初めて彼女と出会ったのは――果たしていつのことだったか。
正確な日時を覚えるようなたちではないし、そうする意味合いも薄かったから、実のところほとんど覚えていない。これが相争って負けでもしていたのなら、刻限まできっちりと覚えているのだが。まあここ百年くらいの付き合いであることだけは確かだ。ナントカいうご大層な結界が閉じられた直後だったので、おおよその時期くらいはどうにか関連付けられるのである。
「夏を煮詰めて秋色の顔料を作りたいのです」
彼女は幽香をひたと見つめて、言った。
名は今に至るまで訊いたことがない。否、あったとしても忘れてしまった。一年に一度か、多くても偶然に二三度顔を合わせる程度だから、すれ違ってそれと分かる自信もない。幽香にとってその女は、夏の終わりを告げ、秋の始まりを告げる、いわば春告精の亜種のような存在なのだ。当時はこんなことを思うようになるなど、考えもしなかったのだけれど。
秋。
この季節が幽香はあまり好きでない。手塩にかけて育てた向日葵たちが、短い生涯を閉じる季節であるからだ。無論次代に繋がっていくことは確かなのだが、"その"向日葵に二度と出会えぬことも確かである。そうしたことを風見幽香は殊更気にするのだった。太陽の畑――そう呼ばれるほど大量の向日葵の繁殖に成功したのは、結界が閉じてから干支が一巡りした頃のことであり、まだまだ数が少ない頃でもあったのだ。
故に。
女の言葉に対してまず抱いたのは、この気に食わない女をどう血祭りに上げてやろうかという、些か以上に物騒な思いだった。釈明をするならば、この場所が半ば幽香の私有地と化し、戦いを吹っかけてくる輩が皆無の現状とは異なり、元気のいい者が幾らかは存在していたのである。
夏を煮詰めるという語感が気に食わない。少々生気を失い始めているとはいえ、幽香の周囲に存在している限りはまだ咲き続けられる花たちだ。煮詰める――その単語は取りも直さず彼女たちを害する意思で以て発されたのだろうし、死なない程度に傷めつけてからでも事情を訊くのは遅くないと思ったのだ。
人間を襲うなという条文が出回ってからというもの、力のある妖怪であればあるほど鬱屈した思いを抱えていた。
幽香は趣味を――というよりほぼ存在意義に直結する行動として、花を育てるという行為に勤しんでいたから、大きな影響を受けることはなかったのだが。
"そういう思い"を抱えた馬鹿が喧嘩でも売りに来たのだろうと当たりをつけて、
「死にたいの?」
ごく直裁に訊いた。涼しい顔で、さりとて威圧することは忘れないように。あの頃は日傘を持っていなかったから、手持ち無沙汰に骨の一つでも鳴らしたかもしれない。繰り返すが細部まで覚えているような性分ではないのである。
即座にぶち殺すとまでは行かなくとも、自分に敵対するつもりならば容赦はしないと警告を発した――程度のつもりだった。
が、しかし。
彼女は幽香の殺気に当てられて、可哀想なほどに狼狽した。額からどっと汗が吹き出し、小さく笑みを浮かべていた表情は見る影もなく崩れ落ちた。膝が笑い、今にも許しを乞うて頭を地にこすりつけるのではと疑ってしまったくらいに震えている。
「わ、私は別に」
そういうつもりじゃ、とか細い声が続いた。
「ごっ、ごめんなさい。あの、気に障ったのでしょうからもうこれで消えますさようなら」
一気にまくし立てて、勢いのまま身を翻し――そして、再び硬直する。忙しい女だと思ったものである。とはいえ仕方があるまい。振り返った視線の先には、何の前触れもなく幽香が移動していたからだ。殺気をぶつけられて狼狽するような小物。逐一それを相手にするような暇はなかったけれど、
「気には障ったわ。でも」
「ひっ」
「気にかかることも事実だから。分からないことを放置するの、嫌いなのよね」
「え――えっと」
「話しなさい」
有無を言わせぬ口調で幽香は詰め寄った。女は今度こそ膝を屈して、すすり泣きながら述懐を始めた。
自分は秋の紅葉を司る神であること(このとき名乗られたのかもしれないが、忘れた)。
夏の終わり頃から準備を始めて、鮮やかな夏を萃めることで紅葉を更に強く引き立たせること(どうやって夏を萃めるのかも聞いたような気がするが、忘れた)。
