Coolier - 新生・東方創想話

橙が紅魔館で働いて問題を解決する? お話

2012/09/21 22:28:20
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「とうとう来たね……」
 橙は紅魔館の門を前にして、そう呟いた。
 彼女は遊びに来たのではなかった。
 ここにいる、ある人の助けになろうと決心しての行動だった。
 門の横には門番である美鈴が壁に背をつけながらすやすやと眠っていた。
 ……どうやら、あんまりお仕事をしてるわけじゃないみたい。
 門番は、門を守るのが仕事だろうに。
 なのに、ここをすんなり通してはダメじゃないか。
 もしも侵入者だったら、咲夜さんが苦労するだろうに。
「咲夜さん……」
 助けないと。
 いつも助けてもらってる咲夜さんを、助けないと!
 橙は意を決して紅魔館の中へと入っていった。



 橙が紅魔館に入った途端、目の前にメイドが現れた。
 橙は見慣れているので、驚きはしない。
「久しぶりね、橙ちゃん。こうやってまともに顔を合わせるのは、この前遊び行った以来かしら?」
「はい!」
 咲夜がにっこりと微笑む。
 橙は咲夜が大好きだ。春雪異変以来、橙は咲夜と親交を持つようになった。彼女はたびたびマヨイガに訪れ、ちょくちょく世話を焼いてくれる。彼女の気質がそうさせるのだろう。橙のことも可愛がってくれるので、すっかり橙は咲夜に懐いていた。
 いや、懐いているなんてレベルではない。
 橙は咲夜を、主人である藍や紫と同じレベルで好いていた。
 だから、ここに来たのだ。
「それにしても、橙ちゃんから遊びに来るなんて珍しいわね」
「いいえ! 今日は咲夜さんのお手伝いに来ました!」
 咲夜は目を瞬かせた。
「え……?」
「咲夜さん、いつもお仕事が大変で疲れていると思います。だから、私はいつも遊んでくれる咲夜さんのお手伝いに来たんです!」
「い、いやいやいやいや!」
 咲夜は焦っていた。
「そんなことしなくても大丈夫だからね!?」
「いいえ! 日頃、忙しいのに私のところに来て遊んでくれたり、料理を作ってくれたりする咲夜さんに感謝しているのです!」
「いや、そんな感謝されることのほどではないわ! むしろ、橙ちゃんのところに行くのは私が癒されたかったからで――」
 ハッと口を塞いだ。
「ほら! ほら! 大変なんじゃないですか!」
「う、ううん! それでも、大丈夫。私は日頃からあなたに助けられてるんだから」
 それでも咲夜は橙の申し出を断った。
 橙は顔を俯かせる。
「そんなに、私が邪魔なんですか……?」
 涙が目に溜まる。
「それでも、私は咲夜さんの助けになりたいのです! どんな仕事だって請負います! 咲夜さんの、咲夜さんの助けになるのなら――!」
「いや、そういうことじゃないの! 橙ちゃんがいて邪魔ってことじゃないの!」
 橙はジッと咲夜の顔を見上げた。
「本当ですか……? 私、邪魔になりませんか?」
「えぇ。気持ちはとっても嬉しいわ。だけど、ここがどこだか分かるでしょう? ……紅魔館。吸血鬼レミリアお嬢様が住む、悪魔の館なの。ここで働くということは、とても、そう…………大変なのよ」
 いかに大変か、咲夜は諭そうとしていた。単なる手伝いじゃここの仕事には耐えきれないと、配慮してのことだろう。
 しかし、「大変」という言葉は一層橙のハートに火をつけた。
「だったらなおさらです! 少しでも、咲夜さんの負担がなくせるように、私、頑張りますから!」
 橙はジッと咲夜の目を見る。その目は真摯に満ちていて、本気であること咲夜に伝えようと必死だった。お遊びではなく、本気で咲夜の力になりたいのだ。
 咲夜はその目を見て、しばらく考え込んだ。
「……分かったわ。橙ちゃん、あなたを採用します」
 悩んだ末、咲夜は橙を採用することにしたようだ。
 ぱぁ、と橙の顔が明るく輝く。
「本当ですか!?」
「えぇ。だけど、辛かったらいつでも言ってね。あと、ちゃんとお給料は出すから」
「いいえ、そんなの――」
「そうしないと私の気が済まないの。ね?」
「うぅ……分かりました」
「あと、いろいろ約束してほしいの。絶対に、お嬢様や他の方々には逆らわないで。お願い」
「は、はい」
 何をそんなに心配しているのだろう? 橙は思った。でも、確かに咲夜さんの迷惑になりそうなことだから、今言われたことは守ろう。
 それでも、咲夜の表情は暗い。
「咲夜さん」
 心配して、つい訊いてしまった。
「私、迷惑でしたか?」
 そう訊かれ、咲夜は微笑みを浮かべながら橙の頭をなでた。
「そんなわけないじゃない。すごく嬉しいわ」
 橙は笑って、咲夜のなでる手に身をゆだねる。少しくすぐったいけど、それが気持ちよくて、嬉しい。紫や藍が家にいない時には、なおさら。
 橙は咲夜を助けたい気持ちを再度確認した。これから、一生懸命に働いて、咲夜の助けになろうと再度決意する。
 その日から、橙は紅魔館で働きだした。
 


 問題その1:妖精メイドたちの怠慢


 
 妖精メイドたちの中に混じり、一匹の化け猫が同じようなメイド服をまとい、掃除をしていた。
 真っ赤なカーペットが敷かれた廊下。一見すればきれいだが、細かく見れば埃が積もっていた。だから、橙はフリフリのスカートをなびかせて、丹念に掃く。塵一つ残さないように。
 掃きながら、しかし橙は違和感を感じていた。
 みんな、一生懸命じゃない。
 少し見れば、雑談にふける者。箒を立てかけて、何か本を読んでる者。箒を剣に見立ててチャンバラを演じる者。その他、仕事をしているとは言えない妖精メイドが多かった。
 ……みんな、どうしてお仕事をしないんだろう。
 門番もそうだった。昼寝をしていて、真面目に門を守っているようには見えなかった。
 それでも、まだ門番はいいと思う。紅魔館に侵入してくるような奴なんて滅多にいないし、いたとしても泥棒目的で入る魔理沙くらいだ。魔理沙ならどんな相手でも滅多に負けることはない(主人である藍も負けたほどだ)。ならば、始めから通してしまうのも分かる。通してしまえば、門番なんてただ立っているのが仕事になってしまうから、つい眠ってしまうのも分かる。
 けれども、メイドは違うだろう。
 メイドこそは、一生懸命に仕事しないとダメだろう。
 橙の想いも虚しく、妖精メイドたちに働く意志はないようだ。
 橙はため息を吐きながら、自分だけでもと思って一生懸命に掃除した。
 何人かの妖精メイドがそれを見ていることには気づかなかった。
 


 何日かしたある日の夜、橙がトイレのために廊下を歩いていると、箒とゴミ袋を抱えた咲夜に遭遇する。月明かりが差し込む廊下で、咲夜は月明かりに照らされて美しかった。だからこそ、手に持つその箒とゴミ袋が異彩を放っていた。
「あら、まだ寝ていなかったの? 明日も早いわよ?」
「ちょっとおトイレに……」
「そう」
 咲夜はにっこりと微笑んだ。
「あの」
 橙が頭を下げる。
「ごめんなさい」
「どうしたの? 私は橙ちゃんに謝れるようなことをされた覚えはないわ」
「いえ、私が掃き足りないばかりに、咲夜さんに迷惑をかけてしまって……」
「あぁ、これ」
 ゴミ袋を少し掲げ、咲夜は苦笑する。
「大丈夫よ、あなたのせいではないわよ」
「でも……」
「これはしょうがないことなの。妖精メイドたちは、楽したがってるからね」
「あ……」
 橙はサボっている妖精メイドたちを思い出す。
「心当たりあるでしょ? まぁ、妖精だし。しょうがないんだけどね。だからと言って、廊下が汚いままじゃお嬢様が怒るでしょう? だから私がこうして掃除してるのよ。決して、橙ちゃんのせいじゃないわ」
「でも……それじゃ、咲夜さんが大変なんじゃ……」
「大丈夫。時も止められるし、これは私が信頼されてるってことだから」
 咲夜が微笑むと、「それじゃおやすみなさい」と言い残してその場から消えた。
 橙はその場に取り残された。悲しそうな表情を浮かばせていた。



