寅丸星
ある奇怪な事件の真相を私だけが知っている。その奇怪な事件とは二日前に起きたある高僧、すなわち聖の遺骸が突然、消えてしまったという事件に他ならない。この事は少なからず命蓮寺の面々に衝撃を与え、速やかに箝口令が敷かれた。つまり、生前の知己のみが招かれた慎ましい葬儀において棺が空だったことを知る人はたったの六人しかいないと言うことだ。焼いてしまった後、骨が残らないのに対し人々は口々に驚愕の言葉を叫んだがそのうちにそれぞれが勝手に得心し真実はうやむやになった。遠い異国の預言者よろしく三日後に彼女は蘇るのだという噂がまことしやかに囁かれた。六人だけが真実の重みに口を閉ざし、さらにその内の一人はさらなる真相と罪の重みに押しつぶされんばかりだった。その一人というのがこの私、寅丸星である。
目を開き、現に返って夢の余韻を床に転がす。今しがた見た狂おしい夢を思い起こそうとする。だが像を結ぶのは朧な喧噪のイメージばかり。混沌としたその中から取り出せたのは炎の色だけ。なにか大事な事を追体験した気がするのだが。乱れた褥に夢の面影を見いだそうとするがうまくはいかなかった。
布団の上で体を翻し、床に手をついて身を起こした。そうした拍子に目に入った置き時計の針。結局、幾らも寝られず、こうして目を覚ましたと言うわけだ。どこか非難の入り交じった刺々しい思いと共に立ち上がる。布団に貯まった太陽の熱が冷えた掌を微かに温めた。
短い眠りに軽いふらつきを覚えながら私室を出る。足が縺れて壁に手をついた。
露の降りた中庭の土は微かに湿っていた。つっかけた草履の裏からひんやりと冷気が伝わる。井戸から水をくみ、顔を洗うと少し意識がはっきりとした気がした。それでも水面に映る私の顔は疲れの色が拭えない。隈の出来た目に乾いた笑いを立てた。しゃんとしなければ。
朝の冷たい風から逃れるようにして命蓮寺の堂内に戻る。寺の面々は今、葬儀の日時を知らせに方々に散って今、寺の中にいるのは私と聖だけだ。
聖の死は突然だった。あまりに突然で未だに実感が無い。けれどもあの人は冷たくなって今、本堂に寝せられている。
暗い伽藍を抹香の煙が帯引いて流れた。細い煙の束は薄絹の様、香煙をかき分け歩む。無数の燭花が霞んだ灯りをこちらへ投げた。
膝を折り曲げ聖の傍に座り込む。寺のみんなは葬儀が始まるまでは休んでいろと言ったが私にはこうして居る方が好ましかった。聖と居られる時間は少ないのだから。たとえ冷たく固まっても、言葉を返してくれなくとも私は構わなかった。目の前で目を閉じて身を横たえる彼女は私にとって紛れもなく聖だった。だからこそ今はこうして彼女を見つめていたい。聖の元を離れて浅い眠りを貪るよりもそうする方がよほど良い。いっそここに布団を敷いて眠ってしまおうか。そして動かない、美しい彼女を見つめながら眠ってしまおうか?
不意に背後で起こった、小さな軋む音が奇妙な、ともすればグロテスクなアイデアを頭から消し去った。振り向きながら自身の消耗を自覚する。
眼前の闇に佇むのは赤毛の火車だ。火のような色をした髪の毛を三つ編みに編んだその女。こちらが振り向いたのに気づくと火焔猫燐はペロッと赤い舌を出して笑った。
火車は死体を持ち去る妖怪である。であれば彼女が何をしに来たかは明らかだった。私は得物に向かって手を伸ばす。威厳を保つためのイミテーションだが無いよりはマシだろう。しかし、燐がわずかに早かった。彼女のつま先は板張りの床を素早く撫でたかと思うと私の槍を遙か彼方に蹴飛ばしてしまった。疲労した脳はここまでの僅か数瞬の思考にさえ悲鳴を上げる。耳の奥がチリチリと鳴った。
つま先が翻り私の鳩尾に向けて打ち振られる。私は微かに身を沈め胸部でそれを受ける、丈夫さには自信があった。思っていたより重たい一撃に胸骨が軋み、息を吐くもそのまま足を掻い込んで彼女を引き倒し、跳躍する。水平になるたけ近い角度で。背中を打って起き上がろうとする燐の上体を素早く覆い、細い喉に手を掛けた。指先に呼吸の痕跡、血の巡りが感じられ自分が今、命をやりとりしているということが曖昧ながらも感じられた。
走った鈍い痛みに考えを中断する。彼女の拳が脇腹を打ったのだ。大したダメージでは無いが一瞬、バランスが崩れた。すると見る間に彼女は足を一本、私の下から引き抜き、それでもって私の胸を一撃した。壁際まで転がって強か背を打つ。呻いてる暇は無かった。立ち上がり、燐がまだ酸欠から回復していないのを認めると槍を拾い上げる。
お燐は柱に背を預けたまま激しく咳き込むと掌をこちらに向けて何事か叫んだ。一度目は横隔膜の痙攣に阻止され声にならなかった。幾らか聞きやすくなった二度目を経て三度目に彼女はようやく私に意思を伝えた。
「参った、参った、ああ、もう降参だ」
答えない私に彼女はどこか戯けた視線を送る。
「ずいぶん熱心にそこの姉さんを見てたね。あんたがあんまり熱心に見つめるもんだから、いや、アタイもね、そこらへんの駆け出し火車と一緒にしてもらっちゃ困る。だなんて思ってたけどついヘマをやっちまった。なあ、アンタ……」
「何をしにきた」
彼女の話を遮って問うと燐は眉をつり上げると首を傾げ、解るだろう? といった顔をして見せ、言葉を継いだ。
「なあ、アンタ、本当にこんな綺麗な姐さんをこのまま燃やしちまうつもりかね?」
「何が言いたい」
槍を掻い込み、穂先を向けると燐は両の掌を掲げ、戦意の無いことを示した。
「いやね、アタイはただ勿体無いなと思っただけさ。なにせ、仮に、仮にアンタらの流儀で葬式をやったとしたらだよ。そしたら四十九日が過ぎれば二度とこんなお美しい人に会えないんだからね。勿体ないだろう」
何も言えない私に彼女は捲し立てる。
彼女の言う通りだった。だがしかし、だから何だというのか? もし、仮に、いや、このままでは確実に聖に二度と会うことは無いだろう。だからと言って聖に教わった事が私の頭から抜けてしまうとでも言うのか?
「つまり、アタイが何を言いたいかって言うとね。こちらの方を荼毘に付す、尊~いお仕事をアタイにやらせて欲しいって事なのさ。アタイ達はすごいよ。なにせこの仕事をアタイらに任せればアンタは愛しい人にまた会うことができるんだから、まあ全てが元通りとは行かないが」
彼女の舌が暗い喉の奥で仄紅く揺れ、私は自己欺瞞が破れるのを感じる。聖から何を与えられかなど今は問題では無い。無理矢理彼女を現し世につなぎ止めるか、或いはいつかの様に、しかも今度は永遠に手の届かぬ所に見送るか、私は今、選択を強いられている。ぎりり、我知らず歯が鳴った。目の前のこの女さえいなければ私はこのような二者択一に気づくことすら無かったのに。だが、果たしてそうか? 湧いた問いに眩惑される。白日夢、あるいは安い活動写真のような現実味の無い世界。意識が思考の奥に引っ込んで視覚は認識の支えを失い宙ぶらりんになる。目の前で揺れる、赤、緑、肌色。少し意識を現実に向け燐を見た。自身の獣性が女の顔をしているのか。目の前の少女が記号的な意味を持っているのでは無いかと言う妄想に捕らわれる。一例を挙げれば八重歯は獰猛を象徴するのだ。そして私も立派な牙を持っている。言うまでも無いことだが。かちかちと歯が鳴った。
動けない私の手からそっと槍をもぎ取ると燐は私の耳に口を沿わせ、囁く。歯の鳴る音さえ聞こえる距離で彼女の喉が空気を震わす。
「それに、それにこいつはちょいとリスキーでインモラルなやり方なんだがね」
これが彼女なりの殺し文句らしかった。私は答えない。
「ここで決めろとは言わないさ。なあ、向こうに榛の茂みがあるだろう? そこの窪地に車を隠してある。しばらく居るから肚が決まったらその時はおいで」
突然、燐が私の手を取った。槍が放られ乾いた音を立てる。
「姐さんと一緒にね」
燐が爪をグイと手の甲につきたて、力をこめた。鋭い痛みが走る。慌てて身を離し、目をやると皮膚は一本の傷が入っている。傷と呼ぶにはあまりに華奢だと思った。私の手には今、赤い、細い線が引かれている。
「アタイはやられっぱなしが性分に合わないのさ!!!」
そうしてけたましく笑うと彼女はドレスの裾を炎のように翻らせながら駆けていった。
私は一人取り残され、へなへなとその場に座り込む。しだいに上体を起こしているのも面倒になり仰向けに倒れ込む。ひっかき傷が妙に気に障る。痛みではない、痒みに近いが痒みそのものでは決してない。私はこうした感覚にかつて親しんだのだ。目を閉じ、思案の淵へ。何を隠そう、この奇妙な不快感は聖と縁深い物だ。
私は息を吐いた。火のように熱い息を。細い傷が忘却から掬い挙げた物達が、私の気息を荒い物にしていた。心臓が肉に圧迫される。聖と傷をつけ合った日々が蘇り、頭がクラクラする。興奮が心地良く体を強張らせた。
拒絶、あの掠すれる程細い傷が想起させるのはその二文字だ。しかし、それが本物の拒絶だった期間は短い。その頃には私の爪も薄皮一枚のみならず、多くの肉を持ち去ったのかも知れなかった。しだいに拒絶はある種のポーズと戯れに変わった。それが聖をより愉しませる事を私は知っていたし、聖もまたそうした私の思惑を知っていた。だから、次第に糸は細くなる、切れてしまうほどに。けれども私たちはお互いの体から傷を絶やすまいとした。私たちが非日常、逸脱に慣れてしまわない為に。それが日常を構成する物の一つになっている。そんな事実に気づいた後も私たちは事実から目を逸らすようにして互いの体に赤い糸を描き合ったのだ。
村紗や一輪達がやってきてからも頻度は減ったがそうした行為が絶えることは決して無かった。私と聖のあり方が変わった瞬間を私ははっきりと覚えている。そして長い時間が経った。
聖が魔界から帰ってきて幾らか立った日、聖と私だけが二人で残された。理由はもう覚えていない。その日起きた事が私にとって余りに衝撃的だったからその他の事はすっかり忘れてしまった。有り体に言えばあの日、私と聖のあり方は変わってしまった。いや、積み上げてきた私たちの関係はすっかり無くなってしまったのだ。
それは夏の日のことで鎧戸は全て外していたから建物の中にまで風が流れていた。聖の長い髪が風に揺れるのを見て私は反射的に手を伸ばした。聖は少し驚いて振り向いた。躍る黒髪を一房、手の平に取り彼女の出方を待った。少し、調子に乗りすぎたか、もしかしたら折檻されるかも知れない。けれどもそれは行為の一部であり、糸口だ。それによって受ける苦痛などたかが知れている。聖は私の肩を両手で掴むと軽く力を込め、膝立ちになるよう促した。何をされるか、私には予測もつかなかった。久方ぶりの事でお互いに勝手を掴み損ねているのだ。もしかしたら聖は度を超して乱暴になるかも知れない。ぶちのめされるかも知れない。それでも構わなかった。そちらの方がより、刺激的だから。長い断絶を終わらせるにそうした無茶は相応しく思える。だが、私に与えられたのは一度きりの接吻だった。それを知らず、私は額へおずおずと口付ける彼女を好奇の目で見た。その後に与えられる苦痛と快楽を思い浮かべ。
その後の事を考えれば、関係を変化させたのは私だとも言えるかも知れない。つまり、変化した直後、終わったのだ。あるいは終焉もまた変化の一形態でしかないのかもしれない。
口付けて背を向けた聖に私は追いすがり、手首をとってこちらを向かせると強引に唇を奪った。そうしながら、自分が行為を与える側に立つのは初めてだと気づいた。これまではただ一度の例外とてなく私は行為の受け手であったのに。
肌理の細かい肌、長い睫が顔を撫でる。柔らかな舌を重ね合わせながら聖の表情を伺った。垣間見たその表情は悲しみに見えた。だから、私は見なかったことにする。そんなのは許さない。貴女が無理矢理始めた物を貴女が勝手に終わらせてしまうだなんて。けれども私は聖から体を離した。そして、それきり何も出来なかった。
今、私は板張りの床を背に回想を終える。自分の思い違いを嗤いながら。
あの日、関係は終わった訳では無いのだ。ただ、あり方が変わっただけなのだ。貴女の物だった私が次は貴女を所有するのだ。私たちは終わらない。死んだからって貴女だけが心安らかに眠るなんてそんなの許されない。
油を舐める火蛾の一匹に手を伸ばし、捕まえる。手の中を羽が擦り、乾いた音を立てる。私は掌の中の抵抗を握りつぶし、口元を歪め笑った。
そう、そんなのは許さない。
火車が去ってとっぷりと日が暮れた頃、私は聖の亡骸を訪う。不浄な愛を胸に満たして。四角い、白いきれを顔に乗せ聖は横たわっている。黒い髪は未だその艶を失わずきれの中から豊かに溢れていた。白布をそっと外す。聖の穏やかな表情が私の目の玉の裏に浮かぶと私は狂おしい気持ちで一杯になった。熱が目玉の裏、脳みその下を灼く。聖と過ごした時間は妖怪のものさしで計ればあまりに短いものであった。誰に向けられるでも無い怒りが心を満たしている。聖の私室であった場所で一人、私は聖と向き合っている。頼りない灯りに照らされた聖の顔は微かに紅を差してさえ見える。私は聖が死んでしまったことが信じられずにその横顔に手を、手の甲を差し伸べ、そっと触れてみる。触れた手の甲に返ってくるのは冷たくなった頬の感触と微かな肉の柔らかさ。それでも私は手の甲に感じた余りに人間的な柔らかさに感謝せずにいられなかった。初七日が過ぎれば聖の魂は三途の川を渡り、中有の道を行って閻魔様のお裁きを受ける。そうして彼女はまた輪廻に乗り、遠いところへ行ってしまう。いつかの様に。
私は甘えるように聖へ頬を寄せる。
聖と出会う以前、或いは聖が封印されてから再会するまでの時間。私は堪え忍んできた。
あんなのはもうごめんです。
聖の髪を手櫛で透く。少し束になった髪をかき分け私は進んで行く。死者の髪は乾き、手触りには微かに金属質なものがあった。けれども流れる手触りはいぜん心地良く。私の指はさしたる障害も無く濡れ羽色の中を進んで行く。
人食いでいた時分には穏やかさも快さも知らず。けれども随分気分が良かった。思慮なんて物は二の次で自分の欲望が一番だった。そこに美しい貴女が現れ、私をすっかりぶちのめし、手なずけてしまってからというもの。私は思慮分別の奴隷であるようにふるまった。貴女がくれた苦痛と時間は刺激的でその間隙を埋める穏やかさだってたいそう具合が良かったし考えることを覚えたお陰で心地良いって事も随分はっきり理解できた。けれども、ねえ。
額をぴたりと合わせる。息が掛かるほどの距離。
私はやっぱり自分の欲望が第一なんです。私は毘沙門天様の化身となり、戦いの神に身を捧げるそぶりを見せたけど、実は、その実、私が身を捧げたのは美しい貴女だったのです。美しい貴女は私にとって熱狂そのものだった。貴女が封印された時も貴女が帰ってくることを信じてじっと待ちましたけどそれは貴女が帰ってきてくれるって信じてたからで。けれども、けれども今度こそ貴女は死んでしまってどこかへ行ってしまう。貴女の元で随分勉強させられたけどそれによると死んだ人間は別物になってしまうんでしょ? つまりは輪廻の輪に乗ってしまったが最後、二度と貴女に会うことは出来ないんですよね? そんなの許さない。もっと私の傍にいて私を監視して折檻して時々ご褒美を下さい。ルールという物を教えて下さい。必要なら私をぶちのめしてでも。なんなら今すぐに戻ってきて私をぶちのめしてこの愚行を止めてくれたって構わないんですから。ねえ。ねえ。そうしないって事は許してくれるんですよね? ねえ、聖。
異様な思いが頭の中で幾何学的に広がり、灰色の脳みそを一色に塗りつぶす。私は確かに何らかの表情を浮かべていた。けれども自分が今、どんな顔をしているのか見当もつかないのだ。カンフル剤を打つようにして考えを巡らしながら私は聖の背と膝に手を差し入れ、すっかり軽くなってしまった彼女を持ち上げた。持ち上げた彼女の頭がぐらりと上を向く。長髪がそれに応えるように大きく揺れる。死者にはあまりに不似合いな一瞬の躍動に私はすっかり動転した。聖が私を見た気がした。私は幻視した。束の間、罪の意識が私の瞼を固く閉ざした。瞼が極度の緊張に痙攣するのを感じた。焼き付いた聖の目が徐々に像を結ばなくなりやがて消えると私はゆっくりと目を開けた。瞼だけで無く、頬まで引きつっているのを感じる。息を長く、ゆっくりと吐いた。恐怖の余韻に唇が震える。やがてこの恐慌の発作が止むと私は音を立てぬよう静かに歩み出した。死んだ聖を抱えながら。
障子を開け、縁台に続く廊下に出るとそこは全くの闇だった。暗闇に出た途端、私は自分の目が微かな光を宿すのを感じた。虹彩の奥に炎が灯る。獣の性が私をいくらか勇気づかせた。不意に闇の中に空間が開ける。外に出たのだ。
幾らか行った私を迎えたのは火車だった。牽き手のいない鉄の車がどろんとした黒い煙を纏い蹲っていた。私が現れたのを確認して火焔猫燐が中から姿を現す。手には赤く光を放つ唐様のカンテラが握られていた。
「来たね」
