※これは、アンデルセンの連作短編集「絵のない絵本」の設定をお借りした模倣作品です。
ざんざ、ざぶんという波の音は、あの頃の私にとって本当に当たり前のことでしたので、今でもふと気を抜くと耳の中に同じ音を見つけてしまったりするものです。
あの頃の私を癒してくれるものは、子守唄のような波の音と、うみねこの語りかけてくれる声以外にはなかったような気もします。昼は涼しい海底で眠り、夜は岩礁に腰掛けて月を眺めていた私にとって、彼は唯一の友人と言っても良いようなものでした。柔らかな月明かりに照らされて、彼の白い頭と青灰色の羽と、黄色いくちばしとその先にあるすてきな赤色が、なんだか昼間よりずっと鮮やかに見えました。
驚くことに、うみねこは私よりもずうっと長く生きていたようです。毎日その自慢の翼を羽ばたかせて色々なものを見て回っていたものですから、彼の流暢な語り口は私をけして飽きさせませんでした。
だから、私がこれから語る物語は、すべてあのうみねこの彼が語ってくれたものです。彼はもっとたくさんのことを私に聞かせてくれましたが、海から出た後に私がすべて文字に書き起こしたものなので、少し言い回しが間違っていたり、もう忘れてしまったお話もいくつかあったりするのですが。
できることなら、一字一句間違わずにすべてを覚えていられたら良かったのですけれど。
第一夜
「かしこいっていうのも時として哀しいもんです」とうみねこは言いました。
「化け猫の話はよくお聞きになるでしょう。あれはね、猫っていう生き物が生来かしこいからです。悪知恵が回るとも言いますがね、かしこく立ちまわって長く生きられるから、妖怪になるやつが多いんですよ。犬の妖怪なんかは、猫に比べるとちょっとばかし少ないでしょう。やつらはどうにも頭が堅いですからね、妖怪になる前に死んでしまう方が多いんです。
それはそうとして、とびきりかしこいネズミがおりました。小さな生き物っていうのはそのぶん脳みそが足りないわけで、ネズミなんかは頭がよくないやつが多いです。大体、ネズミ捕りにあっさりひっかかってそれで終わり。でもそのネズミは本当に頭が良くて、怪しげな食い物にはどんなに腹が減っていても飛びつかなかったし、出歩く時は大きな耳をぴんと立てて、いつも他の生き物の気配を窺っていました。
彼女は自分が弱い生き物であることを知っていました。爪も牙もすばしこく動く四つの足もあるけれど、本気になった猫相手にはそれがとうていかなわないこと、人間の仕掛けた鉄の罠に傷ひとつつけられないことをよく知っていました。生きることに油断をして、死んでいった仲間たちの姿なんて星の数ほど見てきました。だから彼女は慎重に、時にはこずるく立ちまわって生きることにしたのです。
彼女は長い時を生きて、やがて妖怪になりました。これは本当にすごいことです。ネズミの妖怪なんて、名の知れた一部以外には、ほとんど聞くことがないでしょう。そうでしょう。
ただの猫や人間には負けない力と、より鋭い爪と牙を彼女は得ることができました。
しかしそうなった時、彼女のそばには親も友人も、誰も残ってはいませんでした。
みんな、とっくに死んでしまっていたのです。しなびた野菜の切れ端を分けあって空腹を紛らわした仲の兄弟も、凍てつく冬の寒さを、共に身を寄せ合ってしのいだ優しい友人も居なくなっていました。猫にばりばりと頭から食われたり、人間のばらまいた毒餌を食って苦しみながら死んでいったりして、今生き残っているのは彼女ただ一匹だけでした。
彼女がもし猫で、同じようにとびきりかしこかったのなら、周りにはいくらか仲間が残っていたでしょう。同じようにかしこく、より鋭い爪と牙を持ち、人間なんかには負けない力を持った猫の仲間が。しかし彼女はネズミで、そしてひとりぼっちでした。彼女は死んでいった仲間を羨ましくさえ思いました。
ネズミとして長く生きることに執着した結果、彼女は周りのすべての仲間に置いていかれてしまったのです。
