後悔しているか。
仮に、誰かにそう問い掛けられたならば、即座にこう答えるだろう。
半々だと。
◆◆◆
「雲山、雲山、雲山」
――三度も呼び掛けるな、喧しい。
縁側でサボタージュを決め込んでいた傍らに、人影が兎のようにぴょこりと割り込んだ。
「だったら返事くらいしてくれても良いじゃない」
――声が小さいのは知っているだろう。
フードを被った顔は、不機嫌に歪んだ表情を改めようとしなかった。もっとも、その瞳には他人をからかおうとしている意思が、滲み出るように浮かんでいた。あまり認めたくはないことだが、この少女とは長い付き合いである。その程度の感情を読み取るのは造作もなかった。
「知っているのと聞こえないのは違うわよ」
――知っているのなら、聞こえるように努めてほしいものだ。
「何よそれ。まるでお嫁さんとかお母さんにでも頼むような言い草ね。私は雲山のお母さんでも、況してやお嫁さんでもないわよ」
――当たり前だ、鬱陶しい。
「あ、それはもしかして、私にお嫁さんになってほしいという回りくどいプロポーズなのかしら?」
どうしてそうなった。
有りっ丈の疑念を眉根に寄せながら、少女へと向き直った。
雲居一輪は不機嫌だった表情を、いつの間にか快活な笑みへと変えていた。おまけに頬は、熟れはじめたばかりの林檎のように、ほのかに赤く染まっている。何の冗談だと怒鳴りたくもなったが、さすがに寺の境内で大声を出すのは躊躇われた。命蓮寺の主である聖白蓮は、今時珍しく、清廉潔白を絵に描いたような僧侶だ。大声を勘付かれて、縁側のサボタージュを見咎められるのは勘弁願いたかった。
深々と溜め息をつく。
――そういうのは、もっと大事な時まで取っておけ。
「あ、もしかして照れている? ひょっとして雲山、私にプロポーズとか言われちゃって照れているの? ねえ?」
ころころと、一輪の顔は笑っている。
長い付き合いだからこそ、この少女の要領の良さが舌を巻くほどであることは、重々承知していた。要領が良くて真面目であり、何よりもころころと調子に乗りやすい。薄紫のフードなどを目深に被って一端の尼さんを気取っているが、その性根は少女そのままだった。ハイカラという言葉は、この一輪のためにあるようなものだと常日頃から思っている。
もっとも、当の一輪はこれを頑なに否定していた。
曰く。
「まあ頑固者で融通利かなくて無口な雲山が、そんなチャキチャキした考えを抱くはずもないか。私みたいな地味娘でも、あなたと一緒に歩いているとハイカラに見られちゃうものね。それくらい、雲山が頑固で融通利かなくて無口なんだもの。そんなあなたと一緒なら、誰だってハイカラに見られちゃうわよね」
これである。
自分のハイカラな気質を、一輪は事ある毎にこちらのせいだと主張していた。いつ頃からかも憶えてはいなかったが、随分と昔から言われていたような気がする。傍らに、一輪を迎えた頃からだと考えるなら、かなり昔のことだった。もしかしたら、彼女が人間であった頃から言われ続けているのかも知れない。
なおも笑う一輪には、少女特有の華やかさがしっかりと色付いていた。
人間の頃、堂々とした口振りで見越し入道を退治した時から、少しも変わってはいない。人間から妖怪へと成り代わり、流浪と封印という怒涛の連続だった過去を併せ持ちながら、それでもその顔には翳りなどが一切見られなかった。ころころと、あどけなさもそのままに目を細めている。
草臥れた元見越し入道には、少しだけ眩し過ぎた。
――ならば、そんな頑固者は退散しよう。
「雲山、またサボタージュを洒落込むつもりでしょ」
――境内での一服は不味い。
懐から手のひらサイズの箱を取り出し、ひらひらと一輪に見せ付ける。
――散歩でもしてくる。
「世間では、そういうのをサボタージュって呼ぶのだけれど」
――縁側で昼寝に興じるよりは健康的だ。
「あ、やっぱり分かっちゃう?」
――長い付き合いだからな。
「お互いにねえ」
目深に被ったフードを取り払いながら、一輪はバツが悪そうに微笑んだ。納められていた竜胆色の長髪が、ふわりと舞い踊る。
被り物をしたまま寝る者は、まずいない。
記憶が確かならば、この時間帯の白蓮は御堂での読経に専念しているはずだ。寺の朝は早いのが相場だが、妖怪は夜こそを主な活動時間としている。人間だった一輪も例外ではなかった。
フードを枕代わりに敷き、少女は縁側へごろりと寝転ぶ。
秋の涼しさが漂いはじめた境内は、心地良い風が柔らかく吹いていた。陽射しの鋭さは残暑そのものだったが、日陰となった縁側なら全く問題ないらしい。早くも蕩けはじめたように大きな欠伸をしながら、一輪はこちらに向けて手を振った。
「雲山、ついでにねえ」
まどろみを孕む声が届いた。
「お塩とお味噌、お願い」
――重たいものばかりだな。
「姐さんから頼まれているの。だから、雲山を探していたの」
すでに、一輪は瞳を閉じていた。
「お願いね」
語尾は窄むように間延びしていった。
数秒と立たない内に、見ている前から寝息が聞こえてきた。胸の辺りが静かに上下していた。
確かめるまでもなく、一輪は昼寝に興じはじめていた。洒落た言い方をするならばシエスタである。
あどけない寝顔を見下ろす。
小鼻がぴくぴく動いた。ふっくらとした唇はだらしなく弛緩している。普段からフードに髪を納めているため、額が普通よりも露出しているように見えた。筆と墨があればと、ほんの少しだけ後悔した。後悔はしたが、仮に手元にあったとしてどうするかと思い至って、静かに被りを振った。悪戯など、妖精のような子供がやることだ。元とは言え、見越し入道がやるようなことではない。
縁側から離れて、外堀を越えようとする。
入道である雲山には、これくらいの芸当は造作もなかった。
「ん……」
堀を越える直前、艶かしい吐息が耳を打った。
振り返ることはせず、口元にだけ笑みを浮かべて堀を越えた。
◆◆◆
髪色より濃い薄紫の布を、雲居は手にしていた。
竜胆色の長髪は彼女が妖怪へと成り変ったことを意味していた。どうにも落ち着かない様子の雲居だったが、不思議と似合っていると雲山は思っていた。無論、当人には伝えることもなく、密かに思っていた。肝が据わっており、それでいて他者をからかうのが好きな雲居にそんなことを言えば、どんな事態に陥るのかは一目瞭然だった。ただでさえ日頃から、無口で無愛想な雲山にあれこれと揶揄してくるのだ。これ以上、煩わしさに晒されるのは御免だった。
もっとも、それも半ば自業自得だと言えた。
退治されたことに感嘆し、雲居に付き添うことを決めたのは、他ならない雲山だった。
当初、雲居の性格を把握し切れていなかったのもある。よもや、これほど肝が据わっており、それ以上に調子の良い性格をしているとは夢にも思わなかった。早計だと何度も後悔したが、所詮は後の祭りである。退治されて以来、雲居の傍を離れたことは一時もなかった。
薄紫の布を、雲居はあれこれと眺めていた。表と裏を翻し、折ったりはためかせたりを繰り返しながら凝視している。闊達とした性格の彼女にしては珍しく、難しい顔をしていた。
それは何だと、問い掛けた。
風呂敷など格別珍しいものではなかったが、雲居がそうやって見つめる薄紫の布は見慣れない代物だった。
「ちょっと、奮発しちゃった」
バツが悪そうに、雲居が微笑む。
動きに合わせて揺れた長髪の竜胆色は、生来の髪色ではない。人間から妖怪へと雲居が成り代わった証であり、あくまで後天的な色合いである。にもかかわらず、生来の髪色であると錯覚してしまうほどに、竜胆色は雲居の顔によく映えていた。あどけない童顔を損なうことなく彩っている。
或いは、見惚れてしまったのかも知れない。
何処からか湧き出した気恥ずかしさを隠すために、気のない相槌を装った。
「ほら、私も妖怪になっちゃったでしょう」
こちらの内心など知る由もなく、雲居は言った。
「目立つかなと思ってね」
竜胆色の長髪が、束ねられた。
ふわりと薄紫の布が舞う。
あっという間に竜胆色は覆い隠された。慣れていない手付きで、雲居はほっかむりのように被った薄紫の布を整える。それが一段落すると、今度はなるべく髪が露出してしまわないように、垂れた前髪を押し隠した。それでも前髪は、しぶとく布からはみ出て額にかかる。雲居は何度も前髪を隠すことを試みていたが、諦めたような溜め息をつくのに然程の時間は要さなかった。
薄紫から、竜胆色が覗いていた。
何故だと言いたくなり、口を開きかけた。
「さっきも言ったでしょう」
こちらが言うよりも先に、雲居は言った。
「目立つと厄介じゃない、色々と」
はにかんだように雲居は微笑んだ。
瞳には、ほんの少しの哀しみが滲んでいた。涙とも光ともつかない揺らめきが、雲山には見えていた。それくらいを察する程度には、日頃から付き添っているつもりだった。
「そんな顔をしないでよ。別に、私は後悔なんてしてないんだから」
顔に浮かべたつもりはなかった。
こちらが雲居を察するように、雲居も雲山の内情を察したのだろう。滲んだ哀しみを塗り潰すかのように、雲居は大きく笑った。
「それにこの色、悪くないでしょう」
薄紫の布は、雲居の童顔にも竜胆色の前髪にも溶け込んでいた。雲居の言葉通り、悪くなかった。
しかし、懸念も残った。
薄紫の色はそれだけでも目立つだろう。雲居の言葉に矛盾も感じた。
「目立つかな、やっぱり」
雲山の指摘に、雲居は照れ臭そうに微笑んだ。
どうしてそこで照れるのかとも疑問に思ったが、口には出さなかった。
「だって、雲山」
雲居の顔が近寄った。
「私と雲山が並ぶと、色も綺麗に並ぶじゃない。それを壊したくなかったのよ」
ふっくらとした唇が綻ぶ。
雲居は雲山の手を取って、自分の顔に寄せた。被った薄紫の布から、竜胆色の前髪がこぼれている。その横に持って来られた自分の手は、桃色にも近い薄紫だった。朝焼けの空に映る、色の移り変わりのようにも見えた。
「だから、薄紫の布にしたの。たぶん偶然だろうけど、妖怪になった私の髪色って、入道としての雲山の色と何処となく似ていたから。折角のそんな色合いを、台無しにはしたくなかったのよ。ほら、雲山と私って相棒みたいな関係だし。そういうところを大事にしなきゃいけないかなって、そう思ったのよ」
話している内に、雲居は萎むように俯いていた。
上目遣いでこちらを見つめる。
「駄目かな」
快活で要領の良い雲居にしては、珍しく歯切れの悪い言い方だった。慮るような視線を向けるなど、この少女には似つかわしくない。加えて、色合いを気にするなど、まるで年頃の人間の少女である。そんな年齢などとっくに通り過ごしている雲居には、やはり似つかわしくない理由だと雲山は思った。
鼻だけで溜め息をつく。
入道であり男である雲山に、雲居の乙女のような心境など分かるはずもなかった。
長年、雲居には付き添っており、ある程度のことならば自ずと理解できるほどだった。しかし、それと同じくらいに分からないことがあるのも、また事実だった。当たり前だ。雲居は女性であり、雲山は男性である。雲居は元人間であり、雲山は元々妖怪だった。その差は溝と呼べるほどに深くはないが、轍ほどの区別はある。寝所は一緒だが入浴は別々なのだ、それくらいの差はあって当然だった。
だから、分からないのは仕方ないのだ。
分からないからこそ、理解者でありたいと願うのは早々に諦めていた。
「……駄目かな」
再び、ぽそぽそと雲居は呟いた。覇気の感じられない言い草は、やはりこの少女には似つかわしくなかった。
分からないものだ。人妖の関係は難しく、男女の関係もまた難しい。
理解を試みることはそれだけで茨の道だった。
「あ」
だから雲山は、雲居の頭に手を添えた。
優しくふわりと撫でて、優しいと思える笑みを浮かべる。理解もせず、まあいいかと心の中だけで呟きながら、口を開いた。
似合っている。
それだけを、なるべく優しい声で言った。
「……うん」
顔を上げた雲居が、嬉しそうに微笑む。
快活であり要領も良いこの少女には、とてもよく似合う笑みだった。
「ありがとう、雲山」
ころころと弾けるあどけない喜びを含んだ声が、雲山には届いていた。
これで良い。
これだけで良いのだと、雲山は思った。
◆◆◆
薄紫の布、今ではフードと呼んでいる。
甘いとも酸っぱいともつかない思い出を存分に孕んだその代物を、本日の一輪は昼寝の枕代わりに使っていた。サボタージュのために酷使していた。縁側ですーぴーと昼寝に興じている一輪は、果たしてその事実に思い至っているのだろうか。
ゆっくりと被りを振った。
考えるだけ無駄なことだった、詮無きこととも言える。昔から、それこそ一輪が人間から妖怪へと成り代わるよりも以前から、理解者であることは早々に諦めていたのだ。一輪の理解者ではなく、単純に傍らに控えることに重きを置いていた。今でもその考えに変わりはない。それもあってか、先だって発刊された求聞口授には〝特殊な妖怪コンビ〟という記述が載せられていた。言い得て妙だと密かに思っていた。
まさしく、その通りだった。
一輪とはコンビなのである。彼女の言葉を借りるなら、相棒である。
理解者のような優しい関係は必要ではなく、寧ろ、差し込む情緒すら一輪との間にはなかった。一輪は入道を使役する妖怪であり、見越し入道を廃業した入道は良いように使役されるのである。あくまでも小気味の良い音を響かせるような間柄であり、それ以上のことは望んではいない。少なくとも自分は、使役される側の入道である雲山は、それ以上の関係など望んだこともなかった。
だから、一輪の内心など詮無きことだった。
今、彼女は命蓮寺の縁側で昼寝に興じており、幸せに惰眠を貪っている。多少不敬ながらも聖白蓮に帰依している。姐さんと慕う白蓮の要望に堪えるために、こうして雲山を使い走りとして使役している。これで良いのだと思った。少なくとも、現在の一輪は概ね幸せそうに見えているからこそ、これで良いのだ。
それぞれ塩と味噌の入った桶を、地面に降ろす。
入道である雲山にとっては、然程重たいものでもなかった。しかし、それでもやはり一服する際には邪魔となる。適当に大通りから逸れて、手のひらサイズほどの箱から一本取り出し、口にくわえた。
硬質なものの擦れる音が、しゅぼりと耳に届く。
自分のものとは違う灰色の煙が、秋空へゆっくりと昇った。
ジッポライターの炎で一服に興じるのが、唯一とも言える趣味だった。
白蓮をはじめ、命蓮寺で修行に励む妖怪連中には、あまり良い顔はされていない。禁煙ブームに啓蒙させられている妖怪連中は兎も角、白蓮が見咎めてくるのは当然だとも言えた。何せ、喫煙のニコチンどころか酒類のアルコールにさえ、あの清廉潔白な僧侶は良い顔をしないのだ。寺院の境内で吸うことは硬く禁じられていた。
秋風の、涼しさを孕んだ風が横切る。
かすかに揺らめきながらも、独特の熱と臭いを漂わせるジッポライターの炎は消えることがなかった。油臭いその炎は、喫煙を愛する者たちの間でも評価が別れる。油の臭いが強くて煙草の香りが損なわれてしまうと、ジッポライターを嫌う愛煙家も少なくはない。こだわりを抱く妖怪の多い幻想郷では、そうした意見を持つ者にも何度か出くわしていた。
だが、それが良いのだ。
十人十色と言葉にもある通り、個性が個性を彩り合うからこそ面白いのだ。雲居一輪という個性的な妖怪の傍らにいるからこそ、重々承知していることだった。
油臭い炎は、秋風程度では消されない。ちょっとやそっとの風では消されないのだ。そんなジッポライターは、外出先で煙草を吸うのには便利だった。油の臭いと煙草の煙とが混ざり合うのも嫌いではなかった。全く別々の臭いが、一つの臭いとなって含まれて吐き出され、紫煙となって漂うのだ。二つが一つとなる。決して波長を合わせる訳ではなく、ハーモニーなどとはお世辞にも呼べない。あくまで混ざり合っているだけなのだ。互いの主張は収めることなく、だからこそ綺麗に溶け合っている訳ではない。だと言うのに、一つにはなっているというのが面白かった。
