「……なぁ、香霖」
机の上に座ってボンヤリとコーラの瓶を傾けていた魔理沙が、ふと思い出した様な口ぶりで矢庭に僕の名前を呼ぶ。
「何だい?」
書面に目線を落としたまま、僕は曖昧な口調の返事をする。
妙に眠気が強く、身体が少し怠いのは水煙草の効能だろう。手入れは面倒極まるが、水煙草の吸い口に時折手を伸ばす甘美な時間は、その面倒を補ってなお余りある。肺に流入する冷たい煙。青林檎を思わせる甘い芳香。魔理沙はいつも、僕の喫煙を文字通り煙たがるが、僕は基本的にそれを無視する姿勢を崩しはしない。
「お前は、私よりも早く死ぬのか?」
魔理沙の異質な質問は、文字を追っていた僕の目を止めるには充分だった。顔を上げて、チラと魔理沙の方を見る。彼女は僕に背を向けたまま、こちらを向いてすらいなかった。
「……さてね」
ややあって、僕は肩を竦めながらそんな返事をする。肩を竦めた所で、僕の事を見ていない魔理沙に通じはしない。
「それじゃ、私の方がお前よりも早く死ぬのか?」
「未来の事を僕に聞いても、有益な答えを出してはやれないよ」
僕は無縁塚で拾った外からの本を閉じて、傍らに置いていた水煙草の吸い口を引き寄せる。どうにも、吸い過ぎたかも知れない。朦朧、とまでは行かないまでも意識は眼鏡を外した景色の様に霞んでいて、これ以上読書に集中することは出来なそうだった。
「紅魔館、知ってるよな?」
「お得意様が居るからね」
吸い口を唇に挟み、煙を吸い込む。ガラスの中で、水がポコポコと泡を浮かばせる。青林檎の香りの煙が僕の舌を滑り、肺を冷たく満たす。
「そこの図書館に居る魔女にな、『私が死んだら本を返してやる』っていつも言ってるんだ」
「別に、死ぬ前だって本は返せるだろう」
「不必要になる前に返すのは、非効率的だぜ。一々取りに行くのは面倒だ」
煙交じりに言った言葉に、魔理沙は尚も背を向けたまま肩を竦める。首を回して僕の顔を一瞥すると、また前を向き直ってコーラの瓶を傾けた。彼女がコーラを嚥下する音が、妙に大きく僕の鼓膜を震わせる。
「私が死んだら、きっとアイツは本を回収しに来るんだろうな?」
「そういう約束をしているんなら、それを守らない意味は無いだろう」
「つまり、私が死んでも、世界は回る」
そう言うと魔理沙はカタン、と音を立てて机の上にコーラを置く。まだ瓶の中には、ほんの少しだけコーラが残っていた。
「私が死んで、それでも世界は回って、いつしか私が居た事は忘れられる。私が居ない事が当たり前になっていく。何だか不公平だぜ」
「そうかい? 限りなく公平なように思えるけどね」
「香霖は考えないのかよ? 自分が死んだ後の事」
「そんな事は、死んでから考えればいいじゃないか」
「あの裁判長に裁かれる前じゃ、短すぎだぜ」
「つまり何かい? 君は、種族魔法使いになろうとしていると?」
「そうじゃないぜ。飲み込みの悪い奴だなぁ」
溜め息交じりに机から飛び降りると、魔理沙は両手を上げて大きく伸びをした。徐に柔軟を始める魔理沙の背中を、僕は水煙草の煙を吸い込みながら、ぼんやりと眺めた。
「仮に、だ」
棚に並ぶ品々を流し見ながら、魔理沙がゆっくりとした歩調で死角へと姿を消す。
「私が死んだとして、香霖。お前はどうする?」
棚の向こう側に、先端が折れている魔理沙の帽子だけが見える。溜め息に乗せて、僕は甘ったるい香りの煙を吐き出した。
「――君位の歳の人間が心配する様な事柄じゃないと思うんだけどね」
「話を逸らすなよ。仮に、って言ってるだろ」
僕の思惑は、あっさりと看過されてしまった。
