序
レミケネ幸福論 や ふらふら慧音の「仁政」論 をご一読いただけると、より世界観を了解し易いかと思います。
一
秘宝倶楽部の二人、蓮子とメリーは、久しぶりの活動(旅行)のために、富山県へとやって来た。
「田舎だね、メリー」
「うん……都会から出てくると、ギャップに驚くね」
「同じ日本とは思えないよね」
「でも、こっちのほうが落ち着く」
「人工物は疲れるもんね」
彼女たちが向かうのは、「風の盆」で有名な八尾、柳田國男が『日本昔話集』でマヨヒガの伝説を紹介した猪谷、そうして北アルプス立山。秘宝倶楽部の活動というよりは、単純に就職活動の相間の気晴らしに旅行へと来たのだから、突拍子のないところへは行く予定がない。
実は旅行のメインも、グルメだったり……。
「鹿、猪、熊!! イワナに鮎、そうして富山といえばマスの寿司……おいしい山菜の天麩羅に、手打ちの蕎麦・うどん。たまらないなぁ」
「そうね。お酒も美味しいらしいしね」
「そうそう!! お酒もチェックして来たよ~。勝駒っていう、高岡のお酒が、冷酒にして絶品なんだって。日本の冷酒百選に選ばれてるの。あと、満寿泉ってのも、美味しいらしいね。銘酒立山は、京都でもおいてる店がたくさんあるからいいけど、勝駒や満寿泉は、あんまりないんだって」
「楽しみだね、蓮子」
「私、一升瓶六本で買って、アパートまで送るから!!」
「ハハハ……」
大学四年生になった二人は、もう、サークル活動なんてしていられなかった。あるいはこれが最後の秘封倶楽部になるかも知れない。
二人とも大学四年生になるまで、就職のことなどはまるで考えていなかった。豊な国の豊な家庭で育った二人にとって、既に本能が要求するほとんどの欲望は適えられていた。必然、自己実現より他に、職に求めるところなどはない。しかしながら、仕事に自己実現などは求めようがないのが現実である。このまま就職し、忙しくなって、毎日を嫌なことに耐えてばかり……ただただ空しく過ごすくらいなら、気楽なフリーター生活のほうがマシかも知れないという、そんな考えもないことはない。でもそれは、家族も友人も学歴も、許してはくれない選択だった。
「いやぁ、空気が美味しい。もうね、疲れが吹き飛ぶよね」
そう言って、満面の笑みを浮かべる蓮子を見て、メリーも嬉しくなった。インターンシップで向かったNPOが、辛くて耐えられないと泣いていたのがウソのようだ。そうしてまた、NPOへの就職という選択を視野にいれなくてはならないところも、蓮子にとってはコンプレックスなのだ。いつからか、「履歴書の空白」がキャリア上大きな問題とされ、特に企業側が採用する際に大きな減点を与えているということが分かってから、資産のある大卒の若者が、寄付と引き換えに正規スタッフとしてNPOに就職を決めるということが多くなった。これが一般企業ならば問題だが、何分相手はNPOである。引きこもりやお年寄りを時給三百五十円で雇用していたある飲食店を営むNPOに対して、最低労働賃金を守っていないとして裁判になったことがあったが、最高裁は合法として判決を下したのも記憶に新しい。今では京都大学の経済学部と人間発達学部とが提携し、市・学・官の協力事業として、京都の山中に、引きこもりを雇用対象とした大規模な工場が建てられているほどだ。もちろん、時給は最低労働賃金を守っていない。その工場を運営するのが、若者サポートネットワークというNPO……蓮子のインターン先で、京都大学の先輩たちが、一人当たり五百万円程度の寄付を引き換えにして、多数ここで勤めているということは、京都大学の学生の間では有名な話だ。
マリーは蓮子の話を思い出す。
週四日勤務の、時給五百円、一日六時間労働で、寮の家賃や水光熱費は給料から天引きされ(手取りで換算すると、概ね時給は二百五十円)、食事も出るという環境で働き、生活をする若者たち……若者と言っても、国が定めた若者の定義に従えば、上は39歳(今、45歳までを若者と呼ぶようにすべきだという議論もある)までであるから、実際には中年の男性である。そうした人達の上司として、指導する立場にある二十代の若者。この境遇が、まず倒錯的である。そうして、彼らを研究する立場にある、京都大学卒業の、私たち……こんな環境に長時間いると、人間をあたかも家畜の如く扱っているような感覚に襲われ、神経が病むのだという。
これが「日本病」というものだろうか。「日本病」の実体とは、こうした生々しいものなのだろうか。受験ではさらっと、「日本病」の原因が就労観や人生観の変化と精神的な病気や発達障害に悩む人の増加にあるというだけの暗記でよかったのに。現実に眼を背けたくなるのは、何も蓮子だけではなく、話を聞くメリーも同様であった。
メリーはあらためて考えると、本当に自分は、様々な社会での出来事を、受験のために暗記していただけなんだなと思わされるのだった。
日本人の若者の障害者比率が五パーセントを越えているということは、むしろ世の中がよくなった証拠だという話を鵜呑みにしていた。というのは、今までは障害者に対する偏見から、家族が障害を認めなかったり、障害への理解が浅いために本人が気付かずにいたり、どのような障害が存在するのかが充分に了解されていなかったのであり、それが現在では多くの障害が認められ、キャリアに配慮されるようになり、つまりはより良い社会が実現されたのだという考えは、確かに筋が通っているからである。
しかしそう簡単に信じるべきことではなかったのだ。
例えば現在、内気で人前でしゃべることのできない人を、障害者として認めるケースが多い。パソコンが使えない人も障害者である。失業者も障害者として認められることができる。フリーターを五年以上続けた場合も、障害者として認められる可能性がある。三年以上の浪人をした場合も、障害者として認められることがある。生活保護になった場合は、自己申告で障害者として認定される。一年以上の不登校・引きこもり経験者は、七割が障害者として認定されている。
どうした理由でか。
簡単である。
現在の社会では、人前でしゃべれない・パソコンを使えないという人は、普通ではないからである。少なくとも、普通に就職する能力はないからである。失業した場合も、再就職は非常に困難である。フリーターを五年も続ければ、もう正社員としての雇用はありえない。三年以上の浪人をした場合は、現実と理想との区別がつけられないという点での障害があるとされ、生活保護になったという事実が障害者の証明であり、不登校や引きこもりになった場合は、もはや社会復帰が困難だという理由で障害者になったとされるのである。
確かに、そうした障害者としての認定は当事者に利益が大きい。障害者として認定されることで、企業の障害者雇用枠を用いた再チャレンジの機会が与えられるからだ。しかも、彼らには最低労働賃金が課せられない。企業としては、いっそう雇用しやすい。そうして当事者にとっても、本人が行えることに対する正当な賃金を要求できるようになるため、かえって仕事に遣り甲斐を感じることができるのだ。実際のところ、アンケート結果を見てみれば、こうして最低労働賃金以下で雇用された多くの人が、「できる仕事以上に高い給料を支払われることはストレスの原因になる」と答えている。こうした事実は、結局のところ、統計データから見て、完全雇用の実現となる。世界的に、日本の事例は大絶賛され、若者は日本に誇りすら抱いている。
しかしそれは、あまりにも短慮だったのではないだろうか。
もっと他の形で解決すべきだった課題を、粗忽に解決したことにはならなかったろうか。そんなことをメリーが感じるのは、彼女が苦悩の直中にいることと無関係ではない。
メリーも就職活動では苦悩している。でもその苦悩は、蓮子とは全然違う苦悩だ。
実はメリーは、もう三つ、内定をもらっている。それも、どの会社も、不満の見つからないところだ。それなのに何故躊躇しているかというと、それらは皆メリーの母親の名前で内定をもらったようなものだから。
世界的なファッションメーカーで、女性向けの下着をデザインする母の名前は、どこの会社の人も知っていた。面接予定者、二百人が一同に揃って説明を受けている間に、メリー一人だけエレベーターで違う部屋に行き、部長さんとお話をした。お母さんのデザインセンスは、業界でもトップクラスですよ……と。
もし、仕事が名誉欲や物欲を充たすためにするものであれば、メリーは迷わないだろう。しかしそうではないのだ。そのような欲望のためにする仕事など、ただただ空しいだけなのである。少なくとも、メリーは既に蓮子とともに、日常の中に強い感動を見出してしまった。特別、贅沢などはなくとも、十二分に幸せを感受しているのである。その幸福が絶えず、メリーの後ろ髪を引くのである。
だがそのことを、蓮子に相談したとすれば、蓮子はどんな気持ちになるだろうか。それを考えるだけで、メリーは悲しい気持ちになるのだ。
蓮子とメリーの間で、気がつけばそんな境遇の差が出ていた。その境遇の差が、メリーに相談すべからずという空気を作っている。何だかメリーは、蓮子に妙な遠慮をしてしまって、最近、一緒にいると辛いな……と思うのである。
しかしそんな空気が、今日はない。
蓮子は楽しそうだし、メリーも気分がいい。
僅か半年、一年前までは、毎日がこんな感じで楽しかったっていうのにな。
大人になるのって、嫌なもんだ。
(仕方ないじゃない!! 私たちは、弱くて多感なんだから)
そう正直な気持ちを、家族に打ち明ければどうなるだろうか。決して理解されないだろう。むしろ、叱責されるだけだろう。それがメリーを、なおさら悲しませる。孤独感を深めさせ、かつての幸福な日常へと、容易にメリーを遊離させるのだ。
そんなことを思っていると、蓮子がメリーに話かけてきた。
「ねぇ、見て。あの外人さん、すっごい大きいよ」
そうして見やると、確かに大きい。二メートルを越えていそうだ。
「うぉぉ。私、あんなに逞しい男の人、はじめてみた」
「結構ガッチリしてるよね。ラグビーとか、レスリングとかしてそう……」
「してそうだねぇ。アメフトとか、バスケかも知れない」
日本の田園風景に心動かされるところがあったのだろうか。
彼方まで続く、田んぼをじっと見ている。
「あ……片腕が、ないんだ」
「うん……そうみたいだね」
その男の人は、左腕が、肘からスッパリとなくなっていた。
まさか二人の声が聞こえたわけではないだろうが、男の人が、ふいとコチラを見る。
メリーも蓮子も、ちょっとビックリしてしまった。
(あ、目が合っちゃった)
男の人が、ゆっくりと二人に近づいてくる。
容貌魁偉な中年の男性は、精悍で溌剌とした気が溢れていて、何だかとっても若々しく見える。そうして、ダンディーで整った顔つき(セオドア・ルーズベルトに似ているかも知れない)と、ややこんな場所とは不釣合いなしっかりとしたスーツ姿とが、信頼できる男の人って印象を与えてくれる。何だか不思議な人だ。
「お嬢さん方。こちらへは観光に?」
とても流暢な日本語に、二人は少し驚いた。
「はい。猪谷には、マヨヒガの伝説があるというので」
「ほぉ。マヨヒガの伝説ですか。日本の民話や宗教に、ご興味がお有りなのですね」
流暢なだけではない。この人、日本の伝統や文化に精通している。
「マヨヒガって何か、お分かりになられるのですか?」
「えぇ。日本の民話には、強い興味を持っております。ちょうど、富山大学の図書館には、小泉八雲に関する文献がたくさん揃えられておりましてね。良い読み物ですから、充分に閲覧させていただきました」
もしかして、日本のことを研究されている大学の先生なのだろうか? あるいは、ALTとか。
「すごいんですね。とても日本語がお上手だし、とても日本のことがお詳しくって」
「ハッハッハ。お褒めに預かり光栄です。お嬢さんほどではありませんけどね」
そう言われてメリーは顔が赤くなった。
(この人からすれば、私の日本語が流暢で、またマヨヒガ伝説の地を訪ねるためにこんな田舎にまで来ているということが驚きだったろうな)
物怖じしない蓮子は、はきはきと男性に自己紹介をする。
「私たち、京都大学の学生で、私が蓮子。彼女がマリーって言います」
「ほぉ。京都大学の学生さんたちですか。あそこも良いところですね。去年、石黒肇教授が、ノーベル経済学賞を受賞した折の記念講演で訪れる機会がありました。大変刺激的な内容でした。ただ、win-setのセオリーは理論に傾倒しがちで、なかなか一般の学生には理解し難かったと思いますがね。ところで、君たちの専攻は?」
「あ、私たちは経済学部じゃなくって、理系の学部なんですけどね。私が物理学を専攻していて……」
あぁ、旅行って良いなって思う。
こうして、見知らぬ人と、ステキな出会いがあるんだから。
「なるほど。前途有為な若者とこうして出会えてよかった。私の名前は、ヴィクトル・ユーゴー。フランス出身です。ですが長く、イギリスに住んでいます。趣味は旅行と、詩や小説などを書いたりもしますね。ここ一年ほどは、日本に滞在しています。日本全国、全ての都道府県を訪ね渡りましたよ」
「へぇ、スゴイ!!」
「先ほども、日本の田園風景の素晴らしさを堪能していたところです。このあたりは……そうですね、さしずめ、田疇(でんゆう・田畑)悉(ことごと)く治まり草萊(そうらい・草むら)甚だ辟(ひら)け溝洫(こうきょく・田畑の間のみぞ)は深く整う……こんなところでしょうか」
蓮子もメリーも、この男性の言っている言葉がよく分からない。ポカァンとしてしまう。
「そういえば今日は、降りみ降らずみの鳥曇で、過ごし易い一日ですね。ご存知でしたか? 富山県は、日本でもっとも雲の多い地域だって。この季節、確かに雲が出れば温かくて嬉しいのですが、そう思うといまひとつ有難味に欠けますね」
そうしてお茶目にウインクまでするのだから、二人はおかしくなって笑ってしまった。
「す、スゴイですね!! うわぁ、私、日本人やってて恥ずかしくなっちゃう」
「流暢っていうか、なんていうか……な、何か文学部の教授とかされてるんじゃないですか?」
「はっはっは……いやいや、こんなものはちょっとした子供だましですよ」
そうして呵呵大笑するユーゴー。実に豪快な笑いに、見ているほうが気持ちよくなる。
「そうそう。ところでお嬢さんたち。マヨヒガを訪ねられるのですよね」
「はい。まぁ、本当にあるのか分からないですけど」
「ふふふ。お二人は運がよい。どうです? よろしければこのユーゴーが、マヨヒガにまで案内してご覧にいれましょうか?」
「え、本当ですか?」
「えぇ。本当ですとも。私を信じていただけるのでしたら」
蓮子とメリーは、顔を見合わせる。
普通に考えれば、マヨヒガがあるとは、何とも眉唾だが、どうにもこの御仁はうそを言う人には見えない。信じさせる何かがある。
「それじゃ、お願いしても良いですか?」
「うむ。確かにこの、ヴィクトル・ユーゴーが頼まれた」
そうして一同は、猪谷の山深くへと向かったのだった。
二
猪谷駅からタクシーを呼び、三十分ほど山へと向かう。その先はもう、歩くより他にない峡谷である。
普通に考えて、こんな辺鄙なところを行くなんておかしいのだが、普通に考えると、マヨヒガがある場所はこんな辺鄙なところだろう。履き慣れたウォーキングシューズが、こういうときには頼もしい。
そうしてさらに歩くこと一時間。
さすがに二人は疲れて来た。
そんな折、ユーゴーがふいにたずねる。
「ところで君たち。幻想の世界があることを信じますか」
ユーゴーの言葉に、蓮子とメリーは顔を見合わせた。
「境界の先に、幻想の世界があることを、ね」
メリーは、まさかと思いながらも、こくりと頷いて答えた。
「はい。きっと、幻想の世界はあると思います」
「私も、あると思っています」
(だって、見たことあるんだもんね……)
二人の言葉に、ユーゴーは大満足だった。
「よろしい。メルヘンを求めるお嬢さん方。お二人は幻想の世界を訪れる資格がある。幻想の世界には二つの入り口がある。玄関と裏口だ。玄関には神社があり、裏口には墓地がある。もっとも入りやすいのが裏口だ。神の峠……天津神と国津神の住処を分かつ境として定められたこの地こそ、境界の神が誕生し、そうして零落し果てた土地なのだからね」
「では、その神の峠から、マヨヒガへと行かれるのですか?」
「いや、違う。私は少し無作法だがね、縁側からメルヘンを訪ねようと思うのだよ。そう、マヨヒガは縁側さ。縁側は、この猪谷にある」
ユーゴーがその屈強な肉体を用いて、片腕とは思えぬ働きぶりで道を切り開く。整えられた道を進む後ろの二人より、先を進むユーゴーのほうが足早で、時折立ち止まって二人を待つ余裕があるほどだ。
そうして少し、開けたところに出た。
その地に来て、メリーは驚いた。
(境界が……うっすらとだけど、見えて……しかも広がっている)
メリーが境界を覗いていることを察して、蓮子も期待で胸が高鳴る。
「さて、お嬢さんたち。心の準備はよろしいかな。じきに、星も姿を現す。あぁ、雲が晴れてきて良かった。ホラ、月が顔を出している。極々僅かにね。そうして、マヨヒガに着くころには、ちょうど良い食事時だ」
指を口に加えると、ユーゴーは器用に指笛を吹き始める。すると、次第次第に境界は大きさを広げて行き、三人が通ることの出来るサイズになった。
「上出来だ。潔いな、結界君。さて、それでは行きましょうか。私の後を着いて来てください。なぁに、すぐにお出迎えが来ますよ」
蓮子とメリーは身震いした。
境界の向こう側の世界に、まさかこうして堂々と行けるとは、夢にも思わなかったのである。何か、これには運命的なものを感じざるを得ない。
「さて、ここに来るのも久しぶりだな。相変わらず空気の澄んだ良いところだ。ホラ、ご覧。星があんなに美しく輝いている」
蓮子が位置を確認すると、間違いない。ここは幻想の世界である。
「ふふふ。二人とも、良い眼をしているね。大切になさい。稀有な力だ」
蓮子とメリーは、お互いの顔を見やる。
もう、明らかであろう。
この人は、普通の人ではない。
だが、それでも全く恐れを抱かないのは、きっとこの人が正しき人なのだという確信を与えてくれるから。
「行こう、メリー。久しぶりの、秘封倶楽部だよ!!」
「……うん!!」
蓮子の顔は、ワクワクが溢れて仕方が無いという表情だった。
三
この日八雲紫は、マヨヒガを訪れていた。
常の住家を少し離れ、この橙とネコたちとがいる、少し手狭で騒がしいが、しかし賑やかで温かみのある家を訪れるのは、決まって大事があったときである。
膝の上に寝転ぶ橙の頭を撫でながら、夕食までの一時を過ごす。
先ほど、藍が「あるいは侵入者有り」として家を出たことを除けば、全く平穏な時間である。侵入者というが、すぐさま藍に発見されるあたり、害のあるものではあるまい。おそらく、外の世界から迷い込んだ人間だろう。強制送還でお終いだ。
八雲紫は、この日幻想郷を去った、レミリア・スカーレットとの別れを思い出していた。
