「あら?」
朝、朝食を三人で囲み食べているときだった。
この日に限って一番に食べ終わる橙よりもご飯を食べ終えた紫は、ごちそうさまと口元を拭い、食後の気分直しといつもどおりの手馴れた動作で袖から扇子を取り出して開こうとした――ときだった。
これもまたいつもどおりなら、ぱんっと快音が鳴って見事な桜の絵が描かれた扇子を見ることが出来たのだが、しかし今日に限って本当にどうしたのだろうか、一向に開く様子が無い。
「……おかしいわね」
「どうしたのですか紫様」
こちらもそれに続いてようやく食べ終えた藍がその様子を見かねて尋ねる。
「これ、この扇子開かないのよ」
「そんなことあるわけないじゃないですか。少し貸していただけませんか?」
紫から渡された扇子を、まずは手に取ってじっと見つめた。
魔術的な、霊的な何かは無いようだ。そもそもあの大妖怪、八雲紫が肌身離さず持ち歩いている私物に誰が手を出すのだろうか。
橙に限っても藍の方からきつく言いつけてあるため、まさか勝手に持ち出して外で何かに使っていたとも思えない。そもそも橙が本当に持ち出していたら、嘘が下手な彼女のことだから今この場ではそわそわしてご飯どころではないはずだ。
ちらり、と見れば彼女のためにと沢山作ってあげた卵焼きを美味しそうに食べているところである。
「……ふぅむ」
試しに、壊さない程度に力を入れて無理矢理に開こうと試みる。が、要の部分が固まっているようで、どうにも開く気配は無い。
「どう?」
「ダメみたいです。開きません」
「見たいね……お気に入りだったのに。直す方法は無いのかしら」
開かなくなった扇子を手の平に乗せて、紫は呟く。
「今日は別の扇子をお使いになられてはいかがでしょうか? 何もそればかりにこだわらずとも……」
「そうは言うけどねぇ――誰にだって肌身離さず持っていたいものとかあるでしょう?」
「言いたい事は重々理解しています。ですが壊れて開かないとあれば、持っていてもあまり意味が無いかと」
「うーん……」
よほど思い入れがあった物なのだろう。誰であれ個人的な思い入れが強い物が、無くなったり使えなくなれば惜しむ気持ちが強くなるのは当然だ。
そんなときである。
紫は少し気落ちした表情で扇子を眺めていると、ちょうど今食べ終わったばかりの橙がその様子を見て何かを思い出したかのように言うのである。
「紫さまっ! その道具を直してくれそうなお店、知ってます!」
「えっ?」
得意げな顔で、それも尻尾を二つともゆらゆらと揺らして、橙は自信たっぷりに言った。
胸を張って言うものだから、それに突然割って入って来たものだから、紫も藍も目を大きくして驚いていた。
「道具であれば何でもござれ! 下駄に草履に傘に服、家の修理もなんのその! 修理屋他助にお任せを!」
「……」
今度はいきなり立ち上がって名乗りを上げる橙に、またそのまま目を大きくして見ていた二人。
さすがに橙もその様子には気づいたか、顔を赤らめてちょこんと正座して。
「――って、言ってました」
照れたように舌を出してそう締めくくった。
―――
橙が聞いた話では。
道具であれば何でも直せるのは確からしい。家の修理でも――はさすがに修理屋も言いすぎているとは思っているらしいが、ともかく何でも直すのが仕事だそうだ。
依頼されれば受ける。例え何か裏があろうがなかろうが、お構い無しだ。頼まれたらやるだけである。
「ここがそうなのかしら?」
「はい!」
隙間を通して話どおりの場所まで一気に移動する。やはりどこに行くにしてもかなり便利な能力である。
橙が言う小屋は特別貧相と言うわけでもなく、むしろ誰も来ないような辺境の山中である、と言う環境から考えるとそれなりに小綺麗な方だ。
目立つ汚れも外傷も無く、使ってないだけに見えもするがもしかすると住んでいる人間の手入れが良いのかもしれない。
ただ、店らしい看板も無ければ人気も無く、本当にこんなところで修理屋なんてものを営んでいるのか怪しいものである。
かと言ってこの小屋の周りにいるのかとも思えば、そもそも小屋の周りには何も無いのでどこにもいようがない。
「橙……本当にこんな家に人がいるの?」
「はいそうですよ? ほら、中に入りましょう!」
袖を引っ張られ、やむなしに橙と共に紫は小屋の中へ入った。
小屋、とは言ったが中は外見では解らないくらいに意外と広く、そしてたくさんの物で溢れ返っていた。一般的な工具はもちろん、日常でもよく使う食器に傘や下駄など、ともかく道具と言えるものは何でもあるように思えた。
ともかく物だらけ。悪く言うならゴミ屋敷である。屋敷と言うには狭いので、ゴミ置き場だろうか。ある程度種類別に分けられているから見苦しさはそれほどではないが。それでもお世辞に綺麗とは言えない惨状である。
座る場所も無くどうしたものかとそのままでいると。
「お客様ですね、何用で」
――突然後ろから声をかけられてしまった。
表情に出さないまでも、紫は素早く振り返り、一歩分の距離を置く。橙を後ろに回して庇うようにするのも忘れない。
声の相手は男だった。背もそれなりに高く、筋肉質でも細身であるわけでもなく、顔に特徴も無い。半開きの眠そうにしている目だけがそれらしい特徴だろうか。
頭のてっぺんから足のつま先まで、それこそ穴が開くように見ているとまた不意に男から声をかけられた。
「あの……お客様、ここに何か用があって来たんでしょうか」
「紫さま。この人がお話した人間ですよ?」
「……へっ!? あぁそうそう、用事があってきたのよ」
慌てる自分を落ち着かせ、袖から今日の朝に話題になった壊れた扇子を取り出した。
「これ直せるかしら。なんだか開かないのよね」
「はい……少し預かりますよ」
紫から扇子を預かり、その様子を男はじっくりと見て軽く全体を確かめるように触る。
たったそれだけしかやっていないのに男には何が異常だったのかが解ったらしい。
「はっはぁ、止め具の異常ですね。一度バラバラにして新しい止め具を使って組み立てれば元通りになりまさぁ」
男は自分の胸をどんと叩いて、眠そうな顔を精一杯笑顔に変えてから言うのである。
「道具であれば何でもござれ! 下駄に草履に傘に服、家の修理もなんのその! 修理屋他助にお任せを!」
男――他助と名乗ったその人の口上に、紫はついつい笑ってしまう。
朝に見た橙の紹介となんら変わらない仕草と口上だったものだから、大の大人が小さい子供とやっていることが同じだと思うと笑いが堪えきれなかった。
「ゆ、紫さま……失礼ですよ!」
「ふっ、ふふ、あららごめんなさいね橙。朝の貴女と同じだったからつい、ね?」
「も、もぉ紫さまってば!」
ここに来る前同様に橙は頬を膨らませて、年頃の子供らしく恥ずかしそうにそう言った。
―――
他助は先ほどの口上どおり、道具の修理であれば何でも請け負う仕事を生業としている、この道に入って二十五年のベテランだ。
普段は人里から離れた、妖怪も人もよりつかない辺境の山に構えたこの小屋で過ごしているが、場所が場所なために何ヶ月間かは不定期でどこかの村に泊り込み、そこで仕事を営んでいると話す。
そうでもしなければ誰もこのような辺鄙な場所まで依頼をしに足を伸ばしてくれないらしい。
「今はだいぶ仕事が落ち着いたんで引き上げてきたところでして、それでこの前帰り道でここら辺で遊んでいたさっきの猫妖怪の子と、他何匹かに出くわしまして」
「あら。それは迷惑をかけましたわ」
「いえ――何分、子供には慣れてまして。村で仕事をやっていると興味半分で見に来るんですよ。自分はそれほど面白い人間と言うわけではございませんが、彼女が楽しそうにしていればそれでええんです」
愛想笑いを浮かべながら、他助は慣れた手つきで扇子をあっという間にバラバラにする。
取り外した止め具は全体が赤茶けており、それに触れば手にも色が移ってしまう。俗に言う酸化――錆びである。
「あー、やっぱり。止め具が変になってましたよ。ほら、錆びてるでしょう?」
「ホントね。雨にでも濡らしたかしら」
「錆びるだけなら雨や海水だけじゃなく、人の汗でも錆びるもんですよ。まぁこの程度の部品なら、えっと」
他助は立ち上がると部屋の置く、それこそ何が置いてるのか解らないくらいに道具が散らばった方へ行き、ごそごそと探りを入れ始めた。
あれだけある中からまさか部品を見つけるようなことをしているのだろうか――紫にはあまり考えられないことだがしかし、彼がまた席に戻ってきたときには止め具と同じような部品をもう一つ持ってやってきた。
「えっ」
「どうかしましたか?」
「いや、ほら。あんなごちゃごちゃした中から同じ部品を見つけ出すのを見て、驚いただけよ」
「あはは。あるかなーって探しただけですよ」
「……」
ともあれ、見つかった部品をを骨に通し、しっかりとはめ込み、元の形に戻す。そうした上で一回、二回と扇子を開いては閉じを繰り返す。
三回目に扇子を開いて、そこに描かれた鮮やかな桜を一見し、また閉じて紫に差し出した。
「はい、直りやした。止め具はまた前と同じ鉄なんで錆びるのは抑えきれませんが、もしそれが嫌でしたらまた別の部品を用意しやしょう」
「まぁ……まぁ、本当に直った。早業だわ」
「へい、ありがとうございます」
他助はその返事を聞いて安心したのか、どっと溢れた額の汗を拭ってお茶を一気に飲んでは息を一つ、大きく吐いた。
仮にも相手は妖怪だ。他助がその素性を知っているかは定かではないが――大妖怪、八雲紫でもありのだから、その雰囲気から来る気迫、無言の圧力たるや相当のものだったのだろう。
もしかすると妖怪であることも関係なく、ただ単に女性を相手にして緊張していただけかもしれないが。
少しだけ間が空く――小屋の中は彼ら二人だけだ。先ほどから橙は山の中で遊んで暇を潰している。
扇子の修理も終わって橙が帰ってくるのを待っている間、お互いに無言でいたところで紫が話を切り出す。
「喋り方」
「……はい?」
「喋り方、何か変よね。敬語だったり変に崩した喋り方になったり。悪く言うなら客商売向きではないけれど、良く言うなら貴方の面白い個性よね」
「あぁ、それですか」
頭をかいて、恥ずかしそうに他助は言う。
「親父の受け売り、と言うよりかは物真似でして。敬語をきちんと使えるように、と親父と二人きりのときでも敬語で話すように言われてたんですが、自分は親父に憧れてまして口調も時折いないところで真似をしてて」
「それで変に混ざったような喋り方に」
「へい。まぁ中途半端なんですがね。でも腕だけは親父を超える為にと日夜努力を惜しまず、精進しています」
親の話が出た途端に他助の表情が明るくなった。
彼にとってそれほど誇れる存在であって、自分自身にとっての目標なのだろう。それを語る姿は実に楽しそうでもある。
「話の内容から察して父親も同じく修理屋だったのかしら」
