効率的、生産的というものに背を向け、無駄、過剰を追求するのが貴族の嗜みならば、我らが紅魔館の尊きドグマを体現するのは間違いなく大図書館であり、その主パチュリー・ノーレッジ様なのだが、このほど彼女は一週間ばかり研究室にこもったあげく、ひとつの妙薬を完成させた。
――胡蝶夢丸・ナイトメアタイプうす味。
「パクリじゃないですか」
「わかってないわね。まあ確かに、竹林の医者が作った薬を参考にしているけれど」
オマージュのリスペクトでインスパイヤネクストよ。
胸をはったパチュリー様の目の下には、パンダみたいな隈があった。
目的を言わずに研究に没頭するのはいつものことだけれど、ちょっとばかり心配していた私としては、事情を問いただす権利くらいはあったはずだが、その疑問も不満も、大図書館に響き渡った能天気な声に、あっさり粉砕されてしまった。
「パチェー! いるー? 頼んだ薬、できてるかしら」
ひらりと体重を感じさせずにレミリア様が私たちの前に降り立った。
「ホムンクルスによる臨床で安全が確認されたところ。つまり完成よ。レミィ、そこに箱があるから」
「おおっ。さすがの無駄知識。これで寝苦しい昼ともオサラバってわけだ」
「うるさい。焦がすわよ」
風のようにお嬢様が去って、パチュリー様は私に手を引かれてベッドまでずるずる移動しながら、薬について頼みもしない説明を垂れ流してくれた。
今年の猛暑に耐えかね、わざわざメッシュ加工の棺おけまで作らせたレミリアお嬢様だったが、それでもまだ暑いと発案したのが、悪夢をみて涼む、ということであった。胡蝶夢丸・ナイトメアタイプは、服用する量により潜在的な恐怖心に作用し、悪夢をみせる。竹林の医者がなんのためそんなものを作ったのか不明だが、こちらの目的は納涼であり、心地よい眠りである。恐怖のあまり飛び起きてしまっては意味がない。悪夢の程度と方向性をコントロールしようと考えたパチュリー様は、地底のサトリ妖怪にも協力をあおぎ、トラウマにやさしく作用することで、軽く冷や汗の出るくらいのゆるーい悪夢をみせるよう、調整したのだという。
「妖怪が幽霊の夢をみても仕方ないしね。他にも、オリジナルと違いはあるわ。一錠あたりのカロリーは十分の一、食物繊維入り、眠くなる成分を除いたから運転前でも安心よ」
「いやいや、寝ないと意味ないじゃないですか。だいたい何を運転するっていうんです。荷車ですか」
ベッドに横たえてタオルケットをかけても、魔女の口はとどまるところを知らない。
「人は皆、己自身を操縦し続ける哀れな生き物なのよ。セカイは炎の鎖に引かれて永久に回り続ける車輪なのだわ」
「寝てください」
「ぐえ」
鳩尾に軽く体重をかけて眠っていただく。ふと思いついて図書館に戻った。パチュリー様愛用の長テーブルに、レミリア様が持っていった分の残りの箱が積み上げてある。
ひとつ手に取ってもりもりと開け、銀紙に包まれたピンクの錠剤を手のひらにためていく。箱の表にはでかでかと薬の名前のロゴ、その下に錠剤に似た色の文字で、
――この薬の半分は、やましさでできています――
とある。別に本家に対抗して売り出したりするつもりはないらしいが、パッケージは無駄に凝っている。側面には成分表と、用法用量に関する注意書きがある。なになに?