「ねぇ、あなた。ジャバルと戦って、勝機はあるの?」
「勝つ負けるの算段などは、もとよりしていないわ」
「勝算なくして挑むとは……死ぬ気?」
「八雲紫……あなたには理解できないかも知れないが、成否の如何に関わらず、なさねばならぬことがある。にもかかわらず、先見の明によって、敗北を恐れ、戦いを避けるといのであれば、これは無知にも劣ることよ。ジャバルのブリュアン小父様を狙うは、どこにも大義名分がない。これを助ける義の刃となることが、至極大切なことなのさ」
幻想郷の主として、この地に幸福と安定とをもたらすことが、八雲紫の本願である。そうしてそこに、彼女にとって絶対の正義があると言ってもよい。紫にとっての正義とは、その行いが正しいかどうかではなく、幻想郷を守れるかどうかなのである。
他方、レミリアにとっての本願は、徹頭徹尾、正しく生きることなのだろう。したがって、死生命を度外視して、正当な道を進むことが、彼女にとっての正義なのである。
(そうまでして突き進む正義の道が、果たしてあなたに何をもたらすというのかしら)
この聡い妖怪には、愚直なレミリアの心が理解できないのである。
「紫様……ご報告申し上げます」
侵入者の存在を確認しに行っていた藍が戻って来た。
「どうだった? どうせ、外の世界の人間が迷い込んだのでしょう」
「いえ、違います」
「あら? では、何かしら」
「間違いありません。ヴィクトル・ユーゴー殿です」
「まぁ!! そ、そんな……嫌だわ。いつもあのお方は急なのですから」
「いかが致しましょう」
「藍、すぐに食事の準備をしてちょうだい。それと橙、あなたはお迎えに上がって。私は急いで着替えるから」
そうして紫は、スキマを開いていなくなってしまった。
紫に置いていかれて、キョトンとした橙が、藍に問う。
「藍様? 一体どうしたんけぇ?」
「うん? そうか、橙はまだユーゴー殿にお会いしたことがなかったな。ヴィクトル・ユーゴー……紫様と同じく、十怪の一人。私なんかより、よっぽどスゴイ大妖怪だよ」
「そんなにすごいんけ!?」
「あぁ。でも、とても優しくて、気持ちのいい御仁だからね。さぁ、橙はお迎えにあがってちょうだい。今日はお連れの方がお二人いらっしゃるみたいだ。場所は……うん、今から行けば、ちょうどこのあたりで出会うハズだよ」
そう言うと、藍は台所へ夕食の仕度に、橙はお客様を迎えに行く。
夕食の仕度途中、藍は考える。
レミリアが十怪の一人であるブリュアンを救援に外界へ向かったその同じ日に、十怪の一人であるユーゴーが来る。まさか、偶然の一致とは言うまい。主を含めた十怪の内の三怪が、今この日本にいるのであるが、これで何も起こらぬわけがない。この幻想郷というメルヘンにいては感じられぬ、歴史のうねりのようなものを、今、藍は感じていた。
(紫様は、幻想郷を外界とは隔絶させて守り続けることが、つまりは幻想郷という妖怪たちにとってのメルヘンを維持し続けることが、何よりも大切なことなのだと思われているが、果たして本当にそうなのだろうか……)
あるいは、ユーゴーとの出会いが、そうした藍の疑問に答をもたらすかも知れないと、内心、期待を抱くのであった。
四
「遠路はるばる、よくお越しくださいました。今日はかわいいお連れさんもご一緒なのですね」
「えぇ。旅の道連れです。あなたの故郷の美しい山河を眺めていたら、河原に二輪の花が咲いておりました。旅の手土産です」
「まぁ。それでは、よく映える花器を用意しないと。藍、お召し物をご用意してさしあげて。橙、お風呂にご案内してさしあげて。女の足でここまで来るのは大変でしたでしょうからね。まずはゆっくり、疲れを癒してくださいませ」
そうして二人が案内されたのは、露天風呂であった。
なんということか。これは隠れ家どころの騒ぎではない。山中にポツンと建っている民家には、美人なお姉さんとかわいい女の子と……怪しい美少女が住んでいて、おもてなしをしてくれるのだ。
「うわぁ。この露天風呂、ネコさんが入ってるよ」
「猿とか鹿が入る温泉ってのは聞いたことがあるけど、ネコさんってのは他に無いね」
そんなことを話しながらも、心ここに非ずの二人。
紹介された藍さんと橙ちゃんの二人は、尻尾に耳が映えていて、一目で人間ではないと分かった。そうしてその二人を従える紫さんは、どう見ても中学生くらいの女の子なのだけれども、その貫禄・気品・妖艶とは、尋常のものではないのであった。
オカルトとかそんなちんけなものではない。
生々しいまでの、怪奇である。
「面白くなって来たね」
意気揚々の声をあげるのは蓮子。
「楽しもう、メリー!!」
未知の世界を前にして、勇み進むが秘封倶楽部。
かつての至高体験を、二人はハッキリと思い出したのだ。
もうづすっかり、いつもの秘封倶楽部に戻っていた。
そうして湯浴みの後、二人は衣服を藍に預け、浴衣を授かりこれを着た。
「何だか、民宿か旅館に泊まっているみたいだね」
そうメリーが感じるのも当然だろう。
露天風呂のある、広い旧家屋で、女中頭然とした藍と幼いお手伝いさんの橙がお世話をしてくれるのだ。
橙に案内され、二人は客間へと進む。
日本家屋にしては、これだけ広い客間があるのは珍しいのではないかと思う。しかしその広い客間にしても、狭いと思わされるだけの存在感がある御仁、二メートルの巨漢がいるのだから、いささかならず不釣合いである。
そうして促されるままに座布団に座る。
じきに料理が出て来た。
山の幸に溢れた、健康そうな日本料理だ。
食事となれば酒は欠かせない。
酒が入れば、必然、愉快な気持ちになり、聞きづらいことも聞けるようになるし、言いにくいことも言ってしまうようになる。
その機を逃す、蓮子ではなかった。
「あの、ユーゴーさんに紫さん。質問しても良いですか?」
「あぁ。もちろんだとも」
「そもそも……皆さん、どういうお方なんですか? こう、何か変な言い方ですけど」
「ハッハッハ。いや、お嬢さんの質問も、もっともだ。ふふふ。名前を知っただけでは、自己紹介になりますまい。とりわけ、私たちは、人間ではないのだからね」
八雲紫が、驚いたようにして言う。
「まさか本当に旅の道連れで……稀有な力を持つ方々とお見受けいたしましたから、きっと先ほどの言は、いつものご冗談に違いないと思っておりました」
「いや、これが本当に旅の道連れでしてね。彼女たちが能才であるのは、偶然ですよ。しかし、なかなか見所のあるお嬢さん方で、幻想を信じて疑うことがなかったのです。なればこそ、ここに来ることもできたというべきでしょう」
そうしてユーゴー、厳かに言う。
「我が名は文豪遊徒のヴィクトル・ユーゴー。十大怪奇が一人である。そうして彼女、八雲紫が、神出鬼没のハーミット……同じく十大怪奇の一人だ」
「十大怪奇?」
「そう。数多ある怪奇の中においても、とりわけ影響力の大きい怪奇をそう呼んでいるのですよ。ですが、とりあえず十大怪奇の話は置いておこうか。それよりも、きっと君たちには、この幻想郷の話が興味深いはずだ」
「幻想郷……」
「あぁ。幻想郷については、やはりその管理者である君から聞くのが一番だろうね」
そう言われると、八雲紫は二人を見て、ちょっと溜息交じりに言った。
「そう易々と、外の世界の人たちに、この幻想郷のことを語るべきではありませんけれども……文豪遊徒の頼みとあらば、きかぬわけにはいきませんね」
そうして語られる幻想郷談義を、秘封倶楽部の二人は、爛々と眼を輝かせて聞いた。
こうして聞き入られると、紫も話をしていて楽しい。
ついつい、丁寧にあれこれと教えてあげてしまう。
「河童って、エンジニアが多いんだ」
「天狗が新聞記者なのね。面白いなぁ」
「地底に天界に冥界……どこも見てみたいなぁ」
「冥界は見たら死んじゃうんじゃないかな」
「いや、ならばこそだよ……!!」
そうして楽しそうに談笑する二人を見守るユーゴーは、実に優しい表情を浮かべている。この快活な御仁は、若者の溌剌さを何よりも愛するのだ。
「なら、幻想郷を巡ってみるかい? このユーゴーが、お供しよう」
「え!! ほ、本当ですか!?」
「本当だとも」
「それは困りますわ!!」
ユーゴーの言葉に驚いたのは、秘封の二人よりも八雲紫である。
「あなた、さすがにそれは困りますわ」
「どうしてかね」
「ご自身の身位を鑑みてください」
「ただの詩人で小説家でついでに史家さ」
「十大怪異として、十大怪異の歴史を綴る者……知悉者ユーゴーは、只者ではありませんわね」
「言うほどのことじゃないよ。それに、幻想郷の民は世情に疎かろう」
「世情に疎いからこそ、龍を前にしては正気でおられません」
「単なる片輪さ」
「それでも四天王をねじ伏せます」
「何とかならないかな」
「無い袖は振れません」
「自重するよ?」
「No way. No how(ダメッたら、ダメ)」
ユーゴー、しばし腕を組んで考える。「う~む。」と唸る姿に、愛嬌とともに貫禄を感じさせるのは凄い。
「仕方ありますまい」
「諦めてくださいましたか」
「今晩はちょっと、長く付き合ってもらうことになりますぞ」
そうして紫に盃を差し出す。
「案ずるなお二方。このユーゴーにお任せあれ!!」
そうして酒の勝負と相成ったのだ。
五
その晩、二人は眠れなかった。
ユーゴーと紫の飲み比べとなり、先に二人は寝室に案内されたのだが、紫の話す幻想郷の姿があまりにも眩しく、その輝きに目が冴えてしまって仕方がないのだ。そうして、朝になって、一睡もしていないというのに微塵も眠気はない。ユーゴーの言葉に期待爛々、胸は高鳴って留まるところを知らない。
「ねぇ、蓮子」
「なに、メリー」
「眠れた?」
「全然」
「私も」
「だよね」
「眠い?」
「全然」
「若いね」
「メリーもね」
そんなやり取りがおかしくって仕方ないので、二人は思わず笑ってしまった。
そこに橙がやって来る。
朝餉の用意ができたことを伝えに来た橙は、ケラケラと笑っている二人を前にして、「どうしてお姉ちゃんたち笑っとんがんけ?」と不思議そうだ。二人は顔を見合って言った。
「楽しくって!!」
橙は首をかしげて分からないようだった。
心の通じ合った者同士の愉快な日常があることを、了解するには、まだこの子には早いのだろう。
橙に案内され、朝餉に向かうと、そこにはユーゴーの姿があった。
少し髪が濡れている。
朝風呂を浴びてきたのだろう。
おそらくは、酔い覚ましに。
「あの、紫さんは……」
「寝室に向かわれましたよ」
察するに易いことである。
「さて、これで揃ったね」
食事の用意を整える藍に、「藍君も一緒に是非。」とユーゴーが語りかける。
「お客様とご一緒する立場にはありませんので」
「いいや、そうでもないんだよ」
「と言いますと」
「幻想郷の案内役が必要でね。交流の意も込めて、是非、寝食をともにしようではないか」
「それは……」
「もちろん、主人の承諾は得ているよ」
そうしてユーゴーが一枚の紙を取り出して見せると、藍は一言、「ご随意に。」とだけ答えた。
「お嬢さん方。改めてご紹介しよう。彼女が八雲藍君。私たちに、幻想郷を案内してくれるそうだよ」
ユーゴーは見事、交渉を成立させたのである。
「ほ、本当ですか!! やった、メリー、やったよ!!」
「うん!! あの、よろしくお願いします、藍さん」
「こちらこそ、至らぬものですがよろしくお願いします」
恭しく頭を垂れる藍。
蓮子もメリーも、期待に胸が高鳴って抑えられない様子だ。
「まずはドコに行こうかな、メリー。私ね、やっぱり、たくさん妖怪を見てみたいな。どんなのか、興味あるじゃない」
「私は、それよりも幻想郷の人たちがどんな生活をしているのか知りたいかな。妖怪がたくさんいる世界で、普通に人が生活しているなんて不思議」
藍は妙な興味を二人に抱いた。それは二人のテンションに当てられたのか、こうして何かに胸を躍らせることのできる人格に関心を持ったのか、それとも打ち解けて想いを共有できる友人がいることを羨ましく思ったのか……。いやいや、それは考えすぎだろう。単純な話だ。この、偶然の機会を得た二人の能才。それを偶然と呼ぶべきか否か。どこかに何かの意図がありそうだと考えるのも自然な話だ。
そんな藍の考えなど、ユーゴーは全く無頓着だ。
「まぁまぁ、お二人とも。まずはお食べよ。しっかり食べないと持ちませんよ。今日一日は長いのだからね。ちゃんと昨日は眠れたかい? しっかり眠ってしっかり食べないと、貴重な体験がもったいないよ」
ユーゴーが諫める。しかしその顔は実に嬉しそうだ。人の幸福を自分のことと感じて楽しむ享楽家ユーゴーが面に出てきたのである。
「いいえ、一睡もできませんでした」
「なんと。程好い疲れは神経を覚醒させるからね。それで寝付けなかったのかな。それでは、午前中は休んで、午後からにしようか?」
「そんな、勿体無いです」
「でも、寝ないと身体に負担だよ。健康に損だ」
「でも、眠ってしまうのはもっと勿体無いじゃないですか!!」
「これが若さかな!! まぁ、急がば回れだよ」
「私たち、真っ直ぐな性格ですから」
「蓮子、とってもステキだけどね。中庸の徳も大事だよ」
「どうにかなりませんか、ユーゴーさん」
「そうして私を頼るんだね!!」
「ねぇ、蓮子。さすがにちょっと、ご迷惑かもよ。ユーゴーさんだって、お休みしていらっしゃらないみたいだし」
「このユーゴーならば平気さ。三日か四日くらい、眠らなくても全然ね」
「それは……凄いですね」
「でも君たちは人間だからね。ほどほどになさいよ」
「そんなユーゴーさんがいらっしゃるなら、私たちがくたびれても、何とかしてくださいますよね?」
「そう来たか」
「頼りになります」
「本当に?」
「えぇ、本当に」
「メリーさん。あなたも私を頼りにされるのですか?」
「えっと……その……ご迷惑ですか?」
「もっと頼っていいんだよ?」
「あ、それじゃ……頼りにしています」
「頼られてしまった!! 若い女性に頼られたとあれば、どうにかしないわけにもいかないね。そう思うだろ、藍君?」
このユーゴーの快活さは、疑心を晴らす清風である。
「それでは、活丹をお持ちしましょう。滋養強壮によく効きますから、一夜の疲れくらいならば何とかなるでしょう」
そうして陽気なユーゴーの大笑いは、蓮子とメリーの慎ましやかな笑顔と相まって、朝の一時を格別なものにしたのであった。
六
三人が最初に訪れたのは、妖怪の山、天狗たちの集落であった。
蓮子とメリーのみならず、ユーゴーも幻想郷のことに関しては、興味津々という様子であるが、つとめて聞き手に回ることにして、三人の話に耳を傾けていた。
「天狗さんたちの住んでいる家って、やっぱり藍さんのお屋敷みたいな日本家屋なんでしょうか」
「いいや、それがね。意外に思うだろうけど、近代的な建築物に住んでるんだよ。彼らは新しいものが好きだしね。日本家屋は、むしろ故郷の実家というところさ。若い天狗たちは、アパートに住んでる」
「あ、アパート!?」
「便利だもの」
「それは確かにそうでしょうけど……」
しかし、アパートの建築ができるということは、相当な技術力が幻想郷の妖怪にあるということなのだろう。現代を全く感じさせない風景のうち広がるこの世界において、アパートという単語は違和感を覚えさせる。しかし、アパートを建築するという、その技術力はどこから得ているのだろうか。実は、外の世界と幻想の世界とは容易につながることができて、お互いに交流しているのかも知れない。
「なんかちょっと勝手なことを言うようですけど、私、天狗さんには伝統的な日本家屋に住んでいて欲しかったな……」
「う。その気持ち、何か分かるよ、蓮子」
「そのほうが風情がありますからね。こんな山奥で、一地域だけ妙に近代的というのは、正直、見ていて変な気持ちになります。紫様も、醜いと仰って嫌われていますし」
「う~ん……でも、天狗さんたちからすれば、やっぱりそのほうが生活しやすいんですよね」
「そうですね。それは人間たちと同じことです」
そんなことを話しながら、到着した天狗の集落は、峡谷の合間に忍ぶようにして広がる、近代的な街並みなのであった。南アジアの発展途上国、その地方にある比較的大きな都市、具体的にはベトナム中部の都市・ダナンという感じである。街に着くまでの間、何度か空を飛ぶ体験をした二人であったが、さすがにハングライダーよろしくとこれを楽しむところまではいかなかった。正直、ちょっと酔いそうになったのは、徹夜明けの限界というところか。
集落に着いた二人はちょっとガッカリしていた。
天狗の姿が、思ったよりも「人間」であり、どうにも妖怪の住処に来たという趣がないのである。また、お店などを覗いてみても、特別変わったものを売っているわけではないので、なおさら拍子抜けするのだ。もっとも、変に観光地化していて、天狗ちゃん人形だとか天狗ちゃん饅頭だとかを売ってたりすると、それはそれで白けてしまうのだが。ただ、それでも時折天狗装束を来た者や、狼天狗の半分獣な姿を見ると、そうは言っても、やはり人間社会ではないという実感はさせられるのであった。
そうして天狗の集落を見回っていると、一人の天狗が話しかけて来た。
「あれ? 珍しいわね。八雲紫の式が、人間を連れてこんなところにいるなんて」
「おや、あなたは確か、姫海棠さんだったかな。久しいね。この方たちは、紫様のお客様でね。いろいろと案内してさしあげているんだ」
「へぇ、八雲紫のお客様!! しかもそのうち二人は人間……ちょっと面白いわね」
「あ~、取材ならまたの機会に……」
「取材……あ、天狗さんって、新聞記者さんなんでしたっけ」
「そうだよ!! よく知ってるね。私、花果子念報っていう新聞を書いてる、姫海棠はたて。よろしくね」
「あ、私、宇佐見蓮子っていいます」
「私は、マエリベリー・ハーン……メリーって、呼んでください」
「うんうん。蓮子さんに、メリーさんね。早速、取材させてもらってもいいかな?」
「いや、ですからまたの機会に……」
「あ、私たちだったら、全然気にしませんよ? ちょっと天狗さんたちに興味があるし、むしろ歓迎?」
「あ~、二人とも話が分かる人でよかった!! お礼に美味しいものをご馳走するわ」
「わ、嬉しい。良かったね、メリー」
「うん!!」
どうした心安さか、すぐに打ち解けた三人に連れられ、一同は、はたてお勧めの甘味処へと向かう。天狗の街の名物が、御餅であるあたりは、さすがに天狗らしいと言える。加賀の松任に伝えたという伝承の残る、由緒ある銘菓の本物を楽しみ、蓮子もメリーもほくほく顔だ。
「金沢には何度か行ったことがあるし、お土産にあんころ餅も買ったことがあるけど、こんなに美味しくはなかったなぁ」
「ふふふ……そのあたりは、やはり本家本元の、秘伝というものがあるのよ。例え同じ材料を揃え、同じ方法で作ろうとしても、職人の腕に違いもあり、また材料や気候に微妙な差異もあり……とりあえず、外来人が本当の甘味に舌鼓っと。これは天狗社会の素晴らしき伝統を再評価し広く伝えるよい記事になるわね……」
