―1―
妖怪と神々が住まう土地、幻想郷。
数多の妖怪が集う妖怪の山の麓、霧の湖の湖畔にその洋館はひっそりと佇んでいた。
その名も紅魔館。
和風の建造物がほとんどを占めるこの幻想郷において、洋風の佇まいというだけでも他と比べて目を引くものがあった。加えて外観が深紅一色に染まっているというのだから、その存在感は幻想郷の中でも随一のものである。
そのような理由から、幻想郷の住民――主に好奇心旺盛な妖怪たち――にとって、紅魔館はちょっとした観光名所となっていた。
もちろん紅魔館同様に、この館の主についても幻想郷で知らぬものはほとんどいないだろう。
レミリア・スカーレット。
先の紅霧異変の首謀者であり、紅魔館の主。見た目はまだ幼さが残る少女の姿をしているが、齢五百歳を超える永遠に幼い吸血鬼である。
彼女は今、紅魔館内にある自室の椅子に座っていた。
部屋の内装も館の外観と同じく深紅を基調としており、ところどころに配置された絢爛豪華な調度品の数々は、部屋の主の気品の高さを表しているようだ。
レミリアの傍らには、メイド服に身を包んだ銀色の髪の少女の姿があった。人間の身でありながら、紅魔館のメイド長としてレミリアに仕えている十六夜咲夜である。彼女の近くには給仕用のワゴンが置いてあり、その上にはティーセットとサンドイッチなどの軽食やお茶請けの菓子が載った三段重ねのティースタンドが並んでいた。
時刻は午後七時。外には夜の帳が下りている。
人間にとってこの時間帯は"アフタヌーン・ティータイム"になるだろうが、夜行性の吸血鬼にとっては"モーニング・ティータイム"といったところだろう。
咲夜は手慣れた様子で、テーブルの上にティータイムの準備を進めていた。
メイド長という、紅魔館全体をまとめなければならない立場の咲夜にとって、レミリアと二人きりで過ごせるこの時間は長い永い一日の中でも、特別に至福の時間であった。
つい先日のティータイムでも、レミリアは紅茶と茶菓子を無邪気に頬張りながら、
『うー☆ れみりあ、咲夜の入れてくれた紅茶だぁいすき☆』(※注 咲夜視点です。)
とか、
『ねぇねぇ咲夜、明日は咲夜の焼いてくれたパンが食べたいなぁ☆』(※注 咲夜視点です。)
とか、言いたいことも言えないこんな世の中の物とは思えない、それはもうとびきりキュートな笑顔が返ってきたのだ。その笑顔を見るためならば、どんな激務でも乗り越えられるというものである。
しかし、今夜のレミリアは少し様子が違った。
いつもであれば咲夜がティータイムの準備を進めていると、お茶請けのメニューや紅茶の種類についてあれこれ聞かれる筈なのだが、今夜はそれがない。
咲夜は準備の手を止めず、そっとレミリアの顔を窺った。
その紅い瞳はテーブルの上に置かれたティーカップを注視したまま動かない。口の前で手を組んでいるためその表情は見えないが、その思いつめた様子から “何か”について思案を巡らせているのが読み取れる。
レミリアがあのような顔をする時は、何か重要な事案について思案している時だと咲夜は知っていた。
過去には先の紅霧異変や月ロケット発射計画など、その深紅の脳細胞から生まれたカリスマ溢れる考えと発言力で、紅魔館を導いてくれた。今回もきっと、自分には思いつかないような重要な事案について思考を巡らせているに違いない。
それならば一歩下がったところから身の回りのお世話をし、サポートに徹底するのが従者の務めではないだろうか。咲夜はそう考えると、先程から変わらない表情で思案を巡らせているレミリアに向けて退室の旨を伝えた。
「失礼いたします」
しかし、やはりレミリアから反応は返ってこなかった。
咲夜の胸に少しだけ寂しい感情が芽生えたが、今は仕方がない。タイミングが悪いだけだ。
主に向けて一礼をし、咲夜は部屋を後にした。
◆ ◆ ◆ ◆
―2―
「失礼いたします」
そう言って、咲夜が退出した数秒後。
廊下から聞こえる足音が離れていく事を確認すると、レミリア・スカーレットは安堵の表情を浮かべた。