 そんなことがあってか、橙は一層掃除に力を入れた。
 咲夜さんが夜掃除をしなくても済むように! と橙の固い決意がなせた。
 ただそこにいるだけの妖精メイドを押し退け、箒とチリトリとゴミ袋を手に、少しの埃を残さない完璧な状態に仕立て上げようとした。
 橙の熱意の籠もった目は、他の妖精メイドをその場から退かせるには十分であった。けれども、それを喜ばしく思っている妖精メイドは皆無のようだった。
「あの、別にそこまで一生懸命にしなくても大丈夫ですよ?」
 妖精メイドの一人が橙に言った。
「どうして?」
 橙の口調は、明らかに苛立っていた。
「分かってると思いますけど、ここはものすごく広いですよ。そんな一生懸命に掃いても終わりませんって。それが分かってるからみんなはそんなに一生懸命に掃きません」
「そうなんだ。でも、私は頑張るから」
 構わず、橙が掃くのを再開しようとした時、
「ダメです!」
「はわっ!?」
 箒をガシッと掴まれた。
「な、なにするの!?」
「あなたが一生懸命に掃いてしまうと、私たちも一生懸命に掃かなくちゃいけなくなるんです! 私たちが働かなくてはならなくなるんです!」
 周りを見れば、同じようにうんうんと頷く妖精メイドたちが多かった。中には、橙を敵視しているような目線を送る者たちもいる。
 橙は何事かと思う。
「どうして!? どうして掃除を一生懸命にやっちゃいけないの!? あなたたちがやらないから、私がやるしかないんじゃない!」
 分かってないですねぇ、と妖精メイドの一人が言う。
「全員でダラダラとやり、それを能率の最上値とする。メイド長である咲夜様から文句を言われても、『これでも精一杯なんです』と主張するんですよ。それで完璧です。私たちは遊びながら楽して給料が手に入る。あなただって、そのうち疲れて分かってくると思いますよ?」
 橙は目をまん丸くして、妖精メイドたちを見ていて。信じられない、という気持ちだった。
 無論、完全でついでに瀟洒なメイドである咲夜は、これが妖精メイドたちにとっての精一杯でないことぐらい、分かっているだろう。けれども、妖精だから、と諦めざるを得ないのだ。
 月明かりに映えた、ゴミ袋を持つ咲夜を思い出す。
 橙は、怒りを覚えた。
「何言ってんのよ!」
 橙は妖精メイドに向き合う。
「メイドさんが働いてくれないと、咲夜さんは大変になるんだよ!? 私たちがやらなかった分だけ、咲夜さんが仕事しなくちゃいけなくなるんだよ!?」
 妖精メイドは言葉を詰まらせた。
 事実その通りなのだ。
 妖精メイドたちがサボれば、サボるほど、その仕事はメイド長である咲夜へと回る。橙が言っていることは、まさにその通りなのだ。
「で、でも……咲夜様が全部やってるなら、別にいいじゃん……。あの人は完全で瀟洒なメイドなんだし……時間止めれば別に済む話だし……」
 ぷちんと来た。
 衝動に身を任せるままに、そう言った妖精メイドの頬をスイングさせた箒で叩き飛ばした。
 橙は幼くとも妖獣である。妖精メイドは数メートル吹っ飛んだ。
 それを妖精メイドは唖然として見ていた。
 中には敵意を持って橙を睨んだ妖精メイドたちもいたが、一様に絶句した。
「ばかぁああああああああああ!」
 力の限り叫んだ。
 橙の目からぼろぼろと涙がこぼれ、キッと妖精メイドたちを見据えていた。
「あなたたちが頑張れば、咲夜さんが頑張らなくて済むのに、あなたたちが楽したいからって理由で咲夜さんは頑張らなくちゃいけないんだよ!? あなたたちが夜寝ている間に、咲夜さんはゴミ掃除しているんだよ!? それを、咲夜さんは文句を言わずに……あなたたちは咲夜さんを何だと思ってるの!? 私なら……私なら、咲夜さんに少しでも負担を残さないように、一生懸命に掃除して――褒められたいよ!」
 橙は涙声で、叫んだ。 
 妖精メイドたちは互いに互いを見た。
「掃除しないんなら帰ってよ! 私が全部一人でやったほうがマシだよ!」
 橙が箒を掴んで、廊下の端へと飛んでいく。
 妖精メイドたちは、何も言わずにただ眺めているだけだった。



 橙が掃除をし終えた時には、すでに日がどっぷりと落ちた後だった。
 へとへとになった橙は、あてがわれた部屋の扉を開けて、ぼふんとベッドに身を沈めた。
「くったくただよぉ~……」
 本来、何十人もの妖精メイドがやるはずだった廊下を、隅から隅まで掃きまくったのだ。塵一つ残さないよう、咲夜に負担がかからないよう。
 おかげで、体力に自信があった橙もベッドに倒れるぐらいに疲れ果てた。
 でも、と橙は思う。これで、咲夜さんの負担は少しぐらい減ったよね?
 そう思うと充実感が胸の奥から湧き出て、急激に眠くなっていった。
 ……咲夜さん。これで夜に掃除することもありませんよね。
 橙はメイド服から着替えることもなく、眠りの園へと旅立った。



 マヨイガに来る咲夜は、いつも何かに疲れていた感じがした。それは本能的に分かったのかもしれないし、なんとなく漠然とそう思っただけかもしれない。
 それでも、咲夜は毎度何かしらのおみやげ(大体は紅魔館から持ってきた余った食材)を持ってきて、マヨイガへ遊びに来てくれるのだ。
 橙と出会ったのは春雪異変の時。その時は巫女や魔法使いもマヨイガに襲来したものだが、こうして定期的に会ってくれるのは咲夜だけだった。
 咲夜は橙を妹のように可愛がると同時に、ペットとしても可愛がってくれた。特に咲夜の膝でお昼寝するのが最高だった。橙が寝ている間に、咲夜は頭をなでてくれる。その気持ちよさと言ったら、主人である藍の尻尾にくるまれて寝るのと同等である。咲夜もまた掛け替えのない人であるのには違いなかった。
 最初は、こんな何もないところに来て何が楽しいんだろうと思った。しかし、咲夜曰く、何もないからこそいいのだそうだ。その後に訂正して、橙ちゃんがいるからと言い直した時は、恥ずかしさで顔が真っ赤になった。
 そんな想いを抱いているからこそ、咲夜が疲れているのは分かった。帰る時には少しマシになるのだが、ここに来る頃にはまた疲れ果てているのだ。
 そのうち、橙は咲夜を助けたいと思い始めるようになった。こうして可愛がってくれる咲夜が大好きだったからこそ、少しでも助けにならないかと思ったのだ。主人である藍や紫はやってることが複雑すぎて、助けることができない。しかし、咲夜ならば……。
 そうして橙は紅魔館の門をくぐったのだった。



 日差しの角度から、橙は目覚めた時にしまったと心の底から後悔した。明らかに昼近くで、とっくに仕事をしていなくてはおかしい。橙はバカバカと自分を責め立てながら、急いで別のメイド服に着替えた。さすがに、昨日来たままで掃除するわけにはいかなかった。
 着替えながら思う。きっと妖精メイドたちは私をバカにするだろう。何の言い訳ができない。昨日はまだ掃き掃除だけだったらそれほどかからなかったが、今日は拭き掃除なのだ。仕事の量が違う。これは、深夜になることを覚悟しなければならない、と覚悟を決め、橙は急いで部屋から飛び出した。



 しかし、来た時には目を丸くした。
 妖精メイドが各々雑巾を手に持ち、カーペットや壁を拭いているのだ。
「みんな……」
「あ、遅いぞ、橙!」
 みんなが笑顔で手を振った。どの妖精メイドも遅れてきた橙を責める様子はなかった。
「どうして……」
「あのね、私たち思い出したの。どうしてここで働いているのかって」
「思い出した?」
「そう、私たちは――咲夜様の笑顔が見たくて、働いていたのよ!」
「え? え?」
 橙は困惑していた。それは、自分が頑張る理由と同じものだったからだ。
「だから、誉められたかったの。私たちは最初、咲夜様にスカウトされたのよ。『働いてみない?』って。最初はその気じゃなかったんだけど、笑顔で『よくできました』って誉められる度に、どんどんこの仕事に誇りを持つようになっていったの」
 それは分かる。実際、咲夜から誘われたら自分もそう思うことだろう。橙にとっては十分に頷ける理由だ。
 でも、疑問が残る。
「だったら、どうして昨日まではあんなに一生懸命じゃなかったの?」
 橙がどう頭を振り絞っても、自分が怠けるような映像は浮かんでこなかった。橙にとっては「サボる」など、考えられないことだ。
 妖精メイドは「確かに」と頷いた。
「……それでも、私たちはどこか鈍くさくて。いつしか叱られることが多くなっちゃったの。それで、いつしかもらえる給料にだけ目がいって……どれだけサボれるかばかり考えてしまったの。咲夜様の気持ちを、全然考えてなかった。橙のおかげで気づけたんだよ!」
 橙の、おかげ。
 その言葉が胸を打つ。
「そんな……私、当たり前のことを言っただけだよ」
 橙はそれでもつい嬉しくて、涙ぐみながら鼻水をすすった。
 よかった、と心の底から思った。妖精メイドたちに気持ちが通じてくれた。
 咲夜さんのことが好きなのは、私だけではないんだ。ここも捨てたもんではない。
 笑って、橙は言った。
「これで咲夜さんは楽になるよね」
 楽になるだろうな、と橙は思った。
 
