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この日のために必死にお小遣いを稼いだ甲斐があった、と村紗水蜜は思った。
「報酬は確かに受け取ったわ。破けたりしたら無償で修繕するけど、大切にしてあげてね」
無言でうなずく、なんども、なんども。視線は手元に釘づけだ。幻想郷は、こんなところにも在ったのだ……!
「まさに匠のお仕事」
「いやね。ちょっと練習すれば、誰にだって出来るわよ」
ちょいと訓練しただけで誰にでも縫えるものなら、とっくに私は同じものを千個は作っていただろう、と思った。そして、コレで部屋を埋め尽くして私だけのハーレムを築くのだ。毎朝ひとつひとつに「おはよう」と云ってやり、毎晩「おやすみ」のキスをおでこに見舞ってやるのだ、想像するだけでご飯が三杯はイケる。
それは、ぬいぐるみだった。いや、“ぬえぐるみ”だった。
ぎゅっと抱きしめたら気持ち好さそうな、そんな手頃なサイズ、そして絶妙な手触り。最高級の生地で練り上げた餅のごとき感触に、もう二度とは手放せないんじゃないかと思われた。
デフォルメされた顔の造形も見事だ。ほっぺは桃色のフェルトで化粧されて可愛らしい。無垢な笑顔はトーチカを砲撃する艦砲射撃のごとく母性を刺激し、今にも鈴のような声で「むらしゃ」と呼びかけてきそうだった。そんな舌足らずな美声で呼びかけられた日にゃ、文字通りの意味で昇天しちまいそうだ。悪くない最期に思えた。
服装にも手は抜かれていない。アクセントの赤いリボンは実物よりも広く胸元を占領していて、これがまた幼さと可愛らしさを強調している。黒真珠のごとく真っ黒なニーソックスはもちろん、左手首のリストバンドや裾の辺りの渦巻き紋様も完備している。当たり前というか常識というか世界の共通理解というか、絶対領域だって完璧だ。匠の技に隙はなかった。
背中の二色三対の羽も愛らしい。赤い鎌状の羽はちゃんと穴が空いているし、青い矢印状の羽は先端の付け根が丸くなっており、さりげなくハート型になっている。更によく見ると、右腕にはきちんと緑色の蛇が巻きついているし、いつも「治んぬぇ」と悩んでいた癖っ毛まで再現されている。後ろ髪はテーマパークの滑り台かと見紛う、鮮やかなカーブを描いていた。
早い話が、完璧だった、何もかもが完璧だった。
「マジやっべぇ、ずっきゅんマイハート・キタコレ……!」
「それはありがと。あまり強く抱きしめたら駄目よ。壊れちゃうから」
忠告を受けて慌てて両手の力を緩める。もっちりとお腹が元の大きさに膨らむ。陽が沈むまで頬ずりしたい。
「あぁ……ありがとうございます、アリスさん」
アリス・マーガトロイドは風船のように、ふわりと笑った。
「こっちだって貰うものは貰ってるわ。礼なんか要らないわよ」
「そんな、ほんと予想以上の出来ばえで、驚きました」
手の震えが止まらぬ。
「顧客の笑顔を見るのも楽しみのひとつだからね。気合と愛情は込めたつもり」
水蜜は深呼吸した。えへへ、ムラムラでぬえぬえしちまうぜ……。
「一応、警告はしておくけど」
と、アリスは紅茶をすすりながら云った。もう片方の手で一枚の写真をひらひらと振る。
「これは世間では“犯罪”って云うの。本人に見つかったらエラいことになるわよ」
そこにはモデル提供のために撮影した、ぬえの寝姿が写っていた。外から遊んで帰ってきて、服もロクに着替えずに泥のように眠った夜のことだ。文字通り幽霊のごとく忍び寄って、違法改造した消音カメラで撮った。ついでに寝顔のアップも残しておいた。手持ぶさたになった時、タンスの引き出しの奥から取り出してニヤニヤするのが最近の日課だった。
アリスを安心させるために、ちっちっと指を振ってやる。
「それなら大丈夫。ぬえですから」
「ごめんなさい、意味が分からない」
「あいつは無類のイタズラ好き。しょっちゅう迷惑を被ってるんです。なら、私だってぬえぬえにイタズラする権利はあるはずです」
「“やられたらやりかえす”の論理は不毛よ。お化けの学校じゃ歴史は習わないのかしら?」
ぬえぐるみのほっぺを引っ張りながら、えへへと笑った。
「試験も何にもないからね。船を効果的に沈める授業は、オールナイトであったけど」
「……そう」
と云ったきり、アリスは紅茶を呑む作業に専念したようだった。水蜜も「ぬえぬえ〜」と呼びかけながら、ほっぺにキスの雨を降らせた。
「――あ、ちょっと待って」
礼を云って辞そうとすると、人形遣いは呼び止めてきた。
奥から何やらを取り出すと、大事そうに手渡してくる。
「これって」
「そうよ、時間が余ったから、片手間に作ったの」
自分のぬいぐるみを目の前にするのは、なんだか変な気分だった。もちろん、出来は好い。水兵帽から赤いスカーフ、アンカーに柄杓と揃っている。けれど、ぬえのと比べると、その可愛らしさは偽物に思えた、ブランドのバッグのパチモンみたいに。あるいは私がパチモンなのかもしれない、と思った。少なくとも、私の目は、こんな澄んだエメラルドグリーンではなかったはずだ。水底を思わせる、暗い暗い海の色でなければならないはずだった。
「……悪いけど、これは受け取れない」
アリスは驚いた風もなく、首を十五度くらい傾けた。
「気に入ってもらえなかったかしら?」
「だって、わたし、こんなに可愛くない」
七色の魔法使いは、綿雲がそよ風に吹かれるように笑った。自分には決して出来そうにない笑い方だった。
「あなたは、可愛いわ。私が保証する。そうでなきゃ作らないもの。“自分に自信を持って”なんて流石に云わないけれど、等身大のあなたを認めてあげても、きっとバチは当たらないわ」
胸に微かな疼きがあった。真冬に握りしめたカイロのように、それは温かな疼きだった。
「どうしても置いとけないなら、その子に渡してあげれば好いじゃない。きっと喜ぶわよ、いえ、必ずね」
アリスは確信めいて云った。まるでお姉さんのようだ、と水蜜は思った。こんな美しくて優しい少女が、どうして人里離れた辺鄙な森に住んでいるのか、不思議な話だった。
水蜜はアリスの瞳を見つめ返した。この好意を裏切ってはならない、と思った。
私が気に入ろうが、気に入るまいが、すでにこの人形は生を受けて、誰かに愛されるのを待っているのだから。
水底で身を沈めている名も無き貝のように、じっと息を潜めて。
封獣ぬえが人里へ涼みに出かけたのは、好く晴れた昼下がりのことであった。
「いやぁ、暑いのぅ。瓦で卵が焼けそうじゃの」
と親友は下駄を鳴らしながら、手を額に当ててひさしを作っていた。
「混んでなきゃ好いけどね……ぬぅー、早く食べたいよう」
目指すは氷屋である。夏になると、シロップをたっぷりとふりかけたかき氷を出してくれるのだ。「氷」の赤字を染め抜いた暖簾 を見るだけで、心に空色の風が吹いたように感じる。楽しい風だ。それは潮風のように思い出の香りを運んでくれる。
「うむ、楽しみじゃ。今週の新作シロップは期待できそうじゃしの」
実験用のゲテモノ味と、正統派のステキ味を交互に見舞ってきた氷屋、今週は後者のご登場だ。ストロベリークリーム味のシロップに、ぬえは病みつきになっていた。マミゾウは抹茶アイス味がお気に入りのようだった。近くの菓子屋と連携して味の開発に取り組んでいるという。進取の気性に富んだ姿勢には、里の内外を問わず人気が高い。寺に取材にきた天狗の新聞に載ったこともある。
先週は“夕張メロン味”と偽った衝撃のゴーヤ味でヒーヒー云わされただけに、今週の期待は嫌でも高まっていた。
そんな折、腐れ縁の背中を見つけたのは、靴屋のショーケースの前であった。
ぬえは「ぬふふ」と笑って旧友の裾を引っ張った。マミゾウもその少女に気づいて、唇を歪めて「むふふ」と笑った。これは面白いことになったぞ、という表情は万国で共通の代物、すなわち“悪いこと考えてる顔”である。
忍び足で近づいて、海よりも広いと思える背中を、ごつんっと叩いてやった。
「ふ〜じ〜わらっ!」
「ぬぇんッ!?」
藤原妹紅は飛び上がって、危うく正面のガラスをSWAT隊員よろしく突き破りそうになった。
ほうじゅう、と唇だけ動かして、妹紅は背中をウィンドウに貼りつけて両腕を広げた。別に隠さなくても好いのに、と思った。
「なーに? 藤原もオシャレしたいお年頃ってやつ?」
「ず、随分と遅い思春期じゃない――って、そうじゃなくて!」
と続けようとしてから、妹紅はぐっと口をつぐんだ。こちらを見つめる視線が、何度も逸らされては、またUターンして戻ってきた。蜘蛛の巣から抜け出そうともがく蝶々に見えなくもない。
「おうおう、可愛らしい靴じゃないかね」
いつの間にか回り込んでいたマミゾウが、ショーケースを覗き込んで云った。悠々と海中を泳ぎ回るサメのように、尻尾が左右に揺れていた。
「じゃが、おぬしにはちぃーっとばかり、サイズが小さいんじゃないかえ?」
「くぁwせdrftgyふじこlp――!」
蓬莱人は泡を吹き出しながら、化け狸を押しのける。その拍子に、ぬえの目にも見えた。赤い靴だ。真っ赤な靴だ。足の甲の部分に、アクセントの花が咲いていた。でも身勝手な自己主張はしていない。場の空気を読むのに長けた宴会の幹事のように、その花は靴の可愛らしさを際立たせるために咲いていた。真珠を散りばめた陳列の仕方にもセンスが光っていた。埃っぽい往来に面しているからこそ、その赤い靴は輝いて見えた。砂漠の真ん中に咲いた、可憐なサボテンの花だ。
「へぇ、藤原って、けっこう派手なのが好きなんだね、意外」
そう云ってやると、妹紅とマミゾウがUFOでも目撃したように見つめてきた。蓬莱人は咄嗟に化け狸の口を封じると、笑顔で頷きながら口を開いた。
「そう、そう。たまには好いかなって。オシャレなんて柄じゃないけど」
「別に好いんじゃない? 私は見たいな、藤原が履くところ」
ぬえは本心から云った。腐れ縁の少女は、性格はボロボロに擦り切れているが、なんと云っても可愛らしい年頃の姿を維持しているのだ。妹紅がその赤い靴を履いたところを想像してみた。ついでに髪を梳かして、服も着替えてもらった。