『鬼・天人など:一回三錠。妖獣・天狗・一般妖怪および巫女:一回二錠。人間成人・妖精:一回一錠』
私は迷わず五つ、ハート型のかわいい錠剤を飲み込んだ。大悪魔がカテゴリにない以上、加えてあと二、三錠独断で足してもよかったが、ここは謙虚に振舞うことにしたのである。
引き返して、様子をみると、パチュリー様は穏やかに寝息をたてている。少し考えて一つだけ、唇の隙間に押し込んでおいた。すでに自分でも服用しているかもしれないから、加減したのだ。唇の上をちょいと指で押すと、「ふふふ、小悪魔、そこはお尻だったら」と物騒な寝言をこぼして、幸せそうに飲み込んだ。
……大悪魔ですってばよう。
しばらく待ったが、何も起こらない。当然だ、寝ないと夢ははじまらない。
パチュリー様の寝顔に変化もない。図書館を出て、私は食堂に行った。休憩中なのかサボっているのか、妖精メイドたちがテーブルを囲んで賑やかにしている。何食わぬ顔で通り過ぎ、厨房の氷室で冷やしていた、紅茶の入ったボトルの蓋をあけ、ピンクの錠剤を適当にいくつか放り込んだ。
カップとともに、メイドたちのおしゃべりの輪の真ん中に、ボトルを置いてやる。
「わあ! ありがと、こあちゃん」
「いいってことよ」
歓声をあげてボトルに群がる横で、私も一杯注いでカップを手にして歩き出す。廊下の角で、モップを手にした咲夜さんとぶつかりそうになる。
「あっ」
取り落とした――と思ったカップは、ソーサーの上で何事もなく鎮座していた。わずかに赤銅色の波が寄っているのが、何が起きたかを示す唯一の痕跡だ。
咲夜さんの能力だろう。
「あら。ごめんなさいね」
「い、いえいえ。ちょうどいいところに。咲夜さん、これお飲みになります?」
「冷えていて美味しそうね。でも、今はいいわ。それはあなたが飲んで」
さすがにスキがない。廊下に立って見送っていると、彼女は食堂に入っていく。「あなたたち、仕事は終わったの!?」と軽くお小言が聞こえてきた。
「おや小悪魔さん。どうしました」
背中からかかる声は美鈴さんだ。門番から戻ってきたばかりなのだろう、少し近寄っただけで、日なたの照り返しみたいな熱が肌に伝わってくる。
「暑いですねー」
「ねー」
彼女の視線は私の手元に釘付けだ。わざともったいぶって差し出した。
「お飲みになります?」
「いただきます」
言い終わる前にもう私の手から重みが消えている。
「あー、おいし」
男のように喉を鳴らして飲み干すと、美鈴さんは私が片付けておきますよと、残ったソーサーも取り上げて廊下の角を折れた。
だいたい計画どおりである。館の正面玄関は開け放たれ、白熱した庭が夜と魔を閉め出していた。
階段を上っていくと、だんだんと静かになる。最上階の突き当たり、レミリアお嬢様の居室も、ここ数日は扉を開け放している。天蓋つきのベッドの上には棺おけはなく、レミリア様にぴったり寄り添って眠るフランドール様の姿があった。
なんでも、吸血鬼の体温は低く、同族の肌はさらにつめたく感じられるらしい。地下を出て一緒に寝るのはそういう理由によるものらしいのだが、
「別に、お姉様と一緒に寝たいわけじゃないんだからね!」
拳を固めて力説されるお姿は、たいそう印象的ではあった。
サイドテーブルの上には例の薬の箱が転がっている。二人で示し合わせて服用したのだろう。人生を思いつめた悲しき姉妹のように見えなくもない。眠っている吸血鬼は生気に乏しいのだ。
何にしても自分たちで飲んだのなら、私の出る幕ではない。あらかじめ想定していたとおり、最後にして最大の砦はメイド長十六夜咲夜である。
いかにしてあのかわいいお口にねじこんでやろう。
読まれたらナイフを突き立てられそうな思考を携えていると、階下より私に呼びかけるのは、そのかわいいお口である。
「咲夜さん?」
階段吹き抜けを下まで飛んで降りた。咲夜さんは階段の手すりに手を置いて立っていた。