考えに考えぬいた彼女は、ひとつ結論を出しました。次に生まれる時は、猫でも人間でもなんでもいい。ネズミよりも強い動物に生まれよう。もうこんな思いをしなくていいように。
彼女はとびきりかしこいネズミだったので、どうすればそれが叶うかも知っていました。彼女は住んでいた屋根裏を出て、里を抜けて走り始めました。行きたい場所が少し遠くにあることも知っていたので、夜も眠らずに走り続けました。疲れ果て、ただのネズミだったらとっくに死んでもおかしくないくらいに憔悴しましたが、彼女は妖怪ネズミでしたから、なんとか持ちこたえることができたのです。
これが、一昨日の話です。そろそろ、参道を抜ける頃じゃないでしょうかね」
第二夜
「私は人間の童女と妖怪の、ちぐはぐな二人連れを見たことがあります」うみねこはそう切り出しました。
「妖怪の彼と、人間の彼女は、ちょっとしたいきさつで行動を共にするようになりました。まだ齢十を超えたばかりであろう少女に身寄りはなく――正しく言えば、身寄りから突き放されたのですけれど――彼女たちはふらふらと旅をしておりました。本来ならば、そんな年頃の少女が出歩いていれば不埒なことを考える連中なんて山ほど湧いてくるものですが、妖怪がしっかりと少女を守っていたために、少女自身は危ない目に合うことはほとんどありませんでした。
やがて、少女はある高名な僧侶と出会いました。彼は少々変わり者で、人食い妖怪を引き連れた少女を快く自分の元に招き、そこで暮らさせました。そして、自分の法力を少しばかり少女に授けました。身を守ってくれる者がいるとはいえ、それに甘んじてはいけないよ。何よりも自分を守ってくれる相手を、いつかは自分が守れるように。そう言って彼が授けてくれた法力を、彼女は喜んで受け入れました。僧侶の言葉に共感したのもありましたし、何よりその僧侶のことを、彼女は寺で一番尊敬していたからです。
彼女が僧侶を見るその視線には、もしかしたら尊敬以上の感情も込められていたかもしれません。まだ幼い彼女にとって、それは一時の淡い懸想だったのかもしれませんが、彼女は間違いなく幸せな日々を過ごしましたし、初老にさしかかるであろう僧侶は彼女の気持ちを受け取ることこそできませんでしたけれども、同じように彼女を大事にしていました。
けれども僧侶の法力は歳を経るごとに弱まり、ついには身体を崩して病床に伏すようになりました。たくさんの弟子たちと一緒に、少女は賢明に僧侶の看病をしましたが、僧侶は日々衰弱してゆきました。
私の法力を差し上げます、と少女は泣きながら言いました。少女は僧侶の元に来たばかりの頃よりずっと成長して、すらりとした美しい女性に差し掛かろうとする年齢になっておりました。僧侶は首を横に振り、少女に自分に顔を近づけるように言いました。言われるままに少女は僧侶に顔を寄せました。
しわだらけの僧侶の手が、少女の額に触れました。少しそこが熱くなるような感覚がして、少女は目を閉じます。そして次に目を開けた時、僧侶は既に冷たくなっておりました。力を失った手がだらんと垂れ下がり、鈍い音を立てて布団に落ちました。
少女は顔を手で覆って泣き続けました。ですから、部屋に相棒の妖怪が入ってきて驚いたように目を見開くまで、自らの変化に気づくことができませんでした。長く、癖を描く黒髪は色が代わり、まるで藤の花のように彼女の肩を伝って垂れておりました。
少女の変化はそれだけれはありませんでした。元々非力だったはずの彼女の腕には力が宿り、空をとぶこともできるようになりました。そう、少女は妖怪になったのです。
少女は悲しみと混乱でいっぱいになって、寺を飛び出しました。慌てたような相棒の妖怪に引き止められた頃には、ずいぶん遠くまで来てしまっていました。妖怪となった彼女にとって、千里の道を行くのはそう難しいことではなかったのです。
