森の中で、少女は蛇に餌を与えていた。
鼠でも与えているのかと二ッ岩マミゾウは思ったが、少女が差し出しているのは、そんな生々しい代物ではなかった。ほかほかの湯気を上げる肉まんを、蛇に向かって放り投げていた。
食欲をそそる香りが、離れたマミゾウの元にまで届く。
それでも普通の蛇ならば、口にすることなどなかっただろう。姿形から忌み嫌われることも少なくないのが蛇だが、飼育する上ではまずその臆病さや慎重さに、気を遣わなければならない。基本的に、動く者しか手を付けようとはせず、だからこそ餌の確保が大変だと聞いていた。
島の子供が、そう話していたのをマミゾウは記憶していた。
蛇の飼育を試みるとは、変わった人間も居たものである。勿論、変わっているとは思いながらも、疎んじるようなことは露ほども考えなかった。
世の大半の者は、少なくともひとつは変わった趣向を抱いているものである。それは、今なお幻想郷に囚われることなく暮らしているマミゾウだからこそ、心得ていることだった。
記憶の中の子供が、少女と重なる。
その途端、蛇は肉まんを一息に呑み込んでいた。
「食いおった」
かすかな驚きに、ついつい溜め息が漏れてしまった。
蛇を飼う人間も変わっているとは思ったが、よもやその蛇自体が一風変わっていたのには、さすがのマミゾウも面食らった。
「こいつを見たいなら、もっと寄ってもいいんだぜ」
とっくの前から、こちらには気付いていたのだろう。
慌てた様子もなく、大きな黒白の帽子を直しながら、少女は振り返った。
「お前なら、例え食われてしまっても、狸鍋って言い訳で通じそうだ」
剣呑な言葉とは裏腹に、その顔は朗らかな笑みを浮かべていた。
霧雨魔理沙の言動は、その癖っ毛の金髪と同様に、情緒も裏表もなかった。髪と同じ色合いの瞳が、くりくりと油断なく窺っている。小生意気さと強かさが、ない交ぜとなった視線だった。
相変わらず物騒な人間だと感じて、マミゾウは苦笑した。
「ただの蛇かと思えば、肉まんを食ってしまうとはのう」
「その様子だと、こいつが何かは知っているみたいだな」
眼鏡を直しながら、マミゾウは軽く頷いた。
ずんぐりとした胴体は、ただの蛇と呼ぶにはあまりにも短過ぎる。その不恰好な愛らしさには、思い当たるものがあった。
「さすがは古臭い狸だな、無駄知識の分だけ、良い出汁が取れそうだぜ」
「このような古狸では、アクばかりかも知れないがのう」
「自分が美味いと知っている奴は、たぶんそう言うぜ。食われたくないから、あれはこれはと出任せを口にする」
「そう思わせて、実は本当に不味いかも知れん。敢えて真実を語るのも、ひとつ上の、世渡りの方法じゃよ」
「さすがは狸だ、食えたもんじゃないぜ」
お主には言われたくないなと、マミゾウは声に出さずに呟いた。
そんな内心を知っているのか、はたまた知らないのか。恐らく、興味すらなかったのだろう。一層歯を見せて勝ち気に笑ってから、魔理沙は蛇の元へとしゃがみ込んだ。
ただの蛇ではない、槌の子である。
久しくお目にかかっていない生き物だった。外の世界でも、一時かなり話題に上ったことがあったので、マミゾウもなんとか覚えていた。幻の蛇、ツチノコ。記憶が確かならば、酔狂なことに懸賞金なんかも掛けられていたはずである。
標本もあったかも知れない。
あれは四国山中の話だっただろうか。
郷土の島と同じ、狸の国である西の地を思い出して、マミゾウは目を細めた。
「可愛いだろう、私のペットなんだぜ」
「そこそこには愛嬌もあるかのう。むしろ、儂としてはそれよりも懐かしさを覚えるわい。このずんぐりむっくりの、何に惹かれたかは分からぬがのう。こやつも、随分と世間様を騒がせてくれたものじゃ」
「外の世界で、この槌の子が?」
「いかにも」
腹が膨れて満足しているのか、槌の子はごろごろと地面を転がっていた。たらふく飯を食わせてもらっているのか、何度か見てきた槌の子より、よっぽど寸胴に見えた。
「懸賞金なんかも出しておったのう、懐かしいわい」
「ふーん。外の世界は物に溢れているとも聞いたが、意外とけちなんだな」
「はて?」
「だって、槌の子に懸賞金を掛けるなんて、どうせ飯を食われた腹いせなんだろう? 確かに、こいつの食欲は馬鹿にならないからな。でも、ダントウで鱈の目が一杯食べられる外の世界にしては、けち臭いやり方じゃないか」
なあ、と魔理沙は槌の子へと声を掛けて、その身体を抱きかかえた。
当の槌の子は、満足したようなゲップを吐いて、円らな瞳を眠そうに閉じた。飼い主である魔理沙の言葉にも、まるで反応していなかった。
随分と、現金な生き物だった。
「ご覧の通り、食うだけ食ったら寝るだけだよ。張り合いはないけど、まあそこそこ可愛いからな。森に放したのを、時々こうして面倒見ているんだ」
「ほう、ペットと言った割には、放任主義なんじゃな」
「まどろんでいる今は良いんだが、いびきが半端なくてね。おまけに、和食も洋食も見境のない大食漢なんだよ。私の家で飼うには、不都合が多過ぎる」
「なるほどのう。まあ、放任主義なのが良い場合もある。この森なら、寝る場所にも食う場所にも困ることはないじゃろうな。加えて、お主が飯を運んでいるのなら、不満らしい不満もないじゃろうて」
「もっと誉めてもいいんだぜ。なにせ私は、立派な普通の魔法使いだからな」
槌の子を優しく降ろして、魔理沙は笑った。
当の槌の子は、感謝の言葉など呟くこともなく、蔦を生やしながら森の奥へと消えていった。緑に紛れ込んだその後を追うのは、肉眼では難しかっただろう。にもかかわらず、魔理沙は得意げな眼差しで一点を見据えていた。
意外と、面倒見の良い人間である。
普段の人を食ったような様子からは想像できないほど、魔理沙は優しく笑っていた。
「しかし、ここだと問題もあるかのう」
「問題?」
眼鏡を取って、マミゾウは目頭を揉んだ。
緑が目に優しいというのは外の言葉だが、この森の緑は毒々しいほどに鮮やかだった。魔法の森とも呼ばれているだけあってか、人間どころか妖怪の類まで惑わしてしまうほどに、草木は生い茂っている。太古の森など幾度となく経験しているマミゾウにとっても、この森の緑は慣れなかった。
屋久島あたりを見習ってほしいものだ。
声には出さず、頭の中だけで愚痴をこぼして、眼鏡を掛けた。
「飼育する上では、この森には少々問題がある」
「だから何だよ、その問題って」
魔理沙の顔は不機嫌に歪んでいる。呟いた言葉にも、刺々しさが表れていた。
ころころと忙しない人間である。
宥めるように穏やかな視線を送りながら、マミゾウは続けた。
「番じゃよ」
「つがい?」
「ここには、あやつ以外の槌の子はおらんのかも知れん。お主の話では、元々は別の場所に暮らしておったみたいだからのう。もっとも、忘れ去られた者が集うと言われる、幻想郷のことじゃ。槌の子みたいな奴には、事欠かぬのかも知れんがのう」
気のない溜め息を、マミゾウはついた。
「そこが、気に掛かったかな」
「番なんて、そんなに気にすることか?」
眉間に皺を寄せながら、魔理沙はマミゾウの顔を覗き込んでいた。
金色の瞳は、納得しかねるように細められていた。
「別に、私は槌の子を繁殖させようとは、これっぽっちも思っていないぜ」
「飼う者の心構えとして、その発言は見過ごせぬのう」
訝しげな魔理沙の顔に、マミゾウは自身の顔をずずいと近寄らせる。
たったそれだけで魔理沙は強張ったように口を噤んだ。
「最期の時まで面倒を見るのが、飼うということではない」
眼鏡越しに、金色の視線を絡め取った。
「番も用意して、次の世代へと繋げていく。それが飼育じゃ、そのための土産も用意せずに、飼っていると自負するのは感心せぬのう」
「別に、考えていない訳じゃないぜ」
「おやおや、さっきは繁殖など考えてもおらぬと、そう聞いたのだがのう」
呵呵っと、マミゾウは笑った。
「飼育というのは、呪いのようなものじゃ」
「呪い?」
「己が生きている間、その者のことを面倒見ねばならぬ。そして、その者にも番を用意し、その者が亡き者となっても、子や孫を面倒見なければならない。世代を絶やしてはならぬということじゃ、なんと気の長い話であろうな。これを呪い、或いは呪縛と呼ばずして、他になんと呼ぶ?」
魔理沙は答えなかった。
お世辞にも綺麗とは言えない独特の言葉遣いも、すっかりその成りを潜めていた。マミゾウの言葉を反芻しているかのように、難しい顔で押し黙っている。金色の瞳だけが、落ち着きなく泳ごうとしては、マミゾウの視線から逃れられずにもがいていた。
少々言い過ぎたかな。
化かされたのに、それを反論もできない人間と同じ顔をしている魔理沙を見て、マミゾウは自分を諌めた。眼鏡越しに覗いていた視線を、そつなく外してやる。
それだけで魔理沙は、あからさまにほっとした表情を浮かべた。その様子があまりにも面白かったので、マミゾウは遠慮なく笑ってやった。
「まあ、そんな心構えも、最早古いのかも知れぬがのう。負担はなるたけ軽くと考えるのが世の習わしじゃ。誰だって徒に、あれやこれやと抱え込みたくはないものだからのう」
「いきなり説教食らうとは思いもしなかったぜ。やっぱり狸は碌なもんじゃないな」
「その言い方では、妖怪全般を指しているような気もするがのう。それに、お主のような無頼者なら、説教されるネタには事欠かないであろうな」
「酷な言い草だぜ」
「碌な者ではないのでのう、勘弁願うわい」
下駄を履いた足で、マミゾウはその身を翻した。
足場の悪い森であろうが、苦はなかった。伊達や酔狂を好むのが、無駄に長い時を生きる妖怪にとっての嗜みなのである。所謂、トレンディというやつだった。そしてマミゾウは、そんなトレンディを殊更好んでいる自分が、嫌いではない。
苔生した岩の上に、難なく降り立った。
それだけで、魔理沙との距離は十歩ほども開いた。マミゾウを見上げるその顔には、小馬鹿にするような笑みが浮かんでいた。
「言いたいことを言って、後は帰るだけか。さすがは人間より長く生きる妖怪狸だぜ。忙しい私なんかと違って、贅沢に生きていやがる」
「贅沢は余裕の表れ。加えて、人をからかうのは狸の性分じゃ」
「迷惑千万だぜ」
「お主の窃盗癖も、迷惑千万ではないのかな」
「借りているだけさ」
「小賢しいのう」
「狸にそう言われるとは、光栄だな」
魔理沙は、その場に留まろうとはしなかった。
マミゾウに向けてひらひら手を振ったかと思うと、こちらも足場の悪さなど手馴れたものであるかのように歩きはじめていた。兎のように、跳ねるかのような足捌きだった。こしゃまくれたこの少女には、そうやって歩く様はとてもよく似合っていた。
たったかと、倒れた木々を蹴る音が響いた。
「じゃあな」
「おお、またのう」
「または遠慮したいな、化かされるのは御免だ」
黒白の帽子が、危うげなく揺れている。
その後ろ姿が森の緑へ溶けるように消えるのに、さほどの時間は要さなかった。
蔦の塊は、とっくに見当たらなかった。
一人と一匹を見送ったマミゾウの目は、眠たげに細められていた。
◆◆◆
銃声の後に、一羽の鳥が降って来た。
薄い桃色を覗かせる見事な羽を、その鳥は力なく弛緩させていた。茂みの最中に横たわっており、確かめるまでもなく事切れていた。ぽつりと、鮮やかに赤く穿たれた点は、見事に急所を捉えている。一瞬のことだったろうなと、マミゾウは空でも眺めるように思った。
茂みを掻き分けて、猟銃を背負った影が現れた。
「失礼」
マミゾウへと一礼して、男は鳥へと近寄った。
背負った猟銃には似つかわしくない、黒を基調とした背広を着こなしていた。丁寧に撫で上げられた黒髪には、白いものが疎らに覗いている。
巌のような人間だと、マミゾウは思った。
「怪我はなかったですかな」
黒檀のような瞳が、マミゾウを見据える。
刻み込まれたように深い皺が、その顔をより厳しいものに見せていた。マミゾウへと掛けられた声にまで、重々しい張りが含まれていた。所謂、バリトンという声だった。
こういう人間は、意外と騙し易いか、或いは見た目どおり、騙す余地すら見つからないかの二択である。
わざとらしく肩をすくめながら、マミゾウは口を開いた。
「見ての通り、健康そのものじゃ。儂を狙ったと言うのなら、残念ながら失敗だのう」
「私は、妖怪退治で名を上げようと画策した訳ではない」
淡々とした手付きで、男は撃ち落とした鳥を処理していた。
「今晩の夕餉を、狙っていただけです」
どうやら男の辞書には、処世術のための笑顔という生易しいものは、記されていないらしい。撃ち落とした鳥を見下ろす横顔にも、誇るような感情などは露ほども滲んでいない。無慈悲なほどに、淡白な色合いしか浮かんでいなかった。
マミゾウの心に、燻りが芽生えた。
「なんじゃ、そんなに儂が恐ろしいのか」
茂みの上にどっかりと腰を下ろした。
「まあ儂のような古参の妖怪ともなれば、確かに中々上のものよ。恐れるのも畏まるのも、無理はないかも知れぬのう。そうやって縮まるのも、まあ人間風情には仕方のないことか。そうやって愛想もなく振舞って、なんとかこの場を切り抜けようと躍起になるのも、仕方がないのかのう」
「ふむ」
鳥を処理する手が止まった。
マミゾウへと向けられたその顔には、眉間に深々とした皺が刻み込まれている。しかし、見据えた黒檀の瞳には、静かな光が瞬いていた。
「そんなに、話し相手が欲しいのですかな」
「ばれたかのう」
後者か。
先程の二択を思い浮かべながら、マミゾウは苦笑した。
「猟銃など、久しく目にしていなかったのでな。ついつい、話し掛けたくなってしもうたわい」
「妖怪のように、空を飛ぶのは無理でしてね」
「だから猟銃か。しかし、その背広姿では構えるのも大変じゃろう。なにより、他の人間から変な目で見られる」
「慣れたものですよ。また旦那のテストかと、今では見向きもされない」
「テストとな」
「猟銃の試し撃ちです。扱う品に、不備などあってはいけませんので」
男は、軽く頭を下げた。
背広姿が頭下げるその様子は、外の世界でも親しんだものだった。しかし、その手に絶命した鳥を握っているところが、なんともミスマッチだった。
「人里で商いをしているのです。時折、こうして商品の具合を確かめています」
「なるほど、そのために鳥を狙い、撃ったと」
「おかしいですかな」
「引っ掛かるのう」
言葉とは裏腹に、マミゾウの声には咎めるような含みは一切なかった。
「猟銃の具合を確かめるだけなら、的でも撃てばよい。わざわざ、飛鳥など狙うのも面倒だろうて。ならば夕餉のためかとも思ったが、お主の格好や口振りから察するに、飯の種にはそれほど窮してはおらぬようじゃ」
「それほど観察されていたとは驚きですな」
「化け狸の性分じゃよ。人間を見定めるのには、年相応には慣れているつもりじゃ」
「ほう、狸とは」
「わざとらしいのう。最初から気付いておっただろう、尻尾は丸見えじゃ」
その尻尾で、傍らの茂みを掻き分け、整えた。
手招きすると、男は笑みの欠片もなく、しかし慇懃な一礼で応じた。背広姿にもかかわらず、躊躇することなく草々へと腰掛けた。見た目によらず柔軟なのか、見た目どおりに実直なのか、たぶん後者だろうなとマミゾウは思った。
傍らに置かれた、鳥へと視線を移した。
「それに、その鳥を夕餉にするのも珍しい」
虚空へと向けられた鳥の目は、童の落書きのようにくっきりとしていた。
マミゾウにとって、ひどく見覚えのある鳥だった。
「朱鷺など、そうそう食わぬ」
「毒もありませんから、度々食します」
「臭味に少々難がある」
懐に手を突っ込んで、マミゾウは男へと頭を下げた。
何事かを男が問い掛けるより先に、火鉢と煙管を引っ張り出した。火鉢など、明らかに懐に仕舞いこめるような大きさではなかったが、マミゾウにとってそんなことは造作もなかった。外の世界でも、長らく親しまれている初歩的な術である。青狸の四次元ポシェットだっただろうか、狸と術を掛け合わせているところが、なんとも嬉しい命名である。
黙々と、吸うための準備を進める。
男の柳眉がぴくりと動いたのを、マミゾウは見逃さなかった。
「良い煙管じゃろう」
これ見よがしに煙管を掲げて、マミゾウは笑った。
「一目惚れした逸品じゃ。値は張ったが、惚れた物こそ良い物だからのう。こいつのおかげで、一服が一層美味くなった。我ながら、良い買い物をしたもんじゃ」
煙管をくわえて、肺まで吸い込む。
