「私は〝狂信〟という言葉は間違っていると思うのです」
目の前の青年は、神妙な顔で耳を傾けていた。
その熱心さに心から感謝しながら、私は続ける。
「より正確に言うならば、適していない、と言ったところでしょうか」
「では、近年に度々見られる宗教の問題については、どうお考えなのですか」
すかさず、青年は問い掛けてくる。
予想していた答えとほぼ同じものだった。
「あれも狂信とは言えず、宗教――信仰するという点では、正しいと言うのでしょうか」
「あえて誤解を招く言い方をするならば、そうです。経典や教義、創始者の言葉といった宗教の根幹に心身を傾け、そして実行するというのは、宗教というくくりでは間違っておりません。その大元ともいえる根幹が、犯罪行為、法律や人道に反していたとしても、その宗教としては根幹なのです。傾倒し、実行すべき教えとなります」
青年が息を呑む気配が伝わる。
若干の気まずさを孕んだ沈黙が、場を満たしていく。
「そうなると、宗教とは必要なのでしょうか」
これも、予想したとおりの答えだった。
「あなたのような人の前で、こんなことを言うのもどうかとは思うのですが……」
「構いませんよ、続けて下さい」
「ありがとうございます」
丁寧に、青年は頭を下げた。
「その言い方だと、宗教は人を縛るものにしか聞こえないのです。法律にも反するし、なにより人道的に問題がある。その人の生活を台無しにし、時には命さえも奪ってしまうのは、やはり間違っていると思うのです。例え、それらの行為が教えに則っていたとしても、それで人を不幸にして良いはずがありません。そうなると、他人への危害を賞賛する宗教など、別に無くても良いのではないか。むしろ、無くなったほうこそ良いとも、僕は思うのです」
「確かに、私もそう思います」
私は、簡素なパイプ椅子を青年に勧めた。
礼を言って座る青年の前に、私も持参したパイプ椅子へと腰掛ける。
相対した人と語り合う。
日時や場所、相手との年齢差などまったく関係なく、私はこの時間が最高に好きだった。
「先程も言ったとおり、教えを遵守するのは宗教として間違っていません。例えそれが、犯罪行為に繋がるのだとしても、宗教としては称えられるのです。信仰しているという点ではなんら問題ない。しかしそれは、あくまでその宗教の内側でしかない。宗教として正しいからと言って、法律に反し、人道的なものを蔑ろにしているのなら、それは恥ずべき行為なのです。誇ることなど、それこそおこがましい。そんな教えなど、さっさと潰えさせるべきだと私は思います。社会に反するものを、私は宗教とは呼びたくありません」
「では、それこそが狂信なのではないですか?」
「あくまで私個人が呼びたくないだけであって、信仰ではあるのです。信仰するという一点では、間違っていない」
「……よく分かりません」
青年は、考え込むように顎へと手を添えている。
「よく分からない。狂信と信仰の違いが、いまいち分かりません」
「当たり前です、違いなど無いのですから」
「え?」
「だから私は、狂信という言葉は適していないと思うのです。狂うほどに信じ込む――突き詰めれば、狂信と信仰は同一のものなのです。両者の違いなど、他者からの千差万別の区別でしか成り立たない。先ほどの話にあった宗教のみならず、受け継がれたものに基づいて神事を執り行う私たちとて、人によっては狂信者だと言われることもあります」
「そんなことなど」
「解析不能な現象など何一つ起こらない土地を、だだっ広く無駄に占有し、紙や木材でかたどられた物体をさも有り難げに扱っている。あなたがたは気が触れているのではなかろうか」
思わず苦笑がこぼれた。
「これを面と向かって言われた時は、流石に堪えました」
確かあれは、まだ私が奉職して間もない頃だったと思う。当初はひどく憤慨したものだが、今となってはああいう考えの人も居るのだと、納得している。
青年は口を挟まず、なんとも神妙そうな顔をした。
「ですが、私のような者はまだ良いでしょう。詳しくは存じ上げませんが、僧侶の方々は日々の食事にも制限があると聞いています。その制限もまた、気が触れていると言われることがあるようです。これと言って禁じられた食べ物もなく、飲酒を許されている私などは、まだ気楽なのでしょうね」
「お酒を、飲まれるのですか?」
「奉納されるものがありますからね。飲まずに捨てるのは、日々の食物に感謝することに反しますし、なにより勿体無い。私自身、お酒が好きだったのは幸いでしたよ」
日が傾きはじめ、影が少し伸びている。
晩夏の日差しはまだ暑かったが、夜の訪れは確実に早くなっていた。
「夏は暑く冬は寒い装束に身を包み、境内を清めることにつとめ、まだ見ぬ神様へと奉り拝礼する。確かに、信じない方々から見れば、私は狂っているようにも見えるのでしょう。信仰する姿を、敬虔ではなく胡散臭いと捉われるようになったのは悲しいことです。しかし、それが現代の考えであり、世の中の人々の考えです。近年、宗教による問題が度々起こっていることも大きいのでしょう。宗教、ひいては信仰するということそのものが、疑惑の眼差しを向けられはじめている。分からなくもないことですが、やはり少し辛いものがあります」
「宗教が……すみません、信仰するということが疎ましがられているからですか?」
「それ以上に、信仰している人々まで疎ましがられていることが、私には辛いのです」
居住まいを直す。
きちきちと、パイプ椅子の抗議する声が耳朶を打った。
「氏子の方々、参拝される方々、その人達まで奇異の目で見られているかも知れない。そう考えてしまうのが辛いのです。皆さん、自分の時間、そして家族との時間を削ってまで、神様に奉仕されているのですから。現に、あなたもこうして旅行の途中で当社に、そして神様にお参り下さいました。それが私にはとても嬉しく、だからこそ疎ましがられていると想像すると、辛いのです」
「そんな、僕には信仰心などとても」
「構いません。神社に興味を抱き、或いはなんとはなしにでも参拝して下さったのなら、私としてはそれで充分なのです。もし、そこからまた興味を持たれたなら、さらに嬉しい。なので、こうしてお声を掛けて下さったことには、実はとても満足しているのです。気になったことがあれば、なんでも仰って下さい。浅学の身ですが、答えられる範囲でなら、極力お答えします」
私が言い終えると、青年はさり気なく、そして照れ臭げに微笑んだ。
つられて、私も頬がふっと緩んだ。
「おっと、話が逸れてしまいましたね。失礼しました」
「とんでもない。僕こそ、出し抜けな質問で申し訳ありません」
「いえいえ……では、話を戻しますと」
青年の顔が、再び真剣なものになる。
「狂うほどに信じ込む、と言うよりはむしろ、周りが見えないほどに信じ込む。私としては、こちらの言葉――〝盲信〟といったところでしょうか、こちらの方がしっくりとくるのです。例えば、夏にも冬にも適さないこの装束ですが、古事に基づくとともに、法律にも人道にも背いてはいません。精々、私が体調管理に気を配ればいいだけです。境内を掃除する、清めるということは、むしろ訪れる方々を清々しい気持ちにさせてくれるでしょう。神様も、参拝される方も気持ち良くなるのですから、恥ずべきことなどありません」
そこで一度、大きく息を吸い込み、吐き出す。
どうやら熱が篭もり過ぎてしまったらしい。胸の内に、冷気を孕んだ秋風が舞い込んでくる。その心地良さに深くまばたきをしてから、私は言葉を続けた。
「法律にも人道にも則る、これが大事なのだと私は思います」
青年の瞳が真っ直ぐ向けられている。
「ここを見誤る、若しくは目を向けようともしなければ、その宗教は敬虔なものではなく危険なものとなる。周りが見えなくなり、人々に幸福を与えるどころか不幸を与えてしまうのです。だから私は、それを〝狂信〟ではなく〝盲信〟だと考えている。盲目の信仰は危うく、なにより悲しいものです。信仰する人々もまた不幸にする可能性を孕んでおります。先ほども言いましたが、私としてはそんなことを強いてしまうものを、宗教とは呼びたくありません。言うなれば洗脳でしょう。決して、許されるものではない」
「……ですが、それも宗教としては間違っていない」
「ええ、古来の日本においても、人身御供という言葉があるとおりです。現在の倫理観からではとても実行されないようなことが、時として正しいものだと扱われた。そこに宗教が絡んでくることも、少なくはありませんでした」
「昔話なんかでも出てくる、人柱のことでしょうか」
「現代では考えられないことです」
「確かに、考えられません」
日の傾きが益々強くなっている。
影の増した青年の顔は、翳りまで増したようにも見えた。
「事実として、何となくではありますが知っていました。昔の日本には、そのような風習があったことを」
「そこですよ。大事なのは」
「え?」
青年の面が、ふわりと上げられた。
「昔のこと――あなたが言われたとおりです。人柱、人身御供という風習は、すでに過去のものとなっています。人の命を捧げることが、神事とは呼べなくなっている。つまり、変わったのです。時代の流れとともに、宗教も変遷した結果なのだと、私は思っています」
「宗教が変わる、ですか? しかし先ほど、あなたは古事に基づくことが大事だと言っていませんでしたか?」
「ええ、言いました」
「……矛盾していませんか、それは」
「あれもこれもと、あるがままに受け継ぐのは愚考です。人道にも法律にも則りつつ、同時に古事に基づく道を思案する。これこそが、カミと人との〝なかとりもち〟である私の役目だと考えています。現に、神事の所作ひとつを見ても、年毎に変わっている場合もあるのです。中には、新たな行事を定め、新たな祭祀を執り行いはじめている御社もあります。こういった試みは、様々な分野の方から賛美両論ありますけれど、私は賛成です」
「新たな祭祀……新しいお祭り、ということですか?」
私が頷くと、青年は、感嘆と戸惑いとがない交ぜとなったような、神妙な溜め息をついた。
「意外でした。お祭りというのは、古くから続いているものばかりだと思っていたので」
「大抵の方が、そう言われます。私としては、江戸時代や明治時代が発祥の神事、或いはお社でしたら、あまり現代との差は感じませんね。どこか新しいなと感じてしまいます」
「……江戸時代発祥は、新しいとは思えないのですが」
「平安時代が発祥のものが多過ぎますからね……こういった、一般の方々との認識のずれも、改めていくべきなのでしょう。もっとも、私としてはこういったことも含めて、その違いがまた面白いと感じてしまうのですけれど」
境内に、風が吹く。
湿っぽい夜気を孕んだ風は、肌寒いほどでもない。
だからこそ、心地良かった。
「宗教は、変わります。その時代に則ったかたちで、変われるのです。残すべきものは残し、無くすべきものは無くす。時代に対して変われるからこそ――私は、神道が好きなのです」
「好き、ですか?」
「ええ、好きです」
年頃の娘でも言わないような自分の言葉に、思わず頬が綻ぶ。
「日々の営みに感謝し、人々の安全を祈る。日々の平穏を祈り、人々の生活に感謝する。決して押し付けるようなことはせず切々と、しかし精一杯の感謝と祈願はどうあっても怠らない……そんな、いみじくもあるようなところが、好きなんです。名前も顔も分からない誰かに祈らせて頂けることが、とても嬉しくもあり、喜ばしくもあるのです」
しばらく腰を据えていたパイプ椅子から、ゆったりと立ち上がる。
慌てて立ち上がろうとした青年を、私はなるべく柔らかい仕草で制した。
「本日は」
精一杯の、感謝と祈願を込めて。
「ようこそお参り下さいました」
私は、深々と頭を下げた。
◆◆◆
青年は何度も、見ているこちらが恐縮してしまいそうなほどに何度も頭を下げながら、帰って行った。
橙色の太陽は、今にも山の稜線へと隠れてしまいそうだった。木々の影もすっかり色濃くなっている。昼間は未だに夏の薫りが強かったが、暦では秋である。その気配は、すぐそこにまで歩み寄っていた。
風邪をひかなければいいのだが。
真摯に長話に付き合って頂いたお礼として生姜湯を手渡したのだが、それでも気掛かりだった。当たり前のことだが、季節の変わり目は体調への影響も著しくなる。折角、こうしてご縁があり、出会った人なのだ。
しばし、参道の先を見つめながら、青年の平穏を祈った。
「――言葉にしなければ、聞き届けられないよ」
台風のような貫禄に満ちたその声は、晩夏のこの季節にはそぐわないものだった。口調自体は馴れ馴れしいものだったが、声音には犯しがたい荘厳さがこれでもかと滲み出ている。
「カミへの祈願は、その口で紡がなければならない。祝詞は口に出すのが基本だ。そうだろう、東風谷?」
振り返ると、赤を基調とした服に身を包んだ、長身の女性が立っていた。
紙垂を垂らした注連縄を背負い、やや踏ん反り返るかのように腕を組んで、こちらをじっと見つめている。その視線には、私を値踏みするかのような感情が、しっとりと滲んでいた。
「エア祝詞なんて、さすがの私でも聞いたことがないよ。まあ、神有月の集会で提案でもすれば、酒の肴くらいにはなるかも知れないけどね」
含み笑いをしたその顔は、見惚れるほどに整ったものだった。稀代の女傑を思わせる逞しさと、白蛇のようなうねりを持った妖艶さとが、相反することなく合わさっている。
恐らく、その姿を見た人々は、皆一様にこう思うことだろう。
人間ではない、と。
実際、彼女は人間ではなかった。
「失礼致しました、八坂様」
八坂神奈子。
一般の人々はおろか、我々のような神に仕え奉る者でも、滅多に見ることの叶わない存在――〝カミ〟と呼ばれる存在が、彼女である。この社に鎮座し、人々の崇敬を遍く束ねる、畏怖すべき御神体。
それが惜し気もなく、私の前に顕在していた。
「神職の基本である祝詞について、よもや神奈子様に説かれてしまうとは。カミに仕え奉り、カミと人との間を取り持ち、世の安寧を願う者の端くれとして、見苦しいところをお見せしてしまいました。誠に申し訳ありません」
「硬いな、東風谷。それくらいのものを、先程の人間にも見せて欲しかったものだが」
神奈子の目が、きゅっと細められる。蛇のように、油断のならない目だった。
「馬鹿丁寧なだけが、信仰を得る手段ではない。懇切丁寧に、そして真摯に情へと訴えかけたところで、得るものなど雀の涙ほどだ。さっきの人間に、力のひとつでも見せてやればよかったものを……やはり、畏れる心が必要だよ、信仰を得るには」
「足りませんか」
「駄目だね。お前の地道さと根気には驚嘆させられるが、そもそもの絶対量が足りていないのだ。時代と共に、人の精神は科学へと移ろいでいる。そんな人間達から、ひとつひとつ砂金の粒でも探すように信仰を得たところで、私には到底満足のできるものではない」
置かれたままのパイプ椅子へと、神奈子は座った。そういった小さな動作でさえ、威厳を失うことはなかった。
「親しみは、信仰心には化けないよ、東風谷」
「御言葉ですが、八坂様。時代の移ろいは今に始まったことではありません。かの神宮の式年遷宮とて中断した時期もございましたが、それでも後に再開されました。平安、戦国、明治、そういった時代の転換期には、確かに御社を中心とする信仰は存続の危機に陥ってきましたが、それでも今日まで失われずに続いてきたものがあります。むしろ、現代の人々の関心は御社に、そして鎮守の森に傾いてきている。そこから人々の信仰を取り戻すことは、決して無理な話ではないと、私は思うのです」
「思う、ではなく、願いたいのではないか、東風谷」
「では訂正します。私は願っていますよ、八坂様。信仰は絶対に取り戻せると願ってもいますし、なにより信じています」
神奈子の視線は、相変わらずこちらを探るように細められている。
うんざりだという意思表示にも見えたが、私は止めなかった。
「先程の、あの方との会話も聞かれていたと思います。時代が移ろえば、信仰とてその在り方を、わずかにでも変えていく。そんな努力が、私たちには必要なのです。決して大きくなくてもいい、徐々にでも変えていくことが必要だと、私は考えています。だからこそ、今のような時代に、大いなる奇跡を見せつけたところで、人々の心身に訴えかけることはできません。徒に、八坂様の御力を削ぎ落とす結果になります、必ず」
「そうして、この神社をただの観光地か何かに貶めてしまうのかい。あの、訳の分からんパワースポットとかにでも便乗するのかな。言っとくけど、そんな連中が押し寄せたところで、私は神徳を振り撒くつもりは毛頭ないからね」
「八坂様、そうやって聞き慣れない言葉を忌避してしまうのはいけません」
「横文字はどうも苦手でね」
「確かに、観光地やパワースポットという言葉は、その響きにどこか軽いものを感じます。現に、そのパワースポットによって引き起こされた問題もあります。それについては、私たちにとって今後の課題とも言えるでしょう。実例としては、とある御社の御神木がパワースポットとして紹介された結果、その御神木にばかり注目がいってしまい、肝心の御社は見向きもされていない、というところです」
「そら見たことか」
「ですが、人々が御社へと足を運んでいることに変わりはない」
「浮ついた情報に踊らされるような人間から、信仰心を得られるとでも?」
「それでも、その方々は御社に足を運んでくださっているのです。ご自分の時間、友人や家族との時間を削ってまで、足を運んでおられるのです。そういった方々が、御神木しか見ない、御社には見向きもしないというのなら、そこから改善する努力をすることが必要です。御社の成り立ち、御祭神、御神徳、そういったことを少しでもお伝えしていくことが、まず必要不可欠なのです。パワースポット絡みだからと全てに憂いを抱くのは、勿体無いと思っているのです」
「観光ガイドみたいだね、あんたはそっちの方が性に合ってそうだよ」
「江戸時代の神宮には、お伊勢参りというものが伝わっています。八坂様とて何度も耳にされたことでしょう。そのお伊勢参りも、現代で言うところの観光地ではないのですか。そこからの努力があったからこそ、今日の神宮は多くの崇敬を集めているのではありませんか」
「集まるすべての人間に、信仰心があると本気で思うのかい」
「八坂様、その御言葉はあまりにも」
「東風谷」
声は、決して大きくはない。
しかしそこに込められた思いの強さに、私は息を呑んだ。
「お前は、あくまで〝なかとりもち〟だ。カミと人間との間を取り持ち、そのどちらにも傾き過ぎてはならない。〝現人神〟と名乗るだけの素質を持ちながら、お前は決してそうならなかったはずだ。自ら、その道は断ったはずだ」
「現人神など必要ありません」
「だからこそ、こうして言っている。カミと人間、そのどちらにも傾いてはならないと」
境内に、私たち以外の影はない。
「お前は昔から、人を大事にしてきた。どこぞの誰かが怪我をしたと聞けば一心に祈っていた。祈祷の際にも、祝詞を朗々と読み上げ、万感の思いと共に神事を執り行ってきた。優し過ぎるとも思っていたよ。だからこそ、お前は私たちカミではなく、どちらかと言えば人間側に傾いているように、私には思えてならない」
「それは」
殴られたような思いだった。
神奈子が口にしたその言葉は、今まで何度も思い悩んできた言葉だった。
あまり接することのないカミより、幾度となく接する人々へと肩入れし過ぎているのではないかと、散々苛まれてきた。自分には〝なかとりもち〟としての資格が無いのではないかと、悶々としたことが何度もあった。
だがそれでも、古事に則りカミへと仕え奉っていれば、カミとて――神奈子とて、分かってくれるのではないかと期待を抱きながら、今日まで歩んできた。
「それは、八坂様」
よもや神奈子の口から、言われてしまうとは。
「私が、神職として」
「才能も充分、神事の際にも臆さない。人に肩入れしすぎるのではないかという、その一点だけが気掛かりだったが、それでもお前は中々に優秀だったよ。だからこそ、お前を選んだ――現人神には決してならない、そう決意したお前を見た時には、その選択が誤りだったと気付かされた」
ゆっくりと神奈子は立ち上がる。
威厳に溢れており、揺るがない御山を髣髴とさせる。決して揺らぐことのない大山。
今の私に止める術など、あるはずもなかった。
「お前の願いは聞き取れないよ、東風谷。私たちは、幻想郷へ遷る」
何度も話し合ったことだった。
幻想郷――忘れ去られた者が行き着く、楽園の終着点。
こうして顕在し、直接語り掛けられる神奈子だったからこそ、話し合うたびに私は反対した。
声を荒げることはせず、しかし必死に反対してきた。
「住まいの心配は要らないよ。私たちが遷れば、神意もまた遷ろう。意味を失った空っぽの神社だけが残り、向こうには新たな神社が生まれる。そのまま消失してしまうことは無いだろう。ある種の遷宮だろうね、これは」
意味のない言葉だった。
カミの居ない御社は、決して御社であってはいけないのだ。
解析不能な現象など何一つ起こらない土地を、だだっ広く無駄に占有し、紙や木材でかたどられた物体をさも有り難げに扱っている――憤慨した昔の言葉が、耳の奥で虚しく反響する。
そんな空っぽの神社に、人々が参拝する。
参拝者が、千差万別の思いと共に訪れ、頭を垂れる。
「お前の代わりに、早苗を連れて行く。自信過剰なところが目立つが、それもまた悪くない。現人神の件も、喜んで引き受けてくれることだろう。それくらい覇気のある方が、幻想郷には――新天地には必要だ」
神奈子はもう、私を見ていなかった。
境内へと向き直り、これからの計画に思いを巡らせているかのように、視線を泳がせている。侵し難い威厳に満ちたその背中が、とても遠いもののように見えた。
「理系など選んでいることが気掛かりだが、それでも神社で育った血筋は貴重だからな。出来れば文系を選択して、古事や歴史についての知識も養っておいてほしかったが……そういえば、早苗が理系を希望した際、賛成して私を説き伏せたのはお前だったな、東風谷」
「洩矢様には」
搾り出すように言った。
自分のものとは思えないような、しわがれた声だった。
「洩矢様には、なんと」
「伝える必要も無いね。諏訪子は私と違って、とっくに見切りをつけているんだ。勝手に遷っていたとしても、別になんとも思わないだろう」
親しみと敵意とが、ない交ぜとなったような言葉だった。
「むしろ、私より巧くやるかも知れないね。あいつには、そんなところがあるから」
「八坂様、もう少しだけでも」
「無理だよ、東風谷」
やんわりと神奈子は振り返る。
厳かに、そしてそれ以上の硬くなさを込めた視線が、私を射抜いていた。
「もう限界なんだ、ここには信仰が無い」
溶けるように、神奈子の姿が薄れ、そして消えた。
私以外の、誰もが居なくなった境内に、涼やかな風が舞い込む。
夜の帳に包まれ始めた境内は、決して暖かなものとは言えない。凛と張られた清々しさは、かすかに漂っている。
瞬き始めた星々を私は見上げた。
口惜しさも、そして諦めも、零れることはなかった。
◆◆◆
穢れなく。
神職として、私が努めてきたもののひとつである。
とは言っても、それほど特別なことを強いてきた訳ではない。境内、本殿、社務所などの神社内は勿論のこと、私生活の面でも清潔さを保つこと――精々、その程度を心掛けてきたくらいである。特別なことだと感じることは、あまり無かった。
だから、なのだろう。
こうして境内の掃き掃除をしている時は、何も考えずとも身体が動くようになっている。無意識の内に、身体が動いていると言ったほうが正しいのかも知れない。何処か他人事とも思えるほどの心持ちで、視線は自然と下を向き、目立った落ち葉や小枝を見咎めては、せっせと竹箒で掃き続けていく。ただ直向に、しかし、むきになることはなく。
穢れなく、清々しく。
掃き終える頃には、境内は凛とした空気に包まれていた。普段の私ならば、ここでひとつ満足気に息をつき、次の予定に思いを馳せたことだろう。
だがこの日は、そんな気分にもなれなかった。
失意の濁った溜め息が漏れ出そうになるのを、寸でのところで飲み下す。ついでに、脳裏にちらつく神奈子の言葉も一緒に飲み下したかったのだが、残念ながらそれは叶わなかった。しぶとくこびり付き、音もなく私の思考を軋ませている。
景気の悪い顔、とでも言えばいいのだろうか。恐らく、いやほぼ間違いなく、今の私はそんな顔をしているのだろう。あまり眠れなかったことも災いして、今朝、鏡で見た自分の顔は、かなり酷いものだった。たった一晩で、何年も老けてしまったようにも見えた。
境内は、自惚れでなければ、穢れなく整っている。
こうして掃き清めるのは、一体誰のためなのだろうか。ここから神奈子が去り、そして祀るべき存在が遷られてしまった時、この場を掃き清める意味が如何ほどあると言うのだろうか。一番無くてはならない存在が消えてしまった境内を、さもそこに在るかのように境内を清めたところで、誰が幸せになると言うのか。
今はまだ、私の行為にも意味はある。畏れ多くも仕え奉るべきカミは、まだここにいらっしゃる。
だがそれも、もう少しで無くなる。
御遷りになる。
清々しいはずの境内が、ひどく殺風景なものに見えてしまった。
「……おはよう、ございます」
しゃがれた、聞き取りにくい声とともに、小柄な影が通り過ぎる。
のそりのそりと賽銭箱へと歩いているのは、腰を曲げた老婆だった。毎朝、決まってこの時間に、参拝に来られている人だった。
「おはようございます」
老婆の顔は険しかった。
少し遅れて挨拶した私の声に、会釈のひとつも返してはこなかった。
いつもと変わりなかった。老婆は別に怒っている訳でもなく、普段から険しい顔をしていた。もしかしたら、私が険しいと感じているだけで、当人にとっては普通の表情なのかも知れない。会釈を返してこないのも、いつもと変わりなかった。
この老婆のことは、詳しくは知らない。
いつ頃、それこそ十年ほど前から参拝されているはずなのだが、はっきりといつ頃からというのは、どうしても思い出せないでいた。毎朝こうして参拝されているのだから、近所に住んでいることは確かだった。現に、時々の御祭りでは何度か目にもしている。
だが、それだけだった。
それ以上のことは、毎日顔を合わせている私にも、まったく分からなかった。夫だと思しき人を見掛けたことはなく、勿論、子供や孫のような人を見掛けたこともなかった。いつも、こうして一人でゆっくりと参拝に来られている。御祭りで見掛けた際にも、格別熱心な崇敬者という訳ではなく、遠くから眺めているところしか見たことはなかった。
何度か、声を掛けようと思ったことはあった。
実際に声を掛けてみたことも、片手の指にも満たないが、あった。
しかし、返って来たのは言葉ではなく、胡乱気な視線だけだった。私が次にどう声を掛けたものか迷っていると、険しい顔のまま、黙って首を横に振られただけだった。そしてそのまま、二の句を告げられないでいた私を尻目に、のそりのそりと参拝されてしまった。
今でも、その仕草の意図するところは、理解できないままでいる。だから、ひどく見知った人であるにもかかわらず、そのほとんどを知らないままでいる。
――喋りかけられるのが嫌いか、もしくは苦手なのだろう。
そんな当たり障りのない推論しか、思い描けないでいる。
老婆の参拝は、ゆっくりと、そして丁寧なものだった。手水で清め、持参したハンカチで拭い、参道の中央を避けながら拝殿へと歩み寄っていく。これが、老婆の参拝の仕方である。毎朝、老婆はゆっくりと時間を掛けて、参拝されていた。腰を曲げているため、お世辞にも美しいものだとは言い難かったが、滲み出るような丁寧さは、見ているこちらにまで伝わってきた。
歩みを止め、足を揃える。
かすかに背を上げ、そしてかすかに下げ、二礼。
ふるふると手を合わせ、二拍手。
一礼。
腰の曲がったその背中は、力強さなど欠片もなく、今にも砕けてしまいそうなほどに、儚げだった。しばし、そのままの姿勢で老婆の動きが止まる。
ふと、考えてしまう。
このまま神奈子が居なくなり、諏訪子も居なくなる。カミと呼ばれる者が居なくなり、境内を満たす清々しさが空虚しくなる時が、訪れる。腰の曲がった、この険しい顔の老婆の参拝が、手向けられる者の居ない作業へと成り果ててしまう。私などでは知る由もない、老婆の心中だけの願いが誰にも聞き届けられることもなく、途絶えて消え失せる。
祈りが、祈りでなくなってしまう。
来る日も来る日も繰り返されてきた、小さくも尊き御祭りが、喪われてしまう。
信仰が拾われず、朽ちてしまう。
人々の願い。
聞き届けるカミが、居ない。
――それは、あってはならないことではないのだろうか。
眩暈がした。
畏怖ではなく、得も知れぬ悪寒が背筋へと齧り付く。鳩尾辺りが痙攣し、ぐわりと喉元まで込み上げてくる。堪らず目を閉じて、瞼の上から揉み解す。歯を食い縛り、遮二無二、喉を狭めて押し留める。
幸い、不快感はすぐに収まった。幸か不幸か、粗相をするようなこともなく、新鮮な空気をゆっくりと吸い込み、静かに吐き出す。境内の空気が、ひどく美味なものに感じられた。
閉じた瞼に、雫が滲む。揉みながら、掬い取って塗り散らす。
何度も何度も、慎重に呼吸した。
ようやく目を開けた時には、老婆はこちらへと――境内を後にしようとしていた。普段と変わらず、訪れた時とまったく変わらず、険しい顔をしている。こうして見ると、やはり怒っているものに見られたが、同時にとても真摯な表情にも見て取れた。
「あの」
私の声に、老婆の視線がわずかに傾く。
「本日もようこそお参り下さいました」
束の間、老婆と目が合った。
そしてようやく、老婆の険しい顔が怒ったものではないことが、理解できた。静かな、静謐とでも言うべき光が、湛えられていた。
老婆の首が、横に振られる。
「ようこそお参り下さいました」
堪らず、私は笑みを浮かべた。
多分、ひどい笑顔だったに違いない。
くしゃり、と言うよりは、ぐしゃりと言ったほうが正しかっただろう。そんな、あまり取り繕っていない笑みが、浮かんでしまった。
泣き笑いにしか見えない、笑みだったと思う。
「……こちらこそ」
それでも、老婆は答えてくれた。
「毎朝、お参りさせて頂き……ありがとう」
この上なく聞き取りにくい、しゃがれた声だった。険しい老婆の顔の、口と頬とが、もごもごと動いていた。
その口の端が、わずかに上がっている。
深々と、私は頭を下げた。しばらく、地面だけを見つめて、頭を下げ続けた。
やがて頭を上げた時、老婆の姿はそこには無かった。
境内の外、参道の先に、腰の曲がった後ろ姿が見えた。
思っていたよりも、私からは離れていなかった。ゆっくりと、後ろ姿は小さくなっていく。その事実に嬉しくもなり、それ以上に大きなものが胸を満たして、私は口元を手で覆った。
零れ落ちそうな嗚咽は、それで何とか覆い隠すことが出来た。溢れ出る涙だけは、そのまま好きにさせておいた。すると、小さな後ろ姿が滲んでしまい、私は更に泣いた。
はらはらと、子供のように泣き続けた。
◆◆◆
早苗に関しては、幻想郷でも心配ないだろう。
薄情だと思われても当然だが、本気でそう考えていた。誰に似たのか、自信過剰なほどに、早苗は自分に自信を持っている。思い込みも激しく、こうだと決めたら生半可な意見では微塵も揺るがない、それが早苗だった。
理系に進んだのも、そうした本人の性格が大きく関わっている。
神奈子は、私が賛成して説き伏せたのがそもそもの原因のように言っていたが、それは早苗の性格を鑑みての判断だった。あの場で私から神奈子を説き伏せなければ、下手をすれば神奈子と早苗の間に、大きな亀裂が入ったことだろう。
早苗は誰に似たのか。
決まっている、神奈子だ。
才能の開花まで時間の掛かった私とは違い、早苗は幼い頃からその能力を発揮し、神奈子の関心を惹いていた。幼少より頻繁に接せられたことは、私には無かった。その結果、早苗は神奈子を強く意識し、影響されてきた。
二人――この場合は、一人と一柱、或いは二柱と呼ぶべきだろうか。
兎に角、早苗も神奈子も、一度こうと決めたら梃子でも動かないところがある。そんな頑固さは、お互いが同じ目標を見ているなら頼もしいが、別々の目標を見てしまったなら始末に終えない。長所とも取れるが、短所とも取れる、そんな性格だった。
幸い、神奈子も理系の有用性についてはしっかりと把握していたこともあり、説き伏せるのにそれほど労力は必要なかった。そのおかげで、早苗は今、希望した分野を学ぶことが出来ている。そのことが喜ばしくもあり、同時に羨ましくもあった。
――早苗は優秀である。
少々、厚顔無恥なところもあるが、贔屓目を抜きにしても、どこに出したとて恥ずかしくは無いと自負している。これという目標を定め、それに向かって我武者羅に突き進むことに関してならば、揺るぎの無いものだと信じている。そんな絶対的な信頼を、早苗には抱いている。
だからこそ、心配は無かった。
むしろ、早苗が居なくなった後、私が普通に暮らせるかどうかが気掛かりだった。早苗が心配なのではなく、早苗と会えなくなる自分が大丈夫なのか、不安だった。
その危惧もまた、幻想郷へと遷ることを反対した理由の、ひとつだった。早苗を失うことの恐れと、そこからの我が身の可愛さを、私は考えていた。
そういった意味では、神奈子が幻想郷への人選から私を外しているのは、理に適っていた。そんな私よりは、遥かに早苗の方が適任だと、思えたからである。
だが、理解できないこともある。
神奈子が、わざわざここに――外の世界に、御社を残す理由、その一点だけが分からなかった。
そこまで力を割く理由が無い、ということも考えられた。余計なことをしなくとも、神奈子の言葉通りならば、幻想郷には遷る者たちのために新たな御社が用意されることとなる。それならば、外の世界の御社を遷す必要も無い。ただでさえ、神奈子のようなカミの力は、外の世界では弱まっている。徒に力を浪費することは、是が非でも避けたいことだろう。
しかし、懸念も残る。
神奈子は用意周到な性格である。剛胆な外見に反して、蛇のような狡猾さを神奈子は持っていた。そのことは、この地を治めた古代の一件が証明している。行き当たりばったりなところも勿論あるが、それをも含めた大きな保険を用意しておくのが、八坂神奈子というカミの特徴だった。
だからこそ、御社を残すことが、どうにも腑に落ちなかった。
名実ともに幻想郷へと遷る。
すると、忘れ去られた信仰が勃興し、新たな御社が用意される。
その合間が、神奈子にしては早計な気がしてならなかった。幻想郷については、私は外の世界で知ることが出来る範囲でしか、知る由が無い。恐らく、神奈子が知る範囲についても、同程度のものだろう。ならば、ある程度を推量することはできる。
幻想郷が外の世界と隔離したのは、明治の頃だと聞いている。
歴史で言えば、神社にとっても大きな節目となったところである。そこから察するに、幻想郷での神社と、そこに関する信仰や神事は、明治以前の形式を象ったものが色濃く残っているのかも知れない。
しかし、それも神奈子ならば問題ないだろう。むしろ、幻想郷に活路を見出している神奈子のことである。御遷りになった途端、なにか大きな動きを見せるに違いない。
外の世界では科学と証明されるほどの、大いなる奇跡を。
その点は問題ないので、次の考えに移る。
今の幻想郷には、妖怪が跋扈しているらしい。外の世界では人間に忘れられた者たちだからこそ、幻想郷では人間よりも強い勢力を持っているとの話である。人間がどのような生活を送っているのかは分からない。しかし、妖怪には人間の動きを抑え、時には襲えるほどの力を持っていることは、容易に想像ができる。その点が、気掛かりでもあり、懸念でもあった。
神奈子は、妖怪をも信仰の対象にしようと画策している。
真っ先にその考えに思い至ったからこそ、私は声高に、幻想郷へと御遷りになるのを反対してきた。人々の祈りを聞き届けて、カミへと伝える。神職として、〝なかとりもち〟としての信条があったからこそ、人々に忘れ去られ、妖怪の信仰を得ることに、私は真っ向から反対してきた。
選民的と思われるかも知れない。信仰の自由を信じる者として、矛盾していると捉えられるかも知れない。
だが、それでも私には納得がいかなかった。
人にとっての脅威となる妖怪の、信仰を集める。
人々からの祈りに耳を傾けるカミとして、それだけは止めたかった。
御遷りすることを決めた神奈子には、最早なにを訴えかけたところで、意味は無いだろう。遷る時は、既にそこまで近付いてきているに違いない。だからこそ、今は幾分か冷静に物事を考えることができる。
妖怪とは、恐らく精神的な存在だと言える。
物質的なものに依存することが無いことは、これまで精神的な分野を学んできたことで、何とはなしにではあるが、想像できていた。民俗学、宗教学、そう呼んでしまうことで幾分か専門的な知識を要されるようにも思われてしまうが、難しく考えることだけが近道ではない。そんなものだと、納得してしまうことで見えてくるものもある。分野、専門、そんなものにこだわらないことで、至る道もある。
妖怪とは、そういった角度で――精神的な存在だと見るならば、カミにも近しいものだと言えるだろう。無論、神職である私としては、あまり認めたくはなかったのだが。
ならば、幻想郷への御遷りは、危険な賭けだとも言える。
古代の様相を残しているならば、宗教は寛容なだけではない。明治から徐々に変えられてきた謂れを、そっくりそのまま残していることも考えられる。恐らく、神奈子にとっては喜ばしい部分もあるだろうが、同時に危険な部分とて残っていることだろう。
さらに、妖怪が精神的な存在だと考えているならば、神奈子とて油断は出来ないに違いない。最悪の場合、同じく精神的な存在として、カミに匹敵するほどの力を持った妖怪と、対立する可能性もあるのだ。用心に用心を重ねていることは、容易に考えられた。
だと言うのに、御社は用意されていると言った。
その点がいささか無用心ではないかと、私には思えて仕方がなかった。
明治の文明開化によって、全国の御社は管理されることとなった。同時に、その際に管理の行き届かなかった小さな御社が、そのまま無きものとして扱われてしまった可能性も、口惜しいことではあるが否めていない。
仮に、そういった管理の行き届かなかった御社が、忘れ去られた者たちの集う幻想郷には、存在しているのかも知れない。ならば、それを新たな住まいとして御鎮座することは可能だろう。
だが、内面だけで懐柔できるほど、世の中の視線は甘くない。
大変不敬な考えではあるが、仮にみずぼらしい御社を住まいとされたところで、神奈子にとっては逆に不利となってしまうことも考えられる。どれだけ精神的な面で優れていたところで、見た目はどうしても判断する基準となってしまう。
繰り返すが、神奈子は用意周到な性格である。
万が一のことを考えるなら、この御社とともに御遷りになることが、神奈子らしい方法だと考えられた。例え、いたずらに力を浪費する結果になってしまったとしても、結果的には幻想郷へと遷ることに何ら変わりはない。ならば、それを悔やむようなことはないだろう。もし想定どおり、新たな御社が用意されていたとなれば、一緒に遷った旧い御社は、そのまま摂社や末社として扱うことも可能である。そんなしたたかな一面こそ、神奈子らしいとも思えた。
ならば、何故残すのか。
「……私のために?」
「訪れたと思いきや、いきなり独り言かい」
どうやら、知らず知らずの内に目的地へと着いていたらしい。
思わず口にした考えを、取り繕うように首を振って否定する。
神奈子が私のことを疎ましく思っていることは、この数年間で自ずと気付いたことだった。〝なかとりもち〟を信条としている私に、神奈子が良い顔をしたことは一度も無い。ただの一度とて、である。
そんな私のために、残すものなどあるはずがない。
在りもしない答えは、思い浮かべるだけ無駄だった。
「相も変わらず、難しい顔をしているね、東風谷。早苗を見習いなよ、あれくらい馬鹿っぽく真っ直ぐしているほうが、人生楽しいに違いないよ」
「勝手に覗いて、勝手に馬鹿にしないで下さい。私の可愛い――」
「私にとっても、可愛い子孫だよ。あんたも早苗も、馬鹿で愚かで可愛い子孫さ」
「孫の前に、どれくらい〝ひい〟が付きますかね」
「おっと、そいつは聞かないお約束だよ」
けたけたと、童女そのままの笑顔が私を迎える。
境内の片隅、訪れる人もほとんど居ない末社の一角で、その少女は気楽にくつろいでいた。
