「この先、迂闊に進むことを禁ずる」
むせ返るような草木の匂いが、メリーの鼻腔をくすぐった。
「初代の迷宮を踏破せず、なおかつ、これより踏破することを臨む者は、直ちに引き返すことを推奨する――トリフネには、こんな朽ち掛けた用紙はなかったわね。これはこれで、ひとつの収穫といったところかしら」
毒々しい色合いをしたアゲハ蝶が、ふんわりと優雅な動きで飛び去っていく。蝶々は不吉の前兆でしかないので、メリーはそれを追うような真似はしなかった。
手元の紙が、ぽろぽろと崩れ去る。メリーに読まれたことで役目を終えたかのように、音もなく砂へと成り果てた
壁面を覆う蔓を、おもむろに引っ張ってみる。かなり強い力を加えたはずだが、へばり付くように生える蔦はビクともしなかった。悪態の代わりに溜め息をつき、改めて自分の立つ場所を見渡す。
ユーモラスの欠片もない、平らな壁と床とによって形作られた通路が、幾本も続いている。そのすべてが朽ちたように所々が欠けており、無数の蔦によって覆われてはいたが、人工的に作られたものであることは容易に想像がついた。硬質な光を湛える通路は、そのどれもが途中で曲がり角となっており、その先を窺うことはできない。
迷宮――ミノタウロスを迷い込ませるために造られた迷宮を、メリーは思い出した。ジャングルとは、おおよそ言い難い光景だった。
「地面は人工物であり、惑わすような壁も人工物。テラフォーミングの一環としては似ているけども、やっぱりトリフネとは違うわね」
こつこつと、メリーの足音だけが聞こえる。
「そして、テラフォーミングとしてはひどくお粗末な結果だわ。酸素供給、大地浄化など、様々な恩恵を求められるものとしては、たったこれだけの植物が自生している結果では、少々物足りない。第一、建造物を遺棄したままテラフォーミングを推し進めるなんて、本末転倒よね」
一世一代の論文を展開しているかのように、メリーの声は朗々としており淀みがない。にもかかわらず、その声に耳を傾けようとする者は、誰もいなかった。無機物は、あくまで無機物でしかなく、有機物である植物とて声を発するはずもない。
もっとも、メリーにとっては、それでも構わなかった。
「よっぽど、幼稚な計画だったのでしょうね。まあ、テラフォーミングだなんてSFみたいな代物は、幼稚以外の何者でもないのだろうけど」
言葉にはしながらも、メリーの顔は明るい。
そんなSFの代物でしかない目の前の光景は、マエリベリー・ハーンの探究心をくすぐるのには充分だった。歩幅も大きく、先へ先へと進む。
「若しくは」
淡々と硬質な音だけが響き渡る。
思ったとおり、複雑怪奇な場所である。唐突に通路が別れているかと思えば、そのどちらも行き止まりであった。かと思って引き返してみれば、途中で枝分かれした通路の先が、新たな進路を用意している。一面、蔦に覆われた無機質ながらも有機物満載の迷宮が、メリーの足を阻む。
それでも、メリーの足取りは軽い。まるで、自分こそ迷宮の主であるかのように堂々と、そして止まることなく、先へと進んでいく。幾度となく、無愛想な行き止まりに阻まれたとて、その溌剌とした歩みは一向に衰えることがなかった。
迷うことへの不安、取り残されることへの恐怖など、そういった陰りのような感情は、整った顔には微塵も浮かんでいない。
「建造物を巻き込ませるのも厭わないくらい、切羽詰まった計画だった。そうしなければならないほど、事態は急を要していた、ってところかしら」
何故ならこれは、メリーの夢だった。探究心や好奇心を適度に満たしてくれる、メリーの夢なのである。
それを存分に心得ているからこそ、臆することなく歩み続ける。
ジャングルへと成り果てようとしているこの迷宮は、以前に探索した衛星トリフネを、嫌でも思い起こさせる。物音ひとつなく、蔦に覆われる人工的な建造物は、今もラグランジュポイントに漂っているであろう楽園のものと、近いものが感じられた。
懐かしさにも似た感覚に、メリーは踊る。
「あら」
踊るように進めていたその足が、ぴたりと止まる。
「これ」
見つけたのは、錠前すらない扉だった。
等しく、右と左に別れるはずのその扉は、まるでマエリベリー・ハーンその人の侵入を拒んでいるかのように、重々しく閉じられている。隙間なく、ぴっちりと閉じ込められた扉の中を窺う術など、今のメリーにはなかった。
「あれよね」
蔦に覆われた、壁面の最中にその扉はある。にもかかわらず、その扉には蔦の一枝も掛かってはいない。その扉だけが、植物である蔦すら触れるのも憚っているかのように、綺麗に残っている。
無機物特有の鈍い光に、メリーは首を傾げた。
扉の横、蔦に覆われる壁には、ボタンが垣間見える。その周囲だけが、他の壁には見られない材質のものが、使われているようだった。よくよく見ると、扉の上部にも同じものが見られる。
その様相に、メリーは思い至るものがあった。
壁を覆う蔓さえなければ、目の前の扉にはひどく見覚えがあった。
「まさしく」
横手のボタンを、何者かに導かれるかのように、押す。
「エレベーター」
ちりんと、場違いなほどに軽やかな音が聞こえる。
重々しい扉が、滑るように開いた。
◆◆◆
「というところで、目が覚めたの」
「またトリフネに行ってしまったんじゃないの?」
「残念ながら、今回は随分と様相が違っていたわ。羽の生えた猛獣も居なかったし、ツノゼミもモルフォチョウも見当たらなかった。勿論、神社の鳥居なんて、欠片も見つからなかったわよ。見たのは、妙に毒々しい色合いをしたアゲハ蝶と」
「エレベーターだけね。あーあ、折角、こうしてメリーを里帰りに付き合わせてまで、サークル活動に励んでいるってのに。その成果がアゲハ蝶とエレベーターだけだと、さすがに割に合ってないわよ」
これ見よがしに、蓮子は溜め息を吐いていた。仰げば、夏に相応しい青空が覗いている。万人等しく、気持ちがいいと思えるであろう青さだったが、通りを行く人々は煩わしげな顔をしていた。
場所は、東京の何処かである。
この土地に親しんでいないメリーにとって、今此処が何処なのかはさっぱり分からなかった。間違いないのは、目の前で帽子を扇代わりにしている宇佐見蓮子の、実家の近くということである。
夏の陽射しが、ひたすら眩しい。
普段から人工物に触れているせいか、天然の陽光は随分と容赦がないように思えた。蓮子に習い、メリーも帽子を手に取り、扇として使ってみる。
暑さの和らぐ気配は、微塵もなかった。
「暑い、暑いわ。暑くて死ぬわ」
「やめなさいよ蓮子、縁起の悪い」
「じゃあ訂正。私はこの暑さで死んでもいいし、死ななくてもいい」
汗の浮かんだグラスの中身を、蓮子はストローも使わずに嚥下する。アイス珈琲を、ストローも使わずに飲む輩を、メリーはこの日はじめて見た。はじめて見る光景ではあったが、そんなに嬉しいものでもなかった。
「そうね。選択肢としては、涼しくなることか面白いことを選択するわ」
「自分で言って、自分で決めないでよね」
「人間には等しく選択の余地がもたらされるのよ。蓬莱の薬を使うか否かだって、私には選ばせてほしいものね」
すでに吸殻が積まれた灰皿を、蓮子は自分のもとへと手繰り寄せる。そうしながら、口には煙草をくわえていた。紫煙が漂い、メリーの鼻腔をくすぐる。
蓮子の喫煙する様子が、メリーは嫌いではない。
あまり気持ちの良い顔はせず、それでも吸うことを続けている蓮子の顔は、叱られた子供のようだった。絶対になにも考えてはいない癖に、何事かを頻りに考えているように、眉間に皺を寄せている。そんな蓮子の表情は、メリーの目でも読み取ることはできない。だと言うのに、なんとはなしに見れば、子供のような顔だと瞬く間に理解できる。
そんな曖昧な蓮子の顔が、ひどく面白いものに見えた。
「メリー、そんなにじろじろ見ないでよ。ただでさえ誤解されがちな私たちの関係が、見ず知らずの人達にまで誤解されちゃう」
「蓮子って、そういうところにうるさいわね」
「性分なのよ」
ふわりと、吐き出された紫煙が漂う。
「細かいことまで、気になっちゃう」
「私は、別に蓮子との仲が誤解されても構わないんだけどね。だって、実際にはそういう関係でもないんだし」
「そういうところは、メリーって図太いわよね」
「蓮子が常に図太いだけよ」
中身が温くなる前に、手元のグラスを口につける。紅茶などの嗜好品には滅法疎いメリーだったが、蓮子の紹介してくれたカフェのものは、確かに美味しいと感じられた。喫煙者は味覚などの様々な感覚が鈍ると聞いているが、どうやらそれも眉唾物らしい。
煙草も立派な嗜好品のひとつである。だからこそ、蓮子は恐らく自分が思っている以上に、嗜好品への鼻が利いている。少なくとも、メリーはそう思っている。
「夢の中でも、あなたは図太いし」
「夢の中だからね。所詮、メリーの夢の中でしかない出来事なんだし、それなら合成獣だってなんでもないわ」
「私は怪我をしたんだけれど」
「メリーの不注意ね」
「富士の樹海に吊るすぞ、蓮根」
「すいません」
ビルの隙間からは、久しく使われてはいない銀色の塔が見える。赤い塔から交代して、随分と早いものだとメリーは思った。赤、銀、次は果たして何色なのだろうか。
ぼんやりと、メリーは視線だけで空を仰ぐ。
「空へ行きたければ、気球艇でも用意することね、メリー」
「いきなりなによ」
「あなたが空を見ていたから」
「最近の私たちのサークル活動から察するに、真っ先に宇宙のことを出すのが常じゃない? シャトルとかなんとか、なのにそこで、何故気球?」
「メリーの視線が、空を見ていたから」
まだ紫煙の漂う煙草を指に挟んだまま、蓮子が微笑む。
「その、のんびりとした視線から、宇宙ではないかなって思ったの。間違っても、シャトルとかの慌しいものは、想像も出来なかったわ」
「空はのんびりで、宇宙は慌しい。そう決めてしまうのは、ちょっと違うのじゃないのかしら、宇佐美蓮子さん?」
「マエリベリー・ハーン。君を待つのは、悠遠なる空の世界だ」
煙草を持った手で、蓮子は青空を指す。
ぽとりと灰が蓮子の黒髪に落ちたが、メリーはあえて何も言わなかった。
「さあ、靴紐を直し、その豊満過ぎるぞこん畜生という胸に抱えた思いとともに、今こそ空へ飛び立ちたまえ、ってね」
「蓮子の胸は都市伝説級だものね。これも煙草の賜物なのかしら?」
「うるさい、この外国産乳牛が」
灰皿で煙草を揉み消しながら、蓮子が睨みつけてくる。日本人特有の黒瞳には、一般的な日本人には見られない能力が秘められている。
それを気持ち悪いと言ったのも、随分と昔の話に思えた。淡々と話す内に、自分の目を蓮子が気持ち悪いと言ってきたのを、ぼんやりと思い出す。あの頃は、お互い言動にも容赦がなかったものである。
いや、それは今もかな――メリーの口に、苦笑とも失笑ともつかない笑みが、小さく漏れた。
「ちょっと、その勝ち誇ったような笑み、やめなさいよ」
「あら、私はまったく別のことを考えていただけよ。いつまでも固執しないで頂戴、みっともない。大体、これだって大変なのよ。肩が凝るなんて日常茶飯事だし、これから先、垂れることを考えると憂鬱にだって」
「熟れて垂れる実すらない人間への嫌味かこら〜」
ストローに口をつけ、蓮子はこちらを恨めしげに見上げてくる。空気を送り込まれた珈琲が、ごぽごぽと気泡を上げた。
まるで子供である。
そして、そんな子供のような仕草が、この宇佐見蓮子というサークル仲間には、随分とよく似合っているように思えた。
「まあ良いわ。そんな大きい小さいって話は小さいから、もうやめよう」
「切り出したのは、蓮子のほうだったわよね」
「だから、私から切り上げるの。はいはいこの話しは終わりよ終わり」
新しく煙草をくわえた蓮子が、苦々しく答える。
もっとも、すでにその目は、乙女の世知辛しさを訴えるものではなかった。我ら、秘封倶楽部の一員らしい探究心によって、鮮やかに彩られたものとなっている。自信どころか、身体さえ一回りほど大きくなったかのように、闊達とした蓮子の声が続ける。
「さて、今回の最大のヒントは、やっぱりそのエレベーターでしょうね」
「今更、蓮子に言われるまでもないわね」
「確認よ確認。そして、メリーはそれがエレベーターだと分かったけど、そのエレベーター自体には見覚えがなかった」
「あんな旧式のもの、久しく見ていないわ」
「東京なら、ごまんとあるだろうけどね」
腰掛ける椅子へともたれ掛かりながら、蓮子は空を仰いだ。
アイス珈琲の氷が、からんと涼しげな音を立てた。
「ごまんとあるからこそ、何処から手を付けるべきか」
蓮子の言葉が示すとおり、東京は旧い街だった。
遷都した都の残滓は、住む人こそ多いものの、年を経るごとに着々と古びていっている。その癖、旧型の高層ビル群は今もなお健在であり、駅も路線も網の目のように広がっている。旧式のエレベーターひとつでは、どの建造物かと目星をつけるのも、極めて困難であった。
メリーの脳裏に、夢の光景がよぎる。
蔦に覆われ、植物に呑まれようとしていた。廃墟の写真、ネットで見かけたイラストなどが、思い起こされた。その鼻に残った香りは、強烈なまでの青臭さ――掴み取れそうなほどにまで濃密な、緑の臭気である。五感に訴えかけ、鈍らせてくるほどの生命力だった。最早、確かめるまでもない。天然物――自然特有の、遠慮しない生命力である。
人工物が、自然に呑まれる。
その最中で稼動していたエレベーターの先が、ひどく気になった。
「――駄目ね。さすがに手掛かりが少な過ぎる」
紫煙を吐き出して、蓮子は空を仰ぐのをやめた。
「これは当初の予定通り、メリーの観光案内かしら。私としては、とても不満ではあるのだけれど」
「私は、それも興味はあるけどね。東京なんて、来る機会もないし」
「よく分からないわ。私なんかは、腐るほど見てきたものなんだけど」
「私にとっては新鮮よ、この街は」
高過ぎるビルが、遠くに何本も鎮座している。懐の路線図は、まるで来るものを拒むかのようにこまめに書かれてあり、見つめるだけで滅入りそうでもあった。それを、改めて地図よろしく広げてみる。迷宮か何かの地図のほうが、幾分も分かりやすいものに感じられた。
「新鮮ね、やっぱり新鮮だわ」
「メリーは変なところで感動するわね」
煙草を揉み消して、蓮子は呆れたように微笑む。
「で、なにがそんなに新鮮なのかしら」
「決まっているじゃない」
路線図を、蓮子に見えるように持った。
高層ビルの乱立によって、青空は小さいものに思える。駅構内のカフェテラスからは、入り組んだ駅の通路が見下ろせた。通りには、枝木のように立体的に交差する歩道橋が、幾層も架かっている。
それらの光景すべてが、夢と重なった。
「こんな迷宮みたいなところが、新鮮なのよ」
広げた路線図をぱしりと叩いて、メリーは笑った。
◆◆◆
「見事に当たりを引いたわね、蓮子」
果たして二人は、メリーが夢見た光景の中に立っていた。
「よもやと思って?見た?のだけど。こうして見ると、確かに現実の面影は残っているわね」
「じゃあ、やっぱりテラフォーミングは地球のためだったという訳ね」
遠くで、ひらひらと宙を舞う毒々しいアゲハ蝶を、蓮子は興味深げに見つめていた。幸い、追いかけるような素振りはなかった。
「にしても、トリフネと比べると、どうしても感動は薄いかな。重力もそのまんまだし、取り立てて珍しい動植物もいない」
「見つけられても、それはそれで困るんだけど。また危ないのはごめんだわ」
「でも、メリーの夢の中でしょう?」
