色々な事が一段落して退屈を持て余し始めた頃に私をパンクバンドに誘ってきたのはミスティアだ。
パンク?なんじゃそりゃ?な私にミスティアは電池駆動のおんぼろラジカセと一緒にブルーハーツだのピストルズだのクラッシュだの頭脳警察だのINUだのハイ・スタンダードだのを入れたカセットを半ば強引に貸し付けてきて、じゃあまあ一応聴いてみようか、ってそれを家で流しながら「メシ喰うな!」とか一緒に叫んでいるとだんだんその気になってくる。
なんか歌とかどのカセット聴いても下手くそで、これだったら私でも大丈夫なんじゃないかって思えてきたってのもあるし、何よりパンクロックは私の心の中の柔らかい部分をがっと掴んで引き摺り込んでスピーカーの前に縛り付けた。
プリズムリバー三姉妹の演奏みたいな、整合性の取れた美しい音楽ではないけれど、歌や演奏の上手い下手なんかを突き抜けて胸に迫ってくるものが確かにあった。
それは何だか最近感じていた、自分の中の理想と命蓮寺での実際の修行との些細なズレだとか、そういう少し心の中のもやもやした部分の欠落を綺麗に埋めてくれるようなものでもあった。
まあ、要するに嵌っちゃったのだ。
鰻の屋台の営業が終わった頃にミスティアに会いに行って承諾の意を伝えると、じゃあとりあえずどこかで練習しようということになる。
何を?
いや、もちろん私は歌を歌えと言われたのだけれど、ミスティアは何をするんだろう、と思っていると彼女は閉店後の自分の屋台の中からギターを出してくる。
「でも、ギターってあんなじゃりじゃりした音しないんじゃないの?」
って訊く私にミスティアはアコースティックギターとエレキギターの違いを教えてくれる。
そっか、私が今まで見ていたギターはアコースティックギターだったんだ。
「だけど、これだけじゃ駄目なのよね」
きょとん、としている私にミスティアはエレキギターは大きな音を出すのにアンプという大きなスピーカーがいること、そしてそれを動かす電力がいることを説明する。
なるほど。
「というわけで、差しあたってはアコースティックでいきましょう」
といってミスティアはエレキギターを仕舞い込んでアコースティックギターを出してくる。
じゃあなぜ出した、エレキギター。
自慢したかったのか。
ミスティアは「リンダリンダ」がやりたいと言い、私は「メシ喰うな」がやりたいと言い、それで最初にやる2曲が決まった。
「ドブネズミみたいに美しくなりたい 写真には写らない美しさがあるから」
「リンダリンダ」の歌い出しだ。
ミスティアのギターのちゃーんちゃーんちゃーんちゃーんに合わせて歌おうとするのだけど、私もミスティアも相手の様子を窺いながらおっかなびっくりやるもので、道端で人と鉢合わせたときにお互い右に避けたり左に避けたりしようとしてタイミングが合わずにフェイントの掛け合いみたいになっちゃうあの感じ。
私もミスティアもおかしくて顔を見合わせてくふふと笑う。
「リンダリンダー!」
のところまで3回目でようやく辿り着いて、私ははたと気付く。
「ねえミスティア。ここから太鼓とか入るんじゃないの?」
「あ、うん。ドラムだけどね。叩ける人を探しておくわ」
「ドラムって……そんなの幻想郷にある?」
「ないけど。いざとなったら桶と鍋の蓋でもいいわよ」
……?まあ、いいならいいや。
次にINUの「メシ喰うな」を試してみる。
ミスティアは一度も弾いた事がないのに、ラジカセで三回聴いて「よし」と呟くとそれっぽく弾けてしまう。
すごい。
私も負けじと叫ぶ。
「おまえらは全く 自分という名の空間で耐えられなくなるからといって 飯ばかり喰いやがって メシ喰うな!」
"自分という名の空間"というところが良い。
何回もお互いが納得いくまで練習しているとそのうちに山の稜線からお日様が昇ってきて、今日はお開きにしようということになる。
「あはは。響子、声がらがら」
「あ"ー、うん」
これでうがいしなさい、といってミスティアは屋台からウイスキーを出してきて水で割ってくれる。
がらがらがらがら。
「ライブいつやる?」
「え?そんなすぐに?」
「こういうのはね、さっさと人前に立って恥かいた方が良いのよ。『確かに俺達の演奏は下手糞さ。酷いもんだよ。でもな、上手くなるまで待ってたらヨボヨボの爺さんになっちまうぜ』ってね」
「ふうん」
「でも問題は、誰が聴いてくれるかよね」
確かに。
こんな喧しい、ある種攻撃的な音楽は今まで幻想郷になかったし、受け入れてくれないやつらも大勢いるはずだ。
「妖精とか、最近幻想郷に来た妖怪とか、新しい物好きの妖怪とか、その辺かなあ」
「良い線いってるわね。あと、上手くしたら里の人間も来るかも」
「そう?」
「古臭い因習はたくさん残っているし、捌け口を探している若者は大勢いるはずよ」
今から自分がやろうとしていることを「捌け口」とあっさり言ってしまうのもすごい話だ。
「とりあえず、そういう部分は上手くやっておくから、響子は歌を練習しといてね」
「うん」
頷いてはみたものの、上手くやっておくって、どう上手くやるんだろう。
で、それは3日後に分かる。
「いらっしゃい」
「あ、とりあえず冷酒と鰻ね……じゃなくってさ」
「なによ」
「これ」
私が差し出したのは文々。新聞の2面にでかでかと踊っている「鳥獣伎楽 襲来」の文字。
その下には日時と場所が書いてあって、それは私がミスティアに聞いていたものと一致していた。
「ああ。悪くないでしょ?」
「これ、やっぱり私たちのことなんだ……」
「当たり前じゃない」
昨日、山彦業を開店休業して「リンダリンダ」を山で熱唱(箒ギター付き)していた私のところにふらりとやってきたミスティアは「バンド名は私が決めとくね」とだけ言って帰っていったんだけど、まさかこうなるとは。
ライブっていったって、街角でギター一本持って歌っているあの感じだろうし、ちょっとそれには大げさすぎるんじゃないの?
