――0/その価値は?――
つくづく思うことがある。
宇佐見蓮子という少女は、私ことマエリベリー・ハーンの弱みを実によく知っているということだ。
「お願いっ!」
ポイントひとつめ、弱々しく下げられた眉。
「あの、あのレポートどうしてもわかんなくて、それで」
ポイントふたつめ、普段の気丈さを覆す甲高い声。
「お願い、写させて?」
ポイントみっつめ、潤んだ瞳で上目遣い。
「だめ? だよね」
「……いいわよ、べつに」
「ほんとに?!」
「ただし、次はやってきなさいよ」
「うん! ありがとう、メリー!」
「はぁ、もう、仕方ないわね」
ここまで弱点を突かれて、屈しない人間が居るだろうか?
そんな人間が居るのなら、ぜひ、その秘技をご教授願いたいものだと思う。こんなの、どんな人間なら耐えられるのよ、本当に。
「埋め合わせは、ぜったいするから!」
「べつに良いわよ。お金、ないんでしょう?」
甘やかしちゃだめだって、わかってる。宿題だって、こんなことを繰り返していたら――いつも、でもないけど――蓮子のためにはならないってことも、わかってる。
でも、それでも甘やかしてしまう理由はなんなんだろう。
「それじゃ、メリーに負担ばっかりかけちゃうよ」
普段から、がんばってるって知ってるから?
「いいのよ。私が好きでやってるんだから」
大切な友達で、かけがえのない友人だから?
「うーん、でも、そうだ!」
きっと、どれもそうで、でもそれだけじゃない。
結局私は、このいつも一生懸命な友人に、"なにか”したいと、手を貸したいとそんな風に思っているからなんだ。
きっと、今から蓮子は私に、私が喜ぶことを提案してくれることだろう。
突拍子もないことから、そうでないことまでいろいろ。そのいろいろがどんなことなのか、私は知りたがっているんだ。
だから、ただ純粋に、蓮子の言葉に耳を傾けた――のに。
「私、体で払うわ!」
蓮子は、そんなことをのたまいやがった。
「は?」
……えっ、どういうことなの?
プライスレス蓮子
――1/値段の理由――
「じゃ、レポートありがとう、メリー!」
そういって走り去っていった蓮子を、私はただ呆然と見送ることしかできなかった。
というか、蓮子がもう目の前にいないと気がついたのだって、おそらく蓮子が走り去って半日くらいたったあと。いつのまにか、校舎のへりから夕日が顔を覗かせていた。
「えっ、なにがどうなって、えっ、あれ?」
振り返ってみても、褪せることなく、蓮子の言葉が脳内でリピートされる。
『私、体で払うわ!』
意味なんか、今更深く考えることもない。もうたった一つだけ。アレしかない。アレしかなくていいのか。どうしよう、混乱してきた。
「いやいやいや、そんなはずないじゃない」
真っ白になった思考で、蓮子の真意を探ろうと頑張ってみる。
身体で払うとは、字面そのまま以外にどんな意味があるか考えてみればいい。ようは、蓮子が、私に、自分の身体でできることを――ま、まずい、この思考だとさっきの二の舞にしかならないわ。自重、自重よマエリベリー。むしろ自嘲した方が良いかしら。
「うううぅ、だめだわ。なんにも思い浮かばない」
もう、今日の講義は全てさぼってしまったのだし、私は火照った顔を沈めるためにさっさと帰ることにした。だって、どうしろっていうんだ。
繰り返し脳裏にリピートする蓮子の言葉。身体で払うって言うのはつまりキャベツ畑でコウノトリさんがウェルカム! ということだろうかだとかとりとめのない思考を正すことも出来ないまま、ふらふらと帰路につく。
事故にも遭わず無事に帰宅出来たのは僥倖としか言いようがないことだろう。けれど、道中の記憶は皆無。何故か普段はやらないような一番クジでゲットしたクリアファイルを頭に乗せて、玄関に立っていた。どうしてこうなった。
「これもそれもどれもあれも、蓮子がわるいのよ。蓮子のばか」
クリアファイルをソファーの上に投げると、ついでに汗で湿った服を適当に脱いで、シャワールームへ飛び込んだ。まずは、冷たいシャワーでも浴びて頭を切り換えよう。心頭滅却すれば火もまた涼し。そんな言葉もあるくらいだ。むかしのえろいひと、じゃなくて、えらいひとの言葉に乗っ取って。冷静になろう。
