中天高く昇った太陽が、燦々と日差しを地面に降り注がせる。
アスファルトに固められた道路はそれ自体が熱を持ち、同時に照り返しによる熱を、その上にあるもの全てに足下から直撃させてくる。
――……熱い。
そう、マエリベリー・ハーン――親しい友人からは『メリー』と呼ばれている――は思った。
そう。『暑い』ではなく、『熱い』のだ。
今年もまた異常気象で、例年の最高気温祭りを更新したと言うニュースがテレビで流れていたのを思い出す。
人間の思い通りに行かない気候が異常気象だというのなら、年がら年中、世の中は異常気象ね、と皮肉めいたことを言って、友人に『あんたそれ言ったらテレビの中の人が悲しむよ』とよくわからないツッコミをもらったことも、彼女はついでに思い出した。
それはともあれ、彼女は片手に持った清涼飲料水入りのペットボトルを傾けて、ふぅ、と息をつく。
そうして、ゆっくりと振り返り、ふんわりと笑顔を浮かべて、彼女は言った。
「うざい。邪魔」
「今ので10人目」
花も恥らう乙女の笑顔から飛び出す痛烈な毒舌を食らって、すごすご退散していく、なかなかイケメンな兄ちゃん(背中に縦線背負っている)を見送りながら、メリーはつぶやく。
「鬱陶しいわね」
今日は、彼女は友人――宇佐見蓮子の家に向かっていた。
その友人の家は、都内の電車の駅から、歩いておよそ10分程度。
都内にあり、しかも駅近かつ近くにはでっかい商店街もあるという好立地でありながら、家賃はなんと6万弱。年季の行ったボロアパートかと思いきや、これまた外観も立派なALCの築10年もの。
蓮子曰く、『オーナーのおじいさんが、学生さんに、この街にいついて欲しいと思って、家賃を安くしてるらしいの』ということだった。
メリーはその話を聞いて、素直に『それは素晴らしいわね』と賞賛し、ついでに、そんな立派な物件にめぐり合えた友人の幸運を祝ったものだ。
――そうして、駅に到着して、歩いていく彼女の前に現れるのは、年若い兄ちゃん達。
なるほど、若者は確かに多く街にやってきているようだが、反対に、こうした軟派野郎も呼び込んでいると言うことであるらしい。
1分おき――要はおよそ100メートルごとにナンパされるメリーは、『わたしのような美少女のことも考えて欲しいものね』と臆面もなく、そんなことを思っていた。
――さて。
「蓮子、開けなさい」
辿り着く友人の家。
とんとん、とドアをノックして、待つことしばし。
返事がないのを不思議に思ってドアノブに手を伸ばすと、がちゃり、という音がしてドアが開いた。
無用心ねと思いながら室内に足を踏み入れるメリー。
その時、彼女が見たものは――!
「……」
入り口から奥のリビング兼寝室につながる細い廊下。そこに横たわる蓮子の姿。
彼女はぴくりとも動かない。
廊下の右手、表に面した窓だけが開き、そこから夏の声を室内に招き入れている。
室内の気温は高く、むっとした熱気が、開いたドアから外へと流れていく。どうやら、かなりの時間、エアコンすらつけられていないらしい。
メリーはゆっくりと、室内に上がりこんだ。
そうして、彼女はその足を歩み出させ――、
「むぎゅ」
蓮子の後頭部を踏みつけた。
「痛い痛い痛い痛い痛い!」
「蓮子、友達が遊びに来たのに笑顔の一つもないのはどういう了見かしら。思わず踵でぐりぐりしたくなるわ」
「やめて痛いやめてやめて痛い痛い痛い変な趣味に目覚めそうだからぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
じたばた暴れる蓮子を散々踏みつけて、メリーは「何をしているの」とすまし顔で尋ねる。
蓮子はむくっと起き上がり、メリーに踏みつけられていた頭をさすりながら、
「夏の殺人事件ごっこ」
「あなた一回死んだほうがいいかもしれないわね」
「……ぐっさ」
花も恥らうメリースマイルでそんなことさらりと言われて、蓮子はしこたま傷ついた。
「蓮子、暑いわ。クーラー入れて」
「甘いわね、メリー。
今の世の中、若者は弱っているわ。それは、季節感を無視した快適な環境が原因。
少し、厳しい自然の中にいてこそ、人間と言うものは……」
「ぽちっとな」
「聞けよ人の話」
「いやよ。暑いし」
この暑さの中、すだれと扇風機、そして氷水ですごそうとしているのか、それらグッズの置かれた蓮子の部屋。止まったクーラーの電源を入れて、メリーは開かれた窓を片っ端から閉めていく。
「……電気代ってさー、結構、バカにならないのよ」
「暑くて倒れて病院に運び込まれたら、それまでの節約が全て無駄になるわよ」
蓮子の抗議にあっさり返し、部屋の中の気温が『26度』まで下がったところで、メリーはようやく息をつく。
「全く。メリーは本当に軟弱者ね。
そんなんじゃ、日本の夏は乗り切れないわよ!」
「アイス。お土産に買ってきたの。けれど、蓮子はいらないのね。そう。わかったわ」
「あ、ごめんなさい、メリー様。アイスいります。食べます。ちょうだい!」
「あなたのプライドは紙っぺら一枚より薄いわね」
にこやか笑顔できっつい言葉を蓮子に食らわせてから、メリーは手に提げていたコンビニのビニール袋からアイスを取り出し、彼女に手渡す。
「……溶けてないわね」
「そうね」
「ずっと持ってきた……のよね?」
「そうよ?」
「……そういえば、メリー。あんた、『暑い』って言ってるのに汗一つかいてないわね」
「そうかしら?」
「……………………」
何やら面妖なことが起きているような気がしてならなかったが、蓮子はそれ以上、ツッコミを入れるのをやめることにした。
取り出したアイスをくわえて、『わーおいしー』と意識を別のものへとシフトさせておく。
二人は、部屋の中央に出したテーブルを挟むように腰を下ろして、『さて』と蓮子は言う。
「メリー。実は、あなたに大変なことを伝えなければならないの」
「そう。
いつも通り、『今日はスーパーの特売で、卵がお一人様一つ50円なの。手伝って』というところかしら」
「今回は違うわ!」
『今回は』と言ってのける辺り、やはり蓮子であった。
メリーはアイスを食べ終わると、『それで?』と視線で先を促す。
「これを見なさい」
取り出されたのは一枚のチラシ。
蓮子の住まうこの地区から、電車に乗って東に約一時間。海に面した、小さな町の祭りのチラシだった。
「これがどうしたの?」
「私、これに出るの」
「そう。写真撮影役が欲しかったのね。
30分5000円でいいわ」
「たっか! というか、違うから!」
よく見なさい、と蓮子。
――そのチラシには、『神社の祭事に参加してくれる未婚女性を募集』という内容が書かれている。
そして、蓮子が語るところには、この地域にあるとある神社――今回、蓮子が『祭事に参加する』と言っている神社だ――は、いわゆる『縁結び』だったり『子宝に恵まれる』系統のご利益のある神社であるらしい。
これがまた霊験あらたかであり、特に、今回蓮子が参加する祭事に『巫女』として選ばれた女性は、その一年以内に、まず間違いなく良縁が訪れたり、子供が生まれたりするという。
そのため、この祭りを知っている女性や、それを中心としたインターネットのネットワークではものすさまじいほどの知名度を誇り、特に、今回の祭りに対する応募の当選倍率は100倍を優に突破するそうな。
「それに当たった、と」
「そうよ」
「おめでとう、蓮子」
「やーやーありがとー」
「これであなたも、駅から100メートルごとにナンパされたり、花火大会とか海に行くたびに寄ってくる男に『うざっ』と思える日が来るのね」
「うっさいやい!」
ちなみに、蓮子はメリーと連れ立ってそういう催しごとに出向くことが多いのだが、メリーにはうじゃうじゃと兄ちゃんが寄ってくるのだが、彼女は全くのスルー対象であったりする。
「あなた、恋人とか欲しかったの?」
「何を言っているのかしらね、メリーは」
「え?」
「私の愛はメリーだけに向けられごめんなさい嘘です冗談です笑顔で拳固めるのやめてください怖いですメリーさん」
「本音はどこにあるのかしら?」
いつものセクハラを諦めない蓮子はテーブルに額こすりつけてメリーの許しを願う。その光景は、実にアホらしく、そして清々しいまでに間抜けであったという。
それはともあれ、メリーの言葉に、『いやね』と起き上がる蓮子。
「この地域にさ、ちょっと不思議な話があるのよ」
「へぇ」
「神隠し」
「どこにでもあるわね、そういう噂は」
「いやいや、これが割りと信憑性高くてさ。
何でも、この神社の祭事で巫女として選ばれると、その選ばれた女性が神隠しにあうことがあるっていうの」
「そう」
「しかも、最近もあったらしいわ」
その『最近』と言うのがいつ頃のことなのか、情報の出所と信憑性は、などとメリーは蓮子を質問攻めにしていじめるが、内心では、『また厄介な癖が出たわね』と思っていた。
――蓮子の話を要約すると、その神隠しが発生したのは、今から15年ほど前のこと。
その当時の巫女は、誰が見てもはっとするほど見目麗しい女性であり、まさしく『神の妻』と言うにふさわしい女性だったのだそうな。
そして、神社の祭事の後、彼女は忽然と姿を消した。祭事から一ヶ月ほど後のことだったらしい。
今でも彼女の行方は杳として知れず、家族の間ではすでに葬式まで執り行われたのだとか。
「面白そうでしょ?」
「よくある都市伝説ね」
一言の下にばっさりと切り捨てられ、笑顔を浮かべていた蓮子はその笑顔のまま、硬直した。
「けど、あなたの巫女姿と言うのも、それはそれで面白そうだし。
行くの? 今日?」
「……あ、あー……うん、一応……。
む、向こうに宿も取ったし……ね」
「何、引いてるの。誘ったのはあなたでしょう。
じゃあ、行きましょうか」
「あ、そ、そうだね。
……って、着替えとかは?」
「持ってきてるわ」
「いつの間に……」
相変わらず、その辺りはふしぎのメリーさんであったという。
がたごとがたごと揺れる電車の中。
お昼時ということで駅弁片手の蓮子と違い、メリーは車窓から流れる景色を見つめている。
そうしていると、普通の美人なのになぁ……、と蓮子は片手のお茶を飲みながら思った。
やがて電車は目的地に到着する。
外に下りれば、相変わらずの夏の日差しと共に、ほのかに香る潮の香り。
人のいない小さな無人駅。改札と思われるところに『切符を置いてください』とぞんざいに書かれた小さなかごが置かれているだけだ。
