最近、店を開くたびに閉店時刻を心待ちにしている私がいる。
それはけれど、早く店を閉めたい、というような至極当然な理由ではなくて。
他のお客さんがいなくなったのを見計らうようにやってくる、一羽の鴉がいるからだ。
「こーんばーんわー。
皆のアイドル射命丸文、本日も夜分遅くにですがまかりこしましたよー」
今日も来るだろうか、なんて考え事をしながら閉店作業をしていたせいだろうか。
無意識の内に急な来店にも対応できるように備えていたのか、店じまいに支障はないけれど頼まれれば大抵の料理なら即座に出せる、という状況の店内に、丑三つ時に似合わない陽気な声が響き渡った。
どうやら今夜も待ち人は来たらしい。
今日もまた、営業時間が延びてしまいそうだ。
「いらっしゃい、文。こんな遅くまでお仕事お疲れ様。
とりあえずはいつも通り串と天狗舞でいいかしら?」
「大丈夫ですよー。あ、あとほっけとご飯下さい。
朝から飛び回ってたせいでお腹減ってお腹減って」
「一応毎度あり、って言っておくわ。
でもここも屋台とはいえ一応飲み屋だっていうのに、初っ端でいきなり夕飯みたいな献立にしてくれたわね。
当店の売り上げの為にもお酒飲みなさいお酒。折角ひやでも熱燗でもお湯割りでも出来るように準備してるんだから」
「まあまあ女将さん、そんな注文の最初から飛ばさなくてもいいでしょ?
言われずともこの射命丸文、後で天狗の名に恥じない程度には飲ませていただきますとも。
ですから、とりあえずほっけを! というかお腹が満たせて私の血肉になるような食べ物をプリーズ!」
「はいはい。ほっけはまだあったはずだからちょっと待っててくださいな。
あとは……そうそう、今日の分で用意しておいたおでんタネがちょっと余ってるんだけど、良かったらどうかしら?
今日のラストオーダーだろうし、お値段はサービスするわよ?
その分しっかり飲んでってもらうけど」
「本当ですか?!
閉店間際で一日じっくり煮込まれたおでんを半値で食べられるなんて! さっすが女将さん、太っ腹!」
足元を見たはずが、何故か足元を見られている。
けれど、自分が作ったものをこんなにも楽しみにしてくれている、と思うと不思議なほどに腹が立たない。
今朝仕込をする時に少し多めに作ってしまったのも、今思うと僥倖だったのだろうか。
「まったく、調子がいいんだから。
いいでしょう。そこまで言われてこのミスティア・ローレライ、値段交渉をするような商売はしてないわ。
文の真面目な勤務態度に免じて半値でいいわよ。
いきなり全部は要らないわよね? お腹が減ってるって事なら、とりあえず練り物と巾着、それに大根ぐらいでいいかしら?」
「女将さん。女将さん。大根は是非最後に。ここまで来たら最後の締めに徹底的に煮込んだのを頂こうじゃありませんか。
今は肉と炭水化物を。牛スジでもつみれでもタコでもいいですから手っ取り早くお腹にたまりそうな物をください!」
子供のように目を輝かせる文。
自分よりもかなり年上のはずなのに、加えて自分より遥かにここでは重鎮なはずなのに、下手をすると自分よりもずっと若く見えるのは人徳と言っていいものか。
とりあえず、素直に見習おうと思えないのだけは間違いない。
「じゃあ、とりあえずおでんとご飯だけ先に渡しておくわね。
串とほっけは今焼けるからもうちょっと待ってちょうだい。
あと、お酒はどうする?
熱燗で? ひやで?
それとも一気に両方いっちゃう?」
「そんな無理に沢山飲ませようとしないでくださいよう。私を酔わせてどうしようって言うんですか。
まあでも、そっちは女将さんの采配にお任せします。
今の私には、一日漬け込まれたおでんの出汁とネタのハーモニーを吟味するという大仕事が待ってますので」
「そんなに楽しみにしてもらえるなんて光栄至極だわ。
これは、残りも腕によりをかけないといけないわね」
腕まくりをしながら、独断と偏見で決めて温めに燗をした徳利とお猪口をおでんの入った丼の横に置く。
待ってましたと言わんばかりにそこに並々と酒を注ぐ文を眺めて、私も串とほっけの準備に入った。
ほんの束の間、声以外の音が空間を占拠する。
物が咀嚼される音、喉を液体が滑り降りる音、箸が器に触れる音、油が炎に跳ねる音。
焼き八目鰻屋なんて屋台を引いてるものとしては許されざることかもしれないけれど、私はこういう種類の沈黙が嫌いではない。
飲み屋というものは基本的には雑多で、猥雑で、喧騒にあふれているべきだろうし、実際殆どの居酒屋がそうだろう。そして、私の店も大抵の場合そうだ。
けれど、ごく偶になら、こんな風に美味しいものをただ出し、それをただ食べられる瞬間というのがあっても良いと思うのだ。
会話を嫌う訳ではないけれど、会話をすることで得られるものがあるように会話がない事で得られる得難いものがある。
そんな風に最近思えるようになったのは、夜更けに舞い込んで来る鴉と過ごすこんな時間を、自分が思う以上に楽しんでいるからかも知れない。
「おや女将さん、貴方がぼーっとしてるなんて珍しい。
客である私が言うのもなんですが、串の方がそろそろ焼き上がったようですよ?」
っと、いけないいけない。
どうやら夢中になって食べている文の食いっぷりに見惚れていたようだ。
「あら、本当に。今出すからちょっと待っててね。
にしても文、そっちからじゃ焼き色も見えないのに焼き加減なんてよくわかったわね?」
不意を突かれたとは言え、私の声に驚きが混じる。
実際、調理スペースと席の間には衝立があるので中は殆ど見えないはずなのだけれど。
「はっはっは、幻想郷一の情報通、鴉天狗の射命丸文を、なめてもらっちゃあ困りますね。
目隠し越しにでも脂の弾ける音、肉の焼ける匂い、タレが焦げる香りで、普段と同じ焼き加減を判断することなど、私にとっては造作もありません」
それは情報通とは何の関係もない気がするのは私の気のせいなの?
まあ、素直に賞賛に値する特技だとは思うけど。
「自分で包丁握るのはからっきしですけれど、実際私に料理を語らせると長いですよ?
とは言え、これは女将さんの腕のおかげでもあるんですけどね。
肉の状態とかを見て焼き加減を調整してるのは私にもわかりますけど、そうやってタレの濃さだとか火力とか調味料とかを微調整して、毎回私たち客を美味いと唸らせる料理を作る。
その一定以上の品質を保証する味と香りを、無意識に覚えてしまうぐらい恒常的に出してもらってるからこそ私も匂いとかだけで指摘が出来るわけで。
言ってみれば、私のこの芸当の半分は女将さんが普段から美味しい料理を出してくれるおかげって訳です」
「相変わらず口がうまいわねえ。お礼に空いた徳利に補充をあげるわ」
「ご馳走様です」
「誰もおごるなんて言ってないわよ!
はい、ついでに串お待ち。ほっけもじきに焼けるけど、文、ご飯のお代わりは?」
「勿論いただきます!
いやあ、女将さんの商売上手には感心させられますよ」
そう言って突き出されるお椀は、まるでたった今洗ったばかりのように米粒一つついていない。
おでんを出す時に同じ丼に山盛りでよそって出したはずなのだけれど、幾ら妖怪とはいえこの細身にあの量が一体どこに入ったのだろう。
しかもそれを平らげてなお次をよそうのに躊躇がないというのだから、いやはや鴉天狗というのも健啖な種族だ。
私だって仮にも妖怪、いざとなれば人間とは比べ物にならないぐらい無理の利く体ではあるけれど、それでもやはり限界というものがある。
少なくともこの量を二杯も食べたら、私なら胃の容量的に限界だろうし、一杯を平らげた所で二杯目に取り掛かるのは苦行以外の何物でもないはずだ。
それを笑顔でするというのだから、やはり腐っても天狗の一族、私のような凡妖怪風情とは元から違うということなのだろうか。
もっとも、それを目の前の文に言ったら「やだなあ女将さん、そんなの女将さんの料理が美味しいからに決まってるじゃないですか」とでも言われてしまうのだろうけど。
「はい。じゃあ、ご飯のお代わりと、お待ちかねのほっけをどうぞ。
これで注文は揃ってるわね?」
「はいはい、ばっちりですよ。
いやあ、満足にお昼も食べられなかったもんで、これをどれだけ待ったことか。
夕方から現在までの私を動かしてたのは、この料理への食い意地だったって言っても過言じゃないぐらいですからねえ。
二杯目だっていうのに口の中がよだれでいっぱいですよ」
「もう、そんなに褒めても何にも出ないからね?
さあ、お世辞を言ってもらえるのは有難いけど、そんなに喋る方にだけ口を動かしてると折角の料理が冷めちゃうわよ?
どうせ食べるなら焼きたての熱いうちに食べちゃってくださいな」
「別にお世辞って訳じゃあないんですがねえ。
ま、それじゃ謹んで頂戴いたします」
「はい、召し上がれ」
職業柄なのかそれとも種族ゆえか、はたまた単に個人の趣味の問題かもしれないけれど、文は食べるのが物凄く早い。
これを他人がやったらもっと味わって欲しいと思うのだろうが、文の場合それはそれは美味しそうに食べながら且つそれだけの速度で飲み食いをしているのだ。
時々本気でどうやったらこんな風に食べられるんだろうと思う事がある。
「ところで文、お酒の方がそろそろまた空いたみたいだけど、お代わりは要るわよね?」
一応尋ねてはいるけれど、既に空の徳利は私の手の中だ。
「なんでそんな毎回私に拒否権はないかのように聞くんです?
まあ貰うんですが。
いやあさすが女将さん、目配り気配り心配りが行き届いてますねえ」
本人は皮肉のつもりなのかもしれないが、そんなに嬉々としてお猪口を傾けていたんじゃ私が感じるのは微笑ましさだけだ。
まあ、記者に腹芸ができないとは思えないから、こんな態度も私に気を許してくれているからだとも思えるけれど。
「そうでしょうそうでしょう。
疲れも気にならなくなったみたいだし、さっきまで燗だったから今度はひやで出したけど良かったかしら?」
「もう、本当に商売上手なんですから。
いよっ女将さん日本一! 出来る女! 女子力高い!