「冗談でも、諏訪子おばあちゃんなんて呼んだら引っ叩くからね、東風谷」
洩矢諏訪子。
詳しい経緯は省くが、この御社の実質的な御祭神であり、私や早苗の御先祖様にも当たる、カミである。
「でも、昔のほうが可愛かったかな、あんたは。理屈っぽくも一生懸命に話してくれていたあんたのほうが、私は好きだったかね。今のあんたは、ここに来るたびに、信仰のことしか喋らないんだもの」
「申し訳ありません、洩矢様。しかし、やはり私としては」
「納得がいかない、だろう? 残念だけどね、私はたぶん神奈子以上に諦めがついているんだ。今更、その考えを改めようって気には、ならないね~」
「洩矢様は、度々、人々の前に姿を現されているとも聞きますが」
「それとこれとは話が別さ。ただ散歩がしたくなったから、しているだけに過ぎないよ。そこに信仰心なんて求めてもいない、ちょいと話し相手が欲しくなっちゃうだけなんだね~」
くるくると、結んだ髪の房を弄んでいる。仕草だけ見るならば、明るい幼女にしか見えなかった。
だが、細められたその目は、枯れているほどに澄んでいた。
「あんたのご期待には沿えない。悪いね、東風谷」
諏訪子は、既に信仰心を集めることを諦めていた。
それはカミにとっての死を意味するのだが、諏訪子はそれでも構わないと笑いかける一方だった。快活な笑みだったが、幼き日より諏訪子に接してきた私にとって、それが枯れた哀しみとともにあるのだと気付くのに、さほどの時間は掛からなかった。
私は、神奈子よりも諏訪子と接してきた。
幼少の頃から頻繁に、なにより気楽に接して来てくれたことが、原因となっているのかも知れない。そして諏訪子は、神奈子とは逆に、早苗とは距離を置いていた。面と向かって会ったことなど、まだ一度もないと聞いている。神奈子とは、あいつとは逆の立ち位置が良いんだと、諏訪子は笑いながら話してくれた。
そんな諏訪子だからこそ、私は諦めたくなった。
私の、理屈っぽいと辟易されてきた言葉を、さも面倒臭そうな顔をしながら聞いてくれた諏訪子には、絶対に消えて欲しくないと思ったからである。真正面から聞き、時にはそんな私の言葉をたった一言で一蹴してのけたこともある諏訪子には、これからも居て欲しいと願っていた。
正直、神奈子以上に、である。
これもまた、私の身勝手な考えだった。
「ほら、またそうやって難しい顔をする。眉間の皺は跡が残るよ~って、もう遅いかな」
諏訪子が、無遠慮な近さで覗き込んでくる。
一瞬、心臓が早鐘を打った。不快な感情ではなかった。
「神社のために、人間たちと関わるんでしょ? だったら、そんなに怖い顔は駄目駄目だねぇ。不景気な面構えは、それだけで人を遠ざけちゃうよ~」
ぐにぐにと、諏訪子の指が、私の眉間を揉み解してくる。
「あんたは真面目で、優しいからね。蛙狩りにだって反対するくらいだし。真面目なのも優しいのも構わないけど、それで自分が傷付いちゃ本末転倒だよ。まずは自分を大事にしなさい」
母親のような物言いだった。
思わず、小さく笑ってしまうと、諏訪子も合わせたように笑った。
「そうそう、笑顔が一番だよ」
「ありがとうございます、洩矢様」
「いえいえ、どういたしまして。ついでにその〝洩矢様〟って言葉使いも改めて欲しいものだけどね。昔みたく、諏訪ちゃんとでも呼んでくれたほうが嬉しいんだけれど。私も若くなった気になれるし」
「それは、さすがに。あの時は物事をわきまえず、大変申し訳ありませんでした」
「うあー、だからそういうのを止めなって」
諏訪子と話す時は、いつもこうやって時間が過ぎていく。
実りの無い話しをしながら、取り繕うようなこともせずに、自然と会話を交わしている。カミに接する者として、あまりにも不躾なものではあったのだが、諏訪子当人がそうした会話を望んでいたのだから、今ではこれで良いと思っている。
そのほうが、有り難かった。
「この前の、あんたが内緒で持ってきてくれたお酒だけど。美味しかったんだけど、あれはいまいちだったかな。ああいった透き通ったお酒は、どうにも馴染めなくてね、私はもっと力強いほうが好きかな~。ここまでいくと好みの問題だね、値段が高いと美味いのは確かだけれど、それよりも自分の舌に合うものを見つけるのが一番だね」
「諏訪子様が御自分で探されるのが一番なのですけれど、さすがにそれは行えませんからね。また、見繕ってくることにしますよ」
「その点だけは、この見た目が恨めしいかな~。あんたと一緒に行くと、隠し子とか疑われたら世間的にも不味いからね~。人間の噂は怖いからね、井戸端会議だったっけ? 中々、恐ろしいものさ。まあ、私みたいな、かんわいい娘だったら、あんたも満更ではないかも知れないけれど」
「不義は勘弁願いたいところです」
「言うに事欠いて不義と言ってしまうかこら~」
諏訪子は笑っている。
私の懊悩など、まるで知るつもりも無いかのような、からからとした快活な笑みだった。子供のような愛らしさを惜し気もなく滲み出し、だからこそ、それとは相反するかのような包み込む母性さえも感じさせる。
諏訪子には、甘えてしまう。
甘えたくなる存在が居ることは、喜ばしいことだった。それが居なくなってしまうことは、やはり寂しかった。
「それにしても、お酒のひとつでも持ってきてくれれば良かったのに。珍しく、気が回らないね。なにかあったのかな、東風谷?」
またもや、諏訪子の顔が近付いてくる。
その聡いところに、思わず口が緩み掛けたのを、なんとか押し留めた。
妙に聡いところがあるのも、諏訪子の特徴だった。神奈子とは、どことなく違うなと、訳もなく思った。
「ほらほら~、お酒のひとつでも持って来い。でないとミシャグジ様の祟りがあるぞ~」
「御冗談でも、滅多なことを口にしないで下さい」
「勝手なことを好き勝手に口走る。それが神様じゃないか」
「失言ですね」
「私は正直なだけだよ」
急かす諏訪子に促されるように、私は何本かの酒瓶を見繕ってきた。
お猪口を手渡すと、諏訪子は待っていましたと言わんばかりに、手酌で満たし始めた。思わず、酒瓶に手を伸ばした私を、目だけで制してくる。
やんわりとした、優しい眼差しだった。
「ほれ、飲みなさい」
胡坐をかいた諏訪子が、あっけらかんと言う。
既に私のお猪口にも、酒が並々と注がれている。
「たまには、私にもお酌くらいさせなさいって」
「洩矢様」
「あんたとは、これっきりかも知れないからね」
心音が、一気に早くなった。
「なんとなくだけれど……ほんと、根も葉もない勘さ。ま、今生のものだと思って、遠慮なくやっちゃいなって。別に、私の勘なんて当てになるものでもなし、違ったなら違ったで、儲けものだと思っておきなさいな」
「……根拠もないのに、そのようなことを仰らないで下さい。ただでさえ、洩矢様は力が弱まってきているのですから」
「まーまー、硬いことを言いなさんなって。それに、今日明日でくたばってしまうような、やわな身体はしていないよ~。あんたは私なんかより、神社の切り盛りに心血注げばいい」
諏訪子は、お猪口を傾ける。その一息だけで空けてしまい、再び手酌で満たした。
幼女の外見に似つかわしくなく、諏訪子は酒豪だった。
カミは皆一様に酒に強い。
「こんな片隅の私なんか、もっと放って置いても良いんだよ、東風谷」
私のやり方――このお社と、参拝者への応対のやり方を、諏訪子は否定したことがなかった。
そして、賛成することもなかった。
やりたいようにやれば良いと言うのが、諏訪子の意見だった。神奈子のように口を出すこともなく、諏訪子はこれまで、傍観という立場を取り続けていた。
諏訪子にとっては、どちらでも良かったのだろう。既に、人間からの信仰心に見切りをつけている彼女ならば、その反応も自然なものに思えていた。
だからこそ、歯痒くもある。
私は、そんな諏訪子こそ、放って置きたくはなかった。
「おっと、いけないね。私から辛気臭い話しを言い出すだなんて。駄目だな~、これじゃあまるで神奈子じゃないか」
舌を出し、こつりと自分の頭を叩く。
そんな可愛らしい仕草にまで哀愁を感じてしまうのは、さすがに気のせいだと思いたかった。
気のせいだと、願った。
「兎に角、飲もう。あんたもいける口なんだからさ、今夜はとことん付き合ってもらうからね」
「善処させて頂きます」
「うん、よく言った」
お猪口を傾けた私に、諏訪子が微笑み掛けてくる。ようやく空けたお猪口を見て、嬉々として諏訪子が酒を注いでいくのを、私は苦笑とともに見返した。本来なら、私こそが手酌を行うべきなのだろうが、諏訪子がそれを見逃すはずもないだろう。そうやって言い訳を浮かべつつ、私はやんわりと礼をした。やはり、諏訪子には甘えてしまう。甘えられることを、諏訪子も内心では嬉しいに違いない。嬉しいのだと、思いたかった。
夜の帳に覆われた境内は、恐ろしいまでに静かだった。
大きな御社などでは、不逞な輩が深夜徘徊をすることもあるらしく、見回りが大変だと聞かされたことがある。考えてみれば、穢れの無いはずの境内が肝試しの場として扱われることが多いのは、人々の間での御社に対する意識に、間違いのようなものが感じられる。恐らくは、丑の刻参りなどショッキングな謂れが、尾を引いているのだろう。いかがわしいことにこそ目を引かれてしまうのは、人にとって避けることの出来ない性分である。
しかし、残念なことでもあるのだが、この御社はそれほど大きなものではない。
山の中という立地条件の悪さもあってか、そのような厄介事が起こったことは、ここ近年ではひとつもなかった。
だからこそ、こうして酒に興じることもできる。
良い御身分だと、同期からからかい半分に揶揄されたこともあった。忙しい御社には、それこそ様々な人が訪れるらしい。一筋縄ではいかないと言うことも、何度か酒の席で聞かされてきた。
カミが居なくなるよりは、よっぽど気楽に思えた。
「今夜のお酒は良いね~、この臭みがなんとも言えないよ」
赤味を帯びた顔で、諏訪子が満足気に頷く。
そのあどけなさによって、私は陥り掛けた思考の坩堝から引き戻される。
「チーズ鱈だったっけ。これも美味いね、この組み合わせを考えた人間は天才だよ。スルメみたいに細いのも、また小憎たらしい演出だ。一息に頬張れないからこそ、酒の味が邪魔されないのが堪らない。これなら幾らでも食べられるね」
「羨ましい限りです。洩矢様は、幾ら飲まれても、幾ら召し上がられても、若々しい御姿ですから」
「ふふん、なんなら神様にでもなってみるかい、東風谷」
「私は〝なかとりもち〟ですので」
「言うと思ったよ。あんたがそれで良いのなら、それで良いんじゃない? まあ、私みたいな若々しい姿で居られるのは、さすがにその歳では難しいと思うけれどね。あんたも昔は、それはそれは可愛かったのにな~、今じゃ見る影も無く……中年だものね、東風谷って」
言葉通りだった。
昔と比べ、今の私には身体の至るところに、無駄な肉が付いていた。
健康診断で大きな病を伝えられたことはなく、怪我などの事態に見舞われたこともない。健康を示す数値は常に正常であり、医師からのお墨付きも頂いている。そういった意味では、正常な身体なのだろう。それでも、たるむところはあり、擦り切れているところもある。近くのものが見え辛くなり、夜目も効かなくなってきている。懐に仕舞ってあった老眼鏡は、いつのまにか諏訪子によって引っ手繰られていた。物珍しそうにレンズを覗いては、顔をしかめている。
確かに、今の私は中年だった。
理想に燃える歳は、とっくに過ぎているはずだった。
理想への道程よりも先に、踏み止まれる足場を確認しなければならない、そんな年齢である。諦めること、近しい者が居なくなることへの侘しさに、慣れ始めなければならない。決して叶わない願いがあることを吟味し、無常という輩を真正面から受け流さなければならない。こんなものかと、涼しい顔をしなければならない。
要は、諦めなければならない――
晩夏の夜風は、ほんの少しだけ肌寒かった。
首元を撫でていったその感触に、ふと我に戻る。お猪口を傾ける手が、自然と止まっていた。
一息に飲み干した。
「ほれほれ、その調子だよ」
チーズ鱈をはむはむと食みながら、諏訪子が酒を注いでくる。
「考え事より、良いから飲め。呑まれないくらい酔ってから。話しはそれからだよ、東風谷」
艶かしく細められた瞳が、私を覗き込んでくる。どこまでも包み込んでくるような、柔らかい微笑みだった。ほんのりと朱色に染まりながらも、決して下品ではなかった。
誘われるように、再びお猪口を傾ける。
諏訪子のペースは速かった。
いつの間にか空けてしまった酒瓶を横手にやり、新たな酒瓶に手を出している。そう思っていたのだが、よくよく見ると、実際にはその新しい酒瓶も、中身は既に半分ほどにまで減っていった。今夜の諏訪子はいつになく気が早い。張り合うようなことはしなかった。そこのところの分別くらいは、弁えているつもりである。
「早苗の調子はどうだい」
「こっそりと覗いているのでしょう」
「あんたから見た早苗だよ、東風谷」
「頑張っているとは思います」
「思っているだけかな」
「諸手を挙げたいくらいには、頑張っていますよ」
「あの子も、むつかしい年頃だからね」
からからと諏訪子が笑う。
「もっとも、あんたの若い頃よりは、幾分も素直だと思うけれどね。それこそ、天と地くらいの差はある」
「ですから、私も安心しています」
「あんたの時は、神奈子もハラハラしていたものさ。私と違って、神奈子は心配性だからね。あんたと出会う頃合いも、慎重に窺っていたもんだ」
初耳だった。
神奈子と邂逅を果たしたのは、正式に御社の跡を継いだ時――二十台の半ば頃だったと記憶している。常に威圧的なものを漂わせている神奈子と、そんな心配性な部分は、どうしても結び付かなかった。
「寝耳に水って顔してるね」
「初耳でしたので」
「私の話、本当だと思う?」
やや無遠慮に、諏訪子の顔が近付く。
実りの稲穂の色合いを湛える瞳には、意地悪い光がこれ見よがしに瞬いている。林檎を勧める蛇――とは、どうあっても言いがたい。悪戯を思いついた子供のそれと言ったほうが適しているだろう。愛くるしさが、ちらちらと覗いている。
釣られるように笑い返した。
「嘘、ですかね」
「どうしてそうだと思う?」
「洩矢様の顔が、嘘だと仰っておりますので」
「なるほど」
ちろりと舌を出し、自分の唇を舐める。
妙に艶かしい仕草だったが、諏訪子の顔は童女そのままに笑っていた。
「私の顔が、そんなに嘘っぽいと言うんだね~。あーあ、昔はそんなこと一言も言わなかったのにな~。やっぱり、今の東風谷って、全然可愛くないや」
「洩矢様は、昔から変わりません。人を食ったように、人をからかうのがお好きです」
「まあ、そこは否定しないよ」
諏訪子の手酌で、二本目も空いてしまった。
私が新たな酒瓶で酌を勧めると、諏訪子は得意げに笑いながら受け取る。苦しゅうない苦しゅうないと、いかにも繕ったように言った。どうやら、酔いが回っているらしい。近付かれた諏訪子の顔からは、酒の匂いが強く香っていた。
「でも神奈子も可哀想だね」
ぽそりと、諏訪子がささやく。
「いい気味だとも思うが、少しは可哀想かな。うん、可哀想だと思っておいてやるか、いい気味だけれど」
「八坂様が、ですか」
思わぬその言葉に、手が止まる。
どうやら私もかなり酔いが回っているらしい。問い返した声には、意外だという響きが、強く滲んでしまった。
やってしまったという思いが、苦味となって口に広がる。
「あいつは、フランクに見せかけて不器用なところがあるからね~。いかにも営業得意ですって雰囲気だしながら、苦手なところへの対応は先延ばしにしたがる性質だからな~。ま、自業自得なんだし、仕方ないんだけどね」
まるで生来の友人を語るかのように、諏訪子は言った。その声色には、無遠慮なまでの馴れ馴れしさが、これでもかと滲んでいる。
「だから、あんたとも会おうとしなかった。あんたの考え方が、自分の考えとは異なっていたから、正面からぶつかりたくなかったのさ。どうあっても和解できるような考えでもなかったからね~。でもそれで、跡継ぎのあんたと中々会おうとしなかったのは、優柔不断としか言い様がないじゃないか。まったく、これじゃあ御祭神失格、カミ様失格ってもんだよ。だから、あいつはいつも、どこかでころっと躓くのさ。知ってる? この国を譲ってやった時の話。あいつったら、折角この私が譲ってやったっていうのに」
「洩矢様」
堪らず、私は諏訪子の話を遮った。
ぴたりとお猪口を傾け掛けていたその手が、止まる。
もっとも、諏訪子の顔は相変わらず微笑んでいたのだが、私はそこからなるべく視線を逸らしながら、続けた。
矢継ぎ早に、続けようとした。
「実は」
「うん」
「八坂様は」
「うんうん」
「近いうちに」
「はい待った」
有無を言わせぬ言葉だった。
諏訪子の顔が、ぬっと近付く。その額が、私の額に優しく触れた。
「そこまでだよ、東風谷。それ以上は、言っちゃいけない」
酒の香りが強く匂う。
私を覗き込んでくるその瞳は、冷水のように澄んでいた。
「あんたが言ってしまえば、私はそれを知ることになる」
「洩矢様」
「あんたも本当は、私に知らせてはいけないことに気付いている」
「しかし洩矢様」
「駄目だよ、東風谷」
「しかし!」
「東風谷」
ぐっと、諏訪子の顔がさらに近付いた。
母親が子供を叱り付けるような、そんな声だった。
「この神社の御祭神は神奈子だ。決して、私ではない」
それでもその顔は、微笑んでいた。
「あんたは〝なかとりもち〟だろう。だったら、そこらへんは弁えなさい」
頭の上に手が置かれる。
小さな手だったが、柔らかな暖かさが感じられた。
「カミと人との間を取り持つ、だったかな。それなら、それらしくやりなさい。あんたが、こうだと決めたとおりに、やってみなさい。そしてそれは、決して私に伝えるべきではないと、気付いているはずだ」
「諏訪子様」
「あんたは決してカミではない――そうなんでしょう、東風谷」
残りひとつとなった酒瓶を手にし、諏訪子は腰を下ろした。
いつの間にか立ち上がっており、そして座っている。どうやら私は、思った以上に酔っていたらしい。粗末な電球の灯りがやたらと暖かく見えている。晩夏の肌寒さは、微塵も感じはしなかった。それでも、不快感はさっぱりない。
どこまでも心地良い夜だと感じたからこそ、私は自分の酔いの深さを、ようやく自覚した。
諏訪子は、酒瓶を抱くように胡坐をかいている。お世辞にも上品だとは言えず、飲兵衛のそれと大差ない。それが返って、諏訪子の魅力を引き立てていた。ほのかに染まったその微笑みに、どこまでも甘えたくなってしまう。
だから私は、諏訪子の目を見た。
どこまでも静かな、だからこそ踏み止まれるその視線から、目を逸らさなかった。
「失礼致しました」
ようやく、それだけを口にする。
「ありがとうございます、諏訪子様」
「いやいや、久しぶりに情けなくて可愛い東風谷の姿が見れて、私も満足だよ。うんうん、やっぱり可愛いね~。思い悩むあんたの姿は、どうしても母性本能がくすぐられちゃう」
「からかうのは止して下さい」
「ええじゃないかええじゃないか」
人の悪い笑みを浮かべて、諏訪子は酒瓶を口にした。そのまま、下品にもラッパ飲みをして、一息に中身を空けてしまう。満足気に息をついたその顔には、それでも泥酔した気配は見られなかった。
「さて、今夜はお開きかな」
末社の戸が、独りでに閉められる。
立ち上がろうとした私の首に、諏訪子の腕が回された。
「泊まっていきなさい」
耳元に、艶かしく吐息が注がれる。
「それくらいには甘えさせてあげるよ」
「布団がありません」
「布団を敷こう? ね!」
「諏訪子様、その台詞はいかがわしいです」
「子孫と一緒に寝るだけさ。いかがわしいことなんて、ひとつもないよ」
「酔っていますね」
「あんたもね」
末社の中には、いつの間にやら布団が敷かれていた。当然の如く、ひとつ分しか敷かれてはいない。
「ほらほら~、存分に甘えていいんだよ~?」
布団へと潜り込んだ諏訪子が、からかうように手招いてくる。
溜め息とともに潜り込んだ私の身体は、力強くも優しく抱き寄せられた。抱き寄せられながら、赤子にするのと同じ手付きで、頭を撫でられる。正直なところ、こそばゆいものも感じていたのだが、それでも私はされるがままとなっていた。抗い難い包容力が、私の動きを止めていた。
「こうやって寝るのも、久しぶりだね」
「いつ以来かも、思い出せません」
「だって私がこうすると、東風谷ったら嫌がっていたじゃん」
「さすがに、中高生の頃からは、恥ずかしくも思いましたので」
「思春期ってやつかい? 可愛いね~」
「極々一般的な反応です」
灯りが消される。
それで何も見えなくなったが、諏訪子の温もりは消えることなく、傍に感じられた。
「諏訪子様」
「ん~、なに~?」
もぞもぞと諏訪子の動く気配がする。私の身体に、腕が回されていく。
とても暖かかった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
くすりと諏訪子の笑う声が聞こえる。
「ゆっくり寝なさい、私はここにいるから」
自ずと瞼が閉じる。
「おやすみなさい、――」
酒臭くも柔らかな息が、久方ぶりに呼ばれた私の名前とともに、そっと漂う。まどろんだ意識が、眠気によってしっとりと塗られていく。
それでも諏訪子の温もりが消えることはなかった。
そのことが、とても嬉しかった。
◆◆◆
「今夜、遷る」
神奈子の言葉は簡素なものだったが、それだけで何を意味しているのかを、推し量るのには充分だった。
境内を掃く手を止めて、私は頷いた。
「落ち着いているね、東風谷」
「覚悟しておりましたので」
言葉通りだった。
神奈子の口から宣言されたあの日から、覚悟はしていたことだった。だからこそ、こうして落ち着いていられる。取り乱すようなこともなかった。
「早苗には、私から既に伝えている」
「そうされると思い、私からは伝えておりませんでした」
「最初こそ戸惑っていたが、今は熱意を燃やしている。やる気は充分だよ、あれくらい覇気のある方が私としても有り難い」
「あの子なら、そう答えると思いました」
「学友には遠くへ留学すると伝えているらしい。多少の名残も感じているようだが、それよりは幻想郷への関心に傾いているようだね。早苗を選んで、正解だったよ」
「関心が傾いているのは、貴方様も同じではありませんか、八坂様」
「当然だ」
毅然とした面持ちを微塵も崩すことなく、神奈子は答えた。
「これからのことに思いを馳せると、やはり心躍る」
さっぱりとした言い方だった。
神奈子に一礼して、私は再び境内を掃き始めた。
御祭神である神奈子に対するものとしては、いささか失礼な態度にも思われたかも知れない。
しかし、当の本人に気にした様子は少しもなかった。それよりも今は、遷る場所――幻想郷へと関心が向いているのだろう。特に私への忠言なども無く、その姿は溶けるように掻き消えた。
この日も変わらず、あの老婆は来ていた。
恐らく、明日も来る。
だから私は手を止めることなく、境内を掃き続けた。普段と変わることなく、念入りに掃き清めていく。この日の予定を脳裏に描きながら、私は掃除を終えた。
こうした日々の繰り返しが、何よりも大事だった。
健康を損ねることなく、日々の営みを積み重ねていくことが、信仰を培う上では何よりも大事なのだと、私は考えている。大きく事態を変えることなく、少しずつ時代の流れに沿って変遷していきながらも、決して失わせてはならないものは、見過ごさずに。
奇跡を起こすことが大事なのではない。
奇跡とは、起こさないからこその奇跡なのである。
それが私の持論だった。変えてはならない、持論だった。
神奈子の考えが、間違いだとは思っていない。
反対こそしてきたが、それ即ち間違いだと断ずるほど、私は愚かではなかった。百人に百人のやり方がある。十人十色という言葉は、信仰の上でも切り離すことは出来ない。そこには道理があり、曲げることの出来ない持論が込められているからである。神奈子が譲れないものを持っているからこそ、私にその考えを間違いだと思うことは、どうあっても出来なかった。
だが、それは私も同じである。
譲りたくはないものを、私も抱いている。
境内に、私以外の影はない。
神奈子も早苗も、これからの準備に忙しいのだろう。諏訪子に至っては、そのことを知らず――むしろ、知ろうともしていないに違いない。普段通り、気ままに過ごしているであろう諏訪子のことを思うと、少しばかり暖かなものが込み上げてきた。
清められた境内には、清々しい空気が張り詰めている。
その最中で、私は準備を始めた。
二メートルほどの、細く整えられたもみの木を、境内の四箇所に設置する。それぞれを、量販店などでも売られている一般的な糸で繋ぎ合わせ、紙垂を飾っていく。ひとつひとつ丁寧に。手作業で飾り終えた時には、昼時に差し掛かっていた。
雲ひとつ見当たらない、晴天を仰ぐ。
終わりとは言え、夏の日差しは容赦なく私へと降り注いでいた。普段から、こうして掃除や神事のために汗水を流していなければ、動くことすら儘ならなかったことだろう。一般的な、建物の中で職に従事している類の人達ならば、まず根を挙げたに違いない。こうした体力も、日々の積み重ねから培われたものだった。
普段の神事からすれば、恐ろしいほどに簡単な準備だった。
社殿の手前に、もみの木と紙垂に飾られた糸とに囲まれた、正方形のスペースが出来上がっている。そこには、何も用意されてはいない。神事の際には必要不可欠な、ありとあらゆる用具を、私はひとつも持ち出してはいなかった。それどころか、口に出してカミへと奉ずる、祝詞すらも準備はしていない。およそ、祭りを控えている身として、私は何も用意していなかった。
自ずと、苦笑のような溜め息が口をつく。
これで良いとは思いながらも、どこか物足りなさのような、もどかしさを感じてしまう。その懊悩を振り払うかのように、私は踵を返した。
昼食は、早苗が作ってあった。
丁寧にラップされた私の分があり、そこには書き置きが残されていた。どうやら、学友の中でも特に親しい人達に、お別れを言いに行っているらしい。走り書きながらも、少女特有の丸みを帯びた文字が、可愛らしく躍っている。悲しみなどは、その文字には滲んでいなかった。
「いただきます」
手を合わせて、食事を始める。
早苗の料理は、私が作ったものと比べると、少々濃い味だった。今を生きているような、そんな溌剌とした味覚が、舌の上で踊っている。私には、刺激が強すぎるものだった。必要以上に白米を頬張り、それ以上に麦茶を飲んで喉を潤す。
私が作ると、早苗はいつも醤油や塩を振りかけていた。
お互いに、相手の味が濃い、薄いと、平行線のような言い争いを続けてきた。
それでも、本格的な諍いにまで発展したことはなかった。
どちらかが冗談を言って話の腰を折っては、そのままお互いに笑い合って、そこで止まってしまうのである。そんな時の、早苗の面白おかしそうに笑った顔が、瞼の裏でころころと踊っている。性格こそ神奈子に似ているが、笑顔は諏訪子のそれと、よく似ていた。
「ごちそうさまでした」
早苗の料理をすっかり平らげて、私は手を合わせた。
食事の後片付けを済ませた後、潔斎場へと赴く。神事の前には、必ずここで身を清める。そうでなくても、日本人は風呂に入る習慣の培われた民族である。身体を洗い清めることは、心身ともに健やかに過ごす上で、欠かせないことだった。
潔斎場を出て、私はとある一室に足を踏み入れた。
生活用品など何ひとつないその部屋には、窓がひとつしかない。
青々とした畳は、普段から人の出入りが少ないことを物語っている。襖を閉め、さらに窓をも手近な布で覆い隠したことで、その部屋は昼間という時間帯にもかかわらず、夜のような闇に包まれた。
この部屋に、私以外の誰かが入ってくることはない。
早苗も、それどころか神奈子や諏訪子も、私がここに入っている間は、絶対に立ち入ろうとはしなかった。何故なら、それが古代より続く習わしのひとつであることに、他ならないからである。
篭もり、時を経ることが、神事の一環でもあった。
暗闇の中、私はここだと目処をつけ、座り込む。
幾度となく足を運んでいる私にとっては、その感覚も慣れたものだった。物音ひとつ聞こえず、真っ暗な闇の中で、私は溜め息のひとつもつくことなく、じっと座り続ける。
思い起こされるのは、有り触れた光景だった。
腕の中で眠るのは、まだ名前も付けられていない赤子だった。男の子と女の子、それぞれ両方の名前を五つほどは考えていたのだが、我が子を抱いた瞬間、沸き起こった感情によって、全て吹き飛んでしまった。早苗という名前は、連れ合いの考えていた名前である。私こそが名付けると心に決めていたのだが、早苗という名前の響きを聞いた途端、不思議なほどにすんなりと受け入れていた。
その連れ合いは、ある日、いなくなった。まだ自分で立つこともできない早苗を抱きながら、粛然と執り行われる神葬祭を、私はただ茫然と見つめていた。腕の中の早苗は、まどろんでいるかのように目を細めている。なにが起こったのかを、理解できるはずもない年齢だった。少々、退屈そうにさえしている。そのあどけなさに救われたことは、今でも忘れていない。
自分で歩けるようになったのは遅かったが、風祝としての力に目覚めるのは早かった。指先で風を操り、木の葉をくるくると弄んでいる早苗の顔は、まだ幼い。笑顔の中に、若干、得意げな色を湛えながら、早苗は振り返った。その途端、快活な笑顔は、緊張を孕んだ驚きへと移り変わっている。私の傍らに、長身の女性を見たからだろう。ひとつ咳払いをして、女性――八坂神奈子は、自らのことを紹介した。
早苗は、すぐに神奈子と打ち解けた。やや礼を失しているほどに物怖じしなかった早苗を、神奈子も気に入ったらしい。小学生となり、示された課題をうんうんと睨み付けている早苗を、神奈子は口を挟むこともなく見下ろしている。その横顔は、これがあの軍神としても名高い八坂神奈子かと疑ってしまうほどに、優しいものだった。早苗に課題のことを問い質されると、母親のような眼差しで、父親のように厳かに告げる。ともすれば、萎縮してしまいそうな威厳をも漂わせていたが、早苗に臆した様子はなかった。快活に礼を言うと、神奈子は、はにかんだように微笑んでいた。
神奈子の手を引いて、早苗が歩いていく。着ている学生服は、彼女が中学生になったことを意味していた。遠出をした、山道の最中である。木漏れ日の中で、先を行く早苗が振り返り、私を呼ぶ。釣られたように振り返った神奈子の顔も、柔らかく微笑んでいる。その頃には既に、私と神奈子の意見は食い違い、お互いに微妙な関係となっていた。しかし、そんなことを露とも知らない早苗は、私にも神奈子にも同等の明るさで接してくる。だからこそ、神奈子は遅れている私をからかうように労い、私も気軽に返事をした。なおも歩みの遅い私に、早苗は得意げに微笑んでから、颯爽と進んでいく。その軽やかさを見て、こっそりと後をつけてきた諏訪子が、私の耳元で羨ましそうに呟いた。
披露するかのように、早苗はくるりと回った。スカートが短いことを指摘すると、不満そうな膨れっ面となった。もっとも、その目までは怒っておらず、喜色をたゆたわせている。ブレザーの制服など私には縁遠いものだったので、こんなものなのかと納得しておいた。高校生となった早苗の背は、私よりほんの少し高いものとなっている。神奈子にそれを指摘されて、早苗は大仰に喜んで見せた。対して、私があまり反応を示さないと、内心では悔しがっているなどと言っては、悪戯っぽく微笑んでいた。隣で、神奈子まで同じような顔をしているのを見て、私は呆れたように肩をすくめた。その夜、諏訪子との酒宴で嬉し涙を流してしまったのは、今でも秘密にしている。
社殿の前で、カメラを覗き込んでいた早苗の顔は、真剣だった。しばらく、ああでもないこうでもないとしていたが、ようやく構図にも納得できたらしい。満足げに微笑んでから、慣れた手付きでかつらを脱ぎ取る。風祝としての緑髪ではあまりにも人目を引いてしまうため、早苗は普段からかつらを被っていた。適当なところへ放り捨てると、待っていた私と神奈子の手を取り、カメラの前へと誘う。早苗をはさむかたちで、私と神奈子が立つ。撮られた写真が現像される前から、早苗はその出来栄えの良さを何度も自慢していた。こっそりと、柱の影から諏訪子が覗いていたのを、早苗は知らない。そんな抜けているところも早苗にはあったが、そこがまた愛らしかった。涙してしまいそうなほどに、愛おしかった。現像された写真は、常に持ち歩いている。今も、こっそりと懐に仕舞い込んである。
ほんの一月ほど前に撮られたその写真に指を這わせながら、部屋を後にした。
橙色の斜陽が、すべてを彩っている。
写真の中の誰もが、笑っている。中央に陣取る早苗も、左手で厳かに腕を組んでいる神奈子も、こっそりと柱の影から顔を出している諏訪子も、皆一様に微笑んでいる。
私の顔だけが、どこか疲れが滲んでいるようにも見えた。
夕日のなせる錯覚だと思いたかった。家族での写真に、疲れた顔は似合わない。
神奈子。諏訪子。早苗。
皆、家族である。
山の稜線に、沈んでいく陽が見える。
頃合いだった。
私室へと戻り、写真を机に置く。代わりに手に取ったのは、榊の木の先に真っ白な神札が取り付けられた、独特の祭具である。それ以外、私が用意するものはない。羽織るものはなく、被るものもなく、靴とて備えてはいない。
白襦袢、白装束、白袴、足袋、雪駄。
普段よりも小ざっぱりとした装いで、私は境内へと歩を進める。さりさりと玉砂利を踏み鳴らしながら、正方形の内側へと入る。
丁度、社殿と向き合うように居住まいを正して、座す。砂利が脛に食い込む感触もあったが、これからのことを思うと、あまり気にはならなかった。
ひぐらしの物憂げなさざめきの中、目を閉じる。
長いのか短いのかもよく分からない。そんな感覚の中で、閉じ続けた。思いを馳せる必要は、もうなかった。
目を開ける。
その先に、神奈子が立っている。
境内は、すっかり夜の帳に覆われていた。
◆◆◆
恐らく、合点しているに違いない。
尊大なものを惜し気もなく漂わせながら、神奈子は腕を組み立っている。蛇のように油断なく細めた瞳で、こちらを見据え続けている。心なしか、口元には笑みさえ滲ませていた。
雄大な、深山を思わせる姿だった。それがまた誇らしくもあり、同時に疎ましささえも感じさせる。他者には決して啓蒙しないであろうその姿が、私に複雑な思いを抱かせる。
山のように動じない、八坂神奈子。
だからこそ、御祭神として祀るのにこれほど相応しいカミは他に居ない――そんな、自負のようなものを感じさせる。
だからこそ、カミと人との間を取り持つ〝なかとりもち〟としては、決して人には依存し切っていないその姿に――途方もないジレンマを、感じた。
「見送りの祭事……という出で立ちではないね、東風谷」
ぽつりと、神奈子の口からそれだけがこぼれる。そんな、有り体な囁きにさえ威厳のようなものが漂う。神聖にして、侵されることのない荘厳さが、存在している。
言葉を返すのには、多少の時間が必要だった。
「見ての通りです。おおよそ神事に必要なものを、私はほとんど用意していません」
「そうだね。確かに、この有り様は、いっそ質素なほどだ」
玉砂利の踏み締められる音が、ひとつだけ聞こえる。
神奈子は一歩だけ、私に歩み寄った。ただそれだけで、境内の夜気そのものが、大きくうねる。
「お前は、祭服も羽織っていなければ、祭るべき供物すら用意していない。それどころか、私に奏上するべき祝詞すら、その手には持っていない。昼間に篭もっていたお前を見咎め、もしやとも思ったのだが」
「お気づきでしたか」
「長い付き合いだからね」
神奈子の厳かな美貌が、ほんの少しだけ崩れる。硬質さがわずかに薄れた、懐古の念を滲ませた微笑みが、その唇に浮かぶ。
しかしそれも、束の間のことだった。
「長い付き合いだからこそ、この有り様を疑った。神事は古事をこそ尊ぶべし――〝なかとりもち〟として、これは絶対に外せないと言ったのは、他でもない。東風谷、お前だったはずだ」
一言一言、神奈子は噛み締めるように口にする。静かな口調ではあったが、腹の底から響かせるようなその声音は、私の身体を強かに打ち据えてきた。確固たる糾弾の意思が、その声音に滲んでいた。
「立つ鳥後を濁さず。その言葉から見れば、私のやり方はあまり褒められたものではないだろう。その私に対して、お前が穏やかならない思いを抱くことも、多少は理解できなくもない。だが、こうして己の心情すら歪ませてまで、私の遷座に抗議の意思を示すような、このやり方は……」
蛇が、瞬く間に竜へと転じた。
細められたその瞳に、青嵐の如き怒りが渦巻く。
「失望したぞ、東風谷。お前が、信念まで小童へと成り果てるとは」
晩夏の夜には似つかわしくない強風が、境内を廻る。
背筋が泡立つような異音を上げて、私と神奈子の間を駆け抜けていく。神奈子の抑え切れない感情に、翻弄されるかのように、とぐろを巻いている。
神奈子の顔には、もはや笑みの欠片すら浮かんではいなかった。
そのことに、思わず。
「すみません、神奈子様」
「言い訳など聞きたくない」
「こう言ってはなんですが」
「聞きたくないと言ったが」
「私はとても嬉しい」
「……なに?」
形の良い柳眉がぴくりと動く。
怒気の中に、一滴の困惑が入り混じる。
「言葉の通りです。これまで、神奈子様とは長い時間を過ごしてきました。神奈子様、諏訪子様、そして早苗とともに、苦楽を共にしてきました」
正面から、神奈子の顔を見据える。
臆するような気持ちは、不思議と微塵も沸かなかった。
「ですが、大変畏れ多いことではございますが――神奈子様との間に、私は距離を感じておりました。私か、或いは畏れながらも神奈子様が、そのような距離を作ったのかは分かりません。また、その距離が信条の相違によるものなのかも、分かりません。もとより、そのようなことを今更考えるつもりなど、毛頭ありません。重要なのは、神奈子様。私は、私とあなたとの間に、薄くとも確かな距離を、感じていたことです」
玉砂利の敷き詰められた大地から、ゆっくりと立つ。脚の感覚が鈍らされていることが、やたらと気に障る。
それでも、神奈子の視線から目を逸らすことは、なかった。
「だから、今ここで嬉しく感じたのです。神奈子様が、私の目前で、そんなにも感情をあらわにされたことが」
自ずと、口元に笑みが浮かぶ。
不敬だとも感じたが、それでも笑みを止めることはできなかった。
「それがただ、嬉しい」
「……そのために、己の信条まで蔑ろにしたのか?」
一方の神奈子は、最初こそ戸惑いを滲ませていたものの、今はすでにその表情は立ち戻っていた。整い過ぎているほどの美貌に、静かながらも嵐の如き存在感のある怒気を、滲ませている。
「お前は、もっと賢い奴だと思っていたのだがな。どうやら私の買い被りだったようだ。残念だよ、東風谷」
「大変有り難いお言葉ではございますが、どうあっても私は浅学の身です。既知ならば兎も角、未知には己の頭を振り絞ることしかできません。そして、だからこそ私は今回、ほとんどなにも、用意をしておりませんでした」
「どういう意味だ」
神奈子の顔に、またもや困惑の色が混じる。
「古事に則るならば、見送るための神事など幾らでも例はあるだろう」
「仰るとおりです。ですが、このたび御遷りになる場所は、おおよそ前例などないと私は考えました。黄泉の国が相応しいでしょうか。それとも単に、遠き地というのが宜しいでしょうか。はたまた、遠くに見えながらもその実は近き地という、哲学のように捉えるのが正しいのでしょうか。残念ながら、私にはどれも当てはまりませんでした。忘れ去られし諸々の集う、無何有の郷にカミを送り出すための神事――大変畏れ多いことではございますが、斎宮を思い起こさせられました。早苗のことを想うと、より顕著に」
「それはつまり、私が許せないということか、東風谷」
「複雑です。早苗のこと、諏訪子様のこと、そして恐れ多くも神奈子様のことを思うと、複雑なのです。己の心情を吐露することがとても難しいことを、恥ずかしながらもこの歳になって、ようやく私は知ることができました」
持ち続ける祭具を、具合を確かめるように握りなおす。
若干、汗が滲んでいる。
「以前、お話をしたはずです。全国の御社の中には、新たな祭祀を神職たちが考え、執り行い始めていることがあると。カミに仕え奉る機会を、試行錯誤とともに整えていっていることを。それもまた、これからの〝なかとりもち〟としての姿勢ではないかと、私は考えております」
