――0――
夏真っ盛り。燦々と照る陽光は、一度死んで蘇った身体にも堪えるようだと、布都は額に浮かんだ汗を袖でぐいっと拭った。けれど次から次へと汗が噴き出て来て、それが目に入ってくると自然に涙が出てくる。それも拭うと、やっと目的地が見えてきて安堵から胸を撫で下ろした。
「やっと、着いたか……。思ったよりも時間が経ってしまったな」
あまりの暑さに、独りごちる声に力はなかった。覗き込む先はどこまでも暗い。けれど陽光から逃れられたとしてもさほど楽は出来ないだろうと、地底への入り口を俯瞰して大きく息を吐いた。
縦穴から吹き上がる空気は、生ぬるい。底も見えないほど深い穴なのに地上付近で生ぬるいのなら、その底はどれほど暑いのか。夏の旧灼熱地獄は、その名のとおり灼けつくほどに暑いのだろう。
「うぬぬ。しかし、蘇我に見くびられたままでは、この物部、太子様に合わせる顔が無い!」
ええいっ、と一息。布都は縦穴に身を躍らせる。その顔は、凛々しい決意の表情とはお世辞にも言えないほど、引きつっていた。
ふとふりむくは
――1――
そもそもの始まりは、屠自古の一言だった。
『肝試しという風習がある。なんでも、魑魅魍魎の巣に飛び込みその地の物を持って帰ってくる事で勇気が試されるそうだ。ああ、いやすまない。臆病者の物部に言っても仕方がなかったな』
こんな言葉に乗せられて、気が付けば一人旧地獄に向かっていた。反論よりも先に行動に移そうとするのは美点かも知れないが、乗せられた感は否めない。布都は敢えて深く考えないようにしながら、弾幕を張ってぶつかりそうな岩やゾンビフェアリーを片付けていく。
空気はだんだんと熱くなり、必然、汗の量も増える。拭っても拭っても止まることはないそれが何度も目に入ると、流石に視界がぼやけてきた。
「うう、何故このような目に……」
布都はそう、思わず弱音を吐く。
ただでさえ布都は、夏があまり好きではなかった。炎天下の中、着物は蒸れるし遭遇したくない黒光りする虫は出るし、寝苦しいしと良い所など一つも無い。その上で灼熱地獄に足を運ぶなど、布都にとっては拷問だった。
けれど、それでも、布都には引けない理由があった。
霊廟からいざ出発しようとしたとき、偶然出て来た敬愛する太子様に、布都は宣言したのだ。
『この物部布都、必ずや太子様に相応しい“勇気”を示しましょうぞ!』
その後の、神子の言葉は覚えていない。聞く前に勢いよく飛び出してきたからだ。けれど、一度だけ振り返ったとき、神子が確かに頷いていたことだけはわかっている。
ならば、布都は逃げない。神子との誓いが、諦めようとしていた布都を突き動かした。
「ええい、待っていて下さい、太子様! この物部布都、このようなことで折れはしないのだと必ず証明して見せましょうぞ!」
気合いを一つ。涙なんかに負けないと、ぎゅっと目を瞑る。もう、その目に諦念はなかった。だが。
目を瞑るというその行動が、影から迫る茶色い“桶”を布都の意識から外してしまった。
「あだっ?!」
パコンッと小気味の良い音を立てて、布都の額に衝撃が走る。思わず目を開けて見ると、縦穴に大きな桶が浮いていた。
「ぬ、物の怪かっぶ?!」
更に一撃。桶の中から飛んで来た“何か”が布都の額、それも打ったばかりの場所にクリティカルヒット。涙目になりながらも、布都は努めて冷静に下手人を見る。
「我が名は物部ふみゅっ!」
一発。
「ええい、名乗らせたっ!」
二発。
「ちょ、まふっ」
三発。
最早臆面もなく涙を流す布都の中で、何かが切れる。
「ええいもう許しておけん! その首掻き切ってやろうぞ!」
諸手を挙げて追いかけ始める布都と、その異常な様子を感じて逃げる桶。奇妙な鬼ごっこが、始まった。
――2――
布都から逃げた“桶”は、岩陰でふぅと息を吐いた。侵入者への警告と、軽い悪戯。その程度の心持ちで攻撃を仕掛けたのだが、生憎と相手はそれで尻尾を巻いて逃げ出すような妖怪ではなかったようだ。
けれど、慌てて逃げ出してみれば、思ったよりも布都の足が遅かったおかげでこうして逃げ切ることが出来た。
「……」
念のため、左右を確認する。けれどやはり、周囲に人影は無い。桶は安心すると、そっと岩陰から出て行こうとした。だが。
「見ぃぃつぅぅぅけぇぇたぁぁぞぉぉッ!!」
「っ!」
岩の上から覗き込む、憤怒の表情を浮かべた阿修羅、もとい布都。その姿を確認するや否や、桶は慌てて逃げ出した。
「ま、待て! くっ、ぜぇ、ぜぇ」
