それくらいに重要で。それくらいには大切に想ってる。けれどそれは永遠じゃない。それくらいは知っている。でも、それでも、大人になったって、ずっといまみたいな関係でいられたら、って考えてしまう。無理かも知れない。
それでも、私はずっと蓮子と友達でいたいんだ。
◆
朝。
目が覚める。
寝惚け眼で辺りを見回すと、ふと違和感に気付く。
頭が痛かった。
そうだ。昨日は蓮子と二人で飲み会してたんだ。それで、二日酔いだ。いまは何時だろう。時計が指すのは十二時。もう昼だ。どうりで朝日が眩しすぎると思った。強烈な夏の日差し。汗が噴き出る。
違う。
そうじゃない。
この違和感は、そうじゃない。
蓮子は私よりも早く潰れた。私はそれを放置してしばらく飲んだ後、寝た。
ならば――この部屋には彼女がいるはずだ。
この部屋には宇佐見蓮子がいるはずなのだ。
ベッドの上。いない。
ガラステーブルの下。いない。
私のいた床。当然、いない。
テレビの裏なんかにいたら、それはそれで笑っていたけれど、それもやはり、いない。
シャワーの音なんかしない。
どこにもいなかった。
帰ったのかな?
と思って、携帯の画面を見る。
着信はない。メールもない。
まぁ、蓮子のことだ。大丈夫だろう、と思うと違和感も気にならなくなった。
立ち上がり、私は服を脱いだ。タオルと下着を取り出して、お風呂に向かう。シャワーを浴びれば、すっきりするだろう。そんな願いと、単純に汗が気持ち悪いのだ。
ふらふらとした危なっかしい足取り。昨日はどんだけ飲んだんだ。
脱衣所を開ける。下着を脱ぎ捨てる。扉を開ける。
いつもの、浴室。
なにも、変わりない。
中で蓮子が吐いてたり死んでたり、なんてことはない。何時もと、同じ。
だから、どうしてだろう。それが違和感だ。
何時もと同じだけれど、何時もと同じことが違和感なのだ。
それがどうしてなのかはわからないけれど。
熱いシャワーを浴びる。
頭が醒めていく。目も覚める。どろっとした粘液が、身体中から流れ落ちるような感じだ。心地よい感覚に目を細める。ボディソープを手に取り、タオルに出して、ゆっくりと泡立てる。何時もしている作業が、安心感を与えてくれる。
普段より時間をかけて身体を洗って、髪の毛を洗う。
シャワーが泡を流し、それが胸を伝って、腹を伝って、太ももを伝って、排水溝に吸い込まれていく。
シャワーを止めると、もうすっかり目は覚め切っていた。
バスタオルで身体を包んで、しっかり水を吸わせて、下着を身に着ける。脱衣所を出て、キッチンで、頭にタオルを巻いたまま、ゆったりと珈琲を淹れる。
テレビの前で座り込んで珈琲を啜れば、もう普段通りだ。
今日は幸い学校がないので安心。だが蓮子は心配だ。電話してみよう。起きているだろうか。
呼び出し音が耳に当てた携帯から響く。
程なくしてプッと音が鳴る。
「あ、もしもし蓮子。無事?」
『…………メリー』
酷くだるそうな声が聞こえる。
『無事じゃないわ……あたま、いた』
「あー、うん。二日酔いね。ごめんね」
『うん。いや、いいけど、なーに?』
「昨日何時帰ったのかなって」
『え、帰ってない……けど?』
「え?」
不意に、先ほどまでの違和感がのそりと首を擡げる。
昨日、蓮子は帰っていないと言った。でも、いま、蓮子はいないのだ。私の目の前には。
『それよりメリー、いまどこに行ってるの?』
「…………メリーの家、だけど?」
『かくれんぼしてるの?』
「そんなわけないじゃない」
『……だよねぇ……えっ、え、じゃあいまどこ?』
「テレビの前」
『私もそこ』
「え」
『え?』
◆
私が蓮子の住んでいるアパートに行ってみると、その部屋の表札は「宇佐見」ではなく「田中」だった。幾度となく足を運んでいるアパートの部屋を、私が見間違えることなんて絶対にないのだ。なのに、こうだ。一通りその階の部屋を見てみたが、宇佐見と言う苗字は見つけることができなかった。
学校に足を運んでみた。蓮子の所属している研究室を覗き込んで見る。そこに見えるのは、蓮子以外の誰かの背中。蓮子のゼミの教授に聞いてみた。
「宇佐見と言う学生はいませんか?」
と。教授は怪訝そうな顔をして、
「そんな子はいないけど……何? 怪談?」と言った。
私は「いえ、ちょっと間違っちゃったみたいで」みたいにお茶を濁す。礼をして研究室から飛び出した。
事務室で聞いてみようかと思ったけど、きっと意味がないだろう、と思った。
蓮子がいなくなってしまった。
多分。
向こうからすれば、私がいなくなったんだろうけど。
何が起きているのかはわからない。
でも。
私たちの道が、完全にわかれてしまったのは、わかった。
