幻想郷が開花していた。
そこかしこに花が咲き乱れ、浮かれた妖精が舞い踊り、妖怪や人間があちこち飛び回っている。
四季の花が乱雑に咲いており、花の妖精は見知らぬ花の妖精との出会いに喜び、華を咲かせていく。
その中で、人里の外れの空を白黒の鴉天狗が一人、手帳を片手に飛び回っていた。
あちこち見渡して物珍しい幻想郷の姿を写真に収めつつ、何かを手帳に書き留めている。
そうして飛び回るうち、広い畑の上に出た所で、
――おぅーい、新聞屋さーん!
気の抜けるような声が空まで届いてきた。
新聞屋と言えば鴉天狗であるが、今この空に鴉天狗は一人しか居ない。
「えーと……私、かなぁ?」
鴉天狗は確認も兼ねて辺りを見回して、声の聞こえた気がする方に、風を向けた。
ネタは鮮度が命、情報は早さと独占が命。風が吹いた次の瞬間には、鴉天狗は地上に降り立っていた。
「ああ、やっと気付いてくれた」
鴉天狗を呼び止めていたのは、人間の男だった。
年の頃は二十くらいか。筋骨隆々としていて立ち居振る舞いも堂々としているが、顔は何処か幼さを感じられる。
古ぼけてあちこちにつぎはぎが目立つ紺色の衣を着て、頭には白いタオルを巻き、右手に小さな袋を携えていた。
「私を呼んだのは貴方でしょうか?」
念の為と確認してみると、男はおうよと威勢の良い返事を返した。
そして今度は、男の方が一枚の紙を片手に問い質す。
「えぇっと、文々。新聞の射命丸文さん?」
「あ、はい、私が射命丸です」
初対面の相手に名前を言い当てられて、射命丸文は目を見開く。
しかし、その男が持っていた紙を見て、納得した。男が手にしていたのは、文々。新聞のバックナンバーだった。
話している最中にも男は、手にした新聞と文の顔をチラチラ見比べて確認していた。
「良かった、間違ってたらと思うとヒヤヒヤしたよ」
「その為にそれを持って来ていたんじゃないですか」
「あ、ああ、そうそう」
男は慌てて、新聞を袋に仕舞いこんだ。少しくしゃくしゃになった紙面には、笑顔の文と取材相手らしき白玉楼の庭師の写真が大きく載せられていた。
そして男は、その袋から更に小さくゴツゴツした巾着袋を取り出して、ずいと文に差し出して、言う。
「その文々。新聞、購読出来ないか?」
チャリ、と巾着が鳴る。きっと中には、お金が詰まっているのだろう。
突然の申し出を受けて、文は少し呆然としていた。過去にそんな事を言ってきた人間なんて、文の記憶に有る限り、数えるほども居なかった。
「……あ、だ、大丈夫ですよ。ありがとうございます」
男が不安げに手を下ろそうとした所でようやく文は気を取り戻し、いつもの営業に戻った。
「それでは、購読は何回分にしますか?」
文々。新聞の購読は発行回数で指定され、一部から百部や千部など、客の要望に応えるシステムである。
途中で購読を止める事は出来ないが、発行回数はきっちりと守る、それが文の新聞の売りの一つだ。
経験上、個人では一年分――およそ五十部も取って貰えれば、文の新聞としては上々の方だった。
「この中の金で、買えるだけ」
しかし、男はきっぱりと、大胆にそう言った。流石の文も、これには驚きを隠し切れず、えっと驚きの声を上げる。
そして文は巾着を受け取り、口を開いて中身を手の平に移して、その金額を計算し始めた。
文の期待は、すぐに落胆へと変わる。文の手に山と積まれた金は小銭が殆どで、数えてみれば見た目よりもずっと少ない金額だった。
だが客は客である。文はそんな素振りを欠片も見せずに、営業を続けた。
「ええと……この金額なら、六部になります。これはお釣りですね」
余分な金を巾着に戻して、男の手に戻す。今度は、男の方ががっかりと肩を落とした。
「ああ……やっぱりそのくらいしか無かったか」
男の方でも、この答えは予想外の少なさだったらしい。
項垂れたままの男を眺めつつ、文は考える。これほどまでに文々。新聞を買って貰えるのなら、これを逃す手は無かった。
サービス精神は、新聞屋の基本である。
「そうですね……それではこうしましょう。貴方の希望の部数をお届けします、お金は用意でき次第支払っていただければ、それで構いませんよ」
文の提案は、男を元気付けるのには十分過ぎたらしく。
「ほ、本当か!?」
「はい、決して間違いは起こさないと誓います」
男は飛び上がらんばかりに喜び、文の手を強く握り締めて何度も頭を下げた。
そして男は希望の部数を文に伝えて、届け先である男の家へと案内し始める。
「ここだ」
男が指した家は、お世辞にも立派な家とは言えないものだった。
かやぶき屋根の小さな建物といくつかの広い畑が有るだけの、何の飾りも無い家。
文はその家の形や周囲の風景を眺めて、男の家の場所を記憶に留める。
「分かりました、これからはこの家に届けに来ますね。それでは、ご購読の印に一部どうぞ」
そう言って文は肩から下げていた鞄から新聞を一部取り出して、男に手渡した。
購読記念です。と付け足されて、男は喜んで新聞を広げる。
「……どうですか?」
おずおずと、文が感想を求める。
記事の内容は、今の幻想郷の姿をありありと書き出した、何の変哲も無い新聞記事だった。
珍しくもなく、事実かどうかさえ怪しい記事が並んでいる。
「ありがとう」
男は一通り目を通すと、ただそれだけ言い、新聞から目を離した。
「それにしても、一体何なんだろうなぁ、これは。前に俺の爺さんが話してくれたのに似てる気がするけど、よく分からない」
「私もよく分からないのです、なので新聞として出すだけでも苦労しました」
二人は、花だらけの幻想郷の姿を改めて見回す。
「おかげで畑は栄養が足りなくなるし、かといって花を抜こうとすると変な妖怪に目を付けられるしで、大変だよ」
「変な妖怪?」
「白い日傘を差して、あちこち飛び回ってる妖怪なんだけど、花に手を出そうとすると不気味な笑顔で睨んで来るんだ」
「花を抜こうとすると睨まれる……花を守ろうとしている妖怪……うん、面白そうな情報ですね」
文は手帳を取り出して何かしらを書き綴り、男に向かって一礼する。
「情報提供、感謝します。お礼といっては何ですが、新聞代に少しおまけしておきますよ」
やがて男は、『幻想郷の花、未だ見頃が続く』という見出しで始まる新聞紙を丁寧に畳んで袋に仕舞いこむ。
「さて、そろそろ仕事に戻らなくちゃな。それじゃ」
「それではまた。 これからも文々。新聞をよろしくお願いします」
片手を上げて文に別れを告げると、男は畑の方へと歩いて行く。
文もまた、男に別れを告げて踵を返し、鼻歌交じりの上機嫌で新聞配達の続きへと戻って行った。
ぼくっ、ぼくっ、と土を穿つ音がする。
広い畑にただ一人、規則的な音を立てて一人の青年が、鍬を振るって耕している。
山の木々の緑は薄く、既に肌寒い季節だというのに、男は袖を捲くり上げて、時折汗をぬぐってさえ居た。
いくらかの範囲を耕し終えると、青年は鍬を投げ捨て、今掘り返した土に肥料を施して、再び鍬を振るう。
「こんにちは、文々。新聞の射命丸文です」
その最中、一陣の突風と共に、鴉天狗が青年の元へ降り立った。
青年は鍬を杖にして振り向き、挨拶を返す。
「良かった、今日は居たんですね」
「ああ。今日は新しい種を蒔く日だから、しっかりと準備してやらないと育つものも育たないしな」
「私も今日は貴方に用事が有ったので、丁度良かったです」
そう言って文は、いつもの鞄から新聞を一部と、小さな紙を一枚取り出して、一緒に青年の方に差し出した。
「今日の分の新聞と、契約書です。今日の分で貴方の契約は終わりですから、その集金も一緒に」
「……あっ、そういえば金足りてなかったんだっけ」
「そうですよ。少しサービスしたとはいえ、まだまだ足りません」
青年は不安気に、明後日の方向に目をやっている。
契約書には、左に払い損ねていた分の金額、右に再契約分の金額が部数別に書かれている。
青年の目は、主に左側に向いていた。
「……少し待ってくれ、確認してくるから」
そう残して、青年は鍬を放り出して家へと走り去って行った。
一人残った文は、手にしていた契約書の文面へと目を落として、嘆息する。
「あんなので、よくこんなに長い間取る気になったわね」
この時、青年が文の新聞を取り始めてから、五年の月日が経っていた。
数分の後、青年は顔に喜色を浮かべて戻って来た。
手に中身の詰まった巾着を持って、小走りに文の所にやって来る。
「有った有った。これで足りると思う」
文は半信半疑で巾着を受け取り、中身を手の平にあける。
しかし今回の中身は以前より大分質が良くなっていて、ここまでの分を差し引いても大分お釣りが残っていた。
「ひいふうみい……はい、確かに御代は頂きました」
余剰分を青年の手に返し、一緒に再契約もどうですか、と伝えてみる。
その金額自体は初回よりいくらか安い。再契約者へのお礼といったところだろうか。
「なら、また頼むよ。ちょっと金数えるから待っててくれ」
間を置かずに、青年はそう返した。
文は驚いていた。
大体の人は、一度の契約期間が終わればそこまでである。再契約の書類を見せたのも、半ば事務的なものだった。
そもそも購読者そのものが少ない文々。新聞である、文の驚きと喜びはかなりのものだ。
「……よし、もう一度。これくらいなら生活にも困らない」
冗談のつもりで書いていた、契約書の一番下の所に印を付けて、青年はその分のお金を文に渡す。
最も長期間で、最も高いお金を纏めて支払ってなお、男の手には大分お金が残っていた。
「あ、ありがとうございます……」
半ば呆気に取られつつ、文は金を受け取る。数えてみると、丁度再契約に足りる金額になっていた。
それを袋に仕舞っている間に、青年は新聞に目を向ける。
「新しい新聞屋さんが出て来たのか、ちょっと興味有るなぁ」
この日の新聞には、文と同じ新聞記者である姫海棠はたての事が書かれていた。
新聞同士張り合う事が多いのか、記事の節々にはたての新聞を低く評価しているのが見える。
「あまりオススメできませんよ。文章には自信が有るみたいですが、肝心の速度が足りていませんから」
それに気付いて、文が口を挟む。
「いつか一度は読んでみたいものだけれど」
別の記者の事を話しつつも、目ではしっかり文の記事を読み進めている。
それに何となく安心感を覚えて、文はそれ以上の事を言わなかった。
青年は新聞から目を離して、
「そういえば新聞屋さん、配達は良いのかい?」
そう言われて、文はようやく自分の今日の務めを思い出した。再契約の衝撃におされて、ついつい忘れてしまっていた。
文は契約書の件についてもう一度だけ確認を取り、配達に戻る仕度を整える。
「それでは、購読有難う御座いました。今後とも文々。新聞をご贔屓に」
「ああ、楽しみにしているよ」
そうして、文は風を呼び、地を蹴って飛び立っていった。
青年はあっという間に小さくなるその姿をしばらく見送っていたが、やがて小さく手を振って、
「さて、続きだ」
放ったままの鍬を持ち直して、畑へと戻っていった。
ぼくっ、ぼくっ、と鍬が土を穿つ音が鳴る。気が付けば、日は大分傾いていた。
幻想郷が、静寂に包まれていた。
普段なら活気溢れる人里にも音は無く、ただ人々が粛々と日常を過ごしているだけである。
それは紅魔館も、博麗神社も、果ては妖怪の山までもが、重苦しい雰囲気に包まれているようだった。
その中でも、人里一番の屋敷には、白い弔旗が掲げられ、家事の音すら憚られるようであった。
射命丸文は、人里の上を飛んでいた。
携えて来た新聞を配るべく、購読者の所を駆け巡っていく。文もまた例に漏れず、いつもの暢気さが影を潜めていた。
一通り配り終えて、最後に畑の家へと飛び、着地する。
「今日は居るかなぁ?」
家の中の様子を覗いてみると、中には年老いた夫婦が、まだ日も高いのに布団の上に横になって眠っていた。
それ以外に人が居る気配は無い。畑の方を見回してみても、人の子一人見当たらない。
仕方なく郵便受けに新聞を入れて、近くの岩に腰掛けて、客の帰りを待った。
「――ああ、新聞屋さん」
しばらくして、男が帰って来た。
紺色の作業衣に白いタオル、肩から提げた小さな袋は歩く度に上下左右に揺れ、チャリチャリと音を鳴らす。
その後ろには女が一人、男に付いて来ている。
「こんにちは。今日の分の配達と、契約の更新に伺いました」
「よし、それじゃあまた同じ分だけ。これで足りるかな?」
男は文の差し出そうとした契約書を見る前に、伸ばした右手にあちこち膨れ上がった巾着をぶら下げていた。
文はそれを受け取って中身をあける。当然の様に、必要分に足りるお金が積まれる。
「んー、確かに頂きました。毎度ありがとうございます」
お金を配達袋にしまい、一礼する文。顔を上げて、文は男の後ろにもう一人居る事にやっと気が付いた。
「そちらの方は?」
くるんと逆立った黒髪を風に揺らして、女の澄んだ茶の瞳が文の顔を見る。
文と眼が合った女はふっと微笑んで、頭を下げた。
「間苗です、よろしくお願いします」
そう名乗り、身体を一歩男に寄せた。途端に空気が少し暖かくなった様に、文は感じた。
「あれ、もしかしてお二人は……」
直感のままに二人の事を訊ねてみると、少し照れたように、その通りですと男が答える。
間苗もまた、少し頬を染めているあたり、その通りなのだろう。
「それはおめでとうございます。最近畑に居ないと思ったら、こういう事だったのですね」
「そういう事かな。まあ、こんな日にそう祝われてもあまり喜べないけれど」
「その気持ちは……少し分かりますね」
三人は揃って、人里の空を向く。
晴天に翻る白い弔旗は、少し離れたこの畑からもよく見えていた。
この年、稗田阿求が早世した。
幻想郷縁起を人妖に広め、人と妖怪との共存に最期まで尽力し、今代の役目を終えたという。
文の届けた新聞も勿論、阿求の記事で埋まっている。当事者や里の守護者へのインタビュー、その後の稗田の屋敷の様子、そして、御阿礼神事は続く、と締め括られている。
その字句に嘘偽りは無く、言葉で景色を表す様に真っ直ぐな表現をもって、書き綴られている。
「御阿礼の子の死は、私達妖怪にも少なからず影響を残して行きました。
間違い無く、幻想郷の妖怪に多大な影響を与えた人です」
文はそう言い、間苗の分にともう一部の新聞を渡した。
「先代の阿礼の子の時もこんな感じだったのかな?」
男が、そう文に聞いた。
「…………」
文は押し黙って、手帳に目を落とす。
そして手帳の初めから終わりまでをパラパラと捲り、顔を上げて、
「……すみません、覚えていません」
そうとだけ、返す。
「あれ? 新聞屋さんは妖怪なんだから、先代の御阿礼の子の時も見ていたんじゃないのか?」
「そうですね。私ももう千年は生きてきています。ですが、覚えている事は殆ど有りません。
長命な妖怪にとって、忘れるというのは大事な事なのです。色々な事をいちいち覚えていたら、頭が一杯になってしまいますしね」
良い事も嫌な事もすぐに忘れること。それが自分を保つ為の秘訣なのだという。
「それじゃあ、新聞の契約数はどうやって覚えているんだ?」
「ちゃんと一人一人契約数と配布数をメモして、一部配る毎に記録しているんですよ。これだけは、絶対に忘れてはいけない事ですから」
袋から小さな手帳を覗かせる文。いつも手に持っているネタ帳とは違う、仕事専用の手帳なのだろう。
「……でも、覚えてないっていうのは何か勿体無いね」
「ほら、人は良い事を忘れて、嫌な事を覚えるって言うじゃないですか。何千年も嫌な事を覚えたままだなんて嫌でしょう?」
「なるほど、分かり易い」
男が頷いていると、文は里の方に顔を向けて静かに目を閉じ、軽く黙祷を捧げ始める。
「だから、御阿礼の子はとても記憶力が良いのでしょうね」
あまりにも短過ぎるから。
口にこそ出していないが、文の言葉はそう続いているようだった。
「それでは、再契約ありがとうございました」
「あ、あの」
文が頭を下げようとした所で、間苗が呼び止める。
手に持っていた新聞紙をどうして良いか分からず、もてあましていた。