シャワーノズルを捻って、冷たい水を浴びる。肌に刺さる冷気に身を震わせながら、私はシャンプーを手に取った。
「もう、今日は蓮子のことは考えない! そうしないと、身体に悪いわ」
なんとか、切り替えよう。
そう考えながらも、私の思考はまたまた横道に逸れていた。
――蓮子が来るのなら隅々まで磨いておこう、なんて。
――2/値札を眺めて――
「――私の一晩を返せ」
「ええっ?! どういうこと?」
翌日。お気に入りのカフェ。
私は、何食わぬ顔で首に傾げる蓮子に、恨めしげにそう告げた。
結局、昨日の晩、蓮子は私の家にこなかった。場所を知っているどころか、合い鍵まで渡している。距離だってばかみたいに遠くに住んでる訳でもないから、来ようと思えば直ぐ来られる、はず、だから。
お気に入りの下着。
新品のアロマキャンドル。
使い慣れたローズヒップの香水。
準備万端で覚悟を決めたのに、蓮子は来なかった。
けれど、私が気にくわなかったのは、蓮子が来なかったことじゃない。今日来るとか約束した訳でもなく、そもそも言葉の真意を確かめた訳でもないのに勝手に期待した私が……でもなくて。
私がなにより気にくわなかったのは、悶々としてろくに眠れなかった私自身だ。いくらなんでも頭の中がピンク過ぎると、自分自身で悶えることになってしまった。もうほんとうなによこれ。
とにかく、蓮子に真意を聞こう。じゃないと私は、また徹夜することになるという確信があった。
「蓮子、あの、聞きたいことがある――」
けれど、私の決意は、あっさりと砕け散る。
「――って、あれ? れ、蓮子?」
何故か、蓮子の“不在”という状況によって。
「って、なんで?!」
驚いて周囲を見回すも、蓮子の姿は見えない。右を見ても左を見ても上を見ても下を見ても、机の下にスカートの中を確認してみても、蓮子はどこにもいなかった。
慌ててさらに周囲を確認すると、蓮子の座っていた席の前、飲み干されたコーヒーカップの横にメモ帳が置いてあるのを見つける。慌てて持ち上げて見ると、蓮子の走り書きのメッセージが綴られていた。
【返事がないし、疲れてるみたいだから先に行くね。今日はもう帰って、しっかり休むこと! 蓮子】
――どうやら、考えに耽っている間に、置いていかれてしまったようだ。
「……………………蓮子の、ばか」
いや、本当にばかなのは私だ。そんなことはわかってる。
口の中でそんな言葉を転がしながら、私はとぼとぼと講義に向かう。とてもではないけれど、集中出来そうになかった。
「まぁいいわ。明日、明日になったら聞いてみよう……」
ぼんやりと歩く私は、そう、“明日も今日と同じ”だなんて不確定な未来を考える。それがなにより儚いということに。私は翌日まで気が付くことができなかった。
――3/適正価格と非売品――
翌日から、蓮子に逢えなくなった。
といっても、メールをすれば返ってくるし、避けられているという気もしない。ただ、いつもなら一緒に部活動に勤しんでいたというのに、ここのところ部活動の誘いが来ないのだ。
おかげで、ひとりぽつんとカフェで珈琲を啜っている。
「ひとりで……するような活動でもないし」
ぽっかり空いてしまった時間をどうにかして有効活用……とも思ったのだが、蓮子と一緒じゃないとやる気の出ない活動予定が、私の頭の中で山積みにされていた。
仕方ないから、この時間を使って、蓮子の言葉の意味を改めて考えてみることにする。
まず、事の始まりはレポートを貸したことだった。どうにかこうにか手を加えて、ばれないように提出するためだろう。貸してしまうのは蓮子のためにならないと思いつつ、ついつい貸してしまった。
それから、蓮子は私へのお礼を考え始めた。けれど、蓮子は一般的な貧乏学生。お金の掛かるモノだったら。逆に、蓮子の首を絞めることになってしまう。だから、蓮子の提案をさっさと却下。
そして、問題の言葉が出た。
『私、身体で払うわ!』
混乱の極みにある中で思い切った勘違いをしてしまったが、これは、なにも字面どおり私に身体を預けるという意味ではないのかも知れない。
たとえば、そう、身体を使ってお金を――って、あれ?