「憶えている。お前が熱心な顔で私に話していたことは、記憶に新しい」
「このたび、神奈子様は御遷りになられます。事情を話した早苗と、何も知らされてはいない諏訪子様とともに。この御社から、用意されているかどうかも定かではない、新たな御社へと」
「私の言ったことを、よく憶えているようだな。訂正しよう、お前は賢い奴だよ、東風谷。むしろ、賢しいと言った方が正しい」
「ありがとうございます。ですが、先程も言ったとおり、私は所詮、どうあっても浅学の身です」
「なるほど、小賢しい。謙遜も過ぎると知っておきながら、それでもなお謙遜する」
神奈子の瞳が、より一層細められる。
怒気はすでに気配も無く収められており、探るような好奇心が首をもたげている。
私の、次の言葉を、興味深げに待っていた。
「で、お前はどう考えたのだ、東風谷」
だから、私はなるべく間を置かず、続ける。
「思い至りませんでした。結局、前例を見出すことは早々に諦めたのです」
「だから、考えたのか」
「手を抜かれている印象を、抱かれる覚悟で臨みました。これより神奈子様の臨まれる幻想郷は、神事についての得体が知れません。明治の頃より隔離されたという記載を鑑みるならば、その神事は明治以前の色合いを強く残していると考えるのが妥当でしょう。ですが下手をすれば、もはや神道という信仰が、まったく別のものへと変化している可能性も、考えなくてはなりません」
「だから、何も無いのか」
「無何有の郷へと臨まれる覚悟を、神奈子様。大変畏れ多いことではございますが」
「なるほど、私に求めたと」
「その通りです」
最後に軽く、神奈子に対する所作としては、不敬だと思われても仕方がないほど軽く、頭を下げた。
「その結果が、このたびの、この場の有り様です」
「なるほど、小賢しい」
言葉とは裏腹に、今や神奈子の表情に怒気らしきものは、微塵も見当たらなかった。関心の薄れた瞳を、先と同じく艶やかに細めながら、周囲へと向けている。
やがて、その視線が再び私へと戻った時、神奈子は小さく息をついた。
「お前が伝えたかったこと、心に留めておこう。今回の試み、代償の大きい賭けであること、重々念頭に入れていたつもりではあったが、私の考えだけでは少し足りなかったようだ。礼を言うぞ、東風谷」
組んだ腕をそのままに、神奈子はほんのわずかに頭を下げる。
そんな仕草にさえ、厳かな気品が削がれることはなかった。先程、彼女を彩るように覆っていた怒気などは、既にその残り香すら感じさせなかった。
尊き存在としての八坂神奈子。
それが、山のように大きく深く、顕在していた。
無言のまま、確かめるようにこちらを一瞥してから、神奈子は踵を返す。玉砂利が鳴らす音さえ厳かに、その場を後にしようとしていた。
「神奈子様」
だから私は、手に持った祭具を振るった。
「まだです」
夜気を切り裂く鋭い風が、神奈子を遮るように吹き荒ぶ。
飾られた紙垂が淡く緑光に輝き、中空に五芒星を浮かび上がらせる。同じく、淡い緑光に彩られたそれは、近年では見られなくなって久しい、蛍の情愛の乱舞にも見えた。
それは結界だった。
〝なかとりもち〟としての神職の力とは無縁の、洩矢の血を引く私だからこそ行える、秘術とも言うべき力である。
久方ぶりに振るったが、それでも衰えらしきものは、今のところ見られなかった。五芒星はそれぞれ、区切られたスペースの四方に、ひとつずつ浮かび上がっている。内側から出ることは、常人には容易ではないだろう。
「まだとは、どういうことだ。東風谷」
神奈子は歩みを止めていた。
こちらには、なおも背を向けており、どのような表情をしているのかを読み取ることはできない。
「大変畏れ多いことではございますが、言葉通りです」
蛍火のような緑光が、ちらちらと視界の端で瞬いている。なるべく、それに気を削がれないよう、私は前を見据える。
「まだ、終わってはおりません」
「そのために、久しく使ってはいない秘術で、結界を作ったか。翡翠とも、蛍火ともつかない淡き緑光を以って、私の道を閉ざすか」
神奈子が、振り返る。
「懐かしいね、東風谷」
淡い緑に照らされた神奈子の瞳は、鋭かった。非難も、敵意も感じられないその視線は、それでもなお刃物のような鋭さで、私の身体を射抜いていた。
より正確には、私の顔、その髪を、見つめていた。
「お前が術で隠している緑髪、そうしてあらわにしているのは、久し振りに見たよ」
「こうでもしないと、神奈子様をお引止めすることは、適いそうになかったので」
視界の端、かすかに映る自分の髪が、蛍火とも翡翠とも取れない色によってほのかに輝いている。
自分の顔に似合いもしないその色が、昔から好きではなかった。
だからこそ、その髪の色を隠す術を真っ先に学んだことは、今でも憶えている。神奈子が久し振りと言ったことも至極当然かと、私は他人事のように思った。
「さて、そうやって術を解いてまで、秘術に最適な状態になってまで、お前は私の歩みを止めた。ここから、お前はどうするつもりなのだ、東風谷。よもやとは思うが」
矢のような視線もそのままに、神奈子は詠うように続ける。
「私を止めるか。この、八坂神奈子を」
「場合によっては」
気圧されぬよう、祭具を掲げる。
「それに神事も、まだ終えてはおりません。人の言葉をカミに伝えることが祝詞であり、神事の根幹とするならば」
身体の周りに、風の纏わりつく感触がある。空の手で中空に描かれた五芒星が、淡い緑光となって私を照らしてくる。
威風堂々たる神奈子に向かって、私は言った。
「私は〝なかとりもち〟として、それを伝えねばなりません」
声が震えることは、なかった。
◆◆◆
「祝詞は用意していなかったんじゃないのか」
「形としては。しかし、奏上したく思う言葉は、今この時にも浮かんでおります」
「それは、人々の言葉ではなく、お前の言葉だろう」
「私は」
神奈子の視線から片時も逸らすことなく、私は一息つく。
「私は、残る者です。そしてこの残る土地は、紛れもなく人の息衝く土地です。畏れ多いことではございますが、神奈子様。この地を去る貴方様に、私は残る者として、人々の根付くこの大地で生きてゆく者として、お伝えしたいことがあります。人として、お伝えしたいことが、湯水の如く湧き出てくるのです」
「東風谷、貴様」
細められた瞳に、剣呑な光が宿る。
「それは〝なかとりもち〟として、逸脱しているのではないか」
「カミと人との間を取り持つ〝なかとりもち〟であることに、変わりなどあるはずがありません。ですが、敢えて続けさせて頂くならば」
かすかに怒気を帯びた神奈子の視線を、私は真正面から受け止める。
逸らすようなことはなかった。
絶対に、逸らしたくはなかった。
「私は〝なかとりもち〟であり、同時に一人の〝人間〟です。〝現人神〟などではなく、だからこそ貴方様と並ぶことはない。人の言葉に耳を傾け、カミへとその言葉を願いとして昇華し、奉げる。ならば、そうして耳を傾けるべき人々の信仰は、守るべきです。失わせてはならないのです。人々の平穏を願い、日々の営みの安寧を願う、だからこそ貴方様の御遷りに、納得できないものも抱く。カミのおわせられない御社に、儚くも尊き信仰が寄せられることを、黙って見過ごせるはずありません」
下腹に力を込める。
怒りなど、微塵も沸いてこない。
「信仰は儚き人間のために。儚くも尊き人間の信仰のために」
覚悟という言葉が、一番しっくりとした。
「私は〝なかとりもち〟として、この先行きの見えない神事を執り行い、懇々と沸き立つ祝詞の奔流を、全力でお伝えする所存です」
言い終えるとともに一陣の風が吹き荒び、私と神奈子の衣服や髪を強くはためかせる。晩夏に相応しい、冷たい風だった。秋の気配は、すぐそこにまで近付いている。
決然とした言葉だと、我ながら思った。
しばし私を見つめてから、神奈子は不意に目を閉じた。
同時に、神奈子を取り巻くあらゆる気配が、まるで夜気へと溶けるように消えていった。
腕を組み、瞳を閉じる神奈子の姿は、ある種の彫刻芸術を思わせるほどに無機質であり、なにより美しかった。東洋の繊細さと、西洋の剛胆さとがない交ぜとなったかのような美貌は、磨き抜かれた大理石を思わせるほどに、微動だにしない。まるで、神奈子の身体だけが、時が止まってしまったかのような感覚を、私は覚えた。
「小賢しいな。やはり、お前の物言いは小賢しい」
しかし、それも実際には、ほんの数秒の出来事だった。
「人に傾倒することが、信仰として正しい姿だとは言えない。もとより、カミは決して人に依存し切ってはいけない。確かに、カミは恵みの雨を降らすが、そこに求められるのは、決して仲良しごっこではないのだよ。畏れ、敬い、そこからこそ尊ぶべき信仰が産まれいずる。すでに科学の蔓延してしまったこの地では、私が求める信仰はもう産まれない。甘ったるいだけの関係では、産まれるはずもない。そんなものは、ただの惰性だ。そして私は、そんな代物でこの飢えを満たすことはできない」
瞳を閉じ、淡々と語り続けていた神奈子だったが、その声がぴたりと止まる。
瞼が開かれ、血のように赤い双眸が私を捉える。
これが軍神、八坂神奈子か。
肺腑を、とぐろで巻き取られたかのようだった。
嵐のように濃密な気迫が、見えない風となって辺りを駆け巡った。吹き荒ぶその強さは、怒気を漲らせていた先程の比ではない。大気が震え、結界である緑光の五芒星が、テレビ映像の乱れのように大きくぶれる。後退りしそうになった左足は、寸でのところで踏み止まらせた。
滾らせた気迫とは対照的に、神奈子の表情は澄んだものだった。
怒りで見上げることはなく、嘲りで見下していることもない。淡々と、真正面から私を見据えているに過ぎなかった。
だからこそ、冷や汗すら流れない。
口内の唾を、喉を鳴らして飲み下した。
「信仰の墓場に縋るつもりはない。私は、神々の恋した幻想郷へと、遷る」
声は、あくまでも静謐だった。
湖面をささやかにさざめかせる程度の声音が、神奈子の傍ら、その中空に巨大な影を呼び起こす。
御柱が、一柱。
勇魚の如く雄大に空へと浮かんだのは、荒々しき神事の象徴であり、神奈子の神性にも大きく関係している、由緒正しき御神体であった。その様相は、大木としての生命力すら、微塵も失ってはいない。幅も高さも、大柄な神奈子を遥かに凌いでいる。
「そして、遷ると決めたからこそ、私も学んだ。その結果、幻想郷には中々面白い儀式があるそうだ」
息を呑む私に、冷たい微笑を口に湛えながら、神奈子はさらに続けた。音もなく宙へと浮かぶ御柱の傍らに、新たな影が現れる。
一柱。
さらに一柱。
惜しげもなく、一柱、一柱、一柱。
「決闘のような儀式だ。より美しく、より完成度の高い側が、評価される仕組みらしい。命を失うことも稀にあるそうだが、それでも確率自体は低く、なにより命を奪うことが直接勝敗に関わる訳ではない。だからこそ、人間も妖怪も平等に評価される機会がある。そういった規定の、儀式らしい」
総勢、六の御柱を率いて、神奈子は一歩を踏み出した。
その一歩だけで、御柱は胸の悪くなる風音を鳴らして、一斉に動く。底とも天頂ともつかない、円柱の平らな部分が、すべて私へと向いた。
「それは、弾幕勝負と呼ばれるそうだ」
蛇の如き双眸が、私を捉える。
御柱は、私にぴたりと狙いを定め、一時も逸れることはない。夜の空に浮かぶそれらは、異国の雄大な飛行船を髣髴とさせた。それも、武装を施した軍船のようであった。
赤い瞳が、わずかに細められた。
神奈子は二歩目を。
「折角だ、この神事でそれを試す」
喜色とも憐憫とも取れない笑みとともに、強く踏み締めた。
「勝機は与えてやるぞ、東風谷。ありがたく」
錬度の高い騎馬の如く、六の御柱が迫る。
「受け取れ」
轟音だけが、私の耳に聞こえた。
瞬く間に、土煙が濛々と立ち昇り、見るものをすべて押し隠してしまう。
鈍痛は、感じた。
自分が立っているのかは、よく分からなかった。
「……怪我くらいは、勘弁してほしい」
わずかに、ほんのわずかに苦い響きを孕ませる声が、届いた。
「治療は施してやる」
獅子が吼えるかのような音が轟き、強い風が肌を刺激する。瞬く間に、土煙は吹き飛ばされ、視界が開けた。神奈子の凛々しい立ち姿が現れる。
「馬鹿な」
その顔が、この日一番、大きく動いた。
「馬鹿な」
搾り出すような呟きは、二度、聞こえた。
自分が立っているということに、私は土煙が晴れてから、ようやく気付いた。六の御柱の内、五柱は私に届く後一歩のところで、静止していた。蜘蛛の糸が絡みつくかのように、五つの緑光の五芒星が、五柱の御柱を絡め取っていた。
そして、残る一柱は。
「申し上げるのも大変畏れ多いことではございますが、神奈子様」
祭具を握った右手ではなく。
「御柱は、このように整えられた様相では、決してありません」
掲げた左手で、受け止めていた。
「もっと節くれ立ち、それでいて整えられ、しかしながら大木としての微妙なうねりを残すものです。そうした、木本来の性質を色濃く残すからこそ、カミに奉る祭事に用いられます。決して、人に扱いやすく、人に啓蒙した形をしてはならないのです。こんなに徒に太くはない、こんなに無様に寸胴ではない、もっと荒々しくあらせられるのが、御柱です。神奈子様の御姿を決して見ることは叶わない、だからこそ御柱に、畏れ多くもその神性の一端でも垣間見ようと願った、人々の想いが詰まった御神体――それが、御柱です」
じりじりと、御柱――御柱もどきを、私は押しやった。
身体の至る所が悲鳴を上げている。健康ではあったが、お世辞にも鍛えているとは言いがたい私の身体は、確かに悲鳴を上げていた。肉が軋るどころか、骨が軋む音さえ聞こえてくる。
だが、それでも構わなかった。
「それを、神奈子様。貴方様は」
決闘のような儀式と、神奈子は言った。
幻想郷のことを話したその響きには、神事のような神性さも、人々の信仰のような直向さも、一切感じなかった。遊戯のような気楽さしか、感じなかった。
神奈子の顔が、目に入る。
「貴方様は、そんな人々の信仰を」
怒りは沸いてこなかった。哀しみも、沸いてはこなかった。
そんな上辺ではない、もっと奥底の滾りが、私を突き動かした。
「少し、残念です」
六の御柱もどきが、一斉にひび割れた。
ひび割れた中から現れたのは、まさしく私が想像したとおりの御柱だった。私へと向けられた力が、途端に消え失せた。
自由となった身体を酷使して、祭具を掲げる。
風を呼ぶ。
風が渦巻く、風がうねる、風が纏わりつく。
それらをすべて――神奈子に、向けた。
「小癪」
神奈子は、軽く片腕を払った。
それだけで、殺到する風がすべて、霧散する。
「小賢しい」
続けて、私が吹き飛ばした六の御柱にも、神奈子はまったく動じなかった。
演舞の一環のような挙措で、両方の手のひらを掲げる。
その途端、六の内、二柱は砕けて塵芥となり、四柱は導かれるように神奈子の背へと群がった。
「畏れを知らぬ、小童めが」
二対四柱の御柱を、神奈子は背負う。
紙垂の飾られた注連縄とも合わせて、なんとも奇抜な格好だった。
しかしそれも、八坂神奈子が纏うと滑稽さなどは微塵もない。
「東風谷。貴様よもや、私に神性を説こうとは」
鮮血の如き視線が、私を射抜く。
「愚か、愚か也」
くわりと、その口が開いた。
蛇のような笑みを神奈子は刻み、風が吹き荒ぶ。私が呼んだ風などとは、比べ物にもならなかった。
「東風谷。貴様よもや、私に神風を差し向けるとは」
蛇の鳴き声のような、掠れた声だった。
「愚か、愚か也」
嵐が私に向けられた。
叩き付けられた風によって、玉砂利が爆ぜ飛び、周囲を囲う紙垂がはためく。
私の身体は、風雨に踊れされる柳のように、地面を転がった。
「東風谷。貴様よもや、私の遷りを止めようとは」
冷淡な声が、耳朶を打つ。
転がりながら、神奈子の顔が見えた。
無表情だった。
「愚か、愚か――」
「もう結構です、神奈子様」
神奈子の言葉を遮ったのは、はじめてだった。
「蔑まされるのは、承知の上のこと」
転がる勢いもそのままに、私は立ち上がる。
よろめきそうになる身体は踏み留まらせながら、遮二無二、右足を上げた。
「覚悟の上です、神奈子様」
こちらを見据える神奈子の姿が景色ごと、消えた。
「失礼」
私は、上げた右足を、眼下の神奈子に向けて。
「致します」
宙へと躍り出た身体ごと、振り下ろした。
どぱあんと、玉砂利が割れた。
その下の、剥き出しの大地も割れた。
水と風とが、二つに割れて諸々を押し流す。
「東風谷」
それでも、神奈子は流されず、私の眼前に立っていた。
遥かに近くなった神奈子の瞳が、私のそれと重なる。
「肝が冷えたぞ」
「承知の上、覚悟の上、断腸の思いの上です」
「よもや、私が後退させられるとは」
神奈子の左足は、確かに一歩分だけ、後ろに下がっていた。
「しかし、東風谷」
「はい、神奈子様」
「これで終わりか」
「いいえ」
「だろうな、そうであろう」
「畏れ多くも、お伝えしたとおりです」
「なるほど。あくまで〝なかとりもち〟として、伝えると」
「覚えて頂けたのなら、望外の喜びです」
「小賢しい」
「それでも、喜ばしい限りです」
明る過ぎる星を、手中に呼び起こす。
私がそれを投じるとともに、神奈子は嵐を身に纏った。
「神奈子様」
「珍しいな、東風谷」
木枯らしに、翻弄される木の葉のように、私は宙を舞った。
「八坂様ではなく、神奈子様と呼ぶとは」
「畏れ多いことです」
「もう、その物言いは止せ」
戦斧のように振り下ろされた風の塊が、私を大地に叩きつける。
三重に絡ませた五芒星が、その衝撃を和らげる。
「伝えるのには邪魔であろう。私が許す、止めろ」
「ならば、神奈子様」
明る過ぎる星は、投じた途端に、明る過ぎる光を撒き散らした。
星光は、まさに矢の如き光陰となって、神奈子へと突き刺さる。二対四柱の御柱と、紙垂に彩られた注連縄を背負う、神奈子の身へと纏わりつく。
私は、空いた左手で刻んだ。
「失礼致します」
私の言葉と同時に、明る過ぎる星は猛火へと変わった。
神奈子へと突き刺さった光も含めて、そのすべてが燃え上がる。神奈子の御身を、強かに燃え上がらせる。
「不思議だな、東風谷」
それでも、神奈子の声は朗々としていた。
蛇のように掠れながらも、朗々とした響きで、私へと届いていた。
「お前に神奈子様と呼ばれて、悪い気がしない」
猛火が、猛風によって消し飛ばされる。
炎に塗れていたことなど、露ほども感じさせない神奈子の顔が、目に飛び込んだ。
薄っすらと、笑みすら浮かんでいた。
「だがそれ以上に、無礼だと思うところが強い。不思議だ、東風谷」
四の御柱の先端が、私へと向けられる。
「お前が、どうあっても諏訪子の子孫だからかな」
「それは関係ありません」
「いいや、大いに関係ある」
「神奈子様」
「どうやら私は、未だに諏訪子に囚われているようだ。囚われているからこそ、あいつに勝てそうな今回の遷りに、こうしてこだわっている。諏訪子のように諦め切れず、新しき無何有の郷での信仰を欲している。カミとして死ぬなど、こちらの世界で殉死するなど、真っ平御免だ」
神奈子は、笑った。
歯を見せて童女のように、溌剌と笑って見せた。
「名前だけを遺して滅びるなど、真っ平御免だ」
四の御柱から風の塊が射出される。
「私は嬉しいぞ、東風谷」
対して、四の五芒星を呼び起こして、風の塊を受け止める。
肉薄していた四つの風の塊は、それで辛くもやり過ごした。五芒星が薄布のようにたわんで、ぶつかった風の塊が嵐のように駆け巡る。
ぎちり。
瞬間、四の五芒星は、いとも容易く引き千切られていた。
「諏訪子の子孫であるお前を、こうして遠慮なく」
振り下ろされた手のひらが、私の目に入った。
蜘蛛の糸のように引き千切られた、五芒星の緑光がちらちらと眼前を舞った。
裂けた合間から、ぬうっと神奈子の顔が現れる。
「ぶっ潰せる」
喜色に溢れた、満面の笑みだった。
「お前も遠慮は要らぬぞ、東風谷」
喉首を、勢いもそのままに掴まれた。
その耐え難い膂力に、私はこみ上げたものもそのままに、身体が宙へと浮く。カミというその御身に相応しく、神奈子の膂力は人間離れしていた。
「私に抗ってみよ、東風谷」
私の喉首を引っ掴みながら、神奈子は耳打ちした。
「抗ってみよ、東風谷」
返事など待たれる間もなく、身体が振り回される。
喉への圧迫感に吐きそうになるのを、堪えるだけで精一杯だった。
「伝えてみよ、東風谷。言ってみろ、東風谷。やってみろ、東風谷」
背中に、強烈な衝撃を感じた。
どうやら、大地へと投げ落とされたらしい。
「私を止めたいのなら、相応の覚悟を示してみせよ、東風谷」
それを痛みとして味わう間もなく、今度は脇腹へと衝撃を感じる。
神奈子に蹴飛ばされただけで、私の身体は石ころのように夜空を舞った。
「東風谷、東風谷、東風谷東風谷東風谷、東風谷」
受身など、取れるはずもない。顔から玉砂利へと、無様に突っ伏す。
それでも、両手を使って起き上がろうとできたのは、僥倖だった。
「来い、東風谷」
明滅する視界の中で、声へと振り返る。
右手の中指を、誘うように動かす神奈子の姿が、見えた。
「私もお前も、まだ足りないはずだ」
「いいえ、神奈子様」
肉や骨が軋む音など、何度も聞いていた。
悲鳴など、節々は幾つも上げていた。
それでも私は起き上がった。苦鳴に喘ぐこの身体を、起き上がらせた。
「それは違います、神奈子様」
神職とは、その実は身体が資本である。
もとより健康な身体とは、どのような職種でも必要なことである。
況してや、カミに仕え奉るあり方としては、目に見えない心を求められることは勿論、目に見える形、すなわち外側も強く求められてきた。細やかなところまで、気を遣ってきた。
健康で丈夫なこの身体が、今は役に立った。
神奈子や諏訪子という、幸いにも目に見える形でカミへと奉仕することが出来た自分だからこそ、特に気を付けていたつもりだった。
目に見えぬカミに奉仕する神職が多いからこそ、それが当たり前であるからこそ。
自分は幸せだと、常日頃から心掛けてきた。
「違うのです、神奈子様」
自分は幸せ者である。
その想いは、今も変わらない。
神奈子とこうして、滅茶苦茶な神事で言葉を交し合っている。
それもまた幸せであると、今でも思っていた。
私など、他の神職に比べれば、よっぽど俗に染まっている。よっぽど、幸福であると胸を張って宣言できる。
何故なら、目に見えぬカミへと奉仕することの辛さを、私は経験していない。そして、この日本の国には、目に見えぬカミへと奉仕する神職が、恐らくは圧倒的に多い。その目で実在を確かめられないのに、それでも奉仕をし続けている。人々の安寧、日々の安泰を願い、境内を清めて神事を執り行っている。
だからこそ、自分は幸せ者だと、心から信じている。
「私と貴方様では、そもそも違います」
神奈子の美しい柳眉が、ぴくりと不愉快そうに動く。
その美しさまで、私には滑稽なものに見えていた。鮮やかに、それこそ人間のように鮮やかな動きにあるにもかかわらず、幻想郷へ遷ろうと画策していることが、ひどく理不尽なものに思えた。
「何故なら、貴方様は」
ようやく背筋を伸ばした私を、殴りつけるような風が襲った。身体がうつ伏せに、玉砂利へと叩きつけられる。
それでも私は、即座に立った。
「結局、貴方様は過去しか見えていない」
「東風谷、貴様」
「なんとでも仰って下さい。私は、改めません」
再び私へ振り下ろされようとしていた風が、霧散する。
神奈子の射抜くような赤い視線は、なおも私を捉えていた。
「結局、貴方様は過去に囚われている」
「聞いてやる。貴様を八つ裂きにするかどうかは、聞いてから決めてやる」
「ありがとうございます。ですが、神奈子様」
身体の至る所の軋みを堪えながら、私は神奈子を見据えた。
左肩の痛みが、殊更酷かった。
「過去を見る者と未来を見る者では、私は未来を見る者にこそ、軍配が上がると思っています」
「私は、この信仰の墓場に見切りをつけて、新しき理想郷へと遷る」
「幻想郷は、結局は忘れ去られた過去に縋り続ける、万魔殿に過ぎません」
「捉え方、価値観の違いだ」
「明治より隔絶されたその事実が、幻想郷が過去に生きていることを、なによりも証明しています」
「此処とは違う場所へと移り、新しき信仰を得ることを試みる。これの何処に、懐古への妄執が感じられる?」
「新しき場所と言わず、過去の信仰と表現することこそ、適切ではないですか」
「なに?」
「明治より隔絶された土地ならば、そこに息衝く者たちは、奇跡のひとつで大きく動くことでしょう。此処ほど、科学の蔓延していない土地ならば、奇跡を容易く信じ込み、だからこそ信仰を植え込むことも可能でしょう」
「東風谷、貴様」
「黙りません。新しき土地で信仰を得るなど、如何にも先進的な言葉で装わないで下さい、神奈子様」
「黙れ」
「結局、科学が蔓延し切っていない過去へと、遷るだけです。そうすれば、貴方様の奇跡を広げることは、こちらと比べて幾分も容易い」
「黙れ、東風谷」
「幻想郷は、こちらより文明の水準は下です。明らかに、下なのです。それを分かっているからこそ、科学の支配が及んでいないからこそ、まだ科学に対抗できると考えたからこそ、神奈子様。貴方様は、御遷りになろうと考えた」
「黙れと言っただろう、東風谷」
「取り繕わないで下さい。貴方様の行いは、決して革命などではない」
襟元が、引っ張り上げられる。
歯軋りする神奈子の顔が、眼前にまで迫っていた。
「ただの、懐古です」
それでも私は口を止めなかった。
「貴方様も、過去に惹かれたに過ぎません」
「本気で言っているのか」
「本気でなければ、このような場で申しません」
「つまり私の言うことは間違っていると」
「糾弾する意思がなければ、そもそも発言しません」
「私に非があると、お前は言うのだな」
「神奈子様と私は、畏れ多くも意見が異なることが多かった。当たり前ですが、私はそこに自身との違いを覚えこそすれ、それを間違いと感じたことは一度もありません。それだけ神奈子様の言葉に正当性を感じ、真っ直ぐな芯を、畏れ多くも抱いていたからです。違うことなど、当たり前のこと。糾弾する理由にはなりません。ですが、今回だけは違います」
赤く鋭い視線から、逸らすことはなかった。
「未来などと、革命的な一歩などと、装わないで下さい」
神奈子の目を見つめて、私は続けた。
「幻想郷は、過去の塊です」
「それは此処に住まう者の驕りだ。驕りから湧き出る、侮蔑の言葉だ」
「いいえ、事実です。何故なら、神奈子様。科学が意味するものは現在であり、それ以上に未来です。過去も含みますが、それ以上に現在の意味合いを含み、なにより未来への意味を含みます。科学への啓蒙が限りなく薄い幻想郷に、果たして現在や未来が映るでしょうか。答えは、いいえです。私たちの土地に蔓延する価値観から鑑みると、幻想郷はどうあっても過去が蔓延しています。過去が留まり、過去が積み重なる、それが幻想郷です。妖怪の蔓延する幻想郷だからこそ、そこには過去が蔓延している。そんな幻想郷だからこそ、貴方様は介入できる隙を、見つけられた」
「そこから信仰を広がらせるのだ。過去などではない、現在や未来へと息衝く信仰を、この手中にと考えている。私はそこにこそ、私が求める信仰の形を息衝かせることを画策している。そこに、不純物のような甘えを含ませる余地などない。なにより、お前が指摘する、過去への妄執などない」
「いいえ。その画策にこそ、過去への妄執が強く息衝いている」
「東風谷。私は信仰による新時代を、幻想郷で開花させる」
「それを何よりも強く望まれるのなら、神奈子様」
襟元を掴む、神奈子の腕を引っ掴む。
これまで、触れるのも憚られてきた神奈子の腕を、私は引っ掴んでいた。
血のような赤い瞳が、一層近くに寄った。
「何故、此処で新しき信仰を集められないのです」
「馬鹿なことを」
「科学への信仰に、何故立ち向かわないのです」
「本気で言っているのか、東風谷」
「本気です。本気でない言葉など、畏れ多くも神奈子様の御遷りへと立ち会った時から、この口から吐いた覚えなど一つもありません。もとより、神奈子様。私は、これまで貴方様の御前で、貴方様に向けて、本気でないあやふやな言葉を吐いた覚えなど微塵もございません」
「科学と名付けられた信仰は、止められぬ」
「人々のカミへの感謝に、偽りなどありません。科学が叶えられない事柄など、現在でも山ほどもあります。科学など、所詮はすべてを解明するには遠く及ばず、行き着くのは哲学との中途半端な契合だけです。科学と哲学との狭間にある、人間の懊悩の産物へと、成り果てるだけです。だからこそ、そんな科学が叶えられぬ事柄を、カミへの願いとする人々は大勢居られます。もとより、科学が蔓延してゆく時代の変遷で、それでも御社に参拝される人々は、大勢居られました。崇敬の念によって、途絶えることなく続けられた神事も沢山あります。なにより、神奈子様。今日まで、貴方様のその御姿を見ること叶わずとも、それでも信仰される方々は大勢居られました。私のように、こうして直接、言葉を交わすことすら叶わないにもかかわらず――神奈子様、貴方様は、それでも足りないと仰るのですか」
左の胸に、痛みが走った。
肋骨が折れると、肺に刺さって息をするだけで痛みを感じると、書物で読んだことがあった。ならば、それと同じことが、自分の身体にも起こっているのかも知れない。
だから、どうした。
「何故、此処では足りず、幻想郷では足りるのですか」
骨など、何本折れても構わなかった。
神奈子に自分の想いを吐露することこそ、何倍も重要だった。
「あの毎日来られるお婆さんでは、足りないのですか。あの気弱そうな、私の話を熱心に聞いてくれた青年では、足りないのですか。これまでに御社に参拝された、老若男女様々な人々の信仰では、足りないのですか」
舌の奥に、苦いとも臭いとも言えない生暖かさを感じた。
血が滲んでいたのかも知れない。
だから、どうした。
私はもう一度、自分自身を滾り立たせた。
「神奈子様、思い直してください」
神奈子の顔が、ぼやけて見えなくなる。
溢れた涙を拭き取る時間も、惜しかった。
「人々は信仰を、貴方様のことを、諦めてはいません。貴方様が思っている以上に、諦めてはいないのです」
「無理だよ、東風谷」
硬い声が、耳朶を打った。
細められた赤い瞳は、痛々しいほどに静かなものだった。
「科学の蔓延する土地に、私の求める信仰は育たない」
「見限られるのですか、神奈子様」
「言ってしまえば、そうだ。科学の蔓延していく時代の流れで、信仰は薄まっていった。水が、低き場所へと流れていくかのように、停滞していった。科学の申し子とも呼べる人間が、増えていった。かつての信仰心は薄れていき、神社は形骸化していっている。人々の訪れが多いか少ないかの問題ではないのだよ。すでに、そんな数の問題では御し切れなくなっている。先程、お前は言っていたな、東風谷。科学で叶えられない事柄は多く、突き詰めれば哲学と契合してしまうと。だが、それでも人間は科学を信奉している。時代が進んで進歩が進めば、科学さえ進めば、全てはいずれ解明できると信じている。その思いは、すでに信仰の域へ達していると、私は考えているのだ。だからこそ、私たちへの信仰が入り込む余地がないことを、自覚している」
神奈子の腕を掴む、私の手に、さらに手が重ねられた。
強い力だった。
「進化論というものを、早苗から聞いた。人間は猿から進化したという説らしい。現在では定説となっているそうだな。それに反する神論者も居るそうだが、現代の人間の考えでは異端と見なされるらしい。前時代的であり、現実を見ない宗教論者の愚かしさを表していると、一笑に付されているそうだ」
神奈子の声は、静かだった。
なにより硬かった。
「だが、極論ではどうだ。証拠が幾つも見つかろうが、結局はその目で確認することは不可能なのだ。猿が人間に成り代わった過程を、逐一その目で見た者など一人も居ない。暴言だが、実際に見ていないものを信じるのは、それだけ困難なのだ。だと言うのに、人間は猿からなったという獣臭い説が、現代での通説となっている。多くの人間から、支持されているのだ。猿という畜生から、自分たちが産まれたという屈辱的な説にもかかわらず、広く信奉されている。カミと同じく、その目で実際に見ることは、適わないというのに」
赤い瞳が、一層深く、私の顔を覗き込む。
胸が詰まるほどに、硬い眼差しだった。
「卵が先か、鶏が先か。箱の中で猫は、どうしているのか。まるで、なぞかけだ。だというのに、人間は科学を――言うなれば、現代を信じている。私たちのようなカミなどより、遥かに信仰している」
「そのなぞかけにこそ、私は人々の信仰を広める余地があると、思っております」
「諦めが悪いぞ、東風谷」
「無論です」
私は、続けた。
「諦められるはずが、ありません。例え、神奈子様が諦めようとも、諏訪子様が見限ろうとも、私は諦め切れない。諦めてはならないのです」
「お前が〝なかとりもち〟だからか」
「それもあります。ですが、それ以上に」
下腹から、精一杯の声を出した。
「お慕いしているからです」
「……私を、か?」
「無論です。神奈子様も、そして諏訪子様も、お慕いしております」
諏訪子は常日頃から、放っておけなかった。
神奈子は、どことなく避けてきた。
しかし、眼前で物悲しそうに諦めの言葉を吐いた神奈子は、どうあっても放っておけなかった。強いと思ってきた神奈子の弱々しい声は、堪えられなかった。
「私は幸せ者です」
「距離を開けていたと、お前は私に言った」
「そうした関係も含めて、私は幸せ者です。私のように、神奈子様と言葉を交わし、諏訪子様と酒宴を交わすなど、他に出来るものを私は知りません。その御姿を、一目見ることすら叶わない人々ばかりです。ですが、それでも人々はカミを信じ、信仰しています」
「形骸化しているとは、思わないのか」
「形が残るからこそ意味が生じます。そういった意味でも、私は此処に信仰の余地があると、疑っておりません」
「楽観的だ。私などより、お前の方が遥かに、過去に囚われている」
「そうかも知れません。ですが、それでも」
神奈子の腕を握るその手に、私は力を入れた。
「私は、諦めません」
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」
「神奈子様」
「この言葉を、お前は私に抱かないのか。私は、此処より遷ると言ったのだぞ」
「仰る意味が分かりません」
「東風谷」
「例え、明日この身が、無念の内に朽ちるとしても」
赤い瞳を、真っ直ぐ見つめた。
「お慕いすることに、変わりはありません」
「お前は、私のことを嫌っていると思っていた」
「意見が異なることはあっても、嫌うことなどありません。況してや、違いなどあって当然です」
「疎ましさは、感じていただろう」
「……正直に申し上げれば、どうして私の意見に耳を傾けて頂けないのかと、躍起になったこともありました。今でも、多少はあります。心の奥に、こびり付いております」
「それでも、嫌ってないと言うのか、東風谷」
「私は弱い。身体は勿論、心とて、神奈子様には到底、及びもしません。しかし、そんな私でも、あえて言わせて頂けるのなら、神奈子様」
「東風谷」
「お嫌いになる訳がありません」
「私は、お前を疎ましく思ったのだぞ。お前は連れて行かないと、お前を見捨てたのだぞ」
「それでも私は、神奈子様をお慕いしております」
「弾幕勝負として、お前の決意を弄んだ」
「構いません」
「諏訪子の子孫であると、うさを晴らそうとした。早苗を、此処から攫うと言った」
「構いません」
「答えろ、東風谷」
神奈子の腕が、振るわれた。
私の身体は宙を舞い、地面に落ちる。風を呼んだので、着地は出来ていた。
五歩ほど、神奈子との距離が開く。
「お前は、私が憎くはないのか?」
「お慕いしております」
「答えになっていないぞ、東風谷!」
神奈子の怒声とともに、風が巻き起こる。
龍のいななきのような音色には、哀しみが確かに聞こえた。
「私は、私が憎くないのかと、そう聞いたのだぞ。答えろ、東風谷!」
「お慕いしております」
「まだ言うか!」
暴風が、右手から薙いだ。
呼び起こした五重の五芒星が、それを防ぐ。たわむことも、軋ることもなく、神奈子の風は霧散した。
息を呑む気配が、神奈子から伝わる。
「憎いなど、どうして思うのでしょう」
「それだけの仕打ちを、私はお前に強いてきた」
「神奈子様、私は幸せ者です」
「何故」
「今もこうして、神奈子様と相対し、言葉を交し合えられるからです」
手中の祭具を翻した。
私の身体を取り巻く風が、渦を巻く。
「即ち、私の言葉は祝詞となります。私がこうして一字一句を述べるだけで、カミへと願い届ける祝詞となるのです。これ以上の幸福が、カミに仕え奉る〝なかとりもち〟としての幸福が、果たしてあるでしょうか」
「言葉が交わせる故に、私はお前に無理を言ってきた」
「相違が、そうさせました。互いに芯を曲げないからこそ、私たちは議論を交わしました。確かに、私にとって神奈子様が御遷りになることを決めたのは悲しい事実ですが、それは決して不幸ではありません」
「私は、遷ると決めた。それは、この地との決別だ」
「もとより、これは弾幕勝負だと、神奈子様は宣言されました」
私の言葉に、神奈子はその顔を、鋭く改めた。
「私に勝機をお与えになると、神奈子様は宣言された」
「諦めないとは、そういうことか。東風谷」
「最初に、言ったとおりです」
渦巻いた風が、幾つもの小さな竜巻となる。
布陣の如く、それらを侍らせながら、私は神奈子を見据えた。
「私は〝なかとりもち〟として、貴方様にお伝えすることに、全力で努める所存です」
「ならば、私も今一度、問おう」
一歩、深く踏み込んで、神奈子は言った。
二対四柱の御柱が、私へと向いた。
「止めるのか、この八坂神奈子を」
「畏れ多くもこの神事に、神奈子様が弾幕勝負を見るならば」
祭具を、振るう。
竜巻は一斉に、神奈子へと肉薄した。
「私はそれに、全力でお答えする所存です」
すべての御柱の先端が、火を噴いた。
光とも熱ともつかない奔流が、迫る竜巻をすべて引き千切る。
「私を、言葉でかどわかしたつもりか、東風谷」
吼えるような、神奈子の声が聞こえた。
「結局、お前は私を止めたいのだろう。私の幻想郷への旅路を邪魔したい、違うか」
「そうかも知れません」
「はぐらかすな」
神奈子が、掲げた両方の手のひらを、ぐるりと回した。
大きなハンドルを回すかのような仕草とともに、一際大きな風の塊が、うねった。
「諏訪子同様、お前の言動は回りくどい」
風の塊が、鎌首をもたげた大蛇となって、私へと迫った。
「真っ直ぐ物を言えるよう、頭を冷やせ」
顎を開いた風の塊を、私は身体に鞭打って、よろけながらやり過ごす。
蛇で言うなら胴体とも言うべき風の最中へと、祭具を突き入れる。
「肝は何度も、冷えております」
風の大蛇は、一際大きくのたうち、霧散した。
その鱗の一枚一枚が、小さな蛇、小さな蛙、小さな五芒星へと、鮮やかに姿を変える。皆一様に、淡い緑光を帯びている。
祭具を振るい、風を起こす。
その勢いで、緑光の群像は神奈子へと群がった。
「小賢しい」
神奈子が悠々と、一歩を踏み込む。
それだけで、群がる緑光の群像はすべて分厚い氷に覆われて、大地へと落ちる。
「物言いも、力の使い方も、お前は小賢しい」
「真正面から、神奈子様に抗える力など、持ってはおりません」
「鼠のように凌ぐではないか」
だあんと、神奈子の身体が宙を舞った。
三メートルほどの氷柱が、その軌跡を追うように競り上がる。神奈子が足をついてなお、崩れ落ちることはなかった。
「だが、それも我慢の限界だ」
進軍を制するかのように、神奈子は厳かに右手を上げた。
ある意味、それは事実であることを、私はすぐに思い知った。
「お前は結局、私を止めたいようだ。どれだけ言葉で取り繕おうとも、最後にはそれに行き着く。ならば、私はそれに全力で抗わなければならない」
あの御柱もどきが、夜空に泳いでいた。
先程の比ではない。数十にもなるほどの御柱もどきが、一柱一柱に勇魚の如き勇壮さを湛えながら、私へと向けられていた。
御柱もどきの軍勢を背に、神奈子はその赤い瞳を一層細める。
「許せとは言わん。だから、東風谷」
右手が、下ろされる。
「潰れろ」
数十の御柱もどきが、一斉に降り注いだ。
私に向けて、私の周囲に向けて、更にはまったく別の場所に向けて、轟音とともに降り注ぐ。土煙と、それ以上に大地を穿った御柱もどきの影によって、何も見えなくなる。
立っていることだけは、なんとか理解できていた。
