石造りの城には窓は少なく、内部は薄暗く湿っていた。壮年の男について行く私を城内の衛兵たちは怪訝な顔で見つめた。彼を追うまま廊下を抜け、庭を通り、狭い階段を登ると私は塔の頂上の小部屋へと案内された。
「自己紹介が遅れ、申し訳なかった。私の名はヴラド、この土地ワラキアの公だ」
彼の容姿は驚くほど美しいわけではなかったが、彼の穏やかながら芯の通った言葉や優雅な立居振舞いはとても残虐であるというドラキュラ公と同じ人物だとは思えず、私は少なからず好感を覚えた。だが同時にぎょろりと大きく見開かれた彼の双眸は、私に何かただならぬものを感じさせた。
「こちらこそ、名乗りもせずに行った突然の訪問をお許し下さい。私の名はレミリア、そして父は…」
私は父の領地と名を彼に告げた。
「やはりそなたは、あの騎士の娘であったか。その珍しい名はそなたが生まれたという報告を聞いた時からよく覚えておる。顔に父の面影がよく残っておるな。あのようなことになってしまって、誠に残念であった。だがそなたの父は最後まで立派であったぞ」
「お褒めの言葉をいただき、誠にありがたく思います」
「その姿を見れば、私のもとへその小さな身一つでやってきた理由は分かる。だが安心したまえ、私に従う限り、そなたの安全は保証しよう。それがそなたの父との最後の約束だった。長旅ご苦労であった。今はゆっくりと休んでくれたまえ」
そう言うとヴラド公は扉を閉め、狭い階段を降りていった。
部屋は狭くやや薄暗いながらも机や椅子、寝台といった一応の調度品は揃っており、少なくともこの二日間歩き続けた外界の環境に比べれば格段に快適であった。極限状態から脱した私は疲れを思い出し、寝台に身を横たえた。かつての自室の寝台とは違う枕の高さや毛布の肌触りは多少気にはなったが、疲労はそのようなことに構うことはなく私のまぶたを強引に押し下げ、私を夢の世界に追いやった。
私は食卓に座っており、視線を上げるとそこには復活大祭のときのような豪華な食事があった。それを見ると思わず私は空腹を感じ、食事を口にし始めた。食欲の従うまま料理を口に運びつづけているうちに、私は口内に違和感を覚えた。手にしていた料理に目を向けるとそれは血の滴る生の肉に変わっており、私の口と服は真っ赤に染まっていた。
私は叫び声を上げ、寝台から身を起こした。悪夢が終われば目の前には豪華な食事も血まみれの生肉もなく、ただ静寂だけが小さな部屋を支配していた。すでに陽は傾き、部屋の小さな窓からは山吹色の日差しが差し込んでいた。
「お目覚めですか?随分とうなされていたようでしたが」
声の方に目を向けると、一人の女性が寝台のそばに立っているのに気づいた。
「ヴラド様の命で、貴女のお世話をさせていただくことになりました、どうぞよろしくお願い致します。替えのお召し物が届いておりますので、すぐにお持ちいたしますね」
服を袖に通されながら、私は彼女に尋ねた。
「あなた、ヴラド公のことはよく知っているの?」
「全てというわけではありませんが、普段は殿下の小間使いをさせていただいていますのである程度なら」
「どういう人なのか、少し教えてくれないかしら」
「どういう人、と言われましても…。城の中では私どものようなものにも寛大に接してくださる、素晴らしい方です。それに戦場では誰よりも勇敢であるとの評判です、ただあの方は生活習慣が多少私共と異なるのでそれは不思議なところではありますが」
「生活習慣?」
「ええ、普段は日の昇る頃にお休みになって、日の沈む頃になってお目覚めになるのです。長い戦の中で、夜襲を仕掛けることも多かったそうですから、恐らくはその時の癖が抜けきっていないのでしょうけれど」
「確かに、衛兵がそんなことを言っていたわね。やっぱり、あの方は不思議な人ね」
不思議、というよりは奇妙といったほうが正しかった。父が語り、手紙に書いたヴラド公、屋敷を襲った男や野盗たちが口にしていたドラキュラ公、見ず知らずの私の顔を見ただけで自身の居城に引き入れ部屋を貸し、子供と軽んずることなく礼を持って対応したこの土地の公、そしてこの女中が語る主人、同一人物であるはずのこの四者を総合すればするほど、彼の本当の正体というものが分からなくなっていった。
「やっぱり、というのは?」
「いいえ、何でもない、ただの言い間違いよ。忘れて頂戴」
「…承知いたしました。食事の準備ができておりますので、こちらへお持ちいたしますね」
運ばれてきた二日ぶりの食事は一国の公が振る舞うだけはあり、屋敷では考えられないほどの豪華で美味なものであった。だが安全を確保し、休息を取り、飢えを満たして基本的な悩みから開放された頭は、これまでほんの少しの間忘れていた家族への思いで満たされた。
昼の間に十分眠っていたことも手伝って、一人で横になっていると召使たちや両親のことを考えてしまい、真夜中になっても眠ることはできなかった。
私は寝台から起き上がった。どうせ寝付けないのであれば気分転換に城内の散歩でもしてみようと思い、部屋の扉を開け、塔を降りた。
中庭に出て空を見上げると、満月の翌日とはいえ、少し傾いた月には昨日と変わらないほどの明るさと大きさがあった。月明かりに照らされる石造りの城は荘厳であり、幻想的であった。空と城とを眺めながら歩いていると、突然一人の男の声が聞こえた。
「どうした、眠れないのか」
驚き振り返るとそこにはヴラド公が従者を携えることもなく立っていた。暗がりで彼の姿ははっきりとは見えなかった。しかしその芯の通った声と、月光を反射して輝く威圧的とも言える両目は私に彼がヴラド公であると即座に確信させた。
だがかねてより抱いていた掴みどころのない彼への不信感に加え、あまりにも唐突すぎた対面は私に少なからず恐怖感を呼び起こした。
「はい、そうでございます。夜分にご迷惑をかけたようでしたら申し訳ございません」