(あ、危なかった……)
自室ということも忘れ、改めて周囲に誰もいないことを確認し、肺に溜まっていた空気を吐き出す。
あと数秒、あと数秒咲夜の退出が遅かったら、隠し通せなかったかもかもしれない。
さて、話は数刻前まで遡る――。
太陽が山の頂に捕まり、世界を紅く染め始めた頃。レミリアは自室から外の景色を眺めていた。
今日も変わらず日の光は大地を余すことなく包み、その大きなエネルギーで人々に恵みと暖かい光を与えていたが、それもあと数分の話。太陽は西の山々の向こう側へと沈み、空にはやがて夜の帳が下りてくる。
レミリアはこの時間が一日の中で一番のお気に入りだった。憎き太陽が沈み、夜の王である吸血鬼を祝福するかのように世界が黒に染まっていく、この時間が。
「さぁ、世界よ。今宵も私を楽しませておくれ」
自らの隠しきれぬカリスマに酔いしれながら、咲夜の入れた紅茶を無意識に口へ運ぶ。
「っ!?」
瞬間、レミリアの口内に鋭い痛みが走った。
左奥歯から歯茎内部へと駆け抜ける電流のような鋭い痛みと、その余韻のように後を引く痺れ。
そう、虫歯である。
もともと歯を磨く習慣はあったのだが、日々の忙しさ――レミリア本人曰く、紅魔館当主としていろいろと忙しいらしい――から、時々歯を磨く事を忘れることが多くなり、次第に "歯磨き" という行為に面倒臭さを覚えるようになった。その頃から咲夜に注意されるようになるが、結局聞く耳持たず。歯磨きをしない事が当たり前の生活になっていった。
そんな生活をここしばらく続けていたが――。
(まさかこんな事になるなんて……)
舌を器用に動かしながら痛みが走った奥歯に触れてみる。
最初ほどではないが鋭い痛みが再びレミリアを襲い、思わず「ひっ!」と声にならない悲鳴が漏れた。
目の前のテーブルには、咲夜が用意してくれたティーセットの数々。
しかも今日はレミリアの好物の一つである、フルーツタルトが茶菓子として用意されていた。砂糖とフルーツがたっぷり載った甘いタルトが。いつもなら真っ先に手を伸ばす程の好物だが、今のレミリアにとっては地獄へと誘う甘い罠の一つにしか見えないのであった。
(あぁ、何も気にすることなく、ただひたすら甘味を味わっていた頃が、ひどく昔の事のように懐かしいわ)
と思っていても、実際はつい昨日の事なのだが。
今日までの自らの不精な生活態度を後悔するが、時すでに遅し。回避不能な危機的状況に陥ってからでないと過去の過ちを悔やまれないのは、吸血鬼も人間も変わらないのである。
さて、なってしまったものは仕方がない。
ここは前向きに解決策を探そうではないか。
この幻想郷で医療に従事している者、と聞いて真っ先に思いつくのは、やはり永遠亭の薬師だろう。
妖怪・人間問わずに治療している彼女ならば、吸血鬼の虫歯などという、世にも奇妙な組み合わせの患者にも問題なく対処してくれるはずだ。
ただ一つ問題があるとすれば、永遠亭に直接出向く必要があるということだ。
先にもあるようにレミリアは紅魔館の主として、幻想郷では名の知れた大妖怪の一人である。そんな大妖怪達のスクープを狙って、昼夜問わずに幻想郷を飛び回っている、あの忌々しい幻想郷のブン屋が外にはいる。
アイツに永遠亭へ入る姿を"偶然"目撃されてみろ。きっと次回の号外には"ない事" "ない事"が掲載されるに決まっている。
『紅魔館、永遠亭の傘下に!? レミリア・スカーレットのカリスマ喪失が原因か!!!』
『スクープ! 月の頭脳と永遠に紅い幼き月の黄昏時の密会!』
自分で考えておきながら、ひどい寒気がする。レミリアは自身の豊かな想像力を呪った。
そんな理由もあり、この件は可能な限り紅魔館内で解決しておきたいのだ。しかし、だからといって頼りになる咲夜には相談できない。
(もし今、虫歯なんかで苦しんでいることが周知の事実になったら、今度こそこの"カリスマ"は地に落ちるかもしれない。ただでさえ紅霧異変以降、底値知らずに下落し続けているカリスマを、みすみす自分から手放す気になんてなれる訳がないもの!)