平行線上の世界。
二つ並んで、交わらない。
それでも。
私たちの持ってる携帯電話は、通じてる。
だから私は電話をかける。
「もしもし蓮子?」
『メリー?』
「こっちはなかったけど、そっちはどう?」
『私んち? あるよぉ』
「そう……」
『これってどうなんだろう……? やっぱり境界とか関わってるのかなぁ』
「それは、暗に私の所為だと言ってるように聞こえるんですけどー」
『あ、いや。そうじゃなくってね。ん、いや、でもそうか』
「ん、まあそうでしょうね。ごめんなさい。巻き込んじゃった」
『いいよ。だいたい、よくあることだし』
「そう言ってのけるのは蓮子だけよ」
『てへへ』
「褒めてない!」
『しかし。これ、どうするの?』
「しばらく放置してみましょう。何か異変でもあれば連絡頂戴」
『わかった。んじゃ、切るね。しかし、お互い講義入れてなくて助かったね』
「本当に、そうだわ」
通話を切って、ポケットにしまう。
――本当に。
学校があれば、必然、蓮子に会う。けれど、いま、蓮子はいない。
ならば私は、蓮子ではない誰かに会ってしまうことになるのだ。それはあの田中かもしれない。私はそんな人は知らないし、その人が蓮子の代わりになるだなんて思いたくなかった。
蓮子は向こうから連絡を入れられる。
私はこちらから連絡を入れることができる。
私たちの世界は平行線上だけど、携帯だけは通じてる。
おかしな状態だ。
奇妙な、状態だ。
どうしてこうなったのかは、さっぱりわからない。
いつもふらふらしてる(蓮子談)な私が言うのもなんだけど、まるでその何時もの私みたいだ。ふらふらしてて、あやふや。
ぐにゃぐにゃしてて、さっぱりだ。
この言い分も、さっぱりわからない。
でも、さっぱりわからないのは何時も通り。
原因の究明なんてできるわけがないのだ。私たちにできるのは、探索だけなのだから。
隠された境界を暴く。
ただそれだけなのだから。
私は大学を出ると、家に帰る。一直線に帰るつもり。そして寝てしまおう、なんて。
夢にしてしまえれば、どれだけ楽なのだろうか。
けれどここは、頬を抓ると痛い現実なのだ。
蓮子のいない、現実なのだ。
とりあえず。
わかるのはそれだけ。
認識できるのは、そこまで。
後は、きっとどうにかなるだろう。
今までもそうだったし、きっと、これからも。
いまは、家に帰ろう。
◆
夢。
そう。
夢だ。
――――夢を見る。
私は夢を見る。
私は夢の中で歩いている。
どこまでも広がるタールみたいな暗闇。
暗闇の中を、ひたすら真っ直ぐに歩いている。
どこに向かっているのかは知らない。
わからない。
音がする。
はぁ、はぁ、と。
荒い呼吸。
誰の。
いや、私のだ。
暗い。
一歩先さえ見えない中で。
呼吸が反響して、私の呼吸じゃないみたい。
まるで、私の後ろに誰かがいて、私のすぐ傍で、私のことを見てるんじゃないかって錯覚する。錯覚なのはわかってるんだけど、それでも――それでも、怖い。
知らない誰かが私の夢にいる。
もしかしたらそいつは知ってる奴なのかもしれないけれど、それはそれで、嫌だ。考えてみて欲しい。自分の知っている人が、自分の真後ろで声もかけずにひたすら呼吸を繰り返すのだ。怖い。怖い。もしもそれが宇佐見蓮子だったとしても、その恐怖は尋常ではない。
私は歩く。
私は歩く。
ひたすらに歩く。
暗闇から抜け出したい一心で、しっかりとした足取りで、歩く。
自分では、しっかりしていると思っていても、その実足取りは不鮮明かもしれない。
そんなことはわからない。
ゆっくり、ゆっくり。けれど、前へは確実に進んでいる。
光が見えた。
そう。
あれが出口だ、と確信した。
足の回転が速くなる。
走っているのだ。
私は光を求めた。
そうだ。
私はその光に宇佐見蓮子の存在を見たのだ。
別れてしまった宇佐見蓮子の存在を。
私は光に向かって走り、その中へ飛び込んだ。
そこに、蓮子がいると思って。
駆けた。
全力で。
そうすれば、届くと思って。
私は手を伸ばした。
光に向かって、精一杯に手を伸ばした。
掴む。
光はまるで扉で、私はそれをこじ開ける。
溢れる。
暗闇が晴れる。
音が聞こえる。
そして、蓮子は確かにそこにいた。
「ん? 誰? メリー? あー、ちょっと待って直ぐ終わるから…………って、え、ちょっとメリーなんか若くない? あれ? メリー? え、うそ!? 大学生メリーだ! うわ、ちょ、え、懐かしい! ってか若っ! 当て付けか!」
ちょっと喧しい。
見た目三十代の宇佐見蓮子がそこにいた。
…………………………………………………………………………………………へっ!?
