Coolier - 新生・東方創想話

八≠八

2012/09/21 16:25:20
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 ぴちゃりという水音に足を止めたのは、命蓮寺からの帰り道でのことだった。
 夜の闇がわだかまった道に、人影はなかった。人里と妖怪の山とを繋ぐ、林道の一本である。目指す妖怪の山までは、まだ遠い。新月のこの日は、手に持った提灯の明かりだけが頼りだった。鬱蒼とした木々が夜空を覆い隠しており、星明かりすらも見えなかった。
 ぴちゃりという水音が、また聞こえた。
 気配はない。周囲の茂みから、何かが飛び出すこともなかった。
 記憶が確かならば、この付近に水場はない。仮に水場があったとしても、そもそも波が立つほどの風など、一筋も吹いてはいなかった。暦の上では、すでに秋を迎えている。にもかかわらず、茹だるような夜だった。蒸せるような湿気が、身体を包み込んでいる。
 ぴちゃりと、聞こえた。
 舐めるように横切った風は、溜め息のように湿っていた。
 夜は妖怪の世界だ。新月とは言え、その事実に変わりはない。わだかまった夜闇も、鬱蒼と生い茂った暗い木々も、この身体には慣れ親しんだものだった。その気になれば、提灯の明かりなど吹き消し、口笛を吹きながら妖怪の山まで帰る自信もあった。それくらい、夜には親しんでいた。
 だと言うのに、今夜はひどく居心地が悪かった。
 ぴちゃりと、聞こえた。
 これもやはり、命蓮寺で般若心経を聞いたのがいけなかったのだろう。仲間の天狗の新聞で、納涼に最適な催しと知って参加した。高を括っていたのだが、予想以上に恐ろしいものだった。魔の心の否定、即ち、存在の否定には、妖怪であるからこそ背筋が震えた。自分が消えてしまう、いなくなってしまう。これほど、恐ろしいことは他にはない。
 般若心経を聞いたことで、肝が冷えた。
 冷えてしまった肝に、足を止められたようなものだった。
 その結果、長く親しんだ夜にまで、訝しさを感じてしまった。これでは妖怪として正しくない。夜の闇に怯える人間である。そう思うと、冷えていた肝は温まり、自然と笑みがこぼれてしまった。
 ぴちゃりと、聞こえた。
 近くに水場はなく、風さえもないのに、水音は止まらない。一定の間隔を置いて、何処からの音かも分からないのに、耳へと残るように聞こえてくる。明らかに不自然だ、恐らく自然のものではないだろう。いや、それも違った。ある意味では自然だったが、自然のものではない。その表現のほうが正しいはずである。
 幻想郷は楽園だ。少なくとも、妖怪にとっては楽園である。
 ならば、妖怪が人間を脅かすために、こうして不自然な出来事を仕掛けてくるのは、幻想郷では自然なことだった。
 ぴちゃりと、聞こえた。
 間違いなく、妖怪の仕業だろう。どうやら提灯など携えているため、人間と間違えられているらしい。事実、こうして足を止めてしまっている。奇妙な水音に引き止められてしまったのだ。命蓮寺の般若心経が、思った以上に堪えたのだろう。生唾を飲み、水音へと耳を傾けていた自分は、確かに人間のようだった。
 こぼれた笑みもそのままに、顔を巡らせる。
 ぴちゃりと、聞こえた。
 同胞に脅しを掛けられていることに、怒りよりも先に、可笑しさが込み上げた。中々、律儀な妖怪のようだ。水音を絶やさず、こちらが笑みを浮かべても疑問を浮かべずに、なおも驚かそうとしている。躍起になることは勿論、姿を現すようなこともない。随分、真面目な妖怪もいたものだと、感心すらしてしまった。
 暑い夜なのに、ご苦労なことだ。
 ぴちゃりと、聞こえた。
 ならば、自分も妖怪として答えなければならない。
 背の羽の具合を確かめる意味も込めて、大きく羽ばたかせた。提灯の明かりを消してしまわぬよう、注意を払うことは怠らなかった。木々に覆い隠された夜空は、星明かりさえ見えないのだ。露出させた背の羽は、こちらを人間と勘違いし、なおも脅かそうと試みている同胞への合図だった。明かりを消してしまい、万が一にも相手に見えなくなるのは、避けるべきだった。
 風が吹き荒び、草木をざわめかせる。
 天狗としての翼を見れば、相手もさすがに妖怪だと気付くはずだ。そうなれば、脅かすような真似もしなくなり、姿を現すに違いない。自分とは違い、こんな暑い夜に人間を驚かそうとするほどの、熱心な妖怪なのだ。その面を、拝んでみたいと思った。
 狙い通り、提灯の明かりは消えなかった。大きく揺らめき、周囲の闇を大きくうねらせるが、それでも消えることはなかった。自分の風の扱い具合に、密かに満足した。
 ぴちゃりと、聞こえた。
 今までより近い。すぐ後ろから聞こえた。
 本当に、律儀な妖怪である。天狗の仲間にも、これだけ真面目な奴はそうそういなかった。哨戒係の白狼天狗などが、近いかも知れない。滝から、ずぶ濡れになりながら飛び出して来る奴らの顔を思い出して、またもや笑ってしまった。
 幻想郷は楽園だ。
 間違いなく、妖怪にとっては楽園である。
 そんな幻想郷でも、これだけ熱心に人間を驚かそうとしている妖怪は、やはり珍しかった。
 振り返って、提灯を掲げる。
 おおいと呼びかけた。

 提灯の明かりが、いきなり消えた。暗闇で何も見えなくなる。
 何かに覆い被されていた。それだけしか分からなかった。
 紙の潰れる音が遠くで聞こえた。たぶん、提灯の潰れた音だった。
 ぴちゃりと、聞こえた。
 今までより、ずっと近くで聞こえた。