 
 
「あー……」



 けれども、妖精メイドは言葉を濁した。
「多少は、楽になると思うよ。うん」
「どういうこと? 咲夜さんはまだ楽できないの?」
「うん……あの人、本当にいろいろなお仕事をするから……」
「教えて」
「え?」
「咲夜さんが一番大変なお仕事、教えて!」
 襟元を掴んで、ガクガクと揺さぶった。
「わ、わ、分かったから! 分かったから、揺らすのやめて! 気持ち悪くなる、う!」
「あ! ごめん!」
 すぐに解放された妖精メイドは、ぐったりとカーペットに手をついた。
「はぁ、はぁ……でも、本当に大丈夫なの? 咲夜様の他のお仕事、尋常じゃないくらい、大変だよ?」
「……それでも、咲夜さんを助けられるなら」
 橙の覚悟は決まっていた。
「昨日から思ってたけどさ。橙って、咲夜様のためならいくらでも頑張れるんだよね」
「うん」
「……分かった。じゃあ、こっち来て」
 仕事は他の妖精メイドたちに任せて、橙とその妖精メイドに案内されて違う場所へと向かった。
 場所は――地下図書館。



 問題その2:パチュリーの実験


  
 案内された地下の図書館は、陰気で黴だらけな場所であった。思わず、橙がせき込んでしまうほどだ。
「大丈夫?」
「うん。ここは?」
「ここは、パチュリー様の地下図書館。パチュリー様は日頃ここでお過ごしになるの」
「それで、ここがどうして咲夜さんが大変なことになるの?」
「それは……あ」
 妖精メイドが本棚に隠れる。橙も慌てて隠れた。
 そこを、咲夜が飛んで通り過ぎる。
 手と腰には箒、雑巾、ハタキなど。黴を落とすための薬品も吊っていた。三角頭巾を口元に巻いて、彼女は掃除していた。
「ほら、見れば分かると思うけど、ここを掃除するのって尋常じゃないんだ。埃だらけだし、壁や床には黴が生えてるし、しかもこの規模でしょう? 咲夜様が掃除しても終わらないんだよ」
「そんな。あの咲夜さんがここを掃除し終わらないだなんて……」
「あれを見て」
 妖精メイドが指を指す方向は、先ほど咲夜がきれいした壁だった。咲夜は時を止めて掃除するようで、瞬く間に壁は素材本来の色を取り戻していた。
 しかし、
「あ!」
 先ほどきれいにした壁は、黴が湧き出るようにして現れ、黒ずんでしまった。
「どうして!?」
「最近、パチュリー様は魔力の実験を始めなさったの。パチュリー様の魔法は、元素に作用する魔法……。故に漏れでた魔力が、黴に力を与えて、増殖力を格段に跳ね上げてるの。他にも、実験の課程で出てきた廃棄物が埃となり、どんどん溜まってく」
「そんな……じゃあ、ここをいくら掃除しても、終わらないじゃない!」
「だから、言ったでしょ? ここは、尋常じゃないくらい大変だって」
「実験をやめさせれば……」
「パチュリー様はそんな理由で実験をやめるようなお人じゃないわ。まぁ、幸いなのが今行ってる実験さえ終わってしまえば、咲夜さんが無尽蔵に掃除をする必要もなくなるということだけどね」
「じゃあ……放っておけば……」
「そういう訳にもいかない。だって、パチュリー様は喘息なんだから。黴の胞子で、簡単に発作が起こってしまう。だから、掃除し続けるしかないの。咲夜様は」
「その人は、咲夜さんを何だと思ってるの!?」
「多分、前までの私たちと一緒だと思う……完全で欠かせない。だからこそ、当たり前だと思って、大変であることを意識しない」
 橙は力強く頷いた。
「私、行ってくるよ」
「行ってくるって」
「パチュリーさんのところ!」
「だ、ダメだよ! パチュリー様からお叱りを受けちゃうよ!」
「咲夜さんが苦労してるんだよ!? だったら、言わないと!」
 そう言って橙は飛び出して行った。
 妖精メイドが止めようとしたが、彼女の速さに反応がついていけなかった。



「何かしら?」
 パチュリーは本を読みながら、魔力を目の前にある装置に注いでいた。装置にはフラスコが置いてあり、フラスコからは様々な管が繋がっていた。橙がいきなり現れたことに動じることなく、魔女は実験を続けている。
 そんな状態であるから、パチュリーが橙の方向に向くことはなかった。
「今すぐ実験をやめてください!」
「どうして?」
「咲夜さんにすごい負担をかけているからです!」
「そんな理由だったら断るわ」
 橙は目を丸くした。
「どうして!」
「あなたこそ、どうして?」
 パチュリーは淡々と作業を進めていく。その動きに淀みはない。
「どうしてって……」
「咲夜はそんなヤワな奴じゃない。そんな奴だったらここのメイド長なんて勤まらない」
「でも、ここをいくら掃除しても掃除が終わらないんですよ?」
「知ってる」
「だったらどうして!」
「さっきからどうして、どうしてってうるさいけど。理由なんて必要? 私は魔女。だから実験する。咲夜はメイド。だから掃除する。それ以外に何の理由が必要だと言うのよ」
「咲夜さんにだって休みは……」
「何を勘違いしているのか分からないけど、咲夜は時間を止められる能力を持っているのよ? 時を止めて休憩するくらい彼女には造作もないことじゃない」
「う……」
 そうだ、と橙は思った。咲夜には時を止める能力がある。だからこそ、常人なら一日で過労死してしまうような勤務態勢でも彼女はやっていけるのだ。
 いくら掃除が終わらなくても、問題はない。
「さ、分かったら自分の持ち場に戻ったらどう? それこそ咲夜が悲しむと思うけど」
「そ、それでも! それでも咲夜さんにものすごい負担が――!」
「誰が言ったの?」
「え?」
「誰が言ってたのよ。咲夜が自ら私の実験の後始末が大変だからやめてほしいって言ったの?」
「い、いいえ……」
「それに、それは本当に咲夜のためなの?」
「え……?」
「本当に、あなたが今取っている行動は咲夜のためになるの? よしんば私があなたの言うことに共感して実験を止めたとしも、咲夜が喜ぶのかしらね。だって、自分のせいで私の実験が中止されることになるんだから」
 橙は何も言い返すことができなかった。
「さ。分かったらとっとと持ち場に戻りなさい」
 橙はしばらくその場で考えていたが、やがて尻尾を垂れてきびすを返し、とぼとぼと持ち場に戻る。
「ちょっと待ちなさい」
 呼び止められ、振り返った橙に何かが飛んできた。
 キャッチする。
 試験管だった。藍色の液体が振動で揺れる。
「それ、咲夜に渡しておいて」
「え?」
「身体を強化させる薬。滋養強壮に、ぶっ倒れそうになったら使って、と伝えておいて」
 橙は全身の毛を逆立てたが、堪え、大股で出口に向かった。
 バタン! と扉を閉める際は強く閉じた。



 その日の夜、橙はベッドの上で体育座りをしていた。
 その表情は暗い。
 ……どうして、ここの人たちは咲夜さんを大事にしないんだろう。
 あんなにも頑張っているのに、その人たちは褒めることすらしてあげない。ただ、メイドだから働くのは当たり前だと思っている。
 それは、悪いことだ。
 妖精メイドたちはちゃんとそれを分かってくれたが、パチュリーは理解してくれなかった。
 けれども、パチュリーにいとも簡単に言い負かされてしまった。
 悔しかった。
 ぐす、と橙が鼻水をすすった時、扉がノックされる音が響いた。
「失礼しますね」
 入って来たのは、咲夜だった。
「咲夜さん……」
「はい、これ」
 咲夜から、湯気が出ているカップを渡される。
「暖まるから、飲みなさい」
 橙がちびりと飲むと、とても甘い味がした。
「ココア、と言って、今日香霖堂の主人からいただきましたの。カカオという甘いお菓子の原料となるものをコーヒーみたいに溶かしたものらしいですよ。外の世界でしか栽培されてないんですって」
「それじゃあ、とても貴重じゃないですか……なのに、私に?」
「今日、パチュリー様に抗議したそうですね。私に負担がかかるから、実験をやめてくれって」
「あ……そ、それは」
 橙は自分が逆らわないよう約束していたことを思い出していた。
 対し、咲夜はにっこりと笑っている。
「大丈夫よ。パチュリー様は気にしてなさってないようだから。むしろ、褒めてあげなさいって。だから、ココアは私の感謝の気持ち」
 よかった、という気持ちを抱いたが、すぐにその気持ちは塗り替えられた。
「……」
 橙はカップを近くのテーブルに置いた。
「どうしたの? もういらない?」
「どうして、ここの人たちは咲夜さんを大事にしてないんでしょう」
 橙は呟きに、咲夜は目を丸くする。
「みんな、咲夜さんが働くのは当たり前だって、次々にいろんな仕事を押しつけて……咲夜さんは確かに、時間を止められるし、お仕事だってすごい速さでこなせますけど……でも、みんな咲夜さんを働かせすぎです! 咲夜さんが疲れてること、全然分かっていません!」
 橙の頬に涙が伝った。橙はそれから泣き出してしまった。
「どうして咲夜さんはここで働いてるんですか!? どうしてこんな酷いところで働かなくちゃいけないんですか!? どうしてみんな咲夜さんを大事にしないんですか!? 咲夜さんを大事にしないんなら――咲夜さんをマヨイガに連れていったほうがマシですよ!」
 その後、部屋に響く声で泣いた。橙は本気で咲夜のことを案じ、自分が咲夜を救えない非力さを嘆いていた。
 そんな橙を咲夜は微笑みを浮かべて見ていた。
「本当に、橙ちゃんは優しいのね」
 橙の隣に座って、ぎゅっと包み込む。
 頭をなでる。
「大丈夫よ。日頃のお仕事なんて、全然大したことないし、それに橙ちゃんが思っているほど私はぞんざいに扱われてないわ。むしろ、とても大事になさってくれる人がたくさんいるの。だから、ね? 泣き止んで?」
「うぅ……それ、絶対嘘です……」
「嘘じゃないわ。それにこの前言ったでしょ。みんなが頼ってくれているのは、みんなが私を信頼してくれることなの。私はそれが嬉しいのよ?」
「うぅ……」
「ほら、明日も早いから。早く寝ましょう」
「……」
 橙はぎゅっと咲夜の裾を掴んだ。
 咲夜は苦笑を浮かべた。
「分かったわ。今夜は一緒に寝ましょう」



