大人は子供たちの憧れだった。
何でもできる父親に、美味しいご飯を作れる母親、憧れの存在は大抵、自らの両親が始まりだ。
それが成長とともに行動領域が増す過程で、より多くの大人と出会う機会を得る。
その度に、両親とはまた違う大人に出会う。自分では出来ないことを、いとも簡単にやってのける彼らを見ていくうちに、
いつしか子供は大人そのものに憧れを抱き、大人になることを目標とする。
故に、日ごろの自分の成長に、喜びを感じることができる。
子供は大人になりたがる。
失ってしまうものがあることに、気づくこともできずに。
夕暮れ時の、里の近くを流れる川の岸辺。
普段は子供たちの遊び場として、または老夫婦の散歩道としてある程度のにぎわいがある憩いの場。
しかしひとたび夜が近づけば、獲物を狙う妖怪たちの狩り場になるのもここだった。
夜は妖怪の世界、何時襲われてもおかしく無いのが里の常識だった。
故にまだ日が沈み切っていないものの、人影は殆ど無く、ぞっとするほどの静けさが辺りを支配していた。
そんな場所のこの時間に、奇妙な出会いがあった。
「すてきなボウシだね!」
「え?」
いつからそうしていたのか、川辺でぼーっと佇んでいた、帽子をかぶった女の子に、声をかける影があった。
声をかけたのは、腰まで届く長い金髪をもった同じくらいの背格好の少女だった。
よく手入れされている金髪には艶があり、両方のもみあげの辺りには、左右違う色のリボンつけていた。
帽子の女の子は声をかけられることに慣れていなかったのか、しばしの間、自分に声をかけた少女をただ見つめていた。
「みたことないボウシだけれど、どこで買ったの?里で売ってたかな~?」
烏羽色をした帽子は特別変わったところは無かった。
それでも、人間の少女はその帽子に言い知れず惹かれたようだ。
目を輝かせて、様々な方向から帽子を眺めていた。
一方で、見られている側は恥ずかしいような、嬉しいような、複雑な気持ちで困惑するだけだった。
一通り観察できて満足したのか、人間の少女は改めて、帽子の女の子に向き直った。
「ところで、あなたはだあれ?里では会ったことないよね?」
「当たり前だよ。だって私は…妖怪だもん」
投げかけられた問いに、帽子の女の子はようやく言葉らしい言葉を口にできた。
妖怪という言葉を聞いて、人間の少女は目をぱちくりさせた。
里の人間の中で、妖怪の存在を知らないものはいない。
だがまだ幼く、里から出た事すらない少女にとって、妖怪は大人達の話の中の存在でしかなかった。
「ヨウカイ?うっそだー!だってヨウカイってすっごく大きくてコワいんだよ。
あなたは少しフンイキが変わっているけれど、かわいいし、背だってわたしとおなじくらいだもの。
妖怪なワケないわ」
それが少女が抱いている妖怪のイメージであり、目の前にいる女の子への素直な感想であった。
「見た目が怖いだけが妖怪じゃないよ。私はさとり妖怪なんだよ」
「サトリ?」
「人の心が読める、つまり相手が何を考えているか当てられちゃう妖怪なんだよ」
「へー。それじゃわたしのこころをよんでみてよ」
心が読めることに興味を示したのか、少女は目を輝かせて帽子の女の子に迫った。
それに対し、帽子の女の子は頭を振った。
「私は心を閉ざしちゃったから…もう読めないんだ」
「えー。読めるって言ったのに、読めないの?どうしてどうして?」
相反する言葉に、少女はちんぷんかんぷんだった。
溢れ出た問いかけの言葉には一切の悪意が無いのは明白だったが、帽子の女の子の表情に少しだけ翳った
身につけている丸いアクセサリーのようなものにそっと手を伸ばし、覆い隠すようにそっと触れた。
「心が読めると、嫌われちゃうから…だからもう私は心を読まない…読めないの」
「キラわれる?あなたおともだちいないの?」
歯に衣着せない言い方が、いかにも子供らしかった。
帽子の少女は力なくうなずいた。
「じゃあ私とお友だちになろうよ!」
その言葉に、帽子の女の子は、はっと顔を上げた
その顔には驚きの色がありありと映し出され、現状を理解できているのかも怪しい。
まるで予期してなかった言葉を投げかけられ、目を見開いて目の前の人間の少女を見つめる。
それに反して、人間の少女の顔は満面の笑顔で、帽子の女の子を見つめていた。
「ねぇねぇ何して遊ぶ?おままごと?それともおいかけっこ?」
「…いいの?私は妖怪なんだよ」
「んーよくわかんない!でもあなたとは遊びたいな!ねー遊ぼうよ?」
屈託のない笑顔で、矢継ぎ早に言う少女の言葉は、嘘も偽りもなかった。
少女の純粋な心を反映しているかのように
「……うんっ!」
力強くうなずいた帽子の女の子は、この時初めて笑顔を見せた。
それは沈みゆく太陽の、煌々たる紅い陽光の中であっても、まぶしいほどに輝いていた。
「あなたおなまえは?」
「私は…古明地こいし!」
夕日の沈みかけた、人影の無くなった静かな世界で、こいしと少女はいつまでも笑っていた。
こうして、人間の少女と、さとり妖怪の古明地こいしは出会い、心を通わせる友達となった。
里近くの川辺で始まった、人と妖怪との友情を祝福するモノは、誰もいなかった。
しかし、二人にとってこの瞬間はなによりも大切で、何物にも代えがたい瞬間だった。
二人が打ち解けあうまでは、さほど時間はかからなかった。
出会ったその日に、少女の門限になるまで遊び、別れ際に次の日にも遊ぶ約束を交わした。
そんな二人の様子を、万が一にも見ることができた誰かがいるならば、二人は永らく連れ添った親友同士に見えた事だろう。
「はい、これあげる!」
「わぁー!かわいいぼうし!」
ある日、こいしは少女に帽子をプレゼントした。
少女が自分の持つ帽子に並々ならない憧れを抱いていること知っていたこいしは、自宅にあった帽子のひとつを送ることにした。
少女の反応は、予想通り、いや、予想以上に喜んでくれた。貰った帽子を大事そうに胸に抱え、満面の笑顔をこいしに向けた。
「お家にあったのを持ってきたの。本当はおそろいが良かったんだけれど、同じ帽子はなかったの。それでも受け取ってくれる?」
「うんっ!ありがとー!さっそくかぶってみるね!」
早速と言ったものの、少女はしばらく貰った帽子を眺めていた。
先のとがった、つばの広い帽子はさながら魔法使いがかぶるそれのようだった。
こいしの帽子と同じ烏羽色がその雰囲気を一層引き立てる。
意を決したのか、少女は初めての帽子を噛みしめるかのように、ゆっくりとした動作で帽子を頭にのせた。
帽子が少女かぶるには大きすぎたのか、つばが広すぎるためか、少女の顔が完全に隠れてしまった。
つばをあげた少女の顔には、嬉しさと照れ臭さで赤らんでいた。
「ど、どう?似合う…かな?」
「うん!すっごく可愛いよ!」
可愛いという言葉で、少女の顔は完全に真っ赤になった。
そんな顔を隠すように、帽子を深くかぶり直した少女を、こいしは笑顔で眺めていた。
二人の間にしばらく心地の良い静寂が訪れた。
「あ、そうだ!ねぇねぇ、ボウシにコレつけようよ!」
唐突に、名案を思いついたらしい少女は、自身が身につけていたリボンを解いてこいしに見せた。
初めて会った時から毎日のようにつけていた、白と黄色の二つのリボンだった。
「これをボウシにつければ、すこしはおそろいっぽくなるでしょ?ねぇねぇ!どっちの色がいい?」
お互いの帽子に共通点を持たせて、お揃いに近づけようとしているらしい。
少女の中では、既にリボンを帽子につけることは決定しているらしく、手にしたリボンをこいしの前に差し出した。
少女の押しの強さに、こいしは反論を挟む余地すらなく、むしろまんざらではない様子で、目の前のリボンを交互に見つめていた。
「それじゃ…黄色」
「うんっ!それじゃわたしは白ね!せっかくだから私がこいしちゃんのボウシに付けてあげるよ。
代わりにこいしちゃんは、私のボウシにつけてちょうだいね」
少女の提案から二人は帽子を交換し合い、こいしは白色の、少女は黄色のリボンを、お互いの帽子につけあった。
「ほら、おんなじー」
少女は受け取った帽子を笑顔でこいしに見せ、心底嬉しそうに笑った。
こいしもまた、自分の帽子を受け取り、少しだけはにかんで見せた。
合図を交わしたわけでもないのに、ほぼ同時にリボンのついた自分の帽子かぶった二人は、改めてお互いを見合った。
新たにできたお互いの共通点に、どちらが先とも言えず、自然と笑みがこぼれた。
少女は照れ隠しからか、再び帽子を脱いで、手の中の宝物を慈しむような目で見つめていた。
こいしも同じく自分の帽子を改めて見た。
新しくつけられた黄色のリボンに、どことなくくすぐったい気持になり、顔が赤らんだ。
「大事なリボンをありがとう」
「いいの!だいじだから、大好きなこいしちゃんにあげるの。なかよしのしるしにね」
「!…うんっ、本当に…ありがとう!」
まぶしいほどの笑顔を見せるこいしと少女。
こんなに心から笑顔になれたのは、こいしの記憶の中では無かった。
少女の言葉一つ一つが、自分の胸を満たしていくのが、こいしには理解できた。
そして新たに自分の帽子に刻まれた『目に見える』つながりに、こいしは自分のもう一つの居場所を見つけた気がした。
そう思えた時、固く閉じられたこいしの第三の瞼が、ほんの僅かだけ緩んだことに、本人すら気が付かなかった。
二人はいつもいっしょだった。
春には野へ出て、お気に入りの花を見つけると、お互いの帽子に飾り合った。
夏になり、暑くてどうしようもない時は、二人で川に遊びに行き、日が暮れるまで取れるはずもない魚を追いかけ回した。
秋になって食べ物が一層美味しくなると、二人でたくさんの落ち葉を集めて焼き芋を焼こうとしたが、
途中で大人たちに見つかり、何故か少女だけがこっぴどく怒られて、泣いている彼女をこいしが慰めたこともあった。
冬が里に雪化粧を施すと、大人たちがいそいそと屋内へ逃げ隠れるのを横目に外へ飛び出し、
どちらがより大きな雪だるまを作れるか競い合い、手が真っ赤になるまで雪玉を転がした。