「これ、私も貰って良いんですか?」
「ええ、良いですよ。ご愛読してくれている方へのサービスです」
「ですが……」
「良いですよ。足りなくなるくらい人気の有る新聞でもないですし」
苦笑しながら文が説明すると、間苗は頭を深く下げて、新聞紙を大事そうに畳んで片手に持った。
「――っと、つい話し込んでしまいました。私は配達の途中ですので、この辺りで失礼します。
それでは、今後とも文々。新聞をご贔屓に」
そう言い残して飛び立った文を、二人はずっと見送っていた。
妖怪の山の一角。
人は元より、山の妖怪ですら滅多に訪れない様な僻地に、小さな家が在った。
中は狭い上に物が散乱しており、冬という気候も相俟って非常に寒く、とても人が住める環境ではない。一見して、廃屋にも感じられる様な小屋だった。
ただ、一組の机と椅子、そしてその椅子に座って書き物をしている少女の姿が、ここがまだ使われているという事を現している。
既に空は暗く、小さな窓一つしかない室内はとても暗い。
そんな中で、微かな火の灯りを頼りに、文は新聞記事を書き綴っていた。
「……ここの所、大したニュースが無いなぁ」
いまだ白い面の多い紙に向かって、小さく溜息を吐く。
面白い事件しか記事にしない彼女にとって、ここ数年は大きな異変も無く、新聞の発行回数も減ってきている。
新聞が発行出来ないという事自体は、文にとって問題ではなかった。
「何だか味気ない」
ただ、新聞記事を書く回数が減ってきており、その分何もする事の無い時間が増えてきていた。
博麗神社も、魔法の森も、人間の里も、以前に比べて大分落ち着いており、小規模な騒動はたまに有るものの、新聞のネタになりそうな事件は滅多に無かった。
いつでも新聞記事の為に動いていた文にとっては、ただ退屈な時間が増えていくだけだった。
明くる日、文は何の気も無しに、文花帖を片手に人里へと向かった。
空から見下ろす人里は今日も盛況で、人間達はそれぞれが自分の仕事に励んでいる。
それを何となく羨ましく思いつつ、面白いネタが無いかと辺りを見回す。
「……あっ」
ふと、外れの方に目を向けていると、畑に種を蒔いている人の姿が見えた。
遠くからでもよく分かる、見慣れた作業服の男。いつも文々。新聞を愛読している、長い付き合いの読者。
軽い気持ちで、文はその男の元へと飛んで行った。
「お早う御座います、今日も頑張ってますね」
文が男の傍に着地すると、男も種を蒔く手を止めて文に挨拶を返した。
いつもの配達袋が無い事に男が気付くと、文は首を軽く振って、目的を伝える。
「あっ、今日は配達ではないんです。ただちょっとお話を聞きたくて」
「それくらいなら、大丈夫だよ」
文の申し出を男は了承し、種の入った袋を持って近くの切り株に腰掛ける。
その隣に、文が座る。正面に見える小さな家の窓からは、少し年を取った間苗が小さな子どもの世話をしているのが少しだけ見えた。
「貴方は、いつ来ても忙しそうにしていますね」
「まあね。父さんも母さんも死んじゃったし、俺が頑張って働かないと、間苗も子どもも生きていけないからだよ」
「なるほど、生きて行く為に……」
人間は、生きる為に動いている。
生きている事が当たり前である妖怪には、とても想像の付かない事だった。
「何か、少し羨ましいですね」
「そうかな?」
「ええ。私達妖怪は、少しの糧が有ればずっと生きていられます。だから、
しかし貴方がたは、生きていくために動いている、自分のすべき事をしている。何故かは分かりませんが、それが凄く羨ましく思えるのです。
そんな、人間が見る世界を知りたいんです。」
文は、自分の考えを男に話す。
「だからかもしれませんね、私がこうして人間の所に来るのは」
男はそれを黙って聞いていたが、やがて人里の方を向いて、話し出す。
「なんか、似たような話を大分前にしたような気がするな」
「あれ、そうでしたっけ?」
「ああ。あれは確か……阿求様が亡くなられた時だから、もう十年近く前になるのか」
十年。
「もうそんなに経つんでしたっけ?」
「大体そのくらいだよ。俺がまだ間苗と結婚したばかりの頃だったから。ここで三人で一緒に里の白い旗を見てたんだよ」
男は身振り手振りを加えて、文に伝える。
「……そうでしたっけ」
十年という単位を聞いても、三人で見上げた弔旗の話を聞いても、文は思い出せなかった。
千年以上を過ごして来た文からそれば、ほんの些細な出来事でしかなかった。
「よく、十年も前の事なんて覚えてますね」
「新聞屋さんは、自分が子供の頃の事とか、覚えてないか?」
「ええと……あんまり記憶に無いですね。子供の頃からずっと同じ様な事をして過ごしてきましたし、あまり印象に残ることは有りませんから」
そんな昔の事なんて覚えていられない、それよりも今の現実を楽しみたい。
文は、その思いで新聞を書いている。
「なるほどね」
「最近は新聞のネタになるような事件も少なくて、少し退屈になってきたんです。家に居てもする事が無くて」
「だから、こうして人間の話を聞きに来た、という事かな」
「その通りです。また何か新しい発見が有れば、ネタに出来る事も増えますから」
羨ましいな。と、男は文にしか聞こえないような声で呟いた。
その理由を文が聞こうとする前に、男は種の入った袋を持って立ち上がる。
「それなら、人間の事を知る為に、人間の仕事を手伝ってみるのはどうかな」
「へぇ、天狗に人間の仕事を手伝えと言うのですね」
「もちろん無理にとは言わないよ。あくまで俺が頼む側で、新聞屋さんが拒否しても俺は構わない」
得意気に言う男に、文は怒る気もせず苦笑して、男に続いて立ち上がった。
「それじゃあ、試しに手伝ってみるのも面白そうですね。どうせ暇でしたし、何か面白い発見が有れば儲けものです」
「ありがとう。これが終わったら、うちでお昼ご飯でもどうかな?」
「せっかくなので頂きましょうか」
「良かった。子ども達にも新聞屋さんの事を紹介したかったしね」
「別に、友達という訳ではないんですけどね」
「お世話になってる妖怪だからさ」
そう言われて、文は少し喜びながら、男の畑仕事を手伝い始める。
やがて、男の家から炊煙が上がる頃、二人は少し泥に塗れたまま、間苗とその子ども達の待つ家へと入っていった。
「――ああ、いつの間にか随分長居してしまいましたね」
日も大分傾いた頃、男の家族と談笑していた文は、ふと窓の外を見て今の時間に気が付いた。
「おお、もうこんな時間か。俺もそろそろまた畑に出ないと」
男もそれに気が付いて、自分の分の湯呑からお茶を飲み干す。
「そうだ。新聞屋さん、新聞の契約そろそろ切れる頃だと思ったけど」
「あれ、そうでしたっけ?」
男に言われて、文は鞄から手帳を取り出し、パラパラと捲る。
手帳の始めの方で開かれたページに目を通して、文は思い出した。
「そうみたいですね。あと三部で契約終了でした」
「それじゃ、ついでに契約の更新でもしようか」
「ありがとうございます。それじゃ、用意しますね」
文が持ち歩いている取材用の鞄に、契約書等の一式はいつでも用意されている。
その中から一枚を剥ぎ取り、筆と一緒に男に手渡した。
「それじゃあ、いつも通り……っと」
男は一番下に丸を付けて、筆と一緒に文に返した。
文がそれを鞄にしまうと同時に、間苗がでこぼこに膨れた巾着を持ってきて、文に差し出す。
「これ、足りるかどうか確認してください」
文がその巾着の口を開くと、中には小銭が一杯に詰まっていた。
その中から必要分を取り出して鞄に移し、軽くなった巾着を間苗に返す。
「確かに受け取りました、ありがとうございます」
「それじゃあ、朝の続きに行かないとな」
「お父さん、僕も行くー」
「ぼくもー!」
「よし、じゃあ皆で続きをやるか」
おー! と子供達が威勢の良い声を上げて、父親に先んじて外へ飛び出して行った。
「っと、全く、まだ何をするか教えてないのにな、あいつら」
「元気が有って良いじゃないですか」
「まあ、それはそうなんだが……」
男と文は互いに苦笑いしつつ、子供たちの後に続いて外に出る。
「それでは、契約の更新ありがとうございます。今後とも文々。新聞をご贔屓に」
射命丸もまた、男に一礼して地を蹴り飛び立つ。
男はそれを手を振り見送ると子供たちを追って畑へと歩いて行った。、
射命丸文は新聞を書く。面白そうな事件を探し、資料や情報を纏め、それを記事にして新聞を発行する。
その歴史は、歯車の様に同じ道を辿っている。文の生活の過程で、新聞が生み出されている。
いつしか、新聞が出来ている事に、文は何の違和感も抱かない様になっていた。
ある時を境に、頻発していた異変はぱたりと止んでしまった。
それと時を同じくして、博麗の巫女も代替わりを迎えた。それまで巫女を務めていた博麗霊夢は、その余生を霊夢自身の思うがままに送るという。
まるで、博麗霊夢と共に異変が在ったのだという様に、二つの流れは同時に終わりを迎えていた。
「……」
一片の迷いも無く、文の筆は紙面を滑る。
今回の記事は、博麗霊夢の隠居と異変の因果の事を、文の考察を多少含ませて書いている。
積み上げてきた経験は意識的に活かす必要も無く、文が一息入れる頃には、記事はほとんど完成していた。
その事にも、文は疑問の一つも浮かばない。それが、当然であったからだ。
「あれ、もう朝だ……」
机に向かい筆を取ったとき、空はまだ夜の帳の内だったと、文は記憶から思い出す。
書いている、という現実が有るのに、その過程が記憶から抜け落ちている。
文の記憶にも無いというのに、書き綴った文面は見慣れた文自身の字だった。
数日後、刷り上った新聞紙を配達袋に入れて、文は人里へ向かった。
空から見下ろす人里では、この日も人間達が忙しなく動き回り、人間の生活を営んでいる。
それを何の気もなしに見下ろして、すぐに配達に戻った。
それから間もなく、配達は終わった。元々購読者の少ない新聞は、文の速さなら十五分も有れば配り終える事が出来る。
残る新聞紙の数を確かめて、最後に外れの畑の方へと飛んで行く。
普段は空から投げ込む程度だったが、あの家の住人はこの日で丁度契約数に達したので、再契約をする必要が有った。
「新聞屋さん、お早う御座います」
里外れの畑に着地すると、作業衣を着て畑に水を撒いていた二人の青年が、文に気付いて頭を下げた。
二人はこの畑の主の息子で、文はこの二人が乳飲み子だった頃から知っている兄弟である。
「お早う御座います。ここのご主人は居ますか?」
「ああ、父さんなら家の中で寝てるよ」
そう言って、青年の兄の方が、小さな家の方を指差す。
文はそれに従い、青年達に別れを告げて男の元へ向かった。
「ああ新聞屋さん、おはよう」
文が来た事を知らされて、男は寝間着姿のままで文を出迎えてきた。
軽い挨拶を終えて、男は文を招き入れようと奥へ向かおうとする。
「あっ」
その踏み出した右足が力無く曲がって、男の身体が支えを失った棒のように傾く。
文はバランスを崩した男に向かって手を伸ばすが、それよりも早く、男の右半身が強く床に叩き付けられた。
ぐぅっ、と苦し気に呻き声をあげて、男は身を捩る。
「大丈夫ですかっ!?」
ただ事でない男の様子に、文も慌てて男を助け起こす。
よろめきながら立ち上がった男は、申し訳なさそうに文の肩を借りて、おぼつかない足取りで奥の部屋へと歩く。
襖を開いて入った部屋は、二組の布団と膝くらいの高さの机に、明かりが置かれている。
他には、本の一冊もその部屋には無かった。
「……ありがとう新聞屋さん、もう大丈夫だ」
男は一礼して、文の肩から離れて布団に潜り込むと、やっと落ち着けたのか深く息を吐いた。
「いや、お見苦しい所を見せてしまって申し訳ない。わざわざ来てもらったのに」
「大丈夫です。それより、その足はどうしたんですか?」
文から見てもわかるほど明らかに、男は右足を庇って歩き、転んでいた。
そう指摘すると、男は少し恥ずかしそうに布団から右足を覗かせる。
「少し前に足を痛めてね、しばらく安静にしていなきゃいけないんだよ」
そう言い、男は枕に頭を乗せて、天井を見上げた。
その眼から一滴、涙が零れ落ちていた事に、文は気付く。
「何処か痛むんですか?」
「え?」
「泣いているみたいなので、まだ何処か痛い所でも有るのかと思いまして」
文にそう指摘されて、男は慌てて袖で涙をぬぐい取った。
しかし、未だ心配そうに見ている文に向かって、少し照れながら話し始めた。
「いや、嬉しかったんだよ」
「嬉しかった、んですか?」
「ああ。新聞屋さんも、外で子供達が働いてるのを見なかったかい?」
「はい、二人で一生懸命畑に水を撒いてましたね」
それを聞いて、改めて男の目に涙が浮かぶ。
「あいつらは俺の子供達なのは知ってるだろう」
「ええ」
「ちょっと前まで小さかったあいつらが、いつの間にか俺に代わって仕事をするようになったんだ。
親として、これほど嬉しい事は無いよ」
輝かんばかりの笑顔で、男は語った。
外からは、まだ若い兄弟が声を掛け合い励まし合い、畑を潤す声が聞こえて来る。
その一つ一つに耳を傾けて、男は改めて深く息をついた。
「……そういう事も有るのですね」
男がひとしきり語り終えたところで、文は訝しげに呟いた。
「――ああっ、すまない新聞屋さん。俺の事ばかり話して」
「いえ、それは構いません」
文には、男の話は分からなかった。
「よく、そんなに前の事を覚えていられるものですね」
文は、不思議そうに男に尋ねる。
「新聞屋さんは、子供の頃とか覚えている事は無いのかい?」
「はい。何しろ千何百年も前の事なので、流石に忘れてしまいました」
「ああそうか、新聞屋さんは妖怪だった。ついつい忘れてしまう」
これは失礼、と男は頭を下げる。
「構いませんよ。それに、私もそこまで記憶力が良い方ではありませんから」
「そうなのか……ところで、新聞屋さんは今日は何の用事なのかな?」
「ああ、忘れる所でした。今日は新聞の契約の更新に来たのです」
男に言われて文はようやく本来の用事を思い出し、早速証明してしまいました、と少し顔を赤らめた。
そしてすぐに鞄から紙と筆記用具を取り出して、男に手渡す。
その紙に男は迷わず最長の数を書き込み、記名して文に返した。
「これで契約の更新は終わりです。どうもありがとうございました」
文は契約書を大事に鞄にしまい込み、帰り支度を始める。
きょろきょろと何度か見回して、最期に鞄を確認し、一礼して立ち上がった。
「ありがとうね、新聞屋さん」
「今後とも、文々。新聞をご贔屓に」
男は床に就いたまま文を見送り、呻きながら身体を横たえる。
「そうそう、忘れてました。これ、今日の新聞です」
ひょこ、と文が男の部屋に戻ってきて、枕元に新聞を一部置き、すぐに出て行った。
それに気づいて、男は手を伸ばしてその新聞を手に取り、広げて読み始める。
じっくりと一文一文、男は丁寧に新聞を読み進めた。
外に出るなり、文はぐっと背伸びをして、畑を見回した。
そこでは先程の兄弟が、休憩中なのか近くの切り株に腰かけて談笑している。
何故か懐かしさを感じながら、文は思う。
今日の取材が終わったら、次代の博麗の巫女に挨拶して来よう。そして、博麗霊夢にも。
そう心に決めて、文は地を蹴り飛び立った。
窓から差し込む朝日に照らされて、文は目を覚ました。
机に突っ伏したまま眠っていたらしく、髪はくしゃくしゃに跳ねて、ブラウスには皺が寄り、。
頬に当たる紙の感触が、執筆の最中だと文に思い出させたるが、変に固まった身体に意識を削がれる。
あわよくばもう一眠りしてしまいそうなまどろみの中で、眠る前に書いていた記事の事を考えた。
かつての文々。新聞の一面を彩った博麗霊夢が、数日前に息を引き取った。
博麗の巫女として、霊夢は取り分け長命であったと、妖怪の賢者は語る。
後任の博麗の巫女はその勤めを霊夢と遜色無くこなしているが、博麗霊夢個人を悼む人妖は多かった。
勿論、文もその例外では無い。
初め、文は霊夢の死は記事にするべきではないとも考えていた。