「無賃乗車し放題ね」
「降りられないでしょう」
「それもそうか」
にも拘わらず、券売機だけは立派なものが置かれているのだから不思議なものだ。
駅の外に出る。東西に延びる道路の左右には、小さな商店がいくつかぽつぽつとあるだけ。
「海水浴のシーズンも、そろそろ終わるわね」
「こんだけ暑いなら、まだ海を閉じなくてもいいだろうけどね」
その道沿いに歩きながら、視線を右手側に向ける。
不自然に整備された岸。どこか違和感のある砂浜。そして、どこまでも続く広い海。
それは何とも言えずミスマッチな光景だ。人の手が明らかに加わり、もはやもとの面影を残してないだろうと思われる『自然』と、人の手を加えるべくもない天然の『自然』。
その二つが交じり合った、ちょうど境目に人の姿が見える。
10か20か。もしかしたらもっと多いかもしれない。
「海に入りたいわね」
「メリー、水着持ってきたの?」
「一応。
あなたの分もあるわよ」
「ちょっと待て。何で私のサイズを知っている」
「見ればすぐよ。触れば、もっと簡単にわかるわ」
何となく聞き捨てならないことをさらりと言ってのけたような気がする。
蓮子は頬に一筋、暑さが所以ではない汗を流して、今の発言を聴かなかったことにした。
「宿と言うのはどこなの?」
「もう少し道を戻ったところ」
「あら、蓮子。あそこに海の家があるわ。焼きそば食べたくない?」
「キャベツと砂増し増しはいいよ」
「それが風情だと言うのに」
なぜかちょっと残念そうなメリーであった。
ともあれ、二人は右手側に海を眺めながら道を歩いていく。
まばらだった建物が徐々に充実し始め、それと同時に、歩いてきた太い道から枝分かれする細い道が現れ始める。
そして、人々の生活の息吹が感じられる建物が増えて、辺りは段々にぎやかになっていく。
「男女のカップルが多いわね」
「まぁ、それがご利益だろうし。
別に羨ましくないわよ?」
「蓮子には永遠に縁がないものね」
「海に沈めるぞあんた」
引きつった笑顔を浮かべる蓮子。その言葉も何のそので受け流し、メリーはにこっと笑う。
二人は地図を片手に道を行き、『ここ、ここ』と蓮子が示したところで足を止める。
「小さな神社ね」
町の中にぽつんと、しかし、しっかりと現れる緑色の丘陵。そこを上がっていく石段の手前には鳥居が佇んでいる。
足をしっかり上げて上る必要がある石段を一つずつ、踏みしめながら神社の敷地の中へと二人は足を踏み入れる。
「……涼しいわね」
「自然の力はすごいわ」
アスファルトからの照り返しを受けないだけで、一気に気温が下がるものなのだ、と特に蓮子は実感する。
先ほどまでの不快な暑さは鳴りを潜め、せみの鳴き声すら心地いい感じのする暑さ。こんな暑さは久しく体験してなかった、と彼女は思った。
やがて石段を登りきると、小さな神社が現れる。
正面に社殿、左手側にはお土産売り場。右手側には蓋の置かれた井戸がある。
「……ご利益、ねぇ」
寂れている、というわけではない。
しかし、信仰と言うものを失って久しいだろうと思われる、何となく寂しい雰囲気の神社だった。
「ご神木があるわ」
「歴史は古いのよね」
お土産売り場の奥にある、幹を取り囲むには大人の男が5~6人は必要だろうと思われる大木。
そこには注連縄が巻かれ、小さな立て看板が、この神社と木の歴史を語っている。
「どこで、その祭りは開かれるのかしら」
「その日はこの社殿の入り口が開かれて中に入れるらしいのよ。
で、中で宮司さんにお祓いとお清めを受けて終わりみたい」
「ふぅん」
固く閉められた社殿の入り口。見れば鍵までかかっている。
早々に興味をなくしたのか、『まぁ、明日を楽しみにしましょう』とメリーは言った。
「ここ、神社にも人がいないのね」
お土産売り場には人の姿はなく、『代金はこちら↓』と書かれた札のかけられた木箱と、申し訳程度に御守などが並ぶのみ。
「祭りで町おこしなんて、やっぱりそうそうできるものではないということね」
「寂しいこと言うね、メリーは。現実派?」
「別に。
ただ、ここには何もない。何もないから何も集まらない。何も集まらないところには、結局、何もないのよ」
「意味不明」
踵を返して石段を下りながら、そんな会話をする。
そうして、アスファルトをまた踏みしめると、不快な暑さが戻ってくる。
先ほどまではいいBGMだったせみの声も、今はただの騒音だ。
「そういえば、メリー。日傘、似合うわね」
「そう? ありがとう。
あなたも入る?」
「ん~……。私はいいや。その日傘、ちっちゃいしね」
「あら、相合傘と言うのなら大丈夫だと思うわよ?」
メリーの一言は本気なのか冗談なのか。
ひょいと肩をすくめて、蓮子はそれを流すと、『宿に行こう』と歩き出した。
「カップルが多い、とか言っておいて、わたしの隣に並ぶのはいやなのね」
「何かたかられそう」
「そんなことないわ。使用料、一時間1000円くらいよ?」
「高いっつの」
苦笑を浮かべながら、蓮子は自動販売機でジュースを一つ、購入する。
それを飲みながら歩いていく彼女に、メリーは「蓮子。はしたないわ」と眉をひそめるのだった。
到着した宿と言うのは、小さな旅館だった。
ドアを開けて中に入ると、人のよさそうな女将が二人を出迎え、蓮子が名前を告げると『ああ、あの!』と手を叩く。
「それでは、どうぞごゆっくり」
部屋に二人は案内され、女将が引き下がっていく。
室内は普通の8畳間。感動するほど豪華なつくりでもないし、がっかりするほど残念なつくりでもない。
要は、『普通の部屋』だった。
「よし、メリー! 温泉行くわよ、温泉!」
「それ、本物? 最近は、温泉すら人工物だから」
「ここは天然よ。じゃなければ、この蓮子さんがわざわざお金を払って予約なんてしたりするもんですか! 高いし!」
「あなたにはビジホがお似合いだわ。いや、カプセルでもいいかも」
「カプセルホテルは女性厳禁のところ、多いのよね」
過去に泊まろうとしたことがあるのか、何やら聞き捨てならないことを言う蓮子。
メリーはそれを普通にスルーして、室内に用意されている浴衣を手に取った。
「いや~、楽しみね。メリー。
ここね、天然の温泉を使っていることもさながら、ご飯が美味しいらしいのよ。もう、海の幸全開って感じ?
祭りのこの時期は、ちょっとお値段高くなるんだけど、奮発してよかっ……」
「蓮子。あなた、着つけとか出来る?」
「何で全裸!?」
「浴衣の下には下着をつけないのでしょ?」
「それはそうかもしれないけど、今はダメ! ちゃんと普通に!」
「あら、そう。襲いやすいと思うのだけどね」
「お、襲うとかどうとか、その、えっと……」
何やらよくわからない雰囲気になりつつある現状を打破したのは、外から響く『宇佐美さま、よろしいですか?』という、男性の声だった。
慌てて、蓮子は裸の上に浴衣を纏っているメリーに下着をつけさせ、浴衣の帯を締めてやってから、『は、はーい!』と声を上げる。
「初めまして」
入ってきたのは、齢50かそこらの男性だった。
人のよさそうな顔をしていて、その姿を一瞥して思い浮かべるのは『普通の人』。
「今年の祭りへのご協力、誠にありがとうございます。
わたくし、この祭りの運営委員を務めております――」
差し出される名刺を蓮子は受け取り、『あ、どうもどうも』と頭を下げる。
そうして、二人はテーブルを挟んで向かい合い、『明日の祭りのことですが――』と、何やら相談を始めてしまった。
一人、蚊帳の外のメリーはそれに何の感慨も見せることなく、タオルを手に取ると、「蓮子、わたし、温泉に入ってくるわ」と部屋を出て行く。
温泉に向かう道すがら、メリーの耳にこんな会話が聞こえてくる。
「ねぇ、見た? 今年のお祭りに参加してくれる人」
「見た見た。お若いお嬢さんだったわね」
「最近は若い人が参加してくれなかったから、今年はいつもより華やかになりそうね」
「最近の若い子達は、結婚とかしたくないのかしらねぇ」
「あたしらが若い頃とは違うのよ」
などなど。
旅館の従業員たちから聞こえてくる声に、メリーは少しだけ、眉をひそめる。
「……祭りが盛り上がるなら、そこに誰がいようとも構わないということかしらね」
それが、彼女は気に食わない。
「蓮子だから面白いんじゃない」
相方のキャラをよく知っているメリーは、そうつぶやいた。
この町の祭りとやらがどのようなもので、どのような規模で、そしてどのような神事が執り行われるかなどは知らない。
知らないからこそ、外から入ってくる情報のみで、判断しなくてはならない。
――蓮子から聞かされる祭りの話は、何となくだが、メリーの興味を引いていた。それなのに、だ。
「興ざめだわ」
彼女はそうつぶやき、温泉の暖簾をくぐる。
先客はいないのか、脱衣場には彼女だけだ。さっさと浴衣を脱いで、『そういえば、帰り道はどうしようかしら』と、気付けが出来ない自分を思い出して、しかし、割と深刻なその悩みも華麗にスルーし、裸になると風呂場に続く戸を引いた。
「……あら」
浴場の中は、10ほどの洗い場が壁に備え付けてあり、肝心の湯船は見事な岩風呂だった。
その岩風呂の中に、どんと置かれた巨大な岩。そこに、何かが貼り付けてある。
「これは……」
木の板に文字が彫られている。
そこには、『丹塗矢の伝説』が書かれていた。
「あちこちにあるのね、この伝承は」
古事記にある丹塗矢の伝承は、確か場所は京都だったはずだ。
ここは京都から遠く離れた東の地。しかし、そんなところであろうとも、好き者というか、異性が恋しい神様はいたのだろう。
「赤い矢に化けた神様が、女性の元にやってくる――よくある話」
なるほど、とメリーは得心する。
この地域の神社が縁結びだの子宝に恵まれるだのといったご利益があるのは、この赤い矢の神様のおかげであったらしい。
しかし、とも思う。
「……その神社に、女性が巫女として奉納……?」
それってまさか――。
そう思った瞬間、後ろから、『からから』という小さな音が響く。
戸が開けられた音――しかし、人の気配はない。
反射的に振り返るメリー。その視線の先には何も……いや。
「……赤い……矢?」
入り口のすぐ近く。
そこに、真っ赤な鏃を携えた矢が落ちている。
先ほどまで、あんなものはなかったはず――そう思っていたメリーの前で、いきなり、その矢が鏃を戸の向こう側に向ける。
『メリー、いるー?
