「んー?」と輝夜は首を右にかしげた。
その首がだんだんともとの位置に戻っていき、しかし行きすぎて左に少しかたむいたとき、口を開いた。
「なんだか男性みたい」
輝夜が妹紅の家の戸をノックしたのは今さっきのこと。
お昼で暇だったので、いっしょに人里のお饅頭屋に行こうと誘うつもりだったのだ。
「妹紅、いるー?」
戸の前で呼びかける。「饅頭屋に行きましょー」
家中で物音がした。どうやら妹紅はいるらしい。
もうすぐお饅頭が食べられる――。そう思うと輝夜の口内はよだれで満たされた。
がらりと戸が開いた。
「さあ、お饅頭屋に――」
続きの言葉はよだれとともに飲み込んだ。ごくりと喉が鳴る。
妹紅の髪がショートになっていた。あの腰まであった銀髪は、今では耳を半分しか隠せていない。前髪もまゆ毛の数センチ上で切られている。
どうやら彼女の髪は少しくせっ毛らしく、短くなったせいで髪型が全体的に丸っこくなっていた。
妹紅が不機嫌面で応える。
「今、忙しいんだよ」
「んー?」と輝夜は首を右にかしげた。
不機嫌面やしぐさ、声色を鑑みて、この人物は妹紅で間違いがないだろう。
しかし、この髪型には肝をつぶされた。数百年のつき合いだが妹紅のショートヘアなど初めて見た。ずっとロングだったのだ。
「なんだか男性みたい」
「うるせえ」
かなり粗暴な言い草。虫のいどころが悪い証拠である。
彼女が不機嫌なのは珍しいことであった。妹紅が輝夜を憎んでいたのはもう昔。現在では二人は友達のような関係になっていた。
いっしょに人里にも行くし、お互いの家に招いたり招かれたりも最近ではしばしばある。おたがい、過去の暗い感情はほとんど清算されているのだ。
だから輝夜は妹紅のこの態度には少なからず驚いていた。
「その髪型でそんな口調だと、まるで無頼漢みたいよ」
今度は無言で睨めつけてきた。だが輝夜はひるまない。そもそも妹紅の睨みはそれほど恐くないのだ。
ふと、相手の肩に銀糸のような髪がのっていることに気づいた。どうやら散髪をしていたのは今しがたらしい。
「自分で切ったの?」
「……そうだよ」
髪先はいっとうそろっていない。素人とはこういうものである。
「どうして髪切っちゃったの? あの長い髪の毛、私は好きだったのに」
そこで妹紅は不機嫌の色を濃くした。右の口もとを吊りあげ、眉間にしわを寄せる。
「お前には関係ない」と吐き捨てるように言った。
それはそうだな、と輝夜は納得した。こちとらただの好奇心で質問をしているので、相手の機嫌を害するというのならこの話題はよしにしたほうがいいな。
「なら話を変えましょう。レッツゴー、饅頭屋」
「今日は行かない」
「なんで? 行きましょうよ」
「行きたくない」
輝夜はしばし考え、もしかしてみなにその髪型が見られるのが嫌なのではないかと思った。
白くて全体的に丸っこい――どこか饅頭に似たその髪型が。
「大丈夫よ。そのお饅頭みたいな髪を気にしているのなら、なにか被れば問題なしだわ」
「それじゃねえよ、理由は」
また乱暴に言うと、きっと輝夜を見た。そして、
「いいから帰ってくれ!」
と怒声を浴びせて、戸をぴしゃりと閉めた。
輝夜は目を丸くしながら呆然とする。しかし、そのうち心のなかにふつふつと煮える熱い感情が湧き出してきた。
「今から手のひらを返して行くって言っても遅いんだから!」
大きな声で言う。輝夜は頬をふくらませ、ずんずんと迷いの竹林を歩き出した。
なんなのだなんなのだ、と胸中は自問でいっぱいになる。
――よくわからないことだらけだ!
なんだか叫び出したい気持ちにもなった。
もしかして、髪型を饅頭みたいと言ったのが悪かったのだろうか?
だって似ているのだもの。白色で、くせっ毛のせいで丸っこくて――
輝夜の足が止まった。今、不思議な感じがあった。
なんだか懐かしいと思ったような……
くせっ毛。声に出さずにふたたび呟いてみる。
心臓が少しだけ速くなった。
なぜ? なぜこんな気持ちに?
くせっ毛――どういうわけだか、その言葉は輝夜の埋もれた記憶とわずかに共鳴したのだった。
黒髪少女のコンプレックス ~His treasure is immortal~
「私は今、ぷりぷり怒っているわ!」
「そうか、それは大変だ」
眼鏡をかけた慧音が子供たちのテストの採点をしていた。シュッシュッ、シャッシャッとマルとバツをつける音がリズムよく響く。
慧音の部屋に来ていた輝夜がふたたび喚く。
「もー、むごいわむごすぎるわ!」
「そうだな」
「饅頭屋に行くのを断るなんてひどすぎる。私に死ねと言っているようなものよ」
「ああ、まったくだ」
「妹紅の次位で、話をまったく聞いてくれない慧音がひどい」
慧音はちらりと輝夜を見て、大儀そうにため息を吐いた。それは、へそを曲げた生徒をなだめる前に出るため息と似ていた。
「いきなり人の家にやってきて、わあわあとずっと騒ぎ立てる。どう考えてもお前が一番ひどいと思うが」
「あなた先生なんでしょ。慰めるのは上手なんじゃないの?」
「あいにく、千歳児を相手にするのは今日が初めてだ」
赤ペンを文机において頭をかく。「第一、そんなに饅頭が食べたいなら一人で行けばいいだろう」
輝夜は首を振った。此奴はなにもわかっていないな。
「いやよ。お饅頭屋は妹紅と行くというのが不文律なの」
「ならあきらめろ」
「やだ。饅頭が食べたい」
「戸棚にどら焼きがあるぞ」
「食べるわ」
「食べるんかい」
饅頭の仇をどら焼きでとる――悪くない気がした。というより、甘いものが食べれるならなんでもよかった。
眼鏡をはずして慧音は目がしらを揉む。正座をしながらわくわくしている輝夜を見て、
「お前の相手をするのは、子供の相手をするのとまったく同じだ」
と小さく言った。
「どら焼き美味しー」
満面の笑みでどら焼きをほお張る輝夜。機嫌はとうに直っていた。曲がったへそはもとの位置に戻っている。
「お前はほんと刹那的だな」
慧音は二つの湯のみにお茶をそそぐ。「羨ましいくらいだ」と言いながら相手の前に湯のみをおいた。
輝夜がぺこりと頭をさげて、それを持つ。一口すすってから「ぷはー」と幸福感を吐息ににじませた。
残りのどら焼きを口に放り、輝夜が言った。
「このどら焼き、栗が入ってるのね」
「ああ。もしかして嫌いだったか?」
「今、私はあなたにキスしてあげたいわ」
「口に合ってなによりだ」
二個目のどら焼きを手に取る輝夜を見て、慧音は目を細めて苦笑した。彼女もどら焼きをかじる。
「――ところで」
かじったどら焼きを飲み込む。「お前はなんで私を訪ねてきたんだ?」
輝夜の噛むスピードがあがる。もぐもぐもぐもぐ。ごくりと嚥下してから言った。
「気がついたら人里にたどり着いてて、でも人里には慧音ぐらいしか友達がいないから、しょうがなくここに来たわ」
「しょうがなくでうちに来るな」
「妥協して?」
「意味が変わってない」
どら焼きを没収するぞ――と慧音が言うと、輝夜は慌てながら自分の背後に隠した。
なんと恐ろしいことを言うのだ、この半獣は……。輝夜は頬をぷっくりとふくらませて不満を露わにした。
私からどら焼きを、ほくほくの栗が入ったそれを、奪うのか。むごい、むごすぎる。
「悪魔! 鬼教師!」
「まさかそこまでなじられると思っていなかった。これは私が悪いのだろうか」
「オールエイズブルーワンピース!」
「いや服装はいいだろ」
慧音はため息を吐き、「大丈夫だ、別に取りはしないよ」とやわらかな口調で言った。
しばらく犬歯を剥いて相手をうかがっていた輝夜も、おずおずと食事を再開した。
「お前は子供に似ていると思っていたが、犬にも似ているな」
呆れた声色でもらすと、輝夜は「ワン」と鳴いた。
「――そういえば、お前は、妹紅になにかしたのか?」
最初に訊ねておくべき質問がやっと出たのは、慧音がどら焼きを半分、輝夜が二個を胃袋に収めたときだった。
輝夜は最初はなんのことかわかりかねていたが、昼のことを思い出して「そういえば」とうなずいた。