 ◆◆◆

 宴会の最中だった。
 円柱状の物体が、私の頬をかすめて、石畳へと勢いよく突き立った。轟音が起こり、衝撃が風となって駆け巡る。騒がしかった博麗神社の境内は、瞬く間に静まりかえった。
「訂正しろ」
 静かだったが、怒気がありありと滲んだ声だった。
 背を向けて、胡坐をかいていたその姿が、ゆっくりと立ち上がる。紙垂を飾った注連縄には、すでに二対四柱の御柱が備えられていた。このような状況でなかったなら、酒宴の最中である。宴会芸か何かかと、周りの連中が囃し立てたに違いない。
 しかし、現実にはそうならなかった。弾幕勝負とは一線を画した緊張感が、境内をすっぽりと呑み込んでいた。
 その後ろ姿が纏った怒気は、声に滲んだものの比ではない。
「今の言葉、訂正しろ」
 八坂神奈子は、恭しいほど馬鹿丁寧な動きで、振り返った。
 赤い瞳を爛々と瞬かせたその顔は、纏った怒気の強さに反して、無表情だった。
「八雲紫。貴様、外の神社をなんと言った」
「言葉通りですわ」
 乱れてしまった髪を、私はかき上げた。
「観光地と、そう言っただけよ。あなたも求聞口授で言っていたじゃないの。外の世界の神社は、パワースポットとか観光地と呼ばれてしまっている。なら、私の言葉を訂正する必要も、ないのではなくて? 現に、この博麗神社のような大切な神社とて、外の世界では百年ほどで忘れ去られてしまった。外の世界では、神社は観光地としてのみ、必要とされている」
「観光地としてのみ必要とされている、だと」
「あら。あなたの主張と、なんら変わりはありませんわよ?」
「取り消せ」
 神奈子の怒気は、薄れなかった。
「その言葉を取り消せ、八雲紫。観光地としてのみ、必要とされているなど」
「あなたの主張と、同じことだと思いますけど」
「貴様の言い分には、隠しようのない蔑みを感じる」
 赤い目の中で、瞳孔が蛇のように細まった。
「観光地としてのみ必要とされる。その言い分では、外の世界の神社が全て、本来の意味を喪ってしまったかのように聞こえる。貴様は神ではなく、況してや神道に信仰を抱いていることもない。だと言うのに、そんな他人に過ぎない貴様が、いけしゃあしゃあと談じてしまうことが何よりも気に食わない。今すぐその言葉を取り消せ、八雲紫。求聞口授を読んだなら知っているだろう。我は、少々、怒りっぽいのだよ」
「少々ではなく、大いに怒りやすいのですね」
 傍らに突き立った御柱へと、手を添えながら立ち上がった。
「まるで、神以外が神社について語るのは傲慢だと、主張しているようにも聞こえます」
「その通りだが」
「あら、独善的。それだと古今東西の宗教と、同じ過ちを繰り返すことになるわよ」
 右手を翻し、何もない場所から扇子を取って、口元を覆った。
 こういう時は、何処までもペースを崩さないのが基本である。なおも睨み付けてくる神奈子に向かって、私は親切にも続けてやった。
「此処だって、そうですわ。とても大切な、この博麗神社とて外の世界では忘れ去られてしまった。何故なら、博麗神社は決して観光地ではないもの。こんなにも大事な神社なのに、観光地ではなかったから、人間からも忘れられてしまった。〝飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗煮らる〟とは、よく言ったものです。だからこそ、私は外の世界の神社は、観光地としてのみ必要とされると言いましたの。お分かり頂けたかしら?」
「ああ、よく分かった」
「それなら、訂正の必要も」
「貴様が神社についても信仰についても、てんで素人だということが、よく分かった」
 纏った怒気もそのままに、神奈子は口だけで笑った。
 嘲るような笑いだった。
「博麗神社が大事? 大事なのは、この片田舎にとってだけだ。外の世界にとっても大切など、馬鹿馬鹿しい妄言を吐くな。そして、その博麗神社が外の世界に忘れ去られたから、外の神社は観光地としてのみ必要とされているなど、馬鹿馬鹿しい暴言をほざくな。そうやって徒に外を咎めて、何が妖怪の賢者だ。神社を論ずるよりも先に、まずはその愚かな知識を捨てろ。お門違いも大概にしろ。話はそれからだ」
 傍らの御柱を、添えた手で砕いた。
 黙って事態を傍観していた他の面々が、明らかに狼狽しはじめたのを私は無視した。親切を装うこと、ペースを崩さない心構えを、私は早々にかなぐり捨てた。
「あなたこそ訂正なさい」
 眉間に寄った皺は、簡単には崩せそうになかった。
「片田舎。妄言。暴言。私が素人。私が愚か。私がお門違い。何より、幻想郷を下に見ているその態度、気に食わないわ。訂正では足りない、取り消しなさい」
「こちらの台詞だ、それは」
 血のように赤い視線が、正面からぶつかってくる。
 臆した様子はない。あまつさえ、小馬鹿にしたような笑みは益々深くなっている。
「貴様こそ取り消せ、八雲紫。神として崇められ、神として外の世界を見限った我以外が、おくびもなく外を卑下することは許さん」
「許さない? どの口が言えたことでしょう。私こそ、幻想郷を下に見るあなたの態度には、許せないものがあります」
「良弓や走狗など、よくもまあ大層に装ったものだ。忘れ去られたこの地に、忘れ去られた以上の価値などない。我のような神が、こうして居座ってやるだけでも有り難いと言うのに、あまつさえ外の世界を卑下するなど度し難い。依存し続ける外の世界に対し、それでも己こそ至高と取り繕うその様は、いっそ滑稽ですらある。貴様のような、信仰にも宗教にも素人でしかない妖怪風情が、おこがましい」
「外の世界に必要ともされなくなった、てんで利用価値の皆無な神風情に、言われたくないわね。幻想郷の勝手も分からず、パワーバランスを著しく崩したその所業から言っても、あなたにはそろそろ仕置きが必要でしょう。踏ん反り返ったその間違いだらけの高みから、これより無様に這い蹲らせて差し上げますわ。他ならぬ、妖怪の賢者である、私の手で」
「ほざくな。貴様の、妖怪の賢者などという的外れの異名こそ、地べたへと這い蹲らせるに相応しい。現状に甘んじ、外の世界から甘い汁を吸い続けることで満足する。だと言うのに、それを鑑みることもなく外の世界を罵り嘲る。貴様の、そんな腑抜けたほどの悪辣さこそ、修正されて然るべきだ。今此処で、惨めに潰してくれる。他ならぬ、外を見限った神である、我の手で」
 互いに決闘用の符を取り出す。
 周りから一斉に気配が引いたのを、私は無視した。
「荒ぶる神の御魂に這い蹲って省みろ、賢者装う愚者」
「喪失の信仰より一層深い弾幕に沈め、名亡実亡の神」
 宣言の言葉には、お互い隠しようのない棘が孕まれていた。
 上等だ。
【神祭「エクスパンデッド・オンバシラ」】
【魍魎「二重黒死蝶」】
 総勢十の御柱が降り注ぐのを、石畳を蹴り、何もない宙を蹴って、身体をくねらせながら遣り過ごす。
 取り出した傘を開き、濃紫と淡紅の蝶を、何十と舞わせた。屍肉に群がらせるかの如く、神奈子へと肉薄させる。
 そのまま被弾してしまえばいい。
 神奈子は、眉を動かすこともせずに、新たな符を振るった。
【神符「神が歩かれた御神渡り」】
 しゃらんと、鳴った。
 大気さえも凍て付かせるほどの、近寄ることを許さない神の道。それが私と神奈子を結ぶように顕現した時には、すでに神奈子の姿は私の眼前へと迫っている。濃紫と淡紅の蝶は、全て等しく凍り付き、砕け散った。儚く、そして煌びやかな氷塊の彩りは、新月のこの夜には、よく映えるものだった。
 気に入らない。
【幻巣「飛光虫ネスト」】
 幻想的な光景を、幻想郷を蔑ろに見る神奈子に見せ付けられるのは、心底気に入らなかった。
 だから、すべて食い散らかせ。
 迫って来た神奈子に向けて、私の背から光が群がる。神の道へと侵入し、許可なきその身を低温で焼かれながら、それでも群がる光は止まらない。神奈子の姿、凍り付いた何十という蝶、石畳に突き刺さった十の御柱、全てを貪るように押し隠していく。
 呑まれてしまえと、私は嘲った。
 嘲りとは裏腹に、この程度で神の荒ぶりを止められるとは、考えていなかった。
【魔眼「ラプラスの魔」】
 光に塗れた神奈子に、一斉に視線が注がれる。
 中空に現れた百を下らない瞳は、無機質なその視線とともに、紫紺の光弾を吐き出す。
【空餌「中毒性のあるエサ」】
 扇を振るって、私はここと見定めた場所に、照準を合わせる。
 淡い青味を帯びた、幾筋もの光の帯が薙ぎ払う。なおも光に呑まれ続ける、神奈子の姿へと殺到する。
 たちまり、神の姿は見えなくなる。
 良い気味だと、心の中だけで嗤った。
【蛇符「グラウンドサーペント」】
 次に掲げるべき、符を思索する間もなかった。
 私が呼び起こした光は、あっという間に打ち払われた。
 貪欲なほどに群がる飛行虫の小さな光。無機質な視線にも等しい紫紺のなじるような光。見詰めるたびに妖しさに惹かれる淡い青味を帯びた光。それらは、すべて私がイメージし、私が呼び起こした弾幕だ。外の世界の無感動な情報と無機質な情緒とを寄せ集め、濃縮したかのような弾幕だった。
 それらが全て打ち払われる。
 雑多なものと、児戯にも等しいと、嘲笑われるかのように。
 生物本来の生命力を体現する、巨大な影が二つあった。とぐろを巻き、それぞれが淡い青と淡い緑を帯びた、二匹の白い大蛇だった。血のように赤い瞳を見開き、くわりと開いた口からは、その瞳によく似た色合いの赤い舌が覗いている。
 二匹の白い大蛇に、私の弾幕は打ち払われていた。互いに、複雑に絡み合い、私を睥睨している。
 その絡み合った最中に、神奈子は立っていた。
 従わせるように二匹の大蛇を侍らせながら、新たな符を振るう。
 時代がかったその仕草が、妙に気に入らなかった。
【御柱「メテオリックオンバシラ」】
 浮かびかかった歯軋りは、寸でのところで飲み込んでいた。
 驟雨のように御柱が降り注ぐ。宙を蹴るだけでは事足りず、私は開いた傘を振るって遣り過ごす。石畳に強く穿たれる轟音だけが、しばらく耳に届く。神社の境内にしては、遠慮も情緒もなかった。幻想郷では有り触れた光景だが、これを行っているのが神そのものであることを思うと、さすがに笑えなかった。嘲るように嗤うことしか、出来なかった。
 轟音が止み、土煙が辺りを覆い隠す。
 よくよく見ると、宴会の用具はひとつも転がっていなかった。恐らく、周りの連中が私たちの様子を見て、慌てて片付けたのだろう。弾幕勝負には、慣れ親しんだ者ばかりだ。まさしく、触らぬ神に祟りなしという具合である。私は、こういうなあなあな空気の蔓延する幻想郷こそ、好きだった。
 土煙が止んだ。
 腕を組み、私を見据える神奈子の姿があった。侍らせていた二匹の大蛇は、すでに消え失せていた。
 互いに萎えた気配はない。
 挑むように目を細めた神奈子に向ける視線は、我ながら穏やかなものではなかった。苛立ちのような剣呑さが、どうしても視界に滲んでしまう。それでも、収めようなどとは微塵も思わなかった。
【「最も凶悪なびっくり巫女玉」】
 横手から、いきなり衝撃を感じた。
 脇腹を何か丸いものが直撃して、そのまま私の身体を勢いよく吹っ飛ばす。視界の端で、神奈子も同様に吹き飛んでいたのが、垣間見えた。
「あんたたち! 好い加減にしなさいよ!」
 石畳に倒れ付した私の横に、陰陽玉が転がっていた。
「神社境内での宴会だけでも頭が痛いのに! いきなり暴れて荒らされて! 少しは私の気持ちも考えなさいよ! コラァ!」
 鈍痛に歪みそうになった顔を、なんとか平静に装いながら起き上がる。
 ぷりぷりと怒る博麗霊夢が、私と神奈子の丁度真ん中辺りに立っていた。
「大体ねえ! 賢者だの神様だの名乗るんだったら! まずはお賽銭のひとつでも奉納してから言いなさいよ! それよりも以前に! 此処で暴れるな! そもそも宴会するな! 酔って暴れた後を片付けるのが誰なのか! 分かっているなら! そもそも分かっていないのも腹が立つけど! 好い加減にしなさいよねああもう!」
 顔を真っ赤にして、霊夢は叫んでいた。
 まさに、ぷりぷり怒るという表現が、一番しっくりしていた。
 事態を傍観していた連中の内、黒白の帽子を被った人影が霊夢へと近寄る。なおも何事かを言い募っている霊夢を、宥めているようだった。
 いつもの神社の光景が戻ってきた。
 他の連中も、それぞれの手に抱えた宴会用具を片付けはじめる。宴会を再開しようとする動きは見られなかった。さすがに、あれだけ霊夢がぷりぷりと怒る様を見てしまっては、そんな気も起こらないのだろう。陰陽玉が、それだけ痛そうにも見えたに違いない。現に、かなり痛かった。じわじわと痛む脇腹は、平静を装うのも難しかった。
 神奈子がゆっくりと立ち上がった。
 口の端が、わずかに歪んでいるのが分かった。どうやら、神奈子も痛みを我慢するのに必死らしい。それでも、私を一瞥したその視線は、なおも冷ややかなものだった。
「早苗、諏訪子、後片付けは頼んだよ。私は先に帰る」
「え、神奈子様?」
「ちょっと待ちなよ神奈子、元はと言えばあんたが」
「頼んだよ」
 にべもない言葉とともに、神奈子は踵を返した。見咎めた霊夢が声高に呼びかけるのも意に介さず、境内を後にする。当然ながら、私に声を掛けるようなことはなかった。
 癪に障った。
 脇腹の鈍痛よりも、私の心胆を掻き乱していた。
「藍、後は任せたわ」
「いや待って下さいよ紫様、そもそもこの一連の騒ぎは」
「私は先に帰ります」
「紫! あんたまで帰るのは!」
「じゃあね、霊夢」
 ぷりぷりと怒る霊夢に、私はひらひらと手を振った。
 苛立ちを笑顔で塗り潰すのは、少々骨が折れた。足元へと開けた隙間に、半ば飛び込むように身を任せる。神社の境内は、瞬く間に見えなくなった。
 脳裏に浮かんだ、あの嘲るような顔は消えなかった。
 信仰にも神社にも素人。その言葉に、言いようのない苛立ちを感じてしまう。いかにも独善的な言い草は、決して感化して良いものではなかった。妖怪の賢者である自分にとっては尚更である。隙間の中にたゆたい、自宅へと帰った後でも、不穏な燻りは止まらない。益々、強まるばかりだった。
 八坂神奈子、やはり好きになれない。
 八雲紫は、それだけを思い、深い溜め息をついた。