いやー、話が長引いちゃってごめんねー』
蓮子の声。
矢は段々、その頭を持ち上げてくる。
戸が開く。
相変わらず、バスタオルで自分を隠そうとしない蓮子。その、頭にくるくらい何も考えてなさそうな、幸せな笑顔を浮かべた彼女。その彼女に向かって、矢が段々と体を上げていく。
メリーは、湯船から飛び出すと、蓮子に向かって突っ走る。
『へっ?』という顔を蓮子が浮かべ、メリーが彼女に飛びついた瞬間、放たれた赤い矢は脱衣場の天井に突き刺さった。
「ち、ちょ、メリー!? 何!? どうしたの!?」
メリーの下で顔を真っ赤にして声を上げる蓮子。
メリーはそれを無視して視線を上に上げる。赤い矢は、その場からすっと、音もなく姿を消した。
その瞬間、確かに尋常ならざる『切れ間』を見せて。
「……蓮子。股間には気をつけなさい」
「はい!?」
「あなたは無防備すぎるわ。気をつけないと妊娠するわよ」
「え? え!? え!?」
メリーの言った言葉を深読みしまくっているのか、蓮子は顔を真っ赤にして声を上げる。
メリーは、そんな彼女を無視して風呂場に戻ると、湯船の中に体を沈めた。
「……今のは……」
丹塗矢の伝承。神に捧げられる巫女。
導き出される答えは一つだが、納得行かないものもある。
――あの赤い矢は何だ? あれは何物だ? 『物』か? 『者』か? それとも『モノ』なのか?
自分にしか見えないもの。
この世界とは別のもの。
自分なら触れるのか? 触ってもいいのか? そもそも、近づいてもいいものなのか?
疑問は尽きない。
「え、えーっと……メリーさん? その……さっきの言葉は何だったのでしょうか……」
「今までモテなかった人間が急にモテ始めると、何をどうしたらいいかわからなくて、結局、全ての縁を不意にしてしまうでしょう?
あなたは隙が多いのよ」
「……意味わからん」
メリーの側にやってきた蓮子は、そうつぶやいて、ぶくぶくとお湯の中に沈んでいってしまった。
「……気に入らないわ」
風呂から上がった二人は部屋に戻る――ところで、またもや蓮子が捕まった。
先ほどの男性が連れてきたのだろう、今回の神事を執り行う町のスタッフに囲まれる蓮子を見て、メリーはつぶやく。
「蓮子。わたし、外で風に当たってくるわ」
もちろん、そんな言葉は蓮子には聞こえない。
蓮子を囲むのは、そのほとんどが男性だ。
中には、蓮子には全くもってこれっぽっちも、これまで縁のなかった若い男性も混じっている。
しかも彼は蓮子に興味でも持ったのか、『ねぇ、どうしてこの祭りに参加する気になったの?』と、何やら親しげに話までしていた。
メリーはその場に背中を向けて、旅館の外へ。
建物の外壁に倣う形で置かれている長いすに腰掛けると、『……暑いわね』とぼやく。
「またお風呂に入りなおしだわ」
天から降り注ぐ日差しは、もうだいぶ傾いてきていると言うのに、その暑さを全く緩めてはくれない。
メリーは知らず、自分の手が、今日、持ってきた日傘を探していたことに気づいて肩をすくめる。
――そういえば、あれは部屋に置いてきたな。
彼女は背中を建物の壁に預けて空を見る。
「……神隠しか」
丹塗矢の伝承はいくつかある。
有名どころでは、枕元に赤い矢を置いていたら子宝を授かった、ということか。
しかし、中には例の赤い矢が何の遠慮もなく女陰を貫き、その相手を妊娠させて子供を産ませたというのもある。
この地に伝わる丹塗矢がどれに当てはまるかは、言わずとも知れる。
「……あれは……」
果たして、何だったのか。
自分はついに神様の姿まで見えるようになったのかと思う。
この世界ではない、どこか別の世界を見ることはあっても、そんな限定されたものまで見えたことなどなかった……はずだ。
「不思議なものね」
立ち上がり、旅館の中に戻る。
蓮子たちはどこかに行ってしまったのか、その空間はしんと静まり返っている。
つと、視線を向けた先にあるお土産屋。
そこには温泉饅頭を筆頭に様々なものが並んでいる。その中に、先ほど風呂場で見た、あの赤い矢そっくりの『土産品』があるのを、彼女は見逃さない。
「……」
それを手にとって、メリーは何やら考え込む。
このお土産屋を任されているらしい従業員が、「実は、この地域にはですね――」と、メリーがそれに興味を持ったと判断したのか、営業トークを展開してくる。
彼女はそれを聞き流して、手にした赤い矢を購入した。
ありがとうございます、という店員の笑顔に笑顔で返して、彼女は店を後にする。
そうして、部屋の中に戻ってきた彼女は、手にした矢を両手で掴むと、思い切り力を込め、それをへし折ってしまった。
「気に入らないわ」
へし折ったそれを自分の荷物の中にしまってから、彼女はつぶやく。
「蓮子は本当に、間抜けなんだから」
一体いつ購入したのか、荷物の中から、不思議とよく冷えているビールの缶を取り出すと、その口を開けて中身を口にする。
無論、友人の分も購入していたらしく、取り出したそれをテーブルの上にぽいと置いた。恐らく、蓮子が戻ってくる頃には、ちょうどいい具合にぬるくなっていることだろう。
「……神隠し」
そしてもう一度、彼女は小さな声でつぶやいた。
「蓮子」
「……何よ」
「あなたに聞きたいことがあるわ」
「あのぬる~いビールの嫌がらせに続いて、今度は何を仕掛けてくるつもりよ」
――夕食時。
蓮子は『いやー、大変だったわ』と笑顔で部屋へと戻ってきた。その際にメリーから飲まされた、超絶ぬる~いビールをまだ根に持っているのか、目の前の刺身などに舌鼓を打っていても機嫌は直っていない。
「明日、朝のうちに帰ることは出来ないかしら?」
「は?」
「そのままの意味よ」
ご飯(二杯目)を口に入れながら、メリー。
蓮子は首をかしげた後、『どういうことよ?』と尋ねる。
「今回の祭りに参加するのを、わたしは歓迎しないということよ」
「どうしてまた。
あんた、結構、曰くつきの催しごととか好きでしょ」
「人を物好きみたいに言わないで欲しいものね。
わたしが好きなのは、色々な『不思議なもの』よ」
「……どう違うのやら」
蓮子は今日のメインディッシュである厚切りステーキを口に入れながら、『どういうことなの?』と、もう一度尋ねる。
「あなたは神隠しの話をしていたでしょう?」
「してたわね」
「自分がそれに遭うのを期待しているのかしら」
「へ?」
「不思議なもの、不思議なところ、そして不思議そのもの。
様々な『モノ』に手を伸ばすと言うことは、自分の元にそれが返ってくることもあるというのを甘受することになる――違う?」
「まぁ……ね」
「で?」
「……う~ん。
正直、今回のネタは都市伝説の域を出てないと思ってるしさ。単に、縁結びの神様、ってやつに期待してただけ……っていうのが本当のところなんだけど……」
私はあんたみたいにモテないし、と蓮子は言った。
「モテたいの?」
「……別に。
だー、もー! 何でそこまでかみつくのさ!」
「……気に入らない。それだけよ」
恥ずかしさからか、顔を赤くして大声を上げる蓮子を見て、一言、メリーはつぶやいた。
そして、それっきり、彼女は何も話さなくなってしまう。
「……何よ。もう」
ふてくされる蓮子。
メリーは、そんな彼女を無視して、おわんに三杯目のご飯をよそうのだった。
翌日は、とにかく朝から忙しかった。
朝食を食べた後、先日やってきた祭りの実行委員の男性が訪れ、蓮子を連れて行ってしまう。
それについていったメリーは、蓮子と共に祭りの会場へと案内され、そこに設営されたテントの中に招かれる。
そして、『今日の予定はこうでこうでこうでこうなります』だの、『宇佐美さんはこちらからこのように登場してこうしてこうで――』だのといった話が延々行われる。
地域として、この祭りに力を入れているのだなと感じ取れると共に、実にめんどくさいやり取りであった。
そうこうしているうちにテントの外も騒がしくなってくる。
前日のうちに設営された祭りの会場には人々がちらほら集まりだし、石段の下の道にはいくつもの出店が姿を見せる。
先日の寂れた様子などなんのその。にぎやかな境内を眺めながら、メリーはつぶやく。
「うざい」
彼女をナンパしていた青年は、メリーがご機嫌斜めなことにようやく気づいたのか、顔を引きつらせてすごすご退散していく。
彼女は日傘をくるくる回しながら、小さく肩をすくめる。
「気に入らないわ」
もう何度目だろうか。
同じセリフをつぶやいた彼女は、出店で買った焼きそばを、片手で器用に口にする。
――と、
「ねーねー、メリー! 見て見て!」
メリーの不機嫌など知ったことかとばかりに、笑顔の蓮子がやってくる。
それが今日の彼女の衣装なのだろう、白無垢と巫女服を合わせたような衣装に、彼女は袖を通している。
「どうよ。なかなか見れるようになるでしょう」
「馬子にも衣装とはこのことね」
「をい」
胸を張る蓮子にずばっと感想を返して、メリー。
蓮子は『ったくもー』と盛り上がっていた気持ちに水を差されたことに不愉快な視線を返してから、
「とにかくさ、せっかくのお祭りだし。楽しまないと」
ね? とメリーの肩を叩いて、踵を返す。
メリーは何も言わない。
応えないまま、彼女は焼きそばをすすった。
「……あんた、器用なことしてるよね」
去り際に、肩越しにそんなことを言って、蓮子は歩いていく。
そうして――しばし。
「ふぅん……」
辺りに祭囃子の音色が響き渡る。
人々の喧騒に混じって響き渡る、その軽快な音色は、何となくではあるが心を打つ。
今の世の中にも、こんな風に、昔の情緒を忘れない催しごとがあるのだなと、メリーは思った。
蓮子の言うように、ここでいつまでも不機嫌な状態でいても仕方ないかもしれない――そう、彼女は考えた。
確かに気に入らない。
色々なものが気に入らない。
気に入らないのだけど、どうすることも出来ない。何かしないといけないとわかっていても、体が動かない。
理性と言うやつは実に邪魔くさいものだ。
そう、彼女は考える。
もしも自分が、考えのまま、行動が出来る人間だったら。
しかし、それはすでに人間ではないのだな、とも。