「何、私とて単に散歩をしていただけだ。気にすることはない。それにあのような悲劇の後だ。眠れないのも無理はない」
ヴラド公は朝と変わらない穏やかな声で、そう言った。
「いいえ、今はもう過ぎたこと、仕方のない事でございます」
半ば自分に言い聞かせるように、私はそう答えた。
「とはいえ、まだ幼いその身にかかる不幸としてはあまりにも大きすぎただろう」
「…母は、どのような事があっても貴族として生まれてきた以上、生き抜いていかなければならないことがあると申しておりました」
「そなたは強いのだな」
「ええ、もはや父母がいなくなった以上、私こそが我が家の当主なのですから」
「そうか、家の当主、か」
ヴラド公は噛み締めるように私の言葉を繰り返した。
「平時であればそなたのような幼き当主を補佐する人材をあてがうことも出来ただろう、だがこの乱世には残念ながらそうもいかない」
「いえ、このように匿っていただけるだけでもありがたく思います」
「そうか、だが私としては心苦しさが拭えないのだ。そもそもこの戦を起こしたのもこの国を異教の支配から開放し安定させ、我らキリスト教徒が安心して暮らせる土地を作るためだった。そなたのような幼くか弱い女児も、何一つ怯えるものもなく健やかに育つことの出来る国を作るためであった。だがどうであろう、現実はこの通りだ」
思いがけず始まった彼の懺悔に、恐怖に怯える私は肩をすかされたような気がした。
「しかし、異教徒には勝利を収めたではありませんか」
「そうだ、異教徒には勝つことは出来た。だがその事ばかりを考えすぎた。異教徒に勝つことはあくまで信仰を守るための手段に過ぎなかったはずだ。しかし勝つことに拘泥するあまり、いつの間にかそれこそが目的となってしまったのだ。そうなれば次は異教徒に勝つために手段を選ばなくなっていった。異教徒に大きく劣る兵力を補うために、私は恐怖を用いた。異教徒たち、そして法に従わない者は貴族ですら串刺しにし、城門で晒し者にした。あえて残虐な様子を内外に示すことで、敵の戦意を削ごうと考えたのだ。そして私の渾名、ドラキュラは恐怖を持って知られ、語られる名となった」
私は彼の話に聞き入りつつあったが、その最中に発せられたドラキュラという言葉を聞いた瞬間、半ば反射的に私は後ずさった。
「そう、まさに今のそなたの反応のようにな。もちろん、こうなることこそが私の目的であった。恐怖で部下をまとめ上げ、異教徒たちを追い払うこと。私は国と信仰のために人ならざる者となる覚悟はあった。いくら私の名が汚されようと、いくらこの非道な行いが私の死後裁きに遭う原因となっても、私一人だけの犠牲でこの国を異教徒から守ることさえ出来ればそれで良い。そう考えていた。だが、この考えは独りよがりすぎたようだ。あまりにも厳しすぎる刑罰が貴族たちの離反を招いたらしい。彼らは厳格な私の支配よりも、異教徒の支配を望んだのだ。彼らは異教徒の力を借りて私の弟を担ぎ出し、反旗を翻した。そう、私はキリスト教徒のために戦っていたはずが、他でもないキリスト教徒に裏切られたのだ。しかしそれも元はといえば私が撒いた種だ。そしてそのために私に従ってくれた忠実な部下たちの命を多く失い、ひいてはそなたのような者にまで多大なる損害を及ぼしてしまった。迷惑をかけたのは私の方だ。…話が長くなって申し訳なかった。だが我が国の貴族の当主として、そなたに私の釈明を聞いて欲しかったのだ」
穏やかな口調で語られる彼の話を聞いているうちに、私の眼前のドラキュラ公に対する恐怖心は消えていた。
「いいえ、過ぎたことよりも、未来の事をお考え下さい。それでこそ、死んだ父も救われるというものです」
「そうか、その忠告を受け入れることとしよう。では私は執務に戻る。良い夜を過ごし給え」
そう言うと、彼は屋内へと戻っていった。
私も塔の小部屋に戻り、再び寝台の中に身体を潜らせ、物思いにふけった。彼との面会と対話、と言ってもほぼ彼の独白だったが、を通して父の言っていたヴラド公の魅力は私も感じ取ることができた。
彼の声色で語られる言葉は不思議な説得力を持ち、またその言葉の裏には彼の硬く強い信念があった。しかしながらその魅力は直接顔を見合わせて話を聞かねば分かることのない魅力であった。優美な口調は決して大多数に向ける演説には向いたものではなく、むしろ聞き手と離れてしまえば彼の血走りがちな不気味な眼差しはその柔和な口調と不調和を来した。
彼も自身の魅力だけでは多くの臣下を惹きつけておくことは出来ないと自覚していたはずだ。そのため彼は恐怖をもってそれを補おうとしたのであろう。そして彼の言うようにそれは逆効果となり、このような事態に至ったのだろう。
彼は一国の主としてはあまりに不器用すぎたのだ。だがその不器用さは心なしか私に最後の愛情表現までぎこちなかった父を思い出させた。
翌日から再び私に平穏の日々が訪れた。かつて屋敷にいた時のように、何もせずとも女中は私を着替えさせてくれ、私が望んだものを持って来てくれた。朝と晩の食事はヴラド公と共に摂ることが許され、彼との穏やかな談笑に花を咲かせることもできた。
青臭い草の上で眠る必要もなければ、長い砂利道を自力で歩く必要も、私を狙う追手を恐れる必要もなかった。私の過ごしていた部屋と食堂には外の世界の戦乱の影はなく、私は自分を保護してくれているヴラド公が異教徒の手を借りた貴族達の反乱によって劣勢に立たされていることなどを忘れかけていた。もちろん、そのような平穏は長く続くはずもなかった。
夜の面会から十日ほどした日の夕食の後に、ヴラド公は私を呼び出した。
「実は、明日から城を離れることとなった。そのため、しばしの別れをと思いそなたを呼んだのだ」
「戦でございますか」
目を背けていた現実を突きつけられた気がし、私は慄然とした。