そのような思考こそが、自身のカリスマを下げている小物的思考だと、レミリア本人は知る由もなかった。
その後、これ以上のカリスマ下落を防ぐ解決策を模索したレミリアだったが、結局一つの結論に至った。やはりここは彼女に助力を仰ぐしかないだろう。痛む左頬を擦りながら、レミリアは目的の場所へと足を向けた。
◆ ◆ ◆
―3―
見渡す限り、何処までも続く本の山。
咲夜の能力によって拡張された広大な空間に、整列された本棚がどこまでも続いている。どの本棚にも隙間なく本が収められており、入り口から見ただけでもその蔵書数が千や二千できかないことが容易に分かる。
ここは紅魔館内部にある大図書館。
"図書館" と呼ばれてはいるが、本の貸し出しは一切しておらず――中には無断で借用していく困り者もいるが――、たった一人の魔女の知識欲を満たすために存在する書斎、といった方が正しいかもしれない。
「パチェー、いるかー?」
レミリアの声が広い空間にこだまする。
一体どれくらいの広さなのだろう?
以前、咲夜に図書館の空間の広さについて訪ねたことがあったが、 “東京ドーム ”とかいう知らない単位で広さを表され、困惑した覚えがある。結局、咲夜本人もその単位以外で説明することができず、謎は謎のまま今日まで過ごしているが。
そんな事を考えていると、テーブルの上に高く積み上がっていた本の陰から、目的の人物の声が聞こえた。
「あらレミィ。こんな夜の早い時間に訪ねてくるなんて。珍しいこともあるのね」
声の聞こえた方向へ足を進めると、来客などお構いなしに読書に耽る少女の姿があった。
パチュリー・ノーレッジ。七曜の魔女。
この膨大な蔵書数を誇る図書館の主であり、レミリアの古くからの友人でもある。その小さな体躯に蓄えられた知識は素晴らしいもので、彼女の的確なアドバイスによって窮地を脱した事も数多い。まさに紅魔館の頭脳といえる存在である。
「それで、今日は一体何の用かしら? 空気の読み方のハウツー本ならN-一九三の棚、自己啓発のコーナーならR‐八九零一の棚よ」
読んでいる本から目を離さずに、パチュリーは言う。
魔法によって灯されているテーブルの上には、読みかけの本が乱雑に並んでおり、その横に置かれた紅茶からは既に暖かさは失われていた。
「ち、違うわよ。今日はその……」
急に話を振られ、レミリアは言葉に詰まった。
古くからの友人であり、滅多に外出する事がないパチュリーであれば、虫歯のことが洩れる心配がないと考えて相談相手に選んではみたが、いざ打ち明けるとなると急に恥ずかしさがこみ上げてくる。しかしこのまま黙っていては何も解決しない。意を決してレミリアは口を開いた。
「そ、そのだな、――し――になったんだ」
「何? 声が小さくてよく聞こえないわ」
先程と変わらず、本から目視線を離さず答えるパチュリー。よ、よし。今度はもう少し大きな声で。
「だ、だからぁ、む、む――ばになったんだよ!」
「むぅ……むきゅ?」
「だーかーら!! 虫歯になったんだよっ!!!」
レミリアの絶叫に近い告白が、図書館の広い空間にこだました。
◆ ◆
―4―
図書館中にこだました絶叫告白から数分、レミリアはこれまでの経緯をパチュリーに話した。
「……吸血鬼でも虫歯になるのね」
「そりゃなるさ。吸血鬼だって虫歯にもなるし、風邪もひく。人間たちのそれと変わらないよ」
すっかり冷めた紅茶を飲みながら、パチュリーは読書を続ける。
彼女をよく知らぬ者からは今のパチュリーの反応は冷たいものに見えるかもしれないが、それがこの魔女にとって普通の対応であることをレミリアはよく理解していた。
「虫歯。英語で言うと"Caries"ね。よく歯科検診なんかで耳にする事が多い"C"は、この"Caries"の頭文字のことよ」
「ふーん。そうなのか」
歯科検診ってなんだろうか?