「お嬢様方はお休みみたいだし、軽く何か食べようと思うの。一緒にどう?」
「お、いいですね。いただきます」
彼女の手料理が食べられるということで、チャンス到来かと色めくのと別に、私は単純に喜んだ。
調理場のとなりに、小さなキッチンを備えた小部屋があって、私や美鈴さんはたまにそこでお茶を飲んだりする。丸テーブルの端についた美鈴さんは、入ってきた私に目もくれず大盛りのオムライスをスプーンでわしわし突き崩している。たぶん、彼女のリクエストだったのだろう。
「ちょっと暑苦しいメニューだけど」
そう言いながら咲夜さんはフライパンを振り、あっという間に私と、自分の分の料理を皿に盛り上げた。彼女が席についたところで比べると、私の方が量がある上、咲夜さんのには卵がかかっていない。
「さーくーやーちゃーん?」
ケチャップライスを口に運びかけた咲夜さんが、ぎょっと私を見た。
「駄目ですよー? ちゃんと食べないと」
「あんまり食欲がなくって」
「いけません。咲夜ちゃんは育ちざかりなんだから」
いそいそと私のオムレツを切り分け、咲夜さんの皿に移した。
「なによ、もう……。やめてよね今さら、そういうの」
言いながら咲夜さんは、おとなしく卵を口に運ぶ。ふわふわの黄色いひだの間に、私の忍ばせた錠剤がちらりと見えた。咀嚼するときバレるかなと思ったが、気づいた様子もなくもぐもぐ噛み締めると、ごくりと呑み込んだ。
メイド長敗れたり。
ちょっと意外ではあった。
吸血鬼だの魔女だの、人間のように規則正しく眠ったりする必要のない連中ばかりなのにも関わらず、私の小さな悪だくみの成果は、すぐにあらわれた。
かく言う私は、胡蝶夢丸ナ(以下略)のことなど忘れて、パチュリー様の寝ているのをいいことに、魔界の禁書のたぐいを読みふけって一睡もしなかったのだけれど、朝方ようやく涼しくなった庭に下りていったところを、タンクトップを着た美鈴さんから声をかけられた。
「やあ、こあちゃん。一服盛ったでしょ」
ヌンチャクよろしくタオルを振り回す背中で、肩甲骨がぐりんぐりん上下している。
「なんのことでしょう?」
「またまた、とぼけちゃって。さっきパチュリー様に聞きましたよ。メイドたちがみんな同じ夢をみたって騒いでいたから、変だと思ったんですが」
どうやらパチュリー様も起きているらしい。どんな夢をみたのか、ちょっとワクワクした。
「へえ。あの子たち、どんな夢を?」
「咲夜さんに怒られた」
「あはは」
そろいもそろって、思い出すものがそれとは。まあ必ずしも体験したことを夢にみるわけではないらしいけれど。
「で、美鈴さんのは?」
「倒したはずの大ナマズが改造大ナマズになって復活して、リターンマッチをするという……」
「……はあ」
「彼奴の右腕がバズーカになってるんですよ!」
腕、あるんだ。というかナマズって、それ自体夢だってことになっていなかったっけ?
肝心の暑気払いの効果のほどを聞き忘れたと思いつつ、バルコニーに上がると、テーブルをはさんでレミリア様とフランドール様が向き合ってひそひそ話している。
「霊夢だった?」
フランドール様に指さされたレミリア様が、小さくうなずいた。
「じゃ、フランは魔理沙だったのね?」
そして顔を見合わせ、くすりと笑う。
「涼しい思いができました?」
二人には私が薬を飲ませたわけではない。堂々と割って入るとしかし、レミリア様はじろりと私を睨みつけた。
「お前、また何か仕出かしただろ」
「まっさっかー。滅相もないですよう」
そんなことより夢の内容を聞かせてくださいよ、と勝手に椅子を持ち出して二人の間に陣取ると、レミリア様は小さくため息をついた。
二人は同じ夢をみた。巫女と魔法使いの違いはあれど、館へやってきた人間と弾幕勝負をする夢だ。
「にしし。じゃあお二人ともこっぴどくやられたわけだ。フランドール様は魔理沙に、お嬢様は霊夢に」
「いや、逆だよ」
「え?」
