私が天気も良かったし、お気に入りの桃林で本でも読もうと思ったのが数十分前のこと。
ここしばらくは萃香の呑みに付き合わせられたり、紫にちょっかいを掛けられたりで、気を休める間もなかったから今日はのんびり過ごそうと思ったのだ。
そして今、私は桃林にいる。しかし、本は開いていない。とてもそんな気にはなれなかった。
周囲に薄く漂う桃の匂いは穏やかな気持ちにしてくれるし、木漏れ日も心地よい。それなのに、私が落ち着かない理由は間近にあるもう一つの匂いが原因だった。
「あの、衣玖さん」
「なんですか総領娘様」
「いつまで私を抱いているつもりでしょうか」
「今日はずっとです。どこにも行かせません」
「えー」
そう言うと、その原因――永江衣玖――は肩越しに回した腕へさらに力を入れた。
ここの先客だった衣玖に、そう言えば久しぶりに顔あわせたなぁ、なんて思いつつ挨拶した。
有無を言わせずに、彼女の脚の上に座らせられて腕を回してきた。その間わずか七秒である。
これが世に聞く恋人座りというものか、と感心していられたのも数分だけ。冷静に考えなくても相当に恥ずかしい体勢だった。
なので、さっきからそれとなく普通にしませんか、とアピールしているのだけど、
「いやです。ここで会ったからには絶対に逃がしません」
「いやどこにも行かないってば。もっと健全に肩を並べておしゃべりしましょうよ」
「嘘です、そう言って紫さんの所へ行く気なんです」
「なんで紫が出てくるのよ」
「キスしましょう総領娘様」
「おまえは何を言っているんだ」
さっきからこの調子だ。妙に苛ついているというか、子どもっぽいわがままを繰り返し要求してくる。いや、キスは子どもっぽくないけどさ。
ともかく、明らかに衣玖がおかしい。いつものお姉さんらしさが何処かに放置されてしまっている。
これは困った、と私は頬を掻く。しばらく顔を見ない間になにがあったのか。
「何もないのがいけないんです。大体この一週間なにをしていたんですか」
何といわれても、萃香に絡まれて紫にちょっかいをかけられて、いつも通りに天界をぶらついていただけなんだけど。
そう応えると、衣玖は憤慨したように言う。
「じゃあなんで私と会わなかったんですか。おかしいです」
「私に言われてもなぁ……」
間が悪かったとしか言えないだろう。星の巡り合わせとも言うか。
どっちにしても、彼女の怒りは、私にとって理不尽なものに違いない。意図的に避けていたのではないのだし、顔を合わせない日が続くのも無いわけではない。
と、そこまで考えて思いつくことがあった。
「あー、そう言えば一週間も会わなかったのって初めてかもね」
私が衣玖と親しくなったのは異変を起こしてからだったが、それ以来毎日のように顔を合わせていた。私がふらっと立ち寄った場所にいたり、暇な私が彼女の元に訪れたり、彼女を私の家に招いたり。
家の者以外で、一番多くの時間を過ごしたのは彼女かもしれない。
「……寂しかったんですよ」
「えっ?」
思いがけない言葉に、私は振り返る。
唇をとがらせた衣玖は、私を睨むとすぐにそっぽを向いてしまった。
えっと、寂しかったって……
「独り身が?」
冗談で言ったのに電気椅子された。マジ痛い。言っていいことと悪いことがあると学んだ瞬間であった。
「じょじょ冗談れす……」
「いいですよね総領娘様は。もらい手がいっぱいいて」
「いっぱいもいないって。せいぜい三人」
その内二人は食う寝る遊ぶの猫以下になりそうなので、求婚されてもちょっと考えたくなるが。
「そんなにいれば十分じゃないですか。私なんて一人しかいないのに、その一人まで逃げられそうです」
「へえ、誰々? どんな人?」
「教えてあげませんっ」
拗ねた子どもみたいに言うと、衣玖はより一層強く私を抱きしめる。
ちょっと苦しいけど、背中に当たる感触が妬ましくも柔らかい。ちくしょう私にもよこせ。
「というかさ、寂しかったってなに? ヤキモチ妬いてたの?」
「……」
衣玖は私の質問に答えず、唇を私の耳元に近づける。そして、
「えいっ」
「ひゃんっ」
いきなり耳をついばまれた。突然のあまり、乙女ちっくな声まであげてしまったじゃないか。
私は肩越しに振り返り、抗議の声をあげる。衣玖はすまし顔のまま応えた。