かしゃん、と、手に持っていたコーヒーカップが落ちた。
――夜のネオン。
――欲望渦巻く街。
――街灯の下に佇む影。
――ダークグレーのスーツが忍び寄り。
――幾ばくかのお金を握りしめて誘う少女に。
――毒牙が、迫って……。
がたんっ、と椅子を倒す勢いで立ち上がり、走り出す。もう、形振り構っていられなかった。ノートも教科書も鞄も放り投げて、携帯電話を開いてプッシュ。
“今何処に居るの?”なんて単純明快なメールを送信すると、私が大学の最寄り駅に到着する頃に返信が来た。
【⊿区にいるけど、今日は忙しいから会えないよ?】
蓮子はなにかを隠すとき、真逆のことを言う癖がある。⊿区の真逆の場所を確かめると、ちょうど、繁華街のど真ん中だった。
さっきまで考えていた嫌な光景が、また、脳裏を過ぎる。
――ピンクのベッドの上。
――破り捨てられたカッターシャツ。
――シーツに組み敷かれて助けを請う……。
「ッ」
ぱん、と自分の頬を叩く。
それから電子カードで改札口を抜けて、目的の電車に飛び乗った。蓮子が居るであろう街の最寄り駅まで、十五分。
その十五分が、なによりも長かった。
夕暮れの街。
ネオンの灯り始めた繁華街。
一際賑わうその一角で、私は蓮子の姿を探す。
路地裏。
街灯の下。
ポリバケツの中。
そのどこにも、蓮子の姿は見あたらない。
まさか、既に連れ込まれてしまったのだろうか。そんな最悪な状況が頭を過ぎり、私は思わず唇を噛みしめた。もし、そうなら、私はどうすれば良いのだろう。
何も出来なかった自分が、何も出来ない自分が悔しくて、思わず唇を噛みしめた。
けれど、そんなことをしても無駄だと言うことくらい理解している。だってそうだろう。立ち止まって後悔ばかりしていても――なにも、進まない。
「蓮子……おねがい、無事でいてっ!」
走る。
なにもできない無力な私でも、走り回ることくらいできる。疲労で崩れ落ちそうになる足腰に鞭打って、私は蓮子を探すために、繁華街へと飛び込んだ――のに。
「いらっしゃいませー。秋のどきどき☆モンブランはいかがでしょうかー?」
ふりふりのエプロン。
真っ白なヘッドブリム。
黒いスカートと白いニーソックス。
可愛らしい看板片手に棒読みで笑顔を振りまく――見知った、顔。
「れん、こ?」
「いらっしゃいま、えり、べり、さん?」
互いに、時間が止まったかのように固まる。けれど、なにもリアクションが取れずにどうしたらいいか固まるだけしかできなかったのは、どうやら私だけだったようだ。
看板を落し、引きつった笑みのままだんだんと顔全体を赤くしていく蓮子。もうこれ以上赤くなれないのではないかとそんな風に思い始めた頃になると、蓮子はようやく、固まって赤くなる以外のリアクションをとった。
「△○×※●◇♪□ッ……………………!?!?」
――奇声を上げながら店の中に引っ込んでいく蓮子の後ろ姿を、私はただ、見送ることしかできなかった。
この場合は、“これしか出来な”くても、なんの問題もないはずだ。
――4/友情お値段プライスレス――
結局。「あのね」「だからね」「ええっと」「その」などととりとめのない言葉をぼそぼそと呟いていた蓮子だったが、私が無言で蓮子の働いていたメイド喫茶のチラシを眺めていると、観念したのか小声でぽそりと呟いた。
「……嘘を吐いて、ごめんなさい」
「まったく……べつに、アルバイトくらい止めないわよ。言ってくれても良かったのに」
無駄にやきもきして。
無駄に悶々として。
無駄に心配した。