「ああ、だが直接異教徒と戦いに行くわけではない。いくら神がお守りくださるだろうとはいえ、その兵力の差はあまりにも歴然だ」
「ではどうしようというのです」
「同じキリスト教の信仰を持つ隣国に助力を求めに行こうと思うのだ」
「隣国とおっしゃいますと、ハンガリーでございますか」
「そうだ。同じキリスト教を奉ずる国同士、異教徒と戦うためならば団結することができるはずだ」
「しかしながら同じ信仰を持つとはいえ、彼の国は異端を奉じているではありませんか」
「だが、異端と呼ばれるような原因は些細な典礼様式の差に過ぎない。異教徒という強大な共通の敵の前ではそのようなことなど関係ないはずだ」
「しかし私にはそうは思えないのです。私には何か、嫌な予感がするのです。あの国以外に、正当な信仰を持つ国に助力を頼むことは出来ないのですか」
そう言いながら私は屋敷へと略奪者の集団が向かってくるのを見ていた時と同じ、不吉な胸騒ぎを感じていた。
「残念ながらギリシアの帝国は既に異教徒の手に落ち、遥か北の正しき教えを守るルーシ達も我らに援軍を送ることは難しいだろう。やはりあの国に頼るしかないのだ」
「どうしても、行かなければなりませんか」
「そなたの不安は分かる。あの国も内政問題に追われており、信仰のためといえどなるべく戦争はしたくないだろうということは私とて知っておる。だがここへ留まっていてもどうなるというのだ。我が国だけではこれ以上兵力を立て直すことなど出来はしない。黙って何もせずこの国が異教徒の手に落ちるのを見ておれというのか?私は少しでも可能性があるほうを信じてみたいのだ。もしそれが叶わぬとなれば、それもまた運命であろう」
「でも、運命などという言葉を私は信じたくはありません!そのようなもので、殿下のお命を危険に晒させたくはございません!」
彼の言った「運命」という言葉に、私はつい強い口調で反論した。
「おや、いつになく厳しい口を聞くものだな。とはいえ天の運行の前では我らは無力なものではないか。この世では何の前触れもなく不幸が訪れることがある。最愛の者を一瞬で失うこともあれば、自らの命とて朝露のごとく消えてしまうこともあるだろう。その時、そうなった原因は自分にあると思うよりも、運命がそうさせたと考えたほうが気楽ではないか。それに、正しく信仰を持つ者を迎え入れる主の待つ来世の千年王国を思えば、儚いこの世のことなど瑣末なことではないか。もちろん、私はそのような所に受け入れてもらえるかは分からないがな」
彼の言葉は私を安心させようとするものだったのだろう。そして同時に、それは彼自身を慰めるためのものであったようにも思えた。
「いいえ、それでも私はこの世が儚いとは思いませんし、運命によって人生が決められているなどということは考えたくはないのです。私は人生の中で何があろうと、どれほどの艱難辛苦が待っていようとそれに抗って生き抜いていきたいのです。ゆえに殿下も、どうかそのような弱気なことを仰らないで下さい」
それが私の、母の言葉を受け、二日間外の世界を体験した後に得た答だった。一度は「母とともに死ぬ」などとは口にしたが、死の恐怖を存分に味わった後ではそのようなことはもう言えなかった。生きてさえいれば、その生の中から幸福を見つけ出すことが出来ると私は信じた。
「いや、私のことなどはどうでも良い。…だがそなたは、何があろうと生き抜いて行きたいと申したな」
少し改まった様子で、ヴラド公はそう言った。
「はい、その通りにございます」
思わず私はたじろいだが、「死にたい」とも取れるような言葉を私はもう認めたくはなかった。
「その言葉に、嘘偽りはないと誓えるか、自分の意志で言った言葉だと誓えるか」
前の質問にも増して、強い口調で彼は尋ねた。その様子は半ば脅すようですらあった。
「神に誓って、嘘偽りなどございません」
私の信念に、曇りはなかった。
「ふむ、そうか。ではそなたにこれを別れの前に渡そう」
そう言うと彼は私の手のひらほどの大きさをしたガラス製の小瓶を懐から取り出し、私に手渡した。夕暮れ空のようなガラスの群青色を透かして、わずかばかり粘度のある液体が中に入っているのが見て取れた。
「もしその身にこれ以上とない危険が訪れた時は、その瓶の中身を飲むが良い。必ずやそなたを窮地から救ってくれるはずだ。だが一度それを口にすれば、もう二度とこれまでのような人生を送ることは出来ないと思え。何があっても生きていきたい、その言葉が生半可な覚悟から出たものならば、これを飲めば必ずや後悔することだろう」
「神に誓ったのです、二言はありません」
「ならばこれで別れの挨拶は終わりだ。もう夜も更けた、ゆっくり休むとよい」
「では、失礼致します。殿下」
翌日の早朝、ヴラド公は兵士たちを連れ、トゥルゴヴィシュテを発った。彼に付き従う男たちの数は父の連れて行ったそれと同程度であり、小国とはいえ一国を率いる君主の軍勢としてはあまりにも小規模であることは幼い私にも明白であった。だが総大将の地位を誇示するように彼専用の日傘が据え付けられた馬は、その姿を地平線に消すまで私の視界に残り続けた。
ヴラド公が去ってから、かりそめの平穏が崩れ去るのにはそう時間はかからなかった。彼の出立からひと月と少しの日が過ぎた時、その日は訪れた。
食堂で夕食を済ませ、塔の小部屋へと一人で戻っていくさなか、私は城外から聞こえてくる不気味な喇叭と太鼓の旋律を聞いた。部屋に入り、小窓を除くと、父の随伴や屋敷の襲撃者たちとは比べ物にならないほど夕陽に照らされた大勢の兵士たちがゆっくりと向かってくるのが見て取れた。
ヴラド公が無事ハンガリーから援軍を連れ帰ってきたわけではないことは、その集団の異様な様子から一目瞭然であった。群衆の中にはためく三日月の紋章は、まごうことなき異教徒たちの旗印そのものであった。