シックなドレス? カジュアルなハーフパンツ? それともアロハシャツ? なんでも好い。とにかく悪くない。似合っている。よくよく考えれば、アロハシャツはどう見ても「ぬぇーわ」だったので除外した。
マミゾウはイタズラ笑いを引っ込めない。
「うむうむ、ぬえの云う通り。好い買い物じゃ。ちゃんと包んでもらうんじゃぞ――なぁ、妹紅?」
「こンの性悪タヌキぃ!」
その場で取っ組み合いの喧嘩が始まってしまいそうだったので、ぬえは二人の間に割って入って仲裁した。
「からかい過ぎちゃったかな……」
ぬえは首をひねりながら云った。逃げるように去っていった妹紅の背中は、相変わらず広かった。
そんなにからかったつもりはなかったんだけど、と思う。しかし妹紅のことだ、天変地異が起こっても平然と歩いていそうなくらい鈍感に見えて、ある方面から攻撃を喰らうと非常に脆いということを、ぬえは知っていた。まるで朝食に出された新鮮なお豆腐のように。
忍び笑いが聞こえた。誰かと訊ねるまでもない。
「まったく、おぬしは罪な奴じゃ」
「はぁ?」
……意味が分かんぬぇ。
「命蓮寺へ、ようこそ!」
「……顔見知りなんだけど、私」
「もちろんです。でも、挨拶はきちんとしなきゃ!」
そうかい、と藤原妹紅は答えた。里から逃げ出してきたら、無意識に寺まで来てしまった。自分で自分に呆れた。
ヤマビコは案内を申し出てきた。掃除が終わって暇らしい。好意を断る訳にもいくまい、こっちだって暇になってしまったのだ。妹紅は付き合ってやることにした。
「暑い暑いって、みんなが云うから、私が“涼しいんですよ”ってヤマビコしてあげるの。そしたら、なんだか涼しい気分になるんじゃないかと思って。提案してみたら、白蓮和尚も喜んでくれました」
なんとも返答に困る報告である。耳をパタパタさせている。どうやら褒めてほしいらしい。
「好いね、今度やって欲しいな」
そう云って頭を撫でてやった。ヤマビコは嬉しそうに微笑む。向日葵みたいに朗らかな笑みだ。なんだか複雑な気分だった。子供の頭を撫でると、なぜかは分からないが後ろめたい気持ちになる。誰に遠慮する必要もないのに。
妹紅は上手く笑えずに、はにかんだような笑みを返しながら、幽谷響子の翡翠の髪を撫でていた。
なんだアレ、と先ず思った。
やれやれどっこらせ、と縁側に腰を下ろすと、庭を挟んで反対側の部屋が見渡せた。その座敷に横になって、一人の少女が何やら遊んでいるのだった。時おり楽しそうな声も上がるが、誰かと話している様子はない。
「スイカ、持ってきましたよ!」
とヤマビコが盆を持って歩いてきた。妹紅は無言で対岸を指差した。
「――ぁあ、ムラサ船長、まだやってたんだ」
「なにアレ、水泳の練習? それともコカインでもキメたの?」
まさか、と響子は片手を振った。何かのしるしのように赤いスイカの実を、しゃくりと口に含む。
「ほら、好く見て下さい。あの“ぬえぐるみ”ですよ」
「ぬえぐるみ?」
目を凝らすと、なるほど村紗水蜜は毛玉の塊のようなものと戯れているようだった。人間離れした視力を持つ妹紅には、その毛玉が封獣を象ったぬいぐるみであると分かった。ものすげえ可愛らしいデザインだった。あまりに可愛らしいために、本人のずる賢い笑みが損なわれている感はあったが、そのモチモチ感の前では些細な問題であった。
響子は珍しく声を潜めた。
「さっき帰ってきてから、ずっとあの調子です。話しかけたり寝転がったりモフモフしたり――き、キスしちゃったり」
語尾が震えた。犬みたいな耳も同時に震えていた。分かりやすい奴だ、と妹紅は思う。世の中の人間が全員こんな風に分かりやすかったら、世界は平和になるのではないかと感心してしまうくらいだった。
「へぇ、可愛いぬいぐるみじゃないの」
そうですね、と響子は云う。
「ほんとに可愛いです」
視線をスイカへと逸らして、ヤマビコは俯 いた。ムラサ船長は、ぬえぐるみを両手に抱いてエビ反りをしていた。「よーし、パパ、プロレスごっこしちゃうぞー!」と気の抜けるような声が飛んできた。とすると、アレはジャーマン・スープレックスであろうか、難易度の高い技なのに、と妹紅は感心した。
「……私、ぬえ先輩が羨ましいな」
「封獣が羨ましい?」
オウム返しに問うと、妖怪は頷いた。
「普段は一匹狼って感じでカッコ好いのに、時々、とても可愛くなるんです。イタズラが失敗して叱られてる時とか、決まってマミゾウ親分に慰められてるんですけど、その時の“しゅん”とした感じが、なんとも……」
その様子は容易に想像できた。つまんないって反抗的な顔をしながら、けれど嫌われたくないから、ごめんなさいと口が勝手に動いている、そんな封獣の顔が思い浮かんだ。もう何度も眺めてきた表情だった。その時のぬえは、普段のふてぶてしさが消え去って、根っこの正体を現すのだ。春を迎えて流氷が去った後の北の海のように。
「ぬいぐるみにしてもらっても、私はたぶん……あんなに可愛くはならないんだろうなぁ」
響子は、言葉を借りるなら“しゅん”としてしまった。あんなに羽ばたいていた耳も、インドゾウみたいに垂れていた。
こういうのは苦手だ、と思う。ややこしい関係に巻き込まれるのは勘弁願いたかった。それでも同時に、ぬえが転がした言葉が、空を横切るヒコーキ雲のように脳裏を走った。
――別に好いんじゃない? 私は見たいな、藤原が履くところ。
……やっぱり、迷わずにさっさと買っておくべきだったのだ、と妹紅は後悔した。ぬえぐるみを手に入れた船長と、赤い靴を買えなかった自分。今なら分かる、あの可愛らしいぬえぐるみを見た今なら。
あの靴をプレゼントしてやれば、ぬえも絶対に喜んでくれただろうに。慣れないことをしようとすると、どうしても身体がすくんでしまう。それで時機を逃して、後になって後悔する羽目になるのだ。いつもと同じだった。
今から買い直すだけの度胸はない。ぬえにも見られてしまったし、あの化け狸には間違いなくバレていた。考えうる最悪のシナリオだ。鎌で刈り取られた雑草のように、気持ちが萎えてしまった。
ぬいぐるみにしてもらっても、あんなに可愛くは見えない、それは私も同じだろう。あの赤い靴は、封獣だから似合うのだ。妹紅は真っ赤なスイカの実を見つめながら、長い息をついた。
「……ま、そう落ち込むことはないさ」
「落ち込むことはない?」
ヤマビコが帰ってくる。
「誰にだって、可愛いところのひとつはある。その芽を育てれば好いのよ。ベクトルが違うだけ、あんたにも可愛いところはあるわ、女の子だもの」
「うーむ、そうでしょうか?」
冷えたスイカは美味しい。かき氷だって美味しい。ベクトルが違うだけ。
妹紅は再び響子の頭を撫でてやった。少なくとも、この翡翠の髪は、私にも封獣にもない輝きを持っている。
声にならない声で、ヤマビコがお礼を云ってくるのが分かった。
氷屋さんで、あの子を見つけた。
今日も来てたのか、と嬉しくなる。
かき氷を幸せそうに食べている。両手で掬って呑み込んでしまえそうなくらいに、その幸せは鮮やかに視界に焼き付いている。何も映らないはずの、私の三つ目の瞳にも、幸せの水は慈雨のように降り注ぐのだ。
帽子の縁をきゅっと握って、よしっと気合を入れて、意識を入れ替える。水面から顔を出した時みたいに、視野が明瞭になる。感覚も鋭敏になる。空を見上げなくても分かった、今日も快晴だ。
――そして、古明地こいしは姿を顕 す。
「ぬえちゃん、やっほ」
「げっ、こいし。なんでいんのよ」
いきなり傷ついた。まぁ好い、いつものことだ。
「好いじゃない、いたって。私も、かき氷、食べたいの」
「今日は奢れないからね。お金、あんまり持ってきてないし」
肩掛けのポーチから財布を取り出す。
「大丈夫、ちゃんと持ってきてるから」
店の人を呼んで、この人と同じのを、とぬえちゃんを指し示した。
あいよ、とお日様みたいな笑みを土産に、その人は奥へと引っ込んだ。
「そっち、詰めてもらえる?」
「……ん」
ぬえちゃんの隣に座る。対面には狸のお姉さん。眼鏡の奥から、さて面白いことになってきたぞ、と云いたげに視線を寄越してくる。違う違う、面白いことじゃない、とこいしは思う。“面白いこと”じゃなくて“ステキなこと”なのだ。
かき氷を待つ間に、早速だが用件を切り出してみる。
「ねぇ、ぬえちゃん――いつになったら地底に帰ってきてくれるの?」
じろり、と睨みつけられた。見事なまでの三白眼に、不覚にも胸がときめいた。
「あのぬぇ、前にも云ったでしょうが。私は当分は戻るつもりはないっての」
「でも、お姉ちゃんも寂しがってたよ。『お鵺がいないと屋敷が広く感じるわ』って」
「調子の好いことを云いやがって」
それは違う、と首を振った。けれど信じてもらえなかった。お姉ちゃんがイジワルし過ぎたせいだ。ぬえちゃんほど覚妖怪にとって“ごちそう”になる人は他にいなかったから。
予想は出来ていたけれど、やっぱり厳しいか。仕方がない、とっておきを出すとしよう。
帽子のなかに隠しておいた、真っ赤なバラの花束を取り出す。驚いて声もないぬえちゃんに押し付ける。
「じゃじゃーん! びっくりしたでしょ? ぬえちゃんのために屋敷から摘んできたの」
狸のお姉さんはニヤニヤと笑みを深めていた。だから笑うところじゃないってば。
「綺麗でしょ? ぬえちゃんにプレゼント! これで帰ってきてくれる?」
またひとつ、とっておき。綿菓子みたいにふわふわな笑顔を浮かべてみる。この顔には弱いんだということを、私は経験的に知っている。ぬえちゃんは椅子の上でたじろぐ。廊下の角で猫さんに鉢合わせしたネズミみたいに。
「だ、駄目だってば、こいし。私は、あの寺を離れるつもりはないってば」
どうして、とこいしは思う。実際に声に出す。その音は機械に読み上げられたかのように、色彩を失っている。
「でも、ぬえちゃん。今までずっと見てたけど、ぜんぜん楽しそうじゃないじゃない。お寺の隅っこでつまんなそうにしてる。外に遊びにいったら、イタズラしたのかって叱られちゃう。みんなから困った子だ、困った子だって囁かれてる。それなのに、ぬえちゃんはお寺で暮らす方が好いの?」