フランドール様を見ると、彼女もまぶたを伏せて同意を示した。赤い瞳はかすかに潤んでいる。
「二人の弾幕がね……。私の場合は魔理沙だけど、弱いの。ぜんぜん痛くないの。ほとんど感じないくらい」
丈の長いナイトウェアを着たままのフランドール様は、肘をついた手ですっぽり頬をくるんだ。
「最初はね。弱っちいのー、って笑ってられるんだけど、だんだん怖くなってくるの。私はまだ一度も反撃していない、でももし反撃したらどうなっちゃうんだろうって」
「というか確信があるのさ」レミリア様が後を引き取る。「こちらが手を出したら間違いなく一発であの世行きだってな。あの霊夢がって思うんだけどね。どうやっても負けないんだって思うと、なんだか私も焦ってきてね……」
「いいじゃないですか。勝っちゃえば」
私がそう言うと、レミリア様は小さく首を振った。
「思わずお姉様をベッドから突き落としちゃって」
「フランがそうしてくれて助かったわ」
レミリア様は物憂げに朝もやの庭を見渡す。「お茶が欲しいわね。咲夜ー?」
「紙魚よ」
「うわっ!? パチュリー様」
メイド長の代わりに現れたのは我らが大図書館の主である。平素かわらぬ眠そうな目を私に向けると、「紙魚なのだわ」ともう一度言って、私を押しのけて椅子に座った。意外と力が強い。
「かみさかな……」
「無理やり文字に起こさなくていいわ。しみ、って言ってるでしょ」
ええまあ、知ってます。紙魚は紙を食べる虫である。本を傷める原因であり、つまりは私とパチュリー様の宿敵ともいえる。
「ある朝目覚めると、私は一匹の紙魚になっている自分を本のページの間に発見するのよ」
「それ、夢の話?」
フランドール様が問うと、パチュリー様はうなずいた。
「最初はね。憎っくき本の仇に成り下がった身の上にただ呆然とするのよ。けれど、目の前に広がる紙の大平原は甘い香りがして、激しく食欲をそそるの。いけない、食べてはいけないと自制するのだけれど……そのうち思うのよ。紙魚にとっては本のページは命の糧。そして、本のページを食べて体に取り込むこと以上に、本と私を近づける行為が他にあるのか、ってね」
ぐぐっとテーブルに両手をついてパチュリー様は私たちを睥睨する。割と目がヤバい。
「本を食べることで私は本と一体化できる。でもそれは本を傷つける行為に他ならない。いったい私はどうすればいいの。どうすればよかったの……」
突っ伏してぶつぶつつぶやいている。面倒くさそうに眉をしかめ、レミリア様は腕を組んだ。
「で、結局その葛藤はパチェにとって悪夢だったわけ?」
「悪夢よ、もちろん。でも」
もたげた顔は見たこともないような濁った笑みを浮かべていた。
「……気持ちよかった」
頬は紅潮して目つきはとろんとしている。うわあ、とレミリア様は声に出してのけぞった。
「なんだか口の中がすっぱくなっちゃったよ。咲夜、お茶まだー?」
テーブルの表を指でかつかつ叩く。
奇妙に感じた。咲夜さんは、レミリア様が呼べば大抵たちどころに現れる。時間を止めようが止めまいが、それがここ最近の紅魔館の日常風景だ。
「待たされるお嬢様」というのを私はしばらく見たこともなかった。それなのに――。
「あれ?」
フランドール様が立って、バルコニーの手すりに走り寄る。「あれ、咲夜じゃない?」
吸い寄せられるように私も覗き込む。四方に花壇を配した、門から玄関につながる道の真ん中、さっき美鈴さんが運動をしていた場所に、小さな人影がある。こちらに背を向けて、湖の上にすっきり張り出した夏空を、首を傾けて見上げているようだった。
「おい、咲夜――」
レミリア様が呼びかけて、人影はわずかに動いた。その身体は止まらず動き続け、紐の結び目がほどけるようにして、煉瓦道の上に音もなく倒れ込んだ。
「咲夜!?」
フランドール様の悲鳴を片方の耳で聞いて、私はバルコニーから飛び降りた。
いつだって自信に満ちて、油断なくみえた。
