人はバグると虎になってしまうらしい。ならば虎がバグると人になるのだろうか。
「バグる?」幽々子は握り拳ほどの饅頭を口に頬張りながら尋ねた。
白玉楼に広がる美しく整備された白銀の庭園で、桜の木の前で橙と妖夢と藍が立ち話をしている。
従者達の姿を主人達は縁側に腰を落として和菓子を食べながら見ていた。
「不具合、欠陥。何らかの原因で異常が起こり、正常とは違う状態になってることよ」
「……異常……つまり病気にかかってるってこと?」
「ええ。生き物に例えるならね」
饅頭を食べ終えた幽々子は両手で湯飲みを口元に運ぶ。
「そう。それならまさに今の彼女はバグっているのね」
「そういうこと」
紫と幽々子は桜の木の下で雑談をしている藍に顔を向けた。
藍は橙に優しく話し掛けた。
「いいかい橙、昔は昔、今は今、生まれ変わって生まれたてなんだよ」
橙は小さく息を吐き、妖夢は首を捻った。
「藍さん何を言ってるんですが?」妖夢は尋ねる。
「この幻想郷の空が壊れジャーン崩れ落ちてくればです」
「えっ? な、何なんですが?」
状況がわかない妖夢に橙が説明をした。
「妖夢さん気にしないでください、最近よくあることですから。紫様が言うには藍様はバグってるんです」
「バグる……?」
困惑した彼女は自分の主人に視線を送った。
ずずっとお茶を飲み干した幽々子は中身が空になった湯飲みをお盆の上に戻した。
「……で、どうするの?」
「何を?」紫は扇を広げて顔を仰ぐ。
紫と幽々子は従者達を観察しながら会話を続ける。
「あの式神よ。このままだとただの狐より使えないんじゃない?」
「藍はこのままよ。別に良いじゃない。見てて飽きないし」
幽々子は紫の表情を確認する。
「本気? まあ私は困らないからいいけど、紫は不便でしょ。治さないの?」
「大丈夫よ。私が作った式神を打ってるのよ。ちゃんと自分で原因を探して自動で復元する機能が付いてるわ。
明日には直ってるかもしれないし、そんなに心配することないわ」
「なんだ勝手に治るのね」幽々子は安堵の息を吐く「式神ってなんか複雑みたいだから、元に戻すのが大変なのかと思ったわ」
「式神を直す方法は色々あるわ。何らかのショックを与えるのもそのひとつよ。手っ取り早く傘で叩くとか」
紫は笑顔で傘を振り回すジェスチャーをする。
以前読んだ天狗の新聞の内容を幽々子は思い出した。
そうかあれは藍のバグを治す為にしていたのかと納得した。
「そんなこと言ってると、また天狗に余計な疑いを掛けられるわよ」
幽々子は微笑を浮かべて紫を茶化す。
「妖夢も叩いたらあの真っ直ぐすぎる性格も治るのかしら……」
従者を見ながら幽々子がつぶやく。
「真っ直ぐだったものを叩いたら曲がるだけでしょ」
「刀だったら叩けば直って簡単なのになあ」
「ちょっと紫様!」
妖夢が声を上げながらこちらに駆け寄ってくる。
「何かしら?」
慌てる妖夢に対して落ち着いて紫は対応する。妖夢は藍に指を向ける。
「さっきから藍さんの様子がおかしいですよ!」
「見てたから、知ってます」
「し、知ってますって……いやご存知ならなんとかして下さいよ……」
「そう言えば結界はどうなってるのよ」幽々子はまた和菓子をつまむ「最近結界の管理ほとんど彼女に任せきりでしょ。大丈夫なの?」
「結界は一層だけじゃない。博麗結界は霊夢の方でも管理してるし……。まあ、なんとかなるでしょ」
「珍しく、楽観的ね」
「あら、私は楽観視してる訳じゃないのよ。だって藍は必ず自力で直るってわかってるから。
そんな軟な式を作ったつもりは無いし、自分の技術には自信があるもの」
紫は扇の裏で鼻を鳴らした。
幽々子との会話から3日が過ぎた。紫の予想とは裏腹に藍はまだ元には戻っていなかった。
相変わらず壊れてしまったシュレッダーの様に無駄な事を口走る。
「222262325222236236222236……パーフェクト……」
「ゆ、紫様……」橙は不安げな顔を紫に向ける。
藍は良くなるどころか日に増してズレていき、外に出す訳にもいかず住処での軟禁生活を送っていた。
そんな藍の面倒を見る為にマヨイガから橙が召喚されていた。
紫はもう一度、原因を考えてみた。
本体そのものに問題があるのか……それとも式のプラグラムにバグがあるのか……。
いや式に原因があるのならばすぐに自動デバックを始めるはずだ。
それならやはり本体が……しかしそちらの方が考えにくい。
紫はちらりと橙に視線を送る。橙は藍と腕相撲をしていた。
いたっていつも通りに動いている。
橙には特に異常が見られないのが紫には不思議だった。
なぜ藍が壊れているのに、藍の式である橙におかしな所が見られないのだろうか?
式であるはずの藍が式を操ることができるのは藍自身の妖怪としての抜き出た妖力のお陰にほかならない。
だからこそ、式が式を使うなんて芸当が藍には可能なのだ。今の状態の藍がまともに式を扱える訳がない。
紫は赤くなった手の甲を痛そうに押さえている橙に近づき、腰を落として、橙と目線を合わせた。
「橙、大丈夫?」
「このくらいへっちゃらですよ紫様!」
橙は手の甲を紫に見せ、涙目だが笑って答えた。
「……どこか体の具合が悪い所はない? 急に体重が増えたとか誰かに甘えたくなったとか」
「いえ……別にそんなことはないです」首を小さく捻る「どうしてそんなこと聞くんですか?」
どうやら本当に変わりないらしい。
今度は藍の前に腰を落とし式を強制的に剥がす言葉を紡いだ。しかし、藍に変化はない。
すでに何度か試していたが、やはり式が取れない。
こうなっては仕方がない。温故知新。全ての答えは古にある。
原始的な方法で行くことにした。
紫は指を擦りパチンと鳴らす。すると藍の下に隙間が開き、驚く暇を与えず藍を強制移動させた。
突然のことに驚いた橙は紫に尋ねた。
「紫様、藍様をどうしたんですか?」
「ちょっと藍には気晴らしが必要みたいだったから外の世界に送ってあげたわ」
「外の世界ですが……どこですか?」
「鳴門海峡」
水が式神にとっては大敵であり、掛けられるだけでひどく驚く。
その驚いた拍子に式が剥がれてしまうことが稀にあるほどだ。
この特徴を使い、式を藍の意思とは関係なく強制的に取ってしまおうとしたのだが、失敗した。
ずぶ濡れの藍を回収する破目になってしまった。
よほど恐ろしかったのか、藍は部屋の隅で震えていた。
静かになったのは良いことだが、逆効果だったみたいだ。更に壊れたかもしれない。
さて、どうするか。思っていた以上にこの問題は長引いてきた。
今まで放置していたが、藍にまかせっきりにしていた結界の点検、修繕の作業をそろそろ再開しなければいけない。
解決策が無い訳ではなかった。代わりの式神を用意すればいいだけの話だ。
候補としてすぐに浮んだのが命蓮寺の寅丸星だった。
封印されていた聖人が復活し、信仰の対立関係になる存在だと予感した命蓮寺では教えを広める為写経に力を入れており
庭側に面した障子を開けっ放しにして新鮮な空気を感じながら聖と星は精力的に筆を動かしていた。
「うっ!」
「どうしました星」
星の突然の声に聖の指の動きが止まる。
「いえ、今なぜか急に悪寒が……」
「まあ、まさかまた宝塔が……」聖は困り顔で言う。
「宝塔は大丈夫ですよ。ちゃんとナズーリンに預けてありますから」
「部下に宝を管理させるのもどうかと思いますが……」
「なんだかこう……ぞくぞくっとしたんです。まるで怒った時の聖に睨まれたみたいに」
「聖さんは、怒ると恐そうだしねえ」
「そう、これがまた 毘沙門天様よりも恐くて恐くて。身体強化魔法でガチムぐふ!」
聖は笑顔で星のおでこに水平チョップを叩き込む。
「こんにちは、紫さん。すみません、お見苦しいところを」ほほほと手の平を口元に当てて笑う仕草が妙に年季が入っている。
「いえいえ、こちらこそ急にお邪魔してしまって……門から入りなおした方がいいかしら」
聖は改めて姿勢を正し、紫に向かい合う。
「結構ですよ。用件を伺いましょう。星、客人にお茶とお菓子を」
「わかりました」
立ち上がろうとする星を紫は呼び止める。
「お茶は結構です、すぐに済みますので。それに星さんにも居ていただいた方が話は早いですし」
「私ですか?」星は人差し指を自分に向ける。
「はい、話というのは星さんをしばらく家で預からせて頂けないかと思いまして」
思いもよらない紫の要望に聖と星の表情は一瞬動きが止まった。
「え、えっと……私をですか? 話がよく見えないのですが……」片手を後頭部に回しながら答える星。
「なにもそんなに難しい話ではありませんわ。
実は私の式神が体調を崩しておりまして、どうも回復にはしばらく時間が掛かりそうなんです。
しかし、私にもやらなければならない事もあり、式ばかりに構っていられないのです。
そこで数日の間ですが星さんには住み込みで式神の世話をしてほしいのです」
「まあ……紫さんの式神さんには人里で一度会った事があります。とても聡明な方でした。
あの方が世話を必要なほどの状態とは……お気の毒に。
事情はわかりました。その程度でしたらお安い御用です。ね、星」
聖が星に顔を向けると、星は紫に頭を下げていた。
「申し訳ございません、紫さん。貴方の願いを聞く訳にはいきません。
数日とはいえ私は命蓮寺を離れるわけにはいかないのです」
「ほんのしばらくの間ですわ」
「申し訳ないですが……」
「星さんは命蓮寺を離れるわけにはいかないとおっしゃりますが、今後外泊はしないおつもりで?