こつこつと、音を立てて前を行く蓮子の顔は、メリーのものより溌剌としている。銃を構えたポーズで、撃つ真似までしてみせた。
「夢の中なら、人間は何者にだってなれる。今の私たちは、さながらダンジョンRPGを攻略する主人公よ。さあ、栄えある第一歩を踏み出したまえ、ってね」
「残念ながら、前のシューティングの主人公より無理があるわ。今回は、重力だって夢の外と変わりはない訳だし」
「人間は、等しく最初は初心者よ」
しゅっしゅと、拳を繰り出す真似をしながら、蓮子が続ける。ちなみに、しゅっしゅという効果音は拳の風切り音などではなく、蓮子自身が動きに合わせて呟いたものだった。なんとまあ、ガキ臭い仕草である。
「私たちにだって、この迷宮を進む権利はあるわ。道中は――そうね、レベルアップでもすればいいのよ、強くなっちゃえば問題ないわ」
「ここの危険度が、私たちにとって分相応であることを祈るわ」
窓らしきものは、ここからでは確認できない。前回の夢の中と同じく、先の見えない通路が無数に続いている。
どのあたりでエレベーターを見つけただろうか。
メリーは真っ先に思い出そうともしたのだが、結局その試みは徒労に終わった。おおよそ変化がなく、目印さえ見当が付けられない通路の連続に、そんな目処など付けられるはずがなかった。
仕方なく、新しく加わった蓮子とともに、虱潰しに通路を進んでいく。迷宮よろしく、無愛想な行き止まりの連続が、幾度となく二人を出迎えてくれた。通路を撫ぜる風もなく、二人が交わす姦しい声の他に、聞こえてくるものは何ひとつない。
最初こそ、子供のようにはしゃいでいた蓮子も、段々とその好奇心を萎ませていった。この場所に来る前に、メリーが大方のことを話してしまったのがいけなかったのだろう。今や、すっかり口数の少なくなってしまった蓮子の横顔は、半ば無理矢理に演奏会へと連れて来られた、子供のそれであった。
とは言え、蓮子の気持ちも分からなくはなかった。
夢の時には、逸る好奇心のおかげで気付かなかったが、無感動なほどに変化の見られない通路の連続は、歩く者の活力を削ぐのに充分であった。律動的な足音を刻む床には、最初に見つけた用紙のような発見は、ひとつも落ちてはいない。壁、或いは天井などに重要な事柄が記されていないかとも考えたが、六つ目の行き止まりに阻まれた時には、それを探すことも断念してしまった。
まさしく、迷宮である。
閉じ込め、惑わし、精根尽きた不逞な侵入者を呑み込む。そのためには、わずかな気力を沸き立たせる物さえ用意してはいけない。只管、無感動の渦中へと封じ込めて、出口はおろかそのためのヒントすら、探させてはくれないのである。
恐らく、神話のミノタウロスもそうして閉じ込められたのだろう。アリアドネが用意した糸玉は、脱出して然るべき者のためにのみ、準備されているのである。生きる者は生き、朽ちる者は朽ちる。
そういった意味でも、この場所はまさしく迷宮であった。
「メリー、糸とか思った?」
「奇遇ね。私もアリアドネを思い浮かべたところよ」
「いざとなれば、メリーの夢だからね。無理矢理にでも覚めちゃえばいいんだろうけど」
「なんの用意もせずに帰れるなんて、ミノタウロスやテーセウスが知ったら真っ青ね。差し詰め、私の存在はチートアイテムってところかしら」
「或いは、イージーモードとかカジュアルモードとか、そんな感じよね。構わないわ。私たちの活動は、あくまでサークル活動なんだから」
いつの間にやら取り出した煙草をくわえて、蓮子は不貞腐れたように頬を膨らませる。
悪ぶっている中学生に見えてしまうのが、いかにも蓮子らしい。こんな場所だというのに、空いた手に携帯灰皿を持っているところが、妙に微笑ましかった。思わず吹き出しそうになったのを、メリーは寸でのところで押し留めた。
「こうなったら、些細なものでもいいから変化がほしいわよね、変化が」
「蓮子が言うと物騒に聞こえるわ」
「失敬ね。今の私は、それこそ有り触れたなものでも満足できる自信があるわよ」
「具体的には?」
「そうね。例えばリスとか、ザリガニなんかでも喜んでやるわよ。メリーと二人で、捕まえることに躍起になってやるわ」
「なにそれ、蓮子ってやっぱり変ね」
「メリーにだけは言われたくない」
同じような景色が、どこまでも続いている。
幾本にも別れ、幾重にも曲がり、幾度となく行き止まりが阻んでくる。お互いに、疲弊し切ったひどい顔をしているんだろうなと、メリーはぼんやりとした頭で考えていた。
しかし、それでも歩みは止まらない。
止めることなど、思い付くことさえなかったと言っても過言ではない。
そして、メリーの予想が正しければ、蓮子とて同じだろう。むしろ、宇佐見蓮子という頼もしきサークル仲間は、自分など足元にも及ばぬほどに猪突猛進なのだと、メリーは考えていた。影響の大きいヴァーチャルの最中でも、突き進むような胆を持っているところが、なによりの証拠である。現に、ともに歩く蓮子の歩幅は、メリーのものより一回りほども大きく、勢いも強い。時折、歩調を合わせなければ、あっという間に取り残されてしまったことだろう。
前へ前へと、我武者羅な気持ちが滲んでいた。疲れを感じさせる蓮子の横顔には、それでも匂い立つほどの好奇心が覗いていた。恐らく、それを垣間見た自分も、同じような顔をしているのだろう。
メリーの口の端が、苦笑とも自嘲とも取れる形に、吊り上がる。
ここが迷宮であるならば、我ら秘封倶楽部ほど相応しい人間は、そうそう居ないだろう。その無尽蔵さで迷う者を滅入らせる迷宮には、枯れない好奇心と尽きない胆力こそが攻略の要となる。ならば、そのふたつを持て余すほどに抱いている私たちならば、踏破することも不可能ではない。
自惚れのようなものだったが、それでもメリーは何とはなしに、それでいて強く、確信していた。
だからこそ、歩みを止めることはなかった。
恐らく、蓮子も無意識の中で、そう考えているに違いない。そういった意味では蓮子を信頼しており、なにより信じていた。
「信じる者こそ救われる、ってね」
「いきなりどうしたのよ、メリー。もしかして、変なものでも食べちゃった? さっきの毒々しいアゲハ蝶とか」
「そんなカマキリみたいな真似、するはずないでしょう。蓮子じゃあるまいし」
「カマキリねぇ。格闘漫画よろしく、巨大なカマキリとか出てこないかな。イメージトレーニングでなら、負けないつもりなんだけど」
「人間大の昆虫とか、悪夢以外の何者でもないわね。下手をすれば、あの時の合成獣より厄介かも知れないわよ」
「メリーって、やっぱり変なところで心配性よね。さっきも言ったけど、ここはあなたの夢なんでしょう。だったら、思いどおりになるはずよ」
疲れた顔で、蓮子が朗らかに笑った。
こちらへと振り向いていたから、気付かなかったのだろう。靴が、硬質な物を蹴る音ともに、蓮子の歩みが止まった。若干、つんのめるようにしながらも踏み止まって、足元へと視線が移る。釣られるようにメリーも止まり、蓮子の足元を見た。
ボーリングの球と呼ぶのが、一番しっくりしていた。
蓮子に蹴られたことで、わずかばかり転がったその物体は、群青色の球体だった。大きさといい、硬質な鈍い光を湛えていることといい、ボーリングの球という単語が真っ先に思い起こされる。
「おお、第一異物発見」
喜色満面の笑みで、蓮子はその物体を手に取った。
若干、重たそうに持ち上げたところも、ボーリングの球を思わせた。
「金属かしら、人工物かしら、植物かしら。まさか動物……それにしても硬いわね」
「前回の夢では、こんな物は見なかったわ。蓮子、それ重い?」
「結構、重いかな。最初はボーリングの球にも見えたけれど」
「同じく。というかそれ、ボーリングの球じゃないの?」
「違うみたいよ」
こちらにも見えるように、蓮子は物体を抱えたまま、身体の向きを改める。
「このとおり、指をはめ込むための穴もなければ、ボーリングの球みたいに滑らかな表面はしていない。完全な、均一な球体ではないみたいだし。最初は人工物かなとも思ったんだけど、この段々となっている部分なんかは、生物の表皮を髣髴とさせるわ」
「例えば、どんな生物の?」
「そうね」
天井を仰いで、蓮子は眉間に皺を寄せる。
答えは、ものの数秒で返ってきた。
「ああ、思い出したわ。あれよ、あれ」
したり顔で、蓮子は言った。
「アルマジロ」
腕の中の球体が、逃れるように飛び跳ねたのは、その時だった。
◆◆◆
「宇佐見蓮子さん」
「なにかしら、マエリベリー・ハーンさん」
「ひとつ、お伺いしても宜しいかしら」
「お互い切羽詰っているので、なるべく手短に」
「了解、よ!」
目の前の曲がり角は、走り抜けながら曲がるのには少々無理があった。曲がり角の内側の壁に、手を引っ掛けると同時に重心を傾けて、なるべく減速してしまわないように曲がりきる。
視線だけで窺うと、当然のように蓮子も着いてきていた。メリーとは反対に、曲がり角の外側の壁を、片足で蹴り上げながら曲がりきっている。その動きは、鬼ごっこに本気で興じている子供のものと、大変よく似ていた。自分の曲がり方も大差ないと思い至って、メリーは息継ぎついでに溜め息を吐いた。
勿論、駆ける足を緩めるようなことはしなかった。
「トリフネの時、言っていたわよね」
「シューティングの主人公のこと?」
「合成獣のこと。キメェラだとか、ウィングバットだとか」
「キマイラね。若しくは、ウィングキャットかしら」
「詳しいみたいだから、聞くけれど」
本来、全力で逃げる時に、後ろを見るのは得策ではない。
しかしそれでも、メリーは顔だけで振り返りながら、怒鳴るように問い掛けた。
「あれ、なにかしら!」
「こっちが聞きたいわよ!」
轟音とともに、砂煙が巻き起こる。
もうもうと立ち込めた土煙を突き破ったのは、ボーリングよろしく床を転がる球体だった。鈍く光る群青色のそいつは、硬質な床に物騒な轍を刻みながら、こちらの後を追っている。明らかな意思を感じさせるその動きは、どうあっても人工のものではなかった。
群青色の球体が飛び跳ね、メリーへと一息に肉薄してくる。
「失礼するわよ!」
横合いから急に引っ張られたことで、駆けていたはずの身体が、ふわりと宙に浮く。エスコートにしては乱暴な言葉遣いとともに、蓮子はメリーの二の腕を引っ掴んでいた。
二人して、仲睦まじく転倒し、その上を群青色の球体が素通りしていく。丁度、目の前はT字路だった。
球体は、壁へと半ばめり込むように激突し、崩れた瓦礫に埋もれる。
「――ぞっとしないわね。さすがに礼を言うわ、蓮子。ありがとう」
「どういたしまして。でも、お礼を言われるにはまだ早いみたいね」
瓦礫から、もぞりもぞりと群青色が這い出てくるのが見えていた。埃を払うのもそこそこに、逃走経路の目処をつけて走り出す。
「あら可愛い」
球体ではなくなった群青色を見て、蓮子は引きつったような笑みを浮かべた。
瓦礫を押し退けていたのは、間違いなく生き物だった。見た目は、ダンゴムシとアルマジロの相の子と言ったところだろうか。もぞもぞと短い手足をバタつかせ、円らな黒い目でこちらを見つめている様などは、確かに愛嬌らしきものを感じさせた。
しかし、状況が状況である。
いくら見た目が可愛らしくとも、私たち二人はあの群青色に追い掛けられており、おまけにその突進は人工物の壁をも半壊させるほどの威力なのである。仮に、向こうにその気がなくとも、あんな突撃を受けたらそれこそ半壊、いやむしろ全壊してしまうことだろう。例えるなら、ワニにでもじゃれられる、甘噛みされるくらいに性質が悪い。
ただでさえ、怪我は御免こうむりたい。
半壊全壊など、もってのほかである
「持ってみた感じだと、重量はさほどでもなかったんだけどね。あの装甲を攻撃に活かしているってところかしら。見た目はさほどでもないのに、可愛い顔してえげつないわね、ほんと」
「さっきから、さほどでもないさほどでもないって、偉く余裕ね」
「違うわよメリー、むしろ逆なのよ、逆。物凄く焦っているからこそ、普段は出てこないであろう変な言葉遣いが、飛び出してきちゃうのよ」
「その結果が、さほどでもない、と」
「ええ、そういうことなの。あと、ついでだけどね、メリー」
「なにかしら、蓮子」
「さっき握った時に気付いたんだけど。あなたの二の腕、さほどでもないとは言えないわ。お肉の付きっぷり」
「大きなお世話よ! こうやってダイエットしているしノーカン!」
「夢の中だけどね」
五度目の曲がり角を、辛くも曲がりきる。これまで行き止まりにぶち当たっていないのは、不幸中の幸いだった。
「こういうところで、クジ運が良いのはついているわね」
「メリー、運というのは良いように見えて悪く、そして悪いように見えても良いものだと思うわよ。その証拠に」
走る勢いもそのままに、蓮子は振り返る。
「あら、今度のは可愛くないわね」
その言葉に、釣られるようにメリーも振り返った。
そして後悔した。
「蓮子。あれ、蓮子」
壁と壁とを跳ね回りながら、群青色の球体が追ってきている。その数が、ひとつから三つほどに増えていたことは、充分頭の痛くなる事態ではあったが、まだ許容の範囲内だった。
しかし、その跳ね回る球体達の最中を、縫うように飛来して来る二つの影は、さすがに見過ごすことはできなかった。
血のように真っ赤な複眼が、虫特有の節っぽい動きで傾げた頭に合わせて、ぎょろぎょろとこちらの姿を捉えている。全体像で言うならば、巨大なトンボと例えるのが、一番しっくりくるだろうか。しかしながら、人工物でも天然物でも慣れ親しんだトンボとは違い、一対の鋭利な鎌をこれ見よがしに擦り合わせていた。
中々、グロテスクな造詣だった。虫に弱い者が見れば、即座に卒倒したとて不思議ではないだろう。少なくとも、可愛いと呼べる代物ではなかった。
実を言えば、メリーもあまり虫は得意ではなかった。
口の端が、笑いとは正反対の感情で、ひくひくとせり上がる。
「蓮子、蓮子」
「分かっているわ、メリー。でもお願いだから、あんまりこっちを見ないで。涙と鼻水と涎を引き伸ばしはじめたあなたの顔は、思わず笑っちゃいそうなくらいに面白いから」
「さっき、言っていたわよね。人間大くらいのカマキリなら、イメージトレーニングで大丈夫だって」
「忘れたわ」
「あれどうにかしてよぉ!」
「無理」
「どうにかしてってばぁ!」
元々、飛ぶのは得意ではないのか、或いはこちらを弄んでいるのかは知らないが、お化けトンボは無理に距離を詰めようともせず、一定の速度で飛行していた。そのこともまた、不幸中の幸いだった。あんなのに近寄られるようなことにでもなれば――
嬉しくない想像に、さあっと血の気が引いた。
「お、メリー。顔色の割りには、足は元気ね」
「やだ! あんなのに寄られるの! 絶対やだ! やだやだやだぁ!」
「カマキリみたいな鎌もそうだけど、あの顎とか凄そうだものね。まるで昆虫界のハイブリット、さながらエースかしら。トリフネの獣に比べると、しっかりこの環境に適応しているのが分かるわね。ああ、そんな自然界のピラミットに組み込まれた時、人間はなんて無力なのでしょう」
「夢の中では、人間は何者にでもなれるんじゃなかったの! 私たちは、さながらダンジョンRPGの主人公じゃなかったの!」
「いやあ、ダンジョンRPGって、伝統に則って難易度高いのが多くてね〜」
ここが夢の中だと、理解しているからであろう。蓮子の態度からは、どことなく余裕が感じられた。こうやって逃げているのも、あくまでその場のノリに従っているつもりなのだろう。