 ◆◆◆

 思えば、奇妙であり、何よりも厄介な輩だった。
 神社への信仰、そしてエネルギー事情に奔走する神奈子は、私から見て、あまり好ましい輩とは言えなかった。ただでさえ、妖怪の山に鎮座することとなった異変は、一時とは言え幻想郷のパワーバランスを著しく崩す結果となった。禍根を残し、課題を残してしまったと言っても過言ではない。それだけに留まらず、神奈子は翌年、地上に怨霊を沸き起こす切欠までも作ってしまった。封印された地底に潜入し、地獄鴉に強大な力を授けてしまった。一度ならず二度も、神奈子は幻想郷のパワーバランスを崩しかねない状況を作っていた。
 幸い、一度目は分社を建設し、二度目は地獄鴉が鳥頭だったため、事無きを得た。しかし、次が起こる可能性も否定は出来ない。その可能性があるからこそ、妖怪の賢者として、穏やかな感情は抱けるはずもなかった。
 エネルギー事業に奔走する理由など、高が知れている。
 結局、神奈子は信仰が必要なのだ。信仰を得るために躍起になっているだけである。そのために、幻想郷のパワーバランスが著しく崩れようとも、余程の事態に陥らない限り、知ったことではないのだ。この酒宴で、神奈子本人の口振りからも、それはよく理解できた。私としては、看過することこそ辛くも可能ではあったが、だからと言って見過ごすことは出来なかった。
 幻想郷はすべてを受け入れる。
 それはそれは残酷なほどに。
 私の持論である。裏を返せば、幻想郷はすでに完成されているものなのだ。
 外の世界と隔てた結界により、幻想郷には独自の歩みを進める準備が、すでに整っている。残酷なほどに受け入れるということは、それだけの準備が整っている事実に他ならなかった。外の世界に依存し尽くすという意味ではなく、過分なエネルギーなど現状では必要すらなかった。
 だと言うのに、神奈子はエネルギー事業に奔走している。
 幻想郷はすべてを受け入れる、その言葉を額面通りにしか受け止めていない。
 この数年で、様々な宗教の兆しが見えた。勃興している。次のステップのためだと、人間や妖怪がより良い状況へとランクアップするためだとも、宗教を興した奴らは主張している。八坂神奈子は、その中で最も盛んに動いていた。妖怪に仏教を開いた聖白蓮や、道教をその身のために利用する豊聡耳神子とは、一線を画している。妖怪の山からの信仰、地底地獄のエネルギー政策、これらは等しく異変となった。それだけでなく、常温核融合、河童のダムなど、行動する範囲は多岐に渡っている。どれも結局、自分が信仰を集めることに帰結していた。
 気に食わない。
 急な事態の変容は、ただそれだけで幻想郷に悪影響を及ぼす可能性は、存分にあった。
 そんな外面良い言葉で取り繕わなくとも、外へのエネルギー依存からの脱却を声高に主張する神奈子の存在は、自分にとっては、まさに目の上のたんこぶだった。現状に何ら不満はなく、だからこそ徒に描き回しているようにしか思えない神奈子の行動は、穏やかならぬ感情を抱くのには充分だった。
 宴会での交わした言葉が、脳裏をよぎる。
 益々、気に食わない。
 八坂神奈子は、どうしようもなく気に食わない。
 八雲紫にとって、幻想郷を心から愛する自分にとっては、それだけで充分だった。