冷酒と鰻が出てくる。
今日はお客のつもりじゃなかったんだけど、まあいいや。
「でもさ、これ天狗の新聞でしょ?よく広告取れたね」
「あいつが溜めてたツケをチャラにして、あとライブ見に来て記事にしたら良いじゃないのって唆したらOKしてくれたわ」
それはまあ……随分明け透けなマッチポンプね。
「でも、とりあえず現時点ではこの新聞には余り広告効果は期待できないわ」
「……どういうこと?」
もう、私は正直既にやりすぎなぐらいだと思うんだけど。
「だって、妖精は新聞読まないもの」
「ああ……うん。まあ、そうか」
「でも、あとで記事になるでしょ?絶対好意的には書かれない。プライドの高い天狗のことだから、スポンサーに媚びてるだなんて思われたくないでしょうし。そこで初めて注目が集まる。人々の間で噂になる。怖い者見たさで人がやってくる」
「う、うん」
いや、それ以上やって来なくて結構です。
話が不穏になってきた。
「まあ見てなさい。夏のうちに幻想郷をパンクの渦に叩き込んでやるわ」
ちょっと待てちょっと待て。
なんか思ってたのと、スケールが2回りくらい違うんだけど。
ラジカセでピストルズを流し始めて何だか盛り上がってしまってるミスティアに何も言う事が出来ず、私はとりあえず冷めないうちに鰻を食べることにした。
「ドラマーを連れてきたわ」
「ドラマー?」
本番2日前。
私は軽い気持ちで引き受けたのを全身全霊で後悔しているところだった。
何回も言うようだが、あくまで私が想像していたのは街角でシンガーソングライターが、道往く人々に向けて歌ってるあの感じで、だというのに、なんかとんでもないことになってしまっている。
屋台をやっているコネを活かしたミスティアの宣伝は物凄い威力で、噂が噂を呼び、鳥獣伎楽は一回のライブすらもやっていないのに知名度だけが鰻登りだ。
……いや、駄洒落ではない。
「鳥獣伎楽はプリズムリバーの変名バンドだ」
「宗教音楽で、聴いたら洗脳されてしまうらしい」
「行われるのは音楽じゃなくて、宇宙人とコンタクトを取る儀式だ」
「あの広告には関係者にしか分からない秘密のメッセージが隠されている」
「実は鳥獣伎楽という集団は存在しない」
デマのうち、いくつかはミスティアが嬉々として流しているものだ。
なにやってんだか……。
みんなが名前を知っていながら、誰一人として実際に見たものはいないという。
牛の首の怪談か。
実体がないまま人々の間で膨らんでいくイメージを恐ろしく思いながら、私は2日後のことを考えると足ががくがくと震えだす。
しかしもう、何にしても練習しないと話にならないので、今日もミスティアと山の麓で待ち合わせていたところ、ミスティアは河童を連れてやってきた。
屋台によく来る客の一人だし、何より住んでいるのが同じ妖怪の山だから見覚えがある。
河城にとり。
「そうよ。やっぱりドラムがないとサウンドが締まらないわ」
「よろしくね」
白い歯を見せて右手を差し出すにとりと握手を交わす。
ミスティアはぱん、と両手を鳴らした。
「よし。じゃあ本番まで時間もないことだし、練習しましょう。まず『人にやさしく』から」
ミスティアは2曲じゃ少ないから4曲にしようと言ってきていた。
今回も1曲ずつ選ぶことにして、私はブルーハーツの「人にやさしく」を、ミスティアはピストルズの「アナーキー・イン・ザ・UK」を。
また時間がないのにわざわざ英語の曲なんか選びやがって……。
にとりは背負っていた大きな風呂敷から桶と鍋の蓋と折りたたみ椅子を取り出して並べ始めた。
ほんとにそれでやるんだ……。
鍋の蓋は真ん中をくり抜いて、金属で作ったスタンドにはめられている。
「にとり、それどこかで売ってるの?」
「まさか。昨日自分で作ったに決まってんじゃん。」
「うそお」
「嘘なもんか。もっと時間があればシンバルも一から作ってきたんだけどね。とりあえず明後日までに3人分のマイクとスタンドを作ってくるよ」
「マイク?」
「うん」
当たり前じゃんという顔をするにとり。
「マイクなしでどうやってライブするんだよ。今回はコーラスマイクはミスティアの分だけで、後はドラムの音を拾うためのが3つ、ギター用の小型マイクが1つだね。PAとステージの設営と舞台照明は仲間の河童たちに頼んであるから心配しなくて良いよ。電力もちゃんと確保してある」
心配以前に、思いつきもしなかった。
今言われたことの半分も理解できなかったし。
むちゃくちゃ詳しいなにとり。
まずPAってなんだ。
というか、さ。
私の知らないところで話が更に大きくなっているような……。
4曲を何回も通す。
初めはぎこちないけれど、回数を重ねるごとに少しずつお互いのタイミングが掴めるようになってきて、演奏も合い始める。
5回目が終わったところでミスティアが終了の合図をする。
「オッケーオッケー。ここまで出来れば充分よ」
炎天下で練習をしていたのでみんな汗だくで、だけど目に見えて練習の成果が上がった達成感でにとりもミスティアもすごく良い笑顔をしている。