棚の向こう側で、魔理沙が唇を尖らしている様が目に浮かぶようだった。自分の望む質問の答えが得られるまで、絶対に諦めない時の強情な口調だ。やれやれ、と僕は水煙草の吸い口を机の上に置く。
「そりゃあ、葬式に出るだろうね」
「葬式、か……」
フン、と鼻を鳴らした魔理沙が、どこか可笑しそうに僕の言葉を反芻する。
不意に僕の脳裏に、棺に横たわる魔理沙の姿が浮かんだ。
敷き詰められた花の上で手を組んで目を閉じたままの魔理沙の姿は、今現在の魔理沙の物だった。白装束ですらない、いつもの黒と白の衣装を身に纏った、少女のままの魔理沙。
その幻像は、きっと未来の幻視ではない。
そう思うと僕は、妙に可笑しくなって鼻を鳴らす。
魔理沙は人間だ。成長するし、その後には老いが待っている。死するその瞬間まで、今の姿を保っていられる訳がない。存外、僕の想像力は逞しくないのだ、と認識したから、その事が自嘲的な笑いを僕にもたらしたのだ。
「葬式に出るよりも前に、私の家の後始末でもお願いしたいんだがな」
取るに足らない空想に耽っていた僕を、魔理沙のあっけらかんとした声が揺り戻す。
「君の家、かい?」
彼女の家を思い返そうとして霧雨の親父さんの家を一瞬想起しかけた僕は、それを魔理沙に悟られないように首を横に振る。
そう言えば遠目から何度か確認したくらいで、僕は彼女の住む家に上がったことが無いな、と僕は今更のように思い出す。
足の踏み場も無いほど散らかっていると専らの噂だ。そんな家の後始末を頼まれたところで、雑多なガラクタの山を前に途方に暮れる自分の姿しか想像できなかった。
僕の店の中だって、人の事を言えた義理では無いだろうが。
「そうだな……私がメモった魔術書の類は、あの世でも読みたいから捨てないでくれ。鍋やら瓶やらの魔法の実験道具は、欲しい奴が居たら譲ってやってもいい。階段の下の物置にブチ込んである物は好きにしろ。あそこに入れるのは使えない物だけ、と決めてるんだ」
「使えないなら捨てれば良いだろう?」
「それじゃ、ここいらのガラクタ共は全部捨てるべきだな」
棚の品物でも手に取っているのか、魔理沙は間髪入れずにそんな嫌味を返す。
「売り物を捨てちゃ利益が得られないじゃないか」
「良く言うぜ。巣でもあるんじゃねーかってくらいに、いつも閑古鳥が鳴いてる店の癖に。と、アレだな……ベッド脇で山になってる本の類は、パチュリーに持って帰られる前に出来れば確保しといてくれ」
「返すんじゃなかったのかい?」
「略奪された物に関しちゃ私の責任の範囲外だ。その時には私は死んでるんだしな。
死人にゃお前から取り返す義務も発生しないだろうしな」
死後もとことん嫌がらせをするつもりか、と僕は溜め息を吐く。
紅魔館にある図書館の主に逢った事は無いが、魔理沙の泥棒癖に頭を悩ます同志として、心底同情したい気分だ。ただ、向こうは昔の魔理沙を知らない分、沸点は僕よりもウンと低いに違いないだろうから、一概に同志とは言えないかもしれない。
「そしたら僕が被害に合うじゃないか。荒々しく取り返されるのも御免だし、火事場泥棒扱いをされるのも御免だね」
「たまには運動しろ。弾幕ごっこは良い汗かけるぜ」
「僕の専門じゃないね」
意味が無いと知りつつも、僕は肩を竦めて吸い口を引き寄せる。身に染みついた癖という奴は、無意味であると判っていても反射的にやってしまう類の代物だ。
「大体、突然そんな事を言い出した理由が判らないね」
「単なる思いつきに理由を求めるとはな。お前も大した合理主義者だ」
「そりゃどうも」