「面倒くさい」
また声をかけてくる男性に、ずばっと、そんな心情を吐露する。
その男性も顔を引きつらせ、背中に縦線背負って退場していく中、祭りの賑わいはどんどんと高まっていく。
視線を、彼女は神社の社に向ける。
未だ開かれない社殿の奥への扉。それをじっと見据える彼女を、何か奇異なものを見るような目で、祭りにやってきた者たちは眺めていく。
彼女の足は前に進む。
社殿の前に申し訳程度に置かれた椅子には、この神社のご利益に預かろうとする男性女性で一杯だ。
旅館の従業員たちは、『若い子が来ない』と嘆いていたが、とんでもない。若い人間ばかりであった。
そんな彼らに椅子は全て占拠され、仕方なく、メリーはその場に佇んで社殿を眺めることにする。
音楽が流れる。
響き渡る音色の中、回りがひときわ大きな声を上げる。
視線を左手側に向ければ、化粧をした蓮子が宮司の男性に案内され、歩いてくるところだった。
「馬子にも衣装」
そうして、しゃなりしゃなりと歩いているさまは、とてもではないが、普段、大いびきをかいて部屋の中で大の字になって寝ている人物と同一人物とは思えない。
化粧をした人間の腕前もいいのか、蓮子の素顔を知っているメリーでも、一瞬、『あら、美人』と思えるほど。
彼女くらいの『供物』なら、さぞ、神様も喜ぶことだろう。
――そう思って、メリーははっとなる。
「……あ」
ゆっくりと、にぎやかな囃子が遠ざかっていく。
ゆっくりと、世界がスローモーションになっていく。
ゆっくりと、目の前から色が失われていく。
その中に残るのは、鮮やかな白無垢の白い色。
ああ、とメリーは思った。
神隠しとやらは、こういうものなのだな、と。
全部が消え去る世界。
それまでそこにあったものがなくなってしまう世界。
そこに取り込まれることが、この世から消えてしまうことなのだな、と彼女は思った。
蓮子と宮司の足が止まる。
ゆっくりと、もったいぶった様子で社殿の扉が開いていく。
そこから、世界に色が戻っていく。
鮮やかな赤。
赤い矢。
奥に備えられたそれが御神体なのか。
真っ赤なそれを携えた、赤い鮮やかな世界。
大きく口を開けて、獲物を待っているかのような。
どこにもない、どこでもない世界に連れて行ってしまうような。
そんな赤。
メリーは思った。
――気に入らない。
「わわっ!?」
次に響いたのは、蓮子の声だった。
同時に、祭りの会場に動揺が響き渡る。
メリーは一気に社殿に駆け上がると、宮司を突き飛ばし、その奥に入ろうとしていた蓮子の腕を引っ張って引き戻すと、御神体として据え置かれている、古びた木の矢めがけ、手にした日傘を投げつけていた。
「ちょっと!? メリー! あんた、何してんのよ!?」
蓮子の声が耳に戻ってくる。
それはとても、心地よい。
メリーの気に入っている、蓮子の声。
「言ったでしょ? 蓮子。
気に入らない、ってね」
そう言って、メリーはにっこりふんわり、いつもの彼女らしい笑みを浮かべるのだった。
「……もう。
どうすんのよ、この後始末……。うちら、完全に、あの地域に出入り禁止じゃない!」
「あら、別にわたしは構わないわ」
帰りの電車の中、蓮子は頭を抱えていた。
メリーの投げつけた日傘は、あの神社の御神体を直撃し、見事に木っ端微塵に粉砕してしまった。
当然、祭りと言う名の神聖な儀式を受け継いできた宮司やら神社の関係者やらに『裁判を起こすぞ!』とまで怒られた。
しかし、メリーはそれにすらあっさりと、『あら。それなら、この祭りに参加した人は神隠しにあうという不名誉な話題を拡散されてもいいのかしら』と答えている。笑顔で。
その圧力に屈したのか、それとも、もう言ってもダメだと判断したのか、彼らは蓮子とメリーを解放して、『もう二度と来るな!』と言葉をたたきつけていた。
「警察に連れて行かれなかっただけよかったものの……」
「ああ、久々に清々しい気分だわ。
ねぇ、蓮子。帰りに美味しいレストランに寄っていきましょう。わたしがおごるわ」
「メリー。どうしてあんなことしたのよ?」
頭を抱えていた蓮子がようやく顔を上げる。
その視線の先には、笑顔のメリー。
実に彼女らしい――いや、いつもよりも数段、きれいでかわいくて、そして清々しいまでに底の抜けた笑顔を浮かべたメリーを見て、蓮子は言う。
メリーはあっさりと答えた。
「股間に気をつけろ、って言ったでしょ? あなたは隙が多いのよ」
隣に座る彼女の股の間に手を差し込んで、ぐっと、その手を押し付ける。
ひゃっ、と蓮子は声をあげ、辺りをきょろきょろ見回した。
人の姿は、ない。
「な、何すんのよ」
「気に入らないのよ。わたし」
「だから、何が」
「あなたが誰かに取られてしまうのが」
「……へっ?」
さらりと、メリーは言う。
「何が気に入らないのか、ようやくわかったわ。
あなたが誰かに取られて、誰かのものにされてしまうのが気に食わなかったのよ。
あの神様はスケベにも程があるわ。そして、無礼にも程がある。
蓮子が欲しければ、まず、わたしに話を通すべき。そう思わない?
そうよ。そうに違いないわ。
最初にあの神社に行った時、何もいないと思ったら、あのスケベな神様は女の子を探しに行っていたのね。全く。
蓮子。あんな不埒な神様にめとられなくてよかったわね。感謝してね」
「えーっと……」
「丹塗矢の神様は、みんな、自分勝手な上に色に正直すぎるのよ。
相手の気持ちも考えるべきだわ。全く」
なにやらぷんすか怒り出すメリーに、蓮子の頭の上に『?』マークが山のように浮かんで消える。
つまり、何が言いたいのか。
蓮子がそう問いかけると、メリーは答えてくれる。
「だから、言ったでしょ。
わたしはあなたが誰かに取られるのが気に入らないの」
「……えーっと、それって……」
「蓮子。
わたしは、好きであなたと一緒に歩いてる。あなたがわたしを誘ったのが運のつき。わたしは、ずっとあなたと一緒に歩いていくわ」
「……えーっと」
「たとえ、この世界の果てだろうとも。
たとえ、この世界ではないどこか別の世界だろうとも。
わたしはあなたについていく。
そして、わたしをあなたから引き離そうとする奴は気に入らない。あなたがわたしから引き離されたとしたら、どこまででも追いかけていく。
わたしの力は、そのためにあるのよ」
「……えぇぇぇぇっと……」
それってつまり……、と蓮子はメリーの言葉を反芻する。
「……つまり?」
しかし、やっぱり最後の肝心なところは相手に聞いてしまう辺りが蓮子であった。
メリーはこともなげに言う。
「あなたと一緒にいると、やっぱり楽しいわ。
これからもよろしくね」
さらりとはぐらかすように見えて、いくらでも深く考えられる言葉。
そう言って微笑むメリーの顔は、とても満足そうな笑顔に輝いている。
まるで、『今日のわたしは100点満点ね!』と宣言しているかのように。
「……はい。すいませんでした」
そして、なぜか謝ってしまう蓮子であった。
「さあ、蓮子。
今日の晩御飯は期待していいわよ。そのお店、料理がとても美味しいのよ。一緒に行きましょうね」
「……手加減してください」
「あら、わたしがおごるのだもの。気にしなくていいわ」
「……そういうことじゃなくて」
「うふふ。
ああ、今日は本当にいい日だわ。誘ってくれてありがとうね、蓮子」
ウインクして、メリーは言う。
なぜだか、その彼女の笑顔を見て、蓮子の頬に汗が一筋流れたのだが――それが何を意味するのかは、彼女のみぞ知るというところであった。
アスファルトに固められた道路はそれ自体が熱を持ち、同時に照り返しによる熱を、その上にあるもの全てに足下から直撃させてくる。
――……熱い。
そう、マエリベリー・ハーン――親しい友人からは『メリー』と呼ばれている――は思った。
そう。『暑い』ではなく、『熱い』のだ。
今年もまた異常気象で、例年の最高気温祭りを更新したと言うニュースがテレビで流れていたのを思い出す。
人間の思い通りに行かない気候が異常気象だというのなら、年がら年中、世の中は異常気象ね、と皮肉めいたことを言って、友人に『あんたそれ言ったらテレビの中の人が悲しむよ』とよくわからないツッコミをもらったことも、彼女はついでに思い出した。
それはともあれ、彼女は片手に持った清涼飲料水入りのペットボトルを傾けて、ふぅ、と息をつく。
そうして、ゆっくりと振り返り、ふんわりと笑顔を浮かべて、彼女は言った。
「うざい。邪魔」
「今ので10人目」
花も恥らう乙女の笑顔から飛び出す痛烈な毒舌を食らって、すごすご退散していく、なかなかイケメンな兄ちゃん(背中に縦線背負っている)を見送りながら、メリーはつぶやく。
「鬱陶しいわね」
今日は、彼女は友人――宇佐見蓮子の家に向かっていた。
その友人の家は、都内の電車の駅から、歩いておよそ10分程度。
都内にあり、しかも駅近かつ近くにはでっかい商店街もあるという好立地でありながら、家賃はなんと6万弱。年季の行ったボロアパートかと思いきや、これまた外観も立派なALCの築10年もの。
蓮子曰く、『オーナーのおじいさんが、学生さんに、この街にいついて欲しいと思って、家賃を安くしてるらしいの』ということだった。
メリーはその話を聞いて、素直に『それは素晴らしいわね』と賞賛し、ついでに、そんな立派な物件にめぐり合えた友人の幸運を祝ったものだ。
――そうして、駅に到着して、歩いていく彼女の前に現れるのは、年若い兄ちゃん達。
なるほど、若者は確かに多く街にやってきているようだが、反対に、こうした軟派野郎も呼び込んでいると言うことであるらしい。
1分おき――要はおよそ100メートルごとにナンパされるメリーは、『わたしのような美少女のことも考えて欲しいものね』と臆面もなく、そんなことを思っていた。
――さて。
「蓮子、開けなさい」
辿り着く友人の家。
とんとん、とドアをノックして、待つことしばし。
返事がないのを不思議に思ってドアノブに手を伸ばすと、がちゃり、という音がしてドアが開いた。
無用心ねと思いながら室内に足を踏み入れるメリー。
その時、彼女が見たものは――!
