雲を裂いて。
風を切って。
眩しい陽光を全身に浴びながら。
氷のような羽を煌めかせ、少女はひたすらに上を目指す。
―― 彼女が目指したのは、天よりも高い場所。
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「あっづぅ~い……」
じりじりと地面を焼く陽光に、思わずぼやきの言葉が出る。
湖の傍に立った一本の木、その根元に座り込んで、氷精チルノは恨めしそうに空を見上げた。
幻想郷は今まさに夏真っ盛り、太陽がこれでもかと光線を撃ち込んでくる。
「なんか、冷たいモノでも食べに行こうかなぁ」
自分で氷を出してもいいのだが、ただ氷を舐め回しても味気無い。やはり、カキ氷の一つでも食べたくなる。
えいやっ、と気合を入れて木陰から飛び出すと、彼女は地面を蹴って夏の大空へ飛翔。
飛んでいると、風を受けられるお陰で少しは暑さが紛れた。飛びながらポケットの小銭を確かめる。五百円はありそうだ。
これなら、何かしら冷たくて甘い物にありつけるだろう。
「おやつがあたいをよんでるぞーう」
上機嫌に歌いながら、あっという間に人間の住む里まで到着。地面に下り、チルノは歩き始めた。
この炎天下、流石に大通りを歩く人影もまばらだ。皆、多少は涼しい家の中に引っ込んでいるのだろう。
暫し歩いて、目的の小さな駄菓子屋へ入る。ここは駄菓子のみならず、カキ氷やアイスキャンディ、ラムネといった冷たい物も売っている。
更に中には椅子やテーブルもあるのでその場で食べられるとあって、この時期は子供達が大勢押しかける憩いの場となっていた。
気付けば常連となっていたチルノはこの日も、勢い良く暖簾をくぐる。
「こんにちはー!」
「おや、いらっしゃい」
中に入った途端に、がやがやと子供達の声が耳を打つ。元気に挨拶すると、店主の男性―― およそ四十歳か―― も、にこやかに彼女を出迎えた。
余談だが、店主の彼は立派な口髭を生やしており、子供達からここは『ヒゲおじさんの店』と呼ばれ愛されている。
「いやあ、丁度いい所に来てくれたよ。すまないけれど、氷を出してもらってもいいかな?」
「なくなっちゃったの?」
「カキ氷が大人気でね、氷がおいつかないんだ。その代わり、君の分はタダにするよ」
「ホント!? あたいにまっかせなさーい!」
店主の言葉に俄然やる気を出し、チルノはわざわざ腕をまくってから指を振る。
ほいっ、とカウンター状になっているテーブルの上を指差すと、いきなり20cm四方はあるだろう大きなアイスブロックが出現した。
「とりあえず、これでどうかな」
「ありがとう、助かったよ」
氷が入手出来た事で、カキ氷の生産も再開。店中の子供達から拍手を送られ、チルノはちょっぴり頬を染めた。
そのままカウンター席に腰掛けようか考えていると、不意にすぐ横から声が掛かった。
「さっすがチルノちゃん、大活躍だね!」
「あっ、大ちゃん!」
「私もいるよ~」
偶然来ていたらしい、湖の大妖精がそこに座っていた。その奥には図書館司書見習いの小悪魔もセット。
思いがけない親友達との鉢合わせ。チルノは嬉しそうに、大妖精の隣へ座った。
「チルノちゃんすごいなぁ。今度さ、紅魔館にも来てよ。みんな暑がって仕事が回んないんだ」
カウンターから横へ身を乗り出して小悪魔。チルノは尋ね返した。
「みんな、って?」
「メイドの子たちや私もそうなんだけど、ほら、美鈴さんとか常に外だし。咲夜さんも働き詰めだし……あとお嬢様も暑がってる。
お礼はもちろんするからさ、一度紅魔館に来てカキ氷でもいっぱい作ってほしいんだ」
「うん、いいよ!でもあたい、氷しか出せないけど」
「やった、ありがとチルノちゃん! シロップはこっちで何とかするよ。あと、来る時は何か食べたいものがあったら言って。咲夜さんに頼んでみる」
二つ返事で承諾すると、小悪魔は嬉しそうに笑う。そこで今度はチルノが尋ねてみた。
「大ちゃんはともかくさ、こあはお仕事とか大丈夫なの?」
「心配してくれてありがと、でも大丈夫だよ。今日は殆どお仕事終わっててさ。
それで、パチュリー様に頼まれて買い出しに来たの。遊びに来てた大ちゃんにも手伝ってもらってね。
その時に、お釣りは好きにしてくれていいってパチュリー様が言ってくれたから、カキ氷食べに来たんだ」
「へぇ、そうだったんだ。お買いものって?」
「ん~、なんかいろいろ。野菜から果物から、鉄クギに銅線、果てはゴムホースまで。何かの実験に使うんじゃないかなぁ」
「はいお待たせ、何にする?」
小悪魔の話を聞いていたら、先の注文を片付けた店主が戻って来ていた。
三人揃ってカキ氷を注文する。
「味はどうする?」
「私はイチゴで」
「えっと、わたしはメロンお願いします」
「あたいブルーハワイ!」
「はは、絶対に間違えない注文だね。了解、すぐ作るから」
綺麗に色分けされた注文内容に店主は笑い、作る為に奥へ。
程無くして彼は、それぞれの対比が美しい三色のカキ氷をお盆に乗せて戻って来た。
それを目で追う三人は、まるで宝を前にしたトレジャーハンターのよう。
「はい、お待ちどう。あ、お代わりは自由だよ」
「え、いいの!?」
「その代わり、後でもう少し氷を頂いてもいいかな」
「もちろん! じゃ、いっただきま~す!」
嬉しい申し出に三人(特にチルノ)は喜び、一斉に食べ始める。
一気に口の中へ氷を押し込み、襲い来る頭痛でスプーンが止まった所で、店主は話を振った。
「それにしても、暑いねぇ」
「ホントですね。ここ一番の猛暑だとか」
氷を崩しながら小悪魔が同意する。大妖精もその横で頷いた。
「日差しが強いですし、風も……」
「そうなんだ。そして何より、雨が降らない」
「あ、そういえば」
店主の言葉に、夢中で食べていたチルノも顔を上げた。
「最近、ぜんぜん雨ふらないね」
「もう二週間……いや、もっとかなぁ」
「三週間は降っていないようだ。いやはや、大弱りだよ」
憂鬱そうな言葉に、チルノは首を傾げる。
「なんで? あついから?」
「それもあるけれど、何よりも地面が乾いてしまってね。私も畑を持っているんだけれど、野菜とかが水不足でしおれてしまうんだ。
このまま雨がずっと降らなかったら、今年は野菜やお米が全然採れないかも知れない」
「そ、そうなの?」
「その通りなんだ。全く、困ったもんだよ」
分かりやすく説明してくれる店主の言葉に、チルノは手を止めて考え込む。
店の出入り口から空を見ると、雲が殆ど無い。気持ちの良い快晴だが、それが悩みの種でもあるのだ。
「普段なら、この時期は台風とかで割と雨降るんですけどね」
「うん……その通りなんだが、何故かこれっぽっちも雨が降らない。雲すら出てこない。さて、どうしたものか」
「水をあげる量を増やすとか」
「それも一時凌ぎでしかないからなぁ。根本的には、やっぱ雨が必要だよ」
そんな会話が途切れた時を見計らい、チルノは不意に立ち上がった。
「ねぇ、だったら……あたいが何とかしてあげる!」
「え?」
突然の発言に、一同は面食らった表情。それも気にせず、彼女は器に残った融けかけのカキ氷を一気に飲み干し、ぷは、と息をつく。
「大ちゃん。雨ってさ、雲があれば降ってくれるよね?」
「ま、まあ、そうだけど……」
「じゃあ、大丈夫だよ。あたい、雲がどうやってできるか、知ってるもん!」
チルノはそう言って胸を張ると、このような言葉を続けるのであった。
「雲は、エントツから出てくるんだよ!」
―― 静寂。否、店内は相変わらず子供達の声で騒がしい。四人の間に、沈黙が流れたのだ。
「え、えっとぉ……チルノちゃん」
「きっと、どっかのエントツが壊れて雲ができなくなっちゃったんだよ。あたいは空飛べるし、探して直してきてあげる!」
小悪魔の呟きにも気付かず、尚も得意気に続けるチルノ。
彼女を除く三人は、その発言の真意―― というより、意味に一応は気付いていた。
煙突は排煙装置。出てくるのは当然、煙だ。チルノは、それが雲になると思っているのだ。
(チルノちゃんって、時々すごいコト考えるんだよね……)
確かに見た目は雨雲製造装置と誤解してもおかしくは無いかも知れないが、それが間違いである事も知っていた。
雲は、空気中の水分が上空で凝結したもの。子供には少し難しい理屈だが、教えてあげた方がいいだろう。
言い難そうに、大妖精が口を開きかける。
「チ、チルノちゃん。それはね」
「待ってて、その内すぐに雨が降るから! じゃ、行ってきまーす!」
「あ、ちょっと!」
「っと。これ、お金がわり! ごちそうさま!」
しかし彼女は、先と同じサイズのアイスブロックを五個ほどその場に残し、まるで吹き抜ける夏風のように店を飛び出して行ってしまった。
残された三人は暫く黙っていたが、
「……いやしかし、子供というのは本当に素敵な発想をする。大人が絶対に敵わない部分の一つだな」
店主が、チルノの食べ終えた器とスプーンを片付けながら呟いた。皮肉では無く、本気でそう思っている顔だった。
「えっとぉ、どうしましょう」
困った顔で大妖精が言うと、彼は苦笑いを浮かべて答えた。
「無理に否定する事はないけれど、帰ってきたらそれとなく伝えてあげるといい。
ただ……正しい知識を得るのは大切だけれど、少しだけ寂しいものでもあるね」
しみじみとした口ぶりには、人間という短い寿命を持つ生物でありながらも、本当に多くの経験を積んできた重みが伝わってくる。
ただ単純に生きてきた年数で言えばずっと長い大妖精や小悪魔も、自分より彼がずっと大人である事を確かに感じたのだった。
「さて、せっかくだし……お代わりするかい?」
「いいんですか? じゃあ、ごちそうになります」
「ありがとうございます!」
しかし続く店主の言葉に、しみじみとした空気は突き抜けるような夏の大空へFly Away。
やはり、暑さには換えられない。
「次はどうする? 味」
「あ、じゃあ……」
「私と大ちゃん、交換で」
小悪魔の言葉に笑って頷き、店主はチルノの置き土産であるアイスブロックを手に取った。
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別に、深い意図は無かった。
よく会う人や、そこに住んでる人が、とても困っていそうだったから。
ただ、何とかしてあげたかったのかも知れないし、褒められたかったのかも知れない。
或いは氷を届けた時のような、喝采を浴びたかったのかも知れない。
(とりあえず、どこに行こっか……)
だがきっかけは何であれ、チルノの想いは本物だった。
自分なりの方法で、雨を降らせたい。それには、どこの煙突が壊れているのかを確かめなければ。
里を出て、湖の周辺をうろつきながら必死に考える。やがて、一つの答えに辿り着いた。
(雲って、ずっと高い所にあるよね。だったら、一番高いエントツなんじゃないかな)
ポンと手を打つと、彼女はただうろつくだけだった足を、明確にある方向へと向ける。
彼女が知る限りの、この辺りで最も大きな建物。
「こんにちは、チルノさん」
まるで自動で感知しているかのように、必ず挨拶が聞こえる門の前。
吸血鬼の住む館・紅魔館。声の主は勿論、門番たる紅美鈴だ。
「やだぁ、チルノさんってなんか照れるっていうか、はずかしいよ」
「そうですか? じゃあチルノちゃんの方がいいかな」
「ん~、そっちの方がなれてるかも」
いつも丁寧な彼女の言葉遣いに、ちょっぴり頬を染めるチルノ。丁寧に呼ばれるのはどうにも慣れないようだ。
来客に対して丁寧なのは門番としてしっかりしていると言うべきだろうが、ここで適切な呼び方に変える美鈴も慣れたもの。
門の前で暇潰しを兼ねて子供達とよく遊ぶ彼女には、当たり前のスキルなのかも知れない。
「それじゃ、チルノちゃん。今日はどうしました?」
「えっとね、ちょっとききたいんだけど」
言いながら彼女は、さっき小悪魔に訊いてくるべきだったか、とも考えた。
しかし、飛び出していった後でわざわざ戻るのはカッコ悪いと思い直し、目の前の美鈴にこう尋ねる。
「ここって、エントツある?」
「ええ、ありますよ。厨房とか談話室の大きな暖炉とか、いくつか煙が出る設備がありますから」
「それじゃあさ、それが最近壊れたりとかしてない?」
「いえ……特にそういったトラブルは無かったと思いますよ。夏場ですし、煙突の出番自体が少ないというのもありますね」
彼女の言葉に、チルノが若干の反応を見せた。
「エントツ、あんまり使ってないの?」
「夏ですから。暖炉なんか燃やしてたら、暑くて大変ですよ?」
「でも、それじゃ雲が……」
「雲?」
彼女にとっては意外な言葉が飛び出し、美鈴は首を傾げる。
こちらもちょっと意外そうな顔をして、チルノは続けた。
「え。だってさ、エントツが動いてなきゃ、雲ができないじゃん! 今こんなに雲がなくて、みんな困ってるのに」
「……え、えっとぉ」
美鈴は思わず浮かびかけたぽかんとした表情を、慌てて押し隠した。目の前のチルノが、とても真剣な目をしていたから。
頭の中で彼女の言葉を文章に起こし、少し考えると、勘の良い彼女には何が言いたいのかすぐに分かった。
(そういえば確かに、ここの所全然雨降らないっけ……)
チルノは、それを危惧しているのだという事にも気付いた。
しかし、だからと言って暖炉をごうごう燃やせばメイド長の十六夜咲夜に叱られるのは明白であったし、それが意味の無い行為である事もまた、明白であった。
「チルノちゃん、その……」
「なぁに?」
美鈴が口を開いたので、彼女はちょいと小首を傾げて話を聞く姿勢。
一度は大妖精と同じく、その知識を正そうかと思った。だけど、やめた。
彼女は、少し屈んでチルノと目線を合わせる。
「確かに、雨が降らなくてみんなが困っているそうですね」
「そうだよ、だから……」
「だけど、雲があるのはもっともっと、高い空の上です。いくら紅魔館でも、流石にそこまでは届きませんよ」
「あ……」
「だから、紅魔館の煙突が動いてないのは、あんまり関係がないと思うんです。それより、もっともっと高い場所にある煙突に、異常があるのかもしれませんね」
「そっかぁ……そうだよね」
一連の説明に納得した様子を見せるチルノ。美鈴は笑って頷いた。
―― 煙突の煙が雲になる。美鈴はその子供染みた考えが、本当に、とても素敵なものだと思ったのだ。
その発想を、大切にして欲しい。だから彼女は、それを否定しなかった。
自分達が忘れてしまったモノを持っている、目の前の妖精に、その輝きを失って欲しくなかったから――
「ごめんね、ヘンなこと言って。ありがと!」
「いえいえ、また来て下さいね」
チルノは笑い、彼女に礼を告げる。美鈴もそれに笑い返す事で応えた。
何度も手を振り、チルノは地面を蹴る。その青くて小さな姿が見えなくなるまで、彼女も手を振り返した。
なんだかとても晴れやかな気分になって、美鈴は思わず伸び一つ。見上げると、雲の少ない晴れ渡った青空。
雨が降って欲しいような、このまま晴れていて欲しいような―― ちょっとしたジレンマに、思わず苦笑が漏れる。
―― しかし。彼女の誤算は、チルノが『今から』その『煙突』を『直しに』行こうとしているという事に、気付かなかった事。
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(一番高いトコにあるエントツかぁ)
一旦自宅に戻ったチルノは、窓から湖を眺めながら思案。
この幻想郷におけるTop of the World。果たしてどこなのか。
まして、煙突があるという条件も重なるのだから彼女には想像もつかなかった。
「よーし!」
気合を入れるように声を上げて、チルノは再び家を飛び出した。
彼女はとにかく、空を飛び回ってそうな人物に話を聞く事にしたのだ。そのような人物であれば、”幻想郷で一番高い場所”を知っているかも知れない。
その初手として、彼女が訪れたのは博麗神社。
「霊夢、いるー?」
「あー、あっつぅー……なによぅ」
元気一杯な呼び声とは正反対に、博麗霊夢は縁側で溶けていた。
「ほら、元気だしてよー」
「ひゃあんっ!?」
チルノは縁側に腰掛けると、寝ている彼女の頬に両手を添えて冷気を流し込む。
急激な冷たさに、がばっと跳ね起きる霊夢。その様子を見て笑いながら、彼女は早速尋ねた。
「あはは、元気になった! ねぇ霊夢、幻想郷で一番高い場所ってどこかなぁ」
「あー冷たかった……はい? 一番高い場所? そんなの知らないわよ」
彼女は素っ気無く答えながらも、逆にチルノの頬に手を添える。
「冷たくないじゃない……」
「しょーがないなぁ」
頬に添えられた小さな手に更に小さい手を重ね、そっと冷却してやる。
気持ち良さそうに表情を緩める霊夢に、もう一度尋ねた。
「なんか、ここなら高いんじゃない? って場所でもいいよ」
「ん~……妖怪の山、はそこまで高いワケでもないか。
すぐ思いつくのは天界とか白玉楼とかかしら。でも、どっちも違う世界って感じはするわね」