時代親父とハイカラ少女。
雲山と一輪。
自分たちのようだと思った。
要領が良くて姦しい少女と、無口で融通の利かない親父。そんな関係と、何処か似ているように思えた。理解者となって波長を合わせることはなく、互いにそれぞれの主張は呑み込むこともない。溶け合うのではなく、混ざり合うだけだ。共に生きるのではなく、傍らに控えるだけだ。それでも上手くやってきた。今でも上手くやっている。まさしく、ジッポライターと煙草のような関係だった。悪い気などは微塵も起こらなかった。
ジッポライターの蓋を閉めた。かちりと鳴り、炎は消える。
一服を済ませて、塩と味噌の入った桶を手に取った。
通り過ぎる影は様々である。普通の人間から、普通ではなさそうな風体の人間。いかにも妖怪といった外見の者も通れば、一見すると人間と変わらない妖怪とも擦れ違う。昼下がりという時間帯から、こうして多種多様な人妖が街を行き交っているのは、この幻想郷ぐらいだろう。少なくとも雲山は、他の場所でこのような光景を目にしたことはなかった。今でこそ慣れてはいるものの、封印から解かれたばかりの頃は、それこそ目を疑った。
幻想郷は、本当に雑多だった。
一輪と雲山のような一風変わったコンビが、極々一般的に見えてしまうほどである。入道を使役する一輪はそれでも珍しかったが、個性的な輩が山ほども居座る幻想郷では、そんな物珍しさも成りを潜めているように思えた。
多分、それで良いのだ。
物珍しいと奇異の目で見られることは、幻想郷では格段に少なくなっていた。
命蓮寺の境内に足を踏み入れると、怒りを孕んだ女性の声が聞こえてきた。こっそり縁側の辺りを覗くと、聖白蓮が腰に手を当てて立っていた。人差し指を立て、一字一句を刻み込むかのように声高に何かを話している。白蓮の前には、正座をしている一輪の姿があった。
どうやら昼寝を見咎められ、説教されているらしい。
枕にしていた薄紫のフードを手に、寝癖であちこちが跳ね上がった長髪もそのままの状態で、一輪は正座をしている。若干、しょぼくれている様子であることは、遠目からでも手に取るように分かった。慣れない正座が、一輪を更に攻め立てているのだろう。こちらから見える足の裏は、微細に痙攣していた。
覗き込む雲山に、二人が気付いた様子はない。
境内から大通りに戻って、塩と味噌の桶を置いた。ジッポライターの蓋を開けて、しゅぼりと火をつける。
一服は、暇を潰すのにも丁度良かった。
あの様子では、白蓮の説教はもうしばらく続くだろう。勝手に酒宴に参加していたことを軽く注意されたのは、三日前のことだった。一週間前、サボタージュのことについて注意された時も軽いもので済んでいた。真面目でもあり、それ以上に要領の良いところがある一輪にしては珍しく、この一週間で三度も注意されたことになる。
仏の顔も三度まで、と言ったところだろう。
垣間見えた白蓮の顔は穏やかだったが、その目は全く笑っていなかった。求聞口授での会談のこともあるのだろう。白蓮としては、このあたりで命蓮寺の妖怪たちの戒律を、もっとしっかりしたものに変えたいに違いない。容赦のない長説教に一輪が晒されるのは、火を見るよりも明らかだった。
炎の油臭さと煙草の煙臭さとが一つになる。
鼻の奥に感じながら吐き出した。紫煙が口から空へと立ち昇る。
今の一輪は、どんな顔をしているのだろうか。後ろ姿しか見えなかったが、あのしょぼくれた様子から察するに、恐らくは沈んだ表情をしているのだろう。或いは、反省していると顔には出しながら、内心ではこれでもかと愚痴を垂らしているのかも知れない。要領の良い一輪ならば、そちらのほうが正しいように思えた。
自ずと、苦笑のような笑いがこぼれる。
誤魔化すように再び煙草をくわえて、紫煙を吐き出した。
◆◆◆
「一輪、というのは、どうでしょう」
慣れない正座で畏まっていた雲居の面が、さっと上げられた。
相対する聖白蓮の顔は、柔和な微笑みを浮かべていた。風の噂で聞いたとおり、瑞々しい若さを保ったその顔は、ともすれば少女にも見えてしまいそうなほどだった。瞳に帯びる落ち着いた色合いだけが、辛うじて、彼女が相応の年月を過ごしてきたことを物語っていた。
柔らかな物腰を片時も崩さず、白蓮は続ける。
「雲居さんには、名前がありませんでしたね」
耳に届くこと自体が心地良いほどの、柔らかく穏やかな声だった。
「雲居とは、あくまでも苗字です。それでは少し寂しい気もしますから、如何でしょう」
「えっと、聖様」
おずおずと雲居は口を開いた。
「失礼ながら、私には聖様の仰るところの意味が、良く分からないのですけど」
「ああ、すみません。私ったら、一人で勝手に盛り上がっていてはいけませんね」
ぽやぽやと日向のような笑みを、白蓮は浮かべた。
天真爛漫なその話し方に、雲居は面食らった様子だった。
無理もない。巷での聖白蓮は、僧侶でありながら妖怪に味方するという、風変わりながらも厳格な人物だと聞いていた。若々しい姿も会得した術によって施したものであり、実年齢は妖怪と並ぶほどだということも耳にしていた。
対話し、場合によっては頼ることも視野に入れているからこそ、油断してはならない。注意深く、噂どおり妖怪を受け入れてくれる人物なのかどうかを、見極めなければならない。
白蓮に会うことを決めた時、雲居は真剣な顔でそう述べていた。
無論、雲山とて同意見だった。妖怪を退治する人間は大勢いるからこそ、聖白蓮の噂自体が罠である可能性も大きいだろうと考えていた。場合によっては、雲居の身を全力で守らなければならない事態に陥ることも、雲山は覚悟していた。
その覚悟は徒労に終わった。
聖白蓮の態度は、そんな自分たちの危惧を完膚なきまでに粉砕してしまうほど柔らかく丁寧であり、何より穏やかだった。
「雲居さんと雲山さんの出会いは聞きました。本当に素敵なことだと思います。度胸の据わった雲居さんの振る舞いもそうですが、そこから感服して付き従うことを決めた雲山さんの覚悟もまた、素晴らしいと思います」
白蓮の柔らかな言葉には、裏表など微塵も感じられなかった。
どんな顔をして良いのか分からず、隣の雲居を垣間見る。彼女もまた同じように、何と言って良いのか分からないという曖昧な表情を浮かべていた。
柔和な笑みのまま白蓮は続ける。
「雲居さんは、人間から妖怪になったのだと聞きました」
「その通りです」
慌てた様子で雲居は口を開いた。
このまま主導権を握られて堪るかという魂胆が、薄っすらと見える声色だった。
「雲山に守られたおかげで、私は妖怪から恐れられなくなり、逆に人間からは恐れられるようになりました。そこから、いつしか自分も妖怪へと成り代わるのに、あまり時間は掛かりませんでした」
「お話してくれたとおりですね」
「ええ、まあ」
「人間から避けられるようになったことは、確かに悲しいことです。ですが、だからと言って私はあなたを避けようなどとは思いません。雲居さん、あなたは噂で聞かれたからこそ、こうして私の元に来て下さったのですよね? そして噂で聞かれたからこそ、私のことが疑わしく思える。何故、僧侶が妖怪の味方になるのかが気になって仕方がない。そうですよね?」
雲居は、濁った相槌のような答えしか返せなかった。バツが悪そうに言いよどむ。
それを見ても白蓮は微笑んだままだった。
「ご安心下さい。噂で聞かれたとおり、私はあなた方の味方です。話せば長くなりますが、私にも色々と思うところがあって妖怪の味方となることを決めたのです。証拠は……この姿を見て頂ければ、分かると思います」
胸にそっと手を添えて、白蓮は言った。
「妖怪の領域に踏み込んだ術で、私は若々しい姿を保っております。そして、その術を学ぶ過程で知ったのです。虐げられる妖怪の、それでも純粋な思いを」
「思い、ですか?」
前のめりになりながら、雲居は問い掛けた。
「信仰心などではなく、あなたは思いと仰るのですか、聖様」
「はい」
「あなたは僧侶ではないのですか、聖様」
「僧侶です。御仏への信仰心は忘れられず、それでも妖怪の思いを汲み取りたいと願っている、ともすれば生臭坊主とも揶揄されてしまうような僧侶ですよ」
白蓮の微笑みは、なおも穏やかだった。
二の句が告げられず、雲居はぽかんと口を開けていた。
「まだ、この姿となって日の浅い私です。そんな私ですから、未だに妖怪たちの心を理解し切れていない部分は多いとも言えます。実際、私の助力など必要ないと、妖怪たちに突っぱねられることも少なくありません」
落ち着いた色合いを帯びる目が、若干、伏せられる。
それでも白蓮の顔に、憂いが醸し出されることはなかった。穏やかな微笑みに翳りは表れなかった。
「ですが、私はそれでも汲み取りたいと考えています」
白蓮の身体が、雲居へと流れるように寄り添う。
「なので、とても嬉しく思っているのです。あなた方のような、入道と妖怪という一風変わった組み合わせの方々が、こうして私を訪ねて下さったことが」
雲居の手に、白蓮の手が重なる。
絹のように白く、美しい手だった。
「だから、そのお礼……と言うのも少し語弊がありますけど、考えさせて頂きました。雲山さんが、雲居さんに付き添うと決めた時に手渡した、輪を象った装飾品にあやかって」
雲居の懐を一瞥した白蓮の視線は、優しいものだった。
話の流れで飛び出た話題だった。
肝の据わった雲居に退治された際、雲山は輪を象った装飾品を手渡したのだ。謂わば、服従の証とも呼べる代物である。まだ見越し入道だった雲山が、襲った人間から適当に拝借したものだったのだが、どういう訳か雲居はそれを大切に扱っていた。雲山との信頼の証だからというのが、雲居の口癖だった。
まるで年頃の人間の女性である。
雲山にとっては、約束の品などとはとても呼べるような代物ではなかった。見越し入道を廃業した自分にとって、それこそあまり誉められた物品ではなかった。だと言うのに、雲居はそれを後生大事に扱っている。人間から成り代わった妖怪なら仕方ないかと、雲山はそれだけを思っていた。
「えっと、つまり……聖様は」
たどたどしく雲居は言った。何故かその顔は、照れ臭げな赤味を帯びていた。
「あの輪っかから……私の話に出てきた、雲山から貰ったあの輪っかから、私の名前を考えて下さったと……そういうこと、なのでしょうか?」
「ええ、僭越ながら。雲居さんのお話から、その輪を象った装飾品はとても大事なものなのだと感じましたので」
雲居の手を取ったまま、白蓮は首を傾げた。
微笑みを片時も絶やさずに、慮るような視線を投げ掛ける。
「迷惑だったでしょうか」
「いいえ! 滅相もありません!」
赤くなった顔もそのままに、雲居はぶんぶんと勢いよく首を振った。
鮮やかな手並みで、被っていた薄紫の布を剥ぎ取り、白蓮へと頭を下げる。竜胆色の長髪が、色合いも鮮やかにはらりと垂れる。額が床に着かんばかりに雲居は低頭していた。
雲山も、雲居に続いて頭を下げる。他意はなかった。雲居がそれで良いのならと思ったまでである。それくらいの覚悟は、付き従うと決めた時から抱いていた。
「あなた様に向けてつまらない勘繰りを抱いたこと、どうかお許し下さい」
低頭し、雲居は続ける。
覚悟と活力に満ち溢れた、朗々とした声だった。
「この身朽ちるまで、お慕いさせて頂きます」
面が上げられる。
雲居に続いて、雲山も頭を上げた。
「姐さん、よろしくお願い致します!」
「あらあら」
白蓮は微笑みを絶やさなかった。
一層目尻が下がり、本当に嬉しそうに口元が綻ぶ。束の間、童女そのままの微笑みだと思ってしまった。
「こちらこそ、よろしくお願い致しますね」
白絹のような手が、再び雲居の手を取る。
「一輪」
「はい!」
雲居――いや、一輪は目を輝かせながら答えた。
活き活きとした横顔は、久しく目にしていなかったような気がする。調子の良いところがあるとは言え、一輪にも思うところがあったのだろう。妖怪とは退治されてなんぼのものである。それは言い換えれば、人間から常に狙われていることでもあった。人間から成り代わった一輪にとっては、余計にやり切れないものがあったに違いない。
何度も、一輪は感嘆し切ったように頷いている。
それを見る白蓮の顔には、あの柔和な微笑みの中に、隠し切れないほどの大きな喜びが滲んでいた。
小さな溜め息をつく。
二人に気付かれた様子はなかった。
これから忙しくなると思い、雲山は口元だけで苦笑した。
◆◆◆
白蓮の長い長い説教から一輪が開放されたのは、雲山が八本目の一服を終えた時だった。そろそろ頃合いかと思って縁側を覗くと、正座による痺れから千鳥足になった一輪と、丁度鉢合わせとなった。
「姐さんも、あんなに言わなくたって良いのに」
ふっくらとした唇をこれ見よがしに尖らせる一輪と並んで、人里の大通りを歩いて行く。
白蓮からの罰は、長説教だけで終わらなかった。
向こう一週間の雑多な買い物を全て行うこと――それが一輪に課せられた罰だった。輪投げのように、指でくるくると輪っかを弄ぶ一輪の顔は、不機嫌な色に染まっていた。
弄ばれる輪っかは他でもない。
退治されて感服した証として手渡し、一輪という名前の元にもなった、謂れも思い出もふんだんに詰まった、あの装飾品だった。
「大体、姐さんは普段から堅苦し過ぎるのよ。もっと肩の力を抜いても良いと思うのだけれどねえ。そもそも幻想郷にとっての交流は、酒宴があってなんぼのものじゃない。姐さんのやり方は、そういった意味でも前時代的だわ。それに求聞口授にも載っていたけれど、戒律なんて昔の坊主は全然守っていなかったそうじゃないの。それでも律儀に守る姐さんは固いと言うか、相当頑固よねえ。雲山も真っ青の頑固者よ。あの頑固っぷりだと、その内、妖怪の力みたいな好い加減な術なら効かなくなるんじゃないかな。術が効かなくなって元の皺くちゃなお婆ちゃんに戻ってしまっても、私は知らないわよ。もっと柔らかく、なあなあに生きれば良いのに。絶対、そのほうが人生楽しいって。姐さん人間じゃないけど、それでもきっと楽しいのに、なんであんなに頑固なのかなあ。大体、あの正座っていうのがいけないのよ。ただでさえ中身が頑固なのに、足腰や膝までがちがちに固めちゃったら不味いじゃない。これからの命蓮寺は、もっと開けて気楽になるべきだわ。幻想郷にはそっちのほうこそ合っているんじゃないかな。酒宴だってばんばん開いて、姐さんだってお酒を呑むようになれば良いのよ。そうすれば、あの雲山も真っ青な姐さんの頑固っぷりも改善されて――って、雲山。聞いているの?」
隣で歩いていれば、嫌でも聞こえてくる。適当な相槌を打つと、一輪はなおもぐちぐちと愚痴をこぼしはじめた。
漏れそうになった溜め息を誤魔化すために、煙草を口にくわえた。
最初に白蓮と出会った時、一輪は心の底から感服していた。心服と言っても過言ではない。雲山が一輪へと感服したよりも更に強く、一輪は白蓮に感服していた。身の上話に真剣に耳を傾け、だからこそ輪の装飾品にあやかって〝一輪〟という名前を白蓮が与えてくれたことも、大きかったに違いない。白蓮を〝姐さん〟と呼んで慕う者は、後にも先にも一輪ただ一人だった。
それがこのざまである。
叱られたことに対して、反省よりも愚痴のほうが先に漏れていた。唇を尖らせる一輪の顔に、省みるような感情は露ほども滲んでいない。おまけに、自らの名前の元となった輪の装飾品に至っては、愚痴をこぼしながら輪投げの輪っかの如く、ぞんざいに扱っている始末だった。
しゅぼりとジッポライターの火をつけて、くわえた煙草に寄せる。
紫煙と一緒に吐き出したのは、まぎれもなく溜め息だった。
「ちょっと雲山、本当に聞いているの」
――この距離なら嫌でも聞こえる。
嘘だった。
思考に没頭して一輪の愚痴を聞き流す技は、封印が解かれた後に会得したものだった。決して喜ばしいことではなく、嘆かわしいばかりだった。
――白蓮殿への愚痴も、程々にな。
「違うわよ、やっぱり聞いてなかったんじゃないの」
眉間に皺を寄せた一輪の顔が、無遠慮なほどに近寄る。フードから垂れる竜胆色の前髪が、はらりと揺れた。