そしてまた春が命の息吹を運んでくると、二人はまた野へと出てくのだった。二人は、何時でも、何時までも一緒だった。
それは、ぎらぎらと照りつける太陽がひどく眩しかった、暑い夏の日のこと…
「…あれ?」
「どうかした?」
「わわっ!」
ぼーっとしていた少女にこいしが話しかけると、少女は素っ頓狂な声をあげた。
よほど驚いたのか、目を大きく見開き、激しい運動をしたわけでもないのに、ひどく息切れをしている。
「な、なんだこいしちゃんか。もー驚かさないでよー!何時からいたの?」
「何時からって、今までずっとおしゃべりしてたじゃない?」
「…あれ?そうだっけ?」
ちぐはぐな会話に頭をかしげる少女を横目に、こいしはふっと顔を俯けた。
その顔には、分かり切っていたことに対する、諦めの色を孕んだ物悲しげな表情が浮かんでいたが、少女がそれに気づくことは無かった。
「うーん…この年でボケたのかな?まだ恋人も出来た事ないのにー!」
「…ううん、きっと大人になってきたからだよ」
「そういうものなの?あっ!大人で思い出した!私ね、またおっぱい大きくなったんだー!」
さっきまでの難しい表情から一転、普段の裏表のないまっすぐな笑顔を浮かべ、気分が高揚しているせいか、弾んだ声で少女は話し始めた。
「へぇー…この前もそう言っていたよね?あれからまた大きくなったんだ。やっぱり成長期なのかな?」
「そうかも!えへへー、この調子で育っておくれよー?」
言いつつ、少女は良いことをした子供にするのと同じように、自分の胸をよしよしと撫でた。
こいしはそんな少女を微笑ましいと思った。
「…うれしそうだね」
「そりゃあもう!…あっ!」
再びこいしに向き直った少女は再び喜び勇んで話し始めようとしたが、わずかに視線が動いたかと思うと、小さく声を上げて口を紡いでしまった。
その意味深な沈黙にこいしが首をかしげると、少女は慌てた様子で手をばたばたと降り始めた。
「べ、別に大きいから良いってわけじゃないんだよ?小さいのだって需要はあると思うし!そもそもこいしちゃんはすっごく可愛いし、すっごく魅力的だし!それに…」
「どうしたの急に?」
「えっ?う、ううん!何でもないっ!」
少女の不可解な行動は、こいしには理解できなかった。
少女はというと、ばつの悪そうな表情で、ちらちらとこいしの胸のあたりを盗み見ていた。
自分の行動を恥ずかしく思ったのか、こいしから自分の顔を隠すように、まだ少しだけ大きめの帽子を深くかぶり直した。
「ふふっ、変なの。そういうトコロは昔から変わってないよね」
「こ、こいしちゃんに変って言われた!?」
「そこ驚くところなの?」
やや大げさに ―半分冗談で― 驚く少女に対して、こいしは意外そうに頭を傾げた。
「当たり前じゃん!覚えてないの?こいしちゃん初めて会ったとき、自分は妖怪だって言ったんだよ?
いくら小さかったとはいえ、そんな自己紹介する子に変って言われたら…ねぇ?」
訴えかけるような目で ―もちろん大げさに― 見つめる少女に、こいしは少しだけ驚いた様子で答えた。
「だから私は妖怪だってば。信じてなかったの?」
「未だにそんなことおっしゃいますかアナタはっ!?」
今度こそ少女は、本心から大いに驚いた。
少々ずれているこいしの言葉に、少女が驚かされるのはいつも通りの二人の姿だった。
しかし、緩みかけていたこいしの第三の瞼が、再び固く閉ざされようとしていたことに、やはり本人ですら気付くことはなかった。
それからというもの、少女は時折こいしと話をしていても、突然ぼうっとしたり、二人で遊びに出掛けても、それを忘れて一人で帰ったりすることが頻繁に起こった。
その度に少女は罪悪感からか、ひたすらこいしに謝るのだった。
少女の謝罪に対して、こいしの取る行動は毎回決まっていた。
「気にしないで。忘れちゃったのは仕方がないんだから」
気にした風をおくびも出さず、いつもの屈託のない笑顔で少女を許すのだった。
仕方がなかったのだから…。
そして冬の始まりの日…
「さてと、今日も出かけますか!」
風呂から上がり、自慢の髪の手入れを済ませた少女は身支度を整えていた。
アウトドア派な彼女は、一日外に出ない日は無かった。
「帽子帽子…って、今日の服にこの帽子はアンバランスすぎるかな?」
帽子に手をかけようとした手を止めて彼女は自分の姿を見る。
「…前々から思っていたけど、この帽子…」
帽子をまじまじと見つつ、
「いつ買ったんだっけ?」
まるで見当が付かないといった様子で、はっきりと口にした。
「私の持っている服と比べると明らかに浮いているから合わせづらいのに。
そもそも、何時からあったのかも思い出せないし…。
だた、昔から外出する時はいつも被ってて、半ば習慣みたいになっていたけれど、別に無理してかぶる必要もないか。
うん、やっぱり帽子はいらないや。じゃ、いってきまーす」
自問自答していた少女は結論が出たのか、手にした帽子を棚の上に置いて、昼時を少し過ぎた里の商店街へと出かけて行った。
少女が部屋に置き去りにした帽子は、少女が出て行ってすぐに、まるで魔法が解けたかのように力を無くし、
部屋に吹きこんできた風によって、棚の上から部屋の隅っこへと、静かに落ちていった。
この日少女は、こいしと会うことは無かった。
次の日もその次の日も、一月経っても、少女がこいしと会う事は無く、意識すらしなかった。
少女の生活の中から、こいしという女の子が、すっぽりと抜け落ちてしまっていた。
それはまるで少女の記憶から、とても大事だった、帽子の彼女がいなくなってしまったかのようだった。
長く続くと思われた友情も、自然消滅というにはあまりにもあっけなく、余韻すら残らないほどに終わりを告げた。
幾つもの季節が移り変わり、あらゆる異変が幻想郷に起ころうとも、少女はこいしのことを思い出すことはなかった。
もしかしたら、もう一度こいしに会えれば思い出せたかもしれない。
でも、それすら叶わなかった。抜け落ちた大事なパズルのピースを拾う機会すら訪れることはない。
無機質に過ぎ去った時間が、少女を大人に変えた。
少女もそれに逆らうことなく、毎日ごく普通の生活を続け、ごく普通の恋をした。
その恋が実を結び、少女は結婚を間近に控え、嫁入り準備に明け暮れる毎日を過ごしていた。
「あぁ…全然片付かない…こんなにいっぱいあるなんて…」
この日、少女は朝から新居へと持っていく荷物の整理を行っていた。
少女が今までの人生で溜めこんだ思い出の品々は、一朝一夕では片付かないほどに膨れあがっていた。
それらで埋め尽くされた部屋の中は、もうじき陽が沈む時間になってもなお、人の手の行き届かない秘境を思わせるほどに荒れ放題だった。
「結婚は人生の墓場、なんて言うけれど、早くも実感…ってそれは違うか」
自分の部屋の惨状に愚痴をこぼしながらも、その顔には一切の憂いも無かった。
むしろこの状況を楽しんでいる節すら見える。
それもその筈で、長らく仕舞ったままだった品々は、楽しかった少女の今までの人生を表すものばかりだった。
手に取るだけで、思い出が溢れかえることが、楽しくて仕方が無いようだった。
最も、それが原因で一向に片付けが進まないのも事実で、この秘境が開拓されるのは当分先になりそうだった。
そんな状況を知ってか知らずか、少女はまた別の品を手に取り、郷愁に浸る作業を延々と続けていた。
「あ…」
声とともに少女が手に取ったのは帽子だった。
つばが広く、リボンで装飾された帽子で、埃を被っていたためか若干白くなっていたものの、払ってみるとそれは烏の羽のような黒い帽子だった。
仕舞われ方が悪かったのか、特徴だった、昔はぴんと立っていたであろうとんがり頭は、今はよれよれになって下に垂れていた。
「なつかしいなー。絵本に出てくる魔女がかぶっているのに似ていたからすっごく気に入っていて、幼いころはいつもかぶっていたんだよねー」
感触を楽しむかのように触れていた帽子を改めてみると、幼い時の思い出の品ながらも、今の自分がかぶれるほどの大きさがあることに気付いた。
壊れないようにおそるおそる頭にのせてみると、まるでオーダーメイドの帽子のようにぴったりだった。
「わ、ぴったり!」
先ほどまで埃を被っていた昔の帽子が、今の自分にこれほど合うとは思わず、少女は驚きと喜びで声を上げた。
これをかぶっていた当時はよほど大きすぎたのだろう。
「そういえば、当時は大きすぎたんだよねー。
お母さんからも危ないからかぶるなって言われても、ずっとかぶり続けていたからよく転んで泣いちゃって…」
不思議なことに、帽子をかぶった時から今まで忘れていた記憶が湧水のように溢れてきた。そして…
「だから、いつもこいしちゃんにも迷惑かけてた…な…」
とても大事な『あの子』の名前を、永い年月を経て、ようやく口にすることができた。
「…こいしちゃん?」
思わず自分が口にした名前を、もう一度言葉にした。
その瞬間少女の顔に今までにないぐらいの驚愕の色が浮かんだ。
すこし変わっていたものの、笑顔の可愛らしい、黒い帽子をかぶった女の子。
少女の、一番の親友だった女の子。
「…そうだ、こいしちゃんだ。私、こいしちゃんにこの帽子を貰ったんだ…」
そして、今自分のかぶっている、思い出の帽子をくれた女の子だった。
途端、湧水が噴水に変わったかのように当時の記憶が溢れ出てきた。
お花の冠を作り合ったり、川で遊んだり、焼き芋をしようとして怒られたり、雪だるまの大きさを競争し合った、かけがえのない思い出。
絶対忘れることのできない『筈』だった想い出。
「私、どうして…どうして忘れていたの?」
あまりの衝撃に体が震え、もうじき冬に差し掛かる肌寒い日にもかかわらず、額にはうっすらと汗が滲んだ。
再びかぶっていた帽子を手に取り、装飾されたリボンに手を触れた。
真っ白だったそれは少しだけ汚れていて、皺も目立ったけれど、間違いなく自分がつけたリボンだった。
『あの子』の帽子と少しでも共通点が欲しくて、自分が提案したリボンの装飾。
「どうして?わからない…」
どうして忘れていたのか?それとも思いだせなかったのか?