冷してもらった礼でもあるのか、霊夢は丁寧に答えた。
彼女の言葉を聞き、チルノは手を離して立ち上がる。
「なるほど、そこがあったっけ。ありがと!」
「ちょ、待った!」
だがすぐに霊夢が彼女の腕を掴む。
「な、なぁに? あたい、もう行きたいんだけど」
「あと一時間くらい冷やしてくんない? 暑くってもう溶けそう……」
「やー、あついー!」
抱きついてべちょー、と片隅に捨てられて呼吸を止めない猫にするかの如く無理矢理に頬を寄せてくる霊夢。
いきなり汗をかいてカンカンに火照った頬を押し付けられてチルノも悲鳴を上げる。
このままでは目的を遂行出来ない。ようやく霊夢の腕から逃れ、彼女は尋ねた。
「んもう、じゃあタオルかなんかない?」
「これでいい?」
家の中に戻るのが面倒なのか、髪からリボンをほどいて差し出す。彼女はそれを受け取り、冷気をギュッと込めて凍らせた。
「はい、これ首に巻いてればいいんじゃない?」
「おう~ふ……南極が見えるわぁ……」
ぱきぱき、と音を立ててリボンを曲げ首に巻いてやる。すると霊夢は遠い目をして極寒の地に思いを馳せ始めた。
もう満足しただろうと判断し、チルノは神社を離れて空へと舞い上がろうとしたのだが。
「てんかい、ってドコだっけ」
とにかく空の上っぽい場所ではあるが、実際にどこなのか分からない。異変解決で行った事のあるらしい霊夢に場所を訊く事にした。
首に凍ったリボンを巻いてヘヴン状態の霊夢にどうにか道順を尋ね、今度こそ彼女は空へ。
あ~、とかう~、とか言いながらの説明だったので正確なのか少々疑問ではあったが、果たして彼女が辿り着いたのは確かに空の上に広がる大地。
だが近くに居た天人を捕まえて話を伺うと、天界に煙突は存在しないという。
「ホントにないの? どうして?」
「なんと言いますか……遥か空の上という開放的な場所ですから、調理なんかも屋外で行う事が多くて。
住居の構造上、換気も十分に行われるので排煙……えと、つまり煙をどこかへ逃がす必要が無いんですよ。
第一、桃ばっか食べてる人が多いですし」
「へぇ……ところで、なにしてるの?」
「日課の体操です」
「あたいもやろっと」
リボンのついた帽子に羽衣という出で立ちの彼女は、片足の膝を曲げて足を踏ん張り左手を腰に、右手で空を指差すようなポーズでチルノの質問に答えていた。
楽しそうなのでひとしきり彼女のポーズを真似てから、礼を告げて天界を後にする。
チルノが続いて目指したのは冥界、白玉楼。
大きな門を潜り、長い石段を飛び越えてようやく辿り着いたその場所は、曲がりなりにも死後の世界だけあり、どこか寂しさを感じる。
ある種桃源郷と言える天界とはまるで逆だ、と子供心に感じつつ、彼女は知った姿を探した。
「あっ、いた! ねぇねぇ、ちょっとききたいんだけど」
「あれ、誰かと思えば。なんですか?」
少し歩いたら、庭の掃き掃除をしている魂魄妖夢を見つけたので早速尋ねる。正直、寂しいこの場所で知り合いの姿を見つけた事で、大分安堵した。
しかし、帰って来た答えは天界の時と同様、彼女の目的をすぐに達成せしめてくれるものでは無かった。
「煙突、ですか……そうと言えるほどの立派なものはないですね。一応、お台所の所とかお風呂の所にそれっぽいのはあるんですけど」
妖夢はそう言うと白玉楼の外側、台所と風呂場の外壁に当たる部分に案内してくれた。
見やれば、確かに排煙用らしき金属製の筒が出ているが、煙突と言うには小さい。管の内径は15cm程度だ。
彼女が求めているのは空に浮かぶ大きな雲を作れるくらいの大きな煙突。これでは小さすぎる。
(エントツ、ない……)
彼女は再び考え込む。天界にも冥界にも存在しないとあれば、他にどこを探すのか。
雲に届くくらいの高さにある建造物なんて、ここ以外に聞いた事が無い。
それに、ここや天界は確かに幻想郷ではあるが、自分の住む所とは根本的に違う場所なのでは無いか。
(じゃあ、どうすれば……)
壊れていたなら直せばいい。だが、無いというのは想定外だった。
う~ん、と少しの間考え、彼女はようやく閃く。
「そっか! なら、あたいが作ればいいんだ!」
無ければ作る。チルノが煙突を作って高い所に立ててやれば、やがて雲が生まれて雨が降る―― それが彼女の閃いた妙案。
「な、なんですか? 作る?」
一人盛り上がるチルノをよそに、事情の分からない妖夢は困惑している。
しかしそんな彼女の当惑に気付かず、チルノは嬉々として尋ねた。
「ねぇ! あたいの住んでるトコの中で、一番高いのってどこかなぁ」
「はい?」
妖夢の頭上に浮かぶクエスチョンマークが、三つに増えた。
ん~、と唇に人差し指を当て、頭の中で言いたい事をまとめる。
「えっとね。天界や冥界じゃなくて、あたいたちが普通に生きて住んでるトコのこと」
「あ、ああ。要は顕界、下の世界って事ですね。その中で?」
「うん、その中で一番高い場所。妖夢、知らない?」
「えっとぉ……妖怪の山くらいじゃダメですか?」
「もっと!」
事情も分からぬままにこれまたよく分からない質問を振られ、妖夢はくるくると頭を回す。
しかしそんな折、不意に背後から声が掛かった。
「あらら、お庭にいないと思ったら。何のお話?」
ふいよふいよ、と浮かびながら西行寺幽々子登場。珍しい来客に、どこか嬉しそうだ。
「あ、幽々子様。あのですね、チルノちゃんが幻想郷で一番高い場所を探してるらしいんです」
「どっか知らない? 雲まで届きそうなくらいの高い場所!」
突如現れた彼女にも助言を求めると、ん~、と頬に手を当てて考え出す。
「天界とかは行ったかしら?」
「んとね、天界とかこことかじゃなくて」
「ああ、要は普通に人の住まう世界でってコトか……」
幽々子はチルノの短い言葉ですぐに察したようで、更に考え出す。その様子を二人は眺めるばかり。
何を考えているのかよく分からない節の多い彼女だからこそ、突飛な質問にも的確に答えてくれそうな、そんな気がしたのだ。
「やだ、そんなに見つめられると照れるわ」
二人の視線に気付いた幽々子が頬を桜色に染める。ひとしきり照れてから彼女は、チルノの目を見て続けた。
「あなた、”天空の花の都”ってご存知?」
「へ?」
いきなりの質問に、チルノは戸惑う。
彼女の言っていた、地名のような名前。脳内のページをぱらぱらめくってみると、聞き覚えがあった。
「あ、うん……前に、絵本で読んだ」
「そう、絵本にもなってるわね。それに、伝承としても伝わってる。雲の上にある、花咲き乱れる庭園。それが天空の花の都。
この幻想郷で、一番高い景色を拝みたいなら間違い無くそこしかないわね」
幽々子の言葉に、チルノは精一杯の想像力を掻き集める。太陽を浴び、雲の上で風にそよぐ数多の花々。強い風が吹いて、花弁を雲海へと散らしていくその光景。
太陽と共に見下ろすは見慣れた幻想郷の、全く見た事の無い景色。雲の上から、その全てを眼下に拝む。
見た事なんて無いのに、瞼の裏に浮かんだ美しい光景だけでため息が出そうになった。
「ホントに、そこなら」
「ええ、あなたが何故高い所を目指すのかは分からないけれど。私は、それ以上高い場所を知らないわ」
「え、でも幽々子さむぐっ」
「そっかぁ……でも、どこにあるの?」
「んむむむむぅ」
もっともな質問に、幽々子は笑みを崩さず答えた。
「さあ。とにかく、雲の上よ」
「空を飛んで探しまくれば、どっかにあるの?」
「まあ、雲の下にはないでしょうね。だって、もしそうだったら地上から見えちゃうじゃない」
くすくすと笑う幽々子に、チルノは大きく頷いてみせた。
「わかった! あたい、どうしても高い所に行かなきゃだから……探してくる!」
「あ、最後にいい?」
「なぁに?」
駆け出そうとしたチルノだったが、幽々子に呼び止められる。
尋ね返すと彼女は少しばかり真剣な顔になり、チルノの目を真っ直ぐ見つめて言った。
「どうしても行きたいなら、諦めないで探し続けるコト。当たり前だけどね」
「やだなぁ、わかってるよ! 探さなきゃ見つかんないじゃん!
それじゃ、ありがとう! あ、妖夢もありがとね!」
満面の笑みで手を振り、元気に飛び去っていったチルノの背中を見送った所で、幽々子はようやく妖夢の口を塞いでいた手を離した。
「ん……ぷはぁ! もう、何するんですか!」
「だって、あなたがヘンなコト言いそうだったんですもの」
「それは……でも。”天空の花の都”って、御伽噺じゃないですか! どうしてそんな……」
そう、それは民間伝承や枕元で読み聞かせるような御伽噺の一つ。人々の間ではどこかにあると信じられている、幻の楽園。
幽々子に問う妖夢の口調には、微かだが非難めいた色が滲んでいる。純粋な子供を、弄んだように見えたのだろう。
だが、幽々子はちっちっと指を振ってウィンク一つ。
「あら、そう思うの?」
「え?」
「妖夢にいい諺を教えてあげる。『信じるものは救われる』ってね」
「……?」
「楽園は歩いてこないのよ。だから歩いていくの」
「???」
この日の妖夢は困惑させられてばかりだった。説明を求めようとしたが、幽々子は鼻歌混じりに白玉楼へ引き上げていく。
慌ててその後姿を追いかける彼女の背後で、手から離れた箒が、からりと音を立てて転がった。
・
・
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・
「さー行くぞー!」
湖のほとり。冥界より帰還したその翌日、一度戻ったチルノは空を仰ぐと、気合の掛け声と共に三度地を蹴った。
瞬間、正面からぶつかってくる風が彼女の前髪を煽り、後ろ髪をはためかせ、リボンを揺らす。
ぐんぐん高度を稼ぎ、ちらりと下を見下ろせば自分の家や立ち並ぶ木々が大分小さくなっている。
目指すのは、雲の上に広がる花の楽園。
(なんてったって、天空だもの。そこにエントツ立てれば、すぐに雲が広がって……あっという間に雨が降るに決まってる!)
幼心に、チルノは確信していた。約束を果たす事が出来そうな事、そして風を切って舞い上がっていく自分の身体に、自然とテンションも上がる。
眼下にすっかり遠くなった湖を望みながら、更に飛び続けて数分。なかなか空は近付いて来ない。
あまり多くは無い雲を目印に飛んでいくが、あれらは近いように見えてずっと遠くにある事を、身を以って知る。
「な、なかなか……遠い、ね」
いつしか頬を汗が伝っていた。無理も無い、降り注ぐ真夏の陽光へ自ら体当たりをブチかますような真似をしているのだ。
ブラウスの一番上のボタンを外し、胸元のリボンを緩めてからパタパタと風を送る。飛んでいる事もあり、少し涼しくなった。
「まだまだぁ!」
空の上なのだから、気兼ね無く大声を張り上げられる。身体は熱くなったが、同時に元気も出た。
羽と背筋、そして足にも力を込め、少しスピードを上げた。彼女が上昇していった後には、氷のような羽が撒き散らす光の粒が軌跡となって残っていく。
それが楽しくて、彼女はジグザグに飛行してみたり、くるりと宙返りしてみたり。
「いやっほーう!」
巨大な空色キャンバスの上で絵筆を走らせるような感覚に、思わず歓声が口を突いて出た。
その後も一心不乱に羽を動かし、時々雨を降らせた後にどうやって自慢しようか考えている内に、チルノはかなりの高度へ到達。
きっと地上からは、彼女の青いワンピースは空に溶け、もう殆ど見えないだろう。
周囲を見渡すが、果たして自分がどのくらいの高さにいるのか、それが分かりそうな材料も見当たらない。
あるのはまだ遠い空に浮かぶ雲か、彼方の太陽か。もうすっかり霞んだ地上の景色か。
「あっついなぁ……」
冷静になってきた彼女は、思わずぼやいた。調子に乗って動き回ったせいか、夏の陽光が余計に強く感じられる。
とにかく上を目指してはみるものの、どこまで飛べば雲に触れられる高さなのかも分からない。
見上げればまだ雲は遠く、しかし眼下の景色ばかりが小さくなっていく。
それでも、ここで立ち止まる訳にはいかないとチルノは飛び続けた。
「あれ?」
そして気付く。どれくらい離れてるのかは分からないが、視線の先に同じくらいの高度で浮かび、流れていく雲を発見した。
見上げても、そこには雲がある。雲はいつも同じ高度に固まっている訳では無い、と初めて知った。
「あの中とか、ないかな」
雲が入り口、なんていかにも天空の楽園らしい。上昇から前進へとベクトルを変えて、羽を動かした。
いざ近付いてきた小さな雲に、頭から突っ込む。火照った肌を湿り気と冷たさが包み込み、思わず身を竦ませた。
「ひゃっ!」
悲鳴を上げた頃には、もう彼女の身体は雲の外だった。素早くきょろきょろと見渡すが、特に変わったものは無い。
どうやら入り口では無いようで、少し肩を落とす。と、その時であった。
「やほー、チルノちゃん。なにしてるの?」
聞き慣れている声で名を呼ばれ、チルノは振り返る。
白い服が太陽光を反射して眩しくて、細めた目の向こうにいたのは春告精・リリーホワイト。
「リリー! ちょっと久しぶりだね! リリーこそなにしてんの?」
春告精の性質上、春は毎日のように会うがそれから少しずつ会う頻度が減っていく。
半月ほど顔を見ていなかったので、チルノは嬉しそうに彼女の下へ。
「ん~、私はお散歩っていうかなんていうか……飛んでたらここにいたって感じかな」
「あはは、なにそれ! リリーらしいね」
えへへ、とはにかみながら語るリリーに、彼女が声を上げて笑った所で今度は逆に質問が飛んできた。
「でさ、チルノちゃんはどうしてこんな所にいるの? 冥界の門なみに高い場所だよ、ここ」
普段遊ぶ時も、こんな高度を飛ぶ事なんて滅多に無い。不思議そうな彼女の顔を見ながら、チルノはえっへん、と胸を張った。
「へへ~、聞いておどろけ! あたいは、天空の花の都を探しているのよ!」
「え、天空の花の都?」
リリーがオウム返しに尋ねるので、尚も得意気にうんうん、と頷く。
「あたいはね、人間の里を救うためのすっごいミッションを……さいこう? すいとん? あれ?
えっと、とにかくすっごいミッションの途中なのだ。すごいでしょ!」
鳩胸と言って差し支えないレベルまで胸を張るチルノ。
だがそれを聞いたリリーは首を傾げる。
「う~ん……チルノちゃん、ちょっと言いにくいんだけど」
「ほへ?」
「天空の花の都って、おとぎ話じゃないっけ? 本当にあるの?」
「えっ」
それを聞いた瞬間の彼女の表情―― 一瞬だけ、感情が消えた。明らかな動揺。
一拍間を置いて、マシンガンのような反論が返ってくる。
「で、でも! 幽々子が言ってたし、いっぱい本にもなってるし! それなら、誰かが見たんじゃないの?」
「だけどさ、小説や絵本や伝説みたいなのって、大抵誰かが考えたモノだし……もちろん、歴史小説なんかは事実がもとになってたりするけど。
幻想郷では空を飛べる人ってたくさんいるし、本当にあるならもっと大勢の人に見つかって……場所とか、具体的に解明されてたりしないかなぁ」
その顔や雰囲気に似合わず、リリーは現実的な視点で言葉を打ち返す。
(今日のリリー、なんかこわい……)
その違和感は、チルノも明確に感じ取っていた。普段の彼女なら、面白そうだと一緒に探してくれそうな所なのに。
だがそれを考える前に、自分の探している場所がどこにも無いと否定されそうな事に焦りを感じていた。
「で、でもぉ……うぅ……」
急いで反論しようとするも、言葉が続かない。全身を冷や汗が伝い、腹の奥底がむず痒く、苦しくなるような感覚。
今にも泣き出しそうな彼女の様子に、慌ててリリーがフォローの言葉を投げた。
「ご、ごめんね。でも、私はチルノちゃんが心配で。だって、こんな暑い日にこんな高い所を飛んでたら、身体壊しちゃうよ。
あるかも分からない場所を探すとなったら、かなりの長時間だろうし……大丈夫? 頭痛かったりしない?」
そう言う彼女の頬にも汗が伝っている。白く、ひらひらした服でもこの直射日光は堪えるようだ。
例え服は薄手でも全力で飛び続けてきたチルノの汗の量は、彼女の比では無い。顎から滴る程だ。
「あたいはだいじょぶ、だけど……」
「じゃあ、下まで一緒に帰ろうよ。もう疲れたでしょ」
リリーはそう言って、手を差し伸べる。チルノは暫し、その小さな手に視線を注いでいたが――
「……ありがと、リリー。けどあたい……まだ、探してみる」
ゆるりと首を振り、彼女はそれを拒否した。
「え、でも……」
「うん。天空の花の都はおとぎ話で、本当はないかもしれないっていうのは分かったよ。
けどさ、『ない』じゃなくて『ないかもしれない』なら、逆に『あるかもしれない』でしょ」
「………」
「それにさ」
押し黙ってしまったリリーに対し、チルノも一旦言葉を切る。そして、再びあの自信満々な笑顔に戻って続けた。
「さっきも言ったけどあたい、すっごいミッションの途中なんだ! もしうまくいったら、あたいはヒーローなんだから!