今年一番色濃い夏は、この向日葵の群生地に存在しているのだということ(どうやってそれを知ったのかということもおそらく訊いたとは思うのだが、忘れた)。
大体のことを聞き出すまでにずいぶんと時間がかかってしまった。その割に中身がないというか、自分にとってどうでも良さそうな話ばかりだったと思いながら、最後に一つだけ幽香は訊いた。
「この子たちを傷付けようと考えているわけではないのね?」
女は必死に何度か頷いて、
「理に従って"秋"が訪れることにはなりますけど」
と、言った。秋が訪れるということは、率直に考えると花たちが枯れるのだろう。ならば害するつもりがあるのか――といえば、そうではない。幽香自身が分かっている。自分がここにいること自体が自然の理を捻じ曲げ、咲き続けるはずのない花を咲かせているのだと。理をねじ曲げる存在を排斥する、更に強固な理。あと少し血気が盛んであれば逆らってみる気にもなったのだが、
――ふうん。
おどおどと縮こまる女を見下ろし、幽香は――。
◆
潮時だ、と思ったのである。
長月も半ばを過ぎている。例年であれば彼女が来ていてもおかしくない頃であるのだけれど、
――来ないわね。
原因は何となく分かっている。今年の太陽の畑は、少々"夏"の実りが悪かった。春先からの天候不順。日照不足が祟って、向日葵たちが大きく育たなかったのだ。彼女は色濃い夏の在り処が分かっているようだから、この場所以外を選んだのだろうと幽香はそう判断していた。
平素ならばいくらか力を注いで生育を促したであろう幽香は、けれど今年に限って人里に招かれていた。そこにいるだけである程度植物の活性化を促すため、そこいらの豊穣神よりもよほど強く信仰を受けている。丁重にもてなされれば、それはそれで悪い気などしない。太陽の畑と里とを往復して過ごしたために、花と作物とに力が分散してしまったのである。
里人からは感謝された。最悪の状況――狭い幻想郷の中での飢饉という状況が回避されたからだ。だがそのために、幽香の向日葵たちは、やや小振りな花を咲かせるにとどまり、また枯れはじめる時期も早かった。今はもう三割方が種を実らせた首を重たげに垂れている。常のこの時期であれば、その多くが麗しく咲き誇っている時期であるというのに。
今年はあの女、来ないのかもしれないわ――考えて幽香は軽く驚いた。季節の区切りとして、彼女の来訪を――わずかに、ではあるが――楽しみにしている己に気付いたからだ。
来ないのならば来ないと連絡の一つでも入れてくれればいいのだが。幽香は彼女が来る頃になると旅支度を始め、秋、冬と幻想郷内を転々としながら春を待つのだ。
来ないとなるとどの機会を目安にここを発つべきなのかしら、と向日葵を相手に黙考する。花たちが枯れるときを見計らうことは容易いが、踏ん切りを付けられるかどうかは別問題だ。逗留先を一つに定めて相手を萎縮させるのも詰まらない。快適な冬を過ごしたければ、相応の準備が必要なのである。
故にこそ。
あれが来ることを、一つの目安としていたのに。小さく息を吐く。仕方がないか。潮時だ。このまま音沙汰がなければ、神在月を迎える頃に発とう。決めて、日傘をくるりと回した。
そのとき。
さわさわと向日葵たちがさんざめいて、幽香に来訪者の存在を知らせた。警戒を促す調べ――ではない。彼らは敵意に対して明敏に反応する。そうすることが幽香を――ひいては己を守ることだと知っているから。けれど、むしろ好意的なそれを発することは少ない。
それこそ、芽吹きや開花、終焉という節目を迎えるとき以外には。
振り返る。
――ああ。
来たのか。
朱色の服を身にまとった彼女が、丘を越えてこちらへ近付いてくるところだった。太陽の畑は周囲からの視界を遮るように小高い丘で囲まれたすり鉢状の盆地である。幽香が今いるのはその底の部分近くに当たるため、ひと目で見て取ることができたのだ。
「こんにちは」
お久しぶりです――立ち止まった彼女はそう言って、かすかに笑った。
「一年ぶりになるのかしら」
あまり久しいとも思わないけれど――幽香はそう返して、わずかに目を細めた。
子孫を残せるという、本能が満たされる瞬間。花たちはだからこそ、自らに終わりをもたらす彼女を歓迎する。幽香がずっとそばにいたのでは、いつまでも咲き続けてしまう可能性があるからだ。そうさせるつもりのない幽香としては甚だ不本意なことではあるのだが、如何せん一代限りの付き合いでは真意をしらしめることなどできはしないのである。