そんな意味も込めてため息を吐くと、蓮子はますます肩を落としてしまう。
「あのね、蓮子。私はべつに、落ち込ませたい訳じゃないの」
「メリー……」
「ただ、どうして嘘を吐いたり隠したりしてまで、黙っていたの?」
私がそう尋ねると、蓮子は観念したのか、ぽつりぽつりと話し始めてくれた。
「いつもいつも、私、メリーに助けて貰ってる。でも私、何も返せてない」
「べつにいいわよ。お礼がされたくてしてることじゃないし」
「ううん。メリーはそう言ってくれるけど、メリーの言葉に甘えてばかりじゃ、だめだよ」
蓮子はそういうと、やっと、顔を上げた。
私は何も、蓮子が怠け者だと思っているわけではない。興味のある分野で一生懸命頑張りすぎて、必修科目に手が回らなくなってしまう。けれどなんとかしようと頑張って、どうしようもなくなったら私を頼ってくれるのだ。
だから、私は蓮子に力を貸す。頑張っている彼女の姿に惹かれた時点で、きっと私の負けだから。
「だから、さ。私、メリーにお礼がしたかったの。せっかくだからサプライズで、今までありがとうって」
「蓮子……」
「私、きっとこれからも迷惑かけちゃうと思う。でも、だからといって開き直って、許してくれるメリーの好意の上に、あぐらをかきたくない」
強い意志を瞳に乗せて、真っ直ぐと私を見つめる蓮子。その力強い瞳に、私は惹かれたのだ。
「ばか」
それを何度も自覚させられるのが、なんだか悔しくて。小さく呟いた私の言葉に、蓮子はびくりと肩を跳ねさせた。
「気持ちは嬉しいわ。でも、あんまり心配かけないでちょうだい」
「あぅ、ごめんなさい」
でも。
そう私が続けると、蓮子は首を傾げた。
「私のために頑張ってくれて、ありがとう。私も親のお金じゃなくて、自分でアルバイトをして稼ぐから、お金が貯まったら一緒に旅行へ行きましょう?」
「メリー……うん! 私、頑張るわ!」
結局のところ、私は下心だらけだったのだ。なにをするのも、蓮子の色んな表情が見たいから。だから、蓮子に勉強を教えられるように頑張って勉強をしていたし、蓮子が借りに来るであろうレポートにはとくに力を入れた。
そうやって気張っていたから、蓮子も変に気負いすぎていたのかも知れない。そう考えると、私も悪いような気がしてきた。
だから、おあいこ。
どうしておあいこかは蓮子に言えないから、せめて、“罰”として私もアルバイト三昧だ。
「ねぇねぇ、旅行、どこにしようか?」
「北海道とかどうかしら?」
「蟹! ウニ! 海鮮!!」
「もう、食べ物ばかりなんだから」
けれど、ひょっとしたらこれは、“罰”にはならないのかもしれない。なにせ頑張って稼いだ分だけ、あとで“最高の楽しみ”として戻ってくるのだから。
でもまぁ、それならそれで良いのかも知れない。私は満面の笑みで旅行を楽しみにする蓮子に、似た様な笑みを返しながら、そんな風に思った。
――了――
つくづく思うことがある。
宇佐見蓮子という少女は、私ことマエリベリー・ハーンの弱みを実によく知っているということだ。
「お願いっ!」
ポイントひとつめ、弱々しく下げられた眉。
「あの、あのレポートどうしてもわかんなくて、それで」
ポイントふたつめ、普段の気丈さを覆す甲高い声。
「お願い、写させて?」
ポイントみっつめ、潤んだ瞳で上目遣い。
「だめ? だよね」
「……いいわよ、べつに」
「ほんとに?!」
「ただし、次はやってきなさいよ」
「うん! ありがとう、メリー!」
「はぁ、もう、仕方ないわね」
ここまで弱点を突かれて、屈しない人間が居るだろうか?