約束もしてるし……そのためにも、あたいはどうしても天空の花の都に行かなきゃなの」
汗にまみれた笑顔で語るチルノの目が、燃えていた。ヒロインでは無く、ヒーローなのが彼女らしさ。
茫然としていたリリーの表情も、次第に元の能天気な笑顔へと戻っていった。
「そっか。チルノちゃんがそこまで言うなら、私は応援するだけだよ。もしかしたら本当に、見つかっちゃうかも」
「見つけるの! もし見つかったらさ、きれいなお花摘んで、リリーにおみやげで持ってってあげる! いっぱい咲いてるんでしょ?」
底の見えない自信。どこまでも前向きな顔。それが彼女の魅力だと、リリーは再確認していた。
「ありがと、チルノちゃん! 楽しみにしてるからね。でも、暑いから気を付けて」
「うん、だいじょぶ!」
あくまで強気な返事を返すチルノに笑みを向け、リリーは下降しながら飛び去って行った。
白い後姿が空の色と同化し、見えなくなるまで手を振ると、チルノは袖でごしごしと頬の汗を拭った。
「よし、探す! あたいが探すんだもん、絶対にある!」
気合いを入れ直すように一人声を張ると、再び雲を目指して風を蹴った。
・
・
・
・
既に日も高く昇り、照りつける陽光はますます鋭さを増す。
羽を動かし、無意識の内に足で空を蹴る。風の音すら聞こえない、青空高く。
そこは、一面をスカイブルーで覆われた何も無い世界だった。
「はぁ、はぁ……」
疲労で羽を止めた。途端にぶつかってくる風も止み、全身が熱を帯びる感覚が蘇る。
噴き出した汗が、目元を、鼻を伝って落ちてくる。それを舌で舐め取って、チルノは眉をひそめる。
(しょっぱい)
当たり前ではある。ふぅ、と少し長めに息をつくと、左右を見渡した。
遠くに少ないながら雲も見える。が、そこまで飛んでいく元気も無い。
彼女に出来るのは、ひたすら上を目指す事だけ。
「どこにもない……」
リリーと別れてから、二時間は経過しただろうか。
影も形も見えない楽園を追い求めて飛び続けるチルノも、体力の限界を感じ始めていた。
身体の中に熱が篭り、お腹をパカッと開いて放熱したい衝動。無論出来る訳は無く。
代わりに、自分の身体へ冷気を少しばかり流し込む。氷精の特権とも言える能力のお陰で、熱射病の心配は無さそうだ。
「………」
見上げる雲の上。果たしてそこに、彼女の思い描く楽園はあるのか。
これだけ汗かきベソかき空を掻き、苦労して飛び続けて、いざそこに何も無かったら?
考えただけで心臓がぎゅっと握られるような苦しさに襲われて、涙が滲みそうになる。彼女は考えるのをやめた。
自分が信じなければ、楽園を見つける者は誰もいなくなる――
「あるもん。ぜったい」
一人ごちて、再び羽を動かし始めた。冷やしたばかりの小さな身体に熱が渦巻いていく。
ぶつかってくる風を飲み込むように息を大きく吸うと、太陽に温められた熱気が肺の奥まで届いてむせそうになった。
気付けば雲をいくつか眼下に拝む高度にいて、それでもチルノは羽を休めない。
こんな高さじゃない、もっと、もっと高い場所にあるに違いない―― 確証の無い確信が、彼女を突き動かす。
きっと彼女は、見つかるまで上を目指すのだろう。
(きっと、あの雲の上が……)
そう考えて、いくつの雲を乗り越えてきたものか。
いつの間にか再び流れてきた汗が顎から滴り、霞む地上へ向かって落ちていく。
ぐしぐし、と目元の汗を腕で拭うと少し目にしみた。
クリアになった視界で同じ高さを見渡す。前、後ろ、右左。どこかから、花びらでも舞って来ないかと探すが、どこまでも水色の世界が広がるだけ。
羽が止まった。
「あつい」
呟く。それだけで、動いた唇の隙間から汗が流れ込んできて、渇いた舌を刺激する。
ぎらぎらした放射に全身を包まれ、その熱は脳髄まで達していた。動く物の無い視界に、ぼんやりと霞がかかる。
はぁー、と深く息を吐く。陽炎が揺らぎそうな程の熱い吐息。
「……んっ」
伝う汗が目に入り、思わず顔を覆う。ぴちゃり、と水音。
手を離す。桶の水を掬ったかのような手の平。暫し凝視して、彼女は前を向く。
汗を散々吸ったスカートが足に張り付く感触。気持ち悪いが、それを表に出す余裕も無い。
「………」
遥か遠くの雲を眺める。吸い込まれてしまいそうな白。頭の中身が一瞬、ふわりと宙に浮いたような錯覚に囚われる。
ふっと気付いた時、全身に吹き付ける強い風。暑いばかりだった空の旅で、久々の涼しさを味わう。
急に風が出て来たか。いや、違った。
「……!!」
どこまで行っても青い空だからすぐには分からなかったが―― 天地が逆さまだ。
頭から足先へ向けて吹き抜ける暴風。血が上る感覚。
落ちている。それも、真っ逆さまに。
とっくに見えなくなったと思っていた地上は、意外と近くにあった。
「……ぅうあああああああぁぁぁッ!!!」
腹、胸の底から、肺を突き破る程の悲鳴。久々に出した大声のせいで、ますます脳が揺れる。
弛緩しきった全身に、必死の思いで力を込める。羽が、なかなか動かない。
早くしないと、頭から地面に叩きつけられる―― 恐怖に支配され、先の暑さが嘘のように身体が底冷えした。
「うっぐ……っはぁっ!」
ようやく動いた羽によって落下が止まり、どうにか姿勢を制御する。
果たしてどれほど落下して来たのか。見上げると、ぐらりと強く頭が揺れた。同時に頭痛。
ぎりり、と締め上げられるような鈍い痛み。噴き出す二種類の汗。そして、苦労して上ってきた時間が、一瞬で無に帰したその事実。
最早、上を目指すだけの気力は残っていない。
「もう、いい」
絶対に言うまいとしていたその言葉が、投了の合図。ふらふらと、下降を始めた。
時折吹き飛ばされそうになる意識を必死で繋ぎ止めながら、チルノは真逆の方向―― 下を目指す。
ぐるぐると色々な想い、色んな人の顔が脳裏に渦巻く。結局、何も出来ていない。何も成せていない。動いたのは口だけか。
だがもうそれすらもどうでも良かった。不貞腐れているという自覚は無い。
ただただ、疲れた。
「あー」
意味も無く、声が漏れる。かっくん、かっくん、と時折急激な下降を織り交ぜながら、やっと近付いた地上。
湖のへりに膝から着地。ぐしゃり、と草を噛む音がした。
頭突きをぶちかますような勢いで湖に頭を突っ込む。顔中、脳天まで突き抜ける冷たさ。夢中で水を飲んだ。
胃袋の奥が凍り付くくらい水を飲み込んで、顔を上げる。汗と水と、少しの鼻水が混じって顔から顎に滴っていく。
それから、手近な木の所までふらふら歩いていき、上る前の決意と一緒に全身を投げ出した。
木陰から空を見上げる。さっきまで自分が溶け込んでいたであろう、どこまでも広がる水色の空。流れていく、ほんの僅かな雲。
生い茂る葉の間から漏れた、眩しい陽光が目に入った。
「あついなぁ」
ぎゅっ、と目を閉じて―― そのまま彼女が目を開ける事は、無かった。
・
・
・
・
・
そよ風の感触で目が覚めた。嫌になるくらいの蒸し暑い風では無い、まるで初秋のような涼しい風だった。
脱水症状に起因する頭痛、眩み。それらが嘘のように、ぱっちりと瞼が軽い。
「……ん」
瞼だけじゃない、羽のように軽やかな身体。上半身をしゃっきり起こす。
木陰の一歩外からは相変わらず眩しい太陽が幅を利かせているが、直前まで目を閉じていたにも関わらず不思議と眩しくない。
世界が薄ぼんやりとセピア色になったかのような感覚。そこにあるのは良く知っている場所なのに、まるで写真の中の風景のようだった。
その時である。
「―― チルノちゃん」
不意な呼び声。もう少し顔を上げると、湖の上。陽光を反射して眩しい、白い服。
「……リリー?」
確かに、リリーホワイト。湖はすぐ傍なのに、やたら離れた場所にいるように感じられる。
湖にかかる、妙に濃い霧を背後にリリーは、笑顔のままちょいちょいと手招きしてくる。
「なぁに?」
脚に力を込めて、立ち上がる。汗でぐっしょりだった服は、もう乾いていた。
木陰を出ると途端に夏の日差しが全身を打つが、思ってたより暑くない。ふわり舞い上がる身体。一直線にリリーの下へ飛んでいく。
呼ばれて来たチルノを前に、彼女は悪戯っぽく微笑んでそっと囁いた。
「チルノちゃん。これから一緒に行かない?」
「行くって、どこに?」
突然のお誘い。当然のように尋ね返すと、リリーは人差し指を唇に当ててウィンク。
「……いいトコロ、だよ」
絹糸のようなプラチナブロンドの髪が、夏の太陽を受けてきらりと乱反射。
はっきり言ってくれないその態度に若干の不安はあるが、彼女の事を信用するチルノはやがてゆっくりと頷いた。
「わ、わかった……じゃあ、あたいも連れてってくれる?」
「うん! それじゃ、手繋いで」
「こう?」
差し出された小さな手に、同じくらいの大きさの手が重なる。きゅっと優しく握り返されて、何だかくすぐったい。
「離さないでね。それじゃ、行こ?」
くい、と手を引かれた。それに合わせるように、湖の上を飛んでいく。
リリーは少しだけ湖の上を滑るように飛んでいき、やがてある程度真ん中まで来た所で上昇を開始した。
木の下から眺めていた時も思ったが、妙に霧が濃い。もう自分がいた湖のほとりの景色も見えなかった。
(どこに行くんだろう。ただ上に向かってるだけみたいだけど)
チルノが頭の中で疑問を呈したその時、握られたリリーの手にもう少し力が込もる。
それと同時に、急激に身体が軽くなった。まるで全身を上昇気流に包まれたかのような感覚と共に、小さな身体がぐんぐん上昇していく。
「わぁっ!」
驚きがそのまま口を突いて出た。
濃霧の隙間からほんの少し零れる夏の日差し。手を引くリリーの白い袖。それらを一瞬見たのを最後に、何だか怖くなってチルノは目を固く閉じた。
上がっている筈なのに、フリーフォールで落ちているかのような気分。高い崖から下を覗き込んだみたいに、腹の奥底が竦み上がる。
リリーの手の温もりに縋るように、ぎゅっと手を強く握る。目を閉じていても握り返された小さな手が、彼女が確かにそこにいる事を証明してくれる。
ぱぁっ、と視界が急に明るくなった。
「……!」
瞼を貫く、白い光。霧を抜けたとすぐに分かった。やがて身体の上昇も止まり、自分の羽だけで浮いた身体を支える感覚が蘇る。
「チルノちゃん、もういいよ」
リリーの声がしたので、ゆっくりと目を開く。そこには――
―― 舞い上がる無数の花弁。風にそよぐ極彩色の絨毯。雲間に覗く雲界へとその切れ端が流れていく、まるで絵画のようなその光景。
紛れも無い”楽園”が、そこにあった。
「あ、ぁ……」
呆気にとられるがまま、微かな呟きだけを残してチルノは羽を止めた。ぽすん、と軽い音がして着地した足元は、ふわふわの綿菓子のよう。
空色に包まれて佇む、雲に根差した花畑。干からびそうになりながら探し回った、幻の楽園の名は――
「……天空の、花の都……」
「そのとーり! チルノちゃん、ずっと探してたもんね。ごめん、私実は知ってたんだ。
だけど、カンタンに人に教えちゃいけないから。でもさ、誰かのために必死に頑張ってるチルノちゃんになら、いいかなって」
彼女の呟きを拾ったリリーが、笑みを浮かべながらも申し訳無さそうに手を合わせた。
「そ、それは、いいんだけど……リリー、なんで知ってたの?」
「んー……春告精だから、かなぁ。えへへ」
分かったような、分からないような答え。チルノはそれ以上の追求を止めた。今目の前に広がる光景が、彼女から思考能力を引き剥がしていく。
とにかくもっと近くで見たい。傍で咲いていた花々に近付き、膝をつく。ふんわりと一瞬だけ地面が沈み込み、クッションのように力を優しく押し返す。
「くも、なんだ」
「うん。雲の上に咲いてるんだよ。すごいでしょ」
リリーの言葉に頷きながら、そっと花弁を指先で撫でた。地上に咲く花と変わらない感触。
立ち上がると視界が急に広がって、見えないくらい遠くまで広がる花と雲の景色が目に飛び込んできた。
意味も無く駆け出したくなって、チルノは足に力を込める。あの時の疲労が嘘のように、全身がとても軽い。
「あっ、待ってよぉ」
不意に走り出した彼女を追って、リリーも走り出す。
花を踏んでしまわないように気を遣いつつも全力疾走。息を切らして、流れていく虹色の野原を横目で追う。
どこまでも、どこまでも続く雲の道。走れども、走れども続く青い空。
もう走れそうになくて、それでもまだまだ道は続いていて。
「はっ、はぁっ……やぁっ!」
疲れを誤魔化すように、チルノは雲を蹴って全身を投げ出した。綿雲と花畑が織りなす柔らかな地面が、彼女の小さな身体を優しく受け止めた。
「あはははははははは!!」
舞い上がった花びらに包まれながら、チルノは声を上げて笑う。仰向けになると、真上にも尚広がる空色のスクリーン。
どうにも愉快で、楽しくて、心地良くて、もう笑うしかない。笑わなきゃ損だ。
「よいしょ、っと!」
遅れてやって来たリリーも、彼女の隣に横たわって空を仰ぐ。真夏とは思えぬ優しい日差しが、ちょっぴり眩しい。
「ねぇリリー、ここってどこまで続いてるの?」
「うーん、分かんないや。どこまでも、かな?」
「何の花が咲いてるの? いっぱいあるけど」
「なんでもだよ。春から冬まで、ぜんぶ。季節の壁なんてない、全部の花が見つかるよ」
「すっごい! さすが、ラクエン……」
はぁー、と感心したようにチルノは空へとため息。その後思いっ切り息を吸い込む。
太陽の匂いとは、きっとこんな匂いなのだろう。思わずぼんやり、更に上を流れる雲を目で追う。
「んあー、なんだかさ……あの雲まで、手が届いちゃいそう」
水色の空間へ向けて、ぐいっと手を伸ばす。雲の上に広がる楽園にいて、遥か上空を漂うあの雲にさえ、触れられそうな気がした。
そんな彼女を見て、リリーはくすくすと笑み。
「雲ならチルノちゃんのおしりの下にもあるのにね」
「えへへ、そっか」
手を下ろし、今まさに大の字に寝転ぶ地面を撫でた。覆い尽くすように生い茂る花々を掻き分け、柔らかな雲に手が触れる。
綿菓子にも似たその触り心地はまさに、全ての子供が憧れる”雲に触れた感触”。それを実際に味わって、チルノはご満悦の表情だ。
しかしその時、彼女は唐突に思い出したかのように跳ね起きる。
「あっ、そうだ! エントツ作らなきゃ!」
この世のものとは思えぬ光景の数々に圧倒されすっかり忘れていたが、彼女の本来の目的はそこにある。
幻想郷で一番高いこの場所に煙突を作り、雨を降らせる。その為に身体中の水分を汗と涙で絞り出しながら、真夏の青空を何時間も彷徨ったのだ。
「なになに、どうしたの?」
いきなり立ち上がったチルノに驚き、リリーも半身を起こす。
「すっかり忘れてたけど、あたいここにエントツを作りに来たんだ!」
「エントツ?」
「うん! だって、そうすれば雨が降るんだよ!」
興奮しながら語るチルノの様子に、リリーは少し考えてからポンと手を打つ。
「そういえば、最近ずっと雨が降らないんだっけ」
「うん……みんな、困ってるって。だから、あたいが降らせに来たんだ! ここから雲を作れば、絶対に雨が降るよね?