しかし、これ程までに大きいネタを前に、他の天狗に先んじて真実を書くべきだと、文は思う。
その葛藤の末、文は書く事に決めた。
ただ書くだけではない、文の全身全霊を以って、真実を伝える為に、文は筆を走らせていた。
博麗神社で見た事、博麗霊夢という人物、人妖からの評価や影響、そして文自身の感情。
一字一句に込めて、新聞を書き進めていた。
書き始めてから日が経つにつれて、感情は色褪せて行く。
霊夢という個人への感情が薄れてしまえば、記憶に残るのは幾度も経験してきた、ただの人間との別れでしか無い。
閉じかけた瞼の裏に年老いた霊夢の姿を見て、文は目を見開いた。
この記事を書けるのは、今しか無い。
改めて心に決めて、文は筆を執った。
印刷された新聞の束を鞄に入れて、文は人里へと飛んだ。
あまり多くない購読者への配達は、ものの数分で済んでしまう。
最後に里の外れの小さな家へと向かった。
立地の関係からいつも最後に回していたが、この日は理由も有って、最後に回していた。
新聞と一緒に鞄にしまい込んだ契約書を確かめて、文は畑の傍へと降り立つ。
「こんにちは、新聞屋さん」
家に向かって歩き出す文を、切り株に腰かけていた初老の男が立ち上がり出迎える。
ふらり、ふらりと、足取りに力は無く、顔も生色が薄く、とても弱々しい姿。
男は杖を地に突き、文の元へとゆっくりと歩み寄った。
「こんにちは。新聞の配達に来ました」
「おおそうか、お疲れ様」
文が鞄から新聞を一部取り出して、男に渡す。
受け取った新聞を大事そうに持って、男は文の顔をしげしげと眺める。
老人とはいえ、他人にじっと顔を見られて、文は少しだけ警戒するように身構えた。
「……えっと、私が何かしましたか?」
「ん、ああすまない。新聞屋さんはいつまでも若いんだなって、少し考えてたんだよ」
これは失礼、と老人は丁寧に謝る。
人間から見れば、妖怪の寿命は途方も無く長い。
男は記憶に在る文の姿を思い出したのか、少し懐かしそうに微笑んでいた。
「当たり前ですよ、これでも私は妖怪なんですから」
「そうだなあ、きっと新聞屋さんは俺の想像よりずっと長生きしているんだろうよ」
男は震えた声で、そう零す。
そして、ふと手にしていた新聞の見出しを見て、目を見開いた。
「新聞屋さん、この記事は……」
「え? ああ……それは見ての通りです」
博麗霊夢の死をありありと書いた文章に、在りし日の博麗霊夢の写真。
一度目を通せばその姿を想像できてしまいそうなほどに丁寧な想いが、記事全体に込められている。
文は多くを語らず、男が夢中になって記事を読み耽っているのを、ただ見守っていた。
数分程経って、男は記事を読み終えたのか、新聞を畳み直して文を見る。
「新聞屋さんでも、大切な人が死ぬのは辛いのか?」
挨拶した時の半ば死人の様な姿は影を潜め、顔に色が戻る。
何が男をそうさせたのか、その変化に戸惑いながらも、文は心を整理して、言葉を返した。
「ええ、私でも辛い時は沢山有りました」
霧雨魔理沙、十六夜咲夜、東風谷早苗。
人間と同じ時間を歩んできた者達は既に鬼籍に入り、その最後の一人だった博麗霊夢も、ついに没した。
その度に、文はその死を悼み、それを記事にしようという心を自制し、押し留めてきた。
博麗霊夢だけを記事にしたのは、彼女の存在の大きさからだろう。
「ですが、私は千年以上を生きてきた妖怪です。その間に死に別れてきた人間も、沢山居ます。
その所為でしょうか、大切な人が亡くなっても、すぐにいつもの私に戻れるようになっていました」
本心から、文はそう答えた。
冗談と取られても構わないと文は考えていたが、男はじっと聞き入り、目に涙を湛えている。
「……どうかしました?」
ただならぬ男の様子に、文は思わず訊ねる。
「――いや、すまない。ちょっと思い出してしまってね」
男は目じりを袖で拭い、畑の方を見渡した。
作物は無く、伸び放題の雑草が土を埋め尽くさんばかりに広がる、畑だったもの。
配達の時には気にも留めていなかったが、改めて地上で見ると、酷い様相だった。
「すっかり荒れてしまってますね」
「ああ……もう手入れする人が居なくなってしまってな」
男は不便そうに杖を使い、屈んで畑の土を一握り掴み、ぱらぱらと零した。
畑の土だったものは、作物を育てる為の栄養を失い、ただの土に近付き始めている。
「息子たちも里の方に働きに出てしまったし、俺ももう足腰がいかれてる。
若い時のツケが回ってきたんだろうな、もう杖が無いと碌に歩けない」
そう言って男は脚に触って、畑を眺める。
文の目には、畑と共に枯れ果てようとしている老人が見えていた。
「そういえば、間苗さんは何処に居るのでしょうか? 家の方にも姿が見当たりませんが」
重苦しい雰囲気に耐え兼ねて、文が訊ねる。
男は一度嘆息し、
「死んだよ」
弱々しく、文に答えた。
「そう……だったのですか」
「二年前の今頃だったな、間苗が逝ったのは。 そうか、あれからもうそんなに経つのか」
そう呟く男の顔に、寂しさが灯る。
しかし、先程の様な涙は無かった。
「息子達も嫁を貰って自立して、俺の足も駄目になって、これからやっと間苗に楽させてあげられると思ってたんだがなあ。
結局あいつには、苦労を掛けっ放しだった。 働きずくめで、碌に構ってやれなかった。
でも間苗は凄く満足そうに、最後の最後まで笑ってた。 ……本当に、俺なんかには勿体ない奴だったんだ」
男は、しみじみと話す。
文はその話を、茶々も入れずにじっと聞き入っている。
かつての博麗霊夢を、霧雨魔理沙を、その小さく弱々しい背中に重ねて。
「新聞屋さん」
唐突に、男は文の方に向き直る。
「この四十五年間、ずっと変わらない新聞屋さんの姿を見ていると、何だか昔の事ばかり思い出すんだよ。
俺はすっかり年を取ったが、新聞屋さんは昔のままだ。
新聞屋さんから見て、俺は変わったのかな」
そう聞かれて、文は戸惑った。
居なくなってしまった人達の事、過ぎた年月、人が変わらないなどという事は、有り得ない。
ただ、何となくそう答えるのは間違っている気がして、文は考える。
「……いえ、見た目こそ変わりましたが、新聞の購読者である事には違いません。
貴方は貴方です」
文の答えを聞いて、男は嬉しそうに笑った。
「そうか、それなら良かった。ありがとう」
男は、文に感謝している。
何が『ありがとう』なのか、文には分からなかった。
「――ああ、すまない新聞屋さん。また俺の事ばかり話し込んでしまった」
男は急に、文に頭を下げて謝る。
「……また?」
「今日は確か契約の更新だったね、ちょっと待っててくれ」
「あ、ちょっと――」
文の呟きも聞かず、男は杖を突いて家に向かってふらふらと歩いて行く。
「何が『また』なのでしょうか」
容量を得ないまま、男が古い巾着を持ってくるまで、文は考え込んでいた。
「それじゃあまた、いつも通りで」
男は契約書の一番下に記入して、巾着と一緒に文に手渡す。
その中身を確かめて鞄にしまい、軽くなった巾着を男に返した。
「これで契約は完了です、ありがとうございました」
契約書を鞄にしまった所で、ふと文が気付く。
「あれ、今日が契約の更新日だって、話しましたっけ?」
文の記憶には、今日の会話の中でこの事については触れた覚えは無かった。
「俺が覚えてたんだよ、丁度今日で契約が切れるはずだったから、新聞屋さんを待ってたんだ」
肝心のお金を忘れてたけど、と苦笑して、男は嬉しそうに話す。
長い間、新聞の発行数を覚えていたという事に文は驚いていたが、そこまで心待ちにされている事を嬉しく思った。
「それじゃあ、次の契約の更新まで頑張って生きないとな。お金を払った分、新聞を貰わなきゃ勿体無い」
「そうですね、私としても新聞を読んで頂ければ嬉しいです」
この先数年数十年、男が生き続けて文々。新聞を読んでいられるか、それは誰にも分からない。
ただ、愛読者が一人、居なくなってしまうかもしれない事を考えて、文は少し寂しい気持ちがした。
「楽しみにしているよ」
「ありがとうございます。それでは、今後とも文々。新聞をご贔屓に」
「ああ、ご贔屓にさせてもらうよ」
最後に軽いやり取りを終えて、文は地を蹴り飛び立った。
男は再び杖を突いて、小さな家へと戻っていく。
その後ろ姿は、文が来た時よりいくらか軽やかだった。
幻想郷は、何も変わらない。
しかし、輝かしいまでの魅力に溢れていた幻想郷は、文の中で終わりを告げた。
博麗の巫女も、紅魔館のメイドも、守矢の風祝も、代を経て変わっていった。
その周りの妖怪や神様も、人が変わるにつれてその在り方を変えて行く。
文は、変わらない幻想郷の中で変わっていく人間達を見ている。
それに流されて変わっていく文自身の姿に、ほんの少しだけ、寂しくなった。
穏やかな春の朝、文は里の外れの小さな家の前に居た。
人の立ち入らない畑は荒れ果てて、手入れされていない道には雑草が生えっ放しだった。
それでも、小さな家は有った。
この小さな家には、一人の男が住んでいる。
今はもう足を悪くしてほとんど動けない、すっかり年を取った男だ。
文は、新聞の購読者である男に、伝える事が有る。
契約更新の用紙と新聞を鞄に入れて、文は小さな家の扉を叩く。
「すみません、文々。新聞の射命丸です」
返事は無い。
しかし、大分前に家の戸に挟んでおいた新聞が無くなっている以上、まだ人が住んでいるのは間違い無い。
失礼を承知で、文は家の中に上がり込む。
そして奥の部屋に入ると、年を取った男が布団に入って、本を読んでいた。
「ああ……新聞屋さんか。すまないね、出られなくて」
男は読んでいた本を閉じて、体を起こして文に向き直ろうとする。
しかし、男に起き上がる体力が無いと見て、文はそれを止めた。
「そのままで結構です。 お身体の方はどうでしょうか」
「何とかこうして生き永らえているよ、気遣ってくれてありがとう」
くしゃくしゃな顔を喜色に溢れさせ、男は言葉を返す。
殆ど寝たきりの生活なのだろうか、布団の周りに本や新聞紙が散らばっている。
「それで、今日は契約の更新に来たのかい?」
「えっ、どうしてそれを……?」
「新聞屋さんがここまで来るという事は、きっとそうなんじゃないかと思ってね。
新聞は俺の世話をしてくれる人が持ってきてくれるけれど、こうして直接来るという事は、そういう事なんだろう?」
その通りです、と文は答えて、鞄から新聞と契約書を取り出し、男に手渡した。
それを見て、男は少し涙ぐむ。
「すまないが、もうこれ以上は無理なんだよ。
取りたくてもお金が無いし、俺もこんなだ。次まで生きていられる自信は無い」
そう言って男は新聞だけを受け取り、広げて読み始める。
しばらくの間、じっと読み耽っていたが、
「……そうか、丁度良かったのか」
そう小さく呟いて、新聞を閉じた。
「ありがとう。ただ、これで最後だと思うと、少し寂しいものが有るね」
「最後だなんて、そんな事」
「いや、良いんだよ。むしろ今まで生きて新聞を読めた事が嬉しいくらいだ」
「そうですね、貴方はとても――」
男の言葉に、文は思う所が有った。
文にとって初めて、長年、文々。新聞を購読してくれた上客である。
「失礼ですが、一つ質問しても良いでしょうか」
「ああ、構わないよ」
男が新聞を取り始めて何年何十年、もうどれ程の時が経ったのか、文も覚えていない。
初めてだからこそ、どうしても気になった。
「貴方はどうして、私の新聞を取ってくれたのですか?」
文は新聞記者として、真剣に訊ねる。
どんな事情が有ったのか、男はしばらく考え込んで、
「……少し長くて、つまらない話になるだろうけど、それでも良いか」
男は、重く、何処か懐かしげに、そう呟く。
文はそれに頷いて答え、誰を悪し様に言っても構わないという事、今日の配達は全て終えている事を付け足した。
「ありがとう。それじゃ、何から話そうか……」
文の返事を聞いて安心し、男は右手を顎に当てて、考え込む。
たっぷり数十秒掛けて、一つ一つゆっくりと、男は理由を話し始めた。
「俺の家は新聞屋さんも知っての通り、長年農家を営んでいる。表の畑は全部俺の家で育てていてな、数代前はそれなりに裕福だった。
だが、俺のじいさんが死んでから、事情が変わった」
「病気でも流行ったのですか?」
「いや、仕事自体はそれなりに続ける事は出来た。ただ、働き手が居なかったんだ。
大きな家だったけど、小作人を雇えるほどではない。それに――ッ!」
男は急に激しく咳き込む。
何事かと気遣う文を制止して、男は話を続ける。
「――大丈夫だよ、ありがとう。
それに……俺には兄弟が居なかったんだ。どんな事情が有ったのかは知らないが、俺は一人っ子だった。
だから、俺が子供の頃にじいさんが死んでからは、俺も仕事に出なくちゃならなくなった。確か、十歳の頃だったかな」
「……まだ子供の時ですね」
「人間でもまだ寺子屋に通うような年だ、もちろん俺は嫌だった。
でも、生きて行く為には仕方なかった。そう何度も聞かされて、渋々親父の手伝いをしてたんだ。
毎日毎日、年の近い友達とも遊べずにね」
話を聞きながら、文はその子供の境遇を自分に重ねて思い浮かべた。
筆を執る事も出来ず、延々と見回りや警備や事務作業をし続けるだけの毎日に放り込まれた遊びたい盛りの子供の姿。
ありありと映し出される嫌な光景を、心の中で振り払った。
「それがしばらく続いた時、仕事の途中で休憩がてら、寝転がって空を見上げてたんだ。
碌に通えなかった寺子屋も卒業して、働いては飯を食べて寝るだけの毎日の中で、その時間が一番好きだった。
その時に、新聞屋さんが飛んでるのを見かけたのさ」
「私を、ですか?」
「そう。多分取材中だったんだろうが、とても楽しそうだと思ったよ。
世界を飛び回って、自分のやりたい事を好きなだけやって……たった一人でも、自由に生きていけるだけの力を持っている。
それに比べて、こうして自分を苦しめてまでしないと生きていけない人間なんて、何も面白い事なんて無い。
……早い話が、妖怪の生き方に憧れていたんだ」
話が進むにつれて、男の口調が少しずつ明るくなっていく。
昔の話をしている内に男は、少し若返ったかのように生き生きと話を続けた。
「だから俺は、妖怪の住む世界の事を知りたいと思った。
寺子屋の慧音先生や稗田家の資料、他にも妖怪の事なら時間の許す限り何でも調べた。
そして、文々。新聞の事を知ったんだよ」
「私の新聞をですか?」
「妖怪が発行する、人間でも購読出来る新聞と知って、俺はいてもたっても居られなくなった。
すぐに購読する方法を調べて、新聞屋さんに声を掛けたんだ。
もっとも、その時はあんなにお金がかかるなんて事、すっかり忘れてたんだけどね」
「……そうでしたっけ?」
「そう。そして読んでみて、俺の中で更に世界が広くなったのを感じていた。
今まで経験した事の無い不思議な出来事が、人間には出来ない力で当たり前の様に起きている。
そんな世界を、新聞を通して俺は知る事が出来たのさ」
「魔法や妖力、呪術といったものは、幻想郷中に有りますからね」
「だけどそれは、普通の人間にはなかなか出来ない事なんだよ。
だから俺は文々。新聞を読んで、仕事の合間にその世界を想像した。
人間から魔法使いになったという話も聞いたけど、俺にそんな時間も知識も無かった。
親や間苗、子供たちを食べさせていかなきゃいけないし、何より俺自身が生きて行く為に、働かなければいけなかったんだ。
働く事に意義を見つけてからも、妖怪への憧れは変わらなかったけどね」
男は、枕元の古びた巾着を手に取って、文に見える様に持ち上げる。
あちこちが継ぎ接ぎされているそれに、文は微かに見覚えが有った。
いつからか、契約の更新の時にお金を入れていた、あの袋だ。
「間苗の形見だよ」
その巾着を大事そうに眺めて、男は続ける。
「間苗は、俺の妖怪への考え方を知って尚、俺に付いて来てくれた。
それどころか、一緒になって新聞を読んで、妖怪の話に花を咲かせてくれたんだ。