息を切らして追いかけてくる布都に、桶は何度でも逃げられると確信する。ついでだからこいしの一つでも投げて憂さ晴らしをしてから逃げてやろうと思いついた桶は、布都から引き離して、直ぐに振り向いた。桶――の中から石を投げて、当たる位置を確認する。
「ふ、ふふっ、ここであったが百年目! 先程の焼き回しになると思うわないことだな!」
桶は、そんな布都の言葉に“嫌な予感”を覚えると、小石を投げ出して再び逃げる。けれど、その背を布都が見逃す道理はなかった。
「天符【天の磐舟よ天へ昇れ】!」
「っ?!」
それは、舟だった。
木で出来た舟が、地底のごつごつとした岩肌の上を“泳いで”来る。その異常な光景に目を瞠ると、桶は慌てて逃げ出した。
もう、桶に有利な物など地の利くらいしかない。けれど、布都も疲れているのか、上手く舟を操縦出来ないでいた。
一進一退。互いに引けを取らない鬼ごっこが、再開した。
それでも最初のうちは余裕で逃げていた桶だったが、どうやら怒りの力に満ちた布都には敵わなかったようだ。
追いかけ回して半日ほど経ったころ。旧地獄の人口太陽も落ちた暗がりで、布都は桶を追い詰める。
「よく、にげ、た、な。ふふ、どうやら引き分けのようだ」
体力を使い果たして、同時に怒りも切れたようだ。肩で息をしながらも、布都は爽やかな笑みを浮かべる。桶はそんな彼女の自己完結を見て思うところがあったのか、始めて顔を出した。
「ぬ。それがそなたの本当の姿か。うむ、昨日の敵は今日の友という、水に流そう」
桶の妖怪はこくんと頷くと、小声で「キスメ」とだけ名乗った。
「うむ。物部布都だ。よろしく」
しかしキスメはそれに返すことなく、ただ何かを手渡しする。布都がそれを受け取るのを確認すると、彼女はどこかへ逃げてしまった。
「照れ屋だったか」
どこか気恥ずかしい思いを抱えながら、布都は渡されたものを見る。
「ひゃっ」
けれど直ぐに、それを落としてしまった。
「うぬぅ、悪戯された……か?」
地面に転がる“白骨”を見て、布都はため息を吐く。
そして、持って帰る訳にもいかないそれに目を落し、今日一日のことをどう屠自古に言い訳しようか憂鬱な心持ちで想像し、布都はとぼとぼと引き返した。
――了――
夏真っ盛り。燦々と照る陽光は、一度死んで蘇った身体にも堪えるようだと、布都は額に浮かんだ汗を袖でぐいっと拭った。けれど次から次へと汗が噴き出て来て、それが目に入ってくると自然に涙が出てくる。それも拭うと、やっと目的地が見えてきて安堵から胸を撫で下ろした。
「やっと、着いたか……。思ったよりも時間が経ってしまったな」
あまりの暑さに、独りごちる声に力はなかった。覗き込む先はどこまでも暗い。けれど陽光から逃れられたとしてもさほど楽は出来ないだろうと、地底への入り口を俯瞰して大きく息を吐いた。
縦穴から吹き上がる空気は、生ぬるい。底も見えないほど深い穴なのに地上付近で生ぬるいのなら、その底はどれほど暑いのか。夏の旧灼熱地獄は、その名のとおり灼けつくほどに暑いのだろう。
「うぬぬ。しかし、蘇我に見くびられたままでは、この物部、太子様に合わせる顔が無い!」
ええいっ、と一息。布都は縦穴に身を躍らせる。その顔は、凛々しい決意の表情とはお世辞にも言えないほど、引きつっていた。
ふとふりむくは
――1――
そもそもの始まりは、屠自古の一言だった。
『肝試しという風習がある。なんでも、魑魅魍魎の巣に飛び込みその地の物を持って帰ってくる事で勇気が試されるそうだ。ああ、いやすまない。臆病者の物部に言っても仕方がなかったな』
こんな言葉に乗せられて、気が付けば一人旧地獄に向かっていた。反論よりも先に行動に移そうとするのは美点かも知れないが、乗せられた感は否めない。布都は敢えて深く考えないようにしながら、弾幕を張ってぶつかりそうな岩やゾンビフェアリーを片付けていく。
空気はだんだんと熱くなり、必然、汗の量も増える。拭っても拭っても止まることはないそれが何度も目に入ると、流石に視界がぼやけてきた。
「うう、何故このような目に……」
布都はそう、思わず弱音を吐く。
ただでさえ布都は、夏があまり好きではなかった。炎天下の中、着物は蒸れるし遭遇したくない黒光りする虫は出るし、寝苦しいしと良い所など一つも無い。その上で灼熱地獄に足を運ぶなど、布都にとっては拷問だった。
けれど、それでも、布都には引けない理由があった。
霊廟からいざ出発しようとしたとき、偶然出て来た敬愛する太子様に、布都は宣言したのだ。