「仮にお前が先に死んだら、この店のもんは全部貰っといてやるぜ」
「それは、ありがたい申し出だ」
ワザと皮肉っぽく聞こえる様に言った僕の台詞に、魔理沙はフン、と楽しんでいるみたいに鼻を鳴らす。
「それにしても、葬式か……私の葬式……どんな風なんだろうな」
「鬼が笑い死にする位に先の話じゃないか」
「案外鬼ってのは簡単に殺せちまうもんなんだな。今度萃香にでも試してみる事にするぜ」
魔理沙はそう言うと、棚の向こうで面白そうに一人でケラケラと笑った。
勝手に反応を思い浮かべて、その他愛ない悪戯が成功した様子でも想像しているのだろうが、取らぬ狸も良い所だ。実際に先の事を語った所で、キョトンとされるか鼻で笑われるくらいが関の山な気がする。
「ところで、棺桶には、故人が好きだった物を入れるんだってな?」
店の入り口に近い所の棚から、無事死なずに笑い終えたらしい魔理沙の声がした。
「そうだね。燃え残らない物なら」
「それなら、さっき言った魔術書は残らずブチ込んで欲しいな。後、彼岸に行く最中小腹が空いたら困るから、アリスに頼んでクッキーの生地を入れといてくれ。そしたら、向こうに着く頃には焼きたてのクッキーが食えるだろ?」
「焦げなきゃいいね」
「仮に焦げてても、病気になる心配をしなくていいから気楽なもんさ」
「炭化したクッキーで満足できるのかい?」
「不味かったら捨てりゃいい」
「手向けに作った物を捨てられるとは、不憫な話だ」
「捨てたかどうかは、アイツには判りゃしないさ。重要なのは、私が好きなものを、棺桶の中に入れてくれたって事実だけだ」
陽気に言ってのける魔理沙を余所に、僕はすっかり冷めてしまっていた緑茶を啜ってから、椅子に深く腰掛けてボンヤリと天井を眺める。そこにはまだ、先ほど吐いた煙が残留して、微かに漂っていた。
不謹慎な話題は、それほど好きではない。
まだ子供の魔理沙が、自分の死後の事を面白がって話す様は、本来ならば正すべき事柄なのだろう、とは思う。少なくとも、まだ彼女が勘当される前の霧雨の親父さんがこんな話をしている所を見たら、魔理沙だけでなく僕も叱責するだろう。その程度には、この話題は不謹慎だ。
だが、僕は彼女を正そうとは思わなかった。
それまでの経緯がどうであれ、彼女は既に家を出て独り立ちをしている。年齢こそ、 未だ少女の域を出る事は無いが、それでも魔理沙は、誰かの保護下にないと生きていけない人間ではない。
保護者面をするならば、最初から僕は魔理沙の自活を許しはしない。
でも、僕は魔理沙の保護者ではない。
それを自称したら、きっと魔理沙は酷く怒るだろう。
毎日の食事や、寝床、勉学。
それらを提供している訳でもないのに保護者然とした意見を述べるのは、自分の力で生きている彼女に対する侮辱でもある。余りにも分を弁えない行動をすれば、多少の小言は言うかもしれないが、少なくともこの程度では小言には値しないだろう。
彼女の生存に関する義務を熟していない僕には、既に形成された彼女の自我に大きく踏み込む権利なんてない。僕は余り能動的な人間ではないから、彼女の機嫌を損ねてまで小言を述べる気にもなれなかった。
「――なぁ、香霖」
その魔理沙の声が僕の目の前で発せられた事に気付き、僕は少々面食らった。
「……何だい?」
身体を戻す際にずり落ちた眼鏡を元の位置に戻しながら、僕は彼女に相対する。
魔理沙の表情は黒く、大きい帽子のつばに隠されて、口元しか窺うことが出来なかった。
まだ紅も知らない唇。それは今、何やら深刻げに真一文字のまま紡がれている。
「もし、さ」