多分私も。
これ、結構いけるんじゃないだろうか。
「ねえミスティア、当日ってどれくらい見に来るかな?」
私は一番気になっていたことを訊く。
まあ、多くても10人くらいだと信じたい。
「うーん、まあざっと100人くらい?」
……うそお。
当日。
この際白状するけど、私は臆病だ。
山でも、人に出くわしたらすぐに逃げてしまう。
自分がそんなに強くないって分かってる。
幻想郷には考えられないほど強い妖怪や人間が沢山いて、そいつらのちょっとした気まぐれで私なんかは叩きのめされて地面に這い蹲らせられるような弱い存在だ。
山彦はみんな、面と向かっては大声を出せない臆病者だ。
怖いから、弱いから、姿を見せずに言葉を返すのだ。
そんな私が100人の前でパンクライブである。
正直、泣きそうだ。
逃げ出したい。
……だけどそんなわけにはいかない。
私を誘ってくれたミスティアは鬼気迫る行動力でメンバーを集め、広告を打ち、妖精の集まる湖にビラを撒き、鳥獣伎楽の噂を煽りまくって客を集めた。
……正直、ほどほどにしておいて欲しかったけど。
にとりもサポートメンバーなのに数日間でドラム(というか桶)をマスターし、機材を揃え、スタッフを揃えの八面六臂の大活躍である。
それに引き換えほとんど何もやっていない私が、唯一の仕事であるステージから逃げるわけにはいかない。
リハーサルと機材チェックが終わる。
野ざらしに木の板を組んで作られたステージは異様に大きい。
というか、こんなところで誰かが演奏しているのを見た事がない。
そう言っても、ミスティアは「ロックのライブってこんなものよ」と取り合ってくれない。
ステージの背面、観客から見て私たちの後ろには、毛筆で大きく書かれた「鳥獣伎楽」の文字が。
外はまだ明るくて強い日差しが照りつけている。
4曲をサビ位まで軽く合わせて、モニター用のスピーカーからちゃんと3人の音が分かれて聞こえることを確認する。
にとりが連れてきた河童たちがステージの裏側に張ってくれた簡易テント=楽屋で私は折りたたみ椅子に座って、緊張と、それと共にせり上がってくる胃液に耐えている。
心臓がばくばくと音を立てている。
「大丈夫?顔真っ青だよ」
「怖い。吐きそう」
隣で椅子に座って気遣ってくれるミスティアに私は正直に言う。
あはは、とミスティアは笑う。
「ごめんね。思ってたよりあなたに無理させちゃってたみたい」
「ううん。そんなことない」
「ほんとに?」
「いや、全然そんなことないことはないけど、そんなことない」
もう何を言ってるのか自分で分からない感じだ。
「MCとか大丈夫?」
「MCって?」
げ、とミスティアが顔をしかめる。
「言ってなかったっけ。ロックのライブだから、曲と曲の間にボーカルがちょっと喋るの。お客の気分を盛り上げるようなことを」
「う、うん」
思いっきり初耳です。
「でも、初めてだし、そんなに無理しなくて良いから。一言二言で切り上げても良いし、言うことが思い浮かばなかったら、こっちにいつでも振ってくれて良いからね」
「わかった」
「とにかく、びくびくしないこと。気弱にならないこと。ちゃんと練習したから大丈夫。後ろに私たちがいるから大丈夫。自信を持って」
「うん」
「あと、一応これも」
そう言ってミスティアは黒いサングラスを差し出す。
「目を見られなければそんなに緊張しないでしょ?」
私はそれをかける。
ミスティアもお揃いのサングラスを取り出してかける。
彼女にしたってこんな大きなステージで人前で演奏するのは初めてなはず。
多分、ミスティアだって私と同じくらい緊張しているんだ。
顔を見合わせて思わず微笑んでしまう。
少しだけ心臓のどきどきが治まる。
他の河童たちと一緒に会場のチェックをしていたにとりがテントに帰ってくる。
「チェック終了。客入れ始めるよ」
私とミスティアは力強く頷く。
日が落ちて、楽屋の灯りの周りを虫がぶんぶんと飛ぶ。
噂だけが一人歩きしている、正体不明のバンド。
そのライブを観るためにやってきた者たちの、期待と不安と物珍しさとがない交ぜになって生まれた喧騒が、ざわめきが聞こえる。
楽屋のテントから見えるステージの背面。
この向こうに沢山の人たちがいる。
がっかりさせたくない。
出来れば楽しんで帰って欲しい。
緊張とか使命感とかなんやかんやが入り混じって、なんだか不思議な気分。
SEが流れ始める。
「月光」という静かなピアノ曲だ。
「落差があった方がいいでしょ?」とミスティアが持ってきた。
「そろそろだね」
「うん」
にとりがスティックを揃えて持って頷く。
ミスティアは深呼吸をしている。
河童の一人がやってきて親指を立てる。
「準備完了だよ。頑張って」
最初ににとりが、それからミスティアがステージの上に登っていく。
私はその背中を眺めている。
照明がくっきりとステージを暗闇の中に浮かび上がらせていて、光の筋の中にたくさんの埃が浮かんでいるのが見えたりもする。