「買い物の荷物持ちを、お願いしたのよ」
――何故、お前の罰に付き合わなければならない。
「こんなか弱い女の子に、重たいものを持たせるつもりなのかしら」
――罰を課せられたのはお前だけだろう。
「私と雲山は一蓮托生でしょう」
さも当然と言わんばかりに、一輪は鼻を鳴らした。
思わず眩暈がして目頭を押さえる。瞬く間に、くわえた煙草が不味くなった気がした。
「そもそも、あなたを退治したのは他でもない。何を隠そうこの私、雲居一輪なのよ。退治された雲山に選択権がないのは当然じゃない」
――えらく昔のことを言うのだな。
「求聞口授にも載ったからね」
ころころと、一輪の顔は笑っている。
先程まで不機嫌だったことを顧みると、見事なまでの変わりようだった。
「そういう訳だから、雲山。荷物持ちはお願いね。まあ、そのために雲山を此処まで引っ張ってきたのもあるんだけれど。ああ、安心して頂戴。重たくないものは、なるべく持ってあげるようにするから」
――重たいものは押し付けるのだな。
「私みたいなか弱い女の子に頼まれるんだから、悪い気はしないでしょう?」
兎のように歩きながら、一輪は振り返る。
「ほら雲山、早く済ませちゃうわよ。姐さんから頼まれた物は多いんだもの、雲山にはしっかり働いてもらわなくちゃ。その働き具合によっては、惚れてやらないこともないわよ?」
――さっきも言ったがな、そういうのはもっと大事な時まで取っておけ。
「照れるな照れるな」
漂った紫煙を掻き分けて、一輪の手が伸ばされる。
顎鬚を、やや強めに引っ張られた。
「折角の良い男が霞んじゃうわよ?」
からかいを孕んだ一輪の笑みが、こちらを向いていた。
なんとも調子の良いことだ。少女そのままの溌剌とした感情の移り変わりは、雲山にとっては着いて行くだけでも精一杯だった。随分と長い時間、一輪には付き従っているが、それでも慣れることはなかった。恐らく、これからも慣れることはないだろう。
それで良いのだ。
一輪は一輪らしくあり、雲山は雲山らしくある。ジッポライターの油臭い炎と煙草の煙臭さのように溶け合うことはない。互いの主義主張は引っ込めることなく、混じり合うだけで良いのだ。理解者であろうと無理に取り繕う必要もなく、だからこそ傍らに控えるだけで構わない。
それくらいが丁度良いのだ。
「ほら雲山、早く早く」
通りの先を行く一輪が、姦しい笑顔で手招いている。
苦笑しながら、その後を追おうとした。
「おお? 女子供の遊びに興じる情けない輩が、なんでこんな所にいるんだろうなあ?」
大通りに響いた濁声には、あからさまな嘲りが含まれていた。
咄嗟に無視を決め込もうとも思ったのだが、一輪が勢いよく振り返ってしまったため、それに合わせて雲山も向き直った。
「おいおい反応しちまったよ。それだと、女子供と一緒に遊んでいるのは自分ですって認めているようなものじゃねえか。腑抜けだとは思っていたが、まさかここまでとはなあ。傑作だぜ」
概ね、予想したとおりだった。
何事かと足を止めた人妖の中から、一際大柄な影が三つほど歩み出る。
三人とも、同じような外見だった。
禿げ上がった頭には巨大な一つ目が覗いており、さも愉快そうに歪んでいる。大柄なその身体は、筋肉という鎧に覆われていると言っても過言ではなかった。逞しい腕をこれ見よがしに組みながら、侮蔑を孕んだ三つの視線が雲山へと注がれている。
一つ目入道が三人立っていた。
見事なまでに粗野な組み合わせだった。
「まさか、女子供と一緒に弾遊びをするような輩が、こんな夜の街を堂々と歩いているとはなあ。おまけに傍らには女まで侍らせていやがる。一端の妖怪として恥ずかしくないのかねえ。曲がりなりにも入道の名が泣くぜ、情けねえ」
真ん中の一つ目が声高々に言うと、残りの二人が合わせたようにげらげらと笑った。どうやら、かなり酔いが回っているらしい。赤ら顔を下品に歪ませて笑っていた。
特に思うところはなかった。
強いて言うなら、この手の手合いには慣れていた。弾幕ごっことも呼ばれる遊戯は、主に女子供が慣れ親しむものとして広く知れ渡っている。過去に雲山はこの弾幕ごっこに参加した。女子供が興じる遊びに、男である自分が加わったのである。結果、このようにあからさまに小馬鹿にし切った態度で接せられたことも、少なくはなかった。最近ではその頻度もめっきり減っていたのだが――人の噂も何とやらとは、言い得て妙である。
小さく溜め息をついた。
根元近くまで吸い切った煙草の火を消して、懐に仕舞った。ポイ捨ては厳禁である。
「なんだ情けねえ。吸殻一つ捨てやできねえのか?」
再び、三人組の真ん中が嘲りもたっぷりに言って、残りの二人が示し合わせたように笑い合う。
付き合うだけ無駄だと判断した。
弾幕ごっこに参加したのは事実であり、今更取り繕う必要もなかった。そもそも雲山にとっては、そんな瑣末な事実に感けるよりも、一輪の傍に付き従うことこそが重要なのだ。女子供が参加する遊びだろうが、それは変わらない。参加したことで笑い者にされるなど、痛くも痒くもなかった。
加えて、ポイ捨ては厳禁である。愛煙家であるからこそ、ポイ捨てによって自らの立場を徒に狭めるのは以ての外である。それを情けないと揶揄するような輩の言葉に、これ以上耳を傾けるつもりは毛頭なかった。
なおも入道三人組を見据えている一輪の耳元に、そっと寄り添う。
――行くぞ、時間の無駄だ。
「お嬢ちゃん? そんな草臥れたような爺なんかより、俺らと遊ばねえ?」
下卑た濁声が届く。
「過保護なくらいに付き纏われて鬱陶しいだろう? 折角だから、そんなことなんて忘れるくらい遊ぼうぜ。爺の相手ばっかりやってたら面倒だろう? 夜は長いぜえ。しっぽりと楽しく、やろうや」
何とも下品な言い草だった。
言葉の内容から察するに、一輪と雲山がコンビであることは知っているのだろう。ただでさえ入道を使役する妖怪というのは珍しいのだ、既知であっても不思議ではなかった。
だからこそ解せなかった。一輪のことを知っているというのなら、彼女が聖白蓮に帰依していることも知っているはずだ。一応は尼の身とも言えなくはない一輪を、こうして粗野な言い草もたっぷりに誘うのは度し難いものがあった。
或いは雲山だけでなく、暗に一輪をも馬鹿にしているのかも知れない。脳裏の片隅に、引っ掛かりのような蠢きを覚える。
ゆっくり入道三人組へと振り返る。なおもげらげらと笑っている。
灸でも据えてやるか。
そう思ったのと同時だった。
おもむろに、一輪が歩きはじめていた。
「おほ、なんだ乗り気じゃないか」
三人組の真ん中の声にも、一輪は反応しなかった。若干、俯いたままゆっくりと三人組へ近寄って行く。
身構えた。
これから一輪が何をするのか、大方の予想はついていた。
「ふうん、思ったよりも可愛いじゃないの」
助平さが滲んだ声は、やはり真ん中の一つ目入道ものだった。
その真正面で一輪は歩みを止める。顔は、なおも俯かせたままだ。
「残念だったな、元見越し入道さんよ。お嬢ちゃんは、あんたみたいな草臥れたおっさんよりも、俺らと遊ぶほうが良いみたいだぜ」
舐め回すように一輪の身体を見下ろしてから、真ん中が言った。周りの二人も、如何にも助平ですと言わんばかりの下卑た笑いを上げている。
やれやれと思い、被りを振った。
無論、三人組の態度に対してではなかった。
真ん中が、これ見よがしにこちらへと意地の悪い視線を投げ掛けながら、一輪の肩に手を置いた。馴れ馴れしい手付きだった。
「さあ、お嬢ちゃん。夜の街へと」
夜の街へと――なんと言おうとしたのだろうか。真ん中の入道の言葉は、結局、最後まで告げられることはなかった。
ぱあんと、入道の頬が鳴った。
「馬鹿にしないで頂ける?」
快活ながらも怒りの含まれた声が、大通りに朗々と響いた。
頭一つ分は高いであろう一つ目入道の顔を、一輪は容赦なく引っ叩いていた。肩に置かれた手を跳ね除け、そのまま相手の頬に平手打ちを食らわせていた。俯いていた顔は上げられており、引っ叩いた入道の顔を勝ち気な視線で射抜いている。
鮮やかな手並みだった。
事態を傍観していた周りの観衆からも、驚嘆を滲ませたどよめきが巻き起こる。
「雲山を馬鹿にしたことも頂けないし、私を馬鹿にしたことも頂けない。でも、それだけなら許してあげても良かったのだけれどね、言われ慣れているのは確かだから」
凛とした声が、淀みなく続く。
「でも、私と雲山との関係を馬鹿にするのは、さすがに許せない。女子供の遊びにも付き合っているって散々揶揄され続けて、それでも眉一つ動かさずに私に付き従ってくれる雲山との関係を、鬱陶しいだなんて言われるのは我慢ならない。私と雲山は一蓮托生なの、私が退治したことに感服した雲山が付いてくれているの。謂わば相棒なのよ、私たちは。それを散々馬鹿にするなんて、さすがに度が過ぎるわよ、坊やたち」
「ぼ、坊やだと」
引っ叩かれた真ん中が、何とかそれだけを口にした。
「俺らが坊やだと」
「当然でしょう? あんたたちなんか、何処を取っても雲山の足元にも及ばないわよ。大体、しっぽりやろうだの夜の街だの、誘い文句が一々餓鬼臭いのよ。発情期を迎えた人間の男の子じゃあるまいし。寧ろ、そっちのほうがまだ可愛げがあるわよねえ、人間の男の子のほうがよっぽど風情もあるわ。あんたらみたいな、一つ目で縁起物にもなれないような筋肉達磨なんか、こっちからお断りよ、お断り」
見る見るうちに、入道三人組の顔が険しくなる。酔いで赤くなった色合いとは別に、鮮やかな赤味が増していく。観衆の所々から、堪え切れなくなったような笑いが漏れ出ているのも効いているのだろう。禿げ上がった頭には、太い青筋が浮かび上がっていた。
それでも一輪の調子は、収まるところを知らない。なおも淀みなく、決して勢い余って声を荒げることもなく、一字一句丁寧なほどに言い募っている。まさしく、雲居一輪らしい物言いだった。
ふうと溜め息が聞こえる。
「ま、雲山みたいな良い男が傍に居るんだもの。お呼びじゃないのよ、坊やたち」
ふんすと一輪は鼻息を鳴らした。
勝ち気な視線もそのままに口元だけで笑った。
「さあ、分かったなら早く帰りなさい。夜の街なんて、坊やたちにはまだまだ早いわ。子供は子供らしく、素直にお父さんお母さんの言葉に従って、御飯を食べてゆっくり寝なさい」
「この、糞アマが」
怒り心頭といった様子で、真ん中が言った。
耳まで真っ赤に染まっていた。
「おい糞アマ、調子こいてるんじゃねえぞ」
「乱暴な言い草ね。そのアマって単語は尼さんを意識しているのかしら? それとも女性?」
「ふざけるなあ!」
怒声とともに、真ん中の入道が拳を振り上げる。
それを見ても一輪の表情は変わらなかった。勝ち気な笑みを湛えたまま、入道の正面に仁王立ちをしている。それどころか避けようとする素振りすら見せなかった。恐らく、いや十中八九、助けが入ることを確信しているのだろう。
久しく耳にしていなかった、相棒という単語が脳裏を過ぎった。
小さくついた溜め息を置き去りにする。
雲山は躊躇うことなく、一輪と一つ目入道との間に割り込んでいた。
◆◆◆
「暗いね」
雲居――今は、一輪だったか。
薄っすらとした明かりに照らされる彼女の顔は、お世辞にも快活だとは言い難かった。この場の雰囲気をそのまま飲み下してしまったかのような陰鬱な翳りが、濃い隈となって浮き出ている。疲労を浮き彫りにしたかのような顔だった。
一輪のこんな表情を見るのは、はじめてだった。
快活こそがよく映えるこの少女には、どうあっても似つかわしくない顔だった。
「本当、暗い」
乾いた声で一輪はそれだけを言った。
傍らに控える雲山には、何と答えて良いのか分からなかった。今二人が居る場所、正確には閉じ込められている場所は、一輪の言葉通りに暗かった。幾ら見渡せどもわだかまった闇が鎮座しているだけであり、どのような様相をしているのかも見通せない。狭いのか、それとも広いのか、それすらも分からなかった。辛うじて、一輪と雲山の周りが薄明かりに晒されている程度である。光源が何なのかは、やはり分からなかった。
結局、雲山は周囲に視線を投げ掛けながら、押し黙った。
相槌のような適当な言葉すら、今の一輪には返すことも躊躇われた。
「ねえ、雲山」
覇気の欠片もない声が届く。
焦土、或いは禿山を髣髴とさせるほど、聞くに堪えない声だった。
「姐さん、大丈夫よね」
土埃で薄汚れた頬を拭いもせずに、一輪は微笑んだ。痛々しい笑みだった。
肺腑を抉られるかのような痛みが走る。
雲山には、やはり答えることは出来なかった。
聖白蓮は封印された。彼女の存在や主張を危惧した人間たちの手によって、魔界とも地獄とも知れない奈落の底へと封印されてしまった。妖怪との共存を願った白蓮の主張は、その妖怪の脅威に晒され続ける人間たちには、どうあっても看過出来ないものだったのである。騙まし討ちにも近い方法で、白蓮は捕らえられてしまった。
無論、一輪や雲山、それと同じく白蓮に帰依する妖怪たちも、黙って見過ごしていた訳ではない。
聖白蓮を救うため、それこそ西へ東へと奔走した。
しかし、結果として全て失敗に終わった。封印から白蓮を解き放つことは叶わず、それどころか一輪や雲山も妖怪として封じ込められてしまった。賛同した多くの妖怪が捕らえられ、或いは封印されたと聞いていた。そうして散り散りになった賛同者を最後の一線で束ねていたのが、他でもなく一輪だった。その当人がこうして封じ込められたことは、聖白蓮を救う手立てが粗方潰えてしまったことを意味していた。
それを、嫌というほど理解しているのだろう。
落ち窪んだ目で闇を見据える一輪の横顔は、無垢だと思えてしまうほどに、がらんどうだった。
「大丈夫よ、きっと」
洞のように寒々しい声が、一輪の唇から漏れる。ふっくらとしていた愛らしい唇も、連日の疲労によって瑞々しさを失っていた。敬愛する聖白蓮を救うため、一輪はその身を削る思いで奔走していた。
「姐さんなら、きっと大丈夫」
頬を、一筋の雫が伝った。
土埃で汚れた頬に、涙は悲しいくらいに映えていた。
「大丈夫よ。姐さんなら、きっと」
口元に浮かべた微笑みは、無理矢理に取り繕っていたものであり、継ぎ接ぎのようにぎこちない。それでも一輪は、縋るように笑みを浮かべ続けていた。
こんな時、どうすれば良いのだろうか。
何と声を掛ければ良いのか。何と言って慰めれば良いのか。何をして悲しみを拭ってやれば良いのか。
雲山は、己の無力さを噛み締めた。
一輪の理解者でありたいと、とうの昔に諦めたはずのことを、今になって心の底から願った。悲しみに浸り、それを声に出して嘆くことも出来ない一輪の心に、最善のかたちで答えたいと願った。一輪の想いを汲んでやりたいと、出来ることならその願いを叶えてやりたいと、悔やむほどに願った。
しかし、どうあっても叶わなかった。
傍に付き従うことを決めた雲山には、一輪の身を守るだけで精一杯だった。亡き者にされ掛けたところを、辛くも封印に止めることしか出来なかった。聖白蓮の封印を解くという、一輪の最大の願いには応えられるはずもなかった。
見越し入道、恐ろしい妖怪だと称えられてきた。
空しい肩書きだった。
守ると覚悟した一輪は、今や雲山とともに封印されており、底の知れない悲嘆に囚われている。
女一人、救えやしないではないか。
忸怩たる思いを、雲山は噛み潰していた。
「ねえ、雲山」
一筋だけ垂れた雫を、一輪は拭いもしない。
まるで、自分が涙したことにすら気付いていない様子だった。堪えるように浮かべた微笑みは、痛々しいほどに弱々しく見えた。そうやって笑うことで、込み上げるものを抑え込んでいるように見えて、仕方がなかった。
もう良い。
もう我慢しなくて良い。
絞り出すかのような思いは、結局、声には出せなかった。
「姐さん、きっと」
だから雲山は、一輪の頬にその手を寄せただけだった。
慰めの言葉すら出せられない――惨めにも歳を重ねた入道の、せめてもの行動だった。