私が男だったら放っておきませんよ」
「はいはい」
他愛無いやり取りに頬が緩むのを感じながら、氷で冷やしておいた瓶を軽く拭ってカウンターの上に出す。
にしても、これだけの会話を物を食べながら難なくこなすのだから、文も無駄に器用だ。
私だったら、どう考えてもすぐに喉を詰まらせてしまうだろうに。
なんて事を考えながら文の食事を眺めていたら、本当にあっという間に主食がなくなっていた。
常人なら三食分ぐらいの量はあったはずのおでんやご飯やほっけやご飯が、今や文の細身の中にある異次元に格納されてしまった。
一方の文当人はと言えば、満足げにお腹を撫でながらも、今は八目鰻を片手にちびちびとお猪口を舐めている。
「いやあ、食べました食べました。ようやく人心地つきましたよ。
まだ入りますけど、ここから先はまったりモードで行くとしますかね。
あ、女将さん、漬物ください」
「毎度あり。これももう切っちゃったのがあるから、よかったら一緒にどうぞ。
盛り合わせが多くなっちゃうけど、文ならまだ全然平気でしょ?」
「勿論ですとも! そういう事ならこの文にお任せください。
いやあ、それにしても労働の後の一杯は本当に格別ですねえ。美味しい肴と可愛くて切り盛り上手な女将さんがいるとなれば尚更ですよ」
文、貴方もう一杯どころじゃなく飲んでるでしょうに。
「まったく、誰にでもそんな事言ってるとそのうち誤解を招くわよ?
でもありがとう。
折角作った料理だし、文に食べてもらえて食材も喜んでるでしょうよ」
「私が口にするのは全部事実だからいいんですよ、女将さん」
平皿に盛られた漬物を嬉々として齧りながら文が言う。
と、お猪口を干して一息ついた文が、悪戯っぽい目付きでこちらを見てきた。
「ところで、女将さん女将さん。
そろそろこっちも一段落つきましたし、しばらくはあるツマミで呑みますから。
よかったら、女将さんも一杯如何です?」
「あら文、お誘いは嬉しいんだけど、まだ営業中だしお断りするわ」
「まあまあ、いいじゃないですか。
自分からこの時間に押しかけておいてなんですけど、こんな夜更けにもう他のお客さんなんて来ませんよ」
「それはそうかもしれないけど。
でも、文がいるじゃない。
私は、文でも一応お客さんだと思って接してるわよ?」
「一応って何ですか一応って。
まま、そう硬いこと言わずに。
その私が飲もうって言ってるんですから、何も問題ないでしょう?」
「うーん…………」
一応悩む素振りは見せてはみるけれど。
本当の所は、返事は殆ど決まっているのだ。
「じゃあ、ちょっとだけ。ちょっとだけ頂こうかしら」
「さすが女将さん、話がわかりますねえ!」
「おっと、勿論この御代は文が持ってくれるのよね?」
さっきのお返しとばかりに文に尋ねてみるけれど、その笑みはかけらも曇らない。
「はっはっは、女将さん本当に商売上手ですねえ。
勿論ですとも。不肖射命丸文、女将さんのほろ酔い姿が見れるとあらば一杯や二杯おごることに些かの躊躇もございませんとも」
「ふふん、後悔するんじゃないわよ?
じゃあ私も失礼して」
胸の中の感情を気取られないように気をつかいながら、いそいそと自分の分のお猪口を出す。
実際、一通り料理を出した後にカウンターを挟んで私も一杯、というのは、ここ最近の定番になっているのだ。
それを楽しみにしていた私が、いなかったと言えば嘘になる。
「ささ、お猪口を出してくださいよ女将さん。
恐れ多くはありますけど、お酌させてもらいますから」
「あら、お客さんにこんなことまでしてもらえるなんて。
ああいいわいいわ文、そのぐらいで十分。ありがとう。じゃあ、こっちもお返しに」
注ぎ終わるのを見計らって、文の手から徳利を受け取る。
「いやあ、女将さん直々に注いでもらえるなんて感激ですよ。
幸運の揺り返しで明日にでも死んじゃったらどうしましょう」
「文、貴方なんだかんだで昨日もそんな事言ってたでしょう。
その内本当に誰かから刺されるわよ」
「それを身を呈して庇ってくれる人たちにも心当たりがありますからご心配なく」
「……冗談のつもりだったのに、今の一言で一気に真実味が増しちゃったわ。係わり合いになる前に忘れることにしましょう。
はい、注ぎ終わったわよ」
「おっとっと、ありがとうございます。
じゃあ、女将さんの切り盛りに」
「文の健啖に」
『乾杯』
そうして、お互いに程よく満たされたお猪口をぶつける私たち。
この年になってままごとをしているような気恥ずかしい空気の中、陶器の触れ合う澄んだ音が夜の静寂を渡っていく。
観客のざわめきで騒然とする中、自分が出せる限界まで振り絞って声を響かせるのも素晴らしいけれど、存外こういうひたすらシンプルな音色も悪くない。
「くぅーっ」
「っはぁっ」
それに続くように、私たちが吐く溜息が夜陰に溶ける。
煌々と光る満月と、それに雲がかかった時だけ表れる星々。
立派な店構えに憧れない訳じゃないけれど、こうやって風情を感じながら飲むのも悪くない。
月や星や木々や虫や鳥や獣の織り成すざわめきに耳を傾けながら、一息で飲み干さないように大事に大事に、手の中の器を傾ける。
口に含むことで得られる舌触りと、鼻に抜けてくる独特の香り。口の中を転がしてから嚥下すれば、喉に感じる一瞬の冷たさの後に、胃の腑を炙るような温感を余韻として残していく。
一日働いた後の疲労感や倦怠感も混ざって、なんというか、本当に、
「おいしい……」
無意識の内に出た自分の呟きを聞きながら、文が無言で取り分けてくれた漬物をつまむ。
まったく。こういう小さな所で、文の目端の鋭さや記者としての活動風景が見えてくる気がする。
生意気だけど頭の回転の速い、有能なレポーターとしてさぞかし可愛がられているんだろう。
なんてことを、表情を緩ませて肘をついて、お猪口を楽しげに揺らしている文を見ながら思う。
こんな風に黙って微笑んでいると、普段の陽気さが隠れて、なんというか凄く色っぽい。女の私でも一瞬どきりとするぐらいだ。
※
「こんな風に満月の晩に貴方が飲んでると、あの時のことを思い出すわね」
「あの時?」
その横顔がやけに遠くにあるように見えて。
放っておいたら、手の届かない場所に行ってしまう気がして。
私は、気付けば無意識に話題を探して声をかけていた。
「文、貴方は憶えてる?
たしか、今日みたいな夏の終わりだったと思うんだけど。
虫たちがさざめき、風は凪ぎ、中秋の名月に雲一つかかっていなかった、あの晩のことを。
私が貴方と始めて会った来た時のことを。
私は結構鮮明に憶えてるんだけど、文、貴方は憶えてる?
ふっと思い出したんだけど、今更ながらに懐かしいわね。
ほんの去年のことみたいなのに、あれからひい、ふう、……何年経ったのかしら」
「ええ、勿論憶えてますとも。
忘れるわけがないじゃないですか。私が私のいきつけを見つけた晩なんですからね」
つい一瞬前まで自分とはかけ離れた存在にすら思えた顔が、次の瞬間には感情を宿し、表情を表して、いつもの見慣れた文の顔になる。
そのことに、何故だか不思議なくらいほっとしている自分がいた。
「むしろ女将さんがそんな時のことを憶えててくれたのが驚きですよ。
よくこんな取るに足らない鴉天狗が初来店した時のことなんて憶えてましたね。
ここに来るお客さん全員に、初来店の瞬間があったはずなのに。
自分でも冗談めかして鳥頭だなんて言うくせに、実際はまだまだ全然優秀な頭じゃないですか、もう」
隠すこともなく率直に、目を丸くして驚きを表している文。
表情豊かで、本当に私の前では子供のような文。
こんな文の一面を、きっと大抵の人は知らないんだろうと思えば、それだけで少し優越感に浸れてしまうというものだ。
「本当に懐かしいですねえ。
女将さんの方こそ憶えてます?
私はあの時、里でも評判になってきた女将さんの店の取材に来てたんですよ」
そんな事を考えている私をよそに、見開いてた目を一転して閉じた文は、微笑みながら過去に思いを馳せているようだ。
それにつられて、私も同じように昔を思い出してみる。
今の私の顔も、きっと文と同じように昔を懐かしむ顔をしているんだろう。
その瞼の裏には、どんな情景が浮かんでいるんだろうか。
「当たり前じゃない、むしろそっちが印象的で全部憶えてるんだから」
「本当ですかあ?