まだお若いのにもう隠居生活に入られるのですか?」
「いえ、その様な訳ではありません。ただの私の我侭です。
ここ命蓮寺では毘沙門天様を本尊としております。口外はしていませんが妖怪である私が毘沙門天様の
代理として人々の信仰を受けてきました。
私はこの毘沙門天様の代理という立場を誇りと信念を持って務めています。
ただの虎の妖怪に過ぎない私を毘沙門天様は弟子として認め下さり、自身の代理に選んでくれました。
最近また新しい信仰の対象が現れたと聞いています。
今の重要な時期に命蓮寺を離れることを毘沙門天様ならなさらないはずです。
私はあくまで代理に過ぎない存在ですが、代理としての務めを全霊をもって果たすことが毘沙門天様に対する私の信仰なのです」
聖は眼を広げていたが、やがて穏やかな表情で話す。
「星がそこまでの熱意をもっているのなら毘沙門天様もきっとお喜びになられるわ。
私が封印される前の星とは見違えて見えます。立派になりましたね」
「私がここまで成長できたのは、私を毘沙門天様に紹介して下さった聖のお陰なのですよ」
「星ったら嬉しいことを」
何やら居づらい空気が漂い始めるが紫は更に話を進める。
「星さんの主人に対する想い、命蓮寺には必要な方だとよく理解しましたわ。ではこうしましょう」
紫は人差し指を上に向けて提案する。
「毎日2時間だけ家に来てください。もちろん毎日の行きと帰りの移動は私が責任を持って行いますわ」
星は黙って首を振った。
「私はあくまで代理にすぎない存在ですが、私は命蓮寺の本尊であり、本尊である以上私は命蓮寺そのものなのです」
星の眼光が紫を写す。
「……わかりました。今日は帰りますわ」
紫は立ち上がり、目の前の空間に指を切り隙間を広げた。
「ああ、それと」
振り返った紫に星は真剣な眼差しを送る。
「毘沙門天様は主人などではなく、主従関係なのどという言葉で表すものではありません。お気をつけ下さい」
「……承知しましたわ」
これは少し嫌われたかなと思いつつ紫は退散した。
寅丸星、話で聞いていたより優秀みたいだ。
流石、毘沙門天がその実力を認め代理を任されるだけの逸材ということか。気に入った。
紫は自分の式に相応しい素材が見つかり嬉しくなっていた。
これは是非とも星を式神にしたいものだ。
しかし、彼女の背景には毘沙門天がついている。彼女に手を出すのは武神に喧嘩を売るのも当然だ。
リスクが大きすぎる。
それに、聖を筆頭に命蓮寺の妖怪達も黙っていないだろう。
寅丸星を式神にする道は山あり谷ありの大冒険になりそうだ。
たとえ式神にできたとしても問題が多く残るだろう。
この危険な道とは真逆のかなり安全な道の検討を紫は始めた。
苦肉の策ではあるが橙を紫の式神にするという手だ。
しかし、どうやら今が換え時らしい。何気なく立ち寄った神社で思わぬ朗報があった。
「狸の妖怪?」
「ええ、なんでも外の世界からやって来たらしいわ」
博麗神社で箒を面倒くさそうに動かしながら掃除をしている霊夢は言った。
「えっと、確かぬえの奴に妖怪側の切り札として呼ばれたって言ってたわね」
「妖怪の切り札ねえ……その切り札さんは何処に居るのかしら」
「妖怪寺に住み着いたらしいわよ」
「ふむ……」
「どうしたのよ?」
紫は遠くを見ながら考え事を始めた。紫は違う世界へと旅立ってしまった。
霊夢は小さな溜息を一つ。また掃き掃除に戻る。そこで紫に話があった事を思い出した。
「あ、そう言えばさあ、あんた最近結界の管理さぼってるでしょ。
外の世界との境界が緩んできているわ。霖之助さんが外の世界からの流れ物が多いって言ってたし。
ここで油売ってる暇があったらさっさと結界を修復しなさいよ」
霊夢が紫の方へ振り向くとすでに彼女は姿を消していた。
命蓮寺の屋根付近に空間が開いた。
隙間から上半身だけをゆっくりと出して上下左右を警戒する。どうやら周辺に誰も居ないみたいだ。
安心して隙間から乗り出し、ふんわりと庭へ着地する。
妖獣のにおいは星の説得の際にも感じていた。
しかし、ここは妖怪寺である。不思議な事でもないと思い、特に気にしていなかった。
だがより意識を高めてにおいを探ると確かにこの幻想郷で感じる妖獣とはまた違うものだ。
普通の妖獣からは自己主張の強いにおいがするものだが、これは違う。
わざと自身の抑えている様に感じるのだ。
自己顕示欲を押さえられるほど理性の働く妖怪がこの幻想郷にどれだけ居るだろうか。
紫はこのにおいの主に興味と期待を抱いた。
「おじゃましますわ」
紫は縁側から室内へと無断で上がりこんだ。
畳の上を遠慮なく歩き、襖を迷いなく開けていく。
美味い料理の香りを辿るように紫はにおいの元へと進む。
紫は7枚目になる襖の前で足を止めた。この先に、居る。確信した。
ゆっくりと襖を開ける。
「あら……いらっしゃい」
聖白蓮が正座でこちらを見据えていた。一瞬ではあるが紫の思考が固まる。
停止する紫に対し、聖は微笑で迎える。
「えっと……どちらさまかしら……入門希望者かしら?」
やはり、この聖から獣のにおいがした。だとすれば答えはひとつしかない。
「どうも私は八雲紫と申します。初めまして。
なんでも外の世界からわざわざこちらに入られたとか、幻想郷の住み心地はいかがでしょうか?」
聖は目を細めて一度頭を下げた。
「これはこれは……貴方が妖怪の賢者と言われる八雲紫さんですか。話は聞いております。
幻想郷の生みの親だとか、近々挨拶に行こうかと思っていたんです。
そちらから来てくれるなんて、手間が省けて助かります」
「私もあなたの噂は聞いてますわ。なんでも聖人に対する妖怪の切り札として外から召喚されたとか。
狸の妖怪だとも伺っています。あなたの変化の術は素晴らしい完成度ですね。
一寸とは言え私ですら動揺してしまったのですから」
「その動揺を見逃してしまいましたわ、もっと驚いてくれると思っていましたので。
会心の一撃を与えたつもりでしたのに……まだまだ私も精進が足りませんね」
「変化の術は十分堪能させて頂きました。ぜひ本来の姿を見てみたいものですわ。」
紫が微笑むと聖も笑って返した。
「嫌です」
「なぜですか?」
「……名前、容姿、服装、髪、表情、目、言葉、香り……貴方は全てが怪しいですね」
「妖怪ですから、当然ですわ」
「貴方からは邪気を感じます……貴方が命蓮寺に表れてから、お酒が不味くてしかたがありません」
「おや……私程度の妖気にあてられて気分を害するなんて……優秀な狸の妖怪との噂は間違いだったのかしら」
「特に私が先ほどから気になっているのは貴方から漂う僅かに残った狐の臭いです。
なんと醜い臭いなのでしょうか? 私の鼻が腐ってしまいそうです」
狸と狐が犬猿の仲であることはもちろん知っていた。
当然においには気を使っていたつもりだったが、紫の予想を上回る程に相手は鼻が利いた。
「貴方、外の世界で何と呼ばれていましたか?」
「忘れてしまいましたわ。ですが、貴方が外の世界で何と呼ばれていたかは知ってます。
神隠しの主犯、相手を不安がらせることを好む悪趣味な妖怪、御山の大将、なんか胡散臭い。
どうも良い噂を聞きません。
それに狐を部下として行使しているとか……まさかそんな筈はありませんよねえ」
紫は微笑み軽く会釈をしてから隙間を広げた。最後に尋ねる。