 問題その3:レミリアの懲罰



 翌日、橙はいつも通り、妖精メイドに混じって廊下のカーペットを掃いていた。
 周りの妖精メイドは今までとは打って変わって一生懸命に掃いていて、時折視察に来る咲夜から褒められるほどであった。それがまたやる気の種を生みだし、よい循環を起こしていた。
 橙ももちろん一生懸命に掃くが、気もそぞろで何度かため息を吐く始末。
 そんな様子を心配してか、昨日図書館に案内してくれた妖精メイドが声をかけた。
「大丈夫? なんか元気ないみたいだけど」
「うん……ちょっとね」
「やっぱり昨日のパチュリー様の一件?」
「そうじゃないけど……咲夜さんがね。心配で」
 今朝起きたらすでに咲夜はいなかった。橙は朝が早いほうだと思っていたのだが、咲夜それよりも早い時間に起きたことになる。
 正直言って、ロクな休息が取れているかどうか不安だ。
 橙のため息は重い。
「ねぇ、どうしてそんなに咲夜様を心配するの?」
「逆に訊くけど、どうして咲夜さんを心配しないの?」
 うぅむ……と妖精メイドは少し唸った。
「やっぱり咲夜様が人間離れしてるから、かな……」
「それでも、やっぱり疲れはあるでしょう……そう、心の」
「心の……」
「心も疲れるんだよ。いくらお仕事をやっても、減らないんじゃ心は疲れていくばかりだよ……」
「……一応言っておきますと、咲夜様にも休みの日はありますよ?」
「え?」
 橙は箒を掃くのを止めて、妖精メイドに振り向いた。
「そうなの?」
「えぇ。ただ、その時に貰った休日は、ほとんど外出に使ってますけどね」
「……どこ?」
 妖精メイドは目をぱちくりさせた。
「どこって……あなたのところですよ」
「え?」
「マヨイガです。そこで、あなたを世話するのが楽しいみたいで」
「あ……」
 思い返せば、そうだ。咲夜さんがいつマヨイガに来るかと言えば、休みの日に決まっているではないか。
 彼女はおみやげに持ってきてくれた食材でご飯を作ってくれたり、膝枕のついでに耳掃除もしてくれたり、一緒に里までの買い物に付き合ってくれたり、一緒に寝てくれたり……。
 その時間は全部、咲夜が自分のために使うべき時間なのに。
「咲夜様は、あなたの世話をすることで、癒されておられるのです。あなたを妹みたいに可愛がってくれるのですよ」
「……」
 橙は思う。
 言い負かされたからってなんだ。それが、咲夜さんに負担をかけてもいい理由になんてならない。
 言い負かされるのなら、言い負かすまで何度も挑めばいいことだ。
「ちぇ、橙!? どこに行くのですか!?」
「もう一回パチュリーさんのところに行ってくる。どうしても、咲夜さんを楽させてあげたいから……!」
 橙が駆け出したその時、
「みんな、大変だよ!」
 妖精メイドの一人が飛んできて、みんなに叫んだ。
「咲夜様が、お嬢様に叱られてるよ!」
 どよめきが広がった。
 橙も思わず足を止めて、妖精メイドを見上げた。
 その表情は、困惑だった。
 橙は、咲夜の身を案じた。



「咲夜。あなた、弛んでない?」
「すみません。お嬢様」
 咲夜はレミリアに頭を下げて、畏まっていた。
 その光景を、妖精メイドたちと橙は、扉の隙間から覗いていた。
 床にはスープの皿がひっくり返されている。
 床に広がる血のように赤いスープ。しかし、血を煮ているわけではなく、咲夜が煮詰めたトマトスープであった。
 レミリアは怒っていた。
「咲夜。私が辛いものが嫌いだって知っているでしょう」
「……はい」
「なのに、このスープには唐辛子が入っていたわ」
「……はい」
「このスープは、あなたが作ったものよね」
「……はい」
「唐辛子を入れたのも、あなた?」
「…………」
 咲夜は何も答えない。
 どうしてだろう、と橙は疑問に思った。完全で瀟洒な咲夜さんなら、たとえ失敗しようと誤魔化したりはせず、きちんと説明して、完璧な謝罪をするはずだ。
 そもそも、こんな失態を犯すはずもないのに。
 それはレミリアも思ったようで、先ほどとは違う声音――どちらかと言えば身を案じる声音で――咲夜に言った。
「ねぇ、あなた大丈夫? 咲夜らしくないわよ?」
「すみませんお嬢様、すみません」
 ひたすらの平謝り。全然、咲夜さんらしくない。
「そもそも、咲夜様がお嬢様のお嫌いな唐辛子なんて入れるはずも……」
「……あ!」
 橙の後ろにいた妖精メイドの一人が声をあげた。
 橙の隣にいた妖精メイドがその妖精メイドに体を向けた。その妖精をジッと睨んでいた。
「何か、心当たりがあるようね?」
 言い逃れは許さないという口調だ。
「い、いや……もしかして」
「もしかして?」
「……私が、勘違いしちゃったからかも」
「勘違い?」
「う、うん……」
「どんな?」
「……賄いとお嬢様のお食事を、間違えた、かも」
「……は?」
「賄いにたくさん唐辛子を振りかけたつもりだったんだけど……それがお嬢様のお食事だったのかも……」
「……バッカじゃないの!?」
 非難がその妖精メイドに集中した。
「どうして間違えるのよ! あんたの食事とお嬢様のお食事!」
「そもそもどうして厨房に入ったのよ! 別に唐辛子くらい出されてからでもいいでしょう!?」
「というか、おかしくない? お皿に盛っていたのならさすがに食器で気づくだろうし、そうじゃなかったとしても私たちの誰かが犠牲になるのが自然のはず……まさか、鍋? 鍋に振りかけたの?」
「う、うん……」
『バカじゃねえの!?』
「ご、ごめんなさあああああい! 私、その方がおいしいと思ったから……みんなが、咲夜様が喜んでくれると思ったからあああああああ!」
 そう妖精メイドは叫んで、その場に崩れ落ちてしまった。顔を覆って啜り泣く。
「泣けばいいってもんじゃないわよ!? 咲夜様にどれだけ迷惑かけていると思ってるの!?」
「ねぇ、もしかして、咲夜様が言わないのって、そのせいじゃないの?」
「もしかして……このどうしようもない妖精メイド一匹を庇うために、全部の責任を負うって言うの!?」
「そうじゃなかったら、咲夜様がお嬢様に何も説明しない説明がつかないわよ」
「ちょっと待ってよ……あのお嬢様なのよ? 一体、咲夜様にどんな罰を下されるか……」
 橙はその言葉が気になった。
「ねぇ、どういうこと? あの人が何をするというの?」
 妖精メイドたちはその問いかけに、冷や汗を流した。
 互いに見合い、頷く。
「レミリアお嬢様は……とても残忍なお方です。失敗した妖精メイドたちに過酷な仕置きをなされたことが多く、そしてそれはとても気まぐれに決められてしまうのです……」
「前の妖精メイドは、廊下の雑巾がけ二百周でしたわね……」
「その前は、紅魔館中の壁拭き……あれは、二週間かかっても終わりませんでしたわね……あ!」
 飛び出した。