続ける予定の言葉はもちろん「そんなこともあったわね」である。彼女のなかでそれはもはや遠い過去である。
「いんや、なにもしてないわ」
「本当か?」
「本当と書いてマジと読む」
「胡散くさいなー」
輝夜がぐっと立てた親指を胡乱な目で眺める。
「信じてくれないと秘技『泣く』を使うわ」
「大人がたやすく使っちゃいけない秘技だろ、それ」
そういえば――輝夜は声をあげた。
「あの子、髪を切ってたわ。ばっさりとね」
妹紅の髪型を思い返す。そういえば、冥界で庭師をつとめる少女と似ているな、と思った。
それだけ――こともなげに輝夜は話を締めた。
絶対ロングのほうが似合っている、と感じながら自分の湯のみにお茶をそそぐ。
「あなたも飲むでしょ?」
訊ねながら前を向いた。
慧音が沈痛な面持ちで腕を組んでいた。その両目には、確かに悲しさがやどっていた。
輝夜は言葉を失う。茶からあがる湯気は所在なさげに消え入っていく。
「――髪はどのくらいの長さだ?」
慧音はゆがませた口もとを動かして、重い声を出した。
「ショート、ぐらいかしら」
そうか――彼女の相づちの言葉はため息といっしょに出た。
「そうか、もうそこまで来たか」
続けたセリフは、輝夜には皆目理解できなかった。
「そこって……どこよ」
唇をとがらして質す。話に追いつけないことにいささかのいら立ちを覚えていた。
「安心しろ、すべて説明するから」
答えて、慧音は急須に湯を入れて、そして自分の湯のみにお茶をそそいだ。
さっきまでの和気は、彼女の淹れたお茶の湯気とともに霧散していた。
たっぷりと間を空けてから口を開く。
「前提の確認をしておきたい」
慧音はすっと目を細めた。
「お前は、妹紅が父親に深愛の情をいだいていることを知っているか?」
鋭い眼光は、教師としてのものでなく、ましてや半獣ゆえのものでもなかった。
それは知己を心配する友人が放つ眼光であった。
輝夜はため息を虚空に溶かす。
「……まあ、一応ね。昔、あの子の父親を理由に殺し合っていた仲だから」
傷つけ合わなければ顔を見れない――そんな時期が、輝夜と妹紅にはあった。
父の恨みと輝夜を幾度も焼いた妹紅は、最初のうちはよく涙を流していた。
歯を食いしばり、涙を流していた。
その涙は彼女の紅蓮を濃くさせ、大きくさせ、されど鎮火させることなど一度もなかった。
数度の焼死をへて、輝夜は理解した。
自分が過ちたことを。
妹紅が父親にいだくそれを。
「妹紅自身は父親を嫌っていたと言うんだ。しかし信じる奴などいるわけないじゃないか。あんなうれしそうな顔で父親の生を、あんな悲しそうで父親の死を語られたらな」
彼女と普通のつき合いをするようになってから、一度だけ父親の話になったことがある。その話題はひどくデリケートなものなので、二人とも平素は触れないものだった。
だけどどういう脈絡か、妹紅が言った。
「私は、父親に頭を一回しか撫でられたことがないんだ」
そのとき、千年以上生きてきた輝夜はこの世でもっとも儚い笑みを見た。
「――つまり」
輝夜は口もとをゆるませる。「あの子はファザーコンプレックスを持っている、ってことでしょ?」
自分がグレーゾーンの発言をしているのはわかっていた。だけどついついさっきまでの和気が恋しくなってしまったのだ。
真面目な空気が苦手な彼女である。
呆れたように慧音も頬をゆるめた。
「もう少し言い草を考えろ。あいつにそれを言うと反駁するぞ。私は父親が大嫌いだってな」
「なんでそこまでムキになるのかしらね。認めちゃえばいいのに」
「でも昔は父親のことでみなから色眼鏡で見られていたらしい。だから案外本当なのかもな」
ふふっと笑う慧音。そんなことないぐらい、知っている顔だなと輝夜は思った。
「それと、あいつはくせっ毛というワードも禁句だ。なかなか気にしているらしい」
ふたたび昔々の記憶が揺れる。あと少しで手が届きそうなのだ。
歯がゆい思いをしつつ、頭のなかでは、昼に妹紅に言った『饅頭みたいな髪型』という発言はセーフかどうかの審問が行われていた。
「ところで」
セーフの判決を出してから輝夜が言った。「髪を切った理由は結局なんなの?」
ああ――慧音がうなずく。そして照れくさそうに頬をかいた。
「それはな、まあ言ってしまえば、すごくあいつらしいものなんだ」
「あいつらしいって?」
「まあ、お前の言うところの『ファザーコンプレックス』らしいもの、ってことだ」
理由はとても純粋なんだとつけ加えた慧音は、おもむろに口を開いた。
「実はな――」
◆ ◆ ◆
私たちはどら焼きのなかを歩いているのかもしれない、と輝夜は思った。餡子のような黒さがあたりを支配しているからだ。
斜め後ろを歩く妹紅をせかした。
「早くはやく」
「早くって言ったって、私は夜の道をお前みたいにずんずん進めるわけないじゃないか」
「じゃあ手を繋ぐ?」
「え、遠慮する」
迷いの竹林をつき進む二人。空に月はない。
「なあ、これからなにをするんだよ」
「永遠亭に着いたら教えるわ」
慎重に一歩一歩踏みしめる妹紅に対して、輝夜はとにかく歩く。
迷いの竹林は平地ではないのに恐れはなく、なぜだかつまずく気がしなかった。
「……今日は慧音にところに行って、どら焼きをご馳走になったわ」
後ろを振り返る。妹紅の白い髪が夜の闇のなかでもぼおっと見える。
短く切られたそれらは、妹紅がうつむいたときに揺れた。
「昼のこと、怒ってるか?」
「あのときはあなたの家に餡子でも塗りたくってやろうかと思ったけど、今は怒っていないわ。それに、栗入りのどら焼きの美味しさに気づけたしね」
「ごめん」
「いいって。また今度行きましょ」
そうじゃなくて――妹紅は首を振る。
二人は足を止めた。
「昼は……言いすぎた」
ごめん、とふたたび呟く。
輝夜はしばらく黙ってから、すたすたと妹紅に近づいた。そして右手で相手の左手をにぎる。
はっと顔をあげる彼女に、ほっこりと微笑む。
「夜道は危ないわ。手を繋ぎましょう」
返事はない。しかし、にぎった右手が邪険に払われることもなかった。
夜目が利いたおかげで、妹紅が顔を赤らめているのがわかった。
いいじゃないか、と輝夜は思った。ロングじゃなくてもいいじゃないか。ショートでもべらぼうに可愛いじゃないか。
空を見あげる。月はない。
こんな可愛い妹紅を見なくてもいいの?――心のなかで月に問いかけた。
髪を切った妹紅を見たとき、永遠亭の面々のリアクションはみな違っていた。
玄関で出会ったてゐは、「失恋は誰にでもあるから、元気出して」と本気で心配していた。
廊下で会った鈴仙は、「どちらさまでしょう?」と目を丸くさせながら首をひねった。
ちょうど自室から出てきた永琳は、「斬新」と一言で評した。
「――永遠亭にいると、飽きないだろ」
輝夜の部屋に入りながら、苦笑いの妹紅が訊ねる。
「そうね」
うなずきながら輝夜は障子を閉めた。燭台を探してろうそくを灯す。
「お前の部屋に来るのは初めてかもしれないな」
きょろきょろと辺りを見回す妹紅。そうだったかしらと輝夜は思案する。
「覚えていないわ」
ここに座ってちょうだい、と言うと妹紅は落ちつかない様子で畳に腰をおろした。
「なにをするんだよ」
「ちょっと待ってて」
彼女の正面に、布をかぶった細長いものをおく。
「これは?」
輝夜はへっへっへーと誇らしげに笑いながら布を取った。
それは、姿見であった。鏡にはあぐらをかいた妹紅がすっぽりと収まっている。
妹紅は苦そうな顔で自分の髪型から目をそらした。
「まさか自分とにらめっこをしろなんて言わないよな」
「もちろん」
引き出しをあさっている輝夜がつけ足す。「でも、しばらく自分の顔を見ててもらうことになるかもね」
「どういう意味?」
あったあったと嬉々とした声を出して、妹紅の背後に立った。
手の持っているなにかを鏡に写して、相手に見せる。
「あなたの髪を梳こうと思って」
輝夜が持っていたのは、茶色のベッコウでできた櫛だった。
妹紅はきょとんとした顔で鏡に写ったそれを見ている。
輝夜は相手がなにかを言う前に櫛を髪に通し始めた。