だらり、と力なく垂らされていた右手が帽子を掴み、それを更に目深に引き下ろす。 右手はそのままつばを掴んだままで、唯一見えていた彼女の顔の部位さえも、右手に隠れて見えなくなった。
「――もし、嫌じゃなかったら……」
空気が、妙にピリピリとした。
不可視不可触の気体は今、どうしてか棘を持ったように鋭さを増す。
僕の脳裏には、何の言葉も浮かびはしなかった。言い淀む魔理沙の言葉の先を促す軽々しい台詞さえも、口に出すことが躊躇われる。
唐突に喉の渇きを覚えて、しかし緑茶に目線をやる事すら出来ず、音を立てないように僕は唾を嚥下した。
「お前が――」
呼吸が無意識に止まり息苦しさを覚えた――途端、魔理沙はいきなり、水煙草の吸い口に手を伸ばした。
それは獲物に飛び掛かる獣のような速度で、呆気にとられた僕が静止する暇もなく、彼女は思い切り水煙草の煙を吸い込む。
言いかけた言葉を、無理矢理に飲み込んでしまう様に。
「……ぶほっ、げほっけほ……!」
「な、何してるんだ君は」
「――あー……嫌に甘ったるい空気だなこりゃ。肺が締め付けられるみたいだった
ぜ。お前よくもまあ、こんなもん吸う気になれるな?」
半ば放り投げるように水煙草の吸い口を机に戻すと、べえ、と舌を出した魔理沙がコーラの瓶を手に取ってそれを一気に飲み干した。
「……子供の吸うもんじゃ無いよ」
「へ、一端に大人ぶった事言いやがって」
最後の一滴まで残さずコーラを飲み干した魔理沙は空き瓶を机の上に置くと、帽子を取ってガリガリと音を立てて頭を掻いた。
湯呑を引き寄せて舌を湿らした僕は、微笑を口の端から零しながら、魔理沙を見た。
「――それで?」
「あ?」
「何か言いかけた様だったけど?」
「……何でもねーよ。ばーか」
魔理沙は僕を睨み付けた後に、両手で掴んだ帽子を、しっかりと顔を隠すように深く被った。
「煙のせいで胸糞悪くなったぜ。もう青林檎の香りは御免だ。こうしてみると、こんな甘ったるい臭いのする店に今まで居られた自分が奇跡だぜ」
僕に背を向けて、早口でそう捲し立てた魔理沙がツカツカと出口に向かった。
「今度は何か買って行ってくれよ。棺桶の中に入れても良いって物をさ」
僕の言葉に振り向きもせず魔理沙はドアノブを掴み、入口に立てかけていた箒を手に取った。
「――ただし、値札が付いてる物だけね」
「うるせえ! 馬鹿! ばーか!」
苦々しく吐き捨てると魔理沙は店を後にして、荒々しく扉を閉めた。
叩きつけられた扉の残響の後には静寂が訪れて、僕は魔理沙が戻した水煙草の吸い口を引き寄せると、ただ黙ってそれを咥えた。
もしかしたら後で魔理沙は、直前まで僕が口を付けていた事を思い出すかもしれない。
その後彼女がどう思うかは判らないが、少なくとも僕は気にしない。
「――人間は成長する……か」
まだ小さかった頃の魔理沙を、ふと思い出した。仕事をしている僕を見つけては、霖之助、霖之助、と呼び掛けて来た彼女の姿と、無邪気な笑みを。
時の経過を、僕は実感する。自分の身にさしたる変化が無いと、時間の感覚とは無縁になり、ただ変化のない毎日が連綿と続くという幻想に囚われてしまう。しかし、時間は間違いなく過去から未来へと足を止めることなく続いているのだ。
――なるほど、ならば僕には、魔理沙の保護者たる資格は無いらしい。
そんな事を思いながら、僕は口に咥えていた吸い口から、煙を吸い込んだ。
ポコポコと泡がガラスの中で立ち上り、僕の意識を心地よく微睡ませる一酸化炭素が肺を満たす。
魔理沙が飲み込んだ言葉と同様、その煙は冷たく、そして酷く甘ったるかった。