「私がやりました!」
 中に入るなり、橙はそう叫んだ。
「あ?」
「ち、橙ちゃん!?」
 咲夜が慌てふためく。咲夜さんに隙を与えまい、と一気にまくし立てた。
「私が妖精メイドのみんなに暖かくなってもらおうと唐辛子を入れようと思ったらあなたのスープを間違えて入れてしまいました! 咲夜さんも妖精メイドも誰も悪くありません私が悪いんです!」
 言い終えた後、荒々しく呼吸する。
 咲夜は唖然としていたが、その状態になっていたのは一瞬で、すぐにレミリアに向き合った。
「この子は何も悪くありません。責任はすべて私にあります!」
「まぁ待て咲夜。お前はわざわざ自供してくれた者を庇うというのか?」
 ニヤニヤとレミリアは笑う。
「庇ってなどいません! 管理不届きであった私が悪いと言っているのです!」
「ということは、この者が私のスープに唐辛子なぞ入れたのは、事実のようだな」
 咲夜はハッとしていた。しまった、とでも言いたげに唇を噛む。
「いいえ、お嬢様。すべては私に――」
「黙りなさい咲夜。今はこの者と話す」
 橙の頬に冷や汗が流れる。
 とっさに勢いで飛び出したものの、自分がどれだけとんでもない化け物の前に飛び出したのか、今更ながらに恐怖していた。
 正直、怖くてちびりそうである。
「で、お前が唐辛子を入れたのは認めるんだな」
「は、はい!」
「当然罰は覚悟してるんだろうな」
 来た、と橙は思った。
「はい」
「ほぉ。覚悟は決まっているようだな。その様子だと私がいかに悪魔らしい、残虐な罰を与えているかも知っているようだな」
「どんな罰でも、私は受けます」
「お、お待ちください!」
 咲夜が慌てた様子で声を挟む。
「お嬢様、お願いします! この者に罰は与えないでください! 代わりに私が! 私がどんな罰でもお受け致しますから!」
「咲夜は私のお気に入りよ。そんな理由で罰を与えるわけないじゃない」
「この者を採用したのは私です! この者に罰を与えるならば私にも罰を与えるのが道理のはず!」
「私、常日頃思っていたのだけれども連帯責任って嫌いなのよね」
 嘘だ、と橙は思った。
 恐らく他の妖精メイドもそう思っていることだろう。目の前にいる悪魔は気分次第で他の者にも連帯責任として罰を与える。きっとそういう気性の持ち主だ。
 咲夜の顔は青ざめていた。橙を庇う理由が見あたらなくなったらしい。
 それでいい、と橙は思う。
「それじゃあ……どうしましょうかねぇ」
 レミリアが思案に耽るその時だった。
「お、お嬢様!」
 妖精メイドの一人がレミリアに急ぎ近づいてきた。
 レミリアは考えごとを邪魔されていささか不機嫌になったようだ。不機嫌な口調で妖精メイドに言う。
「何事?」
「も、申し訳ありません!」
「いいわ。で、何があったの?」
「は、はい。その――」
 妖精メイドはその事件を話した。
 それは咲夜の顔を一層青ざめるに至るもので、レミリアがにやりと、まさに悪魔の笑みを浮かべるにも十分なものであった。
「決まったわ」
 レミリアは橙を指さして言う。
「お前がどうにかしろ」


 
 問題その4:フランドールの遊戯



 橙は地下に案内された。パチュリーの図書館よりももっと奥にある部屋へと。着いた時、橙はその厳かな鉄扉に目を丸くした。そして時折聞こえてくる地下道に響くような打音と、そのたびに明滅する扉に施された魔法陣が印象的であった。
「この中には私の妹、フランドールがいるわ。今は遊びたくて、まだかまだかと扉を叩いてる」
「遊びたがってるんですか?」
「そう。それで、これからあなたはフランと遊んでもらうわ。それが罰」
 何だ、と橙は思った。そんなことなら簡単にできる。私も遊ぶのは大好きだ。
「えぇ、いいですよ」
 だから橙は笑顔で言った。こんなの余裕じゃないかと。雑巾がけや壁拭きに比べればずっと楽だと。
 その橙を、咲夜は強ばった顔で見ていた。
 逆に、レミリアは一層笑みを強くする。
「そう。まぁ、中に入ればすぐ分かるわ。その余裕もなくなることでしょう?」
 橙は小首を傾げた。余裕がなくなる? 何が分かる?
 レミリアが扉を開けようとした時だ。
「だめです!」
 咲夜が飛び出した。
「やはりダメですお嬢様! お許しください! どうか、フランお嬢様と遊ばせるのは、やめてください!」
 咲夜はレミリアの足下で、必死に土下座して懇願している。くしゃりと表情はゆがみ、今にも泣きそうな顔をしている。
 どうしてそんな顔しているのだろう、と橙は小首を傾げた。
「大丈夫ですよ? ちょっと、遊んでくれば――」
「あなたは黙って!」
 今までに言われたことがないくらいきつい口調で言われ、橙はショックを受けた。口を開けたまま、言葉が出なかった。
「お願いします。お願い申しあげます、レミリア・スカーレット様……!」
「ダメよ」
 即答だった。
 咲夜の必死の懇願も、レミリアは顧みることなく断った。
「私はね、咲夜。楽しみなの。そこの子は八雲紫の式の式じゃないか。だから、あどけない外見にどれほどの力が秘められているか、私は見てみたいの」
「ならば……私が」
「相手するって? それはダメ。あなたじゃきっと加減するだろうから。殺される危険があるフランくらいがちょうどいい」
 殺される、危険?
 その言葉に寒気を覚える。
「八雲の式の式ならば、分かっているでしょう!? もしも死なせてしまった時、八雲藍が、八雲紫が敵討ちに来るのかもしれません!」
「この私が八雲紫に負けると思っているのか? 咲夜」
 悪魔はどこまでも傲慢で不遜だ。
「そうなったらそうなったらで、だ」
 レミリアの微笑みは、咲夜を震わせた。橙は詳しい事情を飲み込めなかったが、本気らしい、ということは分かった。
 だから言ってやった。
「藍様と紫様のほうが強そうだけどな」
 レミリアは一瞬ぽかんとして、その後にっこりと笑った。
「そうか。ならば、戦う機会があったら証明してみせよう。が、その前に」
 レミリアは扉に手をかける。
「式の式であるお前が、我が妹に勝ってから言ってみろ」
 扉が開かれた。