「私は言ったはずだぞ、東風谷」
冷たい声が、降ってきた。
「潰れろ」
再び、轟音とともに幾本もの御柱もどきが降り注ぐ。
驟雨の如く、降り注いでくる。止むことのない質量の雨が、降り続ける。
身体を、何重もの五芒星で覆って、私はやり過ごしていた。それでも、芯まで揺さぶってくるほどの衝撃は、消し切れない。
「諦めろ、東風谷」
轟音の最中で、その声だけは不思議と届いた。
「その信条ごと、潰れろ」
一際強い衝撃が、私の左肩に走る。
枝木を捻じ切るような音が、聞こえる。
「押し潰されて、ぶっ潰されて、諦めろ」
痛みに食い縛った私の横を、御柱もどきが穿つ。
「諦めろ、東風谷」
「私は」
空いている手中に、小さな風を呼ぶ。
「私は、諦めません」
屈みながら、風を足元へと叩きつける。
瞬く間に沸き起こった風は、土煙、御柱もどき、周囲の諸々を吹き飛ばした。
睥睨する、神奈子と目が合う。
その赤さを認める前に、私は祭具を振るった。
身体を覆っていた何重もの五芒星を、そのまま大地へと彩らせる。ほのかな緑光を帯びた大地を見てもなお、神奈子の顔は硬かった。
「諦めろ、東風谷」
「神奈子様、私は諦めません」
大地が隆起する。
競り上がった巨大な蝦蟇は、幾つもの五芒星が、解けて形作っていたものだった。私と、神奈子との間に、立ち塞がるように顕在する。
「諏訪子の血か、私の前に蝦蟇など」
緑光の大蝦蟇は、わずかに跳躍した。
緩慢な動きで、神奈子が立っていた氷柱を、その質量で押し潰す。
「小癪」
神奈子は、軽やかに大蝦蟇の背へと跳躍していた。
空へと掲げたその先には、先程の御柱もどきが、再び漂っている。何十もの数が寄り集まり、一つの巨大な円柱を模っていた。
軽く、神奈子は投げ下ろす仕草をする。
巨大な円柱は、鉄槌の如く落下し、緑光の大蝦蟇を貫いた。
大蝦蟇の口に当たる部分が、大きく開かれる。
「諏訪子の血が、そうさせたか。面白いが、私に蝦蟇など」
「違います。神奈子様」
落下した円柱に立つ、神奈子と視線がぶつかる。
「僭越ながら、諏訪子様と神奈子様」
「なに?」
「二柱、両方です」
開口した大蝦蟇から、長大な舌が覗いている。
厳密には、それは舌ではなかった。
「蛇」
鎌首をもたげた緑光の大蛇を見て、神奈子は小さく言った。
だらりと伸びた大蝦蟇の舌は、中ほどから大蛇へと成り代わって、神奈子へと肉薄していた。呑み込まんばかりに、長大に顎が開く。
「小賢しい」
神奈子の動きは、素早い。
鮮やかなほどの足捌きで、大蛇の顎を難なくやり過ごす。
その胴体へと左手を、躊躇なく突き入れた。
「私の前で、蛇など」
嵐が、その左手から吹き荒んだ。
緑光の大蛇、円柱を模る御柱もどき、貫かれた大蝦蟇など、すべてを消し飛ばす。
「やはり小賢しいぞ、東風谷」
「そうかも知れません」
その嵐の中、私は屈んでいた。
神奈子へと距離を詰めたその先で、美しい貌を見上げる。
「それもこれも、私の諦め切れない心が、そうさせるようです」
私の姿を認めた、神奈子の反応は早かった。
かすかな驚きに目を見開きながら、それでも呼び起こした風の奔流を叩きつけてくる。
私の姿は、風に切り裂かれて、霧散した。
「虚像」
舌打ちをして、神奈子は周囲を見渡す。
「水、光、風祝の術」
「然り」
空を仰いだ、神奈子と向き合う。
驚きを孕んだ赤い瞳は、それでもどこか、嬉しそうに見えた。
「失礼」
「東風谷」
「致します」
祭具を握った手を、落下する身体の勢いそのままに、打ち下ろした。
どぱあんと、二つに爆ぜる音が聞こえる。
不思議なほど、遠いものに聞こえた。
◆◆◆
その女性は、緊張しているようだった。
すらりとした長身が美しい。赤い瞳の映える整った顔立ちは、難しそうに眉をひそめていた。草履を履いた足も、落ち着きなく足踏みをしている。
なにか失礼があっただろうか。
そう思い、私は自分の姿を改める。三度ほど、繰り返し確認してみたが、特に目立ったところは見られなかった。
石灯籠の影から、ひょっこりと小さな影が現れる。
洩矢諏訪子は、女性に近寄ると、いきなり腰の辺りを引っ叩いた。
当たり前のように、女性は抗議の声を上げた。
長身の容姿によく似合う、ハスキーな声が諏訪子へと降り注ぐ。上品と言うよりは、勝ち気な声だった。諏訪子へと向けられたその中には、悪友へ向ける親しみが滲んでいた。
じっとりと目を細めた諏訪子が、二、三、小言を漏らす。
たったそれだけのことなのに、女性は納得しかねるような、それでいて観念しかかったような顔で、押し黙った。
どことなく、可愛らしなと思った。
凛々しいその姿に、不思議と似合っていることが、より一層、そう思わせたのかも知れない。
思わず、私は小さく、笑ってしまう。
弾かれるように、女性の顔がこちらを向いた。
諏訪子は、けたけたと童女よろしく、大きな声で笑っている。
女性は仏頂面で諏訪子を見下ろし、そしてまた、私へと向いた。
ふわりと、鮮やかに微笑んだ。
優しい笑みだなと、沁みるように思った。
◆◆◆
何故、今になって思い出したのだろう。
訝しく思った時、私は自分が仰向けに倒れていることに、ようやく気が付いた。視線の先で、夜空に浮かんでいる星々が、儚く瞬いている。まるで思い出のようだと、なんとはなしに思った。
起き上がろうとして、失敗する。
走った痛みは、苦鳴を漏らしてしまうほどに、激しかった。
「無理はしなくていい」
声は、近くから聞こえた。
思い出に夢見たのと同じく、よく通るハスキーな声だった。
「身体によくない、休め。私が許す。今は寝ていろ、東風谷」
声に反して、私は無理矢理、身体を起き上がらせた。
痛みはなおも走ったが、それでも立ち上がることは出来ていた。
赤い目と、視線が重なる。
「寝ていろと言うのに」
呆れたように、神奈子は言った。
「強情だな、東風谷は」
「諦めが、悪いものですから」
「そうだな。確かに、お前は諦めが悪い」
胡坐をかいていたその身体を、神奈子は立ち上がらせた。
「ならば何故だ、東風谷」
草履が玉砂利を踏む音が、届く。
「何故、外した」
じゃりじゃりと、私に近寄ってくる。
「何故、わざと狙いを逸らした」
神奈子の背は、私などより遥かに高い。
見下ろしてくるその顔は、問い詰めるような言葉に対して、静謐だった。
「何故、私に当てなかった」
「お慕いしている神奈子様に、どうして拳を振ることが出来ましょう」
「はぐらかすな」
「本心を、述べたまでです」
何かを言いたそうに、神奈子は口を開きかける。
しかし、言葉を紡ぐことはなかった。
「何度も思いました。実際、何度も試みました。しかし、結局、出来なかった」
「お前が躊躇していることは、最初の一撃から分かっていた」
「さすが、神奈子様です」
「だからこそ、途中からお前を焚きつけた。実際、そこに託けた。弾幕勝負とやらを試してみたかったのも事実だ。私は、お前に容赦をしたつもりは、なかった」
「それでこそ、カミである神奈子様らしい。貴方様の信条に、なんら反していない」
「お前の信条には反していたはずだ。少なくとも、お前の望むものとは、私は正反対に動いていたはずだ」
「私は、反しておりません」
痛みは徐々に引いている。
祭具を握り直して、私は続けた。
「先行きの見えない神事を執り行い、己の気持ちを祝詞としてぶつける。それさえ出来ていたならば、私は私の信条に反したとは、一欠けらも思ってはおりません」
「ならば何故、最後に外した」
「神奈子様に拳など、振り下ろせなかった」
「答えろ、東風谷」
「もとより」
神奈子の言葉を遮り、私は言った。
「貴方様の御遷りを、本気で止められるなど、思ってはおりませんでした」
「それは諦めではないのか」
「違います。私は結局、神奈子様に卑しい嘆きを吐き出すことを、諦め切れなかった。黙して、その門出を祝福することは出来なかった。貴方様の仰るとおり、小賢しい身です」
「そうではない。お前は、私を止めるなど思っていないと言った。それこそが、諦めではないのか」
「違います。もとより、カミへの願いが全て届くなど。そう思うのは、傲慢です」
居住まいを直した。
左肩の痛みが、もどかしかった。
「私は、理解しておりました。神奈子様が、御遷りになると決意された、あの時から。その神意を覆すなど、不可能であることを理解していたのです」
「ならば、何故わざわざ応じた」
「理解していながら納得し切れなかった。そんな、つまらない我侭の結果です」
「弾幕勝負を試すと、私は言ったはずだ」
「此処は、まだ幻想郷ではありません。遊戯など、遊戯以上の意味を持てることは少ないのです。況してや、忘れ去られた者どものための遊戯など」
目を、伏せる。
「如何ほどの意味が、此処にありましょうか。勝ったか負けたかなど、私如きが神奈子様に抱けるはずがない」
「東風谷」
「お付き合い頂き、ありがとうございます」
私は、頭を下げる。
腰を折って深々と下げた。
「私のようなものに、ここまでお付き合い下さり、本当にありがとうございます」
「やめろ、東風谷」
「神奈子様の御身体に、徒に触れたこと、お許し下さい」
「やめろと言っている」
「あのような、数々のつまらぬ妄言を吐いたこと、不敬の極みと」
「やめろ!」
肩が掴まれ、引き起こされた。
哀しみと怒りで揺れる赤い瞳が、私を見つめていた。
「やめてくれ、東風谷」
「神奈子様、私は」
「自分を否定することは、私が許さない」
「しかし、私は」
「構わん。お前の信条と、私の信条が違ったものであるのは、確かだ。お前の理想と私の理想は、相反するものだった。それは不幸だ。だが、所詮は不幸でしかない。不運とも呼べる。だからこそ、卑下する理由などお前は勿論、私にだって含まれてはいない。だからこそ、お前が痛む身体を酷使してまで、私に詫びる必要はない。自分の信条を、自分で嗤う必要などない。現に、お前は私に向かって、言うべきことを臆することなく、言ってきたではないか。そこに、恥じる必要や詫びる必要が、一体何処にあると言うのだ。お前は、私に伝えたではないか。面と向かって、朗々と読み上げたではないか」
「神奈子様」
「頭など、下げないでくれ」
懇願する響きは微塵もなかった。
「お前との神事、本当に、楽しかった」
かくりと、膝から力が抜けた。
崩れ落ちそうになった身体を、神奈子がその手でしっかりと、支えてくれていた。
「お慕いしておりました」
「お前とはじめて会った日のことは、私も覚えている」
「今でも、お慕いしております」
「私と抱いているものが違うことは、会う前から知っていた。そこが気掛かりであり、お前とどう接してよいのか、悩むことになった。それ以外では、お前は優秀だった。優秀であると、今も疑っていない。これだけ、思いの丈をぶつけてきた奴は、お前がはじめてだった」
「黙って見送ることも出来ない、そんな諦めの悪い、人間です」
「カミは人に依存してはいけない。それは同時に、人はカミへと依存してはいけないことも意味している。時には、その信仰を疑い、問い詰めること、突き詰めることも必要だと、私は思っている。言うなれば、信仰する上での心の修行だ。お前はその点、よく出来ている。大した奴だと、この日この時になって、ようやく分かってやれた」
「神奈子様は、格好良かった。今でも、格好良いと思っています。そんな御方が御祭神であり、そんな御方と言葉を交えられることが、とても誇らしく、幸せでした」
「私もだよ、東風谷。疎ましく感じていた頃の自分を、殴り飛ばしてやりたい」
「……こんな時、どんな顔をして良いのでしょう」
「どうした」
「神奈子様が御遷りになる、それがとても悲しい。だと言うのに、幸せが玉のように、湧き出てくるのです。ほわほわと綿毛のように、私の胸を満たしてくる」
はらはらと、涙が頬を伝っていく。
止めようと試みるのに、止まらない。止められなかった。
「神奈子様、私は一体、どんな顔を」
「今は、止めなければならない」
優しさに、硬さを湛えた声が、届いた。
滲んだ視界の中で、神奈子は遠くを見つめていた。
「早苗が、帰って来る」
「えっ」
「まだ遠い。しかし、迎えが必要だろう」
頬を、ぐしぐしと強めに擦られる。
袖が濡れることなど気にした様子もなく、神奈子は私の涙を拭った。
「言って、あげてくれ」
「しかし」
「私のようなカミでは無理だ。これは、お前でなければならない」
「神奈子様」
「私は、決して早苗の親ではない」
赤い瞳が細められる。
「また、後で話そう」
それだけを残して、神奈子は境内を去った。
誰も居なくなった境内を、改めて、私は見渡した。
あれだけ暴れたというのに、境内に荒れたところは見られなかった。玉砂利は竹箒で掃き清めたかのように、均されている。よく見ると、用意してあったもみの木などが、なくなっていた。
神奈子が、片付けてくれたのかも知れない。
立ち去った後に向けて、私は頭を下げた。
踵を返し、駆け出す。
その最中、はしたないながらも、装束の袖で顔を強く拭った。早苗に、涙の跡は悟られたくなかった。見咎めれば、心の優しい早苗のことである、心配するに違いない。無闇に心配させたくはなかった。
気を取り直すつもりで、ぴしゃりと頬を叩いた。
「早苗」
無機質な白い街灯の下、ゆっくりと歩く影を見つけた。
黒い長髪のかつらの下、早苗の顔は沈んだように、わずかに俯いていた。
「早苗」
もう一度、今度は強く、呼びかける。弾かれたように、早苗の顔が上がった。
息を弾ませ、傍へと駆け寄る。
身体の痛みは、不思議と感じなかった。
「どうしたの」
早苗は、それだけを言って首を傾げた。
「泥だらけ」
「これは」
自分の格好を見て、返答に詰まった。
着替えることを失念していた。所々に泥が跳ねた白装束は、必要以上に汚れが目立った。
「こけた」
「こけた?」
「そう、こけた」
取り繕うように、私は笑った。
我ながら苦しい言い訳だったが、事実を話す訳にはいかなかった。
「それより、早苗こそ、どうだった?」
「どうだったって」
「友達に、会いに行くって、書き置き」
「ん」
「うまく、出来た?」
「うん」
こくりと、早苗は頷いた。
歯切れの悪い返答は、早苗にしては珍しかった。
「お別れは、言えたよ」
「それじゃあ、御社まで歩こうか」
「ん」
言葉少なく、並んで歩いた。
私の問い掛けに、早苗はなおもたどたどしく、短めに答えるだけだった。お喋り好きであり、口の達者なところもある早苗にしては、やはり珍しかった。一言二言だけで、会話が終わってしまう。
社殿に帰っても、その様子は変わらなかった。
「早苗、着替えよう」
「装束のこと?」
「着付けは、手伝うから」
「ん」
風祝としての、青を基調とした衣装を取り出す。
早苗のための特注品だった。代々、正式に御社の跡を継ぐ際に、新調される逸品である。新品の装束特有の、張りの強さが感じられた。
「もう、着ないかな」
下着姿の早苗が、自分が脱いだ服を見て、言った。
「制服。着る機会なんて、もうないかな」
「寂しい?」
「ん」
袖に手を通しながら、早苗は頷いた。
「そう考えると、やっぱり寂しい」
上着の装束の具合を整えながら、早苗は小さく呟く。
美しい青色の袴を広げて、手渡した。
「ありがとう」
「早苗」
脱ぎ捨てられたままの制服を、私は折り畳んだ。
「持って行きなさい」
「でも」
「思い出まで、置いて行く必要はない」
畳んだ制服を傍らに置いて、私は早苗の腰に手を回した。
袴の紐を整える。
私と違い、身体の線が細い早苗は、昔ながらの装束を着るにも一苦労だった。こうして、最後に私がきっちりと締めなければ、時間とともに緩まることも少なくなかった。早苗がまだ小さい頃、そうやって袴を引っ掛けて転んだことを、私は思い出していた。
「神奈子様とて、それくらいは許してくれる」
「でも、八坂様は決意を新たに、御遷りになられるのよ。なのに、私がそんな浮ついた考えだと、迷惑が」
「無理をしてはいけない」
黒髪のかつらを、そっと外す。
私と違い、早苗には風祝としての緑髪が、とてもよく似合っていた。翡翠のように目にも鮮やかな色合いが、小振りな早苗の顔を引き立てている。それだけで、何処に出しても恥ずかしくない、自慢の娘だと自負できるほどだった。
緑髪の頭を、ぽんぽんと軽く撫でる。
わずかに抜かれた身長は、それでも見上げるほどではなかった。親としての自尊心とでも言うべきものが、ほんの少しだけ満たされる。
早苗は俯いていた。装束を羽織った肩が、か細く震えている。
愛おしさが、込み上げる。
「絶対、無理をしてはいけないよ、早苗」
「おあうあん」
早苗は、泣いていた。
可愛らしいその顔を、くしゃくしゃにしながら、ぼろぼろと泣いていた。
「おあうあん」
とさりと、早苗の顔が胸に飛び込んだ。
「おあうあん」
背中に、腕が回されている。早苗は、なおも私の胸に顔を押し付けている。
涙の跡を、悟られなくて良かった。
まず、それだけを思った。
「おあうあん」
「神奈子様から、聞いているとおり」
「あい」
「私は此処に残る」
「あい」
「寂しい?」
「あい」
「私も、寂しい」
両腕で早苗を抱いた。
この腕で抱え切れないほどに、涙声で震えるその身体は、大きくなっていた。
「寂しいけど、私は此処に残る」
「あい」
「神奈子様の仰るとおりに、早苗は頑張らなければならない」
「あい」
「神奈子様の言うことを、ちゃんと聞くこと。いいね」
「あい」
「けれど、無理だけはいけない。無理をしてはいけない」
鼻をすすって、早苗は小さく、頷く。
なおも震える緑髪に、私は顔を埋めた。
泣いてはいけない。早苗の綺麗な髪を、私の涙などで汚してはいけない。大事に思うからこそ、愛おしく感じるからこそ、そんな有り体なことを気にしてしまう。
それでも、溢れる涙は止められなかった。早苗の髪を、したたかに濡らしてしまった。
「身体だけはね、早苗」
もっと、伝えたかった。
時間の許す限り、早苗の身体をこうして、抱き締めていたかった。
もっと、気の利いた言葉を、掛けたかった。
「身体だけは、絶対、大事にすること」
だと言うのに、思い付かなかった。
当たり障りのない言葉だけしか、浮かんでこなかった。
「神奈子様の言うことを、ちゃんと聞きなさい。神奈子様の望みを叶えるために、頑張りなさい。辛いことがあっても、挫けてはならない。それだけ、早苗は頑張らなければならない」
「あい」
「でも、無理をしてはいけない。身体を大事にすることを、忘れてはいけない。分からなければ自分で考えて、自分で動く。それでも分からないなら、神奈子様の仰ることに、耳を傾けなさい。神奈子様の言ったことを、思い出しなさい。神奈子様は、早苗を見守ってくれています」
「あい」
「早苗」
顔を押し付ける早苗を、肩に添えた手で引き剥がした。
「行ってらっしゃい」
「おあうあん」
早苗の顔は、涙と鼻水で汚れていた。顔を埋めていた私の装束も、ひどく濡れていた。
お世辞にも、綺麗な顔とは言い難かった。早苗はそれだけ涙を流し、鼻水も垂らしていた。
それでも愛おしかった。
愛おしくないはずが、なかった。
「おあうあん」
早苗が、また胸に飛び込んできた。
ぐしぐしと、強く顔を埋めながら泣いた。
「おあうあん」
左手を、さっきよりも優しい力で背中に回して、抱き寄せる。
右手では、早苗の頭を、軽く撫でた。
「おあうあん」
涙で濡れる声が、一際大きく、部屋に響いた。
本当に、大きくなった。
呟きは言葉ではなく、涙となって頬を伝った。
泣きじゃくる早苗を抱き締めながら、私もまた、泣いた。
◆◆◆
「覗くつもりはなかった」
夜の境内に戻ると、神奈子が立っていた。
腕を組み、自分を恥じるかのようにかすかに俯きながら、それだけを言った。
「早苗の泣く声が聞こえた」
「大きかった、ですからね」
「私が遷ることを伝えた時は、あんなにも取り乱さなかった。だからこそ、安心もしていた。いざ間近となり、その重みを感じ取ったのだろう。心の移ろいとは、難しい」
俯かせた顔を、神奈子は上げた。
「或いは、私は人間の心を読み取ろうとしていなかったのかも知れない」
「神奈子様に、否などありません」
「いいや、私は思惑のどこかで、人間を蔑ろにしているのかも知れない。現に、人間の世界である此処から、幻想郷へ遷ろうと画策している。それは人間を、人間の信仰を見限ろうとしていることに、変わりはないのだ。どれだけ取り繕おうともな」
硬いその顔が、ふっと微笑んだ。
「早苗は〝現人神〟であることを選んだ。だからこそ、私も傍らにと考えている。幻想郷へ連れて行くことも、真っ先に決めた」
「早苗としても、望ましい限りでしょう」
「だが、それでも早苗は〝人間〟だ。一端の人間だからこそ、笑いもするし泣きもする。カミとて感情はあるが、人間のそれと違い、謙虚ではない。現人神である早苗だからこそ、カミでもあり人間なのだ。私は、そんな当たり前の事実に、ここに至ってようやく、気付けたのかも知れない」
「神奈子様に、そこまで早苗のことを考えて頂けたのなら、私としては望外の喜びです」
「あの子の、あんな姿を見ても、そう思うか」
腕組みを解き、神奈子は歩み寄ってくる。
「早苗にはお前が必要だ」
「私は、自分が早苗にとって必要だとは思っておりません」
「別れを惜しむ、あれほどの涙を見ても、まだ言えるか」
「早苗には、どこに出しても恥ずかしくない、自慢の娘だという自負があります。あの子の真っ直ぐな瞳に、私の影を見つけさせては、かえって邪魔となることでしょう。あの子の進む道は、それだけ真っ直ぐであり、私などが入る余地はないと思っています」
「早苗は鳥のような娘だ。鳥には、帰る巣が必要となる」
「巣立ちの時です。中途半端な巣の残骸は、渡り鳥のような早苗には、道筋を惑わすだけとなります」
「早苗だけではない」
笑みの引いた、神奈子の顔が迫った。
「諏訪子にも必要だ。未練のないように振舞っていても、あいつとて、やはりカミだ」
「いいえ、諏訪子様に、私が必要なのではありません。強いて言うなら、私に、諏訪子様が必要なのでしょう」
「ならば、それでも構わない。カミにとって信仰が必要不可欠であるように、お前が諏訪子を必要としているならば、それはまた逆の事実も意味している。お前は、お前自身が気付いている以上に、諏訪子にとって必要なのだ」
「先だって、諏訪子様と話しました。私は〝なかとりもち〟である以上、伝えるべきなのは諏訪子様ではなく、神奈子様なのだと」
「そういうことを言っているのではない、私は」
「神奈子様に、お伝えしたいことは、全て吐き出しました。私は満足しております。恐らく、諏訪子様とて、それで満足して下さることでしょう」
「違うのだ、東風谷。私には、お前が」
懇願するような言葉とともに、神奈子の手が肩を掴む。
神奈子のそんな声を耳にするのは、はじめてのことだった。
「お前が必要だ、東風谷。私には、お前が必要なのだ」
肩が揺さぶられ、神奈子の顔が一層近付く。
「この時になって、ようやく分かった。こんな時まで理解せず、お前を遠ざけてきた私を、許してほしい」
「神奈子様」
「意見を異なる者が、傍に居ることこそ重要だと、ようやく分かった。同じ道筋を見る、私の背に着いてくる者たちばかりでは、見過ごすものが多いことを、私はようやく理解できた。異議を唱える者、疑問を呈する者が居て、はじめて見えてくるものがあることを、先程の神事で心に刻んだ。新たな発見が出来たのだ、東風谷。だからこそ、私はあの神事が楽しかったと、言ったのだ。他ならぬ、お前に教えられたのだ、東風谷」
赤い瞳は、私から逸れることはない。
真摯な色が湛えられていた。
「お前の、諦めずに伝えられたことに、動かされた。カミである私が、人間であるお前に心揺さぶられたのだ。驚きも感じたが、今はそれとは比べ物にならぬほどに、喜びが沸き起こっている。充実とも言える。嬉しいのだよ、東風谷。異なる者と言葉を交わし、そこから得られる新たな境地に、私は喜びを感じている」
「神奈子様」
「だから、私にはお前が必要なのだ、東風谷。お前は、自分は幸せ者であると言ったな。カミである私と言葉を交わせるからこそ、幸せであると」
「今も、変わってはおりません」
「ならば、その幸せを、私にも分けてほしい」
肩を握る手に、さらに力が篭もった。
「カミである私には、お前のような〝なかとりもち〟が必要なのだ、東風谷」
「……勿体無い、御言葉です」
「思ったことを述べたまでだ。これは私の願いなのだ、東風谷」
「ありがとうございます」
肩に置かれた手を、そっと外す。
「ですが」
真正面から、神奈子の顔を見つめた。
「お受け出来ません」
「何故だ」
「神奈子様たちと、遷ることは出来ません」
なおも言い募ろうとする神奈子に、私は首を横に振った。
「此処から去ることなど、私には出来ません」
境内を、ほんの数歩だけ、ゆっくり歩く。
風が、ふわりと顔を撫でた。
秋の薫りが、私の鼻をくすぐった。
「私の信仰の目指すところは、科学の蔓延する此処にこそ、信仰を伝え広めることです。神奈子様の目指すところとは、見ている方角が違います。無論、神奈子様が間違っているなどとは、露ほども抱いておりません。ですが同時に、私は私の目指すところが間違っているとも、況してや愚かだとも、実現不可能だとも、思ってはいないのです」
身体ごと、神奈子へと振り返った。
「それに、私は此処を、此処に住む人々を、そこに根強く残る信仰を、諦めてはいないのです。細々と、しかしながら連綿と、教え伝えた信仰の礎があるからこそ、諦め切れないのです。御社へと参拝される人が、例え少なくとも、一人だけになろうとも、諦め切れないのです。何故なら、そこには儚くとも、手の届かぬほどに尊い信仰が、存在しているからです。科学が蔓延しようが、哲学と成り果てた懊悩に支配されようが、手を合わせて祈る人々の信仰は決して消えない。消えないと信じています。例え砂金の粒ほどでも、決して多くなくとも、残っているというのなら、私はそれをすくい上げ、祈りたい。信仰を抱く人々に、祈りたいと思っているのです」
再び、神奈子の元へと近寄る。
口を挟むことなく、神奈子は静かな顔で、私の言葉に耳を傾けていた。
そのことが、とても嬉しかった。
「こんな時代だからこそ、強く思うのです。信仰が、ともすれば蔑ろにされ、嘲りの対象と受け取られかねない時代だからこそ、私は信仰を見つめたいのです。真摯に、世論に惑わされることなく、自分の思いに則って、なにより時代の法に則って、見つめていきたいと思っております。信仰は尊い。参拝される人々、神奈子様、諏訪子様、そして早苗の成長する姿を見つめてきたからこそ、私はそこに根付く信仰も見つめてきました。尊い信仰を、この目で見つめてきたのです。だからこそ、そんな信仰が蔑ろにされかねない、時代のうねりに抗いたい。信仰が尊いことを、少しでも伝え、広めていきたいのです。儚くとも尊い信仰を、私は」
視線が、神奈子のそれと重なった。
「此処から、去ることは出来ません」
決然と、私は言った。
「神奈子様の御意向に沿うことは出来ません。誠に、申し訳ありません」
「……そうか」
長い息を、神奈子は吐いた。
落胆しているようには見えなかった。
「正直、お前がそう答えることは、想像していた」
「申し訳ありません」
「構わない。お前が望むのなら、私にそれを止める術はないよ」
赤い瞳が、優しく細められた。
「しかし、堪えるな」
口元だけを緩めて、神奈子は微笑んだ。
「願いが叶わないことが、これだけ堪えるとは」
「神奈子様、誠に」
「構わないよ、東風谷。もとより、私から言い出したことだ。それに、願いが叶わぬことの辛さもまた、この場で学べたとも言える。お前には、学ばされてばかりだな、東風谷」
「私も、神奈子様には沢山のことを、学ばせて頂きました」
「私など、それほどでもない」
神奈子は、視線を私から外した。釣られるように、私はその視線の先を追った。
夜闇の中に、社殿が佇んでいる。
神奈子に仕え奉り、諏訪子に語り飲み明かし、早苗を見守り育ててきた、神社だった。所々に痛みも入ってはいたが、まだ充分、現役の御社だった。
言葉もなく、私たちは見つめる。
切り出したのは私からだった。
「お願いがございます」
「許す、言ってみよ」
「幾つもあります」
「構わない。それくらい報いなければ、私は納得し切れないだろう」
「ありがとうございます」
神奈子へと、私は向き直った。
「御社ごと、御遷りになって下さい」
「東風谷、それは」
「構いません。住む場所など、幾らでも探せます。御社は、カミがおわせられてこその御社です」
「しかし、それはお前にとって」
「構いません、次を言います」
「東風谷、私はまだ言いたいことがある」
「早苗のことを、よろしくお願いします。厚顔無恥なところも少々ありますが、それでも良い子です。真っ直ぐですが、時には迷うこともあるかも知れません。その時は、どうか導いてあげて下さい。神奈子様なら、私も安心してお任せ出来ます」
「待て、東風谷。私の話しを聞け」
「次です。これが最後です」
見据えた赤い瞳が、動揺するように揺れていた。
なおも何か言いたげな神奈子に、私は言い募った。
「私のことなど、忘れて下さい」
「馬鹿なことを言うな」
「私の言ったことなど、忘れて下さい。忘れてしまうくらいの信仰を、幻想郷で集めて下さい。妖怪とか人間とか、そんな関係が些細なものに思えるほどの信仰を、集めて下さい。神奈子様の思い描く、いいえ、或いはそれ以上の大いなる奇跡を以って、信仰を集めて下さい。神奈子様なら可能だと、私は信じております」
「東風谷、お前はなにを――」
「私のことなど! 忘れるくらい!」
腹の底から、私は叫んだ。
涙は、出なかった。
「幸せになって下さい、神奈子様」
「東風谷、お前」
「此処では得られないと、神奈子様がお考えになるほどの、信仰を集められる。神奈子様が満足される。幸せになられる。それが、私の一番の願いです」
「お前、そこまで、私を」
「大いなる奇跡を以って、信仰を集められる。そんな神奈子様の願いこそ、私の一番の願いです」
私が言い切るとともに、風が吹いた。
秋の薫りが過ぎ去ってから、神奈子は天を仰いだ。
「東風谷」
「はい」
「お前が言っていたこと、今なら何となく分かる」
「はい」
「どんな顔をすれば、良いのだろうな」
夜空を見上げる神奈子の顔が、どんな表情をしているのか、私からは見えなかった。
光り滴るものは、なかった。
「こんな時、どんな顔をすれば良いのか、まるで分からない」
ゆっくりと、神奈子は私に向けて、顔を下ろした。
「それがお前の願いか、東風谷」
「三つもございます」
「構わない。全て、確かに記憶した」
赤い瞳が、閉じられた。
「特に、最後の願いは印象深かった」
「はい」
「大いなる奇跡を、私は起こすことを願っていた」
「はい」
「決めたよ、東風谷」
瞼が、開かれる。
神奈子の瞳に浮かんでいたのは、深山のように雄大な意思だった。
「独立不撓」
響いた声は、磐座のように厳かだった。
「私は、そんなカミこそを目指す。動くからには、とことん動こう。躍起に思われるくらい、信仰を得ることに奔走しよう。人間も妖怪も関係なく、信仰をこの手に集めようではないか。何者にも縛られず、だからこそ決して依存し切ることのない。そんな信仰こそを、我が身に宿そうではないか。幻想郷の、ありとあらゆる信仰をこの腕で抱き、お前の言ったことを」
「はい」
「幸福を、得ようではないか」
「それが、独立不撓」
「私の奇跡を以って、私は私への信仰を得る」
広げた自身の手のひらを、神奈子は見下ろした。
それを強く、握り締める。
「神社も、境内ごと遷ろう。早苗の面倒は、お前から半ば奪うのだ。これで面倒を見切れなければ、私は私自身を呪ってやる。それくらいの決意は、表しておこう」
「ありがとうございます」
「最後の願いは、そうだな」
神奈子の顔が、ふわりと笑った。
逞しさに溢れたその笑みは、いかにも神奈子らしいものだった。
「約束する」
「はい」
「私は、幻想郷中の信仰を、手に入れる」
「はい」
「独立不撓のカミに、私はなる」
「はい」
「絶対、幸せになる」
「僭越ながら、私も願わせて頂きます」
「東風谷、いや、――」
苗字ではなく、名前で呼ばれた。
神奈子から、そちらで呼ばれたのは、はじめてのことだった。
「お前のことを忘れるかどうかは」
握り拳が、私に向けて突き出された。
「幸せになってから、決める」
「神奈子様」
「そうさせてくれ、私には」
神奈子は、また笑った。
照れ臭そうな、あまり神奈子には似つかわしくない笑みだった。
「お前が来てくれないことが、やっぱり惜しいのだ」
「――はい」
神奈子の握り拳を、私は自分の握り拳で小突いた。
この日、何度目かの秋を孕んだ風が、二人の間を通り過ぎる。
涼しいなと、それだけを思った。
境内の境目である鳥居の向こう側に、私は立っていた。
見つめる先で、境内は風の渦に包まれていき、やがてそれは巨大な竜巻へと変化した。
境内の、丁度中央に、神奈子は立っていた。
腕を組み、かすかに片足へと重心を置いたその立ち姿は、はじめて出会った時と変わらない凛々しさを、醸し出していた。
その傍らを、社殿から飛び出した人影が、通り過ぎた。
風祝の装束を纏った早苗が、私に向けて大きく、手を振った。
最早、隠す必要のなくなった緑髪が、風に煽られてたなびいている。
その下には、泣き顔が浮かんでいた。
ぼろぼろと涙を流し、はしたなく鼻水を垂らしたその顔は、それでも無理矢理に作った笑みのおかげで、余計にぐちゃぐちゃとなっていた。
女の子なのに、はしたなかった。その、はしたなさがまた、愛おしかった。
泣き笑いの顔で、早苗は手を振っていた。
だから私も、なるべくしっかり見えるようにと、大きく手を振った。
境内の隅には、空いた酒瓶が置かれていた。
そこには珍妙な物体が、掛けられている。
円らな二つの瞳が取り付けられたそれは、ひどく見覚えのあるものだった。その物体を、帽子として愛用している諏訪子の姿は、どこにも見られなかった。
諏訪子らしいと感じて、懐かしさが胸をくすぐった。
竜巻は、その勢いを増してゆく。
土煙が巻き起こされ、徐々に境内の様子が見えなくなってゆく。
だから、私は握り締めた祭具を、天高く掲げた。
神奈子に届くよう。
早苗に届くよう。
諏訪子に届くよう。
掲げた祭具から、夜空へと、星が昇る。
皆に届くよう。
願いが届くよう。
明る過ぎる星は、光の尾を引いて、昇り続ける。
皆に届くよう。
家族に届くよう。
星は、天高くで爆ぜた。
大きく、煌々と眼下を照らして、爆ぜた。
竜巻は弱まり、そよ風となる。
境内だった場所には、もう何も残ってはいなかった。
社殿も、鳥居も、玉砂利も。
神奈子の立ち姿も、早苗の泣き笑いの顔も、諏訪子の帽子も。
更地となり、何も残っていなかった。
それでも天高くで爆ぜた星は、煌々と全てを白く染めている。
二礼。
二拍手。
一礼。
それだけを行い、私は祈った。
願わくば、明る過ぎるこの星の光が。
道標のように、家族の道筋を照らしてくれることを、祈った。
◆◆◆
一ヶ月後には、秋の気配に彩られていた。
山の稜線は、赤と黄と緑によって色鮮やかに飾られている。秋晴れの空には、涼しさが感じられた。吹いた風が、私の首筋や脛をくすぐっていった。
境内の跡地には、今も何もない。
しつこく積もる落ち葉を掃きながら、私は小さく息をついた。
あの日から、私を取り巻く環境は一変した。
ガス爆発。
いかにも科学的な理由で、神社消失の真相は彩られた。
私も何度か話を聞かれた。中には、ガス爆発を装った私の犯罪だと、糾弾されることもあった。曰く、娘を殺害、若しくは何か善からぬ行為の証拠を消すため、神社ごと吹き飛ばしたとのことだった。根拠もない噂程度のものだったため、疑いは即座に晴れたのだが、それでも私に向ける懐疑の視線は、少なくとも残っていた。
当然、好い気はしなかった。
しかし逆に、私にとって嬉しいことも起こった。
早苗の安否を気遣い、学友から何度も問い質されたのだ。
正直に答えることは出来なかったが、それでも無事であることは理由を見繕って答えた。事故の直前、留学に向かい無事であると、伝えた。皆が皆、その理由で納得した訳ではなく、だからこそ早苗の安否を心から気遣ってくれていることが、私にもよく分かった。
そのことが、とても嬉しかった。
課題は山積みである。
戸籍、跡地の扱いなど、取り組むべきことは幾つも残っている。それらの課題は、一朝一夕でどうにか出来るものではない。気長に、時を見て取り組んでいくしかないのだ。
今はこうして、掃き清めることに努めればいい。
そういった意味では、信仰ともよく似ていた。
時の経過が、深さを増してゆく。
その流れもまた、私にとっては必要なことだった。
何もない境内跡地に、落ち葉が一枚だけ舞い下りた。拾い上げた先から、また風に誘われて、ふわりと宙を踊る。すっかり色付いた赤味は、神奈子の瞳を思い出させるほどに、鮮やかだった。
神奈子は、どうしているだろうか。
早苗は、諏訪子は、一体どうしているだろうか。
この一ヶ月、何度も思ったことだった。
自ずと笑みがこぼれる。誰も居ないのに、ゆっくりと首を横に振る。思い起こすたびに、詮無きことだと分かっていた。此処に残った私には、どうあっても、この目で確かめることは叶わないのだ。私が勝手に思い描くことは、それだけで失礼に値する。
神奈子は約束してくれた。
信仰を得ると、独立不撓のカミになると。
幸せになると約束してくれたのだ。
それを信じず、何を信じるというのだ。神奈子ならば、信仰を得るために動くはずである。奇跡を起こすと、面と向かって私に宣言してくれた神奈子なら、絶対に。
大いなる奇跡を。
一心不乱の、大奇跡を。
神奈子なら起こす。私は、そう信じている。
落ち葉が、目の前を横切った。埋没していた思考が、瞬く間に現実へと引き戻される。今度の落ち葉は、黄色く色付いていた。諏訪子の、実った稲穂のような色合いの瞳が、思い起こされた。元気付けられたような気がして、私は笑った。
遠い峰を仰ぐ。
緑、黄、赤。
鮮やかな山の彩りが、私のくすぶりを癒してくる。
緑は早苗、黄は諏訪子、赤は神奈子。
そう思うと、不思議と身体の内側から、熱が湧き上がった。暖かいその熱は懐かしさと、それ以上の優しさを感じさせた。
皆、近くに居る。
離れ離れとなっても、家族なのだ。
負けていられない。
「よし」
気合を一つ呟き、私は箒を手に取った。
腑抜けたところなど、見せてはいられない。早苗は、神奈子の言うことを聞いているはずである。神奈子は、そんな早苗を見守りながら、どんな奇跡を起こそうかと思案しているに違いない。諏訪子は、新しい散歩の道でも探すために、好き勝手に出歩いていることだろう。
ならば、私はどうするのか。
決まっている。
「こんにちは」
向こうから歩いてくる人影に、私は呼びかけた。
二つの人影は、並びながら近寄ってくる。
あの老婆は、今日も来られていた。ガス爆発と偽った次の日にも、来られていた。決して急ぐことなく、あのゆっくりとした歩みで、足を運ばれていた。あれから、私の挨拶にも、丁寧に応じてくれるようになっていた。
あの日、話をした青年は、ガス爆発と偽った数日後に、慌てたように来られた。何度も、私を気遣う言葉を掛けてくれたことに、思わず涙してしまったことは、苦いながらも暖かい、新たな思い出である。
歩いてくる二人は、そのどちらでもなかった。
はじめて見る顔だった。
「こんにちは」
もう一度、私は呼び掛けた。
おずおずと、二人は慣れていない仕草で、被る帽子を脱いだ。
ならば、私はどうするのか。
決まっている。
〝なかとりもち〟であり続けることを、私は選んだのだ。
「本日は」
境内を掃く、その手を止める。
精一杯の笑顔に、精一杯の感謝と祈願を込めて。
「本日は、ようこそお参り下さいました」
私は、深々と頭を下げた。
秋を存分に湛えた風が、撫でるように吹いていった。
◆◆◆
幻想郷。
秋。
深山に、奇跡の風が吹く。
目の前の青年は、神妙な顔で耳を傾けていた。
その熱心さに心から感謝しながら、私は続ける。
「より正確に言うならば、適していない、と言ったところでしょうか」
「では、近年に度々見られる宗教の問題については、どうお考えなのですか」
すかさず、青年は問い掛けてくる。
予想していた答えとほぼ同じものだった。
「あれも狂信とは言えず、宗教――信仰するという点では、正しいと言うのでしょうか」
「あえて誤解を招く言い方をするならば、そうです。経典や教義、創始者の言葉といった宗教の根幹に心身を傾け、そして実行するというのは、宗教というくくりでは間違っておりません。その大元ともいえる根幹が、犯罪行為、法律や人道に反していたとしても、その宗教としては根幹なのです。傾倒し、実行すべき教えとなります」