 ◆◆◆

 妖怪の失踪。
 最初に聞かされた時は、何かの冗談だと思った。人間ならいざ知らず、妖怪が失踪するなど考えられる事態ではなかった。そもそも、自由気侭な幻想郷の妖怪ならば、失踪という言葉で表現すること自体が間違っている。失踪とは、即ち、いなくなるということだ。妖怪がいなくなるなど、あってはならないことだと、私はまずそれだけを思った。
 山の天狗が失踪した。
 命蓮寺での般若心経を聞いた帰りに、忽然と姿を消したとのことだった。納涼のために般若心経を利用している妖怪がいることは、天狗の新聞で知っていた。人間の魔を否定する般若心経は、妖怪にとっては自己否定に繋がるからこそ、怪談話のように涼しくなれるとのことだった。
 そんな般若心経が現実となった。
 怪談話のように、いなくなってしまった。
 怨霊の仕業かも知れない。宴会での一件からの翌日であり、神奈子の行動に改めて頭を悩ませていたからこそ、私はその考えに思い至った。天狗の失踪を伝えた藍に、後のことを任せて出発する。妖怪の山と人里とを繋ぐ、林道の一本を目指す。距離はあったのかも知れないが、隙間を使役する私にとっては意味もなかった。
 昼という時間帯は、現場検証には最適だった。
 妖怪だけでなく、人間にも周囲を確認できるほどの明るさが備わっている。
 林道の一角にはすでに何人もの天狗がたむろしていた。皆一様に、心配するような顔は浮かべていない。野次馬根性丸出しで、辺りを嗅ぎ回っている。失踪した天狗のことを知るのには最適だったが、残された物証を探すのには最悪だった。幻想郷らしいとも言えるが、ほんの少し、外の世界のシステムを羨ましいとも思った。
 適当な天狗に声を掛ける。
「いやまあ普通の奴でしたよ、はい」
 他にも色々と説明されたが、纏めるならばこれだけだった。天狗の言葉に逐一耳を傾けていては、それこそ日が暮れてしまう。適当なところで切り上げて、私は思索に没頭しはじめた。
 ここ数日の失踪は、はじめてではない。
 人間の失踪が確認されていた。一人ではなく何人もだ。
 それだけならば霊夢にでも任せれば良いのだが、失踪した人間の中には、妖怪退治に造詣の深い人間がいたことが、霊夢へと任せることを思い留まらせた。妖怪退治の専門家は、少なくなったとは言え、人里にも何人か暮らしている。異変解決ほどの意欲はないが、それで生計を立てている者もいた。失踪したのは、その中の一人だった。実力は中堅ほど、霊夢と比べればどうしても見劣りしてしまうが、それでも妖怪退治に携わるほどの人間である。それが失踪するというのは、自分にとってもあまり望ましい事態ではなかった。
 加えて、今回の天狗の失踪が、事態を重くしていた。
 曲がりなりにも天狗である。命蓮寺へ納涼するという俗にも染まり切ってはいるが、むしろ幻想郷では普通だ。風を自在に使役できる天狗は、それだけで妖怪としての格も高い。おいそれと人間に退治されるのを良しとせず、だからこそ妖怪の山に独自のコミュニティを作っていた。並大抵の人間どころか、並大抵の妖怪ですら寄せ付けないのが、幻想郷での天狗だった。
 それが、このざまである。
 般若心経によって払われたかの如く、消えてしまっている。
 聖白蓮に話を聞くと、天狗たちが声高に言っているのが聞こえた。どうやら、事件解決のために奔走する気など毛頭ないらしく、言うが早いや人里に向かって我先にと飛んで行った。数秒も経たない内に、現場には私だけが残っていた。
 扇情新聞のため、躍起になっているのだろう。
 事件解決など思い付いてもいないらしい。いかにも天狗だなと、私はそれだけを思った。
 地面に落ちた、何かの残骸らしき物が目に留まる。
 拾い上げると潰れた提灯であることが分かった。原形を留めておらず、焦げた跡のような色をしていた。人里の提灯屋の屋号が入っていることが、辛うじて確認出来た。どうやら件の天狗は、命蓮寺での般若心経を聞いた後、これを携えて帰路に着いたらしい。昨夜は新月だった、この林道では星すら見ることは叶わなかっただろう。
 昨夜。
 途端に酒宴のことを思い出していた。
 神奈子の言葉、顔の表情が脳裏に浮かぶ。折角、思索に没頭していた私を苛立たせるのには、それだけで充分だった。
「天狗は、もう去ったのですね」
 穏やかなほどの声だったが、確固たる棘が含まれていた。
 思わず、漏れ出てしまいそうになった舌打ちを、なんとか飲み込んだ。忘れたくても忘れられそうにない声であり、だからこそ、どうして此処にいるのだという批判を視線に込めて、振り返った。
「その様子では、あなたも昨夜の失踪のことは耳にしているみたいだね」
 果たして、そこには八坂神奈子が立っていた。
 昨夜と違い、恭しさを気取ったフランクな口調が、妙に癇に障った。
「昼間に妖怪が出張っているとは珍しい」
「誰かさんのせいで、昨日はあまり寝付けませんでしたの、だからこうして珍しく出歩いているのです」
「それなら、都合がいいわ」
「私としては、あなたが此処まで出歩く、そもそもの理由が分からないのですけど。神様も、よっぽど暇なのだとお見受けしますわ」
「嫌味なら、後でいくらでも言えばいいでしょう」
 昨夜と違って、神奈子は注連縄も御柱も背負っていなかった。
「あなたが宗教や信仰に関して素人だという事実には、変わりないのだから」
「昨夜と違って、ご丁寧なお言葉をどうも。でも、その育ちの悪さを体現するような嫌味ったらしさは、少しも薄れてはいませんわね」
「天狗が失踪したと、山の者から聞いたわ」
 私の嫌味を一切無視して、神奈子は言った。
 益々、癪に障った。子供のような態度しか取っていない自分が、やたらと恥ずかしく思えてしまった。これも、こいつのせいだと思った。
「妖怪が失踪とは、やはり普通ではないようだね。あなたのような大物が、こうして出張っているのが何よりの証拠です」
「随分な言い草ね。昨夜は、私のことをあんなにもこけ下ろしていたのに」
「このような状況で嫌味を言い合えるほど、情報には疎くないつもりよ」
「その言い方は、すでに嫌味だわ」
「ご自由に。言葉の捉え方は自由です」
「捉えるのは自由なのね。でも、あなたはもっと鷹揚に捉えたほうが、良かったのではなくて?」
「昨夜は、私が気に食わないと捉えたから、言い募った」
 神奈子の視線は、冷ややかなほどに静かだった。
「今も、気に食わないと捉えている。正直、あなたとは顔を合わせたくなかったわ。会ってしまえば、どうしても吐き出したい言葉が浮かんでくる。懇々と、祝詞のようにね」
「私も同感ですわ。あなたのような神様とは、どうあっても会いたくありませんでしたもの。信仰されるからこそ、偉そうになってしまう神様なんかと、誰が好んで話したくなるでしょう? そんな対話は、人間に任せておくに限りますわ。嗚呼、面倒臭い」
「神との対話を望む人間は、それ相応に精神も鍛えている」
 声に、わずかな怒気が滲んだ。
「昨日の今日であるし、何より状況が状況。徒に喧嘩を吹っ掛けることを、私は望んでいない。けど、あなたがなおも不必要なことをべらべらと述べるなら、私には、それを黙って見過ごすつもりはないわ。今すぐこの場で、続きを再開しても良いのだけど」
「あら面白い。まるで自分こそが勝つと、疑っていないようなお言葉ね」
「もとより、負ける気など毛頭ないよ」
「言ってくれる、神風情が」
「あなたこそ、妖怪風情が」
 一際、強い風が吹いた。
 暦の上では秋であるのに、陽射しは鋭かった。木漏れ日にも容赦はなく、ねぶるように照り付けてくる。久々の昼時は、やはり性に合わなかった。出歩くなら夕暮れである。昼と夜の境界、曖昧な時間帯、だれぞかれぞの黄昏時。夕暮れに比べて真っ白な陽射しは、目に優しくないものだった。
 神奈子の視線が、緩まる。
 張り詰めていた空気が弛緩していくのが、手に取るように分かった。
「今は、喧嘩など止めておきましょう」
「怖気づいたのかしら?」
「あなたが、思った以上に張り合いがなさそうだから。どうやら、聞いていた以上に昼間は苦手なようね」
「誰から聞いたのかしら」
「博麗神社の巫女」
 ぷりぷりと怒る、霊夢の顔が浮かんだ。
「兎に角、今は止めておきましょう。妖怪、それも天狗が失踪するなど、やはり只事ではないみたいです」
 神奈子の言葉に、私は返さなかった。
 それこそが返事だと、言っているようなものだった。
「ここ数日、人間が失踪しているわ」
 地面に屈みながら、神奈子は眉をひそめた。
 細められた赤い瞳は、静かながらも硬いものを湛えている。
「最初は子供、次は大人、そして次は」
「妖怪退治の専門家」
「知っていたのね」
「さすがに、気にもなりますので。これだけ敵意を持った妖怪は珍しいと、思っていた次第です」
「そして今度は天狗」
「今度、と付けるのは感心しないわ」
 神奈子の傍に、私は屈んだ。手に持った提灯の残骸を見せる。
「むしろ、別の者によると考えるほうが自然ね。人間と妖怪とでは、そもそも失踪する理由が違ってくる。人間なら妖怪に襲われたと考えられるけど、妖怪が妖怪に襲われるとは考えにくい。第一、理由がないわ。妖怪が妖怪を襲う利点なんて存在しない。天狗相手に喧嘩を吹っかけるなんて、そもそも自殺行為ですわ」
「博麗神社の巫女から聞いたけど、自分が妖怪を退治するなら、自分こそがやったのだと第三者が理解できるように退治するらしいですね。妖怪は、そういうのはないのかしら」
「ないことも、ないですわね。自分こそが人間を襲ったと主張するのは、それだけ自分の存在をアピールすることに繋がりますもの。でも、そもそも人間が襲われること自体、妖怪の仕業と思われるのですから、あまりそういった主張は聞かないわよね。私の知り合いの鬼だって、正体を隠して妖怪を襲うようなことを行っておりました。無論、失踪ほど物騒ではありませんけど。本人は木枯らしごっことも言っていたわね」
「物騒な輩だこと。それなら、今回の事件は鬼の可能性もある。攫うのは鬼の専売特許だとも、昔から言われている。ならば、いっそ件の鬼に話を聞くのが筋でしょう。しかし」
「理由がない。萃香に襲われた妖怪寺の連中は、挨拶もせずに寺院を建立したのが理由だと、当人が言っておりました。救われないほどに身勝手な理由ですが、一応は理由がある。今回の失踪を一連の流れと見るなら、接点らしきものは皆無ね。失踪してしまった人間にも妖怪にも、接点なんてひとつもないわ」
「おや、人間失踪と天狗失踪を、あなたは別の事件と考えているように思ったのだけれど、違ったのですね」