そんな人間が居るのなら、ぜひ、その秘技をご教授願いたいものだと思う。こんなの、どんな人間なら耐えられるのよ、本当に。
「埋め合わせは、ぜったいするから!」
「べつに良いわよ。お金、ないんでしょう?」
甘やかしちゃだめだって、わかってる。宿題だって、こんなことを繰り返していたら――いつも、でもないけど――蓮子のためにはならないってことも、わかってる。
でも、それでも甘やかしてしまう理由はなんなんだろう。
「それじゃ、メリーに負担ばっかりかけちゃうよ」
普段から、がんばってるって知ってるから?
「いいのよ。私が好きでやってるんだから」
大切な友達で、かけがえのない友人だから?
「うーん、でも、そうだ!」
きっと、どれもそうで、でもそれだけじゃない。
結局私は、このいつも一生懸命な友人に、"なにか”したいと、手を貸したいとそんな風に思っているからなんだ。
きっと、今から蓮子は私に、私が喜ぶことを提案してくれることだろう。
突拍子もないことから、そうでないことまでいろいろ。そのいろいろがどんなことなのか、私は知りたがっているんだ。
だから、ただ純粋に、蓮子の言葉に耳を傾けた――のに。
「私、体で払うわ!」
蓮子は、そんなことをのたまいやがった。
「は?」
……えっ、どういうことなの?
プライスレス蓮子
――1/値段の理由――
「じゃ、レポートありがとう、メリー!」
そういって走り去っていった蓮子を、私はただ呆然と見送ることしかできなかった。
というか、蓮子がもう目の前にいないと気がついたのだって、おそらく蓮子が走り去って半日くらいたったあと。いつのまにか、校舎のへりから夕日が顔を覗かせていた。
「えっ、なにがどうなって、えっ、あれ?」
振り返ってみても、褪せることなく、蓮子の言葉が脳内でリピートされる。
『私、体で払うわ!』
意味なんか、今更深く考えることもない。もうたった一つだけ。アレしかない。アレしかなくていいのか。どうしよう、混乱してきた。
「いやいやいや、そんなはずないじゃない」
真っ白になった思考で、蓮子の真意を探ろうと頑張ってみる。
身体で払うとは、字面そのまま以外にどんな意味があるか考えてみればいい。ようは、蓮子が、私に、自分の身体でできることを――ま、まずい、この思考だとさっきの二の舞にしかならないわ。自重、自重よマエリベリー。むしろ自嘲した方が良いかしら。
「うううぅ、だめだわ。なんにも思い浮かばない」
もう、今日の講義は全てさぼってしまったのだし、私は火照った顔を沈めるためにさっさと帰ることにした。だって、どうしろっていうんだ。
繰り返し脳裏にリピートする蓮子の言葉。身体で払うって言うのはつまりキャベツ畑でコウノトリさんがウェルカム! ということだろうかだとかとりとめのない思考を正すことも出来ないまま、ふらふらと帰路につく。
事故にも遭わず無事に帰宅出来たのは僥倖としか言いようがないことだろう。けれど、道中の記憶は皆無。何故か普段はやらないような一番クジでゲットしたクリアファイルを頭に乗せて、玄関に立っていた。どうしてこうなった。
「これもそれもどれもあれも、蓮子がわるいのよ。蓮子のばか」
クリアファイルをソファーの上に投げると、ついでに汗で湿った服を適当に脱いで、シャワールームへ飛び込んだ。まずは、冷たいシャワーでも浴びて頭を切り換えよう。心頭滅却すれば火もまた涼し。そんな言葉もあるくらいだ。むかしのえろいひと、じゃなくて、えらいひとの言葉に乗っ取って。冷静になろう。
シャワーノズルを捻って、冷たい水を浴びる。肌に刺さる冷気に身を震わせながら、私はシャンプーを手に取った。
「もう、今日は蓮子のことは考えない! そうしないと、身体に悪いわ」
なんとか、切り替えよう。
そう考えながらも、私の思考はまたまた横道に逸れていた。