青年が息を呑む気配が伝わる。
若干の気まずさを孕んだ沈黙が、場を満たしていく。
「そうなると、宗教とは必要なのでしょうか」
これも、予想したとおりの答えだった。
「あなたのような人の前で、こんなことを言うのもどうかとは思うのですが……」
「構いませんよ、続けて下さい」
「ありがとうございます」
丁寧に、青年は頭を下げた。
「その言い方だと、宗教は人を縛るものにしか聞こえないのです。法律にも反するし、なにより人道的に問題がある。その人の生活を台無しにし、時には命さえも奪ってしまうのは、やはり間違っていると思うのです。例え、それらの行為が教えに則っていたとしても、それで人を不幸にして良いはずがありません。そうなると、他人への危害を賞賛する宗教など、別に無くても良いのではないか。むしろ、無くなったほうこそ良いとも、僕は思うのです」
「確かに、私もそう思います」
私は、簡素なパイプ椅子を青年に勧めた。
礼を言って座る青年の前に、私も持参したパイプ椅子へと腰掛ける。
相対した人と語り合う。
日時や場所、相手との年齢差などまったく関係なく、私はこの時間が最高に好きだった。
「先程も言ったとおり、教えを遵守するのは宗教として間違っていません。例えそれが、犯罪行為に繋がるのだとしても、宗教としては称えられるのです。信仰しているという点ではなんら問題ない。しかしそれは、あくまでその宗教の内側でしかない。宗教として正しいからと言って、法律に反し、人道的なものを蔑ろにしているのなら、それは恥ずべき行為なのです。誇ることなど、それこそおこがましい。そんな教えなど、さっさと潰えさせるべきだと私は思います。社会に反するものを、私は宗教とは呼びたくありません」
「では、それこそが狂信なのではないですか?」
「あくまで私個人が呼びたくないだけであって、信仰ではあるのです。信仰するという一点では、間違っていない」
「……よく分かりません」
青年は、考え込むように顎へと手を添えている。
「よく分からない。狂信と信仰の違いが、いまいち分かりません」
「当たり前です、違いなど無いのですから」
「え?」
「だから私は、狂信という言葉は適していないと思うのです。狂うほどに信じ込む――突き詰めれば、狂信と信仰は同一のものなのです。両者の違いなど、他者からの千差万別の区別でしか成り立たない。先ほどの話にあった宗教のみならず、受け継がれたものに基づいて神事を執り行う私たちとて、人によっては狂信者だと言われることもあります」
「そんなことなど」
「解析不能な現象など何一つ起こらない土地を、だだっ広く無駄に占有し、紙や木材でかたどられた物体をさも有り難げに扱っている。あなたがたは気が触れているのではなかろうか」
思わず苦笑がこぼれた。
「これを面と向かって言われた時は、流石に堪えました」
確かあれは、まだ私が奉職して間もない頃だったと思う。当初はひどく憤慨したものだが、今となってはああいう考えの人も居るのだと、納得している。
青年は口を挟まず、なんとも神妙そうな顔をした。
「ですが、私のような者はまだ良いでしょう。詳しくは存じ上げませんが、僧侶の方々は日々の食事にも制限があると聞いています。その制限もまた、気が触れていると言われることがあるようです。これと言って禁じられた食べ物もなく、飲酒を許されている私などは、まだ気楽なのでしょうね」
「お酒を、飲まれるのですか?」
「奉納されるものがありますからね。飲まずに捨てるのは、日々の食物に感謝することに反しますし、なにより勿体無い。私自身、お酒が好きだったのは幸いでしたよ」
日が傾きはじめ、影が少し伸びている。
晩夏の日差しはまだ暑かったが、夜の訪れは確実に早くなっていた。
「夏は暑く冬は寒い装束に身を包み、境内を清めることにつとめ、まだ見ぬ神様へと奉り拝礼する。確かに、信じない方々から見れば、私は狂っているようにも見えるのでしょう。信仰する姿を、敬虔ではなく胡散臭いと捉われるようになったのは悲しいことです。しかし、それが現代の考えであり、世の中の人々の考えです。近年、宗教による問題が度々起こっていることも大きいのでしょう。宗教、ひいては信仰するということそのものが、疑惑の眼差しを向けられはじめている。分からなくもないことですが、やはり少し辛いものがあります」
「宗教が……すみません、信仰するということが疎ましがられているからですか?」
「それ以上に、信仰している人々まで疎ましがられていることが、私には辛いのです」
居住まいを直す。
きちきちと、パイプ椅子の抗議する声が耳朶を打った。
「氏子の方々、参拝される方々、その人達まで奇異の目で見られているかも知れない。そう考えてしまうのが辛いのです。皆さん、自分の時間、そして家族との時間を削ってまで、神様に奉仕されているのですから。現に、あなたもこうして旅行の途中で当社に、そして神様にお参り下さいました。それが私にはとても嬉しく、だからこそ疎ましがられていると想像すると、辛いのです」
「そんな、僕には信仰心などとても」
「構いません。神社に興味を抱き、或いはなんとはなしにでも参拝して下さったのなら、私としてはそれで充分なのです。もし、そこからまた興味を持たれたなら、さらに嬉しい。なので、こうしてお声を掛けて下さったことには、実はとても満足しているのです。気になったことがあれば、なんでも仰って下さい。浅学の身ですが、答えられる範囲でなら、極力お答えします」
私が言い終えると、青年はさり気なく、そして照れ臭げに微笑んだ。
つられて、私も頬がふっと緩んだ。
「おっと、話が逸れてしまいましたね。失礼しました」
「とんでもない。僕こそ、出し抜けな質問で申し訳ありません」
「いえいえ……では、話を戻しますと」
青年の顔が、再び真剣なものになる。
「狂うほどに信じ込む、と言うよりはむしろ、周りが見えないほどに信じ込む。私としては、こちらの言葉――〝盲信〟といったところでしょうか、こちらの方がしっくりとくるのです。例えば、夏にも冬にも適さないこの装束ですが、古事に基づくとともに、法律にも人道にも背いてはいません。精々、私が体調管理に気を配ればいいだけです。境内を掃除する、清めるということは、むしろ訪れる方々を清々しい気持ちにさせてくれるでしょう。神様も、参拝される方も気持ち良くなるのですから、恥ずべきことなどありません」
そこで一度、大きく息を吸い込み、吐き出す。
どうやら熱が篭もり過ぎてしまったらしい。胸の内に、冷気を孕んだ秋風が舞い込んでくる。その心地良さに深くまばたきをしてから、私は言葉を続けた。
「法律にも人道にも則る、これが大事なのだと私は思います」
青年の瞳が真っ直ぐ向けられている。
「ここを見誤る、若しくは目を向けようともしなければ、その宗教は敬虔なものではなく危険なものとなる。周りが見えなくなり、人々に幸福を与えるどころか不幸を与えてしまうのです。だから私は、それを〝狂信〟ではなく〝盲信〟だと考えている。盲目の信仰は危うく、なにより悲しいものです。信仰する人々もまた不幸にする可能性を孕んでおります。先ほども言いましたが、私としてはそんなことを強いてしまうものを、宗教とは呼びたくありません。言うなれば洗脳でしょう。決して、許されるものではない」
「……ですが、それも宗教としては間違っていない」
「ええ、古来の日本においても、人身御供という言葉があるとおりです。現在の倫理観からではとても実行されないようなことが、時として正しいものだと扱われた。そこに宗教が絡んでくることも、少なくはありませんでした」
「昔話なんかでも出てくる、人柱のことでしょうか」
「現代では考えられないことです」
「確かに、考えられません」
日の傾きが益々強くなっている。
影の増した青年の顔は、翳りまで増したようにも見えた。
「事実として、何となくではありますが知っていました。昔の日本には、そのような風習があったことを」
「そこですよ。大事なのは」
「え?」
青年の面が、ふわりと上げられた。
「昔のこと――あなたが言われたとおりです。人柱、人身御供という風習は、すでに過去のものとなっています。人の命を捧げることが、神事とは呼べなくなっている。つまり、変わったのです。時代の流れとともに、宗教も変遷した結果なのだと、私は思っています」
「宗教が変わる、ですか? しかし先ほど、あなたは古事に基づくことが大事だと言っていませんでしたか?」
「ええ、言いました」
「……矛盾していませんか、それは」
「あれもこれもと、あるがままに受け継ぐのは愚考です。人道にも法律にも則りつつ、同時に古事に基づく道を思案する。これこそが、カミと人との〝なかとりもち〟である私の役目だと考えています。現に、神事の所作ひとつを見ても、年毎に変わっている場合もあるのです。中には、新たな行事を定め、新たな祭祀を執り行いはじめている御社もあります。こういった試みは、様々な分野の方から賛美両論ありますけれど、私は賛成です」
「新たな祭祀……新しいお祭り、ということですか?」
私が頷くと、青年は、感嘆と戸惑いとがない交ぜとなったような、神妙な溜め息をついた。
「意外でした。お祭りというのは、古くから続いているものばかりだと思っていたので」
「大抵の方が、そう言われます。私としては、江戸時代や明治時代が発祥の神事、或いはお社でしたら、あまり現代との差は感じませんね。どこか新しいなと感じてしまいます」
「……江戸時代発祥は、新しいとは思えないのですが」
「平安時代が発祥のものが多過ぎますからね……こういった、一般の方々との認識のずれも、改めていくべきなのでしょう。もっとも、私としてはこういったことも含めて、その違いがまた面白いと感じてしまうのですけれど」
境内に、風が吹く。
湿っぽい夜気を孕んだ風は、肌寒いほどでもない。
だからこそ、心地良かった。
「宗教は、変わります。その時代に則ったかたちで、変われるのです。残すべきものは残し、無くすべきものは無くす。時代に対して変われるからこそ――私は、神道が好きなのです」
「好き、ですか?」
「ええ、好きです」
年頃の娘でも言わないような自分の言葉に、思わず頬が綻ぶ。
「日々の営みに感謝し、人々の安全を祈る。日々の平穏を祈り、人々の生活に感謝する。決して押し付けるようなことはせず切々と、しかし精一杯の感謝と祈願はどうあっても怠らない……そんな、いみじくもあるようなところが、好きなんです。名前も顔も分からない誰かに祈らせて頂けることが、とても嬉しくもあり、喜ばしくもあるのです」
しばらく腰を据えていたパイプ椅子から、ゆったりと立ち上がる。
慌てて立ち上がろうとした青年を、私はなるべく柔らかい仕草で制した。
「本日は」
精一杯の、感謝と祈願を込めて。
「ようこそお参り下さいました」
私は、深々と頭を下げた。
◆◆◆
青年は何度も、見ているこちらが恐縮してしまいそうなほどに何度も頭を下げながら、帰って行った。
橙色の太陽は、今にも山の稜線へと隠れてしまいそうだった。木々の影もすっかり色濃くなっている。昼間は未だに夏の薫りが強かったが、暦では秋である。その気配は、すぐそこにまで歩み寄っていた。
風邪をひかなければいいのだが。
真摯に長話に付き合って頂いたお礼として生姜湯を手渡したのだが、それでも気掛かりだった。当たり前のことだが、季節の変わり目は体調への影響も著しくなる。折角、こうしてご縁があり、出会った人なのだ。
しばし、参道の先を見つめながら、青年の平穏を祈った。
「――言葉にしなければ、聞き届けられないよ」
台風のような貫禄に満ちたその声は、晩夏のこの季節にはそぐわないものだった。口調自体は馴れ馴れしいものだったが、声音には犯しがたい荘厳さがこれでもかと滲み出ている。
「カミへの祈願は、その口で紡がなければならない。祝詞は口に出すのが基本だ。そうだろう、東風谷?」
振り返ると、赤を基調とした服に身を包んだ、長身の女性が立っていた。
紙垂を垂らした注連縄を背負い、やや踏ん反り返るかのように腕を組んで、こちらをじっと見つめている。その視線には、私を値踏みするかのような感情が、しっとりと滲んでいた。
「エア祝詞なんて、さすがの私でも聞いたことがないよ。まあ、神有月の集会で提案でもすれば、酒の肴くらいにはなるかも知れないけどね」
含み笑いをしたその顔は、見惚れるほどに整ったものだった。稀代の女傑を思わせる逞しさと、白蛇のようなうねりを持った妖艶さとが、相反することなく合わさっている。
恐らく、その姿を見た人々は、皆一様にこう思うことだろう。
人間ではない、と。
実際、彼女は人間ではなかった。
「失礼致しました、八坂様」
八坂神奈子。
一般の人々はおろか、我々のような神に仕え奉る者でも、滅多に見ることの叶わない存在――〝カミ〟と呼ばれる存在が、彼女である。この社に鎮座し、人々の崇敬を遍く束ねる、畏怖すべき御神体。
それが惜し気もなく、私の前に顕在していた。
「神職の基本である祝詞について、よもや神奈子様に説かれてしまうとは。カミに仕え奉り、カミと人との間を取り持ち、世の安寧を願う者の端くれとして、見苦しいところをお見せしてしまいました。誠に申し訳ありません」
「硬いな、東風谷。それくらいのものを、先程の人間にも見せて欲しかったものだが」
神奈子の目が、きゅっと細められる。蛇のように、油断のならない目だった。
「馬鹿丁寧なだけが、信仰を得る手段ではない。懇切丁寧に、そして真摯に情へと訴えかけたところで、得るものなど雀の涙ほどだ。さっきの人間に、力のひとつでも見せてやればよかったものを……やはり、畏れる心が必要だよ、信仰を得るには」
「足りませんか」
「駄目だね。お前の地道さと根気には驚嘆させられるが、そもそもの絶対量が足りていないのだ。時代と共に、人の精神は科学へと移ろいでいる。そんな人間達から、ひとつひとつ砂金の粒でも探すように信仰を得たところで、私には到底満足のできるものではない」
置かれたままのパイプ椅子へと、神奈子は座った。そういった小さな動作でさえ、威厳を失うことはなかった。
「親しみは、信仰心には化けないよ、東風谷」
「御言葉ですが、八坂様。時代の移ろいは今に始まったことではありません。かの神宮の式年遷宮とて中断した時期もございましたが、それでも後に再開されました。平安、戦国、明治、そういった時代の転換期には、確かに御社を中心とする信仰は存続の危機に陥ってきましたが、それでも今日まで失われずに続いてきたものがあります。むしろ、現代の人々の関心は御社に、そして鎮守の森に傾いてきている。そこから人々の信仰を取り戻すことは、決して無理な話ではないと、私は思うのです」
「思う、ではなく、願いたいのではないか、東風谷」
「では訂正します。私は願っていますよ、八坂様。信仰は絶対に取り戻せると願ってもいますし、なにより信じています」
神奈子の視線は、相変わらずこちらを探るように細められている。
うんざりだという意思表示にも見えたが、私は止めなかった。
「先程の、あの方との会話も聞かれていたと思います。時代が移ろえば、信仰とてその在り方を、わずかにでも変えていく。そんな努力が、私たちには必要なのです。決して大きくなくてもいい、徐々にでも変えていくことが必要だと、私は考えています。だからこそ、今のような時代に、大いなる奇跡を見せつけたところで、人々の心身に訴えかけることはできません。徒に、八坂様の御力を削ぎ落とす結果になります、必ず」
「そうして、この神社をただの観光地か何かに貶めてしまうのかい。あの、訳の分からんパワースポットとかにでも便乗するのかな。言っとくけど、そんな連中が押し寄せたところで、私は神徳を振り撒くつもりは毛頭ないからね」
「八坂様、そうやって聞き慣れない言葉を忌避してしまうのはいけません」
「横文字はどうも苦手でね」
「確かに、観光地やパワースポットという言葉は、その響きにどこか軽いものを感じます。現に、そのパワースポットによって引き起こされた問題もあります。それについては、私たちにとって今後の課題とも言えるでしょう。実例としては、とある御社の御神木がパワースポットとして紹介された結果、その御神木にばかり注目がいってしまい、肝心の御社は見向きもされていない、というところです」
「そら見たことか」
「ですが、人々が御社へと足を運んでいることに変わりはない」
「浮ついた情報に踊らされるような人間から、信仰心を得られるとでも?」
「それでも、その方々は御社に足を運んでくださっているのです。ご自分の時間、友人や家族との時間を削ってまで、足を運んでおられるのです。そういった方々が、御神木しか見ない、御社には見向きもしないというのなら、そこから改善する努力をすることが必要です。御社の成り立ち、御祭神、御神徳、そういったことを少しでもお伝えしていくことが、まず必要不可欠なのです。パワースポット絡みだからと全てに憂いを抱くのは、勿体無いと思っているのです」
「観光ガイドみたいだね、あんたはそっちの方が性に合ってそうだよ」
「江戸時代の神宮には、お伊勢参りというものが伝わっています。八坂様とて何度も耳にされたことでしょう。そのお伊勢参りも、現代で言うところの観光地ではないのですか。そこからの努力があったからこそ、今日の神宮は多くの崇敬を集めているのではありませんか」
「集まるすべての人間に、信仰心があると本気で思うのかい」
「八坂様、その御言葉はあまりにも」
「東風谷」
声は、決して大きくはない。
しかしそこに込められた思いの強さに、私は息を呑んだ。
「お前は、あくまで〝なかとりもち〟だ。カミと人間との間を取り持ち、そのどちらにも傾き過ぎてはならない。〝現人神〟と名乗るだけの素質を持ちながら、お前は決してそうならなかったはずだ。自ら、その道は断ったはずだ」
「現人神など必要ありません」
「だからこそ、こうして言っている。カミと人間、そのどちらにも傾いてはならないと」
境内に、私たち以外の影はない。
「お前は昔から、人を大事にしてきた。どこぞの誰かが怪我をしたと聞けば一心に祈っていた。祈祷の際にも、祝詞を朗々と読み上げ、万感の思いと共に神事を執り行ってきた。優し過ぎるとも思っていたよ。だからこそ、お前は私たちカミではなく、どちらかと言えば人間側に傾いているように、私には思えてならない」
「それは」
殴られたような思いだった。
神奈子が口にしたその言葉は、今まで何度も思い悩んできた言葉だった。
あまり接することのないカミより、幾度となく接する人々へと肩入れし過ぎているのではないかと、散々苛まれてきた。自分には〝なかとりもち〟としての資格が無いのではないかと、悶々としたことが何度もあった。
だがそれでも、古事に則りカミへと仕え奉っていれば、カミとて――神奈子とて、分かってくれるのではないかと期待を抱きながら、今日まで歩んできた。
「それは、八坂様」
よもや神奈子の口から、言われてしまうとは。
「私が、神職として」
「才能も充分、神事の際にも臆さない。人に肩入れしすぎるのではないかという、その一点だけが気掛かりだったが、それでもお前は中々に優秀だったよ。だからこそ、お前を選んだ――現人神には決してならない、そう決意したお前を見た時には、その選択が誤りだったと気付かされた」
ゆっくりと神奈子は立ち上がる。
威厳に溢れており、揺るがない御山を髣髴とさせる。決して揺らぐことのない大山。
今の私に止める術など、あるはずもなかった。
「お前の願いは聞き取れないよ、東風谷。私たちは、幻想郷へ遷る」
何度も話し合ったことだった。
幻想郷――忘れ去られた者が行き着く、楽園の終着点。
こうして顕在し、直接語り掛けられる神奈子だったからこそ、話し合うたびに私は反対した。
声を荒げることはせず、しかし必死に反対してきた。
「住まいの心配は要らないよ。私たちが遷れば、神意もまた遷ろう。意味を失った空っぽの神社だけが残り、向こうには新たな神社が生まれる。そのまま消失してしまうことは無いだろう。ある種の遷宮だろうね、これは」
意味のない言葉だった。
カミの居ない御社は、決して御社であってはいけないのだ。
解析不能な現象など何一つ起こらない土地を、だだっ広く無駄に占有し、紙や木材でかたどられた物体をさも有り難げに扱っている――憤慨した昔の言葉が、耳の奥で虚しく反響する。
そんな空っぽの神社に、人々が参拝する。
参拝者が、千差万別の思いと共に訪れ、頭を垂れる。
「お前の代わりに、早苗を連れて行く。自信過剰なところが目立つが、それもまた悪くない。現人神の件も、喜んで引き受けてくれることだろう。それくらい覇気のある方が、幻想郷には――新天地には必要だ」
神奈子はもう、私を見ていなかった。
境内へと向き直り、これからの計画に思いを巡らせているかのように、視線を泳がせている。侵し難い威厳に満ちたその背中が、とても遠いもののように見えた。
「理系など選んでいることが気掛かりだが、それでも神社で育った血筋は貴重だからな。出来れば文系を選択して、古事や歴史についての知識も養っておいてほしかったが……そういえば、早苗が理系を希望した際、賛成して私を説き伏せたのはお前だったな、東風谷」
「洩矢様には」
搾り出すように言った。
自分のものとは思えないような、しわがれた声だった。
「洩矢様には、なんと」
「伝える必要も無いね。諏訪子は私と違って、とっくに見切りをつけているんだ。勝手に遷っていたとしても、別になんとも思わないだろう」
親しみと敵意とが、ない交ぜとなったような言葉だった。
「むしろ、私より巧くやるかも知れないね。あいつには、そんなところがあるから」
「八坂様、もう少しだけでも」
「無理だよ、東風谷」
やんわりと神奈子は振り返る。
厳かに、そしてそれ以上の硬くなさを込めた視線が、私を射抜いていた。
「もう限界なんだ、ここには信仰が無い」
溶けるように、神奈子の姿が薄れ、そして消えた。
私以外の、誰もが居なくなった境内に、涼やかな風が舞い込む。
夜の帳に包まれ始めた境内は、決して暖かなものとは言えない。凛と張られた清々しさは、かすかに漂っている。
瞬き始めた星々を私は見上げた。
口惜しさも、そして諦めも、零れることはなかった。
◆◆◆
穢れなく。
神職として、私が努めてきたもののひとつである。
とは言っても、それほど特別なことを強いてきた訳ではない。境内、本殿、社務所などの神社内は勿論のこと、私生活の面でも清潔さを保つこと――精々、その程度を心掛けてきたくらいである。特別なことだと感じることは、あまり無かった。
だから、なのだろう。
こうして境内の掃き掃除をしている時は、何も考えずとも身体が動くようになっている。無意識の内に、身体が動いていると言ったほうが正しいのかも知れない。何処か他人事とも思えるほどの心持ちで、視線は自然と下を向き、目立った落ち葉や小枝を見咎めては、せっせと竹箒で掃き続けていく。ただ直向に、しかし、むきになることはなく。
穢れなく、清々しく。
掃き終える頃には、境内は凛とした空気に包まれていた。普段の私ならば、ここでひとつ満足気に息をつき、次の予定に思いを馳せたことだろう。
だがこの日は、そんな気分にもなれなかった。
失意の濁った溜め息が漏れ出そうになるのを、寸でのところで飲み下す。ついでに、脳裏にちらつく神奈子の言葉も一緒に飲み下したかったのだが、残念ながらそれは叶わなかった。しぶとくこびり付き、音もなく私の思考を軋ませている。
景気の悪い顔、とでも言えばいいのだろうか。恐らく、いやほぼ間違いなく、今の私はそんな顔をしているのだろう。あまり眠れなかったことも災いして、今朝、鏡で見た自分の顔は、かなり酷いものだった。たった一晩で、何年も老けてしまったようにも見えた。
境内は、自惚れでなければ、穢れなく整っている。
こうして掃き清めるのは、一体誰のためなのだろうか。ここから神奈子が去り、そして祀るべき存在が遷られてしまった時、この場を掃き清める意味が如何ほどあると言うのだろうか。一番無くてはならない存在が消えてしまった境内を、さもそこに在るかのように境内を清めたところで、誰が幸せになると言うのか。
今はまだ、私の行為にも意味はある。畏れ多くも仕え奉るべきカミは、まだここにいらっしゃる。
だがそれも、もう少しで無くなる。
御遷りになる。
清々しいはずの境内が、ひどく殺風景なものに見えてしまった。
「……おはよう、ございます」
しゃがれた、聞き取りにくい声とともに、小柄な影が通り過ぎる。
のそりのそりと賽銭箱へと歩いているのは、腰を曲げた老婆だった。毎朝、決まってこの時間に、参拝に来られている人だった。
「おはようございます」
老婆の顔は険しかった。
少し遅れて挨拶した私の声に、会釈のひとつも返してはこなかった。
いつもと変わりなかった。老婆は別に怒っている訳でもなく、普段から険しい顔をしていた。もしかしたら、私が険しいと感じているだけで、当人にとっては普通の表情なのかも知れない。会釈を返してこないのも、いつもと変わりなかった。
この老婆のことは、詳しくは知らない。
いつ頃、それこそ十年ほど前から参拝されているはずなのだが、はっきりといつ頃からというのは、どうしても思い出せないでいた。毎朝こうして参拝されているのだから、近所に住んでいることは確かだった。現に、時々の御祭りでは何度か目にもしている。
だが、それだけだった。
それ以上のことは、毎日顔を合わせている私にも、まったく分からなかった。夫だと思しき人を見掛けたことはなく、勿論、子供や孫のような人を見掛けたこともなかった。いつも、こうして一人でゆっくりと参拝に来られている。御祭りで見掛けた際にも、格別熱心な崇敬者という訳ではなく、遠くから眺めているところしか見たことはなかった。
何度か、声を掛けようと思ったことはあった。
実際に声を掛けてみたことも、片手の指にも満たないが、あった。
しかし、返って来たのは言葉ではなく、胡乱気な視線だけだった。私が次にどう声を掛けたものか迷っていると、険しい顔のまま、黙って首を横に振られただけだった。そしてそのまま、二の句を告げられないでいた私を尻目に、のそりのそりと参拝されてしまった。
今でも、その仕草の意図するところは、理解できないままでいる。だから、ひどく見知った人であるにもかかわらず、そのほとんどを知らないままでいる。
――喋りかけられるのが嫌いか、もしくは苦手なのだろう。
そんな当たり障りのない推論しか、思い描けないでいる。
老婆の参拝は、ゆっくりと、そして丁寧なものだった。手水で清め、持参したハンカチで拭い、参道の中央を避けながら拝殿へと歩み寄っていく。これが、老婆の参拝の仕方である。毎朝、老婆はゆっくりと時間を掛けて、参拝されていた。腰を曲げているため、お世辞にも美しいものだとは言い難かったが、滲み出るような丁寧さは、見ているこちらにまで伝わってきた。
歩みを止め、足を揃える。
かすかに背を上げ、そしてかすかに下げ、二礼。
ふるふると手を合わせ、二拍手。
一礼。
腰の曲がったその背中は、力強さなど欠片もなく、今にも砕けてしまいそうなほどに、儚げだった。しばし、そのままの姿勢で老婆の動きが止まる。
ふと、考えてしまう。
このまま神奈子が居なくなり、諏訪子も居なくなる。カミと呼ばれる者が居なくなり、境内を満たす清々しさが空虚しくなる時が、訪れる。腰の曲がった、この険しい顔の老婆の参拝が、手向けられる者の居ない作業へと成り果ててしまう。私などでは知る由もない、老婆の心中だけの願いが誰にも聞き届けられることもなく、途絶えて消え失せる。
祈りが、祈りでなくなってしまう。
来る日も来る日も繰り返されてきた、小さくも尊き御祭りが、喪われてしまう。
信仰が拾われず、朽ちてしまう。
人々の願い。
聞き届けるカミが、居ない。
――それは、あってはならないことではないのだろうか。
眩暈がした。
畏怖ではなく、得も知れぬ悪寒が背筋へと齧り付く。鳩尾辺りが痙攣し、ぐわりと喉元まで込み上げてくる。堪らず目を閉じて、瞼の上から揉み解す。歯を食い縛り、遮二無二、喉を狭めて押し留める。
幸い、不快感はすぐに収まった。幸か不幸か、粗相をするようなこともなく、新鮮な空気をゆっくりと吸い込み、静かに吐き出す。境内の空気が、ひどく美味なものに感じられた。
閉じた瞼に、雫が滲む。揉みながら、掬い取って塗り散らす。
何度も何度も、慎重に呼吸した。
ようやく目を開けた時には、老婆はこちらへと――境内を後にしようとしていた。普段と変わらず、訪れた時とまったく変わらず、険しい顔をしている。こうして見ると、やはり怒っているものに見られたが、同時にとても真摯な表情にも見て取れた。
「あの」
私の声に、老婆の視線がわずかに傾く。
「本日もようこそお参り下さいました」
束の間、老婆と目が合った。
そしてようやく、老婆の険しい顔が怒ったものではないことが、理解できた。静かな、静謐とでも言うべき光が、湛えられていた。
老婆の首が、横に振られる。
「ようこそお参り下さいました」
堪らず、私は笑みを浮かべた。
多分、ひどい笑顔だったに違いない。
くしゃり、と言うよりは、ぐしゃりと言ったほうが正しかっただろう。そんな、あまり取り繕っていない笑みが、浮かんでしまった。
泣き笑いにしか見えない、笑みだったと思う。
「……こちらこそ」
それでも、老婆は答えてくれた。
「毎朝、お参りさせて頂き……ありがとう」
この上なく聞き取りにくい、しゃがれた声だった。険しい老婆の顔の、口と頬とが、もごもごと動いていた。
その口の端が、わずかに上がっている。
深々と、私は頭を下げた。しばらく、地面だけを見つめて、頭を下げ続けた。
やがて頭を上げた時、老婆の姿はそこには無かった。
境内の外、参道の先に、腰の曲がった後ろ姿が見えた。
思っていたよりも、私からは離れていなかった。ゆっくりと、後ろ姿は小さくなっていく。その事実に嬉しくもなり、それ以上に大きなものが胸を満たして、私は口元を手で覆った。
零れ落ちそうな嗚咽は、それで何とか覆い隠すことが出来た。溢れ出る涙だけは、そのまま好きにさせておいた。すると、小さな後ろ姿が滲んでしまい、私は更に泣いた。
はらはらと、子供のように泣き続けた。
◆◆◆
早苗に関しては、幻想郷でも心配ないだろう。
薄情だと思われても当然だが、本気でそう考えていた。誰に似たのか、自信過剰なほどに、早苗は自分に自信を持っている。思い込みも激しく、こうだと決めたら生半可な意見では微塵も揺るがない、それが早苗だった。
理系に進んだのも、そうした本人の性格が大きく関わっている。
神奈子は、私が賛成して説き伏せたのがそもそもの原因のように言っていたが、それは早苗の性格を鑑みての判断だった。あの場で私から神奈子を説き伏せなければ、下手をすれば神奈子と早苗の間に、大きな亀裂が入ったことだろう。
早苗は誰に似たのか。
決まっている、神奈子だ。
才能の開花まで時間の掛かった私とは違い、早苗は幼い頃からその能力を発揮し、神奈子の関心を惹いていた。幼少より頻繁に接せられたことは、私には無かった。その結果、早苗は神奈子を強く意識し、影響されてきた。
二人――この場合は、一人と一柱、或いは二柱と呼ぶべきだろうか。
兎に角、早苗も神奈子も、一度こうと決めたら梃子でも動かないところがある。そんな頑固さは、お互いが同じ目標を見ているなら頼もしいが、別々の目標を見てしまったなら始末に終えない。長所とも取れるが、短所とも取れる、そんな性格だった。
幸い、神奈子も理系の有用性についてはしっかりと把握していたこともあり、説き伏せるのにそれほど労力は必要なかった。そのおかげで、早苗は今、希望した分野を学ぶことが出来ている。そのことが喜ばしくもあり、同時に羨ましくもあった。
――早苗は優秀である。
少々、厚顔無恥なところもあるが、贔屓目を抜きにしても、どこに出したとて恥ずかしくは無いと自負している。これという目標を定め、それに向かって我武者羅に突き進むことに関してならば、揺るぎの無いものだと信じている。そんな絶対的な信頼を、早苗には抱いている。
だからこそ、心配は無かった。
むしろ、早苗が居なくなった後、私が普通に暮らせるかどうかが気掛かりだった。早苗が心配なのではなく、早苗と会えなくなる自分が大丈夫なのか、不安だった。
その危惧もまた、幻想郷へと遷ることを反対した理由の、ひとつだった。早苗を失うことの恐れと、そこからの我が身の可愛さを、私は考えていた。
そういった意味では、神奈子が幻想郷への人選から私を外しているのは、理に適っていた。そんな私よりは、遥かに早苗の方が適任だと、思えたからである。
だが、理解できないこともある。
神奈子が、わざわざここに――外の世界に、御社を残す理由、その一点だけが分からなかった。
そこまで力を割く理由が無い、ということも考えられた。余計なことをしなくとも、神奈子の言葉通りならば、幻想郷には遷る者たちのために新たな御社が用意されることとなる。それならば、外の世界の御社を遷す必要も無い。ただでさえ、神奈子のようなカミの力は、外の世界では弱まっている。徒に力を浪費することは、是が非でも避けたいことだろう。
しかし、懸念も残る。
神奈子は用意周到な性格である。剛胆な外見に反して、蛇のような狡猾さを神奈子は持っていた。そのことは、この地を治めた古代の一件が証明している。行き当たりばったりなところも勿論あるが、それをも含めた大きな保険を用意しておくのが、八坂神奈子というカミの特徴だった。
だからこそ、御社を残すことが、どうにも腑に落ちなかった。
名実ともに幻想郷へと遷る。
すると、忘れ去られた信仰が勃興し、新たな御社が用意される。
その合間が、神奈子にしては早計な気がしてならなかった。幻想郷については、私は外の世界で知ることが出来る範囲でしか、知る由が無い。恐らく、神奈子が知る範囲についても、同程度のものだろう。ならば、ある程度を推量することはできる。
幻想郷が外の世界と隔離したのは、明治の頃だと聞いている。
歴史で言えば、神社にとっても大きな節目となったところである。そこから察するに、幻想郷での神社と、そこに関する信仰や神事は、明治以前の形式を象ったものが色濃く残っているのかも知れない。
しかし、それも神奈子ならば問題ないだろう。むしろ、幻想郷に活路を見出している神奈子のことである。御遷りになった途端、なにか大きな動きを見せるに違いない。
外の世界では科学と証明されるほどの、大いなる奇跡を。
その点は問題ないので、次の考えに移る。
今の幻想郷には、妖怪が跋扈しているらしい。外の世界では人間に忘れられた者たちだからこそ、幻想郷では人間よりも強い勢力を持っているとの話である。人間がどのような生活を送っているのかは分からない。しかし、妖怪には人間の動きを抑え、時には襲えるほどの力を持っていることは、容易に想像ができる。その点が、気掛かりでもあり、懸念でもあった。
神奈子は、妖怪をも信仰の対象にしようと画策している。
真っ先にその考えに思い至ったからこそ、私は声高に、幻想郷へと御遷りになるのを反対してきた。人々の祈りを聞き届けて、カミへと伝える。神職として、〝なかとりもち〟としての信条があったからこそ、人々に忘れ去られ、妖怪の信仰を得ることに、私は真っ向から反対してきた。
選民的と思われるかも知れない。信仰の自由を信じる者として、矛盾していると捉えられるかも知れない。
だが、それでも私には納得がいかなかった。
人にとっての脅威となる妖怪の、信仰を集める。
人々からの祈りに耳を傾けるカミとして、それだけは止めたかった。
御遷りすることを決めた神奈子には、最早なにを訴えかけたところで、意味は無いだろう。遷る時は、既にそこまで近付いてきているに違いない。だからこそ、今は幾分か冷静に物事を考えることができる。
妖怪とは、恐らく精神的な存在だと言える。
物質的なものに依存することが無いことは、これまで精神的な分野を学んできたことで、何とはなしにではあるが、想像できていた。民俗学、宗教学、そう呼んでしまうことで幾分か専門的な知識を要されるようにも思われてしまうが、難しく考えることだけが近道ではない。そんなものだと、納得してしまうことで見えてくるものもある。分野、専門、そんなものにこだわらないことで、至る道もある。
妖怪とは、そういった角度で――精神的な存在だと見るならば、カミにも近しいものだと言えるだろう。無論、神職である私としては、あまり認めたくはなかったのだが。
ならば、幻想郷への御遷りは、危険な賭けだとも言える。
古代の様相を残しているならば、宗教は寛容なだけではない。明治から徐々に変えられてきた謂れを、そっくりそのまま残していることも考えられる。恐らく、神奈子にとっては喜ばしい部分もあるだろうが、同時に危険な部分とて残っていることだろう。
さらに、妖怪が精神的な存在だと考えているならば、神奈子とて油断は出来ないに違いない。最悪の場合、同じく精神的な存在として、カミに匹敵するほどの力を持った妖怪と、対立する可能性もあるのだ。用心に用心を重ねていることは、容易に考えられた。
だと言うのに、御社は用意されていると言った。
その点がいささか無用心ではないかと、私には思えて仕方がなかった。
明治の文明開化によって、全国の御社は管理されることとなった。同時に、その際に管理の行き届かなかった小さな御社が、そのまま無きものとして扱われてしまった可能性も、口惜しいことではあるが否めていない。
仮に、そういった管理の行き届かなかった御社が、忘れ去られた者たちの集う幻想郷には、存在しているのかも知れない。ならば、それを新たな住まいとして御鎮座することは可能だろう。
だが、内面だけで懐柔できるほど、世の中の視線は甘くない。
大変不敬な考えではあるが、仮にみずぼらしい御社を住まいとされたところで、神奈子にとっては逆に不利となってしまうことも考えられる。どれだけ精神的な面で優れていたところで、見た目はどうしても判断する基準となってしまう。
繰り返すが、神奈子は用意周到な性格である。
万が一のことを考えるなら、この御社とともに御遷りになることが、神奈子らしい方法だと考えられた。例え、いたずらに力を浪費する結果になってしまったとしても、結果的には幻想郷へと遷ることに何ら変わりはない。ならば、それを悔やむようなことはないだろう。もし想定どおり、新たな御社が用意されていたとなれば、一緒に遷った旧い御社は、そのまま摂社や末社として扱うことも可能である。そんなしたたかな一面こそ、神奈子らしいとも思えた。
ならば、何故残すのか。
「……私のために?」
「訪れたと思いきや、いきなり独り言かい」
どうやら、知らず知らずの内に目的地へと着いていたらしい。
思わず口にした考えを、取り繕うように首を振って否定する。
神奈子が私のことを疎ましく思っていることは、この数年間で自ずと気付いたことだった。〝なかとりもち〟を信条としている私に、神奈子が良い顔をしたことは一度も無い。ただの一度とて、である。
そんな私のために、残すものなどあるはずがない。
在りもしない答えは、思い浮かべるだけ無駄だった。
「相も変わらず、難しい顔をしているね、東風谷。早苗を見習いなよ、あれくらい馬鹿っぽく真っ直ぐしているほうが、人生楽しいに違いないよ」
「勝手に覗いて、勝手に馬鹿にしないで下さい。私の可愛い――」
「私にとっても、可愛い子孫だよ。あんたも早苗も、馬鹿で愚かで可愛い子孫さ」
「孫の前に、どれくらい〝ひい〟が付きますかね」
「おっと、そいつは聞かないお約束だよ」
けたけたと、童女そのままの笑顔が私を迎える。
境内の片隅、訪れる人もほとんど居ない末社の一角で、その少女は気楽にくつろいでいた。
「冗談でも、諏訪子おばあちゃんなんて呼んだら引っ叩くからね、東風谷」
洩矢諏訪子。
詳しい経緯は省くが、この御社の実質的な御祭神であり、私や早苗の御先祖様にも当たる、カミである。
「でも、昔のほうが可愛かったかな、あんたは。理屈っぽくも一生懸命に話してくれていたあんたのほうが、私は好きだったかね。今のあんたは、ここに来るたびに、信仰のことしか喋らないんだもの」
「申し訳ありません、洩矢様。しかし、やはり私としては」
「納得がいかない、だろう? 残念だけどね、私はたぶん神奈子以上に諦めがついているんだ。今更、その考えを改めようって気には、ならないね~」
「洩矢様は、度々、人々の前に姿を現されているとも聞きますが」