あの時はてっきり取材を迷惑がられてるんだと思ってましたから、記憶から消してるだろうと思ってましたよ。
店を始めた理由とかも『大したものじゃないわ』であっさり流されましたし。
まあ、あの頃から女将さんとこの料理もお酒も美味しかったですから、もういっそのこと記事にするのはやめて私のいきつけにしちゃおうと思って今に至る訳ですけど」
「そんな事もあったわね。
あの時のことは少しだけ悪かったと思ってるわよ。
あそこまですげなく断らなくても良かったかしら、とか今は思ってるし」
多少の決まり悪さを感じながらも、徳利が空になったのを見計らって、新たに酒を満たした器を置く。
心得たもので、文の方もそれが当然であるかのように新しい器を手に取り、嬉しそうに手元のお猪口に中身を注いでいる。
そんな他愛無いやり取りに、今の私は、不思議なぐらい喜びを感じている。
「そうよね。言われてみれば、あの時は話さなくて、その後は聞かれなくて、結局その話をしたのはあれが最初で最後になるのかしら」
私がこの店を始めた理由。
私が夜雀としての在り方を変えた理由。
私が、今までの私を捨てて、新しい私であろうとした理由。
「そうね。今更といえばこれ以上ないぐらいに今更だけど」
本当に、何年引っ張ったかわからないぐらいの引き方になってしまったけれど。
「取り立てて隠しておくようなことでもなし。
興味を持ってもらえるうちに話してしまいましょうか。
ねえ文、聞いてくれるかしら。私がこの店を始めた、その理由を」
「本当ですか?」
その名に関するのは鴉の字なのに、まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔でこちらを向く文。
私としてはそんなに驚かれるようなことかしら、と思うけれど、でも文からすれば最初に聞いて以来触れたくても触れられなかったタブー、みたいな感じだったのだろうか。
「女将さんが嫌じゃないなら、それは是非伺いたいですよ。
記者としての使命感や好奇心を抜きにしたって、女将さんの屋台の常連の射命丸文として、教えてもらえるなら喜んで聞かせていただきます」
こちらが引いてしまうぐらいに勢い込んで、文は身を乗り出してくる。
その豊かな胸がお猪口を倒しそうで、私としては別な意味でハラハラしてしまう。
まあでも、誰かにこんな風に興味を持ってもらえることの尊さを、私は知っている。
私を私として見てくれて、興味を持ってくれるなんて、あの時を思い返せば、本当に何て幸せなんだろうか。
「そうね。じゃあ、少しだけ語らせてもらおうかしら。
私が、この幻想郷にきて、この店を始めた理由を。
普段より少しだけお喋りなのは、貴方に勧められたお酒が悪いんだ、って事にしておきましょう」
夜空に満月が浮かんでいるのは知っている。
知っているから、空は見上げず、手元のお猪口を覗き込む。
顔を上げないのは、その水面に映る満月を見ているから、ということにして。
慣れない自分語りをする、自分でもわかるぐらいに照れた顔を俯けて、私は話し始める。
夜雀のことを。
人の歩みを止め、惑わせ、狂わす存在のことを。
歌で人を狂わす程度の能力を持つ、私、ミスティア・ローレライのことを。
「この幻想郷に来る前から、話を始めるわ。
日ノ本の国については、語る必要はないわよね。貴方も私も、同じ日本生まれのはずだもの。
その日本の、片田舎。地元の人間が、自分たちの里が国のどこにあるのかすらちゃんと知らないぐらいの田舎の、普段は滅多に人が入らない、里山の奥の奥。
昼時でも薄暗いその場所で、私たちは暮らしていたわ。
そこでの私は、仲間たちの誰よりも正しく夜雀だったのよ」
山を往く人間に歌い、狂わせ、道に迷わせ誘いこむ。
そうしてやってきた人間を食らう事が、私の、夜雀の、妖怪としての務めだった。
「山深い、って言葉が正にぴったりの、名前も知らない木々と、騒々しくて、けれど姿を見せない生き物たちと、そういうものの陰に潜む妖怪が、適当に混ざり合いながら暮らしていた場所が、私の故郷」
日向に陰に動きながら、食べることと食べられることを繰り返す常命の生き物たちと、その関係性の外で、ただ人間だけを食べながら暮らしていた私たち夜雀。
それが、その山の住人だった。
「自分でこんなことを言うのもなんだけれど、私は強かったわ。そして有能だった。
小さな頃から同年代で私より歌の上手い夜雀はいなかったし、それは年月を経るごとにますます明白になっていったわ。
私が年を経て大人になってからは、私と比べることが出来るような夜雀は、もうどこを探してもいなかった。
自慢になってしまうみたいだけど、実際に当代随一とも、夜雀の種として史上最高とも、空前にして絶後の才とも言われたかしら」
そんな私を、私は誇りに思っていた。
妖怪らしくあることを、夜雀らしくあることを、私は常に意識していたから。
子供の頃からそれを褒められ、期待されていたからかもしれないけれど。
私はまず何よりも、夜陰に潜み、常世を渡り、人を食む妖怪であることを己に課していた。
それで良いのだと思っていた。
「私の歌を聞いて、狂わない人間も惑わない人間もいなかった。
私の能力は、まさしく絶対的だったわ」
今でも憶えている。
私の歌の、その本当の能力を。権能を。影響を。威力を。
一度私が口を開き、喉を震わせ、ただの言葉に旋律を伴えば。
道行く人間も、木陰に潜む獣も、宙を舞う羽持つ眷属たちも。
全て例外なく、狂い、惑ったものだった。
「でもね。
私の能力は、正しく使えば使うほど、周りから私を隔離するものだったわ」
そう。
歌えば歌うほど。
狂わせれば狂わせるほど。
食らえば食らうほど。
私が、妖怪としての務めを果たせば、果たした分だけ。
私は、世界から遠ざかっていく。
そのことに当時の私は、全然気付いていなかった。
気付こうともしなかった。
「私が歌えば、絶対に、確実に、間違いなく人は狂ってしまう。
歩みを止め。惑わし。それ故に忌避されて。
気付けば私を私として認知してくれる人間はいなくなっていたわ」
私の歌が、冴えを増すほどに。
歌を聴いたものたちが、例外なくその影響を受け、狂い、惑っていくほどに。
それらの全てを、妖怪として殺し、生き物として食べ、我が身の糧とするうちに。
私に近づいて、狂わないものはなくなっていた。
「その権能の及ぶ範囲は、私の同属すら巻き込んだわ」
いつからだったのだろう。
少なくとも、その事実に気がついたのは事態に取り返しがつかなくなってからだとは思うけれど。現象自体は、きっとそれよりも随分前から起こっていたに違いない。
私の歌を聞いた仲間たちが、私の事を忘れていく。
しかもその忘れ方も段階的になんて生半なものではなくて、ある程度近くで、恐らくは言葉を意味として受け取れる程度の近さで聞いてしまえば、絶対確実に相手を狂わせ惑わせ私を認識できなくしてしまうという強力さ。
当時の私に、対処方法なんてなかったのだ。
もっとも、対処する気もそもそも持ち合わせていなかったのだけれど。
「そうこうするうちに、私の歌は、同じ夜雀さえも狂わせて。
同胞すらも狂わせ惑わすうちに忘れられて」
それでも、私は妖怪らしい妖怪であることを、夜雀らしい夜雀であることに腐心して。
結果的に、周りに誰もいなくなってからですら、それを自分の強さの証だと思い込んで。
「いつの間にやら、私の側には誰もいなくなって。近づかれることも、近づくこともなくなって」
私以外のどんな存在も、私を私として認識することが出来なくなって。
「私が歌を歌えば歌うほど、世界は私を忘れていって。
私が強くなればなるほど、世界から私は遠ざかっていって。
そうして、気づいた時には私はここに、幻想郷に来てたって訳」
まあ、こっちに来た当初はここの名前も知らなかったから、その時の認識としては単に変な空間にまぎれこんじゃった、としか思っていなかったけれど。
「それでも、来た当初は、私はまだ夜雀らしい夜雀でありたいと思ってたんだけど。
いや、そうじゃないわね。今だって私は、夜雀らしい夜雀でありたいと思ってるわ。
だけど」
私が息を継ぐ瞬間を見計らうように、文は頷き、目を伏せ、お猪口を傾ける。
ここにあるのは、今は私の声と、文が発する声以外の音だけ。
でも、言葉でなくとも、文が生み出す衣擦れが、水音が、髪が肌を撫でるその音が、私の一人語りに心地良い拍子で相槌のように入ってくる。
その、文が打つ相槌に促されて、私の舌も更に踊る。
「その為の方法には、人を食べるとか、妖怪を狂わすとか、そういうのとは別のものを採りたいと、今の私は思っているのよ」
思い出すのは、あの月を巡る異変を切欠に出会った、化け物のような人間と、化け物そのもののような妖怪たちのこと。
この世界を真実支えている、冗談のような化け物たちのことだ。
あの満ちることも欠けることもない月夜の晩に、異形としか言えない彼女たちと出会い。
時間が止まったかのように風が凪ぎ、雲も流れず、虫すら騒がない異様な状況で勝負をして、私は心の底から思ったのだ。
「強くなることの意味。孤高であることの意味。
それ故に、孤独になることの意味。
外の世界では私もそれなりに強者であったつもりだけれど。
実際、現実から私の存在を消し去ってしまうぐらいの力が、私にはあったんだけれど」
そして、それ故に外の世界に在り続けることができず、同胞からも引き離されてこの幻想郷に流れ着いた訳だけれど。
「彼女たちに出会って、私は痛感したのよ。
年経た、というだけでは説明のつかない断絶を隔てた、本物の強者たち。
並べるものなんて本当に一握りしかいない、絶対的で、それぞれが唯一で、だから当然のように孤高で孤独な存在たち」
この幻想郷を作り、守り、今もなお支え続ける結界をその手で保つ、ありとあらゆるものの境界を操る大妖怪。
その結界の片翼を担い、個人にして幻想郷の要石でもある博麗の巫女。
運命を操り、月にこよなく愛され、神話に謳われる兵装すら己が得物とする吸血鬼の少女と、ただの人間であるはずなのにそれに従い、時間と空間を意のままにする完全にして瀟洒な従者。
死を操り幽霊を統べる亡霊姫と、その護衛を務める半人にして半霊の人心すら断つ剣士。
そして、それら本物の化け物に肩を並べようとする、魔性の法に手を出して自ら『人間以外』になった人形遣いと、常命の身でありながら人の業によってそれらと比肩しようとする正真正銘普通の魔法使い。
「強くなって強くなって、ひたすらに強くなっていった、その先でどうなるのかを私は知って。
私は、そんな風には在れないし、在りたくないって思ったのよ」
強者という存在がどんなものかを私は身をもって知ってしまったし、そんなものと比べてしまえば私はただの食われる側だというのを痛感したのだ。
もしくは単純に、人を惑わせ、それを食べてただ生きる、ってだけの生活に飽きただけかもしれないけど。
「私は歌うのが好きで、実際に妖怪としての能力もあるから歌い続けてきたんだけど、それは誰かに聞いて欲しいっていう感情も含んでるわ。