何拍かの間を置いて吐き出された煙は、ゆらゆらと昇っていった。それを見ているだけで、肩から腰に掛けての余分な力が、ひゅるひゅると抜けていった。
「本当、良い代物じゃよ。儂のような妖怪にとって、こういうこだわりを感じさせるものは、それはそれは嬉しいものじゃ。最近は、妖怪連中の間でも禁煙ブームとかいう訳の分からん風潮が、出てきておってのう。もとより、喫煙など嗜好でしかないのじゃ。吸いたいなら吸って、吸いたくないなら吸わなければ良い。来る者拒まず、去る者追わずで充分だと、儂なんかは思うんだがのう」
「健康に差し支えるからでしょうな。ニコチンも、アルコールと同じく、積もれば毒となる」
「稗田の求聞史紀じゃな。アルコールが毒という言い回しは、毒舌な稗田らしい物言いじゃ」
「あなたのような方でも、すでに読まれていましたか」
「書物を嗜むのも嗜好じゃ。勉学にもなるが、まあ儂にとってはついでじゃのう。ついでに、幻想郷の妖怪や人間について見識を広げたわい。霧雨魔理沙なんかは、中々面白いことが記載されておったのう。実家とは、絶縁関係にあるとか」
男の柳眉が、またもやぴくりと動いた。
巌がぐらつくとは、こういうことを言うのだろうかと、マミゾウは思った。
「まさか一人であんな森に暮らしているとはのう。人間の娘一人には酷だろうに、やるわい」
「そんな大層なものではありません」
硬い声が、マミゾウの耳に届いた。
いつの間にか、男の口には煙草がくわえられていた。火を灯して、値踏みするかのように瞳を鋭く細めながら、長い時間を掛けて吸う。空を仰ぐ視線は、遠い思い出を苦々しく噛み潰しているかのようだった。
吐き出された紫煙は、マミゾウが吐いた煙と同じく昇っていき、溶けるように消えた。
「あの子は、意地を張っているだけです」
「その割には、心配しておるようだのう」
「曲がりなりにも――娘、ですから」
「連れ戻せるはずなのに、無理矢理には連れ戻そうとしておらぬ」
「負けん気の強い子です。私の言葉など、耳を貸そうともしない」
「朱鷺を手土産に、懐柔でもするつもりかのう」
「まさか」
かすかに首を振って、男は口だけで笑った。
諦めと信頼とが交ざった、いかにも人間臭い苦笑だった。
「先だって、久々に会いましてね。その時、気になっただけです」
「久し振りに会えば、そりゃあ気になることなど沢山あるじゃろうな」
「思ったより、あの子は背が伸びていなかった」
「ほう」
「ちゃんと食べているのか、とても気になった」
再び、煙草をくわえる。
今度は短い時間だけ吸って、煙が吐き出された。
「それだけですよ」
「その選択が朱鷺とは、いまいちじゃのう」
「冷え性などに効果があるとも窺いましたので。ならば、身体に悪いものではないだろうと。あの子には、もう少し滋養のある物に気を遣ってほしい」
「あの娘が、そうそう健康に気を遣うとも思えぬがな」
「だからこそ、こちらとしては頭が痛い」
「親の心子知らず、と言ったところかのう」
「そんな上等なものではありません」
男は、煙草を揉み消した。
空いた手に持った、小包のようなものに吸殻が放り込まれた。外の世界でも久しく目にしていない、携帯灰皿という代物だった。
「お互い、意地を張っているだけです」
「自らも意地を張っていると、そう認めているのは立派じゃのう」
「恐らく、事実ですから」
「なるほど。そんなところは、どうやら娘と似ておるみたいだのう」
「嬉しくない言葉だ」
「事実は苦いじゃろう」
「まさしく、苦い」
煙管を火鉢で叩いた。
すでに、紫煙は漂っていなかった。
「邪魔したのう」
自分の物を片して、マミゾウは立ち上がった。
横たわった鳥も、ついでのように手に取った。
「付き合ってくれた礼じゃ、こいつは儂が届けておくよ」
「その保障がありますかな」
見上げてくる黒檀の視線は、落ち着いていた。
「妖怪狸であるあなたが、わざわざ魔理沙に届けてくれるとは考えにくい」
「鶏や雉ならば考えたかも知れんのう、朱鷺など盗ってまで食いたくないわい。それに、実を言えばあの娘には、今日、偶然にも会っておったのじゃ。二刻ほど前だったかのう。再び会いたくなり、ついでに夕餉にでもありつきたいと考えるのは、まあ不自然ではなかろう」
「朱鷺など、大して美味くもないのに?」
「美味くはないが、食いたくなるのも性分じゃ」
だらりと垂れ下がった翼には、薄い桃色が覗いていた。
朱鷺色とも称されるその色が、マミゾウはあまり好きではなかった。夕焼けなどの華々しい色合いにこそ、興味を惹かれた。
「それに、お主への感謝もある。店で買った煙管は、今もこうして愛用しておるしのう。良い物を取り揃えてくれたことへの礼も、含ませてもらっておるよ」
「なるほど、しかしそもそも疑問が残る」
「聞きたいのう、興味がある」
「あなたの言い方では、私がまるで、魔理沙に会うのを躊躇っているかのようだ」
「おや、愚問じゃのう」
男の眉が、ぴくりと動いた。
厳しいその顔が、押し黙った魔理沙の仏頂面とよく似ていたので、マミゾウは思わず笑った。けけけという怪鳥の如き、笑い声を上げていた。
「お主と話せば、百人が百人、思うじゃろうて」
「不躾な言葉です」
「狸じゃからのう。狐のような小賢しさは苦手なんじゃ、堪忍せい」
幸い、笑いの発作はすぐに収まった。
手土産の鳥を肩に担いで、マミゾウは歩きはじめた。
「光栄ですな」
三歩ほど歩いてから、声が掛かった。
「佐渡の二ッ岩ほどの御方に、商品を誉められるとは」
「やっぱり気付いておったか」
「稗田の書物に記されるような御方は、どうあっても目に付きます」
「お主も食わせ物よのう」
「妖怪狸にそう言われるとは、光栄です」
「お主の娘も、そんなことを言っておったのう」
「……ふむ」
振り返ると、眉間に皺を寄せた店主と目が合った。
茂みの中に座り込んだ背広姿は、幻想郷には似つかわしくない厳しさを滲ませていた。黒と白とで纏められたその服装が、姦しい白黒の魔法使いと重なった。金瞳と黒瞳であり、年齢も相当離れているにも関わらず、愛想の欠片もないその仏頂面は、ひどく似通ったものだった。
親子だな。
口には出さずに、心の中だけに留めておいた。言ってしまえば、この男の顔はより一層険しいものとなっただろう。そして恐らく、あの黒白の魔法使いとて、同じように険しい仏頂面となって押し黙るに違いない。そんなところも似ているだろうなと、マミゾウは思った。
なので、何も言わず、鳥を担ぎ直した。
「またのう」
後ろ手に、手を振る。
振り返るようなことは、しなかった。
◆◆◆
「土産じゃ」
「また会うのは遠慮したいと言ったんだけどな」
「なら、こいつは儂だけで食わねばならん」
「朱鷺だろう。格別美味いものでもないし、それでも構わないぜ」
「生憎、それは出来ぬのじゃ」
「なんか頑なだな、狸にしては珍しい」
「こいつは、お主の親父さんから預かったものでのう」
途端に、魔理沙は眉間に皺を寄せた。
当たり前のように、浮かべた顔は父親そっくりの仏頂面だった。
「お主にこそ、渡さなければいかんのじゃ」
「ああそうかい」
「花の名前じゃのう」
「そのつもりで言ったわけじゃないんだがな」
「硬い声じゃのう、そんなところまで」
「そっくりって言いたいのか。生憎、私は普通の魔法使いだ。あんな草臥れたような親父と、一緒にしないでほしいものだぜ」
「ほっほっほ、意地の張り合いか」
「なんで笑うんだよ」
「面白いからのう」
「……ふんっ」
いかにも憤懣やるせないように、魔理沙は荒々しく鼻息をついた。
息を吐いたことで、可愛らしい小鼻がぴくりと動いていた。マミゾウを見つめる金色の視線には、ありありと含まれた不機嫌な棘の中に、値踏みするかのような光が小さく瞬いていた。父親によく似た視線だったが、マミゾウはそれを指摘しなかった。さすがに、このまま叩き出されるのは勘弁願いたかった。
がちゃりと、扉がゆっくりと開かれた。
「まあ、朱鷺も久しく食べてないからな」
微笑ましい言い訳に溢れた言葉が、マミゾウを迎えた。
招かれた家の中は凄惨なほどに散らかっていたが、魔理沙は難なく奥へと進んでいった。面食らったマミゾウだったが、気を取り直して後を追った。
「私の家にはじめて入った奴は、皆そんな顔をするんだよな」
テーブルの上を片付けながら、魔理沙は言った。
それが一段落すると、今度は来客用の椅子を引っ張り出すのに四苦八苦していた。散らかった物が多すぎて、椅子を動かすことすら儘ならない状況だった。仕方なく、手を貸そうとすると、魔理沙に止められた。曰く、他人に弄くられるのは好きじゃないとのことだった。
埃で白く埋もれた本を見ながら、マミゾウは嘆息した。
「この状況では、他人の介入も微々たるものにしか見えぬがのう」
「人間には自分の領分があって自分の秩序があるんだよ。自分の部屋では、それが殊更顕著だ。よく言うだろう。鍵はそこ、耳かきはそこって、決めた場所があるっていうのは。そんな普通の人間の例に漏れず、普通の魔法使いの私にも、自分の領分や秩序があるんだよ」
「それがこのざまである、と」
「しつこいなあ、別にいいだろ。住んでいる私が、困っている訳ではないんだし」
マミゾウの椅子が用意されたのは、十分ほど経ってからだった。
幸い、マミゾウは埃に対して、極々普通の免疫を備えていた。外の世界では、埃によって著しい鼻炎に苛まれる病があると、聞いたことがあった。そんな病気にかかった者にとって、この家は牢獄以外の何物でもなかっただろう。或いは、下手な監獄などよりよっぽど暮らし辛いかも知れない。
よくもまあ、こんな場所に一人で暮らしているものだ。
感心微々、呆れ大半の溜め息を、マミゾウは惜し気もなく吐き出した。
「これでは心配になるのも無理はないかのう」
「なんだよ、いきなり」
エプロンを着けた魔理沙が、怪訝な顔をした。
「誰が心配するっているんだよ。さっきも言ったが、私は困っていることなんてないぜ」
「お主の親父さんじゃよ」
また魔理沙は仏頂面となったが、マミゾウは口を止めなかった。
「あの堅物そうな人間が、娘のこんな住まいを見て安心できるはずないわい」
「随分、親父の肩を持った言い草だな」
「さすがに、このありさまでは同意の念も禁じ得ぬわい」
「何度も言うがな、私は」
「お主は困ってないんじゃろう。しかしのう、これだけ無茶苦茶な暮らし振りでは、困ってないと本人が言ったところで、心配が止むはずなかろうて」
机の上を指でなぞり、眼鏡越しに見下ろす。
案の定、指の腹には拭い切れていない埃が溜まっていた。息を吹きかけても飛ばなかったので、強く振るって叩き落とした。性悪な姑のようだとも思ったが、心の中だけで流しておいた。
「お主、改めるつもりは」
「わざわざ聞くことか、それ」
「必要もなかったな」
「お前が何度も使っていただろう、性分ってやつだよ、性分」
自分の椅子に帽子を投げつけながら、魔理沙はふんすと鼻息を鳴らした。
黒白の帽子は、狙い澄ましたように帽子の背もたれに被さった。
癖っ毛の強い金髪は、この少女の姦しさを表しているかのように波打っていた。主の一挙動すべてに合わせて、溌剌と揺れている。そんな金髪の動きだけで、いかに魔理沙が父親への反抗心を強く抱いているのかを、理解できるかのようだった。
思えば、父親の黒い髪とは、どこまでも相反していた。
表情一つ一つは似通っているのになと、マミゾウは思った。
「朱鷺を持って来たのは、親父の差し金だったな」
「仕留めたところに出くわしてのう。当の本人が、いかにも会いにくそうに見えたので、引き受けたのじゃ」
「十年くらい、ずっと会ってなかったからな」
「稗田の書物では、そう読んだのう」
「最近になって、向こうから急に押しかけて来たんだよ」
鳥の亡骸を手に取って、魔理沙は奥へと行ってしまった。
恐らく、台所にでも向かったのだろう。マミゾウが夕餉にありつくつもりなのは、魔理沙とて察しているに違いなかった。一旦、話しを切り上げたつもりで、マミゾウは腰掛けた椅子へと、深くもたれ掛かった。
「墓参りのことを伝えに、いきなりな。さすがに、あの時は面食らったぜ」
予想に反して、奥から声が届いた。
不機嫌そうなその声音には、しかしながら語りたがっている饒舌さが滲んでいた。聞いているという意思表示も込めて、マミゾウが大きめの相槌を打つと、次の言葉はすぐに飛んできた。
「それからだよ。親父が、やたらと食べ物を送るようになったのは。親父が自分で来たことは、ほとんどないんだけどな。飯に誘われたのも、そんなにはない。でも人を使って、食べ物は送ってくるんだよ。大体が香霖だったな、阿求や慧音が持ってきたことも、何度かあった。最近は落ち着いたが、多い時は週に一度くらいのペースで送ってきたんだぜ。さすがに処理にも困ったから、その時は店に顔を出して直接言ったんだ。意外とすんなり聞いてくれたんで、助かったよ。腐らせるのも悪いからな」
話し出したら、止められない性質なのだろう。つらつらと流れるように、魔理沙の声は飛んできた。話し始めに滲んでいた不機嫌さは、段々と成りを潜めていき、照れ臭さそうな嬉しさが飛び交っていた。
適度に相槌を打ちながら、まんま子供のようだとマミゾウは思った。
口うるさい親のことを愚痴としてこぼし、その実は奥底にくすぐったいものを湛えている。そんな声からは、この霧雨魔理沙という少女の、ひねくれながらも真っ直ぐな部分が、これでもかと感じられた。迂闊に放ってはおけない愛らしさのようなものが、ありありと滲んでいた。
魔理沙の言葉が本当なら、あの厳しい父親は最近になって、この娘と再会したことになる。
世話を焼きたくなるのも、分かるような気がした。
実の娘ならば尚更である。
「お互い、素直ではないのう」
「なにか言ったか?」
「いや、なにも」
どうやら口走ってしまったらしい。
自分の失態を取り繕うように、マミゾウは笑った。奥から顔を覗かせていた魔理沙は怪訝な顔をしていたが、すぐにその顔を引っ込ませた。まだ、料理は出来上がっていないようである。
魔理沙の声も届かなくなったので、マミゾウは部屋を見回した。
お世辞にも、人が住む場所には見えなかった。
久々に会いに来てこの内装では、さすがに目を疑ったことだろう。厳しく、なにより自分の商品をその手で点検しているほどの、人間のことだ。身の回りなどに気を配っていることも、充分予想がついた。そんな人間が、自分の娘がこんな有り様で暮らしていると知ったなら、果たしてどんな顔をしたことだろう。
思索に耽りながら、マミゾウは苦笑した。
脳裏で、黒の背広姿と黒白の魔法使いを並べてみる。
真っ先に浮かんだのは、二人の表情だった。互いに、そっくりな仏頂面で立っていた。似通っているのはそれだけだったのに、疑いなく親子だと思えた。そんな親子の間には、意地の張り合いこそが最も似合っていると、マミゾウは思った。
「なに笑っているんだよ」
大きな鍋を抱えるように持って、魔理沙は怪訝な顔をした。
「人の家の散らかり具合がそんなに面白いか。趣味の悪い狸だぜ」
「おお、散らかっているのは自覚しておったか」
「散々、嫌味やら皮肉やらを言われているからな」
「親父さんは、そんなものでは済まなかったろう?」
「まあ、な」
口元を歪めて、魔理沙は笑った。
歯を見せたその笑みは、苦虫を噛み潰したかのように険しかった。
「これでも、親父が来た時には掃除したんだぜ」
どっしりと、机の上に大鍋が置かれた。
ただそれだけなのに、魔理沙の言葉を否定するかのように、机の足元で埃が舞った。必要なのは掃除ではなく撤去だなと、マミゾウは内心だけで嘆息した。
湯気を上げる鍋の中身は、赤く染まっていた。
朱鷺ならば、やはり鍋である。
赤い脂の浮いた様は、お世辞にも美味そうには思えなかった。朱鷺汁とも呼ばれる鍋の中身からは、いかにも動物らしい生臭さが漂っていた。滋養強壮に良いとされる理由も、なんとはなしに理解できた。
「懐かしいのう」
「この生臭さがか?」
「全部じゃな。人間に混じって食ったことも、昨日のように覚えておる。最近では、とんとお目に掛かっておらんからのう」
「鱈の目が一杯ある外の世界なら、それも当然か。美味いものに事欠かないなら、わざわざ朱鷺を食べる必要もないもんな。味自体は悪くないんだが、いかんせんこの臭みに慣れていないと、ちょっと食い辛いぜ」
「まあ、そういう訳でもないんだがのう」
マミゾウへとお椀を手渡した魔理沙が、首を傾げた。