一方のメリーは全力だった。夢の中だろうと、この前はそうやって油断して、怪我をしてしまったのである。下手に怪我を負うことは、避けたかった。
加えて、例え夢の中であろうとも。
「あんな虫に寄られるのはいやなのよぉ!」
身体が自然と前のめりになる。これまでのサークル活動でも久しく経験していないほど、風を感じる。メリーは、只管、全力で駆けていた。
そんな思いが、迷宮の主にも届いたのかも知れない。
九度目の曲がり角を過ぎた時、二人はほぼ同時に見つけた。
遠くで、場違いなほどに呑気な音を立てて開いた、扉である。わざわざ確認するまでもない。前回の夢で見た、エレベーターだった。
まず、メリーが転げるように乗り込んでいた。続いて、蓮子が滑るように乗り込んでくる。その時には、メリーは息をつく間もなく起き上がって、閉じるためのボタンを連打した。
扉は、焦らすようにゆっくりと閉まった。
群青色の球体や、お化けトンボの動きが止まったのが、閉じられる直前に垣間見えた。それらがすべて遮られた後、エレベーターの中には、二人分の荒い息遣いだけが聞こえるようになる。
どうやら、辛くも逃げ切れたらしい。
少女よろしく、メリーはぺたりと座り込んだ。
「まだ、覚めるには早いものね」
息も整っていないのに、蓮子が冗談交じりに言った。
「前回は、合成獣に襲われたところで目が覚めちゃったからね。都合が良いけれども、これで覚めちゃうのは、さすがに寝覚めが悪いわ」
「私は、もう、いっぱいいっぱい、なんだけれど」
ぜいぜいとメリーが息をつく。噴き出してきた汗は、なんとか拭うことができたものの、立ち上がることは無理だった。上下する肩もそのままに、床を這って壁にもたれ掛かった。
「メリー、今のあなた、かなりエロいわ」
「ありがとう。魅力的に見えるって、受け取っておくわ」
「虫に追いかけられている時は、お世辞にも魅力的とは言い難かったけど」
「あんなに大きいなんて、聞いてないわよ」
「その台詞もなんかエロい」
下っていく階層の表示を見ながら、蓮子が隣に座り込む。現代の物では考えられないくらい、ゆっくりと表示が移り変わっているのが見えた。理由は分からないが、どうやらこのエレベーターはかなり鈍足らしい。普段なら悪態のひとつでもつくところだったが、この状況では逆にありがたかった。
ようやく整ってきた呼吸を、より落ち着かせるように深呼吸する。
「それにしても、変わった奴らに追いかけられたわね。こんな経験は、前にメリーが言っていた、竹林に迷い込んだ時以来かしら。あの時は、メリーだけずるいなぁと思ったものよ」
脱いだ帽子を弄びながら、蓮子が問い掛けてきた。
「紅い目ってところは、同じだったんじゃない?」
「兎や女の子なら、何倍もマシよ。蓮子、よく考えてみて頂戴。あんな血のように真っ赤に染まった複眼で見つめられたら、十人の内、九人は逃げ出すわよ。若しくは、十人中十人ね。逃げ出さないのは、あなたみたいな変な人だけ」
「人間じゃないってのは、すべての紅い目に言えることだわ」
「あんなに大きな虫なんて、誰が想像できたのかしら」
「少なくとも、虫というのは様々なフィクションやサイエンスで巨大化されているわよ。中には、巨大建造物で孵化する巨大な蝶々だって、想像によって創造されている訳だし。やっぱり、自ずと人間は虫には勝てないって、無意識に思っているんじゃないかしら。それに比べれば、あれくらいのトンボなら、さほどでもないんじゃないかな」
「そんなにさほどでもないなら、打ち負かしても構わなかったのよ?」
「無理」
「言うと思ったわ」
二人の乗るエレベーターは、蝸牛のように鈍重に、降下している。これも旧式だからかと、メリーはなんとはなしに思った。
「ところで、蓮子」
「なにかしら、メリー」
「この場所、一応地球よね」
「それも日本の、現在も生きている施設のはずよ」
帽子を被り直した蓮子が、持て余すように手を遊ばせている。さすがに、エレベーターの中で煙草を吸う気にはなれなかったのだろう。下手をすれば、異常を察知されて急停止することも考えられた。
「若干の期待をしていたのは確かだけど。まさかこんな、乱立する文明の結集地みたいなところで、メリーの御めがねに適うものがあるとは、さすがに思わなかったわ。とは言え、東京も遷都のおかげで、年々古びているのは確かだけれど。差し詰め、乱立するかつての遺産ってところかしら」
「遺産と言っても、現在でも多くの人が、この長方形の鋼鉄の箱舟で、右往左往しながら日々を生きているのだけどね。蓮子だって、そうやって育った一人なんだし。そう考えるならば、こうやって人間が居なくなり、原生生物が跋扈しているということは」
「群青色の球体も、お化けトンボも、突然変異みたいな外見だったからね。進化の過程から逸脱していたことも鑑みるに、なにか予測できない事態に見舞われたってところね。詳細はなんら分からないけれど。少なくとも、ここの東京は完全に廃都と見るのが間違いないでしょう――あなたが見ている夢の中ではね、メリー」
興味の尽きていない黒瞳で、蓮子はメリーを覗き込んでくる。
「東京タワー、国会議事堂、渋谷のスクランブル交差点、フィクションではよく使われるところだから、そっちこそとも思ったんだけどな。まさか、ここでこの建物でメリーが?見つけ?ちゃうとは、ちょっと盲点だったかな」
「嬉しそうね、蓮子。故郷がこうなったらと思うと、私は素直に喜べないわ」
「夢は夢よ。どれだけヴァーチャルの影響が強くとも、所詮は夢でしかない。現実を夢に変えるのかどうかは、私たち次第って訳ね。だから、この光景は真実とは言えない。真実とは言えないから、心から涙を流す必要もない。メリーが夢で見ているだけだから、まだ夢が叶った訳ではないし、勿論、滅びている訳でもない」
目的の階層に、エレベーターはまだ着かない。止まっているかとも疑ったが、滑車の稼動する重低音は、小さくとも淀みなく聞こえていた。
「それに、夢としては悪くないんじゃないかな? テラフォーミングが成功しているのを、こうして私たちは確認できたのだから。勿論、夢だけど」
「やっぱり、蓮子って前時代的な考えよね」
「ポジティブと言ってほしいわ。蓬莱の薬、月の裏側の都、鳥船遺跡の合成獣、なんでもござれよ。さほどでもないわ」
蓮子が立ち上がり、手を差し出してくる。してやったりと、子供のようなその笑みに釣られるように、メリーはその手を握り返した。
話している内に、エレベーターは目的の階へと辿り着いていた。乗る際は慌てていたので気付かなかったが、どうやら最下層らしい。ちりんと、場違いなほどに可愛らしい音とともに、滑るように扉が開いた。
お互いに降りると、扉はゆっくりと閉まる。何故か、誰かに呼ばれたかのように上へと昇っていったエレベーターを、蓮子は興味深そうに見送っていた。
だから、気付かなかったのだろう。
「蓮子、ひとつ良いかしら」
「さっきから妙に質問が多いわね、メリー。なにかしら」
「あなた言ったわよね。なんでもござれ、さほどでもないって」
「TPOは弁えているつもりよ」
「じゃあ、聞くわ」
昇降口の前は、開けた空間となっていた。必死の思いで駆けた上の階と同じく、曲がり角の見える通路が幾つも広がっている。
その中のひとつ、曲がり角からこちらを窺うように、一対の瞳が覗いていた。
「覗いているあの目の主、そろそろ何とかしてほしいのだけど」
メリーがそう呟いたのと、ほぼ同時だった。
二人の行く手を阻むかのように、巨大な影が躍り込んでくる。その大きさは、あのお化けトンボの比ではない。目を合わせたメリーを、まるで品定めでもしているかのように、じっとりと見下ろしてくる。
抱いた印象は、巨大な熊だった。
藍色の毛で覆われた巨躯は、腕を投げ出すかのように床に降ろしながらも、後ろの二足でしっかりと立っていた。顔も同じく長い毛で覆われており、その下からは剣呑な光の瞳が覗き、大きく開かれた口からは貪婪な息遣いが漏れていた。耳に届いたその荒々しさに、メリーは半歩ほど後ずさった。
しかしメリーが目を剥いたのは、なにもその息遣いだけが原因ではなかった。熊に似通ったその生物が、熊とは一線を画している最大の箇所――最近、密かに気にしているメリーの腰周りなど、可愛らしく思えるほどに太い豪腕が、目に留まったからである。
毛に覆われながらも、溢れんばかりに膨張している筋肉を想像することは、難しくなかった。あんな腕を振り上げられれば、それだけで卒倒できる自信があった。だと言うのに、そんな凶器である豪腕の先には、これ見よがしに黒光りをする逞しい爪が備えられていた。魂でさえ裁断してしまうであろうその様相に、メリーは顔を背けることもできず、目だけで横を窺った。
思わず、笑い出しそうになるのを堪えた。
何故なら蓮子も、メリーと同じように目を剥いていたからである。
「あのね、あのね」
メリーの視線に気付いたのであろう。
ひくつく蓮子の口から、媚びるような声が出ていた。
「メリー、あのね」
「なんでもござれ、でしょ? さほどでもない、でしょ?」
「あのね、メリー、あのね」
わずかに蓮子は、首を横に振った。
「ごめん、無理」
「だと思ったわ」
こんな状況だと言うのに、少しだけ笑ってしまった。それが幸いしたのか、緊張の糸に絡め取られていた身体が、若干、軽くなった。
のそりと、毛むくじゃらの熊が動きはじめる。その体躯から察するに、それほど俊敏だとは思えなかった。いや、思いたくなかったというのが正しいだろう。踏ん張るための力を足に秘めながら、メリーは逃げ出す機会を待った。
熊の身体が、肉薄してきた。振り上げられた豪腕と、轟く咆哮に意識を持っていかれそうにもなるが、辛くも冷静に観察すれば、動きはそれほど素早くはなかった。
さほどでもないという、蓮子が連呼していた言葉が、脳裏をよぎった。
見ると、蓮子は右に駆け出そうとしている。
メリーは左を考えていた。
互いに一瞥し、小さく頷き合って駆け出そうとする。振り上げられた豪腕が、慣性やら重力やらの法則に従って、振り下ろされる動きに切り替わる、その瞬間を見計らった。
「あ」
場違いなほどに間の抜けた、蓮子の声だった。
藍色の巨体が、二人の見ている前で軌道を直角に変え、轟音とともに壁へと突っ込んだ。鮮やかな鮮血が、花を咲かせる。
「え」
駆け出そうとした姿勢のまま、メリーも間の抜けた声を出していた。
崩れ落ちた藍色は、びくりびくりと奇妙に痙攣している。若干、その巨体が小さく見えたのは気のせいだろうか。起き上がるような気配はない。
柔らかいものが磨り潰される、胸の悪くなる音が耳朶を打つ。ぐちぐちと、咀嚼音のようにも聞こえたその音に、メリーは視線を移した。蓮子が呆けたように見続ける、その先へと。
果たして、そこには金色が鎮座していた。
散るもかなり良しと、メリーは他人事のように思った。
◆◆◆
蛇のように長い胴体が、宙に浮いていた。それに比べると申し訳程度のように見える腕だったが、それでも藍色の熊と同じくらいに巨大であり、備えられた鉤爪は鋭い光を湛えていた。羽衣のように優雅にたなびく髭の下で、巨大な顎が一心不乱に何物かを咀嚼している。滴り落ちる鮮血とともに、藍色の毛束が垣間見えたのは、ある種の冗談だと思いたかった。
それは、まさしく龍だった。
西洋の竜ではなく、細長くも雄大に宙を泳ぐ、東洋の龍である。
そしてその龍は、全身が金色で覆われていた。とぐろを巻くように宙で曲がった、尾の先端から髭の末端まで、等しく輝くような金色を纏っていた。金色の龍は、見ているだけで平伏してしまいそうなほどに雄大であり、なにより美しかった。
「さすがに、これだけの代物は予想外ね」
メリーへと擦り寄った蓮子は、喜色とも焦燥ともつかない笑みを浮かべる。その黒瞳は、油断なく龍へと注がれていた。
知性をも感じさせる龍の瞳は、蓮子とメリーを確かに視界に捉えながらも、静かな光で睥睨している。しかしながら、友好的とは言いがたい威圧感は、ひしひしと感じていた。咀嚼し続けている顎も、その威圧感を助長させている。
金色の龍は、決して二人を助けた訳ではない。藍色の熊を、その暴虐なアギトで捕らえただけである。
それが、いつこちらへと向けられることになるのか。
あまり想像したくはない可能性に、メリーは逃げる場所を探した。
「蓮子、そっちはどう?」
「駄目よ、メリー。たぶん、逃げるならそっちが良いわ」
さすがに、蓮子の声色にも幾分か真面目なものが滲んでいる。それでも挑発的な笑みを絶やしていなかったことは、メリーにとっては驚嘆の域に達するほどだった。
あくまで、これはメリーの夢の中である。
しかし、前回のトリフネでは合成獣に襲われ、軽いとは言え病院の世話になった。運が良かったと言っても、過言ではない。
加えて、今回こうして眼前に控えている金色の龍は、明らかにトリフネの合成獣と比べて危険であるように思えた。合成獣は、あくまでも合成である。その気になれば、現代の技術でも充分に再生できる代物だろう。対して、金色の龍など再生できるとも思えなければ、同時に対処の仕様など思いつくはずもなかった。先程、龍に食われた哀れな藍色の熊とて、その豪腕で殴られたとすれば、どうなっていたか皆目見当が付かないのである。
最悪、夢で終わる前に、全てが終わる可能性もあった。
我ら秘封倶楽部にとって、またとないほどの存続の危機に、二人の顔も自然と真剣なものとなる。
「龍は、もう少し穏和な奴だと思っていたのだけど」
「充分、穏和だとも思うけどね。意外と、メリーの髪を見て、仲間だって思っているんじゃない」
「そんなに頭悪そうには見えないわ」
「酒を呑んで酔っ払って退治された龍もいるわよ」
「蓮子、あれは大蛇じゃなかったかしら」
「そうかも知れないわね」
それでも、互いに軽口だけは絶やさなかった。油断なく龍の一挙一動に目を配りながら、緊張もそのままに口だけは動かし続ける。サークル活動として、どんな状況でもこの軽々しさだけは、守っていたような気がした。
「でもね、メリー。それなら私たちは、幾分か楽だわ。だって、この龍は頭がひとつだけなんですもの」
「八つもあれば、それだけ鈍重そうにも見えるけどね」
「一人に半分ずつ別れるとして、二人でそれぞれ四つずつ、相手にしなきゃならないのよ。それに比べれば、どちらかは絶対に助かる計算だわ」
「ちょっと待ってよ、蓮子。まさかこの状況で、どちらかを囮にするつもり?」
「メリー、前から思っていたけど、あなたの金髪ってすんごく綺麗よね。それなら、目の前の龍も仲間だって思ってくれるわよ。ボディランゲージでもすれば仲良くなれるんじゃない? たぶん、絶対に」
「逃げる方向は、ここからだとひとつしかないんじゃないの?」
「おっと、こいつは一本取られたわね」
ぴしゃりと、わざとらしく蓮子は自分の頭を引っ叩いた。あっけらかんとしたその顔に、蹴りの一発でも入れてやりたくなるものの、メリーは寸でのところで思い止まった。
この夢から、覚めてにしよう。
「でもね、メリー。別に私たちは、神話の再現をする必要はないのよ。夢の中だからって、わざわざ主人公になる必要はないの」
「自分が言ったことを自分で否定してどうするのよ」
「それは勿論」
引っ手繰るように、蓮子の手がメリーの手を捕らえた。金色の龍が、蛇よろしく鎌首をもたげていた。咀嚼音は、既に止んでいた。
「逃げるのよ、メリー!」
「言われなくてもスタコラサッサね、蓮子!」