折角歌って、それを誰かが聞いても、その聞き手が必ず狂ってしまうとか憶えていてくれないとか私のお腹の中とか。
誰に歌っても、どんなに歌っても、それを誰も憶えていてくれないとか。
そんなのは嫌だって思ったの」
それはそのまま外の世界に居た時の私でもあるんだけど。
当時は気付かなかったけれど、その方向を突き詰めた究極とも言える彼女たちに出会って。
その在り方に触れて。
私はようやく、過去の私がどんな風に在って、それがどんな意味を持つのかを理解した。
一角の存在になって。
その結果として、傍に誰も、本当に誰もいなくなって。
「そんなのって凄く空しいって。悲しいって。
寂しい、って。
私は思ったのよ」
歌うなら、聞いてくれる誰かが欲しい。楽しんでくれる誰かが欲しい。奏で合える誰かが欲しい。
妖怪として怖れられるのでさえ、それを怖がってくれる誰かがいなければ、何をしたってただの一人芝居だ。
そんな孤独は、もう沢山だった。
一度自覚してしまえば、もう二度とあんな思いはしたくない。
「どうせ歌うなら、それを聞いてくれる誰かが、憶えていてくれるようなものがいい。
楽しまれて、気に入られて、一緒に騒いで、踊って、その記憶を友達に笑顔で話されるような、そんな歌が歌いたい。
私を私として認識してくれる誰かが欲しい。
どうせ夜雀として在るのなら、在り方ぐらいは自分で選ぼうって思ったのよ」
さっきまで止んでいた風が、思い出したように木々を揺らす。
屋台の中に溜まっていた食べ物の臭いや、体温の残滓や、酒精が、夜明け前の澄んだ空気に吹き流されていく。
こもっていた熱気が散らされて、秋の夜長に相応しいひんやりとした冷気と入れ替わった。
その中に混じる幽かな匂いに、夜明けの近さを感じる。
「そう思って、私は自分の在り方を変えたわ。
その時以来私は、純粋に、世界に認知される夜雀そのものであることをやめたの。
やめて、自分が望む夜雀であることにしたのよ」
他者がかくあれかしとする夜雀ではなく。
私がこうありたいと、そう思えるような夜雀であることにしたのだ。
「望んだわ。望めるだけ。
歌を聞いて欲しい。私を知って欲しい。
同胞と共に在りたい。同属を助けたい。
能力を活かしたい。夜雀として在りたい」
人間の欲に際限はないなんて言うけれど、そんな事を言ったら欲望に際限のある存在がどれだけいることか。
少なくとも私は、欲しいものを素直に欲しがれない生なんてもう二度とごめんだ。
「そうして出来上がったのがこの屋台って訳。
人を集めるために店をやる。それも、焼き鳥として一方的に食べられる同属を救うために、食材は焼き鳥の代わりにできるもので。
儲けを出すためにも鳥目を治す八目鰻を主食として、私の歌で夜盲にして私の店で治す自作自演機関を成立させる。
そんな思いで、この屋台は出来上がったって訳。
もっとも、しばらく前からわざわざ鳥目にしなくてもお客さんはしっかり来るから、八目鰻を治療目的で出すことは最近は殆どなかったりするんだけどね」
これが、私がこの店を始めた理由よ。
と、話を締めくくって、私はお猪口に残った酒を、そこに映る月と一緒に一息に飲み干した。
考えていたよりも、随分と長々と語ってしまった。
自分でも驚くぐらいに舌が回ったのは、勧められたお酒のせいか、それとも一緒に居る相手が文だ、という安心感のせいか。
判断はつきかねるけれど、幸いにも文の態度に退屈してそうな素振りもなかったし、きっと聞きたかった話を聞かせられたんだと思っても罰はあたらないだろう。
「ありがとうございました、女将さん。
非常に興味深いお話でしたよ。
こんな話を聞かせてもらえるなんて、今夜の私は本当に幸運でした」
話を聞き終えた文は、ゆっくりと伸びをして、白み始めた夜空を遠くに眺めた。
「だから、女将さん。一つだけ、質問させてください」
そうして視線を外しながら、文が続けた。
「女将さんは、こちらに来てから、本物の化け物を見て、知って、そう在ろうとすることを止めたと仰いましたね。
聞かせてください、女将さん。その決断に、本当に躊躇いはなかったんですか?
かつて強者であった貴方が。
この幻想郷に、独力で来れるほどの力を持った貴方が。
これからも、そう在れたかもしれない貴方が。
その力を捨てることに、本当に迷いはなかったんですか?」
喋りながらも、視線は東、太陽が今まさに姿を現そうとしている方向を向いている。
目を細めて、恐らくは今の時刻に当たりをつけているんだろう。
そのまま一つ頷くと、殆ど空になっていた徳利を手にとって、まだ中身の残っているお猪口へと継ぎ足した。
「人形遣いや魔法使いと会っているなら、女将さんも思ったはずです。
ただの人間が、努力した結果を見て。
私たちよりも余程取るに足らない存在であるはずの人間ですら、努め続ければ力を手にすることができると知って。
貴方もまた、力を手にすることが出来るのだと、思えたはずです。
それでもなお、その未来を捨てることが出来たのは、何故ですか?」
今にもこぼれそうなほどに並々と満たされたお猪口を、勢いづけるかのように文は一息に呷ると、ほのかに赤らんだ顔で一つゆっくり息を吐き、私を見つめた。
その瞳に揺れる疑問の光に吸い寄せられたように、私も口を開く。
「そうね。
確かに、私は力を望めば手に出来たと思うわ。
あの時出会った化け物の中には、そうやって努力と年月によって強者になった存在がいたし。
その後に会うことになった、力ある妖怪や知識ある人間からも、私の能力の真価はわからないと言われたし。
ひょっとしたら、私もそのつもりで努力し、年を重ねれば、一角の存在になれたのかもしれないわ」
文は、黙って私の話を聞いている。
その目はこれまでに見たこともないぐらいに真剣だ。
「でもね。その結果として、私が私の能力を突き詰めていった先で得られる力なんて、結局のところ他者よりも優れた能力であって、人を遠ざける能力であって。
唯一で在る事はできるかもしれないけど、誰かと共に在ることはできないような、そんな能力でしかないって、私にはわかってたのよ」
外の世界にいたころから、私は既に私の能力の本質を悟っていた気がする。
狂わせ、惑わせ、認識をいじる能力。
どんなに極めても、いいえ、極めれば極めるほど、自分以外の誰かと居ることができなくなる能力。
「私は、孤独でいることも孤高であることにも飽きたわ。
だから、強くあったり、立派であったりするのは他の誰かに譲ることにしたの。
私は、そんな風に何かを必死でやるんなら、それは強くなるとか、並ぶものがないとか、孤高になるとか、そういう場所以外にしたいと思ったのよね。
今の私が望むのは、取るに足らない凡妖怪の身でも、お店に来る人に喜んでもらって、妖怪と騒いで、偶には歌ったり踊ったり、待ち合わせをして合奏したり。
そんな、誰かといる平凡な日常なのよ」
だから、力を捨てた後悔なんて、今の私には関係ないの。
と、私は話を締めくくる。
「……そうですか。
女将さん、ありがとうございます。
理解するのにも納得するのにも時間が要りそうですけど、とても面白い話を聞かせていただきました」
話し終えた私に、文はそう言って頭を下げた。
「私が通ってた理由の一つは、この話を聞きたかったから、っていうのもあるんですよ。
いつかそれを聞いて、記事にしたいと、この店に来始めたばかりの頃の私は思ってたんですけど」
そこで言葉を切ると、文はカウンターに預けていた体を起こして、一つ大きく伸びをした。
胸を反らし、腕を掲げ、頭上を仰ぐその動作の一つ一つに、文の体の弾力やしなやかさや柔軟性が表れているのがわかる。
彼女もまた、強さとか力とかが無縁でない世界で生きてきたからこそ、さっきの疑問があったんだろう。
「本当に面白いお話でしたから、これを是非とも記事にしたいと、そう思っている私もいるんですけど。
そうしたら私がここに来る理由もなくなってしまうと、そう思っている私もいて」
腕を回し、肩を回し、首を回して、文は勢いよく立ち上がった。
その場で体の調子を確かめるように、二度三度と小さく飛び跳ねている。
「ええ。
鰻がとっても美味しくて、どうやら私は自分の目的を忘れてしまったようです。
目的を忘れて。道に迷って。
美味しいお酒と美味しい料理に、どうやら私は私を狂わされてしまったみたいですよ」
そのまま自分の荷物をまとめると、明らかにお勘定よりも多い額を財布から抜いてカウンターに置いた。
「だから。
今日は本当にありがとうございました。
忘れた物を思い出すために。
本来の目的を果たすために。
また来ますよ。女将さん」
そういう文の顔は、いつも通りの満面の笑顔。
もう何度もこの表情を見ているはずなのに、今でも私は、この濁りも邪気もない笑顔に見とれてしまう。
「はい。ご来店ありがとうございました。
そういうことなら、またいらっしゃい、文」
別れの挨拶を交わした後には、つむじ風しか残っていなかった。
羽ばたく素振りさえ見せずに、文の姿はかき消えている。
こんな場面を見る度に、幻想郷最速の通り名は決して大げさではないのだと思わずにはいられない。
まったく、もうこんな時間だ。
ここまで長く営業するつもりはさすがになかったのに。
おだてられて、飲まされて、調子に乗って喋っていたら、思ったよりも随分と遅くなってしまった。
と思いつつも、体に残った気だるさが何故だか心地いい。
こんな風に、大繁盛の有名店とは言えなくても、胸を張って自分のものだと言える屋台をひいて。
自分の振舞う料理や酒を喜んでもらって。
偶には常連客に誘われて、常連と一緒に、お酒を飲む。
なんだったらそこで、益体もない自分語りをしてみたりもして。
そんな日々が、どうやら私は嫌いではないらしい。
幻想郷の片隅の、小さな飲み屋の屋台でも。
一日を終わらせる夜がこうして訪れ、更けていく。
了
それはけれど、早く店を閉めたい、というような至極当然な理由ではなくて。
他のお客さんがいなくなったのを見計らうようにやってくる、一羽の鴉がいるからだ。
「こーんばーんわー。
皆のアイドル射命丸文、本日も夜分遅くにですがまかりこしましたよー」
今日も来るだろうか、なんて考え事をしながら閉店作業をしていたせいだろうか。
無意識の内に急な来店にも対応できるように備えていたのか、店じまいに支障はないけれど頼まれれば大抵の料理なら即座に出せる、という状況の店内に、丑三つ時に似合わない陽気な声が響き渡った。
どうやら今夜も待ち人は来たらしい。
今日もまた、営業時間が延びてしまいそうだ。
「いらっしゃい、文。こんな遅くまでお仕事お疲れ様。
とりあえずはいつも通り串と天狗舞でいいかしら?」
「大丈夫ですよー。あ、あとほっけとご飯下さい。
朝から飛び回ってたせいでお腹減ってお腹減って」
「一応毎度あり、って言っておくわ。
でもここも屋台とはいえ一応飲み屋だっていうのに、初っ端でいきなり夕飯みたいな献立にしてくれたわね。
当店の売り上げの為にもお酒飲みなさいお酒。折角ひやでも熱燗でもお湯割りでも出来るように準備してるんだから」
「まあまあ女将さん、そんな注文の最初から飛ばさなくてもいいでしょ?