「あ」
薄汚れた頬を、一滴の涙ごと拭う。
なるべく柔らかな手付きを心掛けたつもりだったが、それでもやや強めに拭ってしまった。ふくよかな一輪の頬の弾力を手のひらに感じ取る。土埃で汚れた頬は、彼女が封印の直前まで抵抗していたことを意味していた。ともすれば、妖怪であっても命を落としかねないほどの状況だったにもかかわらず、一輪は最後の最後まで諦めようとはしなかった。
慰めるつもりはなかった。
自分がそれほど気の回せない男であることを、雲山は重々承知していた。
「雲山」
力なく、一輪の顔が振り向いた。
静かに首を横に振った。頬に添えた手は退けなかった。
――もう良い。
何とか、それだけを口にした。
――もう我慢するな、もう良いんだ。
ひとたび言葉にした後は、流れるようにこぼれた。慰めるつもりは、やはりなかった。自分がそんなにも気の回せない男であることを、決して一輪の理解者ではないということを、雲山は知っていた。今の自分が、言いたいことを言っているのに過ぎないことも、充分理解しているつもりだった。
――もう良いんだ。
それでも言葉は止めなかった。
――泣いても良い、我慢しなくても良いんだ、一輪。
「雲山」
頬に添えた自分の手に、一輪は両方の手のひらを重ねた。
土埃で汚れているにもかかわらず柔らかな質感だった。無骨な、他者を殴ることしか考えていないような自分の手のひらとは雲泥の差だった。女性ではなく、少女のような手だった。
疲労と悲嘆とに囚われた一輪の手のひらは、それでもなお少女らしく柔らかなものだった。
その事実に、こんな状況だというのに、久しく覚えがないほどの喜びを感じた。
「名前、はじめて呼んでくれたね。一輪って呼んでくれた」
手を重ねながら、一輪は微笑んだ。
がらんどうの笑みではなく、泣き笑いのような笑みだった。
「ありがとう、雲山」
見上げてくる一輪の瞳が、大きく揺れる。
「でも私、諦めない。やっぱり諦め切れない」
揺れているのは瞳だけではなかった。
紡ぐ声にも、わなわなと震えが滲んでいた。
「姐さんは大丈夫たって、私は信じている。封印なんて、いつか解き放てるはずだって今でも信じている。姐さんを慕う奴らは多いんだもの、私がいなくたって関係ないわ。姐さんみたいな素晴らしい人なら、絶対に誰かが助けてくれる」
目尻から涙が溢れていた。大粒の涙が留処なく頬を流れていく。
嗚咽で何度も途切れさせながら、それでも一輪は続ける。
「もし、それが無理だって言うのなら、私が助ける。こんな所で、いつまでもウジウジしている訳にはいかないもの。さっさと抜け出して、絶対に姐さんを助け出してみせる。私が、助ける」
くしゃりと、一輪の顔が大きく歪んだ。もう我慢を装ってはいなかった、抑え切れないものに任せたかのような泣き顔だった。
雲山の元に一輪は顔を埋めた。
「でも、でもね」
鼻をすすり、嗚咽を滲ませる声が届く。
「今だけでは、我慢しなくても良いよね。泣いても良いよね。私、頑張ったよね」
震える一輪の背に手を回した。
ともすれば壊れてしまいそうなほどに華奢なその背を、優しく撫でた。
「ありがとう、雲山」
今は、一輪の声は涙に濡れていた。
「ありがとう」
その後は、もう言葉にはならなかった。
辺りを憚らないほどの大きな声で、一輪は泣いた。子供のように、雲山の元に顔を埋めながら泣きじゃくっていた。
だが、不思議と心地良かった。
我慢しなくても良い。自分の言葉のままに泣いた一輪に、どうしようもないほどの親しみを感じた。
堪え切れなくなったものを吐き出すかのように泣きじゃくる、一輪の頭が垣間見える。
薄紫の布が目に留まった。
自分の色合いに似合うものをと、一輪自身が見繕った色だった。暖かいとも、こそばゆいとも言えないうねりが、胸の奥で踊る。
泣きじゃくる一輪の背に回した手に、雲山はそっと力を込めた。
◆◆◆
朝一番の出来事だった。
一輪と二人、朝の散歩というサボタージュに興じようとしていた際、命蓮寺の門前で三つの人影に呼び止められた。
見間違うはずもない。昨夜、街中の大通りで難癖をつけてきた、あの一つ目入道の三人組だった。
「いやはや俺たち、一輪の姐御と雲山の兄貴の強さには、とことん感服させられました。この度、どうぞ俺たち、いや私たち三人を弟子にさせて頂きたく思い、こうして馳せ参じました。よろしくお願いします!」
相も変わらず真ん中が捲くし立てるように喋ってから、三人仲良く頭を下げる。
昨夜、雲山にこってり絞られた証拠でもある多くの生傷は、そっくりそのまま残っていた。竹林の診療所に運ばれたとも聞いていたのだが、どうやらこの状況から察するに、こっそりと抜け出して来たらしい。
もっとも、三人組の傷を作った張本人である雲山は、大して気にもしていなかった。一つ目入道や見越し入道など、入道という妖怪は多種多様に存在しているが、皆一様に頑丈だというのが特徴だった。この程度の傷ならば、治療など必要もないはずである。
寧ろ、この入道たちが即座に弟子入りを懇願してきたことこそが、雲山には驚きだった。昨夜の三人組からは、おおよそ義理人情など一欠けらも感じなかった。
押し黙ったまま、訝しげな視線だけを投げ掛ける。
「あら~、中々行儀の良い子たちじゃない」
対して、傍らの一輪は上機嫌だった。
大袈裟なほどに朗らかな笑みを浮かべながら、わざとらしく続ける。
「それじゃあ、まずは姐さん、聖白蓮様に話しを通してからね。今の時間は、御堂での準備に勤しんでいるはずだから、そっちに向かって頂戴。白蓮様なら、あなたたちみたいな坊やでも歓迎してくれるわ。感謝して、これからも精進するようにしなさい」
「へい、ありがとうございます!」
真ん中だけではなく、残りの二人も一斉に声を張り上げた。
「それではまた後ほど。一輪の姉御、雲山の兄貴、失礼致します!」
どたどたと、挨拶もそこそこに入道三人組が境内へと足を踏み入れる。
静かにね、と一輪が付け足す。一つ目入道たちは畏まったような一礼とともに返答してから、今度は忍び足のような慎重の足裁きで、御堂へと歩いて行った。
見送る一輪の顔は、満面の笑みだった。
満足し切ったかのように頻りに何度も頷いている。
――謀ったな。
誰にも悟られぬよう一輪の耳元に寄り添った。
――新たに三人も寺に入門させた。白蓮殿も罰を取り止めるかも知れないな。
「人聞きが悪いわよ、雲山」
言葉とは裏腹に、一輪の顔は上機嫌に微笑んだままだった。
「あの子たちみたいな力こそ全てという輩は、その力でさえ勝ってしまえば従うものなのよ。私と雲山の馴れ初めも、似たような感じだったじゃない」
――馴れ初めと言うな、馴れ初めと。
「照れない照れない。それに偶然にも、あの子たちも入道だった訳だからねえ」
――絡まれた時から目論んでいたということか。
「だから人聞きが悪いわよ、雲山」
ふっくらとした唇を尖らせながら、一輪は兎のような足取りで歩きはじめた。
もっとも、その瞳は悪戯っぽく微笑んだままだった。年頃の人間の少女そのままの、あどけないとも姦しいともつかない喜びが滲んでいる。これ見よがしに、ころころと感情が踊っていた。
溜め息をつきながら、煙草をくわえる。
しゅぼりとジッポライターの火を灯しながら、一輪の横に並んだ。
「私は命蓮寺のため、ひいては姐さんのためを思ったのよ。ほら、入門する妖怪が増えるのは姐さんにとっても喜ばしいことには違いないし。それに地底の妖怪と違って、あの一つ目入道の坊やたちは街中にいたじゃない。人間とも、それなりには上手くやっているはずよ。それだけ人里に溶け込めているのなら、妙な理由で入門を希望するはずがないわ。私や雲山に感服したと素直に言えば、姐さんとしても断る理由なんてない訳だし。まあ、雲山の言ったとおり、私の罰は帳消しになるかも知れないわよね。頭の固い姐さんなら、それも難しいかも知れないけれど。それなら、私や雲山に感服したあの子たちに買い物を手伝ってもらえば問題なし。勿論、姐さんには内緒でね」
――相変わらずの要領の良さだな。
「そりゃあ、雲山を使役するくらいだからねえ。もっと誉めても良いのよ?」
――そこまで見越して昨夜は吹っ掛けたのか。
紫煙を吐き出す。
苦味が、口の中に広がっていた。少々面白くないものも感じていた。
――お前の言葉に、俺は嬉しさや懐かしさを感じていたんだがな。
煙草の煙のような言葉だと思った。
どこか頼りなく秋空を寂しく漂うみたいだと、自分で言っておきながら感じた。
一輪は答えない。
なおも嬉しそうに微笑みながら、雲山の元に歩み寄った。
「雲山」
気が付けば、一輪は足を止めていた。それに合わせて雲山の動きも留まる。
「煙草、頂戴」
珍しいことだった。
喫煙に関して、一輪は肯定も否定もしたことがなかった。こうして煙草を求められたことは、記憶が確かなら一度や二度ほどしかない。興味本位で求められ、試しに吸っては煙そうに咳き込んでいた姿が印象的だった。
「ほら、早く」
差し出された手に煙草の箱を渡す。断る理由は思い付かなかった。
いそいそと一本取り出した一輪を見て、ジッポライターの火を灯そうとする。
「ああ、火は要らない」
煙草をくわえながら、にべもなく一輪は言う。
思わぬ言葉に顔を上げる。
何故だ。
そう言おうとした。
まず見えたのは、薄紫のフードから垂れた竜胆色の髪だった。
はらりと垂れる前髪は、ひどく近くに寄っていた。一輪の顔が、著しく雲山の元に近付いていたことを意味していた。
視線を下に移す。
くわえた煙草の先端に、一輪がくわえる煙草の先端が触れている。
火が灯る。
二筋分の紫煙が、秋の空に昇る。
悪戯っぽく瞳を細めた一輪の頬は、心なしかほのかに赤く染まっていた。
「えへへ、も~らい」
鮮やかに煙草の火を掠め取った一輪は、歯を見せて微笑んだ。兎のように雲山の元から退きながら、これ見よがしに煙草をくわえている。何故か、咳き込むようなことはなかった。
得も知れない感触が、胸中で渦巻く。
――そういうのはな。
何とか、それだけを口にした。声が上擦ってしまうのを堪えるのに必死だった。
――そういうのは、もっと大事な時まで取っておけ。
「昨日のことだけれどね」
一輪は、雲山の言葉には答えなかった。
「雲山との関係は、本当に大事なものだって思っているの」
薄紫のフードの下、一輪は一層目を細めた。悪戯っぽい光は、もう瞬いてなかった。
「色々と、それこそ本当に色々なことがあったけれど。それでも雲山は、今でも私の傍に付いて来てくれている。一蓮托生と言うか、相棒と言うか、今でも何て言って良いのかは、よく分からないんだけれどね。どんな時にでも、雲山は私と一緒にいてくれた。退治して退治されての関係だから、そんなにも無理に付き添う必要はあんまりないのに、それでも雲山は傍に控えてくれた。今も私の傍にいて、私の話に付き合ってくれている」
束の間、一輪の顔がはにかむ。
普段の快活な笑みとは、かすかに趣きが違っていた。
「だから、昨日の言葉に嘘はないよ。さっきも言ったけれど、雲山との関係は本当に大事なものだと思っている。そりゃあ四六時中付き添われるのは、最初の頃は慣れなかったけれどね。感謝している、言葉では言い表せないくらい、感謝で一杯だよ」
煙草を一口だけくわえてから、一輪は取り繕うように紫煙を吐き出した。
少女が初恋を誤魔化すかのような仕草だった。
「ありがとう、雲山」
いつの間にか一輪の顔には、普段の快活な笑みが戻っていた。
「昨日の雲山、やっぱり格好良かったわよ」
――さっきも言っただろう。
なるたけ眉間に皺を寄せながら、煙草をくわえた。むず痒くなった頬は悟られたくなかった。
――そういうのは、もっと。
「大事な時まで取っておけ、でしょう? そんなに照れなくたって良いのになあ」
ころころと、一輪の顔は笑っていた。
ほのかに染まって見えた頬の赤味は、幻だったかのように消え失せていた。或いは、本当に幻だったのかも知れない。照れ臭さを滲ませるような真似は、目の前のハイカラな少女にはあまりにも似つかわしくなかった。
からかわれるのは、専ら雲山の役目だった。
「折角の良い男が台無しじゃない。これじゃあ惚れてやることも出来ないわよ」
――当たり前だ、鬱陶しい。
「うわ、酷い言い草ねえ。こんなに可愛い女の子が惚れてやるって言っているのに、それをふいにしちゃうなんて。後から後悔しても知らないわよ?」
――誰がするか。
「頑固者」
本当に面白おかしそうに一輪は笑っている。
激動とも呼べる時代に、流されるように生きてきた。人間から妖怪へと成り代わり、地底深くに封印されるという状況に陥ってなお、その微笑みには少女特有のあどけなさが踊っている。薄紫のフードから覗いた竜胆色の前髪は、持ち主の気性を表すかのように溌剌と揺れていた。
紫煙の煙越しに目を細める。好々爺を気取ったつもりではなかった。
単純に、一輪の笑顔が眩しかった。
「それとね、雲山」
行儀悪く煙草をくわえたまま、一輪は言った。
「昨日のことだけれど」
――まだあるのか。
「歩き煙草は厳禁よ」
――ふむ。
「していたわよね、昨日」
――うむ。
わざとらしく歯を見せながら、一輪はこちらを指差している。反論は浮かばなかった。
――すまん、失念していた。
「分かればよろしい」
得意気に笑みを湛えた瞳を一輪は細めていた。
「今後は気を付けるように、良いわね」
――すまん。
「よろしい」
何がそんなに可笑しいのか、一輪はふっくらとした唇をこれ見よがしに綻ばせながら、大きく頷いた。そのまま短くなった煙草を口から離し、辺りを憚らないほどの大声でころころと笑いはじめる。目尻には薄っすらと涙さえ滲ませていた。
本当に、一輪の感情の移り変わりは激しい。
不機嫌だったかとも思えば、唐突に上機嫌になることもあった。決まって、雲山をからかっては上機嫌になっていた。一目では尼にも見えなくはない外見をしていたが、間違っても一端の尼のような大人しさは、一輪には備わっていなかった。
ハイカラなのである。
誰が何と言おうと、例え本人が否定しようとも、雲居一輪という少女にはハイカラという言葉が一番しっくりしていた。
だから時々、分からなくもなる。
時代親父とも揶揄されるような自分には、快活な一輪の内心を汲み取りきれないと感じることが、度々あった。
自ずと苦笑がこぼれる。
それで良いのだ。
理解者であることは、とうの昔に諦めていた。封印されている時は、それでもと思い立ったこともあった。しかし結局は諦めて、傍に控えることに勤しんできた。共に生きるのではなく、共に歩んで来た。そう表現するほうが正しいような間柄だった。これからも変わることは、恐らくないだろう。
溶け合うのではなく、混じり合うのだ。
ジッポライターの炎の油臭さと煙草の煙臭さのような、波長を合わせない関係だった。
時代親父とハイカラ少女。
それで良いのだ。
これだけの間柄で充分だった。
なおも笑い続ける一輪を見つめつつ、煙草を口から離してゆっくりと煙を吐き出す。
油臭さと煙臭さとが混じった紫煙が、秋空へと昇って行く。
ゆんなりと昇れば良いのだ。
それだけでも構わないのだと、雲山は思った。
◆◆◆
後悔しているか。
仮に、誰かにそう問い掛けられたならば、即座にこう答えるだろう。
半々だと。
後悔と、それ以外の様々な感情をふんだんに詰め込んだ思いとで、半々だと。
春の薫りを存分に孕んだ青空に、少女は身体を躍らせていた。
強い光の瞬く視線の先には、硬質な質感を湛える黒い影が宙を泳いでいた。
薄紫のフードを目深に被った少女の傍らに、元見越し入道はそっと寄り添う。
念じた。
少女を包み込むほどの巨大な拳を顕在させる。
この少女を守る。
遥か昔に決意した覚悟を昂ぶらせるのは、雲山には容易いことだった。
仮に、誰かにそう問い掛けられたならば、即座にこう答えるだろう。
半々だと。
◆◆◆
「雲山、雲山、雲山」
――三度も呼び掛けるな、喧しい。
縁側でサボタージュを決め込んでいた傍らに、人影が兎のようにぴょこりと割り込んだ。