机の上に座ってボンヤリとコーラの瓶を傾けていた魔理沙が、ふと思い出した様な口ぶりで矢庭に僕の名前を呼ぶ。
「何だい?」
書面に目線を落としたまま、僕は曖昧な口調の返事をする。
妙に眠気が強く、身体が少し怠いのは水煙草の効能だろう。手入れは面倒極まるが、水煙草の吸い口に時折手を伸ばす甘美な時間は、その面倒を補ってなお余りある。肺に流入する冷たい煙。青林檎を思わせる甘い芳香。魔理沙はいつも、僕の喫煙を文字通り煙たがるが、僕は基本的にそれを無視する姿勢を崩しはしない。
「お前は、私よりも早く死ぬのか?」
魔理沙の異質な質問は、文字を追っていた僕の目を止めるには充分だった。顔を上げて、チラと魔理沙の方を見る。彼女は僕に背を向けたまま、こちらを向いてすらいなかった。
「……さてね」
ややあって、僕は肩を竦めながらそんな返事をする。肩を竦めた所で、僕の事を見ていない魔理沙に通じはしない。
「それじゃ、私の方がお前よりも早く死ぬのか?」
「未来の事を僕に聞いても、有益な答えを出してはやれないよ」
僕は無縁塚で拾った外からの本を閉じて、傍らに置いていた水煙草の吸い口を引き寄せる。どうにも、吸い過ぎたかも知れない。朦朧、とまでは行かないまでも意識は眼鏡を外した景色の様に霞んでいて、これ以上読書に集中することは出来なそうだった。
「紅魔館、知ってるよな?」
「お得意様が居るからね」
吸い口を唇に挟み、煙を吸い込む。ガラスの中で、水がポコポコと泡を浮かばせる。青林檎の香りの煙が僕の舌を滑り、肺を冷たく満たす。
「そこの図書館に居る魔女にな、『私が死んだら本を返してやる』っていつも言ってるんだ」
「別に、死ぬ前だって本は返せるだろう」
「不必要になる前に返すのは、非効率的だぜ。一々取りに行くのは面倒だ」
煙交じりに言った言葉に、魔理沙は尚も背を向けたまま肩を竦める。首を回して僕の顔を一瞥すると、また前を向き直ってコーラの瓶を傾けた。彼女がコーラを嚥下する音が、妙に大きく僕の鼓膜を震わせる。
「私が死んだら、きっとアイツは本を回収しに来るんだろうな?」
「そういう約束をしているんなら、それを守らない意味は無いだろう」
「つまり、私が死んでも、世界は回る」
そう言うと魔理沙はカタン、と音を立てて机の上にコーラを置く。まだ瓶の中には、ほんの少しだけコーラが残っていた。
「私が死んで、それでも世界は回って、いつしか私が居た事は忘れられる。私が居ない事が当たり前になっていく。何だか不公平だぜ」
「そうかい? 限りなく公平なように思えるけどね」
「香霖は考えないのかよ? 自分が死んだ後の事」
「そんな事は、死んでから考えればいいじゃないか」
「あの裁判長に裁かれる前じゃ、短すぎだぜ」
「つまり何かい? 君は、種族魔法使いになろうとしていると?」
「そうじゃないぜ。飲み込みの悪い奴だなぁ」
溜め息交じりに机から飛び降りると、魔理沙は両手を上げて大きく伸びをした。徐に柔軟を始める魔理沙の背中を、僕は水煙草の煙を吸い込みながら、ぼんやりと眺めた。
「仮に、だ」
棚に並ぶ品々を流し見ながら、魔理沙がゆっくりとした歩調で死角へと姿を消す。
「私が死んだとして、香霖。お前はどうする?」
棚の向こう側に、先端が折れている魔理沙の帽子だけが見える。溜め息に乗せて、僕は甘ったるい香りの煙を吐き出した。
「――君位の歳の人間が心配する様な事柄じゃないと思うんだけどね」
「話を逸らすなよ。仮に、って言ってるだろ」
僕の思惑は、あっさりと看過されてしまった。