◆
「懐かしいわぁ。秘封倶楽部とかやってた時じゃないの。え、なに? 元気、そっちの私」
「え、うん。まあ元気だと思う……」
「そっかそっか。もう十年も前だかんねー。いろいろさっぱり忘れちゃってるわ。うん。元気ならいいわ」
ずず、と出してもらった珈琲を啜る。
いや。
いやいやいや。
いやいやいやいやいやいや。
意味がわからない。トンネルを抜けたら雪国でしたどころじゃない。トンネルを抜けたら大人の蓮子がいて、何故か私は蓮子のオフィスらしきところでテーブルを挟んでお茶してる。どこか面接めいている感じ。ふかふかのソファにおっきなテーブル。貧乏学生してた蓮子とは比較にならないくらい、綺麗でしっかりとしている。
そして、そんなことはどうでもいい。
そのくらい意味がわからない。
どうしてこうなったのか。その意味さえわからない。確かに、私は地に足が着いてないようだけど、それでも行ったことがあるのは筍掘りとか衛星とか夢幻の世界だ。けれど未来ってのは想像してなかった。想像以上に、いまとあまり変わらなかったけれど。
「しっかしまあ、過去のメリーかぁ……やだなあ。若いなあ。あの頃を思い出して寂しくなっちゃう」
「なっちゃう、とか見た目に合わなくて……ちょっと」
「…………やだ、若さって怖いわ」
「やかましい」
目の前の蓮子は少しシワが増えているように見えた。勿論化粧でしっかりカバーしてる。蓮子とは全然違った存在に見える。キャリアウーマンみたいに見える。服装もまた。種族;OLと表記してもいいくらいに、そのままを体現している。
だから、想像もつかない。
あの自由奔放な蓮子が、きっちりかっちり嵌った歯車になっていることが。
「え、でもメリー。どうしてこんなとこに?」
「それは私が知りたいんだけど……」
蓮子はいつもの口調と変わらない。
変わらないから、違和感も覚えない。
ああ、ここは未来なのだ、と漠然に思ってしまう。
「うーん。まあそうか……んでも、私もあの頃とは違うしねぇ……いまオカルト知識を出せと言われても、むぅ」
「だろうとは思ってたけどさ」
「失礼な。これでもまだ若いわ」
「でも私よりか十は上よ」
「ちくしょう若さに殺される」
でも、それがどうしようもない違和感を私に燻らせる。どうして、どうしてこうなったのか? オフィスの隅の観葉植物は応えない。
「……心当たりとかないの? メリー」
ほら、そう言って。
何時ものように、心配そうに覗き込んでくる。
でも、違うのよ。決定的に。
「……私の過去で、あなたが消えたのよ。蓮子」
「………………へぇ!?」
「うん、いや、消えてないかもしれないけれど、でも少なくとも目の前からは消えたわね。私たちを繋ぐのは電話だけよ」
「それなんてロマンチック」
「うっさいわ」
「メリーが冷たいわ。いったい何時からこんなになったんでしょう……」
「昔からだわ」
「私の知ってるメリーじゃない……」
いじけだした蓮子を放って、私は思考を繰り返す。
蓮子は知らなかった。
少なくとも、私にはそう見えた。この宇佐見蓮子の記憶の中では、確かに私たちが秘封倶楽部を作ってた、という記憶はあるのだ。けれど私が体験しているこの、奇妙な事件については心当たりがない。
この時点で、多分きっとこの蓮子は私の知っている宇佐見蓮子ではない。
それでも、どうしようもなく、私の知っている蓮子なのだけれど。
例えば、そう、まるで古いSF映画だ。タイムスリップした男が過去へ帰ろうとする、そんな在り来たりのSF映画。
いまの状況は、それに似ている気がしないでもない。
帰りたいの確かだけど、私のいる場所からいなくなった蓮子を見つけたいのだ。
「メリー。メリーさーん。羊さーん」
「だれが羊か」
「髪の毛とかもふもふしてるし」
「刈るの!?」
「やだメリーったら冗談よ」
「やだこわい」
「ところでメリー。その、メリーのいた過去の私って、本当に消えたの?」