「この前の、老狐が伝える至高のいなり寿司は良い記事だったわね。試させてもらったわ」
「グッ……そ、それはアイツの書いた記事よ」
「あ、そうだったっけ? う~ん、天狗の書いている新聞は数が多すぎてどれがどれだか分からなくなっちゃうわ。いっそのこと、みんなで新聞会社を作ってしまえばいいのに」
「分かってないわね。個人の趣味としてやるからこそ楽しいんじゃないの。組織化して、そこに所属するようになれば、もうそれは自分のためにやる新聞じゃなくなる。そんなの本末転倒よ」
「新聞って……これ、個人で書いてるの?」
「うわぁ、それはスゴイ……」
そうしてサンプルに渡された新聞を見ながら感嘆する二人。
「どうやって印刷してるんだろう……」
「パソコンとかってないですよね」
「手書きだったりするんですか?」
「手書きの新聞もあるわね。大体はタイプライターを使うけど」
「他にお仕事をして、趣味に新聞を書くって……寝る暇がなさそう」
「妖怪だから、あんまり寝ないでも平気なのよね」
「カメラはあるんですね」
「やっぱり写真があると全然違うからね」
「どんなカメラなんですか」
「う~ん、私のは特別だからあんまり見ても参考にならないと思うけど」
そうして取り出したはたてのカメラ……そう、携帯電話を見て、蓮子とメリーは色めきたった。
「す、すごい!! 見て、蓮子!! ガラケーだよ、ガラケー。うわぁ、すごいなぁ。ちょっと触ってみても良いですか? 私本物触るのはじめてかも。見るだけなら博物館で見たことあったけど……」
「私は親戚に持ってる人がいたなぁ。もちろん、使えないけど。錦鯉ケータイって言って、学生の時に使ってたんだって」
「錦鯉ケータイって、さすがガラケーね。センスが半端ないと思うの。う~ん、これが一世を風靡した折りたたみスタイルかぁ……」
「え、何? そんなに珍しいの? 外の世界では、これくらいのものは普通だと思ってたけど」
「そんなことないですよ!! 今ではもう、一切販売されていなくて、マニアがコレクションのために高値で売り買いする、一般人には手の出ない高級品です。壊れたら修理してもらえないので、自分たちで修理したりするというすごい世界ですよ」
「ガラケー……ガラパゴス携帯って言って、今ではもう、失われた技術の一つですよ。こんな小さな画面とボタンで、よくこれだけの視認性と操作性を達成したものね。画面とボタンが別々っていう時点で、かなりハードルが高いと思うの」
「うんうん。すごいよね。タッチパネルがまだ普及していない時代の、試行錯誤の結晶だよね」
「サムソンが裁判で負けて、新しい技術としてサムフォン・クロニクルを開発したころから、さらに技術は発展してさ。現代社会でも習うもんね」
「ガラパゴス携帯……カッコイイわね。外来人も認めたという箔付きで、私の記事がガラケーブームを巻き起こすのね……燃えてきたわ」
思わぬガラケーの高評価に、記者魂がくすぐられたはたては、怒涛の取材を開始する。そこで二人に見せられた最新の携帯電話の新感覚に仰天し、熱が覚めやらぬ。
それを見てユーゴー、やおら懐に手を入れて携帯電話を差し出す。
「どうせ使わないからあげるよ」
それを見て驚いたのは、むしろ蓮子とメリーである。
「そ、それ!! アイフォンの日本限定生産、オロチじゃないですか」
「そうなのかい?」
「一台あたり、十万くらいするんですけど」
「そうか。良かったね、お嬢さん」
はたてはオロチを受け取ると、目を燦々と輝かせて抱きしめた。最強の携帯と言われるオロチは、ビンの蓋を開けたり、ワインのコルクを抜けるという迷走著しい一品で、それがネタになる大金持ちには結構ヒットした商品である。オロチの多機能性に感動したはたては、ようやく四人を開放し、
「ちょっとお礼に見せてあげるわ」
と言って、藍の弾幕を撮影し、切り抜いて見せてのサービスだ。この幻想のカメラ機能には、蓮子とメリーも、「さすがガラケーは格が違った。」と唸らずにはおられなかった。
思わぬ手土産に気分を良くしたはたては、その後、河童の集落と工場にまで二人を案内してくれた。
そうして紹介したのが、河童の技術者・河城にとりである。
「お~い、にとり~。遊びに来たよ~」
「ん~、どうしたの、はたて。はたてが誰か連れてくるなんて珍しいじゃん」
「ちょっとね。何か、八雲家のお客さんが幻想郷を観光してるんだって」
そうして一同を見たにとりは、人間がいるのを知って大いに喜んだ。
「あの盟友は、外の盟友だね」
「うん、そうだよ」
河童のにとりはなかなかに強かである。
特に、外の世界から来た人間に関しては、過去の経験からいって、ありがたいお土産を置いていってくれることが分かっているからである。
「やぁやぁ、よくこんな辺鄙なところまで来てくれたね。ささ、何でも好きなように見ていってよ。狭い工房だけど、種類は豊富に揃ってるよ」
そう言われて工房の中に入る蓮子とメリー。
藍は、臆病な河童が、内心九尾に怯えていることを知っているため、外で待つことにした。ユーゴーは、狭い工房に自分が入るのは迷惑だろうと察して、藍とともに外で待つことにした。にとりにとっては、カモ二匹、儲ける良い機会を得られたというところである。
「へぇ……なんか、普通に工場みたい」
「レッドバロンってこんな感じだよね」
「私、レッドバロンとか行ったことないよ」
バイクに乗らないメリーは、蓮子行きつけのレッドバロンがよく分からない。
「こう、レッドバロン+ドンキホーテみたいな」
ドンキホーテはさすがに分かる。
たぶん、レッドバロンというのも、あんな案じに雑多なのだろう。
「レッドバロン? ドンキホーテ?」
ついて来れないのはにとりであるが、それは当然というものだろう。
「外の世界のお店ですよ」
「へぇ。有名なお店?」
「えぇ。とても」
そうして説明をするメリーと蓮子。それを尻目に考えるのは、はたて。
(外来人が、外の世界の一流店である、レッドバロンとドンキホーテの良いところを複合したようなところだと評したのが、こちら河城にとりの工房である……うん、いいんじゃないかな)
詳細は聞かないのが新聞記者の強かさである。
「そういえば、はたてさんのケータイもにとりさんが作られたんでしたよね」
「そうだよ」
「では、あの写真機能も、にとりさんが?」
「あ~、それは……」
蓮子とメリーの二人が、カメラに興味があると知って、にとりはチャンスと心得た。
「さすが盟友、お目が高いね。カメラに興味があるんだね。もう、はたてのカメラは見せてもらったかい? 弾幕が消えた。驚いたでしょう? 私のカメラは、普通のカメラとはちょっと違うからね。まぁ、河童の中でも私くらいだよ。これほどのものが作れるのはね。私のカメラは、景色のみならず、魂までも写し取ることができるんだよ」
「魂までも?」
「そう。まぁ、つまりは霊的なものを写し取れるということでね。だから弾幕を切り取ることができたわけだ」
「私たちが使っても、同じことができるのですか?」
「もちろんさ。もっとも、君たちが使うとなると、動力をカメラに組み込む必要があるから、はたてのカメラみたいに小型化できないし、文のカメラみたいに高性能化はできないがね」
そうしてにとりが取り出したのは、無骨に大きいポラロイドカメラだった。
「これはポラロイドカメラと言ってね、撮った景色をその場で写真に封印するという、簡単な結界の理論を応用して作られた初期のカメラさ。だから、ポラロイドカメラは、もともと霊的なものを封じ込める力を持っている。そこに私が、より強い霊を封じ込めることができるように、バッテリーを組み込み、技術改良を施したという一品物……どうだい、欲しくなって来たろう?」
「お~……なんかスゴイよ、メリー」
「外の世界ではちょっと考えられない一品だね……」
「そうだろうそうだろう。河童の技術力は、まぁ、人間たちにも引けをとらないんじゃないかな~っと、内心思っていてね」
得意満面になるにとりの、自負は決して口先のものではない。
だが、弾幕を消す機能……どうにも二人にはその価値が分からなかった。
「でも、そのカメラ、私たちにとってはあんまり必要ないかも」
「え!? どうしてだい」
「だって……弾幕とか、私たち使わないし」
にとり、「チッチッチ。」と指を振るその顔は、「舐めてもらっちゃこまるよ。」とでも言いたげである。
「お二人さん、私の言うことをちゃんと聞いていなかったね。このカメラは、霊的なものを写し取るんだよ? 分かるかい? つまりね、幽霊なんかも撮影すれば、この写真の中に封じ込めることができるんだよ」
「お~、それはスゴイ」
「人間でも、力の弱い妖怪くらいなら、封印することもできるね」
そうしてにとりは、いくつかの写真を取り出した。
するとその中には、確かに幽霊や妖怪の姿が見える。
「耳を当ててご覧。声が聞こえるから」
「え!!」
「封印したんだよ」
「え、え……本当に?」
「どうしてウソを言う必要があるんだい」
恐る恐る耳を寄せる蓮子とメリー……確かに、写真から呻き声が聞こえてくる。
「す、すごい」
「これは本当に、にとりにしか作れないカメラだからね。すごいんだよ」
「まぁ、多少はね?」
はたてのヨイショにすっかり天狗になるにとり。
蓮子とメリーは、段々とこのポラロイドカメラが欲しくなって来た。
「う~ん、でも、お高いんでしょう?」
そう、問題はお値段である。
いくらお値段以上でも、お金がなければ買えないのである。
「そんなことはありませんよ。そうですね……私もエンジニアですからね。お金よりも物が欲しい性質でして……外来の機械と交換ということでどうでしょうか」
「機械って……私たちが持ってるの、ケータイくらいしかないよね」
「そうかぁ。ケータイくらいしかないかぁ。う~ん、仕方ない。それで我慢しよう!!」
この河童はなかなか強か。もとからお求めはケータイなのだ。どうしても、あのタッチパネルという技術は解明できない。既に解体されたケータイは十台を超えるというのに。
「でも、ケータイは無いと困るし……」
「ちょっと手放せないよね」
「いやいや、でも、ケータイは外の世界でいくらでも買えるじゃない。それにくらべて、このカメラは、ここだけ。今だけ。しかもすっごいお買い得なんだから」
「それはわかりますけど、ケータイって、いろいろな人のアドレスが入ってたり、シャメもたくさん入ってるし……思い出もたくさん詰まっていて、そんな簡単に手放せないんですよ」
「う~ん、惜しいね、メリー。秘封倶楽部的には、是非とも欲しい一品だったんだけどね」
にとりにとって予想外だったのは、想像以上にこの人間が思い出を大切にするということだった。何度か会ったことのある他の盟友たちは、「どうせ使わないし。」「記念にいいかな。」「河童たん……ハァハァ。」と言って、結構簡単に渡してくれたのである。
「お金ならいくらかあるけど……って、使えないよね。外のお金」
実は外来のお金は、珍しいということで、コレクターが高く買い取ってくれるのだが、まさか札束を抱えているわけでもなしに、所詮ははした金である。そうして彼女が欲するものの多くは、お金を積んでも手に入らないものばかりである。
お目当ての一品が手に入りそうにないと分かると、にとりはガッカリしてしまった。そうしてもはや、どこにもカメラを手放す理由などはなくなったのであるから、二人の相手をする気持ちも薄らいでしまった。
「お嬢さん、ちょっとこっちに」
そんなとき、そう言って外から入ってくる人影があった。
その巨体は他にあるまい。
ヴィクトル・ユーゴーである。
何事かと思い、手招きして呼ばれたにとりが外に出る。
「何だよ、おじさん」
「これをあげよう」
そうしてにとりが手渡されたのは、懐中時計であった。
一目して、にとりに戦慄走る。
ユーゴーが渡したのは、車の買える超高級時計である。
人界最高の職人たちの、技術の粋が集って誕生した黄金の懐中時計を、ユーゴーは惜しげもなく差し出したのだ。
(え、ちょっと、これ……うわ、スゴイ細工。ていうか、本物の黄金と金剛石を使ってるんだよね……)
にとりが驚きのあまり声を失っていると、
「これもあげよう」
そうして腕時計もはずして渡したのである。
「ここをこうすると、面白いよ」
その細工時計の技術は、最新のテクノロジーとは別次元でにとりを驚かせた。
この二つの時計は、外の世界では、「跳ね馬」も御するほどに価値がある一品である。
「君は、優秀なエンジニアだね」
「あ、はい。お褒めに預かり光栄です」
「お金に興味がないというのも、如何にも職人気質だね。気に入った。でも、それ故に資金繰りに苦しむときも多いでしょう。そういう人を私は何人も知っている。だから、これもあげよう」
そうして手渡した子袋の中には、純金のコインがぎっしりと詰まっていた。
「ねぇ、そこの盟友」
にとりは家の中に入ると、ポラロイドカメラを取り出して二人に渡した。
「持って御行きよ」
ユーゴーはカメラを手渡された若い友人の笑顔を見て、満足してまた外に戻っていった。
六
その晩、マヨヒガに戻って来た三人を出迎えたのは橙であった。
「お帰りなさい。今、紫様がご飯作っとるから、待っとられま」
「紫様が?」
「はい、藍様」
「手ずからの夕餉ですか。楽しみですね」
実際のところ、八雲紫の料理の腕前は、八雲藍より一枚上である。だが、その腕前を発揮することは滅多にない。ユーゴーが特別なゲストであることの証明である。
「もしよかったら、先にお風呂入られ」
橙の勧めにしたがい、先ずは蓮子とメリーが、そしてユーゴーと藍が次に入った。
「お背中をお流しします」
「うむ。頼んだ」
こうした持て成しもまた、然るべき地位にある人物に対しては当然のものである。もちろん、お気に召しますれば、後で御緩りと……という話ではあるが、ユーゴーはそうした低俗な趣味を持たない。
湯浴みの最中、藍はユーゴーに尋ねたき由があった。
(どのようなご用件で、幻想郷に来られたのでしょうか)
まさか、本当に物見遊山に来たわけではあるまい。
だがしかし、今日一日の、ユーゴーが様子を見る限りでは、物見遊山と見ても間違いではないように思えるのだ。あまりにも穏やかに楽しみ、若い女学生を優しく見守っているこの御仁は、まさにバカンスの供を得た富豪そのものである。
(貴人の考は、なかなかに解し難い)
主、八雲紫も同様に、深慮を察し難い人である。
ついでに言えば、西行寺の主も、理解し難い人である。いや、あれは何というか、紫様をも凌駕するくらいに飄々とし過ぎていて、もう無理だと諦めがつく。下手に推測しないのが、一番の良策だと思い至るほどに。
(こんな調子では、紫様を落胆させてしまうな)
この度、藍に同行を許し、こうして湯の供までさせているのは、まず、藍にユーゴーの魂胆を探らせる目的があってのことだろう。その暗黙の命令に対する、答えは芳しくない。
そんな藍の思惑を、ユーゴーは端から承知していた。
「どうだね、藍君。私のことが、少しは分かったかい?」
藍、返答に窮する。
「全て、ご存知でしたか」
「あぁ。当然、八雲紫の式であれば、そのくらいのことは考えるだろう。実際に、私の動きもいささか妙であろうしな」
「では、もはや包み隠すこともいたしますまい。ユーゴー殿、あなたの目論見は一体どのあたりに」
「ふふふ。そう焦ることもあるまいよ。じきに教える。もうしばらくは、余暇を楽しませて欲しい」
そう言われては、これ以上の言葉もない。
藍は黙って、ただ湯の供をするのみであった。
湯から上がった後、主である八雲紫自ら給仕を行うという格別の待遇であったが、これもやはり、目論見があってのことである。それを飄々として意に介さぬ、ヴィクトル・ユーゴー。どこにしまっていたのやら、木の実に紐を通してカチャカチャと鳴らして遊ぶ、アフリカの伝統玩具であるとか、カエルを模した東南アジアの面白木魚であるとか、そんなものを次々に橙にくれてやるのである。橙は橙で、物珍しい異国の玩具に眼の色を変える。自然口数も多くなって、場が賑わう。かわいい年下の女の子が喜ぶのを見て、蓮子とメリーも愉快になる。すると話に花が咲く。こうなると、八雲紫の、それとなく問い詰めるといった、婉曲な遣り口が不相応な場が作られる。無粋をやらかすような真似を、八雲紫がするわけもなく……気がつけば夜半の初刻である。橙がすっかり眠たくなってしまったのを皮切りに、皆、眠りに就くことになった。
藍は言われずとも、自分のしなくてはならないことを了解していた。
夜伽の相手をすることもまた、大事の一つに間違いないのである。
八雲の式として、時に剣となり盾となるが、他方で猪口とも匕首ともなるのが藍である。
その晩、藍はユーゴーの部屋に赴いた。
好色絶倫で知られ、世界に百人の愛人を持つユーゴーである。この誘いを断るわけもなかった。
ユーゴー、藍が来ると、布団の中に招き入れた。
「お入り」
「失礼致します」
「お休み」
「はい……って、えぇ!?」
「ん、どうした?」
「どうしたって……何もないのですか」
「あぁ……ちょっと、耳を触らせてくれ」
「……どうぞ」
「ん~……私は寝相が悪いからね。ほどほどで、帰っていいよ」
「そ、そういうわけにも」
「大変だなぁ」
「……」
そうして、寝た。
文字通り寝た。
気持ち良さそうに眠るユーゴーの傍らで、藍はどうしたものか分からなかった。
正直、少しだけプライドが傷ついた。
藍は全く眠れなかった。
翌朝、思い切ってユーゴーに意を問いただした。
ユーゴーの答えは簡単であった。
「私は友を抱いたりはしないよ」
十大怪奇、その筆頭からの、格別のお言葉であった。
七
幻想郷を訪れて三日目。蓮子とマリーは、昨日に続き、妖怪の山を散策することにした。この日は単なる山登りである。山登りであるが、そこは幻想の世界の山登りである。日本の原風景が打ち広がっている、その光景こそが現実とは思われない。もちろん、妖精や妖怪がそこいらにいるということもまた、異なことには違いなかったが。
純粋に観光を楽しむ三人を尻目に、藍は一人、ユーゴーの本意を探っていた。
ユーゴーという人物が、豪放磊落な人物であることは間違いない。嘘偽りを言うような、詰まらぬ小細工は嫌うと見て間違いなかろう。そのため、藍のことを「友」と呼んだことも、嘘ではあるまい。
しかし一角の人物は皆、矛盾するものを内に秘めているものである。それでいて本人にとっては矛盾がないような、特別な論理を持っているのである。それはなかなか、常人には理解できない。それが不幸な行き違いを生み、友の間を分かつことになるのだということを、藍は承知しているのである。
だがこの日も結局は特別な発見がなかった。
四日目は、人里を見て回った。少しばかり、花畑を覗いた。すると、花の妖怪がやって来た。
一礼して、ユーゴーは言う。
「花には表情があります。その表情を見て、人間は詩を詠むのです」
そのユーゴーの言葉に、風見幽香はにこりと笑って、花の花畑へと消えて行った。
五日目には、博麗神社を見て回り、地底を覗いた。
六日目には、無縁塚を訪ね、幽霊詣りと相成った。