言葉の意味が飲み込めなかったのか、次の言葉を待っているようにこちらを見つめていた。それを諭すように手のひらを見せながら、マミゾウは朱鷺汁をお椀へと装った。湯気にあわせて、独特の匂いが立ち昇った。
「最近、朱鷺は食えぬのじゃ」
「食えないのか、あんなに空を飛んでいるのに」
「此処では飛んでおるということじゃ。外の世界では、見ることも少ない」
「ああ、それはつまり」
「いただきます」
手を合わせて、マミゾウは呟いた。
「いただきます」
慌てたように、魔理沙も続いた。
お椀に口をつけて、まずは汁だけを含んだ。口の中に、あの独特の臭みと、それに連なるような旨味が広がっていった。久しく経験していないその味に、マミゾウはそっと目を閉じた。
こうして口にしたのは、果たして何年振りだろうか。
記憶の中の味より若干薄いと、マミゾウは思った。あの濃厚な旨味は、幻想郷よりもっと遠いところへ、渡ってしまったのかも知れない。
奇妙な感慨に襲われた。
喋ることもなく、朱鷺の肉やネギなどを頬張っていく。
「儂の住んでいる所は、佐渡じゃ」
大鍋を粗方平らげてから、マミゾウはぽつりと口にした。
朱鷺汁を、なるべく魔理沙に行き渡るよう努めたつもりだったが、思った以上に口にしていた。口の中には、独特の獣臭さが、なおも強く残っていた。
懐かしさは、誰彼構わず酔わせてくる。
「佐渡では朱鷺を飼育しておってのう」
「外の世界では、居なくなったんじゃないのか?」
「多くはない。それでも、飼育されておる」
故郷の風景、慣れ親しんだ景色が瞼に起こされる。
鍋をつつく間、片時も外さなかった眼鏡を、マミゾウは外した。分厚いレンズが机の上に置かれて、硬い音を立てた。
「良い場所じゃ、幻想郷は」
「いざ住んでいると、よく分からないけどな」
「空気は美味いし、妖怪も跋扈しておる。人前でも尻尾を隠さなくてよいのは、やっぱり気楽じゃのう」
「人間には迷惑だぜ」
「久々の朱鷺鍋は、それなりに美味かった。懐かしい物を頂けたのは、幻想郷ならではじゃな」
「私が料理したからだ、そこを忘れてもらったら困る」
「お主の親父さんが仕留めたことも、忘れてはいかんぞ」
「……分かっているよ」
「ほっほっほ、良い心掛けじゃ」
笑いながら、マミゾウは目頭を強く揉んだ。
そうすることで、瞼が勝手に閉じて、視界が真っ暗になる。その中で浮かび上がった佐渡の空には、少ないながらも朱鷺が飛んでいた。あまり好きではない桃色の翼を羽ばたかせながら、水田へと降り立っていた。
朱鷺の瞳は、嫌でも目に付くほどにくっきりとしている。
童の落書きのように、くりっと覗いていた。愛嬌があるとは、到底思えなかった。
「しかし、気に食わぬこともある」
目を開けた。
こちらを見つめる魔理沙と、目が合った。
「此処に朱鷺は要らん」
眼鏡を掛けると、ぼんやりとした魔理沙の顔が、はっきりと映った。
怪訝そうな顔をしていたので、苦笑した。
「出来れば、幻想郷の空から朱鷺が消えてほしいと、儂は願っておる」
懐から煙管を取り出す。
雁首が鈍い光を湛えており、絵にも描けない風情を醸し出していた。なおも怪訝な顔をしている魔理沙を尻目に、今度は火鉢を取り出す。机に置くと、またもや足元で埃が舞った。
「日本産の朱鷺は絶滅した」
かすかに仰け反った魔理沙など気にせず、マミゾウは煙管をくわえた。
肺まで吸い込み、ふぅっと吐き出した。
「今は大陸産の朱鷺を飼育しておる」
「そいつは、初耳だな」
「難航もしておるが、それでも徐々にその数は増えておるようじゃ。野生での繁殖に成功したとも聞いたのう。儂などが言えたことでもないが、恐らく、並大抵の苦労ではなかったはずじゃ」
紫煙がゆんなり漂うのを、マミゾウは見つめた。
朱鷺の羽ばたきと、どこか似ているように見えた。
「飼育というのは難しい。それはなにも、朱鷺に限ったことではない。命を絶やさず、増やしては面倒を見ての繰り返しじゃ。充実感を得られればよいが、魔が差すように虚無感を覚えることとて、時にはあるじゃろう。あれはこれはと世話をして、時には試みが空振りに終わることもある。にもかかわらず、相手は動物じゃ。好き勝手に食っては眠り、感謝を示すこともない。人間ではその意思を読み取ることも難しい、言葉が通じないのだから当たり前じゃな。餌を食い、糞尿を垂れ流し、時には牙をも剥いてくる。慣れ親しんでくる動物など、ほんの一部じゃ。大抵は、我が物顔でのさばっておる。そんな動物どもを見て、飼育する側も時折は虚しさを覚えると、儂なんかは思うのじゃ。張り合いがないのは、やり辛いからのう」
「動物園のことを言っているのか?」
「飼育するということ全般じゃよ。勿論、お主の言う動物園のことも、含まれておるがのう。そうそう、少し付け加えておくとじゃ。まだ幼き童が、捕まえた虫を籠に放り込んで、禄に面倒も見ないまま死なせてしまうことがあるじゃろう。お主には、そういう経験はないかのう」
「キノコなら、色々と試したんだがなあ」
頭を振った魔理沙にあわせて、長い金髪が揺れた。
「今の私が覚えているのは、あの槌の子くらいだな。ペットにしたのは」
「なるほど。童が虫を飼うことについてじゃが、あれを飼育と呼ぶのは儂は賛成しかねるのう。あれは他の命を学ぶ勉学であり、飼育とはまた趣が違うのじゃ。獣とて、同じようなことを行う。生きたままの獲物を、我が子の前で解き放ち、捕らえることを学ばせるのじゃ。そうやって他種を、他の命を学ばせる。仰向けに硬くなった虫、冷たく横たわった獣、そういった命なき亡骸を見て、はじめて他の命を意識できるのじゃ。ある種、残酷な勉学ではあるが、生きる上では必要不可欠なことじゃな」
「人間と獣を一緒にするのは、私は賛成しかねるな。奪った命に対して、獣は思いを馳せないが、物好きな人間は思いを馳せるぜ。もっとも、妖怪にまで思いを馳せるほどの物好きは、そうそう居ないかも知れないがな」
「辛辣じゃのう」
「普通の人間なんでね」
肩をすくめて、魔理沙は笑った。
その態度に呆れた溜め息が漏れそうになったが、結局は紫煙として吐き出した。頼りなく漂った煙が、マミゾウの眼前を昇った。
「その延長線上が、蔓延しておる」
「子供が虫を飼うことか?」
「虫にしろ獣にしろ、結局は子孫を存続させることが目的じゃ。それを鑑みず、一世代で終わらせることで、満足する事例が増えておる。意思が理解できないのに満足してしまうのは、驕りだと儂は思っておる。いくら大切に扱おうとも、それは飼育とは呼べぬ。あえて言うなら、囲っているに過ぎないのう」
「囲っている?」
「女人をこっそり養うことを、そう例えるのじゃ」
魔理沙は鼻白んだ様子だった。
初々しいその表情に、マミゾウの口から笑みがこぼれた。
「なんじゃ、知らんかったのか」
「別にいいだろ、聞いたこともなかったんだし」
「反応が初々しかったのでのう。よいものが見られたわい」
「やめろよ、なんで笑うんだよ」
「面白かったのでのう。面白いのう」
けけけと怪鳥のようにマミゾウは笑った。勿論、からかうつもりで笑った。
案の定、魔理沙はぶすりとした仏頂面で押し黙った。それがまた面白かったので、マミゾウは一頻り、声を上げて笑ってやった。
「……だから、佐渡の空、ひいては外の世界の空にこそ朱鷺は相応しいと、儂は思っておる」
程なくして笑いの発作は収まった。
煙管の雁首を、火鉢で叩いた。気を取り直したつもりだった。
「儂は素直に感心しておるし、誇りを持っておるのじゃ。佐渡の朱鷺は、人間たちの並大抵ではない苦労が結んだものだと、僭越ながら思っておるよ」
「人間を誉めるなんて、妖怪の癖に変な奴だな」
「変わっておるのは自覚しておるよ。なにせ、未だに外の世界なんぞに居座っておるからのう。此処の奴らから見れば、明らかに変わり者じゃろうて」
「命蓮寺も迷惑そうにしているからな」
「ほっほっほ、憎まれっ子世に憚るからのう。現に、お主も息災にしておるわい」
鮮やかに、魔理沙は目を剥いた。
突然、自分のことへと話題を振られ、明らかに色めきたっていた。
「大事にされておるのう。週に一度とは、随分と過保護なことじゃ。余程、心配だったのであろうな」
「十年くらい、放っておかれたぜ」
「その十年の反動にしては、大人しくも思えるか。お主があんまりにも元気そうだったから、逆に安心したのかも知れぬ」
「親父のことなんて知らないよ」
ぷいっと、魔理沙はそっぽを向いた。
「大体、私は育てられた、それこそ飼育されたなんて、これっぽっちも思ってないぜ」
「飼育されている側も、同じく思っておらぬだろうな。媚びるように親しくなるものなど、ほんの一部じゃ」
「さっきも言ったが」
「人間と獣を一緒にするのは賛成しかねる、かのう?」
釘を刺されたかのように、魔理沙は口をへの字に曲げた。
図星だったようである。
「まあ、種を存続させるというのも、儂の勝手な私見じゃ。産めよ増やせよとして、子や孫の面倒まで見切れなくなることもあるからのう。本末転倒じゃ。飼うこと、育てること、即ち飼育というものには、はなから正解など無いのかも知れぬ。もとより、これ正解と言えるものは、世の中には意外と少ないからのう」
「あれだけ長々と説いて、結局はそれかよ」
「歳を取ると、どうしても話が長くなるわい」
「言い訳がましいぜ」
「狸だからのう。狐のように小賢しくなく、人間様ほど利口ではない」
「つまり、誰よりも図太く厚かましいって訳だな。良い迷惑だ」
魔理沙の言葉に、マミゾウは笑い返しただけだった。
図太く厚かましい。
自分のような古狸にとって、ひどく相応しい言葉に聞こえた。言い得て妙だと、マミゾウは感心した。
「おかげで、夕餉は親父の朱鷺を食う羽目になったし、お前の長々とした講釈に付き合う羽目にもなった。まったく、妖怪ってのは図々しいものだが、狸は殊更だな」
「嫌だったかのう」
「説教は嫌いだぜ」
「親父さんの土産は?」
「……変な感じだ」
渋い顔で、魔理沙は椅子にもたれ掛かった。
「霊夢と食った朱鷺鍋より、美味いとも思えたし、苦いとも思えた」
「詩的じゃのう、親父さんはここには居らぬというのに」
「苦手なんだよ」
ぽつりと、魔理沙は呟いた。
懐かしさの篭もった、溜め息のような声だった。
マミゾウが目を細めたのに気付くと、小さな魔理沙の身体が椅子ごと揺れた。どうやら、口にするつもりはなかったらしい。視線を泳がせた魔理沙の口から、かすかな後悔を孕んだ舌打ちが、小さく聞こえた。
背もたれに掛けた帽子を、押し付けるように魔理沙は被った。目深に被ったことで、鼻から上はすっぽりと隠れてしまった。
言い辛そうにむずむずと動いた唇は、マミゾウにも見えていた。
「……言うなよ」
聞き取りづらい声だった。
「誰にも、言うなよ」
「親父さんが苦手、ということかのう」
「知られたくないんだよ。特に、霊夢なんかには絶対に、知られたくない」
「人間の子供としては、至って普通の反応だと思うが」
「だって、十年だぜ」
目深に被った帽子を、魔理沙は取った。そのまま、抱きかかえるように腿の上へと乗せた。
若干、八の字に下がった眉が、いかにも気弱そうに見えた。
「十年ぶりに会ったんだ。親父だって老けていた。皺や白髪も増えていたし、背だって随分と小さく見えた。まあ、追い越してはいかなかったけど」
「だが、それでも苦手だと」
「相変わらず頑固だし。私のやることについても厳しいし。口を開けば、うるさいことばっかり言うし。そりゃあ、私だって反論しようとしたけど、どうにもな」
「言い返せぬと、そういう訳じゃな」
「恥ずかしいじゃないか」
金瞳の視線が、照れ隠しのように伏せられる。
「未だに、親父に面と向かって言われると、強く言い返せないんだ。蛇に睨まれた蛙みたいに、言い返せなくなるんだ。その度に、今度こそ言い返してやろうって思うんだぜ。思うけど」
「まあ、駄目なんじゃな」
「……うん」
こくりと、小さく魔理沙は頷いた。
波打った長い金髪が、主の気持ちを表しているかのように、力なく揺れた。
「それって、すごく恥ずかしいことじゃないか。こうして一人で暮らしているのに、未だに親父の苦手意識に引っ張られているなんて。会っても、上手く話なんて出来ないし。自分でも何を言っていいのか、分からなくなるし。これじゃあ、聞き分けの悪い、ただのガキみたいだ」
魔理沙の表情は、沈んでいた。
普段の霧雨魔理沙を知る者ならば、恐らく相当驚いたことだろう。闊達とハイカラに塗れているのがお似合いなこの少女は、普段の自信など失せてしまったかのような顔で、唇を弱々しく噛んでいた。俯いた二つの瞳は、姦しい金色さえ色褪せたかのような静けさで、一点を凝視していた。
ゆっくりとした動きで、マミゾウは煙管をくわえる。
吸い込み、吐き出した紫煙は苦々しく、そして美味かった。
「果報者じゃのう」
「えっ」
「お主の親父さんじゃよ」
弾かれたように、魔理沙は顔を上げた。さも意外だと言わんばかりに、目を剥いていた。
「父親として、それだけ娘に意識してもらえるのじゃ。果報者に違いないわい」
「別に、私は」
「構わぬ。お主は、今のままでも構わんよ」
からかうような笑みを、マミゾウは欠片も浮かべなかった。
浮かべようなどとは、微塵も思わなかった。
「そのもどかしさも、いずれは変わる。心配せずとも、いつかは父親にも好き勝手に話せるようになるわい。むしろ、そのもどかしさを大切にして欲しいと、儂なんかは思うがのう」
「恥ずかしいだけだぜ、こんなの」
「いずれ、それすら懐かしく思える」
再び、煙管をくわえて紫煙を吐き出す。
今度の煙は、苦いだけだった。
「羨ましいのう。本当に、羨ましい」
「意味が分からないぜ。私はただ、自分が情けなく思えるだけだ」
「庇には、意外と気付けぬものじゃよ。それでよい」
「分からないな」
難しい顔で、魔理沙は頭を振った。
「今の私には分からない」
「ならば、そんなお主に、この佐渡の二ッ岩からアドヴァイスじゃ」
「アドバイスだな」
「うむ。お主、さっき言っておったな、親父さんの背が低く見えたが、それでも自分は追い越せていなかったと」
「悪いか、私はこれから大きくなるんだよ、これから」
「親父さんも、それを願っておるみたいだのう」
首を傾げた魔理沙の顔が、いよいよ難しいものとなった。
そんな魔理沙の初々しさが、ひどく眩しく思えた。決して届かない、得難くなった大切な物を見る目で、マミゾウは微笑んだ。
「思ったより、背が伸びていなかった」
「……親父がそう言ったのか」
「あまり嬉しそうではないのう」
「負けた気がするんだよ」
「なるほど。だが、お主自身が思った以上に、親父さんは気になったのだろうな」
「どういう意味だよ」
「ちゃんと食べているのか、とても気になった――親父さんの言葉じゃ」
雁首で火鉢を叩いた。まだ吸い足りないなとマミゾウは思った。
これだけ吸いたくなったのは、久々だった。
「食べ物を週に一度送るというのも、かなり気を遣ったのだろう。稗田の書物にも大きく載ってしまったお主が、自分と会いづらいと思っているのは、親父さんとて分かっていたはずじゃ。娘の健康も気になるが、体裁も気になったということじゃのう。もっとも、あの親父さん本人が、今も後ろめたさに引き摺られていることは、充分考えられるが」
「親父が?」
「十年経てば、森羅万象全てが大きく変わるわい。そんな十年に、親父さんは親父さんなりに責任を感じているのじゃろう。思ったよりも、背が伸びていない――自分が面倒を見なかったからだと、重石のようにじわじわと自分を省みるのには、そんな気掛かりだけで充分じゃ」
「親父が、私のことで、責任を?」
「飼育は難しいと儂は言った。呪縛のようなものだとも言った」
火種がなくなったので、再び吸う準備をする。
昂ぶり過ぎないための紫煙こそを、マミゾウは只管、欲していた。
「だがそれも、ひとたび軌道に乗ってしまえば、大抵は日々の繰り返しじゃ。日常にエッセンスを垂らすような、そんな感じじゃな。これも確かに難しいが、それでも決して不可能なことではない。慣れてしまえば、さほどでもないだろう。むしろ儂は、それ以上に飼育を難しくしているものがあると、思っている」
「……なんだよ、それは」
「分からぬか」
煙管を、くわえる寸前で止めた。
「心じゃよ」
「は?」
「想いとも呼べるかのう。この際だから、繁殖如何は抜きにしておこうか。とにかく、何かを飼う際には、ほとんどは思うところがあって飼うものじゃ。この場合は、人間で説明するのが一番分かりやすいかのう。可愛いと思ったり、一緒に住みたいと願ったり、あの日をもう一度と懐かしさに駆られたりと、その思惑は様々じゃ。お主は、槌の子を飼う際になにを思った?」