「今年は来ないのかもしれないと思っていたわ」
「何故です?」
「何故、って。ご覧の通りだからよ」
「ああ――」
里で噂を聞きました、と彼女は言う。ここに来る少し前に、妹――どうやらありふれた豊穣神の一人のようだが会ったことはない――と別れてきたので、里の事情を知る機会があったらしい。
「ずいぶんと助力をなさったようで」
「居ただけよ。ありがたがっているのは人間だけ」
「ご謙遜を」
「本当のことを言っているの。この子たちは怒っているわ。私たちを放ってお前は何をしているのか、とね」
「その真偽を確かめることが私にはできないと分かっていて言っているのでしょう。そんなひとには"いいもの"を渡せませんよ」
「いいもの?」
彼女をきちんと視界に収めると、確かに手を後ろへ回していた。何を隠し持っているのだろう。純然な疑義から手を伸ばす。が、彼女は半歩下がることでそれを回避した。意味有りげな含み笑いが癪に障り、幽香は静かに眉をひそめる。
「隠し立ては貴女のためにならないわよ」
「害する意志があるわけではないのでご安心を」
「あるのなら話がとても早いのだけれど」
「またそういうことを言う。だから危険度極高だ友好度最悪だなどと言われてしまうのですよ」
くすくすと彼女は笑う。幽香は豪然と胸を張った。
「望むところよ。有象無象が寄って来なくて楽だもの」
「本当は優しいのに」
「……どこが」
一瞬、言葉に詰まった。そんなことは言われ慣れていない。無闇に反発をしてみたくなる。
「優しいわけがないでしょう。他人の機嫌を伺うなんて、私らしくないじゃない」
「初めて会ったときから順に並べてみましょうか? 何のかのと言いながらしっかり話を聞いてくれましたし、私の目的を聞いても妨害することなく実行させてくれましたよね」
「それはこの子たちのことを思ってのことよ」
「騒霊の公演にここを提供していたり」
「あれは――あれも、花の生育に音楽が良いと言うからよ」
「妖精がここで遊ぶことを黙認していたり」
「――妖精は自然の権化だもの。邪魔をするのは流儀に反するわ」
「今年だけではなく、何度も作物の成長に手を貸したことがあるでしょう? 毎年のように誰かの手が関与していることは、妹から聞き及んでいるんですよ」
「……それは」
くるり。
「……分かったわよ」
くすくす。
「では、これを」
差し出したままの右手に、小振りな鉢植えが乗せられた。芽は出ていない。平凡な器と平凡な土。幽香の目はそう看破した。といっても幻想郷でよく見かける形ではないから、外からの流入品だろう。球根が植わっているようだが、詳細は分からない。流入してきた鉢植えには、名前を書いた小さな板切れが刺さっていることもあるが、それらしいものも見当たらない。この期に及んでまだ隠しているのか。否。どうも違うようである。
「この子の名前は?」
「分かりませんか」
意外そうに彼女は言った。幽香は苦笑いをしながら、
「これでは無理よ。せめて芽生えていれば話もできるのだけれど」
「シクラメンというのだそうです。貴女のところへ行くのだと聞いて、里の花屋さんが持たせてくれて」
「花屋には私もよく行くけれど、あの主人が花の鑑定をするなんて初めて聞いたわ」
「名前と用途が分かる知り合いがいるのだそうですよ。里の外で暮らしている人なのだそうですが」
十中八九、人外のたぐいだろう。
「冬の間に花を咲かせるのだそうで――」
育て方を教えてくれようとした彼女を、
「そこまででいいわ」
と制止した。シクラメンという名にはほとんど聞き覚えがないのだが、
「カガリビバナには少し、縁があってね」
「かが……?」
「カガリビバナ。シクラメンの――そう、和名と言ったかしら。花の形が篝火に似ているの」
これもまた百年以上前のことになる。大結界が閉じる、ほんの少し前のことだ。外界を流浪している最中、とある植物学者に出会い、教わったのである。
「花絡みで人間に教えられることがあるなんて、と思ったものよ。結界が出来上がる寸前まで色々とやりとりをしていたわ」
「まあ。何というか――不思議な縁ですね」
「本当にね。さて」