間苗と知り合ってからは、働く事が辛くなくなった。子供が出来てからは、ずっと働いて守ってやろうと思った。
……それでも、妖怪への憧れは忘れられなかったよ」
間苗、すまなかった。と男は小さく呟き、目を閉じる。
薄らと涙を浮かべる男の姿を、文は眺めていた。
「子供達が自立して、間苗が先に逝って、俺がまた一人になった頃には、もう何をするにも遅かった。
俺の足は駄目になった、耳は遠くなった、眼は悪くなったし、力も衰えた。
もう、俺には何もできなかったんだ」
「それでも……いや、だから私の新聞を?」
「ああ、それが十五年前の――前回の契約更新の時だ。
働く意味を見失った俺にとって、文々。新聞を読んで妖怪の生活を想像する事は、一番の楽しみになっていた。
……これが、俺が今まで文々。新聞を取り続けて来た理由だよ」
男は話し終えると、再び激しく咳き込む。
少しの間息を整えて、男は再び布団に背を預けた。
「すまないね、新聞屋さん。退屈な話で」
「いいえ、とても興味深いお話でした。わざわざありがとうございます」
話し終えて、男は長く息を吐く。
疲れて眠るかの様に目を閉じた男の顔は、とても老け込んで見えた。
「……新聞屋さん、代わりと言っちゃ何だが、俺からも一つ頼み事を聞いてはもらえないか」
急激に細く、弱々しくなった声で、男は訊ねた。
なんでしょう、と聞き返す文を見て、男はすぐに付け足して話す。
「ああ、そんな大層な事じゃない。
死ぬ前に一度だけで良いから、妖怪の世界を見たいんだ。 俺を、連れて行って欲しい」
妖怪の世界。と言われて、文は困惑する。
「それは……私達の住む所を見たいという事でしょうか?」
「いや、もっと単純な事で良い。 ……そうだな」
男は、少しの間考え込んで、
「俺は空を見るのが好きだったんだ。見上げれば妖怪が飛んでいる、この空が好きだ。
だから……空に連れて行ってくれないか。 子供みたいな話だが、俺は一度で良いから、空を飛んでみたかったんだ」
普通の人間と普通ではない存在の、最も分かり易く確かな違い。
地上から空を見上げる事しか出来ない人間にとっては、空こそが正しく『妖怪の世界』だった。
その真剣な面持ちを前にして、文は迷う事無く答えた。
「――分かりました。 長年のご愛読への感謝の気持ちも込めて、貴方を空へとお連れします」
男に倣い、真剣に深く頷く文を見て、男は笑顔を零した。
心から嬉しそうに、男は笑っていた。
文は男の手を取って、肩に回して立ち上がらせ、そのまま男の身体を背に負う。
男の体躯は大きかったが、四肢に生気は無く、見た目よりずっと軽かった。
その状態から更に文は二人の身体を帯で巻き、離れない様に固定する。
少し窮屈な姿だが、これで男を空に連れて行く準備は整った。
「さて、これから空を飛びますが、しっかりと目を開けて、私の身体を離さないようにしてくださいね」
「ああ、分かった」
男を背負った文が軽く床を蹴ると、二人の身体がふわりと宙に浮かぶ。
自分の力の及ばない所で、地に足を着く感覚から離れて、男は目を丸くした。
「行きますよっ」
掛け声と共に二人の周りに風が巻き起こり、風の吹く先に狙いを定めて、窓を抜けて飛び出して行った。
一瞬にして畑を横切り、里を掠めて森へと向かい、古道具屋を通り過ぎ、魔法の森の上空で速度を緩める。
力の無い人間の男を背負って尚、鴉天狗の速度は風の様に速い。
文が背中を確認してみると、遥か彼方に消えた小さな家の方を向いて、男は呆気に取られていた。
「えっと……大丈夫でしたか?」
年を取った人間が、突然鴉天狗の速度に振り回される。
普通なら気を失っていても、仕方のない事だだろう。 しかし男は、
「……俺の事は気にしないで良い。 だから、もっと飛んでくれ」
声を弾ませながら、そう文に伝えた。
背中越しにでも、男が空を飛んでいるという事に喜び、興奮しているのがはっきりと分かった。
その喜び様に文も嬉しくなり、可能な限り速度を出しながら、幻想郷の空を駆け巡って行く。
――――博麗神社。
――――紅魔館。
――――妖怪の山。
――――守矢神社。
――――太陽の畑。
――――無明の丘。
――――三途の河。
――――人間の里。
――――命蓮寺。
二人は、風の様に幻想郷を疾走する。
風を切り、流れる地面に人間を見て、すれ違う妖怪達を背にしながら、空を吹き渡って行く。
男はその間一言も発せず、パノラマの様に広がる景色をじっと眺め続けていた。
やがて空は茜色に染まり行き、日が傾き始める。
夜になってしまえば、幻想郷の空は姿を変えてしまう。 それは、人間にとってあまりにも危険だった。
その前にと、文は男への最後の贈り物へと、狙いを定める。
「ちょっとだけ目を閉じていてください。――次で、最後の場所です!」
その言葉と同時に、文は風向きを変えて、星の浮かぶ空へと急上昇し始めた。
瞬く間に遠ざかって行く地面に、ここまで景色を目に焼き付けていた男も、思わず目を閉じる。
それに構わず文は急速に高度を上げ続ける。 春の空気が、次第に冷たく変わっていく。
やがて、文は少しずつ速度を緩めて止まり、背中に声を掛けた。
「さあ、目を開けてみてください」
男は、目を開ける。
「ようこそ、私達の世界へ」
そこは、見渡す限り、妖怪の世界だった。
下を見れば、遥か大地に模型の様な人里が、苔の様な森が、翠色の糸の様な川が。
上を見れば、手を伸ばせば届きそうな雲が、より一層輝く星が、壮麗たる幽冥結界が。
遠く見渡せば、弾幕決闘に興じる妖怪達が、美しく飛び交う弾幕が、不尽の煙を上げる山が。
目に映る全ての光景が夕焼けに染まり、人間の手には到底届かない世界を、妖怪の住む世界を映して。
男の前に、姿を現していた。
「ああ……、ああ……!」
男は、声を放って泣いた。
人の身で知る妖怪の世界に、男は何を思ったのだろう。
ただただ、目に涙を浮かべて、妖怪の世界を目に焼き付けていた。
「……ありがとう、新聞屋さん」
既に空は群青色に染まり、空は本当の妖怪の世界の様相を表してきている。
文は男を家まで送り届けて、男の身体を布団に寝かせていた。
その間、男はずっと泣き続けていた。
「お安いご用です。これも文々。新聞のご愛読者へのサービスですので」
男が心から喜んでくれたことに満足して、文も嬉しそうにそう言った。
「そうか……それじゃ、サービスついでにもう一つ頼もうか、新聞屋さん……いや、鴉天狗さん」
男が言い直したことに、文は眉をひそめる。
お互いに喜色に満ちていた顔は鳴りを潜め、人間と妖怪の空気が流れだす。
そんな重い空間の中で、男は細く、はっきりと文に伝えた。
「俺を、殺してくれないか」
男の言葉が、静かに部屋に響き渡る。 今度は、文の方が驚いていた。
この男は、人間の儚い命を自ら絶って欲しいと、文に頼んだのだ。
「……正気ですか?」
思わず、文は男の気を伺った。
ただでさえ落としやすい人間の命、その大切さは人間が一番分かっているはずだと、文は思っていた。
「ああ、俺は本気だ。 今ここで、俺を殺して欲しい」
男の目を見て、文はそれが真実であると確信した。
それと同時に、知りたかった。
「……殺して欲しい、その理由は何でしょうか?」
人間の、その行動の意味を、その意思を。
男は返事をしようとして激しく咳き込み、それが落ち着いた所で、ゆっくりと話し始めた。
「俺は、随分前から病気だった。 もう竹林のお医者様でも直せないくらい、手遅れな所までやられているらしい。
今をこうして生きていられる事だって、奇跡に近い。 今ここで死ねなくとも、俺にこの先は無いんだ」
ゴホ、ゴホ、と咳き込む音が部屋を微かに揺らす。
男はまた息を整えて、話を続けて行く。
「……俺は今、幸せだ。 間苗と出会って、子供が出来て、看取る事が出来て、見送る事が出来て。
そして最後に、新聞屋さんのおかげで、妖怪の世界を知る事が出来た。 ……俺はもう、十分に生きたんだ」
一言、一言に涙を挟み、心を吐露し、文に向けて話し続ける。
悲壮とも取れる死を臨んでの言葉は、妖怪にはどう聞こえていただろうか。
「もう、間苗は逝った。 もう、子供達も一人前になった。 もう、新聞を取る事も、無くなった。
すまないね、新聞屋さん。 俺の愚痴を、聞いてくれて、ありがとう」
「……ええ、私が聞き届けます。 だから大丈夫です、安心してください」
「そうか……これで俺も、八十まで、生きてきた意味が、有った。
間苗にも、子供達にも、こんな事は話せなかった……」
男は、その生涯を愛する人への献身に捧げ、僅かな夢を静かに抱いて、生き抜いて来た。
今にも散りそうな儚い命には、計り知れない価値が有る。
「お疲れ様でした。 貴方の善行は、閻魔様も見ていますよ」
「おお……まるで、閻魔様の、知り合いみたいな、口ぶりだ」
「ええ、閻魔様とは知り合いですから」
「ははは……そうか」
笑い合って、男が激しく咳き込む。 その間隔が、短くなって行く。
「さあ、俺を、殺してくれ」
男は、酷く細い声で文に願う。
それを聞いて、文は静かに言い放った。
「大丈夫です。 貴方はもう、死にます」
水溜りの様に血を吐き、呼吸を止めた男に、そう言った。
「そうか、それは良かった」
男は、ふっと微笑んで、そのまま生を終えた。
深夜の人里で、文は人を探していた。
先程その命を全うした男の息子達に、父親の死を伝える為に。
その噂は深夜ながらも里を伝わり、やがて文の前に二人の男が一緒に歩いてきた。
その顔には微かに見覚えが有った。 この二人が、息子達だ。
文は、念入りに前置きをして、父親の死を二人に伝えた。
妖怪である文は遺体に手を出していない事、死後真っ先に二人に伝えに来た事。
そして涙を流す二人を見て、文は踵を返す。
文がするべき事は、これで全て終わっていた。
「あっ、新聞屋さん」
兄の方に声を掛けられて、文は飛び立とうとした足を引っ込めて、もう一度向き直る。
その兄の手はいつの間にか折りたたまれた紙を持っており、それを文の方に差し出す。
「これを、受け取ってもらえませんか?」
「何でしょうか、これは?」
「分かりません。 ただ、父に『俺が死んだらこれを新聞屋さんに渡して欲しい』と預かったものです」
自分が看取った人間から届いた、一通の手紙。
それを渡した兄は、弟と一緒に父親の遺体を埋葬する為に、里の外れの小さな家へと歩いて行った。
兄弟を見送り、文は受け取った手紙を開いて読み始める。
『机の真ん中の引き出しの一番奥の物を、新聞屋さんに返す』
少し乱暴な字で、そう綴られていた。
「……?」
返す、という言葉に文は疑問を浮かべる。
何かを返して貰うようなことは文の記憶に無く、何かを預けた記憶も無い。
いまいち要領を得ないまま、文は息子達の後に続いて、歩き出した。
小さな家は、廃墟の様に静かだった。
たった一人、動けない老人が居なくなっただけで、まるで何年も無人であったかの様に、そこに在った。
文が戸に向かったのと入れ違いに、父親の遺体を背負った兄と、その隣で弟が、里へと戻って行く。
すれ違う瞬間、兄が背負った父親に向かって、いつの間にこんなに小さくなったんだなぁ、と、ありがとう、と話しかけていた。
そして文は、つい先程まで男と話していた部屋に戻って来た。
敷かれていた布団は空っぽになり、それ以外には小さな机と、本や新聞紙がいくらか置かれているだけの、寂しい部屋。
文は男の手紙通り、机の引き出しをいくつか空けて、『それ』を見つけた
「……?」
文が手に取ったのは、古びた大きなノートの様な物だった。
中に何かが挟まっているらしく、大分膨らんでいる。 手に持つのも大変で、捲るのも一手間な程だ。
机と一緒になっていた座椅子を引き出して座り、ノートを優しく机に置いて、破れない様慎重に開く。
月明かりの下、捲ったノートには、一枚の紙が挟んであった。
「これは……」
その紙には、長々と細かい文字が並び、その横には大きく写真が添えられている。
大きく載せられていた写真を見て、文は気付いた。
「私の新聞……?」
ノートの右上隅に、『文々。新聞』という文字と日付の入った切抜きが、丁寧に貼られている。
その下には、一年ほど前に書いた新聞記事が、ノートに収まる様に並べられ、これも丁寧に貼り付けてあった。
文がノートをもう一枚捲る。 そこには、二年前の記事と、写真が有った。
見覚えも、書き覚えも有る文面がずらりと並び、一緒に並んだ写真を撮った時の事が、鮮明に映し出される。
「……」
文の記憶の中に、記事を書いた時の感情が浮かんで行く。
良いネタが見付からず、悪戦苦闘して書いた記事。 大きなニュースを見付けて、喜び勇んで書いた記事。
感情と共に書き込まれた内容、取材相手と交わした言葉、至高の一瞬を切り取った写真、そして新聞として完成した時の喜び。
その全てが、文の中で思い出として蘇る。
楽しいニュース、悲しいニュース、痛快なニュース、辛いニュース。
内容は様々だが、それは全て文自身が見聞きした本当の出来事であり、書かれた言葉は、文の感情そのものだ。
一枚一枚、読み進めて行くに連れて、文の記憶は時間を遡って行く。
やがて、博麗霊夢の死を書き綴った記事を見つけた。
その数枚先には、博麗霊夢が笑顔でカメラに向かって手を振っている写真が有った。
それはまるで、博麗霊夢が生き返ったかのように、文の中で博麗霊夢との記憶が浮かんで来る。
一枚、また一枚と捲ると、一年、また一年と、時が戻って行く。
その度に、文は一つ、一つと思い出を通り過ぎて行く。 妖怪だからこそ忘れてしまうものを、次々と取り戻して行く。
死んだ人間は生き返り、大人は子供へと戻り、幻想郷は昔の姿を文に向けて映し出す。
文は、時間を忘れてノートを読み耽った。
そして最後の一枚を捲る。
そこには、古びた新聞紙が貼られていて、幻想郷を包む花の異変の様子が、写真と共に書かれていた。
日付は――――
「六十年前の……今日」
文は窓の外を見る。 既に日は昇り始めていた。
立ち上がって外へ向かう。いてもたっても居られなかった。
この六十年の記憶は、たった今取り戻した。
その記憶に突き動かされて、文は戸を開けて、飛び出した。
幻想郷が、開花していた。
そこかしこに花が咲き乱れ、浮かれた妖精が舞い踊り、妖怪や人間があちこち飛び回っている。
四季の花が乱雑に咲いており、花の妖精は見知らぬ花の妖精との出会いに喜び、華を咲かせていく。
広がり行く幻想の風景の中で、文は立ち尽くしていた。
六十年前と同じ世界を、異変を、六十年前の記憶を持って、迎えていた。
あの森の中に、白黒の魔法使いが見える。
あの花畑の向こうに、紅魔館のメイド長が見える。
あの竹林の先に、紅白の巫女が見える。
今と昔が混在した世界の中で、文は全てを思い出していた。
「…………ああ」
懐かしい。
千年を生きる射命丸文は、その生涯で初めて、その感情を理解出来た。
この感情こそが、人間達が見ていた世界だ。
『――おぅーい、新聞屋さーん!』
不意に声が聞こえた気がして、文は驚き振り返る。
振り返ったその先に、人の姿は無かった。 しかし、文は思い出していた。
その声の聞こえた日から、この小さな家への配達が始まった。
その声が無ければ、こうして人間の世界の中で、涙を滲ませる事も無かっただろう。
文は目を閉じて、瞼の裏に若い頃の男の姿を思い描き、
「……ありがとうございます。 今後とも、文々。新聞をご贔屓に」
そっと囁いて、花開く幻想郷の空へと飛び立つ。
傍らに咲いていた花が一輪、風に吹かれて嬉しそうに揺られていた。
そこかしこに花が咲き乱れ、浮かれた妖精が舞い踊り、妖怪や人間があちこち飛び回っている。
四季の花が乱雑に咲いており、花の妖精は見知らぬ花の妖精との出会いに喜び、華を咲かせていく。
その中で、人里の外れの空を白黒の鴉天狗が一人、手帳を片手に飛び回っていた。
あちこち見渡して物珍しい幻想郷の姿を写真に収めつつ、何かを手帳に書き留めている。
そうして飛び回るうち、広い畑の上に出た所で、
――おぅーい、新聞屋さーん!