私はあの悪夢の再現かと思わず息を呑んだ。しかし屋敷とは違い、この城にはまだ留守を預かる兵士と武器は残されていたし、それに何よりこの街は城壁によって守られていた。
いくらあれほどの軍勢とはいえ、この高い石壁をそう易々とは乗り越えることは出来ないはず、その間にヴラド公が同盟軍を引き連れてあの異教徒たちを打ち払ってくれるはずだと考えようとしたし、それ以外に出来る事などあるはずもなかった。
だがその望みも、一発の轟音で消え失せた。敵軍の何頭もの牛によって引かれた大きな鉄の筒から燃え上がる火とともに放たれた落雷を思わせるようなその音が聞こえた数秒の後、部屋中に地震のような衝撃が走った。一体何が起きたのかはすぐには分からなかったが、ふと気がつくとこの街と城を守ってくれるはずの高く硬い城壁が崩れかかっているのが見て取れた。
その轟音と城壁を破壊したものの正体が敵の新兵器であると分かった時、私はようやく戦慄を覚えた。再びあの兵器を動かすことはすぐには出来ないようではあったが、あの悪魔のような武器の前では、城壁など無意味であることくらいは簡単に想像できた。
この場所から一刻でも早く逃げ出さなければ、敵の餌食になることは分かっていたが、逃げ出す場所などはもはや何処にも残されてはいなかった。敵軍は迅速に街はねずみ一匹逃すことはできないほど隙間のない包囲を完成させ、城壁の崩れ落ちる時を今か今かと待っていた。恐怖を煽る喇叭と太鼓の旋律は四方八方から止むことなく鳴り響いた。
既に太陽は沈み、空は藍色に変わっていたが、彼らの攻撃と演奏は止む気配はなかった。再び轟音が響き、建物に衝撃が走った。その時、一人の兵士の悲痛な叫びが私の耳に飛び込んだ。
「ああ、城壁が、城壁が破られた!」
その声に呼応するかのように、街の東西南北すべての方向から鬨の声が上がり、不気味な喇叭の旋律はより一層その速度を増した。数千もの男達が一斉にその崩れた城壁へと駆け出し、踏みならされる足音は彼らの奇妙な軍歌をより恐ろしいものへと変えた。しばらくして耳をつんざくような破裂音の連発と男達の微かな悲鳴が聞こえたかと思うと、その音は金属のぶつかる高周波のものへと変わった。そしてその戦闘の音は、着実に私のいる塔の小部屋へと近づいてきていた。
その時、塔の下から女中の声が聞こえた。
「お嬢様、敵がもうそこまで来ております!早くお逃げ…」
彼女の言葉は最後まで届かないうちに途切れ、早口の異国の男の言葉がその後を継いだ。彼が何を言ったのかは全く理解できなかったが、私の居場所が彼らに知られてしまったということは明白であった。
私は大急ぎで部屋の扉の閂を閉めたが、それは所詮姑息なことでしかないことぐらいは分かっていた。敵兵達は驚くべき速さで塔の螺旋階段を駆け登ると、扉の前に辿り着いた。
彼らは何かを異国語で言ったが、その意味は私に理解できるはずもなかった。彼らは扉が開かないことが分かると、扉に体当たりをかけて無理矢理にでもこじ開けようとした。
屋敷の私室とは異なり、いくら探しまわってもこの部屋には隠された外へと繋がる通路などというものは存在しなかった。そうして私が僅かな希望を探し求めている間にも、扉の閂は今まさに破壊されようとしていた。あれが破られてしまった時は、今度こそ私の最後だろうということは知っていた。教会で訪れたような幸運は、この短期間で二度も起こるはずはないことなど十分に承知していた。
万事休すかと思えたその時、私はヴラド公が別れ際に手渡した小瓶のことを思い出した。
机の上に大事に置いておいたそれを掴み、私は彼の言葉を思い出した。「これを飲めば、窮地から救われる。だがそうすればこれまでのような人生を送ることは出来ない」と。
とはいえ、これまでのような人生とは一体どういうことであろう?身分相応の広い屋敷に住み、家事は召使いたちに任せ、穏やかに生きていく生活のことであろうか?だが私はこれまでの人生を共にした屋敷を失い、召使を失い、両親も失った。
新たに頼ることのできると思えたヴラド公も異国へと向かい、新たに落ち着くことができると思えたこの城は今や襲撃の憂き目に会っている。ここを万が一にも抜け出すことはできても、彼を頼ってハンガリーへ向かうなど到底不可能だ。
だとしたらいずれにせよ「これまでのような人生」はこれを飲まずとも崩壊しているではないか!一体これを飲めば何が起こるのかは分からないが、生きてさえいられるならばもうどうなっても構わない。そう思い、私は瓶の蓋を開け、一気にその中身を飲み干した。中身の液体の味は、わずかに鉄のそれに似ていた。
私が瓶の中身を飲み干した瞬間、目の前の扉は閂とともに破壊され、数人の異国様の鮮やかな服を着た男たちが現れた。彼らの手には槌とも槍ともつかない金属製の筒が握られており、腰には屈曲した独特の形状の刀を下げていた。彼らは私の姿を認めると、私には分からない言葉で何かを言いつつ、私に手を伸ばした。彼らに言い知れないほどの恐怖を覚えたその瞬間、私の中で何かの鼓動を感じた。
その鼓動で私は突如として理性さえ吹き飛ばしてしまいそうな猛烈な渇きを覚えた。だが何ゆえかその無尽蔵の渇きは水ではなく、目の前の異国の男を求めた。私はほぼ無意識に差し伸べられた彼の手を引き、その反動を用いて彼の首筋へと飛びかかった。そして本能のおもむくままに、彼の血管へと犬歯を突き立て、溢れ出る血液で口を満たした。
そのあまりにも異常すぎる光景に、他の兵士たちまでもがその動きを止めたように思えた。流れ出る血に本能の渇きを癒し、理性が戻ったとき、私は血の海の中にいることに気づいた。私の食い破った血管からは多量の動脈血が溢れ出し、私の口だけではなく服までも染め、それでも余りある血液は地面へと流れ広がった。