棚の向こう側で、魔理沙が唇を尖らしている様が目に浮かぶようだった。自分の望む質問の答えが得られるまで、絶対に諦めない時の強情な口調だ。やれやれ、と僕は水煙草の吸い口を机の上に置く。
「そりゃあ、葬式に出るだろうね」
「葬式、か……」
フン、と鼻を鳴らした魔理沙が、どこか可笑しそうに僕の言葉を反芻する。
不意に僕の脳裏に、棺に横たわる魔理沙の姿が浮かんだ。
敷き詰められた花の上で手を組んで目を閉じたままの魔理沙の姿は、今現在の魔理沙の物だった。白装束ですらない、いつもの黒と白の衣装を身に纏った、少女のままの魔理沙。
その幻像は、きっと未来の幻視ではない。
そう思うと僕は、妙に可笑しくなって鼻を鳴らす。
魔理沙は人間だ。成長するし、その後には老いが待っている。死するその瞬間まで、今の姿を保っていられる訳がない。存外、僕の想像力は逞しくないのだ、と認識したから、その事が自嘲的な笑いを僕にもたらしたのだ。
「葬式に出るよりも前に、私の家の後始末でもお願いしたいんだがな」
取るに足らない空想に耽っていた僕を、魔理沙のあっけらかんとした声が揺り戻す。
「君の家、かい?」
彼女の家を思い返そうとして霧雨の親父さんの家を一瞬想起しかけた僕は、それを魔理沙に悟られないように首を横に振る。
そう言えば遠目から何度か確認したくらいで、僕は彼女の住む家に上がったことが無いな、と僕は今更のように思い出す。
足の踏み場も無いほど散らかっていると専らの噂だ。そんな家の後始末を頼まれたところで、雑多なガラクタの山を前に途方に暮れる自分の姿しか想像できなかった。
僕の店の中だって、人の事を言えた義理では無いだろうが。
「そうだな……私がメモった魔術書の類は、あの世でも読みたいから捨てないでくれ。鍋やら瓶やらの魔法の実験道具は、欲しい奴が居たら譲ってやってもいい。階段の下の物置にブチ込んである物は好きにしろ。あそこに入れるのは使えない物だけ、と決めてるんだ」
「使えないなら捨てれば良いだろう?」
「それじゃ、ここいらのガラクタ共は全部捨てるべきだな」
棚の品物でも手に取っているのか、魔理沙は間髪入れずにそんな嫌味を返す。
「売り物を捨てちゃ利益が得られないじゃないか」
「良く言うぜ。巣でもあるんじゃねーかってくらいに、いつも閑古鳥が鳴いてる店の癖に。と、アレだな……ベッド脇で山になってる本の類は、パチュリーに持って帰られる前に出来れば確保しといてくれ」
「返すんじゃなかったのかい?」
「略奪された物に関しちゃ私の責任の範囲外だ。その時には私は死んでるんだしな。
死人にゃお前から取り返す義務も発生しないだろうしな」
死後もとことん嫌がらせをするつもりか、と僕は溜め息を吐く。
紅魔館にある図書館の主に逢った事は無いが、魔理沙の泥棒癖に頭を悩ます同志として、心底同情したい気分だ。ただ、向こうは昔の魔理沙を知らない分、沸点は僕よりもウンと低いに違いないだろうから、一概に同志とは言えないかもしれない。
「そしたら僕が被害に合うじゃないか。荒々しく取り返されるのも御免だし、火事場泥棒扱いをされるのも御免だね」
「たまには運動しろ。弾幕ごっこは良い汗かけるぜ」
「僕の専門じゃないね」
意味が無いと知りつつも、僕は肩を竦めて吸い口を引き寄せる。身に染みついた癖という奴は、無意味であると判っていても反射的にやってしまう類の代物だ。
「大体、突然そんな事を言い出した理由が判らないね」
「単なる思いつきに理由を求めるとはな。お前も大した合理主義者だ」
「そりゃどうも」