闇の中で燐がにやりと口を歪めた。暗い喜びが彼女の顔を飾っていた。暗緑色のシフォンドレスの裾を翻し、私に背を向けると彼女は誘った。
「乗んな」
燐の後ろに腰を下ろす。車の中は悪鬼を象ったレリーフやその他の悪趣味な装飾で埋め尽くされている。燐は器用にカンテラを天井の突起に吊すと歯を剥き、号令した。どこの国の言葉か、そもそも言葉なのかさえ怪しい一声だった。
車が揺れ始め、無数の装飾が高い、乾いて虚ろな音を出した。速力が安定したのを確認した燐がこちらを振り向き聖の髪を一撫でする。無意識に伸べた手がお燐の掌を遮った。お燐は少し驚くそぶりを見せたが。私が俯いたのを見てまたニヤリと笑った。次の瞬間、ガバと大きく身を乗り出し私の唇を吸った。私は抵抗するがうなじをかき抱く形になった燐の手はなかなか離れない。狭い空間で揉み合う。天井に頭をぶつける度、揺れるカンテラが私たちの影を何倍も大きく照らした。赤い陰線が車の中を幾度も移ろう。錫の調度がカラカラと一斉に囀った。暴れたせいで前歯と前歯ががちがちと激しく音を立て血が流れた。ようやく彼女を振り払い荒く息を吐きながら、やっとの思いで口を開く。
「何を、するんですか」
燐は例によってニヤリと唇を歪める。いとも楽しげに。
「お姉さん、やあっと喋ったね」
言葉を切ってドレスの袖でグイと血を拭う。緑の生地に血が赤く線を引いた。
「姉さんがあんまり美人なんで魔が射したのさ」
そこでハハハと乾いた笑い声を立て「悪かったね」とだけ言い彼女は再び背を向けた。私が呆然としていると彼女は突然こちらを振り向き私の唇に指を伸ばした。私が再び身を固くすると彼女の指は器用に私の唇から流れた血を拭い、それを私に示してまた笑う。
彼女は私に再び背を向けそのまま言った。
「アタシはすっかりアンタの事が好きになったよ」
ゴロゴロと喉を鳴らしながら歌うように彼女は言った。その口調も私には腹立たしく思われる。
「アンタはどうだい?」
一瞬、何を聞かれているのか解らなかった。
「アタシの事、好きかい?」
私は抗議と沈黙を秤に掛けた。そして、答えた。
「嫌いです」
彼女は「ふうん」としか言わなかった。
それからは無言だった。どれだけ経ったのかは解らない。やがて車の揺れが収まり、車輪が動きを止めたのだと知る。高きから低きへ、低きから高きへの無限に続くかとさえ思われる繰り返しが地の底、火車の炉で終わり、車の外には逆巻く炎の気配が感じられた。
車を降りて圧倒された。予想を超える熱量と光量に。
冥符の闇を灼く地獄の業火が四方を染める。炎は舞い踊り、無数の肢体が翻る。微かな動き、身じろぎで炎は赤から紅に、紅から朱へ変じた。火の端がくるくる丸まって無数の輪を描く。
眩むような熱と光、世界を満たす朱の色がこれから犯す罪を私に想起させる。口の中に再び広がり始めた血の味が私を現実につなぎ止めてくれた。鉄の臭い。私は舌を蠢かせ、やがて傷口を探り当てる。先程の接吻が残した傷が血を流していた。舌でそっと押さえると鉄の味と共に微かな痛みが返ってくる。
炉の入り口を覗き込む。あまりの暴威に髪が逆立つ。熱された空気が吹き上がっているのだ。覗き込んだ刹那に髪やら肌に火が染みたように思えた。衆生を悉皆燃やす、地獄の火が。
聖を抱え直す。抱え直そうとした。どう抱えて良いのかが全く解らなかった。聖の顔を見つめる。穏やかな顔だ。これから聖をあの炎の中に投げ込むなんて馬鹿げた事の様に思えた。いや、実際、馬鹿げているのだ。
私は燐を見つめる。燐はこちらの視線に気づくと例によってニヤリと笑い聖の足を抱える。私は咎めようとした、口を開けた、声を上げようとした。しかし、意に反して喉は震えなかった。彼女を咎めれば私はこの世で一人になってしまう、何故だかそう思ったから。だから、咎める代わりに
1,2の3。
彼女に声を合わせ私は一番愛しい、愛しかった人を放り投げた。
その後、すぐに燐はどこかへ行った。それから幾らもしないうちに彼女は青い人魂を連れ戻ってくる。彼女の傍らで燃える青い火球が聖だ。聖の魂が青く燃えている。安楽から見放され、輪廻から外れた怨霊として。私はそれに気づくとふらふらと駆け寄り聖に手を触れた。燐の声が遠く聞こえた。ちりり、責めるように火が鳴る。青い炎に触れた瞬間に熱を感じ、それが痛みに変じるのをはっきりと知覚した。鋭い痛みに私は手を引っ込める。聖に手を触れて残った物は痛みと赤く腫れた皮膚。裏切りの対価。けれども聖によってもたらされたのだと思えば痛みさえも心地良く思えた。咎めるように熾った炎が懐かしく思われる。
「いきなり怨霊に手を触れる馬鹿があるかい」
彼女はそういって私をたしなめた。呪を唱え聖の魂を首飾りに移す。彼女が差し出すそれを私は恭しく受け取った。青い石のついた金の首飾り。サファイアの青い輝きに顔を映す。石の奥で炎が燃えていた。恐る恐る手を触れる。今度は燐も咎めなかった。微かに熱を持つ石の面を私は撫でる。聖がこの中にいる。
帰りの車中で私と燐は無言だった。薄い紺色、夜明けの予感が現れ始めた空の下を私たちは走る。
火焔猫燐
紫檀の扉を押し開けてアタシはさとり様に帰りを告げる。さとり様はアタシの声に反応し、手にしていた本から目を上げ、細い首を気怠そうにもたげた。
「あら、おかえりなさい、お燐」
白と黒のチェックの床は固く、その上を行くと高い音がする。自分の靴の音に微かな焦燥を感じながら私はさとり様の横を行き過ぎようとする。
「首尾はどうだった?」
両の肩に微かな握力を感じた。
「今、熱いお茶を入れてあげるから」
逆らうことは出来ない。アタシは僅かな腕力と大いなる意思の力で椅子に釘付けにされた。湯が煮える音、注がれる音、紅茶の葉が開く音。沈黙の中でそれらは全てはっきりと聞き取れた。湯気の立つカップが差し出されたとき私は疲労の予感におののきながらカップの中身に角砂糖を幾つも入れ、わざとズブズブ音立てて飲んだ。熱い液が舌を灼く、苦痛が思念を少しでも曇らせれば良いと願って私は再び紅茶を啜った。
「それで、首尾はどうだった?」
「上々ですよ、仏サンはもう燃やしちまいましたし」
「ねえ、お燐」
そこでさとり様はようやくカップに口をつけた。
「私が聞きたいのは違うの、そう、何て言ったかしら……そう寅丸星の事よ」
さとり様はわざとらしく言葉の間に時間を置き、寅丸星の名を強く発音した。その名を聞いてアタシはあの、均整の中に荒々しさを湛えた星の眼差しを思い浮かべる。彼女は仏の教えに教化されてなお獣性を失わなかった。諸々の奥ゆかしい仕草の中に照り映えるような野生を見つけた時、アタシは羨望を覚えた、飼い慣らされ、飼い猫に身を落とした自分の身と引き比べ。
カップに移った自分を見てたアタシはゆっくりと顔を上げる。さとり様は頬杖をついてこちらを見ていた。半ば落ちた瞼は眠たげに見える。けれども瞳の奥では好奇心と明るい嫉妬がちろちろと燃えていた。
「ご存じの通りですよ」
アタシはそう答えると再びカップに口をつける。けれども紅茶の液面に唇が触れる前にさとり様はカップを私から奪い取っていた。
「私は貴女の口から聞かせて欲しいの」
アタシはやり場の無くなった手を膝の上に載せるとさとり様を見つめた。そうして幾らか経ち。私は口を開いた。
「どこからですか?」
「どこでも、貴女の好きなところから」
さとり様は基本的に威嚇などの目的が無い限り、人の心を先取りして喋る、ということはしない。アタシは観念して頭の中に昨夜の出来事を思い浮か
口付けが割り込んだ。車中で交わしたものと同じ、燃えるような紅い口付け。さとり様らしからぬ乱暴さにアタシはうすら寒い物を感じる。
アタシは抗うべきなのか、受け入れるべきなのか。乱暴な口付け、舌が傷跡を探り、歯がそれを抉ってゆく。痛みに頬が引き攣り、脂汗が流れた。
さとり様の腕力は決して強くない。けれどもここでさとり様を引き剥がせばアタシはどうなるだろう? アタシの首に口付けながらさとり様が低く囁く。
「ねえ、お燐、貴女はこの後どうしたかったのかしら? ねえ、今度こそ貴女の口から教えてよ」
痛みが視覚を朧にし、さとり様を実際よりも強大に見せた。洗練された獰猛さが私を睨み付けている。
恐らく、さとり様はさっきと同じやり口でもう一度攻めてくるだろう。アタシがすっかり抵抗を取りやめてしまうまで。アタシにはどうしようもない。そもそも、この駆け引きはあまりにも非対称的なのだ。勝負になぞなるべくも無いがささやかな抵抗を私は繰り出す。
「たまにはお空を構ってやったらどうです?」
「たっぷり、構ってるわよ。あの子も貴女も可愛い可愛い私のペットですもの。あの子は優しいし、あなたと違って素直よ。けど、今は狡い子と遊んでたいの。あの子は時々、退屈だわ」
早口で捲し立てた後、さとり様は再びアタシの目をじっと見つめた。
だから、もう少し足掻いてみてよ? アタシを見上げるさとり様の目はそう告げている。さとり様はアタシを掻き抱いたまま上を見上げ、喘ぐようにして小さく息を吐いた。
「さあ、早く続けて。お燐」
寅丸星
その夜、私は夢を見た。昨日と同じ夢だ。今なら解る。昨日、私が夢の内に見た物を。サーカスの夢だった。赤と黄の大きなテント、星明かりと欺く光の洪水、夜空に浮かぶ金の皿は丸い。話し声。ナズーリンが私の手を握っていた。私は彼女に手を引かれるまま布と鉄、それにいきれと人だかりの宮殿を分け入って行く。白い肌に赤い鼻のピエロ達。輝くナイフが彼らの手でかろく投げられ、光を曳いて放物線を描く。美女の頭を飾ったリンゴの実が汁を流して静かに落ちる。喝采。褐色の肌をした舞い男達、赤々燃える松明が回転し紅く円を描く。やはり喝采。はっきりとした、けれども今となっては言葉としてしか蘇り得ない物達。猛獣使いの女と彼女の相方だけが映像として、今も私の脳裏に像を結ぶ。
天幕を満たす闇が彼女の顔を巧みに隠し、彼女を任意の存在にしていた。彼女は俄に屈むと傍らの毛皮と筋肉の山に手を伸ばし、愛撫する。黄と黒と白の毛皮をしたそれは彼女の愛撫に応じゴロゴロと喉を鳴らす。そこへ炎の輪が運び込まれた。薄い、意図された暗さが炎の色に取って代わられる。輪は燃えている。時折、炎が輪から滴った。息を呑むような熱と苦痛が仄めかされている。女が虎に鞭をくれた。虎は駆け出す。分厚い毛皮の下で全身の筋肉が蠢く様が見て取れた。そして虎は輪をくぐる。燃え盛る炎の輪を。
喝采は別世界の事に思われた。しかし、私は袖に微かな力を感じ、ナズーリンを振り返る。
「気分を悪くしたかな」
ナズーリンは私を見上げた。何しろすごい喧噪だったからナズーリンは伸び上がると私の耳に手を当てもう一度「気分が悪いのかい? ご主人」と聞いた。
そこで私は夢の中から目を覚まし、当たりを見やる。
「寝てる場合じゃないぞ、ご主人」
ナズーリンが私の体を揺すっていた。その顔は青く、服からは微かに酒の匂いがした。昨日飲んだ酒が残っているのだろう。昨日、燐と共に聖を連れ去った時、ナズーリン達は聖の生前の知己とささやかな宴を設けていた。私はそこに乗じてまんまと聖を連れ去ったというわけだ。まがりなりにも毘沙門天の化身である私が乱れてはまずいという訳で宴席を外れるのも容易な事だった。
「聖の、聖がいなくなったんだよ、ご主人」
聖の死体が、と言いかけて口を噤んだのが私にも伝わってきた。そこで私は一気に覚醒し、傍目にも解るくらい蒼醒めた。演技などでは無い、私はこれから、被害者の一人を演じなければならないのだ。その事実の重さが私の肩に食らい込み、喉を詰まらせた。手先が温度を失い、強張るのを感じた。
「それは、それはどういう事ですか、ナズーリン」
「聖の体が無くなったんだよ」
私は言葉を継ごうと口を開けた。やがて、言葉を継がぬ方が自然に思えてそのまま時が過ぎるのをまった。
「ともかく、来るんだ」
ナズーリンが私の袖を引く。いつかのように。肩越しの顔が微かな笑みに歪んだように見えて私は自分が今、過敏になってることを知る。
既に本堂にはナズーリンと私を除く寺の面々が集まっていた。皆、神妙な面持ちだ。私は皆の顔をもう一度見る。私はどんな顔をしているのだろう?
それからのやりとりは良く覚えていない。ただ、一通り話し合いが終わった後で私は人知れず嘔吐した。極度の緊張がそうさせたのだった。ここしばらく禄な物は食べていないから胃の中はあっという間に空になった。このままいけば死ぬ日もそう遠くは無いかも知れない。声を殺してげえげえやりながら私はそう思った。
吐き気の発作が治まって私はぐったりと壁に背を預け考える。結局、明日の葬式は行われることになった。このまま、空の棺を私たちは送るのだ。私は立ち上がり、しゃんと背筋を伸ばした。大丈夫、私は疑われていない。今は努めを果たすべきだ。毘沙門天の化身として。そこまで考えておかしみが喉にこみ上げ私はつい、くっくっくっと喉を鳴らす。上手く笑えているか自信が無い。何せ毘沙門天の化身が火車と連んで死体泥棒なんて! 私は口を横一文字に袖で拭い、厠をよろぼい出た。
ナズーリン
太陽が煌めきと暖かさを地平の向こうに連れて行き、真っ黒な闇だけを置き、去って行く。そして夜が訪れた。黒々と蟠る夜も私の視線を阻み得ない。日が沈むと眼窩の底に灯が灯り、私の世界は緑に燃え立つ。獣の目はすべからく夜、爛々と燃えるのだ。もっとも、私はご主人のように強大で美しい虎ではなく、卑しい鼠に過ぎないが。
足音を殺して部屋を出る。静かに、足の裏に神経を集中させる。自らの重みが板張りの廊下を微かに歪ませるのが解る。静かに、板目を踏み違えぬように私は歩く。やがて私は目的に辿り着く。襖に耳をぴったりと付け、部屋の音に耳をそばだてる。不規則な寝息に苦しげな声が混ざっているのを聞いて私は中に入る。
皺の寄った布団に貴女の大きな体が沈んでいる。貴女は苦しげなうめきと共に身を捩る。夜着の下で白い肌としなやかな筋肉が動き、虎と同じ金と黒の髪が美しく乱れた。貴女は眠っているというのに苦しそうな顔をしている。私には解らない。どうして貴女はそんなに苦しい思いをするのかが。尼公の事など忘れてしまえば良かったのに。私は知らぬ訳ではない。聖への想いが貴女をこれまで苦しめたし、これからも苦しめ続けるという事が。それでも私は構わない。貴女はとても美しく、賢いし、大らかで情熱的だから。貴女は確かに少しだけ間が抜けていて、時々とんでもない間違いをやらかす。でもそういう所もとてもチャーミングだ。そう、例え誰もが貴女の過ちを責め、苛んでも私だけは許してあげるから。だから、私にその綺麗な顔を向けて欲しい。振り向いて欲しい。私を見て欲しい。貴女に比べれば卑小な身の私だから、ほんの少しだけ報いてくれれば満足するから。でも、出来るなら聖の居た場所に私も立ってみたい。そこから貴女を見つめ、思うままにしたい。例えそれでどんな罰を受けようとも。
息が詰まるのを感じた。
ご主人。私は貴女の全てを知っているんだ。命蓮寺の皆はおろか、聖よりも。もしかしたらご主人自身よりも私はご主人を知り抜いているのかもしれない。
静かに眠る貴女の顔に手を伸ばしかけ私は一度躊躇い、躊躇いを覚えた自分の怯懦に激しく怒り、その後、聖に嫉妬した。彼女に触れることさえ躊躇った自分が情けなく恨めしい。だが、それ以上に聖が憎い。上下する彼女の胸の上に聖の指が行き交うのが見えるようだった。彼女に触れることには躊躇するくせに、他ならぬ貴女自身から聞いた、行き過ぎる指の影に息を荒くする自分が恥ずかしくて消えてしまいたかった。
私は貴女を愛するにはあまりに卑小だった。私は自らの過ちを思い返す。
貴女の体は犯した罪に紅く汚れていた。あの日、呆然と立ち尽くす貴女の手を引き、私は夜の巷を駆けだしたのだ。私が手を取ると貴女は身を強張らせた。一瞬、私は貴女を疑ってしまった。貴女が私を殺してその夜の罪を無かった事にしようとするのではないかと。それでも構わないと思った。むしろ今となっては殺された方が互いに良かったのだと思う。だが結局、私が殺されることは無かった。あの時、私は祈った。どうか、夜の闇が汚れた貴女を隠してくれますように。
ねぐらに辿り着いて私は貴女の体を洗った。血の汚れがすっかり落ちて貴女は湯気の立つ体で壁に背を預け私を見ていた。虚脱の淵から浮き上がり、その瞳は理性と、深い悲しみに輝いていたね。
あなたはぽつりと言った。
「おしまいですね」
私は強くかぶりを振った。
「終わらないよ、ご主人は終わりじゃないんだ」
「道に外れた行いをしました」
「それ以上に道を全うしてきた」
そこで貴女は私から視線を外し、ありがとう、と消え入るような声で呟いた。どうして? どうして私から視線を外した? ありがとう、なら私の目を見て言ってくれないか、ねえ。
「でも、もういいんです」
私は貴女の方を掴む。貴女は怯えたような目をこちらに向け、引き攣った笑いを浮かべた。私は知ってるよ、このままじゃ貴女はちっとも良くないんだろう?