客の歓声が聞こえる。
ふっと涼しい風が肌を撫でる。
にとりが鍋の蓋を一際大きな音で叩く。
それが合図で、私は二人の後を追ってステージに駆け上がる。
歓声。
全身の血が沸騰するような、それでいて頭の片隅が妙に冷えているような、奇妙な感覚。
にとりが作ったマイクスタンドに手を伸ばす。
客席が見える。
100人……よりずいぶん多いと思う。
奥の方は光が届かなくて見えない。
見たことのある顔も、初めて見る顔も。
妖精も妖怪も沢山いる。
私たちのライブを観にここまでやってきたのだ。
その瞬間、緊張はどこかに消えている。
私はゆっくりとマイクスタンドからマイクを外し。
口につけ、目を瞑り、空を仰いだ。
「気が狂いそう やさしい歌が好きで
ああ あなたにも聞かせたい」
間髪を入れずにとりがリズムを刻み、ミスティアがギターを弾きながらコーラスを入れる。
ブルーハーツの「人にやさしく」。
正面からも上からもライトが照らされていて眩しいけれど、目を凝らせば客の顔が見える。
初めて体験する音楽に、どう反応していいのか計りかねているような感じだ。
「僕はいつでも 歌を歌う時は
マイクロフォンの中から ガンバレって言っている
聞こえてほしい あなたにも ガンバレ!」
ほんの1分も経っていないはずなのに全身から汗が吹き出る。
ギターソロを挟んで歌が終わり、アウトロ。
ミスティアのがっ、がっ、がっ、がっ、がっ、がーに合わせて頭を振る。
にとりが締める。
やっぱり桶と鍋の蓋じゃ、ちょっと無理があったんじゃないかな。
でも、ちゃんと声は出ている。
演奏だって上手くはまっている。
大丈夫。
私はマイクを持ち直して客席に視線を戻す。
「はじめまして!鳥獣伎楽!よろしく!」
おどおどせずにちゃんと言える。
「このまま次の曲行くよ!『メシ喰うな』!」
にとりがカウントを入れる。
「俺の存在を頭から打ち消してくれ 俺の存在を頭から否定してくれ」
ブルーハーツとは打って変わってネガティブで不条理な歌詞。
がらりと場の雰囲気が変わる。
この曲はどうしてもアコースティックギターだと原曲のようにはいかないけれど、私はこれはこれで良いと思う。
「おまえらは全く 自分という名の空間で耐えられなくなるからといって 飯ばかり喰いやがって メシ喰うな!」
どうか西行寺幽々子がここに来ていませんように。
クライマックスで私は頭を何度も何度も振りながら叫ぶ。
「メシ喰うな! メシ喰うな!」
両腕をステージの上に出して観ている最前列のうちの一人にマイクを向けると「メシ喰うな!」と叫んでくれる。
顔に見覚えがある気がしてよく見てみると、稗田家の当主でびっくりする。
戸惑いや躊躇いの多かった客席の空気が少しずつ変わっているのが分かる。
手をかざしている者もいる。
ぴょんぴょんと飛び跳ねている者も。
私はそれを見て確かな手ごたえを感じる。
「メンバー紹介!サポートドラム!河城にとり!」
すぱぱぱぱん!とにとりがドラムを叩いてみせる。
「ギターでリーダー!ミスティア・ローレライ!」
ミスティアがサングラスを取って一礼する。
「えーと、それと私、ボーカルの幽谷響子!よろしく!」
誰かが指笛を吹いてくれる。
メンバー紹介をすることは覚えていたけれど、それにばかり気を取られて、その後も何か喋った方が良いとか、そういうことは頭からすっぽりと抜け落ちてしまっていた。
「『アナーキー・イン・ザ・UK』!」
ピストルズの「アナーキー・イン・ザ・UK」。
カセットで何度も聴いたジョニー・ロットンの歌い方を意識しながら、でも単なる物真似にならないように気をつけて歌う。
「俺は反キリストで無政府主義者」という歌詞は、キリスト教も行政もない幻想郷ではなんのこっちゃだけど英語だから別にいい。
気分が大事だ。
3分とちょっとの短い曲に、だけどどこまでも熱い心を込める事が出来る。
「ありがとう。次が最後の曲だよ」
えー、と声が上がって私は苦笑いする。
私もちょっと短いと思う。
体は疲れているけど、喉は痛いけど、まだまだいける。
ミスティアがあまり説明せずに私を舞台に上げた理由が今なら少し分かる。
こういうのって、実際にやってみないと何も分からないんだ。
ミスティアが自分に振れと言っていた事を思い出す。
「あ、そうだ、ミスティア、何か一言」
「え、私?」
ミスティアが大げさに驚いてみせる。
客席から笑い声が起きる。
「あ、えーとね、短い時間だったけど、今日はほんとにありがとう。次はもっとたくさん曲を用意してくるから、また来てね」
誰かが彼女の名前を叫んで、ミスティアはそっちに手を振る。
「どうもありがとう。鳥獣伎楽でした!」
拍手が起こる。
誰かがまた指笛を吹く。
ミスティアがDのコードを鳴らし始める。
私は前かがみになって、マイクに向かって言葉を吐き出す。
「ドブネズミみたいに美しくなりたい 写真には写らない美しさがあるから」
馬鹿みたいな話だけど、自分で歌っている歌詞にうるっときてしまう。