「い、いきなりなんだよ」
「特に理由はないわ。なんとなくの思いつき」
丁寧に丁寧に梳いていく。
妹紅がしばらくもごもごと口のなかで言葉を転がしていると、
「安心なさい。こう見えても私は髪を梳くのがとても上手いわ」
と輝夜が言葉をかさねた。
「……ほ、ほんとかよ」
「ええ、紛うことなき真実よ。どのくらい上手いかと言うと、昔ね、私に髪の梳き方を教わりに来た人が一人いたぐらいよ」
「そいつはずいぶんと暇な奴だったんだな」
「ずいぶんと素敵な人だったわ」
妹紅はまごつかせていた言葉を全部飲み込み、ただほんのりと笑みながら鏡のなかの輝夜を眺め続けた。相手は梳くのに夢中で気づいていない。
意外だな……。
輝夜は手を止めることなく考える。
梳く前は強いくせっ毛だと踏んでいたのだが、実際に櫛を当ててみるとたやすく通る。
くりんとしていた毛がどんどんストレートになっていった。妹紅の髪は白いので、真っ直ぐになったそれはまるで――
「――冷麦みたい」
「例え方……」
妹紅が鏡越しに悲哀の視線をよこしてくる。輝夜はぐっと親指を立てた。
――そう、白いのだ。
ろうそくの明かりをきらきらと反射するその白髪は、残酷なくらいに美麗である。
彼女の髪は銀色に近いと昼までは思っていたのだが、間近で見るとそれはどちらかというと白色だった。
白色。
他の色を排した、生粋の純白。
そして――
黒色の、対称の色。
そろそろ踏み込むか、と輝夜は覚悟を決める。
「――あなた、昔は黒髪だったんでしょう?」
ろうそくの灯火でできた妹紅の影がゆらりと揺れる。影は曖昧でありながら、しかし吸い込まれるような黒で塗りつぶされている。
私はそれと最後まで向かえ合えるのだろうか――輝夜は不安になった。
「……そうだよ」
妹紅がうなずく。鏡のなかの、彼女の虚像はかわいた笑みを浮かべていた。
「昔はお前と同じような黒髪だったんだけどな。蓬莱の薬を飲んでからちょっとずつ白色になっていって。いやー、驚いたよ」
半分ぐらいは梳かしおえた。だけど輝夜は手を休めない。
「ほんと、どうしてだろうな。そういえば輝夜はなんで黒髪なんだ? 永琳も私も髪が白いのに」
「月の民と地球の人間とでは、微妙に体質が違う、って永琳が言ってたわ。さして興味もなかったから詳しくは聞いていないけど。それと、永琳は服薬する前からあの色よ」
「そうなのか」
妹紅の笑みはくずれない。
「最初はとにかく驚いた。みんなからもおかしな目で見られたし。まあ、飲んだ私が悪いんだけどね」
「でも参っちゃうよ」と言って、そのあとに小さな声で「ほんと、参っちゃうよ」と続けた。
「ねえ、妹紅?」
そこで、輝夜が手を止めた。鏡の妹紅の目をしかと見る。
すうっと息を吸った。
「お父さんに褒められた黒髪が白くなるのは、怖かった?」
『実はな、あいつは子供のころ、自分の父親に髪を褒められたんだ。きれいな黒髪だなって。それから妹紅は髪を気にするようになったらしい。単純だと思ったか? でもな、大好きな大好きな父親に言われたその言葉が、どうしようもなくうれしかったらしいんだ』
昼の慧音の話を思い返す。それは輝夜の知っている妹紅ではなく、いち娘としての彼女の話。
妹紅はもう笑っていなかった。
「ごめんなさい、愚問だったわ。怖くないはずがないわね」
「ち、父親は関係ないさ」
「あなたは自分の白い髪がとにかく嫌いだったんでしょ? 慧音が言っていたわ。妹紅が髪にたくさんのリボンを結わえる理由は、それでもなんとか白い髪を受け入れようとしている証だって」
彼女は沈黙している。ときおり口を開きかけるが、すぐに閉じられる。
「そして今日、とうとう耐えきれなくなって髪を切った。千年越しのコンプレックスから逃げるために」
どんな気持ちだったのだろうか、と輝夜は想像してみる。
黒髪が白くなっていくのは。大好きだった人に褒められたものが、だんだんと自分から失せていくのは。
だけどちっとも想像できなかった。それは、ひとえに自分の髪が大切な人に褒められたことがないからだろう。
鏡はあきらめたような顔をした妹紅の像を写している。
「私はさ」
ため息を一つ吐く。「父親のことが嫌いだったよ」
輝夜は応えずふたたび髪を梳き始めた。
「でも、それ以上に自分のことも嫌いなんだ」
懺悔するように、あるいはなにかに縋るように言葉を続ける。
「父親はとにかく私に愛情をそそいでくれた。要望があればなんでもくれた。俗にいう親バカってやつだな。でもそれはきっと、母親がいなかったことへの負い目の、裏返しでもあったんだと思う」
妹紅が笑う。ひっそりと、だけど力強く。
「普通さ、貴族ってのは自分の子供の世話とかも女中に任せるもんなんだ。あの時代は意外と冷めてる親が多かったんだよ。なんせ、貴族は子供を自分の後釜程度にしか考えていなかったからな。
なのに私の父親は違った。暇さえあれば私といっしょにいたよ。いっしょに遊んだり、いっしょに庭を歩いたり……。そして、毎日のように褒めてくれた」
私の黒い髪を――
彼女の影は部屋の壁に細長くのびている。
薄暗いここには、妹紅の声しか音がない。その他のものはすべて暗闇に吸い込まれていく。
「だけど、私は大きくなるにつれて、そんな父親を少し鬱陶しいと思うようになっていった。そしてだんだんと距離を取っていくようになった。
一人でいる時間が多くなった。父親を露骨に避けることもたくさんあった。それでも構ってくるもんだから、私は毎日ずっといらいらしていたよ。
私はちょっと早めの反抗期になっていたんだと思う」
輝夜はなにも言わない。言うことなど、見つけられていなかった。
「私の髪がお前ぐらいの長さになったそんなある日、父親が私の髪を梳かせてくれ、って言ったんだ。断ったけど、食いさがってきたから渋々折れたんだ。たぶん母親の代わりを務めたかったんじゃないかな。
だけど父親はとにかく不器用だった。髪はぐんぐん引っ張られるわ抜けるわで。一分も経たないうちに私はやめてと言った。
私は父親に怒ったよ。そこまで言わなくても、みたいなことまで言ったと思う。たぶん怒っているうちに、今までのいらいらとも連鎖しちゃったんだろうな」
燭台のろうそくはもう短身になっている。温かい明かりを放っていたそれは、もうそろそろ生を終えるのだ。
「その晩、父親はお前のところに行った。求婚相手に慰めてもらうのかと私は心から軽蔑したね。家を出てからしばらくして雪が降り始めた。雪に埋もれて死んでしまえ、とも思った。
次の日だったよ。父親が本当に死んだのわ。家の寝床で冷たくなっていたんだと。
雪が積もった朝のことだった」
重病を患わっていたらしい――
輝夜は妹紅の肩がかすかに震えているのを認めた。触れたところから瓦解してしまうような脆さを感じた。
「そんなこと、一言も私に言ってなかったよ。全然知らなかった。余命が数ヶ月しかなかったのも、たくさんの薬を毎日飲んでいたことも、全部知らなかった」
バカだよな、私。
妹紅の声が暗がりに溶けていく。
輝夜は鏡をできるだけ見まいとした。きっと妹紅の顔を見てしまえば、体が動けなくなってしまう。それを恐れた。
「病気のことを言ってくれれば父親のことも避けなかったよ。成長したって、体が大きくなって、昔みたいにちゃんと甘えられたよ。梳くのが下手くそでも我慢して、終わったらありがとうって言えたよ。
なのに、なのにさ……」
震える声は反響もしない。部屋に少しも残らない。
すべて闇が吸うからだ。
「あんな、早死にした父親なんて嫌いだよ。毎日いらいらしていた私なんて大嫌いだよ。
父親はもういないんだ。どこにもいないんだ。
なのに――お父さんが褒めてくれた黒髪も消えてしまった。きれいだねって言ってくれた髪はないんだ。
それくらい残してくれてもよかっただろう? 一個ぐらい、お父さんに誇れるものを永遠にしてくれてもよかっただろう?」
もう髪を梳くのはやめてくれ――妹紅が洟をすすりながら言った。両手で顔を覆っている。
そして叫んだ。
――こんな髪なんていらない!