少女は元から頭がはたらく方でしたので、妖怪にそっと肩を叩かれて冷静になることができました。そうして、僧侶がどうして最後に自分を妖怪に変えたのかということと、これからどうするべきかを考えました。前者についてはいくら考えても結論が出なかったので、後者についてのみ考えることにしました。彼女はそういったものの考え方をする人でした。
そういえば、と少女は考えました。そうして、昔、自分には一人だけ身寄りがいるのだという、僧侶の言葉を思い出したのです。
その方の元に行こうと少女は決意しました。そこに行けば、僧侶が自分を妖怪にした理由も見つかるかもしれない、と考えたのです。少女は相棒の妖怪にそれを伝え、彼は頷き、少女と妖怪はまた二人の旅をすることにしました。
その後の二人の行方を、私は知りません。もう、数年も前のできごとです。私はたまに、数年経ってあの少女がどれほど美しくなったものかなんて、瑣末なことに頭を傾けたりしています。もっとも、妖怪になった彼女は、もうすんなりとは成長できない身体になってしまったのがやや残念なのですが」
第三夜
「獣の王のお話をいたしましょう」とうみねこは仰々しい口調で言いました。
「とある山に、たくさんの獣たちをまとめる王がおりました。彼女は大きく、毛並みはつやつやと光り見事としか言いようがありません。彼女はとても鋭い爪と牙も持ちあわせておりましたが、仲間にそれを向けることはなく、もっぱら山を通り抜けようとする人間のみにそれを見せつけていました。旅人と思わしき大の人間の男数人を、彼女一匹のみでしとめたこともあります。そんなこともあり、彼女は人間に恐れられていましたが、それ以上に山の獣たちに慕われていました。
彼女もまた、手下の獣たちにとてもやさしくしました。強くてやさしい彼女のことを、手下の獣たちはますます尊敬し、慕い、彼女の周りにはいつも多くの獣たちが集まりました。
しかし、本当のことを言えば、彼女はとても怒りっぽい性分でした。
狩りを命じた手下が失敗するたびに、彼女は心の中で激高して手下を口汚く罵りましたし、毎日のように小鳥のさえずりに眠りを邪魔されることも腹がたって仕方がありません。
彼女はいつだって何かに対して憤りを感じていました。彼女はそれを注意深く隠し、決して表情、声色、仕草のひとつにも現れないように気をつけていました。喉から漏れそうな唸り声を飲み込んで、にっこりを笑うすべを彼女は完璧に身に着けていましたから、彼女の心中に気づく獣は周りにまったくおりませんでした。
彼女は、王であり続けたかったのです。王であるためには、獣たちから好かれていなければなりません。もしも感情に身を任せて、手下の獣を叱れば、その獣が自分から離れていってしまうことを彼女は知っていました。彼女はとてもがまん強かったため、穏やかでやさしい自分というものを繕うのはそう難しいことではありませんでした。
そのかわり、どうしても荒れた心を何かにぶつけたい時は、自分のねぐらの裏にある岩に爪を立てることにしていました。誰も立ち入ることのないその場所で、彼女はぞんぶんに爪をふるい、その度に岩には少しずつ傷が増えてゆきました。
ある日、彼女の手下の獣の一匹が、大失態を犯しました。それが理由で何匹かの罪のない獣が死に、山は一時混乱に陥りました。
原因となった手下の獣は、たくさんの獣に取り囲まれ睨みつけられ、ぷるぷると震えておりました。しかし彼を取り囲む獣たちは、決して彼を罵倒することはなく、黙ったままでした。彼女が頭の良い獣だったように、手下たちもまた聡明でした。手下たちは、失態を犯した獣を叱り、責任を取らせるのは自分たちではないということをよく知っておりました。ここは獣の王が束ねる山だからです。
たくさんの瞳が、彼女に向けられました。手下たちは彼女に、輪の中心で震えている獣をこっぴどく非難することを求めていました。それだけ大きな失敗を彼は犯しており、彼自身もそれを自覚しておりました。