「ご主人」
私は優しい声音を使って言った。
「大丈夫、この事は誰にも言わないよ」
貴女はその言葉に顔をはっ、と上げる。
私はここまで言って黙るべきだった。汚らわしいデバガメ根性で貴女を患わせるべきでは無かったのだ。けれども私は黙らなかった。
「その代わり、教えて欲しいんだ」
「何を」
続きを口に出すのには時間が掛かった。どういう言い方をすれば良いのか解らなかった。当然だ。どう言った所であの言葉のおぞましさがどうなるわけは無い。そう、私はあの時こう続けたのだ。あの瞬間に貴女に向かって飛びかかり、貴女を自分の物にした方がまだ良かったろう。例え、拒まれたとしても。
「教えて欲しい、聖にどういう風にされたのか」
貴女の顔が青ざめるのが解った。白い肌は静脈が浮くほど白くなり、俄に月影が冴え始めた。羞恥と怒りが少しずつ貴女の顔を赤く染め上げる。私を睨む眼の凄まじさは今でも忘れない。探るような、怯えたやりとりの中で私たちは互いの関係をより歪な物に作り変えていったのだ。それもこれも私の卑屈さ故。おずおずと言葉を吐く貴女は美しく、その事実が互いをより、取り返しが付かないほどに狂わせた。
いかにも私は全て聞いた。聖の指がどこへ行き、どこへ行かなかったのか。また、その指の動きはどのくらい乱暴だったか。どんな言葉を貴女に囁いたのか。貴女が何をして、何をすることが許されていて、何をすることは許されなかったのか。どこを弄ばれるのが好きでどこを弄ばれるのが嫌いなのか。全て。
私は卑小だった。
貴女が過ちを犯し、私もまた過ちを犯した。どうするのが正しいのかなぞ今でさえ知りはしないが。それでも私があの夜、最悪の未来を選び取ったという事ははっきりと解る。
何もかも聞き出した後、私はおずおずと貴女の唇を吸った。貴女の体は隅々まで洗ったと思っていた。けれども、一カ所だけ、洗い忘れていた。紅に染まった貴女の唇、さし入れた舌に血の味が鈍く広がる。
寅丸星
明くる朝、鏡台の前に立ち、両手を掲げた。掲げた手の下でナズーリンの小さな手がせわしく走り回り、帯をぐるぐる巻き付けたり結んだりする。いつもつけている蓮の髪飾りも今日はつけない。私たちは喪服に着替えているのだった。乾いた光の満ちる部屋の中、衣の擦れる音が生まれては消えて行く。
「なあ、ご主人」
「はい?」
ナズーリンは帯を巻き付けながら言う。
「聖は私が必ず見つけ出す」
私はその言葉に哀れを感じた。聖の体はすでに焼いてしまった。いかにナズーリンといえど無い物を見つけられる訳はないのだ。けれども、私は慄然とする。彼女は私と聖の犯した罪を知っているのだ。聖の体を見つけなくとも私に辿り着くかも知れない。あるいは既に私を疑っている? ともかく、私は何か言わねばならない。彼女に嘘をつかねばならないのだ。もし、彼女が全てを知っていても私は茶番を続けなくては。苦々しい想いと共に口を開く。しかし、私の口を塞ぐようにしてナズーリンは言葉を継いだ。
「心配しなくてもいいよ」
そう言って私の腹に巻かれた帯をキュッと強く締める。余りきつく締めるものだから私は軽く息を吐いた。ナズーリンは帯の当たりをパンパンと軽く叩き「さあ、おしまいだ」そう言って私に背を向けた。
慌ただしく朝餉を済ませ参列者を出迎える。流れて行く無数の顔が私を暗澹とさせた。これだけの人数を私は欺かねばならないのだ。
その中には燐もいた。黒いドレスは無数の襞が付いていて喪服には些か華美に過ぎると思った。けれども私はそれを不満には思わない。彼女が来てくれたことがたまらなく心強い。危険の二文字が頭に浮かんだが構いやしなかった。このままだと自分の罪が発覚するよりも先に罪に押しつぶされてしまいそうだった。一緒に担う人が必要だった。
「惜しい人を亡くしたね」
白々しい、私は恨むような視線を向け顔を伏せる。嘘を吐くことに疲れ始めていた。その事を察してか燐は低く笑みを漏らし、当たりを伺う。
「うまくやんな」
私の頤に指をやり、顔を上げさせると彼女はそっとキスした。湿った音が秘めやかに頬を撫でる。耳朶を噛むような囁き。ハッとする間に彼女はドレスの裾を一際大きく捌き、そして消えていった。
いつかの様に残された口付けが頬で微かな熱を持っていた。優しさかしら? 車中の出来事と照らし合わせ私は考える。なんにしろ今度の場合、悪い気はしなかった。頬にやった手が愛おしげにわななく。
本堂はいつのまにか人で溢れかえっていた。数え切れないほどの沢山の視線、それが私に注がれている。それぞれの思惑を持って。私はその事を考え、目眩を感じた。うまくやんな。燐の言葉を胸の中で繰り返し、自らを奮い立たせる。例え相手が誰であれ、欺き、手懐ける。袂に隠した聖の魂の入れ物を衣の上からそっと触れた。誰であれ、出し抜いて私は聖を手に入れるのだ。不遜に過ぎる想いを抱いて私はゆっくりと口を開く。その背を仏の似姿に見つめられながら。
仏の教えが空虚にあるなら私の紡ぐ言葉達は見事にそれを体現していた。
それから時が経った、と言ってもそう長い時間では無い。具体的に言うならば一週間程か。夏の気配が軒の風鈴を鳴らす。一週間という時間は聖の死が巻き起こした色々の物事を、とりあえず表面の上では、終息させるに十分だった。むろん聖の死は皆の心に暗く影を落としている。他ならぬ私自身にも。死、私は聖の表面を指で優しく撫ぜながらその言葉の意味について考え、青い石を掌に載せる。死の重さを量るように。聖は今も私を見ているだろうか。生の本質が魂の存在で生きると言うことがまさしく肉体に魂の宿っていることだとすれば、聖は今、生きているのでは無いだろうか? その魂を青く、冷たい宝石の中に宿して。私はもう一度、石を愛撫する。ただ一通り触れるのでは無く、昔、聖にされたように乱暴な手つきで。頭の奥に微かな熱が反響するのを感じながら。足下で水を張ったタライが高い、濁った音を立てた。私が足をばたつかせ、水が動く度に錫のタライが音を立てる。
「素敵な品だね」
私は袂に聖をしまい込む。咄嗟の事で私は声の主さえ判じかねた。振り返ろうと首を巡らせる。それを阻むようにしてナズーリンは後ろから私の肩を抱き、囁きかけた。今、私の視線を浴びているのはナズーリンだった。
「見せてくれないか? ねえ、ご主人」
ナズーリンは素早く、そして器用に私の懐に手を差し入れる。私が身を固くし、拒むとナズーリンは悲しげな視線をこちらに向け、口を歪め笑った。目と口の表情はまるで食い違っていてその様はいかにも哀れだった。ただ、罪の意識が彼女を哀む気持ちを吹き飛ばしてしまった。私は青ざめていた。
「ご主人、少し散歩をしよう」
ナズーリンは下駄を二つ、地面の上に放り出しそれを履いてすっくと立った。それから彼女は私の前に跪き、私の足をタライから出して手ぬぐいで丁寧に拭いた。そして私の足に下駄を履かせ言う。
「少し歩こう、ご主人、いつかのように二人きりでね」
逃れる術は無かった。私は促されるまま歩き出す。飛石の上で下駄の歯がカランコロンと鳴る。その音さえ私をおびえさせた。私たちは歩く。千種の色に咲く夏の花に彩られ日盛りの庭が艶やかに匂っていた、色彩のきつさが微かな目眩を誘い、土の上を一歩、二歩と踏み迷う。意識が夏の日射しと蝉の声に溶け行くように思われた。
花盛りの庭が過ぎ行き。木々が私の上に影を落とす。やがて暗い森に行き着いた。木々の落とす影に足を踏み入れた瞬間、自分が異域にいるのだという事がはっきりと感じられた。湿った空気には土の匂いが混じっていた。葉が風に揺れる音に混じり、幾千の虫たちが羽化する音が聞こえるようだった。微かに落ちる木漏れ日は明るいが手をかざせば燐光のように温度を失っている事が解る。私は人喰いだった自分を再体験した。得物を待ち受けるのにぴったりの灌木。日陰の中に腹ばいに身を伏せると土はひんやりと冷たく乾いていた。身じろぎすると灌木の葉がカサカサと音を立てる。得物を見つめるときには時折、その灌木の葉が青い匂いを発していた。やがて、あばら骨の間に血が、肉が、内臓が湯気立てて匂う……強い香りが鮮々と花開き、私は貪った。
「涼しいだろう?」
ナズーリンは振り向き、私の衣の肩口に手を掛けながら言う。自分の頬に熱を感じた。赤みがさしているだろうか?
「少し、寒い位だね」
ナズーリンの指が私の肌を撫でる。彼女の指の熱が私を驚かせた。彼女の指が私の肌をつ、と過ぎる度、私は空気の冷たさを意識した。
「聖の事はまだ好きかい?」
私は答えない。言葉を紡ぐ余裕など有りはしなかった。
「私の事は?」
影と湿気の中を沈黙が貫いた。ナズーリンは私の瞳を覗き込む。切実、とはこう言うことを言うのだろう。私は彼女の瞳に火が宿るのを見た。切実という言葉の手触りはどこか冷たい。けれども人の心に宿る切実は炎の形をしている。
「解りません」
瞳の中の炎を前にして私は真実を告げた。どこまでも曖昧な真実、或いは逃げの一手。嘘を吐く事とは私が己を許せるか否かのただ一点において異なっている。これ以上自分を責め苛むのは何としても避けたかった。
ナズーリンは静かに肯いた。そして、一度伏せた顔を上げた。彼女は涙を流していた。涙に汚れた顔で彼女は笑う。不意に強い力が働き、私は地面に押し倒された。聖にされたときのような衝撃は訪れなかった。私は片手の指で地面を掻く。森の土は栄養があり、柔らかく、匂いに満ちていた。顔を少し傾けるだけで土の匂いを胸一杯に吸い込めそうだった。けれどもそれは出来ない。ナズーリンは私を放さないだろうから。口付けが入り込んできた。彼女は優しく、弱かった。
「嫌いになってくれても構わない。でも、許して欲しい。少し、暴れても構わないよ、聖にそうしたみたいに。けれどもできれば私を好きになって欲しいんだ」
彼女はその指先で私の体をなぞりながら、耳元で早口に捲し立てた。
「聖が羨ましかったよ。でもね、私はできれば、できれば貴女のようになりたかったんだ」
私はナズーリンの背を抱いた。力を入れすぎた指先が柔らかな肌に食らい込み、彼女は華奢な体を震わせる。そのまま少し腕に力を込めると彼女の骨は軋み始めた。もう少し力を加えれば彼女はばらばらになってしまうかも知れない。彼女もその事に気づいたのかさらに激しく身を震わせた。跳ねた、と言っても差し支えないくらいの大きな身震いだった。彼女の表情はその瞬間、つまり、ばらばらに砕けてしまう瞬間を待ち望んでいるかのよう。彼女の目から涙が零れ、滴り落ちて私たちを汚していく。
私はぼんやりと夢の続きを思い返す。全ての始まりになったあのサーカスの夜を。
「少し、風に当たっていきます」
私は口を開いた。人間と熱が生温く流れる中をナズーリンと歩いていたときの事だ。ナズーリンは微かに逡巡したが結局それを許した。
人の群れを離れ、無数の体温から距離を置くと冷たい夜気が肌の上にしんと重なる。皮膚が温度を失うと、体の芯を支配する熱がより明確に感じられた。私は明らかに昂揚している。猛獣使いの女が私に異常な緊張をもたらしていた。その緊張は期待に起因するものだ。しかし、何を期待しているのか全く自分でも計りかねている。
朦朧とした中をそぞろ歩き。私はあの猛獣使いの女と出会った。そして、私は彼女を試したのだ。彼女があの獰猛な二色の獣を所有するに足るかを。街灯の無い路地で私は彼女の肩を掴み、噛んだ。溢れる血汐、牙が無数の筋繊維を貫き、切り裂く。彼女はあっさりと死んだ。肉をごっそりと奪われ、首筋から夥しい血が流れていた。私は頬の中の肉片を咀嚼し、はき出す。肉片は柔らかく、不味かった。だが構いはしない。私は彼女を喰うために殺したのでは無いのだから。聖の不在が呪わしく思われた。この女が聖ならば私は今、どうなっていただろう? 私にとってその事を想像することは恐ろしくも魅惑的だ。私と聖の関係はいつだって体の痛みと所有される快楽に彩られていた。
こうして記憶を手繰ると私の心にあの日の熱狂が蘇ってきた。私はナズーリンの背に強く、爪を立てる。皮膚を破る感触がつぶさに感じられる。ナズーリンはただ黙って私の体をまさぐり、愛撫する。押し殺した苦痛を綺麗な顔に浮かべながら。指の先が暖かな血で滑るのを感じた時、私は思った。彼女は弱すぎる。私を愛するには。そう思った途端に指の先からふっ、と力が抜けた。
彼女は私を傷つけず、私もまた、彼女を傷つけない。
それからも夏は続いていた。これからしばらく続くだろう。太陽が大地を熱しきる前の時間。まだ、空気が水色に霞んでいる内に私は寺の境内を掃き清め、水を打った。その後にご本尊にお経を上げ、雑事が終わる。聖の死後も私の生活は特に大きくは変わらなかった。ナズーリンとの関係は続いていた。昼間は行に勤しみ、夜は、ときどき私を訪う小柄な少女の相手をする。そうして日々が過ぎていった。
聖を火中に投じ、私は一体何を得たのだろうか? 私はあの、青い首飾りから少しずつ、興味を失っていた。
そうした日々を変えるため、私は地底へ向かった。或いは共犯者に会って、罪の熱狂を思い出したかっただけかも知れない。或いはただ単に、もう一度会いたいと思っただけかも知れない。
地底へと通じる穴、見下ろすと風が逆巻いているのが解る。侵入者を拒むように空気の塊を上へ、上へとはき出していた。私は心を決め、点状の闇へ身を躍らせる。重力が作用し、私の体が落下を始めた。ひんやりとした空気が確かな堅さを持って頬に当たる。逆巻く風の中を泳ぎ切って広い空間に出た。
地底に来たのは初めてだった。がらんどうの空間は意外にも明るく、無数の石筍に飾られた地底世界を高みから見下ろすことが出来た。闇が視界を閉ざすまで岩盤が続いていた。彼方には街の灯りが煌めいている。夜の巷を私は連想した。地底に住まう彼らは太陽を捨て、昼間に別れを告げたとき、同時に夜とも袂を分かったのかもしれない。街の灯りを見つめているといきれに満ちた喧噪が鼓膜に伝わるようだった。湿気が街の灯りに暈を被せ、六角形に輝いている。
「下りて来て」
足下からぴしゃりと飛んだ声が私を竦ませた。いらだたしげな声の元を見やると金の髪を持つ橘姫が橋のたもとに佇んでいた。白い肌、珊瑚の唇、蝶の羽を思わせる耳の形、全てが整っていて美しいのに彼女の目玉の下には得体の知れぬ嫉妬が恐ろしい影が差していた。その上では緑の瞳が疑念と嫉妬に醜く燃えている。彼女の瞳に私は竦んだ。爛々とした嫉妬の色が私を竦ませた。
私が橋の上に降り立つと朱塗りの橋桁に身を預け彼女は問いを口にする。朱い柱に預けた細い腰が婀娜っぽく湾曲し、肉の下で骨の軋む音が聞こえた気がした。
「どうしてアンタみたいなのが地底に?」
「答えなければいけませんか?」
私が睨み付けると彼女は細い頤に手を当てふん、と笑い「一応、ここの番人なんだがね」と毒づいた。
「そんなことより貴女」
彼女は橋桁から身を離し私に撓垂れ掛かった。私はその場から動かなかった。その様に彼女はけたましく笑い「色女、妬ましい」そうぽつりと呟いた。彼女は暫く私の胸に鼻寄せていた。
「嫉妬の匂い……移り香」
私は彼女から身を離した。彼女は緑の瞳で私を見上げ再びけたましく笑う。瞳の底に炎を映したような輝きが溢れた。その光の凄まじさに私は彼女を突き放す。彼女は一瞬、身を庇うような仕草を見せ、こちらを睨み、しまいには再びニタリと笑うのだった。
「さっき、同じ様な匂いを嗅いだわ。あんなに嫉妬されるなんて妬ましい。どこへでも行っちゃえば良いのよ」
そういって彼女は私を追い払うように手を打ち振る。
私は彼女に背を向け、旧都は地霊殿へ向かった。
旧都は予想通り賑やかだった。見上げれば幾千丈の闇が広がる地底の中で人々は盛んに飲み、食らい、笑っていた。
目抜き通りを抜け、私は地霊殿を今一度見上げた。目の前に聳えるゴシック様式の邸宅は住居と言うよりは聖堂に近い外観を有している。彩りのない、灰色の花崗岩のあちこちをステンドグラスが飾り、その上を絖地の闇が覆っている。ステンドグラスの数については殆ど装飾過多と言えるほどだった。色とりどりの硝子に飾られた地霊殿はどこかサイケデリックで今様の神を奉る神殿にも見える。
門柱には地獄鴉が一羽とまっている。門番のつもりだろうか。私が顔を向けると地獄鴉は頷くように頭を下げた。
地獄鴉は静かに翼を玄関に向けた。私は門を押し開ける。青銅で出来た格子の門は冷たかった。格子状の冷気が手のひらに刺さる。格子を握る手は火照り、汗に濡れていた。
石畳の上に私の靴音が高く鳴った。
紫檀の扉、真鍮のノブが鈍く輝いてる。扉を開けると目に入ったのは黒と白、二色の市松模様の床だった。窓際にはドライフラワーの束が吊され紫に匂っている。部屋の真ん中、テーブルに面した椅子で編み物をしていた少女が蝶番の軋む音に気づき顔を上げる。
「あら、いらっしゃい」
菫色の髪、病的に白い首筋の周りを朱の管がほっそりと巡っている。管は彼女の胸元で朱い塊に繋がっていた。朱い塊、表面はどこかぬらりと湿った質感が見て取れた、南国の蛇を思わせる朱い肌がアーモンド型に裂ける一点に目玉が嵌まっている。ラベンダー色の視線におののいてから私は彼女が古明地さとりであることに気がついた。こころの中を見つめる虹彩が疎ましげにこちらを睨んだ。
「お初にお目に掛かります。あの」
お燐、そう言いかけて口を噤む。私は彼女をなんと呼んでいたのだろう?