言われずともこの射命丸文、後で天狗の名に恥じない程度には飲ませていただきますとも。
ですから、とりあえずほっけを! というかお腹が満たせて私の血肉になるような食べ物をプリーズ!」
「はいはい。ほっけはまだあったはずだからちょっと待っててくださいな。
あとは……そうそう、今日の分で用意しておいたおでんタネがちょっと余ってるんだけど、良かったらどうかしら?
今日のラストオーダーだろうし、お値段はサービスするわよ?
その分しっかり飲んでってもらうけど」
「本当ですか?!
閉店間際で一日じっくり煮込まれたおでんを半値で食べられるなんて! さっすが女将さん、太っ腹!」
足元を見たはずが、何故か足元を見られている。
けれど、自分が作ったものをこんなにも楽しみにしてくれている、と思うと不思議なほどに腹が立たない。
今朝仕込をする時に少し多めに作ってしまったのも、今思うと僥倖だったのだろうか。
「まったく、調子がいいんだから。
いいでしょう。そこまで言われてこのミスティア・ローレライ、値段交渉をするような商売はしてないわ。
文の真面目な勤務態度に免じて半値でいいわよ。
いきなり全部は要らないわよね? お腹が減ってるって事なら、とりあえず練り物と巾着、それに大根ぐらいでいいかしら?」
「女将さん。女将さん。大根は是非最後に。ここまで来たら最後の締めに徹底的に煮込んだのを頂こうじゃありませんか。
今は肉と炭水化物を。牛スジでもつみれでもタコでもいいですから手っ取り早くお腹にたまりそうな物をください!」
子供のように目を輝かせる文。
自分よりもかなり年上のはずなのに、加えて自分より遥かにここでは重鎮なはずなのに、下手をすると自分よりもずっと若く見えるのは人徳と言っていいものか。
とりあえず、素直に見習おうと思えないのだけは間違いない。
「じゃあ、とりあえずおでんとご飯だけ先に渡しておくわね。
串とほっけは今焼けるからもうちょっと待ってちょうだい。
あと、お酒はどうする?
熱燗で? ひやで?
それとも一気に両方いっちゃう?」
「そんな無理に沢山飲ませようとしないでくださいよう。私を酔わせてどうしようって言うんですか。
まあでも、そっちは女将さんの采配にお任せします。
今の私には、一日漬け込まれたおでんの出汁とネタのハーモニーを吟味するという大仕事が待ってますので」
「そんなに楽しみにしてもらえるなんて光栄至極だわ。
これは、残りも腕によりをかけないといけないわね」
腕まくりをしながら、独断と偏見で決めて温めに燗をした徳利とお猪口をおでんの入った丼の横に置く。
待ってましたと言わんばかりにそこに並々と酒を注ぐ文を眺めて、私も串とほっけの準備に入った。
ほんの束の間、声以外の音が空間を占拠する。
物が咀嚼される音、喉を液体が滑り降りる音、箸が器に触れる音、油が炎に跳ねる音。
焼き八目鰻屋なんて屋台を引いてるものとしては許されざることかもしれないけれど、私はこういう種類の沈黙が嫌いではない。
飲み屋というものは基本的には雑多で、猥雑で、喧騒にあふれているべきだろうし、実際殆どの居酒屋がそうだろう。そして、私の店も大抵の場合そうだ。
けれど、ごく偶になら、こんな風に美味しいものをただ出し、それをただ食べられる瞬間というのがあっても良いと思うのだ。
会話を嫌う訳ではないけれど、会話をすることで得られるものがあるように会話がない事で得られる得難いものがある。
そんな風に最近思えるようになったのは、夜更けに舞い込んで来る鴉と過ごすこんな時間を、自分が思う以上に楽しんでいるからかも知れない。
「おや女将さん、貴方がぼーっとしてるなんて珍しい。
客である私が言うのもなんですが、串の方がそろそろ焼き上がったようですよ?」
っと、いけないいけない。
どうやら夢中になって食べている文の食いっぷりに見惚れていたようだ。
「あら、本当に。今出すからちょっと待っててね。
にしても文、そっちからじゃ焼き色も見えないのに焼き加減なんてよくわかったわね?」
不意を突かれたとは言え、私の声に驚きが混じる。
実際、調理スペースと席の間には衝立があるので中は殆ど見えないはずなのだけれど。
「はっはっは、幻想郷一の情報通、鴉天狗の射命丸文を、なめてもらっちゃあ困りますね。
目隠し越しにでも脂の弾ける音、肉の焼ける匂い、タレが焦げる香りで、普段と同じ焼き加減を判断することなど、私にとっては造作もありません」
それは情報通とは何の関係もない気がするのは私の気のせいなの?
まあ、素直に賞賛に値する特技だとは思うけど。
「自分で包丁握るのはからっきしですけれど、実際私に料理を語らせると長いですよ?
とは言え、これは女将さんの腕のおかげでもあるんですけどね。
肉の状態とかを見て焼き加減を調整してるのは私にもわかりますけど、そうやってタレの濃さだとか火力とか調味料とかを微調整して、毎回私たち客を美味いと唸らせる料理を作る。
その一定以上の品質を保証する味と香りを、無意識に覚えてしまうぐらい恒常的に出してもらってるからこそ私も匂いとかだけで指摘が出来るわけで。
言ってみれば、私のこの芸当の半分は女将さんが普段から美味しい料理を出してくれるおかげって訳です」
「相変わらず口がうまいわねえ。お礼に空いた徳利に補充をあげるわ」
「ご馳走様です」
「誰もおごるなんて言ってないわよ!
はい、ついでに串お待ち。ほっけもじきに焼けるけど、文、ご飯のお代わりは?」
「勿論いただきます!
いやあ、女将さんの商売上手には感心させられますよ」
そう言って突き出されるお椀は、まるでたった今洗ったばかりのように米粒一つついていない。
おでんを出す時に同じ丼に山盛りでよそって出したはずなのだけれど、幾ら妖怪とはいえこの細身にあの量が一体どこに入ったのだろう。
しかもそれを平らげてなお次をよそうのに躊躇がないというのだから、いやはや鴉天狗というのも健啖な種族だ。
私だって仮にも妖怪、いざとなれば人間とは比べ物にならないぐらい無理の利く体ではあるけれど、それでもやはり限界というものがある。
少なくともこの量を二杯も食べたら、私なら胃の容量的に限界だろうし、一杯を平らげた所で二杯目に取り掛かるのは苦行以外の何物でもないはずだ。
それを笑顔でするというのだから、やはり腐っても天狗の一族、私のような凡妖怪風情とは元から違うということなのだろうか。
もっとも、それを目の前の文に言ったら「やだなあ女将さん、そんなの女将さんの料理が美味しいからに決まってるじゃないですか」とでも言われてしまうのだろうけど。
「はい。じゃあ、ご飯のお代わりと、お待ちかねのほっけをどうぞ。
これで注文は揃ってるわね?」
「はいはい、ばっちりですよ。
いやあ、満足にお昼も食べられなかったもんで、これをどれだけ待ったことか。
夕方から現在までの私を動かしてたのは、この料理への食い意地だったって言っても過言じゃないぐらいですからねえ。
二杯目だっていうのに口の中がよだれでいっぱいですよ」
「もう、そんなに褒めても何にも出ないからね?
さあ、お世辞を言ってもらえるのは有難いけど、そんなに喋る方にだけ口を動かしてると折角の料理が冷めちゃうわよ?
どうせ食べるなら焼きたての熱いうちに食べちゃってくださいな」
「別にお世辞って訳じゃあないんですがねえ。
ま、それじゃ謹んで頂戴いたします」
「はい、召し上がれ」
職業柄なのかそれとも種族ゆえか、はたまた単に個人の趣味の問題かもしれないけれど、文は食べるのが物凄く早い。
これを他人がやったらもっと味わって欲しいと思うのだろうが、文の場合それはそれは美味しそうに食べながら且つそれだけの速度で飲み食いをしているのだ。
時々本気でどうやったらこんな風に食べられるんだろうと思う事がある。
「ところで文、お酒の方がそろそろまた空いたみたいだけど、お代わりは要るわよね?」
一応尋ねてはいるけれど、既に空の徳利は私の手の中だ。
「なんでそんな毎回私に拒否権はないかのように聞くんです?
まあ貰うんですが。
いやあさすが女将さん、目配り気配り心配りが行き届いてますねえ」
本人は皮肉のつもりなのかもしれないが、そんなに嬉々としてお猪口を傾けていたんじゃ私が感じるのは微笑ましさだけだ。
まあ、記者に腹芸ができないとは思えないから、こんな態度も私に気を許してくれているからだとも思えるけれど。
「そうでしょうそうでしょう。
疲れも気にならなくなったみたいだし、さっきまで燗だったから今度はひやで出したけど良かったかしら?」
「もう、本当に商売上手なんですから。
いよっ女将さん日本一! 出来る女! 女子力高い!