七日目にはまた人里を訪れた。そうして竹林へ向かうと、ユーゴーは一言、「竹林に龍が潜みおる。」と呟いた。
八日目には、また妖怪の山に帰って来て、この日は八雲家御用達の金狐亭にて宿泊することになった。金狐亭は、幻想郷の美味を粋の粋まで極めた職人たちを雇い、幻想郷の絶品に加えて紫が認めた外界の品までを食材として揃えており、絶無の美食を堪能できるという場所なのである。
その前評判を聞いて、秘封倶楽部の二人は、思わず喉を鳴らしてしまった。実際のところ、幻想郷に来てからの食事は、ほとんど二人の口には合わなかった。塩も砂糖も取れないこの山地では、それも当然である。もちろん、それを知っている藍は、二人には格別の食事を勧めたが、二人はあくまで庶民料理を望んだのであった。自業自得というものであるが、この殊勝な心がけから来る正直な反応を、無下にはできない。
「こんこん。ようこそお越しくださいました。私が女将の金でございます、こんこん」
「やぁ、お金さん。相変わらずお元気そうで何よりだ。今日は厄介になるよ」
「こんこん。心ばかりではございますが、誠心誠意、お世話させていただきます、こんこん」
狐顔に狐目、狐の耳に狐の尻尾。狐の手足という狐美人に出迎えられて、秘封の二人は大喜びだ。
「よろしくお願いします、お金さん」
「こんこん。こちらこそよろしくお願いします、お嬢様方。全くかわいいお嬢様ですね、こんこん」
「お金さんも、とってもきれいな方ですね」
「あらあら、お世辞がお上手ですこと、こんこん」
そうして湯浴み、美味に舌鼓、芸者に粋をご披露いただき、酒を緩やかに交わす四人。
「くぅ~……本当に最高!! もう、毎日が感動ですよ。ねぇ、メリー」
「うんうん。本当に。何だか、まるで龍宮城に迷い込んだみたいです」
「ハッハッハ。なるほど。竜宮城か。海のメルヘンだね。ならば幻想郷は、丘にある龍宮城と言っても、あるいは良いかも知れない」
そうした三人の談笑の傍にあって、藍も心が温かくなる。色には出さぬが、情に厚いのがこの者の性である。そもそも、薄情な人となりならば、橙を式にしたりはしなかったろう。
だが他方で、式としての務めもよく心得ている。
常にユーゴーの真意を求めて、よく彼を観察していたのである。
しかし、やはりユーゴーからは何も他意を掴み取れない。多少、竹林に差し掛かったとき、眼差しが真剣になったくらいだろうか。
もう一つ気になると言えば、ユーゴーが紅魔館には訪れなかったことである。
もちろん、限りある日程であるから、紅魔館を訪れないこと自体は、別に不自然でもない。例えばまだ、天界を訪れてはいない。妖怪の山でも、守矢神社には行っていない。だからこそ、藍はそこに意図があるように感じてしまうのだ。
(しかしそもそも、そう私が感じるのは、私がユーゴー殿の郷を訪れたことと、レミリアの郷を去ったことを、関連付けて考えているからに過ぎないのだろうか)
そんなことを考えていると、意外な展開が訪れた。
「あの、ユーゴーさん。ちょっとお聞きしたいことがあるんですけれども」
「なんだい、蓮子君」
「どうしてユーゴーさんは、私たちにこうまで良くしてくださるのですか?」
「旅の道連れ、では納得できないかな」
「はい。ちょっと……それにしてはという気がするのです」
ユーゴーの粋な振る舞いも、過ぎては猜疑の種になる。
「ふぅむ。そうだな。実のところ、全く思惑がないわけでもないのだ」
「やっぱり、そうなんですか」
「どんな思惑だと思う?」
「えっと、実はメリーと相談してたんですよ」
「ほぉ!?」
「それで、その……もしかして……」
「ふむふむ」
「いえ、やっぱりいいです……」
「そこまで来たなら、仰いなさいよ」
「いえ、やっぱり無理です!!」
蓮子とメリーの反応を見て、ユーゴー、少し思い当たる節があった。
「ははぁん。さては二人とも、ワシが君たちを、囲い者にしようと考えているんだと、そう思ったんだな」
ユーゴーの言葉に、二人は顔を俯けて、「は、はい……」とだけ答えた。
「ガッハッハッハ。いやぁ、実に初々しい反応だな。かわいいお嬢さん方だ。ふぅむ。私のほうでも、お二人が望むとあれば、ご要望にはお応えするのですがね。しかし、私の信条として、友を抱かぬと決めておるのです。どうか、ご容赦くださいませんか」
酒の入った勢いの言葉に、蓮子はすっかり赤面してしまった。
メリーも横で、小さくなっている。
こうした二人の反応に、愛情を深めたのは、藍も同じであった。
「しかし、二人が不審に思うのも、故なしではない。当然のことだ。その不審を解く良い頃合かも知れぬな」
そう言うと、ユーゴーはやおら懐から万年筆を取り出す。
「そろそろ、自己開示をすることができるだけには、互いの信頼感を醸成できた頃合だ」
藍、驚愕。
「ま、まさかユーゴー殿!! それは」
「如何にも。これぞ我が魂」
「なんと粗忽な。軽率な」
「いやいや、藍君。これぞ妙義だ。人の信を得たくば、先ず自らが信じねばなるまい」
二人のやり取りに、キョトンとするのは秘封の二人。
「十大怪奇が筆頭。知悉者である、このヴィクトル・ユーゴーが魂は、ただこの万年筆一本にしか過ぎぬのだよ。分かるかな、君たち。例え君たちのような人間であっても、もしこの万年筆を奪うことが叶うならば、私を殺めることなど、容易いことだという話さ。つまり、この万年筆が割られれば、私は死ぬ。死なぬでも、到底ただでは済まぬことになる」
「それだけの話ではない。ユーゴー殿は、私にそのことを教えたのだ。我が主にも当然、そのことは知れる。となれば、神出鬼没の紫様は、いつでもユーゴー殿を打ち破れるということだ」
「生殺与奪の権を、私は藍君に預けたということさ」
「どうして」
「友ならば」
「友……」
その一言で藍は心中、激しい葛藤が巻き起こされた。
今彼女は、忠義と友情との軋轢を抱えたのである。
「さて、お二人。お二人の質問にお答えしよう。私の目論見であったな。なぁに、頗る簡単な話だ。私と、怪奇の髄を極めてみないか? そうしたご提案をしたいということなのだ」
「怪奇の髄、ですか」
「その通り。私はストーリー・イーター(食話怪)。物語を食することで、自らの糧とする怪奇なのさ。多くの人生を、私は食してきた。それらは全て、我が魂に刻まれている」
「も、もしかして、私たちの人生を食べるとか!?」
「ふふふ。そんなことはしないさ。私が求めるのは、君たちの記憶ではない。そう、十大怪奇の記憶さ」
その言葉に、藍はごくりと、唾を飲み込んだ。
「じゅ、十怪破りを、お考えなのですか。それはもしや、無二無双、フィッツカラルドへの復讐……」
「いいや。違う。フィッツカラルドには、復讐せねばなるまい。だがそれは、私の仕事ではない。また、私にはできぬことだ。残念ながら、私とヤツとの相性は悪すぎる。むしろ、ブリュアンなどが挑むべき相手だ」
「では、誰を?」
「ALISON」
「アリソン?」
「そうだ。ヤツを放っておくことができぬ。この世界を、掻き乱しよる、あの悪魔を放っておくことはできぬ」
ALISON(アリソン)……その存在を知る者はただ、知悉者・ユーゴーのみである。だが、その悪行は広く知れ渡っている。現在、妖怪は通常、人間社会に溶け込んでいる。溶け込み、当然のように人を殺し、喰らっている。それらは全て、統計の渦に巻き込まれ、霧散するために表に出てくることはない。そうした現代妖怪の筆頭として、人間社会に薬物を広めているのがアリソンである。
現在までに、アリソンの存在が確認されたのは二度のみ。一度目はアヘン戦争の折、清国側にあって強硬な論調を保持すべく進言する典医として。二度目は、現代日本において、麻薬を嗜好品の一つとして認めるべく主張する精神科医として。嗜好品としては認められなかったが、現実に、現在日本においては、医薬品としてではあるが、麻薬の使用は認められるようになった。
以上のことから、東アジア系の医師として世に潜んでいるということは概ね知られているが、それ以上のことは何も知られていない。
だがそれだけのことを知っていれば、道徳のある者ならば、これを討つことに充分な正当性を認められよう。
「アリソンを討つことは、義に適うことです。しかしそれに、何故彼女たちが関わってくるのですか」
問題はそこである。
どうして怪異を討つに、怪異ではなく、通常の人間が必要となるのか。
ユーゴー、それに答える。
「そもそもアリソンとは何か。おそらくあれは概念だ。集合体なのだ。ただアリソンという一つの怪奇があり、それを討てばよいというものではない。アリソンの意思を受け継ぎし人間たちこそが、私の討つべき存在なのだ。そうして彼らを探し当てるのに、私の力だけでは難しい。むしろ、彼女たちのような、若い人間こそ、アリソンの存在に近づけるのだ」
知悉者ユーゴーのみが知る、アリソンの真理である。
ユーゴー、筆を取り掲げて言う。
「百聞は一見に如かずというだろう。私は今まで二度、アリソンの意思を受け継ぎし人間を葬ったことがある。そのときの記憶の断片を、諸君らに分け与えよう」
「な、何をするんですか?」
そうして怯える秘封が二人。
穏やかな笑みを差し向けるユーゴー。
「安心したまえ。害はない。ただいささか、不快なものを見ることになろう。しかし、それを閲して後に、秘封倶楽部の活動の、指針を決めるも悪くはあるまい?」
そうして互いの顔を見やる蓮子とメリー。
二人は一度、相槌を打って確認すると、ユーゴーを正面から見据えた。
「よろしい」
ユーゴーの目が、燦々と輝く。全身から黄金の波動が漂い、見るものを捉えて離さないような、吸引力がそこにはある。
「今宵、世界は怪奇を極める!!」
ユーゴーが筆を走らせるや否や、文字が目の中へと飛び込んで来る。途端、頭の中を様々な記憶が駆け巡る。
そう、決して見てはならない、悪しき記憶が。
そこには幻想郷があった。
しかしそれは幻想郷ではなかった。
河童の工場ではケミカルが製造されていた。
魔女たちは茸で晩餐をしていた。
竹林の医師はモルヒネを垂れ流し、ナチスを崇拝しているのだ。
紅いどこかのお屋敷では、今日も血の晩餐が繰り広げられる。
そうして妖精たちは、幼女売春を平然と行う。
太陽の花畑は、大麻の草畑へと変貌していた。
そうして人里には、数多の外来人。
幻想郷へ、薬物と売春のツアーに来たのだ。
白昼、白人が幻想郷の人々を売り買いする様は、到底正視することができるものではない。
「う、うぇぇ……」
思わず蓮子とメリーは、その場で臥してしまった。
「な、なにこれ……酷い」
藍は憤然として震えが止まらぬ。
「おのれ、アリソンめ!! 貴様の好きにはさせぬぞ。幻想郷を、このように穢させてたまるものか」
三人が見た、アリソンの意思を受け継ぎし人間の記憶とは何か。
それはほとんど筆舌に尽くし難いものだ。
ただ一つ言えることは、アリソンは幻想郷を知っており、幻想郷を薬物と暴力とSEXとによって穢しつくすことを企んでいるということである。
「藍君、幻想郷とて、無関係ではおられぬということが分かってくれたか」
遊侠の徒、ユーゴーが真意は問うまでもない。このような吐き気を催すほどの悪意を許していたとあっては、世間様に顔向けができぬという考えだ。そうして、そのためには、例え死ぬことをも辞さぬという腹積もり。それが、ヴィクトル・ユーゴーの、渡世の仁義なのである。
フィッツカラルドに落とされたという片腕も、所以が知れる。
(おそらくこの御仁は、フィッツカラルドにもこの話を持ち込んだのだろう。しかしそこで、フィッツカラルドもまた、不倶戴天の敵と悟ったのだ。義弟であるブリュアンは、ジャバルに追われている。故に止む無く、神出鬼没の我が主を頼りにきたのだ。そうしてそこで、この二人と、私という友を見出したのだ。この御仁に信を置かれる……無上の光栄ではないか)
八雲藍は、共に天を抱くべき人と、共に天を抱かざるべき人との、両者を知った。
それは確かに、道を指し示しているのだ。
「はい。幻想郷の守り手たる八雲紫の式として、必ずや私が、アリソンの野心を挫かねばなりません。この八雲藍、今こそ矛となり盾となり、主命に従い戦いましょう」
我が道を まことの道と 心得らば 仰がずとても 御名に適わん
(私の進まんとしている道は正しき道だ。そう確信している以上、君命を仰ぐまでもない。あのお方のお名前を汚すことなき、まことの道であろう。つまりは、紫様の御意思に適うことなのである)
「おう、よく言ってくれた」
ユーゴーはここに、盟友を得た。
失った片腕を、補って余りある心強さである。
ユーゴーはゆっくりと、蓮子とメリーに寄り添い、そうして語りかける。
「アリソンは人間にとって恐るべき敵です。そのような怪奇との戦いに、あなたたちのような若い女性を巻き込むことは、私にとっても不本意なこと。しかし、奴らは到底、放っておくことのできない、危険な存在なのです。それは、今ご覧になっていただいた通り。どうか、お二人の力をお貸し願えないだろうか。このユーゴー、身命をとしてお二人をお守り申す覚悟でございます」
「ゆ、ユーゴーさん……」
蓮子とメリーは、震え、涙を流している。
その姿はユーゴーにとって、遺恨の業と思われた。
(やはり、残酷なことをしてしまったか。能才と言っても、所詮は若い人間の女だ。酷過ぎたのだ。悔やまれる)
だがしかし、そんなユーゴーの後悔を、二人は全く晴らしてくれた。
「私たちにできることがあるんだったら、何でもします」
「こんな酷いことないです!! 私たち、幻想郷を見て回って、本当にここが素晴らしい場所だって思いました。そんな幻想郷を、あんな世界にさせてはなりません」
「それに、外の世界でやっていることだって、無茶苦茶です」
「何が、(しってるよ。君のこと。僕らはみんなともだち。⌒∇⌒ )よ!! 友達だったら、こんなことをしないように止めるのが本当じゃないの」
「そうだよ!! 何が、(はぁぶ いず ぁ ぷらんとぅ) よ!! 植物だから大丈夫って言うんだったら、トリカブトでも食べてなさいよ」
若者の正義感は、到底アリソンの悪逆なる夢想とは相容れなかったのである。
「よく言ってくれた、二人とも。このユーゴー、お二人を見損なうところでした。どうかお許しください」
四人の魂はただ一つ、正義のために燃え上がった。
八
翌日、四人は八雲紫の下を訪れる。
そうしてユーゴーがことの経緯を説明すると、紫は、「なるほど。分かりました。」と言い、ただ藍を見て一度頷いた。
「しかし、一つだけ、やはり気がかりなことがあります」
「何でしょうか」
「堅気さんにご迷惑をお掛けすることは、渡世の仁義に反するのではありませんでしょうか」
これはユーゴーの泣き所である。
「実のところ、私は彼女たちの身の安全に関しては、あまり危惧しておりませんの。それはあなた様がいらっしゃいますし、藍がいることですからね。そもそもアリソンは、力で言えば、ほとんどそこいらの低級妖怪と変わらぬほどです。それこそ、河童の写真ですら、束縛できるほどの存在ですわ。ですから問題は別にあります」
「なんでしょうか」
「キャリアの問題です。後、家族の問題です。娘が就職もせずに、よく分からぬことをしていると知れれば、ましてやそれが危険なことであれば、親御さんは泣くでしょうね」
実のところ、それは蓮子とメリーにとっても気がかりなことであった。
特に日本という国では、通常、職業選択の機会は一度しかない。その一度の機会は大学卒業時である。その機会を失えば、それ自体がスティグマとなって、社会的地位を著しく落とすことになるのである。当然、そうした子供を生み出したということで、家族も体裁が悪くなる。社会的な権威の失墜が、親子関係にも当然影響を及ぼす。子供が正社員として就職できるかどうかということは、親子が今まで通りの関係でいられるかどうかという問題にさえ直結するのである。
ブリュアンは紫の言うことや、蓮子とメリーの気がかりとするところを全然理解できなかった。それも当然だろう。やはり、文化が違うのだ。
だがしかし、その文化の違いが、時には救いの一撃となる。
「ふむ。つまり、体裁が悪いと言いたいのだね。そうでしょう? お二人とも、ハーミットと同じ危惧をされているようだ。顔に表れていますよ。なるほど、現代人は失敗を許さない。学校を出たらすぐに働いて、死ぬまで真っ直ぐ、普通の生き方を強いられているわけだ。ちょっとでもレールからはみ出ると、途端にお先真っ暗なんだね。かわいそうに。そうして小さい頃から、文明によって去勢されるわけだ。毎日満員電車に乗って、お年寄りや怪我人を見ても、席が空いていたらいただきますだな。どうせ、他の誰かが座ってしまうもの。大した聡しさだね。立派なもんだ」
ユーゴーは平生、どちらかと言えば物静かである。ただ穏やかに微笑を携え、人々の幸福とこの世界の美しさに感動しているのである。だが一度口火を切れば、饒舌は炎の冠である。
「ところで君たち、あの、ピコピコの玩具をどう思うね? 昔、湾岸戦争の頃には、アメリカの兵士がNintendo と呼んで暇つぶしに使ったゲーム機だ。あれは良かった。私も大いに楽しませて貰った。デザインも無骨で親しみがあった。ところが最近はハイカラで小型で妙に凝ってしまって、私は酔って気持ち悪くなる。横でピコピコをされるとそれだけでうんざりする。そうそう、いつからか電話でゲームができるようになったな。ピコピコがポケットにも進出したわけだ。するとメモ帳を取り出してあれこれ考える貴重な時間が、いつからかピコピコ遊ぶ時間になってしまったわけだね。電車の中でもお構い無しだ。周りの人がしていれば、きっと恥ずかしくないのだろうね。おぉ、なんという薄っぺらさか。私はそういうのがだいっ嫌いです」
実際にユーゴーは、煩いピコピコを何度壊したか分からぬのだ。もちろん、人様のものである。
「それで君たち、私が何を言いたいかというとね、君たちはピコピコの玩具が好きかい? 私はだいっ嫌いですよ。私は身近な人が、ああいうナンセンスなものに熱中しているのを見るのがだいっ嫌いです。そんな時間があれば、ピクニックをしよう。将来を語ろう。過去でもいい。現在を語るのはなお良い。恋愛の話は最高に良い。そうして歌でも歌おうではないか。この前、散歩をしていたら、あの日本でよく見かける、若い女海兵さん六名が、怪獣のバラードを歌いながら帰るのを見て、私は嬉しくて仕方がなかったね。あれが正しい青春ではないか!! なるほど、思春期の兵隊さんだものね。怪獣のバラードはピッタシだ。あぁ、青春は永遠であれ!! 黄金の風は、これから吹くのだ!!」
合唱部の学生か、はたまた音楽祭でもあるのか。
友人と歌を楽しむ若者に幸あれ!!
「で、君たちは何を悩んでいるのだったかな。真っ直ぐに大往生しないと、親兄弟が悲しむんだったかな。まぁ、親なんて泣かせておきなさい。子供に泣かせられるなんて、他には結婚の時くらいしかないんだから。急がば回れです。しかし回れません。そう言いたいんだね。私には分かるよ。我侭なお嬢さんたちだ!!