輝夜は止まった。そして、迷子の幼子のように咽ぶ彼女の背中を眺めた。
ああ――。
輝夜は思う。私はなにをしているのだろう。なぜここにいるのが私なのだろう。
もし彼がいてくれたら。そしたら、この幼子をぎゅっと抱きしめてあげられた。
私が何万回、その髪もきれいだって言ったって意味がない。彼に一言、言われなければ自分の髪を愛せない。
出し抜けに、部屋が暗くなった。どうやらろうそくが果てたらしい。
暗闇に満たされた箱は、すすり泣く幼子の声で蓋をされる。
もう出口などない。自分にできることなどは、彼女とともにこの箱で窒息することぐらいだろう。
輝夜はあの短い髪を想像する。白くて、くせっ毛の――
そのとき、埋もれていた記憶が掘り返された。
昼から引っかかっていた記憶である。それの正体をとうとうつかんだ。
輝夜はすっくと立ちあがり、自分の棚へ近づいた。
すべてが上手くいくとは思わない。でも、これは伝えるべきものだ。
ろうそくを探し出し、燭台に刺した。マッチを擦りろうそくに灯す。
私が明かりを作らないといけない――輝夜は妹紅のもとへ戻った。
「――私は五人の人に求婚されたわ」
床においてあるベッコウの櫛をにぎる。妹紅が涙で濡れそぼった声を出す。
「だから、なんだよ」
「みんな、私と結婚するために必死だったわ。だから、自分がどれだけ偉いか、どれだけの富を築いたかを鼻高く語ったわ」
一人を除いてね。
妹紅が両手を顔からはずす。鏡越しで充血した目と目が合った。
「みなが己の役職を誇示するとき、そいつは自分が父親だということを誇ったわ。みなが己の勤勉さと学力を驕るとき、そいつは自分の娘が頑張り屋で、幼いながらもひらがなを覚え始めたことを自慢したわ。みなが帝と詩を詠んだことがあると嘯くとき、そいつは自分の娘と手をつないだと胸を張ったわ」
妹紅は目を丸くさせている。
輝夜は続けた。
「普通、求婚相手に自分の娘の話する? そんなことを語られるこっちの身にもなってほしいわ。ほんと、他の貴族に輪をかけて、そいつ――あなたの父親は、女性の口説き方が下手くそだったわ」
部屋にはかすかながらも光ができている。
妹紅はうれしそうな悲しそうな、とにかくふたたび泣き出してしまいそうな顔をしている。
「それが?」
「ねえ、妹紅」
輝夜は彼女の髪を手でなでる。「あなたは父親の髪の毛を見たことがあるかしら?」
妹紅は目を丸くさせる。少しの沈黙をへて、
「いや、ない」
と言った。
「でしょうね、あの頃の貴族はみな烏帽子を被ってたもの」
輝夜がほんのり笑う。
「あなたの父親は、私のところに来て自分の娘の話をたくさんしたわ。その代わり、自分自身のことはあまり話さなかった。
でもね、一つだけ、聞いたことがあるの」
彼がそのことを語ったときを思い出す。頬をかきながら、はにかむように語った彼の顔を追想する。
「たぶんあなたは知らなかったのでしょうね。男性も長髪だったし。
妹紅、よく聞いて。はたからしてみればどうでもいい話。でも、あなたにとってはなにかしらの意味を持つ話。
あのね――」
――あなたのお父さんはなかなかのくせっ毛だったわ。
妹紅はしばらくぼんやりとしていた。曖昧なその表情は、なにを思っているかは読みとれない。
輝夜は右手で彼女の髪をなでた。
「あなたの髪もくせっ毛ね」
慧音から教えられた禁句の一つ。それをあえて言ってのける。
妹紅の顔に色が戻ってくる。瞳が少し揺れている。
伝わるかな――
輝夜は不安になる。だから祈った。
ねえ、伝わってよ。
「あの人は言っていたわ。自分の娘にくせっ毛が遺伝してしまった。私ほどひどくはないが、でも短髪だと目立ってしまうって。
妹紅が気にしてる様子がないからいいけど、きっと成人したら悩みの一つになっちゃうかも、という危惧をいだいていたわ。子煩悩な父親らしいわね」
この話で彼女が変わるとは思っていない。でも、やっぱり望んでしまうのだ。この真っ暗な部屋に少しでも光が灯ることを。
妹紅は口を開きかける。だけどなにも言わなかった。
「恨むなら自分の父親を恨むことね。その髪はすべてお父さんのせいよ」
ふふっと輝夜が笑う。
櫛をしばらく指先でいじってから、正座した自分のひざの上にのせた。
「あなたの父親は、その話をしているときどんな顔をしていたと思う? 危惧していたんだもの。申し訳なさそうな表情に決まってるわよね。
でも、違ったわ。あなたのお父さんは――照れくさそうに笑ってたの。心がむずむずするんだけど、うれしくてたまらない。まるで自分のお宝を自慢するような顔だったわ。
失礼しちゃうわよね。レディーの髪にくせっ毛は天敵だというのに」
言ったとき、妹紅がかすかに首を振ったような気がした。光の加減かもしれないが、輝夜はそう見えた。
二人は鏡を通して見つめ合った。
「お父さんはずっと言うの。あの子には申し訳ないことをしたと思う。でも、私はとてもうれしいんだ。自分の娘のくせっ毛を見ると、ぎゅっと抱きしめて撫でてやりたくなるんだって。
この子は私の娘なんだ。誰でもない、自分の娘なんだ。そう実感するらしいわ。
おかしな話よね? 笑っちゃうよね?」
「……確かに」
久しぶりにしゃべる妹紅。彼女は本当に笑った。
「ふざけんなよな。こっちの身にもなれよな。なにが娘だと実感する、だよ。ほんと、ふざけんなよな」
妹紅が俯く。すると、
ぽたり――水滴が布に落ちる音がした。
輝夜は目を閉じる。ときおり耳に入る、洟のすすり声を黙って聞きながす。
その音しかないこの部屋に、輝夜はただ黙って身を沈め続けていた。
「――なあ、輝夜」
出し抜けに妹紅が言った。輝夜が目を開ける。
「なに?」
「あのさ」
口をもごもごとさせ、指をもじもじとさせ、間を空けてから言った。
「私の髪を……梳いてくれないか?」
輝夜は鏡に写った、赤らんだ彼女の顔をまじまじと見る。
そして、
「……いいわよ」
と破顔した。
ろうそくの灯火が煌々と照っていた。
◆ ◆ ◆
「今日はありがとう」
妹紅が言った。輝夜はなにも言わずに、笑顔でただ首を横に振った。
永遠亭の門の前。月は遅刻をしながらも夜空に出てきていた。
「なんならあなたの家まで見送るけど?」
「いや、いいよ。そんなに迷惑はかけたくないし」
「そう」
もしかしたら、と輝夜は思う。妹紅は一人で帰りたいのではないだろうか。
この夜を、ただ一人で噛みしめたいと望んでいるのかもしれない。
ならば、自分は邪魔者だな。ただ笑顔で見送るとしよう。
輝夜は空を見あげた。
――妹紅の随伴をよろしくね。
だいぶ丸みを帯びている月に、声を出さずにお願いした。
「――そうそう」
「ん?」
輝夜が手を打つ。
「明日、いっしょにお饅頭屋に行きましょう」
妹紅は「えー」とわざとらしく不平をこぼした。
「行きましょうよ」
「どうしようかな」
「行かないとあなたの家に餡子を塗りたくるわ」
「やめてくれよ」
呆れたふうに笑う。そして、「まあいいか」と言った。
素直じゃないな、と輝夜は思う。
「……それで、さ」
突然、妹紅の歯切れが悪くなった。
輝夜はきょとんとした顔で続きの言葉を待つ。
「えーと」と三回くり返した彼女は、「あのさ」と前置きをしてから、
「明日、髪の梳き方を教えてくれないか?」
と、照れくさそうにお願いした。
――やったじゃない。あなたの果たせなかった夢は叶ったわ。
輝夜は彼に言ってやった。最後に願った夢は、明日実現するわ。
「いいわよ」
うなずいて、親指を立てた。「任せなさい」
それから二人はしばらく黙ってから、言葉を交わした。
――じゃあね、また明日。
――また明日。
さあっと風が吹いた。
昔々に彼に愛された少女は、自分の白髪をやさしく撫でていた。
その首がだんだんともとの位置に戻っていき、しかし行きすぎて左に少しかたむいたとき、口を開いた。
「なんだか男性みたい」
輝夜が妹紅の家の戸をノックしたのは今さっきのこと。