レミリアはそんな疑問を持ったが、口には出さないでいた。口にしたら最後、知識の魔女様によるご講義が開講するのが想像できたからだ。既に事態は一刻を争うレベルなのである。左頬の痛みも先程までに比べて大きく、そして早くなってきた気がしていた。
「それで、私の所に来た理由は誰にも悟られることなく内密に治療したいから、と。……確かに治療する方法はあるわよ」
読んでいた本をパタンと閉じ、レミリアの問いにパチュリーは答える。机の上に積まれている本の山の高さが、また一冊分更新された。
「ほ、本当か!?」
思わず身を乗り出すレミリア。
パチュリーならばと淡い期待をもって図書館にやってきたが、まさかここまで早く解決の目処が立つとは思っていなかった。
(あぁ、やっぱり持つべきものは親友よね。しかも口が堅くて知識が豊富とか超最高!)
が、その期待はすぐに裏切られることになる。
次の瞬間、レミリアの足元に青い魔法陣が展開された。
「っ!?」
あまりに突然の出来事に対応できずにいると、右手にも同じ、いや、書かれている術式は同じであるがもっと小型の魔法陣が展開された。右腕に続いて左腕。右脚。左脚。同じ魔法陣が次々とレミリアの四肢に広がっていく。
数秒後には両腕両足全てが魔法陣によって束縛され、さながら磔にされた聖者のような格好となっていた。
「あ、あの、パチェ? これは一体どういう――」
「……何って虫歯の治療に決まっているでしょう? せっかくレミィが私を頼ってきてくれたのだもの。友人としてその期待に応えないといけないじゃない。そうそう、外界には『サメ』という、それはもう立派な歯を持った生き物がいるらしいの。なんでもサメはその歯を維持するために、数日に一度のペースで新しい歯に生え変わるそうよ」
なぜ目の前にいる友人の態度が急変したのか。レミリアはその問いに対する解を持ちえなかったが、先程までパチュリーが読んでいた本の背表紙を見て理解した。その背表紙にはこう書かれている。
『古今東西図解シリーズ "歯"について ~サメから吸血鬼まで完全網羅~』
結局、目の前にる魔女は、溢れる好奇心に負けたのであった。
「サメが歯を維持するためにそのような再生能力を持っているならば、吸血鬼にだって同じような再生能力があるはず。いえ、吸血鬼の方が種としての格が上な分、より素晴らしい再生能力を持っているはずよ。それならば私の魔法で虫歯そのものを消滅させれば、あとは時間が解決してくれるわ。私の予想では数分で済むはずよ。それに――」
まるでレミリアに話す機会を与えないかのように、パチュリーは一息で語り続けた。
いけない。今この瞬間のパチュリーは危険だ。
つい先日もこの図書館で、料理について記載された漫画を読んで感化されたようで、「私も至高のメニューを作るわ!」と意気込み、普段は立ち入らないキッチンルームに立て篭もるという事件が起きた。そこまでで終われば単なる笑い話の一つで済むのだが、その直後にキッチンを含むエリア一帯が謎の大爆発し、普及まで二週間を要するという大事件になったのである。
パチュリーが作ろうとした料理が何だったのか、なぜ料理であのような大爆発が起きたのかは今でも不明だが、これだけは言える。
本に感化されたパチュリー・ノーレッジに関わると、ロクなことにならない。