だから、つまり何を言いたいかというと、この、ヴィクトル・ユーゴーにお任せあれと言いたいのだ。なぁ、八雲紫。君はきっと、私を甘いと言うのだろうけど、是非とも若者を甘やかせてあげようじゃないか。弱い者や悩める者を、救ってやれるのが強さというものだろう。そういう強さを、君も私も持っているじゃないか。君の幻想郷にしてやっているだけの優しさを、少し私にも与えてやってくれないかな。そうすれば私は、私の身近なところに、ちょっとした幻想郷を作ることができるんだからね」
この明らかなユーゴーの優しさは、秘封倶楽部の二人を驚かせ、藍を尊敬させ、紫を苦笑させた。
「ところで、お嬢さん方。ちょっと、お願いがあるのだが」
「なんでしょうか」
「これからの活動方針についてなのですが。実のところ、仲の良い若いご友人方の間に割ってはいるのは恐縮ではあるのですが、このユーゴーを、あなたたちの秘封倶楽部に入れてもらえないかと思っているのですよ。あぁ、もちろん、藍君もね」
「え!?」
意外すぎる提案に、二人は驚いた。
あくまでユーゴーは、二人の顔を立てたいのだ。
そうしてこのときのユーゴーが笑顔は、詩を携えた満面の笑みであった。
(ねぇ、お嬢さん方。ツマラナイ顔をしなさるな。お二人はまだまだお若い。したいことをなさい。見たいことを見なさい。溌剌とした青春の日を、そんなにお早く終わらせますな)
そんなユーゴーが考えは、彼の提案した内容、つまりは十大怪奇の討伐という大危険事から考えれば矛盾している。
だがそれは、少なくともこの人格の中にあっては矛盾しないのだ。
そうしてまた、周囲の人間に、矛盾していると感じさせないキャラクターがそこにはある。それが人となりというものだろうか。
八雲紫は数秒考えた。そうしてこう言った。
「私が万事良いように致しましょう」
「ゆ、紫様!!」
藍の驚きは感激である。
「そう言えば、あなたのこともあるのですからね」
ユーゴーの優しさは、溌剌とした紅い旋風であった。とすれば紫の優しさは、深慮なる蒼い微風である。
「藍は私の式になってから、友人らしい友人を持ったことがなかったわね。あぁ、友人は大切ね。それがきっと、心を一人前にする。藍はこの方たちと、一緒にいるのが楽しいのでしょう? とても良いことだわ。それがきっと、あなたを式として本当に成長させることになると思う」
実のところ、八雲紫は嬉しかったのだ。
藍が自らの考えで興り立たんとしたことが。
そうした藍を後押しする意味でも、秘封倶楽部の二人に温情をかけてやることは、決して紫にとって不満のあることではなかった。
「それではユーゴー殿」
「何でしょうか」
「後はお願いしてよろしいでしょうか」
「Cause I am !! (私にお任せあれ!!)」
そうして秘封倶楽部は、新しいメンバーを二人加え、活動を再開することになったのであった。
そうして幻想郷を去って一月後、そこには休学届けを出して、「八雲探偵事務所」に研修生として通う蓮子とメリーの姿があった。しかしそれは、表向きの話。二人は今日も、新しい秘封倶楽部のメンバー二人と一緒に、新しい部室で、怪奇を暴くため、活動してるのである。
青春は続く。
友がある限り。
レミケネ幸福論 や ふらふら慧音の「仁政」論 をご一読いただけると、より世界観を了解し易いかと思います。
一
秘宝倶楽部の二人、蓮子とメリーは、久しぶりの活動(旅行)のために、富山県へとやって来た。
「田舎だね、メリー」
「うん……都会から出てくると、ギャップに驚くね」
「同じ日本とは思えないよね」
「でも、こっちのほうが落ち着く」
「人工物は疲れるもんね」
彼女たちが向かうのは、「風の盆」で有名な八尾、柳田國男が『日本昔話集』でマヨヒガの伝説を紹介した猪谷、そうして北アルプス立山。秘宝倶楽部の活動というよりは、単純に就職活動の相間の気晴らしに旅行へと来たのだから、突拍子のないところへは行く予定がない。
実は旅行のメインも、グルメだったり……。
「鹿、猪、熊!! イワナに鮎、そうして富山といえばマスの寿司……おいしい山菜の天麩羅に、手打ちの蕎麦・うどん。たまらないなぁ」
「そうね。お酒も美味しいらしいしね」
「そうそう!! お酒もチェックして来たよ~。勝駒っていう、高岡のお酒が、冷酒にして絶品なんだって。日本の冷酒百選に選ばれてるの。あと、満寿泉ってのも、美味しいらしいね。銘酒立山は、京都でもおいてる店がたくさんあるからいいけど、勝駒や満寿泉は、あんまりないんだって」
「楽しみだね、蓮子」
「私、一升瓶六本で買って、アパートまで送るから!!」
「ハハハ……」
大学四年生になった二人は、もう、サークル活動なんてしていられなかった。あるいはこれが最後の秘封倶楽部になるかも知れない。
二人とも大学四年生になるまで、就職のことなどはまるで考えていなかった。豊な国の豊な家庭で育った二人にとって、既に本能が要求するほとんどの欲望は適えられていた。必然、自己実現より他に、職に求めるところなどはない。しかしながら、仕事に自己実現などは求めようがないのが現実である。このまま就職し、忙しくなって、毎日を嫌なことに耐えてばかり……ただただ空しく過ごすくらいなら、気楽なフリーター生活のほうがマシかも知れないという、そんな考えもないことはない。でもそれは、家族も友人も学歴も、許してはくれない選択だった。
「いやぁ、空気が美味しい。もうね、疲れが吹き飛ぶよね」
そう言って、満面の笑みを浮かべる蓮子を見て、メリーも嬉しくなった。インターンシップで向かったNPOが、辛くて耐えられないと泣いていたのがウソのようだ。そうしてまた、NPOへの就職という選択を視野にいれなくてはならないところも、蓮子にとってはコンプレックスなのだ。いつからか、「履歴書の空白」がキャリア上大きな問題とされ、特に企業側が採用する際に大きな減点を与えているということが分かってから、資産のある大卒の若者が、寄付と引き換えに正規スタッフとしてNPOに就職を決めるということが多くなった。これが一般企業ならば問題だが、何分相手はNPOである。引きこもりやお年寄りを時給三百五十円で雇用していたある飲食店を営むNPOに対して、最低労働賃金を守っていないとして裁判になったことがあったが、最高裁は合法として判決を下したのも記憶に新しい。今では京都大学の経済学部と人間発達学部とが提携し、市・学・官の協力事業として、京都の山中に、引きこもりを雇用対象とした大規模な工場が建てられているほどだ。もちろん、時給は最低労働賃金を守っていない。その工場を運営するのが、若者サポートネットワークというNPO……蓮子のインターン先で、京都大学の先輩たちが、一人当たり五百万円程度の寄付を引き換えにして、多数ここで勤めているということは、京都大学の学生の間では有名な話だ。
マリーは蓮子の話を思い出す。
週四日勤務の、時給五百円、一日六時間労働で、寮の家賃や水光熱費は給料から天引きされ(手取りで換算すると、概ね時給は二百五十円)、食事も出るという環境で働き、生活をする若者たち……若者と言っても、国が定めた若者の定義に従えば、上は39歳(今、45歳までを若者と呼ぶようにすべきだという議論もある)までであるから、実際には中年の男性である。そうした人達の上司として、指導する立場にある二十代の若者。この境遇が、まず倒錯的である。そうして、彼らを研究する立場にある、京都大学卒業の、私たち……こんな環境に長時間いると、人間をあたかも家畜の如く扱っているような感覚に襲われ、神経が病むのだという。
これが「日本病」というものだろうか。「日本病」の実体とは、こうした生々しいものなのだろうか。受験ではさらっと、「日本病」の原因が就労観や人生観の変化と精神的な病気や発達障害に悩む人の増加にあるというだけの暗記でよかったのに。現実に眼を背けたくなるのは、何も蓮子だけではなく、話を聞くメリーも同様であった。
メリーはあらためて考えると、本当に自分は、様々な社会での出来事を、受験のために暗記していただけなんだなと思わされるのだった。
日本人の若者の障害者比率が五パーセントを越えているということは、むしろ世の中がよくなった証拠だという話を鵜呑みにしていた。というのは、今までは障害者に対する偏見から、家族が障害を認めなかったり、障害への理解が浅いために本人が気付かずにいたり、どのような障害が存在するのかが充分に了解されていなかったのであり、それが現在では多くの障害が認められ、キャリアに配慮されるようになり、つまりはより良い社会が実現されたのだという考えは、確かに筋が通っているからである。
しかしそう簡単に信じるべきことではなかったのだ。
例えば現在、内気で人前でしゃべることのできない人を、障害者として認めるケースが多い。パソコンが使えない人も障害者である。失業者も障害者として認められることができる。フリーターを五年以上続けた場合も、障害者として認められる可能性がある。三年以上の浪人をした場合も、障害者として認められることがある。生活保護になった場合は、自己申告で障害者として認定される。一年以上の不登校・引きこもり経験者は、七割が障害者として認定されている。
どうした理由でか。
簡単である。
現在の社会では、人前でしゃべれない・パソコンを使えないという人は、普通ではないからである。少なくとも、普通に就職する能力はないからである。失業した場合も、再就職は非常に困難である。フリーターを五年も続ければ、もう正社員としての雇用はありえない。三年以上の浪人をした場合は、現実と理想との区別がつけられないという点での障害があるとされ、生活保護になったという事実が障害者の証明であり、不登校や引きこもりになった場合は、もはや社会復帰が困難だという理由で障害者になったとされるのである。
確かに、そうした障害者としての認定は当事者に利益が大きい。障害者として認定されることで、企業の障害者雇用枠を用いた再チャレンジの機会が与えられるからだ。しかも、彼らには最低労働賃金が課せられない。企業としては、いっそう雇用しやすい。そうして当事者にとっても、本人が行えることに対する正当な賃金を要求できるようになるため、かえって仕事に遣り甲斐を感じることができるのだ。実際のところ、アンケート結果を見てみれば、こうして最低労働賃金以下で雇用された多くの人が、「できる仕事以上に高い給料を支払われることはストレスの原因になる」と答えている。こうした事実は、結局のところ、統計データから見て、完全雇用の実現となる。世界的に、日本の事例は大絶賛され、若者は日本に誇りすら抱いている。
しかしそれは、あまりにも短慮だったのではないだろうか。
もっと他の形で解決すべきだった課題を、粗忽に解決したことにはならなかったろうか。そんなことをメリーが感じるのは、彼女が苦悩の直中にいることと無関係ではない。
メリーも就職活動では苦悩している。でもその苦悩は、蓮子とは全然違う苦悩だ。
実はメリーは、もう三つ、内定をもらっている。それも、どの会社も、不満の見つからないところだ。それなのに何故躊躇しているかというと、それらは皆メリーの母親の名前で内定をもらったようなものだから。
世界的なファッションメーカーで、女性向けの下着をデザインする母の名前は、どこの会社の人も知っていた。面接予定者、二百人が一同に揃って説明を受けている間に、メリー一人だけエレベーターで違う部屋に行き、部長さんとお話をした。お母さんのデザインセンスは、業界でもトップクラスですよ……と。
もし、仕事が名誉欲や物欲を充たすためにするものであれば、メリーは迷わないだろう。しかしそうではないのだ。そのような欲望のためにする仕事など、ただただ空しいだけなのである。少なくとも、メリーは既に蓮子とともに、日常の中に強い感動を見出してしまった。特別、贅沢などはなくとも、十二分に幸せを感受しているのである。その幸福が絶えず、メリーの後ろ髪を引くのである。
だがそのことを、蓮子に相談したとすれば、蓮子はどんな気持ちになるだろうか。それを考えるだけで、メリーは悲しい気持ちになるのだ。
蓮子とメリーの間で、気がつけばそんな境遇の差が出ていた。その境遇の差が、メリーに相談すべからずという空気を作っている。何だかメリーは、蓮子に妙な遠慮をしてしまって、最近、一緒にいると辛いな……と思うのである。
しかしそんな空気が、今日はない。
蓮子は楽しそうだし、メリーも気分がいい。
僅か半年、一年前までは、毎日がこんな感じで楽しかったっていうのにな。
大人になるのって、嫌なもんだ。
(仕方ないじゃない!! 私たちは、弱くて多感なんだから)
そう正直な気持ちを、家族に打ち明ければどうなるだろうか。決して理解されないだろう。むしろ、叱責されるだけだろう。それがメリーを、なおさら悲しませる。孤独感を深めさせ、かつての幸福な日常へと、容易にメリーを遊離させるのだ。
そんなことを思っていると、蓮子がメリーに話かけてきた。
「ねぇ、見て。あの外人さん、すっごい大きいよ」
そうして見やると、確かに大きい。二メートルを越えていそうだ。
「うぉぉ。私、あんなに逞しい男の人、はじめてみた」
「結構ガッチリしてるよね。ラグビーとか、レスリングとかしてそう……」
「してそうだねぇ。アメフトとか、バスケかも知れない」
日本の田園風景に心動かされるところがあったのだろうか。
彼方まで続く、田んぼをじっと見ている。
「あ……片腕が、ないんだ」
「うん……そうみたいだね」
その男の人は、左腕が、肘からスッパリとなくなっていた。
まさか二人の声が聞こえたわけではないだろうが、男の人が、ふいとコチラを見る。
メリーも蓮子も、ちょっとビックリしてしまった。
(あ、目が合っちゃった)
男の人が、ゆっくりと二人に近づいてくる。
容貌魁偉な中年の男性は、精悍で溌剌とした気が溢れていて、何だかとっても若々しく見える。そうして、ダンディーで整った顔つき(セオドア・ルーズベルトに似ているかも知れない)と、ややこんな場所とは不釣合いなしっかりとしたスーツ姿とが、信頼できる男の人って印象を与えてくれる。何だか不思議な人だ。
「お嬢さん方。こちらへは観光に?」
とても流暢な日本語に、二人は少し驚いた。
「はい。猪谷には、マヨヒガの伝説があるというので」
「ほぉ。マヨヒガの伝説ですか。日本の民話や宗教に、ご興味がお有りなのですね」
流暢なだけではない。この人、日本の伝統や文化に精通している。
「マヨヒガって何か、お分かりになられるのですか?」
「えぇ。日本の民話には、強い興味を持っております。ちょうど、富山大学の図書館には、小泉八雲に関する文献がたくさん揃えられておりましてね。良い読み物ですから、充分に閲覧させていただきました」
もしかして、日本のことを研究されている大学の先生なのだろうか? あるいは、ALTとか。
「すごいんですね。とても日本語がお上手だし、とても日本のことがお詳しくって」
「ハッハッハ。お褒めに預かり光栄です。お嬢さんほどではありませんけどね」
そう言われてメリーは顔が赤くなった。
(この人からすれば、私の日本語が流暢で、またマヨヒガ伝説の地を訪ねるためにこんな田舎にまで来ているということが驚きだったろうな)
物怖じしない蓮子は、はきはきと男性に自己紹介をする。
「私たち、京都大学の学生で、私が蓮子。彼女がマリーって言います」
「ほぉ。京都大学の学生さんたちですか。あそこも良いところですね。去年、石黒肇教授が、ノーベル経済学賞を受賞した折の記念講演で訪れる機会がありました。大変刺激的な内容でした。ただ、win-setのセオリーは理論に傾倒しがちで、なかなか一般の学生には理解し難かったと思いますがね。ところで、君たちの専攻は?」
「あ、私たちは経済学部じゃなくって、理系の学部なんですけどね。私が物理学を専攻していて……」
あぁ、旅行って良いなって思う。
こうして、見知らぬ人と、ステキな出会いがあるんだから。
「なるほど。前途有為な若者とこうして出会えてよかった。私の名前は、ヴィクトル・ユーゴー。フランス出身です。ですが長く、イギリスに住んでいます。趣味は旅行と、詩や小説などを書いたりもしますね。ここ一年ほどは、日本に滞在しています。日本全国、全ての都道府県を訪ね渡りましたよ」
「へぇ、スゴイ!!」
「先ほども、日本の田園風景の素晴らしさを堪能していたところです。このあたりは……そうですね、さしずめ、田疇(でんゆう・田畑)悉(ことごと)く治まり草萊(そうらい・草むら)甚だ辟(ひら)け溝洫(こうきょく・田畑の間のみぞ)は深く整う……こんなところでしょうか」
蓮子もメリーも、この男性の言っている言葉がよく分からない。ポカァンとしてしまう。
「そういえば今日は、降りみ降らずみの鳥曇で、過ごし易い一日ですね。ご存知でしたか? 富山県は、日本でもっとも雲の多い地域だって。この季節、確かに雲が出れば温かくて嬉しいのですが、そう思うといまひとつ有難味に欠けますね」
そうしてお茶目にウインクまでするのだから、二人はおかしくなって笑ってしまった。
「す、スゴイですね!! うわぁ、私、日本人やってて恥ずかしくなっちゃう」
「流暢っていうか、なんていうか……な、何か文学部の教授とかされてるんじゃないですか?」
「はっはっは……いやいや、こんなものはちょっとした子供だましですよ」
そうして呵呵大笑するユーゴー。実に豪快な笑いに、見ているほうが気持ちよくなる。
「そうそう。ところでお嬢さんたち。マヨヒガを訪ねられるのですよね」
「はい。まぁ、本当にあるのか分からないですけど」
「ふふふ。お二人は運がよい。どうです? よろしければこのユーゴーが、マヨヒガにまで案内してご覧にいれましょうか?」
「え、本当ですか?」
「えぇ。本当ですとも。私を信じていただけるのでしたら」
蓮子とメリーは、顔を見合わせる。
普通に考えれば、マヨヒガがあるとは、何とも眉唾だが、どうにもこの御仁はうそを言う人には見えない。信じさせる何かがある。
「それじゃ、お願いしても良いですか?」
「うむ。確かにこの、ヴィクトル・ユーゴーが頼まれた」
そうして一同は、猪谷の山深くへと向かったのだった。
二
猪谷駅からタクシーを呼び、三十分ほど山へと向かう。その先はもう、歩くより他にない峡谷である。
普通に考えて、こんな辺鄙なところを行くなんておかしいのだが、普通に考えると、マヨヒガがある場所はこんな辺鄙なところだろう。履き慣れたウォーキングシューズが、こういうときには頼もしい。
そうしてさらに歩くこと一時間。
さすがに二人は疲れて来た。
そんな折、ユーゴーがふいにたずねる。
「ところで君たち。幻想の世界があることを信じますか」
ユーゴーの言葉に、蓮子とメリーは顔を見合わせた。
「境界の先に、幻想の世界があることを、ね」
メリーは、まさかと思いながらも、こくりと頷いて答えた。
「はい。きっと、幻想の世界はあると思います」
「私も、あると思っています」
(だって、見たことあるんだもんね……)
二人の言葉に、ユーゴーは大満足だった。
「よろしい。メルヘンを求めるお嬢さん方。お二人は幻想の世界を訪れる資格がある。幻想の世界には二つの入り口がある。玄関と裏口だ。玄関には神社があり、裏口には墓地がある。もっとも入りやすいのが裏口だ。神の峠……天津神と国津神の住処を分かつ境として定められたこの地こそ、境界の神が誕生し、そうして零落し果てた土地なのだからね」
「では、その神の峠から、マヨヒガへと行かれるのですか?」
「いや、違う。私は少し無作法だがね、縁側からメルヘンを訪ねようと思うのだよ。そう、マヨヒガは縁側さ。縁側は、この猪谷にある」
ユーゴーがその屈強な肉体を用いて、片腕とは思えぬ働きぶりで道を切り開く。整えられた道を進む後ろの二人より、先を進むユーゴーのほうが足早で、時折立ち止まって二人を待つ余裕があるほどだ。
そうして少し、開けたところに出た。
その地に来て、メリーは驚いた。
(境界が……うっすらとだけど、見えて……しかも広がっている)
メリーが境界を覗いていることを察して、蓮子も期待で胸が高鳴る。
「さて、お嬢さんたち。心の準備はよろしいかな。じきに、星も姿を現す。あぁ、雲が晴れてきて良かった。ホラ、月が顔を出している。極々僅かにね。そうして、マヨヒガに着くころには、ちょうど良い食事時だ」
指を口に加えると、ユーゴーは器用に指笛を吹き始める。すると、次第次第に境界は大きさを広げて行き、三人が通ることの出来るサイズになった。
「上出来だ。潔いな、結界君。さて、それでは行きましょうか。私の後を着いて来てください。なぁに、すぐにお出迎えが来ますよ」
蓮子とメリーは身震いした。
境界の向こう側の世界に、まさかこうして堂々と行けるとは、夢にも思わなかったのである。何か、これには運命的なものを感じざるを得ない。