「貴方、私の式神になるつもりはないかしら?」
「もちろん、微塵もありません」彼女は笑顔で紫を見送った。
「お帰りなさい紫さま」
エプロン姿の橙が主人の主人を出迎える。
「あ……」橙は紫を見上げて口を開ける。
「どうしたの、橙?」
「いえ、すみません。紫様が笑っているの久しぶりに見たので、なんだか見とれてしまって……」
「……私、笑っているの?」
「え、は、はい」橙はこくりと頷く。
紫は片手の人差し指で口元を触れる。口の端が僅かに上がっていた。
「ねえ、橙。あなた私の式になるつもりはないかしら?」
「わ、私がですか! 無理ですよ!」
「橙には素質があると思うわ」
「嬉しいですが……とても私では藍様の代わりは務まりません……」
「大丈夫よ。ちゃんと貴方に合わせた式を用意してあげるわ」
あ、それ良いわね。それなら藍から式をアインストールする必要もないし。
「藍様みたいになれる自信がありません……」
でもその場合式を一から作らないといけなくなるわ。それは面倒ねえ。
「藍だって式になったばかりの頃はよく失敗をして私に怒られていたわ。そうやって成長するものよ。
橙だっていつかは藍の様な大妖怪になりたいと思っているのでしょう?」
ああ、それに結界の管理を橙がひとりで出来るようになるまで私も手伝ってやらないと……。
「もちろんです」
橙の尻尾が9本になるにはどれだけの時間が掛かるのやら。
「それならいつかやって来るその時期が早くなるだけよ。橙にとってもそれはプラスになるでしょう。
藍が元に戻ればそれが一番良いけれど、橙もこれから先のことを良く考えておきなさい」
強制的に橙を藍のレベルまで引き上げるのも面白そうだけど、長く持ちそうにないし。
「はい、紫様」橙は頷く。
さて、どうしようかしら。
「良い子ね」紫は橙の頬を優しくなでた。
虎? 狸? それとも猫?
どれを行使するにしろ式がいる。
それに霊夢の言う通り結界が薄くなってきたみたいだ。早急に対応する必要がある。どうするか。
一番手っ取り早いのは藍から式をアインストールし、その式を虎か狸にインストールする方法だが今の藍はアインストールを受け入れない。
しかたがない、ここは取り合えず、私が結界を修復して時間を稼ごうかと紫は考えていたがひとつの案がふと浮んだ。
藍の式神を力ずくで取り出し、結界の修復が記録されている箇所だけを残してその縮小した式を橙の式と融合させるのだ。
これなら結界の修復の仕方を藍のデータを使う事で短時間で学習できるはずだ。後は橙を成長させていけばいい。
だが、この道の途中には藍の亡骸が落ちている。しかし、この道を通るにせよ他の道を通るにせよ、どの手段を取ろうと藍は泣かなければいけないのだ。
やはり、藍は、ここが限界。廃棄処分になる時期だったのだ。
早朝、紫は藍を外の世界へと連れ出した。
太陽すらまだ眠っている浅黒い空。藍はきょろきょろと首をよく動かして周りを観察する。
後ろには古びた鳥居が立ち前には急な石の階段が見える。
「藍。よく聞きなさい」紫の声に藍は反応する。
「24時間の自由を与えます。どこへ行ってもいいわ、何をやっても良いわ。
ただし、明日になれば回収に来ます。回収して、解体して、取り出して……」
紫は藍の顔を見る。自分の顔が映っている二つの丸い瞳を見る。
「お疲れ様。良い休暇を」
紫はそう告げると隙間の中に入っていった。
部屋に戻ると橙がまだ寝ていた。
紫もまた布団に戻る。
藍の問題も明日で解決する。ぐっすりと眠ることが出来そうだ。
こうして寝てる間にも作業を進ませる為に式神を作った。
脳内に藍と初めて出会った頃からの映像が浮かんでくる。
今でこそ藍は、紫の片腕と言われる式神にまで成長したが、初めの頃は式にする妖怪を間違えたのかと心配したこともある。
力は強く頭の回転は早いが料理や家事が苦手だった。
式にしたばかりの頃はよく失敗して見た目も味も胃に悪い料理を作ってくれたものだ。
料理や裁縫の度に指に包帯を巻いていた。
失敗するたびに紫は藍を厳しく叱りつけていたが、主人に対して変な恐怖心を持たれても困るということで
怒ったあとには必ず藍の九つに分かれた絹のように美しい尻尾を櫛で梳いていた。
人間用の櫛を金色の布に優しく通す。ゆっくりと、ゆっくりと時間の進みを緩めるように紫は藍の尻尾を愛でいた。
そういえば、いつごろからか、藍は要領が良くなりミスの頻度を次第に減らし、一人前の式神となってからはあの櫛をほとんど見なくなった。
藍の尻尾を最後に梳いてやったのはいつだろうか。感触すら忘れてしまった。いや、忘れるわけがない、思い出せないだけだ。
ただただ心地が良いものだったと記憶だけが残っている。
触れるだけで気持ちが良いのだから顔を埋めたらどうなるのだろうかと想像したことがある。実際に確かめてみればいいだけなのだが
まだ一度も試したことがなかった。恥ずかしかったのだろうか。
まあ、最後に試してみてもいいかもしれない。
紫が手を伸ばすと柔らかな感触がした。いつのまにか絨毯に包まれていたみたいだ。
それから、獣のにおい。紫はこのにおいが嫌いではなかった。
眼を開けると紫は金色の柔らかい毛に包まれていた。
顔を埋めてみる。
数本の毛が鼻に入り、濃い獣のにおいがした。
「くしゅん!」
眼を開けると紫は金色の柔らかい毛に包まれていた。
鼻に細かい毛が触れている。藍の九尾だった。
尻尾を撫でるが、藍は寝ているのか、反応を示さない。
自分は夢を見ているのだ、でなければ藍がここに居るはずがないと紫は思う。
藍がどうやったら外から結界を破ってこられたのか考えながら紫は再び眼を閉じた。
鰹の香りが紫の空っぽの胃を刺激してきた。
睡眠欲と食欲との永きにわたる宿命の対決が始まろうとしたが主はあっさりと食欲に旗を上げた。
台所に見慣れた光景が写った。朝食を作る割烹着を着た藍、その藍の横で手伝うエプロンを着た式の式の橙。
紫は気だるそうに起き上がり、台所へ移動する。
「あっ、紫様おはようございます」藍は紫に気づき振り返る。
「おはようございます」橙も続く。
「うん、おはよう」
「今日は珍しくお早いですね」
「う~ん、まあ、24時間くらい寝てたからね……早いのかしら」
「いつものことじゃないですか」
「そんなことないわよ」
「紫様そんなに寝られるんですか、私はそんなに寝たことないです! すごいです!」
「良い子ね~橙は」紫は橙の頭を撫でる「寝る子は育つからどんどん寝なさい。私みたいになれるわよ」
「橙に悪影響な事言わないで下さいよ」
「まあ、大妖怪になる秘訣を教えてあげたのに」
「ぐうたら妖怪になる方法の間違いですよ」
「……早くご飯を作りなさい、お腹が空いてるのよ私」
「わかってますよ」
主人と主人の主人のやり取りを橙は懐かしい気持ちで聞いていた。
紫は欠伸をして背中を伸ばして言った。
「そうそう。藍、食事が終わったら私の部屋に来なさい。式、取ってあげるわ」
「で、なんで泣いてるのよ幽々子」
「良い話だわ~」幽々子は袖を目頭に当てる。
紫達は白玉楼へと藍手作りの稲荷寿司を手土産に遊びに来ていた。
「良い話かしら……私からしたら迷惑な話よ」紫は腕を組んだ。
「藍の両手気づいてるでしょ」
「ええ」
庭園で藍と橙と妖夢の3人は会話をしていた。