「さぁ、レミィ。覚悟はいい? あ、動かない方がいいわよ。手元が狂うと大変なことになるから」
笑顔には見ている人に安堵感を与え、リラックス効果を生むというが今のパチュリーの表情からはそのような効果は全く期待できないでいた。
端的にいうと、目が笑っていなかった。
「えっと、あまり聞きたくないけれど、具体的にはどうなるの?」
「……首から上が吹き飛ぶわ」
今さらっととんでもない事を言ったぞ、この魔女。
パチュリーの手の平に、どんどん魔力が集中していくことが分かる。魔力は徐々に光を放ち、巨大なエネルギーの塊となり始めた。
「安心して。すぐ楽にしてあげるわ」
ふふっ、笑みをこぼすパチュリー。
この状況でその発言は、誰がどう聞いても失敗フラグにしか聞こえない。
パチンとパチュリーが指を鳴らすと、レミリアの小さな口が見えない力によって強引に開かれた。いよいよもって逃げられない状況になってきた。
「さて、これから処置を始めます。執刀は私、パチュリー・ノーレッジ。患者はレミリア・スカーレット。そして助手は小悪魔よ」
パチュリーの横にはいつの間にか小悪魔の姿があった。
レミリアがその鋭い眼光で睨むと「ひ!」と小さい悲鳴が小悪魔の口から漏れる。
(お前、まさかこの私に楯突こうとするんじゃないだろうな!?)
(す、すみません、私もまだ死にたくないんですぅ!)
アイコンタクトで会話するレミリアと小悪魔。
しかしこの場を支配しているのはレミリアではなく、パチュリーである。非力な小悪魔がどちら側に付くのかは一目瞭然であった。
レミリア自身も先程からこの状況を脱出しようと必死にもがくが、さすが七曜の魔女のお手製魔法陣といったところか。全く身動きが取れないでいた。
状況は「覆水盆に帰らず」。状態は「まな板の上の鯉」といったところか。
(まさか、こんな結果になるとはね……。こんなことなら咲夜に言われた通り、毎日の歯磨きをちゃんとしておくべきだったわ)
過去の行動が走馬灯のように脳裏をかける。
が、時すでに遅し。
目を開けるとパチュリーの手にはロイヤルフレア(対虫歯用)があった。いつでも吹き飛ばせる準備はできているといったところか。
果たして数秒後、吹き飛ぶことになるのは虫歯か、首か。
――あぁ咲夜、ごめんなさい。
「――パチュリー様、紅茶の御代りをお待ちしました。」
瞬間、パチュリーとレミリアの間に咲夜の姿が現れた。
右手にはティーポットとカップが載ったお盆を持ち、左手には何故か銀色のナイフをチラつかせていた。
「今日の紅茶は新しい茶葉を使用しておりますので、香りがとてもいいですよ」
咲夜の突然の登場に驚く三人だったが、パチュリーの方は咲夜の姿を見て冷静さを取り戻していったようだ。ふぅ、と小さく息を吐くと、右手で何かを操作するような動作をする。
次の瞬間、レミリアの体の自由を奪っていた全ての魔法陣が消失した。先程までとは違い、四肢が自由に動きことを確認する。
「ごめんなさい、レミィ。少々熱くなり過ぎたわ」
「いいのよ、パチェ。この件は私の方で解決す――」
その時ふと、何気なく舌で虫歯に触れてみたが、痛みが走らない。まさかと思い、恐る恐るもう一度虫歯に触れてみるが、やはり鋭い痛みはない。
(な、治ってる!?)