「だったら返事くらいしてくれても良いじゃない」
――声が小さいのは知っているだろう。
フードを被った顔は、不機嫌に歪んだ表情を改めようとしなかった。もっとも、その瞳には他人をからかおうとしている意思が、滲み出るように浮かんでいた。あまり認めたくはないことだが、この少女とは長い付き合いである。その程度の感情を読み取るのは造作もなかった。
「知っているのと聞こえないのは違うわよ」
――知っているのなら、聞こえるように努めてほしいものだ。
「何よそれ。まるでお嫁さんとかお母さんにでも頼むような言い草ね。私は雲山のお母さんでも、況してやお嫁さんでもないわよ」
――当たり前だ、鬱陶しい。
「あ、それはもしかして、私にお嫁さんになってほしいという回りくどいプロポーズなのかしら?」
どうしてそうなった。
有りっ丈の疑念を眉根に寄せながら、少女へと向き直った。
雲居一輪は不機嫌だった表情を、いつの間にか快活な笑みへと変えていた。おまけに頬は、熟れはじめたばかりの林檎のように、ほのかに赤く染まっている。何の冗談だと怒鳴りたくもなったが、さすがに寺の境内で大声を出すのは躊躇われた。命蓮寺の主である聖白蓮は、今時珍しく、清廉潔白を絵に描いたような僧侶だ。大声を勘付かれて、縁側のサボタージュを見咎められるのは勘弁願いたかった。
深々と溜め息をつく。
――そういうのは、もっと大事な時まで取っておけ。
「あ、もしかして照れている? ひょっとして雲山、私にプロポーズとか言われちゃって照れているの? ねえ?」
ころころと、一輪の顔は笑っている。
長い付き合いだからこそ、この少女の要領の良さが舌を巻くほどであることは、重々承知していた。要領が良くて真面目であり、何よりもころころと調子に乗りやすい。薄紫のフードなどを目深に被って一端の尼さんを気取っているが、その性根は少女そのままだった。ハイカラという言葉は、この一輪のためにあるようなものだと常日頃から思っている。
もっとも、当の一輪はこれを頑なに否定していた。
曰く。
「まあ頑固者で融通利かなくて無口な雲山が、そんなチャキチャキした考えを抱くはずもないか。私みたいな地味娘でも、あなたと一緒に歩いているとハイカラに見られちゃうものね。それくらい、雲山が頑固で融通利かなくて無口なんだもの。そんなあなたと一緒なら、誰だってハイカラに見られちゃうわよね」
これである。
自分のハイカラな気質を、一輪は事ある毎にこちらのせいだと主張していた。いつ頃からかも憶えてはいなかったが、随分と昔から言われていたような気がする。傍らに、一輪を迎えた頃からだと考えるなら、かなり昔のことだった。もしかしたら、彼女が人間であった頃から言われ続けているのかも知れない。
なおも笑う一輪には、少女特有の華やかさがしっかりと色付いていた。
人間の頃、堂々とした口振りで見越し入道を退治した時から、少しも変わってはいない。人間から妖怪へと成り代わり、流浪と封印という怒涛の連続だった過去を併せ持ちながら、それでもその顔には翳りなどが一切見られなかった。ころころと、あどけなさもそのままに目を細めている。
草臥れた元見越し入道には、少しだけ眩し過ぎた。
――ならば、そんな頑固者は退散しよう。
「雲山、またサボタージュを洒落込むつもりでしょ」
――境内での一服は不味い。
懐から手のひらサイズの箱を取り出し、ひらひらと一輪に見せ付ける。
――散歩でもしてくる。
「世間では、そういうのをサボタージュって呼ぶのだけれど」
――縁側で昼寝に興じるよりは健康的だ。
「あ、やっぱり分かっちゃう?」
――長い付き合いだからな。
「お互いにねえ」
目深に被ったフードを取り払いながら、一輪はバツが悪そうに微笑んだ。納められていた竜胆色の長髪が、ふわりと舞い踊る。
被り物をしたまま寝る者は、まずいない。
記憶が確かならば、この時間帯の白蓮は御堂での読経に専念しているはずだ。寺の朝は早いのが相場だが、妖怪は夜こそを主な活動時間としている。人間だった一輪も例外ではなかった。
フードを枕代わりに敷き、少女は縁側へごろりと寝転ぶ。
秋の涼しさが漂いはじめた境内は、心地良い風が柔らかく吹いていた。陽射しの鋭さは残暑そのものだったが、日陰となった縁側なら全く問題ないらしい。早くも蕩けはじめたように大きな欠伸をしながら、一輪はこちらに向けて手を振った。
「雲山、ついでにねえ」
まどろみを孕む声が届いた。
「お塩とお味噌、お願い」
――重たいものばかりだな。
「姐さんから頼まれているの。だから、雲山を探していたの」
すでに、一輪は瞳を閉じていた。
「お願いね」
語尾は窄むように間延びしていった。
数秒と立たない内に、見ている前から寝息が聞こえてきた。胸の辺りが静かに上下していた。
確かめるまでもなく、一輪は昼寝に興じはじめていた。洒落た言い方をするならばシエスタである。
あどけない寝顔を見下ろす。
小鼻がぴくぴく動いた。ふっくらとした唇はだらしなく弛緩している。普段からフードに髪を納めているため、額が普通よりも露出しているように見えた。筆と墨があればと、ほんの少しだけ後悔した。後悔はしたが、仮に手元にあったとしてどうするかと思い至って、静かに被りを振った。悪戯など、妖精のような子供がやることだ。元とは言え、見越し入道がやるようなことではない。
縁側から離れて、外堀を越えようとする。
入道である雲山には、これくらいの芸当は造作もなかった。
「ん……」
堀を越える直前、艶かしい吐息が耳を打った。
振り返ることはせず、口元にだけ笑みを浮かべて堀を越えた。
◆◆◆
髪色より濃い薄紫の布を、雲居は手にしていた。
竜胆色の長髪は彼女が妖怪へと成り変ったことを意味していた。どうにも落ち着かない様子の雲居だったが、不思議と似合っていると雲山は思っていた。無論、当人には伝えることもなく、密かに思っていた。肝が据わっており、それでいて他者をからかうのが好きな雲居にそんなことを言えば、どんな事態に陥るのかは一目瞭然だった。ただでさえ日頃から、無口で無愛想な雲山にあれこれと揶揄してくるのだ。これ以上、煩わしさに晒されるのは御免だった。
もっとも、それも半ば自業自得だと言えた。
退治されたことに感嘆し、雲居に付き添うことを決めたのは、他ならない雲山だった。
当初、雲居の性格を把握し切れていなかったのもある。よもや、これほど肝が据わっており、それ以上に調子の良い性格をしているとは夢にも思わなかった。早計だと何度も後悔したが、所詮は後の祭りである。退治されて以来、雲居の傍を離れたことは一時もなかった。
薄紫の布を、雲居はあれこれと眺めていた。表と裏を翻し、折ったりはためかせたりを繰り返しながら凝視している。闊達とした性格の彼女にしては珍しく、難しい顔をしていた。
それは何だと、問い掛けた。
風呂敷など格別珍しいものではなかったが、雲居がそうやって見つめる薄紫の布は見慣れない代物だった。
「ちょっと、奮発しちゃった」
バツが悪そうに、雲居が微笑む。
動きに合わせて揺れた長髪の竜胆色は、生来の髪色ではない。人間から妖怪へと雲居が成り代わった証であり、あくまで後天的な色合いである。にもかかわらず、生来の髪色であると錯覚してしまうほどに、竜胆色は雲居の顔によく映えていた。あどけない童顔を損なうことなく彩っている。
或いは、見惚れてしまったのかも知れない。
何処からか湧き出した気恥ずかしさを隠すために、気のない相槌を装った。
「ほら、私も妖怪になっちゃったでしょう」
こちらの内心など知る由もなく、雲居は言った。
「目立つかなと思ってね」
竜胆色の長髪が、束ねられた。
ふわりと薄紫の布が舞う。
あっという間に竜胆色は覆い隠された。慣れていない手付きで、雲居はほっかむりのように被った薄紫の布を整える。それが一段落すると、今度はなるべく髪が露出してしまわないように、垂れた前髪を押し隠した。それでも前髪は、しぶとく布からはみ出て額にかかる。雲居は何度も前髪を隠すことを試みていたが、諦めたような溜め息をつくのに然程の時間は要さなかった。
薄紫から、竜胆色が覗いていた。
何故だと言いたくなり、口を開きかけた。
「さっきも言ったでしょう」
こちらが言うよりも先に、雲居は言った。
「目立つと厄介じゃない、色々と」
はにかんだように雲居は微笑んだ。
瞳には、ほんの少しの哀しみが滲んでいた。涙とも光ともつかない揺らめきが、雲山には見えていた。それくらいを察する程度には、日頃から付き添っているつもりだった。
「そんな顔をしないでよ。別に、私は後悔なんてしてないんだから」
顔に浮かべたつもりはなかった。
こちらが雲居を察するように、雲居も雲山の内情を察したのだろう。滲んだ哀しみを塗り潰すかのように、雲居は大きく笑った。
「それにこの色、悪くないでしょう」
薄紫の布は、雲居の童顔にも竜胆色の前髪にも溶け込んでいた。雲居の言葉通り、悪くなかった。
しかし、懸念も残った。
薄紫の色はそれだけでも目立つだろう。雲居の言葉に矛盾も感じた。
「目立つかな、やっぱり」
雲山の指摘に、雲居は照れ臭そうに微笑んだ。
どうしてそこで照れるのかとも疑問に思ったが、口には出さなかった。
「だって、雲山」
雲居の顔が近寄った。
「私と雲山が並ぶと、色も綺麗に並ぶじゃない。それを壊したくなかったのよ」
ふっくらとした唇が綻ぶ。
雲居は雲山の手を取って、自分の顔に寄せた。被った薄紫の布から、竜胆色の前髪がこぼれている。その横に持って来られた自分の手は、桃色にも近い薄紫だった。朝焼けの空に映る、色の移り変わりのようにも見えた。
「だから、薄紫の布にしたの。たぶん偶然だろうけど、妖怪になった私の髪色って、入道としての雲山の色と何処となく似ていたから。折角のそんな色合いを、台無しにはしたくなかったのよ。ほら、雲山と私って相棒みたいな関係だし。そういうところを大事にしなきゃいけないかなって、そう思ったのよ」
話している内に、雲居は萎むように俯いていた。
上目遣いでこちらを見つめる。
「駄目かな」
快活で要領の良い雲居にしては、珍しく歯切れの悪い言い方だった。慮るような視線を向けるなど、この少女には似つかわしくない。加えて、色合いを気にするなど、まるで年頃の人間の少女である。そんな年齢などとっくに通り過ごしている雲居には、やはり似つかわしくない理由だと雲山は思った。
鼻だけで溜め息をつく。
入道であり男である雲山に、雲居の乙女のような心境など分かるはずもなかった。
長年、雲居には付き添っており、ある程度のことならば自ずと理解できるほどだった。しかし、それと同じくらいに分からないことがあるのも、また事実だった。当たり前だ。雲居は女性であり、雲山は男性である。雲居は元人間であり、雲山は元々妖怪だった。その差は溝と呼べるほどに深くはないが、轍ほどの区別はある。寝所は一緒だが入浴は別々なのだ、それくらいの差はあって当然だった。
だから、分からないのは仕方ないのだ。
分からないからこそ、理解者でありたいと願うのは早々に諦めていた。
「……駄目かな」
再び、ぽそぽそと雲居は呟いた。覇気の感じられない言い草は、やはりこの少女には似つかわしくなかった。
分からないものだ。人妖の関係は難しく、男女の関係もまた難しい。
理解を試みることはそれだけで茨の道だった。
「あ」
だから雲山は、雲居の頭に手を添えた。
優しくふわりと撫でて、優しいと思える笑みを浮かべる。理解もせず、まあいいかと心の中だけで呟きながら、口を開いた。
似合っている。
それだけを、なるべく優しい声で言った。
「……うん」
顔を上げた雲居が、嬉しそうに微笑む。
快活であり要領も良いこの少女には、とてもよく似合う笑みだった。
「ありがとう、雲山」
ころころと弾けるあどけない喜びを含んだ声が、雲山には届いていた。
これで良い。
これだけで良いのだと、雲山は思った。
◆◆◆
薄紫の布、今ではフードと呼んでいる。
甘いとも酸っぱいともつかない思い出を存分に孕んだその代物を、本日の一輪は昼寝の枕代わりに使っていた。サボタージュのために酷使していた。縁側ですーぴーと昼寝に興じている一輪は、果たしてその事実に思い至っているのだろうか。
ゆっくりと被りを振った。
考えるだけ無駄なことだった、詮無きこととも言える。昔から、それこそ一輪が人間から妖怪へと成り代わるよりも以前から、理解者であることは早々に諦めていたのだ。一輪の理解者ではなく、単純に傍らに控えることに重きを置いていた。今でもその考えに変わりはない。それもあってか、先だって発刊された求聞口授には〝特殊な妖怪コンビ〟という記述が載せられていた。言い得て妙だと密かに思っていた。
まさしく、その通りだった。
一輪とはコンビなのである。彼女の言葉を借りるなら、相棒である。
理解者のような優しい関係は必要ではなく、寧ろ、差し込む情緒すら一輪との間にはなかった。一輪は入道を使役する妖怪であり、見越し入道を廃業した入道は良いように使役されるのである。あくまでも小気味の良い音を響かせるような間柄であり、それ以上のことは望んではいない。少なくとも自分は、使役される側の入道である雲山は、それ以上の関係など望んだこともなかった。
だから、一輪の内心など詮無きことだった。
今、彼女は命蓮寺の縁側で昼寝に興じており、幸せに惰眠を貪っている。多少不敬ながらも聖白蓮に帰依している。姐さんと慕う白蓮の要望に堪えるために、こうして雲山を使い走りとして使役している。これで良いのだと思った。少なくとも、現在の一輪は概ね幸せそうに見えているからこそ、これで良いのだ。
それぞれ塩と味噌の入った桶を、地面に降ろす。
入道である雲山にとっては、然程重たいものでもなかった。しかし、それでもやはり一服する際には邪魔となる。適当に大通りから逸れて、手のひらサイズほどの箱から一本取り出し、口にくわえた。
硬質なものの擦れる音が、しゅぼりと耳に届く。
自分のものとは違う灰色の煙が、秋空へゆっくりと昇った。
ジッポライターの炎で一服に興じるのが、唯一とも言える趣味だった。
白蓮をはじめ、命蓮寺で修行に励む妖怪連中には、あまり良い顔はされていない。禁煙ブームに啓蒙させられている妖怪連中は兎も角、白蓮が見咎めてくるのは当然だとも言えた。何せ、喫煙のニコチンどころか酒類のアルコールにさえ、あの清廉潔白な僧侶は良い顔をしないのだ。寺院の境内で吸うことは硬く禁じられていた。
秋風の、涼しさを孕んだ風が横切る。
かすかに揺らめきながらも、独特の熱と臭いを漂わせるジッポライターの炎は消えることがなかった。油臭いその炎は、喫煙を愛する者たちの間でも評価が別れる。油の臭いが強くて煙草の香りが損なわれてしまうと、ジッポライターを嫌う愛煙家も少なくはない。こだわりを抱く妖怪の多い幻想郷では、そうした意見を持つ者にも何度か出くわしていた。
だが、それが良いのだ。
十人十色と言葉にもある通り、個性が個性を彩り合うからこそ面白いのだ。雲居一輪という個性的な妖怪の傍らにいるからこそ、重々承知していることだった。
油臭い炎は、秋風程度では消されない。ちょっとやそっとの風では消されないのだ。そんなジッポライターは、外出先で煙草を吸うのには便利だった。油の臭いと煙草の煙とが混ざり合うのも嫌いではなかった。全く別々の臭いが、一つの臭いとなって含まれて吐き出され、紫煙となって漂うのだ。二つが一つとなる。決して波長を合わせる訳ではなく、ハーモニーなどとはお世辞にも呼べない。あくまで混ざり合っているだけなのだ。互いの主張は収めることなく、だからこそ綺麗に溶け合っている訳ではない。だと言うのに、一つにはなっているというのが面白かった。
時代親父とハイカラ少女。
雲山と一輪。
自分たちのようだと思った。