「お燐」
私はそう発音した。唯一の罪の共有者、私の恋人。
「お燐に逢いたいのですが」
こちらを見つめる胸元の眼とは裏腹に古明地さとりの視線は穏やかだった。縫い針をテーブルに置き、息をつくと「お燐の言ってた人ね」と嬉しげに独りごち両手をパチンと打ち合わせる。
「今、お茶を淹れるわ」
火焔猫燐
お寺サンってのは気味が悪いな。アタシは目の前の伽藍を見上げ、そう感じずにはいられなかった。脇にある墓場から微かに流れてくる死体の匂いは確かに魅力的だが妖怪であるアタシにとって寺というのはどうしてもうすら寒い物を感じずには居られない。いつだか、死体欲しさにここの門徒になろうとした事があった。今ならそんな事は絶対にするまい。そこまで考えてアタシは笑った。苦い笑いだった。ふと、自分がここの住職を「お迎え」した事を意識していることに気づいたのだ。火車猫のお燐が死体泥棒にビビってるのかしら? あるいは、星と罪の意識を共有しているのかも知れない。彼女との関わりの中でアタシは死体泥棒を罪と認識してしまったのかも知れない。もし、それが正しければアタシは自分の本質を危うくしていると言うことだ。寅丸星との関わりの中で。不吉な予感が胸に広がる。今度は笑わなかった。それでも構やしないけどね……
そろりと足音を殺して歩く。妙な考え事さえしなけりゃ音を立てたりはしない。星には惚れた弱みかあっさり見つかったが。それでも、本調子じゃ無いことを自覚してるから砂利とか、音の経ちそうな所は避けて通る。耳をそばだて気配を探しながら幽霊のように歩いた。どうやら星はいないようだった。
あれから一週間と少し。アタシたちの、一種の絆と言えるもの、が風化してしまうにはまだ早い。まだ焦るべきじゃないのは理解している。だが、アタシ自身も消耗しているのだ。どうにかして彼女と逢い、安心したかった。まだ彼女が手の届く所にいることを確認しておきたい。幸運が彼女を手の届く所に置いてくれた。正確には、ひっかかりを作ってくれたと言うべきか。星はあの尼公を現世に止たかった。あの姐さんはどうあっても天国には行けなかったのだ。業の深さ故に。さとり様がアタシにあの仕事を命じたときの嫌そうな顔! さとり様はアタシが星の事を好いていると知っていた。そしてアタシはさとり様のあの表情を見て思ったのだ。さとり様に一泡吹かせてやれるかも知れないって。もしそうだとすればまさに一石二鳥って訳だ。いや、三鳥かな? 仕事は片付く、星といい仲になれる、さとり様を出し抜ける。そう、さとり様にはいつもいいようにされてばかりだった。確かにさとり様の事は大好きだがアタシはやられっぱなしが大嫌いなのだ。二人を同時に愛するなんて不潔かね、でも、猫には命が九つあるんだから心が二つくらいあったって不思議じゃない。虎はどうなんだろうね。星は真面目そうだから二人の相手とよろしくやるなんて事はしなさそうだねえ。
自分が物思いに耽っている事に気づきハッとする。やっぱり本調子じゃ無いな。アタシは退散する方向で心を決め、踵を返した。
山門を出て杉の林に入る。木漏れ日が地面をまだらに染め、四方で蝉が命を震わせ鳴いていた。纏わり付くような声が夏の暑熱を一層強く感じさせる。林を抜け、陰と日向の境界が目の前に迫り蝉の声が背中を震わせる中、アタシは少しウンザリとした。意を決して麦わら帽を被り直し、陰線を越える一歩を踏み出したときアタシは軽く目眩を覚えた。動悸がした。頭蓋骨の中で脳漿の中に浮かぶ脳みそがクルクルと回り出す。
緊急事態、って奴だな。平野の少し高くなったところ、その稜線を越えて現れたのは寅丸星の目付役、ナズーリンだ、命蓮寺でも屈指の切れ者、凄腕のダウザー。うまくない事になったもんだ。どうしようか、帽子を目深に被ってやり過ごす? いくら何でも無理がある、隠れるか? どこに? 杉林まで引き返して身を潜める? 不自然すぎる、第一、もう相手の視界に入ってる。頭の回転が臨界点に達し、猛烈なスピンが安定をもたらした。つまり、開き直った。アタシはお気に入りの歌、酒場とかでよく歌われる類いの奴、を口ずさみながらナズーリンに向かってゆく。交差する瞬間にアタシは帽子の庇を摘み、軽く持ち上げ、小さくお辞儀した。遮られてた日光が眼に当たり一瞬だけ世界が白々と燃え上がる。
野に通った一本の小径を互いに歩く。確実に距離が縮まって行き、ようやくアタシたちはすれ違った。その一瞬に彼女の瞳を見た。化け物の眼だ。もっと違う何かだったものが化け物になってしまった、彼女の瞳にはそんな趣があった。無言の一瞬に溢れた無数の怨嗟にアタシはちらりと振り返る。彼女もハッ、とこちらを振り返った。目が合ってアタシは爪を出し、戦いに備える。来るなら来い、身の程を思い知らせてやる……意に反してその瞬間は訪れなかった。彼女は悲しげな眼をして再び歩いて行った。結局、アタシたちはただ静かに行き過ぎただけだ。アタシは麦わらを目深に被り直す。歌など歌う気にはなれなかった。
地底への道を飛んで行く、アタシは星とこの道を行った事を思い出した。あの日の車は、是非曲直庁から貸与された公用車、アタシは見栄を張ってそれで乗り付けたのだが……しかし、是非曲直庁が外部に備品を貸与することは珍しい。さとり様があの時、アタシに嫌々命じた。恐らく、あれはさとり様の人選では無いだろう。選んだのは恐らく、是非曲直庁。自分で言うのも何だが腕っこきの火車だったからに違いない(ヘマをしかけたが)。さとり様が断れぬほど強い圧力が、しかも人選まで指定で、是非曲直庁からかかったと言う事だ。偉い人の事情は知らないが聖白蓮はそれほどの大物だったのだろう。事実、彼女の死体は凄まじい量の金と砒素と、その他の数えればキリが無い程多くの副産物を生み出した。彼女が強大な人物だったと言うことは容易に窺える。聖白蓮とはどんな人物だったのだろう。アタシは微かな興味を覚えた。
朱塗りの橋でアタシは我に返った。とっくの昔に枯れた川を見つめて橘姫が佇んでいた。彼女はこちらを振り返るとあら、と声を上げた。
「どうしたね、ずいぶんゴキゲンじゃ無いか」
「そう言う貴女は随分、疲れてるのね」
「まあね」
「今日は素敵な日よ、千客万来、おなかもずいぶん膨れたわ」
「そりゃ、結構なこって」
大方、だれかの色恋が縺れてるんだろう。アタシは手をヒラヒラと振りながらその場を離れた。
旧都に辿り着き、酒の匂いを嗅ぐと酒場の仲間の顔が蘇ってきて、ふと、一杯引っかけていこうか? などと考えたが、考えた途端にくたびれたのでやめておく。地霊殿の自室に引きこもってダラダラと過ごすことにしよう。地霊殿に辿り着き扉を押し開けエントランスに入る。音に気づいたさとり様が文庫本から目を上げ、掛けていた眼鏡をテーブルの上に下ろした。
「ああ、お燐。お客さんが来てたわよ」
酷く、嫌な予感がした。背筋を汗が流れて行く。
「寅丸星さん、もう帰っちゃったけど」
アタシは思わず天を仰いだ。もしかすると、アタシたちは二人そろってドツボに落ちたのかもしれない。
「何か言ってましたか」
アタシは椅子を引き、さとり様の向かいに坐って言った。ラベンダー色の瞳に向き合いながら。
さとり様が底意地悪そうにニヤリと笑う。
ナズーリン
指先に鋭い痛みが走って私は我に返った。すり減った爪の先から血が滲み玉になっている。私は親指から口を離した。自然に俯き加減になって視野には畳の目が一杯に広がる。い草の上を点々と血が滴っていた。紅が畳の上を躍り、互いの色彩をよりきつい物へと変えている。褪せた緑が一滴の血で燃え、鮮やかさを取り戻した。
がりがりがり、痛みをはっきりと知覚しても指を囓るのをやめれなかった。鼠の性か、仕方が無いね。このまま親指を囓り続けてすっかり胃の腑に納めてしまったら、ご主人、貴女は私を哀れんでくれるでしょうか? 恐らく貴女は私を哀れんで、悲しんでくれるでしょう。通り一遍の慰めも口にしてくれるかも知れない。そう、私はいつも貴女の哀れみを受けて生きてきた。今ならば解る。貴女は私を同等の存在として見たことなど一度も無かったのだ。貴女は哀れみながら私に怒り、哀れみながら私を抱いた。もう沢山だ。私が聖と貴女の関係を詮索した時、一度だけ私に向けてくれた視線。燐寸の炎のように一瞬でフラットなそれに変わってしまった激情。あの瞬間、貴女は私を掛け値無しに私を私として見てくれたのでしょう? もう一度あの視線を振り向けて欲しい。
瞼の裏には瞬間が焼き付いていた。日盛りの小径、炎熱、ダークグリーンのシルエット、火焔猫燐。一瞬の交錯の内に全てが解け、一つになった。そう、私が知っていたのは聖の魂の在処、それだけだった。どのような経緯で聖が石の中に魂を燃やしているかなど知るよしは無かったのだ。私は満足していた。もう一度ご主人の弱みを見つけられたことを。私にとって大事なのはご主人を振り返らせることであって真実など別に気にもならなかった。だが、今日、中天を灼く太陽を浴びながら私は真実を悟った。ご主人に手を貸したのは火焔猫燐だったのだ。そして、想像したくも無いが、ご主人とあの火車猫は互いに好意を抱いている。でなければリスクを冒してここまできたりはしないだろう。だが、火焔猫燐が一方的にご主人に好意を寄せていると言うことも十分あり得るはずだ。そうであればどんなに良いだろう。きっとそうだろう。ご主人が火車猫なんかと通じる筈が無い……それなら私を見てくれたって良いはずなのだ。そう、その好意は私に向けられたって良いはずだ!!! 解っている。幾ら言葉を並べても現実は爪の先程も揺るがない。そうだ、つまるところ、私は何も手に入れていない。それが現実だ。あの火車猫が全てを横から掠め取っていったのだ。許せない。あれは私にとってこの上も無く貴重なチャンスだったのに。あの女が掠め取った。どうして冷静でいられよう?
ふらりと野に出れば、互いを呼ばう虫の声が割れんばかりに響き渡る、無数の残響が頭の中で跳ね狂うのが感じられる。夜の鳥が影だけで行き過ぎ不吉な声だけを残して消えた。風は夜の野をざわめかせ、じっとりと湿った私の首筋を冷やす。土を踏みしめただけの粗末な道を暫く行くと雨が降った。初めは土の面に斑点が描かれ、やがて雨が独特の匂いを放つ。気付くと私は泥濘の上を一人歩いていた。火照る体に冷たい雨が心地良かった。
地底に繋がる縦穴を抜け、雨から逃れた後は自分の体が濡れていることを強く実感させられた。髪の先、袖、裾、あらゆる所から滴が滴り私の行くところに小さな水たまりを作る。水を吸った衣服が重たく私に纏わり付いた。
恐らく、恐らく私は火焔猫燐を殺しに来たのだろう。
ようやく私は自分の目的をハッキリと認識した。けれども何かが変わったわけでは無く、私はただ熱に浮かされたように歩みを進める。高い、不快な金属音を曳きながら。私はダウジングロッドを引きずっていた。金属の棒が岩場の上で音を立てる。
私は枯れ川に行き着いた。それは地平線を越え、際限なく伸びている。命の気配は無く、かつて透明な流れがそこを満たし、澱みに魚が憩ったとは想像できない。がらんどうの大きな溝。その上を赤く橋が架かっている。
一歩、橋板の上に歩みを進める。乾いた橋板に私の足跡が黒く残った。立ち止まると零れる水が影のように私の足下を浸す。私はびしょ濡れのまま抱き留められていた。抗おうとは思わなかった。
金色の髪が視界の端で揺れ、花橘の香りを運ぶ。
「こんばんわ、濡れ鼠のお嬢さん」
静かな、優しい女の声が肌をなぞる。グリーンの瞳を見る必要は無かった。重たい雨の匂いが花橘の香りと混ざる。全ては台無しになるのだという事がぼんやりと感じられた。
「私はね、貴女の神様よ」
私は振り向かず、ただその声だけを聞いた。
「まずは、回れ右。貴女じゃお燐には敵わないもの。貴女は何もしなくて良いの。憎い相手はきっと死ぬわ」
寅丸星
私は杯の中身を一口啜り、その酒の強いことに顔をしかめた。その様を横でお燐が楽しげに見つめている。
「地底の酒は強いでしょ?」
私は苦く笑い、口を拭うと辺りを見回した。騒々しい店だった。天井では煤けたランプがくぐもった光を放っている。喧噪の中には音楽の断片が聞き取れるが、哄笑と罵声にかき消されどんな曲なのかも解らない。私はその中で木の丸テーブルを挟みお燐と坐っていた。二階の人々が吹き抜け越しに私たちの居る一階にチラリチラリと視線を送るのが時折、見て取れた。
「二階が気になるみたいだね?」
私が答えに窮するとお燐はすっくと立ち上がり手を差し伸べた。「見せてあげるよ」お燐は飲みさしのグラスに手を伸ばし、グイと呷って歩き出した。階段を上って私は、一階からでは手すりに遮られていた、二階の人々が互いに愛撫したり、囁き交わしていた事に気がついた。お燐は壁に並んだ無数のドアの一つに手を掛け、引き開ける。中に居たのは裸の男女だった。お燐はただ「邪魔したね」とだけ言って閉じると、隣のを開ける。
「さあ、中で飲み直そうじゃ無いか」
お燐は小首を傾げ、こちらを誘った。
世界は白を一刷けされ、大いに燃え上がっていた。火車の炉を前に私は酩酊し、その上、少し疲れていた。頭がぼんやりとしている。お燐と呑んだ酒が大分効いているのだ。炎の熱に血管が広がり、脈打つ。その度に酔いはアルコールをくべられ若返るかのようだった。寝床の中でお燐に私は仕事場を見せて欲しいと頼んだのだ。私の願いは二つ返事で聞き入れられた。店を出る時、「内緒だよ」と念を押されたが。
「どうだい、アタシの仕事場は?」
「素敵」とだけ答えた私はただ炎に見入っていた。一歩、また一歩と歩みを進める。炎の熱は更に強くなり、降りかかる火の粉が鈍麻した感覚の上を跳ねる。大きな穴から覗き込むと巨大な炎を上から見ることが出来た。紅蓮、紅の蓮の様だった。炎が炎の上に影を落とし、火の端は花開くと瞬きする間に萎んで閉じる。それら全てがくっきりと見て取れた。危ない、と制止するお燐を抱き締め、口付けする。唇を離すと涎の糸が炎の色に染められ、光っていた。圧倒的な光量が世界を白らに染める。肉体に注ぐ熱が罪と暴力と愛情の手触りを肌から掘り起こす。私はさらに強くお燐を抱き締めた。あらん限りの力で。そして、跳んだ。炎に向かって。凄まじい苦痛の予感に私は総毛立った。
私たちは重力に引かれ、落下を始めた。私は上になり、下になり、回転、錐揉み、炎に向かって墜落する。お燐のドレスが風にはためき鮮やかだったがそれも一塊の炎に変わる。
あとはただ、身を嬲る炎の激しさだけが感じられた。今や私もまた炎の塊でしか無く、両の掌を開いても在るのは炎ばかりだった。私はとても満足だった。
ある奇怪な事件の真相を私だけが知っている。その奇怪な事件とは二日前に起きたある高僧、すなわち聖の遺骸が突然、消えてしまったという事件に他ならない。この事は少なからず命蓮寺の面々に衝撃を与え、速やかに箝口令が敷かれた。つまり、生前の知己のみが招かれた慎ましい葬儀において棺が空だったことを知る人はたったの六人しかいないと言うことだ。焼いてしまった後、骨が残らないのに対し人々は口々に驚愕の言葉を叫んだがそのうちにそれぞれが勝手に得心し真実はうやむやになった。遠い異国の預言者よろしく三日後に彼女は蘇るのだという噂がまことしやかに囁かれた。六人だけが真実の重みに口を閉ざし、さらにその内の一人はさらなる真相と罪の重みに押しつぶされんばかりだった。その一人というのがこの私、寅丸星である。
目を開き、現に返って夢の余韻を床に転がす。今しがた見た狂おしい夢を思い起こそうとする。だが像を結ぶのは朧な喧噪のイメージばかり。混沌としたその中から取り出せたのは炎の色だけ。なにか大事な事を追体験した気がするのだが。乱れた褥に夢の面影を見いだそうとするがうまくはいかなかった。
布団の上で体を翻し、床に手をついて身を起こした。そうした拍子に目に入った置き時計の針。結局、幾らも寝られず、こうして目を覚ましたと言うわけだ。どこか非難の入り交じった刺々しい思いと共に立ち上がる。布団に貯まった太陽の熱が冷えた掌を微かに温めた。
短い眠りに軽いふらつきを覚えながら私室を出る。足が縺れて壁に手をついた。
露の降りた中庭の土は微かに湿っていた。つっかけた草履の裏からひんやりと冷気が伝わる。井戸から水をくみ、顔を洗うと少し意識がはっきりとした気がした。それでも水面に映る私の顔は疲れの色が拭えない。隈の出来た目に乾いた笑いを立てた。しゃんとしなければ。
朝の冷たい風から逃れるようにして命蓮寺の堂内に戻る。寺の面々は今、葬儀の日時を知らせに方々に散って今、寺の中にいるのは私と聖だけだ。
聖の死は突然だった。あまりに突然で未だに実感が無い。けれどもあの人は冷たくなって今、本堂に寝せられている。
暗い伽藍を抹香の煙が帯引いて流れた。細い煙の束は薄絹の様、香煙をかき分け歩む。無数の燭花が霞んだ灯りをこちらへ投げた。
膝を折り曲げ聖の傍に座り込む。寺のみんなは葬儀が始まるまでは休んでいろと言ったが私にはこうして居る方が好ましかった。聖と居られる時間は少ないのだから。たとえ冷たく固まっても、言葉を返してくれなくとも私は構わなかった。目の前で目を閉じて身を横たえる彼女は私にとって紛れもなく聖だった。だからこそ今はこうして彼女を見つめていたい。聖の元を離れて浅い眠りを貪るよりもそうする方がよほど良い。いっそここに布団を敷いて眠ってしまおうか。そして動かない、美しい彼女を見つめながら眠ってしまおうか?