「時期が時期、ここ数日で起こったのなら、関連性を見出すのが必須です」
 立ち上がり、私は続ける。
「妖怪を襲う妖怪、どうあっても幻想郷には不自然です。下手をすれば、釣り合いの取れた人妖の関係を、著しく損なわせる危険性がある。だからこそ、この件は様々な可能性を、慎重に探らなければいけません」
「思ったより、重く見ているようね」
「私は幻想郷を愛していますもの」
 あなたと違ってね。
 心の中だけで吐き捨てて、私は傘を開いた。秋の暦に相応しくないほどの陽射しは、妖怪の賢者である自分にとっても、少々きついものだった。
「天狗のように、野次馬根性全開で赴く、あなたとは違いますの」
「生憎だけど」
 神奈子は細めた目で、私を見ていた。
 正確には、私が今も手にしている提灯の残骸を、じっと見詰めていた。
「私にも、思うところはあるわ」
「信仰を失ったことが、そんなにお辛い?」
「失踪した天狗は、私のことを熱心に信仰してくれていた」
 提灯の残骸を差し出す。
 受け取った神奈子の視線は、なおもそれに注がれている。
「最初の子供」
「人里の人間でしたわね」
「一度だけ、麓の分社に顔を出していた。親に手を引かれて、訳が分からないという風体だった」
 赤い瞳を細めたその顔は、静かなままだ。
「それでも親に誘われるように、手を合わせてくれたんだよ。小さな手を合わせて、寺子屋の勉強がもっと出来ますようにと、わざわざ口に出していた。口に出すんじゃないと親に言われて、ちょっと面食らったような顔をしていたのには、笑いを堪えたよ」
「信仰とは、程遠いわね」
「ああ、程遠い」
 私の皮肉にも神奈子は顔を上げなかった。
「程遠いが、それは信仰になってくれたかも知れない」
「そんな浅ましい願いが、信仰に?」
「ええ、浅ましくとも尊い信仰が産まれたかも知れない。この幻想郷だからこそ、私の望んだ信仰が産まれたかも知れない」
 そう言って、神奈子は提灯の残骸を放り捨てた。
 かすかな乾いた音を立てて、地に落ちる。
「あなたは言っていたわね。幻想郷を愛するからこそ、この件を重く見ていると」
 神奈子は顔を上げた。
 瞳の奥が、蛇のそれのように細められた。
「なら、私の話を聞いてほしい」
「今でも、充分に聞いているつもりよ」
「そうだね、ならば話そう」
 腕を組み直して、神奈子は言った。
「数件の失踪事件、犯人は同一だ」
「根拠は?」
「全て夜に行われている。場所は様々だが、等しく夜に起こっているらしい」
「お詳しいのね」
「さっきも言ったけど、私にも思うところがあるのよ。人里には早苗が、妖怪の山には私自身が赴いて、それぞれ情報を集めた。最初の事件、子供が出歩くのには不自然な時間帯だが、家人が目を話した隙に家を出ていたらしい。丁度、肝試しの約束があったことも、確認が取れているわ」
「不幸な偶然と言ったところかしら。大人と、妖怪退治の専門家に関しては、夜という時間帯でも違和感はありませんものね。今回の天狗に関しても、言わずもがな。命蓮寺での納涼という事実が確認されております」
「等しく夜に行われている、これには意味があるのだと私は考えています」
「夜に襲うのは、妖怪の専売特許ですわね」
「違う」
 神奈子は、ゆっくりと被りを振った。
「夜が専門なのは、妖怪だけではないよ。そもそも幻想郷の妖怪は、独自の文化を持っていると私なんかは思っている。昼に出歩く妖怪だって、此処にはごまんと存在している。あなたのように、昼間は出歩かないとしている妖怪のほうが、いっそ珍しいと思えるくらいです」
「あら、それでも妖怪にとっては、夜に人間を襲うことこそセオリーですわ。なにせ夜は、闇のわだかまる世界。妖怪にとって、人間が勝手に恐れを抱いてくれる夜闇は、それだけで慣れ親しんだものとも呼べる」
「だれぞかれぞ、黄昏時」
 なぞかけのように、神奈子は口にした。
「むしろ、古来に則るならば夕暮れ時、誰の顔なのか彼の顔なのかも不明瞭な黄昏時にこそ、襲うことが妖怪にとってのセオリーです。少なくとも、私はそう思っている。中途半端な光は顔を隠し、しかしそれでも何者かがいることは理解できる。相手の顔を確認出来ず、それでいながら存在は確認出来るのです。他人を疑う、疑心暗鬼という言葉通りだ。疑う心は、妖怪へと繋がりやすい」
「では、あなたはそもそも、これは妖怪の仕業ではないと」
「嫌な臭いがする。現場と思しき場所には、いつも嫌な臭いを感じました」
 もったいぶったような言い方だった。
 それでも私は口を挟まなかった。神奈子の顔に、真摯なほどの硬さを感じていた。
「これが何なのかを、私はずっと考えてきた。久しく経験していない臭いよ」
「思い至るものは、その顔を見るに、どうやらあったようですね」
「あなたは言ったわね。夜は、妖怪に慣れ親しんだもの。夜は妖怪の専売特許だと」
「少し違うけれど、おおよそ、その通りです。あなたには否定されましたけど」
「黄昏時こそ妖怪の時間だと、私は考えている」
「あら、私としては嬉しいお言葉」
「夜は祭祀の時間だ」
 生暖かい風が横切った。
「夜闇は、重要な祭祀を隠すのに最も都合が良かったのです」
「卑猥な香りがしますわね」
「そもそも、祭祀とは目に見えないということが重要なの。古来より続けられてきた神事、祭祀にこそ、その特色が顕著に表れている。決して衆目に晒してはならず、時には存在すらも知らせてはいけない。見るなのタブー、禁忌とも取れますね、これは。昔話や神話にもあるように、見てしまったからこそ破綻するという考えは、深く根付いていた。鶴の恩返し、海神の娘の海への回帰。見ないこと、事実を公にしないことこそが重要だと捉える節は、祭祀にも広く受け継がれた」
「現在の外の世界では、あまり見られない風潮ですわね。まずは物証を、証拠を白日の下に晒すことこそ、美徳とされている。衆目に晒し、是か非かを問うことが正義だと、声高に主張されておりますわ」
「神の存在が認知されなくなるのも、むべなるかな、というところよ」
 かすかな哀しさが、神奈子の瞳に滲んだような気がした。
 生暖かな風が過ぎ去った時には、それも消えていた。
「だからこそ、夜という時間帯は祭祀にとって重要だった。重要な祭祀、それこそ秘事は、こぞって夜に執り行われてきた。明治より隔絶された、この幻想郷ならその傾向が顕著かとも思っていたのだけど、意外と広まっていなくて驚きました」
「当然ですわ。幻想郷は、独自の歩みを進めてきましたもの」
「それには同感ね。幻想郷は独特だ。いっそ常識に囚われないことが望ましいという考えさえ抱きかねない」
「あなたの神社の巫女さんも、同じ考えに至ったようですわね」
「恥ずかしい限りです。あれはさすがに、私の不徳の成したところよ」
「それだけ、あの巫女さんが努力しているとも取れますわ。私としては、あなたなどより、よっぽど望ましい限りね」
「だが、夜こそが祭事の時間と考えた者も、やはりいるようです」
 私の皮肉を、またもや神奈子は遣り過ごしていた。
「最初に失踪したのは子供。人間の子供は何を恐れる?」
「大人ですわ」
「次に失踪したのは大人です。極々一般的な、特別な生業を持たない大人。普通の人間の大人は何を恐れる?」
「妖怪、と言いたいところですけど、この場合は別かしら。あなたが望む答えは、普通ではない人間ってところね」
「三人目は、妖怪退治を生業とする人間。妖怪を退治して生計を立て、だからこそ妖怪については詳しい。そんな人間ならば、何を恐れる?」
「妖怪ですわ。それも雑魚ではなく、一端の妖怪ね」
「昨夜、新月の夜に失踪したのは」
「天狗。組織に属し、風を扱うほどの力を持った妖怪」
「天狗は何を恐れるか。それはこの際、どうでもいいことです。問題は」
「失踪した者、その恐れる者が次に失踪している。連鎖の如く、狙われているということ」
「同一犯だと私は睨んでいる」
 蛇のように油断なく、神奈子は目を細めた。
「恐れる心、得体の知れないものと距離を置くことは、人妖問わず重要な感情です。それこそが人間を危険から逸らす。それこそが妖怪にとっての存在理由となる。生存する、常世にいるためには、なくてはならない心の動きだね。決して愉快な感情ではないが、生き残るのには必要です」
「同時に、その心は神様にとっても重要なこと。あなたのような神様は、それがなくては信仰を得られない。だからこそ、あなたの遣り口はヤクザみたいだとも例えられる。畏れ、恐怖ではなく畏怖を抱かせることが、信仰を得る上ではどうしようもなく重要だから。もっとも、これは又聞きでしかないのだけど」
「嫌な臭いがしました」
「さっきも言っていましたわね」
「神道にとって死は穢れです。穢れは払うことこそ容易いが、だからと言って、おいそれと蔓延させて良いものでもない。穢れなく健やかに。これが神道の根幹。現在ではそれが成り立ち、私たち神々もそれに則っている」
「霊夢の掃除も無駄ではないということね」
「だが、さらに古来へ遡ると、その根幹は全く逆となる。神事に血が用いられ、異国の生贄にも等しいものが要求された。祀られるべき私が言うことではありませんが、時々、自分が欲する信仰というものが何なのか、分からなくことがある。時代の変遷に則った信仰の変遷は、難しい位置にあるものなのよ」
「革命こそを重んじ、伝統を軽んじるあなたから、そのような言葉が出るとは驚きね」
「私は神道の神よ。悩むことも稀にある」
 自分の鼻を、神奈子は親指で弾いた。人間のガキ大将のような仕草だと思った。
「嫌な臭い。ひどく懐かしくも、忌避すべき臭い」
「忌むべきものの臭い。つまりは血の臭い、死の臭いと言ったところかしら」
「失踪した者たちは、恐らくもう、いなくなっているでしょう」
 若干、神奈子は目を伏せた。
「夜は祭祀の時刻。恐れを抱き抱かれる者たちの失踪。忌むべき穢れの残留」
「妖怪の仕業ではない。あなたは、ずっとそう匂わせていますわね」
「肉体が強くとも精神は脆い、それが妖怪だと考えるなら、人間の仕業だとも考えにくい」
「古来、祭祀には生贄を要求するようなことがあると、あなたは言っておりましたね」
「閉ざされた空間に根付いた土着の信仰なんかは、その傾向も一層強くてね。古来より連綿と続き、明治になっても残っていた可能性は幾つもあっただろう」
「つまり、あなたは思い至っている」
「気に食わない推論よ、我ながら」
 伏せた目を、神奈子は上げた。
「神だ」
 神奈子の顔は無表情だった。
「犯人は、たぶん神よ」
 八坂神奈子は、その赤い瞳にだけ、言いようのない哀しみと怒りを滲ませていた。
 八雲紫は、黙ってその視線を見返した。