「可愛いかな。お前が言った、その中だと」
「朱鷺の飼育をはじめた人間たちは、かつての景色を取り戻すことを願ったからだと、儂は勝手に思っている」
ようやくくわえた煙管を、マミゾウは軽く齧った。
パイプのようだと、なんとはなしに思った。
「飼われる側は、どうあっても生き物であるから、好き勝手に振舞う。この振舞いは、なにも迷惑な行為ばかりではない。時には機嫌も悪くなるし、勿論、機嫌が良くなることもある。時折、飼う側に感謝の意を示すこととてあるだろう。気まぐれと思うかも知れぬが、それが生き物じゃ。等しく、静かだったり姦しかったりする者など、居るはずもない。飼われる側にも心があり、心の動きがあるのじゃ」
「槌の子は、私に感謝の意を示したことなんてないぜ」
「満足げに眠ったではないか。その前には、太った腹でごろごろと転がっていただろう。あれほど心に正直なのも、生き物ならではじゃ。もしかしたら、その内本当に、何かしらの形でお主に恩返しをするかも知れぬ。飼い始めたばかりなら、まだ分からぬわい。なにより、お主、槌の子を見て笑っていたではないか。あの姿に愛くるしさを感じていたのは、事実だろう」
「それは、確かにそうだけど」
「愛くるしさは、愛情へと転じる」
たゆたう紫煙を見つめながら、マミゾウは続けた。
「言葉を交わさぬ獣にも、愛情を抱く。それがなければ飼う側として失格じゃ。だがその愛情、引いては心の動きが厄介でのう。飼われる側の振舞いで取り返しのつかない事態になれば、愛情は憎悪へと動く。飼われる側が無感動に暮らしているだけでは、愛情は焦燥へと動く。飼われる側が居なくなってしまえば、愛情は悲哀へと動く。飼われる側の一挙動で、愛情はどこにでも移り変わってしまうのじゃ。困難を極めた朱鷺の飼育は、凄まじかったと聞いている。詳しい経緯は伏せるが、そこにも様々な心の動き、想いがあったことだろう。儂などでは、関わった人間の心中を代弁することも、憚られるわい」
長い溜め息を、マミゾウはついた。
歳を取ると話が長くなる。
それは別に構わなかったが、さすがにこれだけ喋っていると、若干の疲れを感じた。
「儂が、飼育を難しいと言ったのは、これがあるからじゃ。呪縛のように、飼う側の心を揺籃のように、いつまでも揺り動かしてくる。それはなにも、辛く哀しいことばかりではなく、喜ばしいことがあるのも事実じゃ。あの槌の子のように満足げに眠ってくれれば、お主とて嬉しいだろう」
「悪い気は、しないよな」
「だが、次に会った時にその背が著しく縮んでいたら、お主はどう思う」
「どうって」
「痛々しいほどの怪我を負っていたなら、どう思う。いきなり嘔吐して、今日の肉まんが飛び出してきたなら、どう思う。普段ならば居るはずの場所に居らず、堪らず探し始めた矢先に冷たくなった槌の子を見つけたら」
「やめろよ!」
机の上の物が、大きく揺れた。
手のひらを叩きつけて立ち上がった魔理沙の顔は、怒気に溢れていた。
「さすがに怒るぞ、妖怪狸」
「すまぬ。失言だったな」
非礼を詫びて、マミゾウは頭を下げた。
それでも魔理沙は睨み付けていたが、溜め息とともに椅子へと座り込んだのに、それほどの時間は要さなかった。
「言い過ぎたわい、酷な言葉だったな」
「おかげで、ひどく心配になってきたよ」
「うむ。その心こそが、何かを飼う上では一番厄介だと、儂は思っておる」
「……あ」
合点がいったように、魔理沙は目をかすかに見開かせた。
マミゾウは煙管をくわえ直して、小さく頷く。
「それがあるから、儂にはとても出来ぬよ」
言ってから、一服、吸った。
煙は、苦くも美味くもなく、胸の奥にじんわりと沁みた。
「言葉の通じぬ生き物とて、それほど心が動かされる。これが、言葉を交わす人間同士なら、果たして如何ほどのものか。己の意思をはっきりと示す、己の想いを言葉としてぶつけてくる者に、心揺さぶられぬ訳がない。無論、言葉があるからこそ、獣と人間との付き合いと同等にしてしまうのは無粋じゃ。しかし、その言葉こそが、これまた心を動かす要因となる。愛情も、焦燥も、悲哀も、言葉として飛んで来るのだからのう。お主の親父さんは、一体どれほど心を動かされたことか。儂には、これも代弁することは、憚られるわい」
「まさか。あの親父が、そんなに取り乱すはずがない」
「人間、情に脆いものじゃ。どれほど取り繕ったとて、それは変わるまい。これは長年、人間といがみ合ってきた古狸としての意見じゃな。一方には強情なら、もう一方から押してやれば、ころりと転げおる。意地を張り合っているお主だからこそ、親父さんもそうそう、転げ落ちぬのじゃろう。先程、親父さんを果報者とも思ったがのう。そういう意味では、お主相手には中々素直にもなり切れぬのだろう。十年という歳月も、罪なものじゃ」
口から煙管を離す。
その切っ先を、魔理沙に向けた。
「お主も、思い切って素直になっては、どうかのう」
「私は、自分に正直なつもりだぜ」
「素直というのは、時として正直とは反対を向くこともある。存外、素直に生きるのは難しいものじゃ。しかし、それもお主なら、切欠さえあれば出来るだろう。お主は真っ直ぐだし、人の話も意外とすんなり聞く節がある」
「誉められているのか貶されているのか、よく分からないな」
「誉めておるよ、間違いなく」
戸惑う魔理沙の顔を見ながら、マミゾウは微笑んだ。
「お主ほど真っ直ぐな奴は、今時ほとんどおらぬ。十年ぶりに会った親父さんも、嬉しく思ったことだろう」
「別に、そんなに」
「親父さんから貰った食い物の話しをした時、お主の声はとても嬉しそうに聞こえた。実際、嬉しかったのじゃろう? 十年ぶりに訪ねられて、真っ向から反対されて否定されると思っていたのに、そんなことはなかった。魔法の森で、魔法の研究を行うことを許された。それどころか、こうして時折、食べ物を送ってきてくれている。親父さんはのう、お主が滋養のあるものを食べているかどうか、気になっていると言っておった。正直な答えだが、素直ではないのう。本当は、娘を精一杯応援しておるのじゃ。滋養のあるものを食べて、身体を丈夫にし、これからも頑張ってほしいと願っておるのじゃよ。そしてお主も、それには薄々勘付いておる。親父さんから認められていることに、自覚せぬほどに勘付いておるのじゃ。だから、あんなに嬉しそうに話しておったのだろう」
「……なんでそんなに、私の家事情に詳しいんだよ」
「稗田の書物と、お主や親父さんの話から察すれば、造作もないわい」
「やっぱり、とんだ食わせ物だな、古狸って」
「で、どうなのじゃ」
「それは」
抱え持った大き目の帽子が、ぎゅっと握り締められる。
ほのかに赤く染まった顔で、魔理沙はぽそぽそと話しはじめた。
「まあ、嬉しかったよ、そりゃあ」
その頬は、むずむずと恥じるように動いていた。
朱鷺色のように染まっていると、マミゾウは思った。
「親父に認められたみたいで、嬉しかった。いけないか?」
「素晴らしいことだと、儂は思う」
「うん、嬉しかった」
「今でも、嬉しいんじゃろう?」
「……うん」
こくりと、かすかに金髪が揺れた。
「嬉しいよ。今でも」
「ならば、それを伝えればいい」
「えっ」
「そのまま、そっくり。それが無理なら、今の自分に出来る言い方で、伝えればいいのじゃ。直接でなくとも、手紙という方法もあるが、お主ならむしろ直接の方が性に合っているかのう」
「待てよ、私はそんな」
「難しく考えなくともよい」
硬い音が鳴った。
雁首を火鉢に叩きつけて、マミゾウは目を細めた。煙はもう充分だと、思った。
「お主らしく、やればよい」
煙管を、火鉢に掛けるように置いた。
それだけを言って、マミゾウはこの日何度目かの、長い溜め息をついた。
仰いだ天井は、所々に雨漏りの痕跡が見て取れた。普通なら気付くこともないものだが、几帳面そうな身なりをした、あの父親のことである。恐らく、訪問の際に気付いたことだろう。そして、そんな場所で娘が暮らしていることを嘆いただろうし、同時に、それでも娘が十年もの歳月を無事で過ごしていたことに嬉しくなっただろう。親とはそんなものであると、マミゾウは考えていた。長い時を過ごしたなら、何でもない風景の移ろいに胸が熱くなる。
朱鷺色の羽が、脳裏をよぎった。
あまり好きではないはずのその色が、ひどく懐かしいものに思えた。
「私らしくか」
魔理沙の声は、快活なものではなかった。
決意と戸惑いとが混ざる、曖昧な感情を孕んだ視線と、ぶつかった。
「それが、お前のアドバイスなのか、狸」
「まさしく。この佐渡の二ッ岩のアドヴァイスじゃのう」
「長く引っ張った割には、随分と素っ気無いアドバイスなんだな」
「シンプルイズベストじゃ」
「日本語を話せ、此処は幻想郷だぜ?」
「生憎、心まで――想いまでも幻想郷に染まったつもりは、毛頭ないのでのう」
眼鏡を直し、マミゾウは決然と言った。
「誇りある佐渡にこそ、この二ッ岩マミゾウの心はある。だから儂は、佐渡の二ッ岩を名乗り続けておる。朱鷺は佐渡の空こそ、外の世界こそと、今でも願っておる。これを改めるつもりは、今のところないわい」
「本当、変な妖怪だな」
「此処に暮らしている妖怪に比べれば、明らかに変わり者だとは、自負しておるからのう。魔法使いでありながら人間でもある、お主のような変わり者とは、似たようなものだわい」
「言ってくれるぜ」
「事実だからのう、事実は苦いだろう?」
「まさしく、そうかも知れないな」
帽子を被り直しながら、魔理沙は笑った。
気弱にも聞こえかねない言葉とは裏腹に、その笑みは歯を見せるほどに、快活だった。
「確かに、苦い」
「親父さんも、事実は苦いと認めておったよ」
「そっか」
天井を見上げて、魔理沙は深い溜め息をついた。
憂うような響きはなく、どこか嬉しそうに聞こえた。細められた金色の瞳は、恐らく天井そのものを見つめている訳ではないのだろう。胸のつっかえが取れたかのように、口元には清々しい微笑みが浮かんでいた。
「古狸」
「なんじゃ」
「明日にでも、槌の子を連れて行くことにするよ。大きな商いをしている親父なら、何か知っているかもしれない。餌とかについても詳しく知りたいし、他の槌の子のことを知っているなら、それも聞いておきたい。一人は気楽だけど、やっぱり友達くらいは居ないと、寂しいもんな」
「よい心掛けじゃ」
「私だって、霊夢の所に遊びに行くからな」
机に肘をつき、魔理沙は頬杖をついた。
照れ臭さから染まった頬は、やはり朱鷺色のように見えた。
「親父になんて言うかは、その時に決めるよ」
「行き当たりばったりじゃな」
「私らしいだろ?」
「お主がそれでよいと思うなら、儂は何も言わぬよ」
「私のやり方だ、文句なんて言わせないぜ」
それだけを言って、魔理沙は大きく呵呵と笑った。
釣られるように、マミゾウも笑った。
◆◆◆
鮮やかな黄金色の三日月を仰いで、マミゾウは小さく息をついた。
「やはり、此処の夜は濃過ぎるのう」
緑の青臭さが、鼻をくすぐる。
夜を薫らせるそれは、久しく経験していないものだった。何百年と流れる中で、喪われてしまったものである。太古の気配を色濃く息衝かせる夜気は、妖怪であるこの身体を昂ぶらせるのには、充分な代物だった。
だからこそ、性に合わない。
「儂は、もっと薄味でよいわい」
からからと下駄を鳴らしながら、纏わりつく夜気を振り払う。
太古の塵芥をそのままに、文化の馨りが息巻いていた。幻想郷は、閉鎖された最中で独自の文化を発展させていったと、稗田の書物には載っていた。実際、こちらで久々に目にした妖怪たちは、そうだと気付かぬほどにハイカラな変わり様だった。着々と時代に則って変化していた自分が、まるで取り残されたかのような気分を味わったのは、マミゾウの密かな悩みだった。
だと言うのに、鼻をくすぶる夜気は、太古の気配をこれでもかと孕んでいる。
贅沢だなと、マミゾウは思った。
「儂は、もっと質素でよいわい」
派手なもの、傾いたものは好きだったが、それでも贅沢だと思った。
懐かしさを抱きながら、同時に新しきものをも発展させている。前向きな姿勢こそが、幻想郷の様相だとマミゾウは感じていた。それこそが、此処に住まう妖怪たちの目指すものなのだと、なんとはなしに理解していた。過去に浸りながら、未来を思い描く。理想的とも呼べる環境が、幻想郷には存在していた。
だからこそ、性に合わない。
のんびりと胡坐をかく方が、自分の性に合っていた。
「どれ」
一声上げて、二回、拍手をする。
夜闇から滲むように、古びた鳥居が現れた。木造の小さな鳥居は、所々が朽ちており、今にも倒壊してしまいそうな雰囲気を醸し出していた。ハイカラな幻想郷には、どうあっても似つかわしくない代物だった。
こちらの方が、よっぽど風情がある。
鳥居の柱に触れながら、マミゾウはかすかに笑った。節くれ立った木製の柱は、思ったとおりの手触りをしていた。ともすれば、ささくれが刺さってしまいそうなほどに、荒削りな柱であった。
労うように、優しい手付きで摩った。
朱鷺が空を舞うことを願い、喪われた景色をもう一度と願う、人間たちの想いが重なった。
佐渡の空にこそ、朱鷺は相応しい。
出会って間もない人間に、内心を吐露してしまったことを思い出した。おおよそ、幻想郷に住まう者たちでは考えもしない自分の想いを、よりにもよって幻想郷の住人に話してしまった。朱鷺鍋の懐かしさに、佐渡の二ッ岩である自分が酔わされてしまった。
まだまだ若いなと、マミゾウは自嘲した。
「さて」
鳥居を一息で潜り、振り返った。
たったそれだけのことで、大気は一変した。
「またのう」
飼うことは難しい。
なにせ、飼われる側にとって環境が一変してしまうのである。触れ合う者、食事など、明らかに分かるものばかりではない。薫る空気、啄む水の一滴とて、気付く者には無視できないほどの、違和感を抱かせる。それくらい、大きな差が出てくる。
だからこそ、幻想郷は理想的だった。
隅々まで満たす大気は、その端々まで太古の様相を残していた。
マミゾウの周りに、すでにそれは薫ってすらいない。掴み取れそうなほどに濃密な夜闇は、萎れたように薄弱なものへと成り代わっていた。見上げれば、三日月の黄金色もくすんでいる。木々のざわめきすら、物静かになっていた。
だからこそ、性に合った。
飼われるならばこちらがよいと、マミゾウは思った。
佐渡の景色が脳裏をよぎる。
蛇の飼育について、得意げに話す子供が居た。
すでに、その背はマミゾウを越えているはずである。記憶が確かなら、西の京でその筋について、専門的に扱っているとも聞いた。小さい頃から、神社へと足繁く通っていたことから、印象に残っていた。西へと赴き、顔を見せてやるのも面白いかも知れない。向こうは、化かされたと驚くかも知れないが、むしろそれがいいだろうとマミゾウは思った。化かすことこそ、狸にとっての存在意義である。所謂、アイデンティティというやつだった。
そのついでに、さらに西、狸の国へと足を伸ばすのもいいかも知れない。
槌の子の標本という、いかにもな代物を探しに行くのも、悪くないだろう。佐渡の二ッ岩という肩書きから、要らぬ世話を受けることも考えられるから、少し慎重に行くのが利口である。こういう時、この尻尾が煩わしいなと、マミゾウはほんの少し恨めしく思った。
西の京、西の狸の国。
悪くない旅程である。美味いものには事欠かないだろう。
しかし、それよりもまず先に。
脳裏によぎった、佐渡の景色こそ気に掛かった。
「またのう」
もう一度だけ、鳥居の向こう側へと呼び掛けてから、踵を返した。
後ろ手に、手を振る。
振り返るようなことは、しなかった。
飼われ育った佐渡の景色を、一刻も早く、この目で見たくなった。
鼠でも与えているのかと二ッ岩マミゾウは思ったが、少女が差し出しているのは、そんな生々しい代物ではなかった。ほかほかの湯気を上げる肉まんを、蛇に向かって放り投げていた。
食欲をそそる香りが、離れたマミゾウの元にまで届く。
それでも普通の蛇ならば、口にすることなどなかっただろう。姿形から忌み嫌われることも少なくないのが蛇だが、飼育する上ではまずその臆病さや慎重さに、気を遣わなければならない。基本的に、動く者しか手を付けようとはせず、だからこそ餌の確保が大変だと聞いていた。
島の子供が、そう話していたのをマミゾウは記憶していた。