紫と幽々子は藍の手を見た。指には包帯が巻かれている。
「いくら結界が緩くなっていたとはいえ、博麗結界との二重構造である外と幻想郷の壁を
ひとりの妖怪が自分の意思で無理矢理入ってくるなんて普通なら不可能な話ね。
例外として外から来る人間みたいに偶然が重なったか、最近入ってきた狸位の大妖怪か、外の世界への強烈な願望か……。
通常の藍なら出来たかもしれないわね、でもとてもじゃないけどこの前までのバグ藍じゃどう考えてもね」
「そこは、ほら、主人への愛ってやつよ。遠くに捨てた犬が主人に一目会いたい一心で、途方も無い旅の果てに
ついに主人と再会する。感動するしかないわね~。紫に対する藍の愛が幻想郷の壁を越えたのよ」
「……愛と藍で掛けたいだけでしょ」
「そんなことないわよ~。あの手を見なさいよ。きっと強引に結界を破ってきたのね」
「みたいね。結界に大きな穴ができてたわ。そのおかげで私も霊夢から穴を開けられそうなくらい強く殴られたわ」
「まあまあ、これにて一見落着ってね」幽々子は稲荷を箸でつかみ口に運ぶ「でも、結局藍はなんで戻れたのよ」
「私の式には自動でバグを修復する機能があるって話したでしょ」
「うん」
「それが正常に働いて藍は元に戻った。めでたしめでたし」
「ふ~ん……えっ、それだけ?」
「そう。それだけなのよ。自動修復機能を付けたはいいけど、考えてみればそれが機能してるとこ見たことないのよね。
ほら、元のプログラムが完璧だからそもそもバグなんて今までなかったし、まさかあんな風になるとは思わなかったわ。
強制的に式を剥がすこともできなくなるなんて式神は奥が深いものね」
「原因は?」
「藍から式を剥がして履歴を見てみたけど……精神にかなりの負荷が掛かってたみたいね。
式を憑けるとその妖怪の性格が変わる様に、媒体になった妖怪の精神と式は繋がりができる。
どうやら藍の疲弊した精神状態が式に影響を与えてバグを生み出したのよ」
「つまり紫が藍をこき使い過ぎたのが悪かったのね」
「こき使っただなんて人聞きの悪い、そんなに働かせてないわよ……それに幽々子にだけは言われたくないわね」
「私はちゃんと病気になった時は休みを出すわよ」
「病気になる前に休ませなさいよ」
「自分に言ってるの?」
「……流石に私も悪かったと思ってるわ、それにまた霊夢に殴られるのは嫌よ。だからちゃんと改善策は考えたわ」
「どうするの?」
「藍」
紫は橙と妖夢と会話をしていた藍を呼んだ。
「はい紫様」藍は顔を紫に向ける。
「こっちに来なさい」手招きをする紫。
「はい、何でしょうか」
藍は紫の元へ移動した。
「ここに座りなさい」
紫は縁側に手を置いて言った。
不思議そうな顔で縁側に藍は腰を下ろした。紫は藍の背後に回り、両膝をついて尻尾に触れる。
紫は袖から櫛を取り出し、藍の九つの尻尾を優しく梳いた。
「ゆ、紫様」藍の声は緊張していた。
「前を向いていなさい」
振り向こうとする藍を紫は制する。
麦色の柔軟な細い繊維の束に朱色の櫛がゆっくりと流れていく。
「……懐かしいわね」
「はい……」藍は照れくさそうに頷く。
「その、今回はすみませんでした。記憶はありませんが、色々とご迷惑を……」
「もういいのよ、過去の事だから。それに勉強にもなったわ。
私ね、てっきり藍が元に戻らないと思って、新しく式を新調しようとしたの。
藍と同レベルのスペックの持ち主は、候補ならいくつか見つかったわ。
だけどね、上手くいかなかった。
藍を式神にした時みたいにすんなりいくかと思ってたけど、式神にするには問題がある妖怪ばっかりで
どうしようかと悩んだわ。
みんな、藍みたいに素直な子だったら良いのにね」
「そ、そんな、私は……紫様どうしたんですか……」
普段の紫とは違う優しい口調で褒められ、藍は動揺していた。耳が熱くなってきた。
「いえね、無くなることで初めてその価値が実感できるなんて経験、久しぶりだったから……。
私にとって藍は貴重な存在だったから、これからはもっと大切にしていこうと思っただけよ。
おかしいかしら?」
「いえ、まったくそんな事はありません……その……良い……考えだと思います……」
顔を赤くしながら話す子供の様な藍の姿に、幽々子は頬を緩ませる。
紫は眼を閉じて、藍の尻尾を撫でた。
紫の言葉に嘘は無い。
この一件でわかった事は藍の変わりの式を用意する為にはまだまだ時間が必要だという事と
藍には不安要素があるという事だ。
紫は藍には適当な量の作業を与えたと思っていたが、どうやら自分の見当が違っていたらしい。
藍のスペックを見積もり誤っていたのだ。これは自分が悪かったのだと彼女は反省していた。
だが藍のお陰で自分の見積もりの甘さを知ることができた。藍には感謝をしなければいけない。
しかし、この程度の作業量でバグってしまう様なら紫の理想の式神にはまだ遠い。
式神を憑ける素体の段階からもっと気をつけるべきだった。
幸いにも良さそうな素材は見つかった。
虎か狸か猫か……どう調教していこうか今から楽しみだ。
きっと、次の式神は自分の要求に耐えうるものになるだろう。耐えるように作るのだから。
それまでは、藍には頑張ってもらわないと困る。大切に扱うようにしよう。
壊れないように、壊れないように。
、
「バグる?」幽々子は握り拳ほどの饅頭を口に頬張りながら尋ねた。
白玉楼に広がる美しく整備された白銀の庭園で、桜の木の前で橙と妖夢と藍が立ち話をしている。
従者達の姿を主人達は縁側に腰を落として和菓子を食べながら見ていた。
「不具合、欠陥。何らかの原因で異常が起こり、正常とは違う状態になってることよ」
「……異常……つまり病気にかかってるってこと?」
「ええ。生き物に例えるならね」
饅頭を食べ終えた幽々子は両手で湯飲みを口元に運ぶ。
「そう。それならまさに今の彼女はバグっているのね」
「そういうこと」
紫と幽々子は桜の木の下で雑談をしている藍に顔を向けた。
藍は橙に優しく話し掛けた。
「いいかい橙、昔は昔、今は今、生まれ変わって生まれたてなんだよ」
橙は小さく息を吐き、妖夢は首を捻った。
「藍さん何を言ってるんですが?」妖夢は尋ねる。
「この幻想郷の空が壊れジャーン崩れ落ちてくればです」
「えっ? な、何なんですが?」
状況がわかない妖夢に橙が説明をした。
「妖夢さん気にしないでください、最近よくあることですから。紫様が言うには藍様はバグってるんです」
「バグる……?」
困惑した彼女は自分の主人に視線を送った。
ずずっとお茶を飲み干した幽々子は中身が空になった湯飲みをお盆の上に戻した。
「……で、どうするの?」
「何を?」紫は扇を広げて顔を仰ぐ。
紫と幽々子は従者達を観察しながら会話を続ける。
「あの式神よ。このままだとただの狐より使えないんじゃない?」
「藍はこのままよ。別に良いじゃない。見てて飽きないし」
幽々子は紫の表情を確認する。
「本気? まあ私は困らないからいいけど、紫は不便でしょ。治さないの?」
「大丈夫よ。私が作った式神を打ってるのよ。ちゃんと自分で原因を探して自動で復元する機能が付いてるわ。
明日には直ってるかもしれないし、そんなに心配することないわ」
「なんだ勝手に治るのね」幽々子は安堵の息を吐く「式神ってなんか複雑みたいだから、元に戻すのが大変なのかと思ったわ」