しめた、と思った。黒髪の少女は押し黙った。視線が一瞬だけど、狸のお姉さんの方へと逸らされた。畳み掛けるチャンスだ。
「居心地が悪いのに、無理して留まるなんてぬえちゃんらしくないわ。簡単なことじゃない。『お世話になりました』って書き残して、さっと飛んじゃえば、はいオシマイ。誰にも迷惑はかけないわ。むしろ、ぬえちゃんがいることで、既に誰かが迷惑を被っているんじゃないかしら? なら好いじゃない、いつも部屋でため息ばっかついてる癖に」
ぬえちゃんは呆然としていた。なんで、そこまで知っている、と顔に書いてあった。マジックさえあれば、それをなぞってやれそうなくらいだ。呼吸を二つぶん呑み込んでから、ぬえちゃんは口を開いた。
「……もしかして、あんたがうちに入信した目的って」
こいしは答えなかった。それを話すには先ず相手の答えが必要だった。
狸のお姉さんは、かき氷を食べるのを止めていた。
「のうのう、そう結論を急ぐこともあるまい。ぬえの奴も――」
「私はぬえちゃんに質問してるの」
と裁いた。我ながらナイスな反射だった。狸のお姉さんも、耳をぴくりと震わせてから詫びてきた。そうだったのぅ、と苦笑いを残して。この人には苦笑いが好く似合う。私のようなふわふわな笑顔は出来っこない、とこいしは微笑む。
「あのさ、その――こいし」
「なぁに、ぬえちゃん」
けれど、勇気づけられたのだろうか、ぬえちゃんは真っ直ぐに見つめてきた。不覚にも胸がときめいた。
「このバラ、綺麗だよね、ありがとう」
「どういたしまして」
「でも――それでも私は、命蓮寺に残りたいの」
有無も是非も云わせない感じだった。緋色の瞳に確かな雷 が光っていた。
「そりゃあ、狭っ苦しいと云えば、狭っ苦しい場所だと思う。私には似合わないかもしれない。あそこにいるだけで、あるいは私は致命的に損なわれてしまうかもしれない。けどさ、私には借りがあるのよ」
借り、とこいしは口には出さずに呟いた。なんじゃそれ、と思った。
「返せてない恩だってある。住まわせてもらってる恩もある。私ってば空回りばっかりで、三歩進んで五歩下がってるようなもんだけど、それでも“諦めるわけにはいかない”の。こいしはどう思ってるか知らないけど、それは私にとっては結構、大事な位置を占めてることなのよ。それに――」
ぬえちゃんは、かき氷のスプーンを意味もなく振った。
「それにさ――やりたいことだって出来たし……あいつらのこと、割と嫌いじゃないし」
最後は消え入るような声だった。神様のストローで声が吸い上げられたみたいに。
摘みたてのトマトのように真っ赤な顔で、ぬえちゃんは俯いてしまった。
沈黙は、けれど、長くは続かなかった。
「よっ、ぬえ! ――好く云ったァ!」
と狸のお姉さんが大声を上げた。途端に周りから一斉に拍手と口笛が吹き鳴らされた。英雄の凱旋を讃えるファンファーレを思い出した。隣には盆を持ったお店の人がいた。溶けかかったかき氷が乗せられていた。注文をお出しするタイミングがつかめなかったみたい。
あちゃあ、とこいしは思った。すっかり忘れていた。私のかき氷が。
ぬえちゃんは耳まで赤くしちゃってる。狸のお姉さんは、その背中をばしんばしんと叩いている。お店の人たちは今の鵺演説 について、やんごとなき感想を述べ合っている。そして、私のかき氷は駄目になってしまっている。
これは潮時だな、とこいしは思った。
「ぬえちゃん、今の、最高にカッコ好かった。ううん、最高に可愛かった」
「なっ――あんた、始めからそのつもりで!?」
「まさか、でも、ごめんなさい」
素直に謝った。敗者は常に潔くあれ、心に敗れて潔く地底に引きこもった、お姉ちゃんのように。
ぬえちゃんは、頬をかりかりと掻いていた。紺色の爪がとても綺麗、ブルーベリーみたい。
「あー……たまには、さ。たまには、地底にも顔を出すから。これで勘弁してよ、こいし」
しょうがないなぁ、と笑ってやった。今のところは許してあげましょう。
結局、ぬえちゃんの説得は叶わなかった。ま、いっか、とこいしは思う。
何はともあれ、ぬえちゃんは、バラの花束を受け取ってくれた。確かな前進だ。偉大なる一歩だ。アームストロング船長の言葉を借りるなら、これは人類にとって大いなる飛躍なのだ。たまには顔を出すって約束も結んでくれた。押せば押すほどに、その正体を見せてくれる。その呆れるほどの不器用な優しさを、私だけに見せてくれる。
これだから、私は――ぬえちゃんのことが諦められないのだ。
その日の夜になって、ようやく村紗水蜜は行動を開始した。
ぬえぐるみを置いて、ほったらかしだったムラサ人形を手に取る。ぬえぬえタイムは終了のお時間だった。これから沈没覚悟の、一世一代の大航海が始まるのだ。くそぅ、私め、無駄にモチモチしてやがる……!
自室を出て縁側を渡り、ぬえの部屋へ向かう。虫や蛙が思い思いにオーケストラを奏でている、好く晴れた夏の夜だった。月はここからでは見えないが、きっと足を止めてしまうほどに綺麗なんだろう。私が沈んだ時のような、嵐の晩とは程遠い、それだけは有り難いことだった。
ぶっちゃけると、緊張で吐きそうだった。出航して一分と経たずに船酔いだ。コロンブスもマゼランもヴァスコ・ダ・ガマも、こいつは役に立たんと海へと放り込むに違いない。潮の味を思い出してしまい、水蜜は鳥肌だった。これは私自身との勝負でもあるのだ、今度は聖だって助けてはくれない。
キャプテンよ、常にベリィクールにあれ、ナポレオンの海軍相手に勇敢に戦って散った、かのネルソン提督のように。
ぬえの部屋は命蓮寺の端っこにある。文句のつけようがない四畳半だ。これくらいのスペースで丁度好いと本人は云っていたが、水蜜としては、もっと広い部屋で心ゆくまで休んで欲しかった。あんな狭い地底に閉じ込められていたのだ、手狭な空間が夜空を翔ける鵺にとって丁度好いはずがなかった。
ぬえに呼びかける前に、深呼吸を挟む。そして、ムラサ人形を持ち上げて、もう一度、仔細に観察する。ルーペで昆虫の翅 の模様を調べるみたいに。
小憎らしいほどに愛らしい顔つきをしている。エメラルドグリーンの瞳は澄んでいる。赤いスカーフは私とは思えないほどに紳士的に、かつ芸術的な結び目を成している。そのまま社交界に行っても通用しそうだが、荒れ狂う大海原ではクラーケンにナメられること請け合いだ。表面が可愛ければ可愛いほど、その奥にある醜さが際立って見えてくる。香水で体臭を誤魔化すのと似ている。私の場合は香水どころか潮の磯臭さだから、尚更に分が悪い、と水蜜は思う。
意を決して部屋の前に立つ。ぬ、と声を上げようとして固まってしまい、その場から離れてしまった。
真っ白な寝間着、もとい浴衣の裾を握りしめた。丸っきり幽霊の格好だった。未練たらたらだ。
そもそも、自分を象った人形をプレゼントすることそのものが間違っている気がしてきた。つまりは、ぬえの反応がダイレクトにこの胸を抉る可能性も高いということだ。捨てられたらどうしよう、要らないとか云われたらどうしよう、ましてや、ムラサ気持ち悪いとか……そんなことになったら、もう一生立ち直れそうにない、死んでるけど。
森の人形遣いの顔が思い浮かぶ。悩みなんてない、むしろ来るなら来い、と云いたげな顔が。
――等身大のあなたを認めてあげても、きっとバチは当たらないわ。
ぬいぐるみは等身大なんかじゃない、ミニチュアだ、と筋違いな反論が頭に浮かんだ。もう駄目だ。
玉砕という単語が頭に浮かんだ。男は当たって砕けろ、と世間は云う。海の女も半分は男みたいなもんだ。ならば玉と砕けて潔く海の藻屑と散るのだ。ひるむな、私よ、今行かなくていつ行くのだ! ナポレオン軍は目の前まで迫っておるのだぞ……!
「――ぬ、ぬえぇぇぇッ!!」
キャプテン・ムラサは満を持して、ぬえの部屋に飛び込んだ。
「ムラサ、うるさい」
「……はい」
初手から詰んだ、と思った。
ぬえは、今夜はカベルネ・ソーヴィニヨンではなく、赤玉スイートワインを呑んでいた。もんのすげえ甘いやつだ。振り向くことすらせずに、ワイングラスを傾けて、部屋の中央でアルコールを摂取していた。二色三対の羽が、今にもこちらへと飛びかからんばかりにうごめいていた。
……あれ、怒ってる?
疑問形にするまでもなく、ぬえは怒っているみたい。餓えた虎、巣を荒らされた蜂、正体を暴かれた鵺、云い方はなんでも好い。とにかく怒っている。これ以上なく。
私のせいか、と思った。そんな沸点の低い奴じゃないはずなのに。人里で何かあったのかもしれない。不味い展開だった。捨てられるどころか、その場で八つ裂きにされそうだった。そんなことをされたら、悪い意味で昇天してしまうではないか。
「……ぬえ」
「ぬぁによ!」
やっぱり怒ってるよ、コンチクショウ。そういえば、今日ぬえと話をしたのは、これが初めてだ。そう気づいた途端、意識が天の高みへと昇ってゆきそうになる。
「わ、わたしたいものが、あるんだけど」
声の震えが伝わらないようにしたかったけど、それもダメみたいだ。火山の大噴火が起こった時の計測器のごとく震えていた。
その声の震えが、逆に功を奏したのかもしれない。ぬえは、ようやく振り向いてくれた。その手にはワイングラスがあった。もう片方の手には、真っ赤なバラの花束があった。
「……へ?」
バラって、あのバラ? 花言葉は愛情ってアレ? 脳は拒否している、網膜は冷静に現実を写し取っている。その乖離が、かまいたちのごとく心をズタズタにしてゆく確かな手応えがある。
「それ、誰から?」
「誰だって好いでしょ」
好くない、という声は喉の奥で潰れた。そんな風に隠し事を作っちまうから、みんなから距離を置かれるんだ。それが正体不明のアイデンティティだとしても、本当は、あのぬえぐるみのように可愛いのに、あんなに可愛いのに。
やっぱり止めよう、と頭で声が囁く。誰が渡したのか知らないけど、バラなんて勝てっこない。私がバラなんてプレゼントしたら、ぬえは鼻で笑うだろう。大笑いするかもしれない。それが、ましてや人形なら……?