私が男だったら放っておきませんよ」
「はいはい」
他愛無いやり取りに頬が緩むのを感じながら、氷で冷やしておいた瓶を軽く拭ってカウンターの上に出す。
にしても、これだけの会話を物を食べながら難なくこなすのだから、文も無駄に器用だ。
私だったら、どう考えてもすぐに喉を詰まらせてしまうだろうに。
なんて事を考えながら文の食事を眺めていたら、本当にあっという間に主食がなくなっていた。
常人なら三食分ぐらいの量はあったはずのおでんやご飯やほっけやご飯が、今や文の細身の中にある異次元に格納されてしまった。
一方の文当人はと言えば、満足げにお腹を撫でながらも、今は八目鰻を片手にちびちびとお猪口を舐めている。
「いやあ、食べました食べました。ようやく人心地つきましたよ。
まだ入りますけど、ここから先はまったりモードで行くとしますかね。
あ、女将さん、漬物ください」
「毎度あり。これももう切っちゃったのがあるから、よかったら一緒にどうぞ。
盛り合わせが多くなっちゃうけど、文ならまだ全然平気でしょ?」
「勿論ですとも! そういう事ならこの文にお任せください。
いやあ、それにしても労働の後の一杯は本当に格別ですねえ。美味しい肴と可愛くて切り盛り上手な女将さんがいるとなれば尚更ですよ」
文、貴方もう一杯どころじゃなく飲んでるでしょうに。
「まったく、誰にでもそんな事言ってるとそのうち誤解を招くわよ?
でもありがとう。
折角作った料理だし、文に食べてもらえて食材も喜んでるでしょうよ」
「私が口にするのは全部事実だからいいんですよ、女将さん」
平皿に盛られた漬物を嬉々として齧りながら文が言う。
と、お猪口を干して一息ついた文が、悪戯っぽい目付きでこちらを見てきた。
「ところで、女将さん女将さん。
そろそろこっちも一段落つきましたし、しばらくはあるツマミで呑みますから。
よかったら、女将さんも一杯如何です?」
「あら文、お誘いは嬉しいんだけど、まだ営業中だしお断りするわ」
「まあまあ、いいじゃないですか。
自分からこの時間に押しかけておいてなんですけど、こんな夜更けにもう他のお客さんなんて来ませんよ」
「それはそうかもしれないけど。
でも、文がいるじゃない。
私は、文でも一応お客さんだと思って接してるわよ?」
「一応って何ですか一応って。
まま、そう硬いこと言わずに。
その私が飲もうって言ってるんですから、何も問題ないでしょう?」
「うーん…………」
一応悩む素振りは見せてはみるけれど。
本当の所は、返事は殆ど決まっているのだ。
「じゃあ、ちょっとだけ。ちょっとだけ頂こうかしら」
「さすが女将さん、話がわかりますねえ!」
「おっと、勿論この御代は文が持ってくれるのよね?」
さっきのお返しとばかりに文に尋ねてみるけれど、その笑みはかけらも曇らない。
「はっはっは、女将さん本当に商売上手ですねえ。
勿論ですとも。不肖射命丸文、女将さんのほろ酔い姿が見れるとあらば一杯や二杯おごることに些かの躊躇もございませんとも」
「ふふん、後悔するんじゃないわよ?
じゃあ私も失礼して」
胸の中の感情を気取られないように気をつかいながら、いそいそと自分の分のお猪口を出す。
実際、一通り料理を出した後にカウンターを挟んで私も一杯、というのは、ここ最近の定番になっているのだ。
それを楽しみにしていた私が、いなかったと言えば嘘になる。
「ささ、お猪口を出してくださいよ女将さん。
恐れ多くはありますけど、お酌させてもらいますから」
「あら、お客さんにこんなことまでしてもらえるなんて。
ああいいわいいわ文、そのぐらいで十分。ありがとう。じゃあ、こっちもお返しに」
注ぎ終わるのを見計らって、文の手から徳利を受け取る。
「いやあ、女将さん直々に注いでもらえるなんて感激ですよ。
幸運の揺り返しで明日にでも死んじゃったらどうしましょう」
「文、貴方なんだかんだで昨日もそんな事言ってたでしょう。
その内本当に誰かから刺されるわよ」
「それを身を呈して庇ってくれる人たちにも心当たりがありますからご心配なく」
「……冗談のつもりだったのに、今の一言で一気に真実味が増しちゃったわ。係わり合いになる前に忘れることにしましょう。
はい、注ぎ終わったわよ」
「おっとっと、ありがとうございます。
じゃあ、女将さんの切り盛りに」
「文の健啖に」
『乾杯』
そうして、お互いに程よく満たされたお猪口をぶつける私たち。
この年になってままごとをしているような気恥ずかしい空気の中、陶器の触れ合う澄んだ音が夜の静寂を渡っていく。
観客のざわめきで騒然とする中、自分が出せる限界まで振り絞って声を響かせるのも素晴らしいけれど、存外こういうひたすらシンプルな音色も悪くない。
「くぅーっ」
「っはぁっ」
それに続くように、私たちが吐く溜息が夜陰に溶ける。
煌々と光る満月と、それに雲がかかった時だけ表れる星々。
立派な店構えに憧れない訳じゃないけれど、こうやって風情を感じながら飲むのも悪くない。
月や星や木々や虫や鳥や獣の織り成すざわめきに耳を傾けながら、一息で飲み干さないように大事に大事に、手の中の器を傾ける。
口に含むことで得られる舌触りと、鼻に抜けてくる独特の香り。口の中を転がしてから嚥下すれば、喉に感じる一瞬の冷たさの後に、胃の腑を炙るような温感を余韻として残していく。
一日働いた後の疲労感や倦怠感も混ざって、なんというか、本当に、
「おいしい……」
無意識の内に出た自分の呟きを聞きながら、文が無言で取り分けてくれた漬物をつまむ。
まったく。こういう小さな所で、文の目端の鋭さや記者としての活動風景が見えてくる気がする。
生意気だけど頭の回転の速い、有能なレポーターとしてさぞかし可愛がられているんだろう。
なんてことを、表情を緩ませて肘をついて、お猪口を楽しげに揺らしている文を見ながら思う。
こんな風に黙って微笑んでいると、普段の陽気さが隠れて、なんというか凄く色っぽい。女の私でも一瞬どきりとするぐらいだ。
※
「こんな風に満月の晩に貴方が飲んでると、あの時のことを思い出すわね」
「あの時?」
その横顔がやけに遠くにあるように見えて。
放っておいたら、手の届かない場所に行ってしまう気がして。
私は、気付けば無意識に話題を探して声をかけていた。
「文、貴方は憶えてる?
たしか、今日みたいな夏の終わりだったと思うんだけど。
虫たちがさざめき、風は凪ぎ、中秋の名月に雲一つかかっていなかった、あの晩のことを。
私が貴方と始めて会った来た時のことを。
私は結構鮮明に憶えてるんだけど、文、貴方は憶えてる?
ふっと思い出したんだけど、今更ながらに懐かしいわね。
ほんの去年のことみたいなのに、あれからひい、ふう、……何年経ったのかしら」
「ええ、勿論憶えてますとも。
忘れるわけがないじゃないですか。私が私のいきつけを見つけた晩なんですからね」
つい一瞬前まで自分とはかけ離れた存在にすら思えた顔が、次の瞬間には感情を宿し、表情を表して、いつもの見慣れた文の顔になる。
そのことに、何故だか不思議なくらいほっとしている自分がいた。
「むしろ女将さんがそんな時のことを憶えててくれたのが驚きですよ。
よくこんな取るに足らない鴉天狗が初来店した時のことなんて憶えてましたね。
ここに来るお客さん全員に、初来店の瞬間があったはずなのに。
自分でも冗談めかして鳥頭だなんて言うくせに、実際はまだまだ全然優秀な頭じゃないですか、もう」
隠すこともなく率直に、目を丸くして驚きを表している文。
表情豊かで、本当に私の前では子供のような文。
こんな文の一面を、きっと大抵の人は知らないんだろうと思えば、それだけで少し優越感に浸れてしまうというものだ。
「本当に懐かしいですねえ。
女将さんの方こそ憶えてます?
私はあの時、里でも評判になってきた女将さんの店の取材に来てたんですよ」
そんな事を考えている私をよそに、見開いてた目を一転して閉じた文は、微笑みながら過去に思いを馳せているようだ。
それにつられて、私も同じように昔を思い出してみる。
今の私の顔も、きっと文と同じように昔を懐かしむ顔をしているんだろう。
その瞼の裏には、どんな情景が浮かんでいるんだろうか。
「当たり前じゃない、むしろそっちが印象的で全部憶えてるんだから」
「本当ですかあ?