「それとこれとは話が別さ。ただ散歩がしたくなったから、しているだけに過ぎないよ。そこに信仰心なんて求めてもいない、ちょいと話し相手が欲しくなっちゃうだけなんだね~」
くるくると、結んだ髪の房を弄んでいる。仕草だけ見るならば、明るい幼女にしか見えなかった。
だが、細められたその目は、枯れているほどに澄んでいた。
「あんたのご期待には沿えない。悪いね、東風谷」
諏訪子は、既に信仰心を集めることを諦めていた。
それはカミにとっての死を意味するのだが、諏訪子はそれでも構わないと笑いかける一方だった。快活な笑みだったが、幼き日より諏訪子に接してきた私にとって、それが枯れた哀しみとともにあるのだと気付くのに、さほどの時間は掛からなかった。
私は、神奈子よりも諏訪子と接してきた。
幼少の頃から頻繁に、なにより気楽に接して来てくれたことが、原因となっているのかも知れない。そして諏訪子は、神奈子とは逆に、早苗とは距離を置いていた。面と向かって会ったことなど、まだ一度もないと聞いている。神奈子とは、あいつとは逆の立ち位置が良いんだと、諏訪子は笑いながら話してくれた。
そんな諏訪子だからこそ、私は諦めたくなった。
私の、理屈っぽいと辟易されてきた言葉を、さも面倒臭そうな顔をしながら聞いてくれた諏訪子には、絶対に消えて欲しくないと思ったからである。真正面から聞き、時にはそんな私の言葉をたった一言で一蹴してのけたこともある諏訪子には、これからも居て欲しいと願っていた。
正直、神奈子以上に、である。
これもまた、私の身勝手な考えだった。
「ほら、またそうやって難しい顔をする。眉間の皺は跡が残るよ~って、もう遅いかな」
諏訪子が、無遠慮な近さで覗き込んでくる。
一瞬、心臓が早鐘を打った。不快な感情ではなかった。
「神社のために、人間たちと関わるんでしょ? だったら、そんなに怖い顔は駄目駄目だねぇ。不景気な面構えは、それだけで人を遠ざけちゃうよ~」
ぐにぐにと、諏訪子の指が、私の眉間を揉み解してくる。
「あんたは真面目で、優しいからね。蛙狩りにだって反対するくらいだし。真面目なのも優しいのも構わないけど、それで自分が傷付いちゃ本末転倒だよ。まずは自分を大事にしなさい」
母親のような物言いだった。
思わず、小さく笑ってしまうと、諏訪子も合わせたように笑った。
「そうそう、笑顔が一番だよ」
「ありがとうございます、洩矢様」
「いえいえ、どういたしまして。ついでにその〝洩矢様〟って言葉使いも改めて欲しいものだけどね。昔みたく、諏訪ちゃんとでも呼んでくれたほうが嬉しいんだけれど。私も若くなった気になれるし」
「それは、さすがに。あの時は物事をわきまえず、大変申し訳ありませんでした」
「うあー、だからそういうのを止めなって」
諏訪子と話す時は、いつもこうやって時間が過ぎていく。
実りの無い話しをしながら、取り繕うようなこともせずに、自然と会話を交わしている。カミに接する者として、あまりにも不躾なものではあったのだが、諏訪子当人がそうした会話を望んでいたのだから、今ではこれで良いと思っている。
そのほうが、有り難かった。
「この前の、あんたが内緒で持ってきてくれたお酒だけど。美味しかったんだけど、あれはいまいちだったかな。ああいった透き通ったお酒は、どうにも馴染めなくてね、私はもっと力強いほうが好きかな~。ここまでいくと好みの問題だね、値段が高いと美味いのは確かだけれど、それよりも自分の舌に合うものを見つけるのが一番だね」
「諏訪子様が御自分で探されるのが一番なのですけれど、さすがにそれは行えませんからね。また、見繕ってくることにしますよ」
「その点だけは、この見た目が恨めしいかな~。あんたと一緒に行くと、隠し子とか疑われたら世間的にも不味いからね~。人間の噂は怖いからね、井戸端会議だったっけ? 中々、恐ろしいものさ。まあ、私みたいな、かんわいい娘だったら、あんたも満更ではないかも知れないけれど」
「不義は勘弁願いたいところです」
「言うに事欠いて不義と言ってしまうかこら~」
諏訪子は笑っている。
私の懊悩など、まるで知るつもりも無いかのような、からからとした快活な笑みだった。子供のような愛らしさを惜し気もなく滲み出し、だからこそ、それとは相反するかのような包み込む母性さえも感じさせる。
諏訪子には、甘えてしまう。
甘えたくなる存在が居ることは、喜ばしいことだった。それが居なくなってしまうことは、やはり寂しかった。
「それにしても、お酒のひとつでも持ってきてくれれば良かったのに。珍しく、気が回らないね。なにかあったのかな、東風谷?」
またもや、諏訪子の顔が近付いてくる。
その聡いところに、思わず口が緩み掛けたのを、なんとか押し留めた。
妙に聡いところがあるのも、諏訪子の特徴だった。神奈子とは、どことなく違うなと、訳もなく思った。
「ほらほら~、お酒のひとつでも持って来い。でないとミシャグジ様の祟りがあるぞ~」
「御冗談でも、滅多なことを口にしないで下さい」
「勝手なことを好き勝手に口走る。それが神様じゃないか」
「失言ですね」
「私は正直なだけだよ」
急かす諏訪子に促されるように、私は何本かの酒瓶を見繕ってきた。
お猪口を手渡すと、諏訪子は待っていましたと言わんばかりに、手酌で満たし始めた。思わず、酒瓶に手を伸ばした私を、目だけで制してくる。
やんわりとした、優しい眼差しだった。
「ほれ、飲みなさい」
胡坐をかいた諏訪子が、あっけらかんと言う。
既に私のお猪口にも、酒が並々と注がれている。
「たまには、私にもお酌くらいさせなさいって」
「洩矢様」
「あんたとは、これっきりかも知れないからね」
心音が、一気に早くなった。
「なんとなくだけれど……ほんと、根も葉もない勘さ。ま、今生のものだと思って、遠慮なくやっちゃいなって。別に、私の勘なんて当てになるものでもなし、違ったなら違ったで、儲けものだと思っておきなさいな」
「……根拠もないのに、そのようなことを仰らないで下さい。ただでさえ、洩矢様は力が弱まってきているのですから」
「まーまー、硬いことを言いなさんなって。それに、今日明日でくたばってしまうような、やわな身体はしていないよ~。あんたは私なんかより、神社の切り盛りに心血注げばいい」
諏訪子は、お猪口を傾ける。その一息だけで空けてしまい、再び手酌で満たした。
幼女の外見に似つかわしくなく、諏訪子は酒豪だった。
カミは皆一様に酒に強い。
「こんな片隅の私なんか、もっと放って置いても良いんだよ、東風谷」
私のやり方――このお社と、参拝者への応対のやり方を、諏訪子は否定したことがなかった。
そして、賛成することもなかった。
やりたいようにやれば良いと言うのが、諏訪子の意見だった。神奈子のように口を出すこともなく、諏訪子はこれまで、傍観という立場を取り続けていた。
諏訪子にとっては、どちらでも良かったのだろう。既に、人間からの信仰心に見切りをつけている彼女ならば、その反応も自然なものに思えていた。
だからこそ、歯痒くもある。
私は、そんな諏訪子こそ、放って置きたくはなかった。
「おっと、いけないね。私から辛気臭い話しを言い出すだなんて。駄目だな~、これじゃあまるで神奈子じゃないか」
舌を出し、こつりと自分の頭を叩く。
そんな可愛らしい仕草にまで哀愁を感じてしまうのは、さすがに気のせいだと思いたかった。
気のせいだと、願った。
「兎に角、飲もう。あんたもいける口なんだからさ、今夜はとことん付き合ってもらうからね」
「善処させて頂きます」
「うん、よく言った」
お猪口を傾けた私に、諏訪子が微笑み掛けてくる。ようやく空けたお猪口を見て、嬉々として諏訪子が酒を注いでいくのを、私は苦笑とともに見返した。本来なら、私こそが手酌を行うべきなのだろうが、諏訪子がそれを見逃すはずもないだろう。そうやって言い訳を浮かべつつ、私はやんわりと礼をした。やはり、諏訪子には甘えてしまう。甘えられることを、諏訪子も内心では嬉しいに違いない。嬉しいのだと、思いたかった。
夜の帳に覆われた境内は、恐ろしいまでに静かだった。
大きな御社などでは、不逞な輩が深夜徘徊をすることもあるらしく、見回りが大変だと聞かされたことがある。考えてみれば、穢れの無いはずの境内が肝試しの場として扱われることが多いのは、人々の間での御社に対する意識に、間違いのようなものが感じられる。恐らくは、丑の刻参りなどショッキングな謂れが、尾を引いているのだろう。いかがわしいことにこそ目を引かれてしまうのは、人にとって避けることの出来ない性分である。
しかし、残念なことでもあるのだが、この御社はそれほど大きなものではない。
山の中という立地条件の悪さもあってか、そのような厄介事が起こったことは、ここ近年ではひとつもなかった。
だからこそ、こうして酒に興じることもできる。
良い御身分だと、同期からからかい半分に揶揄されたこともあった。忙しい御社には、それこそ様々な人が訪れるらしい。一筋縄ではいかないと言うことも、何度か酒の席で聞かされてきた。
カミが居なくなるよりは、よっぽど気楽に思えた。
「今夜のお酒は良いね~、この臭みがなんとも言えないよ」
赤味を帯びた顔で、諏訪子が満足気に頷く。
そのあどけなさによって、私は陥り掛けた思考の坩堝から引き戻される。
「チーズ鱈だったっけ。これも美味いね、この組み合わせを考えた人間は天才だよ。スルメみたいに細いのも、また小憎たらしい演出だ。一息に頬張れないからこそ、酒の味が邪魔されないのが堪らない。これなら幾らでも食べられるね」
「羨ましい限りです。洩矢様は、幾ら飲まれても、幾ら召し上がられても、若々しい御姿ですから」
「ふふん、なんなら神様にでもなってみるかい、東風谷」
「私は〝なかとりもち〟ですので」
「言うと思ったよ。あんたがそれで良いのなら、それで良いんじゃない? まあ、私みたいな若々しい姿で居られるのは、さすがにその歳では難しいと思うけれどね。あんたも昔は、それはそれは可愛かったのにな~、今じゃ見る影も無く……中年だものね、東風谷って」
言葉通りだった。
昔と比べ、今の私には身体の至るところに、無駄な肉が付いていた。
健康診断で大きな病を伝えられたことはなく、怪我などの事態に見舞われたこともない。健康を示す数値は常に正常であり、医師からのお墨付きも頂いている。そういった意味では、正常な身体なのだろう。それでも、たるむところはあり、擦り切れているところもある。近くのものが見え辛くなり、夜目も効かなくなってきている。懐に仕舞ってあった老眼鏡は、いつのまにか諏訪子によって引っ手繰られていた。物珍しそうにレンズを覗いては、顔をしかめている。
確かに、今の私は中年だった。
理想に燃える歳は、とっくに過ぎているはずだった。
理想への道程よりも先に、踏み止まれる足場を確認しなければならない、そんな年齢である。諦めること、近しい者が居なくなることへの侘しさに、慣れ始めなければならない。決して叶わない願いがあることを吟味し、無常という輩を真正面から受け流さなければならない。こんなものかと、涼しい顔をしなければならない。
要は、諦めなければならない――
晩夏の夜風は、ほんの少しだけ肌寒かった。
首元を撫でていったその感触に、ふと我に戻る。お猪口を傾ける手が、自然と止まっていた。
一息に飲み干した。
「ほれほれ、その調子だよ」
チーズ鱈をはむはむと食みながら、諏訪子が酒を注いでくる。
「考え事より、良いから飲め。呑まれないくらい酔ってから。話しはそれからだよ、東風谷」
艶かしく細められた瞳が、私を覗き込んでくる。どこまでも包み込んでくるような、柔らかい微笑みだった。ほんのりと朱色に染まりながらも、決して下品ではなかった。
誘われるように、再びお猪口を傾ける。
諏訪子のペースは速かった。
いつの間にか空けてしまった酒瓶を横手にやり、新たな酒瓶に手を出している。そう思っていたのだが、よくよく見ると、実際にはその新しい酒瓶も、中身は既に半分ほどにまで減っていった。今夜の諏訪子はいつになく気が早い。張り合うようなことはしなかった。そこのところの分別くらいは、弁えているつもりである。
「早苗の調子はどうだい」
「こっそりと覗いているのでしょう」
「あんたから見た早苗だよ、東風谷」
「頑張っているとは思います」
「思っているだけかな」
「諸手を挙げたいくらいには、頑張っていますよ」
「あの子も、むつかしい年頃だからね」
からからと諏訪子が笑う。
「もっとも、あんたの若い頃よりは、幾分も素直だと思うけれどね。それこそ、天と地くらいの差はある」
「ですから、私も安心しています」
「あんたの時は、神奈子もハラハラしていたものさ。私と違って、神奈子は心配性だからね。あんたと出会う頃合いも、慎重に窺っていたもんだ」
初耳だった。
神奈子と邂逅を果たしたのは、正式に御社の跡を継いだ時――二十台の半ば頃だったと記憶している。常に威圧的なものを漂わせている神奈子と、そんな心配性な部分は、どうしても結び付かなかった。
「寝耳に水って顔してるね」
「初耳でしたので」
「私の話、本当だと思う?」
やや無遠慮に、諏訪子の顔が近付く。
実りの稲穂の色合いを湛える瞳には、意地悪い光がこれ見よがしに瞬いている。林檎を勧める蛇――とは、どうあっても言いがたい。悪戯を思いついた子供のそれと言ったほうが適しているだろう。愛くるしさが、ちらちらと覗いている。
釣られるように笑い返した。
「嘘、ですかね」
「どうしてそうだと思う?」
「洩矢様の顔が、嘘だと仰っておりますので」
「なるほど」
ちろりと舌を出し、自分の唇を舐める。
妙に艶かしい仕草だったが、諏訪子の顔は童女そのままに笑っていた。
「私の顔が、そんなに嘘っぽいと言うんだね~。あーあ、昔はそんなこと一言も言わなかったのにな~。やっぱり、今の東風谷って、全然可愛くないや」
「洩矢様は、昔から変わりません。人を食ったように、人をからかうのがお好きです」
「まあ、そこは否定しないよ」
諏訪子の手酌で、二本目も空いてしまった。
私が新たな酒瓶で酌を勧めると、諏訪子は得意げに笑いながら受け取る。苦しゅうない苦しゅうないと、いかにも繕ったように言った。どうやら、酔いが回っているらしい。近付かれた諏訪子の顔からは、酒の匂いが強く香っていた。
「でも神奈子も可哀想だね」
ぽそりと、諏訪子がささやく。
「いい気味だとも思うが、少しは可哀想かな。うん、可哀想だと思っておいてやるか、いい気味だけれど」
「八坂様が、ですか」
思わぬその言葉に、手が止まる。
どうやら私もかなり酔いが回っているらしい。問い返した声には、意外だという響きが、強く滲んでしまった。
やってしまったという思いが、苦味となって口に広がる。
「あいつは、フランクに見せかけて不器用なところがあるからね~。いかにも営業得意ですって雰囲気だしながら、苦手なところへの対応は先延ばしにしたがる性質だからな~。ま、自業自得なんだし、仕方ないんだけどね」
まるで生来の友人を語るかのように、諏訪子は言った。その声色には、無遠慮なまでの馴れ馴れしさが、これでもかと滲んでいる。
「だから、あんたとも会おうとしなかった。あんたの考え方が、自分の考えとは異なっていたから、正面からぶつかりたくなかったのさ。どうあっても和解できるような考えでもなかったからね~。でもそれで、跡継ぎのあんたと中々会おうとしなかったのは、優柔不断としか言い様がないじゃないか。まったく、これじゃあ御祭神失格、カミ様失格ってもんだよ。だから、あいつはいつも、どこかでころっと躓くのさ。知ってる? この国を譲ってやった時の話。あいつったら、折角この私が譲ってやったっていうのに」
「洩矢様」
堪らず、私は諏訪子の話を遮った。
ぴたりとお猪口を傾け掛けていたその手が、止まる。
もっとも、諏訪子の顔は相変わらず微笑んでいたのだが、私はそこからなるべく視線を逸らしながら、続けた。
矢継ぎ早に、続けようとした。
「実は」
「うん」
「八坂様は」
「うんうん」
「近いうちに」
「はい待った」
有無を言わせぬ言葉だった。
諏訪子の顔が、ぬっと近付く。その額が、私の額に優しく触れた。
「そこまでだよ、東風谷。それ以上は、言っちゃいけない」
酒の香りが強く匂う。
私を覗き込んでくるその瞳は、冷水のように澄んでいた。
「あんたが言ってしまえば、私はそれを知ることになる」
「洩矢様」
「あんたも本当は、私に知らせてはいけないことに気付いている」
「しかし洩矢様」
「駄目だよ、東風谷」
「しかし!」
「東風谷」
ぐっと、諏訪子の顔がさらに近付いた。
母親が子供を叱り付けるような、そんな声だった。
「この神社の御祭神は神奈子だ。決して、私ではない」
それでもその顔は、微笑んでいた。
「あんたは〝なかとりもち〟だろう。だったら、そこらへんは弁えなさい」
頭の上に手が置かれる。
小さな手だったが、柔らかな暖かさが感じられた。
「カミと人との間を取り持つ、だったかな。それなら、それらしくやりなさい。あんたが、こうだと決めたとおりに、やってみなさい。そしてそれは、決して私に伝えるべきではないと、気付いているはずだ」
「諏訪子様」
「あんたは決してカミではない――そうなんでしょう、東風谷」
残りひとつとなった酒瓶を手にし、諏訪子は腰を下ろした。
いつの間にか立ち上がっており、そして座っている。どうやら私は、思った以上に酔っていたらしい。粗末な電球の灯りがやたらと暖かく見えている。晩夏の肌寒さは、微塵も感じはしなかった。それでも、不快感はさっぱりない。
どこまでも心地良い夜だと感じたからこそ、私は自分の酔いの深さを、ようやく自覚した。
諏訪子は、酒瓶を抱くように胡坐をかいている。お世辞にも上品だとは言えず、飲兵衛のそれと大差ない。それが返って、諏訪子の魅力を引き立てていた。ほのかに染まったその微笑みに、どこまでも甘えたくなってしまう。
だから私は、諏訪子の目を見た。
どこまでも静かな、だからこそ踏み止まれるその視線から、目を逸らさなかった。
「失礼致しました」
ようやく、それだけを口にする。
「ありがとうございます、諏訪子様」
「いやいや、久しぶりに情けなくて可愛い東風谷の姿が見れて、私も満足だよ。うんうん、やっぱり可愛いね~。思い悩むあんたの姿は、どうしても母性本能がくすぐられちゃう」
「からかうのは止して下さい」
「ええじゃないかええじゃないか」
人の悪い笑みを浮かべて、諏訪子は酒瓶を口にした。そのまま、下品にもラッパ飲みをして、一息に中身を空けてしまう。満足気に息をついたその顔には、それでも泥酔した気配は見られなかった。
「さて、今夜はお開きかな」
末社の戸が、独りでに閉められる。
立ち上がろうとした私の首に、諏訪子の腕が回された。
「泊まっていきなさい」
耳元に、艶かしく吐息が注がれる。
「それくらいには甘えさせてあげるよ」
「布団がありません」
「布団を敷こう? ね!」
「諏訪子様、その台詞はいかがわしいです」
「子孫と一緒に寝るだけさ。いかがわしいことなんて、ひとつもないよ」
「酔っていますね」
「あんたもね」
末社の中には、いつの間にやら布団が敷かれていた。当然の如く、ひとつ分しか敷かれてはいない。
「ほらほら~、存分に甘えていいんだよ~?」
布団へと潜り込んだ諏訪子が、からかうように手招いてくる。
溜め息とともに潜り込んだ私の身体は、力強くも優しく抱き寄せられた。抱き寄せられながら、赤子にするのと同じ手付きで、頭を撫でられる。正直なところ、こそばゆいものも感じていたのだが、それでも私はされるがままとなっていた。抗い難い包容力が、私の動きを止めていた。
「こうやって寝るのも、久しぶりだね」
「いつ以来かも、思い出せません」
「だって私がこうすると、東風谷ったら嫌がっていたじゃん」
「さすがに、中高生の頃からは、恥ずかしくも思いましたので」
「思春期ってやつかい? 可愛いね~」
「極々一般的な反応です」
灯りが消される。
それで何も見えなくなったが、諏訪子の温もりは消えることなく、傍に感じられた。
「諏訪子様」
「ん~、なに~?」
もぞもぞと諏訪子の動く気配がする。私の身体に、腕が回されていく。
とても暖かかった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
くすりと諏訪子の笑う声が聞こえる。
「ゆっくり寝なさい、私はここにいるから」
自ずと瞼が閉じる。
「おやすみなさい、――」
酒臭くも柔らかな息が、久方ぶりに呼ばれた私の名前とともに、そっと漂う。まどろんだ意識が、眠気によってしっとりと塗られていく。
それでも諏訪子の温もりが消えることはなかった。
そのことが、とても嬉しかった。
◆◆◆
「今夜、遷る」
神奈子の言葉は簡素なものだったが、それだけで何を意味しているのかを、推し量るのには充分だった。
境内を掃く手を止めて、私は頷いた。
「落ち着いているね、東風谷」
「覚悟しておりましたので」
言葉通りだった。
神奈子の口から宣言されたあの日から、覚悟はしていたことだった。だからこそ、こうして落ち着いていられる。取り乱すようなこともなかった。
「早苗には、私から既に伝えている」
「そうされると思い、私からは伝えておりませんでした」
「最初こそ戸惑っていたが、今は熱意を燃やしている。やる気は充分だよ、あれくらい覇気のある方が私としても有り難い」
「あの子なら、そう答えると思いました」
「学友には遠くへ留学すると伝えているらしい。多少の名残も感じているようだが、それよりは幻想郷への関心に傾いているようだね。早苗を選んで、正解だったよ」
「関心が傾いているのは、貴方様も同じではありませんか、八坂様」
「当然だ」
毅然とした面持ちを微塵も崩すことなく、神奈子は答えた。
「これからのことに思いを馳せると、やはり心躍る」
さっぱりとした言い方だった。
神奈子に一礼して、私は再び境内を掃き始めた。
御祭神である神奈子に対するものとしては、いささか失礼な態度にも思われたかも知れない。
しかし、当の本人に気にした様子は少しもなかった。それよりも今は、遷る場所――幻想郷へと関心が向いているのだろう。特に私への忠言なども無く、その姿は溶けるように掻き消えた。
この日も変わらず、あの老婆は来ていた。
恐らく、明日も来る。
だから私は手を止めることなく、境内を掃き続けた。普段と変わることなく、念入りに掃き清めていく。この日の予定を脳裏に描きながら、私は掃除を終えた。
こうした日々の繰り返しが、何よりも大事だった。
健康を損ねることなく、日々の営みを積み重ねていくことが、信仰を培う上では何よりも大事なのだと、私は考えている。大きく事態を変えることなく、少しずつ時代の流れに沿って変遷していきながらも、決して失わせてはならないものは、見過ごさずに。
奇跡を起こすことが大事なのではない。
奇跡とは、起こさないからこその奇跡なのである。
それが私の持論だった。変えてはならない、持論だった。
神奈子の考えが、間違いだとは思っていない。
反対こそしてきたが、それ即ち間違いだと断ずるほど、私は愚かではなかった。百人に百人のやり方がある。十人十色という言葉は、信仰の上でも切り離すことは出来ない。そこには道理があり、曲げることの出来ない持論が込められているからである。神奈子が譲れないものを持っているからこそ、私にその考えを間違いだと思うことは、どうあっても出来なかった。
だが、それは私も同じである。
譲りたくはないものを、私も抱いている。
境内に、私以外の影はない。
神奈子も早苗も、これからの準備に忙しいのだろう。諏訪子に至っては、そのことを知らず――むしろ、知ろうともしていないに違いない。普段通り、気ままに過ごしているであろう諏訪子のことを思うと、少しばかり暖かなものが込み上げてきた。
清められた境内には、清々しい空気が張り詰めている。
その最中で、私は準備を始めた。
二メートルほどの、細く整えられたもみの木を、境内の四箇所に設置する。それぞれを、量販店などでも売られている一般的な糸で繋ぎ合わせ、紙垂を飾っていく。ひとつひとつ丁寧に。手作業で飾り終えた時には、昼時に差し掛かっていた。
雲ひとつ見当たらない、晴天を仰ぐ。
終わりとは言え、夏の日差しは容赦なく私へと降り注いでいた。普段から、こうして掃除や神事のために汗水を流していなければ、動くことすら儘ならなかったことだろう。一般的な、建物の中で職に従事している類の人達ならば、まず根を挙げたに違いない。こうした体力も、日々の積み重ねから培われたものだった。
普段の神事からすれば、恐ろしいほどに簡単な準備だった。
社殿の手前に、もみの木と紙垂に飾られた糸とに囲まれた、正方形のスペースが出来上がっている。そこには、何も用意されてはいない。神事の際には必要不可欠な、ありとあらゆる用具を、私はひとつも持ち出してはいなかった。それどころか、口に出してカミへと奉ずる、祝詞すらも準備はしていない。およそ、祭りを控えている身として、私は何も用意していなかった。
自ずと、苦笑のような溜め息が口をつく。
これで良いとは思いながらも、どこか物足りなさのような、もどかしさを感じてしまう。その懊悩を振り払うかのように、私は踵を返した。
昼食は、早苗が作ってあった。
丁寧にラップされた私の分があり、そこには書き置きが残されていた。どうやら、学友の中でも特に親しい人達に、お別れを言いに行っているらしい。走り書きながらも、少女特有の丸みを帯びた文字が、可愛らしく躍っている。悲しみなどは、その文字には滲んでいなかった。
「いただきます」
手を合わせて、食事を始める。
早苗の料理は、私が作ったものと比べると、少々濃い味だった。今を生きているような、そんな溌剌とした味覚が、舌の上で踊っている。私には、刺激が強すぎるものだった。必要以上に白米を頬張り、それ以上に麦茶を飲んで喉を潤す。
私が作ると、早苗はいつも醤油や塩を振りかけていた。
お互いに、相手の味が濃い、薄いと、平行線のような言い争いを続けてきた。
それでも、本格的な諍いにまで発展したことはなかった。
どちらかが冗談を言って話の腰を折っては、そのままお互いに笑い合って、そこで止まってしまうのである。そんな時の、早苗の面白おかしそうに笑った顔が、瞼の裏でころころと踊っている。性格こそ神奈子に似ているが、笑顔は諏訪子のそれと、よく似ていた。
「ごちそうさまでした」
早苗の料理をすっかり平らげて、私は手を合わせた。
食事の後片付けを済ませた後、潔斎場へと赴く。神事の前には、必ずここで身を清める。そうでなくても、日本人は風呂に入る習慣の培われた民族である。身体を洗い清めることは、心身ともに健やかに過ごす上で、欠かせないことだった。
潔斎場を出て、私はとある一室に足を踏み入れた。
生活用品など何ひとつないその部屋には、窓がひとつしかない。
青々とした畳は、普段から人の出入りが少ないことを物語っている。襖を閉め、さらに窓をも手近な布で覆い隠したことで、その部屋は昼間という時間帯にもかかわらず、夜のような闇に包まれた。
この部屋に、私以外の誰かが入ってくることはない。
早苗も、それどころか神奈子や諏訪子も、私がここに入っている間は、絶対に立ち入ろうとはしなかった。何故なら、それが古代より続く習わしのひとつであることに、他ならないからである。
篭もり、時を経ることが、神事の一環でもあった。
暗闇の中、私はここだと目処をつけ、座り込む。
幾度となく足を運んでいる私にとっては、その感覚も慣れたものだった。物音ひとつ聞こえず、真っ暗な闇の中で、私は溜め息のひとつもつくことなく、じっと座り続ける。
思い起こされるのは、有り触れた光景だった。
腕の中で眠るのは、まだ名前も付けられていない赤子だった。男の子と女の子、それぞれ両方の名前を五つほどは考えていたのだが、我が子を抱いた瞬間、沸き起こった感情によって、全て吹き飛んでしまった。早苗という名前は、連れ合いの考えていた名前である。私こそが名付けると心に決めていたのだが、早苗という名前の響きを聞いた途端、不思議なほどにすんなりと受け入れていた。
その連れ合いは、ある日、いなくなった。まだ自分で立つこともできない早苗を抱きながら、粛然と執り行われる神葬祭を、私はただ茫然と見つめていた。腕の中の早苗は、まどろんでいるかのように目を細めている。なにが起こったのかを、理解できるはずもない年齢だった。少々、退屈そうにさえしている。そのあどけなさに救われたことは、今でも忘れていない。
自分で歩けるようになったのは遅かったが、風祝としての力に目覚めるのは早かった。指先で風を操り、木の葉をくるくると弄んでいる早苗の顔は、まだ幼い。笑顔の中に、若干、得意げな色を湛えながら、早苗は振り返った。その途端、快活な笑顔は、緊張を孕んだ驚きへと移り変わっている。私の傍らに、長身の女性を見たからだろう。ひとつ咳払いをして、女性――八坂神奈子は、自らのことを紹介した。
早苗は、すぐに神奈子と打ち解けた。やや礼を失しているほどに物怖じしなかった早苗を、神奈子も気に入ったらしい。小学生となり、示された課題をうんうんと睨み付けている早苗を、神奈子は口を挟むこともなく見下ろしている。その横顔は、これがあの軍神としても名高い八坂神奈子かと疑ってしまうほどに、優しいものだった。早苗に課題のことを問い質されると、母親のような眼差しで、父親のように厳かに告げる。ともすれば、萎縮してしまいそうな威厳をも漂わせていたが、早苗に臆した様子はなかった。快活に礼を言うと、神奈子は、はにかんだように微笑んでいた。
神奈子の手を引いて、早苗が歩いていく。着ている学生服は、彼女が中学生になったことを意味していた。遠出をした、山道の最中である。木漏れ日の中で、先を行く早苗が振り返り、私を呼ぶ。釣られたように振り返った神奈子の顔も、柔らかく微笑んでいる。その頃には既に、私と神奈子の意見は食い違い、お互いに微妙な関係となっていた。しかし、そんなことを露とも知らない早苗は、私にも神奈子にも同等の明るさで接してくる。だからこそ、神奈子は遅れている私をからかうように労い、私も気軽に返事をした。なおも歩みの遅い私に、早苗は得意げに微笑んでから、颯爽と進んでいく。その軽やかさを見て、こっそりと後をつけてきた諏訪子が、私の耳元で羨ましそうに呟いた。
披露するかのように、早苗はくるりと回った。スカートが短いことを指摘すると、不満そうな膨れっ面となった。もっとも、その目までは怒っておらず、喜色をたゆたわせている。ブレザーの制服など私には縁遠いものだったので、こんなものなのかと納得しておいた。高校生となった早苗の背は、私よりほんの少し高いものとなっている。神奈子にそれを指摘されて、早苗は大仰に喜んで見せた。対して、私があまり反応を示さないと、内心では悔しがっているなどと言っては、悪戯っぽく微笑んでいた。隣で、神奈子まで同じような顔をしているのを見て、私は呆れたように肩をすくめた。その夜、諏訪子との酒宴で嬉し涙を流してしまったのは、今でも秘密にしている。
社殿の前で、カメラを覗き込んでいた早苗の顔は、真剣だった。しばらく、ああでもないこうでもないとしていたが、ようやく構図にも納得できたらしい。満足げに微笑んでから、慣れた手付きでかつらを脱ぎ取る。風祝としての緑髪ではあまりにも人目を引いてしまうため、早苗は普段からかつらを被っていた。適当なところへ放り捨てると、待っていた私と神奈子の手を取り、カメラの前へと誘う。早苗をはさむかたちで、私と神奈子が立つ。撮られた写真が現像される前から、早苗はその出来栄えの良さを何度も自慢していた。こっそりと、柱の影から諏訪子が覗いていたのを、早苗は知らない。そんな抜けているところも早苗にはあったが、そこがまた愛らしかった。涙してしまいそうなほどに、愛おしかった。現像された写真は、常に持ち歩いている。今も、こっそりと懐に仕舞い込んである。
ほんの一月ほど前に撮られたその写真に指を這わせながら、部屋を後にした。
橙色の斜陽が、すべてを彩っている。
写真の中の誰もが、笑っている。中央に陣取る早苗も、左手で厳かに腕を組んでいる神奈子も、こっそりと柱の影から顔を出している諏訪子も、皆一様に微笑んでいる。
私の顔だけが、どこか疲れが滲んでいるようにも見えた。
夕日のなせる錯覚だと思いたかった。家族での写真に、疲れた顔は似合わない。
神奈子。諏訪子。早苗。
皆、家族である。
山の稜線に、沈んでいく陽が見える。
頃合いだった。
私室へと戻り、写真を机に置く。代わりに手に取ったのは、榊の木の先に真っ白な神札が取り付けられた、独特の祭具である。それ以外、私が用意するものはない。羽織るものはなく、被るものもなく、靴とて備えてはいない。
白襦袢、白装束、白袴、足袋、雪駄。
普段よりも小ざっぱりとした装いで、私は境内へと歩を進める。さりさりと玉砂利を踏み鳴らしながら、正方形の内側へと入る。
丁度、社殿と向き合うように居住まいを正して、座す。砂利が脛に食い込む感触もあったが、これからのことを思うと、あまり気にはならなかった。
ひぐらしの物憂げなさざめきの中、目を閉じる。
長いのか短いのかもよく分からない。そんな感覚の中で、閉じ続けた。思いを馳せる必要は、もうなかった。
目を開ける。
その先に、神奈子が立っている。
境内は、すっかり夜の帳に覆われていた。
◆◆◆
恐らく、合点しているに違いない。
尊大なものを惜し気もなく漂わせながら、神奈子は腕を組み立っている。蛇のように油断なく細めた瞳で、こちらを見据え続けている。心なしか、口元には笑みさえ滲ませていた。
雄大な、深山を思わせる姿だった。それがまた誇らしくもあり、同時に疎ましささえも感じさせる。他者には決して啓蒙しないであろうその姿が、私に複雑な思いを抱かせる。
山のように動じない、八坂神奈子。
だからこそ、御祭神として祀るのにこれほど相応しいカミは他に居ない――そんな、自負のようなものを感じさせる。
だからこそ、カミと人との間を取り持つ〝なかとりもち〟としては、決して人には依存し切っていないその姿に――途方もないジレンマを、感じた。
「見送りの祭事……という出で立ちではないね、東風谷」
ぽつりと、神奈子の口からそれだけがこぼれる。そんな、有り体な囁きにさえ威厳のようなものが漂う。神聖にして、侵されることのない荘厳さが、存在している。
言葉を返すのには、多少の時間が必要だった。
「見ての通りです。おおよそ神事に必要なものを、私はほとんど用意していません」
「そうだね。確かに、この有り様は、いっそ質素なほどだ」
玉砂利の踏み締められる音が、ひとつだけ聞こえる。
神奈子は一歩だけ、私に歩み寄った。ただそれだけで、境内の夜気そのものが、大きくうねる。
「お前は、祭服も羽織っていなければ、祭るべき供物すら用意していない。それどころか、私に奏上するべき祝詞すら、その手には持っていない。昼間に篭もっていたお前を見咎め、もしやとも思ったのだが」
「お気づきでしたか」
「長い付き合いだからね」
神奈子の厳かな美貌が、ほんの少しだけ崩れる。硬質さがわずかに薄れた、懐古の念を滲ませた微笑みが、その唇に浮かぶ。
しかしそれも、束の間のことだった。
「長い付き合いだからこそ、この有り様を疑った。神事は古事をこそ尊ぶべし――〝なかとりもち〟として、これは絶対に外せないと言ったのは、他でもない。東風谷、お前だったはずだ」
一言一言、神奈子は噛み締めるように口にする。静かな口調ではあったが、腹の底から響かせるようなその声音は、私の身体を強かに打ち据えてきた。確固たる糾弾の意思が、その声音に滲んでいた。
「立つ鳥後を濁さず。その言葉から見れば、私のやり方はあまり褒められたものではないだろう。その私に対して、お前が穏やかならない思いを抱くことも、多少は理解できなくもない。だが、こうして己の心情すら歪ませてまで、私の遷座に抗議の意思を示すような、このやり方は……」
蛇が、瞬く間に竜へと転じた。
細められたその瞳に、青嵐の如き怒りが渦巻く。
「失望したぞ、東風谷。お前が、信念まで小童へと成り果てるとは」
晩夏の夜には似つかわしくない強風が、境内を廻る。
背筋が泡立つような異音を上げて、私と神奈子の間を駆け抜けていく。神奈子の抑え切れない感情に、翻弄されるかのように、とぐろを巻いている。
神奈子の顔には、もはや笑みの欠片すら浮かんではいなかった。
そのことに、思わず。
「すみません、神奈子様」
「言い訳など聞きたくない」
「こう言ってはなんですが」
「聞きたくないと言ったが」
「私はとても嬉しい」
「……なに?」
形の良い柳眉がぴくりと動く。
怒気の中に、一滴の困惑が入り混じる。
「言葉の通りです。これまで、神奈子様とは長い時間を過ごしてきました。神奈子様、諏訪子様、そして早苗とともに、苦楽を共にしてきました」
正面から、神奈子の顔を見据える。
臆するような気持ちは、不思議と微塵も沸かなかった。
「ですが、大変畏れ多いことではございますが――神奈子様との間に、私は距離を感じておりました。私か、或いは畏れながらも神奈子様が、そのような距離を作ったのかは分かりません。また、その距離が信条の相違によるものなのかも、分かりません。もとより、そのようなことを今更考えるつもりなど、毛頭ありません。重要なのは、神奈子様。私は、私とあなたとの間に、薄くとも確かな距離を、感じていたことです」
玉砂利の敷き詰められた大地から、ゆっくりと立つ。脚の感覚が鈍らされていることが、やたらと気に障る。
それでも、神奈子の視線から目を逸らすことは、なかった。
「だから、今ここで嬉しく感じたのです。神奈子様が、私の目前で、そんなにも感情をあらわにされたことが」
自ずと、口元に笑みが浮かぶ。
不敬だとも感じたが、それでも笑みを止めることはできなかった。
「それがただ、嬉しい」
「……そのために、己の信条まで蔑ろにしたのか?」
一方の神奈子は、最初こそ戸惑いを滲ませていたものの、今はすでにその表情は立ち戻っていた。整い過ぎているほどの美貌に、静かながらも嵐の如き存在感のある怒気を、滲ませている。
「お前は、もっと賢い奴だと思っていたのだがな。どうやら私の買い被りだったようだ。残念だよ、東風谷」
「大変有り難いお言葉ではございますが、どうあっても私は浅学の身です。既知ならば兎も角、未知には己の頭を振り絞ることしかできません。そして、だからこそ私は今回、ほとんどなにも、用意をしておりませんでした」
「どういう意味だ」
神奈子の顔に、またもや困惑の色が混じる。
「古事に則るならば、見送るための神事など幾らでも例はあるだろう」
「仰るとおりです。ですが、このたび御遷りになる場所は、おおよそ前例などないと私は考えました。黄泉の国が相応しいでしょうか。それとも単に、遠き地というのが宜しいでしょうか。はたまた、遠くに見えながらもその実は近き地という、哲学のように捉えるのが正しいのでしょうか。残念ながら、私にはどれも当てはまりませんでした。忘れ去られし諸々の集う、無何有の郷にカミを送り出すための神事――大変畏れ多いことではございますが、斎宮を思い起こさせられました。早苗のことを想うと、より顕著に」
「それはつまり、私が許せないということか、東風谷」
「複雑です。早苗のこと、諏訪子様のこと、そして恐れ多くも神奈子様のことを思うと、複雑なのです。己の心情を吐露することがとても難しいことを、恥ずかしながらもこの歳になって、ようやく私は知ることができました」
持ち続ける祭具を、具合を確かめるように握りなおす。
若干、汗が滲んでいる。
「以前、お話をしたはずです。全国の御社の中には、新たな祭祀を神職たちが考え、執り行い始めていることがあると。カミに仕え奉る機会を、試行錯誤とともに整えていっていることを。それもまた、これからの〝なかとりもち〟としての姿勢ではないかと、私は考えております」
「憶えている。お前が熱心な顔で私に話していたことは、記憶に新しい」
「このたび、神奈子様は御遷りになられます。事情を話した早苗と、何も知らされてはいない諏訪子様とともに。この御社から、用意されているかどうかも定かではない、新たな御社へと」
「私の言ったことを、よく憶えているようだな。訂正しよう、お前は賢い奴だよ、東風谷。むしろ、賢しいと言った方が正しい」
「ありがとうございます。ですが、先程も言ったとおり、私は所詮、どうあっても浅学の身です」
「なるほど、小賢しい。謙遜も過ぎると知っておきながら、それでもなお謙遜する」
神奈子の瞳が、より一層細められる。