気を動転させながらゆっくりと頭をあげると、それまで私を取り囲んでいた異国の男たちは恐怖に怯え一目散に塔から逃げ出した。私も自分がやってしまったことの恐ろしさに気づき、哀れな男をそこに残して、その小部屋から逃げるように塔を駆け下りた。
いまだ多くの兵士が戦う城内を、私は全速力で駆け抜けた。敵兵も私の血みどろの姿を見て圧倒されたのか、私に襲い掛かってくることはなかった。
そのまま城を抜け、街を抜け、私は野を走り続けた。どこに行くというあてもなかったが、ただあの自分のやってしまった行為の恐ろしさを忘れようと、ただがむしゃらに走ることしかできなかった。
しかし私がいくら勢い良く走っても、全く疲労が襲ってこないどころか息が乱れることすらなかった。そしてその速さも稀代の名馬に乗っているようにすら感じられ、疲れのない軽やかな足取りはまるで背中に羽が生えたようで、今地面を少し強く蹴ればこの夜空に羽ばたいていけるのではないかという気さえした。
だが、東の空が白み、夜が明け始めた時に私はもうひとつの身体の異変に気づいた。かつては爽やかにも感じられたはずの朝の光はその時の私には信じられないほどの眩しさを持って感じられ、むしろその眩しさは苦痛と称すべき程のものであった。トゥルゴヴィシュテからどれほど走ったのかは分からないが、ちょうど近くにあった、集落から少し離れた場所にあった石造りの大きな館に、私は突き刺さる陽の光から逃げるために転がり込んだ。
最低限の礼儀をと思い私は入り口で人を呼んだが、それに答える声はなかった。返事を待つ間に晒される光に耐え切れず館に入ると、その理由はすぐに分かった。玄関間にはこの家の住人だったと思われる者たちの死体が転がっていたのだ。
死体からは服が剥ぎ取られ、どれが主人なのか、どれが使用人なのかはもはや分からなかったが、いずれも死後そう時間が経っていないようであり、おそらくはトゥルゴヴィシュテと同時にあの反乱軍と異教徒たちの犠牲になったのだろうということは分かった。
私は彼らに哀悼の念を捧げ、念のため生存者がいないかどうかを確かめるために館を調べはじめた。
とある部屋の近くまで辿り着いた時、開いた扉の向こうから物音が聞こえた。恐る恐る近づくと、中には一人の男が引き出しの中を探っているのが見て取れた。生存者がいたことに心なしか安堵し、私はその男に声をかけた。
「あの、すみません、ご無事でしょうか?」
男は私の声に少し跳ね上がると、慌てた様子で私の方を振り向いた。そして私の姿を認めると、その表情には恐怖の色が現れた。彼の顔色で自分の血に染められた服装を思い出した私は、その釈明をしようと急いで言葉を継ごうとした。
だが恐れで我を失った男は私の言葉を聞くこともなく右手に短剣を握りしめこちらへ向かってきたかと思うと、有無を言わせず私の左胸を刺し貫いた。
言葉で表現する事もできないほどの凄まじい激痛が私を襲った。だがその痛みも長くは続かず、すぐに消えていった。つまるところ、私はこんな場所で死んでしまうのか、とその時の私は直感した。結局教会での地震も、路上で吸血鬼と誤解されたことも、そして塔の小部屋で異教徒に飛びつき、追い払ったことも、結局は僅かの間だけ死神をたぶらかしただけだったのか、結局ヴラド公の言ったように、運命からは逃れることは出来なかったのか。そう思いながら、私は短剣を胸に受けたまま呆然と立ちつくしていた。
数秒をおいて、私の胸から短剣は引き抜かれた。刃物の支えを失い平衡を崩した私の体は前方へと倒れこみ、私は思わず反射的に床へと手を付き出した。
だが床に倒れ込みしばらくして、私は倒れこむときに手を動かしたことと、自分の思考が未だ明瞭なことに気づいた。それは末期の錯覚か、はたまた死んで霊体になってしまったためか、どういう事なのか分からないまま、私はゆっくりと立ち上がり、自分の身体が未だ動いていることを確かめた。つい先程刺された左胸に手を当てると、そこには血の感触はあったものの、それらしき傷跡などは見つけられなかった。
全く状況の整理がつかないまま辺りを見回すと、先程以上の恐怖の表情を浮かべた、私を刺した男と目が合った。彼にも私の姿が見えているようであるため、どうやら霊体になったわけではなさそうであった。
しかしあまりの混乱から私も何を言ったらいいのか、何をすればいいのか分からず、彼に対して苦笑いのような、軽く息の漏れる硬い微笑みを投げかけることしかできなかった。しかし彼は私の笑顔を見ると一目散に、左手に握っていた宝石や装飾品を落としながらこの部屋から、そしてこの建物から逃げ出していった。
彼の後ろ姿を目で追いながら、私は入るときには気が付かなかった扉の死角に、私とそう年恰好の変わらない女の子の死体を見つけた。私ももし屋敷の襲撃の際に一時の衝動に捕われ、母と一緒に残っていたのならばこの子と変わらない姿になっていたのだろうと考えると、彼女との境遇の差に胸が締め付けられ、彼女により一層の哀悼の念を捧げた。
見たところこの部屋はかつての屋敷の婦人の私室であるようであった。そしてこの屋敷は非常に裕福であったようで、これほどの惨劇に晒されても未だ宝石や装身具は残されており、壁には大きな鏡が立てかけられていた。私は物珍しさに惹かれその大鏡に近づいたが、それを覗きこんだ時、私はそこに映る自分の姿に愕然とした。
血に染められた服はもとより、私の糸切り歯はその「糸」という言葉が似合わないほどに他の歯よりも際立って長く鋭く伸びており、私の瞳は単なる充血とは思えないほどに赤く変色し、そして私の髪色はいつの間にか真っ青な色へと転じていた。そして唖然としたまま鏡をさらに覗きこむと、服の背中部分が不自然に膨らんでいることに気づいた。こわごわと私は服を脱ぎ、鏡を通して自分の背中を見た。そして私は、巨大なこうもりのような膜のついた羽がそこに生えていることに気づいた。