「おかしい…なんかおかしいよ!」
声を荒らげる少女の訴えは、誰にも受け止めてもらえず、空にのまれて消えていった。延々と自分の記憶を掘り返す少女は、とある記憶の場所に行きついた。
「そうだ…あそこだ」
それは始まりの場所。そしていつもの場所。
こいしと出会い、こいしと最も長い時を過ごした、里近くの川辺。
そこに何かがある確証が、少女にあったわけでは無かった。
それでも、脳裏を出会った時の情景が掠めた時、反射的に体が動き、帽子を胸に抱えながら、もうじき陽が沈む時刻に差し掛かった紅い世界の中を駆けて行った。
少女が川辺へ着いた時、太陽は既にその顔を半分地平線へと沈めていた。
辺りは驚くほどの静寂に包まれており、野生動物や魚、日中に陽の光をたくさん浴びた草木ですら、
再び陽が昇る時までのしばしの時間を、夢の中で過ごす準備をしているかのようだった。
その中で、少女の乱れた呼吸だけがこの場の静寂を破っていた。呼吸を整えながら少女は周りを見渡した。
「そうだよ…いつも、ここでこいしちゃんと遊んでた。毎日…毎日だよ?なのに…」
その目には、今この場の情景と、過去に自分が最も幸せだった頃の情景とが重なっていたのかも知れない。
「どうして?頭からすっぽりと抜け落ちたみたいに…あんなに仲が良かったのに…あんなに…」
この場に来て、改めて思い知らされた現実。
記憶の底から蘇ってきた大事な、大事なあの子の顔が、鮮明に。
「大好きだったのに」
「それはね、大人になっちゃったからなんだよ」
その声は人間の少女のものでは無かった。
しかし、その声を決して知らない訳でも無かった。
今まで忘れてしまっていたけれど。少女は声の方に顔を向けると、まるで信じられないといった顔になった。
「こんにちは」
声の主は女の子だった。
何時の間にかこの場にいた彼女は、その顔に無邪気な笑顔を湛えていた。
沈みゆく太陽の紅い光に照らされた笑顔は、一度見たら忘れることが出来ないほどに魅力的だった。
そして、少女はその笑顔を、知っていた。
「こ…いし…ちゃん?」
セミロングの癖っ毛は薄く緑のかかった灰色で、瞳の色は濃い緑。
烏羽色の帽子をかぶり、それは黄色のリボン装飾されていた。
とても可愛らしい女の子は、少女にとって、かけがえのない親友、古明地こいしだった。
「よかった。またお話しできて嬉しいな」
「嘘…夢でも見てるの?」
純粋に再会を喜ぶかのように、笑顔で話すこいし。
しかしそれに対して、少女の表情に笑顔は無く、むしろ驚愕の色を濃くしていた。
「ううん、紛れもない、現実だよ。ほっぺたつねってあげようか?」
「だって!こいしちゃん…」
茶化すこいしの言葉を受け流す余裕が無いぐらいに、少女の頭は混乱していた。
なぜなら少女の目の前にいる親友は…。
「どうして、あの頃のままの姿なの?」
記憶の中の姿と、寸分違わなかったのだ。
初めて出会った時、二人は同じぐらいの背格好だった。
だが少女の方は立派に成長し、大人の女性へと足を踏み入れようとしていた。
一方のこいしは、まだあどけなさが残る女の子そのものだった。
それは、在り得ないことだと少女は思った。しかしこいしは、その疑問が可笑しいといった様子で、口元に手を当てて小さく笑った。
「ふふっ、変なの。初めて会ったときから何度も言っていたじゃない」
次の瞬間、こいしの纏っていた空気が一変した。
「私は妖怪だ、って」
そう口にしたこいしの顔に浮かぶ笑顔には、先ほどまでの可愛らしさは違った、ひどく妖艶で、思わず背筋が凍るような不気味さが滲んでいた。
纏っていた空気も、まるで獲物を震え上がらせるような威圧感を孕んでいた。
少女は記憶の中いるこいしとまったく異なる一面を見せ付けられ、本能からこいしが怖い存在だと思い知らされたような感覚を覚えた。
射抜くようなこいしの目を少女は直視することが出来ず、思わず後ずさりをしてしまった。
「本当…に?」
「これでやっと信じてくれた?」
再びこいしはぱっと無邪気な笑顔を向けた。
そこには先ほどまでの威圧感は無く、少女の記憶の中のこいしそのものだった。
解放された少女はほっと一息つくと、先ほどから頭に浮かんでいた疑問を投げかけた。
「…こいしちゃんのせいなの?私がこいしちゃんを忘れちゃったのは…?」
こいしが妖怪だから、その力で自分の記憶を消したのではないか、そう少女は考えた。
「半分正解で半分不正解、かな」
しかし、帰ってきた答えはひどく曖昧だった。少女はその答えに満足出来る筈も無かった。
「何それ…わかんないよ」
「初めて会った時も言ったけれど、覚えてないよね?だからもう一度説明するから、今度はちゃんと聞いてね」
不満を口にする少女に対して、たっぷりと間をおいた後、こいしはゆっくりと話し始めた。
その様は、教会で懺悔する罪人のそれに近かった…。
「私はね、サトリっていう心を読む妖怪だったの。
でも、心を読むと嫌われちゃうから、それが嫌だったから、私は自分の心を閉ざしたの
そうすることで、自分の心も、相手の心も読めなくしたの」
そう言って、こいしは固く閉じられた第三の目にそっと触れた。
紫色の球体は、よく見れば瞼と睫毛が付いていて、それが何か瞳のようなものであることが分かる。
変わり者のこいしが身につけている、変わったアクセサリーだと思っていた少女は、それが彼女が人ではないものである証拠なんだと、ここで改めて実感した。
「そうして心を閉ざしたら、別のモノが身に付いちゃったんだ」
「別の…?」
「それは無意識。
私は、無意識を操る程度の能力に目覚めたんだ。
それによって、人は私のことを意識できなくなった。
簡単に言うと、私のことを見たり、私とお話したりできなくなるの。
道を歩いていても、落ちている小石の事なんかいちいち気に掛けないでしょ?