 部屋の中は滅茶苦茶だった。
 家具、小物、ぬいぐるみ。その他多くの物品の何もかもが破壊されてしまっている。
 橙は絶句した。自分の思い描いていた『遊び』という概念が崩された。
「あれ?」
 部屋の主は部屋の中心でイスに座り、パタパタと足を揺らして、クルクルと髪を弄んでいた。
「新しい玩具?」
「玩具じゃありません!」
 橙は強く主張した。
 が、フランドール・スカーレットはそれを意に介することなく、「まぁいいや」と言って、イスから降りた。
「妖精メイドじゃ飽きてたからね。新しいのが来て私嬉しい。あいつもたまにはいいことするじゃん」
「あいつ……?」
「会わなかった? 私のクソ姉様」
「お、お姉さんをそんなふうに言っちゃダメだよ!」
「いいじゃーん、別にさぁ。実際クソなんだからさぁ。あのビッチ」
 ケラケラと笑う。
 橙は初めて聞くような汚い言葉に、クラクラしていた。
 違う。言葉に目眩を覚えているのではない。
 悪意を持って『その言葉』が使われていることに目眩を覚えているのだ。
「なんかじゅんじょーだね。さぞかしいいとこ育ちなんだろうなぁ」
「べ、別に……」
「まぁそんなことはどうでもいいや。早く遊びましょ?」
 そうだった。自分はそのためにここに入ったのだ。
「遊ぶって……何で?」
 橙の声は震えている。間違っても、おままごとみたいな平和な遊びでないことは確かだろう。
「んー……何にしようか。今までは妖精メイドばっかりだったから、いろんな遊びも出来てきたけど……この子、脆そうだしなぁ……」
 ぶつぶつと独り言のように呟く。完全なる一方通行。橙の意志を挟む余地などない。
「あ。じゃあ――弾幕ごっこ、しようか」
「弾幕ごっこ?」
 それならば、もしかしたらと橙は思う。弾幕ごっこは互いにスペルカードを使って、弾幕の美しさを競う遊びだ。橙も未熟ながらそれなりに経験はある。
「た、だ、し」
 フランはあどけなく笑った。
「死ぬのもありね」
「え?」
「よーい、すたーとぉ」
 一瞬で、橙は壁に叩きつけられていた。
「……っく!」
「あら、案外丈夫」
 何をされたかを整理すれば、いたって簡単で、不意にフランが接近して橙を蹴りとばしただけだ。
 ただし、吸血鬼の膂力が籠もった重たい蹴りで、だ。
 橙はそのまま床に落ちる。
「……か、は」
 全身に激痛が走って、まともに息もできない。
 今までに感じたことのない恐怖が橙を襲っていた。
 ガクガクと身を震わせる。視線はフランから外すことができない。
「へぇー。あぁ、そっか。あなた一応妖獣なのね。だから、耐えられたんだ。そっかー、へぇー、ふーん」
 フランはにやりと笑った。橙はその笑みを見ただけで、全身に震えが走った。
「妖精メイドよりは、楽しめそうね」
 その笑みは、完全に狂気に彩られていた。
 橙は恐ろしくて、震えが止まらない。
「ねぇ、立ってよ。ほら、弾幕ごっこだよ。弾幕打ち込んじゃうよ、ほら」
 そう言ってフランは手を軽く振った。
 それだけで、紅い弾幕が目の前に広がった。
「あ、あああああああああ!」
 橙はまともに考えられなかった。ただ、本能に任せてかわして、かわして、かわしまくった。
 ゴロゴロと転がり、橙は雑巾のように床の汚れが服につく。
「わ、すごーい。しかも掃除もされちゃった。あは」
「はぁ……はぁ……はぁ……」
 けれども、限界が目に見えていた。
「少し楽しかった。んー……でも、こんなもんかしらねぇ。だって次は床に這い蹲ってちゃ避けられない弾幕撃つし」
 宣告するのは、余裕の現れだろう。
 フランはつまらなそうに呟く。
「もうちょっと骨があればよかったんだけどなぁ。咲夜みたいに」
 ぴくり、と橙の耳が動いた。
「咲夜……さん?」
「うん。咲夜すごいよぉ」
 その時だけは少女のように可愛らしい笑顔で笑う。
「時間止められるからこっちの攻撃当たらないし、こっちはナイフ当てられるし。いくら『遊んで』も死なないから、退屈しなくて済むんだよ。あーあ。どうせ遊ぶなら咲夜がよかったなぁ」
 「あ、でも」とフランは続ける。
「咲夜はこっちに気を遣って本気で殺しにこないから、つまらないんだよねぇ。だから、そこらへんあなたなら楽しめるとは思ったんだけど……弱いからなぁ」
 はーぁ。とフランは残念そうにため息を吐いた。
 橙は唇を噛みしめていた。
 唇から血が流れる。
 何なんだ、こいつは。
 咲夜さんを、一体何だと思ってるんだ。
 咲夜さんほどの実力ならば私みたいに恐怖を抱くこともないだろう。そして、攻撃が当たらないというのも本当だろう。
 だからと言って、本気で攻撃を仕掛けてくる奴がどこにいる?
 気を遣ってくれる相手を殺そうとする奴が、どこにいる?
 おかしいではないか。絶対、おかしいことではないか。
 咲夜さんがいないと成り立たないことを知ってるくせに、咲夜さんに対しては何ら温情をかけない。「ありがとう」という言葉の一つも言わない。してあげるのが、当たり前だと思っている。
 歪んでいる。
 私は、許せない。
 橙は身を震わせながら立ち上がった。ガクガクと膝を震わせ、それでもキッとフランを見据える。
「お?」
 フランの声音に期待が混じった。
「いいじゃん、いいじゃんその目。なんか、そう。私を殺す気みたい」
 嗤う。
「でも、どうすんの? あんた弱いじゃん。そんなんじゃ、私に手を出すことも出来ないと思うけど?」
 確かにその通りだ。今のままでは橙がたとえ挑みかかったとしても、一瞬で蜂の巣にされるだけだろう。
 力が必要だ。目の前の歪みを叩き伏せる力が。
 その点、怒りついでに思い出したことがある。
「覚悟してよぉ……私が本気で怒ったこと、滅多にないんだから」
「へぇ」
 その口調は嘲笑が含まれていた。
「ならやってみろよ」
「言われなくたって!」
 橙は懐から試験管を取り出した。
 きゅぽん、と栓を外し、
「――ぶっ殺してやらぁ!」
 藍色の液体を、一気に飲み干した。
 異変はすぐさま起こった。
 
 
 
 咲夜はひたすら考えていた。
 妹様は今狂気に陥っている状態だ。普段の妹様なら、もっと女の子らしい、平和な遊びができる。例えばおままごととか、お人形遊びとか。
 けれども、今の妹様は完全に狂気に支配されている。時間はバラバラだが、早くて一週間に一度。遅くて一ヶ月。それでもある程度弾幕ごっこに付き合えば収まる。
 しかし、逆に言えば弾幕ごっこに付き合わなければならないということだ。妹様は本気で殺しにかかる。私ならば、時間を止められるから狂気が収まるまでの時間稼ぎは出来る。
 けれども、橙ちゃんは……。
 気が気でなかった。もう殺されているような気さえする。いや、生き残ることなどきっと出来まい。
 あぁ、どうしてこんなことに……。
「咲夜。少しは落ち着きなさい」
「お嬢様のせいですからね、私が……こうなってるの」
「フン。従者が主人よりも考えることがあるなんてな。あの子猫が羨ましい」
「すみません」
「まぁ、大丈夫だろう。咲夜はもう少し信用してやれ」
「一体、どう信用しろというのですか!」
 咲夜はハッとして、肩を落とす。
「す、すみません……」
「今日のお前は本当に珍しいな……だから楽しい」
 クツクツと笑う。
 ヤケだった。
「お嬢様には到底分かりませんよ」
 「わーお」とレミリアはわざとらしく驚く仕草を見せた。
「私に楯突くなんて。ほんとに今日は面白い日だ。まぁ、落ち着けよ。私が本当に何の計画もなく行かせたと思うか?」
「え?」
 咲夜は目を丸くする。
 何かしらの策がある?
「ま、計画というほどでもないな。あの猫と対峙した時、面白い未来が見えたんだ。少し、それを見てみたかったんだよ」
「と、申しますと……橙ちゃ――あの者が、妹様に勝つとでも?」
「そこまでは分からん。が……面白くなってきたようだ」
 にやりとレミリアが笑った時、鉄扉が粉々に破壊された。
 爆風が二人を襲う。
 咲夜は腕で顔を風から守りながら叫ぶ。
「な、何なんですかこれは!?」
「何って……見れば分かるだろう」
 ボッ! と粉塵から何かが飛び出した。
 レミリアは動じることなく、見上げた。
 咲夜もそれにつられて見上げると――目を疑った。
「面白いことだよ」
 
 

 フランは笑いながら、レーヴァテインを振り下ろしていた。
「面白い! 面白い! 面白い!」
 まさかここまで面白くなるとは思ってもみなかった。
 炎の大剣が火を撒き散らしながら橙へと肉薄する。
 振り切る。
 けれども、手応えはない。
 強烈な殺気が背後から迫る。
 振り返った時にはすでにフランは蹴り飛ばされていた。
 痛みで顔を歪ませながらにやりと笑う。
 面白い。
 
 
 