お昼で暇だったので、いっしょに人里のお饅頭屋に行こうと誘うつもりだったのだ。
「妹紅、いるー?」
戸の前で呼びかける。「饅頭屋に行きましょー」
家中で物音がした。どうやら妹紅はいるらしい。
もうすぐお饅頭が食べられる――。そう思うと輝夜の口内はよだれで満たされた。
がらりと戸が開いた。
「さあ、お饅頭屋に――」
続きの言葉はよだれとともに飲み込んだ。ごくりと喉が鳴る。
妹紅の髪がショートになっていた。あの腰まであった銀髪は、今では耳を半分しか隠せていない。前髪もまゆ毛の数センチ上で切られている。
どうやら彼女の髪は少しくせっ毛らしく、短くなったせいで髪型が全体的に丸っこくなっていた。
妹紅が不機嫌面で応える。
「今、忙しいんだよ」
「んー?」と輝夜は首を右にかしげた。
不機嫌面やしぐさ、声色を鑑みて、この人物は妹紅で間違いがないだろう。
しかし、この髪型には肝をつぶされた。数百年のつき合いだが妹紅のショートヘアなど初めて見た。ずっとロングだったのだ。
「なんだか男性みたい」
「うるせえ」
かなり粗暴な言い草。虫のいどころが悪い証拠である。
彼女が不機嫌なのは珍しいことであった。妹紅が輝夜を憎んでいたのはもう昔。現在では二人は友達のような関係になっていた。
いっしょに人里にも行くし、お互いの家に招いたり招かれたりも最近ではしばしばある。おたがい、過去の暗い感情はほとんど清算されているのだ。
だから輝夜は妹紅のこの態度には少なからず驚いていた。
「その髪型でそんな口調だと、まるで無頼漢みたいよ」
今度は無言で睨めつけてきた。だが輝夜はひるまない。そもそも妹紅の睨みはそれほど恐くないのだ。
ふと、相手の肩に銀糸のような髪がのっていることに気づいた。どうやら散髪をしていたのは今しがたらしい。
「自分で切ったの?」
「……そうだよ」
髪先はいっとうそろっていない。素人とはこういうものである。
「どうして髪切っちゃったの? あの長い髪の毛、私は好きだったのに」
そこで妹紅は不機嫌の色を濃くした。右の口もとを吊りあげ、眉間にしわを寄せる。
「お前には関係ない」と吐き捨てるように言った。
それはそうだな、と輝夜は納得した。こちとらただの好奇心で質問をしているので、相手の機嫌を害するというのならこの話題はよしにしたほうがいいな。
「なら話を変えましょう。レッツゴー、饅頭屋」
「今日は行かない」
「なんで? 行きましょうよ」
「行きたくない」
輝夜はしばし考え、もしかしてみなにその髪型が見られるのが嫌なのではないかと思った。
白くて全体的に丸っこい――どこか饅頭に似たその髪型が。
「大丈夫よ。そのお饅頭みたいな髪を気にしているのなら、なにか被れば問題なしだわ」
「それじゃねえよ、理由は」
また乱暴に言うと、きっと輝夜を見た。そして、
「いいから帰ってくれ!」
と怒声を浴びせて、戸をぴしゃりと閉めた。
輝夜は目を丸くしながら呆然とする。しかし、そのうち心のなかにふつふつと煮える熱い感情が湧き出してきた。
「今から手のひらを返して行くって言っても遅いんだから!」
大きな声で言う。輝夜は頬をふくらませ、ずんずんと迷いの竹林を歩き出した。
なんなのだなんなのだ、と胸中は自問でいっぱいになる。
――よくわからないことだらけだ!
なんだか叫び出したい気持ちにもなった。
もしかして、髪型を饅頭みたいと言ったのが悪かったのだろうか?
だって似ているのだもの。白色で、くせっ毛のせいで丸っこくて――
輝夜の足が止まった。今、不思議な感じがあった。
なんだか懐かしいと思ったような……
くせっ毛。声に出さずにふたたび呟いてみる。
心臓が少しだけ速くなった。
なぜ? なぜこんな気持ちに?
くせっ毛――どういうわけだか、その言葉は輝夜の埋もれた記憶とわずかに共鳴したのだった。
黒髪少女のコンプレックス ~His treasure is immortal~
「私は今、ぷりぷり怒っているわ!」
「そうか、それは大変だ」
眼鏡をかけた慧音が子供たちのテストの採点をしていた。シュッシュッ、シャッシャッとマルとバツをつける音がリズムよく響く。
慧音の部屋に来ていた輝夜がふたたび喚く。
「もー、むごいわむごすぎるわ!」
「そうだな」
「饅頭屋に行くのを断るなんてひどすぎる。私に死ねと言っているようなものよ」
「ああ、まったくだ」
「妹紅の次位で、話をまったく聞いてくれない慧音がひどい」
慧音はちらりと輝夜を見て、大儀そうにため息を吐いた。それは、へそを曲げた生徒をなだめる前に出るため息と似ていた。
「いきなり人の家にやってきて、わあわあとずっと騒ぎ立てる。どう考えてもお前が一番ひどいと思うが」
「あなた先生なんでしょ。慰めるのは上手なんじゃないの?」
「あいにく、千歳児を相手にするのは今日が初めてだ」
赤ペンを文机において頭をかく。「第一、そんなに饅頭が食べたいなら一人で行けばいいだろう」
輝夜は首を振った。此奴はなにもわかっていないな。
「いやよ。お饅頭屋は妹紅と行くというのが不文律なの」
「ならあきらめろ」
「やだ。饅頭が食べたい」
「戸棚にどら焼きがあるぞ」
「食べるわ」
「食べるんかい」
饅頭の仇をどら焼きでとる――悪くない気がした。というより、甘いものが食べれるならなんでもよかった。
眼鏡をはずして慧音は目がしらを揉む。正座をしながらわくわくしている輝夜を見て、
「お前の相手をするのは、子供の相手をするのとまったく同じだ」
と小さく言った。
「どら焼き美味しー」
満面の笑みでどら焼きをほお張る輝夜。機嫌はとうに直っていた。曲がったへそはもとの位置に戻っている。
「お前はほんと刹那的だな」
慧音は二つの湯のみにお茶をそそぐ。「羨ましいくらいだ」と言いながら相手の前に湯のみをおいた。
輝夜がぺこりと頭をさげて、それを持つ。一口すすってから「ぷはー」と幸福感を吐息ににじませた。
残りのどら焼きを口に放り、輝夜が言った。
「このどら焼き、栗が入ってるのね」
「ああ。もしかして嫌いだったか?」
「今、私はあなたにキスしてあげたいわ」
「口に合ってなによりだ」
二個目のどら焼きを手に取る輝夜を見て、慧音は目を細めて苦笑した。彼女もどら焼きをかじる。
「――ところで」
かじったどら焼きを飲み込む。「お前はなんで私を訪ねてきたんだ?」
輝夜の噛むスピードがあがる。もぐもぐもぐもぐ。ごくりと嚥下してから言った。
「気がついたら人里にたどり着いてて、でも人里には慧音ぐらいしか友達がいないから、しょうがなくここに来たわ」
「しょうがなくでうちに来るな」
「妥協して?」
「意味が変わってない」
どら焼きを没収するぞ――と慧音が言うと、輝夜は慌てながら自分の背後に隠した。
なんと恐ろしいことを言うのだ、この半獣は……。輝夜は頬をぷっくりとふくらませて不満を露わにした。
私からどら焼きを、ほくほくの栗が入ったそれを、奪うのか。むごい、むごすぎる。
「悪魔! 鬼教師!」
「まさかそこまでなじられると思っていなかった。これは私が悪いのだろうか」
「オールエイズブルーワンピース!」
「いや服装はいいだろ」
慧音はため息を吐き、「大丈夫だ、別に取りはしないよ」とやわらかな口調で言った。
しばらく犬歯を剥いて相手をうかがっていた輝夜も、おずおずと食事を再開した。
「お前は子供に似ていると思っていたが、犬にも似ているな」
呆れた声色でもらすと、輝夜は「ワン」と鳴いた。
「――そういえば、お前は、妹紅になにかしたのか?」
最初に訊ねておくべき質問がやっと出たのは、慧音がどら焼きを半分、輝夜が二個を胃袋に収めたときだった。
輝夜は最初はなんのことかわかりかねていたが、昼のことを思い出して「そういえば」とうなずいた。
続ける予定の言葉はもちろん「そんなこともあったわね」である。彼女のなかでそれはもはや遠い過去である。
「いんや、なにもしてないわ」
「本当か?」
「本当と書いてマジと読む」
「胡散くさいなー」