今あたいたちが立ってる雲を使ったら、お花がみんな落ちちゃうし」
チルノの言いたい事が分かったのか、目を輝かせる彼女の眼差しを真正面から受け止めて、リリーは笑い返した。
「そうだね、きっとここからなら幻想郷全体に雲が届くよ。チルノちゃん、このためにここを探してたんだね」
「もちろん! あたいはヒーローなんだから!」
リリーの同意を得られて、チルノは嬉しそうにはにかんだ。
彼女はまるで雪玉を丸めるかのように、小さな両手を合わせてぎゅっと力を込める。途端に辺りを漂い出す冷気に、リリーが少し身を震わせた。
手の中で生まれた融けない氷に冷気を覆い被せて、大きな塊へと変えていく。
「氷で作るんだね」
「だって、あたいのだもん」
答えながらも手は休めず、いつしか氷の塊は彼女の身長並みにまで成長していた。
土台となる部分から伸びる、彼女らの胴体ほどはあろうかという直方体。先端付近はもう一回り太い。
氷で出来た、いかにも西洋風の煙突。チルノがその表面を手で撫でると、少々いびつながらもレンガのような模様が刻まれる。
「でーきたっ! リリー、どこに置いたらいいかなぁ」
ずっしり重たい氷の煙突を必死に倒れぬよう支えるチルノ。リリーは少し辺りを見渡して、少し離れた場所を指差した。
「見晴らしがいい所の方がいいよね。こっちの、隅っこに置かない?」
「うん! ……ごめん、手伝ってくれる?」
「あっ、ごめんね。いくよ、せー……」
「のっ!」
子供の細腕四本ではいささか厳しい重量だが、羽による浮力も加えてどうにかこうにか、雲の切れ端近くまで運び込む。
どすん、と音はしなかったが、ずっしりと雲に沈み込む感覚がした。倒れない事を確認し、ついに施工完了。
「やったぁ! ありがと、リリー! これできっと雨が降るよ!」
「よかったねチルノちゃん! でも、煙出てこないよ?」
喜びを露わにする二人。長い長い大空の旅路の果てにとうとう目標を果たしたのだから、その喜びようは当然だ。
だが、リリーが呟いたその言葉もまた当然。燃やす物が無ければ煙など発生しない。
「あれ、おっかしいなぁ……おーい、出てこーい」
ぺちぺち、と冷たい氷の表面を平手で叩いてみる。
そんな彼女の想いが通じたかは定かでは無いが――
「あっ、見て! 煙出てきたよ!」
「どれどれ……ホントだー。よかったよかった」
チルノの言葉に目を凝らせば、確かに氷で出来た煙突の口からうっすらと煙のようなものが。
その正体が氷によって発生した冷気である事実など、今の二人には何の関係も無い事だ。
「今はまだ少ないけど、そのうちいっぱい出てくるよね。これでやっと雨が降るよ」
「チルノちゃん、がんばったもんね。きっと雨も降ってくれるよ」
雨雲を望むその心境とは裏腹に、誇らしげなチルノの目には一点の曇りも無い。
そんな彼女の肩を叩くリリーの顔も、一仕事を終えた達成感に満ちていた。
「………」
息をつき、チルノは改めて”それ”を見た。太陽の光を浴びて、きらきら輝く氷の煙突。
その立派な佇まいの背後には、水平線の彼方まで無限に広がる空色の景色。足元を見れば、雲の切れ間から雲界が覗く。
風が吹き、舞い上がる花びら。虹色の吹雪と、水色の空、透き通る水晶のような氷の塊。
芸術に疎い子供の心でも、それははっきりと分かる。この光景はきっと、今まで見てきたどんなものよりも美しい。
「……へへっ」
心から溢れ出した嬉しさが、口から少しだけ漏れ出た。
恥ずかしげに頬を染める彼女に、横合いからリリーが囁いたのはその時である。
「―― お疲れさま、チルノちゃん。それじゃ、帰ろっか」
「えっ?」
「ばいばい、またあとでね」
訊き返しに言葉を用いず、リリーは代わりに微笑みで返した。
それと同時に、あの真っ逆さまに落ちた時よりも強い風がチルノの全身を包み込む。
「きゃっ!」
小さな悲鳴も、風の音に掻き消されて聞こえない。思わず目を閉じる。
「リリー!」
思わずその名を呼び、無理矢理に目を開ける。
そこで彼女が見たのは、四方八方を覆う空色の空間。今まで立っていた雲の地面も、そこに根差した花畑も、導いた春告精の姿も無い。
ただどこまでも、夏の青空が広がるだけ。
驚く間も無く、今度は視界全てを塗り潰す程の白い光。再び目を固く閉じる。
「あ……」
瞼越しに広がる光の奔流に飲み込まれるがまま、チルノの意識はやがてホワイトアウト。
薄れゆくその意識の片隅で、彼女は微かに蝉の声を聞いた気がした。
・
・
・
・
・
ざらざらと、耳に纏わりつくような音の感触。
真っ黒な視界に沈む意識が、急激に引き上げられていく。
瞼を割る、微かな光。眩しくは無くて、どうにもはっきりしない。
「……ぅ……」
目が覚めた、と自らが認識した途端、全身を襲う重量感。呻く様な声が漏れる。
さっきまでいた空の上とは真逆で、身体が重くてしょうがない。明確な疲労感。
どろどろした、ヘドロのような疲れに再度意識を奪われそうになるのを必死で堪える。
「ん、ぁ……」
段々はっきりしてきた意識。先程から耳に纏わりつく音も少しずつ明確な物になりつつあった。
ばたばた、ばたばた、と何かを叩くような音だ。
身体中がじめじめとして、どうにも気分は良くない。寝汗だろうか。
「……んっ!」
次の瞬間、何かが顔を叩いた。小さな、冷たいような衝撃が、ぱたりと顔を駆け抜ける。
その刺激でようやく、鉛のように重かった瞼が動いた。
―― ばらばら、ばらばら。地面を引っ切り無しに叩く音が聞こえる。湿気を多分に含んだ風が、頬を舐めた。
「うぅん……あっ!?」
目を開いた時、辺りは異様に薄暗かった。
あれ程幅を利かせていた真夏の太陽はどこにもいない。木陰から目に飛び込んできたのは、ねずみ色をした分厚い雲の壁。
少しだけ首を上げ、地面を見る。無数の白い線がじめっとした空間を走り、地面に突き刺さって弾けていく。
景色に均一にフィルターをかけたようなその光景。それはまさに――
「あ……め……」
ずっと強がっていた夏空が見せた、久々の泣き顔だった。
「あめだ……雨だ! 雨が降ってるよ!」
重い重い、疲労の鎖が千切れる音がした。瞬時に力が戻ったチルノは、足元の湿気に濡れた草を掴んで素早く跳ね起きる。
見慣れた湖の風景を白い雨粒が覆う、当たり前なのに久しぶりの景色。
空の上まで登って、煙突を作った。途方も無いその行為が、実を結んだ。一度は諦めかけた約束を、確かに果たしたのだ。
その証拠は今まさに、天からいくらでも降り注いでいる。
「やったああぁぁぁ!!」
快哉と共に、チルノは木陰を出て走り出した。一直線に湖へ向かう。
からからに乾いた土も、今やぬかるむ程にたっぷりを水を吸っていた。これなら、畑の作物達も喜ぶだろう。
ぎゅむ、と濡れた雑草を踏みしめる感触が、無性に心地良い。だが――
「うわあっ!!」
濡れた草は非常に滑りやすい。湖の眼前まで迫った彼女は見事に足を滑らせ、大きく仰け反った。
雨水滴る靴が、華麗な弧を描く。スローモーションになった世界の中、チルノの身体はゆっくりと地面を離れ、一回転の後に湖へと吸い込まれていった。
「んがっ、ぐぶ……ぶはぁっ!」
青いワンピースが水面に飲み込まれて数秒、チルノの顔がにょっきり生えてきた。立ち泳ぎのまま、ぷるぷると顔を拭う。
確か乾いたような気がしていた服はやっぱり汗まみれだったが、今こうして湖に落ちたお陰で少しは綺麗になったかも知れない。
天に向かって大きく口を開け、はぁーっ、と息を吐いた。雨の雫が数滴口に飛び込む。
遥か上空、切れ目の見えない雨雲のカタマリ。あの向こうのどこかにきっと、自分が打ち立てた、あの冷たい煙突があるに違いない。
そこから生まれた雲が雨になり、地上へと降って、今チルノの中に帰ってきた。
「あはははははははは!!」
そう思うと何だか嬉しくて、再び声を上げて笑っていた。湖のへりに左手をつき、右腕を空へ伸ばす。
びしょ濡れの小さな手の平。そこに新たな水滴が落ちてきて、ぴちゃりと弾ける。
「おかえりなさい!」
久方ぶりの、冷たい夏。
止まない雨音を、その元気な挨拶が少しだけ打ち破った。
・
・
・
・
・
・
・
・
恨めしいくらいに熱い太陽が、今日もぎらぎらと居座る青空。
特に目的意識も無いが、チルノは外へ出た。洗濯したばかりのワンピースが、熱風にはためく。
歩いているだけで汗ばむ陽気だが、彼女の顔は隠し切れない笑みが滲んでいた。
(えへへー)
雨が降った翌日、里にある例の駄菓子屋へと赴いた。
『雨、降ったでしょ!? あたい、ちゃんとエントツ作って来たんだよ!』
店主の男性へ高らかに告げると、彼のみならず、近くに居合わせた人々もとても喜んでくれた。
何しろ、例年でも滅多に降らないくらいの大雨だったのだ。前日までの干ばつを見事に帳消しにしてくれた。
店主から事情を聞いた人々にも拍手を贈られ、チルノは英雄扱い。思い出すだけで、にやにやと笑ってしまう。
(また、カキ氷でも食べに行こうかな?)
自然と里のある方角へ足が向く。と――
「あっ、リリー! おーい!」
前方に見慣れた白い帽子。手を振りながら駆け寄る。
「チルノちゃん! こないだ、すごい雨だったねぇ」
「うんうん! でもリリーのおかげだよ、ありがと!」
何しろ、天空の花の都まで誘ってくれたのは他でも無いリリーなのだ。本当は、彼女も賞賛を受けるべきだと思っていた。
しかし――
「……私? チルノちゃん、なんのこと?」
リリーは不思議そうな顔になり、ゆっくりと首を傾げた。
「え……だ、だって! リリーがあたいを空の上まで連れてってくれて、そこにあたいがエントツ作って……」
驚き、チルノは事の経緯を説明してみせる。だが、
「ごめんね……私、何にも覚えがないの。夢でも見たとか?」
「な、な……ほ、ホントに何にも覚えてないの?」
「うん。空の上でチルノちゃんに会ったのは覚えてるけど、その後は普通にお家にいたし……天空の花の都だって、お話にしか聞いたコトがないから行き方もわかんないの」
「………」
とうとう黙りこくってしまうチルノ。あの、一生に一度見られるかも分からない楽園の景色。そこへ連れて行ってくれた唯一の人物に、知らないと言われてしまった。
あれは、本当に夢だったのだろうか。楽園を求める余り、チルノが寝ながらにして見た、幻の都だったのか。
確かに空から帰ってきた後、疲労の余り寝てしまった。花の都へ行って帰って来た時も、同じ場所で目が覚めた。ずっと寝ていただけで、雨が降ったのも偶然なのか。
考えてみれば、その方がずっと説得力がある。
(もう一回行こうとしても、行けないし……)
雨が止んだ翌日、リリーが手を引いてくれた記憶を頼りに湖の霧の中から上を目指して飛んでみた。
もう一度、あの景色が見たかったから。だが、いくら飛んでもすぐに霧を突き抜けてしまい、雲の上まで連れて行ってはくれない。
何度試しても変化は無く、湖が真下に広がるだけ。やはり、全ては妄想の産物だったのか。だが、
(あたい、確かに覚えてる……どこまでも続く雲。広がる空。きれないお花畑に、太陽のにおい……あそこは、まさに”ラクエン”……)
夢でした、の一言で片付けるには、あまりに鮮烈なその記憶。雲を踏みしめた柔らかな感触。手を伸ばせば届きそうな空の彼方。
嵐のように舞い散る花びらに包まれながら作った、氷の煙突。両の手を合わせれば、あの冷たさが今も蘇る――
「……まあ、いっか!」
だが、チルノはそれ以上の追求をやめてしまった。自分の功績が、努力の結晶が、その目で見た楽園の景色が、全て夢幻だったとしても構わない。
心のドアを開けば、そこには確かにある。雲に根差した、青空に浮かぶ花畑。
夢でもいい、あの素敵な場所にいられただけで満足だった。気のせいでもいい、リリーと一緒に雲を駆け、花の絨毯で寝転んだ楽しい記憶があるだけで笑顔になれた。
「ごめんね、リリー。あたい、ユメを見てただけだったみたい」
「ううん、いいよぉ。チルノちゃん、どんな所だったの?」
「すごいんだよ! 雲の上にお花がいっぱい咲いてて、どこまでも青い空が……あっ、そうだ。
こんな暑い所で立っててもしょうがないし、一緒にカキ氷でも食べに行こうよ! そこでいっぱい話すからさ!」
嬉々として話し始めようとした所で、チルノの頬を汗が伝う。興奮したせいもあってか暑くて仕方が無い。
一緒にカキ氷を崩しながら、胸一杯に広がるあの場所の景色を語る。想像するだけでたまらない。
「ホント? うん、私も行く!
あ、でも……その前に私、行くところがあるんだ。すぐに行くからさ、先に行っててもらってもいいかな?」
「いいよ! それじゃあたい、他の友達もさそってみるね。大ちゃんとか、ルーミアとか……他にもいっぱい」
こうなればリリー一人では勿体ない。一人でも多くに、夢のようなあの光景を語り継ぎたい。
たかが夢と笑われたっていい。その感動は本物なのだから。
「じゃ、いつものお店。先に行ってるから……リリー、絶対に来てよ! すっごく驚かせてあげるんだから!」
「もちろん! 楽しみにしてるからね!」
念押しすると、リリーも満面の笑みで頷いてくれた。安心し、チルノは地面を蹴る。
まずは友達を誘いに行かなければ。一路、森の方角へ。
(ユメだったのかも知れないけど、もしかしたら)
ふと足を止め、空を仰ぐ。宇宙まで透き通って見えそうなくらいの快晴。
空色が滲むあの彼方のどこか。浮かぶ雲の上に花畑が広がっていて、自分が立てたエントツがある―― かも知れない。
夢だと思っても。ほんのちょっぴり、諦めきれない。
(あの雲の辺りとか?)