駆けはじめた二人のすぐ背後を、龍の口から吐き出されたものが薙ぎ払う。
信じ難い光景だった。
気体とも液体ともつかない金色の吐息は、雷鳴の如き轟音を上げながら、壁や床を瞬く間に爆砕していった。焦げつくような異臭とともに、遮るものが悉く霧散していった。
「どう見てもブレスよね、メリー」
「あなたほどゲームには詳しくないんだけどね、蓮子」
辛くも、吐息の届かない範囲まで逃れながら、互いに顔を合わせる。
ファンタジーの大盤振る舞いだった。
龍の吐息などという代物も信じ難いものではあったが、それに加えて膨大な電気エネルギーを孕んでいる事実に、二人は愕然としていた。長らく親しまれている電気エネルギーではあるが、その扱いの難しさは現代でも変わってはいない。身体に電気を宿す生物も幾つか存在しているが、この金色の龍が放つエネルギー量はそれらの比ではなかった。
もうもうと、黒い煙が周囲を覆う。その黒煙さえ身に纏う装束であるかのように、金色の龍は悠々とした様子で宙を泳いでいた。全身の至るところに、小さくも凶悪な雷がちりちりと明滅している。人間ならば、触れただけで即死してしまいそうな雷の群れを、龍は誇るでもなくその身に宿していた。コバンザメを引き連れる、巨大魚の姿をメリーは思い起こしていた。
爬虫類を思わせる切れ長の瞳が、こちらを捉える。
二人は、屈みながら駆け出していた。合図も何もなく、ほぼ同時に動き出すほど息が合っていることに、メリーの口から乾いた笑いが漏れた。風を無理矢理に薙いだ異音が、屈んだ頭上すれすれを過ぎる。
水平に抉られた壁が、垣間見えた。バターでも切り出したかのように、惚れ惚れとする切り口を見せている。金色の龍は、その口から壁材の残骸をこれ見よがしに吐き出していた。出鱈目に次ぐ出鱈目な光景に、メリーは気が遠くなりそうになるのを、なんとか堪えた。
目の前まで迫ってきた曲がり角を、転がるように曲がり切る。そのまま崩れそうになった膝を、叱咤とともに遮二無二動かしながら、走り続けた。
振り返ると、縫うように金色の龍が顔を出し、その視線がメリーとぶつかる。こちらへと見せつけているつもりなのか、金色の龍は鉤爪を振るい、顎と牙とを噛み鳴らし、更には吐息を惜し気もなく撒き散らしている。恐らく、遊んでいるつもりなのだろう。只それだけで、龍の周囲にあった通路は見るも無残な瓦礫へと成り果てていった。引き裂かれ、噛み砕かれ、爆砕する。その哀れな様子に、メリーは自身の末路を思い描きそうになり、無理矢理脳裏から追い払った。
「ついているわよ、メリー」
前を走る、蓮子が笑い掛けた。
親指で示したのは、通路の先にある扉である。壁や床より幾分も頑丈に見えたそれには、ドアノブが付いていた。
返事はしなかった。藁にでもすがるのが人間である。一足先に、扉へと辿り着いた蓮子がドアノブを捻った。幸い、鍵はかかっていなかった。
半ば、転びながらもドアをくぐる。
「防災用みたいね、益々ついているわ!」
重々しい音を上げて、扉は閉められた。
手際よく、蓮子が鍵を閉めている。壁が崩されないかとも懸念したが、どうやら獲物を逃したことで龍も落ち着きを取り戻したらしい。扉の向こう側から、押し入ろうとする気配はなかった。
「こういう時、普段の行いが活きてくるものね」
服の埃を払いながら、蓮子は扉にもたれ掛かった。
「ダンジョンRPGというのは、難易度の高いものが多くてね。時には、見栄も考えずに逃げ出すことが、正解って場合もあるのよ」
「それはまた、妙なところで随分とリアルね」
メリーはすぐに、立ち上がることができなかった。夢の中とは言え、こうして走り続けていては、さすがに疲れも溜まってくる。壁に背を預けながらも、溌剌と笑いながら立っている蓮子が、ほんの少し羨ましく思えた。せめて笑っておこうと、目を細める。
ばちりと、視界の中で色が弾けた。
「え」
正確には、蓮子がもたれ掛かった扉と、周りの壁である。その部分だけが、急速に色褪せたような感覚を、メリーは覚えた。
「どうかしたの、メリー?」
どうやら蓮子は気が付いてないらしい。見えるどころか、感じてすらいないようだった。その事実に、メリーは咄嗟に起き上がり、蓮子の手を掴む。
思い至ることがあった。
メリーが見えて、蓮子は感じることすらない。
「離れて!」
すべてがスローモーションに見えた。
未だに要領を得ていない蓮子の顔が、メリーの視線を追うように背後へと振り返る。分厚い扉と壁とが、段々と離れていく。分厚くも?脆くなっている?その事実に、蓮子は気付いてはいない。だからメリーは、油断なく視線を注ぎながら、なるべく扉から離れた。
その扉と壁とが、轟音とともに爆砕した。
「え」
呆けたように、蓮子が呟いた。
ちりちりと帯電した金色の吐息が、容赦なく遮る諸々を蹴散らしている。そうやって薙ぎ払った吐息は、後一歩というところで二人に届くことはなかった。舐めるように目の前を通り過ぎ、破壊の残滓を刻み込んでいった。
「なんで」
蓮子の横顔は、ひどく狼狽していた。
「さっきの扉、確かに、大丈夫だと。扉に書かれた材質も見て、間違いなく電気なら、大丈夫と思って」
「弄くられたのよ」
黒煙の合間から、金色の輝きが覗いている。煌びやかな美しさを欠片も損なうことなく、破壊の最中にそいつは居た。
「?見え?たのよ。本当に限定的だけど、あいつは弄くったのよ。だから私には分かった。言うなれば、電気に対する強いか弱いかの境界を、奴は弄くった。ひどく狭い境界だけど、中々どうして。あの龍にとっては、これ以上ないほど有意義な境界だわ」
宙にとぐろを巻いたその姿が、大きく動いた。
「信じられる? 境界を扱える輩が、存在しているなんて」
咆哮が轟いた。
大山でさえ鳴動してしまいそうなほどの轟音は、同時に霊山でさえ呪ってしまいそうなほどの禍々しさに満ち溢れていた。黒煙はおろか、散乱した大小様々な瓦礫さえ吹き飛ばすほどの勢いに、二人は仲睦まじく転倒しながら、無様に床上を吹っ飛ばされる。
それでも、飛び跳ねるように即座に起き上がれたのは僥倖だった。
起き上がり損ねた蓮子の手を引っ掴み、近くの瓦礫へと踊るように身を隠す。金色の龍は、それを最後の足掻きだと見たのか、すぐに二人へ肉薄するような真似はしなかった。とぐろを巻いた長い身体を、まるで解きほぐすかのようにして宙を舞い、周囲へと出鱈目に稲光を撒き散らした。それだけでも肝を潰される思いだったが、二人に向けて雷が落ちることはなかった。
「万事休すね」
頬についた擦り傷を、蓮子は唾を付けた指でなぞった。
「でもそろそろ、目が覚めても良いと思うんだけど」
「同感よ、蓮子。これだけの大冒険は、もうご遠慮したいところだわ」
「前回は、合成獣に襲われたところで目が覚めたのよね」
「試してみる? あの龍の顎に、がぶりと噛まれるとか」
「メリー、さすがに笑えない」
瓦礫から、なるべく顔を出さないように慎重に、覗いてみる。
案の定、金色の龍と目が合った。知性すらも感じられるその瞳が、嗜虐でにんまりと歪んだのを、メリーは確かに捉えていた。
「でも、ゲームにしろ他の媒体にしろ、潮時だと思うんだけどね」
煙草をくわえた蓮子が、ライターを着火する。紫煙と一緒に吐き出された言葉には、持ち前の明るさが滲んでいた。
「ヒロインを助けるヒーローが来るには、最適の状況なのに」
「私たち、ヒロインって柄かしら」
「そこは否定したら駄目だよ、メリー」
屈託なく笑った蓮子の顔は、どう見てもヒロインのものには見えず、むしろ助けに来るヒーローと言った方が、幾分もしっくりしていた。跳ねるような黒髪が、そんな顔にはよく栄えている。
ならば、自分はどちらが似合うだろうかと、メリーはふと思った。
「まあ、メリーの言うとおりだけどね。私たち二人とも、ヒロインって柄じゃあないのは、確かだよ」
こちらの考えを汲んだかのような言葉とともに、煙草が一本、差し出される。
普段なら押し返しているところだが、ここはメリーの夢の中だった。笑い掛けながら受け取り、おずおずと口にくわえる。すかさず火が差し出されたのを見て、水商売みたいだなと思った。くわえながら先端に火を灯す。
吸い込み、吐き出した。
大して美味くもなかった。
「別段、気持ち良くもないのね」
「そんな嗜好品も、たまには良いでしょう?」
「楽ばかりではないのが嗜好品と。あなたはそう言いたいのかしら、蓮子」
「まさしく、そのとおりよ。メリー」
そして互いに、静かに笑い合った。
せめて笑いながら、あの金色の龍に相対してやろうと思い、瓦礫から顔だけを出す。何処かへ行ったかもという幽かな期待も抱いてはいたが、金色の龍はそんなユーモアなど欠片も見せずに、とぐろを巻いていた。
メリーと蓮子、二人の姿を捉えて、溜めるように口を開く。喉の奥で、金色の吐息が瞬いているのが、はっきりと見えた。
着火。
その全身が、炎に包まれた。
まるでライターに火を灯された煙草のように、赤く煌々と、焼かれている。その現象が龍自身の意思によるものでないことは、呪うような苦悶に満ちたいななきが証明していた。長いその身が、のたうつように空中を翻る。
そのまま崩れ落ちるかとも思われたが、実際にはものの数秒も経ってはいなかった。一際、大きな咆哮とともに、龍を覆っていた炎は跡形もなく霧散している。見つめられただけで気死してしまいそうなほどの怒気に満ちた視線は、二人とは別の方向へと向けられていた。
「まさかの、ヒーロー登場?」
興味深げに囁いた蓮子も、突然の事態に呆気に取られ掛けていたメリーも同じく、龍が見つめた先へと視線を転じる。
五つの人影が立っていた。
立ち昇った土煙の影響で、詳しい容姿などは分からない。しかし、おおよそ生身にしか見えないその影形に、メリーは我が目を疑った。
乱入者を敵と認めたのか、金色の龍は二人のことなど忘れたかのように、堂々たる動きで人影たちへと距離を詰める。大きく開かれた口からは、金色の吐息がちりちりと漏れ出ていた。
一方の人影にも、動きが見られた。他の影と龍との間へ、臆することもなくひとつの影が立ち塞がる。若干、土煙が晴れたことで、その人物がどのような格好なのか、メリーには垣間見えた。
長い金髪をたなびかせた、凛々しい顔立ちの女性だった。彼女は、時代錯誤にも見える中世風の重々しい甲冑に、身を包んでいた。掲げるように差し出していたのは、これまた中世風の仰々しい意匠が拵えられた、巨大な盾である。とても、金色の吐息を防げる代物には見えなかった。
金色の龍に、容赦はなかった。
暴悪に荒れ狂うその吐息を、惜し気もなく五つの人影に向かって、吐き出す。轟音とともに、薙ぎ払われたすべてが爆砕され、呑み込まれていく。抵抗なく蹴散らされた影たちを想像したのか、まだ口の端から吐息を溢れさせながら、金色の龍は瞳をきゅっと細めた。
着火。
先程よりも強い光とともに、金色の龍の全身が、巨大な火柱に呑み込まれた。その吹き荒ぶ勢いに、蓮子とメリーの身体も大きく吹き飛ばされる。
意識が遠くなる中で、最後に聞いたのは断末魔だった。
◆◆◆
「結局、最後まで見ることはできなかったわね。折角、あそこまで頑張ったのだから、決着まで見たかったのだけど」
「私は御免だわ。あんな龍を倒してのける人影なんて、それこそどんな輩か分かったものじゃないわよ」
「あら、メリーは倒したって思うのね」
「なんとなく、だけどね」
夢の中でも散々散策した後、現実でもこうして散策し終えて、二人はその建物を後にした。展望台の見晴らしも良かったが、話題はやはり、夢の中のことが中心となっていた。
「にしても、あんな出鱈目な金色の龍を、いとも簡単に打ち破ってしまう存在が居るなんて驚きだわ。それも、パッと見た感じ、私たち人間と大差ないってのが、また驚きね」
「おまけに、なんだか退屈そうにも見えたしね」
「どういうこと、メリー」
帽子を扇代わりにしながら、蓮子が問い掛けてくる。
施設内の冷房が効いていたこともあって、外に出ると暑さがむわりと押し寄せてきた。扇程度では、和らぐことなど微塵もないだろう。
それでもメリーは、蓮子に習って帽子を扇代わりに使ってみた。
「退屈そうって、どうして分かったのかしら。あなた、読心術なんかの心得があったっけ」
「ごちゃごちゃうるさいわよ、蓮子。私はサトリじゃないんだから。それに、小さいことを気にし過ぎていると、熟れるものさえ熟れなくなっちゃうわよ」
「二の腕のお肉も痛々しいメリーに言われたくないわ」
「じゃあ教えてあげない」
「そこをなんとかお代官様」
観光マップを広げながら、平伏してくる蓮子を見る。こうして現実に戻ってみると、なんとも下らない少女特有の姦しさだけが、蓮子からは感じられた。常日頃から逞しさを滲ませられるのも、それはそれで困りものではあるが、それにしても随分とギャップのあるものである。
まあ、それでこその蓮子かなと、メリーは嘆息した。
「あなたも見たでしょう。一人だけ前に出てきた、金髪の女の人」
「時代錯誤も甚だしい、鎧姿の人かしら」
「あの人の顔、その時に見えたのだけど」
思えば、あの女性もどこか身魂逞しいものに見えた。なんとなく、目の前の宇佐見蓮子に通じるような部分も感じられた。そもそも、あの金色の龍の眼前に、自ら躍り出るような人物である。肝が据わっていることは、間違いなかった。
「なんとなくね、疲れているように見えたのよ」
「疲れているのと退屈そうなのは、別じゃないかしら?」
「うーん、なんと言っていいのかしらね」
観光マップに掲載された、写真つきの解説に目を落とす。
良い例えは、程なくして浮かんだ。
「ああ、あれよあれ。マラソン」
「マラソン?」
「ほら、蓮子がゲームのことを話す時に、教えてくれたじゃない。繰り返し作業を要求されることを、ゲームではマラソンに例えるって」
納得したように、ああと蓮子が呟いた。
「あの時、面倒臭そうにしている蓮子の顔と、あの金髪の人の顔。私の記憶が正しいなら、そっくりだったはずよ」
「ちょっと待ってよ、メリー。あなたのその言葉が正しいなら、あの金色の龍って何回も」
「倒されている可能性も、無きにしも非ずね」
あくまで可能性の話である。
しかし、過去に億劫そうな顔でゲームに没頭していた蓮子と、垣間見えた金髪の女性の顔は、本当によく似ていた。蓮子と同じ印象をその女性に覚えたのも、もしかすれば、それが原因なのかも知れない。
「まあ、良いんじゃないかしら。どれだけの可能性があろうとも、私の夢に過ぎないんだし。あなたの言葉を借りるならね、蓮子。夢と現実は違うなら、あの光景はまだ夢のままなんでしょう?」
「それは、そのとおりなんだけどね」
「なら、ここであの迷宮の話はお終い。続きは、また夢の誘いに任せましょう」
それだけを言って、メリーは観光マップを丁寧に折り畳んだ。
まだ納得し切れていないように首を傾げる蓮子だったが、それもすぐに次への興味に移り変わることだろう。観光マップの中で、メリーが見つけた数々の?境界?のことを教えれば、すぐにでも飛びついてくるに違いない。地下鉄のホームを、鳥と人間の相の子のような影が闊歩していた。高層ビルの狭間に取り付いた、異様に手足の長い巨大な蜥蜴が、ぎょろりとした瞳で眼下を窺っていた。久しく使われてはいない赤いタワーには、真紅の竜が前衛的なオブジェのように突き刺さっていた。
それらはすべて、メリーにしか見ることの適わない、異界の景色である。
夢の中では迷宮だった建物を見上げて、メリーはほくそ笑んだ。
「東京って凄いわね、蓮子」
都庁をバックに、蓮子は肩をすくめながら、曖昧に微笑んだ。