輝夜がぐっと立てた親指を胡乱な目で眺める。
「信じてくれないと秘技『泣く』を使うわ」
「大人がたやすく使っちゃいけない秘技だろ、それ」
そういえば――輝夜は声をあげた。
「あの子、髪を切ってたわ。ばっさりとね」
妹紅の髪型を思い返す。そういえば、冥界で庭師をつとめる少女と似ているな、と思った。
それだけ――こともなげに輝夜は話を締めた。
絶対ロングのほうが似合っている、と感じながら自分の湯のみにお茶をそそぐ。
「あなたも飲むでしょ?」
訊ねながら前を向いた。
慧音が沈痛な面持ちで腕を組んでいた。その両目には、確かに悲しさがやどっていた。
輝夜は言葉を失う。茶からあがる湯気は所在なさげに消え入っていく。
「――髪はどのくらいの長さだ?」
慧音はゆがませた口もとを動かして、重い声を出した。
「ショート、ぐらいかしら」
そうか――彼女の相づちの言葉はため息といっしょに出た。
「そうか、もうそこまで来たか」
続けたセリフは、輝夜には皆目理解できなかった。
「そこって……どこよ」
唇をとがらして質す。話に追いつけないことにいささかのいら立ちを覚えていた。
「安心しろ、すべて説明するから」
答えて、慧音は急須に湯を入れて、そして自分の湯のみにお茶をそそいだ。
さっきまでの和気は、彼女の淹れたお茶の湯気とともに霧散していた。
たっぷりと間を空けてから口を開く。
「前提の確認をしておきたい」
慧音はすっと目を細めた。
「お前は、妹紅が父親に深愛の情をいだいていることを知っているか?」
鋭い眼光は、教師としてのものでなく、ましてや半獣ゆえのものでもなかった。
それは知己を心配する友人が放つ眼光であった。
輝夜はため息を虚空に溶かす。
「……まあ、一応ね。昔、あの子の父親を理由に殺し合っていた仲だから」
傷つけ合わなければ顔を見れない――そんな時期が、輝夜と妹紅にはあった。
父の恨みと輝夜を幾度も焼いた妹紅は、最初のうちはよく涙を流していた。
歯を食いしばり、涙を流していた。
その涙は彼女の紅蓮を濃くさせ、大きくさせ、されど鎮火させることなど一度もなかった。
数度の焼死をへて、輝夜は理解した。
自分が過ちたことを。
妹紅が父親にいだくそれを。
「妹紅自身は父親を嫌っていたと言うんだ。しかし信じる奴などいるわけないじゃないか。あんなうれしそうな顔で父親の生を、あんな悲しそうで父親の死を語られたらな」
彼女と普通のつき合いをするようになってから、一度だけ父親の話になったことがある。その話題はひどくデリケートなものなので、二人とも平素は触れないものだった。
だけどどういう脈絡か、妹紅が言った。
「私は、父親に頭を一回しか撫でられたことがないんだ」
そのとき、千年以上生きてきた輝夜はこの世でもっとも儚い笑みを見た。
「――つまり」
輝夜は口もとをゆるませる。「あの子はファザーコンプレックスを持っている、ってことでしょ?」
自分がグレーゾーンの発言をしているのはわかっていた。だけどついついさっきまでの和気が恋しくなってしまったのだ。
真面目な空気が苦手な彼女である。
呆れたように慧音も頬をゆるめた。
「もう少し言い草を考えろ。あいつにそれを言うと反駁するぞ。私は父親が大嫌いだってな」
「なんでそこまでムキになるのかしらね。認めちゃえばいいのに」
「でも昔は父親のことでみなから色眼鏡で見られていたらしい。だから案外本当なのかもな」
ふふっと笑う慧音。そんなことないぐらい、知っている顔だなと輝夜は思った。
「それと、あいつはくせっ毛というワードも禁句だ。なかなか気にしているらしい」
ふたたび昔々の記憶が揺れる。あと少しで手が届きそうなのだ。
歯がゆい思いをしつつ、頭のなかでは、昼に妹紅に言った『饅頭みたいな髪型』という発言はセーフかどうかの審問が行われていた。
「ところで」
セーフの判決を出してから輝夜が言った。「髪を切った理由は結局なんなの?」
ああ――慧音がうなずく。そして照れくさそうに頬をかいた。
「それはな、まあ言ってしまえば、すごくあいつらしいものなんだ」
「あいつらしいって?」
「まあ、お前の言うところの『ファザーコンプレックス』らしいもの、ってことだ」
理由はとても純粋なんだとつけ加えた慧音は、おもむろに口を開いた。
「実はな――」
◆ ◆ ◆
私たちはどら焼きのなかを歩いているのかもしれない、と輝夜は思った。餡子のような黒さがあたりを支配しているからだ。
斜め後ろを歩く妹紅をせかした。
「早くはやく」
「早くって言ったって、私は夜の道をお前みたいにずんずん進めるわけないじゃないか」
「じゃあ手を繋ぐ?」
「え、遠慮する」
迷いの竹林をつき進む二人。空に月はない。
「なあ、これからなにをするんだよ」
「永遠亭に着いたら教えるわ」
慎重に一歩一歩踏みしめる妹紅に対して、輝夜はとにかく歩く。
迷いの竹林は平地ではないのに恐れはなく、なぜだかつまずく気がしなかった。
「……今日は慧音にところに行って、どら焼きをご馳走になったわ」
後ろを振り返る。妹紅の白い髪が夜の闇のなかでもぼおっと見える。
短く切られたそれらは、妹紅がうつむいたときに揺れた。
「昼のこと、怒ってるか?」
「あのときはあなたの家に餡子でも塗りたくってやろうかと思ったけど、今は怒っていないわ。それに、栗入りのどら焼きの美味しさに気づけたしね」
「ごめん」
「いいって。また今度行きましょ」
そうじゃなくて――妹紅は首を振る。
二人は足を止めた。
「昼は……言いすぎた」
ごめん、とふたたび呟く。
輝夜はしばらく黙ってから、すたすたと妹紅に近づいた。そして右手で相手の左手をにぎる。
はっと顔をあげる彼女に、ほっこりと微笑む。
「夜道は危ないわ。手を繋ぎましょう」
返事はない。しかし、にぎった右手が邪険に払われることもなかった。
夜目が利いたおかげで、妹紅が顔を赤らめているのがわかった。
いいじゃないか、と輝夜は思った。ロングじゃなくてもいいじゃないか。ショートでもべらぼうに可愛いじゃないか。
空を見あげる。月はない。
こんな可愛い妹紅を見なくてもいいの?――心のなかで月に問いかけた。
髪を切った妹紅を見たとき、永遠亭の面々のリアクションはみな違っていた。
玄関で出会ったてゐは、「失恋は誰にでもあるから、元気出して」と本気で心配していた。
廊下で会った鈴仙は、「どちらさまでしょう?」と目を丸くさせながら首をひねった。
ちょうど自室から出てきた永琳は、「斬新」と一言で評した。
「――永遠亭にいると、飽きないだろ」
輝夜の部屋に入りながら、苦笑いの妹紅が訊ねる。
「そうね」
うなずきながら輝夜は障子を閉めた。燭台を探してろうそくを灯す。
「お前の部屋に来るのは初めてかもしれないな」
きょろきょろと辺りを見回す妹紅。そうだったかしらと輝夜は思案する。
「覚えていないわ」
ここに座ってちょうだい、と言うと妹紅は落ちつかない様子で畳に腰をおろした。
「なにをするんだよ」
「ちょっと待ってて」
彼女の正面に、布をかぶった細長いものをおく。
「これは?」
輝夜はへっへっへーと誇らしげに笑いながら布を取った。
それは、姿見であった。鏡にはあぐらをかいた妹紅がすっぽりと収まっている。
妹紅は苦そうな顔で自分の髪型から目をそらした。
「まさか自分とにらめっこをしろなんて言わないよな」
「もちろん」
引き出しをあさっている輝夜がつけ足す。「でも、しばらく自分の顔を見ててもらうことになるかもね」
「どういう意味?」
あったあったと嬉々とした声を出して、妹紅の背後に立った。
手の持っているなにかを鏡に写して、相手に見せる。
「あなたの髪を梳こうと思って」
輝夜が持っていたのは、茶色のベッコウでできた櫛だった。
妹紅はきょとんとした顔で鏡に写ったそれを見ている。
輝夜は相手がなにかを言う前に櫛を髪に通し始めた。
「い、いきなりなんだよ」
「特に理由はないわ。なんとなくの思いつき」