咲夜さんがもっと小さかったころには毎日のように悪戯をしかけたけれど、一度もうまくいった試しはない。
通りがかるところにバケツを置いたり、サンドイッチにハバネロを仕込んだり、貸した本の間に飛び出すフェイスハガーのペーパークラフトをはさんでおいたり。
たいていすぐ見破られたり、気づいているかわからないうちにスルーされたり。時間をとめる能力など使わずとも、彼女は常に悠々と私の仕掛けた小さな危険を回避していった。
中庭にひらり降り立つ。
「咲夜さん?」
怜悧な瞳がきらりと瞬いた。咲夜さんは何事もなかったかのように、花壇の前に立っている。
「あれあれ。大丈夫なんですか?」
「何が?」
スカートにもエプロンにも、転んだようなあとはない。けれど、私には強い違和感があった。
「咲夜さん、なんか縮んでません? 具体的には当社比85%ぐらいに」
「何言ってるのよ」
あ、これ完全に悪ふざけをして呆れられたときの顔だ。まあ気のせいかもしれない。ちょっとしたことで体格が変わってしまうのは、悪魔ならよくあることだ。ファウスト博士がオッサンではなく黒髪ぱっつん女子高生なら、私も金髪幼女で勝負できたんよー、とメフィストフェレスちゃんも言ってたし。あいつ嘘つきだけど。
咲夜さんは無事でしたよ、と振り返ると、さっきまで皆でいたバルコニーには誰の姿もない。日傘でも取りにいったのだろうか。
角度の浅い夏の太陽がぎらぎら輝きだす。思い出したように蝉の合唱が、四方八方から押し寄せてきた。
咲夜さんは黙って、黄色い花を指でつまんでいる。なんともないならいいか、と私は屋根の下に戻ろうとする。レミリア様たちほどでなくても、私も太陽の光はあんまり得意じゃないのだ。
「お嬢様にね」
突然に、咲夜さんが口を開いた。けれど私はそれを唐突と感じなかった。
「メイド長をやるようにって言われたの」
「そりゃ、よかったですね。咲夜さんなら、きっと大丈夫ですよ」
私はすらすら淀みなく返事をしている。かつて口にしたそのとおりの言葉を。
ん?
あれ、あなたはだいぶ前からメイド長じゃございませんこと?
咲夜さんはふっと笑う。今まで笑うことを忘れていたかのようだ。
「何よ。咲夜さんなんて、かしこまって」
「え?」
「知ってるわ。小悪魔って、私のことが嫌いなんでしょ」
私はたじろいだ。けれど「私」は少しも動揺していなかった。
「いえいえ、まさかそんな。それに、メイド長になったのなら咲夜ちゃん、なんて失礼でしょう」
「ふふ。そう」
咲夜さんはそっと視線を落とした。
「あなたも、優しいのね」
広い庭には、美鈴さんが手をかけた花が色とりどり咲き乱れている。湖を渡ってきた涼しい風が木々を揺らし、世界は光に満ちていた。人間と昼を生きるものすべてを祝福する吸血鬼の庭で、咲夜さんはうつむいて、どこか寂しそうだった。
さみしい。さびしい。
りろんはしっている。
私はこのとき生まれて初めて、寂しい、という感情を想像した。言葉として知っていてもそれがどういうものなのか、私は分かっていなかった。
だからよく覚えている。何年か前の夏、これは実際にあったことだ。私はいつの間にかタイムスリップをしていたのか、それとも。
「ここで生きるようになって、ずっと」咲夜さんはゆっくり私に近づいてくる。「私、いつか殺されて食べられるんだ、って心のどこかで思っていたわ。でも違うのね。違うんだって、今日はっきりわかったわ」
だから私は二度目の体験として咲夜さんの話を聞いている。でもやっぱり、何を言っているのか、寂しげな横顔とどう結びつくのか、さっぱりわからなかった。
私に触れるぎりぎりで立ち止まって、咲夜さんは私を見上げた。背がだいぶ小さい。こうやっていると確かに「咲夜ちゃん」だ。かつての私の内側で、今の私はかすかに懐かしんだ。
「図書館に行きますね」
私はきびすを返した。
「そう。私、もうちょっとここにいるわ」
「そうですか」
おい! もうちょい愛想よくできるだろゴラァ!