「その通りです。元々親父の代から仕事だったようで、自分は物心ついたときからどこかの村に泊り込んでは修理稼業に明け暮れる親父の傍にずっといました」
「今はもう亡くなって?」
「……もう十年くらい前になりますか。そうですね」
「ごめんなさい。気がきかなくって」
「気にしねぇでくだせぇ。親父はたぶん安心して成仏できたと思いやす……笑って逝ったんで」
ただ。と、他助は言葉を区切る。
「親父はたぶん一つだけ、親父自身も忘れちまった心残りがあったと自分は考えてまして」
「あら。それじゃあ成仏も何も無いんじゃない?」
「……晩年、親父はそのことについて一切触れもしませんでしたし、そもそも本当に忘れてたようだったので、心残りにしようにも忘れていたものとあっちゃあ心に残すも出来ませんよ」
「そう――それでその心残りと言うのは?」
「ある物の修理でして。おそらく、親父の持ち物かそれとも別の誰かのだとは思いやすが」
そう言って。
今度は小綺麗に磨かれた棚の方へ向かい、一番上の段に手を伸ばした。
取り出したのは長方形の、両手に収まる程度の大きさをした箱だった。木目調の木箱で模様や絵などは特に描かれてもいない。
他助はそれを大切に持ち出して、紫の前に差し出した。
「開けても?」
紫の言葉に彼は静かに頷く。
慎重な手つきでゆっくりと開くと――聴き慣れない、澄んだ鈴のような音が鳴り始めた。
箱の中からである。中のカラクリの何かが回りだし、静かに一音一音を鳴らしている。だが、あまりにも途切れすぎている上に、時折鉄を叩くような鈍い音がしている。音の高低もあまりにバラバラすぎる。
紫が見たところ――オルゴール、のようだ。
外見上は綺麗ではあるが中身の方はぼろぼろで、劣化が激しいのが見て取れる。
「良い物を持っているのね。これがその心残りって言う……オルゴール?」
「へい。親父は昔からこれを寝る前に聴いてまして……何の曲かは知りやせんが、でも暇が出来たらこれを直そうといろいろ手を焼いていたのはしっかりと覚えてます」
「そう。それで直せなかった、と。修理屋なのに」
修理屋なのに、と言う言葉に他助は顔をうつむけた。
「親父は鉄関係には疎くて……特にこんな洋風細工と言いますか、カラクリ物はてんで無理なんです。親父もそれについてはまったく習った覚えが無いらしくて」
「それで手が進まないのね」
「……そんなところです。それで親父は諦めて、目もつかないような小屋の裏にある物置に投げ入れたんですが、それを自分がこっそりと回収しまして」
「なるほどね。貴方が親父さんの意思を引き継いでこうして修理屋をやっているのも、これを直すためでもあると言うわけかしら?」
他助は言葉で返すでもなく、静かに頷いて答えた。
このオルゴールが一体彼にどれほどの価値があるのか――それはこうしてこのオルゴールのために修理屋を続けていること、直すための研究を続けていること、そしてこれを扱うときの仕草を見ていれば解ることだった。
今の他助にとっての原動力は間違いなくこのオルゴールだ。そして、下手をすればこれに捕らわれることもあるかもしれない。
親が叶わなかったこの道具の修理、それが息子の代でも叶わずじまいだったら。おそらく同じ道を歩むか、それともこの小屋に閉じこもってひたすら修理に明け暮れるか。
「――ねぇ」
八雲紫は、人間よりも人間らしい妖怪だ。
そこまで解ってしまって、いつものとおりに解ってるようで解ってないような、知っているくせに知っていないような振りは出来ない。
だからと言って簡単に手を出して、相手に楽をさせようと言う気も無い。肝心なのは誰かの手を借りてでも何かを自分で成す事にあるのだ。
助かりたいなら自分でどうにかするように、自分で無理なら誰かの力を使えばいい。
だからこそ。彼女は彼に言うのだ。
「お代、お支払いがまだだったわよね」
「あっ……へい、そうでした」
「お金じゃないけど、それを直すための必要な知識がありそうなとこ、教えてあげるわよ」
先刻直ったばかりの扇子を広げ、何も無いところをそれで扇いでみせる。
するとどうだろうか。何も無かったはずのそこに、一本の切れ目が走り、それは大きな円となり、別の景色を写し始めた。
奇怪な現象を前に目を白黒させて言葉も出ない他助を前に、紫は優雅に微笑んで。
「あらあら。こう見えても私、妖怪ですから」
意地悪に、悪戯に言う。
それはとても、子供のようだった。
―――
一先ず外に出て遊んでいた橙は先に隙間を通して家に返し、そのままの流れでまた隙間を通りやってきたのは紅魔館が誇る大図書館。
数えることすら叶わないほどの莫大な量を誇る書籍の数々、種類は実に多岐に渡る。そのほとんどを管理しているのが館に住まう魔女、図書館の主――。
「……いきなり隙間を開けてここに来るなんて、ドアをノックするマナーを知らないのかしらね。隙間妖怪さんは」
「水晶で覗き見る変趣味は私にはありませんわ――魔女様?」
――パチュリー・ノーレッジである。
最近寝不足なのだろうか、言葉には力も無く、目の下にはくっきりとクマが出来上がっており、背を預けた椅子からは今にもずり落ちそうなほど気だるげに見える。心なしか皮肉の言葉にも力が無い。
そんな彼女はこの部屋を物珍しそうに眺める他助に視線を向けた。
「……あれは?」
「人間。修理屋よ。書物を見せてもらいにきたの」
書物、と言う言葉にパチュリーは眉をひそめた。
「貸し出しは禁止よ。最近被害が酷くてね……貸したって返さない愚か者が調子に乗り出しちゃって」
「楽しそうね」
「そう言うなら代わる? 徹夜で警護してもらうわよ。最近の泥棒はパワーだけじゃなくスピードもあるから、まず追いつくのも一苦労よ」
「え、遠慮するわ」
大きくため息をついて。
「ちょっと。そこの人間」
「へい。お呼びですか?」
「あー……私は気だるくて今にも眠りそうだから、小悪魔に何の本が見たいか言って、紹介してもらって。貸し出しは禁止だから、必要な記事は全部書き写しにして頂戴。紙と筆はこっちで用意してあげる」
「ありがてぇです」
「……変な喋り方ね」
くすり、と笑って傍に控えていた小悪魔に後はお願いとだけ言うと、パチュリーは椅子に座ったまま眠りだした。
よほど疲れていたのだろう。これ以上負担はかけさせまいと、紫は来たときと同じように隙間を広げて立ち去ろうとするが、思い出したかのように他助へ向き直る。
「他助」
「へい、なんでしょう?」
「直ったら、聴かせてくれるかしら」
「そりゃあもう……喜んで。お釣りを返してませんからね」
その返事を聞いて、紫はすぐに隙間へ入った。
―――
「こっからは一人か……」
膨大な数の本を前に、他助は一人呟いた。
今までにも本に頼ったことはあった。しかしそのどれもが関係のないものばかりであり、オルゴールの修理に繋がるものではなかった。
壊れている内容は音の不具合と、上手く再生が出来ていないこと。この二点を直すことからだ。そしてこれらを解明するためにも本の知識が必要となる。
「えと、小悪魔さん、でしたっけ」
「はい」
「からくりについての本を見せていただきたいんです……オルゴールの」
「オルゴールですか。それでしたら」
すいっと部屋の向こう側へ飛んでいった小悪魔は、一分も経たない内に何冊かの本を両手に抱えて戻ってきた。
本、と言っても雑誌の形に近いものばかりで解明書のようなものではない。
「これらが該当するかと思います。細かいところの話は載っていませんが、私の覚えに間違いが無ければ仕組みについて簡単な記載があったと」
「……お、おぉ。こんだけ本がある中から、よくこれだけ……」
「伊達に長いことここにいませんよ、それだけです。紙と筆はこちらに用意しておきますので、ご自由にどうぞ。あとで食事も用意しますね」
「い、いやいやいやいや! 構わんでくだせぇ!」
「そうもいきません」
服を正して、堂々と胸を張り、小悪魔は答える。
「この館にいらっしゃる以上、妖怪人間関係なくもてなします。客人に対してお茶を出さないほど、この館にいる主人は意地悪ではありませんし、私の主人も無礼ではありません」
それでは、と小悪魔は歩いて部屋から出て行った。
少しの間だけ静寂が訪れる。図書館には他助と眠っているパチュリーくらいしかいないからか、とても静かだ。彼が大人しく自宅で休みを教授しているときと、なんら変わりが無い。
一つ息を吐いて、気を入れ替えて雑誌をめくる。
――雑誌は小悪魔が言うとおり、確かに専門書と言うには内容が薄かった。浅いマニア向けと言ったところだろう。だが簡単な仕組みの説明ぐらいはしっかりと記載されていた。
そ一つ一つを漏らすことなく、頭に叩きつけるように何度も何度も指でなぞりながら音読していく。一つ一つ丁寧に、たまに出てくる読み方の解らない漢字や、カタカナで表記された文字はその都度小悪魔を読んで意味を教えてもらった。
時間は確実に過ぎていく。じっくりと読みふけってもうすでに半日。窓から見える空はすでに赤みがかっている。
だいぶかかったが解ったものはたくさんある。
オルゴールと一口に言うが、全体的に二つ種類がある。金属の円筒に取り付いたピンを元に音を鳴らすシリンダータイプと、金属の円筒じゃなく円盤になっているディスクタイプだ。
そこからの原理は両方とも同じであり、動く円筒ないし円盤についたピンがオルゴールに付いている長さの違う金属板――櫛を押し上げ、弾くことによって演奏を可能にしている。
机からはみ出させた定規を弾くような演奏方法、と言えばある程度の予想が付くのではないだろうか。
他助が持つそのオルゴールはシリンダータイプ。そしてぜんまいで巻いて音を鳴らすものだ。
「はぇ……いろいろあんだなぁ、こいつも」
簡単な仕組みの説明ではあるが、それなりの機能を持っているオルゴールに他助は感嘆の意を込めて一人呟いた。
「動く仕組みはこれで解った。まぁ今までよう解らんままネジを適当に回してたんだが……音を鳴らすにゃこいつさ回して円筒を動かさんと話にならんかったわけか。ほんで――」
オルゴールの蓋を開け、中をまじまじと見つめる。
「問題の一つは解りそうだが――」
問題点その一――音の不具合。
仕組みしか今のところ解らないわけだが、何がどの機能を持っているかの説明を見ていくと、音を鳴らすのに一番重要なのは間違いなく櫛である。音の高低がてんでバラバラであったり時折鳴る鈍い鉄の音は間違いなくここなのだろう。
これに関しては一から作り直す必要がある。
しかし悩ましいことに、もう一つの再生の不具合が解らないのだ。
と言ってもおそらくどの雑誌にも載っていない、ある一部分のパーツ――円筒を回しているネジの部分だろうことは予想していた。分解して中を見ることも、いつも使っている修理道具を使えば出来るはずだ。