客席の光景が滲む。左腕で、目の辺りに溜まっている汗と涙がごっちゃになった液体を拭う。
写真に写らない美しさがあるならば、それは今、この瞬間かもしれないな、と私は思った。
時間にして20分ほど。
でも終わってみればもっともっと短かったような。
MCがほとんど出来てなかったり、後半は歌声が掠れていたり、と色々課題はあるけれど。
でも、とりあえず鳥獣伎楽の初ライブは、少なくとも観に来てくれた人たちに恥じることのない出来だった、と思う。
楽屋で抜け殻のようになっている私のところに射命丸文がやってくる。
「文々。新聞の者ですが。インタビューよろしいですか」
「いいよー」
記者にはなるべく横柄に対応しろ、とミスティアに言われていたのを思い出す。
「まずはライブお疲れ様でした」
「ありがと」
「メンバーはあなたとミスティアさん、そしてにとりさんですね?」
「ううん、にとりはサポートメンバー」
「なるほど。これからもライブは定期的に行うご予定ですか」
「多分ね」
「あなたたちの音楽はパンク・ロックというものだそうですが、それはどういう音楽ですか?」
「聴いてたら分かるでしょ」
一瞬、むっとした表情をしそうになったけれど、それでもすぐに烏天狗は営業スマイルを顔に張り付ける。
立派だ。
「できれば自分の言葉で説明してほしいのですが……」
もぞもぞと、ポケットからミスティアのメモを取り出す。
「『パンクとは何か』、と聞かれた場合について」
……ほんとに準備のよろしい事で。
「えーとね、抑圧された不満を爆発させる物よ。魂の叫びね」
紙に書かれていることをそのまま読み上げる私。
今度は烏天狗も胡散臭げな表情を隠しきることが出来ない。
「抑圧……ですか。それではあなたを押さえつけているものとはなんでしょう?」
それについてはメモに書いてない、残念。
なので適当に捻り出す。
「え?うーん。庭掃除とか、読経とか、つまんないよねー」
「はあ……」
烏天狗は肩透かしを食らって呆れた表情。
その呆れが何かの弾みで暴力を伴う怒りに突然変異しやしないかと、内心びくびくしている私。
とりあえず、今度山で出くわしたときに腹いせにぶちのめされたりしないことを祈るばかりだ。
「結構大きな音でしたが、近隣の住民には快く思わない者もいるかと。その辺りはどうですか?」
「うーん。別に私はいつも山彦をやってる訳だしさあ。そっちは良くて歌は駄目っておかしくない?」
私の答えに深々と溜め息をつく烏天狗。
「そうですか……。まあ、ある意味面白い記事になりそうです。どうもありがとうございました」
「また来てねー」
ぷらぷらと手を振って烏天狗を見送る。
姿が見えなくなり、ほっと胸を撫で下ろす。
あー怖かった。
物陰に隠れて見ていたミスティアがやってくる。
「ナイスよ響子。これで多分新聞にはボロカスに書かれるわ」
何一つ嬉しくない。
というか今のって私の発言ってことで載るんだよね?
ああ……、極めて遺憾。
「とにかく響子、今日はお疲れ様。すごく良かったわ」
「うん、ミスティアも」
「次は一週間後にやるから、それまでに曲目は倍に増やしましょう。MCについて事前に言わなかったのは私が悪かったわ。あと、楽器は音が高音に寄り過ぎね。バスドラを導入して、ベースを弾ける人を探しましょう。騒音への苦情にも何か手を打たないといけないわ。……でも、とりあえず」
ミスティアは私の顔の前に指を一本立てる。
「……なに?」
「打ち上げよ。今日は私のおごり」
わあい。
文々。新聞には私たちの記事が載る。
『妖怪音楽に新しい風』と題されたそれは、私とミスティアの写真と、私のインタビューと、それに対する烏天狗の意見が書かれている。
私の扱いが完全に「粋がっているだけの愚かな不良少女」で思わず苦笑いしてしまう。
でも写真は2人とも結構カッコ良く写ってて満足してるのは秘密。
にとりは鳥獣伎楽の正式メンバーになる。
彼女がアンプとエフェクターを作ってきて、エレキギターが使えるようになり。
ドラムも、桶ドラムからグレードアップして、ちゃんとしたハンドメイドのドラムセットになる。
もちろんバスドラム付きだ。
ライブを重ねるにつれて、私も少しずつ進歩していった。
MCで冗談の一つも飛ばせるようになり、ちゃんと会場全体の空気も感じ取れるようになる。
喉も強くなって、ライブの最後まで声を枯らさずに歌いきれるようになる。
それでも相変わらずライブの直前はがちがちに緊張して全身ががたがたと震える。
山の洞穴を改造して練習用のスタジオにする。
音響面は結構酷くて、すべての音が壁に反射したりくぐもったりもするのだが、何はともあれ外には音が漏れないから、誰に気兼ねすることもなく練習することが出来る。
新聞記事の効果もあってか、鳥獣伎楽の噂は(善し悪しはともかくとして)幻想郷中に広がり、5回目のライブで客は遂に300人を超える。
幻想郷の300人と言えば、これはなかなかちょっとしたものだ。