「式神を直す方法は色々あるわ。何らかのショックを与えるのもそのひとつよ。手っ取り早く傘で叩くとか」
紫は笑顔で傘を振り回すジェスチャーをする。
以前読んだ天狗の新聞の内容を幽々子は思い出した。
そうかあれは藍のバグを治す為にしていたのかと納得した。
「そんなこと言ってると、また天狗に余計な疑いを掛けられるわよ」
幽々子は微笑を浮かべて紫を茶化す。
「妖夢も叩いたらあの真っ直ぐすぎる性格も治るのかしら……」
従者を見ながら幽々子がつぶやく。
「真っ直ぐだったものを叩いたら曲がるだけでしょ」
「刀だったら叩けば直って簡単なのになあ」
「ちょっと紫様!」
妖夢が声を上げながらこちらに駆け寄ってくる。
「何かしら?」
慌てる妖夢に対して落ち着いて紫は対応する。妖夢は藍に指を向ける。
「さっきから藍さんの様子がおかしいですよ!」
「見てたから、知ってます」
「し、知ってますって……いやご存知ならなんとかして下さいよ……」
「そう言えば結界はどうなってるのよ」幽々子はまた和菓子をつまむ「最近結界の管理ほとんど彼女に任せきりでしょ。大丈夫なの?」
「結界は一層だけじゃない。博麗結界は霊夢の方でも管理してるし……。まあ、なんとかなるでしょ」
「珍しく、楽観的ね」
「あら、私は楽観視してる訳じゃないのよ。だって藍は必ず自力で直るってわかってるから。
そんな軟な式を作ったつもりは無いし、自分の技術には自信があるもの」
紫は扇の裏で鼻を鳴らした。
幽々子との会話から3日が過ぎた。紫の予想とは裏腹に藍はまだ元には戻っていなかった。
相変わらず壊れてしまったシュレッダーの様に無駄な事を口走る。
「222262325222236236222236……パーフェクト……」
「ゆ、紫様……」橙は不安げな顔を紫に向ける。
藍は良くなるどころか日に増してズレていき、外に出す訳にもいかず住処での軟禁生活を送っていた。
そんな藍の面倒を見る為にマヨイガから橙が召喚されていた。
紫はもう一度、原因を考えてみた。
本体そのものに問題があるのか……それとも式のプラグラムにバグがあるのか……。
いや式に原因があるのならばすぐに自動デバックを始めるはずだ。
それならやはり本体が……しかしそちらの方が考えにくい。
紫はちらりと橙に視線を送る。橙は藍と腕相撲をしていた。
いたっていつも通りに動いている。
橙には特に異常が見られないのが紫には不思議だった。
なぜ藍が壊れているのに、藍の式である橙におかしな所が見られないのだろうか?
式であるはずの藍が式を操ることができるのは藍自身の妖怪としての抜き出た妖力のお陰にほかならない。
だからこそ、式が式を使うなんて芸当が藍には可能なのだ。今の状態の藍がまともに式を扱える訳がない。
紫は赤くなった手の甲を痛そうに押さえている橙に近づき、腰を落として、橙と目線を合わせた。
「橙、大丈夫?」
「このくらいへっちゃらですよ紫様!」
橙は手の甲を紫に見せ、涙目だが笑って答えた。
「……どこか体の具合が悪い所はない? 急に体重が増えたとか誰かに甘えたくなったとか」
「いえ……別にそんなことはないです」首を小さく捻る「どうしてそんなこと聞くんですか?」
どうやら本当に変わりないらしい。
今度は藍の前に腰を落とし式を強制的に剥がす言葉を紡いだ。しかし、藍に変化はない。
すでに何度か試していたが、やはり式が取れない。
こうなっては仕方がない。温故知新。全ての答えは古にある。
原始的な方法で行くことにした。
紫は指を擦りパチンと鳴らす。すると藍の下に隙間が開き、驚く暇を与えず藍を強制移動させた。
突然のことに驚いた橙は紫に尋ねた。
「紫様、藍様をどうしたんですか?」
「ちょっと藍には気晴らしが必要みたいだったから外の世界に送ってあげたわ」
「外の世界ですが……どこですか?」
「鳴門海峡」
水が式神にとっては大敵であり、掛けられるだけでひどく驚く。
その驚いた拍子に式が剥がれてしまうことが稀にあるほどだ。
この特徴を使い、式を藍の意思とは関係なく強制的に取ってしまおうとしたのだが、失敗した。
ずぶ濡れの藍を回収する破目になってしまった。
よほど恐ろしかったのか、藍は部屋の隅で震えていた。
静かになったのは良いことだが、逆効果だったみたいだ。更に壊れたかもしれない。
さて、どうするか。思っていた以上にこの問題は長引いてきた。
今まで放置していたが、藍にまかせっきりにしていた結界の点検、修繕の作業をそろそろ再開しなければいけない。
解決策が無い訳ではなかった。代わりの式神を用意すればいいだけの話だ。
候補としてすぐに浮んだのが命蓮寺の寅丸星だった。
封印されていた聖人が復活し、信仰の対立関係になる存在だと予感した命蓮寺では教えを広める為写経に力を入れており
庭側に面した障子を開けっ放しにして新鮮な空気を感じながら聖と星は精力的に筆を動かしていた。
「うっ!」
「どうしました星」
星の突然の声に聖の指の動きが止まる。
「いえ、今なぜか急に悪寒が……」
「まあ、まさかまた宝塔が……」聖は困り顔で言う。
「宝塔は大丈夫ですよ。ちゃんとナズーリンに預けてありますから」
「部下に宝を管理させるのもどうかと思いますが……」
「なんだかこう……ぞくぞくっとしたんです。まるで怒った時の聖に睨まれたみたいに」
「聖さんは、怒ると恐そうだしねえ」
「そう、これがまた 毘沙門天様よりも恐くて恐くて。身体強化魔法でガチムぐふ!」
聖は笑顔で星のおでこに水平チョップを叩き込む。
「こんにちは、紫さん。すみません、お見苦しいところを」ほほほと手の平を口元に当てて笑う仕草が妙に年季が入っている。
「いえいえ、こちらこそ急にお邪魔してしまって……門から入りなおした方がいいかしら」
聖は改めて姿勢を正し、紫に向かい合う。
「結構ですよ。用件を伺いましょう。星、客人にお茶とお菓子を」
「わかりました」
立ち上がろうとする星を紫は呼び止める。
「お茶は結構です、すぐに済みますので。それに星さんにも居ていただいた方が話は早いですし」
「私ですか?」星は人差し指を自分に向ける。
「はい、話というのは星さんをしばらく家で預からせて頂けないかと思いまして」
思いもよらない紫の要望に聖と星の表情は一瞬動きが止まった。
「え、えっと……私をですか? 話がよく見えないのですが……」片手を後頭部に回しながら答える星。
「なにもそんなに難しい話ではありませんわ。
実は私の式神が体調を崩しておりまして、どうも回復にはしばらく時間が掛かりそうなんです。
しかし、私にもやらなければならない事もあり、式ばかりに構っていられないのです。
そこで数日の間ですが星さんには住み込みで式神の世話をしてほしいのです」
「まあ……紫さんの式神さんには人里で一度会った事があります。とても聡明な方でした。
あの方が世話を必要なほどの状態とは……お気の毒に。
事情はわかりました。その程度でしたらお安い御用です。ね、星」
聖が星に顔を向けると、星は紫に頭を下げていた。
「申し訳ございません、紫さん。貴方の願いを聞く訳にはいきません。
数日とはいえ私は命蓮寺を離れるわけにはいかないのです」
「ほんのしばらくの間ですわ」
「申し訳ないですが……」
「星さんは命蓮寺を離れるわけにはいかないとおっしゃりますが、今後外泊はしないおつもりで?