ただ中を見て果たしてはっきり何が問題なのかが解るかと言われると、はっきりと言い返せないのも現状だ。
「はぁ。どうしたもんだが」
「――何よ、どうしたのよ」
「うぉ」
突然後ろから話しかけられて驚く。
先ほど起きたのか目をこすりながら隣にパチュリーがやってきた。
「随分と悩んでいるようね。行き詰ったの?」
「へい……一つはまぁ部品の交換になりやして。もう一つは分解してみないと解らないんですが……」
「分解して何が悪いのか解る保障が無いってことね」
「そうなります」
腕を組み、パチュリーは思案する。
彼女から言わせるなら魔法の一つや二つでどうこう出来る問題なのだ。人間がやるような部品を取り替えたり、破損部分をわざわざ時間をかけて直したりなど、言ってしまえば効率的ではない。
だが無理に手を貸すのもこの場合はダメだろうと彼女は考える。目的があってここにきて、それがオルゴールの修理のためなのだ。彼女がそれに力添えできるのはあくまで知識を分けることくらいである。
「そうね……バラバラにしたら? その問題の部分」
「……正気ですか?」
「だってやってみないと解らないし、見てみないと判断も出来ないでしょ? ただゴミとか塵とかの所為で上手く回ってないだけだったら、それこそバカみたいじゃない」
世の先人たちが、常に挑戦し、疑問に立ち向かい、未知に触れようとしたように。いくら本に載っていないからと言ってそのままにするのは愚かしい。
「それもそうでやす……ここは一つ、長年の商売道具で」
そう言って、懐から取り出したのは一つの棒と、何やら尖がった形をした指の先ほどの物が十個ほど。外の世界で言う、用途によって先端を変えて様々なネジに対応できる、ラチェットドライバーと言うものだ
他助はその中から一つを選んで棒の先端に取り付け、それをオルゴールの中へと向けて一つ一つ分解するのに外す必要があるネジを外していく。
丁寧に分解していって最後にカバーをゆっくりと外す。
「……」
「どうしたのよ黙って。何かあったの」
「……いんや」
オルゴールの中へ慎重に手を入れて、他助は何かを摘んで机の上に置いた。
それは薄っぺらい赤茶けた何か――錆びのようなものだった。年代物のオルゴールだったのだ、鉄で出来た部品の内側で錆びがこのような形を持って抜け落ち、円筒を回すときの邪魔になっていたのだろう。
「なんだかこれだけが再生の邪魔になってた、ってのはあっけねぇ限りで」
「そうね――もっと部品がダメだったとか、そう言うものかと思ったけど」
「だったらもう冷や汗だらだらで血相変えてますよ。あぁ、魔女さん本当にありがとうございやす」
「え?」
何か言ったかしら、と首を傾げるパチュリーに頭を掻きながら他助は答える。
「いんや、魔女さんが背を押してくれなかったら、今頃まだ頭抱えてうんうん悩んでやした」
「別に……ただ私の視点から、そうした方が良くないかしらと思っただけよ」
「それでもですよ」
外した部品をまた元通りに戻していく。外したときよりも慎重に、正確に、そして速く。やはり修理を生業としているだけあると言うべきか。
「親父もそうでしたけど、修理をやってるとふと怖くなるんですよ……これ以上元の状態に戻そうとしたらもしかして壊れたりするんじゃないかって。今まで数え切れないくらい修理をさせてもらいまして、それで慣れた道具の修理をやっていてもあまり修理しないような道具のときでも、本当にふとしたときに怖くなるんですよ」
「……」
「医者ももしかしたら同じ心境なのかもしれやせん。治しても治しても、また病気にかかる。そして必ず死んでいく。道具もそうです。直しても直しても、また故障して、必ず壊れる。例え部品を取り替えて新品同然にしたって、それは以前まで使っていた道具とは……全然ちげぇんですよ。魔女さん、人も道具も、元通りにはなれやせん。壊れたらもうそこで終わりなんです。だから直すのが怖いんです」
話している間でも、淀みなく手は動く。
直すのが怖い――と言うのはあまりパチュリーには馴染めない感覚だった。どちらかと言うなら壊れるのが怖いのであって、それを直せるなら怖さは無いからだ。おそらく誰であってもそうだろう。
一般的な考えが定着してしまっているから、そんな考えが彼女にはあまり理解できなかった。
「――じゃあ今は? 今もそれを直している最中、怖いとか思ってるの?」
「まぁ……多少は。解らないかもしれやせんが、結構指先震えてるでしょ」
「そうかしら? 普通に見えるわよ」
元通りに組み直したところで、他助雑誌と重要事項を書き出したメモ用紙に目を向ける。
まだ見逃した事柄があるかもしれないし、もう一度読んでいけば新しく解ることがあるかもしれなかったからだ。何せ、故障の原因は解っていることだけとは限らない。
「ねぇ。このオルゴールだけれど」
不意に、パチュリーが言う。
「どうしてそこまでして直したいの? 私は貴方に深い事情を聞いたわけじゃないし……個人的な興味で聞いただけだから言いたくなければ言わなくていいわよ」
「理由、ですか……理由……」
どうにも冴えない表情で、何も無い宙を見つめ、他助は答えを返した。
「親孝行、でしょうかねぇ。たぶん」
「たぶん? 随分曖昧ね」
「はは。まぁ……小さい頃の話ですが、夜中に親父が一人でこのオルゴールが流す、壊れた所為でボロボロの曲を聴いて一人むせび泣いているのを見たら、子供心であれ何とかしたいと思いまして」
幼い子供の目に、それがどんな風に見えるのか。
自分を育てるために毎日働く父親が、自分の知らない夜に一人でオルゴールの曲を聴きながら、誰に悟られるでもなく、声を押し殺して泣いている。
それがまだ子供だった他助に、どう見えたのか。
「最初は何も聞けずじまいでしたよ。聞くにも聞けずで」
「まぁ解らなくもないわよ」
「だから今でも親父がこのオルゴールを大切に持っていたのも、直そうと努力したのも、そして諦めた理由も――俺は何も聞いていやせん。ただ、これが綺麗に曲を流せるように直せば、きっと親父も喜んでくれるだろう、それだけです」
「――そう」
オルゴールをなぜ直すのか。その理由を話しながらも、他助はメモを読むのをやめなかった。この作業がどれだけ彼にとって大切なのか、その姿勢で察することが出来る。
その姿を見て、パチュリーはふと考える。
もし自分にも同じような境遇が起きたとして、果たして他助と同じような行動が取れるのだろうか。
少しだけ考えて、彼女はそれ以上考えようとするのをやめた。人間より長命な自分たちにはどうも気の遠くなるような先の話でもあるし、やはりそのときにならないと解らないからだ。
彼女は静かに、誰にも解らないように笑うと、他助の傍にある椅子に腰かけて彼の様子をずっと眺め続けた。
――こうして、作業をしながら話をしつつ、夜は更けていく。
問題の一つを消化し、他にも故障はないかを探って異常無いかを確認した上で今日の作業は終了した。
―――
――翌日。
図書館の椅子に背を預けたまま眠っていた他助は、目を覚まし重い瞼をこすりながら立ち上がる。
その際に全身を覆うくらいに大きなタオルケットが自分の体から落ちたのだが――おそらく小悪魔が気をきかせてかけてくれたものだろう、それに気づいてタオルを手に取る。
少しして辺りを見渡すが、朝日が差し込んで明るくなった図書館は、昨日来たときと比べると明るい印象が目に付くような部屋になっていた。本が散らばって汚いところもあるが、しかし雰囲気としては清々しいものがある。
「あらお目覚めですか?」
呼びかけられて振り返ると、先ほどまで自分がいた席に朝食を並べている小悪魔がいた。朝早い時刻なのに大して眠そうでもなく、満面の笑みを浮かべて眩しい限りだ。
「あ、タオルケットは預かりますね。さぁさお食事のほうをどうぞ」
「へい。申し訳ねぇっす……おぉ、これは何とも洋風な」
「食べなれませんか? フレンチトーストです。こちらはスクランブルエッグ……簡単な朝の食事です」
どうぞおかけになってください、と言われて素直に席に着き、朝食に手を伸ばす。
フォークを使って食べるのも、フレンチトーストを食べるのも、そして朝一にブラックコーヒーを飲むのも他助にとっては初めての経験だった。フォークは彼には使いづらく、トーストは甘く美味しく食べやすく、コーヒーはお茶とは違ってかなり苦く飲みづらかった。
「ふへぇ……あぁ、ごちそうさまです」
「はい、おそまつさまでした。コーヒーはさすがに合いませんでしたか」
「さすがにこの苦さは……お茶の渋みと違いやした」
「それじゃあお口直しにオレンジジュースを。美味しいですよ」
差し出されたグラスになみなみと注がれたジュースを一気に飲み干す。
「あー、そう言えばオルゴールどうなりましたか?」
「問題の一つは解決しました。もう一個は部品を一から作らないとダメみたいで」
「その問題なら――」
部屋の奥、本が山積みになっている向こう側からパチュリーがゆっくりと出てくる。また寝不足なのか目の下のクマは相変わらずはっきりとしている。
「私が魔法で何とかしたわよ。この程度の鉄細工、必要な材料を用意して魔術を通し形状を構成させれば何ともないわ」
そう言って、彼女はオルゴールともう一つ何かを机の上に置いた。
差し出されたそれはオルゴールの部品、音鳴らすのには欠かせない櫛の部分だった。元の物と変わらない大きさをしている。
「それを交換したら終わりでしょ? さっさとやってしまいなさいな」
「お、おぉ……魔女さん! かたじけねぇ、感謝してもしきれねぇ!」
「いいわよこれくらい。それより早く」
急かされて他助は急いで道具を取り出して部品の交換に移る。
ただの交換だ。精密な作業は一つも無い。ただ止めているネジを取り外し、前の部品である櫛を取って新しい櫛を付け、ネジをまた取り付けるだけ。
「ようやく……ようやくですよ」
最後の一個をしっかりと締めなおして、改めて中身を確認し、大きく息を吐く。
「どんな曲が流れるのかしらね」
「楽しみではあるわ……小悪魔。窓とかしっかり閉め切ったかしら?」
パチュリーの呼びかけに敬礼をして小悪魔はしっかりと答える。
「はい! 今日は過去に類を見ないほどに強力な防御魔術も施しましたので、侵入者も許しません! あふぇ、でも疲れましたぁ」
「そ、ご苦労様。本当に苦労をかけるわ」
「んーっ! いえいえ、滅相もありません! パチュリー様にそうやって労ってもらうだけで私はーっ!」
二人の会話を他所に、他助は直ったオルゴールをまじまじと見つめていた。
彼にしてみれば直るまで本当に長かった。親の代からずっと手をつけてまた元の音色を取り戻そうと、必死に努力していた日々が、ふとした日に相手をした妖怪のお礼をきっかけに直すことが出来たのだ。
今までの思いを込めて、オルゴールのぜんまいを回そうと手を伸ばした、ときである。