――蓮子が来るのなら隅々まで磨いておこう、なんて。
――2/値札を眺めて――
「――私の一晩を返せ」
「ええっ?! どういうこと?」
翌日。お気に入りのカフェ。
私は、何食わぬ顔で首に傾げる蓮子に、恨めしげにそう告げた。
結局、昨日の晩、蓮子は私の家にこなかった。場所を知っているどころか、合い鍵まで渡している。距離だってばかみたいに遠くに住んでる訳でもないから、来ようと思えば直ぐ来られる、はず、だから。
お気に入りの下着。
新品のアロマキャンドル。
使い慣れたローズヒップの香水。
準備万端で覚悟を決めたのに、蓮子は来なかった。
けれど、私が気にくわなかったのは、蓮子が来なかったことじゃない。今日来るとか約束した訳でもなく、そもそも言葉の真意を確かめた訳でもないのに勝手に期待した私が……でもなくて。
私がなにより気にくわなかったのは、悶々としてろくに眠れなかった私自身だ。いくらなんでも頭の中がピンク過ぎると、自分自身で悶えることになってしまった。もうほんとうなによこれ。
とにかく、蓮子に真意を聞こう。じゃないと私は、また徹夜することになるという確信があった。
「蓮子、あの、聞きたいことがある――」
けれど、私の決意は、あっさりと砕け散る。
「――って、あれ? れ、蓮子?」
何故か、蓮子の“不在”という状況によって。
「って、なんで?!」
驚いて周囲を見回すも、蓮子の姿は見えない。右を見ても左を見ても上を見ても下を見ても、机の下にスカートの中を確認してみても、蓮子はどこにもいなかった。
慌ててさらに周囲を確認すると、蓮子の座っていた席の前、飲み干されたコーヒーカップの横にメモ帳が置いてあるのを見つける。慌てて持ち上げて見ると、蓮子の走り書きのメッセージが綴られていた。
【返事がないし、疲れてるみたいだから先に行くね。今日はもう帰って、しっかり休むこと! 蓮子】
――どうやら、考えに耽っている間に、置いていかれてしまったようだ。
「……………………蓮子の、ばか」
いや、本当にばかなのは私だ。そんなことはわかってる。
口の中でそんな言葉を転がしながら、私はとぼとぼと講義に向かう。とてもではないけれど、集中出来そうになかった。
「まぁいいわ。明日、明日になったら聞いてみよう……」
ぼんやりと歩く私は、そう、“明日も今日と同じ”だなんて不確定な未来を考える。それがなにより儚いということに。私は翌日まで気が付くことができなかった。
――3/適正価格と非売品――
翌日から、蓮子に逢えなくなった。
といっても、メールをすれば返ってくるし、避けられているという気もしない。ただ、いつもなら一緒に部活動に勤しんでいたというのに、ここのところ部活動の誘いが来ないのだ。
おかげで、ひとりぽつんとカフェで珈琲を啜っている。
「ひとりで……するような活動でもないし」
ぽっかり空いてしまった時間をどうにかして有効活用……とも思ったのだが、蓮子と一緒じゃないとやる気の出ない活動予定が、私の頭の中で山積みにされていた。
仕方ないから、この時間を使って、蓮子の言葉の意味を改めて考えてみることにする。
まず、事の始まりはレポートを貸したことだった。どうにかこうにか手を加えて、ばれないように提出するためだろう。貸してしまうのは蓮子のためにならないと思いつつ、ついつい貸してしまった。
それから、蓮子は私へのお礼を考え始めた。けれど、蓮子は一般的な貧乏学生。お金の掛かるモノだったら。逆に、蓮子の首を絞めることになってしまう。だから、蓮子の提案をさっさと却下。
そして、問題の言葉が出た。
『私、身体で払うわ!』
混乱の極みにある中で思い切った勘違いをしてしまったが、これは、なにも字面どおり私に身体を預けるという意味ではないのかも知れない。
たとえば、そう、身体を使ってお金を――って、あれ?