私はそれと同じなんだ。気付いていなかったと思うけれど、一緒に遊んでいた頃から、周りの大人達には私が見えていなかったんだよ。
私の名前もこいしだし、私に名前を付けてくれた誰かは、私がこういう能力を身につけること知ってたのかもね。上手いこと考えたよね。
笑えないけど」
笑えないと口にしつつ、こいしは力なく笑った。
名付け親を罵ることも、自らの境遇を憂うことも疲れたかのように、その瞳にひどく自虐の色を込めて。
少女が初めて見る今のこいしの様子は、明るく無邪気だった昔の姿からあまりにかけ離れすぎていたため、こいしの悲愴な佇まいがひとしおだった。
「でもね、そんなちっぽけで、無視され続けた小石に、話しかけてくれる人もいたんだ」
「…え?」
「子供だよ」
「っ!」
今までこいしの途方もない話を、ただ茫然と聞いていた少女が、ようやく強い感情をみせた。
「子供は何にでも興味をもつでしょ?大人が決して気に留めない、留めようともしない虫や草…石ころにも、ね。
だから私たちは出会えたんだよ。でも、貴女は成長して、大人になっていった。
だから、どんどん私のことを意識出来なくなっていった、そして…忘れてしまった」
「そ…んな」
言われて初めて ―先ほど思いだしたばかりの―当時を思い返して、ようやく確信できた。
どうしてあの頃、こいしと遊んでいる途中で、こいしと遊んでいることを忘れてしまっていたのか。
こいしを話をしていて、ふと記憶が飛ぶ感覚に襲われたのか。
「まさか大人になった貴女とこうしてお話ができるなんて、夢にも思っていなかったよ。
これも神様のおかげかな?どの神様だろうね」
くすりと笑うこいし。
その表情には憂いの色は見えない。
だが少女はそれとは対照的だった。
「…し、知らなかった…よ。
大人に…なることって、い、良いことばかりだと思ってたのに、ま、間違ってた…。
無くしちゃう…モノがあるなんて、わ、私が一番大切にしてたモノを無くしちゃうなんて…全然知らなかった」
少女は泣いていた。
溢れる気持ちを抑えきれず、ただ感情のままに、あの頃の幼い少女だった頃のように、ただ、自分に降りかかった不幸に対して涙することしか知らないかのように。
少女にとって、信じ続けていた希望の、見えていなかった側面を、目を逸らしたかったソレを目の当たりにして、ただ、泣きじゃくることしかできなかった。
「……」
先ほどまで笑っていたこいしは、もう笑っていなかった。
再び顔を曇らせ、どのような言葉をかけていいのか分からないのか、ただ少女を見つめているだけだった。
紅い夕陽が二人を照らし、ひたすら泣き続ける少女と、それを見つめる妖怪の女の子の足元には長い影が伸び、
映し出された影絵にすら、二人の悲痛な表情が浮かんで見えるようだった。
「もう、陽が沈んじゃうね」
こいしは、自分を照らしていた夕日を眺め、そう口にした。
少女もこいしにつられるまま、夕日に目線を映した。
涙で腫らした目は、夕日の紅よりもずっと赤く、顔はぐじゃぐじゃだった。
「もう帰らないと、私みたいな怖い妖怪に襲われちゃうよ?私も帰るね。今日は、会えて嬉しかったよ」
こいしの言葉を聞いて、少女がその方向に目線を向けた時には、こいしは既に後ろを向いて、何事も無かったかのように歩きだしていた。
その背中には、今までずっとそうしてきたかのように、一切の後悔も、未練も無かった。
でも少女にとってそれはあんまりだった。だから少女は必死に叫んだ。
「ねぇ!今週末に私の結婚式があるの!
こいしちゃんの席も用意しているから!絶対に来て!
来てくれなきゃ嫌だよ!こいしちゃんに…こいしちゃんに見てもらえなきゃ嫌だからね!」
「無理だよ」
足を止めたこいしは、しかし振り返りもせず、はっきりとした声で口にした。
「どうして!」
「だって、貴女はもう大人になっちゃったから」
「っ!」
こいしが言わんとしていることが分かった少女は、声を上げることができなかった。
「貴女が家に着くまでには、ううん、ここでお別れをして、私がいなくなった途端、私のことを忘れちゃう。だから、無理なんだ」
こいしの能力、無意識を操る能力によって、こいしのことを忘れてしまう。
実際に、少女は今日までこいしのことを忘れてしまっていたのだから…今というイレギュラーは二度も続かないと、こいしは暗に伝えたのだった。
「やだ…いやだよ…!」
少女は帽子を抱きしめ、再び涙を流した。
こいしにはその様子は見えなかったものの、心なしかかたくなに後ろを拒絶していた背中が小さくなった。
「でも、ありがとう。その言葉だけでも、私は…嬉しかった」
「こいし…ちゃんっ!こいしちゃん!」
「これが本当に最後だよ。ずっと、ずーっと…幸せになってね」
「忘れないっ!」
「さようなら」
再び歩み始めたこいしは、この思い出の場から去って行った。
その背中からは、彼女の名前をただひたすらに叫ぶ声がかけられたが、こいしは決して振り返らなかった。
彼女の小さな背中は見る見る小さくなって、やがて消えた。
こいしの姿が見えなくなると同時に、全てを見ていた紅い太陽が、自らの役目を終えたかのように地平線の向こうへと沈み、辺りに夜の帳が下りた。
すると少女は叫ぶことをやめ、憑き物が取れかのように茫然とした。
辺りの気温が下がり、夜虫が鳴き始めた頃になって、ようやく少女は思い出したかのように踵を返し、ごく自然な流れで未だ整理が終わっていない自宅へと帰って行った。
一つだけ不自然があるとすれば、少女が胸に強く抱きしめていた帽子ぐらいだった。
幕が下り、役者のいなくなった舞台はただ物寂しくて、しかしそれがさも当然であるかのように、夜の川辺を演出していた。
一週間後、里で結婚式が行われた。
花嫁は里の人気者で、多くの男たちが涙した。
花婿はとても誠実で、花嫁の両親も安心した面持ちだった。
皆が酒を飲み交わし、花嫁、花婿の昔話に花が咲いた。
ここで新たな出会いがあったという話もあった。
里のほんの片隅の小さな会場で、ひっそりと、しかし盛大に挙げられた結婚式では、誰もが笑顔だった。
ただ一つ、花嫁の宝物だった帽子の置かれた、一度も使われることのなかった席に座る筈だった、花嫁の親友を除いて。
~時が流れ~
守矢神社参道にて…
「うおーい雪山は寒いぜー。温泉も湧いたんだからもう充分だったかもなー」
一人守矢神社への参道を登る魔理沙は、一人で愚痴をこぼす。
最近、地底で出会った地獄烏が、守矢の神様に核融合の力を貰ったと訊いた。
そこで自分も御利益を得ようと、この寒い中、神社に赴いてきたようだ。
「ったく、そんなの誰が付け始めたんだ?おまけがあるのが当たり前だと、そのうちラスボスは中ボスに成り下がるぜ」
通信機の働きをする人形に話しかけているものの、傍から見れば充分に怪しい人そのものだった。
「あのーすみません。ここの神社の人は…えっ?」
そんな怪しい魔法少女に声が掛った。
魔理沙が声の方に顔を向けると、そこには烏羽色の帽子を被った少女がいた。
ただ、その少女は魔理沙を見て、驚いた表情のまま、石になったかのように固まっていた。
「神社の人間ならさっきあっちで倒したが…何だ口をあんぐりと開けて…腹減ってんのか?」
我に返った帽子の少女は、しかし驚きの表情のままだった。
まるで信じられないと言った様子で、魔理沙を見つめたままだった。
「そ、そうなんだ…。ねぇ、その帽子…」
少女は魔理沙の被っている帽子を指差した。
魔理沙は自分のトレードマークの、つばの大きい黒い帽子だった。
「あん?この帽子がどうした?欲しいって言ってもあげないぜ?