気の抜けるような声が空まで届いてきた。
新聞屋と言えば鴉天狗であるが、今この空に鴉天狗は一人しか居ない。
「えーと……私、かなぁ?」
鴉天狗は確認も兼ねて辺りを見回して、声の聞こえた気がする方に、風を向けた。
ネタは鮮度が命、情報は早さと独占が命。風が吹いた次の瞬間には、鴉天狗は地上に降り立っていた。
「ああ、やっと気付いてくれた」
鴉天狗を呼び止めていたのは、人間の男だった。
年の頃は二十くらいか。筋骨隆々としていて立ち居振る舞いも堂々としているが、顔は何処か幼さを感じられる。
古ぼけてあちこちにつぎはぎが目立つ紺色の衣を着て、頭には白いタオルを巻き、右手に小さな袋を携えていた。
「私を呼んだのは貴方でしょうか?」
念の為と確認してみると、男はおうよと威勢の良い返事を返した。
そして今度は、男の方が一枚の紙を片手に問い質す。
「えぇっと、文々。新聞の射命丸文さん?」
「あ、はい、私が射命丸です」
初対面の相手に名前を言い当てられて、射命丸文は目を見開く。
しかし、その男が持っていた紙を見て、納得した。男が手にしていたのは、文々。新聞のバックナンバーだった。
話している最中にも男は、手にした新聞と文の顔をチラチラ見比べて確認していた。
「良かった、間違ってたらと思うとヒヤヒヤしたよ」
「その為にそれを持って来ていたんじゃないですか」
「あ、ああ、そうそう」
男は慌てて、新聞を袋に仕舞いこんだ。少しくしゃくしゃになった紙面には、笑顔の文と取材相手らしき白玉楼の庭師の写真が大きく載せられていた。
そして男は、その袋から更に小さくゴツゴツした巾着袋を取り出して、ずいと文に差し出して、言う。
「その文々。新聞、購読出来ないか?」
チャリ、と巾着が鳴る。きっと中には、お金が詰まっているのだろう。
突然の申し出を受けて、文は少し呆然としていた。過去にそんな事を言ってきた人間なんて、文の記憶に有る限り、数えるほども居なかった。
「……あ、だ、大丈夫ですよ。ありがとうございます」
男が不安げに手を下ろそうとした所でようやく文は気を取り戻し、いつもの営業に戻った。
「それでは、購読は何回分にしますか?」
文々。新聞の購読は発行回数で指定され、一部から百部や千部など、客の要望に応えるシステムである。
途中で購読を止める事は出来ないが、発行回数はきっちりと守る、それが文の新聞の売りの一つだ。
経験上、個人では一年分――およそ五十部も取って貰えれば、文の新聞としては上々の方だった。
「この中の金で、買えるだけ」
しかし、男はきっぱりと、大胆にそう言った。流石の文も、これには驚きを隠し切れず、えっと驚きの声を上げる。
そして文は巾着を受け取り、口を開いて中身を手の平に移して、その金額を計算し始めた。
文の期待は、すぐに落胆へと変わる。文の手に山と積まれた金は小銭が殆どで、数えてみれば見た目よりもずっと少ない金額だった。
だが客は客である。文はそんな素振りを欠片も見せずに、営業を続けた。
「ええと……この金額なら、六部になります。これはお釣りですね」
余分な金を巾着に戻して、男の手に戻す。今度は、男の方ががっかりと肩を落とした。
「ああ……やっぱりそのくらいしか無かったか」
男の方でも、この答えは予想外の少なさだったらしい。
項垂れたままの男を眺めつつ、文は考える。これほどまでに文々。新聞を買って貰えるのなら、これを逃す手は無かった。
サービス精神は、新聞屋の基本である。
「そうですね……それではこうしましょう。貴方の希望の部数をお届けします、お金は用意でき次第支払っていただければ、それで構いませんよ」
文の提案は、男を元気付けるのには十分過ぎたらしく。
「ほ、本当か!?」
「はい、決して間違いは起こさないと誓います」
男は飛び上がらんばかりに喜び、文の手を強く握り締めて何度も頭を下げた。
そして男は希望の部数を文に伝えて、届け先である男の家へと案内し始める。
「ここだ」
男が指した家は、お世辞にも立派な家とは言えないものだった。
かやぶき屋根の小さな建物といくつかの広い畑が有るだけの、何の飾りも無い家。
文はその家の形や周囲の風景を眺めて、男の家の場所を記憶に留める。
「分かりました、これからはこの家に届けに来ますね。それでは、ご購読の印に一部どうぞ」
そう言って文は肩から下げていた鞄から新聞を一部取り出して、男に手渡した。
購読記念です。と付け足されて、男は喜んで新聞を広げる。
「……どうですか?」
おずおずと、文が感想を求める。
記事の内容は、今の幻想郷の姿をありありと書き出した、何の変哲も無い新聞記事だった。
珍しくもなく、事実かどうかさえ怪しい記事が並んでいる。
「ありがとう」
男は一通り目を通すと、ただそれだけ言い、新聞から目を離した。
「それにしても、一体何なんだろうなぁ、これは。前に俺の爺さんが話してくれたのに似てる気がするけど、よく分からない」
「私もよく分からないのです、なので新聞として出すだけでも苦労しました」
二人は、花だらけの幻想郷の姿を改めて見回す。
「おかげで畑は栄養が足りなくなるし、かといって花を抜こうとすると変な妖怪に目を付けられるしで、大変だよ」
「変な妖怪?」
「白い日傘を差して、あちこち飛び回ってる妖怪なんだけど、花に手を出そうとすると不気味な笑顔で睨んで来るんだ」
「花を抜こうとすると睨まれる……花を守ろうとしている妖怪……うん、面白そうな情報ですね」
文は手帳を取り出して何かしらを書き綴り、男に向かって一礼する。
「情報提供、感謝します。お礼といっては何ですが、新聞代に少しおまけしておきますよ」
やがて男は、『幻想郷の花、未だ見頃が続く』という見出しで始まる新聞紙を丁寧に畳んで袋に仕舞いこむ。
「さて、そろそろ仕事に戻らなくちゃな。それじゃ」
「それではまた。 これからも文々。新聞をよろしくお願いします」
片手を上げて文に別れを告げると、男は畑の方へと歩いて行く。
文もまた、男に別れを告げて踵を返し、鼻歌交じりの上機嫌で新聞配達の続きへと戻って行った。
ぼくっ、ぼくっ、と土を穿つ音がする。
広い畑にただ一人、規則的な音を立てて一人の青年が、鍬を振るって耕している。
山の木々の緑は薄く、既に肌寒い季節だというのに、男は袖を捲くり上げて、時折汗をぬぐってさえ居た。
いくらかの範囲を耕し終えると、青年は鍬を投げ捨て、今掘り返した土に肥料を施して、再び鍬を振るう。
「こんにちは、文々。新聞の射命丸文です」
その最中、一陣の突風と共に、鴉天狗が青年の元へ降り立った。
青年は鍬を杖にして振り向き、挨拶を返す。
「良かった、今日は居たんですね」
「ああ。今日は新しい種を蒔く日だから、しっかりと準備してやらないと育つものも育たないしな」
「私も今日は貴方に用事が有ったので、丁度良かったです」
そう言って文は、いつもの鞄から新聞を一部と、小さな紙を一枚取り出して、一緒に青年の方に差し出した。
「今日の分の新聞と、契約書です。今日の分で貴方の契約は終わりですから、その集金も一緒に」
「……あっ、そういえば金足りてなかったんだっけ」
「そうですよ。少しサービスしたとはいえ、まだまだ足りません」
青年は不安気に、明後日の方向に目をやっている。
契約書には、左に払い損ねていた分の金額、右に再契約分の金額が部数別に書かれている。
青年の目は、主に左側に向いていた。
「……少し待ってくれ、確認してくるから」
そう残して、青年は鍬を放り出して家へと走り去って行った。
一人残った文は、手にしていた契約書の文面へと目を落として、嘆息する。
「あんなので、よくこんなに長い間取る気になったわね」
この時、青年が文の新聞を取り始めてから、五年の月日が経っていた。
数分の後、青年は顔に喜色を浮かべて戻って来た。
手に中身の詰まった巾着を持って、小走りに文の所にやって来る。
「有った有った。これで足りると思う」
文は半信半疑で巾着を受け取り、中身を手の平にあける。
しかし今回の中身は以前より大分質が良くなっていて、ここまでの分を差し引いても大分お釣りが残っていた。
「ひいふうみい……はい、確かに御代は頂きました」
余剰分を青年の手に返し、一緒に再契約もどうですか、と伝えてみる。
その金額自体は初回よりいくらか安い。再契約者へのお礼といったところだろうか。
「なら、また頼むよ。ちょっと金数えるから待っててくれ」
間を置かずに、青年はそう返した。
文は驚いていた。
大体の人は、一度の契約期間が終わればそこまでである。再契約の書類を見せたのも、半ば事務的なものだった。
そもそも購読者そのものが少ない文々。新聞である、文の驚きと喜びはかなりのものだ。
「……よし、もう一度。これくらいなら生活にも困らない」
冗談のつもりで書いていた、契約書の一番下の所に印を付けて、青年はその分のお金を文に渡す。
最も長期間で、最も高いお金を纏めて支払ってなお、男の手には大分お金が残っていた。
「あ、ありがとうございます……」
半ば呆気に取られつつ、文は金を受け取る。数えてみると、丁度再契約に足りる金額になっていた。
それを袋に仕舞っている間に、青年は新聞に目を向ける。
「新しい新聞屋さんが出て来たのか、ちょっと興味有るなぁ」
この日の新聞には、文と同じ新聞記者である姫海棠はたての事が書かれていた。
新聞同士張り合う事が多いのか、記事の節々にはたての新聞を低く評価しているのが見える。
「あまりオススメできませんよ。文章には自信が有るみたいですが、肝心の速度が足りていませんから」
それに気付いて、文が口を挟む。
「いつか一度は読んでみたいものだけれど」
別の記者の事を話しつつも、目ではしっかり文の記事を読み進めている。
それに何となく安心感を覚えて、文はそれ以上の事を言わなかった。
青年は新聞から目を離して、
「そういえば新聞屋さん、配達は良いのかい?」
そう言われて、文はようやく自分の今日の務めを思い出した。再契約の衝撃におされて、ついつい忘れてしまっていた。
文は契約書の件についてもう一度だけ確認を取り、配達に戻る仕度を整える。
「それでは、購読有難う御座いました。今後とも文々。新聞をご贔屓に」
「ああ、楽しみにしているよ」
そうして、文は風を呼び、地を蹴って飛び立っていった。
青年はあっという間に小さくなるその姿をしばらく見送っていたが、やがて小さく手を振って、
「さて、続きだ」
放ったままの鍬を持ち直して、畑へと戻っていった。
ぼくっ、ぼくっ、と鍬が土を穿つ音が鳴る。気が付けば、日は大分傾いていた。
幻想郷が、静寂に包まれていた。
普段なら活気溢れる人里にも音は無く、ただ人々が粛々と日常を過ごしているだけである。
それは紅魔館も、博麗神社も、果ては妖怪の山までもが、重苦しい雰囲気に包まれているようだった。
その中でも、人里一番の屋敷には、白い弔旗が掲げられ、家事の音すら憚られるようであった。
射命丸文は、人里の上を飛んでいた。
携えて来た新聞を配るべく、購読者の所を駆け巡っていく。文もまた例に漏れず、いつもの暢気さが影を潜めていた。
一通り配り終えて、最後に畑の家へと飛び、着地する。
「今日は居るかなぁ?」
家の中の様子を覗いてみると、中には年老いた夫婦が、まだ日も高いのに布団の上に横になって眠っていた。
それ以外に人が居る気配は無い。畑の方を見回してみても、人の子一人見当たらない。
仕方なく郵便受けに新聞を入れて、近くの岩に腰掛けて、客の帰りを待った。
「――ああ、新聞屋さん」
しばらくして、男が帰って来た。
紺色の作業衣に白いタオル、肩から提げた小さな袋は歩く度に上下左右に揺れ、チャリチャリと音を鳴らす。
その後ろには女が一人、男に付いて来ている。
「こんにちは。今日の分の配達と、契約の更新に伺いました」
「よし、それじゃあまた同じ分だけ。これで足りるかな?」
男は文の差し出そうとした契約書を見る前に、伸ばした右手にあちこち膨れ上がった巾着をぶら下げていた。
文はそれを受け取って中身をあける。当然の様に、必要分に足りるお金が積まれる。
「んー、確かに頂きました。毎度ありがとうございます」
お金を配達袋にしまい、一礼する文。顔を上げて、文は男の後ろにもう一人居る事にやっと気が付いた。
「そちらの方は?」
くるんと逆立った黒髪を風に揺らして、女の澄んだ茶の瞳が文の顔を見る。
文と眼が合った女はふっと微笑んで、頭を下げた。
「間苗です、よろしくお願いします」
そう名乗り、身体を一歩男に寄せた。途端に空気が少し暖かくなった様に、文は感じた。
「あれ、もしかしてお二人は……」
直感のままに二人の事を訊ねてみると、少し照れたように、その通りですと男が答える。
間苗もまた、少し頬を染めているあたり、その通りなのだろう。
「それはおめでとうございます。最近畑に居ないと思ったら、こういう事だったのですね」
「そういう事かな。まあ、こんな日にそう祝われてもあまり喜べないけれど」
「その気持ちは……少し分かりますね」
三人は揃って、人里の空を向く。
晴天に翻る白い弔旗は、少し離れたこの畑からもよく見えていた。
この年、稗田阿求が早世した。
幻想郷縁起を人妖に広め、人と妖怪との共存に最期まで尽力し、今代の役目を終えたという。
文の届けた新聞も勿論、阿求の記事で埋まっている。当事者や里の守護者へのインタビュー、その後の稗田の屋敷の様子、そして、御阿礼神事は続く、と締め括られている。
その字句に嘘偽りは無く、言葉で景色を表す様に真っ直ぐな表現をもって、書き綴られている。
「御阿礼の子の死は、私達妖怪にも少なからず影響を残して行きました。
間違い無く、幻想郷の妖怪に多大な影響を与えた人です」
文はそう言い、間苗の分にともう一部の新聞を渡した。
「先代の阿礼の子の時もこんな感じだったのかな?」
男が、そう文に聞いた。
「…………」
文は押し黙って、手帳に目を落とす。
そして手帳の初めから終わりまでをパラパラと捲り、顔を上げて、
「……すみません、覚えていません」
そうとだけ、返す。
「あれ? 新聞屋さんは妖怪なんだから、先代の御阿礼の子の時も見ていたんじゃないのか?」
「そうですね。私ももう千年は生きてきています。ですが、覚えている事は殆ど有りません。
長命な妖怪にとって、忘れるというのは大事な事なのです。色々な事をいちいち覚えていたら、頭が一杯になってしまいますしね」
良い事も嫌な事もすぐに忘れること。それが自分を保つ為の秘訣なのだという。
「それじゃあ、新聞の契約数はどうやって覚えているんだ?」
「ちゃんと一人一人契約数と配布数をメモして、一部配る毎に記録しているんですよ。これだけは、絶対に忘れてはいけない事ですから」
袋から小さな手帳を覗かせる文。いつも手に持っているネタ帳とは違う、仕事専用の手帳なのだろう。
「……でも、覚えてないっていうのは何か勿体無いね」
「ほら、人は良い事を忘れて、嫌な事を覚えるって言うじゃないですか。何千年も嫌な事を覚えたままだなんて嫌でしょう?」
「なるほど、分かり易い」
男が頷いていると、文は里の方に顔を向けて静かに目を閉じ、軽く黙祷を捧げ始める。
「だから、御阿礼の子はとても記憶力が良いのでしょうね」
あまりにも短過ぎるから。
口にこそ出していないが、文の言葉はそう続いているようだった。
「それでは、再契約ありがとうございました」
「あ、あの」
文が頭を下げようとした所で、間苗が呼び止める。
手に持っていた新聞紙をどうして良いか分からず、もてあましていた。
「これ、私も貰って良いんですか?」
「ええ、良いですよ。ご愛読してくれている方へのサービスです」
「ですが……」
「良いですよ。足りなくなるくらい人気の有る新聞でもないですし」
苦笑しながら文が説明すると、間苗は頭を深く下げて、新聞紙を大事そうに畳んで片手に持った。
「――っと、つい話し込んでしまいました。私は配達の途中ですので、この辺りで失礼します。
それでは、今後とも文々。新聞をご贔屓に」
そう言い残して飛び立った文を、二人はずっと見送っていた。
妖怪の山の一角。