不意に背後で起こった、小さな軋む音が奇妙な、ともすればグロテスクなアイデアを頭から消し去った。振り向きながら自身の消耗を自覚する。
眼前の闇に佇むのは赤毛の火車だ。火のような色をした髪の毛を三つ編みに編んだその女。こちらが振り向いたのに気づくと火焔猫燐はペロッと赤い舌を出して笑った。
火車は死体を持ち去る妖怪である。であれば彼女が何をしに来たかは明らかだった。私は得物に向かって手を伸ばす。威厳を保つためのイミテーションだが無いよりはマシだろう。しかし、燐がわずかに早かった。彼女のつま先は板張りの床を素早く撫でたかと思うと私の槍を遙か彼方に蹴飛ばしてしまった。疲労した脳はここまでの僅か数瞬の思考にさえ悲鳴を上げる。耳の奥がチリチリと鳴った。
つま先が翻り私の鳩尾に向けて打ち振られる。私は微かに身を沈め胸部でそれを受ける、丈夫さには自信があった。思っていたより重たい一撃に胸骨が軋み、息を吐くもそのまま足を掻い込んで彼女を引き倒し、跳躍する。水平になるたけ近い角度で。背中を打って起き上がろうとする燐の上体を素早く覆い、細い喉に手を掛けた。指先に呼吸の痕跡、血の巡りが感じられ自分が今、命をやりとりしているということが曖昧ながらも感じられた。
走った鈍い痛みに考えを中断する。彼女の拳が脇腹を打ったのだ。大したダメージでは無いが一瞬、バランスが崩れた。すると見る間に彼女は足を一本、私の下から引き抜き、それでもって私の胸を一撃した。壁際まで転がって強か背を打つ。呻いてる暇は無かった。立ち上がり、燐がまだ酸欠から回復していないのを認めると槍を拾い上げる。
お燐は柱に背を預けたまま激しく咳き込むと掌をこちらに向けて何事か叫んだ。一度目は横隔膜の痙攣に阻止され声にならなかった。幾らか聞きやすくなった二度目を経て三度目に彼女はようやく私に意思を伝えた。
「参った、参った、ああ、もう降参だ」
答えない私に彼女はどこか戯けた視線を送る。
「ずいぶん熱心にそこの姉さんを見てたね。あんたがあんまり熱心に見つめるもんだから、いや、アタイもね、そこらへんの駆け出し火車と一緒にしてもらっちゃ困る。だなんて思ってたけどついヘマをやっちまった。なあ、アンタ……」
「何をしにきた」
彼女の話を遮って問うと燐は眉をつり上げると首を傾げ、解るだろう? といった顔をして見せ、言葉を継いだ。
「なあ、アンタ、本当にこんな綺麗な姐さんをこのまま燃やしちまうつもりかね?」
「何が言いたい」
槍を掻い込み、穂先を向けると燐は両の掌を掲げ、戦意の無いことを示した。
「いやね、アタイはただ勿体無いなと思っただけさ。なにせ、仮に、仮にアンタらの流儀で葬式をやったとしたらだよ。そしたら四十九日が過ぎれば二度とこんなお美しい人に会えないんだからね。勿体ないだろう」
何も言えない私に彼女は捲し立てる。
彼女の言う通りだった。だがしかし、だから何だというのか? もし、仮に、いや、このままでは確実に聖に二度と会うことは無いだろう。だからと言って聖に教わった事が私の頭から抜けてしまうとでも言うのか?
「つまり、アタイが何を言いたいかって言うとね。こちらの方を荼毘に付す、尊~いお仕事をアタイにやらせて欲しいって事なのさ。アタイ達はすごいよ。なにせこの仕事をアタイらに任せればアンタは愛しい人にまた会うことができるんだから、まあ全てが元通りとは行かないが」
彼女の舌が暗い喉の奥で仄紅く揺れ、私は自己欺瞞が破れるのを感じる。聖から何を与えられかなど今は問題では無い。無理矢理彼女を現し世につなぎ止めるか、或いはいつかの様に、しかも今度は永遠に手の届かぬ所に見送るか、私は今、選択を強いられている。ぎりり、我知らず歯が鳴った。目の前のこの女さえいなければ私はこのような二者択一に気づくことすら無かったのに。だが、果たしてそうか? 湧いた問いに眩惑される。白日夢、あるいは安い活動写真のような現実味の無い世界。意識が思考の奥に引っ込んで視覚は認識の支えを失い宙ぶらりんになる。目の前で揺れる、赤、緑、肌色。少し意識を現実に向け燐を見た。自身の獣性が女の顔をしているのか。目の前の少女が記号的な意味を持っているのでは無いかと言う妄想に捕らわれる。一例を挙げれば八重歯は獰猛を象徴するのだ。そして私も立派な牙を持っている。言うまでも無いことだが。かちかちと歯が鳴った。
動けない私の手からそっと槍をもぎ取ると燐は私の耳に口を沿わせ、囁く。歯の鳴る音さえ聞こえる距離で彼女の喉が空気を震わす。
「それに、それにこいつはちょいとリスキーでインモラルなやり方なんだがね」
これが彼女なりの殺し文句らしかった。私は答えない。
「ここで決めろとは言わないさ。なあ、向こうに榛の茂みがあるだろう? そこの窪地に車を隠してある。しばらく居るから肚が決まったらその時はおいで」
突然、燐が私の手を取った。槍が放られ乾いた音を立てる。
「姐さんと一緒にね」
燐が爪をグイと手の甲につきたて、力をこめた。鋭い痛みが走る。慌てて身を離し、目をやると皮膚は一本の傷が入っている。傷と呼ぶにはあまりに華奢だと思った。私の手には今、赤い、細い線が引かれている。
「アタイはやられっぱなしが性分に合わないのさ!!!」
そうしてけたましく笑うと彼女はドレスの裾を炎のように翻らせながら駆けていった。
私は一人取り残され、へなへなとその場に座り込む。しだいに上体を起こしているのも面倒になり仰向けに倒れ込む。ひっかき傷が妙に気に障る。痛みではない、痒みに近いが痒みそのものでは決してない。私はこうした感覚にかつて親しんだのだ。目を閉じ、思案の淵へ。何を隠そう、この奇妙な不快感は聖と縁深い物だ。
私は息を吐いた。火のように熱い息を。細い傷が忘却から掬い挙げた物達が、私の気息を荒い物にしていた。心臓が肉に圧迫される。聖と傷をつけ合った日々が蘇り、頭がクラクラする。興奮が心地良く体を強張らせた。
拒絶、あの掠すれる程細い傷が想起させるのはその二文字だ。しかし、それが本物の拒絶だった期間は短い。その頃には私の爪も薄皮一枚のみならず、多くの肉を持ち去ったのかも知れなかった。しだいに拒絶はある種のポーズと戯れに変わった。それが聖をより愉しませる事を私は知っていたし、聖もまたそうした私の思惑を知っていた。だから、次第に糸は細くなる、切れてしまうほどに。けれども私たちはお互いの体から傷を絶やすまいとした。私たちが非日常、逸脱に慣れてしまわない為に。それが日常を構成する物の一つになっている。そんな事実に気づいた後も私たちは事実から目を逸らすようにして互いの体に赤い糸を描き合ったのだ。
村紗や一輪達がやってきてからも頻度は減ったがそうした行為が絶えることは決して無かった。私と聖のあり方が変わった瞬間を私ははっきりと覚えている。そして長い時間が経った。
聖が魔界から帰ってきて幾らか立った日、聖と私だけが二人で残された。理由はもう覚えていない。その日起きた事が私にとって余りに衝撃的だったからその他の事はすっかり忘れてしまった。有り体に言えばあの日、私と聖のあり方は変わってしまった。いや、積み上げてきた私たちの関係はすっかり無くなってしまったのだ。
それは夏の日のことで鎧戸は全て外していたから建物の中にまで風が流れていた。聖の長い髪が風に揺れるのを見て私は反射的に手を伸ばした。聖は少し驚いて振り向いた。躍る黒髪を一房、手の平に取り彼女の出方を待った。少し、調子に乗りすぎたか、もしかしたら折檻されるかも知れない。けれどもそれは行為の一部であり、糸口だ。それによって受ける苦痛などたかが知れている。聖は私の肩を両手で掴むと軽く力を込め、膝立ちになるよう促した。何をされるか、私には予測もつかなかった。久方ぶりの事でお互いに勝手を掴み損ねているのだ。もしかしたら聖は度を超して乱暴になるかも知れない。ぶちのめされるかも知れない。それでも構わなかった。そちらの方がより、刺激的だから。長い断絶を終わらせるにそうした無茶は相応しく思える。だが、私に与えられたのは一度きりの接吻だった。それを知らず、私は額へおずおずと口付ける彼女を好奇の目で見た。その後に与えられる苦痛と快楽を思い浮かべ。
その後の事を考えれば、関係を変化させたのは私だとも言えるかも知れない。つまり、変化した直後、終わったのだ。あるいは終焉もまた変化の一形態でしかないのかもしれない。
口付けて背を向けた聖に私は追いすがり、手首をとってこちらを向かせると強引に唇を奪った。そうしながら、自分が行為を与える側に立つのは初めてだと気づいた。これまではただ一度の例外とてなく私は行為の受け手であったのに。
肌理の細かい肌、長い睫が顔を撫でる。柔らかな舌を重ね合わせながら聖の表情を伺った。垣間見たその表情は悲しみに見えた。だから、私は見なかったことにする。そんなのは許さない。貴女が無理矢理始めた物を貴女が勝手に終わらせてしまうだなんて。けれども私は聖から体を離した。そして、それきり何も出来なかった。
今、私は板張りの床を背に回想を終える。自分の思い違いを嗤いながら。
あの日、関係は終わった訳では無いのだ。ただ、あり方が変わっただけなのだ。貴女の物だった私が次は貴女を所有するのだ。私たちは終わらない。死んだからって貴女だけが心安らかに眠るなんてそんなの許されない。
油を舐める火蛾の一匹に手を伸ばし、捕まえる。手の中を羽が擦り、乾いた音を立てる。私は掌の中の抵抗を握りつぶし、口元を歪め笑った。
そう、そんなのは許さない。
火車が去ってとっぷりと日が暮れた頃、私は聖の亡骸を訪う。不浄な愛を胸に満たして。四角い、白いきれを顔に乗せ聖は横たわっている。黒い髪は未だその艶を失わずきれの中から豊かに溢れていた。白布をそっと外す。聖の穏やかな表情が私の目の玉の裏に浮かぶと私は狂おしい気持ちで一杯になった。熱が目玉の裏、脳みその下を灼く。聖と過ごした時間は妖怪のものさしで計ればあまりに短いものであった。誰に向けられるでも無い怒りが心を満たしている。聖の私室であった場所で一人、私は聖と向き合っている。頼りない灯りに照らされた聖の顔は微かに紅を差してさえ見える。私は聖が死んでしまったことが信じられずにその横顔に手を、手の甲を差し伸べ、そっと触れてみる。触れた手の甲に返ってくるのは冷たくなった頬の感触と微かな肉の柔らかさ。それでも私は手の甲に感じた余りに人間的な柔らかさに感謝せずにいられなかった。初七日が過ぎれば聖の魂は三途の川を渡り、中有の道を行って閻魔様のお裁きを受ける。そうして彼女はまた輪廻に乗り、遠いところへ行ってしまう。いつかの様に。
私は甘えるように聖へ頬を寄せる。
聖と出会う以前、或いは聖が封印されてから再会するまでの時間。私は堪え忍んできた。
あんなのはもうごめんです。
聖の髪を手櫛で透く。少し束になった髪をかき分け私は進んで行く。死者の髪は乾き、手触りには微かに金属質なものがあった。けれども流れる手触りはいぜん心地良く。私の指はさしたる障害も無く濡れ羽色の中を進んで行く。
人食いでいた時分には穏やかさも快さも知らず。けれども随分気分が良かった。思慮なんて物は二の次で自分の欲望が一番だった。そこに美しい貴女が現れ、私をすっかりぶちのめし、手なずけてしまってからというもの。私は思慮分別の奴隷であるようにふるまった。貴女がくれた苦痛と時間は刺激的でその間隙を埋める穏やかさだってたいそう具合が良かったし考えることを覚えたお陰で心地良いって事も随分はっきり理解できた。けれども、ねえ。
額をぴたりと合わせる。息が掛かるほどの距離。
私はやっぱり自分の欲望が第一なんです。私は毘沙門天様の化身となり、戦いの神に身を捧げるそぶりを見せたけど、実は、その実、私が身を捧げたのは美しい貴女だったのです。美しい貴女は私にとって熱狂そのものだった。貴女が封印された時も貴女が帰ってくることを信じてじっと待ちましたけどそれは貴女が帰ってきてくれるって信じてたからで。けれども、けれども今度こそ貴女は死んでしまってどこかへ行ってしまう。貴女の元で随分勉強させられたけどそれによると死んだ人間は別物になってしまうんでしょ? つまりは輪廻の輪に乗ってしまったが最後、二度と貴女に会うことは出来ないんですよね? そんなの許さない。もっと私の傍にいて私を監視して折檻して時々ご褒美を下さい。ルールという物を教えて下さい。必要なら私をぶちのめしてでも。なんなら今すぐに戻ってきて私をぶちのめしてこの愚行を止めてくれたって構わないんですから。ねえ。ねえ。そうしないって事は許してくれるんですよね? ねえ、聖。
異様な思いが頭の中で幾何学的に広がり、灰色の脳みそを一色に塗りつぶす。私は確かに何らかの表情を浮かべていた。けれども自分が今、どんな顔をしているのか見当もつかないのだ。カンフル剤を打つようにして考えを巡らしながら私は聖の背と膝に手を差し入れ、すっかり軽くなってしまった彼女を持ち上げた。持ち上げた彼女の頭がぐらりと上を向く。長髪がそれに応えるように大きく揺れる。死者にはあまりに不似合いな一瞬の躍動に私はすっかり動転した。聖が私を見た気がした。私は幻視した。束の間、罪の意識が私の瞼を固く閉ざした。瞼が極度の緊張に痙攣するのを感じた。焼き付いた聖の目が徐々に像を結ばなくなりやがて消えると私はゆっくりと目を開けた。瞼だけで無く、頬まで引きつっているのを感じる。息を長く、ゆっくりと吐いた。恐怖の余韻に唇が震える。やがてこの恐慌の発作が止むと私は音を立てぬよう静かに歩み出した。死んだ聖を抱えながら。
障子を開け、縁台に続く廊下に出るとそこは全くの闇だった。暗闇に出た途端、私は自分の目が微かな光を宿すのを感じた。虹彩の奥に炎が灯る。獣の性が私をいくらか勇気づかせた。不意に闇の中に空間が開ける。外に出たのだ。
幾らか行った私を迎えたのは火車だった。牽き手のいない鉄の車がどろんとした黒い煙を纏い蹲っていた。私が現れたのを確認して火焔猫燐が中から姿を現す。手には赤く光を放つ唐様のカンテラが握られていた。
「来たね」
闇の中で燐がにやりと口を歪めた。暗い喜びが彼女の顔を飾っていた。暗緑色のシフォンドレスの裾を翻し、私に背を向けると彼女は誘った。
「乗んな」
燐の後ろに腰を下ろす。車の中は悪鬼を象ったレリーフやその他の悪趣味な装飾で埋め尽くされている。燐は器用にカンテラを天井の突起に吊すと歯を剥き、号令した。どこの国の言葉か、そもそも言葉なのかさえ怪しい一声だった。
車が揺れ始め、無数の装飾が高い、乾いて虚ろな音を出した。速力が安定したのを確認した燐がこちらを振り向き聖の髪を一撫でする。無意識に伸べた手がお燐の掌を遮った。お燐は少し驚くそぶりを見せたが。私が俯いたのを見てまたニヤリと笑った。次の瞬間、ガバと大きく身を乗り出し私の唇を吸った。私は抵抗するがうなじをかき抱く形になった燐の手はなかなか離れない。狭い空間で揉み合う。天井に頭をぶつける度、揺れるカンテラが私たちの影を何倍も大きく照らした。赤い陰線が車の中を幾度も移ろう。錫の調度がカラカラと一斉に囀った。暴れたせいで前歯と前歯ががちがちと激しく音を立て血が流れた。ようやく彼女を振り払い荒く息を吐きながら、やっとの思いで口を開く。
「何を、するんですか」
燐は例によってニヤリと唇を歪める。いとも楽しげに。
「お姉さん、やあっと喋ったね」
言葉を切ってドレスの袖でグイと血を拭う。緑の生地に血が赤く線を引いた。
「姉さんがあんまり美人なんで魔が射したのさ」