まだお若いのにもう隠居生活に入られるのですか?」
「いえ、その様な訳ではありません。ただの私の我侭です。
ここ命蓮寺では毘沙門天様を本尊としております。口外はしていませんが妖怪である私が毘沙門天様の
代理として人々の信仰を受けてきました。
私はこの毘沙門天様の代理という立場を誇りと信念を持って務めています。
ただの虎の妖怪に過ぎない私を毘沙門天様は弟子として認め下さり、自身の代理に選んでくれました。
最近また新しい信仰の対象が現れたと聞いています。
今の重要な時期に命蓮寺を離れることを毘沙門天様ならなさらないはずです。
私はあくまで代理に過ぎない存在ですが、代理としての務めを全霊をもって果たすことが毘沙門天様に対する私の信仰なのです」
聖は眼を広げていたが、やがて穏やかな表情で話す。
「星がそこまでの熱意をもっているのなら毘沙門天様もきっとお喜びになられるわ。
私が封印される前の星とは見違えて見えます。立派になりましたね」
「私がここまで成長できたのは、私を毘沙門天様に紹介して下さった聖のお陰なのですよ」
「星ったら嬉しいことを」
何やら居づらい空気が漂い始めるが紫は更に話を進める。
「星さんの主人に対する想い、命蓮寺には必要な方だとよく理解しましたわ。ではこうしましょう」
紫は人差し指を上に向けて提案する。
「毎日2時間だけ家に来てください。もちろん毎日の行きと帰りの移動は私が責任を持って行いますわ」
星は黙って首を振った。
「私はあくまで代理にすぎない存在ですが、私は命蓮寺の本尊であり、本尊である以上私は命蓮寺そのものなのです」
星の眼光が紫を写す。
「……わかりました。今日は帰りますわ」
紫は立ち上がり、目の前の空間に指を切り隙間を広げた。
「ああ、それと」
振り返った紫に星は真剣な眼差しを送る。
「毘沙門天様は主人などではなく、主従関係なのどという言葉で表すものではありません。お気をつけ下さい」
「……承知しましたわ」
これは少し嫌われたかなと思いつつ紫は退散した。
寅丸星、話で聞いていたより優秀みたいだ。
流石、毘沙門天がその実力を認め代理を任されるだけの逸材ということか。気に入った。
紫は自分の式に相応しい素材が見つかり嬉しくなっていた。
これは是非とも星を式神にしたいものだ。
しかし、彼女の背景には毘沙門天がついている。彼女に手を出すのは武神に喧嘩を売るのも当然だ。
リスクが大きすぎる。
それに、聖を筆頭に命蓮寺の妖怪達も黙っていないだろう。
寅丸星を式神にする道は山あり谷ありの大冒険になりそうだ。
たとえ式神にできたとしても問題が多く残るだろう。
この危険な道とは真逆のかなり安全な道の検討を紫は始めた。
苦肉の策ではあるが橙を紫の式神にするという手だ。
しかし、どうやら今が換え時らしい。何気なく立ち寄った神社で思わぬ朗報があった。
「狸の妖怪?」
「ええ、なんでも外の世界からやって来たらしいわ」
博麗神社で箒を面倒くさそうに動かしながら掃除をしている霊夢は言った。
「えっと、確かぬえの奴に妖怪側の切り札として呼ばれたって言ってたわね」
「妖怪の切り札ねえ……その切り札さんは何処に居るのかしら」
「妖怪寺に住み着いたらしいわよ」
「ふむ……」
「どうしたのよ?」
紫は遠くを見ながら考え事を始めた。紫は違う世界へと旅立ってしまった。
霊夢は小さな溜息を一つ。また掃き掃除に戻る。そこで紫に話があった事を思い出した。
「あ、そう言えばさあ、あんた最近結界の管理さぼってるでしょ。
外の世界との境界が緩んできているわ。霖之助さんが外の世界からの流れ物が多いって言ってたし。
ここで油売ってる暇があったらさっさと結界を修復しなさいよ」
霊夢が紫の方へ振り向くとすでに彼女は姿を消していた。
命蓮寺の屋根付近に空間が開いた。
隙間から上半身だけをゆっくりと出して上下左右を警戒する。どうやら周辺に誰も居ないみたいだ。
安心して隙間から乗り出し、ふんわりと庭へ着地する。
妖獣のにおいは星の説得の際にも感じていた。
しかし、ここは妖怪寺である。不思議な事でもないと思い、特に気にしていなかった。
だがより意識を高めてにおいを探ると確かにこの幻想郷で感じる妖獣とはまた違うものだ。
普通の妖獣からは自己主張の強いにおいがするものだが、これは違う。
わざと自身の抑えている様に感じるのだ。
自己顕示欲を押さえられるほど理性の働く妖怪がこの幻想郷にどれだけ居るだろうか。
紫はこのにおいの主に興味と期待を抱いた。
「おじゃましますわ」
紫は縁側から室内へと無断で上がりこんだ。
畳の上を遠慮なく歩き、襖を迷いなく開けていく。
美味い料理の香りを辿るように紫はにおいの元へと進む。
紫は7枚目になる襖の前で足を止めた。この先に、居る。確信した。
ゆっくりと襖を開ける。
「あら……いらっしゃい」
聖白蓮が正座でこちらを見据えていた。一瞬ではあるが紫の思考が固まる。
停止する紫に対し、聖は微笑で迎える。
「えっと……どちらさまかしら……入門希望者かしら?」
やはり、この聖から獣のにおいがした。だとすれば答えはひとつしかない。
「どうも私は八雲紫と申します。初めまして。
なんでも外の世界からわざわざこちらに入られたとか、幻想郷の住み心地はいかがでしょうか?」
聖は目を細めて一度頭を下げた。
「これはこれは……貴方が妖怪の賢者と言われる八雲紫さんですか。話は聞いております。
幻想郷の生みの親だとか、近々挨拶に行こうかと思っていたんです。
そちらから来てくれるなんて、手間が省けて助かります」
「私もあなたの噂は聞いてますわ。なんでも聖人に対する妖怪の切り札として外から召喚されたとか。
狸の妖怪だとも伺っています。あなたの変化の術は素晴らしい完成度ですね。
一寸とは言え私ですら動揺してしまったのですから」
「その動揺を見逃してしまいましたわ、もっと驚いてくれると思っていましたので。
会心の一撃を与えたつもりでしたのに……まだまだ私も精進が足りませんね」
「変化の術は十分堪能させて頂きました。ぜひ本来の姿を見てみたいものですわ。」
紫が微笑むと聖も笑って返した。
「嫌です」
「なぜですか?」
「……名前、容姿、服装、髪、表情、目、言葉、香り……貴方は全てが怪しいですね」
「妖怪ですから、当然ですわ」
「貴方からは邪気を感じます……貴方が命蓮寺に表れてから、お酒が不味くてしかたがありません」
「おや……私程度の妖気にあてられて気分を害するなんて……優秀な狸の妖怪との噂は間違いだったのかしら」
「特に私が先ほどから気になっているのは貴方から漂う僅かに残った狐の臭いです。
なんと醜い臭いなのでしょうか? 私の鼻が腐ってしまいそうです」
狸と狐が犬猿の仲であることはもちろん知っていた。
当然においには気を使っていたつもりだったが、紫の予想を上回る程に相手は鼻が利いた。