「な……あれが、本当に橙、ちゃん……?」
 まるで、獣だ。妖獣という種族に橙は属するのだが、それでもその実力はフランには遠く及ばないと咲夜は思っていた。
「あぁ。正真正銘お前が大好きなあの猫だよ」
 そのフランがレーヴァテインを振るったことにまず驚き、そして次の瞬間には後ろから橙がフランを蹴り飛ばしていてさらに驚いた。
 その後、橙はフランを速度で翻弄し、フランは抵抗を見せるものの橙に一方的に殴られていた。
 橙の顔はここからでは見えない。けれども、きっと獲物を狩る獣の目をしていることだろう。橙の動きは遠目から見ている咲夜でさえ目で追えず、確実にフランの体力を削っているように見えた。そして何より――橙から発する殺気が、咲夜の身を震わすほどだった。
「一体……何が」
「パチェから聞いた話なんだけどな。あの猫に薬を持たせたらしいんだわ」
「薬……?」
「そう。飲めば一時的にだが格段に強化できる薬。ここ数週間の実験の成果だそうだ。あ、黴掃除、礼言ってたぞ」
「え、あ、はい……。じゃなくて、一体どういうことなんですか!?」
「パチェ曰く『想いに比例して魔力と身体能力を上げる薬』。名付けて根性薬、というらしい。ネーミングセンスはどうかと思う。もっと横文字を足したら格段によくなると思うんだが。根性メディシン、とか。いや、飲み薬だからシロップのほうがいいかな。根性シロップ」
「そこは分かりかねますが……」
 「咲夜もまだまだだなぁ」とため息を吐けられる。咲夜はまだまだなのかなぁ、と小首を傾げた。
「ともかく、もともとは日頃の激務に追われるお前のために作っていたらしい」
「私のため、ですか?」
「あぁ。お前が精神的に参ってたのは知っていたからな。だが、一つ問題があった。それは――効果があまりにも効きすぎるということだ」
「効きすぎる、と申しますと」
「ぶっちゃけ、効果の作用が想いに左右されすぎて、頑張れる時には本当に頑張れるし、逆に一度休むと延々に休んでしまう。そういう薬なんだよ、根性薬」
「つまりは……一度服用したら薬が切れるまでは休めないと?」
「そういうことだ。効果がどれだけ続くかは分からないらしい。下手したら肉体が耐えきれなくなって死ぬみたいだ」
「そんな薬を橙ちゃんに持たせたんですか!?」
 慌てた様子で咲夜は橙を見る。フランがフォーオブアカインドを使い、四人がかりで橙を押さえようとしていたが、橙は瞬時に四人とも蹴り飛ばしてしまった。
「焦る必要はないよ咲夜。あの猫だったから問題がないんだ」
「どういうことですか」
「何、今のあいつを支配している想いは何だと思う?」
「え……?」
 今までの橙の行動を振り返る。
「もしかして――」
「あぁ。至って簡単だ。今まであいつは咲夜、お前の負担を減らしたい一心で働いてきた。そんな奴だからこそ、歯止めも利く。お前の負担を減らしてやればいいんだからな。だからパチェは持たせたんだ。飲ませても平気だと思ってな」
「私の、ため……」
 見上げれば、橙はフラン相手に圧倒している。実力の差は歴然のはずだが、それすらも補い、上回るほど想っているということになる。
 そこまで想ってくれていただなんて……。
「お前に大分懐いているようじゃないか。うらやましい限りだ」
 それにしても、
「さすがのパチェもここまで想定外だったろう。まさかフランと戦えるレベルにまで上がるとはな。大方、フランの咲夜に対する扱いを聞いてブチギレたんだろうが。まぁ、もちろん本人はそんな薬であることを知らずに飲んだんだろうけどな。これはパチェにとっても収穫になったな――お」
 決着が来たようだな、とレミリアが呟いた時だ。
 橙がフランを床に叩きつけた。
 爆風が、咲夜たちを襲う。
「う……!」
 粉塵が巻き起こり、周りが見えなくなった。
 どうなったのだ? 橙ちゃんと妹様はどうなったのだ?
 咲夜は動くことができなかった。
 やがて粉塵が晴れて――
「フン」
 レミリアは笑った。
「どうやら、私と八雲の奴らが戦っても引き分けで終わるようだな」
 レミリアが見る先には、大穴がぽっかりと空いていた。
 レミリアは興味をなくしたようで、踵を返してその場から去った。
 咲夜はクレーターまで走った。
 覗きこんで、思わず涙ぐむ。
 その中心には、橙とフランが重なるようにして眠っていた。互いに眠っている表情は穏やかで、あどけなさが残っていた。フランは狂気が、橙は薬の効果が、それぞれ消えていた。
 橙がここまで自分のために頑張ってくれたことが嬉しくて、感動していた。涙をぬぐい、咲夜は笑って声をかけた。
「ありがとう。お疲れさま」
 咲夜は頬を涙で濡らしながら、微笑んだ。
 橙の戦いは、終わった。



 問題その5:橙の処遇



「ん……うん……?」
 橙の意識が戻った時、まず始めに思ったのは自分は一体どうしたんだけっけという疑問であった。窓の外は暗い。どうやら夜のようだ。
 私、お仕事は……。
 すぐに、思い出してがばりと跳ね起きた。
「あれ……、ベッド? ここ、私の部屋……じゃない?」
「おぉ。目覚めたか」
 ベッドの隣にレミリアがいた。
「あ……」
「あぁ、そんな畏まんなくたっていい。今のお前は客人だ。ついで、ここは私の部屋だ」
 言われ、橙は頷く。
「よし……どうやら副作用はないみたいだな」
「副作用……?」
「パチェ――あの魔女からもらった薬を飲んだろう」
「……あ」
 思い出す。
「確か、咲夜さんに渡しておいてと言われて、私は一生懸命働いてる咲夜さんをまだ働かせるつもりかって腹が立って……あの場で怒った時に薬をいつまでも持ってたことを思い出して、それで……飲んだ」
 そこから先は覚えていない。
「パチェがそう言ったのはわざとなんだ」
「へ?」
「パチェ曰く『咲夜を働かせたくないと思っている奴が咲夜を働かせるような薬を渡すはずがない。初めから持たせるつもりで渡した』だ、そうだ」
「わ、私に!? ど、どうして!?」
「『咲夜を働かせたくない。だったら、自分で頑張ることが多くなる。時には倒れてでも働こうとするだろうから、薬の効果がどれほどのものか確かめられると思った。何せ妖獣で頑丈だし』だ、そうだ」
「そ、そんな……」
 がっくりと橙は頭を垂れた。要するに体のいい実験台になっただけじゃないか……。しかも、咲夜さんに飲ませるぐらいなら私が飲む、という心も読まれてるし……。
「まぁ、パチェが実験結果を聞いた時には『むきゅぅー!』とか言ってめちゃくちゃ目を輝かせてたから、あながち人選は間違ってなかったと思うがな。お前とフランの戦いは凄まじかったぞ」
 どうやら薬を飲んだ後、何だか知らないが壮絶な戦いを起こしたらしい。橙には現実味がなかった。何せ実力差は開きすぎていたし、あの薬を飲んだ時だって滋養強壮と聞いたからだし……。
 ふと、気になった。
「そういえば、あの子は……」
「ん~」
 隣のベッドから声がした。
 もそりと、フランはベッドから起きあがった。
「呼んだ~? お姉さま~」
 眠そうに目をこすって、あくびをする。
 傷らしきものはどこにもない。至って元気であった。
「呼んだには違いがな我が妹よ。全く……とんだじゃじゃ馬だよ」
 そういうレミリアの顔は――笑顔だった。
 橙はジッとレミリアの顔を見る。
「な、何だ……」
「ううん。案外家族想いなんだなと思って」
「うるさいなぁ。悪魔だってちゃんと家族くらいは大事にするさ。まぁ、勝手気ままに振る舞いもするがな」
「そうみたいだね」
 橙はレミリアを誤解していたことを素直に認めた。自分の思い通りに部下をこき使い、時には気まぐれで罰を与えるような非情な悪魔。そう思っていたのだが、どうやら案外優しいところもあるらしい。
 例えば、こうして自分の部屋で橙とフランを看てくれていることとか。
「私の勘違いだったみたい」
「ん? あぁ、咲夜のことか? そりゃお前、咲夜は私のお気に入りだ。日頃から気にかけているに決まっているだろう」
「それにしては……随分、クタクタに疲れていたようだけど?」
 うぐ、とレミリアは言葉を詰まらせた。
「それに関しては……正直、頼りすぎていた一面もある。そこは反省する」
 橙は目を丸くした。
「まさか、悪魔の口から反省なんて言葉が出るとは思ってみなかったよ」
「私はそこら辺にいる悪魔とは違うよ」
「それなら……もう大丈夫そうだね」
 橙は微笑んだ。
 レミリアも笑い返した。
「あぁ。お前に働かせて負担を減らしてもらう必要性はもうない」
「え? どういうこと?」
「さっき言ったろ。今は客人扱いだと」
「へ?」
 さらりとレミリアは口にした。



「お前はクビだ」



 橙がぱちくりと瞬きをした。理解が追いつくと、
「え、えぇえええええええ!?」
 絶叫した。
「当たり前だろう。お前は少々壊しすぎだ」
「こ、壊しすぎって……」
「フランの部屋は滅茶苦茶、扉は破壊され、フロアの床には大穴。使用人としてはどうしようもないくらいにアウトだ」
「うぐ……」
 反論できなかった。
「まぁ、元はといえばフランのせいだから、賠償しろとは言わん。ただ、これ以上雇うことはできないな。それに……これ以上私の家族が増えるのは困る」
「家族……」
「そうだ。ここにいる者たちは、私の家族だ」
 レミリアは微笑んだ。
 悪魔の微笑みだ。どこか吸い込まれそうで、でも温かな、そんな微笑。
 橙は思わず見とれてしまっていた。
「お姉さま~。お腹空いたよぉ」
「分かった分かった。あとで咲夜……いや、私が作るよ」
「え? お姉さまが作るの?」
「あぁ。何か不満か?」
「ううん! すっごく嬉しい!」
 宝石みたいな羽根をパタパタさせて、フランはレミリアに抱きついた。
「お姉さま、だーいすき!」
「あぁ、もう……」
 苦笑しながらレミリアは頭をなでる。
 橙も見ていて温かになる光景だ。
 咲夜さんが、頑張って仕事に励むわけだ。
 自分は、勘違いしていたと再度思う。
 確かにここは問題だらけだ。みんな咲夜に頼りっぱなしで、咲夜もまた疲れていた。
 けれども、ここは確かに咲夜にとっての大切な場所なのだ。魔女に、悪魔に、妖精メイド。みんながみんな、咲夜を慕う。
 自分がここにいる意味はないと、橙は悟った。
 だって――もう問題は解決しているのだから。
 橙は首を振った。
 いや、解決しているのではない。
 元々、なかったのだ。