人は元より、山の妖怪ですら滅多に訪れない様な僻地に、小さな家が在った。
中は狭い上に物が散乱しており、冬という気候も相俟って非常に寒く、とても人が住める環境ではない。一見して、廃屋にも感じられる様な小屋だった。
ただ、一組の机と椅子、そしてその椅子に座って書き物をしている少女の姿が、ここがまだ使われているという事を現している。
既に空は暗く、小さな窓一つしかない室内はとても暗い。
そんな中で、微かな火の灯りを頼りに、文は新聞記事を書き綴っていた。
「……ここの所、大したニュースが無いなぁ」
いまだ白い面の多い紙に向かって、小さく溜息を吐く。
面白い事件しか記事にしない彼女にとって、ここ数年は大きな異変も無く、新聞の発行回数も減ってきている。
新聞が発行出来ないという事自体は、文にとって問題ではなかった。
「何だか味気ない」
ただ、新聞記事を書く回数が減ってきており、その分何もする事の無い時間が増えてきていた。
博麗神社も、魔法の森も、人間の里も、以前に比べて大分落ち着いており、小規模な騒動はたまに有るものの、新聞のネタになりそうな事件は滅多に無かった。
いつでも新聞記事の為に動いていた文にとっては、ただ退屈な時間が増えていくだけだった。
明くる日、文は何の気も無しに、文花帖を片手に人里へと向かった。
空から見下ろす人里は今日も盛況で、人間達はそれぞれが自分の仕事に励んでいる。
それを何となく羨ましく思いつつ、面白いネタが無いかと辺りを見回す。
「……あっ」
ふと、外れの方に目を向けていると、畑に種を蒔いている人の姿が見えた。
遠くからでもよく分かる、見慣れた作業服の男。いつも文々。新聞を愛読している、長い付き合いの読者。
軽い気持ちで、文はその男の元へと飛んで行った。
「お早う御座います、今日も頑張ってますね」
文が男の傍に着地すると、男も種を蒔く手を止めて文に挨拶を返した。
いつもの配達袋が無い事に男が気付くと、文は首を軽く振って、目的を伝える。
「あっ、今日は配達ではないんです。ただちょっとお話を聞きたくて」
「それくらいなら、大丈夫だよ」
文の申し出を男は了承し、種の入った袋を持って近くの切り株に腰掛ける。
その隣に、文が座る。正面に見える小さな家の窓からは、少し年を取った間苗が小さな子どもの世話をしているのが少しだけ見えた。
「貴方は、いつ来ても忙しそうにしていますね」
「まあね。父さんも母さんも死んじゃったし、俺が頑張って働かないと、間苗も子どもも生きていけないからだよ」
「なるほど、生きて行く為に……」
人間は、生きる為に動いている。
生きている事が当たり前である妖怪には、とても想像の付かない事だった。
「何か、少し羨ましいですね」
「そうかな?」
「ええ。私達妖怪は、少しの糧が有ればずっと生きていられます。だから、
しかし貴方がたは、生きていくために動いている、自分のすべき事をしている。何故かは分かりませんが、それが凄く羨ましく思えるのです。
そんな、人間が見る世界を知りたいんです。」
文は、自分の考えを男に話す。
「だからかもしれませんね、私がこうして人間の所に来るのは」
男はそれを黙って聞いていたが、やがて人里の方を向いて、話し出す。
「なんか、似たような話を大分前にしたような気がするな」
「あれ、そうでしたっけ?」
「ああ。あれは確か……阿求様が亡くなられた時だから、もう十年近く前になるのか」
十年。
「もうそんなに経つんでしたっけ?」
「大体そのくらいだよ。俺がまだ間苗と結婚したばかりの頃だったから。ここで三人で一緒に里の白い旗を見てたんだよ」
男は身振り手振りを加えて、文に伝える。
「……そうでしたっけ」
十年という単位を聞いても、三人で見上げた弔旗の話を聞いても、文は思い出せなかった。
千年以上を過ごして来た文からそれば、ほんの些細な出来事でしかなかった。
「よく、十年も前の事なんて覚えてますね」
「新聞屋さんは、自分が子供の頃の事とか、覚えてないか?」
「ええと……あんまり記憶に無いですね。子供の頃からずっと同じ様な事をして過ごしてきましたし、あまり印象に残ることは有りませんから」
そんな昔の事なんて覚えていられない、それよりも今の現実を楽しみたい。
文は、その思いで新聞を書いている。
「なるほどね」
「最近は新聞のネタになるような事件も少なくて、少し退屈になってきたんです。家に居てもする事が無くて」
「だから、こうして人間の話を聞きに来た、という事かな」
「その通りです。また何か新しい発見が有れば、ネタに出来る事も増えますから」
羨ましいな。と、男は文にしか聞こえないような声で呟いた。
その理由を文が聞こうとする前に、男は種の入った袋を持って立ち上がる。
「それなら、人間の事を知る為に、人間の仕事を手伝ってみるのはどうかな」
「へぇ、天狗に人間の仕事を手伝えと言うのですね」
「もちろん無理にとは言わないよ。あくまで俺が頼む側で、新聞屋さんが拒否しても俺は構わない」
得意気に言う男に、文は怒る気もせず苦笑して、男に続いて立ち上がった。
「それじゃあ、試しに手伝ってみるのも面白そうですね。どうせ暇でしたし、何か面白い発見が有れば儲けものです」
「ありがとう。これが終わったら、うちでお昼ご飯でもどうかな?」
「せっかくなので頂きましょうか」
「良かった。子ども達にも新聞屋さんの事を紹介したかったしね」
「別に、友達という訳ではないんですけどね」
「お世話になってる妖怪だからさ」
そう言われて、文は少し喜びながら、男の畑仕事を手伝い始める。
やがて、男の家から炊煙が上がる頃、二人は少し泥に塗れたまま、間苗とその子ども達の待つ家へと入っていった。
「――ああ、いつの間にか随分長居してしまいましたね」
日も大分傾いた頃、男の家族と談笑していた文は、ふと窓の外を見て今の時間に気が付いた。
「おお、もうこんな時間か。俺もそろそろまた畑に出ないと」
男もそれに気が付いて、自分の分の湯呑からお茶を飲み干す。
「そうだ。新聞屋さん、新聞の契約そろそろ切れる頃だと思ったけど」
「あれ、そうでしたっけ?」
男に言われて、文は鞄から手帳を取り出し、パラパラと捲る。
手帳の始めの方で開かれたページに目を通して、文は思い出した。
「そうみたいですね。あと三部で契約終了でした」
「それじゃ、ついでに契約の更新でもしようか」
「ありがとうございます。それじゃ、用意しますね」
文が持ち歩いている取材用の鞄に、契約書等の一式はいつでも用意されている。
その中から一枚を剥ぎ取り、筆と一緒に男に手渡した。
「それじゃあ、いつも通り……っと」
男は一番下に丸を付けて、筆と一緒に文に返した。
文がそれを鞄にしまうと同時に、間苗がでこぼこに膨れた巾着を持ってきて、文に差し出す。
「これ、足りるかどうか確認してください」
文がその巾着の口を開くと、中には小銭が一杯に詰まっていた。
その中から必要分を取り出して鞄に移し、軽くなった巾着を間苗に返す。
「確かに受け取りました、ありがとうございます」
「それじゃあ、朝の続きに行かないとな」
「お父さん、僕も行くー」
「ぼくもー!」
「よし、じゃあ皆で続きをやるか」
おー! と子供達が威勢の良い声を上げて、父親に先んじて外へ飛び出して行った。
「っと、全く、まだ何をするか教えてないのにな、あいつら」
「元気が有って良いじゃないですか」
「まあ、それはそうなんだが……」
男と文は互いに苦笑いしつつ、子供たちの後に続いて外に出る。
「それでは、契約の更新ありがとうございます。今後とも文々。新聞をご贔屓に」
射命丸もまた、男に一礼して地を蹴り飛び立つ。
男はそれを手を振り見送ると子供たちを追って畑へと歩いて行った。、
射命丸文は新聞を書く。面白そうな事件を探し、資料や情報を纏め、それを記事にして新聞を発行する。
その歴史は、歯車の様に同じ道を辿っている。文の生活の過程で、新聞が生み出されている。
いつしか、新聞が出来ている事に、文は何の違和感も抱かない様になっていた。
ある時を境に、頻発していた異変はぱたりと止んでしまった。
それと時を同じくして、博麗の巫女も代替わりを迎えた。それまで巫女を務めていた博麗霊夢は、その余生を霊夢自身の思うがままに送るという。
まるで、博麗霊夢と共に異変が在ったのだという様に、二つの流れは同時に終わりを迎えていた。
「……」
一片の迷いも無く、文の筆は紙面を滑る。
今回の記事は、博麗霊夢の隠居と異変の因果の事を、文の考察を多少含ませて書いている。
積み上げてきた経験は意識的に活かす必要も無く、文が一息入れる頃には、記事はほとんど完成していた。
その事にも、文は疑問の一つも浮かばない。それが、当然であったからだ。
「あれ、もう朝だ……」
机に向かい筆を取ったとき、空はまだ夜の帳の内だったと、文は記憶から思い出す。
書いている、という現実が有るのに、その過程が記憶から抜け落ちている。
文の記憶にも無いというのに、書き綴った文面は見慣れた文自身の字だった。
数日後、刷り上った新聞紙を配達袋に入れて、文は人里へ向かった。
空から見下ろす人里では、この日も人間達が忙しなく動き回り、人間の生活を営んでいる。
それを何の気もなしに見下ろして、すぐに配達に戻った。
それから間もなく、配達は終わった。元々購読者の少ない新聞は、文の速さなら十五分も有れば配り終える事が出来る。
残る新聞紙の数を確かめて、最後に外れの畑の方へと飛んで行く。
普段は空から投げ込む程度だったが、あの家の住人はこの日で丁度契約数に達したので、再契約をする必要が有った。
「新聞屋さん、お早う御座います」
里外れの畑に着地すると、作業衣を着て畑に水を撒いていた二人の青年が、文に気付いて頭を下げた。
二人はこの畑の主の息子で、文はこの二人が乳飲み子だった頃から知っている兄弟である。
「お早う御座います。ここのご主人は居ますか?」
「ああ、父さんなら家の中で寝てるよ」
そう言って、青年の兄の方が、小さな家の方を指差す。
文はそれに従い、青年達に別れを告げて男の元へ向かった。
「ああ新聞屋さん、おはよう」
文が来た事を知らされて、男は寝間着姿のままで文を出迎えてきた。
軽い挨拶を終えて、男は文を招き入れようと奥へ向かおうとする。
「あっ」
その踏み出した右足が力無く曲がって、男の身体が支えを失った棒のように傾く。
文はバランスを崩した男に向かって手を伸ばすが、それよりも早く、男の右半身が強く床に叩き付けられた。
ぐぅっ、と苦し気に呻き声をあげて、男は身を捩る。
「大丈夫ですかっ!?」
ただ事でない男の様子に、文も慌てて男を助け起こす。
よろめきながら立ち上がった男は、申し訳なさそうに文の肩を借りて、おぼつかない足取りで奥の部屋へと歩く。
襖を開いて入った部屋は、二組の布団と膝くらいの高さの机に、明かりが置かれている。
他には、本の一冊もその部屋には無かった。
「……ありがとう新聞屋さん、もう大丈夫だ」
男は一礼して、文の肩から離れて布団に潜り込むと、やっと落ち着けたのか深く息を吐いた。
「いや、お見苦しい所を見せてしまって申し訳ない。わざわざ来てもらったのに」
「大丈夫です。それより、その足はどうしたんですか?」
文から見てもわかるほど明らかに、男は右足を庇って歩き、転んでいた。
そう指摘すると、男は少し恥ずかしそうに布団から右足を覗かせる。
「少し前に足を痛めてね、しばらく安静にしていなきゃいけないんだよ」
そう言い、男は枕に頭を乗せて、天井を見上げた。
その眼から一滴、涙が零れ落ちていた事に、文は気付く。
「何処か痛むんですか?」
「え?」
「泣いているみたいなので、まだ何処か痛い所でも有るのかと思いまして」
文にそう指摘されて、男は慌てて袖で涙をぬぐい取った。
しかし、未だ心配そうに見ている文に向かって、少し照れながら話し始めた。
「いや、嬉しかったんだよ」
「嬉しかった、んですか?」
「ああ。新聞屋さんも、外で子供達が働いてるのを見なかったかい?」
「はい、二人で一生懸命畑に水を撒いてましたね」
それを聞いて、改めて男の目に涙が浮かぶ。
「あいつらは俺の子供達なのは知ってるだろう」
「ええ」
「ちょっと前まで小さかったあいつらが、いつの間にか俺に代わって仕事をするようになったんだ。
親として、これほど嬉しい事は無いよ」
輝かんばかりの笑顔で、男は語った。
外からは、まだ若い兄弟が声を掛け合い励まし合い、畑を潤す声が聞こえて来る。
その一つ一つに耳を傾けて、男は改めて深く息をついた。
「……そういう事も有るのですね」
男がひとしきり語り終えたところで、文は訝しげに呟いた。
「――ああっ、すまない新聞屋さん。俺の事ばかり話して」
「いえ、それは構いません」
文には、男の話は分からなかった。
「よく、そんなに前の事を覚えていられるものですね」
文は、不思議そうに男に尋ねる。
「新聞屋さんは、子供の頃とか覚えている事は無いのかい?」
「はい。何しろ千何百年も前の事なので、流石に忘れてしまいました」
「ああそうか、新聞屋さんは妖怪だった。ついつい忘れてしまう」
これは失礼、と男は頭を下げる。
「構いませんよ。それに、私もそこまで記憶力が良い方ではありませんから」
「そうなのか……ところで、新聞屋さんは今日は何の用事なのかな?」
「ああ、忘れる所でした。今日は新聞の契約の更新に来たのです」
男に言われて文はようやく本来の用事を思い出し、早速証明してしまいました、と少し顔を赤らめた。
そしてすぐに鞄から紙と筆記用具を取り出して、男に手渡す。
その紙に男は迷わず最長の数を書き込み、記名して文に返した。
「これで契約の更新は終わりです。どうもありがとうございました」
文は契約書を大事に鞄にしまい込み、帰り支度を始める。
きょろきょろと何度か見回して、最期に鞄を確認し、一礼して立ち上がった。
「ありがとうね、新聞屋さん」
「今後とも、文々。新聞をご贔屓に」
男は床に就いたまま文を見送り、呻きながら身体を横たえる。
「そうそう、忘れてました。これ、今日の新聞です」
ひょこ、と文が男の部屋に戻ってきて、枕元に新聞を一部置き、すぐに出て行った。
それに気づいて、男は手を伸ばしてその新聞を手に取り、広げて読み始める。
じっくりと一文一文、男は丁寧に新聞を読み進めた。
外に出るなり、文はぐっと背伸びをして、畑を見回した。
そこでは先程の兄弟が、休憩中なのか近くの切り株に腰かけて談笑している。
何故か懐かしさを感じながら、文は思う。
今日の取材が終わったら、次代の博麗の巫女に挨拶して来よう。そして、博麗霊夢にも。
そう心に決めて、文は地を蹴り飛び立った。
窓から差し込む朝日に照らされて、文は目を覚ました。
机に突っ伏したまま眠っていたらしく、髪はくしゃくしゃに跳ねて、ブラウスには皺が寄り、。
頬に当たる紙の感触が、執筆の最中だと文に思い出させたるが、変に固まった身体に意識を削がれる。
あわよくばもう一眠りしてしまいそうなまどろみの中で、眠る前に書いていた記事の事を考えた。
かつての文々。新聞の一面を彩った博麗霊夢が、数日前に息を引き取った。
博麗の巫女として、霊夢は取り分け長命であったと、妖怪の賢者は語る。
後任の博麗の巫女はその勤めを霊夢と遜色無くこなしているが、博麗霊夢個人を悼む人妖は多かった。
勿論、文もその例外では無い。
初め、文は霊夢の死は記事にするべきではないとも考えていた。
しかし、これ程までに大きいネタを前に、他の天狗に先んじて真実を書くべきだと、文は思う。
その葛藤の末、文は書く事に決めた。
ただ書くだけではない、文の全身全霊を以って、真実を伝える為に、文は筆を走らせていた。
博麗神社で見た事、博麗霊夢という人物、人妖からの評価や影響、そして文自身の感情。
一字一句に込めて、新聞を書き進めていた。
書き始めてから日が経つにつれて、感情は色褪せて行く。
霊夢という個人への感情が薄れてしまえば、記憶に残るのは幾度も経験してきた、ただの人間との別れでしか無い。
閉じかけた瞼の裏に年老いた霊夢の姿を見て、文は目を見開いた。