「……」
入り口から奥のリビング兼寝室につながる細い廊下。そこに横たわる蓮子の姿。
彼女はぴくりとも動かない。
廊下の右手、表に面した窓だけが開き、そこから夏の声を室内に招き入れている。
室内の気温は高く、むっとした熱気が、開いたドアから外へと流れていく。どうやら、かなりの時間、エアコンすらつけられていないらしい。
メリーはゆっくりと、室内に上がりこんだ。
そうして、彼女はその足を歩み出させ――、
「むぎゅ」
蓮子の後頭部を踏みつけた。
「痛い痛い痛い痛い痛い!」
「蓮子、友達が遊びに来たのに笑顔の一つもないのはどういう了見かしら。思わず踵でぐりぐりしたくなるわ」
「やめて痛いやめてやめて痛い痛い痛い変な趣味に目覚めそうだからぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
じたばた暴れる蓮子を散々踏みつけて、メリーは「何をしているの」とすまし顔で尋ねる。
蓮子はむくっと起き上がり、メリーに踏みつけられていた頭をさすりながら、
「夏の殺人事件ごっこ」
「あなた一回死んだほうがいいかもしれないわね」
「……ぐっさ」
花も恥らうメリースマイルでそんなことさらりと言われて、蓮子はしこたま傷ついた。
「蓮子、暑いわ。クーラー入れて」
「甘いわね、メリー。
今の世の中、若者は弱っているわ。それは、季節感を無視した快適な環境が原因。
少し、厳しい自然の中にいてこそ、人間と言うものは……」
「ぽちっとな」
「聞けよ人の話」
「いやよ。暑いし」
この暑さの中、すだれと扇風機、そして氷水ですごそうとしているのか、それらグッズの置かれた蓮子の部屋。止まったクーラーの電源を入れて、メリーは開かれた窓を片っ端から閉めていく。
「……電気代ってさー、結構、バカにならないのよ」
「暑くて倒れて病院に運び込まれたら、それまでの節約が全て無駄になるわよ」
蓮子の抗議にあっさり返し、部屋の中の気温が『26度』まで下がったところで、メリーはようやく息をつく。
「全く。メリーは本当に軟弱者ね。
そんなんじゃ、日本の夏は乗り切れないわよ!」
「アイス。お土産に買ってきたの。けれど、蓮子はいらないのね。そう。わかったわ」
「あ、ごめんなさい、メリー様。アイスいります。食べます。ちょうだい!」
「あなたのプライドは紙っぺら一枚より薄いわね」
にこやか笑顔できっつい言葉を蓮子に食らわせてから、メリーは手に提げていたコンビニのビニール袋からアイスを取り出し、彼女に手渡す。
「……溶けてないわね」
「そうね」
「ずっと持ってきた……のよね?」
「そうよ?」
「……そういえば、メリー。あんた、『暑い』って言ってるのに汗一つかいてないわね」
「そうかしら?」
「……………………」
何やら面妖なことが起きているような気がしてならなかったが、蓮子はそれ以上、ツッコミを入れるのをやめることにした。
取り出したアイスをくわえて、『わーおいしー』と意識を別のものへとシフトさせておく。
二人は、部屋の中央に出したテーブルを挟むように腰を下ろして、『さて』と蓮子は言う。
「メリー。実は、あなたに大変なことを伝えなければならないの」
「そう。
いつも通り、『今日はスーパーの特売で、卵がお一人様一つ50円なの。手伝って』というところかしら」
「今回は違うわ!」
『今回は』と言ってのける辺り、やはり蓮子であった。
メリーはアイスを食べ終わると、『それで?』と視線で先を促す。
「これを見なさい」
取り出されたのは一枚のチラシ。
蓮子の住まうこの地区から、電車に乗って東に約一時間。海に面した、小さな町の祭りのチラシだった。
「これがどうしたの?」
「私、これに出るの」
「そう。写真撮影役が欲しかったのね。
30分5000円でいいわ」
「たっか! というか、違うから!」
よく見なさい、と蓮子。
――そのチラシには、『神社の祭事に参加してくれる未婚女性を募集』という内容が書かれている。
そして、蓮子が語るところには、この地域にあるとある神社――今回、蓮子が『祭事に参加する』と言っている神社だ――は、いわゆる『縁結び』だったり『子宝に恵まれる』系統のご利益のある神社であるらしい。
これがまた霊験あらたかであり、特に、今回蓮子が参加する祭事に『巫女』として選ばれた女性は、その一年以内に、まず間違いなく良縁が訪れたり、子供が生まれたりするという。
そのため、この祭りを知っている女性や、それを中心としたインターネットのネットワークではものすさまじいほどの知名度を誇り、特に、今回の祭りに対する応募の当選倍率は100倍を優に突破するそうな。
「それに当たった、と」
「そうよ」
「おめでとう、蓮子」
「やーやーありがとー」
「これであなたも、駅から100メートルごとにナンパされたり、花火大会とか海に行くたびに寄ってくる男に『うざっ』と思える日が来るのね」
「うっさいやい!」
ちなみに、蓮子はメリーと連れ立ってそういう催しごとに出向くことが多いのだが、メリーにはうじゃうじゃと兄ちゃんが寄ってくるのだが、彼女は全くのスルー対象であったりする。
「あなた、恋人とか欲しかったの?」
「何を言っているのかしらね、メリーは」
「え?」
「私の愛はメリーだけに向けられごめんなさい嘘です冗談です笑顔で拳固めるのやめてください怖いですメリーさん」
「本音はどこにあるのかしら?」
いつものセクハラを諦めない蓮子はテーブルに額こすりつけてメリーの許しを願う。その光景は、実にアホらしく、そして清々しいまでに間抜けであったという。
それはともあれ、メリーの言葉に、『いやね』と起き上がる蓮子。
「この地域にさ、ちょっと不思議な話があるのよ」
「へぇ」
「神隠し」
「どこにでもあるわね、そういう噂は」
「いやいや、これが割りと信憑性高くてさ。
何でも、この神社の祭事で巫女として選ばれると、その選ばれた女性が神隠しにあうことがあるっていうの」
「そう」
「しかも、最近もあったらしいわ」
その『最近』と言うのがいつ頃のことなのか、情報の出所と信憑性は、などとメリーは蓮子を質問攻めにしていじめるが、内心では、『また厄介な癖が出たわね』と思っていた。
――蓮子の話を要約すると、その神隠しが発生したのは、今から15年ほど前のこと。
その当時の巫女は、誰が見てもはっとするほど見目麗しい女性であり、まさしく『神の妻』と言うにふさわしい女性だったのだそうな。
そして、神社の祭事の後、彼女は忽然と姿を消した。祭事から一ヶ月ほど後のことだったらしい。
今でも彼女の行方は杳として知れず、家族の間ではすでに葬式まで執り行われたのだとか。
「面白そうでしょ?」
「よくある都市伝説ね」
一言の下にばっさりと切り捨てられ、笑顔を浮かべていた蓮子はその笑顔のまま、硬直した。
「けど、あなたの巫女姿と言うのも、それはそれで面白そうだし。
行くの? 今日?」
「……あ、あー……うん、一応……。
む、向こうに宿も取ったし……ね」
「何、引いてるの。誘ったのはあなたでしょう。
じゃあ、行きましょうか」
「あ、そ、そうだね。
……って、着替えとかは?」
「持ってきてるわ」
「いつの間に……」
相変わらず、その辺りはふしぎのメリーさんであったという。
がたごとがたごと揺れる電車の中。
お昼時ということで駅弁片手の蓮子と違い、メリーは車窓から流れる景色を見つめている。
そうしていると、普通の美人なのになぁ……、と蓮子は片手のお茶を飲みながら思った。
やがて電車は目的地に到着する。
外に下りれば、相変わらずの夏の日差しと共に、ほのかに香る潮の香り。
人のいない小さな無人駅。改札と思われるところに『切符を置いてください』とぞんざいに書かれた小さなかごが置かれているだけだ。
「無賃乗車し放題ね」
「降りられないでしょう」
「それもそうか」
にも拘わらず、券売機だけは立派なものが置かれているのだから不思議なものだ。
駅の外に出る。東西に延びる道路の左右には、小さな商店がいくつかぽつぽつとあるだけ。
「海水浴のシーズンも、そろそろ終わるわね」
「こんだけ暑いなら、まだ海を閉じなくてもいいだろうけどね」
その道沿いに歩きながら、視線を右手側に向ける。
不自然に整備された岸。どこか違和感のある砂浜。そして、どこまでも続く広い海。
それは何とも言えずミスマッチな光景だ。人の手が明らかに加わり、もはやもとの面影を残してないだろうと思われる『自然』と、人の手を加えるべくもない天然の『自然』。
その二つが交じり合った、ちょうど境目に人の姿が見える。
10か20か。もしかしたらもっと多いかもしれない。
「海に入りたいわね」
「メリー、水着持ってきたの?」
「一応。
あなたの分もあるわよ」
「ちょっと待て。何で私のサイズを知っている」
「見ればすぐよ。触れば、もっと簡単にわかるわ」
何となく聞き捨てならないことをさらりと言ってのけたような気がする。
蓮子は頬に一筋、暑さが所以ではない汗を流して、今の発言を聴かなかったことにした。
「宿と言うのはどこなの?」