レパートリーも増えて15曲となり、1時間ほどのライブが出来るようになる。
チケットを売っているわけではなく(妖精はお金を持っていないからだ)、収入源は出口に設置した投げ銭の樽とミスティアの屋台の出張販売のみなのだが、それでもちゃんと維持費+αの金額が出てくる。
私もにとりもミスティアが多く取るべきだと言ったが、ミスティアは主張を曲げなかった。
「儲かったお金を平等に分けないから、今まで多くのバンドが喧嘩別れしてきたのよ」
そういうわけで、実費と人件費を差し引いた利益は、きっちり三等分されてそれぞれの懐に入ることになった。
あと、びっくりしたことと言えば、人里を歩いていると結構色々な人に声をかけられるようになったことだ。
すれ違いかけた15、6歳位の少年が「お」という顔をして話しかけてくる。
「ねえ、響子さんでしょ。俺、あんたの歌好きだよ」
嬉しいっちゃ嬉しいんだけど、生憎こっちは重度の人見知りである。
……妖怪なのに。
「え?あ、うん。ありがとね。あはは」
とか何とか口走って、恥ずかしいやら何やらで逃げるように走り去る。
駄目だなあ私……。
他には意外にも蕎麦屋のいかつい親父とか。
にしん蕎麦をおごってくれて、
「良いねえ。俺も若い頃はフォークとかやってたんだよ」
とか言いながら、店の奥から使い込まれてボロボロになったフォークギターを取り出してきて見せてくれたりする。
もちろん起こったのは良いことばかりじゃない。
騒音に対する苦情は根強いものがある。
週に一回程度、目を(耳を)瞑ってくれたっていいのに、と思うのだけど、世の中には自分の理解が及ばない物で人が楽しんでいる、という理由だけで怒り出す者が一定数いる。
要するに、「騒音」というのは口実にすぎなくて、私たちが楽しんでいること自体が気に入らないのである。
しかもそういう連中に限って、何もかも自分の思う通りにいかないと気が済まない性質だったりするのだ。
1回目のライブから観に来てくれていた稗田阿求が天狗の新聞に持っている連載で、鳥獣伎楽を擁護する文章を書いてくれる。
それで批判は一時収まるかに見えたが、残念ながらそんなに長くは続かなかった。
6回目のライブの計画を練ろう、という時にミスティアは山の神社の風祝を連れてくる。
「ベーシストがみつかったわ」
「東風谷早苗です。よろしくお願いします」
「よろしくねー」
ミスティアは前々からバンドにベースが欲しい欲しいと繰り返していたので私もにとりも驚きはしない。
まあ、妖怪じゃなくて人間だったのが意外と言えば意外か。
「早苗さん、ベース弾けるんだ」
「ええ。こう見えても外の世界ではビートルズのコピーバンドやってたんですよ?」
と私の知らないバンド名を挙げた。
で、ベース入りでクラッシュの「白い暴動」を合わせてみる。
「……おお」
にとりが感嘆の声を漏らす。
すごい。
リズムにうねりが生まれて躍動する。
「グルーヴ」という物を初めて実感する。
「いいわね」
ミスティアも満足げだ。
私たちのレパートリーの15曲のうち、早苗は5曲を既に覚えてきている。
「次のライブはいつなんですか?」
「えーと、10日後だったっけ?」
「うん」
「じゃあ1日1曲ですね。任せといてください」
親指を立てる早苗。
早苗をベースに起用したミスティアの狙いは単純にベースの腕だけじゃなくて、そのバックにある守矢神社の政治力も含めてであることを知って、もう私は感心するやら呆れるやら。
つくづくこの子にはかなわないというか、敵にだけはしたくないというか、もう勝手にしやがれというか、そんな感じである。
守矢神社の風祝が鳥獣伎楽に加入したらしい。
その噂が流れるやいなや、人里のご老人たちからの非難、苦情はぴたり、と止んだ。
また、供給の不安定さが兼ねてからの懸案事項だった電力面が、守矢の発電所と直接電線が繋がることで一気に解決する。
そして、八坂神奈子が早苗のバンド活動を了承したり、それに協力してくれたりするのは、もちろん親心もあるけれど、早苗に人気(すなわち信仰)が集まることで神社の力が増すというのが本当の狙いであるようだ。
出来れば知らずに過ごしたかった幻想郷のほの暗い部分が目白押しである。
とてもファンには言えないような後ろ暗い話ばかりを聞かされてグロッキーになっていた私にとって救いだったのは、とにかく早苗が本当に良い子であったことに他ならない。
ミスティアの店にはどうも顔を出し難くて、人里の居酒屋にでも行こうと思っていた私は、途中で早苗にばったり出くわして、そのまま一緒に飲みに行くことになる。
で、私はミスティアに聞いた話をほとんど喋ってしまう。
流石に神奈子の話にはなけなしの自制心が働いたけれど、それ以外は……。
これに関しては今思い返しても本当に冷や汗が出る。
今から同じバンドで頑張ろうという人に対してそんな話をするのはあまりにも不思慮で非常識で、というか絶対にやってはいけないことだし、どれだけ酔っていようと精神的に参っていようともそんなことは全然言い訳にならない。