彼女は口を大きく開き、彼を叱りつけようとしました。彼女の心の中でもまた、手下の獣たちと同じように、煮えたぎるような彼への怒りが渦巻いておりました。彼女はそれをそのまま言葉にして彼へとぶつけようとしたのです。
けれども、その口からは何も出てきませんでした。すさまじい怒りを覚えているというのに、彼を責め、咎めるための言葉が、彼女にはひとつも見つけられませんでした。ようやっと、いつも我慢している鬱憤を晴らすことのできる場に立てたというのに、何かを言おうとすると頭が真っ白になってしまうのです。そうして、ようやく喉から出てきた言葉は彼を非難するためのものではなく、むしろ彼を称えるためのものでした。
彼女の口は、まるでそのものが意志を持ったかのように、彼を褒め、称え、慰めました。手下たちは最初こそ驚いたようでしたが、やがて彼女の言葉にうんうんと頷きはじめました。輪の中心の彼も、涙を流して彼女のやさしさに感謝しました。さすが我らが王、いつだって寛大でいらっしゃる! 彼らは口々にそう言い、やがて日が暮れはじめるとそれぞれのねぐらへと帰って行きました。
その場に、彼女だけが取り残されました。
彼女は自分のねぐらに帰った後、いつもの岩の前に立ちじっと岩を見つめました。
岩はどこもかしこも深く抉れ、元の形が分からないほどです。彼女の心の奥底では、失敗を犯した獣への怒りで溢れていました。仲間の獣が何匹か死んでしまったのです。いつもとは比べようがないほど彼女は怒っていました。
しかし、それを言葉にすることはどうしてもできませんでした。いつもなら勝手に浮かんでくる罵倒の言葉が、いつしか溶けるように自分の中から消えていることに気づきました。彼女は岩に爪を当て、力いっぱい前足を引いてみました。岩は嫌な音を立てただけで、元ある傷以外に、そこに新しい傷を生むことをしませんでした。
彼女は、自分の奥深くに押し留めているうちに、自分の中にあった鋭い爪が完全に失われてしまったことを知りました。彼女は力の抜けた前足をだらんとぶら下げて、いつまでもいつまでも岩の前に立ち尽くしていました。
これで獣の王の話はおしまいです。お伽話でしたら、彼女が素のままに怒り、当たり散らすことのできる誰かに巡り会うところまで話が続くのでしょうけれど。あいにく、世の中はままならないものですから」
第四夜
「昔、私は美しい顔をした姉弟に出会ったことがあるのです」うみねこはしわがれ声で語ります。
「姉はややおっとりとして、それでいて芯の強そうな、弟は実に利発そうな顔つきをしておりましたが、二人は本当によく似ておりました。彼と彼女はまだ子供で、大人たちはそんな二人をよくかわいがりました。弟の方は少しばかり、いたずらが好きなやんちゃさを備えていましたけれども、大人にしてみれば、かしこくきれいな顔をした少年がいたずらを仕掛けてくることほど微笑ましいことはありません。
二人は本当に仲睦まじく育ちました。どこへ行くのも一緒でしたし、どちらかにひとつだけ饅頭が与えられれば、二つに割って相手のところに届けるまでは、自分もけして口にしようとはしませんでした。
自分たちはいつまでも一緒にいるものだと、姉は信じて疑おうとはしなかったのです。ある日突然、弟が、自分は出家して僧になるのだと言い出すまでは。
姉は驚き、弟を引き止めました。弟は仏の道に入ると言って聞きません。仏の道を歩むだけなら家に居るままでも、と説得しても、自分は僧侶になるのだと弟はきっぱり主張しました。押し問答の末に姉は諦め、好きなようにしたらいいと弟の背中を押しました。弟は翌々日の晩には家を出て、少し遠くの寺で暮らすようになりました。
姉が弟を愛していたように、弟もまた、姉のことを愛しておりました。これは本当です。