蛇の飼育を試みるとは、変わった人間も居たものである。勿論、変わっているとは思いながらも、疎んじるようなことは露ほども考えなかった。
世の大半の者は、少なくともひとつは変わった趣向を抱いているものである。それは、今なお幻想郷に囚われることなく暮らしているマミゾウだからこそ、心得ていることだった。
記憶の中の子供が、少女と重なる。
その途端、蛇は肉まんを一息に呑み込んでいた。
「食いおった」
かすかな驚きに、ついつい溜め息が漏れてしまった。
蛇を飼う人間も変わっているとは思ったが、よもやその蛇自体が一風変わっていたのには、さすがのマミゾウも面食らった。
「こいつを見たいなら、もっと寄ってもいいんだぜ」
とっくの前から、こちらには気付いていたのだろう。
慌てた様子もなく、大きな黒白の帽子を直しながら、少女は振り返った。
「お前なら、例え食われてしまっても、狸鍋って言い訳で通じそうだ」
剣呑な言葉とは裏腹に、その顔は朗らかな笑みを浮かべていた。
霧雨魔理沙の言動は、その癖っ毛の金髪と同様に、情緒も裏表もなかった。髪と同じ色合いの瞳が、くりくりと油断なく窺っている。小生意気さと強かさが、ない交ぜとなった視線だった。
相変わらず物騒な人間だと感じて、マミゾウは苦笑した。
「ただの蛇かと思えば、肉まんを食ってしまうとはのう」
「その様子だと、こいつが何かは知っているみたいだな」
眼鏡を直しながら、マミゾウは軽く頷いた。
ずんぐりとした胴体は、ただの蛇と呼ぶにはあまりにも短過ぎる。その不恰好な愛らしさには、思い当たるものがあった。
「さすがは古臭い狸だな、無駄知識の分だけ、良い出汁が取れそうだぜ」
「このような古狸では、アクばかりかも知れないがのう」
「自分が美味いと知っている奴は、たぶんそう言うぜ。食われたくないから、あれはこれはと出任せを口にする」
「そう思わせて、実は本当に不味いかも知れん。敢えて真実を語るのも、ひとつ上の、世渡りの方法じゃよ」
「さすがは狸だ、食えたもんじゃないぜ」
お主には言われたくないなと、マミゾウは声に出さずに呟いた。
そんな内心を知っているのか、はたまた知らないのか。恐らく、興味すらなかったのだろう。一層歯を見せて勝ち気に笑ってから、魔理沙は蛇の元へとしゃがみ込んだ。
ただの蛇ではない、槌の子である。
久しくお目にかかっていない生き物だった。外の世界でも、一時かなり話題に上ったことがあったので、マミゾウもなんとか覚えていた。幻の蛇、ツチノコ。記憶が確かならば、酔狂なことに懸賞金なんかも掛けられていたはずである。
標本もあったかも知れない。
あれは四国山中の話だっただろうか。
郷土の島と同じ、狸の国である西の地を思い出して、マミゾウは目を細めた。
「可愛いだろう、私のペットなんだぜ」
「そこそこには愛嬌もあるかのう。むしろ、儂としてはそれよりも懐かしさを覚えるわい。このずんぐりむっくりの、何に惹かれたかは分からぬがのう。こやつも、随分と世間様を騒がせてくれたものじゃ」
「外の世界で、この槌の子が?」
「いかにも」
腹が膨れて満足しているのか、槌の子はごろごろと地面を転がっていた。たらふく飯を食わせてもらっているのか、何度か見てきた槌の子より、よっぽど寸胴に見えた。
「懸賞金なんかも出しておったのう、懐かしいわい」
「ふーん。外の世界は物に溢れているとも聞いたが、意外とけちなんだな」
「はて?」
「だって、槌の子に懸賞金を掛けるなんて、どうせ飯を食われた腹いせなんだろう? 確かに、こいつの食欲は馬鹿にならないからな。でも、ダントウで鱈の目が一杯食べられる外の世界にしては、けち臭いやり方じゃないか」
なあ、と魔理沙は槌の子へと声を掛けて、その身体を抱きかかえた。
当の槌の子は、満足したようなゲップを吐いて、円らな瞳を眠そうに閉じた。飼い主である魔理沙の言葉にも、まるで反応していなかった。
随分と、現金な生き物だった。
「ご覧の通り、食うだけ食ったら寝るだけだよ。張り合いはないけど、まあそこそこ可愛いからな。森に放したのを、時々こうして面倒見ているんだ」
「ほう、ペットと言った割には、放任主義なんじゃな」
「まどろんでいる今は良いんだが、いびきが半端なくてね。おまけに、和食も洋食も見境のない大食漢なんだよ。私の家で飼うには、不都合が多過ぎる」
「なるほどのう。まあ、放任主義なのが良い場合もある。この森なら、寝る場所にも食う場所にも困ることはないじゃろうな。加えて、お主が飯を運んでいるのなら、不満らしい不満もないじゃろうて」
「もっと誉めてもいいんだぜ。なにせ私は、立派な普通の魔法使いだからな」
槌の子を優しく降ろして、魔理沙は笑った。
当の槌の子は、感謝の言葉など呟くこともなく、蔦を生やしながら森の奥へと消えていった。緑に紛れ込んだその後を追うのは、肉眼では難しかっただろう。にもかかわらず、魔理沙は得意げな眼差しで一点を見据えていた。
意外と、面倒見の良い人間である。
普段の人を食ったような様子からは想像できないほど、魔理沙は優しく笑っていた。
「しかし、ここだと問題もあるかのう」
「問題?」
眼鏡を取って、マミゾウは目頭を揉んだ。
緑が目に優しいというのは外の言葉だが、この森の緑は毒々しいほどに鮮やかだった。魔法の森とも呼ばれているだけあってか、人間どころか妖怪の類まで惑わしてしまうほどに、草木は生い茂っている。太古の森など幾度となく経験しているマミゾウにとっても、この森の緑は慣れなかった。
屋久島あたりを見習ってほしいものだ。
声には出さず、頭の中だけで愚痴をこぼして、眼鏡を掛けた。
「飼育する上では、この森には少々問題がある」
「だから何だよ、その問題って」
魔理沙の顔は不機嫌に歪んでいる。呟いた言葉にも、刺々しさが表れていた。
ころころと忙しない人間である。
宥めるように穏やかな視線を送りながら、マミゾウは続けた。
「番じゃよ」
「つがい?」
「ここには、あやつ以外の槌の子はおらんのかも知れん。お主の話では、元々は別の場所に暮らしておったみたいだからのう。もっとも、忘れ去られた者が集うと言われる、幻想郷のことじゃ。槌の子みたいな奴には、事欠かぬのかも知れんがのう」
気のない溜め息を、マミゾウはついた。
「そこが、気に掛かったかな」
「番なんて、そんなに気にすることか?」
眉間に皺を寄せながら、魔理沙はマミゾウの顔を覗き込んでいた。
金色の瞳は、納得しかねるように細められていた。
「別に、私は槌の子を繁殖させようとは、これっぽっちも思っていないぜ」
「飼う者の心構えとして、その発言は見過ごせぬのう」
訝しげな魔理沙の顔に、マミゾウは自身の顔をずずいと近寄らせる。
たったそれだけで魔理沙は強張ったように口を噤んだ。
「最期の時まで面倒を見るのが、飼うということではない」
眼鏡越しに、金色の視線を絡め取った。
「番も用意して、次の世代へと繋げていく。それが飼育じゃ、そのための土産も用意せずに、飼っていると自負するのは感心せぬのう」
「別に、考えていない訳じゃないぜ」
「おやおや、さっきは繁殖など考えてもおらぬと、そう聞いたのだがのう」
呵呵っと、マミゾウは笑った。
「飼育というのは、呪いのようなものじゃ」
「呪い?」
「己が生きている間、その者のことを面倒見ねばならぬ。そして、その者にも番を用意し、その者が亡き者となっても、子や孫を面倒見なければならない。世代を絶やしてはならぬということじゃ、なんと気の長い話であろうな。これを呪い、或いは呪縛と呼ばずして、他になんと呼ぶ?」
魔理沙は答えなかった。
お世辞にも綺麗とは言えない独特の言葉遣いも、すっかりその成りを潜めていた。マミゾウの言葉を反芻しているかのように、難しい顔で押し黙っている。金色の瞳だけが、落ち着きなく泳ごうとしては、マミゾウの視線から逃れられずにもがいていた。
少々言い過ぎたかな。
化かされたのに、それを反論もできない人間と同じ顔をしている魔理沙を見て、マミゾウは自分を諌めた。眼鏡越しに覗いていた視線を、そつなく外してやる。
それだけで魔理沙は、あからさまにほっとした表情を浮かべた。その様子があまりにも面白かったので、マミゾウは遠慮なく笑ってやった。
「まあ、そんな心構えも、最早古いのかも知れぬがのう。負担はなるたけ軽くと考えるのが世の習わしじゃ。誰だって徒に、あれやこれやと抱え込みたくはないものだからのう」
「いきなり説教食らうとは思いもしなかったぜ。やっぱり狸は碌なもんじゃないな」
「その言い方では、妖怪全般を指しているような気もするがのう。それに、お主のような無頼者なら、説教されるネタには事欠かないであろうな」
「酷な言い草だぜ」
「碌な者ではないのでのう、勘弁願うわい」
下駄を履いた足で、マミゾウはその身を翻した。
足場の悪い森であろうが、苦はなかった。伊達や酔狂を好むのが、無駄に長い時を生きる妖怪にとっての嗜みなのである。所謂、トレンディというやつだった。そしてマミゾウは、そんなトレンディを殊更好んでいる自分が、嫌いではない。
苔生した岩の上に、難なく降り立った。
それだけで、魔理沙との距離は十歩ほども開いた。マミゾウを見上げるその顔には、小馬鹿にするような笑みが浮かんでいた。
「言いたいことを言って、後は帰るだけか。さすがは人間より長く生きる妖怪狸だぜ。忙しい私なんかと違って、贅沢に生きていやがる」
「贅沢は余裕の表れ。加えて、人をからかうのは狸の性分じゃ」
「迷惑千万だぜ」
「お主の窃盗癖も、迷惑千万ではないのかな」
「借りているだけさ」
「小賢しいのう」
「狸にそう言われるとは、光栄だな」
魔理沙は、その場に留まろうとはしなかった。
マミゾウに向けてひらひら手を振ったかと思うと、こちらも足場の悪さなど手馴れたものであるかのように歩きはじめていた。兎のように、跳ねるかのような足捌きだった。こしゃまくれたこの少女には、そうやって歩く様はとてもよく似合っていた。
たったかと、倒れた木々を蹴る音が響いた。
「じゃあな」
「おお、またのう」
「または遠慮したいな、化かされるのは御免だ」
黒白の帽子が、危うげなく揺れている。
その後ろ姿が森の緑へ溶けるように消えるのに、さほどの時間は要さなかった。
蔦の塊は、とっくに見当たらなかった。
一人と一匹を見送ったマミゾウの目は、眠たげに細められていた。
◆◆◆
銃声の後に、一羽の鳥が降って来た。
薄い桃色を覗かせる見事な羽を、その鳥は力なく弛緩させていた。茂みの最中に横たわっており、確かめるまでもなく事切れていた。ぽつりと、鮮やかに赤く穿たれた点は、見事に急所を捉えている。一瞬のことだったろうなと、マミゾウは空でも眺めるように思った。
茂みを掻き分けて、猟銃を背負った影が現れた。
「失礼」
マミゾウへと一礼して、男は鳥へと近寄った。
背負った猟銃には似つかわしくない、黒を基調とした背広を着こなしていた。丁寧に撫で上げられた黒髪には、白いものが疎らに覗いている。
巌のような人間だと、マミゾウは思った。
「怪我はなかったですかな」
黒檀のような瞳が、マミゾウを見据える。
刻み込まれたように深い皺が、その顔をより厳しいものに見せていた。マミゾウへと掛けられた声にまで、重々しい張りが含まれていた。所謂、バリトンという声だった。
こういう人間は、意外と騙し易いか、或いは見た目どおり、騙す余地すら見つからないかの二択である。
わざとらしく肩をすくめながら、マミゾウは口を開いた。
「見ての通り、健康そのものじゃ。儂を狙ったと言うのなら、残念ながら失敗だのう」
「私は、妖怪退治で名を上げようと画策した訳ではない」
淡々とした手付きで、男は撃ち落とした鳥を処理していた。
「今晩の夕餉を、狙っていただけです」
どうやら男の辞書には、処世術のための笑顔という生易しいものは、記されていないらしい。撃ち落とした鳥を見下ろす横顔にも、誇るような感情などは露ほども滲んでいない。無慈悲なほどに、淡白な色合いしか浮かんでいなかった。
マミゾウの心に、燻りが芽生えた。
「なんじゃ、そんなに儂が恐ろしいのか」
茂みの上にどっかりと腰を下ろした。
「まあ儂のような古参の妖怪ともなれば、確かに中々上のものよ。恐れるのも畏まるのも、無理はないかも知れぬのう。そうやって縮まるのも、まあ人間風情には仕方のないことか。そうやって愛想もなく振舞って、なんとかこの場を切り抜けようと躍起になるのも、仕方がないのかのう」
「ふむ」
鳥を処理する手が止まった。
マミゾウへと向けられたその顔には、眉間に深々とした皺が刻み込まれている。しかし、見据えた黒檀の瞳には、静かな光が瞬いていた。
「そんなに、話し相手が欲しいのですかな」
「ばれたかのう」
後者か。
先程の二択を思い浮かべながら、マミゾウは苦笑した。
「猟銃など、久しく目にしていなかったのでな。ついつい、話し掛けたくなってしもうたわい」
「妖怪のように、空を飛ぶのは無理でしてね」
「だから猟銃か。しかし、その背広姿では構えるのも大変じゃろう。なにより、他の人間から変な目で見られる」
「慣れたものですよ。また旦那のテストかと、今では見向きもされない」
「テストとな」
「猟銃の試し撃ちです。扱う品に、不備などあってはいけませんので」
男は、軽く頭を下げた。
背広姿が頭下げるその様子は、外の世界でも親しんだものだった。しかし、その手に絶命した鳥を握っているところが、なんともミスマッチだった。
「人里で商いをしているのです。時折、こうして商品の具合を確かめています」
「なるほど、そのために鳥を狙い、撃ったと」
「おかしいですかな」
「引っ掛かるのう」
言葉とは裏腹に、マミゾウの声には咎めるような含みは一切なかった。
「猟銃の具合を確かめるだけなら、的でも撃てばよい。わざわざ、飛鳥など狙うのも面倒だろうて。ならば夕餉のためかとも思ったが、お主の格好や口振りから察するに、飯の種にはそれほど窮してはおらぬようじゃ」
「それほど観察されていたとは驚きですな」
「化け狸の性分じゃよ。人間を見定めるのには、年相応には慣れているつもりじゃ」
「ほう、狸とは」
「わざとらしいのう。最初から気付いておっただろう、尻尾は丸見えじゃ」
その尻尾で、傍らの茂みを掻き分け、整えた。
手招きすると、男は笑みの欠片もなく、しかし慇懃な一礼で応じた。背広姿にもかかわらず、躊躇することなく草々へと腰掛けた。見た目によらず柔軟なのか、見た目どおりに実直なのか、たぶん後者だろうなとマミゾウは思った。
傍らに置かれた、鳥へと視線を移した。
「それに、その鳥を夕餉にするのも珍しい」
虚空へと向けられた鳥の目は、童の落書きのようにくっきりとしていた。
マミゾウにとって、ひどく見覚えのある鳥だった。
「朱鷺など、そうそう食わぬ」
「毒もありませんから、度々食します」
「臭味に少々難がある」
懐に手を突っ込んで、マミゾウは男へと頭を下げた。
何事かを男が問い掛けるより先に、火鉢と煙管を引っ張り出した。火鉢など、明らかに懐に仕舞いこめるような大きさではなかったが、マミゾウにとってそんなことは造作もなかった。外の世界でも、長らく親しまれている初歩的な術である。青狸の四次元ポシェットだっただろうか、狸と術を掛け合わせているところが、なんとも嬉しい命名である。
黙々と、吸うための準備を進める。
男の柳眉がぴくりと動いたのを、マミゾウは見逃さなかった。
「良い煙管じゃろう」
これ見よがしに煙管を掲げて、マミゾウは笑った。
「一目惚れした逸品じゃ。値は張ったが、惚れた物こそ良い物だからのう。こいつのおかげで、一服が一層美味くなった。我ながら、良い買い物をしたもんじゃ」
煙管をくわえて、肺まで吸い込む。
何拍かの間を置いて吐き出された煙は、ゆらゆらと昇っていった。それを見ているだけで、肩から腰に掛けての余分な力が、ひゅるひゅると抜けていった。
「本当、良い代物じゃよ。儂のような妖怪にとって、こういうこだわりを感じさせるものは、それはそれは嬉しいものじゃ。最近は、妖怪連中の間でも禁煙ブームとかいう訳の分からん風潮が、出てきておってのう。もとより、喫煙など嗜好でしかないのじゃ。吸いたいなら吸って、吸いたくないなら吸わなければ良い。来る者拒まず、去る者追わずで充分だと、儂なんかは思うんだがのう」
「健康に差し支えるからでしょうな。ニコチンも、アルコールと同じく、積もれば毒となる」
