無名の丘に付喪神専用の薬局オープン――毒と薬は表裏一体。古道具を癒す万能薬とは? (花果子念報 第百二十五季 如月の二十六)
近年、妖怪による日本の伝統技術の復古が盛んに行われていることをご存知だろうか?
中でも新進気鋭の担い手として注目を浴び始めているのは、無名の丘の鈴蘭畑に居を構えるメディスン=メランコリー氏(人形)である。
彼女は自身の毒を操る能力を応用して、皮膚をかぶれさせる漆を自在に扱うことで、漆器の作成から修繕までを手がけている。
「最初は無縁塚とかで拾ってきたボロボロの革トランクケースを修復するために始めたんだけどね。
仕上がった物を見ていると、だんだん漆の色や輝きがいいものだなって思えてきて。
今じゃ自分でジャパン――漆器のことなんだけど、その製作もやっているのよ。
もっとも、家具や食器そのものを用意するのは永遠亭の仕事で、私はそれに漆塗りをするだけなんだけど」
また、彼女は傷ついた付喪神の修理を積極的に行っていることを記しておきたい。
紙面右手の写真は唐傘の付喪神・多々良小傘氏の下駄と番傘に漆を塗りなおしている時の様子である。
その際に漆を塗料としてだけでなく、その粘着性を利用して折れてしまった傘の骨を見事に繋ぎ直していた。
これらの処置が終わった後の小傘氏は非常に上機嫌な様子で、「まるで道具のお医者さんみたい!」とメディスン氏のことをしきりに賞賛していた。
「漆は小麦粉や砥石の粉と混ぜれば強力な接着剤にもなる、って永琳が教えてくれたの。これを使えば木製だけでなく土製の人形でも直せるのよ。
今まであんまり注目してなかったけど、こんなに応用の利く毒だと知った時は本当にびっくりしたわ。永琳には充分な褒美をとらせないとね」
と、小傘氏が去っていった後に、メディスン氏は胸を張りながら取材陣に答えてくれた。
このように、彼女は年若くともその腕は確かで、しかも奢らず真摯に道具を修復してくれる。
一方でこの活動を通じ、万人に対して物を大切に扱うことを彼女は強く訴えかけている。
「大切な物を直したい、もう一度使いたいという気持ちがあるのなら、私はいくらでも修理の相談に乗るわよ。
でも、あまりにも修理に持ってくる回数が多い場合は、ちょっとした悪戯を仕込ませてもらうけどね。
例えば食器に微量の毒を塗りこむとか、家具に手を触れたら痒くてたまらなくなるとか」
道具は使い手を裏切ることもあるという。あまりにも物を粗末に扱っていると、彼女の含めた棘以上の厄災が降りかかることもあるかもしれない。
そんな事態を引き起こさないよう、愛用している道具の状態には常日頃から配慮しておくべきだろう。 (姫海棠はたて)
「――っていう形で記事にしてみたんだけど、どぉ?」
鈴蘭畑にて、今私はついさっき刷り上ったばかりの新聞を下に傾けながら広げている。
その先では当の取材対象――メディスンが紙面に顔を近づけて食い入るように記事を見つめている。
そのまましばらく頭を揺らして全文に目を通した後、どこか安堵したかのように深く息を吐いた。
「うん。ちゃんと私の言ったことをそのまま書いてくれているみたいだし、いいと思うわ。
何よりこうして配布する前に確認させてくれるのね、貴女は」
「まーね。私にとっちゃ記事は新聞の命だから、推敲と裏取りには慎重なのよ。どこぞの捏造新聞記者とは違ってね」
好感触が得られたことに気を良くして、私は腕組みしながら二、三度うなずく。
伝説の雀酒を復活させた夜雀・ミスティア、丑の刻参りの開祖である橋姫・パルスィの記事に続き、この鈴蘭畑の漆職人・メディスンの新聞もようやく形になりそうだ。
元々この伝統復古特集を始めようと思ったのは、紅魔館の節分や藁人形への魂宿しを取材した文の新聞がきっかけだった。
ただ、あいつはあまり掘り下げようとせず新しいネタに飛びついていくので、私がこの素材をもっと引き立ててやろうと思ったのだ。
「そうなんだ。でも大変そうだね。急いで作らないと先を越されちゃうのに、あちこち飛び回ったりじっくり考え込まないといけないなんて」
「……は、はん! 私達鴉天狗は幻想郷一番の俊足の持ち主なのよ。どこに行くのも瞬き一つの間にすむんだから、裏取りの時間なんてあってないようなもんだわ。
加えて頭の回転だって速いんだから、写真に見合った記事を書くことなんて朝飯前には終わるわ」
「それ、同じ種族のみんなに言えることなんじゃないの?」
意外に鋭いところに突っ込んでくるメディスンの言葉に、私は押し黙らされてしまう。
たしかに時々、念写能力のことも含めて私は新聞書きには向いていないんじゃないかと思うことはある。
念写で出てくる写真はいつの出来事を扱ったものか分からないことが多く、しかも最新の情報ほど少ない。
まぁこれは特定のキーワードに関する過去から現在までの画像を十把ひとからげに集めてくるのだから、どうしようもないことだと諦めてはいるけど。
「あ、や、私としては貴女のやり方のほうが好きだよ。なんか、記事一つ一つを大事に扱ってくれている感じがするし。だからそんな落ち込んだ顔しないで」
悩んでいたのが顔に出てしまっていたのか、メディスンが私にとって一番効果的な言葉で慰めてくれた。
身体に優しくない人形なんて表現をくっつけたのは文だが、どうやらこの子は他人の心の痛みには注意を払えるようだ。
気を取り直して、私は別件について尋ねる。
「で、今回の新聞はそんな感じで発行するとして……取材の時に約束していた件はどーなったの?」