その自然の世界では到底認められることのないような奇妙な姿は、かつて召使いたちが私に話してくれたお伽話に出てくる怪物そのものであった。
怪物という言葉が頭に浮かぶと同時に、私はヴラド公の城に向かう際に出会った盗賊たちのことが思い出された。あの時は誤解だったとはいえ彼らは私のことをストリゴイ、吸血鬼と呼んだ。かつてはくだらないものと一笑に付す程度であったその吸血鬼という言葉が、その時の私には妙に特別な響きを持って感じられた。
私は吸血鬼と化してしまったのだと直感した。そう考えれば、猛烈な血の渇きを覚えたことも、日光が猛烈な苦痛として感じられたことも、胸を突かれても絶命しなかったことも、そして私の姿がこのようになってしまったことも、全て簡単に説明がついた。だが唯一違う点は、彼らが言う吸血鬼の姿と私の姿とは、目と髪の色が逆であることであったが。
結局、他の部屋をあたってもこの館には生き残りはもういなかった。だがそちらのほうが、もはや自分の姿を知ってしまった私にとって好都合であった。もし生き残った者がいたとしても、このような異形の者がいくら丁寧に昼の間の宿の提供を申し込んだところで、その家人は怯えて逃げ去るか、先ほどの男のように襲いかかるかのいずれかの行動を取るであろうことは分かっていた。
ここを出たからといって向かうべき場所などあるはずもなく、私は無人となったこの建物を私の新たな居城とすることに決めた。私一人の力では館中に転がる死体を片付けることなどは出来なかったが、人ならざる者が住む館としては亡骸の部屋飾りもまたお似合いなのかもしれなかった。
私は最も損傷を受けていなかった、大きな窓のある、集落に面した部屋を自分の寝室にすることにした。元は客間だったのか室内にはしっかりとした寝台があり、そして窓には分厚い窓掛けが備え付けられており、日差しの心配をする必要はなかった。私は窓に映る、白みはじめる空に高く輝く欠けた月を眺め、窓掛けを静かに閉めた。
ふと部屋の引き出しを開けてみると、美しく手入れされた女児向けの服がそこには多数満たされていた。それはあの大鏡の部屋の女の子が生前着ていたものなのだろうことは簡単に察しがついた。だが清潔な服を見て自分の血に汚れた姿を思い出した私には、その多くの服は非常に魅力的に映った。彼女には申し訳なく思いながらも、このまま引き出しの中で眠らせておくよりも、生きている者が着たほうが良いだろうと自分に言い聞かせ、私はそれに着替えた。
清潔な衣服で身を包んだ私は徹夜の眠気を思い出し、寝台へと潜り込んだ。まぶたを閉じると、外からは鳥たちが朝のさえずりを歌い始めているのが聞こえた。
そして私の全く新しい生活が始まった。耐え難い日光の弱まる夕暮れ時に目を覚まし、そして憎むべき陽光が表れる朝方に床に就く。新たな暗い館での暮らしには、私以外の人物は友人も、親族も、そして召使すらも登場することはなかった。
私は暫くの間はその中でただ一人、何を為すでもなく、血の渇きを覚えるたびに屋敷に転がる死体の残り血を吸い、それを癒していた。だが私の体が小さいせいか、私の口にする血の量は決してお伽話に書いてあるように人を死に至らしめる程の量ではなく、ただ二口三口飲むだけで十分にその渇きを癒すことはできた。
間違ってもその死者の血の味は初めて口にした新鮮な血液と比べれば到底美味といえるものではなかったが、当時の私は未だ生者からの吸血に何かしらの背徳感と禁忌感を持っており、生きの良い血を求めようとはしなかった。
だがその血の貯蔵も無尽蔵ではなく、私の消費と遺体の自然腐敗によってその量は日に日に減少していき、遂には底をついた。
こうなればどこからか血液を調達する必要があると私は理解したが、まだその勇気を出すことはできなかった。吸血鬼の不死性を信じ、血を絶っても他の飲料で渇きを癒すことができるはずだと麦酒や葡萄酒、果てには火酒など、館に残されていたあらゆるものを口にしたが、その欲望は消えることはなかった。
日に日に血液への渇望は燃え上がり、私の体を苦しめた。その衝動が沸き起こるたびに私は異教徒の兵士を襲ってしまったあの恐ろしい場面を思い出し我が身を落ち着けようとしたが、その光景は同時に温かく甘美な彼の血液の味を思い出させ、本能と理性との間で私は葛藤に襲われた。
ある晩遂に私は野性の衝動に耐え切ることが出来ず、館の外へと生きた人間の血を求めて文字通り翼を広げ飛び出した。その夜は新月であったが、吸血鬼と化し視覚が鋭敏となった私にはその程度の闇など何の障害にもならなかった。
私は大小様々な家屋が点々と立ち並ぶ集落近くへと辿り着くと、静かに地面に降り立ち、辺りを窺った。村にも館同様、襲撃の跡は深く残っていたが、どうやら人間たちはまだここに居を構えているようであった。私はなるべく家族が少なく、可能な限り静かに忍び込むことができるような家を探し、無事中心広場近くの小屋を見つけ出した。
しかし私はここに来て再び二の足を踏んだ。確かに私の必要とする血液の量は少なく、咬む場所と飲む量さえ間違えなければ餌食となった哀れな人間を殺さずとも済ませることはでき、殺人の罪悪感からは逃れることができるだろうということは知っていた。だがそうだとしても、私にとって生きた人間から血を飲むということは、完全に人の道を踏み外し、心身ともに完全な怪物と化すための儀式のように思われた。
たとえどんな獣であろうと、同じ種族の血肉を生きたまま食らうことなどはない。ましてや、神に愛され知恵を持った人間が行うことでは断じてない。初めての吸血は自分でも訳が分からないまま無意識に行った行動であったし、既に死んでしまっている者から血を吸い取ることは「魂のなくなったただの物体から食料を得ているのだ」と考えることで無理やりその行為を正当化することができた。だがもし魂がまだ残っている生きたままの人間から明白な悪意のもと血を啜ってしまえば、それは完全に「私は心身ともに人間ではない別の種族である」と高らかに宣言する行為のように思われた。