予想外の贈り物を抱えて、幽香はふと思案した。
鉢植えを抱えて放浪する趣味はないから、これは本格的に逗留する先を見つけなければならないかもしれない。放っておいても己の周囲なので育ちはするのかもしれないが、できる限りいい環境で育ててやりたいと思うのは自然なことだろう。
「どうしたものかしらね。貴女のところへ転がり込む、というのも楽しそうではあるけれど」
「ど、どうしてもというのでしたら。歓待はできないと思いますが……」
「冗談よ。零細神様の手を煩わせるほど落ちぶれているわけじゃないわ」
それならいっそ地底を目指してみるというのはどうです、と彼女は言う。
「最近はずいぶん住み良い街になっているとか」
「聞いたことがあるわ。貴女たちの商売敵が手を貸しているのよね」
「商売敵と言うには少々格が違い過ぎますよ」
神様は神様よ――と、幽香は言った。
「それらしいところを見せてくれれば、それなりに信仰してあげるわ。いつものように、ね」
「ええ」
彼女は軽く頷いて、幽香に背を向けた。太陽の畑、その中央――すり鉢状の盆地の底へと歩を進める。
空気が――変わる。向日葵たちの期待が一箇所に集まっているのだ。実際に花弁の向きが変わっているのが面白い。本物の観客のようだと幽香は思う。本来であれば若かりし頃にしかそのような動きを見せることはないはずなのに。
"夏"が。
集約されてゆく。
――あの冬を思い出すわね。
冥界の亡霊が春度を集めていた異変だ。あのときは桜の開花が遠のいたばかりか春もまた遠のいたために、種まきの時期を逃した幽香は多いに難渋したものである。あれと同質の――とはいえかなり規模の小さな――異変が起こってもおかしくはないはずなのだが、しかしそうはならない。あくまでもこの土地だけの夏を吸い上げているのです――と言っていたか。
いつぞやの異変では"春"を集めすぎた亡霊が叩きのめされたと聞いている。そうならないよう細心の注意を払っているのかもしれない。彼女はお世辞にも腕力その他が強いとは言い難い存在のようだから。
色彩が褪せていく。
黄色い夏色を残す台地が、茶褐色の秋色へと変貌していく。
急激に夏度を失った花たちが、幽香の力が届かない、真実の姿へ立ち戻っていくのだ。
太陽の畑が――さらさらと崩れていく。そんな錯覚に囚われる。
傘を畳んだ。陽光さえも陰っているように感じられて。何より、この光景をしかと目に焼き付けておきたかったから。葬送。そういえば、人間たちが言うところの彼岸が近いのだったか。まただ。花々に宿る霊魂を見送った、あの異変を思い出す。春を集めるという大それた異変とは異なり、自然現象のようなそれではあったけれど、この場で思い出すにはぴったりの異変であるように思えた。
頭を垂れて、彼女は一心に祈っている。服の朱が濃くなっているような。神徳。何となく思い浮かべた言葉は、そんなもので。鉢植えをぎゅっと抱く。大事にしよう。こういうひととの関わりは、幽香にとって大事なものだ。多くは血みどろの争いを繰り広げて、もう二度と顔を見たくないような奴らが多いから。
面白みは相変わらず、少ない。思って、けれど、
「さすがの手腕ね」
そんな言葉を投げかけた。
気まぐれに。
横顔を振り返らせた彼女は、小さく笑っていた。
自慢げに。
「これくらいしか出来ませんから」
――これができるというのは大したものではないかしら。
言わないけれど。
窪地を走り抜ける風と。
向日葵たちの口々に別れを告げる声が。
さやさやと。
幽香の耳朶を撫でてゆく。
胎動。手の中に感じた。視線を下げる。秋を見た花が、小さな芽をのぞかせていた。
嗚呼――。
夏が、終わる。
正確な日時を覚えるようなたちではないし、そうする意味合いも薄かったから、実のところほとんど覚えていない。これが相争って負けでもしていたのなら、刻限まできっちりと覚えているのだが。まあここ百年くらいの付き合いであることだけは確かだ。ナントカいうご大層な結界が閉じられた直後だったので、おおよその時期くらいはどうにか関連付けられるのである。
「夏を煮詰めて秋色の顔料を作りたいのです」
彼女は幽香をひたと見つめて、言った。