しかしながら、弟は、姉の元を離れたかったのです。二人は驚くほどにそっくりでした。顔つきも、仕草も、口癖も。しかし時を経るごとにそのそっくりさが失われ、一人の男と女として育ってゆくことを彼は知っておりました。子供の頃はほぼ同じだった腕の力に、背丈に、声の高さに、少しずつ差がついてゆくことを彼は恐ろしく思っていたのです。いつまでも自分たちは同じ存在でいることはできないと気づいたのは弟だけでした。
彼は異なってゆく自分たちの姿をこれ以上見続けることがたまらなく悲しくて、自ら家を出て仏の道に入ったのです。そんな彼の心中を、とうとう姉が知ることはありませんでした。
一見、弟の方が現実を見て折り合いをつけているようにも思えますが、やはり彼は少し子供だったのではないかと私は思います。案外、姉が弟と同じことに気づいていたとしても、彼女はすんなりとそれを受け入れることができたような気もするのです。女は精神の成長が早いとも言いますものね」
第五夜
「昔、平安京の空を飛び回っていたことがあります」うみねこはまぶしそうに月を見上げながら言いました。
「空が一面雲に覆われていた夜でした。
そこでね、一匹の手負いの妖怪を見かけたことがあるのです。彼か彼女か分からないけれども――その胸には深々と矢が突き刺さり、おびただしい量の血が地面を汚していました。妖怪はのたうちまわりながら、その矢を抜こうとしていましたけれども、身体を完全に貫いて地面に縫いつけているその矢は並大抵のことじゃ抜けそうにありません。
奇妙なことに、その妖怪はくるくるとその姿を変えておりました。艶やかな着物をまとった遊女の姿になったかと思えば、ずんぐりとした百姓になったりもする。三毛猫になったかと思えば、なんと麒麟になってみたり。あまりにも目まぐるしく姿を変えるせいで、どれがその妖怪の本当の姿かなんて分かりゃしないんです。
見下ろすと大勢の人間たちが、その妖怪を探しているようでした。弓矢で武装して、無粋な靴音を辺りに響かせて。人間たちは大変、私の真下にいる妖怪に腹を立てている様子でしたので、見つかればただではすまないだろうということが手にとるように分かりました。八つ裂きにされてしまうやもしれません。妖怪もそれを知っているからこそ、必死にその場から逃げようともがいておりました。しかし四足の動物に化ければぬめぬめとした血で四足が滑り、かといって人間に化けると足が遅く、どうしたらいいものか途方に暮れているようにも見えました。
未だに変化を続けている妖怪の瞳に、諦めの影が浮かんだのを私は見ました。彼女はつまり、ここであがいて逃げることよりも、死ぬことを選ぼうとしたのです。矢の傷は妖怪にとって致命傷にはなり得ませんでしたが、あれだけ物々しい格好をした人間たちに見つかればその限りではありません。
その時、空を覆っていた雲が風に煽られて、ざぁっと引いてゆきました。青白いお月さまが顔を出します。妖怪はその時、黒髪の少女の格好をしていました。華奢な体躯を地面に投げ出し、ぼんやりとした瞳を地面に向けていました。彼女が視線を落としたその場所に、月明かりに照らされた私の影がちょうど映っておりました。
彼女は目を見開き、まっすぐに顔を上げて私を見ました。彼女の赤い大きな瞳と私が目を合わせた瞬間、彼女は口の端を曲げるようににんまり笑ったのです。
私がぱちくりと瞬きをした瞬間、眼下に残っていたのは彼女が倒れていた血だまりのみでした。代わりに、ひゅうっと空気を切る音を響かせて、私の真横を小さなトラツグミが飛んでゆくのをみました。自分の身体よりも重いであろう長い矢を胸に刺したまま、ぽたぽたと血を滴らせ、トラツグミはそのまま夜の闇に消えてゆきました。
私は手頃な気の枝に止まり、ふうむ、とトラツグミが消えていった方向に目を向けました。目下では血だまりを見つけた人間の一人が、慌てたように他の仲間を手招きしています。
大勢の人間がその血だまりを囲み、キョロキョロと辺りを見回しておりましたが、彼らの探している相手はもう姿を消してしまったようでした。