「もう少し道を戻ったところ」
「あら、蓮子。あそこに海の家があるわ。焼きそば食べたくない?」
「キャベツと砂増し増しはいいよ」
「それが風情だと言うのに」
なぜかちょっと残念そうなメリーであった。
ともあれ、二人は右手側に海を眺めながら道を歩いていく。
まばらだった建物が徐々に充実し始め、それと同時に、歩いてきた太い道から枝分かれする細い道が現れ始める。
そして、人々の生活の息吹が感じられる建物が増えて、辺りは段々にぎやかになっていく。
「男女のカップルが多いわね」
「まぁ、それがご利益だろうし。
別に羨ましくないわよ?」
「蓮子には永遠に縁がないものね」
「海に沈めるぞあんた」
引きつった笑顔を浮かべる蓮子。その言葉も何のそので受け流し、メリーはにこっと笑う。
二人は地図を片手に道を行き、『ここ、ここ』と蓮子が示したところで足を止める。
「小さな神社ね」
町の中にぽつんと、しかし、しっかりと現れる緑色の丘陵。そこを上がっていく石段の手前には鳥居が佇んでいる。
足をしっかり上げて上る必要がある石段を一つずつ、踏みしめながら神社の敷地の中へと二人は足を踏み入れる。
「……涼しいわね」
「自然の力はすごいわ」
アスファルトからの照り返しを受けないだけで、一気に気温が下がるものなのだ、と特に蓮子は実感する。
先ほどまでの不快な暑さは鳴りを潜め、せみの鳴き声すら心地いい感じのする暑さ。こんな暑さは久しく体験してなかった、と彼女は思った。
やがて石段を登りきると、小さな神社が現れる。
正面に社殿、左手側にはお土産売り場。右手側には蓋の置かれた井戸がある。
「……ご利益、ねぇ」
寂れている、というわけではない。
しかし、信仰と言うものを失って久しいだろうと思われる、何となく寂しい雰囲気の神社だった。
「ご神木があるわ」
「歴史は古いのよね」
お土産売り場の奥にある、幹を取り囲むには大人の男が5~6人は必要だろうと思われる大木。
そこには注連縄が巻かれ、小さな立て看板が、この神社と木の歴史を語っている。
「どこで、その祭りは開かれるのかしら」
「その日はこの社殿の入り口が開かれて中に入れるらしいのよ。
で、中で宮司さんにお祓いとお清めを受けて終わりみたい」
「ふぅん」
固く閉められた社殿の入り口。見れば鍵までかかっている。
早々に興味をなくしたのか、『まぁ、明日を楽しみにしましょう』とメリーは言った。
「ここ、神社にも人がいないのね」
お土産売り場には人の姿はなく、『代金はこちら↓』と書かれた札のかけられた木箱と、申し訳程度に御守などが並ぶのみ。
「祭りで町おこしなんて、やっぱりそうそうできるものではないということね」
「寂しいこと言うね、メリーは。現実派?」
「別に。
ただ、ここには何もない。何もないから何も集まらない。何も集まらないところには、結局、何もないのよ」
「意味不明」
踵を返して石段を下りながら、そんな会話をする。
そうして、アスファルトをまた踏みしめると、不快な暑さが戻ってくる。
先ほどまではいいBGMだったせみの声も、今はただの騒音だ。
「そういえば、メリー。日傘、似合うわね」
「そう? ありがとう。
あなたも入る?」
「ん~……。私はいいや。その日傘、ちっちゃいしね」
「あら、相合傘と言うのなら大丈夫だと思うわよ?」
メリーの一言は本気なのか冗談なのか。
ひょいと肩をすくめて、蓮子はそれを流すと、『宿に行こう』と歩き出した。
「カップルが多い、とか言っておいて、わたしの隣に並ぶのはいやなのね」
「何かたかられそう」
「そんなことないわ。使用料、一時間1000円くらいよ?」
「高いっつの」
苦笑を浮かべながら、蓮子は自動販売機でジュースを一つ、購入する。
それを飲みながら歩いていく彼女に、メリーは「蓮子。はしたないわ」と眉をひそめるのだった。
到着した宿と言うのは、小さな旅館だった。
ドアを開けて中に入ると、人のよさそうな女将が二人を出迎え、蓮子が名前を告げると『ああ、あの!』と手を叩く。
「それでは、どうぞごゆっくり」
部屋に二人は案内され、女将が引き下がっていく。
室内は普通の8畳間。感動するほど豪華なつくりでもないし、がっかりするほど残念なつくりでもない。
要は、『普通の部屋』だった。
「よし、メリー! 温泉行くわよ、温泉!」
「それ、本物? 最近は、温泉すら人工物だから」
「ここは天然よ。じゃなければ、この蓮子さんがわざわざお金を払って予約なんてしたりするもんですか! 高いし!」
「あなたにはビジホがお似合いだわ。いや、カプセルでもいいかも」
「カプセルホテルは女性厳禁のところ、多いのよね」
過去に泊まろうとしたことがあるのか、何やら聞き捨てならないことを言う蓮子。
メリーはそれを普通にスルーして、室内に用意されている浴衣を手に取った。
「いや~、楽しみね。メリー。
ここね、天然の温泉を使っていることもさながら、ご飯が美味しいらしいのよ。もう、海の幸全開って感じ?
祭りのこの時期は、ちょっとお値段高くなるんだけど、奮発してよかっ……」
「蓮子。あなた、着つけとか出来る?」
「何で全裸!?」
「浴衣の下には下着をつけないのでしょ?」
「それはそうかもしれないけど、今はダメ! ちゃんと普通に!」
「あら、そう。襲いやすいと思うのだけどね」
「お、襲うとかどうとか、その、えっと……」
何やらよくわからない雰囲気になりつつある現状を打破したのは、外から響く『宇佐美さま、よろしいですか?』という、男性の声だった。
慌てて、蓮子は裸の上に浴衣を纏っているメリーに下着をつけさせ、浴衣の帯を締めてやってから、『は、はーい!』と声を上げる。
「初めまして」
入ってきたのは、齢50かそこらの男性だった。
人のよさそうな顔をしていて、その姿を一瞥して思い浮かべるのは『普通の人』。
「今年の祭りへのご協力、誠にありがとうございます。
わたくし、この祭りの運営委員を務めております――」
差し出される名刺を蓮子は受け取り、『あ、どうもどうも』と頭を下げる。
そうして、二人はテーブルを挟んで向かい合い、『明日の祭りのことですが――』と、何やら相談を始めてしまった。
一人、蚊帳の外のメリーはそれに何の感慨も見せることなく、タオルを手に取ると、「蓮子、わたし、温泉に入ってくるわ」と部屋を出て行く。
温泉に向かう道すがら、メリーの耳にこんな会話が聞こえてくる。
「ねぇ、見た? 今年のお祭りに参加してくれる人」
「見た見た。お若いお嬢さんだったわね」
「最近は若い人が参加してくれなかったから、今年はいつもより華やかになりそうね」
「最近の若い子達は、結婚とかしたくないのかしらねぇ」
「あたしらが若い頃とは違うのよ」
などなど。
旅館の従業員たちから聞こえてくる声に、メリーは少しだけ、眉をひそめる。
「……祭りが盛り上がるなら、そこに誰がいようとも構わないということかしらね」
それが、彼女は気に食わない。
「蓮子だから面白いんじゃない」
相方のキャラをよく知っているメリーは、そうつぶやいた。
この町の祭りとやらがどのようなもので、どのような規模で、そしてどのような神事が執り行われるかなどは知らない。
知らないからこそ、外から入ってくる情報のみで、判断しなくてはならない。
――蓮子から聞かされる祭りの話は、何となくだが、メリーの興味を引いていた。それなのに、だ。
「興ざめだわ」
彼女はそうつぶやき、温泉の暖簾をくぐる。
先客はいないのか、脱衣場には彼女だけだ。さっさと浴衣を脱いで、『そういえば、帰り道はどうしようかしら』と、気付けが出来ない自分を思い出して、しかし、割と深刻なその悩みも華麗にスルーし、裸になると風呂場に続く戸を引いた。
「……あら」
浴場の中は、10ほどの洗い場が壁に備え付けてあり、肝心の湯船は見事な岩風呂だった。
その岩風呂の中に、どんと置かれた巨大な岩。そこに、何かが貼り付けてある。
「これは……」
木の板に文字が彫られている。
そこには、『丹塗矢の伝説』が書かれていた。
「あちこちにあるのね、この伝承は」
古事記にある丹塗矢の伝承は、確か場所は京都だったはずだ。
ここは京都から遠く離れた東の地。しかし、そんなところであろうとも、好き者というか、異性が恋しい神様はいたのだろう。
「赤い矢に化けた神様が、女性の元にやってくる――よくある話」
なるほど、とメリーは得心する。
この地域の神社が縁結びだの子宝に恵まれるだのといったご利益があるのは、この赤い矢の神様のおかげであったらしい。
しかし、とも思う。
「……その神社に、女性が巫女として奉納……?」
それってまさか――。
そう思った瞬間、後ろから、『からから』という小さな音が響く。
戸が開けられた音――しかし、人の気配はない。
反射的に振り返るメリー。その視線の先には何も……いや。
「……赤い……矢?」
入り口のすぐ近く。
そこに、真っ赤な鏃を携えた矢が落ちている。
先ほどまで、あんなものはなかったはず――そう思っていたメリーの前で、いきなり、その矢が鏃を戸の向こう側に向ける。
『メリー、いるー?