名は今に至るまで訊いたことがない。否、あったとしても忘れてしまった。一年に一度か、多くても偶然に二三度顔を合わせる程度だから、すれ違ってそれと分かる自信もない。幽香にとってその女は、夏の終わりを告げ、秋の始まりを告げる、いわば春告精の亜種のような存在なのだ。当時はこんなことを思うようになるなど、考えもしなかったのだけれど。
秋。
この季節が幽香はあまり好きでない。手塩にかけて育てた向日葵たちが、短い生涯を閉じる季節であるからだ。無論次代に繋がっていくことは確かなのだが、"その"向日葵に二度と出会えぬことも確かである。そうしたことを風見幽香は殊更気にするのだった。太陽の畑――そう呼ばれるほど大量の向日葵の繁殖に成功したのは、結界が閉じてから干支が一巡りした頃のことであり、まだまだ数が少ない頃でもあったのだ。
故に。
女の言葉に対してまず抱いたのは、この気に食わない女をどう血祭りに上げてやろうかという、些か以上に物騒な思いだった。釈明をするならば、この場所が半ば幽香の私有地と化し、戦いを吹っかけてくる輩が皆無の現状とは異なり、元気のいい者が幾らかは存在していたのである。
夏を煮詰めるという語感が気に食わない。少々生気を失い始めているとはいえ、幽香の周囲に存在している限りはまだ咲き続けられる花たちだ。煮詰める――その単語は取りも直さず彼女たちを害する意思で以て発されたのだろうし、死なない程度に傷めつけてからでも事情を訊くのは遅くないと思ったのだ。
人間を襲うなという条文が出回ってからというもの、力のある妖怪であればあるほど鬱屈した思いを抱えていた。
幽香は趣味を――というよりほぼ存在意義に直結する行動として、花を育てるという行為に勤しんでいたから、大きな影響を受けることはなかったのだが。
"そういう思い"を抱えた馬鹿が喧嘩でも売りに来たのだろうと当たりをつけて、
「死にたいの?」
ごく直裁に訊いた。涼しい顔で、さりとて威圧することは忘れないように。あの頃は日傘を持っていなかったから、手持ち無沙汰に骨の一つでも鳴らしたかもしれない。繰り返すが細部まで覚えているような性分ではないのである。
即座にぶち殺すとまでは行かなくとも、自分に敵対するつもりならば容赦はしないと警告を発した――程度のつもりだった。
が、しかし。
彼女は幽香の殺気に当てられて、可哀想なほどに狼狽した。額からどっと汗が吹き出し、小さく笑みを浮かべていた表情は見る影もなく崩れ落ちた。膝が笑い、今にも許しを乞うて頭を地にこすりつけるのではと疑ってしまったくらいに震えている。
「わ、私は別に」
そういうつもりじゃ、とか細い声が続いた。
「ごっ、ごめんなさい。あの、気に障ったのでしょうからもうこれで消えますさようなら」
一気にまくし立てて、勢いのまま身を翻し――そして、再び硬直する。忙しい女だと思ったものである。とはいえ仕方があるまい。振り返った視線の先には、何の前触れもなく幽香が移動していたからだ。殺気をぶつけられて狼狽するような小物。逐一それを相手にするような暇はなかったけれど、
「気には障ったわ。でも」
「ひっ」
「気にかかることも事実だから。分からないことを放置するの、嫌いなのよね」
「え――えっと」
「話しなさい」
有無を言わせぬ口調で幽香は詰め寄った。女は今度こそ膝を屈して、すすり泣きながら述懐を始めた。
自分は秋の紅葉を司る神であること(このとき名乗られたのかもしれないが、忘れた)。
夏の終わり頃から準備を始めて、鮮やかな夏を萃めることで紅葉を更に強く引き立たせること(どうやって夏を萃めるのかも聞いたような気がするが、忘れた)。
今年一番色濃い夏は、この向日葵の群生地に存在しているのだということ(どうやってそれを知ったのかということもおそらく訊いたとは思うのだが、忘れた)。
大体のことを聞き出すまでにずいぶんと時間がかかってしまった。その割に中身がないというか、自分にとってどうでも良さそうな話ばかりだったと思いながら、最後に一つだけ幽香は訊いた。
「この子たちを傷付けようと考えているわけではないのね?」
女は必死に何度か頷いて、
「理に従って"秋"が訪れることにはなりますけど」
と、言った。秋が訪れるということは、率直に考えると花たちが枯れるのだろう。ならば害するつもりがあるのか――といえば、そうではない。幽香自身が分かっている。自分がここにいること自体が自然の理を捻じ曲げ、咲き続けるはずのない花を咲かせているのだと。理をねじ曲げる存在を排斥する、更に強固な理。あと少し血気が盛んであれば逆らってみる気にもなったのだが、