いい具合に固まった雲が一ヶ所。もしかしたらそこかも知れない。想像するだけで胸が躍る。
「っと、行かなきゃ」
見上げすぎて、少し首が痛くなった所で我に返る。果てしなく広がるライトブルーの想像。この続きは、またあとで。
「んもぅ! 今日もあついぞー!!」
文句を垂れるように叫ぶチルノの顔は、太陽にも負けないくらいの笑顔だった。
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見上げれば、空色。そよ風に舞う、512色の欠片。
見下ろせば、雲海。流れていく雲は、どこまで行くのだろう。
作りたての綿菓子のような、ふわふわの雲に腰掛ける春告精。
(……ごめんね、チルノちゃん。ここは、どうしてもヒミツの場所だから)
天空の花の都。人々の間ではどこかにあると信じられている、幻の楽園。
その行き方は、彼女だけが知っている。幻じゃない、花咲き乱れる雲の庭園。
(だけど、ただのおとぎ話じゃない。チルノちゃんは、確かにここにいたんだよ)
数百年、数千年の時を超えても変わらない、その”楽園”と呼ぶに相応しい景色。
だが今は、ちょっぴり珍妙なオブジェが追加された。
(信じてるんだ。あの雨を降らせたのは、このエントツなんだって)
地上より幾許柔らかな太陽の光を浴びて、きらり輝く氷の芸術。
決して融ける事の無い氷精の氷。彼女の優しさが形になった、少し傾いた煙突。
そっと手を触れる。ひんやり冷たくて―― どうしてだろう、何だか温かい。
(チルノちゃんのがんばり、誰にも伝わらないかもしれないけれど……)
煙突から雲が出来て、雨が降る。誰もが一笑に付してしまいそうな夢物語。
だけど、もしそれが真実だったとしたら。それはとっても、素敵な事では無いだろうか。
真偽は分からない。ただ、彼女は知っている。小さな英雄の、大空を駆け抜けた大冒険の記録。
『さっきも言ったけどあたい、すっごいミッションの途中なんだ! もしうまくいったら、あたいはヒーローなんだから!』
倒れそうな程の熱気に包まれた空の上で、汗まみれの笑顔を返してくれた。
自信に満ち溢れたあの表情。思い出すだけで、胸が高鳴る。
(ユメじゃないよ。マボロシじゃないよ。私は知ってるんだよ)
花びらが舞っていく。汗と涙と優しさとが凍った、氷精の煙突がそびえる楽園の光景。
本人にすら、夢と断じられてしまった楽園の記憶。
決して夢なんかじゃない。誰かに覚えていて欲しかったから―― リリーは、大きく息を吸って叫んだ。
「チルノちゃん! サイコーにカッコよかったよ!!」
―― そこは紛れも無く、天よりも高い場所。
風を切って。
眩しい陽光を全身に浴びながら。
氷のような羽を煌めかせ、少女はひたすらに上を目指す。
―― 彼女が目指したのは、天よりも高い場所。
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「あっづぅ~い……」
じりじりと地面を焼く陽光に、思わずぼやきの言葉が出る。
湖の傍に立った一本の木、その根元に座り込んで、氷精チルノは恨めしそうに空を見上げた。
幻想郷は今まさに夏真っ盛り、太陽がこれでもかと光線を撃ち込んでくる。
「なんか、冷たいモノでも食べに行こうかなぁ」
自分で氷を出してもいいのだが、ただ氷を舐め回しても味気無い。やはり、カキ氷の一つでも食べたくなる。
えいやっ、と気合を入れて木陰から飛び出すと、彼女は地面を蹴って夏の大空へ飛翔。
飛んでいると、風を受けられるお陰で少しは暑さが紛れた。飛びながらポケットの小銭を確かめる。五百円はありそうだ。
これなら、何かしら冷たくて甘い物にありつけるだろう。
「おやつがあたいをよんでるぞーう」
上機嫌に歌いながら、あっという間に人間の住む里まで到着。地面に下り、チルノは歩き始めた。
この炎天下、流石に大通りを歩く人影もまばらだ。皆、多少は涼しい家の中に引っ込んでいるのだろう。
暫し歩いて、目的の小さな駄菓子屋へ入る。ここは駄菓子のみならず、カキ氷やアイスキャンディ、ラムネといった冷たい物も売っている。
更に中には椅子やテーブルもあるのでその場で食べられるとあって、この時期は子供達が大勢押しかける憩いの場となっていた。
気付けば常連となっていたチルノはこの日も、勢い良く暖簾をくぐる。
「こんにちはー!」
「おや、いらっしゃい」
中に入った途端に、がやがやと子供達の声が耳を打つ。元気に挨拶すると、店主の男性―― およそ四十歳か―― も、にこやかに彼女を出迎えた。
余談だが、店主の彼は立派な口髭を生やしており、子供達からここは『ヒゲおじさんの店』と呼ばれ愛されている。
「いやあ、丁度いい所に来てくれたよ。すまないけれど、氷を出してもらってもいいかな?」
「なくなっちゃったの?」
「カキ氷が大人気でね、氷がおいつかないんだ。その代わり、君の分はタダにするよ」
「ホント!? あたいにまっかせなさーい!」
店主の言葉に俄然やる気を出し、チルノはわざわざ腕をまくってから指を振る。
ほいっ、とカウンター状になっているテーブルの上を指差すと、いきなり20cm四方はあるだろう大きなアイスブロックが出現した。
「とりあえず、これでどうかな」
「ありがとう、助かったよ」
氷が入手出来た事で、カキ氷の生産も再開。店中の子供達から拍手を送られ、チルノはちょっぴり頬を染めた。
そのままカウンター席に腰掛けようか考えていると、不意にすぐ横から声が掛かった。
「さっすがチルノちゃん、大活躍だね!」
「あっ、大ちゃん!」
「私もいるよ~」
偶然来ていたらしい、湖の大妖精がそこに座っていた。その奥には図書館司書見習いの小悪魔もセット。
思いがけない親友達との鉢合わせ。チルノは嬉しそうに、大妖精の隣へ座った。
「チルノちゃんすごいなぁ。今度さ、紅魔館にも来てよ。みんな暑がって仕事が回んないんだ」
カウンターから横へ身を乗り出して小悪魔。チルノは尋ね返した。
「みんな、って?」
「メイドの子たちや私もそうなんだけど、ほら、美鈴さんとか常に外だし。咲夜さんも働き詰めだし……あとお嬢様も暑がってる。
お礼はもちろんするからさ、一度紅魔館に来てカキ氷でもいっぱい作ってほしいんだ」
「うん、いいよ!でもあたい、氷しか出せないけど」
「やった、ありがとチルノちゃん! シロップはこっちで何とかするよ。あと、来る時は何か食べたいものがあったら言って。咲夜さんに頼んでみる」
二つ返事で承諾すると、小悪魔は嬉しそうに笑う。そこで今度はチルノが尋ねてみた。
「大ちゃんはともかくさ、こあはお仕事とか大丈夫なの?」
「心配してくれてありがと、でも大丈夫だよ。今日は殆どお仕事終わっててさ。
それで、パチュリー様に頼まれて買い出しに来たの。遊びに来てた大ちゃんにも手伝ってもらってね。
その時に、お釣りは好きにしてくれていいってパチュリー様が言ってくれたから、カキ氷食べに来たんだ」
「へぇ、そうだったんだ。お買いものって?」
「ん~、なんかいろいろ。野菜から果物から、鉄クギに銅線、果てはゴムホースまで。何かの実験に使うんじゃないかなぁ」
「はいお待たせ、何にする?」
小悪魔の話を聞いていたら、先の注文を片付けた店主が戻って来ていた。
三人揃ってカキ氷を注文する。
「味はどうする?」
「私はイチゴで」
「えっと、わたしはメロンお願いします」
「あたいブルーハワイ!」
「はは、絶対に間違えない注文だね。了解、すぐ作るから」
綺麗に色分けされた注文内容に店主は笑い、作る為に奥へ。
程無くして彼は、それぞれの対比が美しい三色のカキ氷をお盆に乗せて戻って来た。
それを目で追う三人は、まるで宝を前にしたトレジャーハンターのよう。
「はい、お待ちどう。あ、お代わりは自由だよ」
「え、いいの!?」
「その代わり、後でもう少し氷を頂いてもいいかな」
「もちろん! じゃ、いっただきま~す!」
嬉しい申し出に三人(特にチルノ)は喜び、一斉に食べ始める。
一気に口の中へ氷を押し込み、襲い来る頭痛でスプーンが止まった所で、店主は話を振った。
「それにしても、暑いねぇ」
「ホントですね。ここ一番の猛暑だとか」
氷を崩しながら小悪魔が同意する。大妖精もその横で頷いた。
「日差しが強いですし、風も……」
「そうなんだ。そして何より、雨が降らない」
「あ、そういえば」
店主の言葉に、夢中で食べていたチルノも顔を上げた。
「最近、ぜんぜん雨ふらないね」
「もう二週間……いや、もっとかなぁ」
「三週間は降っていないようだ。いやはや、大弱りだよ」
憂鬱そうな言葉に、チルノは首を傾げる。
「なんで? あついから?」
「それもあるけれど、何よりも地面が乾いてしまってね。私も畑を持っているんだけれど、野菜とかが水不足でしおれてしまうんだ。
このまま雨がずっと降らなかったら、今年は野菜やお米が全然採れないかも知れない」
「そ、そうなの?」
「その通りなんだ。全く、困ったもんだよ」
分かりやすく説明してくれる店主の言葉に、チルノは手を止めて考え込む。
店の出入り口から空を見ると、雲が殆ど無い。気持ちの良い快晴だが、それが悩みの種でもあるのだ。
「普段なら、この時期は台風とかで割と雨降るんですけどね」
「うん……その通りなんだが、何故かこれっぽっちも雨が降らない。雲すら出てこない。さて、どうしたものか」
「水をあげる量を増やすとか」
「それも一時凌ぎでしかないからなぁ。根本的には、やっぱ雨が必要だよ」
そんな会話が途切れた時を見計らい、チルノは不意に立ち上がった。
「ねぇ、だったら……あたいが何とかしてあげる!」
「え?」
突然の発言に、一同は面食らった表情。それも気にせず、彼女は器に残った融けかけのカキ氷を一気に飲み干し、ぷは、と息をつく。
「大ちゃん。雨ってさ、雲があれば降ってくれるよね?」
「ま、まあ、そうだけど……」
「じゃあ、大丈夫だよ。あたい、雲がどうやってできるか、知ってるもん!」
チルノはそう言って胸を張ると、このような言葉を続けるのであった。
「雲は、エントツから出てくるんだよ!」
―― 静寂。否、店内は相変わらず子供達の声で騒がしい。四人の間に、沈黙が流れたのだ。
「え、えっとぉ……チルノちゃん」
「きっと、どっかのエントツが壊れて雲ができなくなっちゃったんだよ。あたいは空飛べるし、探して直してきてあげる!」
小悪魔の呟きにも気付かず、尚も得意気に続けるチルノ。
彼女を除く三人は、その発言の真意―― というより、意味に一応は気付いていた。
煙突は排煙装置。出てくるのは当然、煙だ。チルノは、それが雲になると思っているのだ。
(チルノちゃんって、時々すごいコト考えるんだよね……)
確かに見た目は雨雲製造装置と誤解してもおかしくは無いかも知れないが、それが間違いである事も知っていた。
雲は、空気中の水分が上空で凝結したもの。子供には少し難しい理屈だが、教えてあげた方がいいだろう。
言い難そうに、大妖精が口を開きかける。
「チ、チルノちゃん。それはね」
「待ってて、その内すぐに雨が降るから! じゃ、行ってきまーす!」
「あ、ちょっと!」
「っと。これ、お金がわり! ごちそうさま!」
しかし彼女は、先と同じサイズのアイスブロックを五個ほどその場に残し、まるで吹き抜ける夏風のように店を飛び出して行ってしまった。
残された三人は暫く黙っていたが、
「……いやしかし、子供というのは本当に素敵な発想をする。大人が絶対に敵わない部分の一つだな」
店主が、チルノの食べ終えた器とスプーンを片付けながら呟いた。皮肉では無く、本気でそう思っている顔だった。
「えっとぉ、どうしましょう」
困った顔で大妖精が言うと、彼は苦笑いを浮かべて答えた。
「無理に否定する事はないけれど、帰ってきたらそれとなく伝えてあげるといい。
ただ……正しい知識を得るのは大切だけれど、少しだけ寂しいものでもあるね」
しみじみとした口ぶりには、人間という短い寿命を持つ生物でありながらも、本当に多くの経験を積んできた重みが伝わってくる。
ただ単純に生きてきた年数で言えばずっと長い大妖精や小悪魔も、自分より彼がずっと大人である事を確かに感じたのだった。
「さて、せっかくだし……お代わりするかい?」
「いいんですか? じゃあ、ごちそうになります」
「ありがとうございます!」
しかし続く店主の言葉に、しみじみとした空気は突き抜けるような夏の大空へFly Away。
やはり、暑さには換えられない。
「次はどうする? 味」
「あ、じゃあ……」
「私と大ちゃん、交換で」
小悪魔の言葉に笑って頷き、店主はチルノの置き土産であるアイスブロックを手に取った。
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別に、深い意図は無かった。
よく会う人や、そこに住んでる人が、とても困っていそうだったから。
ただ、何とかしてあげたかったのかも知れないし、褒められたかったのかも知れない。
或いは氷を届けた時のような、喝采を浴びたかったのかも知れない。
(とりあえず、どこに行こっか……)
だがきっかけは何であれ、チルノの想いは本物だった。
自分なりの方法で、雨を降らせたい。それには、どこの煙突が壊れているのかを確かめなければ。
里を出て、湖の周辺をうろつきながら必死に考える。やがて、一つの答えに辿り着いた。
(雲って、ずっと高い所にあるよね。だったら、一番高いエントツなんじゃないかな)
ポンと手を打つと、彼女はただうろつくだけだった足を、明確にある方向へと向ける。
彼女が知る限りの、この辺りで最も大きな建物。
「こんにちは、チルノさん」
まるで自動で感知しているかのように、必ず挨拶が聞こえる門の前。
吸血鬼の住む館・紅魔館。声の主は勿論、門番たる紅美鈴だ。
「やだぁ、チルノさんってなんか照れるっていうか、はずかしいよ」
「そうですか? じゃあチルノちゃんの方がいいかな」
「ん~、そっちの方がなれてるかも」
いつも丁寧な彼女の言葉遣いに、ちょっぴり頬を染めるチルノ。丁寧に呼ばれるのはどうにも慣れないようだ。
来客に対して丁寧なのは門番としてしっかりしていると言うべきだろうが、ここで適切な呼び方に変える美鈴も慣れたもの。
門の前で暇潰しを兼ねて子供達とよく遊ぶ彼女には、当たり前のスキルなのかも知れない。
「それじゃ、チルノちゃん。今日はどうしました?」
「えっとね、ちょっとききたいんだけど」
言いながら彼女は、さっき小悪魔に訊いてくるべきだったか、とも考えた。
しかし、飛び出していった後でわざわざ戻るのはカッコ悪いと思い直し、目の前の美鈴にこう尋ねる。
「ここって、エントツある?」
「ええ、ありますよ。厨房とか談話室の大きな暖炉とか、いくつか煙が出る設備がありますから」
「それじゃあさ、それが最近壊れたりとかしてない?」
「いえ……特にそういったトラブルは無かったと思いますよ。夏場ですし、煙突の出番自体が少ないというのもありますね」
彼女の言葉に、チルノが若干の反応を見せた。
「エントツ、あんまり使ってないの?」
「夏ですから。暖炉なんか燃やしてたら、暑くて大変ですよ?」
「でも、それじゃ雲が……」
「雲?」
彼女にとっては意外な言葉が飛び出し、美鈴は首を傾げる。
こちらもちょっと意外そうな顔をして、チルノは続けた。
「え。だってさ、エントツが動いてなきゃ、雲ができないじゃん! 今こんなに雲がなくて、みんな困ってるのに」
「……え、えっとぉ」
美鈴は思わず浮かびかけたぽかんとした表情を、慌てて押し隠した。目の前のチルノが、とても真剣な目をしていたから。
頭の中で彼女の言葉を文章に起こし、少し考えると、勘の良い彼女には何が言いたいのかすぐに分かった。
(そういえば確かに、ここの所全然雨降らないっけ……)
チルノは、それを危惧しているのだという事にも気付いた。
しかし、だからと言って暖炉をごうごう燃やせばメイド長の十六夜咲夜に叱られるのは明白であったし、それが意味の無い行為である事もまた、明白であった。
「チルノちゃん、その……」
「なぁに?」
美鈴が口を開いたので、彼女はちょいと小首を傾げて話を聞く姿勢。
一度は大妖精と同じく、その知識を正そうかと思った。だけど、やめた。
彼女は、少し屈んでチルノと目線を合わせる。
「確かに、雨が降らなくてみんなが困っているそうですね」
「そうだよ、だから……」
「だけど、雲があるのはもっともっと、高い空の上です。いくら紅魔館でも、流石にそこまでは届きませんよ」
「あ……」
「だから、紅魔館の煙突が動いてないのは、あんまり関係がないと思うんです。それより、もっともっと高い場所にある煙突に、異常があるのかもしれませんね」
「そっかぁ……そうだよね」
一連の説明に納得した様子を見せるチルノ。美鈴は笑って頷いた。
―― 煙突の煙が雲になる。美鈴はその子供染みた考えが、本当に、とても素敵なものだと思ったのだ。
その発想を、大切にして欲しい。だから彼女は、それを否定しなかった。
自分達が忘れてしまったモノを持っている、目の前の妖精に、その輝きを失って欲しくなかったから――
「ごめんね、ヘンなこと言って。ありがと!」
「いえいえ、また来て下さいね」
チルノは笑い、彼女に礼を告げる。美鈴もそれに笑い返す事で応えた。
何度も手を振り、チルノは地面を蹴る。その青くて小さな姿が見えなくなるまで、彼女も手を振り返した。
なんだかとても晴れやかな気分になって、美鈴は思わず伸び一つ。見上げると、雲の少ない晴れ渡った青空。
雨が降って欲しいような、このまま晴れていて欲しいような―― ちょっとしたジレンマに、思わず苦笑が漏れる。
―― しかし。彼女の誤算は、チルノが『今から』その『煙突』を『直しに』行こうとしているという事に、気付かなかった事。
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(一番高いトコにあるエントツかぁ)
一旦自宅に戻ったチルノは、窓から湖を眺めながら思案。
この幻想郷におけるTop of the World。果たしてどこなのか。