かしゃん、と、手に持っていたコーヒーカップが落ちた。
――夜のネオン。
――欲望渦巻く街。
――街灯の下に佇む影。
――ダークグレーのスーツが忍び寄り。
――幾ばくかのお金を握りしめて誘う少女に。
――毒牙が、迫って……。
がたんっ、と椅子を倒す勢いで立ち上がり、走り出す。もう、形振り構っていられなかった。ノートも教科書も鞄も放り投げて、携帯電話を開いてプッシュ。
“今何処に居るの?”なんて単純明快なメールを送信すると、私が大学の最寄り駅に到着する頃に返信が来た。
【⊿区にいるけど、今日は忙しいから会えないよ?】
蓮子はなにかを隠すとき、真逆のことを言う癖がある。⊿区の真逆の場所を確かめると、ちょうど、繁華街のど真ん中だった。
さっきまで考えていた嫌な光景が、また、脳裏を過ぎる。
――ピンクのベッドの上。
――破り捨てられたカッターシャツ。
――シーツに組み敷かれて助けを請う……。
「ッ」
ぱん、と自分の頬を叩く。
それから電子カードで改札口を抜けて、目的の電車に飛び乗った。蓮子が居るであろう街の最寄り駅まで、十五分。
その十五分が、なによりも長かった。
夕暮れの街。
ネオンの灯り始めた繁華街。
一際賑わうその一角で、私は蓮子の姿を探す。
路地裏。
街灯の下。
ポリバケツの中。
そのどこにも、蓮子の姿は見あたらない。
まさか、既に連れ込まれてしまったのだろうか。そんな最悪な状況が頭を過ぎり、私は思わず唇を噛みしめた。もし、そうなら、私はどうすれば良いのだろう。
何も出来なかった自分が、何も出来ない自分が悔しくて、思わず唇を噛みしめた。
けれど、そんなことをしても無駄だと言うことくらい理解している。だってそうだろう。立ち止まって後悔ばかりしていても――なにも、進まない。
「蓮子……おねがい、無事でいてっ!」
走る。
なにもできない無力な私でも、走り回ることくらいできる。疲労で崩れ落ちそうになる足腰に鞭打って、私は蓮子を探すために、繁華街へと飛び込んだ――のに。
「いらっしゃいませー。秋のどきどき☆モンブランはいかがでしょうかー?」
ふりふりのエプロン。
真っ白なヘッドブリム。
黒いスカートと白いニーソックス。
可愛らしい看板片手に棒読みで笑顔を振りまく――見知った、顔。
「れん、こ?」
「いらっしゃいま、えり、べり、さん?」
互いに、時間が止まったかのように固まる。けれど、なにもリアクションが取れずにどうしたらいいか固まるだけしかできなかったのは、どうやら私だけだったようだ。
看板を落し、引きつった笑みのままだんだんと顔全体を赤くしていく蓮子。もうこれ以上赤くなれないのではないかとそんな風に思い始めた頃になると、蓮子はようやく、固まって赤くなる以外のリアクションをとった。
「△○×※●◇♪□ッ……………………!?!?」
――奇声を上げながら店の中に引っ込んでいく蓮子の後ろ姿を、私はただ、見送ることしかできなかった。
この場合は、“これしか出来な”くても、なんの問題もないはずだ。
――4/友情お値段プライスレス――
結局。「あのね」「だからね」「ええっと」「その」などととりとめのない言葉をぼそぼそと呟いていた蓮子だったが、私が無言で蓮子の働いていたメイド喫茶のチラシを眺めていると、観念したのか小声でぽそりと呟いた。
「……嘘を吐いて、ごめんなさい」