実家から持ち出した数少ないお気に入りなんだからな」
「お気に入り?」
「おー。私の母親が持っていたらしんだが、くれと言ったらくれたんだ。
以来私のお気に入りだ、それに目を付けるとはなかなか良いセンスしてるなー、ってなんで私こんなこと初対面の奴に話してんだ?」
頭をかしげながらも、表情はどこか得意げで、自慢の帽子をより強調するかのようにかぶり直した。
そんな魔理沙の様子をじっと見ていた少女は、魔理沙がその帽子をどれだけ大事にしているかを感じ取ったのかもしれない。
帽子の少女の顔に張り付いていた驚きの表情が、慈しみに満ちた柔らかい笑顔に変わっていた。
「そっか…そうなんだ。その帽子、気に入ってくれているんだ。貴女、名前はなんていうの?」
「私か?大魔法使いの霧雨魔理沙だ。覚えておくがいい。そういうお前は誰だ?こんな場所にある神社に参拝って怪しいぜ」
「私は、古明地こいし。おくうみたいに私のペットもパワーアップしてもらいに来たんだけど、今はそれ以上に貴女に興味があるな」
「何だと?お前さとりの妹か?そんなことより私に興味って…」
「へぇー。お姉ちゃんのことも知っているってことは、もしかして貴女が人形を使うシーフ?」
「なっ」
「ふふっ。益々興味がわいちゃった。ねぇ、私と遊ばない?素敵な帽子のシーフさん?」
こいしは満面の笑顔で言った。
思わぬ再会に、そして新たな出会いに、初めて感謝した。
彼女は人間故に、同じようにこいしのことを忘れ、こいしよりもずっと早くこの世を去るだろう。
だが、だからこそ今を輝く彼女らと、今この瞬間を精一杯に享受していく。
そんな生き方も、決して悪くないかもしれないと思えてくる。
これからもっと楽しくなりそうという期待で、永い間空っぽだったこいしの胸が満たされた時、閉ざされた第三の瞼が緩むのをこいし本人もはっきりと感じ取った。
何でもできる父親に、美味しいご飯を作れる母親、憧れの存在は大抵、自らの両親が始まりだ。
それが成長とともに行動領域が増す過程で、より多くの大人と出会う機会を得る。
その度に、両親とはまた違う大人に出会う。自分では出来ないことを、いとも簡単にやってのける彼らを見ていくうちに、
いつしか子供は大人そのものに憧れを抱き、大人になることを目標とする。
故に、日ごろの自分の成長に、喜びを感じることができる。
子供は大人になりたがる。
失ってしまうものがあることに、気づくこともできずに。
夕暮れ時の、里の近くを流れる川の岸辺。
普段は子供たちの遊び場として、または老夫婦の散歩道としてある程度のにぎわいがある憩いの場。
しかしひとたび夜が近づけば、獲物を狙う妖怪たちの狩り場になるのもここだった。
夜は妖怪の世界、何時襲われてもおかしく無いのが里の常識だった。
故にまだ日が沈み切っていないものの、人影は殆ど無く、ぞっとするほどの静けさが辺りを支配していた。
そんな場所のこの時間に、奇妙な出会いがあった。
「すてきなボウシだね!」
「え?」
いつからそうしていたのか、川辺でぼーっと佇んでいた、帽子をかぶった女の子に、声をかける影があった。
声をかけたのは、腰まで届く長い金髪をもった同じくらいの背格好の少女だった。
よく手入れされている金髪には艶があり、両方のもみあげの辺りには、左右違う色のリボンつけていた。
帽子の女の子は声をかけられることに慣れていなかったのか、しばしの間、自分に声をかけた少女をただ見つめていた。
「みたことないボウシだけれど、どこで買ったの?里で売ってたかな~?」
烏羽色をした帽子は特別変わったところは無かった。
それでも、人間の少女はその帽子に言い知れず惹かれたようだ。
目を輝かせて、様々な方向から帽子を眺めていた。
一方で、見られている側は恥ずかしいような、嬉しいような、複雑な気持ちで困惑するだけだった。
一通り観察できて満足したのか、人間の少女は改めて、帽子の女の子に向き直った。
「ところで、あなたはだあれ?里では会ったことないよね?」
「当たり前だよ。だって私は…妖怪だもん」
投げかけられた問いに、帽子の女の子はようやく言葉らしい言葉を口にできた。
妖怪という言葉を聞いて、人間の少女は目をぱちくりさせた。
里の人間の中で、妖怪の存在を知らないものはいない。
だがまだ幼く、里から出た事すらない少女にとって、妖怪は大人達の話の中の存在でしかなかった。
「ヨウカイ?うっそだー!だってヨウカイってすっごく大きくてコワいんだよ。
あなたは少しフンイキが変わっているけれど、かわいいし、背だってわたしとおなじくらいだもの。
妖怪なワケないわ」
それが少女が抱いている妖怪のイメージであり、目の前にいる女の子への素直な感想であった。
「見た目が怖いだけが妖怪じゃないよ。私はさとり妖怪なんだよ」
「サトリ?」
「人の心が読める、つまり相手が何を考えているか当てられちゃう妖怪なんだよ」
「へー。それじゃわたしのこころをよんでみてよ」
心が読めることに興味を示したのか、少女は目を輝かせて帽子の女の子に迫った。
それに対し、帽子の女の子は頭を振った。
「私は心を閉ざしちゃったから…もう読めないんだ」
「えー。読めるって言ったのに、読めないの?どうしてどうして?」
相反する言葉に、少女はちんぷんかんぷんだった。
溢れ出た問いかけの言葉には一切の悪意が無いのは明白だったが、帽子の女の子の表情に少しだけ翳った
身につけている丸いアクセサリーのようなものにそっと手を伸ばし、覆い隠すようにそっと触れた。
「心が読めると、嫌われちゃうから…だからもう私は心を読まない…読めないの」
「キラわれる?あなたおともだちいないの?」
歯に衣着せない言い方が、いかにも子供らしかった。
帽子の少女は力なくうなずいた。
「じゃあ私とお友だちになろうよ!」
その言葉に、帽子の女の子は、はっと顔を上げた
その顔には驚きの色がありありと映し出され、現状を理解できているのかも怪しい。
まるで予期してなかった言葉を投げかけられ、目を見開いて目の前の人間の少女を見つめる。
それに反して、人間の少女の顔は満面の笑顔で、帽子の女の子を見つめていた。
「ねぇねぇ何して遊ぶ?おままごと?それともおいかけっこ?」
「…いいの?私は妖怪なんだよ」
「んーよくわかんない!でもあなたとは遊びたいな!ねー遊ぼうよ?」
屈託のない笑顔で、矢継ぎ早に言う少女の言葉は、嘘も偽りもなかった。
少女の純粋な心を反映しているかのように
「……うんっ!」
力強くうなずいた帽子の女の子は、この時初めて笑顔を見せた。
それは沈みゆく太陽の、煌々たる紅い陽光の中であっても、まぶしいほどに輝いていた。
「あなたおなまえは?」
「私は…古明地こいし!」
夕日の沈みかけた、人影の無くなった静かな世界で、こいしと少女はいつまでも笑っていた。
こうして、人間の少女と、さとり妖怪の古明地こいしは出会い、心を通わせる友達となった。
里近くの川辺で始まった、人と妖怪との友情を祝福するモノは、誰もいなかった。
しかし、二人にとってこの瞬間はなによりも大切で、何物にも代えがたい瞬間だった。
二人が打ち解けあうまでは、さほど時間はかからなかった。
出会ったその日に、少女の門限になるまで遊び、別れ際に次の日にも遊ぶ約束を交わした。
そんな二人の様子を、万が一にも見ることができた誰かがいるならば、二人は永らく連れ添った親友同士に見えた事だろう。
「はい、これあげる!」
「わぁー!かわいいぼうし!」
ある日、こいしは少女に帽子をプレゼントした。
少女が自分の持つ帽子に並々ならない憧れを抱いていること知っていたこいしは、自宅にあった帽子のひとつを送ることにした。
少女の反応は、予想通り、いや、予想以上に喜んでくれた。貰った帽子を大事そうに胸に抱え、満面の笑顔をこいしに向けた。
「お家にあったのを持ってきたの。本当はおそろいが良かったんだけれど、同じ帽子はなかったの。それでも受け取ってくれる?」
「うんっ!ありがとー!さっそくかぶってみるね!」
早速と言ったものの、少女はしばらく貰った帽子を眺めていた。
先のとがった、つばの広い帽子はさながら魔法使いがかぶるそれのようだった。
こいしの帽子と同じ烏羽色がその雰囲気を一層引き立てる。
意を決したのか、少女は初めての帽子を噛みしめるかのように、ゆっくりとした動作で帽子を頭にのせた。
帽子が少女かぶるには大きすぎたのか、つばが広すぎるためか、少女の顔が完全に隠れてしまった。
つばをあげた少女の顔には、嬉しさと照れ臭さで赤らんでいた。
「ど、どう?似合う…かな?」
「うん!すっごく可愛いよ!」
可愛いという言葉で、少女の顔は完全に真っ赤になった。
そんな顔を隠すように、帽子を深くかぶり直した少女を、こいしは笑顔で眺めていた。
二人の間にしばらく心地の良い静寂が訪れた。
「あ、そうだ!ねぇねぇ、ボウシにコレつけようよ!」
唐突に、名案を思いついたらしい少女は、自身が身につけていたリボンを解いてこいしに見せた。
初めて会った時から毎日のようにつけていた、白と黄色の二つのリボンだった。
「これをボウシにつければ、すこしはおそろいっぽくなるでしょ?ねぇねぇ!どっちの色がいい?」
お互いの帽子に共通点を持たせて、お揃いに近づけようとしているらしい。
少女の中では、既にリボンを帽子につけることは決定しているらしく、手にしたリボンをこいしの前に差し出した。
少女の押しの強さに、こいしは反論を挟む余地すらなく、むしろまんざらではない様子で、目の前のリボンを交互に見つめていた。
「それじゃ…黄色」
「うんっ!それじゃわたしは白ね!せっかくだから私がこいしちゃんのボウシに付けてあげるよ。
代わりにこいしちゃんは、私のボウシにつけてちょうだいね」
少女の提案から二人は帽子を交換し合い、こいしは白色の、少女は黄色のリボンを、お互いの帽子につけあった。
「ほら、おんなじー」
少女は受け取った帽子を笑顔でこいしに見せ、心底嬉しそうに笑った。
こいしもまた、自分の帽子を受け取り、少しだけはにかんで見せた。
合図を交わしたわけでもないのに、ほぼ同時にリボンのついた自分の帽子かぶった二人は、改めてお互いを見合った。
新たにできたお互いの共通点に、どちらが先とも言えず、自然と笑みがこぼれた。
少女は照れ隠しからか、再び帽子を脱いで、手の中の宝物を慈しむような目で見つめていた。
こいしも同じく自分の帽子を改めて見た。
新しくつけられた黄色のリボンに、どことなくくすぐったい気持になり、顔が赤らんだ。
「大事なリボンをありがとう」
「いいの!だいじだから、大好きなこいしちゃんにあげるの。なかよしのしるしにね」
「!…うんっ、本当に…ありがとう!」
まぶしいほどの笑顔を見せるこいしと少女。
こんなに心から笑顔になれたのは、こいしの記憶の中では無かった。
少女の言葉一つ一つが、自分の胸を満たしていくのが、こいしには理解できた。
そして新たに自分の帽子に刻まれた『目に見える』つながりに、こいしは自分のもう一つの居場所を見つけた気がした。