まして、煙突があるという条件も重なるのだから彼女には想像もつかなかった。
「よーし!」
気合を入れるように声を上げて、チルノは再び家を飛び出した。
彼女はとにかく、空を飛び回ってそうな人物に話を聞く事にしたのだ。そのような人物であれば、”幻想郷で一番高い場所”を知っているかも知れない。
その初手として、彼女が訪れたのは博麗神社。
「霊夢、いるー?」
「あー、あっつぅー……なによぅ」
元気一杯な呼び声とは正反対に、博麗霊夢は縁側で溶けていた。
「ほら、元気だしてよー」
「ひゃあんっ!?」
チルノは縁側に腰掛けると、寝ている彼女の頬に両手を添えて冷気を流し込む。
急激な冷たさに、がばっと跳ね起きる霊夢。その様子を見て笑いながら、彼女は早速尋ねた。
「あはは、元気になった! ねぇ霊夢、幻想郷で一番高い場所ってどこかなぁ」
「あー冷たかった……はい? 一番高い場所? そんなの知らないわよ」
彼女は素っ気無く答えながらも、逆にチルノの頬に手を添える。
「冷たくないじゃない……」
「しょーがないなぁ」
頬に添えられた小さな手に更に小さい手を重ね、そっと冷却してやる。
気持ち良さそうに表情を緩める霊夢に、もう一度尋ねた。
「なんか、ここなら高いんじゃない? って場所でもいいよ」
「ん~……妖怪の山、はそこまで高いワケでもないか。
すぐ思いつくのは天界とか白玉楼とかかしら。でも、どっちも違う世界って感じはするわね」
冷してもらった礼でもあるのか、霊夢は丁寧に答えた。
彼女の言葉を聞き、チルノは手を離して立ち上がる。
「なるほど、そこがあったっけ。ありがと!」
「ちょ、待った!」
だがすぐに霊夢が彼女の腕を掴む。
「な、なぁに? あたい、もう行きたいんだけど」
「あと一時間くらい冷やしてくんない? 暑くってもう溶けそう……」
「やー、あついー!」
抱きついてべちょー、と片隅に捨てられて呼吸を止めない猫にするかの如く無理矢理に頬を寄せてくる霊夢。
いきなり汗をかいてカンカンに火照った頬を押し付けられてチルノも悲鳴を上げる。
このままでは目的を遂行出来ない。ようやく霊夢の腕から逃れ、彼女は尋ねた。
「んもう、じゃあタオルかなんかない?」
「これでいい?」
家の中に戻るのが面倒なのか、髪からリボンをほどいて差し出す。彼女はそれを受け取り、冷気をギュッと込めて凍らせた。
「はい、これ首に巻いてればいいんじゃない?」
「おう~ふ……南極が見えるわぁ……」
ぱきぱき、と音を立ててリボンを曲げ首に巻いてやる。すると霊夢は遠い目をして極寒の地に思いを馳せ始めた。
もう満足しただろうと判断し、チルノは神社を離れて空へと舞い上がろうとしたのだが。
「てんかい、ってドコだっけ」
とにかく空の上っぽい場所ではあるが、実際にどこなのか分からない。異変解決で行った事のあるらしい霊夢に場所を訊く事にした。
首に凍ったリボンを巻いてヘヴン状態の霊夢にどうにか道順を尋ね、今度こそ彼女は空へ。
あ~、とかう~、とか言いながらの説明だったので正確なのか少々疑問ではあったが、果たして彼女が辿り着いたのは確かに空の上に広がる大地。
だが近くに居た天人を捕まえて話を伺うと、天界に煙突は存在しないという。
「ホントにないの? どうして?」
「なんと言いますか……遥か空の上という開放的な場所ですから、調理なんかも屋外で行う事が多くて。
住居の構造上、換気も十分に行われるので排煙……えと、つまり煙をどこかへ逃がす必要が無いんですよ。
第一、桃ばっか食べてる人が多いですし」
「へぇ……ところで、なにしてるの?」
「日課の体操です」
「あたいもやろっと」
リボンのついた帽子に羽衣という出で立ちの彼女は、片足の膝を曲げて足を踏ん張り左手を腰に、右手で空を指差すようなポーズでチルノの質問に答えていた。
楽しそうなのでひとしきり彼女のポーズを真似てから、礼を告げて天界を後にする。
チルノが続いて目指したのは冥界、白玉楼。
大きな門を潜り、長い石段を飛び越えてようやく辿り着いたその場所は、曲がりなりにも死後の世界だけあり、どこか寂しさを感じる。
ある種桃源郷と言える天界とはまるで逆だ、と子供心に感じつつ、彼女は知った姿を探した。
「あっ、いた! ねぇねぇ、ちょっとききたいんだけど」
「あれ、誰かと思えば。なんですか?」
少し歩いたら、庭の掃き掃除をしている魂魄妖夢を見つけたので早速尋ねる。正直、寂しいこの場所で知り合いの姿を見つけた事で、大分安堵した。
しかし、帰って来た答えは天界の時と同様、彼女の目的をすぐに達成せしめてくれるものでは無かった。
「煙突、ですか……そうと言えるほどの立派なものはないですね。一応、お台所の所とかお風呂の所にそれっぽいのはあるんですけど」
妖夢はそう言うと白玉楼の外側、台所と風呂場の外壁に当たる部分に案内してくれた。
見やれば、確かに排煙用らしき金属製の筒が出ているが、煙突と言うには小さい。管の内径は15cm程度だ。
彼女が求めているのは空に浮かぶ大きな雲を作れるくらいの大きな煙突。これでは小さすぎる。
(エントツ、ない……)
彼女は再び考え込む。天界にも冥界にも存在しないとあれば、他にどこを探すのか。
雲に届くくらいの高さにある建造物なんて、ここ以外に聞いた事が無い。
それに、ここや天界は確かに幻想郷ではあるが、自分の住む所とは根本的に違う場所なのでは無いか。
(じゃあ、どうすれば……)
壊れていたなら直せばいい。だが、無いというのは想定外だった。
う~ん、と少しの間考え、彼女はようやく閃く。
「そっか! なら、あたいが作ればいいんだ!」
無ければ作る。チルノが煙突を作って高い所に立ててやれば、やがて雲が生まれて雨が降る―― それが彼女の閃いた妙案。
「な、なんですか? 作る?」
一人盛り上がるチルノをよそに、事情の分からない妖夢は困惑している。
しかしそんな彼女の当惑に気付かず、チルノは嬉々として尋ねた。
「ねぇ! あたいの住んでるトコの中で、一番高いのってどこかなぁ」
「はい?」
妖夢の頭上に浮かぶクエスチョンマークが、三つに増えた。
ん~、と唇に人差し指を当て、頭の中で言いたい事をまとめる。
「えっとね。天界や冥界じゃなくて、あたいたちが普通に生きて住んでるトコのこと」
「あ、ああ。要は顕界、下の世界って事ですね。その中で?」
「うん、その中で一番高い場所。妖夢、知らない?」
「えっとぉ……妖怪の山くらいじゃダメですか?」
「もっと!」
事情も分からぬままにこれまたよく分からない質問を振られ、妖夢はくるくると頭を回す。
しかしそんな折、不意に背後から声が掛かった。
「あらら、お庭にいないと思ったら。何のお話?」
ふいよふいよ、と浮かびながら西行寺幽々子登場。珍しい来客に、どこか嬉しそうだ。
「あ、幽々子様。あのですね、チルノちゃんが幻想郷で一番高い場所を探してるらしいんです」
「どっか知らない? 雲まで届きそうなくらいの高い場所!」
突如現れた彼女にも助言を求めると、ん~、と頬に手を当てて考え出す。
「天界とかは行ったかしら?」
「んとね、天界とかこことかじゃなくて」
「ああ、要は普通に人の住まう世界でってコトか……」
幽々子はチルノの短い言葉ですぐに察したようで、更に考え出す。その様子を二人は眺めるばかり。
何を考えているのかよく分からない節の多い彼女だからこそ、突飛な質問にも的確に答えてくれそうな、そんな気がしたのだ。
「やだ、そんなに見つめられると照れるわ」
二人の視線に気付いた幽々子が頬を桜色に染める。ひとしきり照れてから彼女は、チルノの目を見て続けた。
「あなた、”天空の花の都”ってご存知?」
「へ?」
いきなりの質問に、チルノは戸惑う。
彼女の言っていた、地名のような名前。脳内のページをぱらぱらめくってみると、聞き覚えがあった。
「あ、うん……前に、絵本で読んだ」
「そう、絵本にもなってるわね。それに、伝承としても伝わってる。雲の上にある、花咲き乱れる庭園。それが天空の花の都。
この幻想郷で、一番高い景色を拝みたいなら間違い無くそこしかないわね」
幽々子の言葉に、チルノは精一杯の想像力を掻き集める。太陽を浴び、雲の上で風にそよぐ数多の花々。強い風が吹いて、花弁を雲海へと散らしていくその光景。
太陽と共に見下ろすは見慣れた幻想郷の、全く見た事の無い景色。雲の上から、その全てを眼下に拝む。
見た事なんて無いのに、瞼の裏に浮かんだ美しい光景だけでため息が出そうになった。
「ホントに、そこなら」
「ええ、あなたが何故高い所を目指すのかは分からないけれど。私は、それ以上高い場所を知らないわ」
「え、でも幽々子さむぐっ」
「そっかぁ……でも、どこにあるの?」
「んむむむむぅ」
もっともな質問に、幽々子は笑みを崩さず答えた。
「さあ。とにかく、雲の上よ」
「空を飛んで探しまくれば、どっかにあるの?」
「まあ、雲の下にはないでしょうね。だって、もしそうだったら地上から見えちゃうじゃない」
くすくすと笑う幽々子に、チルノは大きく頷いてみせた。
「わかった! あたい、どうしても高い所に行かなきゃだから……探してくる!」
「あ、最後にいい?」
「なぁに?」
駆け出そうとしたチルノだったが、幽々子に呼び止められる。
尋ね返すと彼女は少しばかり真剣な顔になり、チルノの目を真っ直ぐ見つめて言った。
「どうしても行きたいなら、諦めないで探し続けるコト。当たり前だけどね」
「やだなぁ、わかってるよ! 探さなきゃ見つかんないじゃん!
それじゃ、ありがとう! あ、妖夢もありがとね!」
満面の笑みで手を振り、元気に飛び去っていったチルノの背中を見送った所で、幽々子はようやく妖夢の口を塞いでいた手を離した。
「ん……ぷはぁ! もう、何するんですか!」
「だって、あなたがヘンなコト言いそうだったんですもの」
「それは……でも。”天空の花の都”って、御伽噺じゃないですか! どうしてそんな……」
そう、それは民間伝承や枕元で読み聞かせるような御伽噺の一つ。人々の間ではどこかにあると信じられている、幻の楽園。
幽々子に問う妖夢の口調には、微かだが非難めいた色が滲んでいる。純粋な子供を、弄んだように見えたのだろう。
だが、幽々子はちっちっと指を振ってウィンク一つ。
「あら、そう思うの?」
「え?」
「妖夢にいい諺を教えてあげる。『信じるものは救われる』ってね」
「……?」
「楽園は歩いてこないのよ。だから歩いていくの」
「???」
この日の妖夢は困惑させられてばかりだった。説明を求めようとしたが、幽々子は鼻歌混じりに白玉楼へ引き上げていく。
慌ててその後姿を追いかける彼女の背後で、手から離れた箒が、からりと音を立てて転がった。
・
・
・
・
「さー行くぞー!」
湖のほとり。冥界より帰還したその翌日、一度戻ったチルノは空を仰ぐと、気合の掛け声と共に三度地を蹴った。
瞬間、正面からぶつかってくる風が彼女の前髪を煽り、後ろ髪をはためかせ、リボンを揺らす。
ぐんぐん高度を稼ぎ、ちらりと下を見下ろせば自分の家や立ち並ぶ木々が大分小さくなっている。
目指すのは、雲の上に広がる花の楽園。
(なんてったって、天空だもの。そこにエントツ立てれば、すぐに雲が広がって……あっという間に雨が降るに決まってる!)
幼心に、チルノは確信していた。約束を果たす事が出来そうな事、そして風を切って舞い上がっていく自分の身体に、自然とテンションも上がる。
眼下にすっかり遠くなった湖を望みながら、更に飛び続けて数分。なかなか空は近付いて来ない。
あまり多くは無い雲を目印に飛んでいくが、あれらは近いように見えてずっと遠くにある事を、身を以って知る。
「な、なかなか……遠い、ね」
いつしか頬を汗が伝っていた。無理も無い、降り注ぐ真夏の陽光へ自ら体当たりをブチかますような真似をしているのだ。
ブラウスの一番上のボタンを外し、胸元のリボンを緩めてからパタパタと風を送る。飛んでいる事もあり、少し涼しくなった。
「まだまだぁ!」
空の上なのだから、気兼ね無く大声を張り上げられる。身体は熱くなったが、同時に元気も出た。
羽と背筋、そして足にも力を込め、少しスピードを上げた。彼女が上昇していった後には、氷のような羽が撒き散らす光の粒が軌跡となって残っていく。
それが楽しくて、彼女はジグザグに飛行してみたり、くるりと宙返りしてみたり。
「いやっほーう!」
巨大な空色キャンバスの上で絵筆を走らせるような感覚に、思わず歓声が口を突いて出た。
その後も一心不乱に羽を動かし、時々雨を降らせた後にどうやって自慢しようか考えている内に、チルノはかなりの高度へ到達。
きっと地上からは、彼女の青いワンピースは空に溶け、もう殆ど見えないだろう。
周囲を見渡すが、果たして自分がどのくらいの高さにいるのか、それが分かりそうな材料も見当たらない。
あるのはまだ遠い空に浮かぶ雲か、彼方の太陽か。もうすっかり霞んだ地上の景色か。
「あっついなぁ……」
冷静になってきた彼女は、思わずぼやいた。調子に乗って動き回ったせいか、夏の陽光が余計に強く感じられる。
とにかく上を目指してはみるものの、どこまで飛べば雲に触れられる高さなのかも分からない。
見上げればまだ雲は遠く、しかし眼下の景色ばかりが小さくなっていく。
それでも、ここで立ち止まる訳にはいかないとチルノは飛び続けた。
「あれ?」
そして気付く。どれくらい離れてるのかは分からないが、視線の先に同じくらいの高度で浮かび、流れていく雲を発見した。
見上げても、そこには雲がある。雲はいつも同じ高度に固まっている訳では無い、と初めて知った。
「あの中とか、ないかな」
雲が入り口、なんていかにも天空の楽園らしい。上昇から前進へとベクトルを変えて、羽を動かした。
いざ近付いてきた小さな雲に、頭から突っ込む。火照った肌を湿り気と冷たさが包み込み、思わず身を竦ませた。
「ひゃっ!」
悲鳴を上げた頃には、もう彼女の身体は雲の外だった。素早くきょろきょろと見渡すが、特に変わったものは無い。
どうやら入り口では無いようで、少し肩を落とす。と、その時であった。
「やほー、チルノちゃん。なにしてるの?」
聞き慣れている声で名を呼ばれ、チルノは振り返る。
白い服が太陽光を反射して眩しくて、細めた目の向こうにいたのは春告精・リリーホワイト。
「リリー! ちょっと久しぶりだね! リリーこそなにしてんの?」
春告精の性質上、春は毎日のように会うがそれから少しずつ会う頻度が減っていく。
半月ほど顔を見ていなかったので、チルノは嬉しそうに彼女の下へ。
「ん~、私はお散歩っていうかなんていうか……飛んでたらここにいたって感じかな」
「あはは、なにそれ! リリーらしいね」
えへへ、とはにかみながら語るリリーに、彼女が声を上げて笑った所で今度は逆に質問が飛んできた。
「でさ、チルノちゃんはどうしてこんな所にいるの? 冥界の門なみに高い場所だよ、ここ」
普段遊ぶ時も、こんな高度を飛ぶ事なんて滅多に無い。不思議そうな彼女の顔を見ながら、チルノはえっへん、と胸を張った。
「へへ~、聞いておどろけ! あたいは、天空の花の都を探しているのよ!」
「え、天空の花の都?」
リリーがオウム返しに尋ねるので、尚も得意気にうんうん、と頷く。
「あたいはね、人間の里を救うためのすっごいミッションを……さいこう? すいとん? あれ?
えっと、とにかくすっごいミッションの途中なのだ。すごいでしょ!」
鳩胸と言って差し支えないレベルまで胸を張るチルノ。
だがそれを聞いたリリーは首を傾げる。
「う~ん……チルノちゃん、ちょっと言いにくいんだけど」
「ほへ?」
「天空の花の都って、おとぎ話じゃないっけ? 本当にあるの?」
「えっ」
それを聞いた瞬間の彼女の表情―― 一瞬だけ、感情が消えた。明らかな動揺。
一拍間を置いて、マシンガンのような反論が返ってくる。
「で、でも! 幽々子が言ってたし、いっぱい本にもなってるし! それなら、誰かが見たんじゃないの?」
「だけどさ、小説や絵本や伝説みたいなのって、大抵誰かが考えたモノだし……もちろん、歴史小説なんかは事実がもとになってたりするけど。
幻想郷では空を飛べる人ってたくさんいるし、本当にあるならもっと大勢の人に見つかって……場所とか、具体的に解明されてたりしないかなぁ」
その顔や雰囲気に似合わず、リリーは現実的な視点で言葉を打ち返す。
(今日のリリー、なんかこわい……)
その違和感は、チルノも明確に感じ取っていた。普段の彼女なら、面白そうだと一緒に探してくれそうな所なのに。
だがそれを考える前に、自分の探している場所がどこにも無いと否定されそうな事に焦りを感じていた。
「で、でもぉ……うぅ……」
急いで反論しようとするも、言葉が続かない。全身を冷や汗が伝い、腹の奥底がむず痒く、苦しくなるような感覚。
今にも泣き出しそうな彼女の様子に、慌ててリリーがフォローの言葉を投げた。
「ご、ごめんね。でも、私はチルノちゃんが心配で。だって、こんな暑い日にこんな高い所を飛んでたら、身体壊しちゃうよ。
あるかも分からない場所を探すとなったら、かなりの長時間だろうし……大丈夫? 頭痛かったりしない?」
そう言う彼女の頬にも汗が伝っている。白く、ひらひらした服でもこの直射日光は堪えるようだ。
例え服は薄手でも全力で飛び続けてきたチルノの汗の量は、彼女の比では無い。顎から滴る程だ。
「あたいはだいじょぶ、だけど……」
「じゃあ、下まで一緒に帰ろうよ。もう疲れたでしょ」
リリーはそう言って、手を差し伸べる。チルノは暫し、その小さな手に視線を注いでいたが――
「……ありがと、リリー。けどあたい……まだ、探してみる」
ゆるりと首を振り、彼女はそれを拒否した。
「え、でも……」
「うん。天空の花の都はおとぎ話で、本当はないかもしれないっていうのは分かったよ。
けどさ、『ない』じゃなくて『ないかもしれない』なら、逆に『あるかもしれない』でしょ」
「………」
「それにさ」
押し黙ってしまったリリーに対し、チルノも一旦言葉を切る。そして、再びあの自信満々な笑顔に戻って続けた。
「さっきも言ったけどあたい、すっごいミッションの途中なんだ! もしうまくいったら、あたいはヒーローなんだから!