「まったく……べつに、アルバイトくらい止めないわよ。言ってくれても良かったのに」
無駄にやきもきして。
無駄に悶々として。
無駄に心配した。
そんな意味も込めてため息を吐くと、蓮子はますます肩を落としてしまう。
「あのね、蓮子。私はべつに、落ち込ませたい訳じゃないの」
「メリー……」
「ただ、どうして嘘を吐いたり隠したりしてまで、黙っていたの?」
私がそう尋ねると、蓮子は観念したのか、ぽつりぽつりと話し始めてくれた。
「いつもいつも、私、メリーに助けて貰ってる。でも私、何も返せてない」
「べつにいいわよ。お礼がされたくてしてることじゃないし」
「ううん。メリーはそう言ってくれるけど、メリーの言葉に甘えてばかりじゃ、だめだよ」
蓮子はそういうと、やっと、顔を上げた。
私は何も、蓮子が怠け者だと思っているわけではない。興味のある分野で一生懸命頑張りすぎて、必修科目に手が回らなくなってしまう。けれどなんとかしようと頑張って、どうしようもなくなったら私を頼ってくれるのだ。
だから、私は蓮子に力を貸す。頑張っている彼女の姿に惹かれた時点で、きっと私の負けだから。
「だから、さ。私、メリーにお礼がしたかったの。せっかくだからサプライズで、今までありがとうって」
「蓮子……」
「私、きっとこれからも迷惑かけちゃうと思う。でも、だからといって開き直って、許してくれるメリーの好意の上に、あぐらをかきたくない」
強い意志を瞳に乗せて、真っ直ぐと私を見つめる蓮子。その力強い瞳に、私は惹かれたのだ。
「ばか」
それを何度も自覚させられるのが、なんだか悔しくて。小さく呟いた私の言葉に、蓮子はびくりと肩を跳ねさせた。
「気持ちは嬉しいわ。でも、あんまり心配かけないでちょうだい」
「あぅ、ごめんなさい」
でも。
そう私が続けると、蓮子は首を傾げた。
「私のために頑張ってくれて、ありがとう。私も親のお金じゃなくて、自分でアルバイトをして稼ぐから、お金が貯まったら一緒に旅行へ行きましょう?」
「メリー……うん! 私、頑張るわ!」
結局のところ、私は下心だらけだったのだ。なにをするのも、蓮子の色んな表情が見たいから。だから、蓮子に勉強を教えられるように頑張って勉強をしていたし、蓮子が借りに来るであろうレポートにはとくに力を入れた。
そうやって気張っていたから、蓮子も変に気負いすぎていたのかも知れない。そう考えると、私も悪いような気がしてきた。
だから、おあいこ。
どうしておあいこかは蓮子に言えないから、せめて、“罰”として私もアルバイト三昧だ。
「ねぇねぇ、旅行、どこにしようか?」
「北海道とかどうかしら?」
「蟹! ウニ! 海鮮!!」
「もう、食べ物ばかりなんだから」
けれど、ひょっとしたらこれは、“罰”にはならないのかもしれない。なにせ頑張って稼いだ分だけ、あとで“最高の楽しみ”として戻ってくるのだから。
でもまぁ、それならそれで良いのかも知れない。私は満面の笑みで旅行を楽しみにする蓮子に、似た様な笑みを返しながら、そんな風に思った。
――了――
次回、連メリ北海道旅行編、楽しみにしています。
普通に「私、体で払うわ!」なんて言ってしまう蓮子もよろしいですね
普段のきりっとした表情とのギャップがたまらないんだろうなぁ
これは甘やかしてしまうわー
可愛かった