「おやまぁ――どうしたのかしら、静まり返っちゃって」
すぐ後ろで、囁くような声量で。
隙間を広げて八雲紫が、文字通り音も無く、何も無いところからゆらりと現れた。
「様子を見る限りじゃオルゴール、直ったのね」
「へい。魔女さんがどうやら魔法で部品を作ってくれたらしくて……取替えも済みやした」
「へぇ――手を出すなんて、物好きね」
八雲紫は扇子で口元を隠し、目を細めてパチュリーに目を向ける。
「別に。気まぐれよ」
「気まぐれね、気まぐれ……ふふ」
紫はどこか楽しそうに笑うと、他助の向かい側、テーブルを挟んで反対のほうに向かい、椅子に座る。
ゆったりと、そして堂々と椅子に座り足を組み、他助がオルゴールを鳴らすのを待った。他助もそれを察してかぜんまいを掴む。
「それじゃあ――回しますよ」
皆が息を飲み、様子を見守る中、他助は慎重に壊さないようにとじっくりとぜんまいを回す。
――かちりかちり。
普段では聴き慣れない、鉄の小さな音が耳に響いてくる。
それを数十回。時間をかけてゆっくりと回し続け――巻き終わりが来たところで手を止める。ここで手を離せば、他助の親が直すことも叶わなかったこのオルゴールが、ようやく今に蘇ってその曲を鳴らすのだ。
途切れもしない、音の高低が不確かでもない、鈍い鉄の音もしない、きちんとした透き通るような清涼さある音が、円筒に刻まれた楽曲を奏でるのだ。
そして――万感の思いを込めて、ぜんまいから手を離した。
「――――」
その音色を、曲を耳にしたとき。
他助は言葉を失い、紫は視線を釘付けにされ、パチュリーは時の流れを忘れ、小悪魔は不思議な浮遊感を感じた。
オルゴールから流れる曲調は誰が聴いても明るいものであった。底抜けに、と言うわけではないのだが跳ねるようなリズムで奏でられるそれは、自然と体が動いてしまう。
しかしながら中盤に差しかかるに連れて、そのメロディに合わせる様に入ってくる物悲しいもう一つのメロディは、聴く者の何かが無くなっていくような、そう錯覚せずにいられないものを体に感じさせられた。
終わりに近づくと明るいメロディも物悲しいメロディもいつの間にか無くなり、そのどちらでもない中間の、何とも表現しがたい曲調へと変わっていく。
ただの鉄の音だと言うのにここまで表現できるものがあるとは、と紫は感嘆せずにはいられなかった。
芸術は人を動かすことが出来ると言うが、このオルゴールが流している曲は間違いなく人も妖怪も魔法使いも心を奪うには価値のあるものを持っていた。
最後の最後。まるで何か激流のような終わりを連想させる音色を流し終わった後、オルゴールは音を鳴らすことをやめた。
「はぁ……親父、すげぇものを持ってたんだなぁ」
「久々に素晴らしい曲を聴いた気分だわ。レコードで聴く曲も悪くはないけれど、オルゴールで聴く曲も良いわね」
朝も早い時刻だと言うのに、機嫌良さそうにパチュリーは言う。心なしか、顔色も今日最初に顔を合わせたときと比べると良い色をしている。
「確かに良い曲だったわ……少し中身見てもいいかしら?」
「へい。どうぞどうぞ」
紫は机に置かれたオルゴールに手を伸ばし、中を覗く。昨日の時点では錆びだらけだった物が今はどうなったのか、と気になって見てみれば。
「……あら?」
オルゴールの要、円筒の部分。昨日までそこにあったたくさんのピンが、一つ残らず付いていないのだ。
「他助、これ本当に直ってたの? 円筒がつるっつるじゃない」
「あえ? そんなはずはありませんよ、見せてください……あれ、これは何でだ」
紫からオルゴールを受け取り同じように中を見て異変に驚く。
中を覗き込んでもそれらしいものは無く、これは一体どう言うことなのか、といぶかしんでいるときに。
「一度分解してみては?」
小悪魔の提案だ。
「せっかく直ったところですが、中身を見てみないと解らないのは現状明白ですし、そうした方がよろしいかと」
それもそうだ、と頷いて他助はすぐにドライバーを取り出して丁寧にネジを外し、一つ一つの部品を分解していく。
そうして、櫛を外して円筒も、と手を動かしたときだった。
他助の目に映ったのは、たくさんのピンだった。ちょうど櫛の下に隠れるように転がっていたそれらを見て、彼は言葉を失くした。
「……そんな」
同じく、オルゴールの中身を後ろから覗き見たパチュリーが言う。
「せっかく、直ったのに……こんなことって」
「……」
「――他助、部品を並べなさい」
オルゴールが壊れたことに対して、それをじっと見つめるしか出来ない他助に、パチュリーは言う。傍にあった筆を取りテーブルの空いたところへ何かを書き殴っていく。
「今度こそ完璧に直してやるわ――文句のつけようがないくらい、元通りに」
「魔女さん」
振り絞るように、他助は彼女の言葉を遮って。
「もう、ええんですよ」
音を無くしたオルゴールを見つめて、他助は力なく、笑顔を見せるでも涙を流すわけでもなく、ただただ素のままの表情で。
彼は、言うのだ。
「もう――ええんです」
ゆっくりと、オルゴールの蓋を閉じる。
修理屋として悟ってしまった以上、これ以上手を加えることは出来ないと判断したのだ。
もう死んでしまったこのオルゴールを、これ以上直そうとしても、また元通りにはならないのだろう、と。
それだけを言って、ようやく他助は涙を流したのである。
―――
「あのオルゴール、どうしたの?」
「へい――親父の墓に眠らせました。もう音は鳴らないとは言え、あれは俺のじゃないんで。親父と一緒のほうがいいかと」
「そう」
素っ気ない返事を返す。
あの一件以来、他助もまたいつもどおり村に出かけては泊り込みで修理に明け暮れる日々に戻った。
たった数日とは言え自分の仕事を忘れ、一つの物に取り組んでずっとやりたかったことが出来たのは、彼にとってはとても良い経験になったことだろう。
自分では調達も出来たか怪しい部品を作ってくれたパチュリーには大きな恩が出来た、と彼は言う。今度近い日に館まで出向いて壊れた道具諸々の修理や点検をするつもりらしい。
――ただ、それでもやはり修理屋として、あのオルゴールを完璧に直せなかったと言う事実は大きかったらしく、あの日から一ヶ月はまともに仕事はおろか修理道具の一つも持てる気分では無かったらしい。
「橙が心配してたのよ。遊びに行ったときは元気にしてるのに、最近は抜け殻みたいだったって」
「そうでしたか……いやぁ、面目ねぇでさぁ」
「――ところで、最後のあの壊れ方って何だったのかしらね?」
紫の言葉に他助は素直に答えた。
「最後の壊れ方は、疲労なんでしょう」
「疲労?」
「へい。物も疲れを蓄積しやす。それが限界まで来ると、折れたり、中で腐ったりします。おそらく昔から無理に動かしていたんで、それでピンに疲労が溜まって折れちまったんでしょう」
それでも、と言葉を繋いで。
「親父が残した絆を直すことは出来ました。でもそのあとにまた壊れて……壊れないように直せなかったのは俺の責任です。でも物は必ず壊れます――人と同じで死んじまうんでさ。医者が死人を蘇らせれないのと同じで、俺ら修理屋も死んだ道具はまた本当の意味で元通りに生き返らせるこたぁ出来ないんで」
「良いことを言うわ」
「親父の受け売りでして」
「あら」
こうした会話の中で、もしかしたら、と紫は思う。
オルゴールを他助が直すことも、直してしっかりと音を鳴らすことも、そしてオルゴールがその役目を終えて死んでしまうことも。
もしかすると他助の父親は知っていたのかもしれない。あくまで推測だ。死んでしまった人の思惑なんて今さら把握も出来ない。
知っていたから――死んだ道具と見切りをつけて、生き返らせることをやめたのだろうか。
ふと、紫はあのときに聴いたオルゴールの音色を思い出す。
原曲の、メインのメロディだけ当てただけであろう音を聴けば、明るくもあり、ときに脅迫するかのように差し迫る勢いがあり、そして傍らに寄り添うかのような安心感を持った曲だった。
どこで聴いた曲だったか、と記憶の海を潜っては覚えている曲と音を照らし合わせる。
「あぁ……なるほど」
思い出してその曲の歴史を振り返ると彼女は納得した。道理で思い出しにくいわけである。
「どうなさったんで?」
「いえ――あのオルゴールの曲、どこかで聴いたなぁって思ったのだけれど、百五十年も昔の曲で、それでどうも思い出しにくいものだったなぁって」
「へぇ……」
そうですか、とだけ答えて他助は何本かの骨が折れた傘に手を伸ばした。
あまり関心は無い――と言うよりかはもう忘れてしまっていたい、と言うような。
それにしても、とオルゴールの曲を思い出し、紫は苦笑した。
オルゴールの曲に使われた原曲――死と乙女。何とも皮肉なことだろうかと彼女は思う。
原曲に当てられた意味を辿れば病床に倒れた乙女と死神の対話を描いた楽曲なのである。
この曲の最後に込められた、死神が安息を与えに来たと言う解釈を考えれば、最後にこのオルゴールを直し果たすことが出来なかった父親の願いを叶えて安心させることが出来たであろう他助は、さながらその死神なのか。
考えすぎでもあり、もはや妄想の域ではあるが。
もうこれも過ぎた話なのだ。
他助は父親の思い残しを直し、そして今度こそようやく自分の道を歩く。立ち止まっている暇は無い。日夜自らの仕事に精を出し、鍛錬を重ね、次の代に残せるほどの物を築き上げなくてはならないのだ。
人間の一生は、それを成すには寄り道が出来るほど長くは無い。
一生が長い妖怪が、それを邪魔出来るほど丈夫に作られてもいない。
「じゃあ、私はこれで失礼するわね」
「へい。大してもてなしも出来ず、申し訳ないです」
「ふふ……お気になさらず、仕事中に来た私も悪かったわ。それに久々にその面白い口調も聞けたしね」
「あっはは。からかわないでください。照れやすよ」
「……ふふ」
口元を扇子で隠しながら微笑んで。
紫は玄関に向かうでもなく、後ろに一つ、人一人がくぐるにはわけもない隙間を広げる。
「それじゃあ今まで楽しかったわ。ありがとう」
「いえ――こっちこそ、世話になりやした。ありがとうございます」
それっきり、である。
二人の会話はこれを最後に、終わってしまった。
紫自身も彼のことを忘れたわけではなく、ただ彼女がこれ以上の接触は意味が無いだろう、と思っただけだ。興味をなくしてしまっただけかもしれないが。
悲しいことで、他助と他助の父親との繋がりがオルゴールであったように、紫と他助の繋がりもまたあの壊れたオルゴールだったのだ。
それが無くなったから、繋がりもまた一緒に無くなっただけの事。
いつもどおり、藍と橙と朝の食卓を囲み、共に過ごしたまには出かけて、幻想郷を満喫する。そうして、八雲紫の一生にとって些細ではあるが印象深い一件は過ぎていった。
まだ秋の色も薄い――夏の暑さが尾を引く九月の出来事である。