要領が良くて姦しい少女と、無口で融通の利かない親父。そんな関係と、何処か似ているように思えた。理解者となって波長を合わせることはなく、互いにそれぞれの主張は呑み込むこともない。溶け合うのではなく、混ざり合うだけだ。共に生きるのではなく、傍らに控えるだけだ。それでも上手くやってきた。今でも上手くやっている。まさしく、ジッポライターと煙草のような関係だった。悪い気などは微塵も起こらなかった。
ジッポライターの蓋を閉めた。かちりと鳴り、炎は消える。
一服を済ませて、塩と味噌の入った桶を手に取った。
通り過ぎる影は様々である。普通の人間から、普通ではなさそうな風体の人間。いかにも妖怪といった外見の者も通れば、一見すると人間と変わらない妖怪とも擦れ違う。昼下がりという時間帯から、こうして多種多様な人妖が街を行き交っているのは、この幻想郷ぐらいだろう。少なくとも雲山は、他の場所でこのような光景を目にしたことはなかった。今でこそ慣れてはいるものの、封印から解かれたばかりの頃は、それこそ目を疑った。
幻想郷は、本当に雑多だった。
一輪と雲山のような一風変わったコンビが、極々一般的に見えてしまうほどである。入道を使役する一輪はそれでも珍しかったが、個性的な輩が山ほども居座る幻想郷では、そんな物珍しさも成りを潜めているように思えた。
多分、それで良いのだ。
物珍しいと奇異の目で見られることは、幻想郷では格段に少なくなっていた。
命蓮寺の境内に足を踏み入れると、怒りを孕んだ女性の声が聞こえてきた。こっそり縁側の辺りを覗くと、聖白蓮が腰に手を当てて立っていた。人差し指を立て、一字一句を刻み込むかのように声高に何かを話している。白蓮の前には、正座をしている一輪の姿があった。
どうやら昼寝を見咎められ、説教されているらしい。
枕にしていた薄紫のフードを手に、寝癖であちこちが跳ね上がった長髪もそのままの状態で、一輪は正座をしている。若干、しょぼくれている様子であることは、遠目からでも手に取るように分かった。慣れない正座が、一輪を更に攻め立てているのだろう。こちらから見える足の裏は、微細に痙攣していた。
覗き込む雲山に、二人が気付いた様子はない。
境内から大通りに戻って、塩と味噌の桶を置いた。ジッポライターの蓋を開けて、しゅぼりと火をつける。
一服は、暇を潰すのにも丁度良かった。
あの様子では、白蓮の説教はもうしばらく続くだろう。勝手に酒宴に参加していたことを軽く注意されたのは、三日前のことだった。一週間前、サボタージュのことについて注意された時も軽いもので済んでいた。真面目でもあり、それ以上に要領の良いところがある一輪にしては珍しく、この一週間で三度も注意されたことになる。
仏の顔も三度まで、と言ったところだろう。
垣間見えた白蓮の顔は穏やかだったが、その目は全く笑っていなかった。求聞口授での会談のこともあるのだろう。白蓮としては、このあたりで命蓮寺の妖怪たちの戒律を、もっとしっかりしたものに変えたいに違いない。容赦のない長説教に一輪が晒されるのは、火を見るよりも明らかだった。
炎の油臭さと煙草の煙臭さとが一つになる。
鼻の奥に感じながら吐き出した。紫煙が口から空へと立ち昇る。
今の一輪は、どんな顔をしているのだろうか。後ろ姿しか見えなかったが、あのしょぼくれた様子から察するに、恐らくは沈んだ表情をしているのだろう。或いは、反省していると顔には出しながら、内心ではこれでもかと愚痴を垂らしているのかも知れない。要領の良い一輪ならば、そちらのほうが正しいように思えた。
自ずと、苦笑のような笑いがこぼれる。
誤魔化すように再び煙草をくわえて、紫煙を吐き出した。
◆◆◆
「一輪、というのは、どうでしょう」
慣れない正座で畏まっていた雲居の面が、さっと上げられた。
相対する聖白蓮の顔は、柔和な微笑みを浮かべていた。風の噂で聞いたとおり、瑞々しい若さを保ったその顔は、ともすれば少女にも見えてしまいそうなほどだった。瞳に帯びる落ち着いた色合いだけが、辛うじて、彼女が相応の年月を過ごしてきたことを物語っていた。
柔らかな物腰を片時も崩さず、白蓮は続ける。
「雲居さんには、名前がありませんでしたね」
耳に届くこと自体が心地良いほどの、柔らかく穏やかな声だった。
「雲居とは、あくまでも苗字です。それでは少し寂しい気もしますから、如何でしょう」
「えっと、聖様」
おずおずと雲居は口を開いた。
「失礼ながら、私には聖様の仰るところの意味が、良く分からないのですけど」
「ああ、すみません。私ったら、一人で勝手に盛り上がっていてはいけませんね」
ぽやぽやと日向のような笑みを、白蓮は浮かべた。
天真爛漫なその話し方に、雲居は面食らった様子だった。
無理もない。巷での聖白蓮は、僧侶でありながら妖怪に味方するという、風変わりながらも厳格な人物だと聞いていた。若々しい姿も会得した術によって施したものであり、実年齢は妖怪と並ぶほどだということも耳にしていた。
対話し、場合によっては頼ることも視野に入れているからこそ、油断してはならない。注意深く、噂どおり妖怪を受け入れてくれる人物なのかどうかを、見極めなければならない。
白蓮に会うことを決めた時、雲居は真剣な顔でそう述べていた。
無論、雲山とて同意見だった。妖怪を退治する人間は大勢いるからこそ、聖白蓮の噂自体が罠である可能性も大きいだろうと考えていた。場合によっては、雲居の身を全力で守らなければならない事態に陥ることも、雲山は覚悟していた。
その覚悟は徒労に終わった。
聖白蓮の態度は、そんな自分たちの危惧を完膚なきまでに粉砕してしまうほど柔らかく丁寧であり、何より穏やかだった。
「雲居さんと雲山さんの出会いは聞きました。本当に素敵なことだと思います。度胸の据わった雲居さんの振る舞いもそうですが、そこから感服して付き従うことを決めた雲山さんの覚悟もまた、素晴らしいと思います」
白蓮の柔らかな言葉には、裏表など微塵も感じられなかった。
どんな顔をして良いのか分からず、隣の雲居を垣間見る。彼女もまた同じように、何と言って良いのか分からないという曖昧な表情を浮かべていた。
柔和な笑みのまま白蓮は続ける。
「雲居さんは、人間から妖怪になったのだと聞きました」
「その通りです」
慌てた様子で雲居は口を開いた。
このまま主導権を握られて堪るかという魂胆が、薄っすらと見える声色だった。
「雲山に守られたおかげで、私は妖怪から恐れられなくなり、逆に人間からは恐れられるようになりました。そこから、いつしか自分も妖怪へと成り代わるのに、あまり時間は掛かりませんでした」
「お話してくれたとおりですね」
「ええ、まあ」
「人間から避けられるようになったことは、確かに悲しいことです。ですが、だからと言って私はあなたを避けようなどとは思いません。雲居さん、あなたは噂で聞かれたからこそ、こうして私の元に来て下さったのですよね? そして噂で聞かれたからこそ、私のことが疑わしく思える。何故、僧侶が妖怪の味方になるのかが気になって仕方がない。そうですよね?」
雲居は、濁った相槌のような答えしか返せなかった。バツが悪そうに言いよどむ。
それを見ても白蓮は微笑んだままだった。
「ご安心下さい。噂で聞かれたとおり、私はあなた方の味方です。話せば長くなりますが、私にも色々と思うところがあって妖怪の味方となることを決めたのです。証拠は……この姿を見て頂ければ、分かると思います」
胸にそっと手を添えて、白蓮は言った。
「妖怪の領域に踏み込んだ術で、私は若々しい姿を保っております。そして、その術を学ぶ過程で知ったのです。虐げられる妖怪の、それでも純粋な思いを」
「思い、ですか?」
前のめりになりながら、雲居は問い掛けた。
「信仰心などではなく、あなたは思いと仰るのですか、聖様」
「はい」
「あなたは僧侶ではないのですか、聖様」
「僧侶です。御仏への信仰心は忘れられず、それでも妖怪の思いを汲み取りたいと願っている、ともすれば生臭坊主とも揶揄されてしまうような僧侶ですよ」
白蓮の微笑みは、なおも穏やかだった。
二の句が告げられず、雲居はぽかんと口を開けていた。
「まだ、この姿となって日の浅い私です。そんな私ですから、未だに妖怪たちの心を理解し切れていない部分は多いとも言えます。実際、私の助力など必要ないと、妖怪たちに突っぱねられることも少なくありません」
落ち着いた色合いを帯びる目が、若干、伏せられる。
それでも白蓮の顔に、憂いが醸し出されることはなかった。穏やかな微笑みに翳りは表れなかった。
「ですが、私はそれでも汲み取りたいと考えています」
白蓮の身体が、雲居へと流れるように寄り添う。
「なので、とても嬉しく思っているのです。あなた方のような、入道と妖怪という一風変わった組み合わせの方々が、こうして私を訪ねて下さったことが」
雲居の手に、白蓮の手が重なる。
絹のように白く、美しい手だった。
「だから、そのお礼……と言うのも少し語弊がありますけど、考えさせて頂きました。雲山さんが、雲居さんに付き添うと決めた時に手渡した、輪を象った装飾品にあやかって」
雲居の懐を一瞥した白蓮の視線は、優しいものだった。
話の流れで飛び出た話題だった。
肝の据わった雲居に退治された際、雲山は輪を象った装飾品を手渡したのだ。謂わば、服従の証とも呼べる代物である。まだ見越し入道だった雲山が、襲った人間から適当に拝借したものだったのだが、どういう訳か雲居はそれを大切に扱っていた。雲山との信頼の証だからというのが、雲居の口癖だった。
まるで年頃の人間の女性である。
雲山にとっては、約束の品などとはとても呼べるような代物ではなかった。見越し入道を廃業した自分にとって、それこそあまり誉められた物品ではなかった。だと言うのに、雲居はそれを後生大事に扱っている。人間から成り代わった妖怪なら仕方ないかと、雲山はそれだけを思っていた。
「えっと、つまり……聖様は」
たどたどしく雲居は言った。何故かその顔は、照れ臭げな赤味を帯びていた。
「あの輪っかから……私の話に出てきた、雲山から貰ったあの輪っかから、私の名前を考えて下さったと……そういうこと、なのでしょうか?」
「ええ、僭越ながら。雲居さんのお話から、その輪を象った装飾品はとても大事なものなのだと感じましたので」
雲居の手を取ったまま、白蓮は首を傾げた。
微笑みを片時も絶やさずに、慮るような視線を投げ掛ける。
「迷惑だったでしょうか」
「いいえ! 滅相もありません!」
赤くなった顔もそのままに、雲居はぶんぶんと勢いよく首を振った。
鮮やかな手並みで、被っていた薄紫の布を剥ぎ取り、白蓮へと頭を下げる。竜胆色の長髪が、色合いも鮮やかにはらりと垂れる。額が床に着かんばかりに雲居は低頭していた。
雲山も、雲居に続いて頭を下げる。他意はなかった。雲居がそれで良いのならと思ったまでである。それくらいの覚悟は、付き従うと決めた時から抱いていた。
「あなた様に向けてつまらない勘繰りを抱いたこと、どうかお許し下さい」
低頭し、雲居は続ける。
覚悟と活力に満ち溢れた、朗々とした声だった。
「この身朽ちるまで、お慕いさせて頂きます」
面が上げられる。
雲居に続いて、雲山も頭を上げた。
「姐さん、よろしくお願い致します!」
「あらあら」
白蓮は微笑みを絶やさなかった。
一層目尻が下がり、本当に嬉しそうに口元が綻ぶ。束の間、童女そのままの微笑みだと思ってしまった。
「こちらこそ、よろしくお願い致しますね」
白絹のような手が、再び雲居の手を取る。
「一輪」
「はい!」
雲居――いや、一輪は目を輝かせながら答えた。
活き活きとした横顔は、久しく目にしていなかったような気がする。調子の良いところがあるとは言え、一輪にも思うところがあったのだろう。妖怪とは退治されてなんぼのものである。それは言い換えれば、人間から常に狙われていることでもあった。人間から成り代わった一輪にとっては、余計にやり切れないものがあったに違いない。
何度も、一輪は感嘆し切ったように頷いている。
それを見る白蓮の顔には、あの柔和な微笑みの中に、隠し切れないほどの大きな喜びが滲んでいた。
小さな溜め息をつく。
二人に気付かれた様子はなかった。
これから忙しくなると思い、雲山は口元だけで苦笑した。
◆◆◆
白蓮の長い長い説教から一輪が開放されたのは、雲山が八本目の一服を終えた時だった。そろそろ頃合いかと思って縁側を覗くと、正座による痺れから千鳥足になった一輪と、丁度鉢合わせとなった。
「姐さんも、あんなに言わなくたって良いのに」
ふっくらとした唇をこれ見よがしに尖らせる一輪と並んで、人里の大通りを歩いて行く。
白蓮からの罰は、長説教だけで終わらなかった。
向こう一週間の雑多な買い物を全て行うこと――それが一輪に課せられた罰だった。輪投げのように、指でくるくると輪っかを弄ぶ一輪の顔は、不機嫌な色に染まっていた。
弄ばれる輪っかは他でもない。
退治されて感服した証として手渡し、一輪という名前の元にもなった、謂れも思い出もふんだんに詰まった、あの装飾品だった。
「大体、姐さんは普段から堅苦し過ぎるのよ。もっと肩の力を抜いても良いと思うのだけれどねえ。そもそも幻想郷にとっての交流は、酒宴があってなんぼのものじゃない。姐さんのやり方は、そういった意味でも前時代的だわ。それに求聞口授にも載っていたけれど、戒律なんて昔の坊主は全然守っていなかったそうじゃないの。それでも律儀に守る姐さんは固いと言うか、相当頑固よねえ。雲山も真っ青の頑固者よ。あの頑固っぷりだと、その内、妖怪の力みたいな好い加減な術なら効かなくなるんじゃないかな。術が効かなくなって元の皺くちゃなお婆ちゃんに戻ってしまっても、私は知らないわよ。もっと柔らかく、なあなあに生きれば良いのに。絶対、そのほうが人生楽しいって。姐さん人間じゃないけど、それでもきっと楽しいのに、なんであんなに頑固なのかなあ。大体、あの正座っていうのがいけないのよ。ただでさえ中身が頑固なのに、足腰や膝までがちがちに固めちゃったら不味いじゃない。これからの命蓮寺は、もっと開けて気楽になるべきだわ。幻想郷にはそっちのほうこそ合っているんじゃないかな。酒宴だってばんばん開いて、姐さんだってお酒を呑むようになれば良いのよ。そうすれば、あの雲山も真っ青な姐さんの頑固っぷりも改善されて――って、雲山。聞いているの?」
隣で歩いていれば、嫌でも聞こえてくる。適当な相槌を打つと、一輪はなおもぐちぐちと愚痴をこぼしはじめた。
漏れそうになった溜め息を誤魔化すために、煙草を口にくわえた。
最初に白蓮と出会った時、一輪は心の底から感服していた。心服と言っても過言ではない。雲山が一輪へと感服したよりも更に強く、一輪は白蓮に感服していた。身の上話に真剣に耳を傾け、だからこそ輪の装飾品にあやかって〝一輪〟という名前を白蓮が与えてくれたことも、大きかったに違いない。白蓮を〝姐さん〟と呼んで慕う者は、後にも先にも一輪ただ一人だった。
それがこのざまである。
叱られたことに対して、反省よりも愚痴のほうが先に漏れていた。唇を尖らせる一輪の顔に、省みるような感情は露ほども滲んでいない。おまけに、自らの名前の元となった輪の装飾品に至っては、愚痴をこぼしながら輪投げの輪っかの如く、ぞんざいに扱っている始末だった。
しゅぼりとジッポライターの火をつけて、くわえた煙草に寄せる。
紫煙と一緒に吐き出したのは、まぎれもなく溜め息だった。
「ちょっと雲山、本当に聞いているの」
――この距離なら嫌でも聞こえる。
嘘だった。
思考に没頭して一輪の愚痴を聞き流す技は、封印が解かれた後に会得したものだった。決して喜ばしいことではなく、嘆かわしいばかりだった。
――白蓮殿への愚痴も、程々にな。
「違うわよ、やっぱり聞いてなかったんじゃないの」
眉間に皺を寄せた一輪の顔が、無遠慮なほどに近寄る。フードから垂れる竜胆色の前髪が、はらりと揺れた。
「買い物の荷物持ちを、お願いしたのよ」
――何故、お前の罰に付き合わなければならない。
「こんなか弱い女の子に、重たいものを持たせるつもりなのかしら」
――罰を課せられたのはお前だけだろう。