丁寧に丁寧に梳いていく。
妹紅がしばらくもごもごと口のなかで言葉を転がしていると、
「安心なさい。こう見えても私は髪を梳くのがとても上手いわ」
と輝夜が言葉をかさねた。
「……ほ、ほんとかよ」
「ええ、紛うことなき真実よ。どのくらい上手いかと言うと、昔ね、私に髪の梳き方を教わりに来た人が一人いたぐらいよ」
「そいつはずいぶんと暇な奴だったんだな」
「ずいぶんと素敵な人だったわ」
妹紅はまごつかせていた言葉を全部飲み込み、ただほんのりと笑みながら鏡のなかの輝夜を眺め続けた。相手は梳くのに夢中で気づいていない。
意外だな……。
輝夜は手を止めることなく考える。
梳く前は強いくせっ毛だと踏んでいたのだが、実際に櫛を当ててみるとたやすく通る。
くりんとしていた毛がどんどんストレートになっていった。妹紅の髪は白いので、真っ直ぐになったそれはまるで――
「――冷麦みたい」
「例え方……」
妹紅が鏡越しに悲哀の視線をよこしてくる。輝夜はぐっと親指を立てた。
――そう、白いのだ。
ろうそくの明かりをきらきらと反射するその白髪は、残酷なくらいに美麗である。
彼女の髪は銀色に近いと昼までは思っていたのだが、間近で見るとそれはどちらかというと白色だった。
白色。
他の色を排した、生粋の純白。
そして――
黒色の、対称の色。
そろそろ踏み込むか、と輝夜は覚悟を決める。
「――あなた、昔は黒髪だったんでしょう?」
ろうそくの灯火でできた妹紅の影がゆらりと揺れる。影は曖昧でありながら、しかし吸い込まれるような黒で塗りつぶされている。
私はそれと最後まで向かえ合えるのだろうか――輝夜は不安になった。
「……そうだよ」
妹紅がうなずく。鏡のなかの、彼女の虚像はかわいた笑みを浮かべていた。
「昔はお前と同じような黒髪だったんだけどな。蓬莱の薬を飲んでからちょっとずつ白色になっていって。いやー、驚いたよ」
半分ぐらいは梳かしおえた。だけど輝夜は手を休めない。
「ほんと、どうしてだろうな。そういえば輝夜はなんで黒髪なんだ? 永琳も私も髪が白いのに」
「月の民と地球の人間とでは、微妙に体質が違う、って永琳が言ってたわ。さして興味もなかったから詳しくは聞いていないけど。それと、永琳は服薬する前からあの色よ」
「そうなのか」
妹紅の笑みはくずれない。
「最初はとにかく驚いた。みんなからもおかしな目で見られたし。まあ、飲んだ私が悪いんだけどね」
「でも参っちゃうよ」と言って、そのあとに小さな声で「ほんと、参っちゃうよ」と続けた。
「ねえ、妹紅?」
そこで、輝夜が手を止めた。鏡の妹紅の目をしかと見る。
すうっと息を吸った。
「お父さんに褒められた黒髪が白くなるのは、怖かった?」
『実はな、あいつは子供のころ、自分の父親に髪を褒められたんだ。きれいな黒髪だなって。それから妹紅は髪を気にするようになったらしい。単純だと思ったか? でもな、大好きな大好きな父親に言われたその言葉が、どうしようもなくうれしかったらしいんだ』
昼の慧音の話を思い返す。それは輝夜の知っている妹紅ではなく、いち娘としての彼女の話。
妹紅はもう笑っていなかった。
「ごめんなさい、愚問だったわ。怖くないはずがないわね」
「ち、父親は関係ないさ」
「あなたは自分の白い髪がとにかく嫌いだったんでしょ? 慧音が言っていたわ。妹紅が髪にたくさんのリボンを結わえる理由は、それでもなんとか白い髪を受け入れようとしている証だって」
彼女は沈黙している。ときおり口を開きかけるが、すぐに閉じられる。
「そして今日、とうとう耐えきれなくなって髪を切った。千年越しのコンプレックスから逃げるために」
どんな気持ちだったのだろうか、と輝夜は想像してみる。
黒髪が白くなっていくのは。大好きだった人に褒められたものが、だんだんと自分から失せていくのは。
だけどちっとも想像できなかった。それは、ひとえに自分の髪が大切な人に褒められたことがないからだろう。
鏡はあきらめたような顔をした妹紅の像を写している。
「私はさ」
ため息を一つ吐く。「父親のことが嫌いだったよ」
輝夜は応えずふたたび髪を梳き始めた。
「でも、それ以上に自分のことも嫌いなんだ」
懺悔するように、あるいはなにかに縋るように言葉を続ける。
「父親はとにかく私に愛情をそそいでくれた。要望があればなんでもくれた。俗にいう親バカってやつだな。でもそれはきっと、母親がいなかったことへの負い目の、裏返しでもあったんだと思う」
妹紅が笑う。ひっそりと、だけど力強く。
「普通さ、貴族ってのは自分の子供の世話とかも女中に任せるもんなんだ。あの時代は意外と冷めてる親が多かったんだよ。なんせ、貴族は子供を自分の後釜程度にしか考えていなかったからな。
なのに私の父親は違った。暇さえあれば私といっしょにいたよ。いっしょに遊んだり、いっしょに庭を歩いたり……。そして、毎日のように褒めてくれた」
私の黒い髪を――
彼女の影は部屋の壁に細長くのびている。
薄暗いここには、妹紅の声しか音がない。その他のものはすべて暗闇に吸い込まれていく。
「だけど、私は大きくなるにつれて、そんな父親を少し鬱陶しいと思うようになっていった。そしてだんだんと距離を取っていくようになった。
一人でいる時間が多くなった。父親を露骨に避けることもたくさんあった。それでも構ってくるもんだから、私は毎日ずっといらいらしていたよ。
私はちょっと早めの反抗期になっていたんだと思う」
輝夜はなにも言わない。言うことなど、見つけられていなかった。
「私の髪がお前ぐらいの長さになったそんなある日、父親が私の髪を梳かせてくれ、って言ったんだ。断ったけど、食いさがってきたから渋々折れたんだ。たぶん母親の代わりを務めたかったんじゃないかな。
だけど父親はとにかく不器用だった。髪はぐんぐん引っ張られるわ抜けるわで。一分も経たないうちに私はやめてと言った。
私は父親に怒ったよ。そこまで言わなくても、みたいなことまで言ったと思う。たぶん怒っているうちに、今までのいらいらとも連鎖しちゃったんだろうな」
燭台のろうそくはもう短身になっている。温かい明かりを放っていたそれは、もうそろそろ生を終えるのだ。
「その晩、父親はお前のところに行った。求婚相手に慰めてもらうのかと私は心から軽蔑したね。家を出てからしばらくして雪が降り始めた。雪に埋もれて死んでしまえ、とも思った。
次の日だったよ。父親が本当に死んだのわ。家の寝床で冷たくなっていたんだと。
雪が積もった朝のことだった」
重病を患わっていたらしい――
輝夜は妹紅の肩がかすかに震えているのを認めた。触れたところから瓦解してしまうような脆さを感じた。
「そんなこと、一言も私に言ってなかったよ。全然知らなかった。余命が数ヶ月しかなかったのも、たくさんの薬を毎日飲んでいたことも、全部知らなかった」
バカだよな、私。
妹紅の声が暗がりに溶けていく。
輝夜は鏡をできるだけ見まいとした。きっと妹紅の顔を見てしまえば、体が動けなくなってしまう。それを恐れた。
「病気のことを言ってくれれば父親のことも避けなかったよ。成長したって、体が大きくなって、昔みたいにちゃんと甘えられたよ。梳くのが下手くそでも我慢して、終わったらありがとうって言えたよ。
なのに、なのにさ……」
震える声は反響もしない。部屋に少しも残らない。
すべて闇が吸うからだ。
「あんな、早死にした父親なんて嫌いだよ。毎日いらいらしていた私なんて大嫌いだよ。
父親はもういないんだ。どこにもいないんだ。
なのに――お父さんが褒めてくれた黒髪も消えてしまった。きれいだねって言ってくれた髪はないんだ。
それくらい残してくれてもよかっただろう? 一個ぐらい、お父さんに誇れるものを永遠にしてくれてもよかっただろう?」
もう髪を梳くのはやめてくれ――妹紅が洟をすすりながら言った。両手で顔を覆っている。
そして叫んだ。
――こんな髪なんていらない!