内心、わめいてみたが、抵抗むなしく過去の私は館の扉をくぐる。ちらりと振り返ると、咲夜さんはゆるく腕を組んで、夏雲の上に広がる濃い青をじっと見上げていた。
このあと何が起こるのか、私は知っている。咲夜さんは軽い熱射病にかかり、メイド長就任早々、半日お休みを貰う羽目になるのだ。
倒れたりよろけたりしたのか、私は見ていない。ただ又聞きして、なんだか間抜けだなあと思ったのを覚えている。
咲夜さんは間違っていなかった。このころの私は、咲夜さんのことがちょっとだけ、ほんのちょっぴり、嫌いだったのだ。
目の前が真っ暗だ。いや、人生がとか比喩的なものじゃなくて。
館に入ったはずと思っていると、いきなり稲光がほとばしり、闇の空間を切り裂いて、巨大な青毛の馬が飛び出してくる。
八本足の蹄を鳴らして私の横で急停止する。背に跨った、首無しの西洋甲冑がびしりと私を指さした。
「小悪魔! この愚か者」
「パチュリー様。お顔が見えません」
小脇にかかえた兜のバイザーが跳ね上がると、果たしてそこにあった顔は、声のとおりに我が主である。なぜか眼帯をしているうえ、その眼帯に「愛」と書いてあるのが気になるが。
「用法用量を守らなかったわね! 『胡蝶夢丸・ナイトメアタイプうす味』は、分をわきまえず一度に大量に摂取すれば、目が覚めていながら夢の世界に移行してしまうのよ!」
「説明的な台詞ありがとうございます。そして、私はまだ夢の中にいるのですね」
「理解が早くて助かるわ」
「そりゃ」
こんなわけのわからない格好のパチュリー様が夢でないとしたら、いったい何が夢なのだ。
暗がりがぐるり回転するような感覚。気がつくと、私はいつもの図書館に立っていた。
やっと夢から醒めたのか。人騒がせな薬である。
自分のしたことを棚に上げ、一言文句をつけてやろうと図書館内を探す。長テーブルにも備え付けの寝所にも、眠たげな目つきの魔女は見つからない。呼んでも返事はない。
本棚を飛び越えて出口に向かった。扉をあけて一歩踏み出し、私は唖然とした。
長い。廊下が。
というより果てが見えない。少し歩いてすぐ地上階への階段があるはずなのに、天井と床の線はまっすぐ伸びて彼方の一点に飲み込まれている。
どうやら私は、まだ夢から抜け出せていないらしい。
そろりそろり歩き出す。しばらく進んで振り返ると、図書館の扉はちゃんと遠くなっていて、私は少しだけ安堵した。
とにもかくにも進むしかなさそうだ。はじめは慎重に、だんだん歩幅を大きくしていく。規則的に並ぶ柱とランプの連続が、自然と視線を誘い込む。
「ははーん。謎はすべて解けましたよ! これは、心象風景ってやつですね!」
誰もいない廊下で、カッコいいポーズ。
察してください。不安にもなりますって。
心象風景だとしてもしかし、私の夢であるならば、犯人は私です。咲夜さんの、空間を広げる能力が暴走した結果のように見えなくもないが。
だとすればこの先に咲夜さんはいて、廊下を延ばすことで、近づく者を遠ざけているのかもしれない。
前を向くと目が回るので、絨毯に視線を落として歩いていく。
『人間が加わって、紅魔館は二十四分割された』とパチュリー様は私に言ったことがある。咲夜さんが成長するにつれ、だんだんと私はその意味がわかるようになった。
それまでの私たちには、せいぜい昼と夜の区別しかなかった。昨日も今日も明日も、おんなじだった。芝居の役者みたいに決まりきった会話と、一人きりの長い時間。それだけで充分だった。
今やどうだ。私たちは、毎日じゃないけれど皆で食卓を囲む。お嬢様もパチュリー様も、過去の台本になかったようなことをしゃべり出す。気づけば壁の時計を気にしている、明日の天気について話している。
はじめ、私は面白くなかった。変化を望んだのが咲夜さんじゃないのはわかっている。でも私は、彼女を恨んでしまった。近くにいるとひっきりなしに止まらない時計の音が聞こえるようで、図書館に篭ってなるべく会わないようにしていた。
階段が見えてきた。どうやら、無限というわけではないらしい。ホッとして駆け上がった私はしかし、再度呆然と立ちすくむ。
同じ光景だ。一階の廊下も、果てしなく伸びていた。明かり取りの小さい窓から、庭の緑が見える。
しばし思案する。ええ考えた末なのです。しかたないよね。
どうせ夢じゃん?