「なにすんのよいきなし」
「天子分の補給です」
「天子分ってなによ」
「限界まで溜まると総領娘様を押し倒したくて仕方なくなります」
「それ絶対リビドーだろ。やめようよそういうのは両者の合意がだね」
「合意と見てよろしいですね!」
「ロボトルじゃないんだよ落ち着け。というか、質問に答えてよ」
そう言うと、それまでの意味不明な勢いはなくなり、衣玖は無言のまま拗ねた視線を投げかけてくる。
その『あなたのせいですよ』オーラに耐えきれなくなった私が、視線を逸らそうとしたとき、衣玖が口を開いた。
「そうですよ。衣玖は総領娘様が構ってくれないからいじけていたんですぅ」
ですぅ、はちょっと……。
開きかけた口はショックによって閉ざされる。今、私は胸囲の格差社会というものを身を持って体験しています。顔が埋まるってどういうことなの……。
それに構わず、衣玖は私を抱きしめたまま続ける。
「総領娘様は何処かに行ったら、それっきり戻ってこなそうなところがあります。出かけるときは、場所と一緒に遊ぶ人と帰宅時間を伝えてから出かけてください」
「お母さんかあんたは」
胸に埋められた顔を上げて言い返し、彼女の表情に面食らう。
ふざけたようなことを言っているのに、衣玖の表情は真剣そのもので、込められた不安と心配も本物だった。
私がいなくなってしまうことを、彼女は恐れていた。それを防ぐように、回された腕にさらに力が入る。
「お姉さんがいいです。それに、紫さんあたりに『お嬢ちゃん、外の世界に行きたくないかいぐへへ』とか言われたらあっさりついていきそうです」
「私は幼児じゃないわよ。というか紫をなんだと思っているのよあんたは」
まあ、以前の私だったら否定できないのが悲しいが。
しかし、そもそも外の世界に憧れたのは退屈から逃れるための手段であって目的ではない。だから、今は別に『外』に行きたいとは思っていない。
「どうしてですか? あんなに退屈だって言って、異変まで起こしたのに」
「いや、どうしてってそりゃあ」
なにを当たり前のことを訊くのか。
異変を起こしたのは退屈だったからで、じゃあ今はどうなのか?
答えはわかりきっている。
「衣玖がいて、紫がいて、萃香がいて。他にもたくさんの人がいるここを捨てるのは惜しいから。いや、惜しいじゃなくて……無くしたくないから」
もう、私は退屈なんかじゃない。騒々しくなった今を気に入っている。
それを失おうとは思わない。私がいなくなったら悲しんでくれる人を、悲しませたくない。
「だから、私はどこにもいかないって。そんなに心配しなくたって大丈夫よ」
そう言って、私は衣玖を安心させるように笑いかける。
呆けていたように私を見つめていた衣玖だったが、やがて頬と回していた腕をゆるめると、
「そうでしたか。過ぎた心配をしてしまいました」
いつもの、ほっとする笑顔を見せてくれた。
うん、やっぱり衣玖はそうしていたほうが可愛い。
その笑顔に満足した私は、からかうように言う。
「そうそう、衣玖は心配しすぎなのよ。心配ばっかしてると老けて見られるわよ」
「総領娘様が素敵な方だからです。もらい手候補の三人が羨ましいくらいに」
「えっ……あ、ありがと……」
そんな笑顔で恥ずかしいことを言い出すのも、いつもの衣玖だった。
それは嬉しいんだけど、とてもこの顔は見せられない。
私は慌てて背を向けると、彼女に背中を預ける。この体勢も恥ずかしいことに変わらないけど、悪い気はしない。
「そんなに誉めないでよ……それに、それなら衣玖だって羨ましがられるわよ」
「私がですか?」
「だって三人のうちの一人だからね」
「えっ?」
……? どうしたんだろう。いきなり黙っちゃって。
衣玖は、私に良くしてくれるから、もしかしたらあり得るかなーって思っていたんだけど。
私も、衣玖なら喜んで応えるし。
「そう言えばさ、衣玖のもらい手候補って誰なの? 逃げられそうとか言ってたけど」
「……それは、もう解決しました」
上機嫌な声で衣玖は応えて、続ける。
「だって、もう捕まえちゃいましたから」
そう言って、やさしく私を抱きしめた。
甘いわぁ
ところで電気椅子ってどういうものでしたっけ。
最後の一人をあとにもってきたのがナイス