「さて、ここに来るのも久しぶりだな。相変わらず空気の澄んだ良いところだ。ホラ、ご覧。星があんなに美しく輝いている」
蓮子が位置を確認すると、間違いない。ここは幻想の世界である。
「ふふふ。二人とも、良い眼をしているね。大切になさい。稀有な力だ」
蓮子とメリーは、お互いの顔を見やる。
もう、明らかであろう。
この人は、普通の人ではない。
だが、それでも全く恐れを抱かないのは、きっとこの人が正しき人なのだという確信を与えてくれるから。
「行こう、メリー。久しぶりの、秘封倶楽部だよ!!」
「……うん!!」
蓮子の顔は、ワクワクが溢れて仕方が無いという表情だった。
三
この日八雲紫は、マヨヒガを訪れていた。
常の住家を少し離れ、この橙とネコたちとがいる、少し手狭で騒がしいが、しかし賑やかで温かみのある家を訪れるのは、決まって大事があったときである。
膝の上に寝転ぶ橙の頭を撫でながら、夕食までの一時を過ごす。
先ほど、藍が「あるいは侵入者有り」として家を出たことを除けば、全く平穏な時間である。侵入者というが、すぐさま藍に発見されるあたり、害のあるものではあるまい。おそらく、外の世界から迷い込んだ人間だろう。強制送還でお終いだ。
八雲紫は、この日幻想郷を去った、レミリア・スカーレットとの別れを思い出していた。
「ねぇ、あなた。ジャバルと戦って、勝機はあるの?」
「勝つ負けるの算段などは、もとよりしていないわ」
「勝算なくして挑むとは……死ぬ気?」
「八雲紫……あなたには理解できないかも知れないが、成否の如何に関わらず、なさねばならぬことがある。にもかかわらず、先見の明によって、敗北を恐れ、戦いを避けるといのであれば、これは無知にも劣ることよ。ジャバルのブリュアン小父様を狙うは、どこにも大義名分がない。これを助ける義の刃となることが、至極大切なことなのさ」
幻想郷の主として、この地に幸福と安定とをもたらすことが、八雲紫の本願である。そうしてそこに、彼女にとって絶対の正義があると言ってもよい。紫にとっての正義とは、その行いが正しいかどうかではなく、幻想郷を守れるかどうかなのである。
他方、レミリアにとっての本願は、徹頭徹尾、正しく生きることなのだろう。したがって、死生命を度外視して、正当な道を進むことが、彼女にとっての正義なのである。
(そうまでして突き進む正義の道が、果たしてあなたに何をもたらすというのかしら)
この聡い妖怪には、愚直なレミリアの心が理解できないのである。
「紫様……ご報告申し上げます」
侵入者の存在を確認しに行っていた藍が戻って来た。
「どうだった? どうせ、外の世界の人間が迷い込んだのでしょう」
「いえ、違います」
「あら? では、何かしら」
「間違いありません。ヴィクトル・ユーゴー殿です」
「まぁ!! そ、そんな……嫌だわ。いつもあのお方は急なのですから」
「いかが致しましょう」
「藍、すぐに食事の準備をしてちょうだい。それと橙、あなたはお迎えに上がって。私は急いで着替えるから」
そうして紫は、スキマを開いていなくなってしまった。
紫に置いていかれて、キョトンとした橙が、藍に問う。
「藍様? 一体どうしたんけぇ?」
「うん? そうか、橙はまだユーゴー殿にお会いしたことがなかったな。ヴィクトル・ユーゴー……紫様と同じく、十怪の一人。私なんかより、よっぽどスゴイ大妖怪だよ」
「そんなにすごいんけ!?」
「あぁ。でも、とても優しくて、気持ちのいい御仁だからね。さぁ、橙はお迎えにあがってちょうだい。今日はお連れの方がお二人いらっしゃるみたいだ。場所は……うん、今から行けば、ちょうどこのあたりで出会うハズだよ」
そう言うと、藍は台所へ夕食の仕度に、橙はお客様を迎えに行く。
夕食の仕度途中、藍は考える。
レミリアが十怪の一人であるブリュアンを救援に外界へ向かったその同じ日に、十怪の一人であるユーゴーが来る。まさか、偶然の一致とは言うまい。主を含めた十怪の内の三怪が、今この日本にいるのであるが、これで何も起こらぬわけがない。この幻想郷というメルヘンにいては感じられぬ、歴史のうねりのようなものを、今、藍は感じていた。
(紫様は、幻想郷を外界とは隔絶させて守り続けることが、つまりは幻想郷という妖怪たちにとってのメルヘンを維持し続けることが、何よりも大切なことなのだと思われているが、果たして本当にそうなのだろうか……)
あるいは、ユーゴーとの出会いが、そうした藍の疑問に答をもたらすかも知れないと、内心、期待を抱くのであった。
四
「遠路はるばる、よくお越しくださいました。今日はかわいいお連れさんもご一緒なのですね」
「えぇ。旅の道連れです。あなたの故郷の美しい山河を眺めていたら、河原に二輪の花が咲いておりました。旅の手土産です」
「まぁ。それでは、よく映える花器を用意しないと。藍、お召し物をご用意してさしあげて。橙、お風呂にご案内してさしあげて。女の足でここまで来るのは大変でしたでしょうからね。まずはゆっくり、疲れを癒してくださいませ」
そうして二人が案内されたのは、露天風呂であった。
なんということか。これは隠れ家どころの騒ぎではない。山中にポツンと建っている民家には、美人なお姉さんとかわいい女の子と……怪しい美少女が住んでいて、おもてなしをしてくれるのだ。
「うわぁ。この露天風呂、ネコさんが入ってるよ」
「猿とか鹿が入る温泉ってのは聞いたことがあるけど、ネコさんってのは他に無いね」
そんなことを話しながらも、心ここに非ずの二人。
紹介された藍さんと橙ちゃんの二人は、尻尾に耳が映えていて、一目で人間ではないと分かった。そうしてその二人を従える紫さんは、どう見ても中学生くらいの女の子なのだけれども、その貫禄・気品・妖艶とは、尋常のものではないのであった。
オカルトとかそんなちんけなものではない。
生々しいまでの、怪奇である。
「面白くなって来たね」
意気揚々の声をあげるのは蓮子。
「楽しもう、メリー!!」
未知の世界を前にして、勇み進むが秘封倶楽部。
かつての至高体験を、二人はハッキリと思い出したのだ。
もうづすっかり、いつもの秘封倶楽部に戻っていた。
そうして湯浴みの後、二人は衣服を藍に預け、浴衣を授かりこれを着た。
「何だか、民宿か旅館に泊まっているみたいだね」
そうメリーが感じるのも当然だろう。
露天風呂のある、広い旧家屋で、女中頭然とした藍と幼いお手伝いさんの橙がお世話をしてくれるのだ。
橙に案内され、二人は客間へと進む。
日本家屋にしては、これだけ広い客間があるのは珍しいのではないかと思う。しかしその広い客間にしても、狭いと思わされるだけの存在感がある御仁、二メートルの巨漢がいるのだから、いささかならず不釣合いである。
そうして促されるままに座布団に座る。
じきに料理が出て来た。
山の幸に溢れた、健康そうな日本料理だ。
食事となれば酒は欠かせない。
酒が入れば、必然、愉快な気持ちになり、聞きづらいことも聞けるようになるし、言いにくいことも言ってしまうようになる。
その機を逃す、蓮子ではなかった。
「あの、ユーゴーさんに紫さん。質問しても良いですか?」
「あぁ。もちろんだとも」
「そもそも……皆さん、どういうお方なんですか? こう、何か変な言い方ですけど」
「ハッハッハ。いや、お嬢さんの質問も、もっともだ。ふふふ。名前を知っただけでは、自己紹介になりますまい。とりわけ、私たちは、人間ではないのだからね」
八雲紫が、驚いたようにして言う。
「まさか本当に旅の道連れで……稀有な力を持つ方々とお見受けいたしましたから、きっと先ほどの言は、いつものご冗談に違いないと思っておりました」
「いや、これが本当に旅の道連れでしてね。彼女たちが能才であるのは、偶然ですよ。しかし、なかなか見所のあるお嬢さん方で、幻想を信じて疑うことがなかったのです。なればこそ、ここに来ることもできたというべきでしょう」
そうしてユーゴー、厳かに言う。
「我が名は文豪遊徒のヴィクトル・ユーゴー。十大怪奇が一人である。そうして彼女、八雲紫が、神出鬼没のハーミット……同じく十大怪奇の一人だ」
「十大怪奇?」
「そう。数多ある怪奇の中においても、とりわけ影響力の大きい怪奇をそう呼んでいるのですよ。ですが、とりあえず十大怪奇の話は置いておこうか。それよりも、きっと君たちには、この幻想郷の話が興味深いはずだ」
「幻想郷……」
「あぁ。幻想郷については、やはりその管理者である君から聞くのが一番だろうね」
そう言われると、八雲紫は二人を見て、ちょっと溜息交じりに言った。
「そう易々と、外の世界の人たちに、この幻想郷のことを語るべきではありませんけれども……文豪遊徒の頼みとあらば、きかぬわけにはいきませんね」
そうして語られる幻想郷談義を、秘封倶楽部の二人は、爛々と眼を輝かせて聞いた。
こうして聞き入られると、紫も話をしていて楽しい。
ついつい、丁寧にあれこれと教えてあげてしまう。
「河童って、エンジニアが多いんだ」
「天狗が新聞記者なのね。面白いなぁ」
「地底に天界に冥界……どこも見てみたいなぁ」
「冥界は見たら死んじゃうんじゃないかな」
「いや、ならばこそだよ……!!」
そうして楽しそうに談笑する二人を見守るユーゴーは、実に優しい表情を浮かべている。この快活な御仁は、若者の溌剌さを何よりも愛するのだ。
「なら、幻想郷を巡ってみるかい? このユーゴーが、お供しよう」
「え!! ほ、本当ですか!?」
「本当だとも」
「それは困りますわ!!」
ユーゴーの言葉に驚いたのは、秘封の二人よりも八雲紫である。
「あなた、さすがにそれは困りますわ」
「どうしてかね」
「ご自身の身位を鑑みてください」
「ただの詩人で小説家でついでに史家さ」
「十大怪異として、十大怪異の歴史を綴る者……知悉者ユーゴーは、只者ではありませんわね」
「言うほどのことじゃないよ。それに、幻想郷の民は世情に疎かろう」
「世情に疎いからこそ、龍を前にしては正気でおられません」
「単なる片輪さ」
「それでも四天王をねじ伏せます」
「何とかならないかな」
「無い袖は振れません」
「自重するよ?」
「No way. No how(ダメッたら、ダメ)」
ユーゴー、しばし腕を組んで考える。「う~む。」と唸る姿に、愛嬌とともに貫禄を感じさせるのは凄い。
「仕方ありますまい」
「諦めてくださいましたか」
「今晩はちょっと、長く付き合ってもらうことになりますぞ」
そうして紫に盃を差し出す。
「案ずるなお二方。このユーゴーにお任せあれ!!」
そうして酒の勝負と相成ったのだ。
五
その晩、二人は眠れなかった。
ユーゴーと紫の飲み比べとなり、先に二人は寝室に案内されたのだが、紫の話す幻想郷の姿があまりにも眩しく、その輝きに目が冴えてしまって仕方がないのだ。そうして、朝になって、一睡もしていないというのに微塵も眠気はない。ユーゴーの言葉に期待爛々、胸は高鳴って留まるところを知らない。
「ねぇ、蓮子」
「なに、メリー」
「眠れた?」
「全然」
「私も」
「だよね」
「眠い?」
「全然」
「若いね」
「メリーもね」
そんなやり取りがおかしくって仕方ないので、二人は思わず笑ってしまった。
そこに橙がやって来る。
朝餉の用意ができたことを伝えに来た橙は、ケラケラと笑っている二人を前にして、「どうしてお姉ちゃんたち笑っとんがんけ?」と不思議そうだ。二人は顔を見合って言った。
「楽しくって!!」
橙は首をかしげて分からないようだった。
心の通じ合った者同士の愉快な日常があることを、了解するには、まだこの子には早いのだろう。
橙に案内され、朝餉に向かうと、そこにはユーゴーの姿があった。
少し髪が濡れている。
朝風呂を浴びてきたのだろう。
おそらくは、酔い覚ましに。
「あの、紫さんは……」
「寝室に向かわれましたよ」
察するに易いことである。
「さて、これで揃ったね」
食事の用意を整える藍に、「藍君も一緒に是非。」とユーゴーが語りかける。
「お客様とご一緒する立場にはありませんので」
「いいや、そうでもないんだよ」
「と言いますと」
「幻想郷の案内役が必要でね。交流の意も込めて、是非、寝食をともにしようではないか」
「それは……」
「もちろん、主人の承諾は得ているよ」
そうしてユーゴーが一枚の紙を取り出して見せると、藍は一言、「ご随意に。」とだけ答えた。
「お嬢さん方。改めてご紹介しよう。彼女が八雲藍君。私たちに、幻想郷を案内してくれるそうだよ」
ユーゴーは見事、交渉を成立させたのである。
「ほ、本当ですか!! やった、メリー、やったよ!!」
「うん!! あの、よろしくお願いします、藍さん」
「こちらこそ、至らぬものですがよろしくお願いします」
恭しく頭を垂れる藍。
蓮子もメリーも、期待に胸が高鳴って抑えられない様子だ。
「まずはドコに行こうかな、メリー。私ね、やっぱり、たくさん妖怪を見てみたいな。どんなのか、興味あるじゃない」
「私は、それよりも幻想郷の人たちがどんな生活をしているのか知りたいかな。妖怪がたくさんいる世界で、普通に人が生活しているなんて不思議」
藍は妙な興味を二人に抱いた。それは二人のテンションに当てられたのか、こうして何かに胸を躍らせることのできる人格に関心を持ったのか、それとも打ち解けて想いを共有できる友人がいることを羨ましく思ったのか……。いやいや、それは考えすぎだろう。単純な話だ。この、偶然の機会を得た二人の能才。それを偶然と呼ぶべきか否か。どこかに何かの意図がありそうだと考えるのも自然な話だ。
そんな藍の考えなど、ユーゴーは全く無頓着だ。
「まぁまぁ、お二人とも。まずはお食べよ。しっかり食べないと持ちませんよ。今日一日は長いのだからね。ちゃんと昨日は眠れたかい? しっかり眠ってしっかり食べないと、貴重な体験がもったいないよ」
ユーゴーが諫める。しかしその顔は実に嬉しそうだ。人の幸福を自分のことと感じて楽しむ享楽家ユーゴーが面に出てきたのである。
「いいえ、一睡もできませんでした」
「なんと。程好い疲れは神経を覚醒させるからね。それで寝付けなかったのかな。それでは、午前中は休んで、午後からにしようか?」
「そんな、勿体無いです」
「でも、寝ないと身体に負担だよ。健康に損だ」
「でも、眠ってしまうのはもっと勿体無いじゃないですか!!」
「これが若さかな!! まぁ、急がば回れだよ」
「私たち、真っ直ぐな性格ですから」
「蓮子、とってもステキだけどね。中庸の徳も大事だよ」
「どうにかなりませんか、ユーゴーさん」
「そうして私を頼るんだね!!」
「ねぇ、蓮子。さすがにちょっと、ご迷惑かもよ。ユーゴーさんだって、お休みしていらっしゃらないみたいだし」
「このユーゴーならば平気さ。三日か四日くらい、眠らなくても全然ね」
「それは……凄いですね」
「でも君たちは人間だからね。ほどほどになさいよ」
「そんなユーゴーさんがいらっしゃるなら、私たちがくたびれても、何とかしてくださいますよね?」
「そう来たか」
「頼りになります」
「本当に?」
「えぇ、本当に」
「メリーさん。あなたも私を頼りにされるのですか?」
「えっと……その……ご迷惑ですか?」
「もっと頼っていいんだよ?」
「あ、それじゃ……頼りにしています」
「頼られてしまった!! 若い女性に頼られたとあれば、どうにかしないわけにもいかないね。そう思うだろ、藍君?」
このユーゴーの快活さは、疑心を晴らす清風である。
「それでは、活丹をお持ちしましょう。滋養強壮によく効きますから、一夜の疲れくらいならば何とかなるでしょう」
そうして陽気なユーゴーの大笑いは、蓮子とメリーの慎ましやかな笑顔と相まって、朝の一時を格別なものにしたのであった。
六
三人が最初に訪れたのは、妖怪の山、天狗たちの集落であった。
蓮子とメリーのみならず、ユーゴーも幻想郷のことに関しては、興味津々という様子であるが、つとめて聞き手に回ることにして、三人の話に耳を傾けていた。
「天狗さんたちの住んでいる家って、やっぱり藍さんのお屋敷みたいな日本家屋なんでしょうか」
「いいや、それがね。意外に思うだろうけど、近代的な建築物に住んでるんだよ。彼らは新しいものが好きだしね。日本家屋は、むしろ故郷の実家というところさ。若い天狗たちは、アパートに住んでる」
「あ、アパート!?」
「便利だもの」
「それは確かにそうでしょうけど……」
しかし、アパートの建築ができるということは、相当な技術力が幻想郷の妖怪にあるということなのだろう。現代を全く感じさせない風景のうち広がるこの世界において、アパートという単語は違和感を覚えさせる。しかし、アパートを建築するという、その技術力はどこから得ているのだろうか。実は、外の世界と幻想の世界とは容易につながることができて、お互いに交流しているのかも知れない。
「なんかちょっと勝手なことを言うようですけど、私、天狗さんには伝統的な日本家屋に住んでいて欲しかったな……」
「う。その気持ち、何か分かるよ、蓮子」
「そのほうが風情がありますからね。こんな山奥で、一地域だけ妙に近代的というのは、正直、見ていて変な気持ちになります。紫様も、醜いと仰って嫌われていますし」
「う~ん……でも、天狗さんたちからすれば、やっぱりそのほうが生活しやすいんですよね」
「そうですね。それは人間たちと同じことです」
そんなことを話しながら、到着した天狗の集落は、峡谷の合間に忍ぶようにして広がる、近代的な街並みなのであった。南アジアの発展途上国、その地方にある比較的大きな都市、具体的にはベトナム中部の都市・ダナンという感じである。街に着くまでの間、何度か空を飛ぶ体験をした二人であったが、さすがにハングライダーよろしくとこれを楽しむところまではいかなかった。正直、ちょっと酔いそうになったのは、徹夜明けの限界というところか。
集落に着いた二人はちょっとガッカリしていた。
天狗の姿が、思ったよりも「人間」であり、どうにも妖怪の住処に来たという趣がないのである。また、お店などを覗いてみても、特別変わったものを売っているわけではないので、なおさら拍子抜けするのだ。もっとも、変に観光地化していて、天狗ちゃん人形だとか天狗ちゃん饅頭だとかを売ってたりすると、それはそれで白けてしまうのだが。ただ、それでも時折天狗装束を来た者や、狼天狗の半分獣な姿を見ると、そうは言っても、やはり人間社会ではないという実感はさせられるのであった。
そうして天狗の集落を見回っていると、一人の天狗が話しかけて来た。
「あれ? 珍しいわね。八雲紫の式が、人間を連れてこんなところにいるなんて」
「おや、あなたは確か、姫海棠さんだったかな。久しいね。この方たちは、紫様のお客様でね。いろいろと案内してさしあげているんだ」
「へぇ、八雲紫のお客様!! しかもそのうち二人は人間……ちょっと面白いわね」
「あ~、取材ならまたの機会に……」
「取材……あ、天狗さんって、新聞記者さんなんでしたっけ」
「そうだよ!! よく知ってるね。私、花果子念報っていう新聞を書いてる、姫海棠はたて。よろしくね」
「あ、私、宇佐見蓮子っていいます」
「私は、マエリベリー・ハーン……メリーって、呼んでください」
「うんうん。蓮子さんに、メリーさんね。早速、取材させてもらってもいいかな?」
「いや、ですからまたの機会に……」
「あ、私たちだったら、全然気にしませんよ? ちょっと天狗さんたちに興味があるし、むしろ歓迎?」
「あ~、二人とも話が分かる人でよかった!! お礼に美味しいものをご馳走するわ」
「わ、嬉しい。良かったね、メリー」
「うん!!」
どうした心安さか、すぐに打ち解けた三人に連れられ、一同は、はたてお勧めの甘味処へと向かう。天狗の街の名物が、御餅であるあたりは、さすがに天狗らしいと言える。加賀の松任に伝えたという伝承の残る、由緒ある銘菓の本物を楽しみ、蓮子もメリーもほくほく顔だ。
「金沢には何度か行ったことがあるし、お土産にあんころ餅も買ったことがあるけど、こんなに美味しくはなかったなぁ」
「ふふふ……そのあたりは、やはり本家本元の、秘伝というものがあるのよ。例え同じ材料を揃え、同じ方法で作ろうとしても、職人の腕に違いもあり、また材料や気候に微妙な差異もあり……とりあえず、外来人が本当の甘味に舌鼓っと。これは天狗社会の素晴らしき伝統を再評価し広く伝えるよい記事になるわね……」
「この前の、老狐が伝える至高のいなり寿司は良い記事だったわね。試させてもらったわ」
「グッ……そ、それはアイツの書いた記事よ」
「あ、そうだったっけ? う~ん、天狗の書いている新聞は数が多すぎてどれがどれだか分からなくなっちゃうわ。いっそのこと、みんなで新聞会社を作ってしまえばいいのに」
「分かってないわね。個人の趣味としてやるからこそ楽しいんじゃないの。組織化して、そこに所属するようになれば、もうそれは自分のためにやる新聞じゃなくなる。そんなの本末転倒よ」
「新聞って……これ、個人で書いてるの?」
「うわぁ、それはスゴイ……」