そう思えた時、固く閉じられたこいしの第三の瞼が、ほんの僅かだけ緩んだことに、本人すら気が付かなかった。
二人はいつもいっしょだった。
春には野へ出て、お気に入りの花を見つけると、お互いの帽子に飾り合った。
夏になり、暑くてどうしようもない時は、二人で川に遊びに行き、日が暮れるまで取れるはずもない魚を追いかけ回した。
秋になって食べ物が一層美味しくなると、二人でたくさんの落ち葉を集めて焼き芋を焼こうとしたが、
途中で大人たちに見つかり、何故か少女だけがこっぴどく怒られて、泣いている彼女をこいしが慰めたこともあった。
冬が里に雪化粧を施すと、大人たちがいそいそと屋内へ逃げ隠れるのを横目に外へ飛び出し、
どちらがより大きな雪だるまを作れるか競い合い、手が真っ赤になるまで雪玉を転がした。
そしてまた春が命の息吹を運んでくると、二人はまた野へと出てくのだった。二人は、何時でも、何時までも一緒だった。
それは、ぎらぎらと照りつける太陽がひどく眩しかった、暑い夏の日のこと…
「…あれ?」
「どうかした?」
「わわっ!」
ぼーっとしていた少女にこいしが話しかけると、少女は素っ頓狂な声をあげた。
よほど驚いたのか、目を大きく見開き、激しい運動をしたわけでもないのに、ひどく息切れをしている。
「な、なんだこいしちゃんか。もー驚かさないでよー!何時からいたの?」
「何時からって、今までずっとおしゃべりしてたじゃない?」
「…あれ?そうだっけ?」
ちぐはぐな会話に頭をかしげる少女を横目に、こいしはふっと顔を俯けた。
その顔には、分かり切っていたことに対する、諦めの色を孕んだ物悲しげな表情が浮かんでいたが、少女がそれに気づくことは無かった。
「うーん…この年でボケたのかな?まだ恋人も出来た事ないのにー!」
「…ううん、きっと大人になってきたからだよ」
「そういうものなの?あっ!大人で思い出した!私ね、またおっぱい大きくなったんだー!」
さっきまでの難しい表情から一転、普段の裏表のないまっすぐな笑顔を浮かべ、気分が高揚しているせいか、弾んだ声で少女は話し始めた。
「へぇー…この前もそう言っていたよね?あれからまた大きくなったんだ。やっぱり成長期なのかな?」
「そうかも!えへへー、この調子で育っておくれよー?」
言いつつ、少女は良いことをした子供にするのと同じように、自分の胸をよしよしと撫でた。
こいしはそんな少女を微笑ましいと思った。
「…うれしそうだね」
「そりゃあもう!…あっ!」
再びこいしに向き直った少女は再び喜び勇んで話し始めようとしたが、わずかに視線が動いたかと思うと、小さく声を上げて口を紡いでしまった。
その意味深な沈黙にこいしが首をかしげると、少女は慌てた様子で手をばたばたと降り始めた。
「べ、別に大きいから良いってわけじゃないんだよ?小さいのだって需要はあると思うし!そもそもこいしちゃんはすっごく可愛いし、すっごく魅力的だし!それに…」
「どうしたの急に?」
「えっ?う、ううん!何でもないっ!」
少女の不可解な行動は、こいしには理解できなかった。
少女はというと、ばつの悪そうな表情で、ちらちらとこいしの胸のあたりを盗み見ていた。
自分の行動を恥ずかしく思ったのか、こいしから自分の顔を隠すように、まだ少しだけ大きめの帽子を深くかぶり直した。
「ふふっ、変なの。そういうトコロは昔から変わってないよね」
「こ、こいしちゃんに変って言われた!?」
「そこ驚くところなの?」
やや大げさに ―半分冗談で― 驚く少女に対して、こいしは意外そうに頭を傾げた。
「当たり前じゃん!覚えてないの?こいしちゃん初めて会ったとき、自分は妖怪だって言ったんだよ?
いくら小さかったとはいえ、そんな自己紹介する子に変って言われたら…ねぇ?」
訴えかけるような目で ―もちろん大げさに― 見つめる少女に、こいしは少しだけ驚いた様子で答えた。
「だから私は妖怪だってば。信じてなかったの?」
「未だにそんなことおっしゃいますかアナタはっ!?」
今度こそ少女は、本心から大いに驚いた。
少々ずれているこいしの言葉に、少女が驚かされるのはいつも通りの二人の姿だった。
しかし、緩みかけていたこいしの第三の瞼が、再び固く閉ざされようとしていたことに、やはり本人ですら気付くことはなかった。
それからというもの、少女は時折こいしと話をしていても、突然ぼうっとしたり、二人で遊びに出掛けても、それを忘れて一人で帰ったりすることが頻繁に起こった。
その度に少女は罪悪感からか、ひたすらこいしに謝るのだった。
少女の謝罪に対して、こいしの取る行動は毎回決まっていた。
「気にしないで。忘れちゃったのは仕方がないんだから」
気にした風をおくびも出さず、いつもの屈託のない笑顔で少女を許すのだった。
仕方がなかったのだから…。
そして冬の始まりの日…
「さてと、今日も出かけますか!」
風呂から上がり、自慢の髪の手入れを済ませた少女は身支度を整えていた。
アウトドア派な彼女は、一日外に出ない日は無かった。
「帽子帽子…って、今日の服にこの帽子はアンバランスすぎるかな?」
帽子に手をかけようとした手を止めて彼女は自分の姿を見る。
「…前々から思っていたけど、この帽子…」
帽子をまじまじと見つつ、
「いつ買ったんだっけ?」
まるで見当が付かないといった様子で、はっきりと口にした。
「私の持っている服と比べると明らかに浮いているから合わせづらいのに。
そもそも、何時からあったのかも思い出せないし…。
だた、昔から外出する時はいつも被ってて、半ば習慣みたいになっていたけれど、別に無理してかぶる必要もないか。
うん、やっぱり帽子はいらないや。じゃ、いってきまーす」
自問自答していた少女は結論が出たのか、手にした帽子を棚の上に置いて、昼時を少し過ぎた里の商店街へと出かけて行った。
少女が部屋に置き去りにした帽子は、少女が出て行ってすぐに、まるで魔法が解けたかのように力を無くし、
部屋に吹きこんできた風によって、棚の上から部屋の隅っこへと、静かに落ちていった。
この日少女は、こいしと会うことは無かった。
次の日もその次の日も、一月経っても、少女がこいしと会う事は無く、意識すらしなかった。
少女の生活の中から、こいしという女の子が、すっぽりと抜け落ちてしまっていた。
それはまるで少女の記憶から、とても大事だった、帽子の彼女がいなくなってしまったかのようだった。
長く続くと思われた友情も、自然消滅というにはあまりにもあっけなく、余韻すら残らないほどに終わりを告げた。
幾つもの季節が移り変わり、あらゆる異変が幻想郷に起ころうとも、少女はこいしのことを思い出すことはなかった。
もしかしたら、もう一度こいしに会えれば思い出せたかもしれない。
でも、それすら叶わなかった。抜け落ちた大事なパズルのピースを拾う機会すら訪れることはない。
無機質に過ぎ去った時間が、少女を大人に変えた。
少女もそれに逆らうことなく、毎日ごく普通の生活を続け、ごく普通の恋をした。
その恋が実を結び、少女は結婚を間近に控え、嫁入り準備に明け暮れる毎日を過ごしていた。
「あぁ…全然片付かない…こんなにいっぱいあるなんて…」
この日、少女は朝から新居へと持っていく荷物の整理を行っていた。
少女が今までの人生で溜めこんだ思い出の品々は、一朝一夕では片付かないほどに膨れあがっていた。
それらで埋め尽くされた部屋の中は、もうじき陽が沈む時間になってもなお、人の手の行き届かない秘境を思わせるほどに荒れ放題だった。
「結婚は人生の墓場、なんて言うけれど、早くも実感…ってそれは違うか」
自分の部屋の惨状に愚痴をこぼしながらも、その顔には一切の憂いも無かった。
むしろこの状況を楽しんでいる節すら見える。
それもその筈で、長らく仕舞ったままだった品々は、楽しかった少女の今までの人生を表すものばかりだった。
手に取るだけで、思い出が溢れかえることが、楽しくて仕方が無いようだった。
最も、それが原因で一向に片付けが進まないのも事実で、この秘境が開拓されるのは当分先になりそうだった。
そんな状況を知ってか知らずか、少女はまた別の品を手に取り、郷愁に浸る作業を延々と続けていた。
「あ…」
声とともに少女が手に取ったのは帽子だった。
つばが広く、リボンで装飾された帽子で、埃を被っていたためか若干白くなっていたものの、払ってみるとそれは烏の羽のような黒い帽子だった。
仕舞われ方が悪かったのか、特徴だった、昔はぴんと立っていたであろうとんがり頭は、今はよれよれになって下に垂れていた。
「なつかしいなー。絵本に出てくる魔女がかぶっているのに似ていたからすっごく気に入っていて、幼いころはいつもかぶっていたんだよねー」
感触を楽しむかのように触れていた帽子を改めてみると、幼い時の思い出の品ながらも、今の自分がかぶれるほどの大きさがあることに気付いた。
壊れないようにおそるおそる頭にのせてみると、まるでオーダーメイドの帽子のようにぴったりだった。
「わ、ぴったり!」
先ほどまで埃を被っていた昔の帽子が、今の自分にこれほど合うとは思わず、少女は驚きと喜びで声を上げた。
これをかぶっていた当時はよほど大きすぎたのだろう。
「そういえば、当時は大きすぎたんだよねー。
お母さんからも危ないからかぶるなって言われても、ずっとかぶり続けていたからよく転んで泣いちゃって…」
不思議なことに、帽子をかぶった時から今まで忘れていた記憶が湧水のように溢れてきた。そして…
「だから、いつもこいしちゃんにも迷惑かけてた…な…」
とても大事な『あの子』の名前を、永い年月を経て、ようやく口にすることができた。
「…こいしちゃん?」
思わず自分が口にした名前を、もう一度言葉にした。
その瞬間少女の顔に今までにないぐらいの驚愕の色が浮かんだ。
すこし変わっていたものの、笑顔の可愛らしい、黒い帽子をかぶった女の子。
少女の、一番の親友だった女の子。
「…そうだ、こいしちゃんだ。私、こいしちゃんにこの帽子を貰ったんだ…」
そして、今自分のかぶっている、思い出の帽子をくれた女の子だった。
途端、湧水が噴水に変わったかのように当時の記憶が溢れ出てきた。
お花の冠を作り合ったり、川で遊んだり、焼き芋をしようとして怒られたり、雪だるまの大きさを競争し合った、かけがえのない思い出。
絶対忘れることのできない『筈』だった想い出。
「私、どうして…どうして忘れていたの?」
あまりの衝撃に体が震え、もうじき冬に差し掛かる肌寒い日にもかかわらず、額にはうっすらと汗が滲んだ。
再びかぶっていた帽子を手に取り、装飾されたリボンに手を触れた。
真っ白だったそれは少しだけ汚れていて、皺も目立ったけれど、間違いなく自分がつけたリボンだった。
『あの子』の帽子と少しでも共通点が欲しくて、自分が提案したリボンの装飾。
「どうして?わからない…」
どうして忘れていたのか?それとも思いだせなかったのか?