「稗田の求聞史紀じゃな。アルコールが毒という言い回しは、毒舌な稗田らしい物言いじゃ」
「あなたのような方でも、すでに読まれていましたか」
「書物を嗜むのも嗜好じゃ。勉学にもなるが、まあ儂にとってはついでじゃのう。ついでに、幻想郷の妖怪や人間について見識を広げたわい。霧雨魔理沙なんかは、中々面白いことが記載されておったのう。実家とは、絶縁関係にあるとか」
男の柳眉が、またもやぴくりと動いた。
巌がぐらつくとは、こういうことを言うのだろうかと、マミゾウは思った。
「まさか一人であんな森に暮らしているとはのう。人間の娘一人には酷だろうに、やるわい」
「そんな大層なものではありません」
硬い声が、マミゾウの耳に届いた。
いつの間にか、男の口には煙草がくわえられていた。火を灯して、値踏みするかのように瞳を鋭く細めながら、長い時間を掛けて吸う。空を仰ぐ視線は、遠い思い出を苦々しく噛み潰しているかのようだった。
吐き出された紫煙は、マミゾウが吐いた煙と同じく昇っていき、溶けるように消えた。
「あの子は、意地を張っているだけです」
「その割には、心配しておるようだのう」
「曲がりなりにも――娘、ですから」
「連れ戻せるはずなのに、無理矢理には連れ戻そうとしておらぬ」
「負けん気の強い子です。私の言葉など、耳を貸そうともしない」
「朱鷺を手土産に、懐柔でもするつもりかのう」
「まさか」
かすかに首を振って、男は口だけで笑った。
諦めと信頼とが交ざった、いかにも人間臭い苦笑だった。
「先だって、久々に会いましてね。その時、気になっただけです」
「久し振りに会えば、そりゃあ気になることなど沢山あるじゃろうな」
「思ったより、あの子は背が伸びていなかった」
「ほう」
「ちゃんと食べているのか、とても気になった」
再び、煙草をくわえる。
今度は短い時間だけ吸って、煙が吐き出された。
「それだけですよ」
「その選択が朱鷺とは、いまいちじゃのう」
「冷え性などに効果があるとも窺いましたので。ならば、身体に悪いものではないだろうと。あの子には、もう少し滋養のある物に気を遣ってほしい」
「あの娘が、そうそう健康に気を遣うとも思えぬがな」
「だからこそ、こちらとしては頭が痛い」
「親の心子知らず、と言ったところかのう」
「そんな上等なものではありません」
男は、煙草を揉み消した。
空いた手に持った、小包のようなものに吸殻が放り込まれた。外の世界でも久しく目にしていない、携帯灰皿という代物だった。
「お互い、意地を張っているだけです」
「自らも意地を張っていると、そう認めているのは立派じゃのう」
「恐らく、事実ですから」
「なるほど。そんなところは、どうやら娘と似ておるみたいだのう」
「嬉しくない言葉だ」
「事実は苦いじゃろう」
「まさしく、苦い」
煙管を火鉢で叩いた。
すでに、紫煙は漂っていなかった。
「邪魔したのう」
自分の物を片して、マミゾウは立ち上がった。
横たわった鳥も、ついでのように手に取った。
「付き合ってくれた礼じゃ、こいつは儂が届けておくよ」
「その保障がありますかな」
見上げてくる黒檀の視線は、落ち着いていた。
「妖怪狸であるあなたが、わざわざ魔理沙に届けてくれるとは考えにくい」
「鶏や雉ならば考えたかも知れんのう、朱鷺など盗ってまで食いたくないわい。それに、実を言えばあの娘には、今日、偶然にも会っておったのじゃ。二刻ほど前だったかのう。再び会いたくなり、ついでに夕餉にでもありつきたいと考えるのは、まあ不自然ではなかろう」
「朱鷺など、大して美味くもないのに?」
「美味くはないが、食いたくなるのも性分じゃ」
だらりと垂れ下がった翼には、薄い桃色が覗いていた。
朱鷺色とも称されるその色が、マミゾウはあまり好きではなかった。夕焼けなどの華々しい色合いにこそ、興味を惹かれた。
「それに、お主への感謝もある。店で買った煙管は、今もこうして愛用しておるしのう。良い物を取り揃えてくれたことへの礼も、含ませてもらっておるよ」
「なるほど、しかしそもそも疑問が残る」
「聞きたいのう、興味がある」
「あなたの言い方では、私がまるで、魔理沙に会うのを躊躇っているかのようだ」
「おや、愚問じゃのう」
男の眉が、ぴくりと動いた。
厳しいその顔が、押し黙った魔理沙の仏頂面とよく似ていたので、マミゾウは思わず笑った。けけけという怪鳥の如き、笑い声を上げていた。
「お主と話せば、百人が百人、思うじゃろうて」
「不躾な言葉です」
「狸じゃからのう。狐のような小賢しさは苦手なんじゃ、堪忍せい」
幸い、笑いの発作はすぐに収まった。
手土産の鳥を肩に担いで、マミゾウは歩きはじめた。
「光栄ですな」
三歩ほど歩いてから、声が掛かった。
「佐渡の二ッ岩ほどの御方に、商品を誉められるとは」
「やっぱり気付いておったか」
「稗田の書物に記されるような御方は、どうあっても目に付きます」
「お主も食わせ物よのう」
「妖怪狸にそう言われるとは、光栄です」
「お主の娘も、そんなことを言っておったのう」
「……ふむ」
振り返ると、眉間に皺を寄せた店主と目が合った。
茂みの中に座り込んだ背広姿は、幻想郷には似つかわしくない厳しさを滲ませていた。黒と白とで纏められたその服装が、姦しい白黒の魔法使いと重なった。金瞳と黒瞳であり、年齢も相当離れているにも関わらず、愛想の欠片もないその仏頂面は、ひどく似通ったものだった。
親子だな。
口には出さずに、心の中だけに留めておいた。言ってしまえば、この男の顔はより一層険しいものとなっただろう。そして恐らく、あの黒白の魔法使いとて、同じように険しい仏頂面となって押し黙るに違いない。そんなところも似ているだろうなと、マミゾウは思った。
なので、何も言わず、鳥を担ぎ直した。
「またのう」
後ろ手に、手を振る。
振り返るようなことは、しなかった。
◆◆◆
「土産じゃ」
「また会うのは遠慮したいと言ったんだけどな」
「なら、こいつは儂だけで食わねばならん」
「朱鷺だろう。格別美味いものでもないし、それでも構わないぜ」
「生憎、それは出来ぬのじゃ」
「なんか頑なだな、狸にしては珍しい」
「こいつは、お主の親父さんから預かったものでのう」
途端に、魔理沙は眉間に皺を寄せた。
当たり前のように、浮かべた顔は父親そっくりの仏頂面だった。
「お主にこそ、渡さなければいかんのじゃ」
「ああそうかい」
「花の名前じゃのう」
「そのつもりで言ったわけじゃないんだがな」
「硬い声じゃのう、そんなところまで」
「そっくりって言いたいのか。生憎、私は普通の魔法使いだ。あんな草臥れたような親父と、一緒にしないでほしいものだぜ」
「ほっほっほ、意地の張り合いか」
「なんで笑うんだよ」
「面白いからのう」
「……ふんっ」
いかにも憤懣やるせないように、魔理沙は荒々しく鼻息をついた。
息を吐いたことで、可愛らしい小鼻がぴくりと動いていた。マミゾウを見つめる金色の視線には、ありありと含まれた不機嫌な棘の中に、値踏みするかのような光が小さく瞬いていた。父親によく似た視線だったが、マミゾウはそれを指摘しなかった。さすがに、このまま叩き出されるのは勘弁願いたかった。
がちゃりと、扉がゆっくりと開かれた。
「まあ、朱鷺も久しく食べてないからな」
微笑ましい言い訳に溢れた言葉が、マミゾウを迎えた。
招かれた家の中は凄惨なほどに散らかっていたが、魔理沙は難なく奥へと進んでいった。面食らったマミゾウだったが、気を取り直して後を追った。
「私の家にはじめて入った奴は、皆そんな顔をするんだよな」
テーブルの上を片付けながら、魔理沙は言った。
それが一段落すると、今度は来客用の椅子を引っ張り出すのに四苦八苦していた。散らかった物が多すぎて、椅子を動かすことすら儘ならない状況だった。仕方なく、手を貸そうとすると、魔理沙に止められた。曰く、他人に弄くられるのは好きじゃないとのことだった。
埃で白く埋もれた本を見ながら、マミゾウは嘆息した。
「この状況では、他人の介入も微々たるものにしか見えぬがのう」
「人間には自分の領分があって自分の秩序があるんだよ。自分の部屋では、それが殊更顕著だ。よく言うだろう。鍵はそこ、耳かきはそこって、決めた場所があるっていうのは。そんな普通の人間の例に漏れず、普通の魔法使いの私にも、自分の領分や秩序があるんだよ」
「それがこのざまである、と」
「しつこいなあ、別にいいだろ。住んでいる私が、困っている訳ではないんだし」
マミゾウの椅子が用意されたのは、十分ほど経ってからだった。
幸い、マミゾウは埃に対して、極々普通の免疫を備えていた。外の世界では、埃によって著しい鼻炎に苛まれる病があると、聞いたことがあった。そんな病気にかかった者にとって、この家は牢獄以外の何物でもなかっただろう。或いは、下手な監獄などよりよっぽど暮らし辛いかも知れない。
よくもまあ、こんな場所に一人で暮らしているものだ。
感心微々、呆れ大半の溜め息を、マミゾウは惜し気もなく吐き出した。
「これでは心配になるのも無理はないかのう」
「なんだよ、いきなり」
エプロンを着けた魔理沙が、怪訝な顔をした。
「誰が心配するっているんだよ。さっきも言ったが、私は困っていることなんてないぜ」
「お主の親父さんじゃよ」
また魔理沙は仏頂面となったが、マミゾウは口を止めなかった。
「あの堅物そうな人間が、娘のこんな住まいを見て安心できるはずないわい」
「随分、親父の肩を持った言い草だな」
「さすがに、このありさまでは同意の念も禁じ得ぬわい」
「何度も言うがな、私は」
「お主は困ってないんじゃろう。しかしのう、これだけ無茶苦茶な暮らし振りでは、困ってないと本人が言ったところで、心配が止むはずなかろうて」
机の上を指でなぞり、眼鏡越しに見下ろす。
案の定、指の腹には拭い切れていない埃が溜まっていた。息を吹きかけても飛ばなかったので、強く振るって叩き落とした。性悪な姑のようだとも思ったが、心の中だけで流しておいた。
「お主、改めるつもりは」
「わざわざ聞くことか、それ」
「必要もなかったな」
「お前が何度も使っていただろう、性分ってやつだよ、性分」
自分の椅子に帽子を投げつけながら、魔理沙はふんすと鼻息を鳴らした。
黒白の帽子は、狙い澄ましたように帽子の背もたれに被さった。
癖っ毛の強い金髪は、この少女の姦しさを表しているかのように波打っていた。主の一挙動すべてに合わせて、溌剌と揺れている。そんな金髪の動きだけで、いかに魔理沙が父親への反抗心を強く抱いているのかを、理解できるかのようだった。
思えば、父親の黒い髪とは、どこまでも相反していた。
表情一つ一つは似通っているのになと、マミゾウは思った。
「朱鷺を持って来たのは、親父の差し金だったな」
「仕留めたところに出くわしてのう。当の本人が、いかにも会いにくそうに見えたので、引き受けたのじゃ」
「十年くらい、ずっと会ってなかったからな」
「稗田の書物では、そう読んだのう」
「最近になって、向こうから急に押しかけて来たんだよ」
鳥の亡骸を手に取って、魔理沙は奥へと行ってしまった。
恐らく、台所にでも向かったのだろう。マミゾウが夕餉にありつくつもりなのは、魔理沙とて察しているに違いなかった。一旦、話しを切り上げたつもりで、マミゾウは腰掛けた椅子へと、深くもたれ掛かった。
「墓参りのことを伝えに、いきなりな。さすがに、あの時は面食らったぜ」
予想に反して、奥から声が届いた。
不機嫌そうなその声音には、しかしながら語りたがっている饒舌さが滲んでいた。聞いているという意思表示も込めて、マミゾウが大きめの相槌を打つと、次の言葉はすぐに飛んできた。
「それからだよ。親父が、やたらと食べ物を送るようになったのは。親父が自分で来たことは、ほとんどないんだけどな。飯に誘われたのも、そんなにはない。でも人を使って、食べ物は送ってくるんだよ。大体が香霖だったな、阿求や慧音が持ってきたことも、何度かあった。最近は落ち着いたが、多い時は週に一度くらいのペースで送ってきたんだぜ。さすがに処理にも困ったから、その時は店に顔を出して直接言ったんだ。意外とすんなり聞いてくれたんで、助かったよ。腐らせるのも悪いからな」
話し出したら、止められない性質なのだろう。つらつらと流れるように、魔理沙の声は飛んできた。話し始めに滲んでいた不機嫌さは、段々と成りを潜めていき、照れ臭さそうな嬉しさが飛び交っていた。
適度に相槌を打ちながら、まんま子供のようだとマミゾウは思った。
口うるさい親のことを愚痴としてこぼし、その実は奥底にくすぐったいものを湛えている。そんな声からは、この霧雨魔理沙という少女の、ひねくれながらも真っ直ぐな部分が、これでもかと感じられた。迂闊に放ってはおけない愛らしさのようなものが、ありありと滲んでいた。
魔理沙の言葉が本当なら、あの厳しい父親は最近になって、この娘と再会したことになる。
世話を焼きたくなるのも、分かるような気がした。
実の娘ならば尚更である。
「お互い、素直ではないのう」
「なにか言ったか?」
「いや、なにも」
どうやら口走ってしまったらしい。
自分の失態を取り繕うように、マミゾウは笑った。奥から顔を覗かせていた魔理沙は怪訝な顔をしていたが、すぐにその顔を引っ込ませた。まだ、料理は出来上がっていないようである。
魔理沙の声も届かなくなったので、マミゾウは部屋を見回した。
お世辞にも、人が住む場所には見えなかった。
久々に会いに来てこの内装では、さすがに目を疑ったことだろう。厳しく、なにより自分の商品をその手で点検しているほどの、人間のことだ。身の回りなどに気を配っていることも、充分予想がついた。そんな人間が、自分の娘がこんな有り様で暮らしていると知ったなら、果たしてどんな顔をしたことだろう。
思索に耽りながら、マミゾウは苦笑した。
脳裏で、黒の背広姿と黒白の魔法使いを並べてみる。
真っ先に浮かんだのは、二人の表情だった。互いに、そっくりな仏頂面で立っていた。似通っているのはそれだけだったのに、疑いなく親子だと思えた。そんな親子の間には、意地の張り合いこそが最も似合っていると、マミゾウは思った。
「なに笑っているんだよ」
大きな鍋を抱えるように持って、魔理沙は怪訝な顔をした。
「人の家の散らかり具合がそんなに面白いか。趣味の悪い狸だぜ」
「おお、散らかっているのは自覚しておったか」
「散々、嫌味やら皮肉やらを言われているからな」
「親父さんは、そんなものでは済まなかったろう?」
「まあ、な」
口元を歪めて、魔理沙は笑った。
歯を見せたその笑みは、苦虫を噛み潰したかのように険しかった。
「これでも、親父が来た時には掃除したんだぜ」
どっしりと、机の上に大鍋が置かれた。
ただそれだけなのに、魔理沙の言葉を否定するかのように、机の足元で埃が舞った。必要なのは掃除ではなく撤去だなと、マミゾウは内心だけで嘆息した。
湯気を上げる鍋の中身は、赤く染まっていた。
朱鷺ならば、やはり鍋である。
赤い脂の浮いた様は、お世辞にも美味そうには思えなかった。朱鷺汁とも呼ばれる鍋の中身からは、いかにも動物らしい生臭さが漂っていた。滋養強壮に良いとされる理由も、なんとはなしに理解できた。
「懐かしいのう」
「この生臭さがか?」
「全部じゃな。人間に混じって食ったことも、昨日のように覚えておる。最近では、とんとお目に掛かっておらんからのう」
「鱈の目が一杯ある外の世界なら、それも当然か。美味いものに事欠かないなら、わざわざ朱鷺を食べる必要もないもんな。味自体は悪くないんだが、いかんせんこの臭みに慣れていないと、ちょっと食い辛いぜ」
「まあ、そういう訳でもないんだがのう」
マミゾウへとお椀を手渡した魔理沙が、首を傾げた。
言葉の意味が飲み込めなかったのか、次の言葉を待っているようにこちらを見つめていた。それを諭すように手のひらを見せながら、マミゾウは朱鷺汁をお椀へと装った。湯気にあわせて、独特の匂いが立ち昇った。
「最近、朱鷺は食えぬのじゃ」
「食えないのか、あんなに空を飛んでいるのに」
「此処では飛んでおるということじゃ。外の世界では、見ることも少ない」
「ああ、それはつまり」
「いただきます」
手を合わせて、マミゾウは呟いた。
「いただきます」
慌てたように、魔理沙も続いた。
お椀に口をつけて、まずは汁だけを含んだ。口の中に、あの独特の臭みと、それに連なるような旨味が広がっていった。久しく経験していないその味に、マミゾウはそっと目を閉じた。