むせ返るような草木の匂いが、メリーの鼻腔をくすぐった。
「初代の迷宮を踏破せず、なおかつ、これより踏破することを臨む者は、直ちに引き返すことを推奨する――トリフネには、こんな朽ち掛けた用紙はなかったわね。これはこれで、ひとつの収穫といったところかしら」
毒々しい色合いをしたアゲハ蝶が、ふんわりと優雅な動きで飛び去っていく。蝶々は不吉の前兆でしかないので、メリーはそれを追うような真似はしなかった。
手元の紙が、ぽろぽろと崩れ去る。メリーに読まれたことで役目を終えたかのように、音もなく砂へと成り果てた
壁面を覆う蔓を、おもむろに引っ張ってみる。かなり強い力を加えたはずだが、へばり付くように生える蔦はビクともしなかった。悪態の代わりに溜め息をつき、改めて自分の立つ場所を見渡す。
ユーモラスの欠片もない、平らな壁と床とによって形作られた通路が、幾本も続いている。そのすべてが朽ちたように所々が欠けており、無数の蔦によって覆われてはいたが、人工的に作られたものであることは容易に想像がついた。硬質な光を湛える通路は、そのどれもが途中で曲がり角となっており、その先を窺うことはできない。
迷宮――ミノタウロスを迷い込ませるために造られた迷宮を、メリーは思い出した。ジャングルとは、おおよそ言い難い光景だった。
「地面は人工物であり、惑わすような壁も人工物。テラフォーミングの一環としては似ているけども、やっぱりトリフネとは違うわね」
こつこつと、メリーの足音だけが聞こえる。
「そして、テラフォーミングとしてはひどくお粗末な結果だわ。酸素供給、大地浄化など、様々な恩恵を求められるものとしては、たったこれだけの植物が自生している結果では、少々物足りない。第一、建造物を遺棄したままテラフォーミングを推し進めるなんて、本末転倒よね」
一世一代の論文を展開しているかのように、メリーの声は朗々としており淀みがない。にもかかわらず、その声に耳を傾けようとする者は、誰もいなかった。無機物は、あくまで無機物でしかなく、有機物である植物とて声を発するはずもない。
もっとも、メリーにとっては、それでも構わなかった。
「よっぽど、幼稚な計画だったのでしょうね。まあ、テラフォーミングだなんてSFみたいな代物は、幼稚以外の何者でもないのだろうけど」
言葉にはしながらも、メリーの顔は明るい。
そんなSFの代物でしかない目の前の光景は、マエリベリー・ハーンの探究心をくすぐるのには充分だった。歩幅も大きく、先へ先へと進む。
「若しくは」
淡々と硬質な音だけが響き渡る。
思ったとおり、複雑怪奇な場所である。唐突に通路が別れているかと思えば、そのどちらも行き止まりであった。かと思って引き返してみれば、途中で枝分かれした通路の先が、新たな進路を用意している。一面、蔦に覆われた無機質ながらも有機物満載の迷宮が、メリーの足を阻む。
それでも、メリーの足取りは軽い。まるで、自分こそ迷宮の主であるかのように堂々と、そして止まることなく、先へと進んでいく。幾度となく、無愛想な行き止まりに阻まれたとて、その溌剌とした歩みは一向に衰えることがなかった。
迷うことへの不安、取り残されることへの恐怖など、そういった陰りのような感情は、整った顔には微塵も浮かんでいない。
「建造物を巻き込ませるのも厭わないくらい、切羽詰まった計画だった。そうしなければならないほど、事態は急を要していた、ってところかしら」
何故ならこれは、メリーの夢だった。探究心や好奇心を適度に満たしてくれる、メリーの夢なのである。
それを存分に心得ているからこそ、臆することなく歩み続ける。
ジャングルへと成り果てようとしているこの迷宮は、以前に探索した衛星トリフネを、嫌でも思い起こさせる。物音ひとつなく、蔦に覆われる人工的な建造物は、今もラグランジュポイントに漂っているであろう楽園のものと、近いものが感じられた。
懐かしさにも似た感覚に、メリーは踊る。
「あら」
踊るように進めていたその足が、ぴたりと止まる。
「これ」
見つけたのは、錠前すらない扉だった。
等しく、右と左に別れるはずのその扉は、まるでマエリベリー・ハーンその人の侵入を拒んでいるかのように、重々しく閉じられている。隙間なく、ぴっちりと閉じ込められた扉の中を窺う術など、今のメリーにはなかった。
「あれよね」
蔦に覆われた、壁面の最中にその扉はある。にもかかわらず、その扉には蔦の一枝も掛かってはいない。その扉だけが、植物である蔦すら触れるのも憚っているかのように、綺麗に残っている。
無機物特有の鈍い光に、メリーは首を傾げた。
扉の横、蔦に覆われる壁には、ボタンが垣間見える。その周囲だけが、他の壁には見られない材質のものが、使われているようだった。よくよく見ると、扉の上部にも同じものが見られる。
その様相に、メリーは思い至るものがあった。
壁を覆う蔓さえなければ、目の前の扉にはひどく見覚えがあった。
「まさしく」
横手のボタンを、何者かに導かれるかのように、押す。
「エレベーター」
ちりんと、場違いなほどに軽やかな音が聞こえる。
重々しい扉が、滑るように開いた。
◆◆◆
「というところで、目が覚めたの」
「またトリフネに行ってしまったんじゃないの?」
「残念ながら、今回は随分と様相が違っていたわ。羽の生えた猛獣も居なかったし、ツノゼミもモルフォチョウも見当たらなかった。勿論、神社の鳥居なんて、欠片も見つからなかったわよ。見たのは、妙に毒々しい色合いをしたアゲハ蝶と」
「エレベーターだけね。あーあ、折角、こうしてメリーを里帰りに付き合わせてまで、サークル活動に励んでいるってのに。その成果がアゲハ蝶とエレベーターだけだと、さすがに割に合ってないわよ」
これ見よがしに、蓮子は溜め息を吐いていた。仰げば、夏に相応しい青空が覗いている。万人等しく、気持ちがいいと思えるであろう青さだったが、通りを行く人々は煩わしげな顔をしていた。
場所は、東京の何処かである。
この土地に親しんでいないメリーにとって、今此処が何処なのかはさっぱり分からなかった。間違いないのは、目の前で帽子を扇代わりにしている宇佐見蓮子の、実家の近くということである。
夏の陽射しが、ひたすら眩しい。
普段から人工物に触れているせいか、天然の陽光は随分と容赦がないように思えた。蓮子に習い、メリーも帽子を手に取り、扇として使ってみる。
暑さの和らぐ気配は、微塵もなかった。
「暑い、暑いわ。暑くて死ぬわ」
「やめなさいよ蓮子、縁起の悪い」
「じゃあ訂正。私はこの暑さで死んでもいいし、死ななくてもいい」
汗の浮かんだグラスの中身を、蓮子はストローも使わずに嚥下する。アイス珈琲を、ストローも使わずに飲む輩を、メリーはこの日はじめて見た。はじめて見る光景ではあったが、そんなに嬉しいものでもなかった。
「そうね。選択肢としては、涼しくなることか面白いことを選択するわ」
「自分で言って、自分で決めないでよね」
「人間には等しく選択の余地がもたらされるのよ。蓬莱の薬を使うか否かだって、私には選ばせてほしいものね」
すでに吸殻が積まれた灰皿を、蓮子は自分のもとへと手繰り寄せる。そうしながら、口には煙草をくわえていた。紫煙が漂い、メリーの鼻腔をくすぐる。
蓮子の喫煙する様子が、メリーは嫌いではない。
あまり気持ちの良い顔はせず、それでも吸うことを続けている蓮子の顔は、叱られた子供のようだった。絶対になにも考えてはいない癖に、何事かを頻りに考えているように、眉間に皺を寄せている。そんな蓮子の表情は、メリーの目でも読み取ることはできない。だと言うのに、なんとはなしに見れば、子供のような顔だと瞬く間に理解できる。
そんな曖昧な蓮子の顔が、ひどく面白いものに見えた。
「メリー、そんなにじろじろ見ないでよ。ただでさえ誤解されがちな私たちの関係が、見ず知らずの人達にまで誤解されちゃう」
「蓮子って、そういうところにうるさいわね」
「性分なのよ」
ふわりと、吐き出された紫煙が漂う。
「細かいことまで、気になっちゃう」
「私は、別に蓮子との仲が誤解されても構わないんだけどね。だって、実際にはそういう関係でもないんだし」
「そういうところは、メリーって図太いわよね」
「蓮子が常に図太いだけよ」
中身が温くなる前に、手元のグラスを口につける。紅茶などの嗜好品には滅法疎いメリーだったが、蓮子の紹介してくれたカフェのものは、確かに美味しいと感じられた。喫煙者は味覚などの様々な感覚が鈍ると聞いているが、どうやらそれも眉唾物らしい。
煙草も立派な嗜好品のひとつである。だからこそ、蓮子は恐らく自分が思っている以上に、嗜好品への鼻が利いている。少なくとも、メリーはそう思っている。
「夢の中でも、あなたは図太いし」
「夢の中だからね。所詮、メリーの夢の中でしかない出来事なんだし、それなら合成獣だってなんでもないわ」
「私は怪我をしたんだけれど」
「メリーの不注意ね」
「富士の樹海に吊るすぞ、蓮根」
「すいません」
ビルの隙間からは、久しく使われてはいない銀色の塔が見える。赤い塔から交代して、随分と早いものだとメリーは思った。赤、銀、次は果たして何色なのだろうか。
ぼんやりと、メリーは視線だけで空を仰ぐ。
「空へ行きたければ、気球艇でも用意することね、メリー」
「いきなりなによ」
「あなたが空を見ていたから」
「最近の私たちのサークル活動から察するに、真っ先に宇宙のことを出すのが常じゃない? シャトルとかなんとか、なのにそこで、何故気球?」
「メリーの視線が、空を見ていたから」
まだ紫煙の漂う煙草を指に挟んだまま、蓮子が微笑む。
「その、のんびりとした視線から、宇宙ではないかなって思ったの。間違っても、シャトルとかの慌しいものは、想像も出来なかったわ」
「空はのんびりで、宇宙は慌しい。そう決めてしまうのは、ちょっと違うのじゃないのかしら、宇佐美蓮子さん?」
「マエリベリー・ハーン。君を待つのは、悠遠なる空の世界だ」
煙草を持った手で、蓮子は青空を指す。
ぽとりと灰が蓮子の黒髪に落ちたが、メリーはあえて何も言わなかった。
「さあ、靴紐を直し、その豊満過ぎるぞこん畜生という胸に抱えた思いとともに、今こそ空へ飛び立ちたまえ、ってね」
「蓮子の胸は都市伝説級だものね。これも煙草の賜物なのかしら?」
「うるさい、この外国産乳牛が」
灰皿で煙草を揉み消しながら、蓮子が睨みつけてくる。日本人特有の黒瞳には、一般的な日本人には見られない能力が秘められている。
それを気持ち悪いと言ったのも、随分と昔の話に思えた。淡々と話す内に、自分の目を蓮子が気持ち悪いと言ってきたのを、ぼんやりと思い出す。あの頃は、お互い言動にも容赦がなかったものである。
いや、それは今もかな――メリーの口に、苦笑とも失笑ともつかない笑みが、小さく漏れた。
「ちょっと、その勝ち誇ったような笑み、やめなさいよ」
「あら、私はまったく別のことを考えていただけよ。いつまでも固執しないで頂戴、みっともない。大体、これだって大変なのよ。肩が凝るなんて日常茶飯事だし、これから先、垂れることを考えると憂鬱にだって」
「熟れて垂れる実すらない人間への嫌味かこら〜」
ストローに口をつけ、蓮子はこちらを恨めしげに見上げてくる。空気を送り込まれた珈琲が、ごぽごぽと気泡を上げた。
まるで子供である。
そして、そんな子供のような仕草が、この宇佐見蓮子というサークル仲間には、随分とよく似合っているように思えた。
「まあ良いわ。そんな大きい小さいって話は小さいから、もうやめよう」
「切り出したのは、蓮子のほうだったわよね」
「だから、私から切り上げるの。はいはいこの話しは終わりよ終わり」
新しく煙草をくわえた蓮子が、苦々しく答える。
もっとも、すでにその目は、乙女の世知辛しさを訴えるものではなかった。我ら、秘封倶楽部の一員らしい探究心によって、鮮やかに彩られたものとなっている。自信どころか、身体さえ一回りほど大きくなったかのように、闊達とした蓮子の声が続ける。
「さて、今回の最大のヒントは、やっぱりそのエレベーターでしょうね」
「今更、蓮子に言われるまでもないわね」
「確認よ確認。そして、メリーはそれがエレベーターだと分かったけど、そのエレベーター自体には見覚えがなかった」
「あんな旧式のもの、久しく見ていないわ」
「東京なら、ごまんとあるだろうけどね」
腰掛ける椅子へともたれ掛かりながら、蓮子は空を仰いだ。
アイス珈琲の氷が、からんと涼しげな音を立てた。
「ごまんとあるからこそ、何処から手を付けるべきか」
蓮子の言葉が示すとおり、東京は旧い街だった。
遷都した都の残滓は、住む人こそ多いものの、年を経るごとに着々と古びていっている。その癖、旧型の高層ビル群は今もなお健在であり、駅も路線も網の目のように広がっている。旧式のエレベーターひとつでは、どの建造物かと目星をつけるのも、極めて困難であった。
メリーの脳裏に、夢の光景がよぎる。
蔦に覆われ、植物に呑まれようとしていた。廃墟の写真、ネットで見かけたイラストなどが、思い起こされた。その鼻に残った香りは、強烈なまでの青臭さ――掴み取れそうなほどにまで濃密な、緑の臭気である。五感に訴えかけ、鈍らせてくるほどの生命力だった。最早、確かめるまでもない。天然物――自然特有の、遠慮しない生命力である。
人工物が、自然に呑まれる。
その最中で稼動していたエレベーターの先が、ひどく気になった。
「――駄目ね。さすがに手掛かりが少な過ぎる」
紫煙を吐き出して、蓮子は空を仰ぐのをやめた。
「これは当初の予定通り、メリーの観光案内かしら。私としては、とても不満ではあるのだけれど」
「私は、それも興味はあるけどね。東京なんて、来る機会もないし」
「よく分からないわ。私なんかは、腐るほど見てきたものなんだけど」
「私にとっては新鮮よ、この街は」
高過ぎるビルが、遠くに何本も鎮座している。懐の路線図は、まるで来るものを拒むかのようにこまめに書かれてあり、見つめるだけで滅入りそうでもあった。それを、改めて地図よろしく広げてみる。迷宮か何かの地図のほうが、幾分も分かりやすいものに感じられた。
「新鮮ね、やっぱり新鮮だわ」
「メリーは変なところで感動するわね」
煙草を揉み消して、蓮子は呆れたように微笑む。
「で、なにがそんなに新鮮なのかしら」
「決まっているじゃない」
路線図を、蓮子に見えるように持った。
高層ビルの乱立によって、青空は小さいものに思える。駅構内のカフェテラスからは、入り組んだ駅の通路が見下ろせた。通りには、枝木のように立体的に交差する歩道橋が、幾層も架かっている。
それらの光景すべてが、夢と重なった。
「こんな迷宮みたいなところが、新鮮なのよ」
広げた路線図をぱしりと叩いて、メリーは笑った。
◆◆◆
「見事に当たりを引いたわね、蓮子」
果たして二人は、メリーが夢見た光景の中に立っていた。
「よもやと思って?見た?のだけど。こうして見ると、確かに現実の面影は残っているわね」
「じゃあ、やっぱりテラフォーミングは地球のためだったという訳ね」
遠くで、ひらひらと宙を舞う毒々しいアゲハ蝶を、蓮子は興味深げに見つめていた。幸い、追いかけるような素振りはなかった。
「にしても、トリフネと比べると、どうしても感動は薄いかな。重力もそのまんまだし、取り立てて珍しい動植物もいない」
「見つけられても、それはそれで困るんだけど。また危ないのはごめんだわ」
「でも、メリーの夢の中でしょう?」