「ちょっと待ってよ、ムラサ」
ムラサ、という響きに泣きそうになる。ぬえが追いかけてきて、手をつかんでくれていた。でも、その手を握り返すことはできない。敗軍の将は黙して去るのだ。ネルソン提督にはなれない。ナポレオンには勝てない。
「渡したいものって? 気になるじゃないの」
ムラサ人形はお腹に押し付けて隠していた。ぬえは回り込んで覗き込もうとした。
「やっぱ駄目 私は無理なの ナポレオン」
「俳句なんて読むんじゃないわよ、しかも字余りっ! ナポレオンが無理ってなによ、美味しいじゃない!」
そりゃナポリタンだよ、ぬえ。
二色三対の羽に、たちまち全身を絡め取られた。ムラサ人形はバスケットボールみたいに、ぬえの腕の中へと吸い込まれた。
これって、とぬえの声が聴こえた。何もかもがお終いだった。
「そう、それ私、ムラサ人形」
水蜜は振り向いた。もう観念するしかなかった。惨めな気分だった。地底に封印された時とは別種の惨めさだった。
「……ごめん、迷惑だよね。要らないなら、返してくれて好いから」
また浴衣の裾を、両手でぎゅっと握りしめた。ぬえは、ムラサ人形をモチモチしながら呆然としていた。その真っ黒な浴衣が、自分が着ているものと色違いであることを、今更になって知った。
海へと真っ逆さまに落っこちる、最後の蹴りが必要だった。下にはサメがうようよいる。自分ひとりじゃ飛べない。早く終わらせて欲しかった。ギロチン処刑が一瞬で完了するのと同じように。
「……ありがと、ムラサ」
これで心おきなく飛べる。目の前には真っ青な海が――。
「――って、えええッ!?」
水蜜はすんでのところで、踏切台からターンした。
「要らないって、なに云ってんの、嬉しいよ」
知らないうちにコカインでもキメて、幻覚を見ているのではなかろうか。
でも、確かに、ぬえはムラサ人形を精一杯に抱きしめている。脳はそれを拒否している。網膜は冷静に現実を写し取っている。その乖離が、打ちおろしたアンカーのように心を繋ぎ止めてくれている。
「き、気持ち悪くない? だって私の……人形なんだよ?」
「なんでさ、こんなに可愛いのに、酷いじゃん、ムラサのバカ」
ムラサ人形はモチモチし続けていた。ぬえはその感触を楽しんでいた。それも優しげな微笑みを浮かべて。マリア様だって、こいつの笑顔にゃ勝てぬぇだろうと思った。
「貰ってくれる、ねぇ、貰ってくれるの、ぬえ?」
紅い瞳が、心の臓を心地よく射抜いてくれた。
「あったりまえじゃん――大切にするよ、ムラサ」
頭がくらくらする。本当にコカインをキメたみたい。子供が地球儀で遊んでいるかのように世界が回っている。足の力はところてんみたいに抜けていた。心が海水じゃない何かで満タンになっている。
そして、ようやく、その感覚が、幸せなんだってことに気づいた。
イタズラを叱ることでしか迫ることの出来なかったぬえの正体に、初めて近づけた気がした。
ぬえぐるみじゃなくて、本当のぬえを抱きしめてやりたいと、心から思った。でも、今は無理だ。出来ない。人形の私が抱きしめてもらっているんだから、横取りしてはいけない。
水蜜もぬえも、その場で尻餅をついて、互いの心の暖かさを分け合っていた、たった一体の人形を通して。等身大の自分を認めてやること、それこそが、すなわち自信なのだと、水蜜は知った。
だから、ぬえがムラサ人形を離したら、その時は力いっぱいに抱きしめてやろう。
あんたは独りじゃないって、ちゃんと心に届くまで、何回だって云ってやろう。
こんな可愛くて正体不明なあんたを嫌う奴なんて、この寺の何処にもいないって。
そのことを、ぬえに真っ先に伝えてあげなくちゃ……!
「ぬぇ……ムラサ」
「ん、なに?」
ぬえは、ぽつんと畳に言葉を零した。
「これさ、もしかして、私の人形もあったりするの?」
…………。
な、なんて勘が鋭い奴だ……っ!
幽谷響子は、今日も参道の掃除をする。
般若心経を唱えながら、そこに鳥獣伎楽の歌詞も織り交ぜながら。小豆色のワンピースの裾を翻して、いつもよりも高らかに、そして大声で歌っている。竹箒は魔法で操られているかのように動き回る。お日様はすでに挨拶を終えている。黄金の油が地上に降り注いでいる。今日も暑くなりそうだ、と思う。
「ぜ〜む〜と〜ど〜しゅ〜」
早起きな小鳥たちに負けたくはなかった。鳥に負けたと聞いたら、バンド仲間から笑われる。
態勢を立て直さなきゃならない。鳥といえば、鵺だってトラツグミだ。ぬえ先輩には負けられない。
昨日のスイカの味が、向日葵の色彩のように鮮やかに蘇ってくる。
――誰にだって、可愛いところのひとつはある。その芽を育てれば好いのよ。
――ベクトルが違うだけ、あんたにも可愛いところはあるわ、女の子だもの。
そうだ、私だって女の子なのだ。ぬえ先輩がかき氷のイチゴシロップなら、私は新鮮な冷たいスイカだ。
カッコ好くはなれない。トリッキーな能力は使えない。でも、私には生来の大声と燃えたぎるガッツがある。
それを最大限に活用しなければならない。犬が優れた嗅覚を用いて、あらゆる場面で活躍してきたように。
私は私のベクトルで、勝負してやるのだ……!
「今日も絶好調ね、ヤマビコさん」
「あ、おはよーございますっ!!」
最近になって入門してきた子が、ふわふわな笑顔で参道を登ってきていた。今日は何やら手荷物を持参している。いつもは知らぬ間に境内に踏み入っているのに、珍しいこともあるものだ、と響子は思った。
「挨拶は心のオアシス! さぁ、古明地さんも」
「こいしで好いよ――うん、おはようございます」
「声が小さい!」
「おはよーございますっ!」
うぅん、と耳が震えた。好い声、好い挨拶だ。やっぱり、一日の始まりはこうでなくっちゃ。
「それで、今日は修行なの? それとも見学?」
どっちでもない、とこいしは首を振った。
「――大好きな人に、私は逢いに来たの!」
そう云って、閉じた恋の瞳は、晴れ渡った夏空に挑みかかるかのように笑った。
真っ赤で可愛らしい靴が入った紙袋を、大事そうに大事そうに抱えながら。
アリス・マーガトロイドは、今日も人形制作に余念がない。
大丈夫、イメージは頭のなかで完全に組み上がっている。後は、それをどれだけ手際好く、かつ傷つけないように情念の大海から取り出してやるかの勝負だ。彫刻家が石から作品を彫り出すように、アリスは集中力を研ぎ澄まして作業を進め、ちょっとした休憩に煎れたてのコーヒーを呑み、バタークッキーを何枚かかじった。
そろそろ昼ごはんにしようか、と立ち上がりかけた時、玄関のドアが執拗にノックされた。その執拗さには、何かしらの形而上的な啓示が含まれているようにさえ思えた。
はいはい、そんな急がなくても、すぐに伺いますってば。
アリスはドアを押し開けた。途端に二人の少女が我先にと転がりこんできた。新手のカチコミか、と身構えてしまった。
「なによ、性悪タヌキ! 今回くらい私に譲れってんだ!」
「ならぬ! 儂が先じゃ、金だって貸してやると云うておるじゃろうが!」
蓬莱人と化け狸だった。どちらも強引に森を抜けてきたらしく、服は汚れ放題だった。少なくとも、今の二人のなかでは“人様の家に訪問する際の最低限のマナー”という項目は、かなり安い値段で競売にかけられているようだった。
アリスは片手で頭を押さえながら、マンモスのごとく重い息を吐いた。
「……それで、ご用件は、お客さん?」
妹紅とマミゾウは、こんな時に限って、仲好く唱和した。
『――自分も、ぬえぐるみが欲しいですっ!!』
何処かのヤマビコにも負けないくらいの大声だった。
やれやれね、とアリスは思う。目の前で再び喧嘩を始めた二人を見比べる。
どうやら、船長人形は、きちんと予定した航路に乗っかれたらしい。目指すは何処だ、何処までも。二人の航海に障害はナシ、ただし同乗希望者が多数いる模様、雲行きは怪しくも楽しい、ヨーソロー……そんなところだろう。
こんなに多くの人に好かれて、何が正体不明の大妖怪なんだか、と笑い声が漏れてしまう。
人目を避けて魔法の森に住居を構えているのに、なんだか羨ましいと思ってしまった。
私らしくもない、ないが、今はこの騒がしさに身を浸していよう。
ゆったりと椅子に座り、コーヒーカップを手に取る。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。朝の一杯を堪能した後で、アリスは机に指を組んでから、不届きな来訪者を見すえたのだった。
「訊くまでもないと思うけど――特急料金で好いのよね?」
ぬえと水蜜の一日は、同じ布団の別の枕のうえで目覚めるところから始まった。
まずは冷静に昨夜のことを思い出そうとする。傍にはぬえ人形とムラサ人形が、やはり寄り添って眠っている。二人して、眠気の余りぶっ倒れるまで人形遊びをしていたのだ。あんなママゴトみたいな遊びに夢中になったのは、恐らくは産まれて初めてのはずだった。恥ずかしいのか、嬉しいのか、自分でも分からない、正体不明だ。
ムラサも目が覚めたらしい。真っ白な浴衣は肌蹴ていて、目のやり場に困った。
とろんと海の底を歩いているような視線を向けてくる。デコピンを喰らわすと、ようやく目の焦点が合ってきた。
「……ん、あれ、ほえ」
「おはよ、ムラサ」
「なんで、ぬえがいるの」
黙って人形たちを指差してやる。ムラサは昨夜のやり取りを思い出したのか、いきなり感極まったように抱きついてきた。戦争によって離れ離れになっていた恋人たちのように。
「好かった、夢じゃなかったよ、ぬえぇ……」
「夢が本当になったんだよ、たぶん」
ムラサの気持ちを知れて好かった、と思う。叱られてるだけじゃない、確かな繋がりというものが、地底から脈々と受け継がれてきたという事実が、とんでもなく嬉しかった。何よりも嬉しいのは、それをとても自然なものとして感じられることだ。偶然なんかじゃない。ちゃんとムラサが私の正体を覚えていてくれたことが、ただ嬉しかったのだ。それは本当に自然に起こったこと。自分の巣に帰る鳥たちのように、サヤの中に収まるエンドウマメのように。
ぬえとムラサは、しばらくの間、黙って見つめ合う。そこで無言の、けれど数限りない言葉が交わされる。体温を分け合うには、夏の太陽は些か天空を昇り過ぎている。その役目は人形たちに任せれば好いのだ。二度と離れないよう、肩を寄せ合っていて欲しいと願う。
人形たちは、可愛らしい笑顔で寄り添っている。それは私たちの弱さを微塵にも感じさせない、ディフォルメされた表情にも思える。ぬえは首を振る。今なら、そうじゃないと感じることができる。それこそが、今の私たちが理想とする関係なのだ。その人と一緒にいるだけで、地底の暗さも海の深さも、気にならなくなるのだ。
時間は掛かると思う。あるいは今よりも損なわれてしまうかもしれない。それは分からない。
ひとつ確信を持って云えることは、“ありがとう”という言葉を交換するたびに、世界は確実に晴れてゆくということだ。
「――ぬえ、悪いけど、タンスから着替え取ってくれない?」
「やだよ。自分で取りなよ、そんくらい」
「眠くて動けないの。お願いお願い、後でかき氷奢ってあげるから」
「マジで? ……それなら話が早い、このぬえ様に任せなさいって」
「ありがと、大好き」
「どういたしまして」
…………。
「……ぬぇ、ムラサ」
「どうしたの、ネズミでもいた?」
「なに、この写真?」
「――えっ」
.