 ◆◆◆

 ぴちゃりという水音に足を止めたのは、命蓮寺で話を聞いた帰り道だった。
 夜の闇がわだかまった道に、人影がふたつ立っていた。人里と妖怪の山とを繋ぐ、林道の一本である。目指す妖怪の山までは、まだ遠い。取材のメモを、一刻も早く原稿として推敲したかったので、足早に人影の傍らを通り過ぎようとした。
「八坂様」
 ふたつの内、片方が見知った顔であったので、声をかけた。
 八坂神奈子は腕を組み、黙って見つめていた。その傍らに立つ人影も、これまた見知った顔だった。
 八雲紫、賢者としても名高い妖怪だ。神奈子同様、こちらをじっと見つめている。
 二人とも、険しい顔をしていた。
「天狗か」
 神奈子が口を開いた。
「取材の帰りか」
「命蓮寺からの帰りです」
「今日はもう遅い」
 赤い瞳が、蛇のように細まった。
「早々に去れ」
 ぴちゃりとまた聞こえたが、神奈子の声はそんな水音など跳ね除けるほどに、硬いものだった。
 一礼して、足早に立ち去った。
 ぴちゃりと、聞こえた。
 何かが近付いてくる気配はない。

「後を追わなくても、よろしいのかしら」
 林道の先へと消えて行った天狗を見つめながら、私――八雲紫は問い掛けた。
「失踪した天狗は、あの天狗と同じく、新聞記者でした。ならば天狗が最も恐れるのは、他の新聞記者に出し抜かれること。新聞の発行部数で負けることね。次に狙われるのは、あの天狗の新聞記者かも知れないわ」
「私には、そうは思えない」
 夜闇の中でも、神奈子の赤い瞳はよく映えていた。
 新月の翌日とあっては、月明かりなど期待出来るはずもなかった。鬱蒼とした木々に覆われる林道は、予想していたとおり星明りすら見通せない。周囲は、大きくわだかまった闇によって例外なく覆い隠されている。神奈子が手にした、提灯の頼りない明かりだけが、貴重な光源だった。
 もっとも、妖怪である私にとっては、なんの問題もなかった。
 その気になれば、明かりなどなくとも行動できるくらい、夜闇には馴染んでいる。新月だろうと満月だろうと、夜は自由に出歩けるという自負があった。大妖怪とも称えられるからこそ、それくらいの自信はあった。
 ぴちゃりと、聞こえた。
 何かが近付いてくる気配はない。
「舌なめずり」
 腕を組む神奈子が、闇へと鋭い視線を投じる。
「下品な合図をするものね」
「合図ねえ」
「見ることも覚束ない夜の祭祀は、音が重要になってくる。そこからの発展か、元々かは知らないけど、祭祀は音を重視するのよ。神へと奉げる祝詞も神社によって、或いは極々狭い地域によっても、大きい小さい遅い速いなどの特色もあるけど、声に出すところは変わらない。それだけ祭事には音が重要であり、だからこそ音を合図とすることもあるのよ」
 提灯の明かりが引き上げられ、夜闇がうねるように揺らめく。
 適当な木の枝に、神奈子は提灯を引っ掛けた。
「天狗が恐れるもの、あなたは他の天狗と言ったわね」
「あなたには否定されましたけれど」
「件の天狗は、命蓮寺の般若心経を聞いた帰り道で失踪している」
「なら、般若心経。引いては、命蓮寺の聖白蓮の般若心経こそを恐れたのかも知れないわね。自己否定を恐れることは、生物的な恐怖、つまりは根源的な畏れとも言える。あら? それだと、ここで道草を食うのは不味いのでなくて? 聖白蓮の失踪は、あまり喜ばしくない事態を生み出す可能性がありますもの」
「発言の割には、切羽詰っているようには見えないわ」
「あなたが合図と言った水音が、すでに何回も聞こえていますからね」
 ぴちゃりと、聞こえた。
 相槌のように、丁度良いタイミングだった。
「今更、此処を離れて千載一遇の機会を逃すのは、それこそ愚の骨頂。人間を襲うだけに留まらず、妖怪にまで手を出そうとする者は、やはり幻想郷には不自然です。人間は襲われますが、妖怪は退治されます。襲われることでも、失踪することでもないのです。それを履き違える輩を、見逃す訳にはいきません」
「全ては幻想郷のためと、あなたは言うのね」
「無論です。私は」
「幻想郷を愛している、そうだろう?」
「ええ、まさしく」
 私は天を仰いだ。
 当然の如く、星空は見えない。
「今回の事態を引き起こすような輩を、見過ごす訳にはいきません」
「あなたとは理由が違うけど、私も同じよ」
 ぴちゃりと、聞こえた。
 これまでよりも近い。矢のように鋭く、神奈子は何もない闇へと向き直る。
「災いばかりをもたらす者など」
 ぴちゃりと、聞こえた。
 さらに近い。
 茂みがざざりと揺れる。木々の軋みが耳に届く。
 生きている森。夜闇も人間も、一緒くたに育む幻想の森。
 その、まごうことなき苦悶の声。
「害のみを施す者など」
 茂みが、ざざりと鳴いて、枯れた。
 木々の軋みは益々大きくなり、みしりと鳴いて、折れ曲がった。
 ぴちゃりと、聞こえた。
 すぐ目の前だと、私は思った。
 枯れた茂みが押し潰される。折れ曲がった木々が押し退けられる。どす黒い紫色の腕が現れる。何本も現れて巨体を運んでくる。
 神奈子の顔は無表情だった。
「災害でしかない。他者へと恵みの雨を降らせない者は、決して神ではない」
 赤い瞳には、怒気がありありと滲んでいた。
「神を装う愚か者が」
 ずるりと音を立てて、巨体は姿を現した。
 表現に困るような外見をしていた。ありのままを伝えるなら、どす黒い紫色をした粘性の塊、といったところだろうか。私や神奈子の身体などより何倍も大きい。身体と思しき塊からは、同じ紫色の腕が何本も伸びており、引き摺るように現れていた。腕の一本一本は、塊と比べて釣り合いが取れていないほどに細い。長く筋張った物もあれば、短く宙へと泳がせている物もある。等しいのは、どの腕も形状だけは、人間のそれとよく似ていた。
 不恰好な座頭虫。
 蜘蛛という印象は、不思議と抱かなかった。
「これか」
 塊は、神奈子の声にも耳を傾けた様子はなかった。目と思しき器官は見られないのに、私と神奈子をまるで睥睨するかのように、距離を置いている。伸びた腕は、それ自体が意思を持っているかのように、それぞれ忙しなく地面を叩いていた。
 ぴちゃりと、聞こえた。
 塊から、巨大な口が覗く。ひどく巨大であることを除けば、人間の口そのものだった。
 でろりと太い舌が垂れる。舐めるように蠢く。
 ぴちゃりと、聞こえた。
 今までよりも、ずっと鮮明に聞こえた。
「醜い」
「同感ね」
 にべもない神奈子の言葉に、私は続いた。
「いかにも害を成しますよって雰囲気が出過ぎているわ。こういうのは、今の幻想郷にはどうあっても不釣合いよ。無論、外見だけで判断するのは危険ですけど。実際に、人間や妖怪が失踪している現状では、どうあってもねえ」
「徒に、増長しているみたいだな」
 塊の一角を、神奈子は指差した。
 節くれ立った一対の翼が突き出ていた。どす黒い紫であることを除けば、天狗の翼とよく似ていた。
「畏れを求めるだけでなく、姿形まで求めたか。浅ましい限りだよ」
「最初は人間の子供。或いは、それ以前に動物なんかも捕らえていたのかも知れませんわね。人間の子供から、人間の大人。妖怪退治の専門家から、妖怪の山の天狗。中々どうして、腹立たしいほどに順調じゃない」
「稀有な例とも呼べる、だから」
 神奈子は一歩、塊に向かって歩み寄った。
「私こそが払うべきだ」
「だから、あなたの神社の巫女さんも連れて来なかったのね」
「曲がりなりにも、神を装う者が相手だ。あの子には、こんな経験を積む必要などない。もとより、早苗は現人神でありながら人間でもある。我が神社に奉仕する人間に、こんな醜く浅ましく下賎な輩など」
 組んでいた腕を、神奈子はほどいた。
「目にさせる理由すら、皆無だ」
「ご立派なお考えですこと」
「手筈通りに頼む」
「私とあなたでは、そもそもの動く理由が違いますわ」
「利害の一致だと私は思っている」
「ええ、ですから」
 何もない場所から取り出した扇を、塊に向ける。
「首尾良く、お願い致します」
 ぴしりと鳴った。
 私は結界を張った。神奈子と塊を閉じ込めるかのように、光の檻で二柱を囲う。四重に四重、そこへ更に四重を重ねていく。天を絡め取る投網のように、神奈子と塊をその空間ごと隔離する。
 二秒も経たぬ内に、結界を張り終えた。
 占めて、六十四もの結界である。そこから出るのは、すでに神であっても難しい。
「大したものだね」
 振り返らずに、神奈子は言った。
 光の檻で囲われながらも、その後ろ姿は私からも見えていた。中の様子を確認できるくらいには、結界の格子は甘くしてある。言葉を交すことも容易い。
「結界は大事だ。祭祀には、世俗との結界も重要となる」
「お褒め頂き光栄です。ついでに、ひとつ訪ねたいことがあるのだけれど」
 扇を、神奈子の後ろ姿へと向けた。
「さっき、私は仮説を立てました。天狗が般若心経を恐れたならば、次に狙われるのは聖白蓮ではないかという仮設です。即興のもので、おまけにこうして外れてもいますが、仮説としては充分有り得ることだったと思います。あなたとて、その仮説には思い至っていたのでしょう」
「よく分かっているわね。その通りよ、私はこいつが聖白蓮を狙う可能性も考えた」
「でも、あなたは命蓮寺には向かわなかった」
「あの僧侶なら助けがなくとも、自力でどうにか出来ると踏んだからよ」
「その発言には疑問が残ります。あなたは先程、こうも言いました。自分こそが払うべきだと。だと言うのに、聖白蓮に任せてしまうようなその言い草は、あなたらしくないと思いますわ。少なくとも、あなたはそれだけ無責任ではないでしょう」
「外の世界を見限ったほどだよ、私は」
「外の世界を見限ったからこそ、あなたは責任を果たしたいと思っている。むしろ、それ自体に責任を感じている。もう無責任になるのは嫌だ、責任を果たすことこそ自分の責任だと、感じているように私は思うのです」
 神奈子は振り返らず、塊と対峙している。
 扇を口元に寄せて、開いた。
「あなたは、それだけ無責任ではないと私は思うのです。違いますか、八坂神奈子さん」
「突っ込むわね、八雲紫さん」
 顔だけで神奈子は振り返った。
 挑むような微笑みが、浮かんでいた。
「般若心経の話を聞いた時、聖白蓮のことは考えていたよ。でも次には、こう考えた、般若心経を心の底から恐れることはないと。妖怪連中はもっぱら納涼のために般若心経を聞いていたと、天狗の新聞で読んだ。自己否定の可能性すら、娯楽として捉えている。それは、恐怖を楽しんでいたに過ぎないんだよ。外の世界でも、恐怖を娯楽として利用する施設があることは知っていた。恐怖によるストレス発散という訳だ。無論、そういった感情の動きは恐怖であることに変わりない。しかし、娯楽が絡めばそれは一過性のものに過ぎなくなる。常日頃から恐怖を感じては、ストレス発散どころか、心を病む原因にもなり兼ねないからね。それでは本末転倒となる。だからこそ、娯楽となる恐怖は、あくまで一過性のものでなければならない。般若心経による恐怖も、一過性でなければならなかったのさ。納涼のために訪れる、妖怪連中にとってもね。そんな一過性の恐怖が、果たして恐れ、引いては畏れに繋がるだろうか。子供が大人を恐れるほどに、人間が妖怪を恐れるほどの恐怖心に、果たして成り代わるだろうか」
「いいえ。オカルト好きな人間が、必ず妖怪を恐れる訳ではありませんもの」
「だから私は、聖白蓮が狙われる可能性は薄いと踏んだ」
 塊の大口からは、巨大な舌が覗いていた。太さだけで神奈子の胴体を二回りほども上回っている。待ちきれないといった具合に、涎が滴り落ちた。
 ぴちゃぴちゃと水音が聞こえた。
 下品な音だと、私は思った。
「失踪した天狗は、私を熱心に信仰してくれていた」
「聞きましたわ」
「最初の子供、次の大人、その次の妖怪退治専門家も、私の分社に足を運んでいた。熱心とまでは言えなくとも、早苗の話に耳を傾けて、分社の前で手を合わせていた」
「それも多少は聞きましたわ」
「信仰は、畏れと祈り、そこに数多の心が加わって成り立っている。少なくとも、私はそれこそが得るべき信仰だと考えている」
 赤い瞳が、蛇のように細められた。
 神奈子は再び、塊へと向き直る。
「自惚れでなければ、どうやら失踪した者たちは、私が求めたものを抱いてくれたらしい」
 ぴちゃりと、一際大きな水音が聞こえた。
 塊は、歯茎が見えるほどに、歯を剥き出していた。
「こいつの狙いは、私だ」
 ぶるりと、どす黒い紫色が揺れた。
 塊から新たな腕が、何十本と飛び出してくる。等しく骨ばり、関節が三つにも四つにもなる細い腕が、一斉に神奈子へと群がる。人のものとよく似た手のひらは、すべてが物乞いのように大きく開かれていた。
 神奈子は、動かなかった。
 背の高い後ろ姿が、瞬く間に押し隠される。圧死するほどの勢いで迫った腕によって、垣間見ることさえ出来なくなる。貪るように群がった何十という腕は、芋虫の異常繁殖を髣髴とさせるほどに、おぞましい光景だった。
 口元を扇で覆い隠し、目を細めながら見つめる。
 ぴちゃりと、聞こえた。
 巨大な口を再び覗かせた塊が、腕を殺到させた場所、神奈子の元へとすり寄る。ずるりと引き摺るようなその動きは、鈍重な外見に似つかわしくなく俊敏だった。自身の身体から生えた腕を、一顧だにすることもなく跳びかかり、神奈子ごと押し潰す。
 びちゃりと、聞こえた。
 大地へと接吻した塊の大口からは、舌がはみ出している。極上とも美味とも言わんばかりに撒き散らした唾液は、結界にまで飛び散っていた。
 眉根に嫌悪感が滲み出るのは、さすがに止められなかった。
「あなたでも」
 凛とした声は、貪られる最中から聞こえた。
 塊に覆い被さられながらも、私の耳に朗々と届いていた。
「そんな顔をするのね」
「昨夜は、もっとひどい顔だった自信がありますわ」
「なるほど。違いない」
 ぶるりと、どす黒い紫色が揺れた。一心不乱に貪っていたその動きがぴたりと止まった。魚を食べていたら喉に骨が掛かった、そんな風体にも見えた。
 限りなく正解に近いだろうと、私は思った。
「災いばかりをもたらす者など神ではない」
 塊が、ゆっくりと後退する。
「害を施す者など神ではない」
 何十という腕は、二匹の大蛇に退けられた。それぞれ、淡い青と淡い緑を帯びた、赤眼の白い大蛇だ。くわりと口を開き、とぐろを巻いている。
「それは災害だ。断じて神などではない」
 神奈子は右腕だけで、塊を押し退けていた。
「貴様は神ではない、ただの災害だ」
 悠然と立つ神奈子の身体には、傷ひとつなかった。纏った赤い服は、汚れた跡すら見られない。裾から覗く、草履を履いた白い足が、力強い一歩を踏み込む。
 塊は、成す術もなく宙に浮いた。
 右腕だけで、神奈子は自信の何倍もある巨体を、軽々と掲げ持っていた。
「穢れを撒き散らすだけの輩を、外の世界でも幻想郷でも神である私が、見過ごす訳にはいかない」
 神奈子は、右腕を軽く振るう。
 それだけで塊は、わずかばかり宙を舞って、重々しく大地に落ちる。怯え竦むように神奈子へと大きく口を開き、声にならない咆哮をあげる。結界越しにも、大気が震えるような風圧が届いて、ちりちりと私の肌を焼いた。
 ぶるりと、どす黒い紫色が揺れた。
 再び、塊からは何十という人間のような腕が伸び、神奈子へと殺到する。
「その穢れ、私が払ってやろう」
 神奈子は動じず、左手で軽く払うような仕草をした。
 届きかけた最初の腕が、神奈子の左手に弾かれる。諦めの悪い恋人を振り払うかのようにも、無作法な客を軽くあしらう踊り子のようにも見えた。たちまち、弾かれた腕に合わせるように、他の何十という腕も一斉に退いた。
「神である私が、直々に払ってやろう」
 両手を、神奈子は塊に向けて掲げた。
 控えていた二匹の大蛇が動く。瞬く間に塊を絡め取り、締め上げる。
 びちゃりと、聞こえた。
 大蛇に締め上げられる塊から覗いた舌が、苦悶を表すかのように痙攣していた。
「だから、往け」
 掲げた両腕の手のひらを、神奈子はゆっくりと開いた。
「根国底国へ、往け」
 二匹の大蛇が、より強く締め上げる。それぞれが帯びた淡い青と淡い緑が、爛々と瞬く。締め上げられる塊の形状が、大きく歪む。
「雲が吹かれるかの如く、霧が晴れるかの如く、船が海原へと旅立つかの如く、草木が元より断ち刈られるかの如く」
 手のひらが、握り締められる。
 塊が爆ぜた。二匹の大蛇もろとも爆ぜて、結界内に汚物のように飛び散るかと思われた。
 しかし、それが神奈子の元にまで届くことはなかった。爆ぜた途端、二匹の大蛇はその姿を一変させていた。淡い青を帯びた者は澄んだ水、淡い緑を帯びた者は渦巻いた風に、姿を転じていた。なおも蛇のようにとぐろを巻き、絡み付いた塊を逃してはいない。塊は、爆ぜた後も捕らえられていた。
 澄んだ水は、渦巻いた風によって、水の渦となる。
 外の世界で見た渦潮のようだと、私は思った。捕らえた者を離さず、呑み込むように海の底へと引きずり込む、雄大な自然の猛威。塊がこれから辿る運命を、暗示しているかのようにも見えた。
「罪という罪、穢れという穢れは、たちまちの内に払われるのだ」
 渦巻いた風は、竜巻となる。
 渦となった澄んだ水は、塊を捕らえ続けている。
「だから、往け」
 最早、塊は原形を留めていない。二匹の大蛇に締め上げられ、竜巻と渦潮によって引き千切られており、面影らしいものは微塵も残っていなかった。舌を垂らした大口も、形状だけは人間とよく似ていた無数の腕も、跡形もなかった。
 神奈子は、腕を組んだ。
 渦潮の勢いは止まらない。
「往け、失せろ、災害」
 硬い声が、私の耳にまで届いた。
「我が命ずる」
 神奈子は大きく片足を上げて、大地へと荒々しく踏み降ろした。
「失せろ」
 渦潮が、突如弾けた。
 澄んだ水は大気へと溶けるように消え失せて、渦巻いた風は何処かへと吹き荒むかのように霧散した。捕らえられていた塊も、共に姿を消していた。まるで最初からいなかったかのように、跡形もなく消えている。失せてしまったのだろうと、私はそれだけを思った。
 ぴちゃりという水音は、もう聞こえない。
 八坂神奈子の顔は、能面のように無表情だった。
 八雲紫は、囲った結界を解く準備をしながら、黙ってそれを見つめていた。