いやー、話が長引いちゃってごめんねー』
蓮子の声。
矢は段々、その頭を持ち上げてくる。
戸が開く。
相変わらず、バスタオルで自分を隠そうとしない蓮子。その、頭にくるくらい何も考えてなさそうな、幸せな笑顔を浮かべた彼女。その彼女に向かって、矢が段々と体を上げていく。
メリーは、湯船から飛び出すと、蓮子に向かって突っ走る。
『へっ?』という顔を蓮子が浮かべ、メリーが彼女に飛びついた瞬間、放たれた赤い矢は脱衣場の天井に突き刺さった。
「ち、ちょ、メリー!? 何!? どうしたの!?」
メリーの下で顔を真っ赤にして声を上げる蓮子。
メリーはそれを無視して視線を上に上げる。赤い矢は、その場からすっと、音もなく姿を消した。
その瞬間、確かに尋常ならざる『切れ間』を見せて。
「……蓮子。股間には気をつけなさい」
「はい!?」
「あなたは無防備すぎるわ。気をつけないと妊娠するわよ」
「え? え!? え!?」
メリーの言った言葉を深読みしまくっているのか、蓮子は顔を真っ赤にして声を上げる。
メリーは、そんな彼女を無視して風呂場に戻ると、湯船の中に体を沈めた。
「……今のは……」
丹塗矢の伝承。神に捧げられる巫女。
導き出される答えは一つだが、納得行かないものもある。
――あの赤い矢は何だ? あれは何物だ? 『物』か? 『者』か? それとも『モノ』なのか?
自分にしか見えないもの。
この世界とは別のもの。
自分なら触れるのか? 触ってもいいのか? そもそも、近づいてもいいものなのか?
疑問は尽きない。
「え、えーっと……メリーさん? その……さっきの言葉は何だったのでしょうか……」
「今までモテなかった人間が急にモテ始めると、何をどうしたらいいかわからなくて、結局、全ての縁を不意にしてしまうでしょう?
あなたは隙が多いのよ」
「……意味わからん」
メリーの側にやってきた蓮子は、そうつぶやいて、ぶくぶくとお湯の中に沈んでいってしまった。
「……気に入らないわ」
風呂から上がった二人は部屋に戻る――ところで、またもや蓮子が捕まった。
先ほどの男性が連れてきたのだろう、今回の神事を執り行う町のスタッフに囲まれる蓮子を見て、メリーはつぶやく。
「蓮子。わたし、外で風に当たってくるわ」
もちろん、そんな言葉は蓮子には聞こえない。
蓮子を囲むのは、そのほとんどが男性だ。
中には、蓮子には全くもってこれっぽっちも、これまで縁のなかった若い男性も混じっている。
しかも彼は蓮子に興味でも持ったのか、『ねぇ、どうしてこの祭りに参加する気になったの?』と、何やら親しげに話までしていた。
メリーはその場に背中を向けて、旅館の外へ。
建物の外壁に倣う形で置かれている長いすに腰掛けると、『……暑いわね』とぼやく。
「またお風呂に入りなおしだわ」
天から降り注ぐ日差しは、もうだいぶ傾いてきていると言うのに、その暑さを全く緩めてはくれない。
メリーは知らず、自分の手が、今日、持ってきた日傘を探していたことに気づいて肩をすくめる。
――そういえば、あれは部屋に置いてきたな。
彼女は背中を建物の壁に預けて空を見る。
「……神隠しか」
丹塗矢の伝承はいくつかある。
有名どころでは、枕元に赤い矢を置いていたら子宝を授かった、ということか。
しかし、中には例の赤い矢が何の遠慮もなく女陰を貫き、その相手を妊娠させて子供を産ませたというのもある。
この地に伝わる丹塗矢がどれに当てはまるかは、言わずとも知れる。
「……あれは……」
果たして、何だったのか。
自分はついに神様の姿まで見えるようになったのかと思う。
この世界ではない、どこか別の世界を見ることはあっても、そんな限定されたものまで見えたことなどなかった……はずだ。
「不思議なものね」
立ち上がり、旅館の中に戻る。
蓮子たちはどこかに行ってしまったのか、その空間はしんと静まり返っている。
つと、視線を向けた先にあるお土産屋。
そこには温泉饅頭を筆頭に様々なものが並んでいる。その中に、先ほど風呂場で見た、あの赤い矢そっくりの『土産品』があるのを、彼女は見逃さない。
「……」
それを手にとって、メリーは何やら考え込む。
このお土産屋を任されているらしい従業員が、「実は、この地域にはですね――」と、メリーがそれに興味を持ったと判断したのか、営業トークを展開してくる。
彼女はそれを聞き流して、手にした赤い矢を購入した。
ありがとうございます、という店員の笑顔に笑顔で返して、彼女は店を後にする。
そうして、部屋の中に戻ってきた彼女は、手にした矢を両手で掴むと、思い切り力を込め、それをへし折ってしまった。
「気に入らないわ」
へし折ったそれを自分の荷物の中にしまってから、彼女はつぶやく。
「蓮子は本当に、間抜けなんだから」
一体いつ購入したのか、荷物の中から、不思議とよく冷えているビールの缶を取り出すと、その口を開けて中身を口にする。
無論、友人の分も購入していたらしく、取り出したそれをテーブルの上にぽいと置いた。恐らく、蓮子が戻ってくる頃には、ちょうどいい具合にぬるくなっていることだろう。
「……神隠し」
そしてもう一度、彼女は小さな声でつぶやいた。
「蓮子」
「……何よ」
「あなたに聞きたいことがあるわ」
「あのぬる~いビールの嫌がらせに続いて、今度は何を仕掛けてくるつもりよ」
――夕食時。
蓮子は『いやー、大変だったわ』と笑顔で部屋へと戻ってきた。その際にメリーから飲まされた、超絶ぬる~いビールをまだ根に持っているのか、目の前の刺身などに舌鼓を打っていても機嫌は直っていない。
「明日、朝のうちに帰ることは出来ないかしら?」
「は?」
「そのままの意味よ」
ご飯(二杯目)を口に入れながら、メリー。
蓮子は首をかしげた後、『どういうことよ?』と尋ねる。
「今回の祭りに参加するのを、わたしは歓迎しないということよ」
「どうしてまた。
あんた、結構、曰くつきの催しごととか好きでしょ」
「人を物好きみたいに言わないで欲しいものね。
わたしが好きなのは、色々な『不思議なもの』よ」
「……どう違うのやら」
蓮子は今日のメインディッシュである厚切りステーキを口に入れながら、『どういうことなの?』と、もう一度尋ねる。
「あなたは神隠しの話をしていたでしょう?」
「してたわね」
「自分がそれに遭うのを期待しているのかしら」
「へ?」
「不思議なもの、不思議なところ、そして不思議そのもの。
様々な『モノ』に手を伸ばすと言うことは、自分の元にそれが返ってくることもあるというのを甘受することになる――違う?」
「まぁ……ね」
「で?」
「……う~ん。
正直、今回のネタは都市伝説の域を出てないと思ってるしさ。単に、縁結びの神様、ってやつに期待してただけ……っていうのが本当のところなんだけど……」
私はあんたみたいにモテないし、と蓮子は言った。
「モテたいの?」
「……別に。
だー、もー! 何でそこまでかみつくのさ!」
「……気に入らない。それだけよ」
恥ずかしさからか、顔を赤くして大声を上げる蓮子を見て、一言、メリーはつぶやいた。
そして、それっきり、彼女は何も話さなくなってしまう。
「……何よ。もう」
ふてくされる蓮子。
メリーは、そんな彼女を無視して、おわんに三杯目のご飯をよそうのだった。
翌日は、とにかく朝から忙しかった。
朝食を食べた後、先日やってきた祭りの実行委員の男性が訪れ、蓮子を連れて行ってしまう。
それについていったメリーは、蓮子と共に祭りの会場へと案内され、そこに設営されたテントの中に招かれる。
そして、『今日の予定はこうでこうでこうでこうなります』だの、『宇佐美さんはこちらからこのように登場してこうしてこうで――』だのといった話が延々行われる。
地域として、この祭りに力を入れているのだなと感じ取れると共に、実にめんどくさいやり取りであった。
そうこうしているうちにテントの外も騒がしくなってくる。
前日のうちに設営された祭りの会場には人々がちらほら集まりだし、石段の下の道にはいくつもの出店が姿を見せる。
先日の寂れた様子などなんのその。にぎやかな境内を眺めながら、メリーはつぶやく。
「うざい」
彼女をナンパしていた青年は、メリーがご機嫌斜めなことにようやく気づいたのか、顔を引きつらせてすごすご退散していく。
彼女は日傘をくるくる回しながら、小さく肩をすくめる。
「気に入らないわ」
もう何度目だろうか。
同じセリフをつぶやいた彼女は、出店で買った焼きそばを、片手で器用に口にする。
――と、
「ねーねー、メリー! 見て見て!」
メリーの不機嫌など知ったことかとばかりに、笑顔の蓮子がやってくる。
それが今日の彼女の衣装なのだろう、白無垢と巫女服を合わせたような衣装に、彼女は袖を通している。
「どうよ。なかなか見れるようになるでしょう」
「馬子にも衣装とはこのことね」
「をい」
胸を張る蓮子にずばっと感想を返して、メリー。