―― ムラサのぬえぐるみ ――
この日のために必死にお小遣いを稼いだ甲斐があった、と村紗水蜜は思った。
「報酬は確かに受け取ったわ。破けたりしたら無償で修繕するけど、大切にしてあげてね」
無言でうなずく、なんども、なんども。視線は手元に釘づけだ。幻想郷は、こんなところにも在ったのだ……!
「まさに匠のお仕事」
「いやね。ちょっと練習すれば、誰にだって出来るわよ」
ちょいと訓練しただけで誰にでも縫えるものなら、とっくに私は同じものを千個は作っていただろう、と思った。そして、コレで部屋を埋め尽くして私だけのハーレムを築くのだ。毎朝ひとつひとつに「おはよう」と云ってやり、毎晩「おやすみ」のキスをおでこに見舞ってやるのだ、想像するだけでご飯が三杯はイケる。
それは、ぬいぐるみだった。いや、“ぬえぐるみ”だった。
ぎゅっと抱きしめたら気持ち好さそうな、そんな手頃なサイズ、そして絶妙な手触り。最高級の生地で練り上げた餅のごとき感触に、もう二度とは手放せないんじゃないかと思われた。
デフォルメされた顔の造形も見事だ。ほっぺは桃色のフェルトで化粧されて可愛らしい。無垢な笑顔はトーチカを砲撃する艦砲射撃のごとく母性を刺激し、今にも鈴のような声で「むらしゃ」と呼びかけてきそうだった。そんな舌足らずな美声で呼びかけられた日にゃ、文字通りの意味で昇天しちまいそうだ。悪くない最期に思えた。
服装にも手は抜かれていない。アクセントの赤いリボンは実物よりも広く胸元を占領していて、これがまた幼さと可愛らしさを強調している。黒真珠のごとく真っ黒なニーソックスはもちろん、左手首のリストバンドや裾の辺りの渦巻き紋様も完備している。当たり前というか常識というか世界の共通理解というか、絶対領域だって完璧だ。匠の技に隙はなかった。
背中の二色三対の羽も愛らしい。赤い鎌状の羽はちゃんと穴が空いているし、青い矢印状の羽は先端の付け根が丸くなっており、さりげなくハート型になっている。更によく見ると、右腕にはきちんと緑色の蛇が巻きついているし、いつも「治んぬぇ」と悩んでいた癖っ毛まで再現されている。後ろ髪はテーマパークの滑り台かと見紛う、鮮やかなカーブを描いていた。
早い話が、完璧だった、何もかもが完璧だった。
「マジやっべぇ、ずっきゅんマイハート・キタコレ……!」
「それはありがと。あまり強く抱きしめたら駄目よ。壊れちゃうから」
忠告を受けて慌てて両手の力を緩める。もっちりとお腹が元の大きさに膨らむ。陽が沈むまで頬ずりしたい。
「あぁ……ありがとうございます、アリスさん」
アリス・マーガトロイドは風船のように、ふわりと笑った。
「こっちだって貰うものは貰ってるわ。礼なんか要らないわよ」
「そんな、ほんと予想以上の出来ばえで、驚きました」
手の震えが止まらぬ。
「顧客の笑顔を見るのも楽しみのひとつだからね。気合と愛情は込めたつもり」
水蜜は深呼吸した。えへへ、ムラムラでぬえぬえしちまうぜ……。
「一応、警告はしておくけど」
と、アリスは紅茶をすすりながら云った。もう片方の手で一枚の写真をひらひらと振る。
「これは世間では“犯罪”って云うの。本人に見つかったらエラいことになるわよ」
そこにはモデル提供のために撮影した、ぬえの寝姿が写っていた。外から遊んで帰ってきて、服もロクに着替えずに泥のように眠った夜のことだ。文字通り幽霊のごとく忍び寄って、違法改造した消音カメラで撮った。ついでに寝顔のアップも残しておいた。手持ぶさたになった時、タンスの引き出しの奥から取り出してニヤニヤするのが最近の日課だった。
アリスを安心させるために、ちっちっと指を振ってやる。
「それなら大丈夫。ぬえですから」
「ごめんなさい、意味が分からない」
「あいつは無類のイタズラ好き。しょっちゅう迷惑を被ってるんです。なら、私だってぬえぬえにイタズラする権利はあるはずです」
「“やられたらやりかえす”の論理は不毛よ。お化けの学校じゃ歴史は習わないのかしら?」
ぬえぐるみのほっぺを引っ張りながら、えへへと笑った。
「試験も何にもないからね。船を効果的に沈める授業は、オールナイトであったけど」
「……そう」
と云ったきり、アリスは紅茶を呑む作業に専念したようだった。水蜜も「ぬえぬえ〜」と呼びかけながら、ほっぺにキスの雨を降らせた。
「――あ、ちょっと待って」
礼を云って辞そうとすると、人形遣いは呼び止めてきた。
奥から何やらを取り出すと、大事そうに手渡してくる。
「これって」
「そうよ、時間が余ったから、片手間に作ったの」
自分のぬいぐるみを目の前にするのは、なんだか変な気分だった。もちろん、出来は好い。水兵帽から赤いスカーフ、アンカーに柄杓と揃っている。けれど、ぬえのと比べると、その可愛らしさは偽物に思えた、ブランドのバッグのパチモンみたいに。あるいは私がパチモンなのかもしれない、と思った。少なくとも、私の目は、こんな澄んだエメラルドグリーンではなかったはずだ。水底を思わせる、暗い暗い海の色でなければならないはずだった。
「……悪いけど、これは受け取れない」
アリスは驚いた風もなく、首を十五度くらい傾けた。
「気に入ってもらえなかったかしら?」
「だって、わたし、こんなに可愛くない」
七色の魔法使いは、綿雲がそよ風に吹かれるように笑った。自分には決して出来そうにない笑い方だった。
「あなたは、可愛いわ。私が保証する。そうでなきゃ作らないもの。“自分に自信を持って”なんて流石に云わないけれど、等身大のあなたを認めてあげても、きっとバチは当たらないわ」
胸に微かな疼きがあった。真冬に握りしめたカイロのように、それは温かな疼きだった。
「どうしても置いとけないなら、その子に渡してあげれば好いじゃない。きっと喜ぶわよ、いえ、必ずね」
アリスは確信めいて云った。まるでお姉さんのようだ、と水蜜は思った。こんな美しくて優しい少女が、どうして人里離れた辺鄙な森に住んでいるのか、不思議な話だった。
水蜜はアリスの瞳を見つめ返した。この好意を裏切ってはならない、と思った。
私が気に入ろうが、気に入るまいが、すでにこの人形は生を受けて、誰かに愛されるのを待っているのだから。
水底で身を沈めている名も無き貝のように、じっと息を潜めて。
□ □ □
封獣ぬえが人里へ涼みに出かけたのは、好く晴れた昼下がりのことであった。
「いやぁ、暑いのぅ。瓦で卵が焼けそうじゃの」
と親友は下駄を鳴らしながら、手を額に当ててひさしを作っていた。
「混んでなきゃ好いけどね……ぬぅー、早く食べたいよう」
目指すは氷屋である。夏になると、シロップをたっぷりとふりかけたかき氷を出してくれるのだ。「氷」の赤字を染め抜いた
「うむ、楽しみじゃ。今週の新作シロップは期待できそうじゃしの」
実験用のゲテモノ味と、正統派のステキ味を交互に見舞ってきた氷屋、今週は後者のご登場だ。ストロベリークリーム味のシロップに、ぬえは病みつきになっていた。マミゾウは抹茶アイス味がお気に入りのようだった。近くの菓子屋と連携して味の開発に取り組んでいるという。進取の気性に富んだ姿勢には、里の内外を問わず人気が高い。寺に取材にきた天狗の新聞に載ったこともある。
先週は“夕張メロン味”と偽った衝撃のゴーヤ味でヒーヒー云わされただけに、今週の期待は嫌でも高まっていた。
そんな折、腐れ縁の背中を見つけたのは、靴屋のショーケースの前であった。
ぬえは「ぬふふ」と笑って旧友の裾を引っ張った。マミゾウもその少女に気づいて、唇を歪めて「むふふ」と笑った。これは面白いことになったぞ、という表情は万国で共通の代物、すなわち“悪いこと考えてる顔”である。
忍び足で近づいて、海よりも広いと思える背中を、ごつんっと叩いてやった。
「ふ〜じ〜わらっ!」
「ぬぇんッ!?」
藤原妹紅は飛び上がって、危うく正面のガラスをSWAT隊員よろしく突き破りそうになった。
ほうじゅう、と唇だけ動かして、妹紅は背中をウィンドウに貼りつけて両腕を広げた。別に隠さなくても好いのに、と思った。
「なーに? 藤原もオシャレしたいお年頃ってやつ?」
「ず、随分と遅い思春期じゃない――って、そうじゃなくて!」
と続けようとしてから、妹紅はぐっと口をつぐんだ。こちらを見つめる視線が、何度も逸らされては、またUターンして戻ってきた。蜘蛛の巣から抜け出そうともがく蝶々に見えなくもない。
「おうおう、可愛らしい靴じゃないかね」
いつの間にか回り込んでいたマミゾウが、ショーケースを覗き込んで云った。悠々と海中を泳ぎ回るサメのように、尻尾が左右に揺れていた。
「じゃが、おぬしにはちぃーっとばかり、サイズが小さいんじゃないかえ?」
「くぁwせdrftgyふじこlp――!」
蓬莱人は泡を吹き出しながら、化け狸を押しのける。その拍子に、ぬえの目にも見えた。赤い靴だ。真っ赤な靴だ。足の甲の部分に、アクセントの花が咲いていた。でも身勝手な自己主張はしていない。場の空気を読むのに長けた宴会の幹事のように、その花は靴の可愛らしさを際立たせるために咲いていた。真珠を散りばめた陳列の仕方にもセンスが光っていた。埃っぽい往来に面しているからこそ、その赤い靴は輝いて見えた。砂漠の真ん中に咲いた、可憐なサボテンの花だ。
「へぇ、藤原って、けっこう派手なのが好きなんだね、意外」
そう云ってやると、妹紅とマミゾウがUFOでも目撃したように見つめてきた。蓬莱人は咄嗟に化け狸の口を封じると、笑顔で頷きながら口を開いた。
「そう、そう。たまには好いかなって。オシャレなんて柄じゃないけど」
「別に好いんじゃない? 私は見たいな、藤原が履くところ」
ぬえは本心から云った。腐れ縁の少女は、性格はボロボロに擦り切れているが、なんと云っても可愛らしい年頃の姿を維持しているのだ。妹紅がその赤い靴を履いたところを想像してみた。ついでに髪を梳かして、服も着替えてもらった。