――ふうん。
おどおどと縮こまる女を見下ろし、幽香は――。
◆
潮時だ、と思ったのである。
長月も半ばを過ぎている。例年であれば彼女が来ていてもおかしくない頃であるのだけれど、
――来ないわね。
原因は何となく分かっている。今年の太陽の畑は、少々"夏"の実りが悪かった。春先からの天候不順。日照不足が祟って、向日葵たちが大きく育たなかったのだ。彼女は色濃い夏の在り処が分かっているようだから、この場所以外を選んだのだろうと幽香はそう判断していた。
平素ならばいくらか力を注いで生育を促したであろう幽香は、けれど今年に限って人里に招かれていた。そこにいるだけである程度植物の活性化を促すため、そこいらの豊穣神よりもよほど強く信仰を受けている。丁重にもてなされれば、それはそれで悪い気などしない。太陽の畑と里とを往復して過ごしたために、花と作物とに力が分散してしまったのである。
里人からは感謝された。最悪の状況――狭い幻想郷の中での飢饉という状況が回避されたからだ。だがそのために、幽香の向日葵たちは、やや小振りな花を咲かせるにとどまり、また枯れはじめる時期も早かった。今はもう三割方が種を実らせた首を重たげに垂れている。常のこの時期であれば、その多くが麗しく咲き誇っている時期であるというのに。
今年はあの女、来ないのかもしれないわ――考えて幽香は軽く驚いた。季節の区切りとして、彼女の来訪を――わずかに、ではあるが――楽しみにしている己に気付いたからだ。
来ないのならば来ないと連絡の一つでも入れてくれればいいのだが。幽香は彼女が来る頃になると旅支度を始め、秋、冬と幻想郷内を転々としながら春を待つのだ。
来ないとなるとどの機会を目安にここを発つべきなのかしら、と向日葵を相手に黙考する。花たちが枯れるときを見計らうことは容易いが、踏ん切りを付けられるかどうかは別問題だ。逗留先を一つに定めて相手を萎縮させるのも詰まらない。快適な冬を過ごしたければ、相応の準備が必要なのである。
故にこそ。
あれが来ることを、一つの目安としていたのに。小さく息を吐く。仕方がないか。潮時だ。このまま音沙汰がなければ、神在月を迎える頃に発とう。決めて、日傘をくるりと回した。
そのとき。
さわさわと向日葵たちがさんざめいて、幽香に来訪者の存在を知らせた。警戒を促す調べ――ではない。彼らは敵意に対して明敏に反応する。そうすることが幽香を――ひいては己を守ることだと知っているから。けれど、むしろ好意的なそれを発することは少ない。
それこそ、芽吹きや開花、終焉という節目を迎えるとき以外には。
振り返る。
――ああ。
来たのか。
朱色の服を身にまとった彼女が、丘を越えてこちらへ近付いてくるところだった。太陽の畑は周囲からの視界を遮るように小高い丘で囲まれたすり鉢状の盆地である。幽香が今いるのはその底の部分近くに当たるため、ひと目で見て取ることができたのだ。
「こんにちは」
お久しぶりです――立ち止まった彼女はそう言って、かすかに笑った。
「一年ぶりになるのかしら」
あまり久しいとも思わないけれど――幽香はそう返して、わずかに目を細めた。
子孫を残せるという、本能が満たされる瞬間。花たちはだからこそ、自らに終わりをもたらす彼女を歓迎する。幽香がずっとそばにいたのでは、いつまでも咲き続けてしまう可能性があるからだ。そうさせるつもりのない幽香としては甚だ不本意なことではあるのだが、如何せん一代限りの付き合いでは真意をしらしめることなどできはしないのである。
「今年は来ないのかもしれないと思っていたわ」
「何故です?」
「何故、って。ご覧の通りだからよ」
「ああ――」
里で噂を聞きました、と彼女は言う。ここに来る少し前に、妹――どうやらありふれた豊穣神の一人のようだが会ったことはない――と別れてきたので、里の事情を知る機会があったらしい。
「ずいぶんと助力をなさったようで」
「居ただけよ。ありがたがっているのは人間だけ」
「ご謙遜を」
「本当のことを言っているの。この子たちは怒っているわ。私たちを放ってお前は何をしているのか、とね」