そこでハハハと乾いた笑い声を立て「悪かったね」とだけ言い彼女は再び背を向けた。私が呆然としていると彼女は突然こちらを振り向き私の唇に指を伸ばした。私が再び身を固くすると彼女の指は器用に私の唇から流れた血を拭い、それを私に示してまた笑う。
彼女は私に再び背を向けそのまま言った。
「アタシはすっかりアンタの事が好きになったよ」
ゴロゴロと喉を鳴らしながら歌うように彼女は言った。その口調も私には腹立たしく思われる。
「アンタはどうだい?」
一瞬、何を聞かれているのか解らなかった。
「アタシの事、好きかい?」
私は抗議と沈黙を秤に掛けた。そして、答えた。
「嫌いです」
彼女は「ふうん」としか言わなかった。
それからは無言だった。どれだけ経ったのかは解らない。やがて車の揺れが収まり、車輪が動きを止めたのだと知る。高きから低きへ、低きから高きへの無限に続くかとさえ思われる繰り返しが地の底、火車の炉で終わり、車の外には逆巻く炎の気配が感じられた。
車を降りて圧倒された。予想を超える熱量と光量に。
冥符の闇を灼く地獄の業火が四方を染める。炎は舞い踊り、無数の肢体が翻る。微かな動き、身じろぎで炎は赤から紅に、紅から朱へ変じた。火の端がくるくる丸まって無数の輪を描く。
眩むような熱と光、世界を満たす朱の色がこれから犯す罪を私に想起させる。口の中に再び広がり始めた血の味が私を現実につなぎ止めてくれた。鉄の臭い。私は舌を蠢かせ、やがて傷口を探り当てる。先程の接吻が残した傷が血を流していた。舌でそっと押さえると鉄の味と共に微かな痛みが返ってくる。
炉の入り口を覗き込む。あまりの暴威に髪が逆立つ。熱された空気が吹き上がっているのだ。覗き込んだ刹那に髪やら肌に火が染みたように思えた。衆生を悉皆燃やす、地獄の火が。
聖を抱え直す。抱え直そうとした。どう抱えて良いのかが全く解らなかった。聖の顔を見つめる。穏やかな顔だ。これから聖をあの炎の中に投げ込むなんて馬鹿げた事の様に思えた。いや、実際、馬鹿げているのだ。
私は燐を見つめる。燐はこちらの視線に気づくと例によってニヤリと笑い聖の足を抱える。私は咎めようとした、口を開けた、声を上げようとした。しかし、意に反して喉は震えなかった。彼女を咎めれば私はこの世で一人になってしまう、何故だかそう思ったから。だから、咎める代わりに
1,2の3。
彼女に声を合わせ私は一番愛しい、愛しかった人を放り投げた。
その後、すぐに燐はどこかへ行った。それから幾らもしないうちに彼女は青い人魂を連れ戻ってくる。彼女の傍らで燃える青い火球が聖だ。聖の魂が青く燃えている。安楽から見放され、輪廻から外れた怨霊として。私はそれに気づくとふらふらと駆け寄り聖に手を触れた。燐の声が遠く聞こえた。ちりり、責めるように火が鳴る。青い炎に触れた瞬間に熱を感じ、それが痛みに変じるのをはっきりと知覚した。鋭い痛みに私は手を引っ込める。聖に手を触れて残った物は痛みと赤く腫れた皮膚。裏切りの対価。けれども聖によってもたらされたのだと思えば痛みさえも心地良く思えた。咎めるように熾った炎が懐かしく思われる。
「いきなり怨霊に手を触れる馬鹿があるかい」
彼女はそういって私をたしなめた。呪を唱え聖の魂を首飾りに移す。彼女が差し出すそれを私は恭しく受け取った。青い石のついた金の首飾り。サファイアの青い輝きに顔を映す。石の奥で炎が燃えていた。恐る恐る手を触れる。今度は燐も咎めなかった。微かに熱を持つ石の面を私は撫でる。聖がこの中にいる。
帰りの車中で私と燐は無言だった。薄い紺色、夜明けの予感が現れ始めた空の下を私たちは走る。
火焔猫燐
紫檀の扉を押し開けてアタシはさとり様に帰りを告げる。さとり様はアタシの声に反応し、手にしていた本から目を上げ、細い首を気怠そうにもたげた。
「あら、おかえりなさい、お燐」
白と黒のチェックの床は固く、その上を行くと高い音がする。自分の靴の音に微かな焦燥を感じながら私はさとり様の横を行き過ぎようとする。
「首尾はどうだった?」
両の肩に微かな握力を感じた。
「今、熱いお茶を入れてあげるから」
逆らうことは出来ない。アタシは僅かな腕力と大いなる意思の力で椅子に釘付けにされた。湯が煮える音、注がれる音、紅茶の葉が開く音。沈黙の中でそれらは全てはっきりと聞き取れた。湯気の立つカップが差し出されたとき私は疲労の予感におののきながらカップの中身に角砂糖を幾つも入れ、わざとズブズブ音立てて飲んだ。熱い液が舌を灼く、苦痛が思念を少しでも曇らせれば良いと願って私は再び紅茶を啜った。
「それで、首尾はどうだった?」
「上々ですよ、仏サンはもう燃やしちまいましたし」
「ねえ、お燐」
そこでさとり様はようやくカップに口をつけた。
「私が聞きたいのは違うの、そう、何て言ったかしら……そう寅丸星の事よ」
さとり様はわざとらしく言葉の間に時間を置き、寅丸星の名を強く発音した。その名を聞いてアタシはあの、均整の中に荒々しさを湛えた星の眼差しを思い浮かべる。彼女は仏の教えに教化されてなお獣性を失わなかった。諸々の奥ゆかしい仕草の中に照り映えるような野生を見つけた時、アタシは羨望を覚えた、飼い慣らされ、飼い猫に身を落とした自分の身と引き比べ。
カップに移った自分を見てたアタシはゆっくりと顔を上げる。さとり様は頬杖をついてこちらを見ていた。半ば落ちた瞼は眠たげに見える。けれども瞳の奥では好奇心と明るい嫉妬がちろちろと燃えていた。
「ご存じの通りですよ」
アタシはそう答えると再びカップに口をつける。けれども紅茶の液面に唇が触れる前にさとり様はカップを私から奪い取っていた。
「私は貴女の口から聞かせて欲しいの」
アタシはやり場の無くなった手を膝の上に載せるとさとり様を見つめた。そうして幾らか経ち。私は口を開いた。
「どこからですか?」
「どこでも、貴女の好きなところから」
さとり様は基本的に威嚇などの目的が無い限り、人の心を先取りして喋る、ということはしない。アタシは観念して頭の中に昨夜の出来事を思い浮か
口付けが割り込んだ。車中で交わしたものと同じ、燃えるような紅い口付け。さとり様らしからぬ乱暴さにアタシはうすら寒い物を感じる。
アタシは抗うべきなのか、受け入れるべきなのか。乱暴な口付け、舌が傷跡を探り、歯がそれを抉ってゆく。痛みに頬が引き攣り、脂汗が流れた。
さとり様の腕力は決して強くない。けれどもここでさとり様を引き剥がせばアタシはどうなるだろう? アタシの首に口付けながらさとり様が低く囁く。
「ねえ、お燐、貴女はこの後どうしたかったのかしら? ねえ、今度こそ貴女の口から教えてよ」
痛みが視覚を朧にし、さとり様を実際よりも強大に見せた。洗練された獰猛さが私を睨み付けている。
恐らく、さとり様はさっきと同じやり口でもう一度攻めてくるだろう。アタシがすっかり抵抗を取りやめてしまうまで。アタシにはどうしようもない。そもそも、この駆け引きはあまりにも非対称的なのだ。勝負になぞなるべくも無いがささやかな抵抗を私は繰り出す。
「たまにはお空を構ってやったらどうです?」
「たっぷり、構ってるわよ。あの子も貴女も可愛い可愛い私のペットですもの。あの子は優しいし、あなたと違って素直よ。けど、今は狡い子と遊んでたいの。あの子は時々、退屈だわ」
早口で捲し立てた後、さとり様は再びアタシの目をじっと見つめた。
だから、もう少し足掻いてみてよ? アタシを見上げるさとり様の目はそう告げている。さとり様はアタシを掻き抱いたまま上を見上げ、喘ぐようにして小さく息を吐いた。
「さあ、早く続けて。お燐」
寅丸星
その夜、私は夢を見た。昨日と同じ夢だ。今なら解る。昨日、私が夢の内に見た物を。サーカスの夢だった。赤と黄の大きなテント、星明かりと欺く光の洪水、夜空に浮かぶ金の皿は丸い。話し声。ナズーリンが私の手を握っていた。私は彼女に手を引かれるまま布と鉄、それにいきれと人だかりの宮殿を分け入って行く。白い肌に赤い鼻のピエロ達。輝くナイフが彼らの手でかろく投げられ、光を曳いて放物線を描く。美女の頭を飾ったリンゴの実が汁を流して静かに落ちる。喝采。褐色の肌をした舞い男達、赤々燃える松明が回転し紅く円を描く。やはり喝采。はっきりとした、けれども今となっては言葉としてしか蘇り得ない物達。猛獣使いの女と彼女の相方だけが映像として、今も私の脳裏に像を結ぶ。
天幕を満たす闇が彼女の顔を巧みに隠し、彼女を任意の存在にしていた。彼女は俄に屈むと傍らの毛皮と筋肉の山に手を伸ばし、愛撫する。黄と黒と白の毛皮をしたそれは彼女の愛撫に応じゴロゴロと喉を鳴らす。そこへ炎の輪が運び込まれた。薄い、意図された暗さが炎の色に取って代わられる。輪は燃えている。時折、炎が輪から滴った。息を呑むような熱と苦痛が仄めかされている。女が虎に鞭をくれた。虎は駆け出す。分厚い毛皮の下で全身の筋肉が蠢く様が見て取れた。そして虎は輪をくぐる。燃え盛る炎の輪を。
喝采は別世界の事に思われた。しかし、私は袖に微かな力を感じ、ナズーリンを振り返る。
「気分を悪くしたかな」
ナズーリンは私を見上げた。何しろすごい喧噪だったからナズーリンは伸び上がると私の耳に手を当てもう一度「気分が悪いのかい? ご主人」と聞いた。
そこで私は夢の中から目を覚まし、当たりを見やる。
「寝てる場合じゃないぞ、ご主人」
ナズーリンが私の体を揺すっていた。その顔は青く、服からは微かに酒の匂いがした。昨日飲んだ酒が残っているのだろう。昨日、燐と共に聖を連れ去った時、ナズーリン達は聖の生前の知己とささやかな宴を設けていた。私はそこに乗じてまんまと聖を連れ去ったというわけだ。まがりなりにも毘沙門天の化身である私が乱れてはまずいという訳で宴席を外れるのも容易な事だった。
「聖の、聖がいなくなったんだよ、ご主人」
聖の死体が、と言いかけて口を噤んだのが私にも伝わってきた。そこで私は一気に覚醒し、傍目にも解るくらい蒼醒めた。演技などでは無い、私はこれから、被害者の一人を演じなければならないのだ。その事実の重さが私の肩に食らい込み、喉を詰まらせた。手先が温度を失い、強張るのを感じた。
「それは、それはどういう事ですか、ナズーリン」
「聖の体が無くなったんだよ」
私は言葉を継ごうと口を開けた。やがて、言葉を継がぬ方が自然に思えてそのまま時が過ぎるのをまった。
「ともかく、来るんだ」
ナズーリンが私の袖を引く。いつかのように。肩越しの顔が微かな笑みに歪んだように見えて私は自分が今、過敏になってることを知る。
既に本堂にはナズーリンと私を除く寺の面々が集まっていた。皆、神妙な面持ちだ。私は皆の顔をもう一度見る。私はどんな顔をしているのだろう?
それからのやりとりは良く覚えていない。ただ、一通り話し合いが終わった後で私は人知れず嘔吐した。極度の緊張がそうさせたのだった。ここしばらく禄な物は食べていないから胃の中はあっという間に空になった。このままいけば死ぬ日もそう遠くは無いかも知れない。声を殺してげえげえやりながら私はそう思った。
吐き気の発作が治まって私はぐったりと壁に背を預け考える。結局、明日の葬式は行われることになった。このまま、空の棺を私たちは送るのだ。私は立ち上がり、しゃんと背筋を伸ばした。大丈夫、私は疑われていない。今は努めを果たすべきだ。毘沙門天の化身として。そこまで考えておかしみが喉にこみ上げ私はつい、くっくっくっと喉を鳴らす。上手く笑えているか自信が無い。何せ毘沙門天の化身が火車と連んで死体泥棒なんて! 私は口を横一文字に袖で拭い、厠をよろぼい出た。
ナズーリン
太陽が煌めきと暖かさを地平の向こうに連れて行き、真っ黒な闇だけを置き、去って行く。そして夜が訪れた。黒々と蟠る夜も私の視線を阻み得ない。日が沈むと眼窩の底に灯が灯り、私の世界は緑に燃え立つ。獣の目はすべからく夜、爛々と燃えるのだ。もっとも、私はご主人のように強大で美しい虎ではなく、卑しい鼠に過ぎないが。
足音を殺して部屋を出る。静かに、足の裏に神経を集中させる。自らの重みが板張りの廊下を微かに歪ませるのが解る。静かに、板目を踏み違えぬように私は歩く。やがて私は目的に辿り着く。襖に耳をぴったりと付け、部屋の音に耳をそばだてる。不規則な寝息に苦しげな声が混ざっているのを聞いて私は中に入る。
皺の寄った布団に貴女の大きな体が沈んでいる。貴女は苦しげなうめきと共に身を捩る。夜着の下で白い肌としなやかな筋肉が動き、虎と同じ金と黒の髪が美しく乱れた。貴女は眠っているというのに苦しそうな顔をしている。私には解らない。どうして貴女はそんなに苦しい思いをするのかが。尼公の事など忘れてしまえば良かったのに。私は知らぬ訳ではない。聖への想いが貴女をこれまで苦しめたし、これからも苦しめ続けるという事が。それでも私は構わない。貴女はとても美しく、賢いし、大らかで情熱的だから。貴女は確かに少しだけ間が抜けていて、時々とんでもない間違いをやらかす。でもそういう所もとてもチャーミングだ。そう、例え誰もが貴女の過ちを責め、苛んでも私だけは許してあげるから。だから、私にその綺麗な顔を向けて欲しい。振り向いて欲しい。私を見て欲しい。貴女に比べれば卑小な身の私だから、ほんの少しだけ報いてくれれば満足するから。でも、出来るなら聖の居た場所に私も立ってみたい。そこから貴女を見つめ、思うままにしたい。例えそれでどんな罰を受けようとも。
息が詰まるのを感じた。
ご主人。私は貴女の全てを知っているんだ。命蓮寺の皆はおろか、聖よりも。もしかしたらご主人自身よりも私はご主人を知り抜いているのかもしれない。
静かに眠る貴女の顔に手を伸ばしかけ私は一度躊躇い、躊躇いを覚えた自分の怯懦に激しく怒り、その後、聖に嫉妬した。彼女に触れることさえ躊躇った自分が情けなく恨めしい。だが、それ以上に聖が憎い。上下する彼女の胸の上に聖の指が行き交うのが見えるようだった。彼女に触れることには躊躇するくせに、他ならぬ貴女自身から聞いた、行き過ぎる指の影に息を荒くする自分が恥ずかしくて消えてしまいたかった。
私は貴女を愛するにはあまりに卑小だった。私は自らの過ちを思い返す。
貴女の体は犯した罪に紅く汚れていた。あの日、呆然と立ち尽くす貴女の手を引き、私は夜の巷を駆けだしたのだ。私が手を取ると貴女は身を強張らせた。一瞬、私は貴女を疑ってしまった。貴女が私を殺してその夜の罪を無かった事にしようとするのではないかと。それでも構わないと思った。むしろ今となっては殺された方が互いに良かったのだと思う。だが結局、私が殺されることは無かった。あの時、私は祈った。どうか、夜の闇が汚れた貴女を隠してくれますように。
ねぐらに辿り着いて私は貴女の体を洗った。血の汚れがすっかり落ちて貴女は湯気の立つ体で壁に背を預け私を見ていた。虚脱の淵から浮き上がり、その瞳は理性と、深い悲しみに輝いていたね。
あなたはぽつりと言った。
「おしまいですね」
私は強くかぶりを振った。
「終わらないよ、ご主人は終わりじゃないんだ」
「道に外れた行いをしました」
「それ以上に道を全うしてきた」
そこで貴女は私から視線を外し、ありがとう、と消え入るような声で呟いた。どうして? どうして私から視線を外した? ありがとう、なら私の目を見て言ってくれないか、ねえ。
「でも、もういいんです」
私は貴女の方を掴む。貴女は怯えたような目をこちらに向け、引き攣った笑いを浮かべた。私は知ってるよ、このままじゃ貴女はちっとも良くないんだろう?