こうして口にしたのは、果たして何年振りだろうか。
記憶の中の味より若干薄いと、マミゾウは思った。あの濃厚な旨味は、幻想郷よりもっと遠いところへ、渡ってしまったのかも知れない。
奇妙な感慨に襲われた。
喋ることもなく、朱鷺の肉やネギなどを頬張っていく。
「儂の住んでいる所は、佐渡じゃ」
大鍋を粗方平らげてから、マミゾウはぽつりと口にした。
朱鷺汁を、なるべく魔理沙に行き渡るよう努めたつもりだったが、思った以上に口にしていた。口の中には、独特の獣臭さが、なおも強く残っていた。
懐かしさは、誰彼構わず酔わせてくる。
「佐渡では朱鷺を飼育しておってのう」
「外の世界では、居なくなったんじゃないのか?」
「多くはない。それでも、飼育されておる」
故郷の風景、慣れ親しんだ景色が瞼に起こされる。
鍋をつつく間、片時も外さなかった眼鏡を、マミゾウは外した。分厚いレンズが机の上に置かれて、硬い音を立てた。
「良い場所じゃ、幻想郷は」
「いざ住んでいると、よく分からないけどな」
「空気は美味いし、妖怪も跋扈しておる。人前でも尻尾を隠さなくてよいのは、やっぱり気楽じゃのう」
「人間には迷惑だぜ」
「久々の朱鷺鍋は、それなりに美味かった。懐かしい物を頂けたのは、幻想郷ならではじゃな」
「私が料理したからだ、そこを忘れてもらったら困る」
「お主の親父さんが仕留めたことも、忘れてはいかんぞ」
「……分かっているよ」
「ほっほっほ、良い心掛けじゃ」
笑いながら、マミゾウは目頭を強く揉んだ。
そうすることで、瞼が勝手に閉じて、視界が真っ暗になる。その中で浮かび上がった佐渡の空には、少ないながらも朱鷺が飛んでいた。あまり好きではない桃色の翼を羽ばたかせながら、水田へと降り立っていた。
朱鷺の瞳は、嫌でも目に付くほどにくっきりとしている。
童の落書きのように、くりっと覗いていた。愛嬌があるとは、到底思えなかった。
「しかし、気に食わぬこともある」
目を開けた。
こちらを見つめる魔理沙と、目が合った。
「此処に朱鷺は要らん」
眼鏡を掛けると、ぼんやりとした魔理沙の顔が、はっきりと映った。
怪訝そうな顔をしていたので、苦笑した。
「出来れば、幻想郷の空から朱鷺が消えてほしいと、儂は願っておる」
懐から煙管を取り出す。
雁首が鈍い光を湛えており、絵にも描けない風情を醸し出していた。なおも怪訝な顔をしている魔理沙を尻目に、今度は火鉢を取り出す。机に置くと、またもや足元で埃が舞った。
「日本産の朱鷺は絶滅した」
かすかに仰け反った魔理沙など気にせず、マミゾウは煙管をくわえた。
肺まで吸い込み、ふぅっと吐き出した。
「今は大陸産の朱鷺を飼育しておる」
「そいつは、初耳だな」
「難航もしておるが、それでも徐々にその数は増えておるようじゃ。野生での繁殖に成功したとも聞いたのう。儂などが言えたことでもないが、恐らく、並大抵の苦労ではなかったはずじゃ」
紫煙がゆんなり漂うのを、マミゾウは見つめた。
朱鷺の羽ばたきと、どこか似ているように見えた。
「飼育というのは難しい。それはなにも、朱鷺に限ったことではない。命を絶やさず、増やしては面倒を見ての繰り返しじゃ。充実感を得られればよいが、魔が差すように虚無感を覚えることとて、時にはあるじゃろう。あれはこれはと世話をして、時には試みが空振りに終わることもある。にもかかわらず、相手は動物じゃ。好き勝手に食っては眠り、感謝を示すこともない。人間ではその意思を読み取ることも難しい、言葉が通じないのだから当たり前じゃな。餌を食い、糞尿を垂れ流し、時には牙をも剥いてくる。慣れ親しんでくる動物など、ほんの一部じゃ。大抵は、我が物顔でのさばっておる。そんな動物どもを見て、飼育する側も時折は虚しさを覚えると、儂なんかは思うのじゃ。張り合いがないのは、やり辛いからのう」
「動物園のことを言っているのか?」
「飼育するということ全般じゃよ。勿論、お主の言う動物園のことも、含まれておるがのう。そうそう、少し付け加えておくとじゃ。まだ幼き童が、捕まえた虫を籠に放り込んで、禄に面倒も見ないまま死なせてしまうことがあるじゃろう。お主には、そういう経験はないかのう」
「キノコなら、色々と試したんだがなあ」
頭を振った魔理沙にあわせて、長い金髪が揺れた。
「今の私が覚えているのは、あの槌の子くらいだな。ペットにしたのは」
「なるほど。童が虫を飼うことについてじゃが、あれを飼育と呼ぶのは儂は賛成しかねるのう。あれは他の命を学ぶ勉学であり、飼育とはまた趣が違うのじゃ。獣とて、同じようなことを行う。生きたままの獲物を、我が子の前で解き放ち、捕らえることを学ばせるのじゃ。そうやって他種を、他の命を学ばせる。仰向けに硬くなった虫、冷たく横たわった獣、そういった命なき亡骸を見て、はじめて他の命を意識できるのじゃ。ある種、残酷な勉学ではあるが、生きる上では必要不可欠なことじゃな」
「人間と獣を一緒にするのは、私は賛成しかねるな。奪った命に対して、獣は思いを馳せないが、物好きな人間は思いを馳せるぜ。もっとも、妖怪にまで思いを馳せるほどの物好きは、そうそう居ないかも知れないがな」
「辛辣じゃのう」
「普通の人間なんでね」
肩をすくめて、魔理沙は笑った。
その態度に呆れた溜め息が漏れそうになったが、結局は紫煙として吐き出した。頼りなく漂った煙が、マミゾウの眼前を昇った。
「その延長線上が、蔓延しておる」
「子供が虫を飼うことか?」
「虫にしろ獣にしろ、結局は子孫を存続させることが目的じゃ。それを鑑みず、一世代で終わらせることで、満足する事例が増えておる。意思が理解できないのに満足してしまうのは、驕りだと儂は思っておる。いくら大切に扱おうとも、それは飼育とは呼べぬ。あえて言うなら、囲っているに過ぎないのう」
「囲っている?」
「女人をこっそり養うことを、そう例えるのじゃ」
魔理沙は鼻白んだ様子だった。
初々しいその表情に、マミゾウの口から笑みがこぼれた。
「なんじゃ、知らんかったのか」
「別にいいだろ、聞いたこともなかったんだし」
「反応が初々しかったのでのう。よいものが見られたわい」
「やめろよ、なんで笑うんだよ」
「面白かったのでのう。面白いのう」
けけけと怪鳥のようにマミゾウは笑った。勿論、からかうつもりで笑った。
案の定、魔理沙はぶすりとした仏頂面で押し黙った。それがまた面白かったので、マミゾウは一頻り、声を上げて笑ってやった。
「……だから、佐渡の空、ひいては外の世界の空にこそ朱鷺は相応しいと、儂は思っておる」
程なくして笑いの発作は収まった。
煙管の雁首を、火鉢で叩いた。気を取り直したつもりだった。
「儂は素直に感心しておるし、誇りを持っておるのじゃ。佐渡の朱鷺は、人間たちの並大抵ではない苦労が結んだものだと、僭越ながら思っておるよ」
「人間を誉めるなんて、妖怪の癖に変な奴だな」
「変わっておるのは自覚しておるよ。なにせ、未だに外の世界なんぞに居座っておるからのう。此処の奴らから見れば、明らかに変わり者じゃろうて」
「命蓮寺も迷惑そうにしているからな」
「ほっほっほ、憎まれっ子世に憚るからのう。現に、お主も息災にしておるわい」
鮮やかに、魔理沙は目を剥いた。
突然、自分のことへと話題を振られ、明らかに色めきたっていた。
「大事にされておるのう。週に一度とは、随分と過保護なことじゃ。余程、心配だったのであろうな」
「十年くらい、放っておかれたぜ」
「その十年の反動にしては、大人しくも思えるか。お主があんまりにも元気そうだったから、逆に安心したのかも知れぬ」
「親父のことなんて知らないよ」
ぷいっと、魔理沙はそっぽを向いた。
「大体、私は育てられた、それこそ飼育されたなんて、これっぽっちも思ってないぜ」
「飼育されている側も、同じく思っておらぬだろうな。媚びるように親しくなるものなど、ほんの一部じゃ」
「さっきも言ったが」
「人間と獣を一緒にするのは賛成しかねる、かのう?」
釘を刺されたかのように、魔理沙は口をへの字に曲げた。
図星だったようである。
「まあ、種を存続させるというのも、儂の勝手な私見じゃ。産めよ増やせよとして、子や孫の面倒まで見切れなくなることもあるからのう。本末転倒じゃ。飼うこと、育てること、即ち飼育というものには、はなから正解など無いのかも知れぬ。もとより、これ正解と言えるものは、世の中には意外と少ないからのう」
「あれだけ長々と説いて、結局はそれかよ」
「歳を取ると、どうしても話が長くなるわい」
「言い訳がましいぜ」
「狸だからのう。狐のように小賢しくなく、人間様ほど利口ではない」
「つまり、誰よりも図太く厚かましいって訳だな。良い迷惑だ」
魔理沙の言葉に、マミゾウは笑い返しただけだった。
図太く厚かましい。
自分のような古狸にとって、ひどく相応しい言葉に聞こえた。言い得て妙だと、マミゾウは感心した。
「おかげで、夕餉は親父の朱鷺を食う羽目になったし、お前の長々とした講釈に付き合う羽目にもなった。まったく、妖怪ってのは図々しいものだが、狸は殊更だな」
「嫌だったかのう」
「説教は嫌いだぜ」
「親父さんの土産は?」
「……変な感じだ」
渋い顔で、魔理沙は椅子にもたれ掛かった。
「霊夢と食った朱鷺鍋より、美味いとも思えたし、苦いとも思えた」
「詩的じゃのう、親父さんはここには居らぬというのに」
「苦手なんだよ」
ぽつりと、魔理沙は呟いた。
懐かしさの篭もった、溜め息のような声だった。
マミゾウが目を細めたのに気付くと、小さな魔理沙の身体が椅子ごと揺れた。どうやら、口にするつもりはなかったらしい。視線を泳がせた魔理沙の口から、かすかな後悔を孕んだ舌打ちが、小さく聞こえた。
背もたれに掛けた帽子を、押し付けるように魔理沙は被った。目深に被ったことで、鼻から上はすっぽりと隠れてしまった。
言い辛そうにむずむずと動いた唇は、マミゾウにも見えていた。
「……言うなよ」
聞き取りづらい声だった。
「誰にも、言うなよ」
「親父さんが苦手、ということかのう」
「知られたくないんだよ。特に、霊夢なんかには絶対に、知られたくない」
「人間の子供としては、至って普通の反応だと思うが」
「だって、十年だぜ」
目深に被った帽子を、魔理沙は取った。そのまま、抱きかかえるように腿の上へと乗せた。
若干、八の字に下がった眉が、いかにも気弱そうに見えた。
「十年ぶりに会ったんだ。親父だって老けていた。皺や白髪も増えていたし、背だって随分と小さく見えた。まあ、追い越してはいかなかったけど」
「だが、それでも苦手だと」
「相変わらず頑固だし。私のやることについても厳しいし。口を開けば、うるさいことばっかり言うし。そりゃあ、私だって反論しようとしたけど、どうにもな」
「言い返せぬと、そういう訳じゃな」
「恥ずかしいじゃないか」
金瞳の視線が、照れ隠しのように伏せられる。
「未だに、親父に面と向かって言われると、強く言い返せないんだ。蛇に睨まれた蛙みたいに、言い返せなくなるんだ。その度に、今度こそ言い返してやろうって思うんだぜ。思うけど」
「まあ、駄目なんじゃな」
「……うん」
こくりと、小さく魔理沙は頷いた。
波打った長い金髪が、主の気持ちを表しているかのように、力なく揺れた。
「それって、すごく恥ずかしいことじゃないか。こうして一人で暮らしているのに、未だに親父の苦手意識に引っ張られているなんて。会っても、上手く話なんて出来ないし。自分でも何を言っていいのか、分からなくなるし。これじゃあ、聞き分けの悪い、ただのガキみたいだ」
魔理沙の表情は、沈んでいた。
普段の霧雨魔理沙を知る者ならば、恐らく相当驚いたことだろう。闊達とハイカラに塗れているのがお似合いなこの少女は、普段の自信など失せてしまったかのような顔で、唇を弱々しく噛んでいた。俯いた二つの瞳は、姦しい金色さえ色褪せたかのような静けさで、一点を凝視していた。
ゆっくりとした動きで、マミゾウは煙管をくわえる。
吸い込み、吐き出した紫煙は苦々しく、そして美味かった。
「果報者じゃのう」
「えっ」
「お主の親父さんじゃよ」
弾かれたように、魔理沙は顔を上げた。さも意外だと言わんばかりに、目を剥いていた。
「父親として、それだけ娘に意識してもらえるのじゃ。果報者に違いないわい」
「別に、私は」
「構わぬ。お主は、今のままでも構わんよ」
からかうような笑みを、マミゾウは欠片も浮かべなかった。
浮かべようなどとは、微塵も思わなかった。
「そのもどかしさも、いずれは変わる。心配せずとも、いつかは父親にも好き勝手に話せるようになるわい。むしろ、そのもどかしさを大切にして欲しいと、儂なんかは思うがのう」
「恥ずかしいだけだぜ、こんなの」
「いずれ、それすら懐かしく思える」
再び、煙管をくわえて紫煙を吐き出す。
今度の煙は、苦いだけだった。
「羨ましいのう。本当に、羨ましい」
「意味が分からないぜ。私はただ、自分が情けなく思えるだけだ」
「庇には、意外と気付けぬものじゃよ。それでよい」
「分からないな」
難しい顔で、魔理沙は頭を振った。
「今の私には分からない」
「ならば、そんなお主に、この佐渡の二ッ岩からアドヴァイスじゃ」
「アドバイスだな」
「うむ。お主、さっき言っておったな、親父さんの背が低く見えたが、それでも自分は追い越せていなかったと」
「悪いか、私はこれから大きくなるんだよ、これから」
「親父さんも、それを願っておるみたいだのう」
首を傾げた魔理沙の顔が、いよいよ難しいものとなった。
そんな魔理沙の初々しさが、ひどく眩しく思えた。決して届かない、得難くなった大切な物を見る目で、マミゾウは微笑んだ。
「思ったより、背が伸びていなかった」
「……親父がそう言ったのか」
「あまり嬉しそうではないのう」
「負けた気がするんだよ」
「なるほど。だが、お主自身が思った以上に、親父さんは気になったのだろうな」
「どういう意味だよ」
「ちゃんと食べているのか、とても気になった――親父さんの言葉じゃ」
雁首で火鉢を叩いた。まだ吸い足りないなとマミゾウは思った。
これだけ吸いたくなったのは、久々だった。
「食べ物を週に一度送るというのも、かなり気を遣ったのだろう。稗田の書物にも大きく載ってしまったお主が、自分と会いづらいと思っているのは、親父さんとて分かっていたはずじゃ。娘の健康も気になるが、体裁も気になったということじゃのう。もっとも、あの親父さん本人が、今も後ろめたさに引き摺られていることは、充分考えられるが」
「親父が?」
「十年経てば、森羅万象全てが大きく変わるわい。そんな十年に、親父さんは親父さんなりに責任を感じているのじゃろう。思ったよりも、背が伸びていない――自分が面倒を見なかったからだと、重石のようにじわじわと自分を省みるのには、そんな気掛かりだけで充分じゃ」
「親父が、私のことで、責任を?」
「飼育は難しいと儂は言った。呪縛のようなものだとも言った」
火種がなくなったので、再び吸う準備をする。
昂ぶり過ぎないための紫煙こそを、マミゾウは只管、欲していた。
「だがそれも、ひとたび軌道に乗ってしまえば、大抵は日々の繰り返しじゃ。日常にエッセンスを垂らすような、そんな感じじゃな。これも確かに難しいが、それでも決して不可能なことではない。慣れてしまえば、さほどでもないだろう。むしろ儂は、それ以上に飼育を難しくしているものがあると、思っている」
「……なんだよ、それは」
「分からぬか」
煙管を、くわえる寸前で止めた。
「心じゃよ」
「は?」
「想いとも呼べるかのう。この際だから、繁殖如何は抜きにしておこうか。とにかく、何かを飼う際には、ほとんどは思うところがあって飼うものじゃ。この場合は、人間で説明するのが一番分かりやすいかのう。可愛いと思ったり、一緒に住みたいと願ったり、あの日をもう一度と懐かしさに駆られたりと、その思惑は様々じゃ。お主は、槌の子を飼う際になにを思った?」
「可愛いかな。お前が言った、その中だと」
「朱鷺の飼育をはじめた人間たちは、かつての景色を取り戻すことを願ったからだと、儂は勝手に思っている」
ようやくくわえた煙管を、マミゾウは軽く齧った。
パイプのようだと、なんとはなしに思った。
「飼われる側は、どうあっても生き物であるから、好き勝手に振舞う。この振舞いは、なにも迷惑な行為ばかりではない。時には機嫌も悪くなるし、勿論、機嫌が良くなることもある。時折、飼う側に感謝の意を示すこととてあるだろう。気まぐれと思うかも知れぬが、それが生き物じゃ。等しく、静かだったり姦しかったりする者など、居るはずもない。飼われる側にも心があり、心の動きがあるのじゃ」