どこからか聞こえてくる、けけけけっと嘲るような笑い声が、物々しい平安京の夜に響いたことを私はよく覚えています」
夜明け
柔らかい光の筋が遥か遠く、水平線のふちを飾るようにしてぽつぽつと現れはじめます。私は固い岩盤を枕にして、仄かな明るさを帯びてきた空を見上げておりました。右手には白い月が、左手にはうっすらと顔を覗かせつつあるお日さまが見えます。
「今日のお話はいかがでした」とうみねこは私に聞きました。うみねこは、昔佐渡の地を束ねていたのだという妖怪狸の話をしてくれました。私は素直に「面白かったわ」と答えました。少し迷ってから、でも、と付け加えます。
うみねこは少し首を傾けて、私の言葉の続きを待っているようでした。ざんざ、ざぶんと波が音を立て、飛沫が私の膝小僧を濡らします。私の身体はいつだってずぶ濡れなのですから、そんなことはあまり気にならないのですが。
「あなたのお話の中で、幸せだったひとはどれくらいいるんだろう」私はそう言ってから続けました。「なんだか、最初から最後まで手放しに幸せでいられるひとって、思ってたよりも少ないんだなあって」。
うみねこは私の言葉の意味を考えていましたが、「そういうものですよ」としわがれ声で言いました。「それに私も、彼らの姿を最初から最後まできっちり見てきたわけではありませんから。彼らは幸せになれたのかもしれないし、なれなかったのかもしれない。お伽話でないのだから、そのどちらもありえる」。
彼はそうしてくちばしを閉じました。なんとなく黙り込んだ私たちの間に、波の音だけが響きます。ざんざ、ざぶん。
しばらくして、「いつか」と私は言いました。「あなたは私の知らない誰かに向かって、私のことも話すんでしょうね」。
うみねこは「ええ、話すでしょうね」と頷きました。私は彼の正直なところが好きでしたから、口の端でちょっと笑って、ごろりと寝返りを打ちました。夜の闇に慣れていた目に、明るくなりつつある空が少し眩しかったのです。代わりにごつごつと私の脇腹が痛めつけられたのですが。
「私もきっと、幸せにはなれないうちの一人で終わってしまうんだろうな」息を吐くように私が言うと、彼のつぶらな金色の瞳は、黙ってじっと私を見下ろしました。
彼はとても語りが上手いうみねこでしたが、無責任な慰めを与えてくれるかといえば決してそうではなかったので、私は彼の返事に何かを期待していたわけではありませんでした。ですから、彼の言葉に少しばかり驚いてしまったのです。「わかりませんよ。もしかしたらお伽話みたいに、あなたは幸せになれるのかもしれない。幸運のしるしはもうすぐそこまで近づいているかもしれない」。
私は身体を起こして、うみねこをじっと見つめました。やや強い風が吹いて、少し伸びた私の黒髪を揺らします。潮風のせいでべとつく頬にくっつくのがうっとうしくて、はやく切ってしまいたいのですが。
「私はもう行きます」うみねこは言いました。「そろそろ朝食の時間ですから。ところで、聞くところによれば、ある高名な僧侶が一人、今日あなたを退治しにやってくるそうです。漁師どもが噂をしていました」。
「ふふん」と私は言いました。それが今夜の別れの挨拶でした。うみねこは大きな翼をまっすぐ広げ、見事に空へと飛び立ちました。青いグラデエションを描く空は光に溢れ、水面はそれを反射してきらきらと光っておりました。私はその光の文様が、今日私の沈める船の破片によってぐしゃぐしゃに乱されるところを想像しました。
それから顔を上げて、うみねこの飛んでゆく姿を眺めました。彼の影が朝日に包まれて見えなくなるまで、いつまでもいつまでも、その美しい飛翔を眺めておりました。
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素敵
"獣の王"の話がやたら印象に残って離れなくなってます