既に私の体は人間のそれではなくなっていたが、心だけは人間のままでいたいという思いがあった。その考えが土壇場になって私の体を止めた。
やはり今回はやめておこう、まだ別の方法があるはずだ。そう考え館に戻ろうと踵を返した時、広場の掲示板に「ヴラド」という文字が書かれた紙の貼ってある立て札を目にした。敬愛する主君の名を見た私は思わずそれに走り寄り、その内容を読んだ。だがそこには信じられないような内容が記されていた。
“ワラキアの民へ
ハンガリー王たる朕マーチャーシュは愚かにも異教徒と手を組み、その領土を恐怖と圧政で支配したヴラド・ドラキュラを拘束した。彼の者は背教者らしく神をも恐れぬ暴虐により多くの罪もないその領民を串刺しなどという野蛮な方法で虐殺し、田畑を燃やし百姓を飢えさせた結果人心を失い、信仰深き部下たちとその弟ラドゥの反乱を招いた。そしてその旗色が悪くなると厚顔にもかつての同盟を理由として我が許へ助力を請いに訪れたのだ。もちろん敬虔なるキリスト者たる私はそのような男に手を貸すことなどできず、上記の罪状を理由として彼を拘束したのである。喜び給えワラキアの民よ、そなたたちはもう悪魔に心を売った暴君の手から開放されたのだ。”
全てを読み終え、私は愕然とした。あの信仰深いヴラド公が異教徒と手を組んだ?そんなことは真っ赤な嘘に決まっている!反乱を起こした信仰深き部下?彼の言っていたこととは正反対ではないか!
しかしこのような掲示が堂々と立てられているということは、少なくともこれに書いてあるヴラド公が拘束されたということだけは事実なのだろう。そうでなければ、このような領民を混乱させる告示を彼が許すはずはない。
そして次第に、私の中で行き場のない感情が生じてきた。なにゆえ誰よりも信仰とそれを共有する同胞のために戦っていたはずの者がこのような辛酸を嘗めねばならないのか。現世も来世も全て司るはずの全知全能の神は自身を信ずるものを別け隔てなく救うのではなかったのか、それならばどうして彼にこのような仕打ちを下すのか。
もしこれが信心深き彼に下された試練だというのならば、それはあまりにも馬鹿げている。誰よりも真っ先にその恩恵をうけるはずの信仰深き者が不幸に陥っているのを見て、一体誰がその神に祈りを捧げようと考えるのだ!
そして神も神であれば人間も人間だ。一度ならず二度までも、彼が全てを投げうって守ろうとした信仰の兄弟たちはいとも簡単に彼を裏切った。そしてあの立て札の内容のごとく、都合の良い時だけ敬虔な信仰を持つ振りをし、挙げ句の果てにはかつて敬意を払っていたであろう者が反論できないのをいいことに嘘八百を並べ立て、自分の行為を正当化する。このような悪徳が、人間だけに特別に授けられた知恵の使い方なのだろうか!
そして、ヴラド公はこのような神や人間たちのために多大な犠牲を払いながら戦っていたのか。そう思ってしまった時、私のこれまでの信念は音を立てて崩れていった。
背後からかすかな足音が聞こえた。私は振り返り、闇夜に浮かぶ若い男の姿を認めた。その怯えた足取りを見るにどうやら今から良からぬことを働こうとしているような風であり、そしてこちらの姿にはまだ感づいていないようでもあった。
もう私の行為を止める良心の呵責などは存在しなかった。私は新たに授かった敏捷力で地面を蹴り、羽の助けを借りて彼との距離を一気に詰めると、その肩に抱きかかった。そして左手で彼の口を固く塞ぐと、右手と両足で体を支えながら、首筋へと牙を突き立てた。誰に習ったわけでもなかったが、私は不思議なほど滑らかに一連の動作を行うことができた。
やはり新鮮な生温かい血液は、半ば腐りかけ古びた死体に残された冷えきった血液とは比べ物にならないほどの素晴らしい味であった。その芳醇なくろがねの香りと柔らかく口内を満たすなめらかな舌触りが生み出す調和は、私を恍惚の状態へと導いた。この液体の美味に敵うものなど、世界中のあらゆる美酒を当たっても見つけることが出来ないであろうという気さえした。
久々の食事でいつもより多くの紅血を取り入れた私は、彼の体から離れた。かなりの量の生き血を口にしたと思っていたが、まだ彼には息があり、何事かを呻いていた。そしてその首からは依然として少しずつ血が流れていた。
ふと「吸血鬼に殺されたものは吸血鬼となる」というお伽話の吸血鬼の設定を思い出した私は、幼子らしい好奇心でそれを確かめてみることにした。それにもし無事に吸血鬼になれば、新たな召使として周りの雑用を押し付けられるかもしれないという考えもあった。
しばしの間私は彼を観察した。彼のうわ言は数分間続いたが、やがてそれもか細くなっていき、最後には口の動きすら止まった。彼の胸に手を当てると既に拍動はなく、私は彼の死を確認した。だがその後、いくら待っても彼が動き出すことも、彼の毛色が変わることも、羽が生えることも、犬歯が伸びることもなく、復活や吸血鬼化の兆候は私には一切確認できなかった。
結局お伽話はお伽話なのか、それとも私の吸う血の量があれでも少なかったのか、どちらなのかは分からなかったが、それ以上事実を確かめる気もなかった私は彼の死体をそのままに館へと舞い戻った。
どうやらヴラド公が捕らえられ、再び異教徒に膝を折った弟がこの国の実権を握ったことで、私の人生をかき回した戦乱は終わったようであった。反逆者であり敗北者となった彼の姿は歪められ、あの立て札のように不信心な悪魔の心を持った人間として人々に語られ描かれるようになり、いつしか彼の名は「ドラキュラ」よりも直接的な「ツェペシュ」、つまり「串刺し公」と呼ばれるようになっていった。