蓮子は『ったくもー』と盛り上がっていた気持ちに水を差されたことに不愉快な視線を返してから、
「とにかくさ、せっかくのお祭りだし。楽しまないと」
ね? とメリーの肩を叩いて、踵を返す。
メリーは何も言わない。
応えないまま、彼女は焼きそばをすすった。
「……あんた、器用なことしてるよね」
去り際に、肩越しにそんなことを言って、蓮子は歩いていく。
そうして――しばし。
「ふぅん……」
辺りに祭囃子の音色が響き渡る。
人々の喧騒に混じって響き渡る、その軽快な音色は、何となくではあるが心を打つ。
今の世の中にも、こんな風に、昔の情緒を忘れない催しごとがあるのだなと、メリーは思った。
蓮子の言うように、ここでいつまでも不機嫌な状態でいても仕方ないかもしれない――そう、彼女は考えた。
確かに気に入らない。
色々なものが気に入らない。
気に入らないのだけど、どうすることも出来ない。何かしないといけないとわかっていても、体が動かない。
理性と言うやつは実に邪魔くさいものだ。
そう、彼女は考える。
もしも自分が、考えのまま、行動が出来る人間だったら。
しかし、それはすでに人間ではないのだな、とも。
「面倒くさい」
また声をかけてくる男性に、ずばっと、そんな心情を吐露する。
その男性も顔を引きつらせ、背中に縦線背負って退場していく中、祭りの賑わいはどんどんと高まっていく。
視線を、彼女は神社の社に向ける。
未だ開かれない社殿の奥への扉。それをじっと見据える彼女を、何か奇異なものを見るような目で、祭りにやってきた者たちは眺めていく。
彼女の足は前に進む。
社殿の前に申し訳程度に置かれた椅子には、この神社のご利益に預かろうとする男性女性で一杯だ。
旅館の従業員たちは、『若い子が来ない』と嘆いていたが、とんでもない。若い人間ばかりであった。
そんな彼らに椅子は全て占拠され、仕方なく、メリーはその場に佇んで社殿を眺めることにする。
音楽が流れる。
響き渡る音色の中、回りがひときわ大きな声を上げる。
視線を左手側に向ければ、化粧をした蓮子が宮司の男性に案内され、歩いてくるところだった。
「馬子にも衣装」
そうして、しゃなりしゃなりと歩いているさまは、とてもではないが、普段、大いびきをかいて部屋の中で大の字になって寝ている人物と同一人物とは思えない。
化粧をした人間の腕前もいいのか、蓮子の素顔を知っているメリーでも、一瞬、『あら、美人』と思えるほど。
彼女くらいの『供物』なら、さぞ、神様も喜ぶことだろう。
――そう思って、メリーははっとなる。
「……あ」
ゆっくりと、にぎやかな囃子が遠ざかっていく。
ゆっくりと、世界がスローモーションになっていく。
ゆっくりと、目の前から色が失われていく。
その中に残るのは、鮮やかな白無垢の白い色。
ああ、とメリーは思った。
神隠しとやらは、こういうものなのだな、と。
全部が消え去る世界。
それまでそこにあったものがなくなってしまう世界。
そこに取り込まれることが、この世から消えてしまうことなのだな、と彼女は思った。
蓮子と宮司の足が止まる。
ゆっくりと、もったいぶった様子で社殿の扉が開いていく。
そこから、世界に色が戻っていく。
鮮やかな赤。
赤い矢。
奥に備えられたそれが御神体なのか。
真っ赤なそれを携えた、赤い鮮やかな世界。
大きく口を開けて、獲物を待っているかのような。
どこにもない、どこでもない世界に連れて行ってしまうような。
そんな赤。
メリーは思った。
――気に入らない。
「わわっ!?」
次に響いたのは、蓮子の声だった。
同時に、祭りの会場に動揺が響き渡る。
メリーは一気に社殿に駆け上がると、宮司を突き飛ばし、その奥に入ろうとしていた蓮子の腕を引っ張って引き戻すと、御神体として据え置かれている、古びた木の矢めがけ、手にした日傘を投げつけていた。
「ちょっと!? メリー! あんた、何してんのよ!?」
蓮子の声が耳に戻ってくる。
それはとても、心地よい。
メリーの気に入っている、蓮子の声。
「言ったでしょ? 蓮子。
気に入らない、ってね」
そう言って、メリーはにっこりふんわり、いつもの彼女らしい笑みを浮かべるのだった。
「……もう。
どうすんのよ、この後始末……。うちら、完全に、あの地域に出入り禁止じゃない!」
「あら、別にわたしは構わないわ」
帰りの電車の中、蓮子は頭を抱えていた。
メリーの投げつけた日傘は、あの神社の御神体を直撃し、見事に木っ端微塵に粉砕してしまった。
当然、祭りと言う名の神聖な儀式を受け継いできた宮司やら神社の関係者やらに『裁判を起こすぞ!』とまで怒られた。
しかし、メリーはそれにすらあっさりと、『あら。それなら、この祭りに参加した人は神隠しにあうという不名誉な話題を拡散されてもいいのかしら』と答えている。笑顔で。
その圧力に屈したのか、それとも、もう言ってもダメだと判断したのか、彼らは蓮子とメリーを解放して、『もう二度と来るな!』と言葉をたたきつけていた。
「警察に連れて行かれなかっただけよかったものの……」
「ああ、久々に清々しい気分だわ。
ねぇ、蓮子。帰りに美味しいレストランに寄っていきましょう。わたしがおごるわ」
「メリー。どうしてあんなことしたのよ?」
頭を抱えていた蓮子がようやく顔を上げる。
その視線の先には、笑顔のメリー。
実に彼女らしい――いや、いつもよりも数段、きれいでかわいくて、そして清々しいまでに底の抜けた笑顔を浮かべたメリーを見て、蓮子は言う。
メリーはあっさりと答えた。
「股間に気をつけろ、って言ったでしょ? あなたは隙が多いのよ」
隣に座る彼女の股の間に手を差し込んで、ぐっと、その手を押し付ける。
ひゃっ、と蓮子は声をあげ、辺りをきょろきょろ見回した。
人の姿は、ない。
「な、何すんのよ」
「気に入らないのよ。わたし」
「だから、何が」
「あなたが誰かに取られてしまうのが」
「……へっ?」
さらりと、メリーは言う。
「何が気に入らないのか、ようやくわかったわ。
あなたが誰かに取られて、誰かのものにされてしまうのが気に食わなかったのよ。
あの神様はスケベにも程があるわ。そして、無礼にも程がある。
蓮子が欲しければ、まず、わたしに話を通すべき。そう思わない?
そうよ。そうに違いないわ。
最初にあの神社に行った時、何もいないと思ったら、あのスケベな神様は女の子を探しに行っていたのね。全く。
蓮子。あんな不埒な神様にめとられなくてよかったわね。感謝してね」
「えーっと……」
「丹塗矢の神様は、みんな、自分勝手な上に色に正直すぎるのよ。
相手の気持ちも考えるべきだわ。全く」
なにやらぷんすか怒り出すメリーに、蓮子の頭の上に『?』マークが山のように浮かんで消える。
つまり、何が言いたいのか。
蓮子がそう問いかけると、メリーは答えてくれる。
「だから、言ったでしょ。
わたしはあなたが誰かに取られるのが気に入らないの」
「……えーっと、それって……」
「蓮子。
わたしは、好きであなたと一緒に歩いてる。あなたがわたしを誘ったのが運のつき。わたしは、ずっとあなたと一緒に歩いていくわ」
「……えーっと」
「たとえ、この世界の果てだろうとも。
たとえ、この世界ではないどこか別の世界だろうとも。
わたしはあなたについていく。
そして、わたしをあなたから引き離そうとする奴は気に入らない。あなたがわたしから引き離されたとしたら、どこまででも追いかけていく。
わたしの力は、そのためにあるのよ」
「……えぇぇぇぇっと……」
それってつまり……、と蓮子はメリーの言葉を反芻する。
「……つまり?」
しかし、やっぱり最後の肝心なところは相手に聞いてしまう辺りが蓮子であった。
メリーはこともなげに言う。
「あなたと一緒にいると、やっぱり楽しいわ。
これからもよろしくね」
さらりとはぐらかすように見えて、いくらでも深く考えられる言葉。
そう言って微笑むメリーの顔は、とても満足そうな笑顔に輝いている。
まるで、『今日のわたしは100点満点ね!』と宣言しているかのように。
「……はい。すいませんでした」
そして、なぜか謝ってしまう蓮子であった。
「さあ、蓮子。
今日の晩御飯は期待していいわよ。そのお店、料理がとても美味しいのよ。一緒に行きましょうね」
「……手加減してください」
「あら、わたしがおごるのだもの。気にしなくていいわ」
「……そういうことじゃなくて」
「うふふ。
ああ、今日は本当にいい日だわ。誘ってくれてありがとうね、蓮子」
ウインクして、メリーは言う。
なぜだか、その彼女の笑顔を見て、蓮子の頬に汗が一筋流れたのだが――それが何を意味するのかは、彼女のみぞ知るというところであった。
秘封倶楽部にはどこか離れ離れになってしまいそうな儚さがあるだけに、
どこまでも追いかけていくというメリーは頼もしいです
あと多神教の世界の神様ってエロいのが多いですよね
珍しい蓮メリでした
メリーさんの雰囲気が鋭すぎるかな
さりげない伝奇っぽさもグッドでした