だけど早苗はふむふむと話を聞いてくれる。
「そうですね……。響子さんの言うことも分からなくはないんですけど。でも、話を聞いている限りでは、ミスティアさんがやっていることはどれも、鳥獣伎楽が自分たちの音楽を続けられるようにすることだけが目的ですよね。お金とかじゃなくて」
「え……あ、うん」
そうかもしれない。
「ロックって、やっぱり風当たりが強いですよね。パンク・ロックはその中でも一番。外の世界では最近はそこまででもないんですけど、やっぱり幻想郷ではまだ受け入れてくれる人はごく一部です。そういう中で、鳥獣伎楽が自分たちの音楽を貫き通すには、多少は搦手を使わざるをえない部分が出てくると思います。ミスティアさんは多分その事を誰よりも分かっているから……そういうことをしているんだと思いますよ?」
私は言葉もない。
「まあ、私にお呼びがかかった理由を知って全く傷つかなかったと言えば嘘になりますけど……。でも、別に良いんです、きっかけは何であれ」
そこで早苗は笑う。
「だって、バンド、楽しいですから。久しぶりにベース弾いて、4人で合わせて、今度何百人もの前でライブやるって。今むちゃくちゃ楽しいです。初めて鳥獣伎楽のライブを観た時に、私大泣きしちゃって。何か外の世界にいた時のこととか、友達のこととか、一気に思い出して」
早苗は静かに日本酒に口をつける。
「音楽ってそういうことができるんですよね。忘れていたはずだった思い出とか風景とかその頃の匂いとか空気とか考えていたこととかを、音は甦らせることができるんです」
「……うん」
「こうやって、機会をもらえたこと自体が私は嬉しいですよ。だから、ミスティアさんが私を選んだ理由がそういうことでも別に構いません。私自身の価値は、これから私が自分の力で稼いでみせますから。……だって、実は神奈子様にしたって、私のバンド活動に賛成してくれるのは、私たちに人気が出れば神社に信仰が集まるかもしれないっていう打算があってのことなんですよ?」
悪戯っぽく早苗は笑う。
どれだけ私が非常識でも、ここで「知ってる」とは口が裂けても言えない。
「そう……なんだ」
「ええ。だから別に響子さんが気に病むことは全然ありません。難しいことは大人たちに任せて、私たちは音楽を思いっきり楽しめばいいんです」
気づけば鼻の奥がつんとして、視界が涙でぼやけている。
鼻を啜っていると早苗が背中を擦ってくれる。
バンドに彼女が入ってくれて本当に良かったと思うし、私が一方的に抱いていたミスティアに対するちょっとしたわだかまりも綺麗に消えている。
3日後には早苗は全部の曲を覚えてきていて、じゃあ日にちもあるので曲を増やそうか、ということになる。
早苗に訊いてみると、フーの「マイ・ジェネレーション」がやりたいらしい。
「ハイ・スタンダードもカバーしてるし、フーはパンクですよ!多分!」
パンクかどうかはともかくとして、歌詞をみて私は一気にこの曲を気に入る。
「たむろしてるってだけで僕たちをやりこめようとする
彼らがやってる事って本当に冷酷だ
年をとる前に死んでしまいたいよ これが僕たちの世代」
まあ英語だから観客は分からないかもしれないけれど、でもたとえ言葉なんか通じなくたってどんなことが歌いたいかぐらいは聴いてるみんなに真っ直ぐ伝えて、ともすれば心の一番柔らかい部分に突き刺してみせるのがボーカルの仕事だ。
私が初めて聴いたパンクロックがそうだったように。
ベースとドラムがとにかく印象的な曲で、鳥獣伎楽の新しいサウンドをファンに伝えるにはとても良い材料だと思う。
ドラムとベースの絡み、そしてその上を泳ぐギターを聴きながら、ボーカルの入れ方をミスティアのコーラスも含めて何回も納得いくまで研究する。
そうこうしているうち、あっと言う間にライブの日はやってくる。
西日に真っ赤に染め上げられたステージに人々が少しずつ集まってくる。
日の落ちるのが早い。
夏も少しずつ終わりに近づいている。
ミスティアが雇ったアルバイトの妖精たちが鰻とか串カツとかビールとか冷や酒とかその類のものを売っていて、さながら縁日の様相を呈している。
……目の毒だ。
ぶらぶらと楽屋の方に戻る。
本番が近づいてくるにつれて頭が冷え、その代わりに心臓の辺りが静かな熱を帯びてくる。
この感覚は初めてステージに立ったときから微塵も変わりはしない。
今から歌うたくさんの歌。
「人にやさしく」、「白い暴動」、「電撃バップ」、「銃をとれ」、「メシ喰うな」、「リンダリンダ」、「アナーキー・イン・ザ・UK」、「月の爆撃機」、そして「マイ・ジェネレーション」……。
その断片が、自然に口をついて出てくる。
楽屋ではにとりが口笛を吹きながら対面に置いたパイプ椅子をスティックで猛烈に叩いている。
「マイ・ジェネレーション」。
異常に手数が多くて難しいとこぼしていた。
私に気づくと練習を切り上げて白い歯を見せる。
「人間の癖にさあ。こんな凄まじいドラム叩いてるから早死にしちゃうんだよ、キースは」