シックなドレス? カジュアルなハーフパンツ? それともアロハシャツ? なんでも好い。とにかく悪くない。似合っている。よくよく考えれば、アロハシャツはどう見ても「ぬぇーわ」だったので除外した。
マミゾウはイタズラ笑いを引っ込めない。
「うむうむ、ぬえの云う通り。好い買い物じゃ。ちゃんと包んでもらうんじゃぞ――なぁ、妹紅?」
「こンの性悪タヌキぃ!」
その場で取っ組み合いの喧嘩が始まってしまいそうだったので、ぬえは二人の間に割って入って仲裁した。
「からかい過ぎちゃったかな……」
ぬえは首をひねりながら云った。逃げるように去っていった妹紅の背中は、相変わらず広かった。
そんなにからかったつもりはなかったんだけど、と思う。しかし妹紅のことだ、天変地異が起こっても平然と歩いていそうなくらい鈍感に見えて、ある方面から攻撃を喰らうと非常に脆いということを、ぬえは知っていた。まるで朝食に出された新鮮なお豆腐のように。
忍び笑いが聞こえた。誰かと訊ねるまでもない。
「まったく、おぬしは罪な奴じゃ」
「はぁ?」
……意味が分かんぬぇ。
□ □ □
「命蓮寺へ、ようこそ!」
「……顔見知りなんだけど、私」
「もちろんです。でも、挨拶はきちんとしなきゃ!」
そうかい、と藤原妹紅は答えた。里から逃げ出してきたら、無意識に寺まで来てしまった。自分で自分に呆れた。
ヤマビコは案内を申し出てきた。掃除が終わって暇らしい。好意を断る訳にもいくまい、こっちだって暇になってしまったのだ。妹紅は付き合ってやることにした。
「暑い暑いって、みんなが云うから、私が“涼しいんですよ”ってヤマビコしてあげるの。そしたら、なんだか涼しい気分になるんじゃないかと思って。提案してみたら、白蓮和尚も喜んでくれました」
なんとも返答に困る報告である。耳をパタパタさせている。どうやら褒めてほしいらしい。
「好いね、今度やって欲しいな」
そう云って頭を撫でてやった。ヤマビコは嬉しそうに微笑む。向日葵みたいに朗らかな笑みだ。なんだか複雑な気分だった。子供の頭を撫でると、なぜかは分からないが後ろめたい気持ちになる。誰に遠慮する必要もないのに。
妹紅は上手く笑えずに、はにかんだような笑みを返しながら、幽谷響子の翡翠の髪を撫でていた。
なんだアレ、と先ず思った。
やれやれどっこらせ、と縁側に腰を下ろすと、庭を挟んで反対側の部屋が見渡せた。その座敷に横になって、一人の少女が何やら遊んでいるのだった。時おり楽しそうな声も上がるが、誰かと話している様子はない。
「スイカ、持ってきましたよ!」
とヤマビコが盆を持って歩いてきた。妹紅は無言で対岸を指差した。
「――ぁあ、ムラサ船長、まだやってたんだ」
「なにアレ、水泳の練習? それともコカインでもキメたの?」
まさか、と響子は片手を振った。何かのしるしのように赤いスイカの実を、しゃくりと口に含む。
「ほら、好く見て下さい。あの“ぬえぐるみ”ですよ」
「ぬえぐるみ?」
目を凝らすと、なるほど村紗水蜜は毛玉の塊のようなものと戯れているようだった。人間離れした視力を持つ妹紅には、その毛玉が封獣を象ったぬいぐるみであると分かった。ものすげえ可愛らしいデザインだった。あまりに可愛らしいために、本人のずる賢い笑みが損なわれている感はあったが、そのモチモチ感の前では些細な問題であった。
響子は珍しく声を潜めた。
「さっき帰ってきてから、ずっとあの調子です。話しかけたり寝転がったりモフモフしたり――き、キスしちゃったり」
語尾が震えた。犬みたいな耳も同時に震えていた。分かりやすい奴だ、と妹紅は思う。世の中の人間が全員こんな風に分かりやすかったら、世界は平和になるのではないかと感心してしまうくらいだった。
「へぇ、可愛いぬいぐるみじゃないの」
そうですね、と響子は云う。
「ほんとに可愛いです」
視線をスイカへと逸らして、ヤマビコは
「……私、ぬえ先輩が羨ましいな」
「封獣が羨ましい?」
オウム返しに問うと、妖怪は頷いた。
「普段は一匹狼って感じでカッコ好いのに、時々、とても可愛くなるんです。イタズラが失敗して叱られてる時とか、決まってマミゾウ親分に慰められてるんですけど、その時の“しゅん”とした感じが、なんとも……」
その様子は容易に想像できた。つまんないって反抗的な顔をしながら、けれど嫌われたくないから、ごめんなさいと口が勝手に動いている、そんな封獣の顔が思い浮かんだ。もう何度も眺めてきた表情だった。その時のぬえは、普段のふてぶてしさが消え去って、根っこの正体を現すのだ。春を迎えて流氷が去った後の北の海のように。
「ぬいぐるみにしてもらっても、私はたぶん……あんなに可愛くはならないんだろうなぁ」
響子は、言葉を借りるなら“しゅん”としてしまった。あんなに羽ばたいていた耳も、インドゾウみたいに垂れていた。
こういうのは苦手だ、と思う。ややこしい関係に巻き込まれるのは勘弁願いたかった。それでも同時に、ぬえが転がした言葉が、空を横切るヒコーキ雲のように脳裏を走った。
――別に好いんじゃない? 私は見たいな、藤原が履くところ。
……やっぱり、迷わずにさっさと買っておくべきだったのだ、と妹紅は後悔した。ぬえぐるみを手に入れた船長と、赤い靴を買えなかった自分。今なら分かる、あの可愛らしいぬえぐるみを見た今なら。
あの靴をプレゼントしてやれば、ぬえも絶対に喜んでくれただろうに。慣れないことをしようとすると、どうしても身体がすくんでしまう。それで時機を逃して、後になって後悔する羽目になるのだ。いつもと同じだった。
今から買い直すだけの度胸はない。ぬえにも見られてしまったし、あの化け狸には間違いなくバレていた。考えうる最悪のシナリオだ。鎌で刈り取られた雑草のように、気持ちが萎えてしまった。
ぬいぐるみにしてもらっても、あんなに可愛くは見えない、それは私も同じだろう。あの赤い靴は、封獣だから似合うのだ。妹紅は真っ赤なスイカの実を見つめながら、長い息をついた。
「……ま、そう落ち込むことはないさ」
「落ち込むことはない?」
ヤマビコが帰ってくる。
「誰にだって、可愛いところのひとつはある。その芽を育てれば好いのよ。ベクトルが違うだけ、あんたにも可愛いところはあるわ、女の子だもの」
「うーむ、そうでしょうか?」
冷えたスイカは美味しい。かき氷だって美味しい。ベクトルが違うだけ。
妹紅は再び響子の頭を撫でてやった。少なくとも、この翡翠の髪は、私にも封獣にもない輝きを持っている。
声にならない声で、ヤマビコがお礼を云ってくるのが分かった。
□ □ □
氷屋さんで、あの子を見つけた。
今日も来てたのか、と嬉しくなる。
かき氷を幸せそうに食べている。両手で掬って呑み込んでしまえそうなくらいに、その幸せは鮮やかに視界に焼き付いている。何も映らないはずの、私の三つ目の瞳にも、幸せの水は慈雨のように降り注ぐのだ。
帽子の縁をきゅっと握って、よしっと気合を入れて、意識を入れ替える。水面から顔を出した時みたいに、視野が明瞭になる。感覚も鋭敏になる。空を見上げなくても分かった、今日も快晴だ。
――そして、古明地こいしは姿を
「ぬえちゃん、やっほ」
「げっ、こいし。なんでいんのよ」
いきなり傷ついた。まぁ好い、いつものことだ。
「好いじゃない、いたって。私も、かき氷、食べたいの」
「今日は奢れないからね。お金、あんまり持ってきてないし」
肩掛けのポーチから財布を取り出す。
「大丈夫、ちゃんと持ってきてるから」
店の人を呼んで、この人と同じのを、とぬえちゃんを指し示した。
あいよ、とお日様みたいな笑みを土産に、その人は奥へと引っ込んだ。
「そっち、詰めてもらえる?」
「……ん」
ぬえちゃんの隣に座る。対面には狸のお姉さん。眼鏡の奥から、さて面白いことになってきたぞ、と云いたげに視線を寄越してくる。違う違う、面白いことじゃない、とこいしは思う。“面白いこと”じゃなくて“ステキなこと”なのだ。
かき氷を待つ間に、早速だが用件を切り出してみる。
「ねぇ、ぬえちゃん――いつになったら地底に帰ってきてくれるの?」
じろり、と睨みつけられた。見事なまでの三白眼に、不覚にも胸がときめいた。
「あのぬぇ、前にも云ったでしょうが。私は当分は戻るつもりはないっての」
「でも、お姉ちゃんも寂しがってたよ。『お鵺がいないと屋敷が広く感じるわ』って」
「調子の好いことを云いやがって」
それは違う、と首を振った。けれど信じてもらえなかった。お姉ちゃんがイジワルし過ぎたせいだ。ぬえちゃんほど覚妖怪にとって“ごちそう”になる人は他にいなかったから。
予想は出来ていたけれど、やっぱり厳しいか。仕方がない、とっておきを出すとしよう。
帽子のなかに隠しておいた、真っ赤なバラの花束を取り出す。驚いて声もないぬえちゃんに押し付ける。
「じゃじゃーん! びっくりしたでしょ? ぬえちゃんのために屋敷から摘んできたの」
狸のお姉さんはニヤニヤと笑みを深めていた。だから笑うところじゃないってば。
「綺麗でしょ? ぬえちゃんにプレゼント! これで帰ってきてくれる?」
またひとつ、とっておき。綿菓子みたいにふわふわな笑顔を浮かべてみる。この顔には弱いんだということを、私は経験的に知っている。ぬえちゃんは椅子の上でたじろぐ。廊下の角で猫さんに鉢合わせしたネズミみたいに。
「だ、駄目だってば、こいし。私は、あの寺を離れるつもりはないってば」
どうして、とこいしは思う。実際に声に出す。その音は機械に読み上げられたかのように、色彩を失っている。
「でも、ぬえちゃん。今までずっと見てたけど、ぜんぜん楽しそうじゃないじゃない。お寺の隅っこでつまんなそうにしてる。外に遊びにいったら、イタズラしたのかって叱られちゃう。みんなから困った子だ、困った子だって囁かれてる。それなのに、ぬえちゃんはお寺で暮らす方が好いの?」