「その真偽を確かめることが私にはできないと分かっていて言っているのでしょう。そんなひとには"いいもの"を渡せませんよ」
「いいもの?」
彼女をきちんと視界に収めると、確かに手を後ろへ回していた。何を隠し持っているのだろう。純然な疑義から手を伸ばす。が、彼女は半歩下がることでそれを回避した。意味有りげな含み笑いが癪に障り、幽香は静かに眉をひそめる。
「隠し立ては貴女のためにならないわよ」
「害する意志があるわけではないのでご安心を」
「あるのなら話がとても早いのだけれど」
「またそういうことを言う。だから危険度極高だ友好度最悪だなどと言われてしまうのですよ」
くすくすと彼女は笑う。幽香は豪然と胸を張った。
「望むところよ。有象無象が寄って来なくて楽だもの」
「本当は優しいのに」
「……どこが」
一瞬、言葉に詰まった。そんなことは言われ慣れていない。無闇に反発をしてみたくなる。
「優しいわけがないでしょう。他人の機嫌を伺うなんて、私らしくないじゃない」
「初めて会ったときから順に並べてみましょうか? 何のかのと言いながらしっかり話を聞いてくれましたし、私の目的を聞いても妨害することなく実行させてくれましたよね」
「それはこの子たちのことを思ってのことよ」
「騒霊の公演にここを提供していたり」
「あれは――あれも、花の生育に音楽が良いと言うからよ」
「妖精がここで遊ぶことを黙認していたり」
「――妖精は自然の権化だもの。邪魔をするのは流儀に反するわ」
「今年だけではなく、何度も作物の成長に手を貸したことがあるでしょう? 毎年のように誰かの手が関与していることは、妹から聞き及んでいるんですよ」
「……それは」
くるり。
「……分かったわよ」
くすくす。
「では、これを」
差し出したままの右手に、小振りな鉢植えが乗せられた。芽は出ていない。平凡な器と平凡な土。幽香の目はそう看破した。といっても幻想郷でよく見かける形ではないから、外からの流入品だろう。球根が植わっているようだが、詳細は分からない。流入してきた鉢植えには、名前を書いた小さな板切れが刺さっていることもあるが、それらしいものも見当たらない。この期に及んでまだ隠しているのか。否。どうも違うようである。
「この子の名前は?」
「分かりませんか」
意外そうに彼女は言った。幽香は苦笑いをしながら、
「これでは無理よ。せめて芽生えていれば話もできるのだけれど」
「シクラメンというのだそうです。貴女のところへ行くのだと聞いて、里の花屋さんが持たせてくれて」
「花屋には私もよく行くけれど、あの主人が花の鑑定をするなんて初めて聞いたわ」
「名前と用途が分かる知り合いがいるのだそうですよ。里の外で暮らしている人なのだそうですが」
十中八九、人外のたぐいだろう。
「冬の間に花を咲かせるのだそうで――」
育て方を教えてくれようとした彼女を、
「そこまででいいわ」
と制止した。シクラメンという名にはほとんど聞き覚えがないのだが、
「カガリビバナには少し、縁があってね」
「かが……?」
「カガリビバナ。シクラメンの――そう、和名と言ったかしら。花の形が篝火に似ているの」
これもまた百年以上前のことになる。大結界が閉じる、ほんの少し前のことだ。外界を流浪している最中、とある植物学者に出会い、教わったのである。
「花絡みで人間に教えられることがあるなんて、と思ったものよ。結界が出来上がる寸前まで色々とやりとりをしていたわ」
「まあ。何というか――不思議な縁ですね」
「本当にね。さて」
予想外の贈り物を抱えて、幽香はふと思案した。
鉢植えを抱えて放浪する趣味はないから、これは本格的に逗留する先を見つけなければならないかもしれない。放っておいても己の周囲なので育ちはするのかもしれないが、できる限りいい環境で育ててやりたいと思うのは自然なことだろう。
「どうしたものかしらね。貴女のところへ転がり込む、というのも楽しそうではあるけれど」
「ど、どうしてもというのでしたら。歓待はできないと思いますが……」
「冗談よ。零細神様の手を煩わせるほど落ちぶれているわけじゃないわ」
それならいっそ地底を目指してみるというのはどうです、と彼女は言う。
「最近はずいぶん住み良い街になっているとか」