怒気はすでに気配も無く収められており、探るような好奇心が首をもたげている。
私の、次の言葉を、興味深げに待っていた。
「で、お前はどう考えたのだ、東風谷」
だから、私はなるべく間を置かず、続ける。
「思い至りませんでした。結局、前例を見出すことは早々に諦めたのです」
「だから、考えたのか」
「手を抜かれている印象を、抱かれる覚悟で臨みました。これより神奈子様の臨まれる幻想郷は、神事についての得体が知れません。明治の頃より隔離されたという記載を鑑みるならば、その神事は明治以前の色合いを強く残していると考えるのが妥当でしょう。ですが下手をすれば、もはや神道という信仰が、まったく別のものへと変化している可能性も、考えなくてはなりません」
「だから、何も無いのか」
「無何有の郷へと臨まれる覚悟を、神奈子様。大変畏れ多いことではございますが」
「なるほど、私に求めたと」
「その通りです」
最後に軽く、神奈子に対する所作としては、不敬だと思われても仕方がないほど軽く、頭を下げた。
「その結果が、このたびの、この場の有り様です」
「なるほど、小賢しい」
言葉とは裏腹に、今や神奈子の表情に怒気らしきものは、微塵も見当たらなかった。関心の薄れた瞳を、先と同じく艶やかに細めながら、周囲へと向けている。
やがて、その視線が再び私へと戻った時、神奈子は小さく息をついた。
「お前が伝えたかったこと、心に留めておこう。今回の試み、代償の大きい賭けであること、重々念頭に入れていたつもりではあったが、私の考えだけでは少し足りなかったようだ。礼を言うぞ、東風谷」
組んだ腕をそのままに、神奈子はほんのわずかに頭を下げる。
そんな仕草にさえ、厳かな気品が削がれることはなかった。先程、彼女を彩るように覆っていた怒気などは、既にその残り香すら感じさせなかった。
尊き存在としての八坂神奈子。
それが、山のように大きく深く、顕在していた。
無言のまま、確かめるようにこちらを一瞥してから、神奈子は踵を返す。玉砂利が鳴らす音さえ厳かに、その場を後にしようとしていた。
「神奈子様」
だから私は、手に持った祭具を振るった。
「まだです」
夜気を切り裂く鋭い風が、神奈子を遮るように吹き荒ぶ。
飾られた紙垂が淡く緑光に輝き、中空に五芒星を浮かび上がらせる。同じく、淡い緑光に彩られたそれは、近年では見られなくなって久しい、蛍の情愛の乱舞にも見えた。
それは結界だった。
〝なかとりもち〟としての神職の力とは無縁の、洩矢の血を引く私だからこそ行える、秘術とも言うべき力である。
久方ぶりに振るったが、それでも衰えらしきものは、今のところ見られなかった。五芒星はそれぞれ、区切られたスペースの四方に、ひとつずつ浮かび上がっている。内側から出ることは、常人には容易ではないだろう。
「まだとは、どういうことだ。東風谷」
神奈子は歩みを止めていた。
こちらには、なおも背を向けており、どのような表情をしているのかを読み取ることはできない。
「大変畏れ多いことではございますが、言葉通りです」
蛍火のような緑光が、ちらちらと視界の端で瞬いている。なるべく、それに気を削がれないよう、私は前を見据える。
「まだ、終わってはおりません」
「そのために、久しく使ってはいない秘術で、結界を作ったか。翡翠とも、蛍火ともつかない淡き緑光を以って、私の道を閉ざすか」
神奈子が、振り返る。
「懐かしいね、東風谷」
淡い緑に照らされた神奈子の瞳は、鋭かった。非難も、敵意も感じられないその視線は、それでもなお刃物のような鋭さで、私の身体を射抜いていた。
より正確には、私の顔、その髪を、見つめていた。
「お前が術で隠している緑髪、そうしてあらわにしているのは、久し振りに見たよ」
「こうでもしないと、神奈子様をお引止めすることは、適いそうになかったので」
視界の端、かすかに映る自分の髪が、蛍火とも翡翠とも取れない色によってほのかに輝いている。
自分の顔に似合いもしないその色が、昔から好きではなかった。
だからこそ、その髪の色を隠す術を真っ先に学んだことは、今でも憶えている。神奈子が久し振りと言ったことも至極当然かと、私は他人事のように思った。
「さて、そうやって術を解いてまで、秘術に最適な状態になってまで、お前は私の歩みを止めた。ここから、お前はどうするつもりなのだ、東風谷。よもやとは思うが」
矢のような視線もそのままに、神奈子は詠うように続ける。
「私を止めるか。この、八坂神奈子を」
「場合によっては」
気圧されぬよう、祭具を掲げる。
「それに神事も、まだ終えてはおりません。人の言葉をカミに伝えることが祝詞であり、神事の根幹とするならば」
身体の周りに、風の纏わりつく感触がある。空の手で中空に描かれた五芒星が、淡い緑光となって私を照らしてくる。
威風堂々たる神奈子に向かって、私は言った。
「私は〝なかとりもち〟として、それを伝えねばなりません」
声が震えることは、なかった。
◆◆◆
「祝詞は用意していなかったんじゃないのか」
「形としては。しかし、奏上したく思う言葉は、今この時にも浮かんでおります」
「それは、人々の言葉ではなく、お前の言葉だろう」
「私は」
神奈子の視線から片時も逸らすことなく、私は一息つく。
「私は、残る者です。そしてこの残る土地は、紛れもなく人の息衝く土地です。畏れ多いことではございますが、神奈子様。この地を去る貴方様に、私は残る者として、人々の根付くこの大地で生きてゆく者として、お伝えしたいことがあります。人として、お伝えしたいことが、湯水の如く湧き出てくるのです」
「東風谷、貴様」
細められた瞳に、剣呑な光が宿る。
「それは〝なかとりもち〟として、逸脱しているのではないか」
「カミと人との間を取り持つ〝なかとりもち〟であることに、変わりなどあるはずがありません。ですが、敢えて続けさせて頂くならば」
かすかに怒気を帯びた神奈子の視線を、私は真正面から受け止める。
逸らすようなことはなかった。
絶対に、逸らしたくはなかった。
「私は〝なかとりもち〟であり、同時に一人の〝人間〟です。〝現人神〟などではなく、だからこそ貴方様と並ぶことはない。人の言葉に耳を傾け、カミへとその言葉を願いとして昇華し、奉げる。ならば、そうして耳を傾けるべき人々の信仰は、守るべきです。失わせてはならないのです。人々の平穏を願い、日々の営みの安寧を願う、だからこそ貴方様の御遷りに、納得できないものも抱く。カミのおわせられない御社に、儚くも尊き信仰が寄せられることを、黙って見過ごせるはずありません」
下腹に力を込める。
怒りなど、微塵も沸いてこない。
「信仰は儚き人間のために。儚くも尊き人間の信仰のために」
覚悟という言葉が、一番しっくりとした。
「私は〝なかとりもち〟として、この先行きの見えない神事を執り行い、懇々と沸き立つ祝詞の奔流を、全力でお伝えする所存です」
言い終えるとともに一陣の風が吹き荒び、私と神奈子の衣服や髪を強くはためかせる。晩夏に相応しい、冷たい風だった。秋の気配は、すぐそこにまで近付いている。
決然とした言葉だと、我ながら思った。
しばし私を見つめてから、神奈子は不意に目を閉じた。
同時に、神奈子を取り巻くあらゆる気配が、まるで夜気へと溶けるように消えていった。
腕を組み、瞳を閉じる神奈子の姿は、ある種の彫刻芸術を思わせるほどに無機質であり、なにより美しかった。東洋の繊細さと、西洋の剛胆さとがない交ぜとなったかのような美貌は、磨き抜かれた大理石を思わせるほどに、微動だにしない。まるで、神奈子の身体だけが、時が止まってしまったかのような感覚を、私は覚えた。
「小賢しいな。やはり、お前の物言いは小賢しい」
しかし、それも実際には、ほんの数秒の出来事だった。
「人に傾倒することが、信仰として正しい姿だとは言えない。もとより、カミは決して人に依存し切ってはいけない。確かに、カミは恵みの雨を降らすが、そこに求められるのは、決して仲良しごっこではないのだよ。畏れ、敬い、そこからこそ尊ぶべき信仰が産まれいずる。すでに科学の蔓延してしまったこの地では、私が求める信仰はもう産まれない。甘ったるいだけの関係では、産まれるはずもない。そんなものは、ただの惰性だ。そして私は、そんな代物でこの飢えを満たすことはできない」
瞳を閉じ、淡々と語り続けていた神奈子だったが、その声がぴたりと止まる。
瞼が開かれ、血のように赤い双眸が私を捉える。
これが軍神、八坂神奈子か。
肺腑を、とぐろで巻き取られたかのようだった。
嵐のように濃密な気迫が、見えない風となって辺りを駆け巡った。吹き荒ぶその強さは、怒気を漲らせていた先程の比ではない。大気が震え、結界である緑光の五芒星が、テレビ映像の乱れのように大きくぶれる。後退りしそうになった左足は、寸でのところで踏み止まらせた。
滾らせた気迫とは対照的に、神奈子の表情は澄んだものだった。
怒りで見上げることはなく、嘲りで見下していることもない。淡々と、真正面から私を見据えているに過ぎなかった。
だからこそ、冷や汗すら流れない。
口内の唾を、喉を鳴らして飲み下した。
「信仰の墓場に縋るつもりはない。私は、神々の恋した幻想郷へと、遷る」
声は、あくまでも静謐だった。
湖面をささやかにさざめかせる程度の声音が、神奈子の傍ら、その中空に巨大な影を呼び起こす。
御柱が、一柱。
勇魚の如く雄大に空へと浮かんだのは、荒々しき神事の象徴であり、神奈子の神性にも大きく関係している、由緒正しき御神体であった。その様相は、大木としての生命力すら、微塵も失ってはいない。幅も高さも、大柄な神奈子を遥かに凌いでいる。
「そして、遷ると決めたからこそ、私も学んだ。その結果、幻想郷には中々面白い儀式があるそうだ」
息を呑む私に、冷たい微笑を口に湛えながら、神奈子はさらに続けた。音もなく宙へと浮かぶ御柱の傍らに、新たな影が現れる。
一柱。
さらに一柱。
惜しげもなく、一柱、一柱、一柱。
「決闘のような儀式だ。より美しく、より完成度の高い側が、評価される仕組みらしい。命を失うことも稀にあるそうだが、それでも確率自体は低く、なにより命を奪うことが直接勝敗に関わる訳ではない。だからこそ、人間も妖怪も平等に評価される機会がある。そういった規定の、儀式らしい」
総勢、六の御柱を率いて、神奈子は一歩を踏み出した。
その一歩だけで、御柱は胸の悪くなる風音を鳴らして、一斉に動く。底とも天頂ともつかない、円柱の平らな部分が、すべて私へと向いた。
「それは、弾幕勝負と呼ばれるそうだ」
蛇の如き双眸が、私を捉える。
御柱は、私にぴたりと狙いを定め、一時も逸れることはない。夜の空に浮かぶそれらは、異国の雄大な飛行船を髣髴とさせた。それも、武装を施した軍船のようであった。
赤い瞳が、わずかに細められた。
神奈子は二歩目を。
「折角だ、この神事でそれを試す」
喜色とも憐憫とも取れない笑みとともに、強く踏み締めた。
「勝機は与えてやるぞ、東風谷。ありがたく」
錬度の高い騎馬の如く、六の御柱が迫る。
「受け取れ」
轟音だけが、私の耳に聞こえた。
瞬く間に、土煙が濛々と立ち昇り、見るものをすべて押し隠してしまう。
鈍痛は、感じた。
自分が立っているのかは、よく分からなかった。
「……怪我くらいは、勘弁してほしい」
わずかに、ほんのわずかに苦い響きを孕ませる声が、届いた。
「治療は施してやる」
獅子が吼えるかのような音が轟き、強い風が肌を刺激する。瞬く間に、土煙は吹き飛ばされ、視界が開けた。神奈子の凛々しい立ち姿が現れる。
「馬鹿な」
その顔が、この日一番、大きく動いた。
「馬鹿な」
搾り出すような呟きは、二度、聞こえた。
自分が立っているということに、私は土煙が晴れてから、ようやく気付いた。六の御柱の内、五柱は私に届く後一歩のところで、静止していた。蜘蛛の糸が絡みつくかのように、五つの緑光の五芒星が、五柱の御柱を絡め取っていた。
そして、残る一柱は。
「申し上げるのも大変畏れ多いことではございますが、神奈子様」
祭具を握った右手ではなく。
「御柱は、このように整えられた様相では、決してありません」
掲げた左手で、受け止めていた。
「もっと節くれ立ち、それでいて整えられ、しかしながら大木としての微妙なうねりを残すものです。そうした、木本来の性質を色濃く残すからこそ、カミに奉る祭事に用いられます。決して、人に扱いやすく、人に啓蒙した形をしてはならないのです。こんなに徒に太くはない、こんなに無様に寸胴ではない、もっと荒々しくあらせられるのが、御柱です。神奈子様の御姿を決して見ることは叶わない、だからこそ御柱に、畏れ多くもその神性の一端でも垣間見ようと願った、人々の想いが詰まった御神体――それが、御柱です」
じりじりと、御柱――御柱もどきを、私は押しやった。
身体の至る所が悲鳴を上げている。健康ではあったが、お世辞にも鍛えているとは言いがたい私の身体は、確かに悲鳴を上げていた。肉が軋るどころか、骨が軋む音さえ聞こえてくる。
だが、それでも構わなかった。
「それを、神奈子様。貴方様は」
決闘のような儀式と、神奈子は言った。
幻想郷のことを話したその響きには、神事のような神性さも、人々の信仰のような直向さも、一切感じなかった。遊戯のような気楽さしか、感じなかった。
神奈子の顔が、目に入る。
「貴方様は、そんな人々の信仰を」
怒りは沸いてこなかった。哀しみも、沸いてはこなかった。
そんな上辺ではない、もっと奥底の滾りが、私を突き動かした。
「少し、残念です」
六の御柱もどきが、一斉にひび割れた。
ひび割れた中から現れたのは、まさしく私が想像したとおりの御柱だった。私へと向けられた力が、途端に消え失せた。
自由となった身体を酷使して、祭具を掲げる。
風を呼ぶ。
風が渦巻く、風がうねる、風が纏わりつく。
それらをすべて――神奈子に、向けた。
「小癪」
神奈子は、軽く片腕を払った。
それだけで、殺到する風がすべて、霧散する。
「小賢しい」
続けて、私が吹き飛ばした六の御柱にも、神奈子はまったく動じなかった。
演舞の一環のような挙措で、両方の手のひらを掲げる。
その途端、六の内、二柱は砕けて塵芥となり、四柱は導かれるように神奈子の背へと群がった。
「畏れを知らぬ、小童めが」
二対四柱の御柱を、神奈子は背負う。
紙垂の飾られた注連縄とも合わせて、なんとも奇抜な格好だった。
しかしそれも、八坂神奈子が纏うと滑稽さなどは微塵もない。
「東風谷。貴様よもや、私に神性を説こうとは」
鮮血の如き視線が、私を射抜く。
「愚か、愚か也」
くわりと、その口が開いた。
蛇のような笑みを神奈子は刻み、風が吹き荒ぶ。私が呼んだ風などとは、比べ物にもならなかった。
「東風谷。貴様よもや、私に神風を差し向けるとは」
蛇の鳴き声のような、掠れた声だった。
「愚か、愚か也」
嵐が私に向けられた。
叩き付けられた風によって、玉砂利が爆ぜ飛び、周囲を囲う紙垂がはためく。
私の身体は、風雨に踊れされる柳のように、地面を転がった。
「東風谷。貴様よもや、私の遷りを止めようとは」
冷淡な声が、耳朶を打つ。
転がりながら、神奈子の顔が見えた。
無表情だった。
「愚か、愚か――」
「もう結構です、神奈子様」
神奈子の言葉を遮ったのは、はじめてだった。
「蔑まされるのは、承知の上のこと」
転がる勢いもそのままに、私は立ち上がる。
よろめきそうになる身体は踏み留まらせながら、遮二無二、右足を上げた。
「覚悟の上です、神奈子様」
こちらを見据える神奈子の姿が景色ごと、消えた。
「失礼」
私は、上げた右足を、眼下の神奈子に向けて。
「致します」
宙へと躍り出た身体ごと、振り下ろした。
どぱあんと、玉砂利が割れた。
その下の、剥き出しの大地も割れた。
水と風とが、二つに割れて諸々を押し流す。
「東風谷」
それでも、神奈子は流されず、私の眼前に立っていた。
遥かに近くなった神奈子の瞳が、私のそれと重なる。
「肝が冷えたぞ」
「承知の上、覚悟の上、断腸の思いの上です」
「よもや、私が後退させられるとは」
神奈子の左足は、確かに一歩分だけ、後ろに下がっていた。
「しかし、東風谷」
「はい、神奈子様」
「これで終わりか」
「いいえ」
「だろうな、そうであろう」
「畏れ多くも、お伝えしたとおりです」
「なるほど。あくまで〝なかとりもち〟として、伝えると」
「覚えて頂けたのなら、望外の喜びです」
「小賢しい」
「それでも、喜ばしい限りです」
明る過ぎる星を、手中に呼び起こす。
私がそれを投じるとともに、神奈子は嵐を身に纏った。
「神奈子様」
「珍しいな、東風谷」
木枯らしに、翻弄される木の葉のように、私は宙を舞った。
「八坂様ではなく、神奈子様と呼ぶとは」
「畏れ多いことです」
「もう、その物言いは止せ」
戦斧のように振り下ろされた風の塊が、私を大地に叩きつける。
三重に絡ませた五芒星が、その衝撃を和らげる。
「伝えるのには邪魔であろう。私が許す、止めろ」
「ならば、神奈子様」
明る過ぎる星は、投じた途端に、明る過ぎる光を撒き散らした。
星光は、まさに矢の如き光陰となって、神奈子へと突き刺さる。二対四柱の御柱と、紙垂に彩られた注連縄を背負う、神奈子の身へと纏わりつく。
私は、空いた左手で刻んだ。
「失礼致します」
私の言葉と同時に、明る過ぎる星は猛火へと変わった。
神奈子へと突き刺さった光も含めて、そのすべてが燃え上がる。神奈子の御身を、強かに燃え上がらせる。
「不思議だな、東風谷」
それでも、神奈子の声は朗々としていた。
蛇のように掠れながらも、朗々とした響きで、私へと届いていた。
「お前に神奈子様と呼ばれて、悪い気がしない」
猛火が、猛風によって消し飛ばされる。
炎に塗れていたことなど、露ほども感じさせない神奈子の顔が、目に飛び込んだ。
薄っすらと、笑みすら浮かんでいた。
「だがそれ以上に、無礼だと思うところが強い。不思議だ、東風谷」
四の御柱の先端が、私へと向けられる。
「お前が、どうあっても諏訪子の子孫だからかな」
「それは関係ありません」
「いいや、大いに関係ある」
「神奈子様」
「どうやら私は、未だに諏訪子に囚われているようだ。囚われているからこそ、あいつに勝てそうな今回の遷りに、こうしてこだわっている。諏訪子のように諦め切れず、新しき無何有の郷での信仰を欲している。カミとして死ぬなど、こちらの世界で殉死するなど、真っ平御免だ」
神奈子は、笑った。
歯を見せて童女のように、溌剌と笑って見せた。
「名前だけを遺して滅びるなど、真っ平御免だ」
四の御柱から風の塊が射出される。
「私は嬉しいぞ、東風谷」
対して、四の五芒星を呼び起こして、風の塊を受け止める。
肉薄していた四つの風の塊は、それで辛くもやり過ごした。五芒星が薄布のようにたわんで、ぶつかった風の塊が嵐のように駆け巡る。
ぎちり。
瞬間、四の五芒星は、いとも容易く引き千切られていた。
「諏訪子の子孫であるお前を、こうして遠慮なく」
振り下ろされた手のひらが、私の目に入った。
蜘蛛の糸のように引き千切られた、五芒星の緑光がちらちらと眼前を舞った。
裂けた合間から、ぬうっと神奈子の顔が現れる。
「ぶっ潰せる」
喜色に溢れた、満面の笑みだった。
「お前も遠慮は要らぬぞ、東風谷」
喉首を、勢いもそのままに掴まれた。
その耐え難い膂力に、私はこみ上げたものもそのままに、身体が宙へと浮く。カミというその御身に相応しく、神奈子の膂力は人間離れしていた。
「私に抗ってみよ、東風谷」
私の喉首を引っ掴みながら、神奈子は耳打ちした。
「抗ってみよ、東風谷」
返事など待たれる間もなく、身体が振り回される。
喉への圧迫感に吐きそうになるのを、堪えるだけで精一杯だった。
「伝えてみよ、東風谷。言ってみろ、東風谷。やってみろ、東風谷」
背中に、強烈な衝撃を感じた。
どうやら、大地へと投げ落とされたらしい。
「私を止めたいのなら、相応の覚悟を示してみせよ、東風谷」
それを痛みとして味わう間もなく、今度は脇腹へと衝撃を感じる。
神奈子に蹴飛ばされただけで、私の身体は石ころのように夜空を舞った。
「東風谷、東風谷、東風谷東風谷東風谷、東風谷」
受身など、取れるはずもない。顔から玉砂利へと、無様に突っ伏す。
それでも、両手を使って起き上がろうとできたのは、僥倖だった。
「来い、東風谷」
明滅する視界の中で、声へと振り返る。
右手の中指を、誘うように動かす神奈子の姿が、見えた。
「私もお前も、まだ足りないはずだ」
「いいえ、神奈子様」
肉や骨が軋む音など、何度も聞いていた。
悲鳴など、節々は幾つも上げていた。
それでも私は起き上がった。苦鳴に喘ぐこの身体を、起き上がらせた。
「それは違います、神奈子様」
神職とは、その実は身体が資本である。
もとより健康な身体とは、どのような職種でも必要なことである。
況してや、カミに仕え奉るあり方としては、目に見えない心を求められることは勿論、目に見える形、すなわち外側も強く求められてきた。細やかなところまで、気を遣ってきた。
健康で丈夫なこの身体が、今は役に立った。
神奈子や諏訪子という、幸いにも目に見える形でカミへと奉仕することが出来た自分だからこそ、特に気を付けていたつもりだった。
目に見えぬカミに奉仕する神職が多いからこそ、それが当たり前であるからこそ。
自分は幸せだと、常日頃から心掛けてきた。
「違うのです、神奈子様」
自分は幸せ者である。
その想いは、今も変わらない。
神奈子とこうして、滅茶苦茶な神事で言葉を交し合っている。
それもまた幸せであると、今でも思っていた。
私など、他の神職に比べれば、よっぽど俗に染まっている。よっぽど、幸福であると胸を張って宣言できる。
何故なら、目に見えぬカミへと奉仕することの辛さを、私は経験していない。そして、この日本の国には、目に見えぬカミへと奉仕する神職が、恐らくは圧倒的に多い。その目で実在を確かめられないのに、それでも奉仕をし続けている。人々の安寧、日々の安泰を願い、境内を清めて神事を執り行っている。
だからこそ、自分は幸せ者だと、心から信じている。
「私と貴方様では、そもそも違います」
神奈子の美しい柳眉が、ぴくりと不愉快そうに動く。
その美しさまで、私には滑稽なものに見えていた。鮮やかに、それこそ人間のように鮮やかな動きにあるにもかかわらず、幻想郷へ遷ろうと画策していることが、ひどく理不尽なものに思えた。
「何故なら、貴方様は」
ようやく背筋を伸ばした私を、殴りつけるような風が襲った。身体がうつ伏せに、玉砂利へと叩きつけられる。
それでも私は、即座に立った。
「結局、貴方様は過去しか見えていない」
「東風谷、貴様」
「なんとでも仰って下さい。私は、改めません」
再び私へ振り下ろされようとしていた風が、霧散する。
神奈子の射抜くような赤い視線は、なおも私を捉えていた。
「結局、貴方様は過去に囚われている」
「聞いてやる。貴様を八つ裂きにするかどうかは、聞いてから決めてやる」
「ありがとうございます。ですが、神奈子様」
身体の至る所の軋みを堪えながら、私は神奈子を見据えた。
左肩の痛みが、殊更酷かった。
「過去を見る者と未来を見る者では、私は未来を見る者にこそ、軍配が上がると思っています」
「私は、この信仰の墓場に見切りをつけて、新しき理想郷へと遷る」
「幻想郷は、結局は忘れ去られた過去に縋り続ける、万魔殿に過ぎません」
「捉え方、価値観の違いだ」
「明治より隔絶されたその事実が、幻想郷が過去に生きていることを、なによりも証明しています」
「此処とは違う場所へと移り、新しき信仰を得ることを試みる。これの何処に、懐古への妄執が感じられる?」
「新しき場所と言わず、過去の信仰と表現することこそ、適切ではないですか」
「なに?」
「明治より隔絶された土地ならば、そこに息衝く者たちは、奇跡のひとつで大きく動くことでしょう。此処ほど、科学の蔓延していない土地ならば、奇跡を容易く信じ込み、だからこそ信仰を植え込むことも可能でしょう」
「東風谷、貴様」
「黙りません。新しき土地で信仰を得るなど、如何にも先進的な言葉で装わないで下さい、神奈子様」
「黙れ」
「結局、科学が蔓延し切っていない過去へと、遷るだけです。そうすれば、貴方様の奇跡を広げることは、こちらと比べて幾分も容易い」
「黙れ、東風谷」
「幻想郷は、こちらより文明の水準は下です。明らかに、下なのです。それを分かっているからこそ、科学の支配が及んでいないからこそ、まだ科学に対抗できると考えたからこそ、神奈子様。貴方様は、御遷りになろうと考えた」
「黙れと言っただろう、東風谷」
「取り繕わないで下さい。貴方様の行いは、決して革命などではない」
襟元が、引っ張り上げられる。
歯軋りする神奈子の顔が、眼前にまで迫っていた。
「ただの、懐古です」
それでも私は口を止めなかった。
「貴方様も、過去に惹かれたに過ぎません」
「本気で言っているのか」
「本気でなければ、このような場で申しません」
「つまり私の言うことは間違っていると」
「糾弾する意思がなければ、そもそも発言しません」
「私に非があると、お前は言うのだな」
「神奈子様と私は、畏れ多くも意見が異なることが多かった。当たり前ですが、私はそこに自身との違いを覚えこそすれ、それを間違いと感じたことは一度もありません。それだけ神奈子様の言葉に正当性を感じ、真っ直ぐな芯を、畏れ多くも抱いていたからです。違うことなど、当たり前のこと。糾弾する理由にはなりません。ですが、今回だけは違います」
赤く鋭い視線から、逸らすことはなかった。
「未来などと、革命的な一歩などと、装わないで下さい」
神奈子の目を見つめて、私は続けた。
「幻想郷は、過去の塊です」
「それは此処に住まう者の驕りだ。驕りから湧き出る、侮蔑の言葉だ」
「いいえ、事実です。何故なら、神奈子様。科学が意味するものは現在であり、それ以上に未来です。過去も含みますが、それ以上に現在の意味合いを含み、なにより未来への意味を含みます。科学への啓蒙が限りなく薄い幻想郷に、果たして現在や未来が映るでしょうか。答えは、いいえです。私たちの土地に蔓延する価値観から鑑みると、幻想郷はどうあっても過去が蔓延しています。過去が留まり、過去が積み重なる、それが幻想郷です。妖怪の蔓延する幻想郷だからこそ、そこには過去が蔓延している。そんな幻想郷だからこそ、貴方様は介入できる隙を、見つけられた」
「そこから信仰を広がらせるのだ。過去などではない、現在や未来へと息衝く信仰を、この手中にと考えている。私はそこにこそ、私が求める信仰の形を息衝かせることを画策している。そこに、不純物のような甘えを含ませる余地などない。なにより、お前が指摘する、過去への妄執などない」
「いいえ。その画策にこそ、過去への妄執が強く息衝いている」
「東風谷。私は信仰による新時代を、幻想郷で開花させる」
「それを何よりも強く望まれるのなら、神奈子様」
襟元を掴む、神奈子の腕を引っ掴む。
これまで、触れるのも憚られてきた神奈子の腕を、私は引っ掴んでいた。
血のような赤い瞳が、一層近くに寄った。
「何故、此処で新しき信仰を集められないのです」
「馬鹿なことを」
「科学への信仰に、何故立ち向かわないのです」
「本気で言っているのか、東風谷」
「本気です。本気でない言葉など、畏れ多くも神奈子様の御遷りへと立ち会った時から、この口から吐いた覚えなど一つもありません。もとより、神奈子様。私は、これまで貴方様の御前で、貴方様に向けて、本気でないあやふやな言葉を吐いた覚えなど微塵もございません」
「科学と名付けられた信仰は、止められぬ」
「人々のカミへの感謝に、偽りなどありません。科学が叶えられない事柄など、現在でも山ほどもあります。科学など、所詮はすべてを解明するには遠く及ばず、行き着くのは哲学との中途半端な契合だけです。科学と哲学との狭間にある、人間の懊悩の産物へと、成り果てるだけです。だからこそ、そんな科学が叶えられぬ事柄を、カミへの願いとする人々は大勢居られます。もとより、科学が蔓延してゆく時代の変遷で、それでも御社に参拝される人々は、大勢居られました。崇敬の念によって、途絶えることなく続けられた神事も沢山あります。なにより、神奈子様。今日まで、貴方様のその御姿を見ること叶わずとも、それでも信仰される方々は大勢居られました。私のように、こうして直接、言葉を交わすことすら叶わないにもかかわらず――神奈子様、貴方様は、それでも足りないと仰るのですか」
左の胸に、痛みが走った。
肋骨が折れると、肺に刺さって息をするだけで痛みを感じると、書物で読んだことがあった。ならば、それと同じことが、自分の身体にも起こっているのかも知れない。
だから、どうした。
「何故、此処では足りず、幻想郷では足りるのですか」
骨など、何本折れても構わなかった。
神奈子に自分の想いを吐露することこそ、何倍も重要だった。
「あの毎日来られるお婆さんでは、足りないのですか。あの気弱そうな、私の話を熱心に聞いてくれた青年では、足りないのですか。これまでに御社に参拝された、老若男女様々な人々の信仰では、足りないのですか」
舌の奥に、苦いとも臭いとも言えない生暖かさを感じた。
血が滲んでいたのかも知れない。
だから、どうした。
私はもう一度、自分自身を滾り立たせた。
「神奈子様、思い直してください」
神奈子の顔が、ぼやけて見えなくなる。
溢れた涙を拭き取る時間も、惜しかった。
「人々は信仰を、貴方様のことを、諦めてはいません。貴方様が思っている以上に、諦めてはいないのです」
「無理だよ、東風谷」
硬い声が、耳朶を打った。
細められた赤い瞳は、痛々しいほどに静かなものだった。
「科学の蔓延する土地に、私の求める信仰は育たない」
「見限られるのですか、神奈子様」
「言ってしまえば、そうだ。科学の蔓延していく時代の流れで、信仰は薄まっていった。水が、低き場所へと流れていくかのように、停滞していった。科学の申し子とも呼べる人間が、増えていった。かつての信仰心は薄れていき、神社は形骸化していっている。人々の訪れが多いか少ないかの問題ではないのだよ。すでに、そんな数の問題では御し切れなくなっている。先程、お前は言っていたな、東風谷。科学で叶えられない事柄は多く、突き詰めれば哲学と契合してしまうと。だが、それでも人間は科学を信奉している。時代が進んで進歩が進めば、科学さえ進めば、全てはいずれ解明できると信じている。その思いは、すでに信仰の域へ達していると、私は考えているのだ。だからこそ、私たちへの信仰が入り込む余地がないことを、自覚している」
神奈子の腕を掴む、私の手に、さらに手が重ねられた。
強い力だった。
「進化論というものを、早苗から聞いた。人間は猿から進化したという説らしい。現在では定説となっているそうだな。それに反する神論者も居るそうだが、現代の人間の考えでは異端と見なされるらしい。前時代的であり、現実を見ない宗教論者の愚かしさを表していると、一笑に付されているそうだ」
神奈子の声は、静かだった。
なにより硬かった。
「だが、極論ではどうだ。証拠が幾つも見つかろうが、結局はその目で確認することは不可能なのだ。猿が人間に成り代わった過程を、逐一その目で見た者など一人も居ない。暴言だが、実際に見ていないものを信じるのは、それだけ困難なのだ。だと言うのに、人間は猿からなったという獣臭い説が、現代での通説となっている。多くの人間から、支持されているのだ。猿という畜生から、自分たちが産まれたという屈辱的な説にもかかわらず、広く信奉されている。カミと同じく、その目で実際に見ることは、適わないというのに」
赤い瞳が、一層深く、私の顔を覗き込む。
胸が詰まるほどに、硬い眼差しだった。
「卵が先か、鶏が先か。箱の中で猫は、どうしているのか。まるで、なぞかけだ。だというのに、人間は科学を――言うなれば、現代を信じている。私たちのようなカミなどより、遥かに信仰している」
「そのなぞかけにこそ、私は人々の信仰を広める余地があると、思っております」
「諦めが悪いぞ、東風谷」
「無論です」
私は、続けた。
「諦められるはずが、ありません。例え、神奈子様が諦めようとも、諏訪子様が見限ろうとも、私は諦め切れない。諦めてはならないのです」
「お前が〝なかとりもち〟だからか」
「それもあります。ですが、それ以上に」
下腹から、精一杯の声を出した。
「お慕いしているからです」
「……私を、か?」
「無論です。神奈子様も、そして諏訪子様も、お慕いしております」
諏訪子は常日頃から、放っておけなかった。
神奈子は、どことなく避けてきた。
しかし、眼前で物悲しそうに諦めの言葉を吐いた神奈子は、どうあっても放っておけなかった。強いと思ってきた神奈子の弱々しい声は、堪えられなかった。
「私は幸せ者です」
「距離を開けていたと、お前は私に言った」
「そうした関係も含めて、私は幸せ者です。私のように、神奈子様と言葉を交わし、諏訪子様と酒宴を交わすなど、他に出来るものを私は知りません。その御姿を、一目見ることすら叶わない人々ばかりです。ですが、それでも人々はカミを信じ、信仰しています」
「形骸化しているとは、思わないのか」
「形が残るからこそ意味が生じます。そういった意味でも、私は此処に信仰の余地があると、疑っておりません」
「楽観的だ。私などより、お前の方が遥かに、過去に囚われている」
「そうかも知れません。ですが、それでも」
神奈子の腕を握るその手に、私は力を入れた。
「私は、諦めません」
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」
「神奈子様」
「この言葉を、お前は私に抱かないのか。私は、此処より遷ると言ったのだぞ」
「仰る意味が分かりません」
「東風谷」
「例え、明日この身が、無念の内に朽ちるとしても」
赤い瞳を、真っ直ぐ見つめた。
「お慕いすることに、変わりはありません」
「お前は、私のことを嫌っていると思っていた」
「意見が異なることはあっても、嫌うことなどありません。況してや、違いなどあって当然です」
「疎ましさは、感じていただろう」
「……正直に申し上げれば、どうして私の意見に耳を傾けて頂けないのかと、躍起になったこともありました。今でも、多少はあります。心の奥に、こびり付いております」
「それでも、嫌ってないと言うのか、東風谷」
「私は弱い。身体は勿論、心とて、神奈子様には到底、及びもしません。しかし、そんな私でも、あえて言わせて頂けるのなら、神奈子様」
「東風谷」
「お嫌いになる訳がありません」
「私は、お前を疎ましく思ったのだぞ。お前は連れて行かないと、お前を見捨てたのだぞ」
「それでも私は、神奈子様をお慕いしております」
「弾幕勝負として、お前の決意を弄んだ」
「構いません」
「諏訪子の子孫であると、うさを晴らそうとした。早苗を、此処から攫うと言った」
「構いません」
「答えろ、東風谷」
神奈子の腕が、振るわれた。
私の身体は宙を舞い、地面に落ちる。風を呼んだので、着地は出来ていた。
五歩ほど、神奈子との距離が開く。
「お前は、私が憎くはないのか?」
「お慕いしております」
「答えになっていないぞ、東風谷!」
神奈子の怒声とともに、風が巻き起こる。
龍のいななきのような音色には、哀しみが確かに聞こえた。
「私は、私が憎くないのかと、そう聞いたのだぞ。答えろ、東風谷!」
「お慕いしております」
「まだ言うか!」
暴風が、右手から薙いだ。
呼び起こした五重の五芒星が、それを防ぐ。たわむことも、軋ることもなく、神奈子の風は霧散した。
息を呑む気配が、神奈子から伝わる。
「憎いなど、どうして思うのでしょう」
「それだけの仕打ちを、私はお前に強いてきた」
「神奈子様、私は幸せ者です」
「何故」
「今もこうして、神奈子様と相対し、言葉を交し合えられるからです」
手中の祭具を翻した。
私の身体を取り巻く風が、渦を巻く。
「即ち、私の言葉は祝詞となります。私がこうして一字一句を述べるだけで、カミへと願い届ける祝詞となるのです。これ以上の幸福が、カミに仕え奉る〝なかとりもち〟としての幸福が、果たしてあるでしょうか」
「言葉が交わせる故に、私はお前に無理を言ってきた」
「相違が、そうさせました。互いに芯を曲げないからこそ、私たちは議論を交わしました。確かに、私にとって神奈子様が御遷りになることを決めたのは悲しい事実ですが、それは決して不幸ではありません」
「私は、遷ると決めた。それは、この地との決別だ」
「もとより、これは弾幕勝負だと、神奈子様は宣言されました」
私の言葉に、神奈子はその顔を、鋭く改めた。
「私に勝機をお与えになると、神奈子様は宣言された」
「諦めないとは、そういうことか。東風谷」
「最初に、言ったとおりです」
渦巻いた風が、幾つもの小さな竜巻となる。
布陣の如く、それらを侍らせながら、私は神奈子を見据えた。
「私は〝なかとりもち〟として、貴方様にお伝えすることに、全力で努める所存です」
「ならば、私も今一度、問おう」
一歩、深く踏み込んで、神奈子は言った。
二対四柱の御柱が、私へと向いた。
「止めるのか、この八坂神奈子を」
「畏れ多くもこの神事に、神奈子様が弾幕勝負を見るならば」
祭具を、振るう。
竜巻は一斉に、神奈子へと肉薄した。
「私はそれに、全力でお答えする所存です」
すべての御柱の先端が、火を噴いた。
光とも熱ともつかない奔流が、迫る竜巻をすべて引き千切る。
「私を、言葉でかどわかしたつもりか、東風谷」
吼えるような、神奈子の声が聞こえた。
「結局、お前は私を止めたいのだろう。私の幻想郷への旅路を邪魔したい、違うか」
「そうかも知れません」
「はぐらかすな」
神奈子が、掲げた両方の手のひらを、ぐるりと回した。
大きなハンドルを回すかのような仕草とともに、一際大きな風の塊が、うねった。
「諏訪子同様、お前の言動は回りくどい」
風の塊が、鎌首をもたげた大蛇となって、私へと迫った。
「真っ直ぐ物を言えるよう、頭を冷やせ」
顎を開いた風の塊を、私は身体に鞭打って、よろけながらやり過ごす。
蛇で言うなら胴体とも言うべき風の最中へと、祭具を突き入れる。
「肝は何度も、冷えております」
風の大蛇は、一際大きくのたうち、霧散した。
その鱗の一枚一枚が、小さな蛇、小さな蛙、小さな五芒星へと、鮮やかに姿を変える。皆一様に、淡い緑光を帯びている。
祭具を振るい、風を起こす。
その勢いで、緑光の群像は神奈子へと群がった。
「小賢しい」
神奈子が悠々と、一歩を踏み込む。
それだけで、群がる緑光の群像はすべて分厚い氷に覆われて、大地へと落ちる。
「物言いも、力の使い方も、お前は小賢しい」
「真正面から、神奈子様に抗える力など、持ってはおりません」
「鼠のように凌ぐではないか」
だあんと、神奈子の身体が宙を舞った。
三メートルほどの氷柱が、その軌跡を追うように競り上がる。神奈子が足をついてなお、崩れ落ちることはなかった。
「だが、それも我慢の限界だ」
進軍を制するかのように、神奈子は厳かに右手を上げた。
ある意味、それは事実であることを、私はすぐに思い知った。
「お前は結局、私を止めたいようだ。どれだけ言葉で取り繕おうとも、最後にはそれに行き着く。ならば、私はそれに全力で抗わなければならない」
あの御柱もどきが、夜空に泳いでいた。
先程の比ではない。数十にもなるほどの御柱もどきが、一柱一柱に勇魚の如き勇壮さを湛えながら、私へと向けられていた。
御柱もどきの軍勢を背に、神奈子はその赤い瞳を一層細める。
「許せとは言わん。だから、東風谷」
右手が、下ろされる。
「潰れろ」
数十の御柱もどきが、一斉に降り注いだ。
私に向けて、私の周囲に向けて、更にはまったく別の場所に向けて、轟音とともに降り注ぐ。土煙と、それ以上に大地を穿った御柱もどきの影によって、何も見えなくなる。
立っていることだけは、なんとか理解できていた。
「私は言ったはずだぞ、東風谷」
冷たい声が、降ってきた。
「潰れろ」
再び、轟音とともに幾本もの御柱もどきが降り注ぐ。
驟雨の如く、降り注いでくる。止むことのない質量の雨が、降り続ける。
身体を、何重もの五芒星で覆って、私はやり過ごしていた。それでも、芯まで揺さぶってくるほどの衝撃は、消し切れない。
「諦めろ、東風谷」
轟音の最中で、その声だけは不思議と届いた。
「その信条ごと、潰れろ」
一際強い衝撃が、私の左肩に走る。
枝木を捻じ切るような音が、聞こえる。
「押し潰されて、ぶっ潰されて、諦めろ」
痛みに食い縛った私の横を、御柱もどきが穿つ。
「諦めろ、東風谷」
「私は」
空いている手中に、小さな風を呼ぶ。