「え、うん。痕跡もなく、綺麗さっぱり。蓮子の家の表札は田中さんになってたわ」
「ふうん……でも私にはそんな記憶はないわ」
「でもこれは事実よ」
「そうなんだろうね」
蓮子は珈琲を啜る。落ち着いてる。まるで蓮子じゃないみたいに。だからだろう。私には違和感しか持てない。それはそうだ。十年も経てば人は変わるのだ。
彼女は、蓮子は、蓮子のままで変わってないつもりなのだろうが、しかし私から見れば彼女は別人だ。同じ名前の、同じ姓の――――他人に見える。
別人だ。
彼女は、私の知ってる蓮子では、ない。
「とにかく、メリーはそれをどうにかしたいってわけね」
「概ね、というか、その通りなのだけど……」
「なにをすればいいのかわからないってとこね」
「よくわかってらっしゃる」
「だってメリーですもの」
「……そう」
「それに。なにをすればいいかなんて決まってるわ」
「なによ」
「何時も通り」
と、蓮子は天井を見やる。そこにどんな意味があるのかは、わからない。ただ、なにか考えてるだけ。
それだけは、わかる。
それだけじゃ、わからない。
「――――何時も通り」
蓮子はもう一度呟く。
「何時も通り?」
「そう――」
そうして蓮子にやりと笑う。
まるで、
そう、まるで私の知っている蓮子のような、自信に満ちた笑顔。
他人に見えるけれど、それは紛れもなく私の知っている顔だった。
「私たちは秘封倶楽部なのだから」
と、蓮子は言う。
――――――あ、え、ちょっと、なんか視界が薄くなっていってるんだけど。
唐突に。それは起こる。
私の意識が、ここから消える。それがわかる。
だがそれは、いまここで聞くべきことが聞けたからだ。
「境界を暴く。ただそれだけで、いいのだから」
――そっか。
それだけだ。
何時も通り。
これは、秘封倶楽部の活動なのだ。
「ねえ、蓮子」
「ん。なに?」
「私と一緒にいて、良かったと思う?」
何時も通りだから、私はそんなことも聞いてしまえる。
「私はね――――」
そして、私の意識は完全に消えた。
◆
最初に聞こえたのは電話の呼び出し音だ。
私の耳元で鳴っている。
ベッドから身を起こす。布団を剥がす。携帯を手に取る。宇佐見蓮子の名前。
「おぁようれんこ」
『おおぅ……おはようメリー。随分眠そうね』
「さっき起きたばっかりよ」
『そうなの?』
「ええ」
『こっちはまだ一日も経ってないわ』
「なにそれこわい」
『電話しても出ないんですもの。こっちが怖いわ』
「寝てたからね。変な夢を見たの」
『何時も通りじゃないの?』
「うん。でもね。OLみたいになっちゃった蓮子を見たの」
『うぇ、まじで?』
「まじで。全然変わらないのね」
『そっか。んで、その夢でメリーはどうだった?』
「んん。私は見当たらなかったわ」
『ふうん。ま、それも一つの可能性よね』
「…………そうね」
『およ、もしかしてメリーは私との関係を保ったまま生きたい?』
「そりゃそうよ」
『だね。私だってそうだよ』
「うん」
『ところで。その夢って、なんか妙な感じとかしない? ほら筍とって来たときみたいにさ』
「さっぱりわからないわー」
『やっぱメリーって当てにならないわー』
「ばかにしてる?」
『ううん。何時も通りって意味』
「どう言う意味よそれ!?」
『そのまんま。曖昧であやふやなのよ。それはいいとして、そっかー。なんもなしかー。こっちもなんにも』
「そんなもんでしょうよ。ただでさえ意味がわからないのに」
『ま、いいじゃない。たまには。この状況を楽しみましょうよ』
「どうやって」
『新鮮でしょ』
「まぁね」
『ん。それじゃ、引き続き適当に。と言っても私は境界なんてけったいなもん、見られやしないんだけどね』
「はい、それじゃ、また」
電子音。
通話終了。
どうしようか。
なにもやることがないんだ。
夢。
奇妙な夢。
夢の続き。
寝たら、直前見ていた夢の続きが見られるって話がある。
なら、寝たらいまの状況を解決できるのでは?