「おかしい…なんかおかしいよ!」
声を荒らげる少女の訴えは、誰にも受け止めてもらえず、空にのまれて消えていった。延々と自分の記憶を掘り返す少女は、とある記憶の場所に行きついた。
「そうだ…あそこだ」
それは始まりの場所。そしていつもの場所。
こいしと出会い、こいしと最も長い時を過ごした、里近くの川辺。
そこに何かがある確証が、少女にあったわけでは無かった。
それでも、脳裏を出会った時の情景が掠めた時、反射的に体が動き、帽子を胸に抱えながら、もうじき陽が沈む時刻に差し掛かった紅い世界の中を駆けて行った。
少女が川辺へ着いた時、太陽は既にその顔を半分地平線へと沈めていた。
辺りは驚くほどの静寂に包まれており、野生動物や魚、日中に陽の光をたくさん浴びた草木ですら、
再び陽が昇る時までのしばしの時間を、夢の中で過ごす準備をしているかのようだった。
その中で、少女の乱れた呼吸だけがこの場の静寂を破っていた。呼吸を整えながら少女は周りを見渡した。
「そうだよ…いつも、ここでこいしちゃんと遊んでた。毎日…毎日だよ?なのに…」
その目には、今この場の情景と、過去に自分が最も幸せだった頃の情景とが重なっていたのかも知れない。
「どうして?頭からすっぽりと抜け落ちたみたいに…あんなに仲が良かったのに…あんなに…」
この場に来て、改めて思い知らされた現実。
記憶の底から蘇ってきた大事な、大事なあの子の顔が、鮮明に。
「大好きだったのに」
「それはね、大人になっちゃったからなんだよ」
その声は人間の少女のものでは無かった。
しかし、その声を決して知らない訳でも無かった。
今まで忘れてしまっていたけれど。少女は声の方に顔を向けると、まるで信じられないといった顔になった。
「こんにちは」
声の主は女の子だった。
何時の間にかこの場にいた彼女は、その顔に無邪気な笑顔を湛えていた。
沈みゆく太陽の紅い光に照らされた笑顔は、一度見たら忘れることが出来ないほどに魅力的だった。
そして、少女はその笑顔を、知っていた。
「こ…いし…ちゃん?」
セミロングの癖っ毛は薄く緑のかかった灰色で、瞳の色は濃い緑。
烏羽色の帽子をかぶり、それは黄色のリボン装飾されていた。
とても可愛らしい女の子は、少女にとって、かけがえのない親友、古明地こいしだった。
「よかった。またお話しできて嬉しいな」
「嘘…夢でも見てるの?」
純粋に再会を喜ぶかのように、笑顔で話すこいし。
しかしそれに対して、少女の表情に笑顔は無く、むしろ驚愕の色を濃くしていた。
「ううん、紛れもない、現実だよ。ほっぺたつねってあげようか?」
「だって!こいしちゃん…」
茶化すこいしの言葉を受け流す余裕が無いぐらいに、少女の頭は混乱していた。
なぜなら少女の目の前にいる親友は…。
「どうして、あの頃のままの姿なの?」
記憶の中の姿と、寸分違わなかったのだ。
初めて出会った時、二人は同じぐらいの背格好だった。
だが少女の方は立派に成長し、大人の女性へと足を踏み入れようとしていた。
一方のこいしは、まだあどけなさが残る女の子そのものだった。
それは、在り得ないことだと少女は思った。しかしこいしは、その疑問が可笑しいといった様子で、口元に手を当てて小さく笑った。
「ふふっ、変なの。初めて会ったときから何度も言っていたじゃない」
次の瞬間、こいしの纏っていた空気が一変した。
「私は妖怪だ、って」
そう口にしたこいしの顔に浮かぶ笑顔には、先ほどまでの可愛らしさは違った、ひどく妖艶で、思わず背筋が凍るような不気味さが滲んでいた。
纏っていた空気も、まるで獲物を震え上がらせるような威圧感を孕んでいた。
少女は記憶の中いるこいしとまったく異なる一面を見せ付けられ、本能からこいしが怖い存在だと思い知らされたような感覚を覚えた。
射抜くようなこいしの目を少女は直視することが出来ず、思わず後ずさりをしてしまった。
「本当…に?」
「これでやっと信じてくれた?」
再びこいしはぱっと無邪気な笑顔を向けた。
そこには先ほどまでの威圧感は無く、少女の記憶の中のこいしそのものだった。
解放された少女はほっと一息つくと、先ほどから頭に浮かんでいた疑問を投げかけた。
「…こいしちゃんのせいなの?私がこいしちゃんを忘れちゃったのは…?」
こいしが妖怪だから、その力で自分の記憶を消したのではないか、そう少女は考えた。
「半分正解で半分不正解、かな」
しかし、帰ってきた答えはひどく曖昧だった。少女はその答えに満足出来る筈も無かった。
「何それ…わかんないよ」
「初めて会った時も言ったけれど、覚えてないよね?だからもう一度説明するから、今度はちゃんと聞いてね」
不満を口にする少女に対して、たっぷりと間をおいた後、こいしはゆっくりと話し始めた。
その様は、教会で懺悔する罪人のそれに近かった…。
「私はね、サトリっていう心を読む妖怪だったの。
でも、心を読むと嫌われちゃうから、それが嫌だったから、私は自分の心を閉ざしたの
そうすることで、自分の心も、相手の心も読めなくしたの」
そう言って、こいしは固く閉じられた第三の目にそっと触れた。
紫色の球体は、よく見れば瞼と睫毛が付いていて、それが何か瞳のようなものであることが分かる。
変わり者のこいしが身につけている、変わったアクセサリーだと思っていた少女は、それが彼女が人ではないものである証拠なんだと、ここで改めて実感した。
「そうして心を閉ざしたら、別のモノが身に付いちゃったんだ」
「別の…?」
「それは無意識。
私は、無意識を操る程度の能力に目覚めたんだ。
それによって、人は私のことを意識できなくなった。
簡単に言うと、私のことを見たり、私とお話したりできなくなるの。
道を歩いていても、落ちている小石の事なんかいちいち気に掛けないでしょ?