「貴方、外の世界で何と呼ばれていましたか?」
「忘れてしまいましたわ。ですが、貴方が外の世界で何と呼ばれていたかは知ってます。
神隠しの主犯、相手を不安がらせることを好む悪趣味な妖怪、御山の大将、なんか胡散臭い。
どうも良い噂を聞きません。
それに狐を部下として行使しているとか……まさかそんな筈はありませんよねえ」
紫は微笑み軽く会釈をしてから隙間を広げた。最後に尋ねる。
「貴方、私の式神になるつもりはないかしら?」
「もちろん、微塵もありません」彼女は笑顔で紫を見送った。
「お帰りなさい紫さま」
エプロン姿の橙が主人の主人を出迎える。
「あ……」橙は紫を見上げて口を開ける。
「どうしたの、橙?」
「いえ、すみません。紫様が笑っているの久しぶりに見たので、なんだか見とれてしまって……」
「……私、笑っているの?」
「え、は、はい」橙はこくりと頷く。
紫は片手の人差し指で口元を触れる。口の端が僅かに上がっていた。
「ねえ、橙。あなた私の式になるつもりはないかしら?」
「わ、私がですか! 無理ですよ!」
「橙には素質があると思うわ」
「嬉しいですが……とても私では藍様の代わりは務まりません……」
「大丈夫よ。ちゃんと貴方に合わせた式を用意してあげるわ」
あ、それ良いわね。それなら藍から式をアインストールする必要もないし。
「藍様みたいになれる自信がありません……」
でもその場合式を一から作らないといけなくなるわ。それは面倒ねえ。
「藍だって式になったばかりの頃はよく失敗をして私に怒られていたわ。そうやって成長するものよ。
橙だっていつかは藍の様な大妖怪になりたいと思っているのでしょう?」
ああ、それに結界の管理を橙がひとりで出来るようになるまで私も手伝ってやらないと……。
「もちろんです」
橙の尻尾が9本になるにはどれだけの時間が掛かるのやら。
「それならいつかやって来るその時期が早くなるだけよ。橙にとってもそれはプラスになるでしょう。
藍が元に戻ればそれが一番良いけれど、橙もこれから先のことを良く考えておきなさい」
強制的に橙を藍のレベルまで引き上げるのも面白そうだけど、長く持ちそうにないし。
「はい、紫様」橙は頷く。
さて、どうしようかしら。
「良い子ね」紫は橙の頬を優しくなでた。
虎? 狸? それとも猫?
どれを行使するにしろ式がいる。
それに霊夢の言う通り結界が薄くなってきたみたいだ。早急に対応する必要がある。どうするか。
一番手っ取り早いのは藍から式をアインストールし、その式を虎か狸にインストールする方法だが今の藍はアインストールを受け入れない。
しかたがない、ここは取り合えず、私が結界を修復して時間を稼ごうかと紫は考えていたがひとつの案がふと浮んだ。
藍の式神を力ずくで取り出し、結界の修復が記録されている箇所だけを残してその縮小した式を橙の式と融合させるのだ。
これなら結界の修復の仕方を藍のデータを使う事で短時間で学習できるはずだ。後は橙を成長させていけばいい。
だが、この道の途中には藍の亡骸が落ちている。しかし、この道を通るにせよ他の道を通るにせよ、どの手段を取ろうと藍は泣かなければいけないのだ。
やはり、藍は、ここが限界。廃棄処分になる時期だったのだ。
早朝、紫は藍を外の世界へと連れ出した。
太陽すらまだ眠っている浅黒い空。藍はきょろきょろと首をよく動かして周りを観察する。
後ろには古びた鳥居が立ち前には急な石の階段が見える。
「藍。よく聞きなさい」紫の声に藍は反応する。
「24時間の自由を与えます。どこへ行ってもいいわ、何をやっても良いわ。
ただし、明日になれば回収に来ます。回収して、解体して、取り出して……」
紫は藍の顔を見る。自分の顔が映っている二つの丸い瞳を見る。
「お疲れ様。良い休暇を」
紫はそう告げると隙間の中に入っていった。
部屋に戻ると橙がまだ寝ていた。
紫もまた布団に戻る。
藍の問題も明日で解決する。ぐっすりと眠ることが出来そうだ。
こうして寝てる間にも作業を進ませる為に式神を作った。
脳内に藍と初めて出会った頃からの映像が浮かんでくる。
今でこそ藍は、紫の片腕と言われる式神にまで成長したが、初めの頃は式にする妖怪を間違えたのかと心配したこともある。
力は強く頭の回転は早いが料理や家事が苦手だった。
式にしたばかりの頃はよく失敗して見た目も味も胃に悪い料理を作ってくれたものだ。
料理や裁縫の度に指に包帯を巻いていた。
失敗するたびに紫は藍を厳しく叱りつけていたが、主人に対して変な恐怖心を持たれても困るということで
怒ったあとには必ず藍の九つに分かれた絹のように美しい尻尾を櫛で梳いていた。
人間用の櫛を金色の布に優しく通す。ゆっくりと、ゆっくりと時間の進みを緩めるように紫は藍の尻尾を愛でいた。
そういえば、いつごろからか、藍は要領が良くなりミスの頻度を次第に減らし、一人前の式神となってからはあの櫛をほとんど見なくなった。
藍の尻尾を最後に梳いてやったのはいつだろうか。感触すら忘れてしまった。いや、忘れるわけがない、思い出せないだけだ。
ただただ心地が良いものだったと記憶だけが残っている。
触れるだけで気持ちが良いのだから顔を埋めたらどうなるのだろうかと想像したことがある。実際に確かめてみればいいだけなのだが
まだ一度も試したことがなかった。恥ずかしかったのだろうか。
まあ、最後に試してみてもいいかもしれない。
紫が手を伸ばすと柔らかな感触がした。いつのまにか絨毯に包まれていたみたいだ。
それから、獣のにおい。紫はこのにおいが嫌いではなかった。
眼を開けると紫は金色の柔らかい毛に包まれていた。
顔を埋めてみる。
数本の毛が鼻に入り、濃い獣のにおいがした。
「くしゅん!」
眼を開けると紫は金色の柔らかい毛に包まれていた。
鼻に細かい毛が触れている。藍の九尾だった。
尻尾を撫でるが、藍は寝ているのか、反応を示さない。
自分は夢を見ているのだ、でなければ藍がここに居るはずがないと紫は思う。
藍がどうやったら外から結界を破ってこられたのか考えながら紫は再び眼を閉じた。
鰹の香りが紫の空っぽの胃を刺激してきた。
睡眠欲と食欲との永きにわたる宿命の対決が始まろうとしたが主はあっさりと食欲に旗を上げた。
台所に見慣れた光景が写った。朝食を作る割烹着を着た藍、その藍の横で手伝うエプロンを着た式の式の橙。
紫は気だるそうに起き上がり、台所へ移動する。
「あっ、紫様おはようございます」藍は紫に気づき振り返る。
「おはようございます」橙も続く。
「うん、おはよう」
「今日は珍しくお早いですね」
「う~ん、まあ、24時間くらい寝てたからね……早いのかしら」
「いつものことじゃないですか」
「そんなことないわよ」
「紫様そんなに寝られるんですか、私はそんなに寝たことないです! すごいです!」