「仮にお前が先に死んだら、この店のもんは全部貰っといてやるぜ」
「それは、ありがたい申し出だ」
ワザと皮肉っぽく聞こえる様に言った僕の台詞に、魔理沙はフン、と楽しんでいるみたいに鼻を鳴らす。
「それにしても、葬式か……私の葬式……どんな風なんだろうな」
「鬼が笑い死にする位に先の話じゃないか」
「案外鬼ってのは簡単に殺せちまうもんなんだな。今度萃香にでも試してみる事にするぜ」
魔理沙はそう言うと、棚の向こうで面白そうに一人でケラケラと笑った。
勝手に反応を思い浮かべて、その他愛ない悪戯が成功した様子でも想像しているのだろうが、取らぬ狸も良い所だ。実際に先の事を語った所で、キョトンとされるか鼻で笑われるくらいが関の山な気がする。
「ところで、棺桶には、故人が好きだった物を入れるんだってな?」
店の入り口に近い所の棚から、無事死なずに笑い終えたらしい魔理沙の声がした。
「そうだね。燃え残らない物なら」
「それなら、さっき言った魔術書は残らずブチ込んで欲しいな。後、彼岸に行く最中小腹が空いたら困るから、アリスに頼んでクッキーの生地を入れといてくれ。そしたら、向こうに着く頃には焼きたてのクッキーが食えるだろ?」
「焦げなきゃいいね」
「仮に焦げてても、病気になる心配をしなくていいから気楽なもんさ」
「炭化したクッキーで満足できるのかい?」
「不味かったら捨てりゃいい」
「手向けに作った物を捨てられるとは、不憫な話だ」
「捨てたかどうかは、アイツには判りゃしないさ。重要なのは、私が好きなものを、棺桶の中に入れてくれたって事実だけだ」
陽気に言ってのける魔理沙を余所に、僕はすっかり冷めてしまっていた緑茶を啜ってから、椅子に深く腰掛けてボンヤリと天井を眺める。そこにはまだ、先ほど吐いた煙が残留して、微かに漂っていた。
不謹慎な話題は、それほど好きではない。
まだ子供の魔理沙が、自分の死後の事を面白がって話す様は、本来ならば正すべき事柄なのだろう、とは思う。少なくとも、まだ彼女が勘当される前の霧雨の親父さんがこんな話をしている所を見たら、魔理沙だけでなく僕も叱責するだろう。その程度には、この話題は不謹慎だ。
だが、僕は彼女を正そうとは思わなかった。
それまでの経緯がどうであれ、彼女は既に家を出て独り立ちをしている。年齢こそ、 未だ少女の域を出る事は無いが、それでも魔理沙は、誰かの保護下にないと生きていけない人間ではない。
保護者面をするならば、最初から僕は魔理沙の自活を許しはしない。
でも、僕は魔理沙の保護者ではない。
それを自称したら、きっと魔理沙は酷く怒るだろう。
毎日の食事や、寝床、勉学。
それらを提供している訳でもないのに保護者然とした意見を述べるのは、自分の力で生きている彼女に対する侮辱でもある。余りにも分を弁えない行動をすれば、多少の小言は言うかもしれないが、少なくともこの程度では小言には値しないだろう。
彼女の生存に関する義務を熟していない僕には、既に形成された彼女の自我に大きく踏み込む権利なんてない。僕は余り能動的な人間ではないから、彼女の機嫌を損ねてまで小言を述べる気にもなれなかった。
「――なぁ、香霖」
その魔理沙の声が僕の目の前で発せられた事に気付き、僕は少々面食らった。
「……何だい?」
身体を戻す際にずり落ちた眼鏡を元の位置に戻しながら、僕は彼女に相対する。
魔理沙の表情は黒く、大きい帽子のつばに隠されて、口元しか窺うことが出来なかった。
まだ紅も知らない唇。それは今、何やら深刻げに真一文字のまま紡がれている。
「もし、さ」