こつこつと、音を立てて前を行く蓮子の顔は、メリーのものより溌剌としている。銃を構えたポーズで、撃つ真似までしてみせた。
「夢の中なら、人間は何者にだってなれる。今の私たちは、さながらダンジョンRPGを攻略する主人公よ。さあ、栄えある第一歩を踏み出したまえ、ってね」
「残念ながら、前のシューティングの主人公より無理があるわ。今回は、重力だって夢の外と変わりはない訳だし」
「人間は、等しく最初は初心者よ」
しゅっしゅと、拳を繰り出す真似をしながら、蓮子が続ける。ちなみに、しゅっしゅという効果音は拳の風切り音などではなく、蓮子自身が動きに合わせて呟いたものだった。なんとまあ、ガキ臭い仕草である。
「私たちにだって、この迷宮を進む権利はあるわ。道中は――そうね、レベルアップでもすればいいのよ、強くなっちゃえば問題ないわ」
「ここの危険度が、私たちにとって分相応であることを祈るわ」
窓らしきものは、ここからでは確認できない。前回の夢の中と同じく、先の見えない通路が無数に続いている。
どのあたりでエレベーターを見つけただろうか。
メリーは真っ先に思い出そうともしたのだが、結局その試みは徒労に終わった。おおよそ変化がなく、目印さえ見当が付けられない通路の連続に、そんな目処など付けられるはずがなかった。
仕方なく、新しく加わった蓮子とともに、虱潰しに通路を進んでいく。迷宮よろしく、無愛想な行き止まりの連続が、幾度となく二人を出迎えてくれた。通路を撫ぜる風もなく、二人が交わす姦しい声の他に、聞こえてくるものは何ひとつない。
最初こそ、子供のようにはしゃいでいた蓮子も、段々とその好奇心を萎ませていった。この場所に来る前に、メリーが大方のことを話してしまったのがいけなかったのだろう。今や、すっかり口数の少なくなってしまった蓮子の横顔は、半ば無理矢理に演奏会へと連れて来られた、子供のそれであった。
とは言え、蓮子の気持ちも分からなくはなかった。
夢の時には、逸る好奇心のおかげで気付かなかったが、無感動なほどに変化の見られない通路の連続は、歩く者の活力を削ぐのに充分であった。律動的な足音を刻む床には、最初に見つけた用紙のような発見は、ひとつも落ちてはいない。壁、或いは天井などに重要な事柄が記されていないかとも考えたが、六つ目の行き止まりに阻まれた時には、それを探すことも断念してしまった。
まさしく、迷宮である。
閉じ込め、惑わし、精根尽きた不逞な侵入者を呑み込む。そのためには、わずかな気力を沸き立たせる物さえ用意してはいけない。只管、無感動の渦中へと封じ込めて、出口はおろかそのためのヒントすら、探させてはくれないのである。
恐らく、神話のミノタウロスもそうして閉じ込められたのだろう。アリアドネが用意した糸玉は、脱出して然るべき者のためにのみ、準備されているのである。生きる者は生き、朽ちる者は朽ちる。
そういった意味でも、この場所はまさしく迷宮であった。
「メリー、糸とか思った?」
「奇遇ね。私もアリアドネを思い浮かべたところよ」
「いざとなれば、メリーの夢だからね。無理矢理にでも覚めちゃえばいいんだろうけど」
「なんの用意もせずに帰れるなんて、ミノタウロスやテーセウスが知ったら真っ青ね。差し詰め、私の存在はチートアイテムってところかしら」
「或いは、イージーモードとかカジュアルモードとか、そんな感じよね。構わないわ。私たちの活動は、あくまでサークル活動なんだから」
いつの間にやら取り出した煙草をくわえて、蓮子は不貞腐れたように頬を膨らませる。
悪ぶっている中学生に見えてしまうのが、いかにも蓮子らしい。こんな場所だというのに、空いた手に携帯灰皿を持っているところが、妙に微笑ましかった。思わず吹き出しそうになったのを、メリーは寸でのところで押し留めた。
「こうなったら、些細なものでもいいから変化がほしいわよね、変化が」
「蓮子が言うと物騒に聞こえるわ」
「失敬ね。今の私は、それこそ有り触れたなものでも満足できる自信があるわよ」
「具体的には?」
「そうね。例えばリスとか、ザリガニなんかでも喜んでやるわよ。メリーと二人で、捕まえることに躍起になってやるわ」
「なにそれ、蓮子ってやっぱり変ね」
「メリーにだけは言われたくない」
同じような景色が、どこまでも続いている。
幾本にも別れ、幾重にも曲がり、幾度となく行き止まりが阻んでくる。お互いに、疲弊し切ったひどい顔をしているんだろうなと、メリーはぼんやりとした頭で考えていた。
しかし、それでも歩みは止まらない。
止めることなど、思い付くことさえなかったと言っても過言ではない。
そして、メリーの予想が正しければ、蓮子とて同じだろう。むしろ、宇佐見蓮子という頼もしきサークル仲間は、自分など足元にも及ばぬほどに猪突猛進なのだと、メリーは考えていた。影響の大きいヴァーチャルの最中でも、突き進むような胆を持っているところが、なによりの証拠である。現に、ともに歩く蓮子の歩幅は、メリーのものより一回りほども大きく、勢いも強い。時折、歩調を合わせなければ、あっという間に取り残されてしまったことだろう。
前へ前へと、我武者羅な気持ちが滲んでいた。疲れを感じさせる蓮子の横顔には、それでも匂い立つほどの好奇心が覗いていた。恐らく、それを垣間見た自分も、同じような顔をしているのだろう。
メリーの口の端が、苦笑とも自嘲とも取れる形に、吊り上がる。
ここが迷宮であるならば、我ら秘封倶楽部ほど相応しい人間は、そうそう居ないだろう。その無尽蔵さで迷う者を滅入らせる迷宮には、枯れない好奇心と尽きない胆力こそが攻略の要となる。ならば、そのふたつを持て余すほどに抱いている私たちならば、踏破することも不可能ではない。
自惚れのようなものだったが、それでもメリーは何とはなしに、それでいて強く、確信していた。
だからこそ、歩みを止めることはなかった。
恐らく、蓮子も無意識の中で、そう考えているに違いない。そういった意味では蓮子を信頼しており、なにより信じていた。
「信じる者こそ救われる、ってね」
「いきなりどうしたのよ、メリー。もしかして、変なものでも食べちゃった? さっきの毒々しいアゲハ蝶とか」
「そんなカマキリみたいな真似、するはずないでしょう。蓮子じゃあるまいし」
「カマキリねぇ。格闘漫画よろしく、巨大なカマキリとか出てこないかな。イメージトレーニングでなら、負けないつもりなんだけど」
「人間大の昆虫とか、悪夢以外の何者でもないわね。下手をすれば、あの時の合成獣より厄介かも知れないわよ」
「メリーって、やっぱり変なところで心配性よね。さっきも言ったけど、ここはあなたの夢なんでしょう。だったら、思いどおりになるはずよ」
疲れた顔で、蓮子が朗らかに笑った。
こちらへと振り向いていたから、気付かなかったのだろう。靴が、硬質な物を蹴る音ともに、蓮子の歩みが止まった。若干、つんのめるようにしながらも踏み止まって、足元へと視線が移る。釣られるようにメリーも止まり、蓮子の足元を見た。
ボーリングの球と呼ぶのが、一番しっくりしていた。
蓮子に蹴られたことで、わずかばかり転がったその物体は、群青色の球体だった。大きさといい、硬質な鈍い光を湛えていることといい、ボーリングの球という単語が真っ先に思い起こされる。
「おお、第一異物発見」
喜色満面の笑みで、蓮子はその物体を手に取った。
若干、重たそうに持ち上げたところも、ボーリングの球を思わせた。
「金属かしら、人工物かしら、植物かしら。まさか動物……それにしても硬いわね」
「前回の夢では、こんな物は見なかったわ。蓮子、それ重い?」
「結構、重いかな。最初はボーリングの球にも見えたけれど」
「同じく。というかそれ、ボーリングの球じゃないの?」
「違うみたいよ」
こちらにも見えるように、蓮子は物体を抱えたまま、身体の向きを改める。
「このとおり、指をはめ込むための穴もなければ、ボーリングの球みたいに滑らかな表面はしていない。完全な、均一な球体ではないみたいだし。最初は人工物かなとも思ったんだけど、この段々となっている部分なんかは、生物の表皮を髣髴とさせるわ」
「例えば、どんな生物の?」
「そうね」
天井を仰いで、蓮子は眉間に皺を寄せる。
答えは、ものの数秒で返ってきた。
「ああ、思い出したわ。あれよ、あれ」
したり顔で、蓮子は言った。
「アルマジロ」
腕の中の球体が、逃れるように飛び跳ねたのは、その時だった。
◆◆◆
「宇佐見蓮子さん」
「なにかしら、マエリベリー・ハーンさん」
「ひとつ、お伺いしても宜しいかしら」
「お互い切羽詰っているので、なるべく手短に」
「了解、よ!」
目の前の曲がり角は、走り抜けながら曲がるのには少々無理があった。曲がり角の内側の壁に、手を引っ掛けると同時に重心を傾けて、なるべく減速してしまわないように曲がりきる。
視線だけで窺うと、当然のように蓮子も着いてきていた。メリーとは反対に、曲がり角の外側の壁を、片足で蹴り上げながら曲がりきっている。その動きは、鬼ごっこに本気で興じている子供のものと、大変よく似ていた。自分の曲がり方も大差ないと思い至って、メリーは息継ぎついでに溜め息を吐いた。
勿論、駆ける足を緩めるようなことはしなかった。
「トリフネの時、言っていたわよね」
「シューティングの主人公のこと?」
「合成獣のこと。キメェラだとか、ウィングバットだとか」
「キマイラね。若しくは、ウィングキャットかしら」
「詳しいみたいだから、聞くけれど」
本来、全力で逃げる時に、後ろを見るのは得策ではない。
しかしそれでも、メリーは顔だけで振り返りながら、怒鳴るように問い掛けた。
「あれ、なにかしら!」
「こっちが聞きたいわよ!」
轟音とともに、砂煙が巻き起こる。
もうもうと立ち込めた土煙を突き破ったのは、ボーリングよろしく床を転がる球体だった。鈍く光る群青色のそいつは、硬質な床に物騒な轍を刻みながら、こちらの後を追っている。明らかな意思を感じさせるその動きは、どうあっても人工のものではなかった。
群青色の球体が飛び跳ね、メリーへと一息に肉薄してくる。
「失礼するわよ!」
横合いから急に引っ張られたことで、駆けていたはずの身体が、ふわりと宙に浮く。エスコートにしては乱暴な言葉遣いとともに、蓮子はメリーの二の腕を引っ掴んでいた。
二人して、仲睦まじく転倒し、その上を群青色の球体が素通りしていく。丁度、目の前はT字路だった。
球体は、壁へと半ばめり込むように激突し、崩れた瓦礫に埋もれる。
「――ぞっとしないわね。さすがに礼を言うわ、蓮子。ありがとう」
「どういたしまして。でも、お礼を言われるにはまだ早いみたいね」
瓦礫から、もぞりもぞりと群青色が這い出てくるのが見えていた。埃を払うのもそこそこに、逃走経路の目処をつけて走り出す。
「あら可愛い」
球体ではなくなった群青色を見て、蓮子は引きつったような笑みを浮かべた。
瓦礫を押し退けていたのは、間違いなく生き物だった。見た目は、ダンゴムシとアルマジロの相の子と言ったところだろうか。もぞもぞと短い手足をバタつかせ、円らな黒い目でこちらを見つめている様などは、確かに愛嬌らしきものを感じさせた。
しかし、状況が状況である。
いくら見た目が可愛らしくとも、私たち二人はあの群青色に追い掛けられており、おまけにその突進は人工物の壁をも半壊させるほどの威力なのである。仮に、向こうにその気がなくとも、あんな突撃を受けたらそれこそ半壊、いやむしろ全壊してしまうことだろう。例えるなら、ワニにでもじゃれられる、甘噛みされるくらいに性質が悪い。
ただでさえ、怪我は御免こうむりたい。
半壊全壊など、もってのほかである
「持ってみた感じだと、重量はさほどでもなかったんだけどね。あの装甲を攻撃に活かしているってところかしら。見た目はさほどでもないのに、可愛い顔してえげつないわね、ほんと」
「さっきから、さほどでもないさほどでもないって、偉く余裕ね」
「違うわよメリー、むしろ逆なのよ、逆。物凄く焦っているからこそ、普段は出てこないであろう変な言葉遣いが、飛び出してきちゃうのよ」
「その結果が、さほどでもない、と」
「ええ、そういうことなの。あと、ついでだけどね、メリー」
「なにかしら、蓮子」
「さっき握った時に気付いたんだけど。あなたの二の腕、さほどでもないとは言えないわ。お肉の付きっぷり」
「大きなお世話よ! こうやってダイエットしているしノーカン!」
「夢の中だけどね」
五度目の曲がり角を、辛くも曲がりきる。これまで行き止まりにぶち当たっていないのは、不幸中の幸いだった。
「こういうところで、クジ運が良いのはついているわね」
「メリー、運というのは良いように見えて悪く、そして悪いように見えても良いものだと思うわよ。その証拠に」
走る勢いもそのままに、蓮子は振り返る。
「あら、今度のは可愛くないわね」
その言葉に、釣られるようにメリーも振り返った。
そして後悔した。
「蓮子。あれ、蓮子」
壁と壁とを跳ね回りながら、群青色の球体が追ってきている。その数が、ひとつから三つほどに増えていたことは、充分頭の痛くなる事態ではあったが、まだ許容の範囲内だった。
しかし、その跳ね回る球体達の最中を、縫うように飛来して来る二つの影は、さすがに見過ごすことはできなかった。
血のように真っ赤な複眼が、虫特有の節っぽい動きで傾げた頭に合わせて、ぎょろぎょろとこちらの姿を捉えている。全体像で言うならば、巨大なトンボと例えるのが、一番しっくりくるだろうか。しかしながら、人工物でも天然物でも慣れ親しんだトンボとは違い、一対の鋭利な鎌をこれ見よがしに擦り合わせていた。
中々、グロテスクな造詣だった。虫に弱い者が見れば、即座に卒倒したとて不思議ではないだろう。少なくとも、可愛いと呼べる代物ではなかった。
実を言えば、メリーもあまり虫は得意ではなかった。
口の端が、笑いとは正反対の感情で、ひくひくとせり上がる。
「蓮子、蓮子」
「分かっているわ、メリー。でもお願いだから、あんまりこっちを見ないで。涙と鼻水と涎を引き伸ばしはじめたあなたの顔は、思わず笑っちゃいそうなくらいに面白いから」
「さっき、言っていたわよね。人間大くらいのカマキリなら、イメージトレーニングで大丈夫だって」
「忘れたわ」
「あれどうにかしてよぉ!」
「無理」
「どうにかしてってばぁ!」
元々、飛ぶのは得意ではないのか、或いはこちらを弄んでいるのかは知らないが、お化けトンボは無理に距離を詰めようともせず、一定の速度で飛行していた。そのこともまた、不幸中の幸いだった。あんなのに近寄られるようなことにでもなれば――
嬉しくない想像に、さあっと血の気が引いた。
「お、メリー。顔色の割りには、足は元気ね」
「やだ! あんなのに寄られるの! 絶対やだ! やだやだやだぁ!」
「カマキリみたいな鎌もそうだけど、あの顎とか凄そうだものね。まるで昆虫界のハイブリット、さながらエースかしら。トリフネの獣に比べると、しっかりこの環境に適応しているのが分かるわね。ああ、そんな自然界のピラミットに組み込まれた時、人間はなんて無力なのでしょう」
「夢の中では、人間は何者にでもなれるんじゃなかったの! 私たちは、さながらダンジョンRPGの主人公じゃなかったの!」
「いやあ、ダンジョンRPGって、伝統に則って難易度高いのが多くてね〜」
ここが夢の中だと、理解しているからであろう。蓮子の態度からは、どことなく余裕が感じられた。こうやって逃げているのも、あくまでその場のノリに従っているつもりなのだろう。