朝、朝食を三人で囲み食べているときだった。
この日に限って一番に食べ終わる橙よりもご飯を食べ終えた紫は、ごちそうさまと口元を拭い、食後の気分直しといつもどおりの手馴れた動作で袖から扇子を取り出して開こうとした――ときだった。
これもまたいつもどおりなら、ぱんっと快音が鳴って見事な桜の絵が描かれた扇子を見ることが出来たのだが、しかし今日に限って本当にどうしたのだろうか、一向に開く様子が無い。
「……おかしいわね」
「どうしたのですか紫様」
こちらもそれに続いてようやく食べ終えた藍がその様子を見かねて尋ねる。
「これ、この扇子開かないのよ」
「そんなことあるわけないじゃないですか。少し貸していただけませんか?」
紫から渡された扇子を、まずは手に取ってじっと見つめた。
魔術的な、霊的な何かは無いようだ。そもそもあの大妖怪、八雲紫が肌身離さず持ち歩いている私物に誰が手を出すのだろうか。
橙に限っても藍の方からきつく言いつけてあるため、まさか勝手に持ち出して外で何かに使っていたとも思えない。そもそも橙が本当に持ち出していたら、嘘が下手な彼女のことだから今この場ではそわそわしてご飯どころではないはずだ。
ちらり、と見れば彼女のためにと沢山作ってあげた卵焼きを美味しそうに食べているところである。
「……ふぅむ」
試しに、壊さない程度に力を入れて無理矢理に開こうと試みる。が、要の部分が固まっているようで、どうにも開く気配は無い。
「どう?」
「ダメみたいです。開きません」
「見たいね……お気に入りだったのに。直す方法は無いのかしら」
開かなくなった扇子を手の平に乗せて、紫は呟く。
「今日は別の扇子をお使いになられてはいかがでしょうか? 何もそればかりにこだわらずとも……」
「そうは言うけどねぇ――誰にだって肌身離さず持っていたいものとかあるでしょう?」
「言いたい事は重々理解しています。ですが壊れて開かないとあれば、持っていてもあまり意味が無いかと」
「うーん……」
よほど思い入れがあった物なのだろう。誰であれ個人的な思い入れが強い物が、無くなったり使えなくなれば惜しむ気持ちが強くなるのは当然だ。
そんなときである。
紫は少し気落ちした表情で扇子を眺めていると、ちょうど今食べ終わったばかりの橙がその様子を見て何かを思い出したかのように言うのである。
「紫さまっ! その道具を直してくれそうなお店、知ってます!」
「えっ?」
得意げな顔で、それも尻尾を二つともゆらゆらと揺らして、橙は自信たっぷりに言った。
胸を張って言うものだから、それに突然割って入って来たものだから、紫も藍も目を大きくして驚いていた。
「道具であれば何でもござれ! 下駄に草履に傘に服、家の修理もなんのその! 修理屋他助にお任せを!」
「……」
今度はいきなり立ち上がって名乗りを上げる橙に、またそのまま目を大きくして見ていた二人。
さすがに橙もその様子には気づいたか、顔を赤らめてちょこんと正座して。
「――って、言ってました」
照れたように舌を出してそう締めくくった。
―――
橙が聞いた話では。
道具であれば何でも直せるのは確からしい。家の修理でも――はさすがに修理屋も言いすぎているとは思っているらしいが、ともかく何でも直すのが仕事だそうだ。
依頼されれば受ける。例え何か裏があろうがなかろうが、お構い無しだ。頼まれたらやるだけである。
「ここがそうなのかしら?」
「はい!」
隙間を通して話どおりの場所まで一気に移動する。やはりどこに行くにしてもかなり便利な能力である。
橙が言う小屋は特別貧相と言うわけでもなく、むしろ誰も来ないような辺境の山中である、と言う環境から考えるとそれなりに小綺麗な方だ。
目立つ汚れも外傷も無く、使ってないだけに見えもするがもしかすると住んでいる人間の手入れが良いのかもしれない。
ただ、店らしい看板も無ければ人気も無く、本当にこんなところで修理屋なんてものを営んでいるのか怪しいものである。
かと言ってこの小屋の周りにいるのかとも思えば、そもそも小屋の周りには何も無いのでどこにもいようがない。
「橙……本当にこんな家に人がいるの?」
「はいそうですよ? ほら、中に入りましょう!」
袖を引っ張られ、やむなしに橙と共に紫は小屋の中へ入った。
小屋、とは言ったが中は外見では解らないくらいに意外と広く、そしてたくさんの物で溢れ返っていた。一般的な工具はもちろん、日常でもよく使う食器に傘や下駄など、ともかく道具と言えるものは何でもあるように思えた。
ともかく物だらけ。悪く言うならゴミ屋敷である。屋敷と言うには狭いので、ゴミ置き場だろうか。ある程度種類別に分けられているから見苦しさはそれほどではないが。それでもお世辞に綺麗とは言えない惨状である。
座る場所も無くどうしたものかとそのままでいると。
「お客様ですね、何用で」
――突然後ろから声をかけられてしまった。
表情に出さないまでも、紫は素早く振り返り、一歩分の距離を置く。橙を後ろに回して庇うようにするのも忘れない。
声の相手は男だった。背もそれなりに高く、筋肉質でも細身であるわけでもなく、顔に特徴も無い。半開きの眠そうにしている目だけがそれらしい特徴だろうか。
頭のてっぺんから足のつま先まで、それこそ穴が開くように見ているとまた不意に男から声をかけられた。
「あの……お客様、ここに何か用があって来たんでしょうか」
「紫さま。この人がお話した人間ですよ?」
「……へっ!? あぁそうそう、用事があってきたのよ」
慌てる自分を落ち着かせ、袖から今日の朝に話題になった壊れた扇子を取り出した。
「これ直せるかしら。なんだか開かないのよね」
「はい……少し預かりますよ」
紫から扇子を預かり、その様子を男はじっくりと見て軽く全体を確かめるように触る。
たったそれだけしかやっていないのに男には何が異常だったのかが解ったらしい。
「はっはぁ、止め具の異常ですね。一度バラバラにして新しい止め具を使って組み立てれば元通りになりまさぁ」
男は自分の胸をどんと叩いて、眠そうな顔を精一杯笑顔に変えてから言うのである。
「道具であれば何でもござれ! 下駄に草履に傘に服、家の修理もなんのその! 修理屋他助にお任せを!」
男――他助と名乗ったその人の口上に、紫はついつい笑ってしまう。
朝に見た橙の紹介となんら変わらない仕草と口上だったものだから、大の大人が小さい子供とやっていることが同じだと思うと笑いが堪えきれなかった。
「ゆ、紫さま……失礼ですよ!」
「ふっ、ふふ、あららごめんなさいね橙。朝の貴女と同じだったからつい、ね?」
「も、もぉ紫さまってば!」
ここに来る前同様に橙は頬を膨らませて、年頃の子供らしく恥ずかしそうにそう言った。
―――
他助は先ほどの口上どおり、道具の修理であれば何でも請け負う仕事を生業としている、この道に入って二十五年のベテランだ。
普段は人里から離れた、妖怪も人もよりつかない辺境の山に構えたこの小屋で過ごしているが、場所が場所なために何ヶ月間かは不定期でどこかの村に泊り込み、そこで仕事を営んでいると話す。
そうでもしなければ誰もこのような辺鄙な場所まで依頼をしに足を伸ばしてくれないらしい。
「今はだいぶ仕事が落ち着いたんで引き上げてきたところでして、それでこの前帰り道でここら辺で遊んでいたさっきの猫妖怪の子と、他何匹かに出くわしまして」
「あら。それは迷惑をかけましたわ」
「いえ――何分、子供には慣れてまして。村で仕事をやっていると興味半分で見に来るんですよ。自分はそれほど面白い人間と言うわけではございませんが、彼女が楽しそうにしていればそれでええんです」
愛想笑いを浮かべながら、他助は慣れた手つきで扇子をあっという間にバラバラにする。
取り外した止め具は全体が赤茶けており、それに触れば手にも色が移ってしまう。俗に言う酸化――錆びである。
「あー、やっぱり。止め具が変になってましたよ。ほら、錆びてるでしょう?」
「ホントね。雨にでも濡らしたかしら」
「錆びるだけなら雨や海水だけじゃなく、人の汗でも錆びるもんですよ。まぁこの程度の部品なら、えっと」
他助は立ち上がると部屋の置く、それこそ何が置いてるのか解らないくらいに道具が散らばった方へ行き、ごそごそと探りを入れ始めた。
あれだけある中からまさか部品を見つけるようなことをしているのだろうか――紫にはあまり考えられないことだがしかし、彼がまた席に戻ってきたときには止め具と同じような部品をもう一つ持ってやってきた。
「えっ」
「どうかしましたか?」
「いや、ほら。あんなごちゃごちゃした中から同じ部品を見つけ出すのを見て、驚いただけよ」
「あはは。あるかなーって探しただけですよ」
「……」
ともあれ、見つかった部品をを骨に通し、しっかりとはめ込み、元の形に戻す。そうした上で一回、二回と扇子を開いては閉じを繰り返す。
三回目に扇子を開いて、そこに描かれた鮮やかな桜を一見し、また閉じて紫に差し出した。
「はい、直りやした。止め具はまた前と同じ鉄なんで錆びるのは抑えきれませんが、もしそれが嫌でしたらまた別の部品を用意しやしょう」
「まぁ……まぁ、本当に直った。早業だわ」
「へい、ありがとうございます」
他助はその返事を聞いて安心したのか、どっと溢れた額の汗を拭ってお茶を一気に飲んでは息を一つ、大きく吐いた。
仮にも相手は妖怪だ。他助がその素性を知っているかは定かではないが――大妖怪、八雲紫でもありのだから、その雰囲気から来る気迫、無言の圧力たるや相当のものだったのだろう。
もしかすると妖怪であることも関係なく、ただ単に女性を相手にして緊張していただけかもしれないが。
少しだけ間が空く――小屋の中は彼ら二人だけだ。先ほどから橙は山の中で遊んで暇を潰している。
扇子の修理も終わって橙が帰ってくるのを待っている間、お互いに無言でいたところで紫が話を切り出す。
「喋り方」
「……はい?」
「喋り方、何か変よね。敬語だったり変に崩した喋り方になったり。悪く言うなら客商売向きではないけれど、良く言うなら貴方の面白い個性よね」
「あぁ、それですか」
頭をかいて、恥ずかしそうに他助は言う。
「親父の受け売り、と言うよりかは物真似でして。敬語をきちんと使えるように、と親父と二人きりのときでも敬語で話すように言われてたんですが、自分は親父に憧れてまして口調も時折いないところで真似をしてて」
「それで変に混ざったような喋り方に」
「へい。まぁ中途半端なんですがね。でも腕だけは親父を超える為にと日夜努力を惜しまず、精進しています」
親の話が出た途端に他助の表情が明るくなった。
彼にとってそれほど誇れる存在であって、自分自身にとっての目標なのだろう。それを語る姿は実に楽しそうでもある。
「話の内容から察して父親も同じく修理屋だったのかしら」