「長生きできそう?」
「もちろん。私は妖怪だよ」
と言っていししと笑う。
「ミスティアは?」
「早苗を引きずって御神酒を仕込みに」
「あはは、そっか」
私もにとりもライブ前は飲まない。
にとりはリズムが乱れるから、と言う。
私も喉が荒れるし、何より酔った勢いでMCで妙なことを口走りでもしたら大変だ。
一方ミスティアはよく飲む。
「いやしくもパンクロッカーの端くれが、一杯のアルコールもなしにステージに立てるわけがないでしょう?」
意味が不明だ。
早苗は……外の世界では飲んでなかった、はずだ。
多分。
今までは私たち二人が付き合わないのでミスティアは独りでつまらなそうに飲んでいたが、早苗がこれから付き合ってやってくれるならとても良いことだと思う。
そうこうしているうちにミスティアと早苗が戻ってくる。
……一升瓶抱えて。
「ほどほどにしてよね」
「分かってるって」
「大丈夫ですよ響子さん。私がついてますから」
いや、あんたも結構蟒蛇だから怖い。
日がとっぷりと暮れて、河童たちが照明の最終確認をしている。
いよいよ本番だ。
がやがやとしていた客席は、宴の始まりの気配を嗅ぎとって、少しずつそのざわめきの質を変えていく。
期待と興奮と少しの不安とがくんずほずれず絡みあった感情がうねりとなって風に運ばれて、ここまで届いてくる。
私たちが受けている批判について少し考える。
と言っても、もう私はそんなに悩んではいない。
どんな行為でも、人でも、作品でも、何でも良いけど、その規模が大きくなるにつれて応援の声も非難の声も大きくなっていく。
誰もが好きになれるものなんて存在しない。
誰にも嫌われたくなければ一人で山にでも籠るしかないし、私たちの音楽は永遠に妖怪の山の洞穴の中でしか響かないのだ。
こういう考え方は少し自分に都合が良すぎるだろうか?
でも、私たちを応援してくれる人たちを大事にしながら、独りよがりにならず、開き直ったりせず、少しずつでも広い世界へと漕ぎだそうとすることを忘れなければ、物事はそんなに悪い方向には進まないんじゃないかと思う。
意識を再び今から始まるライブに振り向ける。
心臓がいよいよどくんどくんと音を立てて鳴り、私の脳に手に足にと血液を勢い良く送りだす。
少し気を抜けば口から胃が飛んでいきそうな、そんな感じ。
手が微かに震えている。
だけどやっぱり頭だけは奇妙に冷えていて、MCで何を喋ろうかだとかどんな風に動こうかだとかをシミュレートし始めている。
そう、今日はまず鳥獣伎楽の新しい仲間を紹介しよう。
照明が一瞬消え、SEの「月光」が流れ始めると、観客から歓声が上がり始める。
私やミスティアやにとりの名前を呼ぶ声も聞こえる。
どれくらいお客が入っているだろうか。
前回よりも多いと嬉しい。
ミスティアにもらったいつものサングラスをかける。
何かの儀式のように。
これをかけているときだけは、私はいつもの臆病な山彦妖怪とは少し違ったもう一人の私になれる。
3人の姿がモノクロになる。
私を見て、ミスティアも同じ物をかける。
にとりは右手でスティックを持ち、左手を胸に当てて深呼吸をしている。
早苗は余裕のある表情を作っているけれど、足元を見ると小刻みに震えていることに気づく。
「……いよいよですね」
「うん」
ミスティアはじっとステージの方を見つめている。
「準備完了。頑張ってね」
河童のスタッフが声をかけてくれる。
誰かが大きく一つ息をつく。
にとりが、それから早苗がステージに上がっていく。
照明がそれを目映く照らす。
歓声が聞こえる。
その後を追おうとするミスティアに私は声をかける。
「?」
首だけで振り返ったミスティアの輪郭の後ろから光がこぼれる。
「ありがとう」
彼女の耳元に口を近づけ、一言だけを口にする。
ミスティアの後ろから沸き上がっている大きな歓声は、だけどそれを掻き消さずに。
言葉はちゃんと彼女に届く。
恐らくその裏にある色々な感情も。
1秒、2秒と止まったミスティアの表情は逆光とサングラスで窺えず。
次の瞬間、返事をする代わりに素早くミスティアは私の頬にキスをした。
そして私を顧みずに、彼女の姿は光の向こうへと消えていく。
他のメンバー全員が行ってしまって、私独りだけがここに残されるこの数秒間が私は好きだ。
心臓の高鳴りは極限まで達して。
期待、興奮、不安。
そんな言葉では言い表す事が出来ないほど激しい衝動。
私は上手く歌えるだろうか。
盛り上げられるだろうか。
観ている人たちに何かを伝えられるだろうか。
静かな、でも熱い使命感に体が燃える。
他の何にも代えがたい、胸を突き上げてくる感情。
この感情を味わえる限り、私はこれから先も何度も何度でもステージに立つだろう。
最後に一度だけ大きく息を吸い込む。
そして。
みんなが待っている、光輝くステージに向けて、私は駆けだした。
.
なにもかもが。
なんだか物悲しいチャカポコチャカポコが聞こえてきたんですが