などと戯言を思う。けれど、それくらいしかないことも事実ではある。私が夢現の境界を彷徨うのは主に寝てるときだし、それはまあ夢と勘違いする程である。
なので寝る。
それでいいの。
だってこの世界は蓮子がいないのだから。
◆
「あら」
暗闇のトンネルを潜り抜けた私の目の前に出てきたのは白衣に眼鏡の蓮子だった。やたらと似合ってるのは理系だから? 関係ないかな。
「メリーじゃない。あれ? なんか若返ってる?」
「まあ大学生だし」
「大学生!? 若っ!」
手に持った紙コップからコーヒーを零さないように必死で動揺を抑える蓮子がいた。あ、コーヒー零した。
「あっ、っつい。もう驚かさないでよ……」
「うわ、反応が同じだ」
ふーふー、と手に息を吹きかけながら、蓮子はハンカチで手を拭く。涙目で、余程熱かったろうに。蓮子だ。
「うん。まあいいや」
いいのかな?
「いいのだよメリー君。とりあえず座ったらいいよ」
と蓮子はやたらと安っぽいパイプ椅子を指差す。素直に座ることにする。
正面を向いて両手を膝に置いて背筋を正してみると、まるで面接に来たみたいだ。
やっぱり蓮子は、私の知ってる蓮子よりも年嵩だ。
けれど、私の知ってる蓮子なのだ、やっぱり。
どっこいしょ、なんて年寄り臭いことを呟きながら蓮子は正面の椅子に座る。ぐーっとコーヒーを飲み干し、床に置く
「昔からメリーって地に着いてなかったけど、これは予想外だわ」
「私だって予想外だったわ」
「んでさ、どうしてこうなったの?」
即座に突っ込んできた。蓮子ってそんなだったっけ? いや、でもたまにストレートに問題に頭を突っ込んできたことがあったっけ。
「説明が難しいんだけどね……目が覚めると、蓮子との、これは私と同年代の蓮子なんだけど、それが私の部屋にいなかったのよ」
「ん? 一緒の部屋にいたの?」
「ええ、吞んでたの」
「大学生がそれでいいのか……いや、私もだけど」
「いいのよ。それでね、蓮子がいなくて、家に帰ったのかなって思ったんだけど、そうでもなかったのよ」
「どゆこと?」
「蓮子から電話がかかってきて、そしたら蓮子、まだ私の家の、私と同じ場所にいるんだって。それで蓮子の家に行ってみたんだけど、表札が全く違う人だったのよ」
「あら私消えたの」
「うん」
蓮子は考えるように顎に手を当てる。
冷めたコーヒーを一気に飲み干し、紙コップをゴミ箱に放り投げる。かつん、と縁に当たって床に転がった。
「ねえメリー。境界の向こう側には別の世界があるのよ」
なんて、言った。
よくわからないことを蓮子は言う。
それは確かにその通りだろうとは思う。
思うのだけれど、それを知る蓮子は一体なんなのか。
「私ね、ずっと境界の研究を続けてきたんだ」
と、私の知らない蓮子は、私を知っている風に言う。
「メリーの原因を調べたかったから」
ご都合のようなことを言う。
まるで夢のように。
と、言うか、これは夢だった。
ならばこれは、きっと私の願望で都合のいい解釈。
夢幻の――夢現の世界だ。
「例えば宇佐見蓮子と言う少女がいるとする」
少女とは呼べない年齢だけれども。
「その少女には幾つもの可能性があるとする。なら、あなたが会ってるこの私は」
それはきっと未来の可能性ってもので。
でも本当にそうなのだろうか?