「その通りです。元々親父の代から仕事だったようで、自分は物心ついたときからどこかの村に泊り込んでは修理稼業に明け暮れる親父の傍にずっといました」
「今はもう亡くなって?」
「……もう十年くらい前になりますか。そうですね」
「ごめんなさい。気がきかなくって」
「気にしねぇでくだせぇ。親父はたぶん安心して成仏できたと思いやす……笑って逝ったんで」
ただ。と、他助は言葉を区切る。
「親父はたぶん一つだけ、親父自身も忘れちまった心残りがあったと自分は考えてまして」
「あら。それじゃあ成仏も何も無いんじゃない?」
「……晩年、親父はそのことについて一切触れもしませんでしたし、そもそも本当に忘れてたようだったので、心残りにしようにも忘れていたものとあっちゃあ心に残すも出来ませんよ」
「そう――それでその心残りと言うのは?」
「ある物の修理でして。おそらく、親父の持ち物かそれとも別の誰かのだとは思いやすが」
そう言って。
今度は小綺麗に磨かれた棚の方へ向かい、一番上の段に手を伸ばした。
取り出したのは長方形の、両手に収まる程度の大きさをした箱だった。木目調の木箱で模様や絵などは特に描かれてもいない。
他助はそれを大切に持ち出して、紫の前に差し出した。
「開けても?」
紫の言葉に彼は静かに頷く。
慎重な手つきでゆっくりと開くと――聴き慣れない、澄んだ鈴のような音が鳴り始めた。
箱の中からである。中のカラクリの何かが回りだし、静かに一音一音を鳴らしている。だが、あまりにも途切れすぎている上に、時折鉄を叩くような鈍い音がしている。音の高低もあまりにバラバラすぎる。
紫が見たところ――オルゴール、のようだ。
外見上は綺麗ではあるが中身の方はぼろぼろで、劣化が激しいのが見て取れる。
「良い物を持っているのね。これがその心残りって言う……オルゴール?」
「へい。親父は昔からこれを寝る前に聴いてまして……何の曲かは知りやせんが、でも暇が出来たらこれを直そうといろいろ手を焼いていたのはしっかりと覚えてます」
「そう。それで直せなかった、と。修理屋なのに」
修理屋なのに、と言う言葉に他助は顔をうつむけた。
「親父は鉄関係には疎くて……特にこんな洋風細工と言いますか、カラクリ物はてんで無理なんです。親父もそれについてはまったく習った覚えが無いらしくて」
「それで手が進まないのね」
「……そんなところです。それで親父は諦めて、目もつかないような小屋の裏にある物置に投げ入れたんですが、それを自分がこっそりと回収しまして」
「なるほどね。貴方が親父さんの意思を引き継いでこうして修理屋をやっているのも、これを直すためでもあると言うわけかしら?」
他助は言葉で返すでもなく、静かに頷いて答えた。
このオルゴールが一体彼にどれほどの価値があるのか――それはこうしてこのオルゴールのために修理屋を続けていること、直すための研究を続けていること、そしてこれを扱うときの仕草を見ていれば解ることだった。
今の他助にとっての原動力は間違いなくこのオルゴールだ。そして、下手をすればこれに捕らわれることもあるかもしれない。
親が叶わなかったこの道具の修理、それが息子の代でも叶わずじまいだったら。おそらく同じ道を歩むか、それともこの小屋に閉じこもってひたすら修理に明け暮れるか。
「――ねぇ」
八雲紫は、人間よりも人間らしい妖怪だ。
そこまで解ってしまって、いつものとおりに解ってるようで解ってないような、知っているくせに知っていないような振りは出来ない。
だからと言って簡単に手を出して、相手に楽をさせようと言う気も無い。肝心なのは誰かの手を借りてでも何かを自分で成す事にあるのだ。
助かりたいなら自分でどうにかするように、自分で無理なら誰かの力を使えばいい。
だからこそ。彼女は彼に言うのだ。
「お代、お支払いがまだだったわよね」
「あっ……へい、そうでした」
「お金じゃないけど、それを直すための必要な知識がありそうなとこ、教えてあげるわよ」
先刻直ったばかりの扇子を広げ、何も無いところをそれで扇いでみせる。
するとどうだろうか。何も無かったはずのそこに、一本の切れ目が走り、それは大きな円となり、別の景色を写し始めた。
奇怪な現象を前に目を白黒させて言葉も出ない他助を前に、紫は優雅に微笑んで。
「あらあら。こう見えても私、妖怪ですから」
意地悪に、悪戯に言う。
それはとても、子供のようだった。
―――
一先ず外に出て遊んでいた橙は先に隙間を通して家に返し、そのままの流れでまた隙間を通りやってきたのは紅魔館が誇る大図書館。
数えることすら叶わないほどの莫大な量を誇る書籍の数々、種類は実に多岐に渡る。そのほとんどを管理しているのが館に住まう魔女、図書館の主――。
「……いきなり隙間を開けてここに来るなんて、ドアをノックするマナーを知らないのかしらね。隙間妖怪さんは」
「水晶で覗き見る変趣味は私にはありませんわ――魔女様?」
――パチュリー・ノーレッジである。
最近寝不足なのだろうか、言葉には力も無く、目の下にはくっきりとクマが出来上がっており、背を預けた椅子からは今にもずり落ちそうなほど気だるげに見える。心なしか皮肉の言葉にも力が無い。
そんな彼女はこの部屋を物珍しそうに眺める他助に視線を向けた。
「……あれは?」
「人間。修理屋よ。書物を見せてもらいにきたの」
書物、と言う言葉にパチュリーは眉をひそめた。
「貸し出しは禁止よ。最近被害が酷くてね……貸したって返さない愚か者が調子に乗り出しちゃって」
「楽しそうね」
「そう言うなら代わる? 徹夜で警護してもらうわよ。最近の泥棒はパワーだけじゃなくスピードもあるから、まず追いつくのも一苦労よ」
「え、遠慮するわ」
大きくため息をついて。
「ちょっと。そこの人間」
「へい。お呼びですか?」
「あー……私は気だるくて今にも眠りそうだから、小悪魔に何の本が見たいか言って、紹介してもらって。貸し出しは禁止だから、必要な記事は全部書き写しにして頂戴。紙と筆はこっちで用意してあげる」
「ありがてぇです」
「……変な喋り方ね」
くすり、と笑って傍に控えていた小悪魔に後はお願いとだけ言うと、パチュリーは椅子に座ったまま眠りだした。
よほど疲れていたのだろう。これ以上負担はかけさせまいと、紫は来たときと同じように隙間を広げて立ち去ろうとするが、思い出したかのように他助へ向き直る。
「他助」
「へい、なんでしょう?」
「直ったら、聴かせてくれるかしら」
「そりゃあもう……喜んで。お釣りを返してませんからね」
その返事を聞いて、紫はすぐに隙間へ入った。
―――
「こっからは一人か……」
膨大な数の本を前に、他助は一人呟いた。
今までにも本に頼ったことはあった。しかしそのどれもが関係のないものばかりであり、オルゴールの修理に繋がるものではなかった。
壊れている内容は音の不具合と、上手く再生が出来ていないこと。この二点を直すことからだ。そしてこれらを解明するためにも本の知識が必要となる。
「えと、小悪魔さん、でしたっけ」
「はい」
「からくりについての本を見せていただきたいんです……オルゴールの」
「オルゴールですか。それでしたら」
すいっと部屋の向こう側へ飛んでいった小悪魔は、一分も経たない内に何冊かの本を両手に抱えて戻ってきた。
本、と言っても雑誌の形に近いものばかりで解明書のようなものではない。
「これらが該当するかと思います。細かいところの話は載っていませんが、私の覚えに間違いが無ければ仕組みについて簡単な記載があったと」
「……お、おぉ。こんだけ本がある中から、よくこれだけ……」
「伊達に長いことここにいませんよ、それだけです。紙と筆はこちらに用意しておきますので、ご自由にどうぞ。あとで食事も用意しますね」
「い、いやいやいやいや! 構わんでくだせぇ!」
「そうもいきません」
服を正して、堂々と胸を張り、小悪魔は答える。
「この館にいらっしゃる以上、妖怪人間関係なくもてなします。客人に対してお茶を出さないほど、この館にいる主人は意地悪ではありませんし、私の主人も無礼ではありません」
それでは、と小悪魔は歩いて部屋から出て行った。
少しの間だけ静寂が訪れる。図書館には他助と眠っているパチュリーくらいしかいないからか、とても静かだ。彼が大人しく自宅で休みを教授しているときと、なんら変わりが無い。
一つ息を吐いて、気を入れ替えて雑誌をめくる。
――雑誌は小悪魔が言うとおり、確かに専門書と言うには内容が薄かった。浅いマニア向けと言ったところだろう。だが簡単な仕組みの説明ぐらいはしっかりと記載されていた。
そ一つ一つを漏らすことなく、頭に叩きつけるように何度も何度も指でなぞりながら音読していく。一つ一つ丁寧に、たまに出てくる読み方の解らない漢字や、カタカナで表記された文字はその都度小悪魔を読んで意味を教えてもらった。
時間は確実に過ぎていく。じっくりと読みふけってもうすでに半日。窓から見える空はすでに赤みがかっている。
だいぶかかったが解ったものはたくさんある。
オルゴールと一口に言うが、全体的に二つ種類がある。金属の円筒に取り付いたピンを元に音を鳴らすシリンダータイプと、金属の円筒じゃなく円盤になっているディスクタイプだ。
そこからの原理は両方とも同じであり、動く円筒ないし円盤についたピンがオルゴールに付いている長さの違う金属板――櫛を押し上げ、弾くことによって演奏を可能にしている。
机からはみ出させた定規を弾くような演奏方法、と言えばある程度の予想が付くのではないだろうか。
他助が持つそのオルゴールはシリンダータイプ。そしてぜんまいで巻いて音を鳴らすものだ。
「はぇ……いろいろあんだなぁ、こいつも」
簡単な仕組みの説明ではあるが、それなりの機能を持っているオルゴールに他助は感嘆の意を込めて一人呟いた。
「動く仕組みはこれで解った。まぁ今までよう解らんままネジを適当に回してたんだが……音を鳴らすにゃこいつさ回して円筒を動かさんと話にならんかったわけか。ほんで――」
オルゴールの蓋を開け、中をまじまじと見つめる。
「問題の一つは解りそうだが――」
問題点その一――音の不具合。
仕組みしか今のところ解らないわけだが、何がどの機能を持っているかの説明を見ていくと、音を鳴らすのに一番重要なのは間違いなく櫛である。音の高低がてんでバラバラであったり時折鳴る鈍い鉄の音は間違いなくここなのだろう。
これに関しては一から作り直す必要がある。
しかし悩ましいことに、もう一つの再生の不具合が解らないのだ。
と言ってもおそらくどの雑誌にも載っていない、ある一部分のパーツ――円筒を回しているネジの部分だろうことは予想していた。分解して中を見ることも、いつも使っている修理道具を使えば出来るはずだ。
ただ中を見て果たしてはっきり何が問題なのかが解るかと言われると、はっきりと言い返せないのも現状だ。