「私は、諦めません」
屈みながら、風を足元へと叩きつける。
瞬く間に沸き起こった風は、土煙、御柱もどき、周囲の諸々を吹き飛ばした。
睥睨する、神奈子と目が合う。
その赤さを認める前に、私は祭具を振るった。
身体を覆っていた何重もの五芒星を、そのまま大地へと彩らせる。ほのかな緑光を帯びた大地を見てもなお、神奈子の顔は硬かった。
「諦めろ、東風谷」
「神奈子様、私は諦めません」
大地が隆起する。
競り上がった巨大な蝦蟇は、幾つもの五芒星が、解けて形作っていたものだった。私と、神奈子との間に、立ち塞がるように顕在する。
「諏訪子の血か、私の前に蝦蟇など」
緑光の大蝦蟇は、わずかに跳躍した。
緩慢な動きで、神奈子が立っていた氷柱を、その質量で押し潰す。
「小癪」
神奈子は、軽やかに大蝦蟇の背へと跳躍していた。
空へと掲げたその先には、先程の御柱もどきが、再び漂っている。何十もの数が寄り集まり、一つの巨大な円柱を模っていた。
軽く、神奈子は投げ下ろす仕草をする。
巨大な円柱は、鉄槌の如く落下し、緑光の大蝦蟇を貫いた。
大蝦蟇の口に当たる部分が、大きく開かれる。
「諏訪子の血が、そうさせたか。面白いが、私に蝦蟇など」
「違います。神奈子様」
落下した円柱に立つ、神奈子と視線がぶつかる。
「僭越ながら、諏訪子様と神奈子様」
「なに?」
「二柱、両方です」
開口した大蝦蟇から、長大な舌が覗いている。
厳密には、それは舌ではなかった。
「蛇」
鎌首をもたげた緑光の大蛇を見て、神奈子は小さく言った。
だらりと伸びた大蝦蟇の舌は、中ほどから大蛇へと成り代わって、神奈子へと肉薄していた。呑み込まんばかりに、長大に顎が開く。
「小賢しい」
神奈子の動きは、素早い。
鮮やかなほどの足捌きで、大蛇の顎を難なくやり過ごす。
その胴体へと左手を、躊躇なく突き入れた。
「私の前で、蛇など」
嵐が、その左手から吹き荒んだ。
緑光の大蛇、円柱を模る御柱もどき、貫かれた大蝦蟇など、すべてを消し飛ばす。
「やはり小賢しいぞ、東風谷」
「そうかも知れません」
その嵐の中、私は屈んでいた。
神奈子へと距離を詰めたその先で、美しい貌を見上げる。
「それもこれも、私の諦め切れない心が、そうさせるようです」
私の姿を認めた、神奈子の反応は早かった。
かすかな驚きに目を見開きながら、それでも呼び起こした風の奔流を叩きつけてくる。
私の姿は、風に切り裂かれて、霧散した。
「虚像」
舌打ちをして、神奈子は周囲を見渡す。
「水、光、風祝の術」
「然り」
空を仰いだ、神奈子と向き合う。
驚きを孕んだ赤い瞳は、それでもどこか、嬉しそうに見えた。
「失礼」
「東風谷」
「致します」
祭具を握った手を、落下する身体の勢いそのままに、打ち下ろした。
どぱあんと、二つに爆ぜる音が聞こえる。
不思議なほど、遠いものに聞こえた。
◆◆◆
その女性は、緊張しているようだった。
すらりとした長身が美しい。赤い瞳の映える整った顔立ちは、難しそうに眉をひそめていた。草履を履いた足も、落ち着きなく足踏みをしている。
なにか失礼があっただろうか。
そう思い、私は自分の姿を改める。三度ほど、繰り返し確認してみたが、特に目立ったところは見られなかった。
石灯籠の影から、ひょっこりと小さな影が現れる。
洩矢諏訪子は、女性に近寄ると、いきなり腰の辺りを引っ叩いた。
当たり前のように、女性は抗議の声を上げた。
長身の容姿によく似合う、ハスキーな声が諏訪子へと降り注ぐ。上品と言うよりは、勝ち気な声だった。諏訪子へと向けられたその中には、悪友へ向ける親しみが滲んでいた。
じっとりと目を細めた諏訪子が、二、三、小言を漏らす。
たったそれだけのことなのに、女性は納得しかねるような、それでいて観念しかかったような顔で、押し黙った。
どことなく、可愛らしなと思った。
凛々しいその姿に、不思議と似合っていることが、より一層、そう思わせたのかも知れない。
思わず、私は小さく、笑ってしまう。
弾かれるように、女性の顔がこちらを向いた。
諏訪子は、けたけたと童女よろしく、大きな声で笑っている。
女性は仏頂面で諏訪子を見下ろし、そしてまた、私へと向いた。
ふわりと、鮮やかに微笑んだ。
優しい笑みだなと、沁みるように思った。
◆◆◆
何故、今になって思い出したのだろう。
訝しく思った時、私は自分が仰向けに倒れていることに、ようやく気が付いた。視線の先で、夜空に浮かんでいる星々が、儚く瞬いている。まるで思い出のようだと、なんとはなしに思った。
起き上がろうとして、失敗する。
走った痛みは、苦鳴を漏らしてしまうほどに、激しかった。
「無理はしなくていい」
声は、近くから聞こえた。
思い出に夢見たのと同じく、よく通るハスキーな声だった。
「身体によくない、休め。私が許す。今は寝ていろ、東風谷」
声に反して、私は無理矢理、身体を起き上がらせた。
痛みはなおも走ったが、それでも立ち上がることは出来ていた。
赤い目と、視線が重なる。
「寝ていろと言うのに」
呆れたように、神奈子は言った。
「強情だな、東風谷は」
「諦めが、悪いものですから」
「そうだな。確かに、お前は諦めが悪い」
胡坐をかいていたその身体を、神奈子は立ち上がらせた。
「ならば何故だ、東風谷」
草履が玉砂利を踏む音が、届く。
「何故、外した」
じゃりじゃりと、私に近寄ってくる。
「何故、わざと狙いを逸らした」
神奈子の背は、私などより遥かに高い。
見下ろしてくるその顔は、問い詰めるような言葉に対して、静謐だった。
「何故、私に当てなかった」
「お慕いしている神奈子様に、どうして拳を振ることが出来ましょう」
「はぐらかすな」
「本心を、述べたまでです」
何かを言いたそうに、神奈子は口を開きかける。
しかし、言葉を紡ぐことはなかった。
「何度も思いました。実際、何度も試みました。しかし、結局、出来なかった」
「お前が躊躇していることは、最初の一撃から分かっていた」
「さすが、神奈子様です」
「だからこそ、途中からお前を焚きつけた。実際、そこに託けた。弾幕勝負とやらを試してみたかったのも事実だ。私は、お前に容赦をしたつもりは、なかった」
「それでこそ、カミである神奈子様らしい。貴方様の信条に、なんら反していない」
「お前の信条には反していたはずだ。少なくとも、お前の望むものとは、私は正反対に動いていたはずだ」
「私は、反しておりません」
痛みは徐々に引いている。
祭具を握り直して、私は続けた。
「先行きの見えない神事を執り行い、己の気持ちを祝詞としてぶつける。それさえ出来ていたならば、私は私の信条に反したとは、一欠けらも思ってはおりません」
「ならば何故、最後に外した」
「神奈子様に拳など、振り下ろせなかった」
「答えろ、東風谷」
「もとより」
神奈子の言葉を遮り、私は言った。
「貴方様の御遷りを、本気で止められるなど、思ってはおりませんでした」
「それは諦めではないのか」
「違います。私は結局、神奈子様に卑しい嘆きを吐き出すことを、諦め切れなかった。黙して、その門出を祝福することは出来なかった。貴方様の仰るとおり、小賢しい身です」
「そうではない。お前は、私を止めるなど思っていないと言った。それこそが、諦めではないのか」
「違います。もとより、カミへの願いが全て届くなど。そう思うのは、傲慢です」
居住まいを直した。
左肩の痛みが、もどかしかった。
「私は、理解しておりました。神奈子様が、御遷りになると決意された、あの時から。その神意を覆すなど、不可能であることを理解していたのです」
「ならば、何故わざわざ応じた」
「理解していながら納得し切れなかった。そんな、つまらない我侭の結果です」
「弾幕勝負を試すと、私は言ったはずだ」
「此処は、まだ幻想郷ではありません。遊戯など、遊戯以上の意味を持てることは少ないのです。況してや、忘れ去られた者どものための遊戯など」
目を、伏せる。
「如何ほどの意味が、此処にありましょうか。勝ったか負けたかなど、私如きが神奈子様に抱けるはずがない」
「東風谷」
「お付き合い頂き、ありがとうございます」
私は、頭を下げる。
腰を折って深々と下げた。
「私のようなものに、ここまでお付き合い下さり、本当にありがとうございます」
「やめろ、東風谷」
「神奈子様の御身体に、徒に触れたこと、お許し下さい」
「やめろと言っている」
「あのような、数々のつまらぬ妄言を吐いたこと、不敬の極みと」
「やめろ!」
肩が掴まれ、引き起こされた。
哀しみと怒りで揺れる赤い瞳が、私を見つめていた。
「やめてくれ、東風谷」
「神奈子様、私は」
「自分を否定することは、私が許さない」
「しかし、私は」
「構わん。お前の信条と、私の信条が違ったものであるのは、確かだ。お前の理想と私の理想は、相反するものだった。それは不幸だ。だが、所詮は不幸でしかない。不運とも呼べる。だからこそ、卑下する理由などお前は勿論、私にだって含まれてはいない。だからこそ、お前が痛む身体を酷使してまで、私に詫びる必要はない。自分の信条を、自分で嗤う必要などない。現に、お前は私に向かって、言うべきことを臆することなく、言ってきたではないか。そこに、恥じる必要や詫びる必要が、一体何処にあると言うのだ。お前は、私に伝えたではないか。面と向かって、朗々と読み上げたではないか」
「神奈子様」
「頭など、下げないでくれ」
懇願する響きは微塵もなかった。
「お前との神事、本当に、楽しかった」
かくりと、膝から力が抜けた。
崩れ落ちそうになった身体を、神奈子がその手でしっかりと、支えてくれていた。
「お慕いしておりました」
「お前とはじめて会った日のことは、私も覚えている」
「今でも、お慕いしております」
「私と抱いているものが違うことは、会う前から知っていた。そこが気掛かりであり、お前とどう接してよいのか、悩むことになった。それ以外では、お前は優秀だった。優秀であると、今も疑っていない。これだけ、思いの丈をぶつけてきた奴は、お前がはじめてだった」
「黙って見送ることも出来ない、そんな諦めの悪い、人間です」
「カミは人に依存してはいけない。それは同時に、人はカミへと依存してはいけないことも意味している。時には、その信仰を疑い、問い詰めること、突き詰めることも必要だと、私は思っている。言うなれば、信仰する上での心の修行だ。お前はその点、よく出来ている。大した奴だと、この日この時になって、ようやく分かってやれた」
「神奈子様は、格好良かった。今でも、格好良いと思っています。そんな御方が御祭神であり、そんな御方と言葉を交えられることが、とても誇らしく、幸せでした」
「私もだよ、東風谷。疎ましく感じていた頃の自分を、殴り飛ばしてやりたい」
「……こんな時、どんな顔をして良いのでしょう」
「どうした」
「神奈子様が御遷りになる、それがとても悲しい。だと言うのに、幸せが玉のように、湧き出てくるのです。ほわほわと綿毛のように、私の胸を満たしてくる」
はらはらと、涙が頬を伝っていく。
止めようと試みるのに、止まらない。止められなかった。
「神奈子様、私は一体、どんな顔を」
「今は、止めなければならない」
優しさに、硬さを湛えた声が、届いた。
滲んだ視界の中で、神奈子は遠くを見つめていた。
「早苗が、帰って来る」
「えっ」
「まだ遠い。しかし、迎えが必要だろう」
頬を、ぐしぐしと強めに擦られる。
袖が濡れることなど気にした様子もなく、神奈子は私の涙を拭った。
「言って、あげてくれ」
「しかし」
「私のようなカミでは無理だ。これは、お前でなければならない」
「神奈子様」
「私は、決して早苗の親ではない」
赤い瞳が細められる。
「また、後で話そう」
それだけを残して、神奈子は境内を去った。
誰も居なくなった境内を、改めて、私は見渡した。
あれだけ暴れたというのに、境内に荒れたところは見られなかった。玉砂利は竹箒で掃き清めたかのように、均されている。よく見ると、用意してあったもみの木などが、なくなっていた。
神奈子が、片付けてくれたのかも知れない。
立ち去った後に向けて、私は頭を下げた。
踵を返し、駆け出す。
その最中、はしたないながらも、装束の袖で顔を強く拭った。早苗に、涙の跡は悟られたくなかった。見咎めれば、心の優しい早苗のことである、心配するに違いない。無闇に心配させたくはなかった。
気を取り直すつもりで、ぴしゃりと頬を叩いた。
「早苗」
無機質な白い街灯の下、ゆっくりと歩く影を見つけた。
黒い長髪のかつらの下、早苗の顔は沈んだように、わずかに俯いていた。
「早苗」
もう一度、今度は強く、呼びかける。弾かれたように、早苗の顔が上がった。
息を弾ませ、傍へと駆け寄る。
身体の痛みは、不思議と感じなかった。
「どうしたの」
早苗は、それだけを言って首を傾げた。
「泥だらけ」
「これは」
自分の格好を見て、返答に詰まった。
着替えることを失念していた。所々に泥が跳ねた白装束は、必要以上に汚れが目立った。
「こけた」
「こけた?」
「そう、こけた」
取り繕うように、私は笑った。
我ながら苦しい言い訳だったが、事実を話す訳にはいかなかった。
「それより、早苗こそ、どうだった?」
「どうだったって」
「友達に、会いに行くって、書き置き」
「ん」
「うまく、出来た?」
「うん」
こくりと、早苗は頷いた。
歯切れの悪い返答は、早苗にしては珍しかった。
「お別れは、言えたよ」
「それじゃあ、御社まで歩こうか」
「ん」
言葉少なく、並んで歩いた。
私の問い掛けに、早苗はなおもたどたどしく、短めに答えるだけだった。お喋り好きであり、口の達者なところもある早苗にしては、やはり珍しかった。一言二言だけで、会話が終わってしまう。
社殿に帰っても、その様子は変わらなかった。
「早苗、着替えよう」
「装束のこと?」
「着付けは、手伝うから」
「ん」
風祝としての、青を基調とした衣装を取り出す。
早苗のための特注品だった。代々、正式に御社の跡を継ぐ際に、新調される逸品である。新品の装束特有の、張りの強さが感じられた。
「もう、着ないかな」
下着姿の早苗が、自分が脱いだ服を見て、言った。
「制服。着る機会なんて、もうないかな」
「寂しい?」
「ん」
袖に手を通しながら、早苗は頷いた。
「そう考えると、やっぱり寂しい」
上着の装束の具合を整えながら、早苗は小さく呟く。
美しい青色の袴を広げて、手渡した。
「ありがとう」
「早苗」
脱ぎ捨てられたままの制服を、私は折り畳んだ。
「持って行きなさい」
「でも」
「思い出まで、置いて行く必要はない」
畳んだ制服を傍らに置いて、私は早苗の腰に手を回した。
袴の紐を整える。
私と違い、身体の線が細い早苗は、昔ながらの装束を着るにも一苦労だった。こうして、最後に私がきっちりと締めなければ、時間とともに緩まることも少なくなかった。早苗がまだ小さい頃、そうやって袴を引っ掛けて転んだことを、私は思い出していた。
「神奈子様とて、それくらいは許してくれる」
「でも、八坂様は決意を新たに、御遷りになられるのよ。なのに、私がそんな浮ついた考えだと、迷惑が」
「無理をしてはいけない」
黒髪のかつらを、そっと外す。
私と違い、早苗には風祝としての緑髪が、とてもよく似合っていた。翡翠のように目にも鮮やかな色合いが、小振りな早苗の顔を引き立てている。それだけで、何処に出しても恥ずかしくない、自慢の娘だと自負できるほどだった。
緑髪の頭を、ぽんぽんと軽く撫でる。
わずかに抜かれた身長は、それでも見上げるほどではなかった。親としての自尊心とでも言うべきものが、ほんの少しだけ満たされる。
早苗は俯いていた。装束を羽織った肩が、か細く震えている。
愛おしさが、込み上げる。
「絶対、無理をしてはいけないよ、早苗」
「おあうあん」
早苗は、泣いていた。
可愛らしいその顔を、くしゃくしゃにしながら、ぼろぼろと泣いていた。
「おあうあん」
とさりと、早苗の顔が胸に飛び込んだ。
「おあうあん」
背中に、腕が回されている。早苗は、なおも私の胸に顔を押し付けている。
涙の跡を、悟られなくて良かった。
まず、それだけを思った。
「おあうあん」
「神奈子様から、聞いているとおり」
「あい」
「私は此処に残る」
「あい」
「寂しい?」
「あい」
「私も、寂しい」
両腕で早苗を抱いた。
この腕で抱え切れないほどに、涙声で震えるその身体は、大きくなっていた。
「寂しいけど、私は此処に残る」
「あい」
「神奈子様の仰るとおりに、早苗は頑張らなければならない」
「あい」
「神奈子様の言うことを、ちゃんと聞くこと。いいね」
「あい」
「けれど、無理だけはいけない。無理をしてはいけない」
鼻をすすって、早苗は小さく、頷く。
なおも震える緑髪に、私は顔を埋めた。
泣いてはいけない。早苗の綺麗な髪を、私の涙などで汚してはいけない。大事に思うからこそ、愛おしく感じるからこそ、そんな有り体なことを気にしてしまう。
それでも、溢れる涙は止められなかった。早苗の髪を、したたかに濡らしてしまった。
「身体だけはね、早苗」
もっと、伝えたかった。
時間の許す限り、早苗の身体をこうして、抱き締めていたかった。
もっと、気の利いた言葉を、掛けたかった。
「身体だけは、絶対、大事にすること」
だと言うのに、思い付かなかった。
当たり障りのない言葉だけしか、浮かんでこなかった。
「神奈子様の言うことを、ちゃんと聞きなさい。神奈子様の望みを叶えるために、頑張りなさい。辛いことがあっても、挫けてはならない。それだけ、早苗は頑張らなければならない」
「あい」
「でも、無理をしてはいけない。身体を大事にすることを、忘れてはいけない。分からなければ自分で考えて、自分で動く。それでも分からないなら、神奈子様の仰ることに、耳を傾けなさい。神奈子様の言ったことを、思い出しなさい。神奈子様は、早苗を見守ってくれています」
「あい」
「早苗」
顔を押し付ける早苗を、肩に添えた手で引き剥がした。
「行ってらっしゃい」
「おあうあん」
早苗の顔は、涙と鼻水で汚れていた。顔を埋めていた私の装束も、ひどく濡れていた。
お世辞にも、綺麗な顔とは言い難かった。早苗はそれだけ涙を流し、鼻水も垂らしていた。
それでも愛おしかった。
愛おしくないはずが、なかった。
「おあうあん」
早苗が、また胸に飛び込んできた。
ぐしぐしと、強く顔を埋めながら泣いた。
「おあうあん」
左手を、さっきよりも優しい力で背中に回して、抱き寄せる。
右手では、早苗の頭を、軽く撫でた。
「おあうあん」
涙で濡れる声が、一際大きく、部屋に響いた。
本当に、大きくなった。
呟きは言葉ではなく、涙となって頬を伝った。
泣きじゃくる早苗を抱き締めながら、私もまた、泣いた。
◆◆◆
「覗くつもりはなかった」
夜の境内に戻ると、神奈子が立っていた。
腕を組み、自分を恥じるかのようにかすかに俯きながら、それだけを言った。
「早苗の泣く声が聞こえた」
「大きかった、ですからね」
「私が遷ることを伝えた時は、あんなにも取り乱さなかった。だからこそ、安心もしていた。いざ間近となり、その重みを感じ取ったのだろう。心の移ろいとは、難しい」
俯かせた顔を、神奈子は上げた。
「或いは、私は人間の心を読み取ろうとしていなかったのかも知れない」
「神奈子様に、否などありません」
「いいや、私は思惑のどこかで、人間を蔑ろにしているのかも知れない。現に、人間の世界である此処から、幻想郷へ遷ろうと画策している。それは人間を、人間の信仰を見限ろうとしていることに、変わりはないのだ。どれだけ取り繕おうともな」
硬いその顔が、ふっと微笑んだ。
「早苗は〝現人神〟であることを選んだ。だからこそ、私も傍らにと考えている。幻想郷へ連れて行くことも、真っ先に決めた」
「早苗としても、望ましい限りでしょう」
「だが、それでも早苗は〝人間〟だ。一端の人間だからこそ、笑いもするし泣きもする。カミとて感情はあるが、人間のそれと違い、謙虚ではない。現人神である早苗だからこそ、カミでもあり人間なのだ。私は、そんな当たり前の事実に、ここに至ってようやく、気付けたのかも知れない」
「神奈子様に、そこまで早苗のことを考えて頂けたのなら、私としては望外の喜びです」
「あの子の、あんな姿を見ても、そう思うか」
腕組みを解き、神奈子は歩み寄ってくる。
「早苗にはお前が必要だ」
「私は、自分が早苗にとって必要だとは思っておりません」
「別れを惜しむ、あれほどの涙を見ても、まだ言えるか」
「早苗には、どこに出しても恥ずかしくない、自慢の娘だという自負があります。あの子の真っ直ぐな瞳に、私の影を見つけさせては、かえって邪魔となることでしょう。あの子の進む道は、それだけ真っ直ぐであり、私などが入る余地はないと思っています」
「早苗は鳥のような娘だ。鳥には、帰る巣が必要となる」
「巣立ちの時です。中途半端な巣の残骸は、渡り鳥のような早苗には、道筋を惑わすだけとなります」
「早苗だけではない」
笑みの引いた、神奈子の顔が迫った。
「諏訪子にも必要だ。未練のないように振舞っていても、あいつとて、やはりカミだ」
「いいえ、諏訪子様に、私が必要なのではありません。強いて言うなら、私に、諏訪子様が必要なのでしょう」
「ならば、それでも構わない。カミにとって信仰が必要不可欠であるように、お前が諏訪子を必要としているならば、それはまた逆の事実も意味している。お前は、お前自身が気付いている以上に、諏訪子にとって必要なのだ」
「先だって、諏訪子様と話しました。私は〝なかとりもち〟である以上、伝えるべきなのは諏訪子様ではなく、神奈子様なのだと」
「そういうことを言っているのではない、私は」
「神奈子様に、お伝えしたいことは、全て吐き出しました。私は満足しております。恐らく、諏訪子様とて、それで満足して下さることでしょう」
「違うのだ、東風谷。私には、お前が」
懇願するような言葉とともに、神奈子の手が肩を掴む。
神奈子のそんな声を耳にするのは、はじめてのことだった。
「お前が必要だ、東風谷。私には、お前が必要なのだ」
肩が揺さぶられ、神奈子の顔が一層近付く。
「この時になって、ようやく分かった。こんな時まで理解せず、お前を遠ざけてきた私を、許してほしい」
「神奈子様」
「意見を異なる者が、傍に居ることこそ重要だと、ようやく分かった。同じ道筋を見る、私の背に着いてくる者たちばかりでは、見過ごすものが多いことを、私はようやく理解できた。異議を唱える者、疑問を呈する者が居て、はじめて見えてくるものがあることを、先程の神事で心に刻んだ。新たな発見が出来たのだ、東風谷。だからこそ、私はあの神事が楽しかったと、言ったのだ。他ならぬ、お前に教えられたのだ、東風谷」
赤い瞳は、私から逸れることはない。
真摯な色が湛えられていた。
「お前の、諦めずに伝えられたことに、動かされた。カミである私が、人間であるお前に心揺さぶられたのだ。驚きも感じたが、今はそれとは比べ物にならぬほどに、喜びが沸き起こっている。充実とも言える。嬉しいのだよ、東風谷。異なる者と言葉を交わし、そこから得られる新たな境地に、私は喜びを感じている」
「神奈子様」
「だから、私にはお前が必要なのだ、東風谷。お前は、自分は幸せ者であると言ったな。カミである私と言葉を交わせるからこそ、幸せであると」
「今も、変わってはおりません」
「ならば、その幸せを、私にも分けてほしい」
肩を握る手に、さらに力が篭もった。
「カミである私には、お前のような〝なかとりもち〟が必要なのだ、東風谷」
「……勿体無い、御言葉です」
「思ったことを述べたまでだ。これは私の願いなのだ、東風谷」
「ありがとうございます」
肩に置かれた手を、そっと外す。
「ですが」
真正面から、神奈子の顔を見つめた。
「お受け出来ません」
「何故だ」
「神奈子様たちと、遷ることは出来ません」
なおも言い募ろうとする神奈子に、私は首を横に振った。
「此処から去ることなど、私には出来ません」
境内を、ほんの数歩だけ、ゆっくり歩く。
風が、ふわりと顔を撫でた。
秋の薫りが、私の鼻をくすぐった。
「私の信仰の目指すところは、科学の蔓延する此処にこそ、信仰を伝え広めることです。神奈子様の目指すところとは、見ている方角が違います。無論、神奈子様が間違っているなどとは、露ほども抱いておりません。ですが同時に、私は私の目指すところが間違っているとも、況してや愚かだとも、実現不可能だとも、思ってはいないのです」
身体ごと、神奈子へと振り返った。
「それに、私は此処を、此処に住む人々を、そこに根強く残る信仰を、諦めてはいないのです。細々と、しかしながら連綿と、教え伝えた信仰の礎があるからこそ、諦め切れないのです。御社へと参拝される人が、例え少なくとも、一人だけになろうとも、諦め切れないのです。何故なら、そこには儚くとも、手の届かぬほどに尊い信仰が、存在しているからです。科学が蔓延しようが、哲学と成り果てた懊悩に支配されようが、手を合わせて祈る人々の信仰は決して消えない。消えないと信じています。例え砂金の粒ほどでも、決して多くなくとも、残っているというのなら、私はそれをすくい上げ、祈りたい。信仰を抱く人々に、祈りたいと思っているのです」
再び、神奈子の元へと近寄る。
口を挟むことなく、神奈子は静かな顔で、私の言葉に耳を傾けていた。
そのことが、とても嬉しかった。
「こんな時代だからこそ、強く思うのです。信仰が、ともすれば蔑ろにされ、嘲りの対象と受け取られかねない時代だからこそ、私は信仰を見つめたいのです。真摯に、世論に惑わされることなく、自分の思いに則って、なにより時代の法に則って、見つめていきたいと思っております。信仰は尊い。参拝される人々、神奈子様、諏訪子様、そして早苗の成長する姿を見つめてきたからこそ、私はそこに根付く信仰も見つめてきました。尊い信仰を、この目で見つめてきたのです。だからこそ、そんな信仰が蔑ろにされかねない、時代のうねりに抗いたい。信仰が尊いことを、少しでも伝え、広めていきたいのです。儚くとも尊い信仰を、私は」
視線が、神奈子のそれと重なった。
「此処から、去ることは出来ません」
決然と、私は言った。
「神奈子様の御意向に沿うことは出来ません。誠に、申し訳ありません」
「……そうか」
長い息を、神奈子は吐いた。
落胆しているようには見えなかった。
「正直、お前がそう答えることは、想像していた」
「申し訳ありません」
「構わない。お前が望むのなら、私にそれを止める術はないよ」
赤い瞳が、優しく細められた。
「しかし、堪えるな」
口元だけを緩めて、神奈子は微笑んだ。
「願いが叶わないことが、これだけ堪えるとは」
「神奈子様、誠に」
「構わないよ、東風谷。もとより、私から言い出したことだ。それに、願いが叶わぬことの辛さもまた、この場で学べたとも言える。お前には、学ばされてばかりだな、東風谷」
「私も、神奈子様には沢山のことを、学ばせて頂きました」
「私など、それほどでもない」
神奈子は、視線を私から外した。釣られるように、私はその視線の先を追った。
夜闇の中に、社殿が佇んでいる。
神奈子に仕え奉り、諏訪子に語り飲み明かし、早苗を見守り育ててきた、神社だった。所々に痛みも入ってはいたが、まだ充分、現役の御社だった。
言葉もなく、私たちは見つめる。
切り出したのは私からだった。
「お願いがございます」
「許す、言ってみよ」
「幾つもあります」
「構わない。それくらい報いなければ、私は納得し切れないだろう」
「ありがとうございます」
神奈子へと、私は向き直った。
「御社ごと、御遷りになって下さい」
「東風谷、それは」
「構いません。住む場所など、幾らでも探せます。御社は、カミがおわせられてこその御社です」
「しかし、それはお前にとって」
「構いません、次を言います」
「東風谷、私はまだ言いたいことがある」
「早苗のことを、よろしくお願いします。厚顔無恥なところも少々ありますが、それでも良い子です。真っ直ぐですが、時には迷うこともあるかも知れません。その時は、どうか導いてあげて下さい。神奈子様なら、私も安心してお任せ出来ます」
「待て、東風谷。私の話しを聞け」
「次です。これが最後です」
見据えた赤い瞳が、動揺するように揺れていた。
なおも何か言いたげな神奈子に、私は言い募った。
「私のことなど、忘れて下さい」
「馬鹿なことを言うな」
「私の言ったことなど、忘れて下さい。忘れてしまうくらいの信仰を、幻想郷で集めて下さい。妖怪とか人間とか、そんな関係が些細なものに思えるほどの信仰を、集めて下さい。神奈子様の思い描く、いいえ、或いはそれ以上の大いなる奇跡を以って、信仰を集めて下さい。神奈子様なら可能だと、私は信じております」
「東風谷、お前はなにを――」
「私のことなど! 忘れるくらい!」
腹の底から、私は叫んだ。
涙は、出なかった。
「幸せになって下さい、神奈子様」
「東風谷、お前」
「此処では得られないと、神奈子様がお考えになるほどの、信仰を集められる。神奈子様が満足される。幸せになられる。それが、私の一番の願いです」
「お前、そこまで、私を」
「大いなる奇跡を以って、信仰を集められる。そんな神奈子様の願いこそ、私の一番の願いです」
私が言い切るとともに、風が吹いた。
秋の薫りが過ぎ去ってから、神奈子は天を仰いだ。
「東風谷」
「はい」
「お前が言っていたこと、今なら何となく分かる」
「はい」
「どんな顔をすれば、良いのだろうな」
夜空を見上げる神奈子の顔が、どんな表情をしているのか、私からは見えなかった。
光り滴るものは、なかった。
「こんな時、どんな顔をすれば良いのか、まるで分からない」
ゆっくりと、神奈子は私に向けて、顔を下ろした。
「それがお前の願いか、東風谷」
「三つもございます」
「構わない。全て、確かに記憶した」
赤い瞳が、閉じられた。
「特に、最後の願いは印象深かった」
「はい」
「大いなる奇跡を、私は起こすことを願っていた」
「はい」
「決めたよ、東風谷」
瞼が、開かれる。
神奈子の瞳に浮かんでいたのは、深山のように雄大な意思だった。
「独立不撓」
響いた声は、磐座のように厳かだった。
「私は、そんなカミこそを目指す。動くからには、とことん動こう。躍起に思われるくらい、信仰を得ることに奔走しよう。人間も妖怪も関係なく、信仰をこの手に集めようではないか。何者にも縛られず、だからこそ決して依存し切ることのない。そんな信仰こそを、我が身に宿そうではないか。幻想郷の、ありとあらゆる信仰をこの腕で抱き、お前の言ったことを」
「はい」
「幸福を、得ようではないか」
「それが、独立不撓」
「私の奇跡を以って、私は私への信仰を得る」
広げた自身の手のひらを、神奈子は見下ろした。
それを強く、握り締める。
「神社も、境内ごと遷ろう。早苗の面倒は、お前から半ば奪うのだ。これで面倒を見切れなければ、私は私自身を呪ってやる。それくらいの決意は、表しておこう」
「ありがとうございます」
「最後の願いは、そうだな」
神奈子の顔が、ふわりと笑った。
逞しさに溢れたその笑みは、いかにも神奈子らしいものだった。
「約束する」
「はい」
「私は、幻想郷中の信仰を、手に入れる」
「はい」
「独立不撓のカミに、私はなる」
「はい」
「絶対、幸せになる」
「僭越ながら、私も願わせて頂きます」
「東風谷、いや、――」
苗字ではなく、名前で呼ばれた。
神奈子から、そちらで呼ばれたのは、はじめてのことだった。
「お前のことを忘れるかどうかは」
握り拳が、私に向けて突き出された。
「幸せになってから、決める」
「神奈子様」
「そうさせてくれ、私には」
神奈子は、また笑った。
照れ臭そうな、あまり神奈子には似つかわしくない笑みだった。
「お前が来てくれないことが、やっぱり惜しいのだ」
「――はい」
神奈子の握り拳を、私は自分の握り拳で小突いた。
この日、何度目かの秋を孕んだ風が、二人の間を通り過ぎる。
涼しいなと、それだけを思った。
境内の境目である鳥居の向こう側に、私は立っていた。
見つめる先で、境内は風の渦に包まれていき、やがてそれは巨大な竜巻へと変化した。
境内の、丁度中央に、神奈子は立っていた。
腕を組み、かすかに片足へと重心を置いたその立ち姿は、はじめて出会った時と変わらない凛々しさを、醸し出していた。
その傍らを、社殿から飛び出した人影が、通り過ぎた。
風祝の装束を纏った早苗が、私に向けて大きく、手を振った。
最早、隠す必要のなくなった緑髪が、風に煽られてたなびいている。
その下には、泣き顔が浮かんでいた。
ぼろぼろと涙を流し、はしたなく鼻水を垂らしたその顔は、それでも無理矢理に作った笑みのおかげで、余計にぐちゃぐちゃとなっていた。
女の子なのに、はしたなかった。その、はしたなさがまた、愛おしかった。
泣き笑いの顔で、早苗は手を振っていた。
だから私も、なるべくしっかり見えるようにと、大きく手を振った。
境内の隅には、空いた酒瓶が置かれていた。
そこには珍妙な物体が、掛けられている。
円らな二つの瞳が取り付けられたそれは、ひどく見覚えのあるものだった。その物体を、帽子として愛用している諏訪子の姿は、どこにも見られなかった。
諏訪子らしいと感じて、懐かしさが胸をくすぐった。
竜巻は、その勢いを増してゆく。
土煙が巻き起こされ、徐々に境内の様子が見えなくなってゆく。
だから、私は握り締めた祭具を、天高く掲げた。
神奈子に届くよう。
早苗に届くよう。
諏訪子に届くよう。
掲げた祭具から、夜空へと、星が昇る。
皆に届くよう。
願いが届くよう。
明る過ぎる星は、光の尾を引いて、昇り続ける。
皆に届くよう。
家族に届くよう。
星は、天高くで爆ぜた。
大きく、煌々と眼下を照らして、爆ぜた。
竜巻は弱まり、そよ風となる。
境内だった場所には、もう何も残ってはいなかった。
社殿も、鳥居も、玉砂利も。
神奈子の立ち姿も、早苗の泣き笑いの顔も、諏訪子の帽子も。
更地となり、何も残っていなかった。
それでも天高くで爆ぜた星は、煌々と全てを白く染めている。
二礼。
二拍手。
一礼。
それだけを行い、私は祈った。
願わくば、明る過ぎるこの星の光が。
道標のように、家族の道筋を照らしてくれることを、祈った。
◆◆◆
一ヶ月後には、秋の気配に彩られていた。
山の稜線は、赤と黄と緑によって色鮮やかに飾られている。秋晴れの空には、涼しさが感じられた。吹いた風が、私の首筋や脛をくすぐっていった。
境内の跡地には、今も何もない。
しつこく積もる落ち葉を掃きながら、私は小さく息をついた。
あの日から、私を取り巻く環境は一変した。
ガス爆発。
いかにも科学的な理由で、神社消失の真相は彩られた。
私も何度か話を聞かれた。中には、ガス爆発を装った私の犯罪だと、糾弾されることもあった。曰く、娘を殺害、若しくは何か善からぬ行為の証拠を消すため、神社ごと吹き飛ばしたとのことだった。根拠もない噂程度のものだったため、疑いは即座に晴れたのだが、それでも私に向ける懐疑の視線は、少なくとも残っていた。
当然、好い気はしなかった。
しかし逆に、私にとって嬉しいことも起こった。
早苗の安否を気遣い、学友から何度も問い質されたのだ。
正直に答えることは出来なかったが、それでも無事であることは理由を見繕って答えた。事故の直前、留学に向かい無事であると、伝えた。皆が皆、その理由で納得した訳ではなく、だからこそ早苗の安否を心から気遣ってくれていることが、私にもよく分かった。
そのことが、とても嬉しかった。
課題は山積みである。
戸籍、跡地の扱いなど、取り組むべきことは幾つも残っている。それらの課題は、一朝一夕でどうにか出来るものではない。気長に、時を見て取り組んでいくしかないのだ。
今はこうして、掃き清めることに努めればいい。
そういった意味では、信仰ともよく似ていた。
時の経過が、深さを増してゆく。
その流れもまた、私にとっては必要なことだった。
何もない境内跡地に、落ち葉が一枚だけ舞い下りた。拾い上げた先から、また風に誘われて、ふわりと宙を踊る。すっかり色付いた赤味は、神奈子の瞳を思い出させるほどに、鮮やかだった。
神奈子は、どうしているだろうか。
早苗は、諏訪子は、一体どうしているだろうか。
この一ヶ月、何度も思ったことだった。
自ずと笑みがこぼれる。誰も居ないのに、ゆっくりと首を横に振る。思い起こすたびに、詮無きことだと分かっていた。此処に残った私には、どうあっても、この目で確かめることは叶わないのだ。私が勝手に思い描くことは、それだけで失礼に値する。
神奈子は約束してくれた。
信仰を得ると、独立不撓のカミになると。
幸せになると約束してくれたのだ。
それを信じず、何を信じるというのだ。神奈子ならば、信仰を得るために動くはずである。奇跡を起こすと、面と向かって私に宣言してくれた神奈子なら、絶対に。
大いなる奇跡を。
一心不乱の、大奇跡を。
神奈子なら起こす。私は、そう信じている。
落ち葉が、目の前を横切った。埋没していた思考が、瞬く間に現実へと引き戻される。今度の落ち葉は、黄色く色付いていた。諏訪子の、実った稲穂のような色合いの瞳が、思い起こされた。元気付けられたような気がして、私は笑った。
遠い峰を仰ぐ。
緑、黄、赤。
鮮やかな山の彩りが、私のくすぶりを癒してくる。
緑は早苗、黄は諏訪子、赤は神奈子。
そう思うと、不思議と身体の内側から、熱が湧き上がった。暖かいその熱は懐かしさと、それ以上の優しさを感じさせた。
皆、近くに居る。
離れ離れとなっても、家族なのだ。
負けていられない。
「よし」
気合を一つ呟き、私は箒を手に取った。
腑抜けたところなど、見せてはいられない。早苗は、神奈子の言うことを聞いているはずである。神奈子は、そんな早苗を見守りながら、どんな奇跡を起こそうかと思案しているに違いない。諏訪子は、新しい散歩の道でも探すために、好き勝手に出歩いていることだろう。
ならば、私はどうするのか。
決まっている。
「こんにちは」
向こうから歩いてくる人影に、私は呼びかけた。
二つの人影は、並びながら近寄ってくる。
あの老婆は、今日も来られていた。ガス爆発と偽った次の日にも、来られていた。決して急ぐことなく、あのゆっくりとした歩みで、足を運ばれていた。あれから、私の挨拶にも、丁寧に応じてくれるようになっていた。
あの日、話をした青年は、ガス爆発と偽った数日後に、慌てたように来られた。何度も、私を気遣う言葉を掛けてくれたことに、思わず涙してしまったことは、苦いながらも暖かい、新たな思い出である。
歩いてくる二人は、そのどちらでもなかった。
はじめて見る顔だった。
「こんにちは」
もう一度、私は呼び掛けた。
おずおずと、二人は慣れていない仕草で、被る帽子を脱いだ。
ならば、私はどうするのか。
決まっている。
〝なかとりもち〟であり続けることを、私は選んだのだ。
「本日は」
境内を掃く、その手を止める。
精一杯の笑顔に、精一杯の感謝と祈願を込めて。
「本日は、ようこそお参り下さいました」
私は、深々と頭を下げた。
秋を存分に湛えた風が、撫でるように吹いていった。
◆◆◆
幻想郷。
秋。
深山に、奇跡の風が吹く。
神奈子たちが幻想郷に来る前の、残された人に焦点を当てた作品で
これほど深く、また美しいと思った作品はありません。
この作品を形容するにふさわしい言葉が私にはわかりませんが、一言だけ。
感動をありがとうございました。
美しく素晴らしいの一言です
でもほんと重箱の隅をつつくようで非常に申し訳ないのですが、
一つだけ気になるのでそこだけ減点させて頂きます。
諏訪の神様は出雲に行かない気がするんですけれども、これは素人考えでしょうか?
神奈子が集会に出るのが当たり前の様な感じで喋っているので…
それでも「読ませる、納得させる」だけの力を持った作品でした。
最後に来た二人組はひょっとして秘封倶楽部なのかな~と妄想したり。
神奈子は全篇を通じて堅苦しく魅力に欠けます。
焦点の当て方や文章はとても素晴らしいと思ったのですが、自分にはテーマが実のあるものに感じられなかったのが残念です。
最後の一瞬の光景が美しい。正直なところ、ここに作品の全ての魅力が集中している気がします。
本当に。
みんな真面目にコメントしすぎだ!
俺に任せろ!
布団を敷こう、な!
アッー!
不器用な二人の不器用な熱さ。実に良い
東方の設定を使いながらよくもここまで完成度の高い話を作られたと思います
つかこんなに発破かけられたから幻想郷で「また守矢か」ってくらいハッスルしちゃったのかと考えると
すごく微笑ましい感じでした