「わからないけどね。境界が未来に繋がってるかどうかなんてさ」
それが本当にそうなのか、段々わからなくなってくる。
それが願望でないとどうして判断できるのか。
――――私は、蓮子に助けてもらいたいのか。
それさえも、わからなくなってくる。
「ねえ、蓮子」
「ん。なに?」
「私と一緒にいて、良かったと思う?」
わからないから、私はそんなことを聞いてしまう。
「私はね――――」
くすりと笑って彼女は言った。
◆
科学者の蓮子に会った。教授の蓮子に会った。ニートの蓮子に会った。会社員の蓮子に会った。ホームレスの蓮子に会った。ガソリンスタンド店員の蓮子に会った。コンビニ店長の蓮子に会った。研究員の蓮子に会った。走り屋の蓮子に会った。探険家の蓮子に会った。 旅人の蓮子に会った。吞んだくれの蓮子に会った。世紀末覇者の蓮子に会った。ニンジャの蓮子に会った。魔法使いの蓮子に会った。剣士の蓮子に会った。自衛隊の蓮子に会った。人間じゃない蓮子に会った。人間じゃなくなった蓮子に会った。探偵の蓮子に会った。不老不死の蓮子に会った。英雄の蓮子に会った。宇宙飛行士の蓮子に会った。ヒットマンの蓮子に会った。殺されかけたあいつこわい。
etc…
◆
様々な蓮子を見た。
蓮子だけを見た。
それだけだった。
蓮子しか見なかった。
私はいなかった。
私は見なかった。
私を見なかった。
私はどこにもいない。
蓮子しか、見えなかった。
それは、
それは私にとって、どうしようのない恐怖だ。
けれど、
けれど、蓮子は覚えてた。
そのどれも全然違う未来の蓮子だけれど、それでも私のことを覚えてた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
だから私はこの状況を夢だと仮定する。都合のいい、夢。私の、夢。けれどここからの脱出方法は、わからないのだ。
歩いたってかわらない。
「しかしまあメリーさんや」
「…………」
「あれ? おーい。メリー?」
「なんでよ」
「うぇ?」
「なんであなたがいるの」
「はーっはっはっ、私が魔法使いの宇佐見蓮子さんだからさ!!」
「ふーん」
「……メリーが冷たい」
何故かいる魔法使いの蓮子。
私の部屋でいじけてる。さて、この状況はなんだろう。繋がらない。さっぱりだ。整合性がとれない。意味がわからない。でもそんなことはどうでもいい。ようはいま、私に彼女がどんな影響を与えるか、だ。
いやまあ筍とか持ってきちゃってたりしたこともあったけどさ。でも人間持ってきちゃったのは初めてよ。やだー。
って電話が。
このタイミングで蓮子!?
「ええと……」
「出れば?」
「う、ええ、まじで? この状況で? なにそれ」
タイミングおかしいじゃない。こわいわ。なにそれ。
言いながらも手は動く。
通話状態へ。
「も、もしもしっ?」
『あ、もしもしメリー』
「……蓮子」
『いやさ、何回も電話したのにメリーったら出てくれないの。どーしたの? 寝てた?』
「そうなのだけど……何回ってどのくらい?」
『三十回くらい?』
「こわっ! ストーカーか!?」
『冗談よ』
「冗談っぽくないから怖いわ」
くすくす、と電話の向こうから笑い声。多分なにも進行していないだろうけど、それが逆に安心する。何時も通りなんだってわかるから。やっぱり蓮子は、離れていても蓮子なんだ。だからこうして、何時ものように接するのだ。
「ちょっと」
と魔法使い蓮子が言う。
「貸してよ」
「え、でも」
渡してしまっていいのだろうか。
過去の蓮子が、この蓮子と話してなにか影響はないだろうか?