「ご主人」
私は優しい声音を使って言った。
「大丈夫、この事は誰にも言わないよ」
貴女はその言葉に顔をはっ、と上げる。
私はここまで言って黙るべきだった。汚らわしいデバガメ根性で貴女を患わせるべきでは無かったのだ。けれども私は黙らなかった。
「その代わり、教えて欲しいんだ」
「何を」
続きを口に出すのには時間が掛かった。どういう言い方をすれば良いのか解らなかった。当然だ。どう言った所であの言葉のおぞましさがどうなるわけは無い。そう、私はあの時こう続けたのだ。あの瞬間に貴女に向かって飛びかかり、貴女を自分の物にした方がまだ良かったろう。例え、拒まれたとしても。
「教えて欲しい、聖にどういう風にされたのか」
貴女の顔が青ざめるのが解った。白い肌は静脈が浮くほど白くなり、俄に月影が冴え始めた。羞恥と怒りが少しずつ貴女の顔を赤く染め上げる。私を睨む眼の凄まじさは今でも忘れない。探るような、怯えたやりとりの中で私たちは互いの関係をより歪な物に作り変えていったのだ。それもこれも私の卑屈さ故。おずおずと言葉を吐く貴女は美しく、その事実が互いをより、取り返しが付かないほどに狂わせた。
いかにも私は全て聞いた。聖の指がどこへ行き、どこへ行かなかったのか。また、その指の動きはどのくらい乱暴だったか。どんな言葉を貴女に囁いたのか。貴女が何をして、何をすることが許されていて、何をすることは許されなかったのか。どこを弄ばれるのが好きでどこを弄ばれるのが嫌いなのか。全て。
私は卑小だった。
貴女が過ちを犯し、私もまた過ちを犯した。どうするのが正しいのかなぞ今でさえ知りはしないが。それでも私があの夜、最悪の未来を選び取ったという事ははっきりと解る。
何もかも聞き出した後、私はおずおずと貴女の唇を吸った。貴女の体は隅々まで洗ったと思っていた。けれども、一カ所だけ、洗い忘れていた。紅に染まった貴女の唇、さし入れた舌に血の味が鈍く広がる。
寅丸星
明くる朝、鏡台の前に立ち、両手を掲げた。掲げた手の下でナズーリンの小さな手がせわしく走り回り、帯をぐるぐる巻き付けたり結んだりする。いつもつけている蓮の髪飾りも今日はつけない。私たちは喪服に着替えているのだった。乾いた光の満ちる部屋の中、衣の擦れる音が生まれては消えて行く。
「なあ、ご主人」
「はい?」
ナズーリンは帯を巻き付けながら言う。
「聖は私が必ず見つけ出す」
私はその言葉に哀れを感じた。聖の体はすでに焼いてしまった。いかにナズーリンといえど無い物を見つけられる訳はないのだ。けれども、私は慄然とする。彼女は私と聖の犯した罪を知っているのだ。聖の体を見つけなくとも私に辿り着くかも知れない。あるいは既に私を疑っている? ともかく、私は何か言わねばならない。彼女に嘘をつかねばならないのだ。もし、彼女が全てを知っていても私は茶番を続けなくては。苦々しい想いと共に口を開く。しかし、私の口を塞ぐようにしてナズーリンは言葉を継いだ。
「心配しなくてもいいよ」
そう言って私の腹に巻かれた帯をキュッと強く締める。余りきつく締めるものだから私は軽く息を吐いた。ナズーリンは帯の当たりをパンパンと軽く叩き「さあ、おしまいだ」そう言って私に背を向けた。
慌ただしく朝餉を済ませ参列者を出迎える。流れて行く無数の顔が私を暗澹とさせた。これだけの人数を私は欺かねばならないのだ。
その中には燐もいた。黒いドレスは無数の襞が付いていて喪服には些か華美に過ぎると思った。けれども私はそれを不満には思わない。彼女が来てくれたことがたまらなく心強い。危険の二文字が頭に浮かんだが構いやしなかった。このままだと自分の罪が発覚するよりも先に罪に押しつぶされてしまいそうだった。一緒に担う人が必要だった。
「惜しい人を亡くしたね」
白々しい、私は恨むような視線を向け顔を伏せる。嘘を吐くことに疲れ始めていた。その事を察してか燐は低く笑みを漏らし、当たりを伺う。
「うまくやんな」
私の頤に指をやり、顔を上げさせると彼女はそっとキスした。湿った音が秘めやかに頬を撫でる。耳朶を噛むような囁き。ハッとする間に彼女はドレスの裾を一際大きく捌き、そして消えていった。
いつかの様に残された口付けが頬で微かな熱を持っていた。優しさかしら? 車中の出来事と照らし合わせ私は考える。なんにしろ今度の場合、悪い気はしなかった。頬にやった手が愛おしげにわななく。
本堂はいつのまにか人で溢れかえっていた。数え切れないほどの沢山の視線、それが私に注がれている。それぞれの思惑を持って。私はその事を考え、目眩を感じた。うまくやんな。燐の言葉を胸の中で繰り返し、自らを奮い立たせる。例え相手が誰であれ、欺き、手懐ける。袂に隠した聖の魂の入れ物を衣の上からそっと触れた。誰であれ、出し抜いて私は聖を手に入れるのだ。不遜に過ぎる想いを抱いて私はゆっくりと口を開く。その背を仏の似姿に見つめられながら。
仏の教えが空虚にあるなら私の紡ぐ言葉達は見事にそれを体現していた。
それから時が経った、と言ってもそう長い時間では無い。具体的に言うならば一週間程か。夏の気配が軒の風鈴を鳴らす。一週間という時間は聖の死が巻き起こした色々の物事を、とりあえず表面の上では、終息させるに十分だった。むろん聖の死は皆の心に暗く影を落としている。他ならぬ私自身にも。死、私は聖の表面を指で優しく撫ぜながらその言葉の意味について考え、青い石を掌に載せる。死の重さを量るように。聖は今も私を見ているだろうか。生の本質が魂の存在で生きると言うことがまさしく肉体に魂の宿っていることだとすれば、聖は今、生きているのでは無いだろうか? その魂を青く、冷たい宝石の中に宿して。私はもう一度、石を愛撫する。ただ一通り触れるのでは無く、昔、聖にされたように乱暴な手つきで。頭の奥に微かな熱が反響するのを感じながら。足下で水を張ったタライが高い、濁った音を立てた。私が足をばたつかせ、水が動く度に錫のタライが音を立てる。
「素敵な品だね」
私は袂に聖をしまい込む。咄嗟の事で私は声の主さえ判じかねた。振り返ろうと首を巡らせる。それを阻むようにしてナズーリンは後ろから私の肩を抱き、囁きかけた。今、私の視線を浴びているのはナズーリンだった。
「見せてくれないか? ねえ、ご主人」
ナズーリンは素早く、そして器用に私の懐に手を差し入れる。私が身を固くし、拒むとナズーリンは悲しげな視線をこちらに向け、口を歪め笑った。目と口の表情はまるで食い違っていてその様はいかにも哀れだった。ただ、罪の意識が彼女を哀む気持ちを吹き飛ばしてしまった。私は青ざめていた。
「ご主人、少し散歩をしよう」
ナズーリンは下駄を二つ、地面の上に放り出しそれを履いてすっくと立った。それから彼女は私の前に跪き、私の足をタライから出して手ぬぐいで丁寧に拭いた。そして私の足に下駄を履かせ言う。
「少し歩こう、ご主人、いつかのように二人きりでね」
逃れる術は無かった。私は促されるまま歩き出す。飛石の上で下駄の歯がカランコロンと鳴る。その音さえ私をおびえさせた。私たちは歩く。千種の色に咲く夏の花に彩られ日盛りの庭が艶やかに匂っていた、色彩のきつさが微かな目眩を誘い、土の上を一歩、二歩と踏み迷う。意識が夏の日射しと蝉の声に溶け行くように思われた。
花盛りの庭が過ぎ行き。木々が私の上に影を落とす。やがて暗い森に行き着いた。木々の落とす影に足を踏み入れた瞬間、自分が異域にいるのだという事がはっきりと感じられた。湿った空気には土の匂いが混じっていた。葉が風に揺れる音に混じり、幾千の虫たちが羽化する音が聞こえるようだった。微かに落ちる木漏れ日は明るいが手をかざせば燐光のように温度を失っている事が解る。私は人喰いだった自分を再体験した。得物を待ち受けるのにぴったりの灌木。日陰の中に腹ばいに身を伏せると土はひんやりと冷たく乾いていた。身じろぎすると灌木の葉がカサカサと音を立てる。得物を見つめるときには時折、その灌木の葉が青い匂いを発していた。やがて、あばら骨の間に血が、肉が、内臓が湯気立てて匂う……強い香りが鮮々と花開き、私は貪った。
「涼しいだろう?」
ナズーリンは振り向き、私の衣の肩口に手を掛けながら言う。自分の頬に熱を感じた。赤みがさしているだろうか?
「少し、寒い位だね」
ナズーリンの指が私の肌を撫でる。彼女の指の熱が私を驚かせた。彼女の指が私の肌をつ、と過ぎる度、私は空気の冷たさを意識した。
「聖の事はまだ好きかい?」
私は答えない。言葉を紡ぐ余裕など有りはしなかった。
「私の事は?」
影と湿気の中を沈黙が貫いた。ナズーリンは私の瞳を覗き込む。切実、とはこう言うことを言うのだろう。私は彼女の瞳に火が宿るのを見た。切実という言葉の手触りはどこか冷たい。けれども人の心に宿る切実は炎の形をしている。
「解りません」
瞳の中の炎を前にして私は真実を告げた。どこまでも曖昧な真実、或いは逃げの一手。嘘を吐く事とは私が己を許せるか否かのただ一点において異なっている。これ以上自分を責め苛むのは何としても避けたかった。
ナズーリンは静かに肯いた。そして、一度伏せた顔を上げた。彼女は涙を流していた。涙に汚れた顔で彼女は笑う。不意に強い力が働き、私は地面に押し倒された。聖にされたときのような衝撃は訪れなかった。私は片手の指で地面を掻く。森の土は栄養があり、柔らかく、匂いに満ちていた。顔を少し傾けるだけで土の匂いを胸一杯に吸い込めそうだった。けれどもそれは出来ない。ナズーリンは私を放さないだろうから。口付けが入り込んできた。彼女は優しく、弱かった。
「嫌いになってくれても構わない。でも、許して欲しい。少し、暴れても構わないよ、聖にそうしたみたいに。けれどもできれば私を好きになって欲しいんだ」
彼女はその指先で私の体をなぞりながら、耳元で早口に捲し立てた。
「聖が羨ましかったよ。でもね、私はできれば、できれば貴女のようになりたかったんだ」
私はナズーリンの背を抱いた。力を入れすぎた指先が柔らかな肌に食らい込み、彼女は華奢な体を震わせる。そのまま少し腕に力を込めると彼女の骨は軋み始めた。もう少し力を加えれば彼女はばらばらになってしまうかも知れない。彼女もその事に気づいたのかさらに激しく身を震わせた。跳ねた、と言っても差し支えないくらいの大きな身震いだった。彼女の表情はその瞬間、つまり、ばらばらに砕けてしまう瞬間を待ち望んでいるかのよう。彼女の目から涙が零れ、滴り落ちて私たちを汚していく。
私はぼんやりと夢の続きを思い返す。全ての始まりになったあのサーカスの夜を。
「少し、風に当たっていきます」
私は口を開いた。人間と熱が生温く流れる中をナズーリンと歩いていたときの事だ。ナズーリンは微かに逡巡したが結局それを許した。
人の群れを離れ、無数の体温から距離を置くと冷たい夜気が肌の上にしんと重なる。皮膚が温度を失うと、体の芯を支配する熱がより明確に感じられた。私は明らかに昂揚している。猛獣使いの女が私に異常な緊張をもたらしていた。その緊張は期待に起因するものだ。しかし、何を期待しているのか全く自分でも計りかねている。
朦朧とした中をそぞろ歩き。私はあの猛獣使いの女と出会った。そして、私は彼女を試したのだ。彼女があの獰猛な二色の獣を所有するに足るかを。街灯の無い路地で私は彼女の肩を掴み、噛んだ。溢れる血汐、牙が無数の筋繊維を貫き、切り裂く。彼女はあっさりと死んだ。肉をごっそりと奪われ、首筋から夥しい血が流れていた。私は頬の中の肉片を咀嚼し、はき出す。肉片は柔らかく、不味かった。だが構いはしない。私は彼女を喰うために殺したのでは無いのだから。聖の不在が呪わしく思われた。この女が聖ならば私は今、どうなっていただろう? 私にとってその事を想像することは恐ろしくも魅惑的だ。私と聖の関係はいつだって体の痛みと所有される快楽に彩られていた。
こうして記憶を手繰ると私の心にあの日の熱狂が蘇ってきた。私はナズーリンの背に強く、爪を立てる。皮膚を破る感触がつぶさに感じられる。ナズーリンはただ黙って私の体をまさぐり、愛撫する。押し殺した苦痛を綺麗な顔に浮かべながら。指の先が暖かな血で滑るのを感じた時、私は思った。彼女は弱すぎる。私を愛するには。そう思った途端に指の先からふっ、と力が抜けた。
彼女は私を傷つけず、私もまた、彼女を傷つけない。
それからも夏は続いていた。これからしばらく続くだろう。太陽が大地を熱しきる前の時間。まだ、空気が水色に霞んでいる内に私は寺の境内を掃き清め、水を打った。その後にご本尊にお経を上げ、雑事が終わる。聖の死後も私の生活は特に大きくは変わらなかった。ナズーリンとの関係は続いていた。昼間は行に勤しみ、夜は、ときどき私を訪う小柄な少女の相手をする。そうして日々が過ぎていった。
聖を火中に投じ、私は一体何を得たのだろうか? 私はあの、青い首飾りから少しずつ、興味を失っていた。
そうした日々を変えるため、私は地底へ向かった。或いは共犯者に会って、罪の熱狂を思い出したかっただけかも知れない。或いはただ単に、もう一度会いたいと思っただけかも知れない。
地底へと通じる穴、見下ろすと風が逆巻いているのが解る。侵入者を拒むように空気の塊を上へ、上へとはき出していた。私は心を決め、点状の闇へ身を躍らせる。重力が作用し、私の体が落下を始めた。ひんやりとした空気が確かな堅さを持って頬に当たる。逆巻く風の中を泳ぎ切って広い空間に出た。
地底に来たのは初めてだった。がらんどうの空間は意外にも明るく、無数の石筍に飾られた地底世界を高みから見下ろすことが出来た。闇が視界を閉ざすまで岩盤が続いていた。彼方には街の灯りが煌めいている。夜の巷を私は連想した。地底に住まう彼らは太陽を捨て、昼間に別れを告げたとき、同時に夜とも袂を分かったのかもしれない。街の灯りを見つめているといきれに満ちた喧噪が鼓膜に伝わるようだった。湿気が街の灯りに暈を被せ、六角形に輝いている。
「下りて来て」
足下からぴしゃりと飛んだ声が私を竦ませた。いらだたしげな声の元を見やると金の髪を持つ橘姫が橋のたもとに佇んでいた。白い肌、珊瑚の唇、蝶の羽を思わせる耳の形、全てが整っていて美しいのに彼女の目玉の下には得体の知れぬ嫉妬が恐ろしい影が差していた。その上では緑の瞳が疑念と嫉妬に醜く燃えている。彼女の瞳に私は竦んだ。爛々とした嫉妬の色が私を竦ませた。
私が橋の上に降り立つと朱塗りの橋桁に身を預け彼女は問いを口にする。朱い柱に預けた細い腰が婀娜っぽく湾曲し、肉の下で骨の軋む音が聞こえた気がした。
「どうしてアンタみたいなのが地底に?」
「答えなければいけませんか?」
私が睨み付けると彼女は細い頤に手を当てふん、と笑い「一応、ここの番人なんだがね」と毒づいた。
「そんなことより貴女」
彼女は橋桁から身を離し私に撓垂れ掛かった。私はその場から動かなかった。その様に彼女はけたましく笑い「色女、妬ましい」そうぽつりと呟いた。彼女は暫く私の胸に鼻寄せていた。
「嫉妬の匂い……移り香」
私は彼女から身を離した。彼女は緑の瞳で私を見上げ再びけたましく笑う。瞳の底に炎を映したような輝きが溢れた。その光の凄まじさに私は彼女を突き放す。彼女は一瞬、身を庇うような仕草を見せ、こちらを睨み、しまいには再びニタリと笑うのだった。
「さっき、同じ様な匂いを嗅いだわ。あんなに嫉妬されるなんて妬ましい。どこへでも行っちゃえば良いのよ」
そういって彼女は私を追い払うように手を打ち振る。
私は彼女に背を向け、旧都は地霊殿へ向かった。
旧都は予想通り賑やかだった。見上げれば幾千丈の闇が広がる地底の中で人々は盛んに飲み、食らい、笑っていた。
目抜き通りを抜け、私は地霊殿を今一度見上げた。目の前に聳えるゴシック様式の邸宅は住居と言うよりは聖堂に近い外観を有している。彩りのない、灰色の花崗岩のあちこちをステンドグラスが飾り、その上を絖地の闇が覆っている。ステンドグラスの数については殆ど装飾過多と言えるほどだった。色とりどりの硝子に飾られた地霊殿はどこかサイケデリックで今様の神を奉る神殿にも見える。
門柱には地獄鴉が一羽とまっている。門番のつもりだろうか。私が顔を向けると地獄鴉は頷くように頭を下げた。
地獄鴉は静かに翼を玄関に向けた。私は門を押し開ける。青銅で出来た格子の門は冷たかった。格子状の冷気が手のひらに刺さる。格子を握る手は火照り、汗に濡れていた。
石畳の上に私の靴音が高く鳴った。
紫檀の扉、真鍮のノブが鈍く輝いてる。扉を開けると目に入ったのは黒と白、二色の市松模様の床だった。窓際にはドライフラワーの束が吊され紫に匂っている。部屋の真ん中、テーブルに面した椅子で編み物をしていた少女が蝶番の軋む音に気づき顔を上げる。
「あら、いらっしゃい」
菫色の髪、病的に白い首筋の周りを朱の管がほっそりと巡っている。管は彼女の胸元で朱い塊に繋がっていた。朱い塊、表面はどこかぬらりと湿った質感が見て取れた、南国の蛇を思わせる朱い肌がアーモンド型に裂ける一点に目玉が嵌まっている。ラベンダー色の視線におののいてから私は彼女が古明地さとりであることに気がついた。こころの中を見つめる虹彩が疎ましげにこちらを睨んだ。
「お初にお目に掛かります。あの」
お燐、そう言いかけて口を噤む。私は彼女をなんと呼んでいたのだろう?