私はそれと同じなんだ。気付いていなかったと思うけれど、一緒に遊んでいた頃から、周りの大人達には私が見えていなかったんだよ。
私の名前もこいしだし、私に名前を付けてくれた誰かは、私がこういう能力を身につけること知ってたのかもね。上手いこと考えたよね。
笑えないけど」
笑えないと口にしつつ、こいしは力なく笑った。
名付け親を罵ることも、自らの境遇を憂うことも疲れたかのように、その瞳にひどく自虐の色を込めて。
少女が初めて見る今のこいしの様子は、明るく無邪気だった昔の姿からあまりにかけ離れすぎていたため、こいしの悲愴な佇まいがひとしおだった。
「でもね、そんなちっぽけで、無視され続けた小石に、話しかけてくれる人もいたんだ」
「…え?」
「子供だよ」
「っ!」
今までこいしの途方もない話を、ただ茫然と聞いていた少女が、ようやく強い感情をみせた。
「子供は何にでも興味をもつでしょ?大人が決して気に留めない、留めようともしない虫や草…石ころにも、ね。
だから私たちは出会えたんだよ。でも、貴女は成長して、大人になっていった。
だから、どんどん私のことを意識出来なくなっていった、そして…忘れてしまった」
「そ…んな」
言われて初めて ―先ほど思いだしたばかりの―当時を思い返して、ようやく確信できた。
どうしてあの頃、こいしと遊んでいる途中で、こいしと遊んでいることを忘れてしまっていたのか。
こいしを話をしていて、ふと記憶が飛ぶ感覚に襲われたのか。
「まさか大人になった貴女とこうしてお話ができるなんて、夢にも思っていなかったよ。
これも神様のおかげかな?どの神様だろうね」
くすりと笑うこいし。
その表情には憂いの色は見えない。
だが少女はそれとは対照的だった。
「…し、知らなかった…よ。
大人に…なることって、い、良いことばかりだと思ってたのに、ま、間違ってた…。
無くしちゃう…モノがあるなんて、わ、私が一番大切にしてたモノを無くしちゃうなんて…全然知らなかった」
少女は泣いていた。
溢れる気持ちを抑えきれず、ただ感情のままに、あの頃の幼い少女だった頃のように、ただ、自分に降りかかった不幸に対して涙することしか知らないかのように。
少女にとって、信じ続けていた希望の、見えていなかった側面を、目を逸らしたかったソレを目の当たりにして、ただ、泣きじゃくることしかできなかった。
「……」
先ほどまで笑っていたこいしは、もう笑っていなかった。
再び顔を曇らせ、どのような言葉をかけていいのか分からないのか、ただ少女を見つめているだけだった。
紅い夕陽が二人を照らし、ひたすら泣き続ける少女と、それを見つめる妖怪の女の子の足元には長い影が伸び、
映し出された影絵にすら、二人の悲痛な表情が浮かんで見えるようだった。
「もう、陽が沈んじゃうね」
こいしは、自分を照らしていた夕日を眺め、そう口にした。
少女もこいしにつられるまま、夕日に目線を映した。
涙で腫らした目は、夕日の紅よりもずっと赤く、顔はぐじゃぐじゃだった。
「もう帰らないと、私みたいな怖い妖怪に襲われちゃうよ?私も帰るね。今日は、会えて嬉しかったよ」
こいしの言葉を聞いて、少女がその方向に目線を向けた時には、こいしは既に後ろを向いて、何事も無かったかのように歩きだしていた。
その背中には、今までずっとそうしてきたかのように、一切の後悔も、未練も無かった。
でも少女にとってそれはあんまりだった。だから少女は必死に叫んだ。
「ねぇ!今週末に私の結婚式があるの!
こいしちゃんの席も用意しているから!絶対に来て!
来てくれなきゃ嫌だよ!こいしちゃんに…こいしちゃんに見てもらえなきゃ嫌だからね!」
「無理だよ」
足を止めたこいしは、しかし振り返りもせず、はっきりとした声で口にした。
「どうして!」
「だって、貴女はもう大人になっちゃったから」
「っ!」
こいしが言わんとしていることが分かった少女は、声を上げることができなかった。
「貴女が家に着くまでには、ううん、ここでお別れをして、私がいなくなった途端、私のことを忘れちゃう。だから、無理なんだ」
こいしの能力、無意識を操る能力によって、こいしのことを忘れてしまう。
実際に、少女は今日までこいしのことを忘れてしまっていたのだから…今というイレギュラーは二度も続かないと、こいしは暗に伝えたのだった。
「やだ…いやだよ…!」
少女は帽子を抱きしめ、再び涙を流した。
こいしにはその様子は見えなかったものの、心なしかかたくなに後ろを拒絶していた背中が小さくなった。
「でも、ありがとう。その言葉だけでも、私は…嬉しかった」
「こいし…ちゃんっ!こいしちゃん!」
「これが本当に最後だよ。ずっと、ずーっと…幸せになってね」
「忘れないっ!」
「さようなら」
再び歩み始めたこいしは、この思い出の場から去って行った。
その背中からは、彼女の名前をただひたすらに叫ぶ声がかけられたが、こいしは決して振り返らなかった。
彼女の小さな背中は見る見る小さくなって、やがて消えた。
こいしの姿が見えなくなると同時に、全てを見ていた紅い太陽が、自らの役目を終えたかのように地平線の向こうへと沈み、辺りに夜の帳が下りた。
すると少女は叫ぶことをやめ、憑き物が取れかのように茫然とした。
辺りの気温が下がり、夜虫が鳴き始めた頃になって、ようやく少女は思い出したかのように踵を返し、ごく自然な流れで未だ整理が終わっていない自宅へと帰って行った。
一つだけ不自然があるとすれば、少女が胸に強く抱きしめていた帽子ぐらいだった。
幕が下り、役者のいなくなった舞台はただ物寂しくて、しかしそれがさも当然であるかのように、夜の川辺を演出していた。
一週間後、里で結婚式が行われた。
花嫁は里の人気者で、多くの男たちが涙した。
花婿はとても誠実で、花嫁の両親も安心した面持ちだった。
皆が酒を飲み交わし、花嫁、花婿の昔話に花が咲いた。
ここで新たな出会いがあったという話もあった。
里のほんの片隅の小さな会場で、ひっそりと、しかし盛大に挙げられた結婚式では、誰もが笑顔だった。
ただ一つ、花嫁の宝物だった帽子の置かれた、一度も使われることのなかった席に座る筈だった、花嫁の親友を除いて。
~時が流れ~
守矢神社参道にて…
「うおーい雪山は寒いぜー。温泉も湧いたんだからもう充分だったかもなー」
一人守矢神社への参道を登る魔理沙は、一人で愚痴をこぼす。
最近、地底で出会った地獄烏が、守矢の神様に核融合の力を貰ったと訊いた。
そこで自分も御利益を得ようと、この寒い中、神社に赴いてきたようだ。
「ったく、そんなの誰が付け始めたんだ?おまけがあるのが当たり前だと、そのうちラスボスは中ボスに成り下がるぜ」
通信機の働きをする人形に話しかけているものの、傍から見れば充分に怪しい人そのものだった。
「あのーすみません。ここの神社の人は…えっ?」
そんな怪しい魔法少女に声が掛った。
魔理沙が声の方に顔を向けると、そこには烏羽色の帽子を被った少女がいた。
ただ、その少女は魔理沙を見て、驚いた表情のまま、石になったかのように固まっていた。
「神社の人間ならさっきあっちで倒したが…何だ口をあんぐりと開けて…腹減ってんのか?」
我に返った帽子の少女は、しかし驚きの表情のままだった。
まるで信じられないと言った様子で、魔理沙を見つめたままだった。
「そ、そうなんだ…。ねぇ、その帽子…」
少女は魔理沙の被っている帽子を指差した。
魔理沙は自分のトレードマークの、つばの大きい黒い帽子だった。
「あん?この帽子がどうした?欲しいって言ってもあげないぜ?
実家から持ち出した数少ないお気に入りなんだからな」
「お気に入り?」
「おー。私の母親が持っていたらしんだが、くれと言ったらくれたんだ。
以来私のお気に入りだ、それに目を付けるとはなかなか良いセンスしてるなー、ってなんで私こんなこと初対面の奴に話してんだ?」
頭をかしげながらも、表情はどこか得意げで、自慢の帽子をより強調するかのようにかぶり直した。
そんな魔理沙の様子をじっと見ていた少女は、魔理沙がその帽子をどれだけ大事にしているかを感じ取ったのかもしれない。
帽子の少女の顔に張り付いていた驚きの表情が、慈しみに満ちた柔らかい笑顔に変わっていた。
「そっか…そうなんだ。その帽子、気に入ってくれているんだ。貴女、名前はなんていうの?」
「私か?大魔法使いの霧雨魔理沙だ。覚えておくがいい。そういうお前は誰だ?こんな場所にある神社に参拝って怪しいぜ」
「私は、古明地こいし。おくうみたいに私のペットもパワーアップしてもらいに来たんだけど、今はそれ以上に貴女に興味があるな」
「何だと?お前さとりの妹か?そんなことより私に興味って…」
「へぇー。お姉ちゃんのことも知っているってことは、もしかして貴女が人形を使うシーフ?」
「なっ」
「ふふっ。益々興味がわいちゃった。ねぇ、私と遊ばない?素敵な帽子のシーフさん?」
こいしは満面の笑顔で言った。
思わぬ再会に、そして新たな出会いに、初めて感謝した。
彼女は人間故に、同じようにこいしのことを忘れ、こいしよりもずっと早くこの世を去るだろう。
だが、だからこそ今を輝く彼女らと、今この瞬間を精一杯に享受していく。
そんな生き方も、決して悪くないかもしれないと思えてくる。
これからもっと楽しくなりそうという期待で、永い間空っぽだったこいしの胸が満たされた時、閉ざされた第三の瞼が緩むのをこいし本人もはっきりと感じ取った。
心にグッとくるものがありますね。
とても綺麗な話でした
良いこい魔理だ。
魔理沙の帽子につながる流れもうまいですね。