 ◆◆◆

 思えば、厄介であり、何よりも奇妙な輩だった。
 求聞口授で読んだ限り、神奈子の主張は明らかに外の世界を見限ったものだった。神社はすでに信仰の場ではなく、観光地やパワースポットという訳の分からないものになっていると、説明していた。その言葉に感じたのは、私と同じだという想いだ。外の世界の神社は、すでに観光地としてのみ必要とされているという、一種の諦めにも近い感情だと思った。神奈子の主張は、昨夜の酒の席で私が口走った言葉と、何ら変わりはないように思えた。
 しかし、それにしては神奈子の行動に、疑問が残った。
 外の世界に対する、エネルギーの依存問題を神奈子は声高に主張していた。今のままでは幻想郷は、外の世界の状況に左右されるしかなく、次のステップには進めないという主張だ。だからこそ、神奈子は地底の利用を目論んで、地獄鴉に力を授けた。わざわざ、地霊殿の主であるさとり妖怪の目を盗んでまで、地獄鴉への接近を試みていた。それだけ、神奈子が現在のエネルギー事業について真剣であることは、容易に想像がついた。
 エネルギー。
 神奈子が幻想郷にもたらそうとしているのは、外の世界では否定されてきたエネルギーだった。言い換えれば、元々は外の世界で発案されたエネルギーであるということだ。外の世界で編み出され、外の世界に否定されたエネルギーである。つまりそれは、外の世界の人間によって発案された代物なのだ。
 無論、自分への信仰のためというのが、一番の目的であることには変わりない。
 エネルギー政策の根幹には、神である神奈子にとっては欠かせない、信仰を得るためという目的が覗いている。それは間違いなかった。
 しかし、それでも疑問が残った。
 幻想郷を愛しており、だからこそ外の世界には興味を抱くだけであり、想いを馳せることもない自分にとって、神奈子の行動は不自然に思えた。外の世界から本拠地を遷し、此処でこそ追い求める信仰を得ようと画策している神奈子に対して、小さいながらも確固たる矛盾のようなものを、私は感じていた。
 八坂神奈子は、外の代物を利用している。忘れ切れずに、郷愁のようなものを嗅ぎ取らせるほどに利用している。
 八雲紫には、それが不自然でならなかった。
 伝統を軽んじるという求聞口授の記述もあるのだろう。幻想郷だからと、エネルギーについては外に任せるというスタンスが、気に食わなかったのかも知れない。更に言えば、外の世界で忘れ去られたエネルギーを利用するということも、幻想郷の住人の興味を惹くには最適である。現に、常温核融合の実験が行われた際には、多種多様な人妖が集まっていた。皆それだけ、神奈子の試みに興味を抱いたということだろう。かく言う私も、こっそり覗いていたことは秘密である。
 しかし、やはり気になる。
 気に食わないと言ったほうが正しいかも知れない。
 私にとって、神奈子の言動にはどうしても、幻想郷は完成し切れていないという魂胆が覗いているように思えてしまうのだ。幻想郷は全てを受け入れる。その持論を、真っ向から否定されているような気がしてならないのだ。現に神奈子は、過去に様々な問題を引き起こした。今でこそ異変には繋がっていないが、それでも色々な試みを連日行っている。私としては、受け入れがたいものがあった。
 神奈子は幻想郷を変えようとしている。
 自分の信仰のために、外の世界の代物を利用して、その有り様を大きく変化させようと試みている
 奇妙なスタンスだった。
 幻想郷に居座りながら外の世界のものを利用するのは、此処の住人として間違ってはいない。日々、色々な場所で様々な物品が使用されている。私も、そんな恩恵に預かる者の一人だ。携帯可能な蓄音機は、今も懐に抱いている。
 しかし、神奈子のスタンスは、それを逸脱しているようにも思えた。未だに、外の世界のことを強く想っているような気がしてならなかった。昨夜の酒宴での一軒が、そんな違和感を更に強くしている。
 神社は観光地としてのみ必要とされている、私の意見だ。
 神社は観光地やパワースポットとなってしまい信仰する場ではなくなった、神奈子の意見である。
 微妙な違いだ。
 ともすれば見逃してしまいそうになる差であり、ある意味では限りなく近い意見である。
 八坂神奈子はその違いに激昂した。未だに外の世界へと、想いを馳せているかのように。
 八雲紫は、それが気掛かりで仕方がなかった。