そうしてサンプルに渡された新聞を見ながら感嘆する二人。
「どうやって印刷してるんだろう……」
「パソコンとかってないですよね」
「手書きだったりするんですか?」
「手書きの新聞もあるわね。大体はタイプライターを使うけど」
「他にお仕事をして、趣味に新聞を書くって……寝る暇がなさそう」
「妖怪だから、あんまり寝ないでも平気なのよね」
「カメラはあるんですね」
「やっぱり写真があると全然違うからね」
「どんなカメラなんですか」
「う~ん、私のは特別だからあんまり見ても参考にならないと思うけど」
そうして取り出したはたてのカメラ……そう、携帯電話を見て、蓮子とメリーは色めきたった。
「す、すごい!! 見て、蓮子!! ガラケーだよ、ガラケー。うわぁ、すごいなぁ。ちょっと触ってみても良いですか? 私本物触るのはじめてかも。見るだけなら博物館で見たことあったけど……」
「私は親戚に持ってる人がいたなぁ。もちろん、使えないけど。錦鯉ケータイって言って、学生の時に使ってたんだって」
「錦鯉ケータイって、さすがガラケーね。センスが半端ないと思うの。う~ん、これが一世を風靡した折りたたみスタイルかぁ……」
「え、何? そんなに珍しいの? 外の世界では、これくらいのものは普通だと思ってたけど」
「そんなことないですよ!! 今ではもう、一切販売されていなくて、マニアがコレクションのために高値で売り買いする、一般人には手の出ない高級品です。壊れたら修理してもらえないので、自分たちで修理したりするというすごい世界ですよ」
「ガラケー……ガラパゴス携帯って言って、今ではもう、失われた技術の一つですよ。こんな小さな画面とボタンで、よくこれだけの視認性と操作性を達成したものね。画面とボタンが別々っていう時点で、かなりハードルが高いと思うの」
「うんうん。すごいよね。タッチパネルがまだ普及していない時代の、試行錯誤の結晶だよね」
「サムソンが裁判で負けて、新しい技術としてサムフォン・クロニクルを開発したころから、さらに技術は発展してさ。現代社会でも習うもんね」
「ガラパゴス携帯……カッコイイわね。外来人も認めたという箔付きで、私の記事がガラケーブームを巻き起こすのね……燃えてきたわ」
思わぬガラケーの高評価に、記者魂がくすぐられたはたては、怒涛の取材を開始する。そこで二人に見せられた最新の携帯電話の新感覚に仰天し、熱が覚めやらぬ。
それを見てユーゴー、やおら懐に手を入れて携帯電話を差し出す。
「どうせ使わないからあげるよ」
それを見て驚いたのは、むしろ蓮子とメリーである。
「そ、それ!! アイフォンの日本限定生産、オロチじゃないですか」
「そうなのかい?」
「一台あたり、十万くらいするんですけど」
「そうか。良かったね、お嬢さん」
はたてはオロチを受け取ると、目を燦々と輝かせて抱きしめた。最強の携帯と言われるオロチは、ビンの蓋を開けたり、ワインのコルクを抜けるという迷走著しい一品で、それがネタになる大金持ちには結構ヒットした商品である。オロチの多機能性に感動したはたては、ようやく四人を開放し、
「ちょっとお礼に見せてあげるわ」
と言って、藍の弾幕を撮影し、切り抜いて見せてのサービスだ。この幻想のカメラ機能には、蓮子とメリーも、「さすがガラケーは格が違った。」と唸らずにはおられなかった。
思わぬ手土産に気分を良くしたはたては、その後、河童の集落と工場にまで二人を案内してくれた。
そうして紹介したのが、河童の技術者・河城にとりである。
「お~い、にとり~。遊びに来たよ~」
「ん~、どうしたの、はたて。はたてが誰か連れてくるなんて珍しいじゃん」
「ちょっとね。何か、八雲家のお客さんが幻想郷を観光してるんだって」
そうして一同を見たにとりは、人間がいるのを知って大いに喜んだ。
「あの盟友は、外の盟友だね」
「うん、そうだよ」
河童のにとりはなかなかに強かである。
特に、外の世界から来た人間に関しては、過去の経験からいって、ありがたいお土産を置いていってくれることが分かっているからである。
「やぁやぁ、よくこんな辺鄙なところまで来てくれたね。ささ、何でも好きなように見ていってよ。狭い工房だけど、種類は豊富に揃ってるよ」
そう言われて工房の中に入る蓮子とメリー。
藍は、臆病な河童が、内心九尾に怯えていることを知っているため、外で待つことにした。ユーゴーは、狭い工房に自分が入るのは迷惑だろうと察して、藍とともに外で待つことにした。にとりにとっては、カモ二匹、儲ける良い機会を得られたというところである。
「へぇ……なんか、普通に工場みたい」
「レッドバロンってこんな感じだよね」
「私、レッドバロンとか行ったことないよ」
バイクに乗らないメリーは、蓮子行きつけのレッドバロンがよく分からない。
「こう、レッドバロン+ドンキホーテみたいな」
ドンキホーテはさすがに分かる。
たぶん、レッドバロンというのも、あんな案じに雑多なのだろう。
「レッドバロン? ドンキホーテ?」
ついて来れないのはにとりであるが、それは当然というものだろう。
「外の世界のお店ですよ」
「へぇ。有名なお店?」
「えぇ。とても」
そうして説明をするメリーと蓮子。それを尻目に考えるのは、はたて。
(外来人が、外の世界の一流店である、レッドバロンとドンキホーテの良いところを複合したようなところだと評したのが、こちら河城にとりの工房である……うん、いいんじゃないかな)
詳細は聞かないのが新聞記者の強かさである。
「そういえば、はたてさんのケータイもにとりさんが作られたんでしたよね」
「そうだよ」
「では、あの写真機能も、にとりさんが?」
「あ~、それは……」
蓮子とメリーの二人が、カメラに興味があると知って、にとりはチャンスと心得た。
「さすが盟友、お目が高いね。カメラに興味があるんだね。もう、はたてのカメラは見せてもらったかい? 弾幕が消えた。驚いたでしょう? 私のカメラは、普通のカメラとはちょっと違うからね。まぁ、河童の中でも私くらいだよ。これほどのものが作れるのはね。私のカメラは、景色のみならず、魂までも写し取ることができるんだよ」
「魂までも?」
「そう。まぁ、つまりは霊的なものを写し取れるということでね。だから弾幕を切り取ることができたわけだ」
「私たちが使っても、同じことができるのですか?」
「もちろんさ。もっとも、君たちが使うとなると、動力をカメラに組み込む必要があるから、はたてのカメラみたいに小型化できないし、文のカメラみたいに高性能化はできないがね」
そうしてにとりが取り出したのは、無骨に大きいポラロイドカメラだった。
「これはポラロイドカメラと言ってね、撮った景色をその場で写真に封印するという、簡単な結界の理論を応用して作られた初期のカメラさ。だから、ポラロイドカメラは、もともと霊的なものを封じ込める力を持っている。そこに私が、より強い霊を封じ込めることができるように、バッテリーを組み込み、技術改良を施したという一品物……どうだい、欲しくなって来たろう?」
「お~……なんかスゴイよ、メリー」
「外の世界ではちょっと考えられない一品だね……」
「そうだろうそうだろう。河童の技術力は、まぁ、人間たちにも引けをとらないんじゃないかな~っと、内心思っていてね」
得意満面になるにとりの、自負は決して口先のものではない。
だが、弾幕を消す機能……どうにも二人にはその価値が分からなかった。
「でも、そのカメラ、私たちにとってはあんまり必要ないかも」
「え!? どうしてだい」
「だって……弾幕とか、私たち使わないし」
にとり、「チッチッチ。」と指を振るその顔は、「舐めてもらっちゃこまるよ。」とでも言いたげである。
「お二人さん、私の言うことをちゃんと聞いていなかったね。このカメラは、霊的なものを写し取るんだよ? 分かるかい? つまりね、幽霊なんかも撮影すれば、この写真の中に封じ込めることができるんだよ」
「お~、それはスゴイ」
「人間でも、力の弱い妖怪くらいなら、封印することもできるね」
そうしてにとりは、いくつかの写真を取り出した。
するとその中には、確かに幽霊や妖怪の姿が見える。
「耳を当ててご覧。声が聞こえるから」
「え!!」
「封印したんだよ」
「え、え……本当に?」
「どうしてウソを言う必要があるんだい」
恐る恐る耳を寄せる蓮子とメリー……確かに、写真から呻き声が聞こえてくる。
「す、すごい」
「これは本当に、にとりにしか作れないカメラだからね。すごいんだよ」
「まぁ、多少はね?」
はたてのヨイショにすっかり天狗になるにとり。
蓮子とメリーは、段々とこのポラロイドカメラが欲しくなって来た。
「う~ん、でも、お高いんでしょう?」
そう、問題はお値段である。
いくらお値段以上でも、お金がなければ買えないのである。
「そんなことはありませんよ。そうですね……私もエンジニアですからね。お金よりも物が欲しい性質でして……外来の機械と交換ということでどうでしょうか」
「機械って……私たちが持ってるの、ケータイくらいしかないよね」
「そうかぁ。ケータイくらいしかないかぁ。う~ん、仕方ない。それで我慢しよう!!」
この河童はなかなか強か。もとからお求めはケータイなのだ。どうしても、あのタッチパネルという技術は解明できない。既に解体されたケータイは十台を超えるというのに。
「でも、ケータイは無いと困るし……」
「ちょっと手放せないよね」
「いやいや、でも、ケータイは外の世界でいくらでも買えるじゃない。それにくらべて、このカメラは、ここだけ。今だけ。しかもすっごいお買い得なんだから」
「それはわかりますけど、ケータイって、いろいろな人のアドレスが入ってたり、シャメもたくさん入ってるし……思い出もたくさん詰まっていて、そんな簡単に手放せないんですよ」
「う~ん、惜しいね、メリー。秘封倶楽部的には、是非とも欲しい一品だったんだけどね」
にとりにとって予想外だったのは、想像以上にこの人間が思い出を大切にするということだった。何度か会ったことのある他の盟友たちは、「どうせ使わないし。」「記念にいいかな。」「河童たん……ハァハァ。」と言って、結構簡単に渡してくれたのである。
「お金ならいくらかあるけど……って、使えないよね。外のお金」
実は外来のお金は、珍しいということで、コレクターが高く買い取ってくれるのだが、まさか札束を抱えているわけでもなしに、所詮ははした金である。そうして彼女が欲するものの多くは、お金を積んでも手に入らないものばかりである。
お目当ての一品が手に入りそうにないと分かると、にとりはガッカリしてしまった。そうしてもはや、どこにもカメラを手放す理由などはなくなったのであるから、二人の相手をする気持ちも薄らいでしまった。
「お嬢さん、ちょっとこっちに」
そんなとき、そう言って外から入ってくる人影があった。
その巨体は他にあるまい。
ヴィクトル・ユーゴーである。
何事かと思い、手招きして呼ばれたにとりが外に出る。
「何だよ、おじさん」
「これをあげよう」
そうしてにとりが手渡されたのは、懐中時計であった。
一目して、にとりに戦慄走る。
ユーゴーが渡したのは、車の買える超高級時計である。
人界最高の職人たちの、技術の粋が集って誕生した黄金の懐中時計を、ユーゴーは惜しげもなく差し出したのだ。
(え、ちょっと、これ……うわ、スゴイ細工。ていうか、本物の黄金と金剛石を使ってるんだよね……)
にとりが驚きのあまり声を失っていると、
「これもあげよう」
そうして腕時計もはずして渡したのである。
「ここをこうすると、面白いよ」
その細工時計の技術は、最新のテクノロジーとは別次元でにとりを驚かせた。
この二つの時計は、外の世界では、「跳ね馬」も御するほどに価値がある一品である。
「君は、優秀なエンジニアだね」
「あ、はい。お褒めに預かり光栄です」
「お金に興味がないというのも、如何にも職人気質だね。気に入った。でも、それ故に資金繰りに苦しむときも多いでしょう。そういう人を私は何人も知っている。だから、これもあげよう」
そうして手渡した子袋の中には、純金のコインがぎっしりと詰まっていた。
「ねぇ、そこの盟友」
にとりは家の中に入ると、ポラロイドカメラを取り出して二人に渡した。
「持って御行きよ」
ユーゴーはカメラを手渡された若い友人の笑顔を見て、満足してまた外に戻っていった。
六
その晩、マヨヒガに戻って来た三人を出迎えたのは橙であった。
「お帰りなさい。今、紫様がご飯作っとるから、待っとられま」
「紫様が?」
「はい、藍様」
「手ずからの夕餉ですか。楽しみですね」
実際のところ、八雲紫の料理の腕前は、八雲藍より一枚上である。だが、その腕前を発揮することは滅多にない。ユーゴーが特別なゲストであることの証明である。
「もしよかったら、先にお風呂入られ」
橙の勧めにしたがい、先ずは蓮子とメリーが、そしてユーゴーと藍が次に入った。
「お背中をお流しします」
「うむ。頼んだ」
こうした持て成しもまた、然るべき地位にある人物に対しては当然のものである。もちろん、お気に召しますれば、後で御緩りと……という話ではあるが、ユーゴーはそうした低俗な趣味を持たない。
湯浴みの最中、藍はユーゴーに尋ねたき由があった。
(どのようなご用件で、幻想郷に来られたのでしょうか)
まさか、本当に物見遊山に来たわけではあるまい。
だがしかし、今日一日の、ユーゴーが様子を見る限りでは、物見遊山と見ても間違いではないように思えるのだ。あまりにも穏やかに楽しみ、若い女学生を優しく見守っているこの御仁は、まさにバカンスの供を得た富豪そのものである。
(貴人の考は、なかなかに解し難い)
主、八雲紫も同様に、深慮を察し難い人である。
ついでに言えば、西行寺の主も、理解し難い人である。いや、あれは何というか、紫様をも凌駕するくらいに飄々とし過ぎていて、もう無理だと諦めがつく。下手に推測しないのが、一番の良策だと思い至るほどに。
(こんな調子では、紫様を落胆させてしまうな)
この度、藍に同行を許し、こうして湯の供までさせているのは、まず、藍にユーゴーの魂胆を探らせる目的があってのことだろう。その暗黙の命令に対する、答えは芳しくない。
そんな藍の思惑を、ユーゴーは端から承知していた。
「どうだね、藍君。私のことが、少しは分かったかい?」
藍、返答に窮する。
「全て、ご存知でしたか」
「あぁ。当然、八雲紫の式であれば、そのくらいのことは考えるだろう。実際に、私の動きもいささか妙であろうしな」
「では、もはや包み隠すこともいたしますまい。ユーゴー殿、あなたの目論見は一体どのあたりに」
「ふふふ。そう焦ることもあるまいよ。じきに教える。もうしばらくは、余暇を楽しませて欲しい」
そう言われては、これ以上の言葉もない。
藍は黙って、ただ湯の供をするのみであった。
湯から上がった後、主である八雲紫自ら給仕を行うという格別の待遇であったが、これもやはり、目論見があってのことである。それを飄々として意に介さぬ、ヴィクトル・ユーゴー。どこにしまっていたのやら、木の実に紐を通してカチャカチャと鳴らして遊ぶ、アフリカの伝統玩具であるとか、カエルを模した東南アジアの面白木魚であるとか、そんなものを次々に橙にくれてやるのである。橙は橙で、物珍しい異国の玩具に眼の色を変える。自然口数も多くなって、場が賑わう。かわいい年下の女の子が喜ぶのを見て、蓮子とメリーも愉快になる。すると話に花が咲く。こうなると、八雲紫の、それとなく問い詰めるといった、婉曲な遣り口が不相応な場が作られる。無粋をやらかすような真似を、八雲紫がするわけもなく……気がつけば夜半の初刻である。橙がすっかり眠たくなってしまったのを皮切りに、皆、眠りに就くことになった。
藍は言われずとも、自分のしなくてはならないことを了解していた。
夜伽の相手をすることもまた、大事の一つに間違いないのである。
八雲の式として、時に剣となり盾となるが、他方で猪口とも匕首ともなるのが藍である。
その晩、藍はユーゴーの部屋に赴いた。
好色絶倫で知られ、世界に百人の愛人を持つユーゴーである。この誘いを断るわけもなかった。
ユーゴー、藍が来ると、布団の中に招き入れた。
「お入り」
「失礼致します」
「お休み」
「はい……って、えぇ!?」
「ん、どうした?」
「どうしたって……何もないのですか」
「あぁ……ちょっと、耳を触らせてくれ」
「……どうぞ」
「ん~……私は寝相が悪いからね。ほどほどで、帰っていいよ」
「そ、そういうわけにも」
「大変だなぁ」
「……」
そうして、寝た。
文字通り寝た。
気持ち良さそうに眠るユーゴーの傍らで、藍はどうしたものか分からなかった。
正直、少しだけプライドが傷ついた。
藍は全く眠れなかった。
翌朝、思い切ってユーゴーに意を問いただした。
ユーゴーの答えは簡単であった。
「私は友を抱いたりはしないよ」
十大怪奇、その筆頭からの、格別のお言葉であった。
七
幻想郷を訪れて三日目。蓮子とマリーは、昨日に続き、妖怪の山を散策することにした。この日は単なる山登りである。山登りであるが、そこは幻想の世界の山登りである。日本の原風景が打ち広がっている、その光景こそが現実とは思われない。もちろん、妖精や妖怪がそこいらにいるということもまた、異なことには違いなかったが。
純粋に観光を楽しむ三人を尻目に、藍は一人、ユーゴーの本意を探っていた。
ユーゴーという人物が、豪放磊落な人物であることは間違いない。嘘偽りを言うような、詰まらぬ小細工は嫌うと見て間違いなかろう。そのため、藍のことを「友」と呼んだことも、嘘ではあるまい。
しかし一角の人物は皆、矛盾するものを内に秘めているものである。それでいて本人にとっては矛盾がないような、特別な論理を持っているのである。それはなかなか、常人には理解できない。それが不幸な行き違いを生み、友の間を分かつことになるのだということを、藍は承知しているのである。
だがこの日も結局は特別な発見がなかった。
四日目は、人里を見て回った。少しばかり、花畑を覗いた。すると、花の妖怪がやって来た。
一礼して、ユーゴーは言う。
「花には表情があります。その表情を見て、人間は詩を詠むのです」
そのユーゴーの言葉に、風見幽香はにこりと笑って、花の花畑へと消えて行った。
五日目には、博麗神社を見て回り、地底を覗いた。
六日目には、無縁塚を訪ね、幽霊詣りと相成った。
七日目にはまた人里を訪れた。そうして竹林へ向かうと、ユーゴーは一言、「竹林に龍が潜みおる。」と呟いた。
八日目には、また妖怪の山に帰って来て、この日は八雲家御用達の金狐亭にて宿泊することになった。金狐亭は、幻想郷の美味を粋の粋まで極めた職人たちを雇い、幻想郷の絶品に加えて紫が認めた外界の品までを食材として揃えており、絶無の美食を堪能できるという場所なのである。
その前評判を聞いて、秘封倶楽部の二人は、思わず喉を鳴らしてしまった。実際のところ、幻想郷に来てからの食事は、ほとんど二人の口には合わなかった。塩も砂糖も取れないこの山地では、それも当然である。もちろん、それを知っている藍は、二人には格別の食事を勧めたが、二人はあくまで庶民料理を望んだのであった。自業自得というものであるが、この殊勝な心がけから来る正直な反応を、無下にはできない。
「こんこん。ようこそお越しくださいました。私が女将の金でございます、こんこん」
「やぁ、お金さん。相変わらずお元気そうで何よりだ。今日は厄介になるよ」
「こんこん。心ばかりではございますが、誠心誠意、お世話させていただきます、こんこん」
狐顔に狐目、狐の耳に狐の尻尾。狐の手足という狐美人に出迎えられて、秘封の二人は大喜びだ。
「よろしくお願いします、お金さん」
「こんこん。こちらこそよろしくお願いします、お嬢様方。全くかわいいお嬢様ですね、こんこん」
「お金さんも、とってもきれいな方ですね」
「あらあら、お世辞がお上手ですこと、こんこん」
そうして湯浴み、美味に舌鼓、芸者に粋をご披露いただき、酒を緩やかに交わす四人。
「くぅ~……本当に最高!! もう、毎日が感動ですよ。ねぇ、メリー」
「うんうん。本当に。何だか、まるで龍宮城に迷い込んだみたいです」
「ハッハッハ。なるほど。竜宮城か。海のメルヘンだね。ならば幻想郷は、丘にある龍宮城と言っても、あるいは良いかも知れない」
そうした三人の談笑の傍にあって、藍も心が温かくなる。色には出さぬが、情に厚いのがこの者の性である。そもそも、薄情な人となりならば、橙を式にしたりはしなかったろう。
だが他方で、式としての務めもよく心得ている。
常にユーゴーの真意を求めて、よく彼を観察していたのである。
しかし、やはりユーゴーからは何も他意を掴み取れない。多少、竹林に差し掛かったとき、眼差しが真剣になったくらいだろうか。
もう一つ気になると言えば、ユーゴーが紅魔館には訪れなかったことである。