この記事を書けるのは、今しか無い。
改めて心に決めて、文は筆を執った。
印刷された新聞の束を鞄に入れて、文は人里へと飛んだ。
あまり多くない購読者への配達は、ものの数分で済んでしまう。
最後に里の外れの小さな家へと向かった。
立地の関係からいつも最後に回していたが、この日は理由も有って、最後に回していた。
新聞と一緒に鞄にしまい込んだ契約書を確かめて、文は畑の傍へと降り立つ。
「こんにちは、新聞屋さん」
家に向かって歩き出す文を、切り株に腰かけていた初老の男が立ち上がり出迎える。
ふらり、ふらりと、足取りに力は無く、顔も生色が薄く、とても弱々しい姿。
男は杖を地に突き、文の元へとゆっくりと歩み寄った。
「こんにちは。新聞の配達に来ました」
「おおそうか、お疲れ様」
文が鞄から新聞を一部取り出して、男に渡す。
受け取った新聞を大事そうに持って、男は文の顔をしげしげと眺める。
老人とはいえ、他人にじっと顔を見られて、文は少しだけ警戒するように身構えた。
「……えっと、私が何かしましたか?」
「ん、ああすまない。新聞屋さんはいつまでも若いんだなって、少し考えてたんだよ」
これは失礼、と老人は丁寧に謝る。
人間から見れば、妖怪の寿命は途方も無く長い。
男は記憶に在る文の姿を思い出したのか、少し懐かしそうに微笑んでいた。
「当たり前ですよ、これでも私は妖怪なんですから」
「そうだなあ、きっと新聞屋さんは俺の想像よりずっと長生きしているんだろうよ」
男は震えた声で、そう零す。
そして、ふと手にしていた新聞の見出しを見て、目を見開いた。
「新聞屋さん、この記事は……」
「え? ああ……それは見ての通りです」
博麗霊夢の死をありありと書いた文章に、在りし日の博麗霊夢の写真。
一度目を通せばその姿を想像できてしまいそうなほどに丁寧な想いが、記事全体に込められている。
文は多くを語らず、男が夢中になって記事を読み耽っているのを、ただ見守っていた。
数分程経って、男は記事を読み終えたのか、新聞を畳み直して文を見る。
「新聞屋さんでも、大切な人が死ぬのは辛いのか?」
挨拶した時の半ば死人の様な姿は影を潜め、顔に色が戻る。
何が男をそうさせたのか、その変化に戸惑いながらも、文は心を整理して、言葉を返した。
「ええ、私でも辛い時は沢山有りました」
霧雨魔理沙、十六夜咲夜、東風谷早苗。
人間と同じ時間を歩んできた者達は既に鬼籍に入り、その最後の一人だった博麗霊夢も、ついに没した。
その度に、文はその死を悼み、それを記事にしようという心を自制し、押し留めてきた。
博麗霊夢だけを記事にしたのは、彼女の存在の大きさからだろう。
「ですが、私は千年以上を生きてきた妖怪です。その間に死に別れてきた人間も、沢山居ます。
その所為でしょうか、大切な人が亡くなっても、すぐにいつもの私に戻れるようになっていました」
本心から、文はそう答えた。
冗談と取られても構わないと文は考えていたが、男はじっと聞き入り、目に涙を湛えている。
「……どうかしました?」
ただならぬ男の様子に、文は思わず訊ねる。
「――いや、すまない。ちょっと思い出してしまってね」
男は目じりを袖で拭い、畑の方を見渡した。
作物は無く、伸び放題の雑草が土を埋め尽くさんばかりに広がる、畑だったもの。
配達の時には気にも留めていなかったが、改めて地上で見ると、酷い様相だった。
「すっかり荒れてしまってますね」
「ああ……もう手入れする人が居なくなってしまってな」
男は不便そうに杖を使い、屈んで畑の土を一握り掴み、ぱらぱらと零した。
畑の土だったものは、作物を育てる為の栄養を失い、ただの土に近付き始めている。
「息子たちも里の方に働きに出てしまったし、俺ももう足腰がいかれてる。
若い時のツケが回ってきたんだろうな、もう杖が無いと碌に歩けない」
そう言って男は脚に触って、畑を眺める。
文の目には、畑と共に枯れ果てようとしている老人が見えていた。
「そういえば、間苗さんは何処に居るのでしょうか? 家の方にも姿が見当たりませんが」
重苦しい雰囲気に耐え兼ねて、文が訊ねる。
男は一度嘆息し、
「死んだよ」
弱々しく、文に答えた。
「そう……だったのですか」
「二年前の今頃だったな、間苗が逝ったのは。 そうか、あれからもうそんなに経つのか」
そう呟く男の顔に、寂しさが灯る。
しかし、先程の様な涙は無かった。
「息子達も嫁を貰って自立して、俺の足も駄目になって、これからやっと間苗に楽させてあげられると思ってたんだがなあ。
結局あいつには、苦労を掛けっ放しだった。 働きずくめで、碌に構ってやれなかった。
でも間苗は凄く満足そうに、最後の最後まで笑ってた。 ……本当に、俺なんかには勿体ない奴だったんだ」
男は、しみじみと話す。
文はその話を、茶々も入れずにじっと聞き入っている。
かつての博麗霊夢を、霧雨魔理沙を、その小さく弱々しい背中に重ねて。
「新聞屋さん」
唐突に、男は文の方に向き直る。
「この四十五年間、ずっと変わらない新聞屋さんの姿を見ていると、何だか昔の事ばかり思い出すんだよ。
俺はすっかり年を取ったが、新聞屋さんは昔のままだ。
新聞屋さんから見て、俺は変わったのかな」
そう聞かれて、文は戸惑った。
居なくなってしまった人達の事、過ぎた年月、人が変わらないなどという事は、有り得ない。
ただ、何となくそう答えるのは間違っている気がして、文は考える。
「……いえ、見た目こそ変わりましたが、新聞の購読者である事には違いません。
貴方は貴方です」
文の答えを聞いて、男は嬉しそうに笑った。
「そうか、それなら良かった。ありがとう」
男は、文に感謝している。
何が『ありがとう』なのか、文には分からなかった。
「――ああ、すまない新聞屋さん。また俺の事ばかり話し込んでしまった」
男は急に、文に頭を下げて謝る。
「……また?」
「今日は確か契約の更新だったね、ちょっと待っててくれ」
「あ、ちょっと――」
文の呟きも聞かず、男は杖を突いて家に向かってふらふらと歩いて行く。
「何が『また』なのでしょうか」
容量を得ないまま、男が古い巾着を持ってくるまで、文は考え込んでいた。
「それじゃあまた、いつも通りで」
男は契約書の一番下に記入して、巾着と一緒に文に手渡す。
その中身を確かめて鞄にしまい、軽くなった巾着を男に返した。
「これで契約は完了です、ありがとうございました」
契約書を鞄にしまった所で、ふと文が気付く。
「あれ、今日が契約の更新日だって、話しましたっけ?」
文の記憶には、今日の会話の中でこの事については触れた覚えは無かった。
「俺が覚えてたんだよ、丁度今日で契約が切れるはずだったから、新聞屋さんを待ってたんだ」
肝心のお金を忘れてたけど、と苦笑して、男は嬉しそうに話す。
長い間、新聞の発行数を覚えていたという事に文は驚いていたが、そこまで心待ちにされている事を嬉しく思った。
「それじゃあ、次の契約の更新まで頑張って生きないとな。お金を払った分、新聞を貰わなきゃ勿体無い」
「そうですね、私としても新聞を読んで頂ければ嬉しいです」
この先数年数十年、男が生き続けて文々。新聞を読んでいられるか、それは誰にも分からない。
ただ、愛読者が一人、居なくなってしまうかもしれない事を考えて、文は少し寂しい気持ちがした。
「楽しみにしているよ」
「ありがとうございます。それでは、今後とも文々。新聞をご贔屓に」
「ああ、ご贔屓にさせてもらうよ」
最後に軽いやり取りを終えて、文は地を蹴り飛び立った。
男は再び杖を突いて、小さな家へと戻っていく。
その後ろ姿は、文が来た時よりいくらか軽やかだった。
幻想郷は、何も変わらない。
しかし、輝かしいまでの魅力に溢れていた幻想郷は、文の中で終わりを告げた。
博麗の巫女も、紅魔館のメイドも、守矢の風祝も、代を経て変わっていった。
その周りの妖怪や神様も、人が変わるにつれてその在り方を変えて行く。
文は、変わらない幻想郷の中で変わっていく人間達を見ている。
それに流されて変わっていく文自身の姿に、ほんの少しだけ、寂しくなった。
穏やかな春の朝、文は里の外れの小さな家の前に居た。
人の立ち入らない畑は荒れ果てて、手入れされていない道には雑草が生えっ放しだった。
それでも、小さな家は有った。
この小さな家には、一人の男が住んでいる。
今はもう足を悪くしてほとんど動けない、すっかり年を取った男だ。
文は、新聞の購読者である男に、伝える事が有る。
契約更新の用紙と新聞を鞄に入れて、文は小さな家の扉を叩く。
「すみません、文々。新聞の射命丸です」
返事は無い。
しかし、大分前に家の戸に挟んでおいた新聞が無くなっている以上、まだ人が住んでいるのは間違い無い。
失礼を承知で、文は家の中に上がり込む。
そして奥の部屋に入ると、年を取った男が布団に入って、本を読んでいた。
「ああ……新聞屋さんか。すまないね、出られなくて」
男は読んでいた本を閉じて、体を起こして文に向き直ろうとする。
しかし、男に起き上がる体力が無いと見て、文はそれを止めた。
「そのままで結構です。 お身体の方はどうでしょうか」
「何とかこうして生き永らえているよ、気遣ってくれてありがとう」
くしゃくしゃな顔を喜色に溢れさせ、男は言葉を返す。
殆ど寝たきりの生活なのだろうか、布団の周りに本や新聞紙が散らばっている。
「それで、今日は契約の更新に来たのかい?」
「えっ、どうしてそれを……?」
「新聞屋さんがここまで来るという事は、きっとそうなんじゃないかと思ってね。
新聞は俺の世話をしてくれる人が持ってきてくれるけれど、こうして直接来るという事は、そういう事なんだろう?」
その通りです、と文は答えて、鞄から新聞と契約書を取り出し、男に手渡した。
それを見て、男は少し涙ぐむ。
「すまないが、もうこれ以上は無理なんだよ。
取りたくてもお金が無いし、俺もこんなだ。次まで生きていられる自信は無い」
そう言って男は新聞だけを受け取り、広げて読み始める。
しばらくの間、じっと読み耽っていたが、
「……そうか、丁度良かったのか」
そう小さく呟いて、新聞を閉じた。
「ありがとう。ただ、これで最後だと思うと、少し寂しいものが有るね」
「最後だなんて、そんな事」
「いや、良いんだよ。むしろ今まで生きて新聞を読めた事が嬉しいくらいだ」
「そうですね、貴方はとても――」
男の言葉に、文は思う所が有った。
文にとって初めて、長年、文々。新聞を購読してくれた上客である。
「失礼ですが、一つ質問しても良いでしょうか」
「ああ、構わないよ」
男が新聞を取り始めて何年何十年、もうどれ程の時が経ったのか、文も覚えていない。
初めてだからこそ、どうしても気になった。
「貴方はどうして、私の新聞を取ってくれたのですか?」
文は新聞記者として、真剣に訊ねる。
どんな事情が有ったのか、男はしばらく考え込んで、
「……少し長くて、つまらない話になるだろうけど、それでも良いか」
男は、重く、何処か懐かしげに、そう呟く。
文はそれに頷いて答え、誰を悪し様に言っても構わないという事、今日の配達は全て終えている事を付け足した。
「ありがとう。それじゃ、何から話そうか……」
文の返事を聞いて安心し、男は右手を顎に当てて、考え込む。
たっぷり数十秒掛けて、一つ一つゆっくりと、男は理由を話し始めた。
「俺の家は新聞屋さんも知っての通り、長年農家を営んでいる。表の畑は全部俺の家で育てていてな、数代前はそれなりに裕福だった。
だが、俺のじいさんが死んでから、事情が変わった」
「病気でも流行ったのですか?」
「いや、仕事自体はそれなりに続ける事は出来た。ただ、働き手が居なかったんだ。
大きな家だったけど、小作人を雇えるほどではない。それに――ッ!」
男は急に激しく咳き込む。
何事かと気遣う文を制止して、男は話を続ける。
「――大丈夫だよ、ありがとう。
それに……俺には兄弟が居なかったんだ。どんな事情が有ったのかは知らないが、俺は一人っ子だった。
だから、俺が子供の頃にじいさんが死んでからは、俺も仕事に出なくちゃならなくなった。確か、十歳の頃だったかな」
「……まだ子供の時ですね」
「人間でもまだ寺子屋に通うような年だ、もちろん俺は嫌だった。
でも、生きて行く為には仕方なかった。そう何度も聞かされて、渋々親父の手伝いをしてたんだ。
毎日毎日、年の近い友達とも遊べずにね」
話を聞きながら、文はその子供の境遇を自分に重ねて思い浮かべた。
筆を執る事も出来ず、延々と見回りや警備や事務作業をし続けるだけの毎日に放り込まれた遊びたい盛りの子供の姿。
ありありと映し出される嫌な光景を、心の中で振り払った。
「それがしばらく続いた時、仕事の途中で休憩がてら、寝転がって空を見上げてたんだ。
碌に通えなかった寺子屋も卒業して、働いては飯を食べて寝るだけの毎日の中で、その時間が一番好きだった。
その時に、新聞屋さんが飛んでるのを見かけたのさ」
「私を、ですか?」
「そう。多分取材中だったんだろうが、とても楽しそうだと思ったよ。
世界を飛び回って、自分のやりたい事を好きなだけやって……たった一人でも、自由に生きていけるだけの力を持っている。
それに比べて、こうして自分を苦しめてまでしないと生きていけない人間なんて、何も面白い事なんて無い。
……早い話が、妖怪の生き方に憧れていたんだ」
話が進むにつれて、男の口調が少しずつ明るくなっていく。
昔の話をしている内に男は、少し若返ったかのように生き生きと話を続けた。
「だから俺は、妖怪の住む世界の事を知りたいと思った。
寺子屋の慧音先生や稗田家の資料、他にも妖怪の事なら時間の許す限り何でも調べた。
そして、文々。新聞の事を知ったんだよ」
「私の新聞をですか?」
「妖怪が発行する、人間でも購読出来る新聞と知って、俺はいてもたっても居られなくなった。
すぐに購読する方法を調べて、新聞屋さんに声を掛けたんだ。
もっとも、その時はあんなにお金がかかるなんて事、すっかり忘れてたんだけどね」
「……そうでしたっけ?」
「そう。そして読んでみて、俺の中で更に世界が広くなったのを感じていた。
今まで経験した事の無い不思議な出来事が、人間には出来ない力で当たり前の様に起きている。
そんな世界を、新聞を通して俺は知る事が出来たのさ」
「魔法や妖力、呪術といったものは、幻想郷中に有りますからね」
「だけどそれは、普通の人間にはなかなか出来ない事なんだよ。
だから俺は文々。新聞を読んで、仕事の合間にその世界を想像した。
人間から魔法使いになったという話も聞いたけど、俺にそんな時間も知識も無かった。
親や間苗、子供たちを食べさせていかなきゃいけないし、何より俺自身が生きて行く為に、働かなければいけなかったんだ。
働く事に意義を見つけてからも、妖怪への憧れは変わらなかったけどね」
男は、枕元の古びた巾着を手に取って、文に見える様に持ち上げる。
あちこちが継ぎ接ぎされているそれに、文は微かに見覚えが有った。
いつからか、契約の更新の時にお金を入れていた、あの袋だ。
「間苗の形見だよ」
その巾着を大事そうに眺めて、男は続ける。
「間苗は、俺の妖怪への考え方を知って尚、俺に付いて来てくれた。
それどころか、一緒になって新聞を読んで、妖怪の話に花を咲かせてくれたんだ。
間苗と知り合ってからは、働く事が辛くなくなった。子供が出来てからは、ずっと働いて守ってやろうと思った。
……それでも、妖怪への憧れは忘れられなかったよ」
間苗、すまなかった。と男は小さく呟き、目を閉じる。
薄らと涙を浮かべる男の姿を、文は眺めていた。
「子供達が自立して、間苗が先に逝って、俺がまた一人になった頃には、もう何をするにも遅かった。
俺の足は駄目になった、耳は遠くなった、眼は悪くなったし、力も衰えた。
もう、俺には何もできなかったんだ」
「それでも……いや、だから私の新聞を?」
「ああ、それが十五年前の――前回の契約更新の時だ。
働く意味を見失った俺にとって、文々。新聞を読んで妖怪の生活を想像する事は、一番の楽しみになっていた。
……これが、俺が今まで文々。新聞を取り続けて来た理由だよ」