「はぁ。どうしたもんだが」
「――何よ、どうしたのよ」
「うぉ」
突然後ろから話しかけられて驚く。
先ほど起きたのか目をこすりながら隣にパチュリーがやってきた。
「随分と悩んでいるようね。行き詰ったの?」
「へい……一つはまぁ部品の交換になりやして。もう一つは分解してみないと解らないんですが……」
「分解して何が悪いのか解る保障が無いってことね」
「そうなります」
腕を組み、パチュリーは思案する。
彼女から言わせるなら魔法の一つや二つでどうこう出来る問題なのだ。人間がやるような部品を取り替えたり、破損部分をわざわざ時間をかけて直したりなど、言ってしまえば効率的ではない。
だが無理に手を貸すのもこの場合はダメだろうと彼女は考える。目的があってここにきて、それがオルゴールの修理のためなのだ。彼女がそれに力添えできるのはあくまで知識を分けることくらいである。
「そうね……バラバラにしたら? その問題の部分」
「……正気ですか?」
「だってやってみないと解らないし、見てみないと判断も出来ないでしょ? ただゴミとか塵とかの所為で上手く回ってないだけだったら、それこそバカみたいじゃない」
世の先人たちが、常に挑戦し、疑問に立ち向かい、未知に触れようとしたように。いくら本に載っていないからと言ってそのままにするのは愚かしい。
「それもそうでやす……ここは一つ、長年の商売道具で」
そう言って、懐から取り出したのは一つの棒と、何やら尖がった形をした指の先ほどの物が十個ほど。外の世界で言う、用途によって先端を変えて様々なネジに対応できる、ラチェットドライバーと言うものだ
他助はその中から一つを選んで棒の先端に取り付け、それをオルゴールの中へと向けて一つ一つ分解するのに外す必要があるネジを外していく。
丁寧に分解していって最後にカバーをゆっくりと外す。
「……」
「どうしたのよ黙って。何かあったの」
「……いんや」
オルゴールの中へ慎重に手を入れて、他助は何かを摘んで机の上に置いた。
それは薄っぺらい赤茶けた何か――錆びのようなものだった。年代物のオルゴールだったのだ、鉄で出来た部品の内側で錆びがこのような形を持って抜け落ち、円筒を回すときの邪魔になっていたのだろう。
「なんだかこれだけが再生の邪魔になってた、ってのはあっけねぇ限りで」
「そうね――もっと部品がダメだったとか、そう言うものかと思ったけど」
「だったらもう冷や汗だらだらで血相変えてますよ。あぁ、魔女さん本当にありがとうございやす」
「え?」
何か言ったかしら、と首を傾げるパチュリーに頭を掻きながら他助は答える。
「いんや、魔女さんが背を押してくれなかったら、今頃まだ頭抱えてうんうん悩んでやした」
「別に……ただ私の視点から、そうした方が良くないかしらと思っただけよ」
「それでもですよ」
外した部品をまた元通りに戻していく。外したときよりも慎重に、正確に、そして速く。やはり修理を生業としているだけあると言うべきか。
「親父もそうでしたけど、修理をやってるとふと怖くなるんですよ……これ以上元の状態に戻そうとしたらもしかして壊れたりするんじゃないかって。今まで数え切れないくらい修理をさせてもらいまして、それで慣れた道具の修理をやっていてもあまり修理しないような道具のときでも、本当にふとしたときに怖くなるんですよ」
「……」
「医者ももしかしたら同じ心境なのかもしれやせん。治しても治しても、また病気にかかる。そして必ず死んでいく。道具もそうです。直しても直しても、また故障して、必ず壊れる。例え部品を取り替えて新品同然にしたって、それは以前まで使っていた道具とは……全然ちげぇんですよ。魔女さん、人も道具も、元通りにはなれやせん。壊れたらもうそこで終わりなんです。だから直すのが怖いんです」
話している間でも、淀みなく手は動く。
直すのが怖い――と言うのはあまりパチュリーには馴染めない感覚だった。どちらかと言うなら壊れるのが怖いのであって、それを直せるなら怖さは無いからだ。おそらく誰であってもそうだろう。
一般的な考えが定着してしまっているから、そんな考えが彼女にはあまり理解できなかった。
「――じゃあ今は? 今もそれを直している最中、怖いとか思ってるの?」
「まぁ……多少は。解らないかもしれやせんが、結構指先震えてるでしょ」
「そうかしら? 普通に見えるわよ」
元通りに組み直したところで、他助雑誌と重要事項を書き出したメモ用紙に目を向ける。
まだ見逃した事柄があるかもしれないし、もう一度読んでいけば新しく解ることがあるかもしれなかったからだ。何せ、故障の原因は解っていることだけとは限らない。
「ねぇ。このオルゴールだけれど」
不意に、パチュリーが言う。
「どうしてそこまでして直したいの? 私は貴方に深い事情を聞いたわけじゃないし……個人的な興味で聞いただけだから言いたくなければ言わなくていいわよ」
「理由、ですか……理由……」
どうにも冴えない表情で、何も無い宙を見つめ、他助は答えを返した。
「親孝行、でしょうかねぇ。たぶん」
「たぶん? 随分曖昧ね」
「はは。まぁ……小さい頃の話ですが、夜中に親父が一人でこのオルゴールが流す、壊れた所為でボロボロの曲を聴いて一人むせび泣いているのを見たら、子供心であれ何とかしたいと思いまして」
幼い子供の目に、それがどんな風に見えるのか。
自分を育てるために毎日働く父親が、自分の知らない夜に一人でオルゴールの曲を聴きながら、誰に悟られるでもなく、声を押し殺して泣いている。
それがまだ子供だった他助に、どう見えたのか。
「最初は何も聞けずじまいでしたよ。聞くにも聞けずで」
「まぁ解らなくもないわよ」
「だから今でも親父がこのオルゴールを大切に持っていたのも、直そうと努力したのも、そして諦めた理由も――俺は何も聞いていやせん。ただ、これが綺麗に曲を流せるように直せば、きっと親父も喜んでくれるだろう、それだけです」
「――そう」
オルゴールをなぜ直すのか。その理由を話しながらも、他助はメモを読むのをやめなかった。この作業がどれだけ彼にとって大切なのか、その姿勢で察することが出来る。
その姿を見て、パチュリーはふと考える。
もし自分にも同じような境遇が起きたとして、果たして他助と同じような行動が取れるのだろうか。
少しだけ考えて、彼女はそれ以上考えようとするのをやめた。人間より長命な自分たちにはどうも気の遠くなるような先の話でもあるし、やはりそのときにならないと解らないからだ。
彼女は静かに、誰にも解らないように笑うと、他助の傍にある椅子に腰かけて彼の様子をずっと眺め続けた。
――こうして、作業をしながら話をしつつ、夜は更けていく。
問題の一つを消化し、他にも故障はないかを探って異常無いかを確認した上で今日の作業は終了した。
―――
――翌日。
図書館の椅子に背を預けたまま眠っていた他助は、目を覚まし重い瞼をこすりながら立ち上がる。
その際に全身を覆うくらいに大きなタオルケットが自分の体から落ちたのだが――おそらく小悪魔が気をきかせてかけてくれたものだろう、それに気づいてタオルを手に取る。
少しして辺りを見渡すが、朝日が差し込んで明るくなった図書館は、昨日来たときと比べると明るい印象が目に付くような部屋になっていた。本が散らばって汚いところもあるが、しかし雰囲気としては清々しいものがある。
「あらお目覚めですか?」
呼びかけられて振り返ると、先ほどまで自分がいた席に朝食を並べている小悪魔がいた。朝早い時刻なのに大して眠そうでもなく、満面の笑みを浮かべて眩しい限りだ。
「あ、タオルケットは預かりますね。さぁさお食事のほうをどうぞ」
「へい。申し訳ねぇっす……おぉ、これは何とも洋風な」
「食べなれませんか? フレンチトーストです。こちらはスクランブルエッグ……簡単な朝の食事です」
どうぞおかけになってください、と言われて素直に席に着き、朝食に手を伸ばす。
フォークを使って食べるのも、フレンチトーストを食べるのも、そして朝一にブラックコーヒーを飲むのも他助にとっては初めての経験だった。フォークは彼には使いづらく、トーストは甘く美味しく食べやすく、コーヒーはお茶とは違ってかなり苦く飲みづらかった。
「ふへぇ……あぁ、ごちそうさまです」
「はい、おそまつさまでした。コーヒーはさすがに合いませんでしたか」
「さすがにこの苦さは……お茶の渋みと違いやした」
「それじゃあお口直しにオレンジジュースを。美味しいですよ」
差し出されたグラスになみなみと注がれたジュースを一気に飲み干す。
「あー、そう言えばオルゴールどうなりましたか?」
「問題の一つは解決しました。もう一個は部品を一から作らないとダメみたいで」
「その問題なら――」
部屋の奥、本が山積みになっている向こう側からパチュリーがゆっくりと出てくる。また寝不足なのか目の下のクマは相変わらずはっきりとしている。
「私が魔法で何とかしたわよ。この程度の鉄細工、必要な材料を用意して魔術を通し形状を構成させれば何ともないわ」
そう言って、彼女はオルゴールともう一つ何かを机の上に置いた。
差し出されたそれはオルゴールの部品、音鳴らすのには欠かせない櫛の部分だった。元の物と変わらない大きさをしている。
「それを交換したら終わりでしょ? さっさとやってしまいなさいな」
「お、おぉ……魔女さん! かたじけねぇ、感謝してもしきれねぇ!」
「いいわよこれくらい。それより早く」
急かされて他助は急いで道具を取り出して部品の交換に移る。
ただの交換だ。精密な作業は一つも無い。ただ止めているネジを取り外し、前の部品である櫛を取って新しい櫛を付け、ネジをまた取り付けるだけ。
「ようやく……ようやくですよ」
最後の一個をしっかりと締めなおして、改めて中身を確認し、大きく息を吐く。
「どんな曲が流れるのかしらね」
「楽しみではあるわ……小悪魔。窓とかしっかり閉め切ったかしら?」
パチュリーの呼びかけに敬礼をして小悪魔はしっかりと答える。
「はい! 今日は過去に類を見ないほどに強力な防御魔術も施しましたので、侵入者も許しません! あふぇ、でも疲れましたぁ」
「そ、ご苦労様。本当に苦労をかけるわ」
「んーっ! いえいえ、滅相もありません! パチュリー様にそうやって労ってもらうだけで私はーっ!」
二人の会話を他所に、他助は直ったオルゴールをまじまじと見つめていた。
彼にしてみれば直るまで本当に長かった。親の代からずっと手をつけてまた元の音色を取り戻そうと、必死に努力していた日々が、ふとした日に相手をした妖怪のお礼をきっかけに直すことが出来たのだ。
今までの思いを込めて、オルゴールのぜんまいを回そうと手を伸ばした、ときである。
「おやまぁ――どうしたのかしら、静まり返っちゃって」