もちろん、限りある日程であるから、紅魔館を訪れないこと自体は、別に不自然でもない。例えばまだ、天界を訪れてはいない。妖怪の山でも、守矢神社には行っていない。だからこそ、藍はそこに意図があるように感じてしまうのだ。
(しかしそもそも、そう私が感じるのは、私がユーゴー殿の郷を訪れたことと、レミリアの郷を去ったことを、関連付けて考えているからに過ぎないのだろうか)
そんなことを考えていると、意外な展開が訪れた。
「あの、ユーゴーさん。ちょっとお聞きしたいことがあるんですけれども」
「なんだい、蓮子君」
「どうしてユーゴーさんは、私たちにこうまで良くしてくださるのですか?」
「旅の道連れ、では納得できないかな」
「はい。ちょっと……それにしてはという気がするのです」
ユーゴーの粋な振る舞いも、過ぎては猜疑の種になる。
「ふぅむ。そうだな。実のところ、全く思惑がないわけでもないのだ」
「やっぱり、そうなんですか」
「どんな思惑だと思う?」
「えっと、実はメリーと相談してたんですよ」
「ほぉ!?」
「それで、その……もしかして……」
「ふむふむ」
「いえ、やっぱりいいです……」
「そこまで来たなら、仰いなさいよ」
「いえ、やっぱり無理です!!」
蓮子とメリーの反応を見て、ユーゴー、少し思い当たる節があった。
「ははぁん。さては二人とも、ワシが君たちを、囲い者にしようと考えているんだと、そう思ったんだな」
ユーゴーの言葉に、二人は顔を俯けて、「は、はい……」とだけ答えた。
「ガッハッハッハ。いやぁ、実に初々しい反応だな。かわいいお嬢さん方だ。ふぅむ。私のほうでも、お二人が望むとあれば、ご要望にはお応えするのですがね。しかし、私の信条として、友を抱かぬと決めておるのです。どうか、ご容赦くださいませんか」
酒の入った勢いの言葉に、蓮子はすっかり赤面してしまった。
メリーも横で、小さくなっている。
こうした二人の反応に、愛情を深めたのは、藍も同じであった。
「しかし、二人が不審に思うのも、故なしではない。当然のことだ。その不審を解く良い頃合かも知れぬな」
そう言うと、ユーゴーはやおら懐から万年筆を取り出す。
「そろそろ、自己開示をすることができるだけには、互いの信頼感を醸成できた頃合だ」
藍、驚愕。
「ま、まさかユーゴー殿!! それは」
「如何にも。これぞ我が魂」
「なんと粗忽な。軽率な」
「いやいや、藍君。これぞ妙義だ。人の信を得たくば、先ず自らが信じねばなるまい」
二人のやり取りに、キョトンとするのは秘封の二人。
「十大怪奇が筆頭。知悉者である、このヴィクトル・ユーゴーが魂は、ただこの万年筆一本にしか過ぎぬのだよ。分かるかな、君たち。例え君たちのような人間であっても、もしこの万年筆を奪うことが叶うならば、私を殺めることなど、容易いことだという話さ。つまり、この万年筆が割られれば、私は死ぬ。死なぬでも、到底ただでは済まぬことになる」
「それだけの話ではない。ユーゴー殿は、私にそのことを教えたのだ。我が主にも当然、そのことは知れる。となれば、神出鬼没の紫様は、いつでもユーゴー殿を打ち破れるということだ」
「生殺与奪の権を、私は藍君に預けたということさ」
「どうして」
「友ならば」
「友……」
その一言で藍は心中、激しい葛藤が巻き起こされた。
今彼女は、忠義と友情との軋轢を抱えたのである。
「さて、お二人。お二人の質問にお答えしよう。私の目論見であったな。なぁに、頗る簡単な話だ。私と、怪奇の髄を極めてみないか? そうしたご提案をしたいということなのだ」
「怪奇の髄、ですか」
「その通り。私はストーリー・イーター(食話怪)。物語を食することで、自らの糧とする怪奇なのさ。多くの人生を、私は食してきた。それらは全て、我が魂に刻まれている」
「も、もしかして、私たちの人生を食べるとか!?」
「ふふふ。そんなことはしないさ。私が求めるのは、君たちの記憶ではない。そう、十大怪奇の記憶さ」
その言葉に、藍はごくりと、唾を飲み込んだ。
「じゅ、十怪破りを、お考えなのですか。それはもしや、無二無双、フィッツカラルドへの復讐……」
「いいや。違う。フィッツカラルドには、復讐せねばなるまい。だがそれは、私の仕事ではない。また、私にはできぬことだ。残念ながら、私とヤツとの相性は悪すぎる。むしろ、ブリュアンなどが挑むべき相手だ」
「では、誰を?」
「ALISON」
「アリソン?」
「そうだ。ヤツを放っておくことができぬ。この世界を、掻き乱しよる、あの悪魔を放っておくことはできぬ」
ALISON(アリソン)……その存在を知る者はただ、知悉者・ユーゴーのみである。だが、その悪行は広く知れ渡っている。現在、妖怪は通常、人間社会に溶け込んでいる。溶け込み、当然のように人を殺し、喰らっている。それらは全て、統計の渦に巻き込まれ、霧散するために表に出てくることはない。そうした現代妖怪の筆頭として、人間社会に薬物を広めているのがアリソンである。
現在までに、アリソンの存在が確認されたのは二度のみ。一度目はアヘン戦争の折、清国側にあって強硬な論調を保持すべく進言する典医として。二度目は、現代日本において、麻薬を嗜好品の一つとして認めるべく主張する精神科医として。嗜好品としては認められなかったが、現実に、現在日本においては、医薬品としてではあるが、麻薬の使用は認められるようになった。
以上のことから、東アジア系の医師として世に潜んでいるということは概ね知られているが、それ以上のことは何も知られていない。
だがそれだけのことを知っていれば、道徳のある者ならば、これを討つことに充分な正当性を認められよう。
「アリソンを討つことは、義に適うことです。しかしそれに、何故彼女たちが関わってくるのですか」
問題はそこである。
どうして怪異を討つに、怪異ではなく、通常の人間が必要となるのか。
ユーゴー、それに答える。
「そもそもアリソンとは何か。おそらくあれは概念だ。集合体なのだ。ただアリソンという一つの怪奇があり、それを討てばよいというものではない。アリソンの意思を受け継ぎし人間たちこそが、私の討つべき存在なのだ。そうして彼らを探し当てるのに、私の力だけでは難しい。むしろ、彼女たちのような、若い人間こそ、アリソンの存在に近づけるのだ」
知悉者ユーゴーのみが知る、アリソンの真理である。
ユーゴー、筆を取り掲げて言う。
「百聞は一見に如かずというだろう。私は今まで二度、アリソンの意思を受け継ぎし人間を葬ったことがある。そのときの記憶の断片を、諸君らに分け与えよう」
「な、何をするんですか?」
そうして怯える秘封が二人。
穏やかな笑みを差し向けるユーゴー。
「安心したまえ。害はない。ただいささか、不快なものを見ることになろう。しかし、それを閲して後に、秘封倶楽部の活動の、指針を決めるも悪くはあるまい?」
そうして互いの顔を見やる蓮子とメリー。
二人は一度、相槌を打って確認すると、ユーゴーを正面から見据えた。
「よろしい」
ユーゴーの目が、燦々と輝く。全身から黄金の波動が漂い、見るものを捉えて離さないような、吸引力がそこにはある。
「今宵、世界は怪奇を極める!!」
ユーゴーが筆を走らせるや否や、文字が目の中へと飛び込んで来る。途端、頭の中を様々な記憶が駆け巡る。
そう、決して見てはならない、悪しき記憶が。
そこには幻想郷があった。
しかしそれは幻想郷ではなかった。
河童の工場ではケミカルが製造されていた。
魔女たちは茸で晩餐をしていた。
竹林の医師はモルヒネを垂れ流し、ナチスを崇拝しているのだ。
紅いどこかのお屋敷では、今日も血の晩餐が繰り広げられる。
そうして妖精たちは、幼女売春を平然と行う。
太陽の花畑は、大麻の草畑へと変貌していた。
そうして人里には、数多の外来人。
幻想郷へ、薬物と売春のツアーに来たのだ。
白昼、白人が幻想郷の人々を売り買いする様は、到底正視することができるものではない。
「う、うぇぇ……」
思わず蓮子とメリーは、その場で臥してしまった。
「な、なにこれ……酷い」
藍は憤然として震えが止まらぬ。
「おのれ、アリソンめ!! 貴様の好きにはさせぬぞ。幻想郷を、このように穢させてたまるものか」
三人が見た、アリソンの意思を受け継ぎし人間の記憶とは何か。
それはほとんど筆舌に尽くし難いものだ。
ただ一つ言えることは、アリソンは幻想郷を知っており、幻想郷を薬物と暴力とSEXとによって穢しつくすことを企んでいるということである。
「藍君、幻想郷とて、無関係ではおられぬということが分かってくれたか」
遊侠の徒、ユーゴーが真意は問うまでもない。このような吐き気を催すほどの悪意を許していたとあっては、世間様に顔向けができぬという考えだ。そうして、そのためには、例え死ぬことをも辞さぬという腹積もり。それが、ヴィクトル・ユーゴーの、渡世の仁義なのである。
フィッツカラルドに落とされたという片腕も、所以が知れる。
(おそらくこの御仁は、フィッツカラルドにもこの話を持ち込んだのだろう。しかしそこで、フィッツカラルドもまた、不倶戴天の敵と悟ったのだ。義弟であるブリュアンは、ジャバルに追われている。故に止む無く、神出鬼没の我が主を頼りにきたのだ。そうしてそこで、この二人と、私という友を見出したのだ。この御仁に信を置かれる……無上の光栄ではないか)
八雲藍は、共に天を抱くべき人と、共に天を抱かざるべき人との、両者を知った。
それは確かに、道を指し示しているのだ。
「はい。幻想郷の守り手たる八雲紫の式として、必ずや私が、アリソンの野心を挫かねばなりません。この八雲藍、今こそ矛となり盾となり、主命に従い戦いましょう」
我が道を まことの道と 心得らば 仰がずとても 御名に適わん
(私の進まんとしている道は正しき道だ。そう確信している以上、君命を仰ぐまでもない。あのお方のお名前を汚すことなき、まことの道であろう。つまりは、紫様の御意思に適うことなのである)
「おう、よく言ってくれた」
ユーゴーはここに、盟友を得た。
失った片腕を、補って余りある心強さである。
ユーゴーはゆっくりと、蓮子とメリーに寄り添い、そうして語りかける。
「アリソンは人間にとって恐るべき敵です。そのような怪奇との戦いに、あなたたちのような若い女性を巻き込むことは、私にとっても不本意なこと。しかし、奴らは到底、放っておくことのできない、危険な存在なのです。それは、今ご覧になっていただいた通り。どうか、お二人の力をお貸し願えないだろうか。このユーゴー、身命をとしてお二人をお守り申す覚悟でございます」
「ゆ、ユーゴーさん……」
蓮子とメリーは、震え、涙を流している。
その姿はユーゴーにとって、遺恨の業と思われた。
(やはり、残酷なことをしてしまったか。能才と言っても、所詮は若い人間の女だ。酷過ぎたのだ。悔やまれる)
だがしかし、そんなユーゴーの後悔を、二人は全く晴らしてくれた。
「私たちにできることがあるんだったら、何でもします」
「こんな酷いことないです!! 私たち、幻想郷を見て回って、本当にここが素晴らしい場所だって思いました。そんな幻想郷を、あんな世界にさせてはなりません」
「それに、外の世界でやっていることだって、無茶苦茶です」
「何が、(しってるよ。君のこと。僕らはみんなともだち。⌒∇⌒ )よ!! 友達だったら、こんなことをしないように止めるのが本当じゃないの」
「そうだよ!! 何が、(はぁぶ いず ぁ ぷらんとぅ) よ!! 植物だから大丈夫って言うんだったら、トリカブトでも食べてなさいよ」
若者の正義感は、到底アリソンの悪逆なる夢想とは相容れなかったのである。
「よく言ってくれた、二人とも。このユーゴー、お二人を見損なうところでした。どうかお許しください」
四人の魂はただ一つ、正義のために燃え上がった。
八
翌日、四人は八雲紫の下を訪れる。
そうしてユーゴーがことの経緯を説明すると、紫は、「なるほど。分かりました。」と言い、ただ藍を見て一度頷いた。
「しかし、一つだけ、やはり気がかりなことがあります」
「何でしょうか」
「堅気さんにご迷惑をお掛けすることは、渡世の仁義に反するのではありませんでしょうか」
これはユーゴーの泣き所である。
「実のところ、私は彼女たちの身の安全に関しては、あまり危惧しておりませんの。それはあなた様がいらっしゃいますし、藍がいることですからね。そもそもアリソンは、力で言えば、ほとんどそこいらの低級妖怪と変わらぬほどです。それこそ、河童の写真ですら、束縛できるほどの存在ですわ。ですから問題は別にあります」
「なんでしょうか」
「キャリアの問題です。後、家族の問題です。娘が就職もせずに、よく分からぬことをしていると知れれば、ましてやそれが危険なことであれば、親御さんは泣くでしょうね」
実のところ、それは蓮子とメリーにとっても気がかりなことであった。
特に日本という国では、通常、職業選択の機会は一度しかない。その一度の機会は大学卒業時である。その機会を失えば、それ自体がスティグマとなって、社会的地位を著しく落とすことになるのである。当然、そうした子供を生み出したということで、家族も体裁が悪くなる。社会的な権威の失墜が、親子関係にも当然影響を及ぼす。子供が正社員として就職できるかどうかということは、親子が今まで通りの関係でいられるかどうかという問題にさえ直結するのである。
ブリュアンは紫の言うことや、蓮子とメリーの気がかりとするところを全然理解できなかった。それも当然だろう。やはり、文化が違うのだ。
だがしかし、その文化の違いが、時には救いの一撃となる。
「ふむ。つまり、体裁が悪いと言いたいのだね。そうでしょう? お二人とも、ハーミットと同じ危惧をされているようだ。顔に表れていますよ。なるほど、現代人は失敗を許さない。学校を出たらすぐに働いて、死ぬまで真っ直ぐ、普通の生き方を強いられているわけだ。ちょっとでもレールからはみ出ると、途端にお先真っ暗なんだね。かわいそうに。そうして小さい頃から、文明によって去勢されるわけだ。毎日満員電車に乗って、お年寄りや怪我人を見ても、席が空いていたらいただきますだな。どうせ、他の誰かが座ってしまうもの。大した聡しさだね。立派なもんだ」
ユーゴーは平生、どちらかと言えば物静かである。ただ穏やかに微笑を携え、人々の幸福とこの世界の美しさに感動しているのである。だが一度口火を切れば、饒舌は炎の冠である。
「ところで君たち、あの、ピコピコの玩具をどう思うね? 昔、湾岸戦争の頃には、アメリカの兵士がNintendo と呼んで暇つぶしに使ったゲーム機だ。あれは良かった。私も大いに楽しませて貰った。デザインも無骨で親しみがあった。ところが最近はハイカラで小型で妙に凝ってしまって、私は酔って気持ち悪くなる。横でピコピコをされるとそれだけでうんざりする。そうそう、いつからか電話でゲームができるようになったな。ピコピコがポケットにも進出したわけだ。するとメモ帳を取り出してあれこれ考える貴重な時間が、いつからかピコピコ遊ぶ時間になってしまったわけだね。電車の中でもお構い無しだ。周りの人がしていれば、きっと恥ずかしくないのだろうね。おぉ、なんという薄っぺらさか。私はそういうのがだいっ嫌いです」
実際にユーゴーは、煩いピコピコを何度壊したか分からぬのだ。もちろん、人様のものである。
「それで君たち、私が何を言いたいかというとね、君たちはピコピコの玩具が好きかい? 私はだいっ嫌いですよ。私は身近な人が、ああいうナンセンスなものに熱中しているのを見るのがだいっ嫌いです。そんな時間があれば、ピクニックをしよう。将来を語ろう。過去でもいい。現在を語るのはなお良い。恋愛の話は最高に良い。そうして歌でも歌おうではないか。この前、散歩をしていたら、あの日本でよく見かける、若い女海兵さん六名が、怪獣のバラードを歌いながら帰るのを見て、私は嬉しくて仕方がなかったね。あれが正しい青春ではないか!! なるほど、思春期の兵隊さんだものね。怪獣のバラードはピッタシだ。あぁ、青春は永遠であれ!! 黄金の風は、これから吹くのだ!!」
合唱部の学生か、はたまた音楽祭でもあるのか。
友人と歌を楽しむ若者に幸あれ!!
「で、君たちは何を悩んでいるのだったかな。真っ直ぐに大往生しないと、親兄弟が悲しむんだったかな。まぁ、親なんて泣かせておきなさい。子供に泣かせられるなんて、他には結婚の時くらいしかないんだから。急がば回れです。しかし回れません。そう言いたいんだね。私には分かるよ。我侭なお嬢さんたちだ!!
だから、つまり何を言いたいかというと、この、ヴィクトル・ユーゴーにお任せあれと言いたいのだ。なぁ、八雲紫。君はきっと、私を甘いと言うのだろうけど、是非とも若者を甘やかせてあげようじゃないか。弱い者や悩める者を、救ってやれるのが強さというものだろう。そういう強さを、君も私も持っているじゃないか。君の幻想郷にしてやっているだけの優しさを、少し私にも与えてやってくれないかな。そうすれば私は、私の身近なところに、ちょっとした幻想郷を作ることができるんだからね」
この明らかなユーゴーの優しさは、秘封倶楽部の二人を驚かせ、藍を尊敬させ、紫を苦笑させた。
「ところで、お嬢さん方。ちょっと、お願いがあるのだが」
「なんでしょうか」
「これからの活動方針についてなのですが。実のところ、仲の良い若いご友人方の間に割ってはいるのは恐縮ではあるのですが、このユーゴーを、あなたたちの秘封倶楽部に入れてもらえないかと思っているのですよ。あぁ、もちろん、藍君もね」
「え!?」
意外すぎる提案に、二人は驚いた。
あくまでユーゴーは、二人の顔を立てたいのだ。
そうしてこのときのユーゴーが笑顔は、詩を携えた満面の笑みであった。
(ねぇ、お嬢さん方。ツマラナイ顔をしなさるな。お二人はまだまだお若い。したいことをなさい。見たいことを見なさい。溌剌とした青春の日を、そんなにお早く終わらせますな)
そんなユーゴーが考えは、彼の提案した内容、つまりは十大怪奇の討伐という大危険事から考えれば矛盾している。
だがそれは、少なくともこの人格の中にあっては矛盾しないのだ。
そうしてまた、周囲の人間に、矛盾していると感じさせないキャラクターがそこにはある。それが人となりというものだろうか。
八雲紫は数秒考えた。そうしてこう言った。
「私が万事良いように致しましょう」
「ゆ、紫様!!」
藍の驚きは感激である。
「そう言えば、あなたのこともあるのですからね」
ユーゴーの優しさは、溌剌とした紅い旋風であった。とすれば紫の優しさは、深慮なる蒼い微風である。
「藍は私の式になってから、友人らしい友人を持ったことがなかったわね。あぁ、友人は大切ね。それがきっと、心を一人前にする。藍はこの方たちと、一緒にいるのが楽しいのでしょう? とても良いことだわ。それがきっと、あなたを式として本当に成長させることになると思う」
実のところ、八雲紫は嬉しかったのだ。
藍が自らの考えで興り立たんとしたことが。
そうした藍を後押しする意味でも、秘封倶楽部の二人に温情をかけてやることは、決して紫にとって不満のあることではなかった。
「それではユーゴー殿」
「何でしょうか」
「後はお願いしてよろしいでしょうか」
「Cause I am !! (私にお任せあれ!!)」
そうして秘封倶楽部は、新しいメンバーを二人加え、活動を再開することになったのであった。
そうして幻想郷を去って一月後、そこには休学届けを出して、「八雲探偵事務所」に研修生として通う蓮子とメリーの姿があった。しかしそれは、表向きの話。二人は今日も、新しい秘封倶楽部のメンバー二人と一緒に、新しい部室で、怪奇を暴くため、活動してるのである。
青春は続く。
友がある限り。
ALISONに関してても作品を読んでもなんのことやらと、ググってではどうにも
オリキャラに狂言回しをさせてる構成に、やたらに今の感覚の現れた世界観もあいまってどうにも馴染めませんでした
作者が日本の雇用システムなど、現代社会に問題があると感じているのはわかりますが、それを東方の世界観と馴染ませられなかったという印象です
作者さんの社会思想もバイアスがかかり過ぎていて、ちょっと敬遠します。
マリーって誰だよ。
わざわざ迂遠な方法を取ることもあるまいに。
単刀直入に質すのが道理と思うがいかがか。
正直に言うとオリキャラであるユーゴー氏のキャラが強過ぎて折角の秘封倶楽部や八雲一家の存在があんまり活かされていないような感じがしたのが残念
ただ、人生において寄り道は大切だし、寄り道できるということはそれだけで素晴らしいことだよね、という点については大いに同意したい
つまり何が言いたいかというと八雲探偵事務所の話の方が興味あるよ、と
藍と秘封の組み合わせなんて多分他に見ない貴重な組み合わせだと思うし、折角なので外の世界で三人が様々な怪異に立ち向かう話を見るのも良いかなぁ、と思いました
……ユーゴー氏はキャラが濃すぎるのでちょっと考えものですが