 ◆◆◆

 神社の分社を建立するのに、然程の時間は要さなかった。
 鬱蒼と木々の生い茂った林道に、清廉された空気が満ち溢れている。わだかまった夜闇でさえ、その場を恭しく譲り渡しているような印象を覚えた。私のような妖怪には、好ましくない環境とも言えた。
 新たな分社は人里からも程近い。此処に分社が建ったと知らせたなら、参拝客も増えることだろう。神奈子にとっては、申し分ないに違いない。
 しかし神奈子の顔は、晴れやかなものではなかった。
 硬い横顔には、出すことを堪えている沈痛な色合いが滲んでいた。
「これで、あなたへの信仰も増えますわね」
「そうでしょうね」
「だと言うのに、浮かない顔をしておりますわ」
「貴重な信仰になったかも知れないものを喪いました」
 新しい分社からは、真新しい木の香りが漂っていた。
 目線を合わせるように、神奈子は屈んだ。
「私の目的は、突き詰めて言うなら幻想郷中の信仰を、この身に集めることです。観光地やパワースポットと、外の世界の信仰に見切りを付けたのは、他でもなく私なのです。だからこそ私は、幻想郷中の信仰を集めなければならない。全て等しく集めて、この腕に抱いて、守らなければならないのでしょう」
 分社の屋根を、神奈子はそっと撫でる。
 我が子の頭を撫でる母親のように、その手付きは柔らかい。
「ほんの少しとは言え、私はそれを喪った」
「失踪した数は、幻想郷という括りで見るなら僅かです。影響は薄い」
「それでも、喪ったことに変わりはない」
 屈んだまま、神奈子は私へと振り返った。
 その顔は微笑んでいたが、赤い瞳は哀しそうに揺れていた。
「どうしてもね、辛いのよ」
「まるで、もう手に入らないかのような言い草ですわね。まだ他にも、信仰が手に入る余地はあるというのに」
「甘えてはいけないのよ」
「甘え、ねえ」
「いつかのように、私が見限った外の世界のように、幻想郷とて油断をしてはいけないのに変わりはありません。神社が観光地に思われることを、パワースポットという訳の分からない言葉に席巻されるかも知れないことを、私は危惧しなければならないのよ。例えそれが、どれだけ少ない可能性であろうとも。此処のように私の姿を見て、私を神だと信じてもらえる土壌が存在する間に、私は信仰のために奔走しなければならない。甘えを、予断を抱いてはならないのです。だから私は、信仰を失いたくない。どれだけ少なくとも、こうして出歩いて自分で行動を起こせるからこそ、私は信仰を失いたくないのよ」
 神奈子は、深い息をついた。
「それを抜きにしても、信仰は惜しいものです。抱くことの難しさ、抱かれることの難しさを、私は外の世界で知っている。観光地のように見る動きは、幻想郷がこうして隔離された明治の時代よりも前からあったわ。パワースポットという言葉自体は新しいものですが、それによく似た印象を人間が神社に抱くような変化は、以前から存在しました。神社が、信仰の場としての意味を失いはじめたのは、偏に科学の蔓延が大きかったと私は考えている」
「あなたの動きは、科学が密接に関わっていると思いますけど」
「科学の力には凄まじいものがあります。だから私は、幻想郷でそれを利用することを考えたわ。科学にも色々とある。外の世界で否定され、失われた妙案も数多く存在している。それを応用してやろうと、否定された科学を使役して信仰を集めようと考えたのよ。無論、今でも考えていますが」
「外の世界の真似にも思えるわね」
 私の皮肉にも、神奈子は口元で笑っただけだ。
「あなたは科学に負けたと、自分で敗北を認めているようにも聞こえますわ」
「そうかも知れない。もとより、信仰の場と見なされなくなったのは、人間の関心やブームも関係しているけれど……それと同じくらい、急激な環境の変遷に、信仰が変遷し切れなかったところが大きいとも思っているわ。神道は、変化し切れなかった」
「あら、気弱ね」
「……いや。これは違うね、取り繕うのは止めましょう」
 被りを振って、神奈子は続けた。
「神道ではなくて……神である私が、変化し切れなかったのよ」
「あら、もっと気弱」
「私が求めた信仰は、畏れと祈り、それに数多の心の加わったものだ。けれども、外の世界の人間に畏れを抱かせるのは、限りなく難しいものとなった。外の世界の人間たちは、命の危機、自然の脅威から、上手く逃れる術を持つようになった。快適に日々を過ごすための技術を、その目まぐるしい進歩によって手に入れたのよ。だから人間は技術や進歩――即ち、科学への信仰を自ずと抱き、逆に神への信仰を薄めていった。私が望んだ信仰は、もう得られそうにもなかった」
「まるで妖怪ですね。闇を恐れない人間に信じられなくなった、幻想郷の妖怪たちみたいですわ」
「近いわ、それは認める」
 立ち上がった神奈子と、視線が合った。
 赤い瞳が懐かしさに彩られているのが分かって、私は不思議に思った。
「けれども、変化し切れなかったのは、あくまで私だけ」
 古代紫の髪が、手櫛で梳かれた。
「神道は、外の世界の信仰は変化している。今この時も、観光地とかパワースポットとかに席巻されて揉みくちゃにされても、変遷しようとしている」
「意外。まるで諦めていないような言い草ですね、あなたは外の世界から遷ってきたというのに」
「……たぶん、その通りよ」
 優しい目付きで、神奈子は分社を見下ろした。
「たぶん私も、完全には外の世界を諦め切れていない。今でも、外の世界に本拠地を置いている神々が多いからこそ、諦め切れていないのよ。私と違って、向こうで粘っている奴らはごまんといる。目まぐるしい進歩、科学の蔓延にも立ち向かって、信仰を広めようと努力している奴らが大勢いるのよ。恐らく、そこには神々だけでなく人間も関わっている。神の姿すら見ること叶わず、それでも存在を信じて仕え奉り、祈る人間が沢山いるからこそ多くの神々が幻想郷には遷っていない。諦めていない人間がいるからこそ、神々は諦め切れずに外の世界で暮らしている。時代の流れに則り、時には抗ったりもしながら、変遷しているのよ」
「なるほど。だから私の言葉に、あんなにも怒ったのねえ」
「あの時は言い過ぎたわ」
「構いません」
 振り向いた神奈子に、私はゆっくりと首を横に振った。
「あなたの本音には変わりありませんもの」
「手厳しい言葉だ。まるで、ああやって激昂した私こそ、本当の私であるような言い草ね」
「その通りではありませんの?」
 目を細めた。
 なおも懐かしさの滲んでいる赤い瞳を、視線で絡め取る。
「だって、あなたはあんなにも私の言葉に激昂した。何故なら私の言葉の中に、自分が抱いている外への思いと、小さいながらも決定的な違いを見つけたから。先程、ご自分でも言っていたように、あなたは未だに外の世界に期待を寄せている。懐かしいと、そうやって思いを馳せるくらいには、諦め切れていませんもの」
「八雲紫さん、それでは、あなたは」
「御明察」
 何もない空間に仕舞ってあった傘を、翻しながら差した。
 夜は良い。
 降りてきた夜には闇がわだかまっている。ほのかに漂う高揚感は、傘を差した程度で遮られるものではなかった。
 夜は祭祀の世界、黄昏こそが妖怪の世界と神奈子は言った。
 それでも、夜は降りてくるのだ。
「私は妖怪ですわ。外の世界と幻想郷とを結界で隔離する、その手筈を企んだ内の一体です。そんな私の言葉に、外への期待などあるはずもありません。あなたのような懐かしさなど、とうの昔に捨てています。溢れた技術を食み、溢れたエネルギーを啄む程度で充分、それ以上は外の世界に求めておりませんの」
 懐から、携帯できる蓄音機を取り出す。
 極々小さなその装置を、片方の耳にだけ取り付けた。これだけで、流れる調べを独占できながら、同時に神奈子の言葉を聞き逃すこともない。外の世界の、そんな贅沢な技術は確かに便利だったが、それ以上の感慨を抱くことはなかった。昔も、そして今も。
「悪しからず、八坂神奈子さん」
 胡散臭い。
 万人からそう見られるであろう微笑みを、私は湛えた。
「外の世界の神社は、観光地としてのみ必要とされている。この言葉、訂正するつもりも、取り消すつもりも毛頭ありません」
「なるほど」
 溜め息をつきながら神奈子は言った。怒りを通り越した、呆れの溜め息だった。
「あなたのことは、やはり好きにはなれそうにないね」
「同感ですわ。現にあなたにも、酒宴での言葉を取り消すつもりはないのでしょう」
「無論だ。博麗神社など、御祭神も不明な神社が、外の世界に必要という理由などない。忘れ去られたあの神社は、忘れ去られて当然よ。そこから観光地などと頓珍漢な発想に至る、あなたはやっぱり素人だね。神道にも信仰にも神社にも、全てに素人だ」
「まあ酷い」
「もとより、博麗神社は私の神社にとって商売敵のようなもの。あれだけ、あざとい信仰合戦が許される幻想郷でなら、わざわざ取り繕う必要もない。存分に私が求める信仰を集めて、幸福を得てやろうじゃないか」
「本当、独善的な言い草ね。そのために、あなたは幻想郷に様々な恩恵をもたらしている。幻想郷で変革を起こしている。あなたのことは、どうあっても好きになれそうにありませんわ」
「同感ね。妖怪風情が私に好きか嫌いかを思うなど、それこそおこがましい」
「あら酷い。さすがは神風情ね。おまけに、外の世界に思いを馳せながら、それでいて幻想郷に技術の革命を巻き起こすなんて。本当――贅沢だわ」
「無論さ。私は神よ」
 分社を背に、神奈子は腕を組んだ。
「神が贅を凝らして何が悪い」
 その顔の、なんと自信に溢れていることか。
 先程までの気弱さなど、跡形もなく消え失せていた。どこまでも独善的であり、だからこそ自信を並々と湛えた豪快な笑みを、神奈子は浮かべていた。背の高い身体も相まって、稜線鋭き深山のような印象を、私は抱いていた。
 やっぱり好きにはなれそうにないと、それだけを思った。
 私の内心を読んだかのように、神奈子は口を開く。
「お互い、好き合うことは無理ね」
「間違っても妖怪と神様ですわ、期待するだけ時間の無駄よ」
「主張も、どうあっても交じり合わない。決定的だね、これは」
「今回は本当に偶々ね。私は幻想郷にとって良くないと思ったから、あなたは相手が気に食わなかったから」
「まるで私が短慮のように聞こえるわね」
「でも、事実でしょう」
「口の減らない妖怪ですね、あなたは」
「怒りっぽいあなたに、言われたくありませんわ」
「言っていろ、妖怪」
 赤い瞳が、蛇のようにきゅっと細まった。
 神奈子は踵を返し、颯爽と歩きはじめていた。道の先は妖怪の山である。守矢神社まではかなりの距離があるはずだが、神奈子の背中にそれを憂慮するような雰囲気はなく、雄大な存在感だけが滲んでいた。
 声を掛けられることもなく、手を振られるようなこともない。
 私への感心など失せたかのように、神奈子は夜闇の木々に紛れるように悠々と去って行った。
 後には、わざわざ見送ってしまった私と、真新しい分社だけが残される。清々しい空気の貼りはじめたこの場所に、いつまでも突っ立っている理由はなかった。
 ひょいっと、身体を宙に躍らせる。
 分社は眼下へと流れて行き、仰いでいた木々を難なく追い越す。新月の翌日では月の光は見えなかったが、星明りは煌々と私を包み込んでいた。足元よりも更に下方には、鬱蒼とした茂みが広がっている。時刻は知れなかったが、視界の端では人里の明かりと思しき光が、ぽつぽつと明滅していた。どうやら、夜としては更け切っていないらしい。博麗神社に顔を出すのも悪くはないと、私は思った。
 視界の端には、なおも人工の光が瞬いている。
 それとは反対の方角へと、私は向き直った。
 天高い峰が鎮座していた。
 圧倒されるほどの巨大な山が、私の視界を覆っていた。天狗が徒党を組み、河童が独自に繁栄している山だった。誰が呼びはじめたのかも今となっては知れない、妖怪の山である。天狗やら河童やらが暮らしているから、妖怪の山なのだ。工夫も情緒も感じられないネーミングが、いかにも幻想郷らしかった。
 数年前、神社が建立された。
 三柱の神が、妖怪の山に創祀された。山の神だと声高に宣言したらしい。
 神が今も鎮座している妖怪の山。
 八坂神奈子には、よく似合っていた。だからこそ、やはり好きにはなれなかった。
 八雲紫は、堂々と佇む妖怪の山にたっぷりと微笑み返してから、隙間にその身を躍らせた。
 八雲。八坂。八という字を冠していることからも、お二方は幻想郷では重要なキャラクターだと思います。
 でも、ゆかりんと神奈子様って、どうしても仲が悪そうな印象しか抱けないんですよね。藍様はどうでしょう、ちょっと分からない。

 ご読了、誠にありがとうございました。
爪影
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コメント



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私見だがえーりんを加えて八八八とかも面白そうだったかもしれん
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僭越だが、それはすでにあった気がする。
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失礼、点数忘れ
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ジェネですでにエイトフォーがあるからなあ。
8.100名前が無い程度の能力削除
面白かった。
18.80名前が無い程度の能力削除
う~ん、イカス!
二人ともすこぶるカッコいい
だからこそ、不安になったり揺らいだりもする姿も良い
でも、神奈子様。どっちかというと『王』だと思います。その在り方。
でも、そんな細けぇこたぁカッコいいからいいや!
20.100名前が無い程度の能力削除
幻想郷に異なるスタンスで向き合う二人
こういう関係はいいね
21.90名前が無い程度の能力削除
二人の難しい距離感をうまく表現できていると思いました。
傲慢かわいいよー。