輝夜は止まった。そして、迷子の幼子のように咽ぶ彼女の背中を眺めた。
ああ――。
輝夜は思う。私はなにをしているのだろう。なぜここにいるのが私なのだろう。
もし彼がいてくれたら。そしたら、この幼子をぎゅっと抱きしめてあげられた。
私が何万回、その髪もきれいだって言ったって意味がない。彼に一言、言われなければ自分の髪を愛せない。
出し抜けに、部屋が暗くなった。どうやらろうそくが果てたらしい。
暗闇に満たされた箱は、すすり泣く幼子の声で蓋をされる。
もう出口などない。自分にできることなどは、彼女とともにこの箱で窒息することぐらいだろう。
輝夜はあの短い髪を想像する。白くて、くせっ毛の――
そのとき、埋もれていた記憶が掘り返された。
昼から引っかかっていた記憶である。それの正体をとうとうつかんだ。
輝夜はすっくと立ちあがり、自分の棚へ近づいた。
すべてが上手くいくとは思わない。でも、これは伝えるべきものだ。
ろうそくを探し出し、燭台に刺した。マッチを擦りろうそくに灯す。
私が明かりを作らないといけない――輝夜は妹紅のもとへ戻った。
「――私は五人の人に求婚されたわ」
床においてあるベッコウの櫛をにぎる。妹紅が涙で濡れそぼった声を出す。
「だから、なんだよ」
「みんな、私と結婚するために必死だったわ。だから、自分がどれだけ偉いか、どれだけの富を築いたかを鼻高く語ったわ」
一人を除いてね。
妹紅が両手を顔からはずす。鏡越しで充血した目と目が合った。
「みなが己の役職を誇示するとき、そいつは自分が父親だということを誇ったわ。みなが己の勤勉さと学力を驕るとき、そいつは自分の娘が頑張り屋で、幼いながらもひらがなを覚え始めたことを自慢したわ。みなが帝と詩を詠んだことがあると嘯くとき、そいつは自分の娘と手をつないだと胸を張ったわ」
妹紅は目を丸くさせている。
輝夜は続けた。
「普通、求婚相手に自分の娘の話する? そんなことを語られるこっちの身にもなってほしいわ。ほんと、他の貴族に輪をかけて、そいつ――あなたの父親は、女性の口説き方が下手くそだったわ」
部屋にはかすかながらも光ができている。
妹紅はうれしそうな悲しそうな、とにかくふたたび泣き出してしまいそうな顔をしている。
「それが?」
「ねえ、妹紅」
輝夜は彼女の髪を手でなでる。「あなたは父親の髪の毛を見たことがあるかしら?」
妹紅は目を丸くさせる。少しの沈黙をへて、
「いや、ない」
と言った。
「でしょうね、あの頃の貴族はみな烏帽子を被ってたもの」
輝夜がほんのり笑う。
「あなたの父親は、私のところに来て自分の娘の話をたくさんしたわ。その代わり、自分自身のことはあまり話さなかった。
でもね、一つだけ、聞いたことがあるの」
彼がそのことを語ったときを思い出す。頬をかきながら、はにかむように語った彼の顔を追想する。
「たぶんあなたは知らなかったのでしょうね。男性も長髪だったし。
妹紅、よく聞いて。はたからしてみればどうでもいい話。でも、あなたにとってはなにかしらの意味を持つ話。
あのね――」
――あなたのお父さんはなかなかのくせっ毛だったわ。
妹紅はしばらくぼんやりとしていた。曖昧なその表情は、なにを思っているかは読みとれない。
輝夜は右手で彼女の髪をなでた。
「あなたの髪もくせっ毛ね」
慧音から教えられた禁句の一つ。それをあえて言ってのける。
妹紅の顔に色が戻ってくる。瞳が少し揺れている。
伝わるかな――
輝夜は不安になる。だから祈った。
ねえ、伝わってよ。
「あの人は言っていたわ。自分の娘にくせっ毛が遺伝してしまった。私ほどひどくはないが、でも短髪だと目立ってしまうって。
妹紅が気にしてる様子がないからいいけど、きっと成人したら悩みの一つになっちゃうかも、という危惧をいだいていたわ。子煩悩な父親らしいわね」
この話で彼女が変わるとは思っていない。でも、やっぱり望んでしまうのだ。この真っ暗な部屋に少しでも光が灯ることを。
妹紅は口を開きかける。だけどなにも言わなかった。
「恨むなら自分の父親を恨むことね。その髪はすべてお父さんのせいよ」
ふふっと輝夜が笑う。
櫛をしばらく指先でいじってから、正座した自分のひざの上にのせた。
「あなたの父親は、その話をしているときどんな顔をしていたと思う? 危惧していたんだもの。申し訳なさそうな表情に決まってるわよね。
でも、違ったわ。あなたのお父さんは――照れくさそうに笑ってたの。心がむずむずするんだけど、うれしくてたまらない。まるで自分のお宝を自慢するような顔だったわ。
失礼しちゃうわよね。レディーの髪にくせっ毛は天敵だというのに」
言ったとき、妹紅がかすかに首を振ったような気がした。光の加減かもしれないが、輝夜はそう見えた。
二人は鏡を通して見つめ合った。
「お父さんはずっと言うの。あの子には申し訳ないことをしたと思う。でも、私はとてもうれしいんだ。自分の娘のくせっ毛を見ると、ぎゅっと抱きしめて撫でてやりたくなるんだって。
この子は私の娘なんだ。誰でもない、自分の娘なんだ。そう実感するらしいわ。
おかしな話よね? 笑っちゃうよね?」
「……確かに」
久しぶりにしゃべる妹紅。彼女は本当に笑った。
「ふざけんなよな。こっちの身にもなれよな。なにが娘だと実感する、だよ。ほんと、ふざけんなよな」
妹紅が俯く。すると、
ぽたり――水滴が布に落ちる音がした。
輝夜は目を閉じる。ときおり耳に入る、洟のすすり声を黙って聞きながす。
その音しかないこの部屋に、輝夜はただ黙って身を沈め続けていた。
「――なあ、輝夜」
出し抜けに妹紅が言った。輝夜が目を開ける。
「なに?」
「あのさ」
口をもごもごとさせ、指をもじもじとさせ、間を空けてから言った。
「私の髪を……梳いてくれないか?」
輝夜は鏡に写った、赤らんだ彼女の顔をまじまじと見る。
そして、
「……いいわよ」
と破顔した。
ろうそくの灯火が煌々と照っていた。
◆ ◆ ◆
「今日はありがとう」
妹紅が言った。輝夜はなにも言わずに、笑顔でただ首を横に振った。
永遠亭の門の前。月は遅刻をしながらも夜空に出てきていた。
「なんならあなたの家まで見送るけど?」
「いや、いいよ。そんなに迷惑はかけたくないし」
「そう」
もしかしたら、と輝夜は思う。妹紅は一人で帰りたいのではないだろうか。
この夜を、ただ一人で噛みしめたいと望んでいるのかもしれない。
ならば、自分は邪魔者だな。ただ笑顔で見送るとしよう。
輝夜は空を見あげた。
――妹紅の随伴をよろしくね。
だいぶ丸みを帯びている月に、声を出さずにお願いした。
「――そうそう」
「ん?」
輝夜が手を打つ。
「明日、いっしょにお饅頭屋に行きましょう」
妹紅は「えー」とわざとらしく不平をこぼした。
「行きましょうよ」
「どうしようかな」
「行かないとあなたの家に餡子を塗りたくるわ」
「やめてくれよ」
呆れたふうに笑う。そして、「まあいいか」と言った。
素直じゃないな、と輝夜は思う。
「……それで、さ」
突然、妹紅の歯切れが悪くなった。
輝夜はきょとんとした顔で続きの言葉を待つ。
「えーと」と三回くり返した彼女は、「あのさ」と前置きをしてから、
「明日、髪の梳き方を教えてくれないか?」
と、照れくさそうにお願いした。
――やったじゃない。あなたの果たせなかった夢は叶ったわ。
輝夜は彼に言ってやった。最後に願った夢は、明日実現するわ。
「いいわよ」
うなずいて、親指を立てた。「任せなさい」
それから二人はしばらく黙ってから、言葉を交わした。
――じゃあね、また明日。
――また明日。
さあっと風が吹いた。
昔々に彼に愛された少女は、自分の白髪をやさしく撫でていた。
大切なことを教えてくれた輝夜師匠に感謝。いい話でした。
どうも違和感で入り込めなかったけど、それ以外はとても出来たお話だと思います。
妹紅父がイケメンすぎる。
妹紅も慧音もそれぞれいいけど、天真爛漫で朗らかな輝夜がすごい可愛くて魅力的だ。
目から汗がすごいです
こういう過去もありですね。