約束もしてるし……そのためにも、あたいはどうしても天空の花の都に行かなきゃなの」
汗にまみれた笑顔で語るチルノの目が、燃えていた。ヒロインでは無く、ヒーローなのが彼女らしさ。
茫然としていたリリーの表情も、次第に元の能天気な笑顔へと戻っていった。
「そっか。チルノちゃんがそこまで言うなら、私は応援するだけだよ。もしかしたら本当に、見つかっちゃうかも」
「見つけるの! もし見つかったらさ、きれいなお花摘んで、リリーにおみやげで持ってってあげる! いっぱい咲いてるんでしょ?」
底の見えない自信。どこまでも前向きな顔。それが彼女の魅力だと、リリーは再確認していた。
「ありがと、チルノちゃん! 楽しみにしてるからね。でも、暑いから気を付けて」
「うん、だいじょぶ!」
あくまで強気な返事を返すチルノに笑みを向け、リリーは下降しながら飛び去って行った。
白い後姿が空の色と同化し、見えなくなるまで手を振ると、チルノは袖でごしごしと頬の汗を拭った。
「よし、探す! あたいが探すんだもん、絶対にある!」
気合いを入れ直すように一人声を張ると、再び雲を目指して風を蹴った。
・
・
・
・
既に日も高く昇り、照りつける陽光はますます鋭さを増す。
羽を動かし、無意識の内に足で空を蹴る。風の音すら聞こえない、青空高く。
そこは、一面をスカイブルーで覆われた何も無い世界だった。
「はぁ、はぁ……」
疲労で羽を止めた。途端にぶつかってくる風も止み、全身が熱を帯びる感覚が蘇る。
噴き出した汗が、目元を、鼻を伝って落ちてくる。それを舌で舐め取って、チルノは眉をひそめる。
(しょっぱい)
当たり前ではある。ふぅ、と少し長めに息をつくと、左右を見渡した。
遠くに少ないながら雲も見える。が、そこまで飛んでいく元気も無い。
彼女に出来るのは、ひたすら上を目指す事だけ。
「どこにもない……」
リリーと別れてから、二時間は経過しただろうか。
影も形も見えない楽園を追い求めて飛び続けるチルノも、体力の限界を感じ始めていた。
身体の中に熱が篭り、お腹をパカッと開いて放熱したい衝動。無論出来る訳は無く。
代わりに、自分の身体へ冷気を少しばかり流し込む。氷精の特権とも言える能力のお陰で、熱射病の心配は無さそうだ。
「………」
見上げる雲の上。果たしてそこに、彼女の思い描く楽園はあるのか。
これだけ汗かきベソかき空を掻き、苦労して飛び続けて、いざそこに何も無かったら?
考えただけで心臓がぎゅっと握られるような苦しさに襲われて、涙が滲みそうになる。彼女は考えるのをやめた。
自分が信じなければ、楽園を見つける者は誰もいなくなる――
「あるもん。ぜったい」
一人ごちて、再び羽を動かし始めた。冷やしたばかりの小さな身体に熱が渦巻いていく。
ぶつかってくる風を飲み込むように息を大きく吸うと、太陽に温められた熱気が肺の奥まで届いてむせそうになった。
気付けば雲をいくつか眼下に拝む高度にいて、それでもチルノは羽を休めない。
こんな高さじゃない、もっと、もっと高い場所にあるに違いない―― 確証の無い確信が、彼女を突き動かす。
きっと彼女は、見つかるまで上を目指すのだろう。
(きっと、あの雲の上が……)
そう考えて、いくつの雲を乗り越えてきたものか。
いつの間にか再び流れてきた汗が顎から滴り、霞む地上へ向かって落ちていく。
ぐしぐし、と目元の汗を腕で拭うと少し目にしみた。
クリアになった視界で同じ高さを見渡す。前、後ろ、右左。どこかから、花びらでも舞って来ないかと探すが、どこまでも水色の世界が広がるだけ。
羽が止まった。
「あつい」
呟く。それだけで、動いた唇の隙間から汗が流れ込んできて、渇いた舌を刺激する。
ぎらぎらした放射に全身を包まれ、その熱は脳髄まで達していた。動く物の無い視界に、ぼんやりと霞がかかる。
はぁー、と深く息を吐く。陽炎が揺らぎそうな程の熱い吐息。
「……んっ」
伝う汗が目に入り、思わず顔を覆う。ぴちゃり、と水音。
手を離す。桶の水を掬ったかのような手の平。暫し凝視して、彼女は前を向く。
汗を散々吸ったスカートが足に張り付く感触。気持ち悪いが、それを表に出す余裕も無い。
「………」
遥か遠くの雲を眺める。吸い込まれてしまいそうな白。頭の中身が一瞬、ふわりと宙に浮いたような錯覚に囚われる。
ふっと気付いた時、全身に吹き付ける強い風。暑いばかりだった空の旅で、久々の涼しさを味わう。
急に風が出て来たか。いや、違った。
「……!!」
どこまで行っても青い空だからすぐには分からなかったが―― 天地が逆さまだ。
頭から足先へ向けて吹き抜ける暴風。血が上る感覚。
落ちている。それも、真っ逆さまに。
とっくに見えなくなったと思っていた地上は、意外と近くにあった。
「……ぅうあああああああぁぁぁッ!!!」
腹、胸の底から、肺を突き破る程の悲鳴。久々に出した大声のせいで、ますます脳が揺れる。
弛緩しきった全身に、必死の思いで力を込める。羽が、なかなか動かない。
早くしないと、頭から地面に叩きつけられる―― 恐怖に支配され、先の暑さが嘘のように身体が底冷えした。
「うっぐ……っはぁっ!」
ようやく動いた羽によって落下が止まり、どうにか姿勢を制御する。
果たしてどれほど落下して来たのか。見上げると、ぐらりと強く頭が揺れた。同時に頭痛。
ぎりり、と締め上げられるような鈍い痛み。噴き出す二種類の汗。そして、苦労して上ってきた時間が、一瞬で無に帰したその事実。
最早、上を目指すだけの気力は残っていない。
「もう、いい」
絶対に言うまいとしていたその言葉が、投了の合図。ふらふらと、下降を始めた。
時折吹き飛ばされそうになる意識を必死で繋ぎ止めながら、チルノは真逆の方向―― 下を目指す。
ぐるぐると色々な想い、色んな人の顔が脳裏に渦巻く。結局、何も出来ていない。何も成せていない。動いたのは口だけか。
だがもうそれすらもどうでも良かった。不貞腐れているという自覚は無い。
ただただ、疲れた。
「あー」
意味も無く、声が漏れる。かっくん、かっくん、と時折急激な下降を織り交ぜながら、やっと近付いた地上。
湖のへりに膝から着地。ぐしゃり、と草を噛む音がした。
頭突きをぶちかますような勢いで湖に頭を突っ込む。顔中、脳天まで突き抜ける冷たさ。夢中で水を飲んだ。
胃袋の奥が凍り付くくらい水を飲み込んで、顔を上げる。汗と水と、少しの鼻水が混じって顔から顎に滴っていく。
それから、手近な木の所までふらふら歩いていき、上る前の決意と一緒に全身を投げ出した。
木陰から空を見上げる。さっきまで自分が溶け込んでいたであろう、どこまでも広がる水色の空。流れていく、ほんの僅かな雲。
生い茂る葉の間から漏れた、眩しい陽光が目に入った。
「あついなぁ」
ぎゅっ、と目を閉じて―― そのまま彼女が目を開ける事は、無かった。
・
・
・
・
・
そよ風の感触で目が覚めた。嫌になるくらいの蒸し暑い風では無い、まるで初秋のような涼しい風だった。
脱水症状に起因する頭痛、眩み。それらが嘘のように、ぱっちりと瞼が軽い。
「……ん」
瞼だけじゃない、羽のように軽やかな身体。上半身をしゃっきり起こす。
木陰の一歩外からは相変わらず眩しい太陽が幅を利かせているが、直前まで目を閉じていたにも関わらず不思議と眩しくない。
世界が薄ぼんやりとセピア色になったかのような感覚。そこにあるのは良く知っている場所なのに、まるで写真の中の風景のようだった。
その時である。
「―― チルノちゃん」
不意な呼び声。もう少し顔を上げると、湖の上。陽光を反射して眩しい、白い服。
「……リリー?」
確かに、リリーホワイト。湖はすぐ傍なのに、やたら離れた場所にいるように感じられる。
湖にかかる、妙に濃い霧を背後にリリーは、笑顔のままちょいちょいと手招きしてくる。
「なぁに?」
脚に力を込めて、立ち上がる。汗でぐっしょりだった服は、もう乾いていた。
木陰を出ると途端に夏の日差しが全身を打つが、思ってたより暑くない。ふわり舞い上がる身体。一直線にリリーの下へ飛んでいく。
呼ばれて来たチルノを前に、彼女は悪戯っぽく微笑んでそっと囁いた。
「チルノちゃん。これから一緒に行かない?」
「行くって、どこに?」
突然のお誘い。当然のように尋ね返すと、リリーは人差し指を唇に当ててウィンク。
「……いいトコロ、だよ」
絹糸のようなプラチナブロンドの髪が、夏の太陽を受けてきらりと乱反射。
はっきり言ってくれないその態度に若干の不安はあるが、彼女の事を信用するチルノはやがてゆっくりと頷いた。
「わ、わかった……じゃあ、あたいも連れてってくれる?」
「うん! それじゃ、手繋いで」
「こう?」
差し出された小さな手に、同じくらいの大きさの手が重なる。きゅっと優しく握り返されて、何だかくすぐったい。
「離さないでね。それじゃ、行こ?」
くい、と手を引かれた。それに合わせるように、湖の上を飛んでいく。
リリーは少しだけ湖の上を滑るように飛んでいき、やがてある程度真ん中まで来た所で上昇を開始した。
木の下から眺めていた時も思ったが、妙に霧が濃い。もう自分がいた湖のほとりの景色も見えなかった。
(どこに行くんだろう。ただ上に向かってるだけみたいだけど)
チルノが頭の中で疑問を呈したその時、握られたリリーの手にもう少し力が込もる。
それと同時に、急激に身体が軽くなった。まるで全身を上昇気流に包まれたかのような感覚と共に、小さな身体がぐんぐん上昇していく。
「わぁっ!」
驚きがそのまま口を突いて出た。
濃霧の隙間からほんの少し零れる夏の日差し。手を引くリリーの白い袖。それらを一瞬見たのを最後に、何だか怖くなってチルノは目を固く閉じた。
上がっている筈なのに、フリーフォールで落ちているかのような気分。高い崖から下を覗き込んだみたいに、腹の奥底が竦み上がる。
リリーの手の温もりに縋るように、ぎゅっと手を強く握る。目を閉じていても握り返された小さな手が、彼女が確かにそこにいる事を証明してくれる。
ぱぁっ、と視界が急に明るくなった。
「……!」
瞼を貫く、白い光。霧を抜けたとすぐに分かった。やがて身体の上昇も止まり、自分の羽だけで浮いた身体を支える感覚が蘇る。
「チルノちゃん、もういいよ」
リリーの声がしたので、ゆっくりと目を開く。そこには――
―― 舞い上がる無数の花弁。風にそよぐ極彩色の絨毯。雲間に覗く雲界へとその切れ端が流れていく、まるで絵画のようなその光景。
紛れも無い”楽園”が、そこにあった。
「あ、ぁ……」
呆気にとられるがまま、微かな呟きだけを残してチルノは羽を止めた。ぽすん、と軽い音がして着地した足元は、ふわふわの綿菓子のよう。
空色に包まれて佇む、雲に根差した花畑。干からびそうになりながら探し回った、幻の楽園の名は――
「……天空の、花の都……」
「そのとーり! チルノちゃん、ずっと探してたもんね。ごめん、私実は知ってたんだ。
だけど、カンタンに人に教えちゃいけないから。でもさ、誰かのために必死に頑張ってるチルノちゃんになら、いいかなって」
彼女の呟きを拾ったリリーが、笑みを浮かべながらも申し訳無さそうに手を合わせた。
「そ、それは、いいんだけど……リリー、なんで知ってたの?」
「んー……春告精だから、かなぁ。えへへ」
分かったような、分からないような答え。チルノはそれ以上の追求を止めた。今目の前に広がる光景が、彼女から思考能力を引き剥がしていく。
とにかくもっと近くで見たい。傍で咲いていた花々に近付き、膝をつく。ふんわりと一瞬だけ地面が沈み込み、クッションのように力を優しく押し返す。
「くも、なんだ」
「うん。雲の上に咲いてるんだよ。すごいでしょ」
リリーの言葉に頷きながら、そっと花弁を指先で撫でた。地上に咲く花と変わらない感触。
立ち上がると視界が急に広がって、見えないくらい遠くまで広がる花と雲の景色が目に飛び込んできた。
意味も無く駆け出したくなって、チルノは足に力を込める。あの時の疲労が嘘のように、全身がとても軽い。
「あっ、待ってよぉ」
不意に走り出した彼女を追って、リリーも走り出す。
花を踏んでしまわないように気を遣いつつも全力疾走。息を切らして、流れていく虹色の野原を横目で追う。
どこまでも、どこまでも続く雲の道。走れども、走れども続く青い空。
もう走れそうになくて、それでもまだまだ道は続いていて。
「はっ、はぁっ……やぁっ!」
疲れを誤魔化すように、チルノは雲を蹴って全身を投げ出した。綿雲と花畑が織りなす柔らかな地面が、彼女の小さな身体を優しく受け止めた。
「あはははははははは!!」
舞い上がった花びらに包まれながら、チルノは声を上げて笑う。仰向けになると、真上にも尚広がる空色のスクリーン。
どうにも愉快で、楽しくて、心地良くて、もう笑うしかない。笑わなきゃ損だ。
「よいしょ、っと!」
遅れてやって来たリリーも、彼女の隣に横たわって空を仰ぐ。真夏とは思えぬ優しい日差しが、ちょっぴり眩しい。
「ねぇリリー、ここってどこまで続いてるの?」
「うーん、分かんないや。どこまでも、かな?」
「何の花が咲いてるの? いっぱいあるけど」
「なんでもだよ。春から冬まで、ぜんぶ。季節の壁なんてない、全部の花が見つかるよ」
「すっごい! さすが、ラクエン……」
はぁー、と感心したようにチルノは空へとため息。その後思いっ切り息を吸い込む。
太陽の匂いとは、きっとこんな匂いなのだろう。思わずぼんやり、更に上を流れる雲を目で追う。
「んあー、なんだかさ……あの雲まで、手が届いちゃいそう」
水色の空間へ向けて、ぐいっと手を伸ばす。雲の上に広がる楽園にいて、遥か上空を漂うあの雲にさえ、触れられそうな気がした。
そんな彼女を見て、リリーはくすくすと笑み。
「雲ならチルノちゃんのおしりの下にもあるのにね」
「えへへ、そっか」
手を下ろし、今まさに大の字に寝転ぶ地面を撫でた。覆い尽くすように生い茂る花々を掻き分け、柔らかな雲に手が触れる。
綿菓子にも似たその触り心地はまさに、全ての子供が憧れる”雲に触れた感触”。それを実際に味わって、チルノはご満悦の表情だ。
しかしその時、彼女は唐突に思い出したかのように跳ね起きる。
「あっ、そうだ! エントツ作らなきゃ!」
この世のものとは思えぬ光景の数々に圧倒されすっかり忘れていたが、彼女の本来の目的はそこにある。
幻想郷で一番高いこの場所に煙突を作り、雨を降らせる。その為に身体中の水分を汗と涙で絞り出しながら、真夏の青空を何時間も彷徨ったのだ。
「なになに、どうしたの?」
いきなり立ち上がったチルノに驚き、リリーも半身を起こす。
「すっかり忘れてたけど、あたいここにエントツを作りに来たんだ!」
「エントツ?」
「うん! だって、そうすれば雨が降るんだよ!」
興奮しながら語るチルノの様子に、リリーは少し考えてからポンと手を打つ。
「そういえば、最近ずっと雨が降らないんだっけ」
「うん……みんな、困ってるって。だから、あたいが降らせに来たんだ! ここから雲を作れば、絶対に雨が降るよね?