「私と雲山は一蓮托生でしょう」
さも当然と言わんばかりに、一輪は鼻を鳴らした。
思わず眩暈がして目頭を押さえる。瞬く間に、くわえた煙草が不味くなった気がした。
「そもそも、あなたを退治したのは他でもない。何を隠そうこの私、雲居一輪なのよ。退治された雲山に選択権がないのは当然じゃない」
――えらく昔のことを言うのだな。
「求聞口授にも載ったからね」
ころころと、一輪の顔は笑っている。
先程まで不機嫌だったことを顧みると、見事なまでの変わりようだった。
「そういう訳だから、雲山。荷物持ちはお願いね。まあ、そのために雲山を此処まで引っ張ってきたのもあるんだけれど。ああ、安心して頂戴。重たくないものは、なるべく持ってあげるようにするから」
――重たいものは押し付けるのだな。
「私みたいなか弱い女の子に頼まれるんだから、悪い気はしないでしょう?」
兎のように歩きながら、一輪は振り返る。
「ほら雲山、早く済ませちゃうわよ。姐さんから頼まれた物は多いんだもの、雲山にはしっかり働いてもらわなくちゃ。その働き具合によっては、惚れてやらないこともないわよ?」
――さっきも言ったがな、そういうのはもっと大事な時まで取っておけ。
「照れるな照れるな」
漂った紫煙を掻き分けて、一輪の手が伸ばされる。
顎鬚を、やや強めに引っ張られた。
「折角の良い男が霞んじゃうわよ?」
からかいを孕んだ一輪の笑みが、こちらを向いていた。
なんとも調子の良いことだ。少女そのままの溌剌とした感情の移り変わりは、雲山にとっては着いて行くだけでも精一杯だった。随分と長い時間、一輪には付き従っているが、それでも慣れることはなかった。恐らく、これからも慣れることはないだろう。
それで良いのだ。
一輪は一輪らしくあり、雲山は雲山らしくある。ジッポライターの油臭い炎と煙草の煙臭さのように溶け合うことはない。互いの主義主張は引っ込めることなく、混じり合うだけで良いのだ。理解者であろうと無理に取り繕う必要もなく、だからこそ傍らに控えるだけで構わない。
それくらいが丁度良いのだ。
「ほら雲山、早く早く」
通りの先を行く一輪が、姦しい笑顔で手招いている。
苦笑しながら、その後を追おうとした。
「おお? 女子供の遊びに興じる情けない輩が、なんでこんな所にいるんだろうなあ?」
大通りに響いた濁声には、あからさまな嘲りが含まれていた。
咄嗟に無視を決め込もうとも思ったのだが、一輪が勢いよく振り返ってしまったため、それに合わせて雲山も向き直った。
「おいおい反応しちまったよ。それだと、女子供と一緒に遊んでいるのは自分ですって認めているようなものじゃねえか。腑抜けだとは思っていたが、まさかここまでとはなあ。傑作だぜ」
概ね、予想したとおりだった。
何事かと足を止めた人妖の中から、一際大柄な影が三つほど歩み出る。
三人とも、同じような外見だった。
禿げ上がった頭には巨大な一つ目が覗いており、さも愉快そうに歪んでいる。大柄なその身体は、筋肉という鎧に覆われていると言っても過言ではなかった。逞しい腕をこれ見よがしに組みながら、侮蔑を孕んだ三つの視線が雲山へと注がれている。
一つ目入道が三人立っていた。
見事なまでに粗野な組み合わせだった。
「まさか、女子供と一緒に弾遊びをするような輩が、こんな夜の街を堂々と歩いているとはなあ。おまけに傍らには女まで侍らせていやがる。一端の妖怪として恥ずかしくないのかねえ。曲がりなりにも入道の名が泣くぜ、情けねえ」
真ん中の一つ目が声高々に言うと、残りの二人が合わせたようにげらげらと笑った。どうやら、かなり酔いが回っているらしい。赤ら顔を下品に歪ませて笑っていた。
特に思うところはなかった。
強いて言うなら、この手の手合いには慣れていた。弾幕ごっことも呼ばれる遊戯は、主に女子供が慣れ親しむものとして広く知れ渡っている。過去に雲山はこの弾幕ごっこに参加した。女子供が興じる遊びに、男である自分が加わったのである。結果、このようにあからさまに小馬鹿にし切った態度で接せられたことも、少なくはなかった。最近ではその頻度もめっきり減っていたのだが――人の噂も何とやらとは、言い得て妙である。
小さく溜め息をついた。
根元近くまで吸い切った煙草の火を消して、懐に仕舞った。ポイ捨ては厳禁である。
「なんだ情けねえ。吸殻一つ捨てやできねえのか?」
再び、三人組の真ん中が嘲りもたっぷりに言って、残りの二人が示し合わせたように笑い合う。
付き合うだけ無駄だと判断した。
弾幕ごっこに参加したのは事実であり、今更取り繕う必要もなかった。そもそも雲山にとっては、そんな瑣末な事実に感けるよりも、一輪の傍に付き従うことこそが重要なのだ。女子供が参加する遊びだろうが、それは変わらない。参加したことで笑い者にされるなど、痛くも痒くもなかった。
加えて、ポイ捨ては厳禁である。愛煙家であるからこそ、ポイ捨てによって自らの立場を徒に狭めるのは以ての外である。それを情けないと揶揄するような輩の言葉に、これ以上耳を傾けるつもりは毛頭なかった。
なおも入道三人組を見据えている一輪の耳元に、そっと寄り添う。
――行くぞ、時間の無駄だ。
「お嬢ちゃん? そんな草臥れたような爺なんかより、俺らと遊ばねえ?」
下卑た濁声が届く。
「過保護なくらいに付き纏われて鬱陶しいだろう? 折角だから、そんなことなんて忘れるくらい遊ぼうぜ。爺の相手ばっかりやってたら面倒だろう? 夜は長いぜえ。しっぽりと楽しく、やろうや」
何とも下品な言い草だった。
言葉の内容から察するに、一輪と雲山がコンビであることは知っているのだろう。ただでさえ入道を使役する妖怪というのは珍しいのだ、既知であっても不思議ではなかった。
だからこそ解せなかった。一輪のことを知っているというのなら、彼女が聖白蓮に帰依していることも知っているはずだ。一応は尼の身とも言えなくはない一輪を、こうして粗野な言い草もたっぷりに誘うのは度し難いものがあった。
或いは雲山だけでなく、暗に一輪をも馬鹿にしているのかも知れない。脳裏の片隅に、引っ掛かりのような蠢きを覚える。
ゆっくり入道三人組へと振り返る。なおもげらげらと笑っている。
灸でも据えてやるか。
そう思ったのと同時だった。
おもむろに、一輪が歩きはじめていた。
「おほ、なんだ乗り気じゃないか」
三人組の真ん中の声にも、一輪は反応しなかった。若干、俯いたままゆっくりと三人組へ近寄って行く。
身構えた。
これから一輪が何をするのか、大方の予想はついていた。
「ふうん、思ったよりも可愛いじゃないの」
助平さが滲んだ声は、やはり真ん中の一つ目入道ものだった。
その真正面で一輪は歩みを止める。顔は、なおも俯かせたままだ。
「残念だったな、元見越し入道さんよ。お嬢ちゃんは、あんたみたいな草臥れたおっさんよりも、俺らと遊ぶほうが良いみたいだぜ」
舐め回すように一輪の身体を見下ろしてから、真ん中が言った。周りの二人も、如何にも助平ですと言わんばかりの下卑た笑いを上げている。
やれやれと思い、被りを振った。
無論、三人組の態度に対してではなかった。
真ん中が、これ見よがしにこちらへと意地の悪い視線を投げ掛けながら、一輪の肩に手を置いた。馴れ馴れしい手付きだった。
「さあ、お嬢ちゃん。夜の街へと」
夜の街へと――なんと言おうとしたのだろうか。真ん中の入道の言葉は、結局、最後まで告げられることはなかった。
ぱあんと、入道の頬が鳴った。
「馬鹿にしないで頂ける?」
快活ながらも怒りの含まれた声が、大通りに朗々と響いた。
頭一つ分は高いであろう一つ目入道の顔を、一輪は容赦なく引っ叩いていた。肩に置かれた手を跳ね除け、そのまま相手の頬に平手打ちを食らわせていた。俯いていた顔は上げられており、引っ叩いた入道の顔を勝ち気な視線で射抜いている。
鮮やかな手並みだった。
事態を傍観していた周りの観衆からも、驚嘆を滲ませたどよめきが巻き起こる。
「雲山を馬鹿にしたことも頂けないし、私を馬鹿にしたことも頂けない。でも、それだけなら許してあげても良かったのだけれどね、言われ慣れているのは確かだから」
凛とした声が、淀みなく続く。
「でも、私と雲山との関係を馬鹿にするのは、さすがに許せない。女子供の遊びにも付き合っているって散々揶揄され続けて、それでも眉一つ動かさずに私に付き従ってくれる雲山との関係を、鬱陶しいだなんて言われるのは我慢ならない。私と雲山は一蓮托生なの、私が退治したことに感服した雲山が付いてくれているの。謂わば相棒なのよ、私たちは。それを散々馬鹿にするなんて、さすがに度が過ぎるわよ、坊やたち」
「ぼ、坊やだと」
引っ叩かれた真ん中が、何とかそれだけを口にした。
「俺らが坊やだと」
「当然でしょう? あんたたちなんか、何処を取っても雲山の足元にも及ばないわよ。大体、しっぽりやろうだの夜の街だの、誘い文句が一々餓鬼臭いのよ。発情期を迎えた人間の男の子じゃあるまいし。寧ろ、そっちのほうがまだ可愛げがあるわよねえ、人間の男の子のほうがよっぽど風情もあるわ。あんたらみたいな、一つ目で縁起物にもなれないような筋肉達磨なんか、こっちからお断りよ、お断り」
見る見るうちに、入道三人組の顔が険しくなる。酔いで赤くなった色合いとは別に、鮮やかな赤味が増していく。観衆の所々から、堪え切れなくなったような笑いが漏れ出ているのも効いているのだろう。禿げ上がった頭には、太い青筋が浮かび上がっていた。
それでも一輪の調子は、収まるところを知らない。なおも淀みなく、決して勢い余って声を荒げることもなく、一字一句丁寧なほどに言い募っている。まさしく、雲居一輪らしい物言いだった。
ふうと溜め息が聞こえる。
「ま、雲山みたいな良い男が傍に居るんだもの。お呼びじゃないのよ、坊やたち」
ふんすと一輪は鼻息を鳴らした。
勝ち気な視線もそのままに口元だけで笑った。
「さあ、分かったなら早く帰りなさい。夜の街なんて、坊やたちにはまだまだ早いわ。子供は子供らしく、素直にお父さんお母さんの言葉に従って、御飯を食べてゆっくり寝なさい」
「この、糞アマが」
怒り心頭といった様子で、真ん中が言った。
耳まで真っ赤に染まっていた。
「おい糞アマ、調子こいてるんじゃねえぞ」
「乱暴な言い草ね。そのアマって単語は尼さんを意識しているのかしら? それとも女性?」
「ふざけるなあ!」
怒声とともに、真ん中の入道が拳を振り上げる。
それを見ても一輪の表情は変わらなかった。勝ち気な笑みを湛えたまま、入道の正面に仁王立ちをしている。それどころか避けようとする素振りすら見せなかった。恐らく、いや十中八九、助けが入ることを確信しているのだろう。
久しく耳にしていなかった、相棒という単語が脳裏を過ぎった。
小さくついた溜め息を置き去りにする。
雲山は躊躇うことなく、一輪と一つ目入道との間に割り込んでいた。
◆◆◆
「暗いね」
雲居――今は、一輪だったか。
薄っすらとした明かりに照らされる彼女の顔は、お世辞にも快活だとは言い難かった。この場の雰囲気をそのまま飲み下してしまったかのような陰鬱な翳りが、濃い隈となって浮き出ている。疲労を浮き彫りにしたかのような顔だった。
一輪のこんな表情を見るのは、はじめてだった。
快活こそがよく映えるこの少女には、どうあっても似つかわしくない顔だった。
「本当、暗い」
乾いた声で一輪はそれだけを言った。
傍らに控える雲山には、何と答えて良いのか分からなかった。今二人が居る場所、正確には閉じ込められている場所は、一輪の言葉通りに暗かった。幾ら見渡せどもわだかまった闇が鎮座しているだけであり、どのような様相をしているのかも見通せない。狭いのか、それとも広いのか、それすらも分からなかった。辛うじて、一輪と雲山の周りが薄明かりに晒されている程度である。光源が何なのかは、やはり分からなかった。
結局、雲山は周囲に視線を投げ掛けながら、押し黙った。
相槌のような適当な言葉すら、今の一輪には返すことも躊躇われた。
「ねえ、雲山」
覇気の欠片もない声が届く。
焦土、或いは禿山を髣髴とさせるほど、聞くに堪えない声だった。
「姐さん、大丈夫よね」
土埃で薄汚れた頬を拭いもせずに、一輪は微笑んだ。痛々しい笑みだった。
肺腑を抉られるかのような痛みが走る。
雲山には、やはり答えることは出来なかった。
聖白蓮は封印された。彼女の存在や主張を危惧した人間たちの手によって、魔界とも地獄とも知れない奈落の底へと封印されてしまった。妖怪との共存を願った白蓮の主張は、その妖怪の脅威に晒され続ける人間たちには、どうあっても看過出来ないものだったのである。騙まし討ちにも近い方法で、白蓮は捕らえられてしまった。
無論、一輪や雲山、それと同じく白蓮に帰依する妖怪たちも、黙って見過ごしていた訳ではない。
聖白蓮を救うため、それこそ西へ東へと奔走した。
しかし、結果として全て失敗に終わった。封印から白蓮を解き放つことは叶わず、それどころか一輪や雲山も妖怪として封じ込められてしまった。賛同した多くの妖怪が捕らえられ、或いは封印されたと聞いていた。そうして散り散りになった賛同者を最後の一線で束ねていたのが、他でもなく一輪だった。その当人がこうして封じ込められたことは、聖白蓮を救う手立てが粗方潰えてしまったことを意味していた。
それを、嫌というほど理解しているのだろう。
落ち窪んだ目で闇を見据える一輪の横顔は、無垢だと思えてしまうほどに、がらんどうだった。
「大丈夫よ、きっと」
洞のように寒々しい声が、一輪の唇から漏れる。ふっくらとしていた愛らしい唇も、連日の疲労によって瑞々しさを失っていた。敬愛する聖白蓮を救うため、一輪はその身を削る思いで奔走していた。
「姐さんなら、きっと大丈夫」
頬を、一筋の雫が伝った。
土埃で汚れた頬に、涙は悲しいくらいに映えていた。
「大丈夫よ。姐さんなら、きっと」
口元に浮かべた微笑みは、無理矢理に取り繕っていたものであり、継ぎ接ぎのようにぎこちない。それでも一輪は、縋るように笑みを浮かべ続けていた。
こんな時、どうすれば良いのだろうか。
何と声を掛ければ良いのか。何と言って慰めれば良いのか。何をして悲しみを拭ってやれば良いのか。
雲山は、己の無力さを噛み締めた。
一輪の理解者でありたいと、とうの昔に諦めたはずのことを、今になって心の底から願った。悲しみに浸り、それを声に出して嘆くことも出来ない一輪の心に、最善のかたちで答えたいと願った。一輪の想いを汲んでやりたいと、出来ることならその願いを叶えてやりたいと、悔やむほどに願った。
しかし、どうあっても叶わなかった。
傍に付き従うことを決めた雲山には、一輪の身を守るだけで精一杯だった。亡き者にされ掛けたところを、辛くも封印に止めることしか出来なかった。聖白蓮の封印を解くという、一輪の最大の願いには応えられるはずもなかった。
見越し入道、恐ろしい妖怪だと称えられてきた。
空しい肩書きだった。
守ると覚悟した一輪は、今や雲山とともに封印されており、底の知れない悲嘆に囚われている。
女一人、救えやしないではないか。
忸怩たる思いを、雲山は噛み潰していた。
「ねえ、雲山」
一筋だけ垂れた雫を、一輪は拭いもしない。
まるで、自分が涙したことにすら気付いていない様子だった。堪えるように浮かべた微笑みは、痛々しいほどに弱々しく見えた。そうやって笑うことで、込み上げるものを抑え込んでいるように見えて、仕方がなかった。
もう良い。
もう我慢しなくて良い。
絞り出すかのような思いは、結局、声には出せなかった。
「姐さん、きっと」
だから雲山は、一輪の頬にその手を寄せただけだった。
慰めの言葉すら出せられない――惨めにも歳を重ねた入道の、せめてもの行動だった。
「あ」
薄汚れた頬を、一滴の涙ごと拭う。
なるべく柔らかな手付きを心掛けたつもりだったが、それでもやや強めに拭ってしまった。ふくよかな一輪の頬の弾力を手のひらに感じ取る。土埃で汚れた頬は、彼女が封印の直前まで抵抗していたことを意味していた。ともすれば、妖怪であっても命を落としかねないほどの状況だったにもかかわらず、一輪は最後の最後まで諦めようとはしなかった。