あの時はてっきり取材を迷惑がられてるんだと思ってましたから、記憶から消してるだろうと思ってましたよ。
店を始めた理由とかも『大したものじゃないわ』であっさり流されましたし。
まあ、あの頃から女将さんとこの料理もお酒も美味しかったですから、もういっそのこと記事にするのはやめて私のいきつけにしちゃおうと思って今に至る訳ですけど」
「そんな事もあったわね。
あの時のことは少しだけ悪かったと思ってるわよ。
あそこまですげなく断らなくても良かったかしら、とか今は思ってるし」
多少の決まり悪さを感じながらも、徳利が空になったのを見計らって、新たに酒を満たした器を置く。
心得たもので、文の方もそれが当然であるかのように新しい器を手に取り、嬉しそうに手元のお猪口に中身を注いでいる。
そんな他愛無いやり取りに、今の私は、不思議なぐらい喜びを感じている。
「そうよね。言われてみれば、あの時は話さなくて、その後は聞かれなくて、結局その話をしたのはあれが最初で最後になるのかしら」
私がこの店を始めた理由。
私が夜雀としての在り方を変えた理由。
私が、今までの私を捨てて、新しい私であろうとした理由。
「そうね。今更といえばこれ以上ないぐらいに今更だけど」
本当に、何年引っ張ったかわからないぐらいの引き方になってしまったけれど。
「取り立てて隠しておくようなことでもなし。
興味を持ってもらえるうちに話してしまいましょうか。
ねえ文、聞いてくれるかしら。私がこの店を始めた、その理由を」
「本当ですか?」
その名に関するのは鴉の字なのに、まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔でこちらを向く文。
私としてはそんなに驚かれるようなことかしら、と思うけれど、でも文からすれば最初に聞いて以来触れたくても触れられなかったタブー、みたいな感じだったのだろうか。
「女将さんが嫌じゃないなら、それは是非伺いたいですよ。
記者としての使命感や好奇心を抜きにしたって、女将さんの屋台の常連の射命丸文として、教えてもらえるなら喜んで聞かせていただきます」
こちらが引いてしまうぐらいに勢い込んで、文は身を乗り出してくる。
その豊かな胸がお猪口を倒しそうで、私としては別な意味でハラハラしてしまう。
まあでも、誰かにこんな風に興味を持ってもらえることの尊さを、私は知っている。
私を私として見てくれて、興味を持ってくれるなんて、あの時を思い返せば、本当に何て幸せなんだろうか。
「そうね。じゃあ、少しだけ語らせてもらおうかしら。
私が、この幻想郷にきて、この店を始めた理由を。
普段より少しだけお喋りなのは、貴方に勧められたお酒が悪いんだ、って事にしておきましょう」
夜空に満月が浮かんでいるのは知っている。
知っているから、空は見上げず、手元のお猪口を覗き込む。
顔を上げないのは、その水面に映る満月を見ているから、ということにして。
慣れない自分語りをする、自分でもわかるぐらいに照れた顔を俯けて、私は話し始める。
夜雀のことを。
人の歩みを止め、惑わせ、狂わす存在のことを。
歌で人を狂わす程度の能力を持つ、私、ミスティア・ローレライのことを。
「この幻想郷に来る前から、話を始めるわ。
日ノ本の国については、語る必要はないわよね。貴方も私も、同じ日本生まれのはずだもの。
その日本の、片田舎。地元の人間が、自分たちの里が国のどこにあるのかすらちゃんと知らないぐらいの田舎の、普段は滅多に人が入らない、里山の奥の奥。
昼時でも薄暗いその場所で、私たちは暮らしていたわ。
そこでの私は、仲間たちの誰よりも正しく夜雀だったのよ」
山を往く人間に歌い、狂わせ、道に迷わせ誘いこむ。
そうしてやってきた人間を食らう事が、私の、夜雀の、妖怪としての務めだった。
「山深い、って言葉が正にぴったりの、名前も知らない木々と、騒々しくて、けれど姿を見せない生き物たちと、そういうものの陰に潜む妖怪が、適当に混ざり合いながら暮らしていた場所が、私の故郷」
日向に陰に動きながら、食べることと食べられることを繰り返す常命の生き物たちと、その関係性の外で、ただ人間だけを食べながら暮らしていた私たち夜雀。
それが、その山の住人だった。
「自分でこんなことを言うのもなんだけれど、私は強かったわ。そして有能だった。
小さな頃から同年代で私より歌の上手い夜雀はいなかったし、それは年月を経るごとにますます明白になっていったわ。
私が年を経て大人になってからは、私と比べることが出来るような夜雀は、もうどこを探してもいなかった。
自慢になってしまうみたいだけど、実際に当代随一とも、夜雀の種として史上最高とも、空前にして絶後の才とも言われたかしら」
そんな私を、私は誇りに思っていた。
妖怪らしくあることを、夜雀らしくあることを、私は常に意識していたから。
子供の頃からそれを褒められ、期待されていたからかもしれないけれど。
私はまず何よりも、夜陰に潜み、常世を渡り、人を食む妖怪であることを己に課していた。
それで良いのだと思っていた。
「私の歌を聞いて、狂わない人間も惑わない人間もいなかった。
私の能力は、まさしく絶対的だったわ」
今でも憶えている。
私の歌の、その本当の能力を。権能を。影響を。威力を。
一度私が口を開き、喉を震わせ、ただの言葉に旋律を伴えば。
道行く人間も、木陰に潜む獣も、宙を舞う羽持つ眷属たちも。
全て例外なく、狂い、惑ったものだった。
「でもね。
私の能力は、正しく使えば使うほど、周りから私を隔離するものだったわ」
そう。
歌えば歌うほど。
狂わせれば狂わせるほど。
食らえば食らうほど。
私が、妖怪としての務めを果たせば、果たした分だけ。
私は、世界から遠ざかっていく。
そのことに当時の私は、全然気付いていなかった。
気付こうともしなかった。
「私が歌えば、絶対に、確実に、間違いなく人は狂ってしまう。
歩みを止め。惑わし。それ故に忌避されて。
気付けば私を私として認知してくれる人間はいなくなっていたわ」
私の歌が、冴えを増すほどに。
歌を聴いたものたちが、例外なくその影響を受け、狂い、惑っていくほどに。
それらの全てを、妖怪として殺し、生き物として食べ、我が身の糧とするうちに。
私に近づいて、狂わないものはなくなっていた。
「その権能の及ぶ範囲は、私の同属すら巻き込んだわ」
いつからだったのだろう。
少なくとも、その事実に気がついたのは事態に取り返しがつかなくなってからだとは思うけれど。現象自体は、きっとそれよりも随分前から起こっていたに違いない。
私の歌を聞いた仲間たちが、私の事を忘れていく。
しかもその忘れ方も段階的になんて生半なものではなくて、ある程度近くで、恐らくは言葉を意味として受け取れる程度の近さで聞いてしまえば、絶対確実に相手を狂わせ惑わせ私を認識できなくしてしまうという強力さ。
当時の私に、対処方法なんてなかったのだ。
もっとも、対処する気もそもそも持ち合わせていなかったのだけれど。
「そうこうするうちに、私の歌は、同じ夜雀さえも狂わせて。
同胞すらも狂わせ惑わすうちに忘れられて」
それでも、私は妖怪らしい妖怪であることを、夜雀らしい夜雀であることに腐心して。
結果的に、周りに誰もいなくなってからですら、それを自分の強さの証だと思い込んで。
「いつの間にやら、私の側には誰もいなくなって。近づかれることも、近づくこともなくなって」
私以外のどんな存在も、私を私として認識することが出来なくなって。
「私が歌を歌えば歌うほど、世界は私を忘れていって。
私が強くなればなるほど、世界から私は遠ざかっていって。
そうして、気づいた時には私はここに、幻想郷に来てたって訳」
まあ、こっちに来た当初はここの名前も知らなかったから、その時の認識としては単に変な空間にまぎれこんじゃった、としか思っていなかったけれど。
「それでも、来た当初は、私はまだ夜雀らしい夜雀でありたいと思ってたんだけど。
いや、そうじゃないわね。今だって私は、夜雀らしい夜雀でありたいと思ってるわ。
だけど」
私が息を継ぐ瞬間を見計らうように、文は頷き、目を伏せ、お猪口を傾ける。
ここにあるのは、今は私の声と、文が発する声以外の音だけ。
でも、言葉でなくとも、文が生み出す衣擦れが、水音が、髪が肌を撫でるその音が、私の一人語りに心地良い拍子で相槌のように入ってくる。
その、文が打つ相槌に促されて、私の舌も更に踊る。
「その為の方法には、人を食べるとか、妖怪を狂わすとか、そういうのとは別のものを採りたいと、今の私は思っているのよ」
思い出すのは、あの月を巡る異変を切欠に出会った、化け物のような人間と、化け物そのもののような妖怪たちのこと。
この世界を真実支えている、冗談のような化け物たちのことだ。
あの満ちることも欠けることもない月夜の晩に、異形としか言えない彼女たちと出会い。
時間が止まったかのように風が凪ぎ、雲も流れず、虫すら騒がない異様な状況で勝負をして、私は心の底から思ったのだ。
「強くなることの意味。孤高であることの意味。
それ故に、孤独になることの意味。
外の世界では私もそれなりに強者であったつもりだけれど。
実際、現実から私の存在を消し去ってしまうぐらいの力が、私にはあったんだけれど」
そして、それ故に外の世界に在り続けることができず、同胞からも引き離されてこの幻想郷に流れ着いた訳だけれど。
「彼女たちに出会って、私は痛感したのよ。
年経た、というだけでは説明のつかない断絶を隔てた、本物の強者たち。
並べるものなんて本当に一握りしかいない、絶対的で、それぞれが唯一で、だから当然のように孤高で孤独な存在たち」
この幻想郷を作り、守り、今もなお支え続ける結界をその手で保つ、ありとあらゆるものの境界を操る大妖怪。
その結界の片翼を担い、個人にして幻想郷の要石でもある博麗の巫女。
運命を操り、月にこよなく愛され、神話に謳われる兵装すら己が得物とする吸血鬼の少女と、ただの人間であるはずなのにそれに従い、時間と空間を意のままにする完全にして瀟洒な従者。
死を操り幽霊を統べる亡霊姫と、その護衛を務める半人にして半霊の人心すら断つ剣士。
そして、それら本物の化け物に肩を並べようとする、魔性の法に手を出して自ら『人間以外』になった人形遣いと、常命の身でありながら人の業によってそれらと比肩しようとする正真正銘普通の魔法使い。
「強くなって強くなって、ひたすらに強くなっていった、その先でどうなるのかを私は知って。