『この物部布都、必ずや太子様に相応しい“勇気”を示しましょうぞ!』
その後の、神子の言葉は覚えていない。聞く前に勢いよく飛び出してきたからだ。けれど、一度だけ振り返ったとき、神子が確かに頷いていたことだけはわかっている。
ならば、布都は逃げない。神子との誓いが、諦めようとしていた布都を突き動かした。
「ええい、待っていて下さい、太子様! この物部布都、このようなことで折れはしないのだと必ず証明して見せましょうぞ!」
気合いを一つ。涙なんかに負けないと、ぎゅっと目を瞑る。もう、その目に諦念はなかった。だが。
目を瞑るというその行動が、影から迫る茶色い“桶”を布都の意識から外してしまった。
「あだっ?!」
パコンッと小気味の良い音を立てて、布都の額に衝撃が走る。思わず目を開けて見ると、縦穴に大きな桶が浮いていた。
「ぬ、物の怪かっぶ?!」
更に一撃。桶の中から飛んで来た“何か”が布都の額、それも打ったばかりの場所にクリティカルヒット。涙目になりながらも、布都は努めて冷静に下手人を見る。
「我が名は物部ふみゅっ!」
一発。
「ええい、名乗らせたっ!」
二発。
「ちょ、まふっ」
三発。
最早臆面もなく涙を流す布都の中で、何かが切れる。
「ええいもう許しておけん! その首掻き切ってやろうぞ!」
諸手を挙げて追いかけ始める布都と、その異常な様子を感じて逃げる桶。奇妙な鬼ごっこが、始まった。
――2――
布都から逃げた“桶”は、岩陰でふぅと息を吐いた。侵入者への警告と、軽い悪戯。その程度の心持ちで攻撃を仕掛けたのだが、生憎と相手はそれで尻尾を巻いて逃げ出すような妖怪ではなかったようだ。
けれど、慌てて逃げ出してみれば、思ったよりも布都の足が遅かったおかげでこうして逃げ切ることが出来た。
「……」
念のため、左右を確認する。けれどやはり、周囲に人影は無い。桶は安心すると、そっと岩陰から出て行こうとした。だが。
「見ぃぃつぅぅぅけぇぇたぁぁぞぉぉッ!!」
「っ!」
岩の上から覗き込む、憤怒の表情を浮かべた阿修羅、もとい布都。その姿を確認するや否や、桶は慌てて逃げ出した。
「ま、待て! くっ、ぜぇ、ぜぇ」
息を切らして追いかけてくる布都に、桶は何度でも逃げられると確信する。ついでだからこいしの一つでも投げて憂さ晴らしをしてから逃げてやろうと思いついた桶は、布都から引き離して、直ぐに振り向いた。桶――の中から石を投げて、当たる位置を確認する。
「ふ、ふふっ、ここであったが百年目! 先程の焼き回しになると思うわないことだな!」
桶は、そんな布都の言葉に“嫌な予感”を覚えると、小石を投げ出して再び逃げる。けれど、その背を布都が見逃す道理はなかった。
「天符【天の磐舟よ天へ昇れ】!」
「っ?!」
それは、舟だった。
木で出来た舟が、地底のごつごつとした岩肌の上を“泳いで”来る。その異常な光景に目を瞠ると、桶は慌てて逃げ出した。
もう、桶に有利な物など地の利くらいしかない。けれど、布都も疲れているのか、上手く舟を操縦出来ないでいた。
一進一退。互いに引けを取らない鬼ごっこが、再開した。
それでも最初のうちは余裕で逃げていた桶だったが、どうやら怒りの力に満ちた布都には敵わなかったようだ。
追いかけ回して半日ほど経ったころ。旧地獄の人口太陽も落ちた暗がりで、布都は桶を追い詰める。
「よく、にげ、た、な。ふふ、どうやら引き分けのようだ」
体力を使い果たして、同時に怒りも切れたようだ。肩で息をしながらも、布都は爽やかな笑みを浮かべる。桶はそんな彼女の自己完結を見て思うところがあったのか、始めて顔を出した。
「ぬ。それがそなたの本当の姿か。うむ、昨日の敵は今日の友という、水に流そう」
桶の妖怪はこくんと頷くと、小声で「キスメ」とだけ名乗った。
「うむ。物部布都だ。よろしく」
しかしキスメはそれに返すことなく、ただ何かを手渡しする。布都がそれを受け取るのを確認すると、彼女はどこかへ逃げてしまった。
「照れ屋だったか」
どこか気恥ずかしい思いを抱えながら、布都は渡されたものを見る。
「ひゃっ」
けれど直ぐに、それを落としてしまった。
「うぬぅ、悪戯された……か?」
地面に転がる“白骨”を見て、布都はため息を吐く。
そして、持って帰る訳にもいかないそれに目を落し、今日一日のことをどう屠自古に言い訳しようか憂鬱な心持ちで想像し、布都はとぼとぼと引き返した。
――了――
それにしても作者さん、最近小出しだけど力でもためてんの?
布都ちゃん可愛いなぁ、と思っていたら最後でゾワッときた