「良い子ね~橙は」紫は橙の頭を撫でる「寝る子は育つからどんどん寝なさい。私みたいになれるわよ」
「橙に悪影響な事言わないで下さいよ」
「まあ、大妖怪になる秘訣を教えてあげたのに」
「ぐうたら妖怪になる方法の間違いですよ」
「……早くご飯を作りなさい、お腹が空いてるのよ私」
「わかってますよ」
主人と主人の主人のやり取りを橙は懐かしい気持ちで聞いていた。
紫は欠伸をして背中を伸ばして言った。
「そうそう。藍、食事が終わったら私の部屋に来なさい。式、取ってあげるわ」
「で、なんで泣いてるのよ幽々子」
「良い話だわ~」幽々子は袖を目頭に当てる。
紫達は白玉楼へと藍手作りの稲荷寿司を手土産に遊びに来ていた。
「良い話かしら……私からしたら迷惑な話よ」紫は腕を組んだ。
「藍の両手気づいてるでしょ」
「ええ」
庭園で藍と橙と妖夢の3人は会話をしていた。
紫と幽々子は藍の手を見た。指には包帯が巻かれている。
「いくら結界が緩くなっていたとはいえ、博麗結界との二重構造である外と幻想郷の壁を
ひとりの妖怪が自分の意思で無理矢理入ってくるなんて普通なら不可能な話ね。
例外として外から来る人間みたいに偶然が重なったか、最近入ってきた狸位の大妖怪か、外の世界への強烈な願望か……。
通常の藍なら出来たかもしれないわね、でもとてもじゃないけどこの前までのバグ藍じゃどう考えてもね」
「そこは、ほら、主人への愛ってやつよ。遠くに捨てた犬が主人に一目会いたい一心で、途方も無い旅の果てに
ついに主人と再会する。感動するしかないわね~。紫に対する藍の愛が幻想郷の壁を越えたのよ」
「……愛と藍で掛けたいだけでしょ」
「そんなことないわよ~。あの手を見なさいよ。きっと強引に結界を破ってきたのね」
「みたいね。結界に大きな穴ができてたわ。そのおかげで私も霊夢から穴を開けられそうなくらい強く殴られたわ」
「まあまあ、これにて一見落着ってね」幽々子は稲荷を箸でつかみ口に運ぶ「でも、結局藍はなんで戻れたのよ」
「私の式には自動でバグを修復する機能があるって話したでしょ」
「うん」
「それが正常に働いて藍は元に戻った。めでたしめでたし」
「ふ~ん……えっ、それだけ?」
「そう。それだけなのよ。自動修復機能を付けたはいいけど、考えてみればそれが機能してるとこ見たことないのよね。
ほら、元のプログラムが完璧だからそもそもバグなんて今までなかったし、まさかあんな風になるとは思わなかったわ。
強制的に式を剥がすこともできなくなるなんて式神は奥が深いものね」
「原因は?」
「藍から式を剥がして履歴を見てみたけど……精神にかなりの負荷が掛かってたみたいね。
式を憑けるとその妖怪の性格が変わる様に、媒体になった妖怪の精神と式は繋がりができる。
どうやら藍の疲弊した精神状態が式に影響を与えてバグを生み出したのよ」
「つまり紫が藍をこき使い過ぎたのが悪かったのね」
「こき使っただなんて人聞きの悪い、そんなに働かせてないわよ……それに幽々子にだけは言われたくないわね」
「私はちゃんと病気になった時は休みを出すわよ」
「病気になる前に休ませなさいよ」
「自分に言ってるの?」
「……流石に私も悪かったと思ってるわ、それにまた霊夢に殴られるのは嫌よ。だからちゃんと改善策は考えたわ」
「どうするの?」
「藍」
紫は橙と妖夢と会話をしていた藍を呼んだ。
「はい紫様」藍は顔を紫に向ける。
「こっちに来なさい」手招きをする紫。
「はい、何でしょうか」
藍は紫の元へ移動した。
「ここに座りなさい」
紫は縁側に手を置いて言った。
不思議そうな顔で縁側に藍は腰を下ろした。紫は藍の背後に回り、両膝をついて尻尾に触れる。
紫は袖から櫛を取り出し、藍の九つの尻尾を優しく梳いた。
「ゆ、紫様」藍の声は緊張していた。
「前を向いていなさい」
振り向こうとする藍を紫は制する。
麦色の柔軟な細い繊維の束に朱色の櫛がゆっくりと流れていく。
「……懐かしいわね」
「はい……」藍は照れくさそうに頷く。
「その、今回はすみませんでした。記憶はありませんが、色々とご迷惑を……」
「もういいのよ、過去の事だから。それに勉強にもなったわ。
私ね、てっきり藍が元に戻らないと思って、新しく式を新調しようとしたの。
藍と同レベルのスペックの持ち主は、候補ならいくつか見つかったわ。
だけどね、上手くいかなかった。
藍を式神にした時みたいにすんなりいくかと思ってたけど、式神にするには問題がある妖怪ばっかりで
どうしようかと悩んだわ。
みんな、藍みたいに素直な子だったら良いのにね」
「そ、そんな、私は……紫様どうしたんですか……」
普段の紫とは違う優しい口調で褒められ、藍は動揺していた。耳が熱くなってきた。
「いえね、無くなることで初めてその価値が実感できるなんて経験、久しぶりだったから……。
私にとって藍は貴重な存在だったから、これからはもっと大切にしていこうと思っただけよ。
おかしいかしら?」
「いえ、まったくそんな事はありません……その……良い……考えだと思います……」
顔を赤くしながら話す子供の様な藍の姿に、幽々子は頬を緩ませる。
紫は眼を閉じて、藍の尻尾を撫でた。
紫の言葉に嘘は無い。
この一件でわかった事は藍の変わりの式を用意する為にはまだまだ時間が必要だという事と
藍には不安要素があるという事だ。
紫は藍には適当な量の作業を与えたと思っていたが、どうやら自分の見当が違っていたらしい。
藍のスペックを見積もり誤っていたのだ。これは自分が悪かったのだと彼女は反省していた。
だが藍のお陰で自分の見積もりの甘さを知ることができた。藍には感謝をしなければいけない。
しかし、この程度の作業量でバグってしまう様なら紫の理想の式神にはまだ遠い。
式神を憑ける素体の段階からもっと気をつけるべきだった。
幸いにも良さそうな素材は見つかった。
虎か狸か猫か……どう調教していこうか今から楽しみだ。
きっと、次の式神は自分の要求に耐えうるものになるだろう。耐えるように作るのだから。
それまでは、藍には頑張ってもらわないと困る。大切に扱うようにしよう。
壊れないように、壊れないように。
、
作品としては場面のつながりが若干わかりにくかったのが気になりました。
藍の問題は結局バグ取りに時間がかかっただけということでいいのでしょうか?
あと、橙に問題がなかった理由もできればはっきりして欲しかったかなと。
しかしありだと思うんだ。
健気に尽くしてくれてます。
このまま新しい式を作っても、元の妖怪の反発とかで調教は本人が思っているより難しそうですが。
見た所、本体にも独立した意志があるように思えたので。
でも紫様の調教ならちょっと見てみたいかも。
なかなか癖のある紫ですね
人情1:計算9くらいでしょうか。面白いお話でした。
デザインが可愛いし、便利で使い勝手がいいお気に入りの道具。
狸と紫の言葉の応酬がよかったです。