一方のメリーは全力だった。夢の中だろうと、この前はそうやって油断して、怪我をしてしまったのである。下手に怪我を負うことは、避けたかった。
加えて、例え夢の中であろうとも。
「あんな虫に寄られるのはいやなのよぉ!」
身体が自然と前のめりになる。これまでのサークル活動でも久しく経験していないほど、風を感じる。メリーは、只管、全力で駆けていた。
そんな思いが、迷宮の主にも届いたのかも知れない。
九度目の曲がり角を過ぎた時、二人はほぼ同時に見つけた。
遠くで、場違いなほどに呑気な音を立てて開いた、扉である。わざわざ確認するまでもない。前回の夢で見た、エレベーターだった。
まず、メリーが転げるように乗り込んでいた。続いて、蓮子が滑るように乗り込んでくる。その時には、メリーは息をつく間もなく起き上がって、閉じるためのボタンを連打した。
扉は、焦らすようにゆっくりと閉まった。
群青色の球体や、お化けトンボの動きが止まったのが、閉じられる直前に垣間見えた。それらがすべて遮られた後、エレベーターの中には、二人分の荒い息遣いだけが聞こえるようになる。
どうやら、辛くも逃げ切れたらしい。
少女よろしく、メリーはぺたりと座り込んだ。
「まだ、覚めるには早いものね」
息も整っていないのに、蓮子が冗談交じりに言った。
「前回は、合成獣に襲われたところで目が覚めちゃったからね。都合が良いけれども、これで覚めちゃうのは、さすがに寝覚めが悪いわ」
「私は、もう、いっぱいいっぱい、なんだけれど」
ぜいぜいとメリーが息をつく。噴き出してきた汗は、なんとか拭うことができたものの、立ち上がることは無理だった。上下する肩もそのままに、床を這って壁にもたれ掛かった。
「メリー、今のあなた、かなりエロいわ」
「ありがとう。魅力的に見えるって、受け取っておくわ」
「虫に追いかけられている時は、お世辞にも魅力的とは言い難かったけど」
「あんなに大きいなんて、聞いてないわよ」
「その台詞もなんかエロい」
下っていく階層の表示を見ながら、蓮子が隣に座り込む。現代の物では考えられないくらい、ゆっくりと表示が移り変わっているのが見えた。理由は分からないが、どうやらこのエレベーターはかなり鈍足らしい。普段なら悪態のひとつでもつくところだったが、この状況では逆にありがたかった。
ようやく整ってきた呼吸を、より落ち着かせるように深呼吸する。
「それにしても、変わった奴らに追いかけられたわね。こんな経験は、前にメリーが言っていた、竹林に迷い込んだ時以来かしら。あの時は、メリーだけずるいなぁと思ったものよ」
脱いだ帽子を弄びながら、蓮子が問い掛けてきた。
「紅い目ってところは、同じだったんじゃない?」
「兎や女の子なら、何倍もマシよ。蓮子、よく考えてみて頂戴。あんな血のように真っ赤に染まった複眼で見つめられたら、十人の内、九人は逃げ出すわよ。若しくは、十人中十人ね。逃げ出さないのは、あなたみたいな変な人だけ」
「人間じゃないってのは、すべての紅い目に言えることだわ」
「あんなに大きな虫なんて、誰が想像できたのかしら」
「少なくとも、虫というのは様々なフィクションやサイエンスで巨大化されているわよ。中には、巨大建造物で孵化する巨大な蝶々だって、想像によって創造されている訳だし。やっぱり、自ずと人間は虫には勝てないって、無意識に思っているんじゃないかしら。それに比べれば、あれくらいのトンボなら、さほどでもないんじゃないかな」
「そんなにさほどでもないなら、打ち負かしても構わなかったのよ?」
「無理」
「言うと思ったわ」
二人の乗るエレベーターは、蝸牛のように鈍重に、降下している。これも旧式だからかと、メリーはなんとはなしに思った。
「ところで、蓮子」
「なにかしら、メリー」
「この場所、一応地球よね」
「それも日本の、現在も生きている施設のはずよ」
帽子を被り直した蓮子が、持て余すように手を遊ばせている。さすがに、エレベーターの中で煙草を吸う気にはなれなかったのだろう。下手をすれば、異常を察知されて急停止することも考えられた。
「若干の期待をしていたのは確かだけど。まさかこんな、乱立する文明の結集地みたいなところで、メリーの御めがねに適うものがあるとは、さすがに思わなかったわ。とは言え、東京も遷都のおかげで、年々古びているのは確かだけれど。差し詰め、乱立するかつての遺産ってところかしら」
「遺産と言っても、現在でも多くの人が、この長方形の鋼鉄の箱舟で、右往左往しながら日々を生きているのだけどね。蓮子だって、そうやって育った一人なんだし。そう考えるならば、こうやって人間が居なくなり、原生生物が跋扈しているということは」
「群青色の球体も、お化けトンボも、突然変異みたいな外見だったからね。進化の過程から逸脱していたことも鑑みるに、なにか予測できない事態に見舞われたってところね。詳細はなんら分からないけれど。少なくとも、ここの東京は完全に廃都と見るのが間違いないでしょう――あなたが見ている夢の中ではね、メリー」
興味の尽きていない黒瞳で、蓮子はメリーを覗き込んでくる。
「東京タワー、国会議事堂、渋谷のスクランブル交差点、フィクションではよく使われるところだから、そっちこそとも思ったんだけどな。まさか、ここでこの建物でメリーが?見つけ?ちゃうとは、ちょっと盲点だったかな」
「嬉しそうね、蓮子。故郷がこうなったらと思うと、私は素直に喜べないわ」
「夢は夢よ。どれだけヴァーチャルの影響が強くとも、所詮は夢でしかない。現実を夢に変えるのかどうかは、私たち次第って訳ね。だから、この光景は真実とは言えない。真実とは言えないから、心から涙を流す必要もない。メリーが夢で見ているだけだから、まだ夢が叶った訳ではないし、勿論、滅びている訳でもない」
目的の階層に、エレベーターはまだ着かない。止まっているかとも疑ったが、滑車の稼動する重低音は、小さくとも淀みなく聞こえていた。
「それに、夢としては悪くないんじゃないかな? テラフォーミングが成功しているのを、こうして私たちは確認できたのだから。勿論、夢だけど」
「やっぱり、蓮子って前時代的な考えよね」
「ポジティブと言ってほしいわ。蓬莱の薬、月の裏側の都、鳥船遺跡の合成獣、なんでもござれよ。さほどでもないわ」
蓮子が立ち上がり、手を差し出してくる。してやったりと、子供のようなその笑みに釣られるように、メリーはその手を握り返した。
話している内に、エレベーターは目的の階へと辿り着いていた。乗る際は慌てていたので気付かなかったが、どうやら最下層らしい。ちりんと、場違いなほどに可愛らしい音とともに、滑るように扉が開いた。
お互いに降りると、扉はゆっくりと閉まる。何故か、誰かに呼ばれたかのように上へと昇っていったエレベーターを、蓮子は興味深そうに見送っていた。
だから、気付かなかったのだろう。
「蓮子、ひとつ良いかしら」
「さっきから妙に質問が多いわね、メリー。なにかしら」
「あなた言ったわよね。なんでもござれ、さほどでもないって」
「TPOは弁えているつもりよ」
「じゃあ、聞くわ」
昇降口の前は、開けた空間となっていた。必死の思いで駆けた上の階と同じく、曲がり角の見える通路が幾つも広がっている。
その中のひとつ、曲がり角からこちらを窺うように、一対の瞳が覗いていた。
「覗いているあの目の主、そろそろ何とかしてほしいのだけど」
メリーがそう呟いたのと、ほぼ同時だった。
二人の行く手を阻むかのように、巨大な影が躍り込んでくる。その大きさは、あのお化けトンボの比ではない。目を合わせたメリーを、まるで品定めでもしているかのように、じっとりと見下ろしてくる。
抱いた印象は、巨大な熊だった。
藍色の毛で覆われた巨躯は、腕を投げ出すかのように床に降ろしながらも、後ろの二足でしっかりと立っていた。顔も同じく長い毛で覆われており、その下からは剣呑な光の瞳が覗き、大きく開かれた口からは貪婪な息遣いが漏れていた。耳に届いたその荒々しさに、メリーは半歩ほど後ずさった。
しかしメリーが目を剥いたのは、なにもその息遣いだけが原因ではなかった。熊に似通ったその生物が、熊とは一線を画している最大の箇所――最近、密かに気にしているメリーの腰周りなど、可愛らしく思えるほどに太い豪腕が、目に留まったからである。
毛に覆われながらも、溢れんばかりに膨張している筋肉を想像することは、難しくなかった。あんな腕を振り上げられれば、それだけで卒倒できる自信があった。だと言うのに、そんな凶器である豪腕の先には、これ見よがしに黒光りをする逞しい爪が備えられていた。魂でさえ裁断してしまうであろうその様相に、メリーは顔を背けることもできず、目だけで横を窺った。
思わず、笑い出しそうになるのを堪えた。
何故なら蓮子も、メリーと同じように目を剥いていたからである。
「あのね、あのね」
メリーの視線に気付いたのであろう。
ひくつく蓮子の口から、媚びるような声が出ていた。
「メリー、あのね」
「なんでもござれ、でしょ? さほどでもない、でしょ?」
「あのね、メリー、あのね」
わずかに蓮子は、首を横に振った。
「ごめん、無理」
「だと思ったわ」
こんな状況だと言うのに、少しだけ笑ってしまった。それが幸いしたのか、緊張の糸に絡め取られていた身体が、若干、軽くなった。
のそりと、毛むくじゃらの熊が動きはじめる。その体躯から察するに、それほど俊敏だとは思えなかった。いや、思いたくなかったというのが正しいだろう。踏ん張るための力を足に秘めながら、メリーは逃げ出す機会を待った。
熊の身体が、肉薄してきた。振り上げられた豪腕と、轟く咆哮に意識を持っていかれそうにもなるが、辛くも冷静に観察すれば、動きはそれほど素早くはなかった。
さほどでもないという、蓮子が連呼していた言葉が、脳裏をよぎった。
見ると、蓮子は右に駆け出そうとしている。
メリーは左を考えていた。
互いに一瞥し、小さく頷き合って駆け出そうとする。振り上げられた豪腕が、慣性やら重力やらの法則に従って、振り下ろされる動きに切り替わる、その瞬間を見計らった。
「あ」
場違いなほどに間の抜けた、蓮子の声だった。
藍色の巨体が、二人の見ている前で軌道を直角に変え、轟音とともに壁へと突っ込んだ。鮮やかな鮮血が、花を咲かせる。
「え」
駆け出そうとした姿勢のまま、メリーも間の抜けた声を出していた。
崩れ落ちた藍色は、びくりびくりと奇妙に痙攣している。若干、その巨体が小さく見えたのは気のせいだろうか。起き上がるような気配はない。
柔らかいものが磨り潰される、胸の悪くなる音が耳朶を打つ。ぐちぐちと、咀嚼音のようにも聞こえたその音に、メリーは視線を移した。蓮子が呆けたように見続ける、その先へと。
果たして、そこには金色が鎮座していた。
散るもかなり良しと、メリーは他人事のように思った。
◆◆◆
蛇のように長い胴体が、宙に浮いていた。それに比べると申し訳程度のように見える腕だったが、それでも藍色の熊と同じくらいに巨大であり、備えられた鉤爪は鋭い光を湛えていた。羽衣のように優雅にたなびく髭の下で、巨大な顎が一心不乱に何物かを咀嚼している。滴り落ちる鮮血とともに、藍色の毛束が垣間見えたのは、ある種の冗談だと思いたかった。
それは、まさしく龍だった。
西洋の竜ではなく、細長くも雄大に宙を泳ぐ、東洋の龍である。
そしてその龍は、全身が金色で覆われていた。とぐろを巻くように宙で曲がった、尾の先端から髭の末端まで、等しく輝くような金色を纏っていた。金色の龍は、見ているだけで平伏してしまいそうなほどに雄大であり、なにより美しかった。
「さすがに、これだけの代物は予想外ね」
メリーへと擦り寄った蓮子は、喜色とも焦燥ともつかない笑みを浮かべる。その黒瞳は、油断なく龍へと注がれていた。
知性をも感じさせる龍の瞳は、蓮子とメリーを確かに視界に捉えながらも、静かな光で睥睨している。しかしながら、友好的とは言いがたい威圧感は、ひしひしと感じていた。咀嚼し続けている顎も、その威圧感を助長させている。
金色の龍は、決して二人を助けた訳ではない。藍色の熊を、その暴虐なアギトで捕らえただけである。
それが、いつこちらへと向けられることになるのか。
あまり想像したくはない可能性に、メリーは逃げる場所を探した。
「蓮子、そっちはどう?」
「駄目よ、メリー。たぶん、逃げるならそっちが良いわ」
さすがに、蓮子の声色にも幾分か真面目なものが滲んでいる。それでも挑発的な笑みを絶やしていなかったことは、メリーにとっては驚嘆の域に達するほどだった。
あくまで、これはメリーの夢の中である。
しかし、前回のトリフネでは合成獣に襲われ、軽いとは言え病院の世話になった。運が良かったと言っても、過言ではない。
加えて、今回こうして眼前に控えている金色の龍は、明らかにトリフネの合成獣と比べて危険であるように思えた。合成獣は、あくまでも合成である。その気になれば、現代の技術でも充分に再生できる代物だろう。対して、金色の龍など再生できるとも思えなければ、同時に対処の仕様など思いつくはずもなかった。先程、龍に食われた哀れな藍色の熊とて、その豪腕で殴られたとすれば、どうなっていたか皆目見当が付かないのである。
最悪、夢で終わる前に、全てが終わる可能性もあった。
我ら秘封倶楽部にとって、またとないほどの存続の危機に、二人の顔も自然と真剣なものとなる。
「龍は、もう少し穏和な奴だと思っていたのだけど」
「充分、穏和だとも思うけどね。意外と、メリーの髪を見て、仲間だって思っているんじゃない」
「そんなに頭悪そうには見えないわ」
「酒を呑んで酔っ払って退治された龍もいるわよ」
「蓮子、あれは大蛇じゃなかったかしら」
「そうかも知れないわね」
それでも、互いに軽口だけは絶やさなかった。油断なく龍の一挙一動に目を配りながら、緊張もそのままに口だけは動かし続ける。サークル活動として、どんな状況でもこの軽々しさだけは、守っていたような気がした。
「でもね、メリー。それなら私たちは、幾分か楽だわ。だって、この龍は頭がひとつだけなんですもの」
「八つもあれば、それだけ鈍重そうにも見えるけどね」
「一人に半分ずつ別れるとして、二人でそれぞれ四つずつ、相手にしなきゃならないのよ。それに比べれば、どちらかは絶対に助かる計算だわ」
「ちょっと待ってよ、蓮子。まさかこの状況で、どちらかを囮にするつもり?」
「メリー、前から思っていたけど、あなたの金髪ってすんごく綺麗よね。それなら、目の前の龍も仲間だって思ってくれるわよ。ボディランゲージでもすれば仲良くなれるんじゃない? たぶん、絶対に」
「逃げる方向は、ここからだとひとつしかないんじゃないの?」
「おっと、こいつは一本取られたわね」
ぴしゃりと、わざとらしく蓮子は自分の頭を引っ叩いた。あっけらかんとしたその顔に、蹴りの一発でも入れてやりたくなるものの、メリーは寸でのところで思い止まった。
この夢から、覚めてにしよう。
「でもね、メリー。別に私たちは、神話の再現をする必要はないのよ。夢の中だからって、わざわざ主人公になる必要はないの」
「自分が言ったことを自分で否定してどうするのよ」
「それは勿論」
引っ手繰るように、蓮子の手がメリーの手を捕らえた。金色の龍が、蛇よろしく鎌首をもたげていた。咀嚼音は、既に止んでいた。
「逃げるのよ、メリー!」
「言われなくてもスタコラサッサね、蓮子!」
駆けはじめた二人のすぐ背後を、龍の口から吐き出されたものが薙ぎ払う。