「お燐」
私はそう発音した。唯一の罪の共有者、私の恋人。
「お燐に逢いたいのですが」
こちらを見つめる胸元の眼とは裏腹に古明地さとりの視線は穏やかだった。縫い針をテーブルに置き、息をつくと「お燐の言ってた人ね」と嬉しげに独りごち両手をパチンと打ち合わせる。
「今、お茶を淹れるわ」
火焔猫燐
お寺サンってのは気味が悪いな。アタシは目の前の伽藍を見上げ、そう感じずにはいられなかった。脇にある墓場から微かに流れてくる死体の匂いは確かに魅力的だが妖怪であるアタシにとって寺というのはどうしてもうすら寒い物を感じずには居られない。いつだか、死体欲しさにここの門徒になろうとした事があった。今ならそんな事は絶対にするまい。そこまで考えてアタシは笑った。苦い笑いだった。ふと、自分がここの住職を「お迎え」した事を意識していることに気づいたのだ。火車猫のお燐が死体泥棒にビビってるのかしら? あるいは、星と罪の意識を共有しているのかも知れない。彼女との関わりの中でアタシは死体泥棒を罪と認識してしまったのかも知れない。もし、それが正しければアタシは自分の本質を危うくしていると言うことだ。寅丸星との関わりの中で。不吉な予感が胸に広がる。今度は笑わなかった。それでも構やしないけどね……
そろりと足音を殺して歩く。妙な考え事さえしなけりゃ音を立てたりはしない。星には惚れた弱みかあっさり見つかったが。それでも、本調子じゃ無いことを自覚してるから砂利とか、音の経ちそうな所は避けて通る。耳をそばだて気配を探しながら幽霊のように歩いた。どうやら星はいないようだった。
あれから一週間と少し。アタシたちの、一種の絆と言えるもの、が風化してしまうにはまだ早い。まだ焦るべきじゃないのは理解している。だが、アタシ自身も消耗しているのだ。どうにかして彼女と逢い、安心したかった。まだ彼女が手の届く所にいることを確認しておきたい。幸運が彼女を手の届く所に置いてくれた。正確には、ひっかかりを作ってくれたと言うべきか。星はあの尼公を現世に止たかった。あの姐さんはどうあっても天国には行けなかったのだ。業の深さ故に。さとり様がアタシにあの仕事を命じたときの嫌そうな顔! さとり様はアタシが星の事を好いていると知っていた。そしてアタシはさとり様のあの表情を見て思ったのだ。さとり様に一泡吹かせてやれるかも知れないって。もしそうだとすればまさに一石二鳥って訳だ。いや、三鳥かな? 仕事は片付く、星といい仲になれる、さとり様を出し抜ける。そう、さとり様にはいつもいいようにされてばかりだった。確かにさとり様の事は大好きだがアタシはやられっぱなしが大嫌いなのだ。二人を同時に愛するなんて不潔かね、でも、猫には命が九つあるんだから心が二つくらいあったって不思議じゃない。虎はどうなんだろうね。星は真面目そうだから二人の相手とよろしくやるなんて事はしなさそうだねえ。
自分が物思いに耽っている事に気づきハッとする。やっぱり本調子じゃ無いな。アタシは退散する方向で心を決め、踵を返した。
山門を出て杉の林に入る。木漏れ日が地面をまだらに染め、四方で蝉が命を震わせ鳴いていた。纏わり付くような声が夏の暑熱を一層強く感じさせる。林を抜け、陰と日向の境界が目の前に迫り蝉の声が背中を震わせる中、アタシは少しウンザリとした。意を決して麦わら帽を被り直し、陰線を越える一歩を踏み出したときアタシは軽く目眩を覚えた。動悸がした。頭蓋骨の中で脳漿の中に浮かぶ脳みそがクルクルと回り出す。
緊急事態、って奴だな。平野の少し高くなったところ、その稜線を越えて現れたのは寅丸星の目付役、ナズーリンだ、命蓮寺でも屈指の切れ者、凄腕のダウザー。うまくない事になったもんだ。どうしようか、帽子を目深に被ってやり過ごす? いくら何でも無理がある、隠れるか? どこに? 杉林まで引き返して身を潜める? 不自然すぎる、第一、もう相手の視界に入ってる。頭の回転が臨界点に達し、猛烈なスピンが安定をもたらした。つまり、開き直った。アタシはお気に入りの歌、酒場とかでよく歌われる類いの奴、を口ずさみながらナズーリンに向かってゆく。交差する瞬間にアタシは帽子の庇を摘み、軽く持ち上げ、小さくお辞儀した。遮られてた日光が眼に当たり一瞬だけ世界が白々と燃え上がる。
野に通った一本の小径を互いに歩く。確実に距離が縮まって行き、ようやくアタシたちはすれ違った。その一瞬に彼女の瞳を見た。化け物の眼だ。もっと違う何かだったものが化け物になってしまった、彼女の瞳にはそんな趣があった。無言の一瞬に溢れた無数の怨嗟にアタシはちらりと振り返る。彼女もハッ、とこちらを振り返った。目が合ってアタシは爪を出し、戦いに備える。来るなら来い、身の程を思い知らせてやる……意に反してその瞬間は訪れなかった。彼女は悲しげな眼をして再び歩いて行った。結局、アタシたちはただ静かに行き過ぎただけだ。アタシは麦わらを目深に被り直す。歌など歌う気にはなれなかった。
地底への道を飛んで行く、アタシは星とこの道を行った事を思い出した。あの日の車は、是非曲直庁から貸与された公用車、アタシは見栄を張ってそれで乗り付けたのだが……しかし、是非曲直庁が外部に備品を貸与することは珍しい。さとり様があの時、アタシに嫌々命じた。恐らく、あれはさとり様の人選では無いだろう。選んだのは恐らく、是非曲直庁。自分で言うのも何だが腕っこきの火車だったからに違いない(ヘマをしかけたが)。さとり様が断れぬほど強い圧力が、しかも人選まで指定で、是非曲直庁からかかったと言う事だ。偉い人の事情は知らないが聖白蓮はそれほどの大物だったのだろう。事実、彼女の死体は凄まじい量の金と砒素と、その他の数えればキリが無い程多くの副産物を生み出した。彼女が強大な人物だったと言うことは容易に窺える。聖白蓮とはどんな人物だったのだろう。アタシは微かな興味を覚えた。
朱塗りの橋でアタシは我に返った。とっくの昔に枯れた川を見つめて橘姫が佇んでいた。彼女はこちらを振り返るとあら、と声を上げた。
「どうしたね、ずいぶんゴキゲンじゃ無いか」
「そう言う貴女は随分、疲れてるのね」
「まあね」
「今日は素敵な日よ、千客万来、おなかもずいぶん膨れたわ」
「そりゃ、結構なこって」
大方、だれかの色恋が縺れてるんだろう。アタシは手をヒラヒラと振りながらその場を離れた。
旧都に辿り着き、酒の匂いを嗅ぐと酒場の仲間の顔が蘇ってきて、ふと、一杯引っかけていこうか? などと考えたが、考えた途端にくたびれたのでやめておく。地霊殿の自室に引きこもってダラダラと過ごすことにしよう。地霊殿に辿り着き扉を押し開けエントランスに入る。音に気づいたさとり様が文庫本から目を上げ、掛けていた眼鏡をテーブルの上に下ろした。
「ああ、お燐。お客さんが来てたわよ」
酷く、嫌な予感がした。背筋を汗が流れて行く。
「寅丸星さん、もう帰っちゃったけど」
アタシは思わず天を仰いだ。もしかすると、アタシたちは二人そろってドツボに落ちたのかもしれない。
「何か言ってましたか」
アタシは椅子を引き、さとり様の向かいに坐って言った。ラベンダー色の瞳に向き合いながら。
さとり様が底意地悪そうにニヤリと笑う。
ナズーリン
指先に鋭い痛みが走って私は我に返った。すり減った爪の先から血が滲み玉になっている。私は親指から口を離した。自然に俯き加減になって視野には畳の目が一杯に広がる。い草の上を点々と血が滴っていた。紅が畳の上を躍り、互いの色彩をよりきつい物へと変えている。褪せた緑が一滴の血で燃え、鮮やかさを取り戻した。
がりがりがり、痛みをはっきりと知覚しても指を囓るのをやめれなかった。鼠の性か、仕方が無いね。このまま親指を囓り続けてすっかり胃の腑に納めてしまったら、ご主人、貴女は私を哀れんでくれるでしょうか? 恐らく貴女は私を哀れんで、悲しんでくれるでしょう。通り一遍の慰めも口にしてくれるかも知れない。そう、私はいつも貴女の哀れみを受けて生きてきた。今ならば解る。貴女は私を同等の存在として見たことなど一度も無かったのだ。貴女は哀れみながら私に怒り、哀れみながら私を抱いた。もう沢山だ。私が聖と貴女の関係を詮索した時、一度だけ私に向けてくれた視線。燐寸の炎のように一瞬でフラットなそれに変わってしまった激情。あの瞬間、貴女は私を掛け値無しに私を私として見てくれたのでしょう? もう一度あの視線を振り向けて欲しい。
瞼の裏には瞬間が焼き付いていた。日盛りの小径、炎熱、ダークグリーンのシルエット、火焔猫燐。一瞬の交錯の内に全てが解け、一つになった。そう、私が知っていたのは聖の魂の在処、それだけだった。どのような経緯で聖が石の中に魂を燃やしているかなど知るよしは無かったのだ。私は満足していた。もう一度ご主人の弱みを見つけられたことを。私にとって大事なのはご主人を振り返らせることであって真実など別に気にもならなかった。だが、今日、中天を灼く太陽を浴びながら私は真実を悟った。ご主人に手を貸したのは火焔猫燐だったのだ。そして、想像したくも無いが、ご主人とあの火車猫は互いに好意を抱いている。でなければリスクを冒してここまできたりはしないだろう。だが、火焔猫燐が一方的にご主人に好意を寄せていると言うことも十分あり得るはずだ。そうであればどんなに良いだろう。きっとそうだろう。ご主人が火車猫なんかと通じる筈が無い……それなら私を見てくれたって良いはずなのだ。そう、その好意は私に向けられたって良いはずだ!!! 解っている。幾ら言葉を並べても現実は爪の先程も揺るがない。そうだ、つまるところ、私は何も手に入れていない。それが現実だ。あの火車猫が全てを横から掠め取っていったのだ。許せない。あれは私にとってこの上も無く貴重なチャンスだったのに。あの女が掠め取った。どうして冷静でいられよう?
ふらりと野に出れば、互いを呼ばう虫の声が割れんばかりに響き渡る、無数の残響が頭の中で跳ね狂うのが感じられる。夜の鳥が影だけで行き過ぎ不吉な声だけを残して消えた。風は夜の野をざわめかせ、じっとりと湿った私の首筋を冷やす。土を踏みしめただけの粗末な道を暫く行くと雨が降った。初めは土の面に斑点が描かれ、やがて雨が独特の匂いを放つ。気付くと私は泥濘の上を一人歩いていた。火照る体に冷たい雨が心地良かった。
地底に繋がる縦穴を抜け、雨から逃れた後は自分の体が濡れていることを強く実感させられた。髪の先、袖、裾、あらゆる所から滴が滴り私の行くところに小さな水たまりを作る。水を吸った衣服が重たく私に纏わり付いた。
恐らく、恐らく私は火焔猫燐を殺しに来たのだろう。
ようやく私は自分の目的をハッキリと認識した。けれども何かが変わったわけでは無く、私はただ熱に浮かされたように歩みを進める。高い、不快な金属音を曳きながら。私はダウジングロッドを引きずっていた。金属の棒が岩場の上で音を立てる。
私は枯れ川に行き着いた。それは地平線を越え、際限なく伸びている。命の気配は無く、かつて透明な流れがそこを満たし、澱みに魚が憩ったとは想像できない。がらんどうの大きな溝。その上を赤く橋が架かっている。
一歩、橋板の上に歩みを進める。乾いた橋板に私の足跡が黒く残った。立ち止まると零れる水が影のように私の足下を浸す。私はびしょ濡れのまま抱き留められていた。抗おうとは思わなかった。
金色の髪が視界の端で揺れ、花橘の香りを運ぶ。
「こんばんわ、濡れ鼠のお嬢さん」
静かな、優しい女の声が肌をなぞる。グリーンの瞳を見る必要は無かった。重たい雨の匂いが花橘の香りと混ざる。全ては台無しになるのだという事がぼんやりと感じられた。
「私はね、貴女の神様よ」
私は振り向かず、ただその声だけを聞いた。
「まずは、回れ右。貴女じゃお燐には敵わないもの。貴女は何もしなくて良いの。憎い相手はきっと死ぬわ」
寅丸星
私は杯の中身を一口啜り、その酒の強いことに顔をしかめた。その様を横でお燐が楽しげに見つめている。
「地底の酒は強いでしょ?」
私は苦く笑い、口を拭うと辺りを見回した。騒々しい店だった。天井では煤けたランプがくぐもった光を放っている。喧噪の中には音楽の断片が聞き取れるが、哄笑と罵声にかき消されどんな曲なのかも解らない。私はその中で木の丸テーブルを挟みお燐と坐っていた。二階の人々が吹き抜け越しに私たちの居る一階にチラリチラリと視線を送るのが時折、見て取れた。
「二階が気になるみたいだね?」
私が答えに窮するとお燐はすっくと立ち上がり手を差し伸べた。「見せてあげるよ」お燐は飲みさしのグラスに手を伸ばし、グイと呷って歩き出した。階段を上って私は、一階からでは手すりに遮られていた、二階の人々が互いに愛撫したり、囁き交わしていた事に気がついた。お燐は壁に並んだ無数のドアの一つに手を掛け、引き開ける。中に居たのは裸の男女だった。お燐はただ「邪魔したね」とだけ言って閉じると、隣のを開ける。
「さあ、中で飲み直そうじゃ無いか」
お燐は小首を傾げ、こちらを誘った。
世界は白を一刷けされ、大いに燃え上がっていた。火車の炉を前に私は酩酊し、その上、少し疲れていた。頭がぼんやりとしている。お燐と呑んだ酒が大分効いているのだ。炎の熱に血管が広がり、脈打つ。その度に酔いはアルコールをくべられ若返るかのようだった。寝床の中でお燐に私は仕事場を見せて欲しいと頼んだのだ。私の願いは二つ返事で聞き入れられた。店を出る時、「内緒だよ」と念を押されたが。
「どうだい、アタシの仕事場は?」
「素敵」とだけ答えた私はただ炎に見入っていた。一歩、また一歩と歩みを進める。炎の熱は更に強くなり、降りかかる火の粉が鈍麻した感覚の上を跳ねる。大きな穴から覗き込むと巨大な炎を上から見ることが出来た。紅蓮、紅の蓮の様だった。炎が炎の上に影を落とし、火の端は花開くと瞬きする間に萎んで閉じる。それら全てがくっきりと見て取れた。危ない、と制止するお燐を抱き締め、口付けする。唇を離すと涎の糸が炎の色に染められ、光っていた。圧倒的な光量が世界を白らに染める。肉体に注ぐ熱が罪と暴力と愛情の手触りを肌から掘り起こす。私はさらに強くお燐を抱き締めた。あらん限りの力で。そして、跳んだ。炎に向かって。凄まじい苦痛の予感に私は総毛立った。
私たちは重力に引かれ、落下を始めた。私は上になり、下になり、回転、錐揉み、炎に向かって墜落する。お燐のドレスが風にはためき鮮やかだったがそれも一塊の炎に変わる。
あとはただ、身を嬲る炎の激しさだけが感じられた。今や私もまた炎の塊でしか無く、両の掌を開いても在るのは炎ばかりだった。私はとても満足だった。
さすが脳をつかさどる坊主ども。むしろこの生臭さがくせになりそう。
お燐の一人称は「あたい」だけど、「アタシ」でも違和感はない。
ただ西洋のドールのような美しい文体は、聖の死を中心とした血生臭い愛憎劇を綺麗に修飾し、ついつい読み終えてしまった。
言葉にするのが難しい
全体的にインモラルな雰囲気と、それを掻きたてる文体。
憎い相手は死んだけど、結局ナズはなにも手に入れられないんだなあ。
以下、誤字らしきものを。
>>膝建ちになるよう促した。
膝立ち
>>聖に手を触れて残った者は
者→物?
>>知る抜いているのかもしれない。
知り抜いて
>>どういう言い方を良いのか解らなかった。
言い方が or 言い方をすれば
残されたナズーリンも可哀想だけど、死ぬつもりのなかったであろうお燐もなかなか悲惨だ。寅丸星のろくでなし。
このように改行の少ない文章は縦書き表示のほうが読みやすい。
色眼鏡のない第三者の目による解説がほしかった気がする。さとり様辺りが適任。
誰もが星に溺れてしまう理由、彼女が魅力的であることをもっと述べてほしかった。
命蓮寺と火焔猫燐ってなんでこんな相性いいんでしょう。
中盤の『蝉が命を震わせ鳴いていた』って素敵な表現だと思いました。
是非曲庁じゃなくて是非曲直庁ですぜ。
ラストに狂言回しとかトリックスターで〆られてもおもしろそうだけど、粛々と終わるのもそれはそれで