 問題エクストラ:美鈴の居眠り



「いよいよこことお別れか……」
 橙は紅魔館から出てすぐ振り返った。
 レミリアはもう遅いからと一晩泊まらせてくれた。しかも、せっかくだから盛大なお疲れ様パーティーを開こうと言って、実際開いた。ここの悪魔は実にノリがよかった。橙が恥ずかしくて断っても、それを押し切って開催したのだから。
 そこでの橙は主役だった。場所は紅魔館で主人はレミリアであるのにだ。どうやら、レミリアは橙のことを居候程度には認めてくれたらしかった。
 豪勢な料理が振る舞われ、橙は一晩様々な人と話した。妖精メイドたちや、パチュリー、レミリア、フラン……咲夜はメイドの仕事があったから、あまり話すことはできなかったが。
 それでも、楽しかった。
 働いた期間だってほんの少しだし、パーティーはあっという間に終わってしまったけれども、楽しかった。
 悪魔の館には違いなかった。けれども、その悪魔は思ったよりも悪い奴じゃなかった。確かに、横暴な奴には違いない。けれども、好感が持てる悪魔だった。
 ありがとう、と心の中で呟く。
 さぁ、帰ろうと前を向き直した時――咲夜が目の前にいた。
「咲夜さん……」
 咲夜は微笑んだ。
「その、いろいろとありがとうね、橙ちゃん」
「いいえ」
 首を振る。
「全部、私の勘違いでした。ここの人たちは、私が思っていたよりもずっと、咲夜さんを大事にしてました。私こそ、ありがとうございました」
「きっと、お嬢様たちも喜んでくれるわ」
 咲夜は微笑んだ。
「伝えることがあるわ。妹様が、言い忘れたから今度はちゃんと遊ぼうって伝えてほしいと」
「うん。また今度遊ぼうって伝えておいてください」
 フランとはすぐに友達になれそうだと感じていた。時々狂気に囚われてしまうだけで、それ以外は至って普通の女の子だった。それは、レミリアに抱きつく姿を見ただけですぐ分かったし、話してる時はもっと女の子らしかった。もう、彼女は橙を友達だと思っているかもしれない。
 これからはこちらからも遊びに行こう、と橙は思った。
「それと、これを」
 咲夜の手元に麻袋が現れ、渡される。
 受け取るとずしりと重い。
「わ、おも。何これ」
 橙はいったん地面に置いた。それから結んでる紐を緩めて中身を確認すると、札束がどっさりと詰まっていた。
「お給料よ。今までよく頑張った。これでおいしいものでもたくさん食べなさいって、お嬢様が」
「レミリア……さんが」
 袋を覗けば、今までにみたことがない大金がそこに詰まっている。全部、橙のものだ。橙がどんな風に使おうと、誰も文句を言えない。
 橙はしばらくそれを覗いた後、ひとしきりに頷き、紐を結んだ。
 そして、抱えたそれを咲夜に差し出した。
 咲夜は目を丸くする。
「いらないの?」
「はい。私は、お金のために働いたわけではありません。咲夜さんのために頑張ったのですから」
 橙は笑った。
 今まで頑張って来たのは、咲夜が大好きだったからだ。
 でも、紅魔館にいるみんなも同じくらい咲夜が好きだった。
 妖精メイドは自らの怠惰を反省し、初心にかえって働き始めた。彼女らの動機は、咲夜に誉められたいことだった。
 魔女も、自分のために実験をしたわけではない。咲夜の身を案じ、特殊な薬を作るために行っていた。昨晩聞いた話だと、黴が大量に湧き出たのは想定外だったそうだ。ついでパチュリーは橙に誉め言葉を贈っていた。『咲夜のためにあそこまで動けるのは、私でも無理。普段から動かないけどね』と。橙はその時笑っていた。
 フランだって、咲夜のことが大好きだった。給仕してきた咲夜に抱きつき、頬を擦っていた。彼女なりの愛情表現であることは、橙にも分かった。
 レミリアは紅魔館にいるものは全員家族だと言い、咲夜のために働いた橙に対してこんなにもたくさんの給料を出した。
 橙は思う。
 だったら、受け取るわけにはいかない。
 紅魔館のみんなだって、受け取るわけないだろうから。
 咲夜は橙の笑顔を見て、微笑を浮かべた。
「そう。なら、これは私がもらっておきましょうか」
「咲夜さんが?」
 橙は目をぱちくりさせる。
 意外だった。
「別にいいですけど。そんなにお金に困っていたのですか?」
「何言ってんのよ」
 麻袋を抱える。
「橙ちゃんの大好きな食材で、豪勢なお料理を作るための資金に決まってるでしょ?」
 橙にウィンクする。
「楽しみにしててね」
「――はい!」
 橙は満面の笑顔で答えた。
 きっと、初めから咲夜はみんなが決して彼女のことを蔑ろにしているわけではないことを知っていた。逆に、咲夜もまたここのみんなが大好きであると橙は悟っていた。
 レミリアから聞いた話だが、最初に黴掃除をやりだしたのは咲夜からだそうだ。橙はてっきりパチュリーが命じたのだとばかり思っていたのだが、実態はむしろ逆で、掃除しなくてもいいと言うパチュリーの言葉をやんわりと断って、咲夜が勝手にやり始めたことなのだ。パチュリーはそれを話してくれなかったが、レミリア曰く「言い訳がましく聞こえるだろうからな」が話さなかった理由だそうだ。
 咲夜が働き出した後、パチュリーはなおさら申し訳なくなって、実験を早く終わらせるよう尽力したらしい。中止にしなかったのは、パチュリーが橙に言ったとおり、ここで実験を中止させると咲夜が悲しんでしまうからであると知っていたからだ。それに、咲夜を楽させる薬の完成は目前だった。
 けれども出来上がった薬は欠陥品だった。余談だが、橙がパチュリーに乗り込んだ時には、すでに実験が終わっていたらしい。
 パチュリーは乗り込んできた橙を見て、橙に渡したほうが実際の効果も見られるし、きっと咲夜のためになるだろうと思って渡したとか。
 橙は何度も思うが、紅魔館の人たちは咲夜を蔑ろにしているわけではなかった。逆に、咲夜が大好きだった。
 だからこそ、咲夜もまたみんなが大好きだった。
 それでも、見当違いな理由で乗り込んできた橙を追い払うことなく、望み通りに働かせてくれた。それは、橙ならきっと誤解しているということを分かってくれると思ってくれたのだろうし、橙の気持ちを汲んでくれたのもあるだろう。
 橙のことをちゃんと理解している咲夜が作る料理だ。昨晩のフルコースだって咲夜が作ったものだ。
 俄然楽しみである。
 
 

 咲夜は門の外まで橙を送ることにした。
 門の外を出ると、むっとした表情になった。 
「また寝てるし……しかも器用に」
 咲夜は立ったままイビキをかいて寝ている美鈴を見て、やれやれと言った感じでため息を吐く。
「いつも寝てるんですか?」
「えぇ。そりゃ、ここを襲ってくるような輩は滅多にいないけど、これじゃあ紅魔館の威厳に関わってくるのよねぇ」
 咲夜は美鈴を起こすためにナイフを取り出した。
 投げるまでもなかった。
 橙が、美鈴の臑を思い切り蹴っとばしたからだ。
「あいてぇーー!?」
 奇声を上げながら美鈴は跳び起きた。
「な、なにが!? 一体なにが……ん?」
 美鈴が足下を見ると、橙がむすーっとした表情で、腰に手を当てていた。ジト目で、美鈴を見上げている。
「あなた門番でしょ!?」
「は、はい」
「外から変な人を入れさせないのが仕事でしょ!?」
「はい」
「だったらもっとしゃんとせんかーーーーーー!」
「は、はいーーーーーーーー!」
 美鈴はビシッと姿勢を正し、目の前に咲夜がいることにようやく気がついた。
「あ、さ、咲夜さん!? あの、寝ていたのは昨日つかれ――! て、どうして笑ってるんです?」
「ふふ、ふふふ……いえ、何でもないわ」
 咲夜は口元を押さえて、クスクスとおかしそうに笑っていた。
 咲夜に向き合った橙に、声をかける。
「橙ちゃん、最後のお仕事ご苦労さま」
 にこりと、橙は笑った。
「はい! それじゃ、また! さようなら!」
「えぇ、さようなら。また今度」
 橙は満面の笑顔で笑って、咲夜は静かに微笑んだ。
 橙は歩き出す。
 後ろを振り返りながら、いつまでも名残惜しそうに橙は手を降りながら歩いた。 
 咲夜もまたいつまでも手を小さく振り続けた。



 橙が咲夜のために働くことはもう、ない。
 その代わり、以後橙と咲夜は本当の姉妹ように、いつまでも仲良く過ごしたのであった。



 END
橙は精神は子どもですけど肉体的には妖怪レベルで、化け猫だから知性もそこそこある。そんなイメージで書きました。

橙に叱咤激励されたい。
ちゅーん
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コメント



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1.100トルネ削除
橙が一生懸命働く姿がとても健気で愛らしいです!あぁ、なでなでしてあげたい…。
2.80奇声を発する程度の能力削除
橙が可愛くて良かったです
6.無評価名前が無い程度の能力削除
美鈴はなんで疲れてたのか…
10.80名前が無い程度の能力削除
これはまさにトリックスター
顛末を藍様と紫様に離したときの顔が見てみたいw