しめた、と思った。黒髪の少女は押し黙った。視線が一瞬だけど、狸のお姉さんの方へと逸らされた。畳み掛けるチャンスだ。
「居心地が悪いのに、無理して留まるなんてぬえちゃんらしくないわ。簡単なことじゃない。『お世話になりました』って書き残して、さっと飛んじゃえば、はいオシマイ。誰にも迷惑はかけないわ。むしろ、ぬえちゃんがいることで、既に誰かが迷惑を被っているんじゃないかしら? なら好いじゃない、いつも部屋でため息ばっかついてる癖に」
ぬえちゃんは呆然としていた。なんで、そこまで知っている、と顔に書いてあった。マジックさえあれば、それをなぞってやれそうなくらいだ。呼吸を二つぶん呑み込んでから、ぬえちゃんは口を開いた。
「……もしかして、あんたがうちに入信した目的って」
こいしは答えなかった。それを話すには先ず相手の答えが必要だった。
狸のお姉さんは、かき氷を食べるのを止めていた。
「のうのう、そう結論を急ぐこともあるまい。ぬえの奴も――」
「私はぬえちゃんに質問してるの」
と裁いた。我ながらナイスな反射だった。狸のお姉さんも、耳をぴくりと震わせてから詫びてきた。そうだったのぅ、と苦笑いを残して。この人には苦笑いが好く似合う。私のようなふわふわな笑顔は出来っこない、とこいしは微笑む。
「あのさ、その――こいし」
「なぁに、ぬえちゃん」
けれど、勇気づけられたのだろうか、ぬえちゃんは真っ直ぐに見つめてきた。不覚にも胸がときめいた。
「このバラ、綺麗だよね、ありがとう」
「どういたしまして」
「でも――それでも私は、命蓮寺に残りたいの」
有無も是非も云わせない感じだった。緋色の瞳に確かな
「そりゃあ、狭っ苦しいと云えば、狭っ苦しい場所だと思う。私には似合わないかもしれない。あそこにいるだけで、あるいは私は致命的に損なわれてしまうかもしれない。けどさ、私には借りがあるのよ」
借り、とこいしは口には出さずに呟いた。なんじゃそれ、と思った。
「返せてない恩だってある。住まわせてもらってる恩もある。私ってば空回りばっかりで、三歩進んで五歩下がってるようなもんだけど、それでも“諦めるわけにはいかない”の。こいしはどう思ってるか知らないけど、それは私にとっては結構、大事な位置を占めてることなのよ。それに――」
ぬえちゃんは、かき氷のスプーンを意味もなく振った。
「それにさ――やりたいことだって出来たし……あいつらのこと、割と嫌いじゃないし」
最後は消え入るような声だった。神様のストローで声が吸い上げられたみたいに。
摘みたてのトマトのように真っ赤な顔で、ぬえちゃんは俯いてしまった。
沈黙は、けれど、長くは続かなかった。
「よっ、ぬえ! ――好く云ったァ!」
と狸のお姉さんが大声を上げた。途端に周りから一斉に拍手と口笛が吹き鳴らされた。英雄の凱旋を讃えるファンファーレを思い出した。隣には盆を持ったお店の人がいた。溶けかかったかき氷が乗せられていた。注文をお出しするタイミングがつかめなかったみたい。
あちゃあ、とこいしは思った。すっかり忘れていた。私のかき氷が。
ぬえちゃんは耳まで赤くしちゃってる。狸のお姉さんは、その背中をばしんばしんと叩いている。お店の人たちは今の
これは潮時だな、とこいしは思った。
「ぬえちゃん、今の、最高にカッコ好かった。ううん、最高に可愛かった」
「なっ――あんた、始めからそのつもりで!?」
「まさか、でも、ごめんなさい」
素直に謝った。敗者は常に潔くあれ、心に敗れて潔く地底に引きこもった、お姉ちゃんのように。
ぬえちゃんは、頬をかりかりと掻いていた。紺色の爪がとても綺麗、ブルーベリーみたい。
「あー……たまには、さ。たまには、地底にも顔を出すから。これで勘弁してよ、こいし」
しょうがないなぁ、と笑ってやった。今のところは許してあげましょう。
結局、ぬえちゃんの説得は叶わなかった。ま、いっか、とこいしは思う。
何はともあれ、ぬえちゃんは、バラの花束を受け取ってくれた。確かな前進だ。偉大なる一歩だ。アームストロング船長の言葉を借りるなら、これは人類にとって大いなる飛躍なのだ。たまには顔を出すって約束も結んでくれた。押せば押すほどに、その正体を見せてくれる。その呆れるほどの不器用な優しさを、私だけに見せてくれる。
これだから、私は――ぬえちゃんのことが諦められないのだ。
□ □ □
その日の夜になって、ようやく村紗水蜜は行動を開始した。
ぬえぐるみを置いて、ほったらかしだったムラサ人形を手に取る。ぬえぬえタイムは終了のお時間だった。これから沈没覚悟の、一世一代の大航海が始まるのだ。くそぅ、私め、無駄にモチモチしてやがる……!
自室を出て縁側を渡り、ぬえの部屋へ向かう。虫や蛙が思い思いにオーケストラを奏でている、好く晴れた夏の夜だった。月はここからでは見えないが、きっと足を止めてしまうほどに綺麗なんだろう。私が沈んだ時のような、嵐の晩とは程遠い、それだけは有り難いことだった。
ぶっちゃけると、緊張で吐きそうだった。出航して一分と経たずに船酔いだ。コロンブスもマゼランもヴァスコ・ダ・ガマも、こいつは役に立たんと海へと放り込むに違いない。潮の味を思い出してしまい、水蜜は鳥肌だった。これは私自身との勝負でもあるのだ、今度は聖だって助けてはくれない。
キャプテンよ、常にベリィクールにあれ、ナポレオンの海軍相手に勇敢に戦って散った、かのネルソン提督のように。
ぬえの部屋は命蓮寺の端っこにある。文句のつけようがない四畳半だ。これくらいのスペースで丁度好いと本人は云っていたが、水蜜としては、もっと広い部屋で心ゆくまで休んで欲しかった。あんな狭い地底に閉じ込められていたのだ、手狭な空間が夜空を翔ける鵺にとって丁度好いはずがなかった。
ぬえに呼びかける前に、深呼吸を挟む。そして、ムラサ人形を持ち上げて、もう一度、仔細に観察する。ルーペで昆虫の
小憎らしいほどに愛らしい顔つきをしている。エメラルドグリーンの瞳は澄んでいる。赤いスカーフは私とは思えないほどに紳士的に、かつ芸術的な結び目を成している。そのまま社交界に行っても通用しそうだが、荒れ狂う大海原ではクラーケンにナメられること請け合いだ。表面が可愛ければ可愛いほど、その奥にある醜さが際立って見えてくる。香水で体臭を誤魔化すのと似ている。私の場合は香水どころか潮の磯臭さだから、尚更に分が悪い、と水蜜は思う。
意を決して部屋の前に立つ。ぬ、と声を上げようとして固まってしまい、その場から離れてしまった。
真っ白な寝間着、もとい浴衣の裾を握りしめた。丸っきり幽霊の格好だった。未練たらたらだ。
そもそも、自分を象った人形をプレゼントすることそのものが間違っている気がしてきた。つまりは、ぬえの反応がダイレクトにこの胸を抉る可能性も高いということだ。捨てられたらどうしよう、要らないとか云われたらどうしよう、ましてや、ムラサ気持ち悪いとか……そんなことになったら、もう一生立ち直れそうにない、死んでるけど。
森の人形遣いの顔が思い浮かぶ。悩みなんてない、むしろ来るなら来い、と云いたげな顔が。
――等身大のあなたを認めてあげても、きっとバチは当たらないわ。
ぬいぐるみは等身大なんかじゃない、ミニチュアだ、と筋違いな反論が頭に浮かんだ。もう駄目だ。
玉砕という単語が頭に浮かんだ。男は当たって砕けろ、と世間は云う。海の女も半分は男みたいなもんだ。ならば玉と砕けて潔く海の藻屑と散るのだ。ひるむな、私よ、今行かなくていつ行くのだ! ナポレオン軍は目の前まで迫っておるのだぞ……!
「――ぬ、ぬえぇぇぇッ!!」
キャプテン・ムラサは満を持して、ぬえの部屋に飛び込んだ。
「ムラサ、うるさい」
「……はい」
初手から詰んだ、と思った。
ぬえは、今夜はカベルネ・ソーヴィニヨンではなく、赤玉スイートワインを呑んでいた。もんのすげえ甘いやつだ。振り向くことすらせずに、ワイングラスを傾けて、部屋の中央でアルコールを摂取していた。二色三対の羽が、今にもこちらへと飛びかからんばかりにうごめいていた。
……あれ、怒ってる?
疑問形にするまでもなく、ぬえは怒っているみたい。餓えた虎、巣を荒らされた蜂、正体を暴かれた鵺、云い方はなんでも好い。とにかく怒っている。これ以上なく。
私のせいか、と思った。そんな沸点の低い奴じゃないはずなのに。人里で何かあったのかもしれない。不味い展開だった。捨てられるどころか、その場で八つ裂きにされそうだった。そんなことをされたら、悪い意味で昇天してしまうではないか。
「……ぬえ」
「ぬぁによ!」
やっぱり怒ってるよ、コンチクショウ。そういえば、今日ぬえと話をしたのは、これが初めてだ。そう気づいた途端、意識が天の高みへと昇ってゆきそうになる。
「わ、わたしたいものが、あるんだけど」
声の震えが伝わらないようにしたかったけど、それもダメみたいだ。火山の大噴火が起こった時の計測器のごとく震えていた。
その声の震えが、逆に功を奏したのかもしれない。ぬえは、ようやく振り向いてくれた。その手にはワイングラスがあった。もう片方の手には、真っ赤なバラの花束があった。
「……へ?」
バラって、あのバラ? 花言葉は愛情ってアレ? 脳は拒否している、網膜は冷静に現実を写し取っている。その乖離が、かまいたちのごとく心をズタズタにしてゆく確かな手応えがある。
「それ、誰から?」
「誰だって好いでしょ」
好くない、という声は喉の奥で潰れた。そんな風に隠し事を作っちまうから、みんなから距離を置かれるんだ。それが正体不明のアイデンティティだとしても、本当は、あのぬえぐるみのように可愛いのに、あんなに可愛いのに。
やっぱり止めよう、と頭で声が囁く。誰が渡したのか知らないけど、バラなんて勝てっこない。私がバラなんてプレゼントしたら、ぬえは鼻で笑うだろう。大笑いするかもしれない。それが、ましてや人形なら……?