一体いつの間に治療が完了したのだろうか。全く気がつかなかった。
泣き叫ぶ子供の注意を注射針から逸らすため、人形劇するという話を聞いたことがある。まさか先程までのパチュリーの行動は、レミリアの注意を虫歯から逸らすためにやった過剰な演出だったのではないのだろうか。
子供と同じと考えるのは少々癪だったが、そう考えると目の前の魔女が先程と違い、まるで女神のような優しさ溢れる存在に見えた。
(パチェ、やるじゃないの!)
咲夜が近くにいるため言葉には発せないが、アイコンタクトでパチュリーに感謝を伝える。しかし当のパチュリー本人は、何のことか分からないという顔をしていた。
「咲夜、お茶会の準備をしなさい。パチェも図書館に籠ってばかりいないで、たまには付き合いなさい」
そういうとレミリアは軽い足取りで、図書館の出口へ向けて歩みを進めた。その足取りは軽く、周りの目がなかったらきっとスキップの一つでもしていたのだろう。
レミリアがこの場を去ってから、残されたパチュリーと小悪魔は目を合わせた。
「パチュリー様、一体どういうことでしょうか? 私には術式が途中でキャンセルされたように見えたのですが……」
「実際その通りよ、術式は私が途中でキャンセルしたわ。だとしたら考えられる可能性は一つ――」
パチュリーは咲夜に尋ねる。
「咲夜、あなたの仕業ね」
咲夜が二人の間に現れたあの瞬間まで、レミリアが虫歯の痛みに苦しんでいたのは確かだった。しかし先程のレミリアの様子を見る限り、"何故か"虫歯の痛みが消えており、どうやらパチュリーによって治療されたと勘違いしているようであった。
だが当事者であるパチュリーは、自らが何もしていなことが分かっていた。そう考えると残る可能性は一つ、咲夜が"時を止めて治療した"としか考えられなかった。
咲夜はパチュリーの問いに答えずに、クスッと微笑むと、
「主の知らぬところで、影からサポートする。それが瀟洒な従者の心得ですわ」
そう言いながらウィンクをし、内緒話をするかのように人差し指を立てて鼻に当てた。その表情はまるで内緒の悪戯が成功した子供のような、とても無邪気なものであった。
「……持つべきものは瀟洒な従者よね」
「咲夜、早くお茶の準備をなさーい! パチェも早くー!!」
遠くから咲夜とパチュリーを呼ぶレミリアの声が響く。
「お互い、レミィには振り回されるわね」
「そうですね」
咲夜とパチュリーは視線を交わすと苦笑いを浮かべ、我等が親愛なるお嬢様の元へと歩みを進めた。
◆
―5―
吸血鬼にとって天敵である憎き太陽が沈み、夜の帳に支配された時間。霧の湖が一望できるバルコニーでは、洋館の主の吸血鬼とその友人の魔女がお茶会を開いていた。
吸血鬼は一日振りの菓子と紅茶に舌鼓をうち、饒舌に話している。
友人のその楽しそうな様子を見て、魔女は微笑む。
そんな二人の様子を見て、給仕をしている悪魔の少女と人間の少女も、控えめであるが微笑んでいだ。
夜の帳は下りたばかり。今宵のお茶会はまだまだ続く。
そんな楽しそうなバルコニーから離れた紅魔館の地下室で。
背中の羽に付いた様々な色の宝石を左右に小さく揺らしながら、もう一人の吸血鬼が思いつめた顔で口を開いた。
「――歯が痛い」
―了―
目の前にいる、でしょうか?
面白かったです。こういうのんびりしたものは大好物です。
それ以前に本当に治療をしたのだろうか……ま、まさかっ、ナイフで神経をっ!?
なんて考えたら週末の歯医者さんに行くのが怖くなってまいりました
完璧なほのぼのに泣きそうになりながら読みました。