慰めるつもりはなかった。
自分がそれほど気の回せない男であることを、雲山は重々承知していた。
「雲山」
力なく、一輪の顔が振り向いた。
静かに首を横に振った。頬に添えた手は退けなかった。
――もう良い。
何とか、それだけを口にした。
――もう我慢するな、もう良いんだ。
ひとたび言葉にした後は、流れるようにこぼれた。慰めるつもりは、やはりなかった。自分がそんなにも気の回せない男であることを、決して一輪の理解者ではないということを、雲山は知っていた。今の自分が、言いたいことを言っているのに過ぎないことも、充分理解しているつもりだった。
――もう良いんだ。
それでも言葉は止めなかった。
――泣いても良い、我慢しなくても良いんだ、一輪。
「雲山」
頬に添えた自分の手に、一輪は両方の手のひらを重ねた。
土埃で汚れているにもかかわらず柔らかな質感だった。無骨な、他者を殴ることしか考えていないような自分の手のひらとは雲泥の差だった。女性ではなく、少女のような手だった。
疲労と悲嘆とに囚われた一輪の手のひらは、それでもなお少女らしく柔らかなものだった。
その事実に、こんな状況だというのに、久しく覚えがないほどの喜びを感じた。
「名前、はじめて呼んでくれたね。一輪って呼んでくれた」
手を重ねながら、一輪は微笑んだ。
がらんどうの笑みではなく、泣き笑いのような笑みだった。
「ありがとう、雲山」
見上げてくる一輪の瞳が、大きく揺れる。
「でも私、諦めない。やっぱり諦め切れない」
揺れているのは瞳だけではなかった。
紡ぐ声にも、わなわなと震えが滲んでいた。
「姐さんは大丈夫たって、私は信じている。封印なんて、いつか解き放てるはずだって今でも信じている。姐さんを慕う奴らは多いんだもの、私がいなくたって関係ないわ。姐さんみたいな素晴らしい人なら、絶対に誰かが助けてくれる」
目尻から涙が溢れていた。大粒の涙が留処なく頬を流れていく。
嗚咽で何度も途切れさせながら、それでも一輪は続ける。
「もし、それが無理だって言うのなら、私が助ける。こんな所で、いつまでもウジウジしている訳にはいかないもの。さっさと抜け出して、絶対に姐さんを助け出してみせる。私が、助ける」
くしゃりと、一輪の顔が大きく歪んだ。もう我慢を装ってはいなかった、抑え切れないものに任せたかのような泣き顔だった。
雲山の元に一輪は顔を埋めた。
「でも、でもね」
鼻をすすり、嗚咽を滲ませる声が届く。
「今だけでは、我慢しなくても良いよね。泣いても良いよね。私、頑張ったよね」
震える一輪の背に手を回した。
ともすれば壊れてしまいそうなほどに華奢なその背を、優しく撫でた。
「ありがとう、雲山」
今は、一輪の声は涙に濡れていた。
「ありがとう」
その後は、もう言葉にはならなかった。
辺りを憚らないほどの大きな声で、一輪は泣いた。子供のように、雲山の元に顔を埋めながら泣きじゃくっていた。
だが、不思議と心地良かった。
我慢しなくても良い。自分の言葉のままに泣いた一輪に、どうしようもないほどの親しみを感じた。
堪え切れなくなったものを吐き出すかのように泣きじゃくる、一輪の頭が垣間見える。
薄紫の布が目に留まった。
自分の色合いに似合うものをと、一輪自身が見繕った色だった。暖かいとも、こそばゆいとも言えないうねりが、胸の奥で踊る。
泣きじゃくる一輪の背に回した手に、雲山はそっと力を込めた。
◆◆◆
朝一番の出来事だった。
一輪と二人、朝の散歩というサボタージュに興じようとしていた際、命蓮寺の門前で三つの人影に呼び止められた。
見間違うはずもない。昨夜、街中の大通りで難癖をつけてきた、あの一つ目入道の三人組だった。
「いやはや俺たち、一輪の姐御と雲山の兄貴の強さには、とことん感服させられました。この度、どうぞ俺たち、いや私たち三人を弟子にさせて頂きたく思い、こうして馳せ参じました。よろしくお願いします!」
相も変わらず真ん中が捲くし立てるように喋ってから、三人仲良く頭を下げる。
昨夜、雲山にこってり絞られた証拠でもある多くの生傷は、そっくりそのまま残っていた。竹林の診療所に運ばれたとも聞いていたのだが、どうやらこの状況から察するに、こっそりと抜け出して来たらしい。
もっとも、三人組の傷を作った張本人である雲山は、大して気にもしていなかった。一つ目入道や見越し入道など、入道という妖怪は多種多様に存在しているが、皆一様に頑丈だというのが特徴だった。この程度の傷ならば、治療など必要もないはずである。
寧ろ、この入道たちが即座に弟子入りを懇願してきたことこそが、雲山には驚きだった。昨夜の三人組からは、おおよそ義理人情など一欠けらも感じなかった。
押し黙ったまま、訝しげな視線だけを投げ掛ける。
「あら~、中々行儀の良い子たちじゃない」
対して、傍らの一輪は上機嫌だった。
大袈裟なほどに朗らかな笑みを浮かべながら、わざとらしく続ける。
「それじゃあ、まずは姐さん、聖白蓮様に話しを通してからね。今の時間は、御堂での準備に勤しんでいるはずだから、そっちに向かって頂戴。白蓮様なら、あなたたちみたいな坊やでも歓迎してくれるわ。感謝して、これからも精進するようにしなさい」
「へい、ありがとうございます!」
真ん中だけではなく、残りの二人も一斉に声を張り上げた。
「それではまた後ほど。一輪の姉御、雲山の兄貴、失礼致します!」
どたどたと、挨拶もそこそこに入道三人組が境内へと足を踏み入れる。
静かにね、と一輪が付け足す。一つ目入道たちは畏まったような一礼とともに返答してから、今度は忍び足のような慎重の足裁きで、御堂へと歩いて行った。
見送る一輪の顔は、満面の笑みだった。
満足し切ったかのように頻りに何度も頷いている。
――謀ったな。
誰にも悟られぬよう一輪の耳元に寄り添った。
――新たに三人も寺に入門させた。白蓮殿も罰を取り止めるかも知れないな。
「人聞きが悪いわよ、雲山」
言葉とは裏腹に、一輪の顔は上機嫌に微笑んだままだった。
「あの子たちみたいな力こそ全てという輩は、その力でさえ勝ってしまえば従うものなのよ。私と雲山の馴れ初めも、似たような感じだったじゃない」
――馴れ初めと言うな、馴れ初めと。
「照れない照れない。それに偶然にも、あの子たちも入道だった訳だからねえ」
――絡まれた時から目論んでいたということか。
「だから人聞きが悪いわよ、雲山」
ふっくらとした唇を尖らせながら、一輪は兎のような足取りで歩きはじめた。
もっとも、その瞳は悪戯っぽく微笑んだままだった。年頃の人間の少女そのままの、あどけないとも姦しいともつかない喜びが滲んでいる。これ見よがしに、ころころと感情が踊っていた。
溜め息をつきながら、煙草をくわえる。
しゅぼりとジッポライターの火を灯しながら、一輪の横に並んだ。
「私は命蓮寺のため、ひいては姐さんのためを思ったのよ。ほら、入門する妖怪が増えるのは姐さんにとっても喜ばしいことには違いないし。それに地底の妖怪と違って、あの一つ目入道の坊やたちは街中にいたじゃない。人間とも、それなりには上手くやっているはずよ。それだけ人里に溶け込めているのなら、妙な理由で入門を希望するはずがないわ。私や雲山に感服したと素直に言えば、姐さんとしても断る理由なんてない訳だし。まあ、雲山の言ったとおり、私の罰は帳消しになるかも知れないわよね。頭の固い姐さんなら、それも難しいかも知れないけれど。それなら、私や雲山に感服したあの子たちに買い物を手伝ってもらえば問題なし。勿論、姐さんには内緒でね」
――相変わらずの要領の良さだな。
「そりゃあ、雲山を使役するくらいだからねえ。もっと誉めても良いのよ?」
――そこまで見越して昨夜は吹っ掛けたのか。
紫煙を吐き出す。
苦味が、口の中に広がっていた。少々面白くないものも感じていた。
――お前の言葉に、俺は嬉しさや懐かしさを感じていたんだがな。
煙草の煙のような言葉だと思った。
どこか頼りなく秋空を寂しく漂うみたいだと、自分で言っておきながら感じた。
一輪は答えない。
なおも嬉しそうに微笑みながら、雲山の元に歩み寄った。
「雲山」
気が付けば、一輪は足を止めていた。それに合わせて雲山の動きも留まる。
「煙草、頂戴」
珍しいことだった。
喫煙に関して、一輪は肯定も否定もしたことがなかった。こうして煙草を求められたことは、記憶が確かなら一度や二度ほどしかない。興味本位で求められ、試しに吸っては煙そうに咳き込んでいた姿が印象的だった。
「ほら、早く」
差し出された手に煙草の箱を渡す。断る理由は思い付かなかった。
いそいそと一本取り出した一輪を見て、ジッポライターの火を灯そうとする。
「ああ、火は要らない」
煙草をくわえながら、にべもなく一輪は言う。
思わぬ言葉に顔を上げる。
何故だ。
そう言おうとした。
まず見えたのは、薄紫のフードから垂れた竜胆色の髪だった。
はらりと垂れる前髪は、ひどく近くに寄っていた。一輪の顔が、著しく雲山の元に近付いていたことを意味していた。
視線を下に移す。
くわえた煙草の先端に、一輪がくわえる煙草の先端が触れている。
火が灯る。
二筋分の紫煙が、秋の空に昇る。
悪戯っぽく瞳を細めた一輪の頬は、心なしかほのかに赤く染まっていた。
「えへへ、も~らい」
鮮やかに煙草の火を掠め取った一輪は、歯を見せて微笑んだ。兎のように雲山の元から退きながら、これ見よがしに煙草をくわえている。何故か、咳き込むようなことはなかった。
得も知れない感触が、胸中で渦巻く。
――そういうのはな。
何とか、それだけを口にした。声が上擦ってしまうのを堪えるのに必死だった。
――そういうのは、もっと大事な時まで取っておけ。
「昨日のことだけれどね」
一輪は、雲山の言葉には答えなかった。
「雲山との関係は、本当に大事なものだって思っているの」
薄紫のフードの下、一輪は一層目を細めた。悪戯っぽい光は、もう瞬いてなかった。
「色々と、それこそ本当に色々なことがあったけれど。それでも雲山は、今でも私の傍に付いて来てくれている。一蓮托生と言うか、相棒と言うか、今でも何て言って良いのかは、よく分からないんだけれどね。どんな時にでも、雲山は私と一緒にいてくれた。退治して退治されての関係だから、そんなにも無理に付き添う必要はあんまりないのに、それでも雲山は傍に控えてくれた。今も私の傍にいて、私の話に付き合ってくれている」
束の間、一輪の顔がはにかむ。
普段の快活な笑みとは、かすかに趣きが違っていた。
「だから、昨日の言葉に嘘はないよ。さっきも言ったけれど、雲山との関係は本当に大事なものだと思っている。そりゃあ四六時中付き添われるのは、最初の頃は慣れなかったけれどね。感謝している、言葉では言い表せないくらい、感謝で一杯だよ」
煙草を一口だけくわえてから、一輪は取り繕うように紫煙を吐き出した。
少女が初恋を誤魔化すかのような仕草だった。
「ありがとう、雲山」
いつの間にか一輪の顔には、普段の快活な笑みが戻っていた。
「昨日の雲山、やっぱり格好良かったわよ」
――さっきも言っただろう。
なるたけ眉間に皺を寄せながら、煙草をくわえた。むず痒くなった頬は悟られたくなかった。
――そういうのは、もっと。
「大事な時まで取っておけ、でしょう? そんなに照れなくたって良いのになあ」
ころころと、一輪の顔は笑っていた。
ほのかに染まって見えた頬の赤味は、幻だったかのように消え失せていた。或いは、本当に幻だったのかも知れない。照れ臭さを滲ませるような真似は、目の前のハイカラな少女にはあまりにも似つかわしくなかった。
からかわれるのは、専ら雲山の役目だった。
「折角の良い男が台無しじゃない。これじゃあ惚れてやることも出来ないわよ」
――当たり前だ、鬱陶しい。
「うわ、酷い言い草ねえ。こんなに可愛い女の子が惚れてやるって言っているのに、それをふいにしちゃうなんて。後から後悔しても知らないわよ?」
――誰がするか。
「頑固者」
本当に面白おかしそうに一輪は笑っている。
激動とも呼べる時代に、流されるように生きてきた。人間から妖怪へと成り代わり、地底深くに封印されるという状況に陥ってなお、その微笑みには少女特有のあどけなさが踊っている。薄紫のフードから覗いた竜胆色の前髪は、持ち主の気性を表すかのように溌剌と揺れていた。
紫煙の煙越しに目を細める。好々爺を気取ったつもりではなかった。
単純に、一輪の笑顔が眩しかった。
「それとね、雲山」
行儀悪く煙草をくわえたまま、一輪は言った。
「昨日のことだけれど」
――まだあるのか。
「歩き煙草は厳禁よ」
――ふむ。
「していたわよね、昨日」
――うむ。
わざとらしく歯を見せながら、一輪はこちらを指差している。反論は浮かばなかった。
――すまん、失念していた。
「分かればよろしい」
得意気に笑みを湛えた瞳を一輪は細めていた。
「今後は気を付けるように、良いわね」
――すまん。
「よろしい」
何がそんなに可笑しいのか、一輪はふっくらとした唇をこれ見よがしに綻ばせながら、大きく頷いた。そのまま短くなった煙草を口から離し、辺りを憚らないほどの大声でころころと笑いはじめる。目尻には薄っすらと涙さえ滲ませていた。
本当に、一輪の感情の移り変わりは激しい。
不機嫌だったかとも思えば、唐突に上機嫌になることもあった。決まって、雲山をからかっては上機嫌になっていた。一目では尼にも見えなくはない外見をしていたが、間違っても一端の尼のような大人しさは、一輪には備わっていなかった。
ハイカラなのである。
誰が何と言おうと、例え本人が否定しようとも、雲居一輪という少女にはハイカラという言葉が一番しっくりしていた。
だから時々、分からなくもなる。
時代親父とも揶揄されるような自分には、快活な一輪の内心を汲み取りきれないと感じることが、度々あった。
自ずと苦笑がこぼれる。
それで良いのだ。
理解者であることは、とうの昔に諦めていた。封印されている時は、それでもと思い立ったこともあった。しかし結局は諦めて、傍に控えることに勤しんできた。共に生きるのではなく、共に歩んで来た。そう表現するほうが正しいような間柄だった。これからも変わることは、恐らくないだろう。
溶け合うのではなく、混じり合うのだ。
ジッポライターの炎の油臭さと煙草の煙臭さのような、波長を合わせない関係だった。
時代親父とハイカラ少女。
それで良いのだ。
これだけの間柄で充分だった。
なおも笑い続ける一輪を見つめつつ、煙草を口から離してゆっくりと煙を吐き出す。
油臭さと煙臭さとが混じった紫煙が、秋空へと昇って行く。
ゆんなりと昇れば良いのだ。
それだけでも構わないのだと、雲山は思った。
◆◆◆
後悔しているか。
仮に、誰かにそう問い掛けられたならば、即座にこう答えるだろう。
半々だと。
後悔と、それ以外の様々な感情をふんだんに詰め込んだ思いとで、半々だと。
春の薫りを存分に孕んだ青空に、少女は身体を躍らせていた。
強い光の瞬く視線の先には、硬質な質感を湛える黒い影が宙を泳いでいた。
薄紫のフードを目深に被った少女の傍らに、元見越し入道はそっと寄り添う。
念じた。
少女を包み込むほどの巨大な拳を顕在させる。
この少女を守る。
遥か昔に決意した覚悟を昂ぶらせるのは、雲山には容易いことだった。
原作っぽい感じがあってこれぞ二字創作と思います。なのになんなんだこの違和感は。
肝の太さだったり要領の良さだったり、でもそんな一輪にも弱い部分はあったり
互いを補い合っているこの二人の信頼関係は本当に素敵ですね
原作風味の一輪がとても魅力的でした
雲山マジ父親
二人の距離感が素晴らしかったです。
求聞口授の記述を上手く広げた感じがします。
このまま二人でずっと共に歩けばいいと思うよ!
莨の貰い火をする場面でブラックラグーンを思い出した。