すぐ後ろで、囁くような声量で。
隙間を広げて八雲紫が、文字通り音も無く、何も無いところからゆらりと現れた。
「様子を見る限りじゃオルゴール、直ったのね」
「へい。魔女さんがどうやら魔法で部品を作ってくれたらしくて……取替えも済みやした」
「へぇ――手を出すなんて、物好きね」
八雲紫は扇子で口元を隠し、目を細めてパチュリーに目を向ける。
「別に。気まぐれよ」
「気まぐれね、気まぐれ……ふふ」
紫はどこか楽しそうに笑うと、他助の向かい側、テーブルを挟んで反対のほうに向かい、椅子に座る。
ゆったりと、そして堂々と椅子に座り足を組み、他助がオルゴールを鳴らすのを待った。他助もそれを察してかぜんまいを掴む。
「それじゃあ――回しますよ」
皆が息を飲み、様子を見守る中、他助は慎重に壊さないようにとじっくりとぜんまいを回す。
――かちりかちり。
普段では聴き慣れない、鉄の小さな音が耳に響いてくる。
それを数十回。時間をかけてゆっくりと回し続け――巻き終わりが来たところで手を止める。ここで手を離せば、他助の親が直すことも叶わなかったこのオルゴールが、ようやく今に蘇ってその曲を鳴らすのだ。
途切れもしない、音の高低が不確かでもない、鈍い鉄の音もしない、きちんとした透き通るような清涼さある音が、円筒に刻まれた楽曲を奏でるのだ。
そして――万感の思いを込めて、ぜんまいから手を離した。
「――――」
その音色を、曲を耳にしたとき。
他助は言葉を失い、紫は視線を釘付けにされ、パチュリーは時の流れを忘れ、小悪魔は不思議な浮遊感を感じた。
オルゴールから流れる曲調は誰が聴いても明るいものであった。底抜けに、と言うわけではないのだが跳ねるようなリズムで奏でられるそれは、自然と体が動いてしまう。
しかしながら中盤に差しかかるに連れて、そのメロディに合わせる様に入ってくる物悲しいもう一つのメロディは、聴く者の何かが無くなっていくような、そう錯覚せずにいられないものを体に感じさせられた。
終わりに近づくと明るいメロディも物悲しいメロディもいつの間にか無くなり、そのどちらでもない中間の、何とも表現しがたい曲調へと変わっていく。
ただの鉄の音だと言うのにここまで表現できるものがあるとは、と紫は感嘆せずにはいられなかった。
芸術は人を動かすことが出来ると言うが、このオルゴールが流している曲は間違いなく人も妖怪も魔法使いも心を奪うには価値のあるものを持っていた。
最後の最後。まるで何か激流のような終わりを連想させる音色を流し終わった後、オルゴールは音を鳴らすことをやめた。
「はぁ……親父、すげぇものを持ってたんだなぁ」
「久々に素晴らしい曲を聴いた気分だわ。レコードで聴く曲も悪くはないけれど、オルゴールで聴く曲も良いわね」
朝も早い時刻だと言うのに、機嫌良さそうにパチュリーは言う。心なしか、顔色も今日最初に顔を合わせたときと比べると良い色をしている。
「確かに良い曲だったわ……少し中身見てもいいかしら?」
「へい。どうぞどうぞ」
紫は机に置かれたオルゴールに手を伸ばし、中を覗く。昨日の時点では錆びだらけだった物が今はどうなったのか、と気になって見てみれば。
「……あら?」
オルゴールの要、円筒の部分。昨日までそこにあったたくさんのピンが、一つ残らず付いていないのだ。
「他助、これ本当に直ってたの? 円筒がつるっつるじゃない」
「あえ? そんなはずはありませんよ、見せてください……あれ、これは何でだ」
紫からオルゴールを受け取り同じように中を見て異変に驚く。
中を覗き込んでもそれらしいものは無く、これは一体どう言うことなのか、といぶかしんでいるときに。
「一度分解してみては?」
小悪魔の提案だ。
「せっかく直ったところですが、中身を見てみないと解らないのは現状明白ですし、そうした方がよろしいかと」
それもそうだ、と頷いて他助はすぐにドライバーを取り出して丁寧にネジを外し、一つ一つの部品を分解していく。
そうして、櫛を外して円筒も、と手を動かしたときだった。
他助の目に映ったのは、たくさんのピンだった。ちょうど櫛の下に隠れるように転がっていたそれらを見て、彼は言葉を失くした。
「……そんな」
同じく、オルゴールの中身を後ろから覗き見たパチュリーが言う。
「せっかく、直ったのに……こんなことって」
「……」
「――他助、部品を並べなさい」
オルゴールが壊れたことに対して、それをじっと見つめるしか出来ない他助に、パチュリーは言う。傍にあった筆を取りテーブルの空いたところへ何かを書き殴っていく。
「今度こそ完璧に直してやるわ――文句のつけようがないくらい、元通りに」
「魔女さん」
振り絞るように、他助は彼女の言葉を遮って。
「もう、ええんですよ」
音を無くしたオルゴールを見つめて、他助は力なく、笑顔を見せるでも涙を流すわけでもなく、ただただ素のままの表情で。
彼は、言うのだ。
「もう――ええんです」
ゆっくりと、オルゴールの蓋を閉じる。
修理屋として悟ってしまった以上、これ以上手を加えることは出来ないと判断したのだ。
もう死んでしまったこのオルゴールを、これ以上直そうとしても、また元通りにはならないのだろう、と。
それだけを言って、ようやく他助は涙を流したのである。
―――
「あのオルゴール、どうしたの?」
「へい――親父の墓に眠らせました。もう音は鳴らないとは言え、あれは俺のじゃないんで。親父と一緒のほうがいいかと」
「そう」
素っ気ない返事を返す。
あの一件以来、他助もまたいつもどおり村に出かけては泊り込みで修理に明け暮れる日々に戻った。
たった数日とは言え自分の仕事を忘れ、一つの物に取り組んでずっとやりたかったことが出来たのは、彼にとってはとても良い経験になったことだろう。
自分では調達も出来たか怪しい部品を作ってくれたパチュリーには大きな恩が出来た、と彼は言う。今度近い日に館まで出向いて壊れた道具諸々の修理や点検をするつもりらしい。
――ただ、それでもやはり修理屋として、あのオルゴールを完璧に直せなかったと言う事実は大きかったらしく、あの日から一ヶ月はまともに仕事はおろか修理道具の一つも持てる気分では無かったらしい。
「橙が心配してたのよ。遊びに行ったときは元気にしてるのに、最近は抜け殻みたいだったって」
「そうでしたか……いやぁ、面目ねぇでさぁ」
「――ところで、最後のあの壊れ方って何だったのかしらね?」
紫の言葉に他助は素直に答えた。
「最後の壊れ方は、疲労なんでしょう」
「疲労?」
「へい。物も疲れを蓄積しやす。それが限界まで来ると、折れたり、中で腐ったりします。おそらく昔から無理に動かしていたんで、それでピンに疲労が溜まって折れちまったんでしょう」
それでも、と言葉を繋いで。
「親父が残した絆を直すことは出来ました。でもそのあとにまた壊れて……壊れないように直せなかったのは俺の責任です。でも物は必ず壊れます――人と同じで死んじまうんでさ。医者が死人を蘇らせれないのと同じで、俺ら修理屋も死んだ道具はまた本当の意味で元通りに生き返らせるこたぁ出来ないんで」
「良いことを言うわ」
「親父の受け売りでして」
「あら」
こうした会話の中で、もしかしたら、と紫は思う。
オルゴールを他助が直すことも、直してしっかりと音を鳴らすことも、そしてオルゴールがその役目を終えて死んでしまうことも。
もしかすると他助の父親は知っていたのかもしれない。あくまで推測だ。死んでしまった人の思惑なんて今さら把握も出来ない。
知っていたから――死んだ道具と見切りをつけて、生き返らせることをやめたのだろうか。
ふと、紫はあのときに聴いたオルゴールの音色を思い出す。
原曲の、メインのメロディだけ当てただけであろう音を聴けば、明るくもあり、ときに脅迫するかのように差し迫る勢いがあり、そして傍らに寄り添うかのような安心感を持った曲だった。
どこで聴いた曲だったか、と記憶の海を潜っては覚えている曲と音を照らし合わせる。
「あぁ……なるほど」
思い出してその曲の歴史を振り返ると彼女は納得した。道理で思い出しにくいわけである。
「どうなさったんで?」
「いえ――あのオルゴールの曲、どこかで聴いたなぁって思ったのだけれど、百五十年も昔の曲で、それでどうも思い出しにくいものだったなぁって」
「へぇ……」
そうですか、とだけ答えて他助は何本かの骨が折れた傘に手を伸ばした。
あまり関心は無い――と言うよりかはもう忘れてしまっていたい、と言うような。
それにしても、とオルゴールの曲を思い出し、紫は苦笑した。
オルゴールの曲に使われた原曲――死と乙女。何とも皮肉なことだろうかと彼女は思う。
原曲に当てられた意味を辿れば病床に倒れた乙女と死神の対話を描いた楽曲なのである。
この曲の最後に込められた、死神が安息を与えに来たと言う解釈を考えれば、最後にこのオルゴールを直し果たすことが出来なかった父親の願いを叶えて安心させることが出来たであろう他助は、さながらその死神なのか。
考えすぎでもあり、もはや妄想の域ではあるが。
もうこれも過ぎた話なのだ。
他助は父親の思い残しを直し、そして今度こそようやく自分の道を歩く。立ち止まっている暇は無い。日夜自らの仕事に精を出し、鍛錬を重ね、次の代に残せるほどの物を築き上げなくてはならないのだ。
人間の一生は、それを成すには寄り道が出来るほど長くは無い。
一生が長い妖怪が、それを邪魔出来るほど丈夫に作られてもいない。
「じゃあ、私はこれで失礼するわね」
「へい。大してもてなしも出来ず、申し訳ないです」
「ふふ……お気になさらず、仕事中に来た私も悪かったわ。それに久々にその面白い口調も聞けたしね」
「あっはは。からかわないでください。照れやすよ」
「……ふふ」
口元を扇子で隠しながら微笑んで。
紫は玄関に向かうでもなく、後ろに一つ、人一人がくぐるにはわけもない隙間を広げる。
「それじゃあ今まで楽しかったわ。ありがとう」
「いえ――こっちこそ、世話になりやした。ありがとうございます」
それっきり、である。
二人の会話はこれを最後に、終わってしまった。
紫自身も彼のことを忘れたわけではなく、ただ彼女がこれ以上の接触は意味が無いだろう、と思っただけだ。興味をなくしてしまっただけかもしれないが。
悲しいことで、他助と他助の父親との繋がりがオルゴールであったように、紫と他助の繋がりもまたあの壊れたオルゴールだったのだ。
それが無くなったから、繋がりもまた一緒に無くなっただけの事。
いつもどおり、藍と橙と朝の食卓を囲み、共に過ごしたまには出かけて、幻想郷を満喫する。そうして、八雲紫の一生にとって些細ではあるが印象深い一件は過ぎていった。
まだ秋の色も薄い――夏の暑さが尾を引く九月の出来事である。
個性があって面白い。
こーゆー作品大好きです。