今あたいたちが立ってる雲を使ったら、お花がみんな落ちちゃうし」
チルノの言いたい事が分かったのか、目を輝かせる彼女の眼差しを真正面から受け止めて、リリーは笑い返した。
「そうだね、きっとここからなら幻想郷全体に雲が届くよ。チルノちゃん、このためにここを探してたんだね」
「もちろん! あたいはヒーローなんだから!」
リリーの同意を得られて、チルノは嬉しそうにはにかんだ。
彼女はまるで雪玉を丸めるかのように、小さな両手を合わせてぎゅっと力を込める。途端に辺りを漂い出す冷気に、リリーが少し身を震わせた。
手の中で生まれた融けない氷に冷気を覆い被せて、大きな塊へと変えていく。
「氷で作るんだね」
「だって、あたいのだもん」
答えながらも手は休めず、いつしか氷の塊は彼女の身長並みにまで成長していた。
土台となる部分から伸びる、彼女らの胴体ほどはあろうかという直方体。先端付近はもう一回り太い。
氷で出来た、いかにも西洋風の煙突。チルノがその表面を手で撫でると、少々いびつながらもレンガのような模様が刻まれる。
「でーきたっ! リリー、どこに置いたらいいかなぁ」
ずっしり重たい氷の煙突を必死に倒れぬよう支えるチルノ。リリーは少し辺りを見渡して、少し離れた場所を指差した。
「見晴らしがいい所の方がいいよね。こっちの、隅っこに置かない?」
「うん! ……ごめん、手伝ってくれる?」
「あっ、ごめんね。いくよ、せー……」
「のっ!」
子供の細腕四本ではいささか厳しい重量だが、羽による浮力も加えてどうにかこうにか、雲の切れ端近くまで運び込む。
どすん、と音はしなかったが、ずっしりと雲に沈み込む感覚がした。倒れない事を確認し、ついに施工完了。
「やったぁ! ありがと、リリー! これできっと雨が降るよ!」
「よかったねチルノちゃん! でも、煙出てこないよ?」
喜びを露わにする二人。長い長い大空の旅路の果てにとうとう目標を果たしたのだから、その喜びようは当然だ。
だが、リリーが呟いたその言葉もまた当然。燃やす物が無ければ煙など発生しない。
「あれ、おっかしいなぁ……おーい、出てこーい」
ぺちぺち、と冷たい氷の表面を平手で叩いてみる。
そんな彼女の想いが通じたかは定かでは無いが――
「あっ、見て! 煙出てきたよ!」
「どれどれ……ホントだー。よかったよかった」
チルノの言葉に目を凝らせば、確かに氷で出来た煙突の口からうっすらと煙のようなものが。
その正体が氷によって発生した冷気である事実など、今の二人には何の関係も無い事だ。
「今はまだ少ないけど、そのうちいっぱい出てくるよね。これでやっと雨が降るよ」
「チルノちゃん、がんばったもんね。きっと雨も降ってくれるよ」
雨雲を望むその心境とは裏腹に、誇らしげなチルノの目には一点の曇りも無い。
そんな彼女の肩を叩くリリーの顔も、一仕事を終えた達成感に満ちていた。
「………」
息をつき、チルノは改めて”それ”を見た。太陽の光を浴びて、きらきら輝く氷の煙突。
その立派な佇まいの背後には、水平線の彼方まで無限に広がる空色の景色。足元を見れば、雲の切れ間から雲界が覗く。
風が吹き、舞い上がる花びら。虹色の吹雪と、水色の空、透き通る水晶のような氷の塊。
芸術に疎い子供の心でも、それははっきりと分かる。この光景はきっと、今まで見てきたどんなものよりも美しい。
「……へへっ」
心から溢れ出した嬉しさが、口から少しだけ漏れ出た。
恥ずかしげに頬を染める彼女に、横合いからリリーが囁いたのはその時である。
「―― お疲れさま、チルノちゃん。それじゃ、帰ろっか」
「えっ?」
「ばいばい、またあとでね」
訊き返しに言葉を用いず、リリーは代わりに微笑みで返した。
それと同時に、あの真っ逆さまに落ちた時よりも強い風がチルノの全身を包み込む。
「きゃっ!」
小さな悲鳴も、風の音に掻き消されて聞こえない。思わず目を閉じる。
「リリー!」
思わずその名を呼び、無理矢理に目を開ける。
そこで彼女が見たのは、四方八方を覆う空色の空間。今まで立っていた雲の地面も、そこに根差した花畑も、導いた春告精の姿も無い。
ただどこまでも、夏の青空が広がるだけ。
驚く間も無く、今度は視界全てを塗り潰す程の白い光。再び目を固く閉じる。
「あ……」
瞼越しに広がる光の奔流に飲み込まれるがまま、チルノの意識はやがてホワイトアウト。
薄れゆくその意識の片隅で、彼女は微かに蝉の声を聞いた気がした。
・
・
・
・
・
ざらざらと、耳に纏わりつくような音の感触。
真っ黒な視界に沈む意識が、急激に引き上げられていく。
瞼を割る、微かな光。眩しくは無くて、どうにもはっきりしない。
「……ぅ……」
目が覚めた、と自らが認識した途端、全身を襲う重量感。呻く様な声が漏れる。
さっきまでいた空の上とは真逆で、身体が重くてしょうがない。明確な疲労感。
どろどろした、ヘドロのような疲れに再度意識を奪われそうになるのを必死で堪える。
「ん、ぁ……」
段々はっきりしてきた意識。先程から耳に纏わりつく音も少しずつ明確な物になりつつあった。
ばたばた、ばたばた、と何かを叩くような音だ。
身体中がじめじめとして、どうにも気分は良くない。寝汗だろうか。
「……んっ!」
次の瞬間、何かが顔を叩いた。小さな、冷たいような衝撃が、ぱたりと顔を駆け抜ける。
その刺激でようやく、鉛のように重かった瞼が動いた。
―― ばらばら、ばらばら。地面を引っ切り無しに叩く音が聞こえる。湿気を多分に含んだ風が、頬を舐めた。
「うぅん……あっ!?」
目を開いた時、辺りは異様に薄暗かった。
あれ程幅を利かせていた真夏の太陽はどこにもいない。木陰から目に飛び込んできたのは、ねずみ色をした分厚い雲の壁。
少しだけ首を上げ、地面を見る。無数の白い線がじめっとした空間を走り、地面に突き刺さって弾けていく。
景色に均一にフィルターをかけたようなその光景。それはまさに――
「あ……め……」
ずっと強がっていた夏空が見せた、久々の泣き顔だった。
「あめだ……雨だ! 雨が降ってるよ!」
重い重い、疲労の鎖が千切れる音がした。瞬時に力が戻ったチルノは、足元の湿気に濡れた草を掴んで素早く跳ね起きる。
見慣れた湖の風景を白い雨粒が覆う、当たり前なのに久しぶりの景色。
空の上まで登って、煙突を作った。途方も無いその行為が、実を結んだ。一度は諦めかけた約束を、確かに果たしたのだ。
その証拠は今まさに、天からいくらでも降り注いでいる。
「やったああぁぁぁ!!」
快哉と共に、チルノは木陰を出て走り出した。一直線に湖へ向かう。
からからに乾いた土も、今やぬかるむ程にたっぷりを水を吸っていた。これなら、畑の作物達も喜ぶだろう。
ぎゅむ、と濡れた雑草を踏みしめる感触が、無性に心地良い。だが――
「うわあっ!!」
濡れた草は非常に滑りやすい。湖の眼前まで迫った彼女は見事に足を滑らせ、大きく仰け反った。
雨水滴る靴が、華麗な弧を描く。スローモーションになった世界の中、チルノの身体はゆっくりと地面を離れ、一回転の後に湖へと吸い込まれていった。
「んがっ、ぐぶ……ぶはぁっ!」
青いワンピースが水面に飲み込まれて数秒、チルノの顔がにょっきり生えてきた。立ち泳ぎのまま、ぷるぷると顔を拭う。
確か乾いたような気がしていた服はやっぱり汗まみれだったが、今こうして湖に落ちたお陰で少しは綺麗になったかも知れない。
天に向かって大きく口を開け、はぁーっ、と息を吐いた。雨の雫が数滴口に飛び込む。
遥か上空、切れ目の見えない雨雲のカタマリ。あの向こうのどこかにきっと、自分が打ち立てた、あの冷たい煙突があるに違いない。
そこから生まれた雲が雨になり、地上へと降って、今チルノの中に帰ってきた。
「あはははははははは!!」
そう思うと何だか嬉しくて、再び声を上げて笑っていた。湖のへりに左手をつき、右腕を空へ伸ばす。
びしょ濡れの小さな手の平。そこに新たな水滴が落ちてきて、ぴちゃりと弾ける。
「おかえりなさい!」
久方ぶりの、冷たい夏。
止まない雨音を、その元気な挨拶が少しだけ打ち破った。
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恨めしいくらいに熱い太陽が、今日もぎらぎらと居座る青空。
特に目的意識も無いが、チルノは外へ出た。洗濯したばかりのワンピースが、熱風にはためく。
歩いているだけで汗ばむ陽気だが、彼女の顔は隠し切れない笑みが滲んでいた。
(えへへー)
雨が降った翌日、里にある例の駄菓子屋へと赴いた。
『雨、降ったでしょ!? あたい、ちゃんとエントツ作って来たんだよ!』
店主の男性へ高らかに告げると、彼のみならず、近くに居合わせた人々もとても喜んでくれた。
何しろ、例年でも滅多に降らないくらいの大雨だったのだ。前日までの干ばつを見事に帳消しにしてくれた。
店主から事情を聞いた人々にも拍手を贈られ、チルノは英雄扱い。思い出すだけで、にやにやと笑ってしまう。
(また、カキ氷でも食べに行こうかな?)
自然と里のある方角へ足が向く。と――
「あっ、リリー! おーい!」
前方に見慣れた白い帽子。手を振りながら駆け寄る。
「チルノちゃん! こないだ、すごい雨だったねぇ」
「うんうん! でもリリーのおかげだよ、ありがと!」
何しろ、天空の花の都まで誘ってくれたのは他でも無いリリーなのだ。本当は、彼女も賞賛を受けるべきだと思っていた。
しかし――
「……私? チルノちゃん、なんのこと?」
リリーは不思議そうな顔になり、ゆっくりと首を傾げた。
「え……だ、だって! リリーがあたいを空の上まで連れてってくれて、そこにあたいがエントツ作って……」
驚き、チルノは事の経緯を説明してみせる。だが、
「ごめんね……私、何にも覚えがないの。夢でも見たとか?」
「な、な……ほ、ホントに何にも覚えてないの?」
「うん。空の上でチルノちゃんに会ったのは覚えてるけど、その後は普通にお家にいたし……天空の花の都だって、お話にしか聞いたコトがないから行き方もわかんないの」
「………」
とうとう黙りこくってしまうチルノ。あの、一生に一度見られるかも分からない楽園の景色。そこへ連れて行ってくれた唯一の人物に、知らないと言われてしまった。
あれは、本当に夢だったのだろうか。楽園を求める余り、チルノが寝ながらにして見た、幻の都だったのか。
確かに空から帰ってきた後、疲労の余り寝てしまった。花の都へ行って帰って来た時も、同じ場所で目が覚めた。ずっと寝ていただけで、雨が降ったのも偶然なのか。
考えてみれば、その方がずっと説得力がある。
(もう一回行こうとしても、行けないし……)
雨が止んだ翌日、リリーが手を引いてくれた記憶を頼りに湖の霧の中から上を目指して飛んでみた。
もう一度、あの景色が見たかったから。だが、いくら飛んでもすぐに霧を突き抜けてしまい、雲の上まで連れて行ってはくれない。
何度試しても変化は無く、湖が真下に広がるだけ。やはり、全ては妄想の産物だったのか。だが、
(あたい、確かに覚えてる……どこまでも続く雲。広がる空。きれないお花畑に、太陽のにおい……あそこは、まさに”ラクエン”……)
夢でした、の一言で片付けるには、あまりに鮮烈なその記憶。雲を踏みしめた柔らかな感触。手を伸ばせば届きそうな空の彼方。
嵐のように舞い散る花びらに包まれながら作った、氷の煙突。両の手を合わせれば、あの冷たさが今も蘇る――
「……まあ、いっか!」
だが、チルノはそれ以上の追求をやめてしまった。自分の功績が、努力の結晶が、その目で見た楽園の景色が、全て夢幻だったとしても構わない。
心のドアを開けば、そこには確かにある。雲に根差した、青空に浮かぶ花畑。
夢でもいい、あの素敵な場所にいられただけで満足だった。気のせいでもいい、リリーと一緒に雲を駆け、花の絨毯で寝転んだ楽しい記憶があるだけで笑顔になれた。
「ごめんね、リリー。あたい、ユメを見てただけだったみたい」
「ううん、いいよぉ。チルノちゃん、どんな所だったの?」
「すごいんだよ! 雲の上にお花がいっぱい咲いてて、どこまでも青い空が……あっ、そうだ。
こんな暑い所で立っててもしょうがないし、一緒にカキ氷でも食べに行こうよ! そこでいっぱい話すからさ!」
嬉々として話し始めようとした所で、チルノの頬を汗が伝う。興奮したせいもあってか暑くて仕方が無い。
一緒にカキ氷を崩しながら、胸一杯に広がるあの場所の景色を語る。想像するだけでたまらない。
「ホント? うん、私も行く!
あ、でも……その前に私、行くところがあるんだ。すぐに行くからさ、先に行っててもらってもいいかな?」
「いいよ! それじゃあたい、他の友達もさそってみるね。大ちゃんとか、ルーミアとか……他にもいっぱい」
こうなればリリー一人では勿体ない。一人でも多くに、夢のようなあの光景を語り継ぎたい。
たかが夢と笑われたっていい。その感動は本物なのだから。
「じゃ、いつものお店。先に行ってるから……リリー、絶対に来てよ! すっごく驚かせてあげるんだから!」
「もちろん! 楽しみにしてるからね!」
念押しすると、リリーも満面の笑みで頷いてくれた。安心し、チルノは地面を蹴る。
まずは友達を誘いに行かなければ。一路、森の方角へ。
(ユメだったのかも知れないけど、もしかしたら)
ふと足を止め、空を仰ぐ。宇宙まで透き通って見えそうなくらいの快晴。
空色が滲むあの彼方のどこか。浮かぶ雲の上に花畑が広がっていて、自分が立てたエントツがある―― かも知れない。
夢だと思っても。ほんのちょっぴり、諦めきれない。
(あの雲の辺りとか?)
いい具合に固まった雲が一ヶ所。もしかしたらそこかも知れない。想像するだけで胸が躍る。
「っと、行かなきゃ」
見上げすぎて、少し首が痛くなった所で我に返る。果てしなく広がるライトブルーの想像。この続きは、またあとで。
「んもぅ! 今日もあついぞー!!」
文句を垂れるように叫ぶチルノの顔は、太陽にも負けないくらいの笑顔だった。
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見上げれば、空色。そよ風に舞う、512色の欠片。
見下ろせば、雲海。流れていく雲は、どこまで行くのだろう。
作りたての綿菓子のような、ふわふわの雲に腰掛ける春告精。
(……ごめんね、チルノちゃん。ここは、どうしてもヒミツの場所だから)
天空の花の都。人々の間ではどこかにあると信じられている、幻の楽園。
その行き方は、彼女だけが知っている。幻じゃない、花咲き乱れる雲の庭園。
(だけど、ただのおとぎ話じゃない。チルノちゃんは、確かにここにいたんだよ)
数百年、数千年の時を超えても変わらない、その”楽園”と呼ぶに相応しい景色。
だが今は、ちょっぴり珍妙なオブジェが追加された。
(信じてるんだ。あの雨を降らせたのは、このエントツなんだって)
地上より幾許柔らかな太陽の光を浴びて、きらり輝く氷の芸術。
決して融ける事の無い氷精の氷。彼女の優しさが形になった、少し傾いた煙突。
そっと手を触れる。ひんやり冷たくて―― どうしてだろう、何だか温かい。
(チルノちゃんのがんばり、誰にも伝わらないかもしれないけれど……)
煙突から雲が出来て、雨が降る。誰もが一笑に付してしまいそうな夢物語。
だけど、もしそれが真実だったとしたら。それはとっても、素敵な事では無いだろうか。
真偽は分からない。ただ、彼女は知っている。小さな英雄の、大空を駆け抜けた大冒険の記録。
『さっきも言ったけどあたい、すっごいミッションの途中なんだ! もしうまくいったら、あたいはヒーローなんだから!』
倒れそうな程の熱気に包まれた空の上で、汗まみれの笑顔を返してくれた。
自信に満ち溢れたあの表情。思い出すだけで、胸が高鳴る。
(ユメじゃないよ。マボロシじゃないよ。私は知ってるんだよ)
花びらが舞っていく。汗と涙と優しさとが凍った、氷精の煙突がそびえる楽園の光景。
本人にすら、夢と断じられてしまった楽園の記憶。
決して夢なんかじゃない。誰かに覚えていて欲しかったから―― リリーは、大きく息を吸って叫んだ。
「チルノちゃん! サイコーにカッコよかったよ!!」
―― そこは紛れも無く、天よりも高い場所。
凄い嬉しい。
私にもリリーが来てほしいですね。
とりあえず、あと三回くらい読み返してきます。
でも、幻想郷なら雲の上に花畑があっても良いようにも思う。
良い意味での子供心というか。
うんしかしいい話だった。リリーきっと嬉しかったんだろうなぁ。
なぜか最後のほうで泣きそうになってしまった。最近涙腺が緩んできたなぁ
なんというか夢のあふれるお話でした。
良かったです。
その純粋さこそがきっとラクエンに導いてくれるんだよ。
それと、割と久々の?東方曲名ネタだと思いますが、
一番好きとお聞きしている「天空の花の都」がついに来たか、という感じですね。
この曲名ネタがすごい好きなので読めて嬉しいです。
まっすぐなチルノちゃんがかっこよかったです