「しゅわっち!」
ありったけの弾幕を壁に向かって叩き込む。ガラガラ崩れ落ちる瓦礫の影から、明るい日差しが差し込んだ。
土ぼこりの中を前かがみにくぐる。転がり出て振り向くと、紅魔館はいつものサイズでそびえていた。
「……小悪魔?」
さっきと同じところに咲夜さんの姿がある。目を丸くして、口を手で押さえていた。
私は急に焦りを感じた。咲夜さんに伝えたいことがあると、そう思っていた。嫌いじゃないと。ちょっと嫌いだったけどそれは昔のことで、今はむしろあなたのいる生活を楽しんでいます。
と、いうことを、どう伝えればいいのだろう。具体的に、何をすればいい? 嫌いじゃあない。じゃ、好きなのか。ええ、もちろん恋愛みたいな気持ちとは違う。でも、好きでも嫌いでもない、なんて味気ない距離じゃない。どっちかといえば好きだけど、「どっちかといえば」なんて言いにくい。
咲夜さんはもう落ち着き払って、歩み寄る私をじっと見ていた。
つつしんで私は貴女に友好を表明します。なんだこれ意味不明。他人行儀すぎる。そうだ、他人。の逆。つまり家族なんだ、家族みたいな親しみなんだ。家族なら、なんて言えばいい。何をすれば伝わる?
近づいてわかったが、この咲夜さんはさっきと違う。当社比100%の体つき、つまり私の知る最新の咲夜さんだ。今度こそ、夢から覚めたのだろうか。
「どうしたの?」
かきあげた銀髪の影で、きらりと汗がにじむ。あの夏の日、なぜ咲夜さんが寂しげだったのか、それはわからない。人間はきっと私が思うよりむずかしい。気持ちのすべてなんてわかりっこない。でも家族なら、別にいい。わかる代わりにできることがあるから。魔界には私も家族がいる。そうだ、小悪魔じいちゃん(10万とんで28歳)が、里帰りするたび私にしてくれる、あれ、あれだ。『よく帰ってきたのうー』ってやつ。あれをやれば、きっと伝わるんだ。
「咲夜さん」
「え?」
身体が動いてから思った。たぶん、間違った。
寸前、咲夜さんはちょっと腰を引いたと思う。でも、思いっきり振り上げた私の両手は狙いたがわず、彼女のスカートをお腹のところまで捲り上げていた。
すそを青い糸で縁取りされた、ショートドロワの純白がまぶしい。
凝固したような夏の光に、じいちゃんの笑顔が重なった。ちくしょう覚えてろ。ていうか「セクハラですよ!」って、毎度私がデビルビームを喰らわせるまでがワンセットだったじゃん……。
「よかったわ」
スローモーションみたいに咲夜さんの太ももをスカートが隠していくのを見届けて、迫り来る危機を予見し凍り付いていた私は、きょとんとして顔をあげた。
「これ、夢だったのね」
心底安心したように、彼女は笑っている。
がくり、と世界が揺れて、首が悲鳴をあげた。
「何してる!」
肩に誰かの手がかかる。目の前に壁があった。壁紙が剥がれ、わずかに煙が上がっている。
「え。え?」
両側から、咲夜さんとレミリアお嬢様が私を抱きとめていた。
「寝ぼけていたのか? いきなり倒れかかったと思ったら、壁に向かって弾幕をぶち込むから……」
お嬢様が呆れたように目を細める。
「大丈夫?」
熱をはかるように、咲夜さんは私の前髪をあげ、額をこすりつけた。冷静な瞳が間近でまたたき、私の動揺を急速に吸い上げてくれる。
「小悪魔! この愚か者」
頭上から声が飛んだ。
「用法用量を守らなかったわね! 『胡蝶夢丸・ナイトメアタイプうす味』は」
「つまり私は、起きていながら夢の中にいたわけですね」
「その通りよ……って。あれ、どうして知ってるの」
甲冑姿ではない、いつものパチュリー様が降りてきた。ここは紅魔館の廊下だ。なるほど私の弾幕ごときで、石造りの壁が簡単に壊れるわけがない。
「よかった。パチュリー様の首がくっついてる」
「当たり前よ」