男は話し終えると、再び激しく咳き込む。
少しの間息を整えて、男は再び布団に背を預けた。
「すまないね、新聞屋さん。退屈な話で」
「いいえ、とても興味深いお話でした。わざわざありがとうございます」
話し終えて、男は長く息を吐く。
疲れて眠るかの様に目を閉じた男の顔は、とても老け込んで見えた。
「……新聞屋さん、代わりと言っちゃ何だが、俺からも一つ頼み事を聞いてはもらえないか」
急激に細く、弱々しくなった声で、男は訊ねた。
なんでしょう、と聞き返す文を見て、男はすぐに付け足して話す。
「ああ、そんな大層な事じゃない。
死ぬ前に一度だけで良いから、妖怪の世界を見たいんだ。 俺を、連れて行って欲しい」
妖怪の世界。と言われて、文は困惑する。
「それは……私達の住む所を見たいという事でしょうか?」
「いや、もっと単純な事で良い。 ……そうだな」
男は、少しの間考え込んで、
「俺は空を見るのが好きだったんだ。見上げれば妖怪が飛んでいる、この空が好きだ。
だから……空に連れて行ってくれないか。 子供みたいな話だが、俺は一度で良いから、空を飛んでみたかったんだ」
普通の人間と普通ではない存在の、最も分かり易く確かな違い。
地上から空を見上げる事しか出来ない人間にとっては、空こそが正しく『妖怪の世界』だった。
その真剣な面持ちを前にして、文は迷う事無く答えた。
「――分かりました。 長年のご愛読への感謝の気持ちも込めて、貴方を空へとお連れします」
男に倣い、真剣に深く頷く文を見て、男は笑顔を零した。
心から嬉しそうに、男は笑っていた。
文は男の手を取って、肩に回して立ち上がらせ、そのまま男の身体を背に負う。
男の体躯は大きかったが、四肢に生気は無く、見た目よりずっと軽かった。
その状態から更に文は二人の身体を帯で巻き、離れない様に固定する。
少し窮屈な姿だが、これで男を空に連れて行く準備は整った。
「さて、これから空を飛びますが、しっかりと目を開けて、私の身体を離さないようにしてくださいね」
「ああ、分かった」
男を背負った文が軽く床を蹴ると、二人の身体がふわりと宙に浮かぶ。
自分の力の及ばない所で、地に足を着く感覚から離れて、男は目を丸くした。
「行きますよっ」
掛け声と共に二人の周りに風が巻き起こり、風の吹く先に狙いを定めて、窓を抜けて飛び出して行った。
一瞬にして畑を横切り、里を掠めて森へと向かい、古道具屋を通り過ぎ、魔法の森の上空で速度を緩める。
力の無い人間の男を背負って尚、鴉天狗の速度は風の様に速い。
文が背中を確認してみると、遥か彼方に消えた小さな家の方を向いて、男は呆気に取られていた。
「えっと……大丈夫でしたか?」
年を取った人間が、突然鴉天狗の速度に振り回される。
普通なら気を失っていても、仕方のない事だだろう。 しかし男は、
「……俺の事は気にしないで良い。 だから、もっと飛んでくれ」
声を弾ませながら、そう文に伝えた。
背中越しにでも、男が空を飛んでいるという事に喜び、興奮しているのがはっきりと分かった。
その喜び様に文も嬉しくなり、可能な限り速度を出しながら、幻想郷の空を駆け巡って行く。
――――博麗神社。
――――紅魔館。
――――妖怪の山。
――――守矢神社。
――――太陽の畑。
――――無明の丘。
――――三途の河。
――――人間の里。
――――命蓮寺。
二人は、風の様に幻想郷を疾走する。
風を切り、流れる地面に人間を見て、すれ違う妖怪達を背にしながら、空を吹き渡って行く。
男はその間一言も発せず、パノラマの様に広がる景色をじっと眺め続けていた。
やがて空は茜色に染まり行き、日が傾き始める。
夜になってしまえば、幻想郷の空は姿を変えてしまう。 それは、人間にとってあまりにも危険だった。
その前にと、文は男への最後の贈り物へと、狙いを定める。
「ちょっとだけ目を閉じていてください。――次で、最後の場所です!」
その言葉と同時に、文は風向きを変えて、星の浮かぶ空へと急上昇し始めた。
瞬く間に遠ざかって行く地面に、ここまで景色を目に焼き付けていた男も、思わず目を閉じる。
それに構わず文は急速に高度を上げ続ける。 春の空気が、次第に冷たく変わっていく。
やがて、文は少しずつ速度を緩めて止まり、背中に声を掛けた。
「さあ、目を開けてみてください」
男は、目を開ける。
「ようこそ、私達の世界へ」
そこは、見渡す限り、妖怪の世界だった。
下を見れば、遥か大地に模型の様な人里が、苔の様な森が、翠色の糸の様な川が。
上を見れば、手を伸ばせば届きそうな雲が、より一層輝く星が、壮麗たる幽冥結界が。
遠く見渡せば、弾幕決闘に興じる妖怪達が、美しく飛び交う弾幕が、不尽の煙を上げる山が。
目に映る全ての光景が夕焼けに染まり、人間の手には到底届かない世界を、妖怪の住む世界を映して。
男の前に、姿を現していた。
「ああ……、ああ……!」
男は、声を放って泣いた。
人の身で知る妖怪の世界に、男は何を思ったのだろう。
ただただ、目に涙を浮かべて、妖怪の世界を目に焼き付けていた。
「……ありがとう、新聞屋さん」
既に空は群青色に染まり、空は本当の妖怪の世界の様相を表してきている。
文は男を家まで送り届けて、男の身体を布団に寝かせていた。
その間、男はずっと泣き続けていた。
「お安いご用です。これも文々。新聞のご愛読者へのサービスですので」
男が心から喜んでくれたことに満足して、文も嬉しそうにそう言った。
「そうか……それじゃ、サービスついでにもう一つ頼もうか、新聞屋さん……いや、鴉天狗さん」
男が言い直したことに、文は眉をひそめる。
お互いに喜色に満ちていた顔は鳴りを潜め、人間と妖怪の空気が流れだす。
そんな重い空間の中で、男は細く、はっきりと文に伝えた。
「俺を、殺してくれないか」
男の言葉が、静かに部屋に響き渡る。 今度は、文の方が驚いていた。
この男は、人間の儚い命を自ら絶って欲しいと、文に頼んだのだ。
「……正気ですか?」
思わず、文は男の気を伺った。
ただでさえ落としやすい人間の命、その大切さは人間が一番分かっているはずだと、文は思っていた。
「ああ、俺は本気だ。 今ここで、俺を殺して欲しい」
男の目を見て、文はそれが真実であると確信した。
それと同時に、知りたかった。
「……殺して欲しい、その理由は何でしょうか?」
人間の、その行動の意味を、その意思を。
男は返事をしようとして激しく咳き込み、それが落ち着いた所で、ゆっくりと話し始めた。
「俺は、随分前から病気だった。 もう竹林のお医者様でも直せないくらい、手遅れな所までやられているらしい。
今をこうして生きていられる事だって、奇跡に近い。 今ここで死ねなくとも、俺にこの先は無いんだ」
ゴホ、ゴホ、と咳き込む音が部屋を微かに揺らす。
男はまた息を整えて、話を続けて行く。
「……俺は今、幸せだ。 間苗と出会って、子供が出来て、看取る事が出来て、見送る事が出来て。
そして最後に、新聞屋さんのおかげで、妖怪の世界を知る事が出来た。 ……俺はもう、十分に生きたんだ」
一言、一言に涙を挟み、心を吐露し、文に向けて話し続ける。
悲壮とも取れる死を臨んでの言葉は、妖怪にはどう聞こえていただろうか。
「もう、間苗は逝った。 もう、子供達も一人前になった。 もう、新聞を取る事も、無くなった。
すまないね、新聞屋さん。 俺の愚痴を、聞いてくれて、ありがとう」
「……ええ、私が聞き届けます。 だから大丈夫です、安心してください」
「そうか……これで俺も、八十まで、生きてきた意味が、有った。
間苗にも、子供達にも、こんな事は話せなかった……」
男は、その生涯を愛する人への献身に捧げ、僅かな夢を静かに抱いて、生き抜いて来た。
今にも散りそうな儚い命には、計り知れない価値が有る。
「お疲れ様でした。 貴方の善行は、閻魔様も見ていますよ」
「おお……まるで、閻魔様の、知り合いみたいな、口ぶりだ」
「ええ、閻魔様とは知り合いですから」
「ははは……そうか」
笑い合って、男が激しく咳き込む。 その間隔が、短くなって行く。
「さあ、俺を、殺してくれ」
男は、酷く細い声で文に願う。
それを聞いて、文は静かに言い放った。
「大丈夫です。 貴方はもう、死にます」
水溜りの様に血を吐き、呼吸を止めた男に、そう言った。
「そうか、それは良かった」
男は、ふっと微笑んで、そのまま生を終えた。
深夜の人里で、文は人を探していた。
先程その命を全うした男の息子達に、父親の死を伝える為に。
その噂は深夜ながらも里を伝わり、やがて文の前に二人の男が一緒に歩いてきた。
その顔には微かに見覚えが有った。 この二人が、息子達だ。
文は、念入りに前置きをして、父親の死を二人に伝えた。
妖怪である文は遺体に手を出していない事、死後真っ先に二人に伝えに来た事。
そして涙を流す二人を見て、文は踵を返す。
文がするべき事は、これで全て終わっていた。
「あっ、新聞屋さん」
兄の方に声を掛けられて、文は飛び立とうとした足を引っ込めて、もう一度向き直る。
その兄の手はいつの間にか折りたたまれた紙を持っており、それを文の方に差し出す。
「これを、受け取ってもらえませんか?」
「何でしょうか、これは?」
「分かりません。 ただ、父に『俺が死んだらこれを新聞屋さんに渡して欲しい』と預かったものです」
自分が看取った人間から届いた、一通の手紙。
それを渡した兄は、弟と一緒に父親の遺体を埋葬する為に、里の外れの小さな家へと歩いて行った。
兄弟を見送り、文は受け取った手紙を開いて読み始める。
『机の真ん中の引き出しの一番奥の物を、新聞屋さんに返す』
少し乱暴な字で、そう綴られていた。
「……?」
返す、という言葉に文は疑問を浮かべる。
何かを返して貰うようなことは文の記憶に無く、何かを預けた記憶も無い。
いまいち要領を得ないまま、文は息子達の後に続いて、歩き出した。
小さな家は、廃墟の様に静かだった。
たった一人、動けない老人が居なくなっただけで、まるで何年も無人であったかの様に、そこに在った。
文が戸に向かったのと入れ違いに、父親の遺体を背負った兄と、その隣で弟が、里へと戻って行く。
すれ違う瞬間、兄が背負った父親に向かって、いつの間にこんなに小さくなったんだなぁ、と、ありがとう、と話しかけていた。
そして文は、つい先程まで男と話していた部屋に戻って来た。
敷かれていた布団は空っぽになり、それ以外には小さな机と、本や新聞紙がいくらか置かれているだけの、寂しい部屋。
文は男の手紙通り、机の引き出しをいくつか空けて、『それ』を見つけた
「……?」
文が手に取ったのは、古びた大きなノートの様な物だった。
中に何かが挟まっているらしく、大分膨らんでいる。 手に持つのも大変で、捲るのも一手間な程だ。
机と一緒になっていた座椅子を引き出して座り、ノートを優しく机に置いて、破れない様慎重に開く。
月明かりの下、捲ったノートには、一枚の紙が挟んであった。
「これは……」
その紙には、長々と細かい文字が並び、その横には大きく写真が添えられている。
大きく載せられていた写真を見て、文は気付いた。
「私の新聞……?」
ノートの右上隅に、『文々。新聞』という文字と日付の入った切抜きが、丁寧に貼られている。
その下には、一年ほど前に書いた新聞記事が、ノートに収まる様に並べられ、これも丁寧に貼り付けてあった。
文がノートをもう一枚捲る。 そこには、二年前の記事と、写真が有った。
見覚えも、書き覚えも有る文面がずらりと並び、一緒に並んだ写真を撮った時の事が、鮮明に映し出される。
「……」
文の記憶の中に、記事を書いた時の感情が浮かんで行く。
良いネタが見付からず、悪戦苦闘して書いた記事。 大きなニュースを見付けて、喜び勇んで書いた記事。
感情と共に書き込まれた内容、取材相手と交わした言葉、至高の一瞬を切り取った写真、そして新聞として完成した時の喜び。
その全てが、文の中で思い出として蘇る。
楽しいニュース、悲しいニュース、痛快なニュース、辛いニュース。
内容は様々だが、それは全て文自身が見聞きした本当の出来事であり、書かれた言葉は、文の感情そのものだ。
一枚一枚、読み進めて行くに連れて、文の記憶は時間を遡って行く。
やがて、博麗霊夢の死を書き綴った記事を見つけた。
その数枚先には、博麗霊夢が笑顔でカメラに向かって手を振っている写真が有った。
それはまるで、博麗霊夢が生き返ったかのように、文の中で博麗霊夢との記憶が浮かんで来る。
一枚、また一枚と捲ると、一年、また一年と、時が戻って行く。
その度に、文は一つ、一つと思い出を通り過ぎて行く。 妖怪だからこそ忘れてしまうものを、次々と取り戻して行く。
死んだ人間は生き返り、大人は子供へと戻り、幻想郷は昔の姿を文に向けて映し出す。
文は、時間を忘れてノートを読み耽った。
そして最後の一枚を捲る。
そこには、古びた新聞紙が貼られていて、幻想郷を包む花の異変の様子が、写真と共に書かれていた。
日付は――――
「六十年前の……今日」
文は窓の外を見る。 既に日は昇り始めていた。
立ち上がって外へ向かう。いてもたっても居られなかった。
この六十年の記憶は、たった今取り戻した。
その記憶に突き動かされて、文は戸を開けて、飛び出した。
幻想郷が、開花していた。
そこかしこに花が咲き乱れ、浮かれた妖精が舞い踊り、妖怪や人間があちこち飛び回っている。
四季の花が乱雑に咲いており、花の妖精は見知らぬ花の妖精との出会いに喜び、華を咲かせていく。
広がり行く幻想の風景の中で、文は立ち尽くしていた。
六十年前と同じ世界を、異変を、六十年前の記憶を持って、迎えていた。
あの森の中に、白黒の魔法使いが見える。
あの花畑の向こうに、紅魔館のメイド長が見える。
あの竹林の先に、紅白の巫女が見える。
今と昔が混在した世界の中で、文は全てを思い出していた。
「…………ああ」
懐かしい。
千年を生きる射命丸文は、その生涯で初めて、その感情を理解出来た。
この感情こそが、人間達が見ていた世界だ。
『――おぅーい、新聞屋さーん!』
不意に声が聞こえた気がして、文は驚き振り返る。
振り返ったその先に、人の姿は無かった。 しかし、文は思い出していた。
その声の聞こえた日から、この小さな家への配達が始まった。
その声が無ければ、こうして人間の世界の中で、涙を滲ませる事も無かっただろう。
文は目を閉じて、瞼の裏に若い頃の男の姿を思い描き、
「……ありがとうございます。 今後とも、文々。新聞をご贔屓に」
そっと囁いて、花開く幻想郷の空へと飛び立つ。
傍らに咲いていた花が一輪、風に吹かれて嬉しそうに揺られていた。
文が人間に与えた影響、人間から文が与えられた影響
クライマックスからラストにかけてとても印象深かったです
深すぎない関わりの中で、相手からの思いと憧れを知り、そして忘れたものと与えられたもの。
すばらしいお話でした。
人間は今を生き、妖怪は過去に生きるものだと思っているので、正反対のこの話は新鮮でした。
懐かしいってのは年を感じることなんでしょうかね。
人間と文、双方の心情が伝わってきて感動させられました。
素晴らしい話をありがとうございます。
それだけに最後の二人の最も濃い交わりの部分はぐっときます
男が年老いていくのと同時に、文の知っている人間が死に、幻想郷が徐々に静かになっていく描写もまた印象的でした
いや、すごかったです
ただ素晴らしさを感じているのは確か。
ありがとうございます。
不覚にも目頭が熱くなってしまいました。素晴らしい作品です。ありがとうございました。
妖怪側の世界、人間側の世界、普段触れることがない世界に二人が触れた時の感情が伝わってくるようでした。
素敵なお話をありがとうございます。
しかし年間50ってことは大体週一で文ちゃんの生脚が拝めるなら、私も空に向かって呼びかけてみる価値はなるな。
クライマックスにかけての話の盛り上がりがとっても良かったです!
素敵な作品をありがとう
かつそれなりの距離を保って描かれたテーマに感服しました。