「聞いたことがあるわ。貴女たちの商売敵が手を貸しているのよね」
「商売敵と言うには少々格が違い過ぎますよ」
神様は神様よ――と、幽香は言った。
「それらしいところを見せてくれれば、それなりに信仰してあげるわ。いつものように、ね」
「ええ」
彼女は軽く頷いて、幽香に背を向けた。太陽の畑、その中央――すり鉢状の盆地の底へと歩を進める。
空気が――変わる。向日葵たちの期待が一箇所に集まっているのだ。実際に花弁の向きが変わっているのが面白い。本物の観客のようだと幽香は思う。本来であれば若かりし頃にしかそのような動きを見せることはないはずなのに。
"夏"が。
集約されてゆく。
――あの冬を思い出すわね。
冥界の亡霊が春度を集めていた異変だ。あのときは桜の開花が遠のいたばかりか春もまた遠のいたために、種まきの時期を逃した幽香は多いに難渋したものである。あれと同質の――とはいえかなり規模の小さな――異変が起こってもおかしくはないはずなのだが、しかしそうはならない。あくまでもこの土地だけの夏を吸い上げているのです――と言っていたか。
いつぞやの異変では"春"を集めすぎた亡霊が叩きのめされたと聞いている。そうならないよう細心の注意を払っているのかもしれない。彼女はお世辞にも腕力その他が強いとは言い難い存在のようだから。
色彩が褪せていく。
黄色い夏色を残す台地が、茶褐色の秋色へと変貌していく。
急激に夏度を失った花たちが、幽香の力が届かない、真実の姿へ立ち戻っていくのだ。
太陽の畑が――さらさらと崩れていく。そんな錯覚に囚われる。
傘を畳んだ。陽光さえも陰っているように感じられて。何より、この光景をしかと目に焼き付けておきたかったから。葬送。そういえば、人間たちが言うところの彼岸が近いのだったか。まただ。花々に宿る霊魂を見送った、あの異変を思い出す。春を集めるという大それた異変とは異なり、自然現象のようなそれではあったけれど、この場で思い出すにはぴったりの異変であるように思えた。
頭を垂れて、彼女は一心に祈っている。服の朱が濃くなっているような。神徳。何となく思い浮かべた言葉は、そんなもので。鉢植えをぎゅっと抱く。大事にしよう。こういうひととの関わりは、幽香にとって大事なものだ。多くは血みどろの争いを繰り広げて、もう二度と顔を見たくないような奴らが多いから。
面白みは相変わらず、少ない。思って、けれど、
「さすがの手腕ね」
そんな言葉を投げかけた。
気まぐれに。
横顔を振り返らせた彼女は、小さく笑っていた。
自慢げに。
「これくらいしか出来ませんから」
――これができるというのは大したものではないかしら。
言わないけれど。
窪地を走り抜ける風と。
向日葵たちの口々に別れを告げる声が。
さやさやと。
幽香の耳朶を撫でてゆく。
胎動。手の中に感じた。視線を下げる。秋を見た花が、小さな芽をのぞかせていた。
嗚呼――。
夏が、終わる。
秋を予感させる静かな雰囲気が素敵でした
朝晩の風が涼しくなってきました。体調管理には十分お気をつけ下さい。
>>まだだ、まだ終わらんよ(`;ω;´)
>>もう季節の変わり目なんですねぇ
>>夏から秋にかけての空気が落ち着いていくような感覚がありありと感じられました。
そうなのですよ。まだまだ日中は暑いですが、秋分の日も近いのです。うわあ。
>>夏を煮詰めて秋の顔料を、って言い回しかっこいい。
口授の記述を見た時からの疑問だったのです。あれはどうやって集めてるんだろう、と。
幽々子が春度を集めたような方法なのかなあとですね。具体的にどうするのかは分かりませんが。
>>雰囲気
大人の付き合いや叙情的というお言葉。ありがとうございます。異変を除けば今の幻想郷は穏やかだと思いたいのです。
登場人物を見る限りではとてもそうは思えないこともあるのですが。
>>相変わらず空気の描写がお見事。
相変わらず、ということは拙作を何度か読んで下さった方なのでしょうか。恐縮です。
登場人物の間に漂う空気感を大切にしているつもりなので、雰囲気や空気といったコメントは凄く嬉しかったり。
今後ともよろしくお願いします、なんて言ってみたり。
その印象の移り変わりも見てみたかった。
一人一人に秋を届けに行く静葉さんは顧客に向こう営業マンみたいで忙しそう