どんな夢をみていたの、とパチュリー様は肩をすくめた。
一通りお叱りを受けてからあれこれ尋ねてみたが、私がいつから夢の中にいたのか、区切りがはっきりしない。お嬢様とフランドール様、パチュリー様の夢の内容はだいたい記憶のとおりだが、ところどころ細かな相違がある。咲夜さんは倒れてはいないが、中庭には出てきていた。なにしろ起きたまま夢をみていたわけで、夢は徐々に現実に食い込み、やがてすっかり入れ替わったようだ。
「うーむ。改良の余地ありか。誰も涼しい思いはできなかったみたいだし」
そのパチュリー様の結論には、誰も異を唱えなかった。
夜更けて、咲夜さんが図書館まで、私とパチュリー様にそれぞれ紅茶とコーヒーを淹れてきてくれる。
「そういえば、咲夜さんは、何か夢をみたんですか」
「ええ」
湯気のたつカップを、音もなくテーブルに置く彼女のエプロンの上で、鎖につながれた銀時計が揺れていた。
「どんな夢でした?」
テーブルの端では本を読むふりでパチュリー様が聞き耳を立てている。「怖い、こわーい夢だったわ」とトレイを胸に抱え、咲夜さんはふと眉をしかめた。
「まったく。あなたにも困ったものね。悪戯ばっかり」
「え、でもほとんど上手くいってないと思いますが。こと咲夜さんには」
「何言ってるの」ぴんと指を立てる。「前に、私の食べ物に唐辛子を入れたことがあるでしょ。お嬢様の前で食べちゃって、大変だったんだから。子供だったから、泣きそうになったわ」
「あー……」
あれ、成功していたのか。嬉しいような申し訳ないような気持ちでいると、「笑うな」と額を小突かれた。
「……たの」
パチュリー様がコーヒーに手を伸ばし、しゃべり過ぎたと思ったのか指を唇にあてた咲夜さんが、立ち去り際に私の座る椅子の後ろで、何事か小さくつぶやいた。
「え?」
そのまま、出口に向かう背中に追いすがる。彼女はもうすっかり私より背が高い。
「夢にね。あなたが出てきたのよ、小悪魔。おかげで目が覚めたわ」
「怖い、夢?」
「どっちかというと、寂しい夢ね」
助かったわ、と咲夜さんは頬をゆるめている。しかし私としては気が気ではない。
「あ、あの。私、何か失礼なことしましたか?」
主にセクハラ的な。
白い歯をちらりとのぞかせ、何も言わずに咲夜さんは図書館を出ていってしまった。
テーブルに戻って本を開いたけれど、文字が頭に入らない。図書館には防音の魔法がかかっているけれど、かすかに虫の音が漏れ聞こえてくる。外に出ればきっと大演奏会だろう。
「パチュリー様」
用もないのに呼んでしまう。そうしないといけないような、物足りないような、不思議な気分だった。
ふたつの目が面倒くさそうに本の上に現れる。
「なんか今日、涼しくないですか」
「26度。昨日と同じよ」
読書中にあまり話しかけると怒られてしまうけれど、もうちょっとだけ続けたい。他愛ないやりとりを。
「そっすかー。その本、面白いですかー?」
「いまいち」
少し冷めた紅茶を含む。何も入れてないはずなのに、甘酸っぱい味がした。
なんだろ、ホント。この気持ち。
「スカートめくってもいいですか?」
「事前に書面で申請しなさい。勝負ドロワにしておくから」
<了>
仲良し紅魔館、大変美味しくいただきました。
咲夜可愛いなあ。
面白かったです。
面白いは面白いのですが冒頭のコメディで持ち上がった期待に対してオチが弱い気もします
これは誤字でしょうか?違っていたらすみません
>具体体に、何をすればいい?
此度も素晴らしい作品を読ませて戴き寔にありがとうございました。
咲夜との会話がふわふわしていながら、どっかで通じ合っているのがいいです。
軽快な感じを目指しましたけれど、もっと突き抜けられたらよかったかもしれません。
創想話、リニューアルされたんですね。知っている町に夢で迷い込んだみたいに、新鮮。