「ちょっと待ってよ、ムラサ」
ムラサ、という響きに泣きそうになる。ぬえが追いかけてきて、手をつかんでくれていた。でも、その手を握り返すことはできない。敗軍の将は黙して去るのだ。ネルソン提督にはなれない。ナポレオンには勝てない。
「渡したいものって? 気になるじゃないの」
ムラサ人形はお腹に押し付けて隠していた。ぬえは回り込んで覗き込もうとした。
「やっぱ駄目 私は無理なの ナポレオン」
「俳句なんて読むんじゃないわよ、しかも字余りっ! ナポレオンが無理ってなによ、美味しいじゃない!」
そりゃナポリタンだよ、ぬえ。
二色三対の羽に、たちまち全身を絡め取られた。ムラサ人形はバスケットボールみたいに、ぬえの腕の中へと吸い込まれた。
これって、とぬえの声が聴こえた。何もかもがお終いだった。
「そう、それ私、ムラサ人形」
水蜜は振り向いた。もう観念するしかなかった。惨めな気分だった。地底に封印された時とは別種の惨めさだった。
「……ごめん、迷惑だよね。要らないなら、返してくれて好いから」
また浴衣の裾を、両手でぎゅっと握りしめた。ぬえは、ムラサ人形をモチモチしながら呆然としていた。その真っ黒な浴衣が、自分が着ているものと色違いであることを、今更になって知った。
海へと真っ逆さまに落っこちる、最後の蹴りが必要だった。下にはサメがうようよいる。自分ひとりじゃ飛べない。早く終わらせて欲しかった。ギロチン処刑が一瞬で完了するのと同じように。
「……ありがと、ムラサ」
これで心おきなく飛べる。目の前には真っ青な海が――。
「――って、えええッ!?」
水蜜はすんでのところで、踏切台からターンした。
「要らないって、なに云ってんの、嬉しいよ」
知らないうちにコカインでもキメて、幻覚を見ているのではなかろうか。
でも、確かに、ぬえはムラサ人形を精一杯に抱きしめている。脳はそれを拒否している。網膜は冷静に現実を写し取っている。その乖離が、打ちおろしたアンカーのように心を繋ぎ止めてくれている。
「き、気持ち悪くない? だって私の……人形なんだよ?」
「なんでさ、こんなに可愛いのに、酷いじゃん、ムラサのバカ」
ムラサ人形はモチモチし続けていた。ぬえはその感触を楽しんでいた。それも優しげな微笑みを浮かべて。マリア様だって、こいつの笑顔にゃ勝てぬぇだろうと思った。
「貰ってくれる、ねぇ、貰ってくれるの、ぬえ?」
紅い瞳が、心の臓を心地よく射抜いてくれた。
「あったりまえじゃん――大切にするよ、ムラサ」
頭がくらくらする。本当にコカインをキメたみたい。子供が地球儀で遊んでいるかのように世界が回っている。足の力はところてんみたいに抜けていた。心が海水じゃない何かで満タンになっている。
そして、ようやく、その感覚が、幸せなんだってことに気づいた。
イタズラを叱ることでしか迫ることの出来なかったぬえの正体に、初めて近づけた気がした。
ぬえぐるみじゃなくて、本当のぬえを抱きしめてやりたいと、心から思った。でも、今は無理だ。出来ない。人形の私が抱きしめてもらっているんだから、横取りしてはいけない。
水蜜もぬえも、その場で尻餅をついて、互いの心の暖かさを分け合っていた、たった一体の人形を通して。等身大の自分を認めてやること、それこそが、すなわち自信なのだと、水蜜は知った。
だから、ぬえがムラサ人形を離したら、その時は力いっぱいに抱きしめてやろう。
あんたは独りじゃないって、ちゃんと心に届くまで、何回だって云ってやろう。
こんな可愛くて正体不明なあんたを嫌う奴なんて、この寺の何処にもいないって。
そのことを、ぬえに真っ先に伝えてあげなくちゃ……!
「ぬぇ……ムラサ」
「ん、なに?」
ぬえは、ぽつんと畳に言葉を零した。
「これさ、もしかして、私の人形もあったりするの?」
…………。
な、なんて勘が鋭い奴だ……っ!
◆ ◆ ◆
幽谷響子は、今日も参道の掃除をする。
般若心経を唱えながら、そこに鳥獣伎楽の歌詞も織り交ぜながら。小豆色のワンピースの裾を翻して、いつもよりも高らかに、そして大声で歌っている。竹箒は魔法で操られているかのように動き回る。お日様はすでに挨拶を終えている。黄金の油が地上に降り注いでいる。今日も暑くなりそうだ、と思う。
「ぜ〜む〜と〜ど〜しゅ〜」
早起きな小鳥たちに負けたくはなかった。鳥に負けたと聞いたら、バンド仲間から笑われる。
態勢を立て直さなきゃならない。鳥といえば、鵺だってトラツグミだ。ぬえ先輩には負けられない。
昨日のスイカの味が、向日葵の色彩のように鮮やかに蘇ってくる。
――誰にだって、可愛いところのひとつはある。その芽を育てれば好いのよ。
――ベクトルが違うだけ、あんたにも可愛いところはあるわ、女の子だもの。
そうだ、私だって女の子なのだ。ぬえ先輩がかき氷のイチゴシロップなら、私は新鮮な冷たいスイカだ。
カッコ好くはなれない。トリッキーな能力は使えない。でも、私には生来の大声と燃えたぎるガッツがある。
それを最大限に活用しなければならない。犬が優れた嗅覚を用いて、あらゆる場面で活躍してきたように。
私は私のベクトルで、勝負してやるのだ……!
「今日も絶好調ね、ヤマビコさん」
「あ、おはよーございますっ!!」
最近になって入門してきた子が、ふわふわな笑顔で参道を登ってきていた。今日は何やら手荷物を持参している。いつもは知らぬ間に境内に踏み入っているのに、珍しいこともあるものだ、と響子は思った。
「挨拶は心のオアシス! さぁ、古明地さんも」
「こいしで好いよ――うん、おはようございます」
「声が小さい!」
「おはよーございますっ!」
うぅん、と耳が震えた。好い声、好い挨拶だ。やっぱり、一日の始まりはこうでなくっちゃ。
「それで、今日は修行なの? それとも見学?」
どっちでもない、とこいしは首を振った。
「――大好きな人に、私は逢いに来たの!」
そう云って、閉じた恋の瞳は、晴れ渡った夏空に挑みかかるかのように笑った。
真っ赤で可愛らしい靴が入った紙袋を、大事そうに大事そうに抱えながら。
◆ ◆ ◆
アリス・マーガトロイドは、今日も人形制作に余念がない。
大丈夫、イメージは頭のなかで完全に組み上がっている。後は、それをどれだけ手際好く、かつ傷つけないように情念の大海から取り出してやるかの勝負だ。彫刻家が石から作品を彫り出すように、アリスは集中力を研ぎ澄まして作業を進め、ちょっとした休憩に煎れたてのコーヒーを呑み、バタークッキーを何枚かかじった。
そろそろ昼ごはんにしようか、と立ち上がりかけた時、玄関のドアが執拗にノックされた。その執拗さには、何かしらの形而上的な啓示が含まれているようにさえ思えた。
はいはい、そんな急がなくても、すぐに伺いますってば。
アリスはドアを押し開けた。途端に二人の少女が我先にと転がりこんできた。新手のカチコミか、と身構えてしまった。
「なによ、性悪タヌキ! 今回くらい私に譲れってんだ!」
「ならぬ! 儂が先じゃ、金だって貸してやると云うておるじゃろうが!」
蓬莱人と化け狸だった。どちらも強引に森を抜けてきたらしく、服は汚れ放題だった。少なくとも、今の二人のなかでは“人様の家に訪問する際の最低限のマナー”という項目は、かなり安い値段で競売にかけられているようだった。
アリスは片手で頭を押さえながら、マンモスのごとく重い息を吐いた。
「……それで、ご用件は、お客さん?」
妹紅とマミゾウは、こんな時に限って、仲好く唱和した。
『――自分も、ぬえぐるみが欲しいですっ!!』
何処かのヤマビコにも負けないくらいの大声だった。
やれやれね、とアリスは思う。目の前で再び喧嘩を始めた二人を見比べる。
どうやら、船長人形は、きちんと予定した航路に乗っかれたらしい。目指すは何処だ、何処までも。二人の航海に障害はナシ、ただし同乗希望者が多数いる模様、雲行きは怪しくも楽しい、ヨーソロー……そんなところだろう。
こんなに多くの人に好かれて、何が正体不明の大妖怪なんだか、と笑い声が漏れてしまう。
人目を避けて魔法の森に住居を構えているのに、なんだか羨ましいと思ってしまった。
私らしくもない、ないが、今はこの騒がしさに身を浸していよう。
ゆったりと椅子に座り、コーヒーカップを手に取る。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。朝の一杯を堪能した後で、アリスは机に指を組んでから、不届きな来訪者を見すえたのだった。
「訊くまでもないと思うけど――特急料金で好いのよね?」
◆ ◆ ◆
ぬえと水蜜の一日は、同じ布団の別の枕のうえで目覚めるところから始まった。
まずは冷静に昨夜のことを思い出そうとする。傍にはぬえ人形とムラサ人形が、やはり寄り添って眠っている。二人して、眠気の余りぶっ倒れるまで人形遊びをしていたのだ。あんなママゴトみたいな遊びに夢中になったのは、恐らくは産まれて初めてのはずだった。恥ずかしいのか、嬉しいのか、自分でも分からない、正体不明だ。
ムラサも目が覚めたらしい。真っ白な浴衣は肌蹴ていて、目のやり場に困った。
とろんと海の底を歩いているような視線を向けてくる。デコピンを喰らわすと、ようやく目の焦点が合ってきた。
「……ん、あれ、ほえ」
「おはよ、ムラサ」
「なんで、ぬえがいるの」
黙って人形たちを指差してやる。ムラサは昨夜のやり取りを思い出したのか、いきなり感極まったように抱きついてきた。戦争によって離れ離れになっていた恋人たちのように。
「好かった、夢じゃなかったよ、ぬえぇ……」
「夢が本当になったんだよ、たぶん」
ムラサの気持ちを知れて好かった、と思う。叱られてるだけじゃない、確かな繋がりというものが、地底から脈々と受け継がれてきたという事実が、とんでもなく嬉しかった。何よりも嬉しいのは、それをとても自然なものとして感じられることだ。偶然なんかじゃない。ちゃんとムラサが私の正体を覚えていてくれたことが、ただ嬉しかったのだ。それは本当に自然に起こったこと。自分の巣に帰る鳥たちのように、サヤの中に収まるエンドウマメのように。
ぬえとムラサは、しばらくの間、黙って見つめ合う。そこで無言の、けれど数限りない言葉が交わされる。体温を分け合うには、夏の太陽は些か天空を昇り過ぎている。その役目は人形たちに任せれば好いのだ。二度と離れないよう、肩を寄せ合っていて欲しいと願う。
人形たちは、可愛らしい笑顔で寄り添っている。それは私たちの弱さを微塵にも感じさせない、ディフォルメされた表情にも思える。ぬえは首を振る。今なら、そうじゃないと感じることができる。それこそが、今の私たちが理想とする関係なのだ。その人と一緒にいるだけで、地底の暗さも海の深さも、気にならなくなるのだ。
時間は掛かると思う。あるいは今よりも損なわれてしまうかもしれない。それは分からない。
ひとつ確信を持って云えることは、“ありがとう”という言葉を交換するたびに、世界は確実に晴れてゆくということだ。
◆ ◆ ◆
「――ぬえ、悪いけど、タンスから着替え取ってくれない?」
「やだよ。自分で取りなよ、そんくらい」
「眠くて動けないの。お願いお願い、後でかき氷奢ってあげるから」
「マジで? ……それなら話が早い、このぬえ様に任せなさいって」
「ありがと、大好き」
「どういたしまして」
…………。
「……ぬぇ、ムラサ」
「どうしたの、ネズミでもいた?」
「なに、この写真?」
「――えっ」
〜 おしまい 〜
.
ぬえの愛らしさと船長のテンションが良かったです。
ぬえぐるみ欲しいー
ムラぬえ好きですけどこいぬえもいいですね。
寺に来た理由にもなりますし。
カップリングを否定する気はないけど、これならむしろ、一つに絞って掘り下げた方が良かった、気がしますね。
個人的好悪と言われればそれまでですが……
これから壮絶なぬえちゃん争奪戦が始まるのでしょうか
紳士的に行動的なこいしちゃんも イイ…
妹紅とマミゾウさん 妹紅とぬえちゃんの繋がりは決して絶たれる訳じゃないんですぬぇ…
感じてしまった。
これから全作品をじっくり読ませてもらいます。
好き作者に出会えたことに乾杯!