わからない。
わからないけれど。
それでも、この蓮子(魔法使い)がいるってことはなにか意味があるということで。
ならばそれで、なにか進行するのかもしれない。
そんな安易な思考で渡してしまう。
そして、私の携帯を持って、耳に当てる。魔法使い蓮子はにやりと笑う。
「ねえ」
そしてその言葉を口にする。
「あなた、誰よ」
◆
宇佐見蓮子と出会ったのは、確か大学に入ってすぐだったように思う。
そこまで昔じゃないはずなのに、もう随分昔のように思う。
それだけ長い時間一緒にいたのだ、と思うと感慨深い。
思い出すのは、そうだ。初対面のときだ。蓮子は私を見て、一目で異常性を看破した。
境界を見る目だ。
小中高と、ずっと、親からさえも奇異な目で見られてきたし、だからこそ隠してきたそれを。
それに、彼女は気付いたのだ。
気付いたのは、蓮子だけだった。たまたま二人だけになった講義室で言われた。はぐらかしてみたけど、彼女に真正面から見詰められると、そんなことをする気もなくなった。自分の目のことも言ってくれた。気持ち悪いって言われた。冗談めかして。私も同じように返してみた。酷く傷ついた顔をされた。私も傷つく。
そんなことが切欠で一緒にご飯を食べた。
そんなことが切欠で――
◆
目が覚めると何時も通り/何時もと違う。
ベッドの上。朝早く。
隣に蓮子が寝てる/未だ蓮子はいない。
魔法使いの蓮子はいる/秘封倶楽部の蓮子がいない。
蓮子は――いない。
居て欲しい人がいない。
いないから、携帯に手を伸ばす。着信履歴から宇佐見蓮子を選択。呼び出し音。出ない。
宇佐見蓮子は電話に出ない。
あれから、蓮子からの電話はない。電話しても、出ない。
なにかぽっかり穴が開いたみたいに。
蓮子は電話に出ない。
かけてくることもない。
なにをすることもなくなってしまう。考えるとこを放棄してしまう。
それが依存と言うことはわかっているのだけれど。
私にとって、宇佐見蓮子は、そう、まるで魔法使いのような存在だ。私を連れ出して、使い道のないこの目を存分に使ってくれる。道を示してくれた。それだから、私は蓮子に寄っていく。行ってしまう。
蓮子は一人では生きていけるけれど、
メリーは一人では生きられないのだ。
そんな考えが頭を過ぎる。
仕方がないじゃないか。どうしようもないんだから。
「……メリー?」
「あ、起きた」
しばらくして、魔法使い蓮子が起き上がる。まるで、私の知っている蓮子みたい。歳も変わらないように見える。
「起こしてくれなかったの?」
「寝顔を見てたのよ」
「あらそう」
「うん」
魔法使いと私は彼女を呼称するけれど、実は私は彼女が魔法を使うだなんて光景を、ただの一度も見ていない。けれど彼女がそう名乗っているし、私もそう思っているのだ。
「ねえ蓮子」
「なに?」
「あなたは、蓮子なの?」
「そうだよ。メリーの蓮子」
「私の、蓮子なんだ」
「そう。メリーを連れ出す蓮子さんだよ」
「そっか、じゃああなたは蓮子じゃないんだ」
「正解」
違和感は最初から。
蓮子がいない時点で。
摩訶不思議な世界なら、そこは夢だろう。私は寝てばっかりだった。
けれど、
そこに不都合は存在しなかった。
そこに不具合は存在しなかった。
ならば、それは夢なのだ。お腹は減らないし、学校に行かなくたっていい、夢なのだ。
私は、夢を見ているのだ。
「でも、どうして?」
「安心したかったのよ」
「安心?」
「そ。メリーは安心したかったの。だって、言葉に出すと、絶対、なんてことはありえなくなっちゃうからね」
――――――聞くのが怖いのよ。
と、蓮子はくすりと笑う。
ぱりん。
と、硝子が砕ける音が響く。
部屋がひび割れる。世界が崩れる。ベッドの上で、二人。静かに座ってる。
「安心は、できた?」
「わからない。でも、そうだって確信は持てたかも」
「ならそれを捨てるべきよ。確信なんて何時も間違ってるわ」
「でも信じたいのよ」
「ならいいよ」
蓮子は笑う。
優しく笑う。
私の知らない宇佐見蓮子は、
私の知っている笑顔で笑う。
真っ黒な世界の、
真っ白なベッドの上で、
宇佐見蓮子は私を抱き締める。
「もう自分で慰めるのはよそうよ」
「でも」
「でも、でもないよ。そろそろ歩こう」
でも、と私は繰り返す。だって仕方がないじゃないか。その言葉を口にして、その言葉を否定されたらどうしたらいいのだろう。私には思いつかない。きっと真っ白になってしまう。心も、身体も。溶けて消えてしまいたくなって、事実その通りになるだろう。
でも、彼女は聞けと言うのだ。
前に歩けと言うのだ。
それは、
それは、
苦行に等しい。私は、できることなら、このままで。
「このままでなんていられないよ」
けれどその通りなのだろう。
そう。
宇佐見蓮子の言うとおりなのだ。