信じ難い光景だった。
気体とも液体ともつかない金色の吐息は、雷鳴の如き轟音を上げながら、壁や床を瞬く間に爆砕していった。焦げつくような異臭とともに、遮るものが悉く霧散していった。
「どう見てもブレスよね、メリー」
「あなたほどゲームには詳しくないんだけどね、蓮子」
辛くも、吐息の届かない範囲まで逃れながら、互いに顔を合わせる。
ファンタジーの大盤振る舞いだった。
龍の吐息などという代物も信じ難いものではあったが、それに加えて膨大な電気エネルギーを孕んでいる事実に、二人は愕然としていた。長らく親しまれている電気エネルギーではあるが、その扱いの難しさは現代でも変わってはいない。身体に電気を宿す生物も幾つか存在しているが、この金色の龍が放つエネルギー量はそれらの比ではなかった。
もうもうと、黒い煙が周囲を覆う。その黒煙さえ身に纏う装束であるかのように、金色の龍は悠々とした様子で宙を泳いでいた。全身の至るところに、小さくも凶悪な雷がちりちりと明滅している。人間ならば、触れただけで即死してしまいそうな雷の群れを、龍は誇るでもなくその身に宿していた。コバンザメを引き連れる、巨大魚の姿をメリーは思い起こしていた。
爬虫類を思わせる切れ長の瞳が、こちらを捉える。
二人は、屈みながら駆け出していた。合図も何もなく、ほぼ同時に動き出すほど息が合っていることに、メリーの口から乾いた笑いが漏れた。風を無理矢理に薙いだ異音が、屈んだ頭上すれすれを過ぎる。
水平に抉られた壁が、垣間見えた。バターでも切り出したかのように、惚れ惚れとする切り口を見せている。金色の龍は、その口から壁材の残骸をこれ見よがしに吐き出していた。出鱈目に次ぐ出鱈目な光景に、メリーは気が遠くなりそうになるのを、なんとか堪えた。
目の前まで迫ってきた曲がり角を、転がるように曲がり切る。そのまま崩れそうになった膝を、叱咤とともに遮二無二動かしながら、走り続けた。
振り返ると、縫うように金色の龍が顔を出し、その視線がメリーとぶつかる。こちらへと見せつけているつもりなのか、金色の龍は鉤爪を振るい、顎と牙とを噛み鳴らし、更には吐息を惜し気もなく撒き散らしている。恐らく、遊んでいるつもりなのだろう。只それだけで、龍の周囲にあった通路は見るも無残な瓦礫へと成り果てていった。引き裂かれ、噛み砕かれ、爆砕する。その哀れな様子に、メリーは自身の末路を思い描きそうになり、無理矢理脳裏から追い払った。
「ついているわよ、メリー」
前を走る、蓮子が笑い掛けた。
親指で示したのは、通路の先にある扉である。壁や床より幾分も頑丈に見えたそれには、ドアノブが付いていた。
返事はしなかった。藁にでもすがるのが人間である。一足先に、扉へと辿り着いた蓮子がドアノブを捻った。幸い、鍵はかかっていなかった。
半ば、転びながらもドアをくぐる。
「防災用みたいね、益々ついているわ!」
重々しい音を上げて、扉は閉められた。
手際よく、蓮子が鍵を閉めている。壁が崩されないかとも懸念したが、どうやら獲物を逃したことで龍も落ち着きを取り戻したらしい。扉の向こう側から、押し入ろうとする気配はなかった。
「こういう時、普段の行いが活きてくるものね」
服の埃を払いながら、蓮子は扉にもたれ掛かった。
「ダンジョンRPGというのは、難易度の高いものが多くてね。時には、見栄も考えずに逃げ出すことが、正解って場合もあるのよ」
「それはまた、妙なところで随分とリアルね」
メリーはすぐに、立ち上がることができなかった。夢の中とは言え、こうして走り続けていては、さすがに疲れも溜まってくる。壁に背を預けながらも、溌剌と笑いながら立っている蓮子が、ほんの少し羨ましく思えた。せめて笑っておこうと、目を細める。
ばちりと、視界の中で色が弾けた。
「え」
正確には、蓮子がもたれ掛かった扉と、周りの壁である。その部分だけが、急速に色褪せたような感覚を、メリーは覚えた。
「どうかしたの、メリー?」
どうやら蓮子は気が付いてないらしい。見えるどころか、感じてすらいないようだった。その事実に、メリーは咄嗟に起き上がり、蓮子の手を掴む。
思い至ることがあった。
メリーが見えて、蓮子は感じることすらない。
「離れて!」
すべてがスローモーションに見えた。
未だに要領を得ていない蓮子の顔が、メリーの視線を追うように背後へと振り返る。分厚い扉と壁とが、段々と離れていく。分厚くも?脆くなっている?その事実に、蓮子は気付いてはいない。だからメリーは、油断なく視線を注ぎながら、なるべく扉から離れた。
その扉と壁とが、轟音とともに爆砕した。
「え」
呆けたように、蓮子が呟いた。
ちりちりと帯電した金色の吐息が、容赦なく遮る諸々を蹴散らしている。そうやって薙ぎ払った吐息は、後一歩というところで二人に届くことはなかった。舐めるように目の前を通り過ぎ、破壊の残滓を刻み込んでいった。
「なんで」
蓮子の横顔は、ひどく狼狽していた。
「さっきの扉、確かに、大丈夫だと。扉に書かれた材質も見て、間違いなく電気なら、大丈夫と思って」
「弄くられたのよ」
黒煙の合間から、金色の輝きが覗いている。煌びやかな美しさを欠片も損なうことなく、破壊の最中にそいつは居た。
「?見え?たのよ。本当に限定的だけど、あいつは弄くったのよ。だから私には分かった。言うなれば、電気に対する強いか弱いかの境界を、奴は弄くった。ひどく狭い境界だけど、中々どうして。あの龍にとっては、これ以上ないほど有意義な境界だわ」
宙にとぐろを巻いたその姿が、大きく動いた。
「信じられる? 境界を扱える輩が、存在しているなんて」
咆哮が轟いた。
大山でさえ鳴動してしまいそうなほどの轟音は、同時に霊山でさえ呪ってしまいそうなほどの禍々しさに満ち溢れていた。黒煙はおろか、散乱した大小様々な瓦礫さえ吹き飛ばすほどの勢いに、二人は仲睦まじく転倒しながら、無様に床上を吹っ飛ばされる。
それでも、飛び跳ねるように即座に起き上がれたのは僥倖だった。
起き上がり損ねた蓮子の手を引っ掴み、近くの瓦礫へと踊るように身を隠す。金色の龍は、それを最後の足掻きだと見たのか、すぐに二人へ肉薄するような真似はしなかった。とぐろを巻いた長い身体を、まるで解きほぐすかのようにして宙を舞い、周囲へと出鱈目に稲光を撒き散らした。それだけでも肝を潰される思いだったが、二人に向けて雷が落ちることはなかった。
「万事休すね」
頬についた擦り傷を、蓮子は唾を付けた指でなぞった。
「でもそろそろ、目が覚めても良いと思うんだけど」
「同感よ、蓮子。これだけの大冒険は、もうご遠慮したいところだわ」
「前回は、合成獣に襲われたところで目が覚めたのよね」
「試してみる? あの龍の顎に、がぶりと噛まれるとか」
「メリー、さすがに笑えない」
瓦礫から、なるべく顔を出さないように慎重に、覗いてみる。
案の定、金色の龍と目が合った。知性すらも感じられるその瞳が、嗜虐でにんまりと歪んだのを、メリーは確かに捉えていた。
「でも、ゲームにしろ他の媒体にしろ、潮時だと思うんだけどね」
煙草をくわえた蓮子が、ライターを着火する。紫煙と一緒に吐き出された言葉には、持ち前の明るさが滲んでいた。
「ヒロインを助けるヒーローが来るには、最適の状況なのに」
「私たち、ヒロインって柄かしら」
「そこは否定したら駄目だよ、メリー」
屈託なく笑った蓮子の顔は、どう見てもヒロインのものには見えず、むしろ助けに来るヒーローと言った方が、幾分もしっくりしていた。跳ねるような黒髪が、そんな顔にはよく栄えている。
ならば、自分はどちらが似合うだろうかと、メリーはふと思った。
「まあ、メリーの言うとおりだけどね。私たち二人とも、ヒロインって柄じゃあないのは、確かだよ」
こちらの考えを汲んだかのような言葉とともに、煙草が一本、差し出される。
普段なら押し返しているところだが、ここはメリーの夢の中だった。笑い掛けながら受け取り、おずおずと口にくわえる。すかさず火が差し出されたのを見て、水商売みたいだなと思った。くわえながら先端に火を灯す。
吸い込み、吐き出した。
大して美味くもなかった。
「別段、気持ち良くもないのね」
「そんな嗜好品も、たまには良いでしょう?」
「楽ばかりではないのが嗜好品と。あなたはそう言いたいのかしら、蓮子」
「まさしく、そのとおりよ。メリー」
そして互いに、静かに笑い合った。
せめて笑いながら、あの金色の龍に相対してやろうと思い、瓦礫から顔だけを出す。何処かへ行ったかもという幽かな期待も抱いてはいたが、金色の龍はそんなユーモアなど欠片も見せずに、とぐろを巻いていた。
メリーと蓮子、二人の姿を捉えて、溜めるように口を開く。喉の奥で、金色の吐息が瞬いているのが、はっきりと見えた。
着火。
その全身が、炎に包まれた。
まるでライターに火を灯された煙草のように、赤く煌々と、焼かれている。その現象が龍自身の意思によるものでないことは、呪うような苦悶に満ちたいななきが証明していた。長いその身が、のたうつように空中を翻る。
そのまま崩れ落ちるかとも思われたが、実際にはものの数秒も経ってはいなかった。一際、大きな咆哮とともに、龍を覆っていた炎は跡形もなく霧散している。見つめられただけで気死してしまいそうなほどの怒気に満ちた視線は、二人とは別の方向へと向けられていた。
「まさかの、ヒーロー登場?」
興味深げに囁いた蓮子も、突然の事態に呆気に取られ掛けていたメリーも同じく、龍が見つめた先へと視線を転じる。
五つの人影が立っていた。
立ち昇った土煙の影響で、詳しい容姿などは分からない。しかし、おおよそ生身にしか見えないその影形に、メリーは我が目を疑った。
乱入者を敵と認めたのか、金色の龍は二人のことなど忘れたかのように、堂々たる動きで人影たちへと距離を詰める。大きく開かれた口からは、金色の吐息がちりちりと漏れ出ていた。
一方の人影にも、動きが見られた。他の影と龍との間へ、臆することもなくひとつの影が立ち塞がる。若干、土煙が晴れたことで、その人物がどのような格好なのか、メリーには垣間見えた。
長い金髪をたなびかせた、凛々しい顔立ちの女性だった。彼女は、時代錯誤にも見える中世風の重々しい甲冑に、身を包んでいた。掲げるように差し出していたのは、これまた中世風の仰々しい意匠が拵えられた、巨大な盾である。とても、金色の吐息を防げる代物には見えなかった。
金色の龍に、容赦はなかった。
暴悪に荒れ狂うその吐息を、惜し気もなく五つの人影に向かって、吐き出す。轟音とともに、薙ぎ払われたすべてが爆砕され、呑み込まれていく。抵抗なく蹴散らされた影たちを想像したのか、まだ口の端から吐息を溢れさせながら、金色の龍は瞳をきゅっと細めた。
着火。
先程よりも強い光とともに、金色の龍の全身が、巨大な火柱に呑み込まれた。その吹き荒ぶ勢いに、蓮子とメリーの身体も大きく吹き飛ばされる。
意識が遠くなる中で、最後に聞いたのは断末魔だった。
◆◆◆
「結局、最後まで見ることはできなかったわね。折角、あそこまで頑張ったのだから、決着まで見たかったのだけど」
「私は御免だわ。あんな龍を倒してのける人影なんて、それこそどんな輩か分かったものじゃないわよ」
「あら、メリーは倒したって思うのね」
「なんとなく、だけどね」
夢の中でも散々散策した後、現実でもこうして散策し終えて、二人はその建物を後にした。展望台の見晴らしも良かったが、話題はやはり、夢の中のことが中心となっていた。
「にしても、あんな出鱈目な金色の龍を、いとも簡単に打ち破ってしまう存在が居るなんて驚きだわ。それも、パッと見た感じ、私たち人間と大差ないってのが、また驚きね」
「おまけに、なんだか退屈そうにも見えたしね」
「どういうこと、メリー」
帽子を扇代わりにしながら、蓮子が問い掛けてくる。
施設内の冷房が効いていたこともあって、外に出ると暑さがむわりと押し寄せてきた。扇程度では、和らぐことなど微塵もないだろう。
それでもメリーは、蓮子に習って帽子を扇代わりに使ってみた。
「退屈そうって、どうして分かったのかしら。あなた、読心術なんかの心得があったっけ」
「ごちゃごちゃうるさいわよ、蓮子。私はサトリじゃないんだから。それに、小さいことを気にし過ぎていると、熟れるものさえ熟れなくなっちゃうわよ」
「二の腕のお肉も痛々しいメリーに言われたくないわ」
「じゃあ教えてあげない」
「そこをなんとかお代官様」
観光マップを広げながら、平伏してくる蓮子を見る。こうして現実に戻ってみると、なんとも下らない少女特有の姦しさだけが、蓮子からは感じられた。常日頃から逞しさを滲ませられるのも、それはそれで困りものではあるが、それにしても随分とギャップのあるものである。
まあ、それでこその蓮子かなと、メリーは嘆息した。
「あなたも見たでしょう。一人だけ前に出てきた、金髪の女の人」
「時代錯誤も甚だしい、鎧姿の人かしら」
「あの人の顔、その時に見えたのだけど」
思えば、あの女性もどこか身魂逞しいものに見えた。なんとなく、目の前の宇佐見蓮子に通じるような部分も感じられた。そもそも、あの金色の龍の眼前に、自ら躍り出るような人物である。肝が据わっていることは、間違いなかった。
「なんとなくね、疲れているように見えたのよ」
「疲れているのと退屈そうなのは、別じゃないかしら?」
「うーん、なんと言っていいのかしらね」
観光マップに掲載された、写真つきの解説に目を落とす。
良い例えは、程なくして浮かんだ。
「ああ、あれよあれ。マラソン」
「マラソン?」
「ほら、蓮子がゲームのことを話す時に、教えてくれたじゃない。繰り返し作業を要求されることを、ゲームではマラソンに例えるって」
納得したように、ああと蓮子が呟いた。
「あの時、面倒臭そうにしている蓮子の顔と、あの金髪の人の顔。私の記憶が正しいなら、そっくりだったはずよ」
「ちょっと待ってよ、メリー。あなたのその言葉が正しいなら、あの金色の龍って何回も」
「倒されている可能性も、無きにしも非ずね」
あくまで可能性の話である。
しかし、過去に億劫そうな顔でゲームに没頭していた蓮子と、垣間見えた金髪の女性の顔は、本当によく似ていた。蓮子と同じ印象をその女性に覚えたのも、もしかすれば、それが原因なのかも知れない。
「まあ、良いんじゃないかしら。どれだけの可能性があろうとも、私の夢に過ぎないんだし。あなたの言葉を借りるならね、蓮子。夢と現実は違うなら、あの光景はまだ夢のままなんでしょう?」
「それは、そのとおりなんだけどね」
「なら、ここであの迷宮の話はお終い。続きは、また夢の誘いに任せましょう」
それだけを言って、メリーは観光マップを丁寧に折り畳んだ。
まだ納得し切れていないように首を傾げる蓮子だったが、それもすぐに次への興味に移り変わることだろう。観光マップの中で、メリーが見つけた数々の?境界?のことを教えれば、すぐにでも飛びついてくるに違いない。地下鉄のホームを、鳥と人間の相の子のような影が闊歩していた。高層ビルの狭間に取り付いた、異様に手足の長い巨大な蜥蜴が、ぎょろりとした瞳で眼下を窺っていた。久しく使われてはいない赤いタワーには、真紅の竜が前衛的なオブジェのように突き刺さっていた。
それらはすべて、メリーにしか見ることの適わない、異界の景色である。
夢の中では迷宮だった建物を見上げて、メリーはほくそ笑んだ。
「東京って凄いわね、蓮子」
都庁をバックに、蓮子は肩をすくめながら、曖昧に微笑んだ。