だらり、と力なく垂らされていた右手が帽子を掴み、それを更に目深に引き下ろす。 右手はそのままつばを掴んだままで、唯一見えていた彼女の顔の部位さえも、右手に隠れて見えなくなった。
「――もし、嫌じゃなかったら……」
空気が、妙にピリピリとした。
不可視不可触の気体は今、どうしてか棘を持ったように鋭さを増す。
僕の脳裏には、何の言葉も浮かびはしなかった。言い淀む魔理沙の言葉の先を促す軽々しい台詞さえも、口に出すことが躊躇われる。
唐突に喉の渇きを覚えて、しかし緑茶に目線をやる事すら出来ず、音を立てないように僕は唾を嚥下した。
「お前が――」
呼吸が無意識に止まり息苦しさを覚えた――途端、魔理沙はいきなり、水煙草の吸い口に手を伸ばした。
それは獲物に飛び掛かる獣のような速度で、呆気にとられた僕が静止する暇もなく、彼女は思い切り水煙草の煙を吸い込む。
言いかけた言葉を、無理矢理に飲み込んでしまう様に。
「……ぶほっ、げほっけほ……!」
「な、何してるんだ君は」
「――あー……嫌に甘ったるい空気だなこりゃ。肺が締め付けられるみたいだった
ぜ。お前よくもまあ、こんなもん吸う気になれるな?」
半ば放り投げるように水煙草の吸い口を机に戻すと、べえ、と舌を出した魔理沙がコーラの瓶を手に取ってそれを一気に飲み干した。
「……子供の吸うもんじゃ無いよ」
「へ、一端に大人ぶった事言いやがって」
最後の一滴まで残さずコーラを飲み干した魔理沙は空き瓶を机の上に置くと、帽子を取ってガリガリと音を立てて頭を掻いた。
湯呑を引き寄せて舌を湿らした僕は、微笑を口の端から零しながら、魔理沙を見た。
「――それで?」
「あ?」
「何か言いかけた様だったけど?」
「……何でもねーよ。ばーか」
魔理沙は僕を睨み付けた後に、両手で掴んだ帽子を、しっかりと顔を隠すように深く被った。
「煙のせいで胸糞悪くなったぜ。もう青林檎の香りは御免だ。こうしてみると、こんな甘ったるい臭いのする店に今まで居られた自分が奇跡だぜ」
僕に背を向けて、早口でそう捲し立てた魔理沙がツカツカと出口に向かった。
「今度は何か買って行ってくれよ。棺桶の中に入れても良いって物をさ」
僕の言葉に振り向きもせず魔理沙はドアノブを掴み、入口に立てかけていた箒を手に取った。
「――ただし、値札が付いてる物だけね」
「うるせえ! 馬鹿! ばーか!」
苦々しく吐き捨てると魔理沙は店を後にして、荒々しく扉を閉めた。
叩きつけられた扉の残響の後には静寂が訪れて、僕は魔理沙が戻した水煙草の吸い口を引き寄せると、ただ黙ってそれを咥えた。
もしかしたら後で魔理沙は、直前まで僕が口を付けていた事を思い出すかもしれない。
その後彼女がどう思うかは判らないが、少なくとも僕は気にしない。
「――人間は成長する……か」
まだ小さかった頃の魔理沙を、ふと思い出した。仕事をしている僕を見つけては、霖之助、霖之助、と呼び掛けて来た彼女の姿と、無邪気な笑みを。
時の経過を、僕は実感する。自分の身にさしたる変化が無いと、時間の感覚とは無縁になり、ただ変化のない毎日が連綿と続くという幻想に囚われてしまう。しかし、時間は間違いなく過去から未来へと足を止めることなく続いているのだ。
――なるほど、ならば僕には、魔理沙の保護者たる資格は無いらしい。
そんな事を思いながら、僕は口に咥えていた吸い口から、煙を吸い込んだ。
ポコポコと泡がガラスの中で立ち上り、僕の意識を心地よく微睡ませる一酸化炭素が肺を満たす。
魔理沙が飲み込んだ言葉と同様、その煙は冷たく、そして酷く甘ったるかった。