「だから魔法を掛けてあげる」
「え」
「だから、私は魔法使いの宇佐見蓮子なんだって」
「どんな魔法を?」
「こんな魔法を」
すぅっと、蓮子は息を吸い込んだ。そして吐き出す。深呼吸。
「…………メリー、私と一緒に行こう」
あ、と思った。真っ黒な世界に光が差し込んだ気がした。私は呆然としてしまう。その言葉に。懐かしい言葉に。衝撃に、頭をやられてしまう。だめだ。だめだよ。そんな言葉を聴いたら、私は行かなくちゃいけなくなる。歩き出さなくちゃいけなくなる。
だから、私は歩き出す前に聞くのだ。
「ねえ」
「なに?」
「あなたは、誰なの?」
蓮子は笑って、
「私は、あなたよ」
と、言ったのだ。
金髪の少女が、言ったのだ。
◆
「メリー、メリー起きろー」
「………………ん」
「あ、メリー起きた」
「んぇ」
最初に目に入ったのは、蓮子の――私の知っている蓮子の顔だった。私はベッドの上で見上げている。電灯の明かりが目に染みた。
何故か身体がだるい。
やたらと、眠かった。
「おはよ、メリー」
「…………おはよう蓮子」
「全く寝ぼすけさんだねメリーは」
「うん?」
「三日ぶりの朝よ」
「三日…………?」
「三日。随分寝てたわね……いや、三日じゃないかもしれないけど。ずっと連絡取れないんだもの。ついさっき来て、ようやくわかったのよ。あんた寝てたのね」
「うー。うん、まあそうかな」
などと納得してみる。別に、いまに始まったことじゃないし。こう言うことは稀によくあるのだ。私にとっては。
「まったくもう、心配させないでよ……」
蓮子は心底安心したように笑う。気が抜けたみたいに。思えば蓮子は立ち上がっていない。私のベッドに腰を下ろしている。蓮子は恥ずかしそうに「腰が抜けちゃった。……何度遭遇しても慣れないや」と笑った。
沈黙が少し。
ふぅ、と深呼吸。
蓮子が向き直る。
「んでさ、今度はどこに行ってたの?」
「なによ?」
「また夢で筍でもとりに行ってた?」
「ああ」
うん。
でもね蓮子。それは今回は言えないや。
「特に」
「ふぅん」
けれど蓮子はなにも言わなかった。
「ねぇ、蓮子」
「なに?」
「え、とね」
「うん」
「あのさ」
「うん」
「大学を卒業してもさ」
「うん」
「私と一緒にいてくれる?」
「それはちょっと――約束できないよ?」
「それも、そうよね」
「これからを考えるとさ、絶対に時間、少なくなるじゃん」
「ま、就職とかあるしね」
「そうそう。だから約束できないけど、でも連絡くらいは取りたいじゃん」
「うん」
「だからまぁ、メリーはさ、卒業しても一番の友達」
と、蓮子は誇らしげに笑った。
「……そうね」
と、私は笑った。
安心した。蓮子は私を覚えてるし、私は蓮子を覚えてる。
それだけでいいのだ。
「ほら、外に行こうよ。メリー、ご飯食べに行きましょう。お腹ぺこぺこでしょうに」
「……うん、行こう。…………っていうかこう言うシチュエーションなら、料理して待ってるのが普通じゃない?」
「メリーの冷蔵庫、なにもないじゃない。私だって、研究室にカンヅメでようやく終わったのに、材料買って来るなんて……」
蓮子は腕をぷるぷると振るわせる。キーボードを叩きすぎて疲労困憊のようだ。
「無茶に決まってるわ!」
「そうね」
「んじゃまあ、メリーが目覚めた記念&私の研究が一段落した記念にどっか行きましょうよ!」
私の手に伝わる温もり。
私の手を掴んで、何時だって蓮子は引っ張っていく。
そんな蓮子だから、一緒にいたいって思ったの。
でも、だから。
すっと、私は先に出る。
玄関を、蓮子よりも先に潜る。
きょとんとした顔で、蓮子は小さく笑った。
「ねえ! 蓮子!!」
「ん。なーに?」
「私と一緒にいて、良かったと思う?」
手を繋いで、走りながら、私はそんなことを聞いてしまう。
直接、いまの蓮子に聞くのは恥ずかしいけど、それでも、
それでも聞きたかったのだ。
蓮子は少し顔を赤くして、
「私はね――――――」
と、蓮子は笑って言ったのだ。
了
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ゝ:::::::::::::::(:::::):):::::::):::):::::::) <なんで「メリーのお嫁さんになっている蓮子」がいねぇんだぁぁぁ!
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――と、一時は吼えましたが、ストーリー上そうは行きませんよね。
ていうか、このSSの続きがそういう未来なんですもんね! フヒ!
携帯まわりのSFっぽさが大好きでした。
量子力学万歳です。
この二人にはいつまでも一緒にいて欲しいですね
でも面白かったです。
素敵なお話でした