「槌の子は、私に感謝の意を示したことなんてないぜ」
「満足げに眠ったではないか。その前には、太った腹でごろごろと転がっていただろう。あれほど心に正直なのも、生き物ならではじゃ。もしかしたら、その内本当に、何かしらの形でお主に恩返しをするかも知れぬ。飼い始めたばかりなら、まだ分からぬわい。なにより、お主、槌の子を見て笑っていたではないか。あの姿に愛くるしさを感じていたのは、事実だろう」
「それは、確かにそうだけど」
「愛くるしさは、愛情へと転じる」
たゆたう紫煙を見つめながら、マミゾウは続けた。
「言葉を交わさぬ獣にも、愛情を抱く。それがなければ飼う側として失格じゃ。だがその愛情、引いては心の動きが厄介でのう。飼われる側の振舞いで取り返しのつかない事態になれば、愛情は憎悪へと動く。飼われる側が無感動に暮らしているだけでは、愛情は焦燥へと動く。飼われる側が居なくなってしまえば、愛情は悲哀へと動く。飼われる側の一挙動で、愛情はどこにでも移り変わってしまうのじゃ。困難を極めた朱鷺の飼育は、凄まじかったと聞いている。詳しい経緯は伏せるが、そこにも様々な心の動き、想いがあったことだろう。儂などでは、関わった人間の心中を代弁することも、憚られるわい」
長い溜め息を、マミゾウはついた。
歳を取ると話が長くなる。
それは別に構わなかったが、さすがにこれだけ喋っていると、若干の疲れを感じた。
「儂が、飼育を難しいと言ったのは、これがあるからじゃ。呪縛のように、飼う側の心を揺籃のように、いつまでも揺り動かしてくる。それはなにも、辛く哀しいことばかりではなく、喜ばしいことがあるのも事実じゃ。あの槌の子のように満足げに眠ってくれれば、お主とて嬉しいだろう」
「悪い気は、しないよな」
「だが、次に会った時にその背が著しく縮んでいたら、お主はどう思う」
「どうって」
「痛々しいほどの怪我を負っていたなら、どう思う。いきなり嘔吐して、今日の肉まんが飛び出してきたなら、どう思う。普段ならば居るはずの場所に居らず、堪らず探し始めた矢先に冷たくなった槌の子を見つけたら」
「やめろよ!」
机の上の物が、大きく揺れた。
手のひらを叩きつけて立ち上がった魔理沙の顔は、怒気に溢れていた。
「さすがに怒るぞ、妖怪狸」
「すまぬ。失言だったな」
非礼を詫びて、マミゾウは頭を下げた。
それでも魔理沙は睨み付けていたが、溜め息とともに椅子へと座り込んだのに、それほどの時間は要さなかった。
「言い過ぎたわい、酷な言葉だったな」
「おかげで、ひどく心配になってきたよ」
「うむ。その心こそが、何かを飼う上では一番厄介だと、儂は思っておる」
「……あ」
合点がいったように、魔理沙は目をかすかに見開かせた。
マミゾウは煙管をくわえ直して、小さく頷く。
「それがあるから、儂にはとても出来ぬよ」
言ってから、一服、吸った。
煙は、苦くも美味くもなく、胸の奥にじんわりと沁みた。
「言葉の通じぬ生き物とて、それほど心が動かされる。これが、言葉を交わす人間同士なら、果たして如何ほどのものか。己の意思をはっきりと示す、己の想いを言葉としてぶつけてくる者に、心揺さぶられぬ訳がない。無論、言葉があるからこそ、獣と人間との付き合いと同等にしてしまうのは無粋じゃ。しかし、その言葉こそが、これまた心を動かす要因となる。愛情も、焦燥も、悲哀も、言葉として飛んで来るのだからのう。お主の親父さんは、一体どれほど心を動かされたことか。儂には、これも代弁することは、憚られるわい」
「まさか。あの親父が、そんなに取り乱すはずがない」
「人間、情に脆いものじゃ。どれほど取り繕ったとて、それは変わるまい。これは長年、人間といがみ合ってきた古狸としての意見じゃな。一方には強情なら、もう一方から押してやれば、ころりと転げおる。意地を張り合っているお主だからこそ、親父さんもそうそう、転げ落ちぬのじゃろう。先程、親父さんを果報者とも思ったがのう。そういう意味では、お主相手には中々素直にもなり切れぬのだろう。十年という歳月も、罪なものじゃ」
口から煙管を離す。
その切っ先を、魔理沙に向けた。
「お主も、思い切って素直になっては、どうかのう」
「私は、自分に正直なつもりだぜ」
「素直というのは、時として正直とは反対を向くこともある。存外、素直に生きるのは難しいものじゃ。しかし、それもお主なら、切欠さえあれば出来るだろう。お主は真っ直ぐだし、人の話も意外とすんなり聞く節がある」
「誉められているのか貶されているのか、よく分からないな」
「誉めておるよ、間違いなく」
戸惑う魔理沙の顔を見ながら、マミゾウは微笑んだ。
「お主ほど真っ直ぐな奴は、今時ほとんどおらぬ。十年ぶりに会った親父さんも、嬉しく思ったことだろう」
「別に、そんなに」
「親父さんから貰った食い物の話しをした時、お主の声はとても嬉しそうに聞こえた。実際、嬉しかったのじゃろう? 十年ぶりに訪ねられて、真っ向から反対されて否定されると思っていたのに、そんなことはなかった。魔法の森で、魔法の研究を行うことを許された。それどころか、こうして時折、食べ物を送ってきてくれている。親父さんはのう、お主が滋養のあるものを食べているかどうか、気になっていると言っておった。正直な答えだが、素直ではないのう。本当は、娘を精一杯応援しておるのじゃ。滋養のあるものを食べて、身体を丈夫にし、これからも頑張ってほしいと願っておるのじゃよ。そしてお主も、それには薄々勘付いておる。親父さんから認められていることに、自覚せぬほどに勘付いておるのじゃ。だから、あんなに嬉しそうに話しておったのだろう」
「……なんでそんなに、私の家事情に詳しいんだよ」
「稗田の書物と、お主や親父さんの話から察すれば、造作もないわい」
「やっぱり、とんだ食わせ物だな、古狸って」
「で、どうなのじゃ」
「それは」
抱え持った大き目の帽子が、ぎゅっと握り締められる。
ほのかに赤く染まった顔で、魔理沙はぽそぽそと話しはじめた。
「まあ、嬉しかったよ、そりゃあ」
その頬は、むずむずと恥じるように動いていた。
朱鷺色のように染まっていると、マミゾウは思った。
「親父に認められたみたいで、嬉しかった。いけないか?」
「素晴らしいことだと、儂は思う」
「うん、嬉しかった」
「今でも、嬉しいんじゃろう?」
「……うん」
こくりと、かすかに金髪が揺れた。
「嬉しいよ。今でも」
「ならば、それを伝えればいい」
「えっ」
「そのまま、そっくり。それが無理なら、今の自分に出来る言い方で、伝えればいいのじゃ。直接でなくとも、手紙という方法もあるが、お主ならむしろ直接の方が性に合っているかのう」
「待てよ、私はそんな」
「難しく考えなくともよい」
硬い音が鳴った。
雁首を火鉢に叩きつけて、マミゾウは目を細めた。煙はもう充分だと、思った。
「お主らしく、やればよい」
煙管を、火鉢に掛けるように置いた。
それだけを言って、マミゾウはこの日何度目かの、長い溜め息をついた。
仰いだ天井は、所々に雨漏りの痕跡が見て取れた。普通なら気付くこともないものだが、几帳面そうな身なりをした、あの父親のことである。恐らく、訪問の際に気付いたことだろう。そして、そんな場所で娘が暮らしていることを嘆いただろうし、同時に、それでも娘が十年もの歳月を無事で過ごしていたことに嬉しくなっただろう。親とはそんなものであると、マミゾウは考えていた。長い時を過ごしたなら、何でもない風景の移ろいに胸が熱くなる。
朱鷺色の羽が、脳裏をよぎった。
あまり好きではないはずのその色が、ひどく懐かしいものに思えた。
「私らしくか」
魔理沙の声は、快活なものではなかった。
決意と戸惑いとが混ざる、曖昧な感情を孕んだ視線と、ぶつかった。
「それが、お前のアドバイスなのか、狸」
「まさしく。この佐渡の二ッ岩のアドヴァイスじゃのう」
「長く引っ張った割には、随分と素っ気無いアドバイスなんだな」
「シンプルイズベストじゃ」
「日本語を話せ、此処は幻想郷だぜ?」
「生憎、心まで――想いまでも幻想郷に染まったつもりは、毛頭ないのでのう」
眼鏡を直し、マミゾウは決然と言った。
「誇りある佐渡にこそ、この二ッ岩マミゾウの心はある。だから儂は、佐渡の二ッ岩を名乗り続けておる。朱鷺は佐渡の空こそ、外の世界こそと、今でも願っておる。これを改めるつもりは、今のところないわい」
「本当、変な妖怪だな」
「此処に暮らしている妖怪に比べれば、明らかに変わり者だとは、自負しておるからのう。魔法使いでありながら人間でもある、お主のような変わり者とは、似たようなものだわい」
「言ってくれるぜ」
「事実だからのう、事実は苦いだろう?」
「まさしく、そうかも知れないな」
帽子を被り直しながら、魔理沙は笑った。
気弱にも聞こえかねない言葉とは裏腹に、その笑みは歯を見せるほどに、快活だった。
「確かに、苦い」
「親父さんも、事実は苦いと認めておったよ」
「そっか」
天井を見上げて、魔理沙は深い溜め息をついた。
憂うような響きはなく、どこか嬉しそうに聞こえた。細められた金色の瞳は、恐らく天井そのものを見つめている訳ではないのだろう。胸のつっかえが取れたかのように、口元には清々しい微笑みが浮かんでいた。
「古狸」
「なんじゃ」
「明日にでも、槌の子を連れて行くことにするよ。大きな商いをしている親父なら、何か知っているかもしれない。餌とかについても詳しく知りたいし、他の槌の子のことを知っているなら、それも聞いておきたい。一人は気楽だけど、やっぱり友達くらいは居ないと、寂しいもんな」
「よい心掛けじゃ」
「私だって、霊夢の所に遊びに行くからな」
机に肘をつき、魔理沙は頬杖をついた。
照れ臭さから染まった頬は、やはり朱鷺色のように見えた。
「親父になんて言うかは、その時に決めるよ」
「行き当たりばったりじゃな」
「私らしいだろ?」
「お主がそれでよいと思うなら、儂は何も言わぬよ」
「私のやり方だ、文句なんて言わせないぜ」
それだけを言って、魔理沙は大きく呵呵と笑った。
釣られるように、マミゾウも笑った。
◆◆◆
鮮やかな黄金色の三日月を仰いで、マミゾウは小さく息をついた。
「やはり、此処の夜は濃過ぎるのう」
緑の青臭さが、鼻をくすぐる。
夜を薫らせるそれは、久しく経験していないものだった。何百年と流れる中で、喪われてしまったものである。太古の気配を色濃く息衝かせる夜気は、妖怪であるこの身体を昂ぶらせるのには、充分な代物だった。
だからこそ、性に合わない。
「儂は、もっと薄味でよいわい」
からからと下駄を鳴らしながら、纏わりつく夜気を振り払う。
太古の塵芥をそのままに、文化の馨りが息巻いていた。幻想郷は、閉鎖された最中で独自の文化を発展させていったと、稗田の書物には載っていた。実際、こちらで久々に目にした妖怪たちは、そうだと気付かぬほどにハイカラな変わり様だった。着々と時代に則って変化していた自分が、まるで取り残されたかのような気分を味わったのは、マミゾウの密かな悩みだった。
だと言うのに、鼻をくすぶる夜気は、太古の気配をこれでもかと孕んでいる。
贅沢だなと、マミゾウは思った。
「儂は、もっと質素でよいわい」
派手なもの、傾いたものは好きだったが、それでも贅沢だと思った。
懐かしさを抱きながら、同時に新しきものをも発展させている。前向きな姿勢こそが、幻想郷の様相だとマミゾウは感じていた。それこそが、此処に住まう妖怪たちの目指すものなのだと、なんとはなしに理解していた。過去に浸りながら、未来を思い描く。理想的とも呼べる環境が、幻想郷には存在していた。
だからこそ、性に合わない。
のんびりと胡坐をかく方が、自分の性に合っていた。
「どれ」
一声上げて、二回、拍手をする。
夜闇から滲むように、古びた鳥居が現れた。木造の小さな鳥居は、所々が朽ちており、今にも倒壊してしまいそうな雰囲気を醸し出していた。ハイカラな幻想郷には、どうあっても似つかわしくない代物だった。
こちらの方が、よっぽど風情がある。
鳥居の柱に触れながら、マミゾウはかすかに笑った。節くれ立った木製の柱は、思ったとおりの手触りをしていた。ともすれば、ささくれが刺さってしまいそうなほどに、荒削りな柱であった。
労うように、優しい手付きで摩った。
朱鷺が空を舞うことを願い、喪われた景色をもう一度と願う、人間たちの想いが重なった。
佐渡の空にこそ、朱鷺は相応しい。
出会って間もない人間に、内心を吐露してしまったことを思い出した。おおよそ、幻想郷に住まう者たちでは考えもしない自分の想いを、よりにもよって幻想郷の住人に話してしまった。朱鷺鍋の懐かしさに、佐渡の二ッ岩である自分が酔わされてしまった。
まだまだ若いなと、マミゾウは自嘲した。
「さて」
鳥居を一息で潜り、振り返った。
たったそれだけのことで、大気は一変した。
「またのう」
飼うことは難しい。
なにせ、飼われる側にとって環境が一変してしまうのである。触れ合う者、食事など、明らかに分かるものばかりではない。薫る空気、啄む水の一滴とて、気付く者には無視できないほどの、違和感を抱かせる。それくらい、大きな差が出てくる。
だからこそ、幻想郷は理想的だった。
隅々まで満たす大気は、その端々まで太古の様相を残していた。
マミゾウの周りに、すでにそれは薫ってすらいない。掴み取れそうなほどに濃密な夜闇は、萎れたように薄弱なものへと成り代わっていた。見上げれば、三日月の黄金色もくすんでいる。木々のざわめきすら、物静かになっていた。
だからこそ、性に合った。
飼われるならばこちらがよいと、マミゾウは思った。
佐渡の景色が脳裏をよぎる。
蛇の飼育について、得意げに話す子供が居た。
すでに、その背はマミゾウを越えているはずである。記憶が確かなら、西の京でその筋について、専門的に扱っているとも聞いた。小さい頃から、神社へと足繁く通っていたことから、印象に残っていた。西へと赴き、顔を見せてやるのも面白いかも知れない。向こうは、化かされたと驚くかも知れないが、むしろそれがいいだろうとマミゾウは思った。化かすことこそ、狸にとっての存在意義である。所謂、アイデンティティというやつだった。
そのついでに、さらに西、狸の国へと足を伸ばすのもいいかも知れない。
槌の子の標本という、いかにもな代物を探しに行くのも、悪くないだろう。佐渡の二ッ岩という肩書きから、要らぬ世話を受けることも考えられるから、少し慎重に行くのが利口である。こういう時、この尻尾が煩わしいなと、マミゾウはほんの少し恨めしく思った。
西の京、西の狸の国。
悪くない旅程である。美味いものには事欠かないだろう。
しかし、それよりもまず先に。
脳裏によぎった、佐渡の景色こそ気に掛かった。
「またのう」
もう一度だけ、鳥居の向こう側へと呼び掛けてから、踵を返した。
後ろ手に、手を振る。
振り返るようなことは、しなかった。
飼われ育った佐渡の景色を、一刻も早く、この目で見たくなった。
良いお話でした
理想郷とは一体何か、深く考えさせられました。
もっとマミゾウさんの話増えないかなあ…
番をどうするかが問題だ。
この魔理沙はいいね。悩める活発な乙女って感じで、共感もできる。
それがマミゾウの古狸っぷりを引き立てていて、よく合ってる。鎚の子可愛い。
マミゾウさんマジおばあちゃん。尻尾もふらせて下さい。
こういう霧雨の親父さんは
あまり見たことはなかったから新鮮ですね
地の文がスッと飲み込めない部分が少々ありましたけど
全体としてわりと楽しめました
飼育云々は読んでる最中はそれっぽいなぁと感心しつつ
読了後になってこじつけくさい違和感に気づいて、けどまぁ狸に化かされたならいいや、という感じで
やっぱり面白かったです
マミゾウさん素敵すぎる・・・
そして台無しの後書きwww
魔理沙とマミゾウ、この二人だからこその話と思えました。
俺、アリスの番に立候補します!
いや、実に良い
背伸びしてる少女の魔理沙を爽やかに書きながら
マミゾウがまた良い味出してる
バカみてぇな自然一敬。人間はダメだ。というありがちな話ではなく
その全てを見た上での大人の物言いの。前向きで素敵だね、実に。
面白かったです。マミさんと親父さんが良い味出してる