私は、そんな風には在れないし、在りたくないって思ったのよ」
強者という存在がどんなものかを私は身をもって知ってしまったし、そんなものと比べてしまえば私はただの食われる側だというのを痛感したのだ。
もしくは単純に、人を惑わせ、それを食べてただ生きる、ってだけの生活に飽きただけかもしれないけど。
「私は歌うのが好きで、実際に妖怪としての能力もあるから歌い続けてきたんだけど、それは誰かに聞いて欲しいっていう感情も含んでるわ。
折角歌って、それを誰かが聞いても、その聞き手が必ず狂ってしまうとか憶えていてくれないとか私のお腹の中とか。
誰に歌っても、どんなに歌っても、それを誰も憶えていてくれないとか。
そんなのは嫌だって思ったの」
それはそのまま外の世界に居た時の私でもあるんだけど。
当時は気付かなかったけれど、その方向を突き詰めた究極とも言える彼女たちに出会って。
その在り方に触れて。
私はようやく、過去の私がどんな風に在って、それがどんな意味を持つのかを理解した。
一角の存在になって。
その結果として、傍に誰も、本当に誰もいなくなって。
「そんなのって凄く空しいって。悲しいって。
寂しい、って。
私は思ったのよ」
歌うなら、聞いてくれる誰かが欲しい。楽しんでくれる誰かが欲しい。奏で合える誰かが欲しい。
妖怪として怖れられるのでさえ、それを怖がってくれる誰かがいなければ、何をしたってただの一人芝居だ。
そんな孤独は、もう沢山だった。
一度自覚してしまえば、もう二度とあんな思いはしたくない。
「どうせ歌うなら、それを聞いてくれる誰かが、憶えていてくれるようなものがいい。
楽しまれて、気に入られて、一緒に騒いで、踊って、その記憶を友達に笑顔で話されるような、そんな歌が歌いたい。
私を私として認識してくれる誰かが欲しい。
どうせ夜雀として在るのなら、在り方ぐらいは自分で選ぼうって思ったのよ」
さっきまで止んでいた風が、思い出したように木々を揺らす。
屋台の中に溜まっていた食べ物の臭いや、体温の残滓や、酒精が、夜明け前の澄んだ空気に吹き流されていく。
こもっていた熱気が散らされて、秋の夜長に相応しいひんやりとした冷気と入れ替わった。
その中に混じる幽かな匂いに、夜明けの近さを感じる。
「そう思って、私は自分の在り方を変えたわ。
その時以来私は、純粋に、世界に認知される夜雀そのものであることをやめたの。
やめて、自分が望む夜雀であることにしたのよ」
他者がかくあれかしとする夜雀ではなく。
私がこうありたいと、そう思えるような夜雀であることにしたのだ。
「望んだわ。望めるだけ。
歌を聞いて欲しい。私を知って欲しい。
同胞と共に在りたい。同属を助けたい。
能力を活かしたい。夜雀として在りたい」
人間の欲に際限はないなんて言うけれど、そんな事を言ったら欲望に際限のある存在がどれだけいることか。
少なくとも私は、欲しいものを素直に欲しがれない生なんてもう二度とごめんだ。
「そうして出来上がったのがこの屋台って訳。
人を集めるために店をやる。それも、焼き鳥として一方的に食べられる同属を救うために、食材は焼き鳥の代わりにできるもので。
儲けを出すためにも鳥目を治す八目鰻を主食として、私の歌で夜盲にして私の店で治す自作自演機関を成立させる。
そんな思いで、この屋台は出来上がったって訳。
もっとも、しばらく前からわざわざ鳥目にしなくてもお客さんはしっかり来るから、八目鰻を治療目的で出すことは最近は殆どなかったりするんだけどね」
これが、私がこの店を始めた理由よ。
と、話を締めくくって、私はお猪口に残った酒を、そこに映る月と一緒に一息に飲み干した。
考えていたよりも、随分と長々と語ってしまった。
自分でも驚くぐらいに舌が回ったのは、勧められたお酒のせいか、それとも一緒に居る相手が文だ、という安心感のせいか。
判断はつきかねるけれど、幸いにも文の態度に退屈してそうな素振りもなかったし、きっと聞きたかった話を聞かせられたんだと思っても罰はあたらないだろう。
「ありがとうございました、女将さん。
非常に興味深いお話でしたよ。
こんな話を聞かせてもらえるなんて、今夜の私は本当に幸運でした」
話を聞き終えた文は、ゆっくりと伸びをして、白み始めた夜空を遠くに眺めた。
「だから、女将さん。一つだけ、質問させてください」
そうして視線を外しながら、文が続けた。
「女将さんは、こちらに来てから、本物の化け物を見て、知って、そう在ろうとすることを止めたと仰いましたね。
聞かせてください、女将さん。その決断に、本当に躊躇いはなかったんですか?
かつて強者であった貴方が。
この幻想郷に、独力で来れるほどの力を持った貴方が。
これからも、そう在れたかもしれない貴方が。
その力を捨てることに、本当に迷いはなかったんですか?」
喋りながらも、視線は東、太陽が今まさに姿を現そうとしている方向を向いている。
目を細めて、恐らくは今の時刻に当たりをつけているんだろう。
そのまま一つ頷くと、殆ど空になっていた徳利を手にとって、まだ中身の残っているお猪口へと継ぎ足した。
「人形遣いや魔法使いと会っているなら、女将さんも思ったはずです。
ただの人間が、努力した結果を見て。
私たちよりも余程取るに足らない存在であるはずの人間ですら、努め続ければ力を手にすることができると知って。
貴方もまた、力を手にすることが出来るのだと、思えたはずです。
それでもなお、その未来を捨てることが出来たのは、何故ですか?」
今にもこぼれそうなほどに並々と満たされたお猪口を、勢いづけるかのように文は一息に呷ると、ほのかに赤らんだ顔で一つゆっくり息を吐き、私を見つめた。
その瞳に揺れる疑問の光に吸い寄せられたように、私も口を開く。
「そうね。
確かに、私は力を望めば手に出来たと思うわ。
あの時出会った化け物の中には、そうやって努力と年月によって強者になった存在がいたし。
その後に会うことになった、力ある妖怪や知識ある人間からも、私の能力の真価はわからないと言われたし。
ひょっとしたら、私もそのつもりで努力し、年を重ねれば、一角の存在になれたのかもしれないわ」
文は、黙って私の話を聞いている。
その目はこれまでに見たこともないぐらいに真剣だ。
「でもね。その結果として、私が私の能力を突き詰めていった先で得られる力なんて、結局のところ他者よりも優れた能力であって、人を遠ざける能力であって。
唯一で在る事はできるかもしれないけど、誰かと共に在ることはできないような、そんな能力でしかないって、私にはわかってたのよ」
外の世界にいたころから、私は既に私の能力の本質を悟っていた気がする。
狂わせ、惑わせ、認識をいじる能力。
どんなに極めても、いいえ、極めれば極めるほど、自分以外の誰かと居ることができなくなる能力。
「私は、孤独でいることも孤高であることにも飽きたわ。
だから、強くあったり、立派であったりするのは他の誰かに譲ることにしたの。
私は、そんな風に何かを必死でやるんなら、それは強くなるとか、並ぶものがないとか、孤高になるとか、そういう場所以外にしたいと思ったのよね。
今の私が望むのは、取るに足らない凡妖怪の身でも、お店に来る人に喜んでもらって、妖怪と騒いで、偶には歌ったり踊ったり、待ち合わせをして合奏したり。
そんな、誰かといる平凡な日常なのよ」
だから、力を捨てた後悔なんて、今の私には関係ないの。
と、私は話を締めくくる。
「……そうですか。
女将さん、ありがとうございます。
理解するのにも納得するのにも時間が要りそうですけど、とても面白い話を聞かせていただきました」
話し終えた私に、文はそう言って頭を下げた。
「私が通ってた理由の一つは、この話を聞きたかったから、っていうのもあるんですよ。
いつかそれを聞いて、記事にしたいと、この店に来始めたばかりの頃の私は思ってたんですけど」
そこで言葉を切ると、文はカウンターに預けていた体を起こして、一つ大きく伸びをした。
胸を反らし、腕を掲げ、頭上を仰ぐその動作の一つ一つに、文の体の弾力やしなやかさや柔軟性が表れているのがわかる。
彼女もまた、強さとか力とかが無縁でない世界で生きてきたからこそ、さっきの疑問があったんだろう。
「本当に面白いお話でしたから、これを是非とも記事にしたいと、そう思っている私もいるんですけど。
そうしたら私がここに来る理由もなくなってしまうと、そう思っている私もいて」
腕を回し、肩を回し、首を回して、文は勢いよく立ち上がった。
その場で体の調子を確かめるように、二度三度と小さく飛び跳ねている。
「ええ。
鰻がとっても美味しくて、どうやら私は自分の目的を忘れてしまったようです。
目的を忘れて。道に迷って。
美味しいお酒と美味しい料理に、どうやら私は私を狂わされてしまったみたいですよ」
そのまま自分の荷物をまとめると、明らかにお勘定よりも多い額を財布から抜いてカウンターに置いた。
「だから。
今日は本当にありがとうございました。
忘れた物を思い出すために。
本来の目的を果たすために。
また来ますよ。女将さん」
そういう文の顔は、いつも通りの満面の笑顔。
もう何度もこの表情を見ているはずなのに、今でも私は、この濁りも邪気もない笑顔に見とれてしまう。
「はい。ご来店ありがとうございました。
そういうことなら、またいらっしゃい、文」
別れの挨拶を交わした後には、つむじ風しか残っていなかった。
羽ばたく素振りさえ見せずに、文の姿はかき消えている。
こんな場面を見る度に、幻想郷最速の通り名は決して大げさではないのだと思わずにはいられない。
まったく、もうこんな時間だ。
ここまで長く営業するつもりはさすがになかったのに。
おだてられて、飲まされて、調子に乗って喋っていたら、思ったよりも随分と遅くなってしまった。
と思いつつも、体に残った気だるさが何故だか心地いい。
こんな風に、大繁盛の有名店とは言えなくても、胸を張って自分のものだと言える屋台をひいて。
自分の振舞う料理や酒を喜んでもらって。
偶には常連客に誘われて、常連と一緒に、お酒を飲む。
なんだったらそこで、益体もない自分語りをしてみたりもして。
そんな日々が、どうやら私は嫌いではないらしい。
幻想郷の片隅の、小さな飲み屋の屋台でも。
一日を終わらせる夜がこうして訪れ、更けていく。
了
もう一捻り欲しかった気もするけど。
このしっとりした空気はいいもんですよ。