男の不審死は暫くの間集落の噂の種になったようであったが、それも街が復興してゆくとともにすぐに立ち消えていった。荒れ果てた集落には次第に人と活気が戻ってゆき、やがてそれは商人が行き交う交易路の宿場町という形でさらなる発展を遂げた。
多くの人々が絶え間なく往来することは、私にとっても食料調達の面で非常に理想的であった。宿代を惜しみ野宿をする旅人たちからはその命を奪うまでもなく静かにその血液を奪うこともできたし、それにもし下手を打ち彼らを処理する必要に追われても、人一人行方不明になったところで数日もすればそんなことは入れ替わり立ち替わる雑踏の話題からは忘れ去られた。
だが街の復興と同時に、その発展に惹かれた新たな人々もこの町へとやって来たのだ。――彼らの宗教とともに。
新たに町には特徴的な尖塔を持った異教の神殿が広場のすぐ近くに建てられた。そして毎週の金曜日ごとに、尖塔の頂上からその信徒たちに向かって耳障りな旋律を伴った異国の言葉で高らかに集合を呼びかけ、異教徒たちはそれを合図に神殿に集まっては彼らの神に祈りを捧げるようであった。
その異国語を聞くたびに、私はこの身を吸血鬼と変えた彼らとの戦争を、そしてその戦で散っていった家族や生まれた屋敷、主君のヴラド公のことを思い出すのであった。
いつしか私は朝の就寝前に、人々が動き出す日の出直後の町を眺めることが日課となっていった。再び安定して動き出した生活に、私は以前のように外の世界の景色を楽しむ余裕を見つけ出した。いくら人間に失望したといっても、季節の移ろいや年の節目ごとに違った姿を見せる活気に満ちた町は、孤独で退屈で単調な変化のないこの暮らしの中で数少ない私の心慰であった。
だが時が流れ町が発展し姿を変え、そこに生きる人間たちが生まれ、育ち、そして死んでいっても、それを眺める私の身体はあの瓶の中身を口にし、人の姿を捨てた日から変化することはなかった。五年、十年、そしてそれ以上の年月が過ぎても私の背丈は相変わらず伸びることはなく、身体の他の部分もそれに伴ってか成長という言葉を忘れたかのように子供のままの姿に固執した。
私は人間たちが悩み苦しむ老いの問題からは完全に開放されたのだ。だがそれはすなわち性的に成熟し、相手を見つけ子供を産み、育てるという母の言っていた人間の女としての喜びを永久に失うことでもあった。もともと吸血鬼となった時点で、人間社会とのつながりは既に諦めていたが、生理的に子供を宿すことが出来ないという現実は私の胸に鋭く突き刺さった。
だがこれも全て、どんなことがあっても生きていきたいという自らの決意の結果であるはずであったし、今さらその選択に後悔はなかった。この世に立った一人だけであっても、あらゆるものに関わることなく静かに生きていくのも悪くはないはずだ。
過去への回想はいつの間にか自分の半生を振り返る夢の舞台となっていた。その劇の幕を閉じたのは、館の中に響き渡る金属音であった。
不思議な物音に目を覚ますと、既に三人の武装した男たちが私の寝台を取り囲んでいるのが視界に飛び込んだ。
「あら、挨拶もないどころか無断で人の寝室に押し入った挙句、その家の主人を目覚めさせるだなんて、とんだ無礼な客ね」
安らかな夢の世界から無理やり引き戻された私は、横になったまま皮肉を込めて彼らにそう言った。
「人ならざる者に敬意を表する必要などないだろう?吸血鬼さんよ。さあこれまでの年貢の払い時だぜ」
そう言うと男はすぐさま手に持っていた短剣を寝そべっていた私の左胸に突き立てた。
痛みが全身に走ったが、それも一瞬のことだった。私は刃物の柄を握る彼の右腕を掴むと、ゆっくりと私の体からそれを引き抜いた。
「嘘だろ…銀で出来てるはずなのに…」
男には恐怖の表情が浮かんでいた。
「銀?そんなもので私を殺せるとでも思ってたの?人間って、面白いわね」
三人の男たちを見つめながらゆっくりと体を起こすと、私は言葉を継いだ。
「年貢の払い時、って言ったかしら?私はいつからあなた達の領民になったのかしらね。…私が吸血鬼と知っているのなら、それなりの覚悟はできているのでしょう?」
私がそう言うと彼らは一斉に脱兎のごとく逃げ始めた。私は自分を刺した男からその短剣を奪い取り、彼の胸へと突き立てた。彼が崩れ落ちるのを確認すると、抜き取った合口を、既にやや遠くまで離れていた二人目に向かって投げつけた。銀製の武器は一直線の弾道を描いて、彼の首筋へと突き刺さった。だがその凶器を回収する間に三人目は既に部屋を出てしまっていた。狭い屋内では私の敏捷性も十分に発揮することはできず、結局彼一人は取り逃がしてしまった。
彼らがどこから私の存在を聞きつけたのかは結局わからなかったが、私がこの館に住んでいるという情報はそれなりの信憑性をもって語られているようであった。さもなくば彼らのような来客が訪れることはなかったはずだ。それに三人目の彼を仕留めることが出来なかった以上、その噂は現実のものとして町に広まることは確実で、そして商人たちによって国中に広まるはずだ。そうなれば次はもっと多くの者たちが襲ってくることも考えられる。人間たちに殺される気など全くしないが、今日のように安らかな眠りを妨げられることは私の望むことではない。
やはりもうこの場所にはこれ以上残ることは出来ないのだ。そう思った私は、新たな土地を求めて故郷を離れる決意をした。
第二部へ
読んでいて、すごく楽しかった
完結してないし始まったばかりっぽいので、評価は期待値を出しときます
初見で文量のすごさで読むのやめちゃう人多いと思うけど最後まで読んでほしい
てか、どう最後まで読ませるかが課題かも
がんばって下さい
続編に期待。
無事完結するのを期待します
では早速続きへ。