「ああ、新しい汁椀が欲しいって言ってたっけ」
「塗り箸もお願いね」
そう、メディスンの漆器作りを知ったのと同じ頃、私は長年愛用していた汁椀と塗り箸を失ってしまったのだ。
目を閉じれば、数々の料理を私のお腹に運んでくれた相棒達の姿を今でもはっきりと思い出せる。
例えばそう、夏に行われた常温核融合実験の取材後、核融合鍋の代わりに振舞われた神奈子さん手製の信州蕎麦――氷精も同席していて本当に良かった。
所変わって大晦日の博麗神社で見かけた、日光妖精の作っていたおでん――マイ汁椀とマイ箸を差し出したらびっくりしていた。
そして未来水妖バザーの時に麓に来ていた、土着の豊穣神特製の芋粥――粥部分は神奈子さんが作ったとか。
これら全てを平らげた時に使っていたマイ食器セットは、長年愛用してきたせいか限界を迎えてしまい、先日丁重に供養させてもらったところだ。
さらば旧き友よ。たとえこれから新しい相棒を手に入れたとしても、君達の献身を私は一生忘れない。
「ちょうど良かったわね、今日はこれから永遠亭に行くところだったのよ。だから私についてくれば、その場で漆器を作ってあげられるよ」
「マジ!? じゃあ漆器作りの取材も出来ちゃうわけ? 行く行く……っと、その前にちょっと確認させてね」
メディスンの提案を瞬時に受け入れようとしたが、私は思うところあって二つ折りにしたカメラを取り出す。
そして手早く指を動かし、自宅のカレンダーの写真を機器上半分にあるファインダーに表示させた。
本日は如月の二十六、午前の予定はメディスンに会うことで、午後の予定は――
「なし、と」
どうやら杞憂だったようだ。
文もそうだが、私達鴉天狗は記憶力に乏しいところがある。
これは由来となる動物がまさしく鳥頭であるためか、はたまた頭の切り替えが早すぎるせいか――後者であると信じたいところだけど。
「どうかしたの? 一緒に来るんだったらちょっと手伝って欲しいことがあるんだけど」
カメラを再び折りたたんでいると、メディスンが大きなトランクの蓋を折りたたみながら声をかけてきた。
閉じる前に見えた中身は衣類にタオルに毛布――日用品だろうか。
「よいしょっと。これを運ぶのを手伝って欲しいのよ。貴女、天狗でしょ? すごい力持ちだって聞いたことがあるから」
「このトランクを? いいけど、服なんか持ち込んでどうするつもりなわけ?」
「私はちょっとばかり水が苦手だから、あそこの妖怪兎達に洗濯してもらってるの。物々交換の一環だ、って永琳は言ってたわ」
「はぁーん、やっぱりあんたらって結構付き合い深いんだねー」
実のところ、私がメディスンのことを知ったのは永遠亭の調査のついでだった。
というのも最近まで、妖怪の山では永遠亭の動向に注目するように鴉天狗に指示が出されていた。きっかけは山の一部の土地が買収されたためらしい。
もっともそこには芍薬畑が出来ただけで、山へ侵入する足がかりになっているとか、そういう剣呑な雰囲気はなかったみたいだけど。
今では妖怪用の薬を安値で卸してくれるとあって、過剰なまでの警戒は解かれている。
「そうね。まぁあいつらは私の毒コレクションや鈴蘭畑の一部を欲しがる信奉者第一号ってところかな。
私はこれから付喪神中心に引き込んでいってヒャッキヤコーの主になるつもりだけど、永琳達は私のすぐ後ろに来てもらおうと思ってるわ」
「あ、懐かしいもん知ってるのね。やっぱ舶来の連中にとっちゃ日本の古典芸能とかは新鮮に映るもんなのかなー。
まぁ頑張ってね。結構スケールでかそうな話だと思うけど、達成されたら真っ先に取材に行くからさ」
私は多少の期待を込めたエールを送りつつ、メディスンのトランクを持ち上げる。
それは私が天狗でなくても片手で充分持ち運べる程度の重さしかなかった。
「……まずは力自慢の部下ができるといいね」
「うん? まぁ、そうかな」
山から監視の指示が下されるよりも前に、私は何度か永遠亭を訪れたことがある。
きっかけは文の新聞に撮影されていた、当主のか細い両腕で支えられている巨大な一枚天井。
文を何度も被弾させたというこの弾幕を私も撮影するために、一時期生傷をこしらえながらも通いつめていた。
だからここの当主とはすでに馴染みの仲となっていたりする。
「今日は取材されながら作業するのかしら、先生? だとしたら下手なところは見せられないわね」
「いや、取材を受けるのは私だけだから、輝夜はその永琳の薬箪笥の傷を直すことだけに集中してて」
今、私の目の前には件の当主・蓬莱山輝夜が、自らを覆い隠すほど大きな箪笥を持ち上げて立っている。
――月・天界の食材には身体を鍛える作用があるのよ。そのおかげで私達の身体能力は地上の人間よりも優れているの。
――その最高峰が私の同門。何しろ月で最も硬いと言われている天岩戸を、掌底一つで粉微塵にしてなお、その手に傷一つつかないのだから。
と、新難題をクリアした際に説明されたことを思い出すが、やはり何度見ても異様な光景だと思う。
文言うところの人間らしくなさを十二分に見せつけるように、小柄なお姫様は畳の上に軽々と箪笥を下ろした。
そしてすぐさま両袖を胸の前で合わせてこちらに向き、挨拶が遅れましたと丁寧に詫びを入れる。
「しばらくぶりね。姫海棠はたてさんだったかしら? 今日はお仕事でここに?
最近新聞で連載している、妖怪による伝統技術の復古の取材なのかしら?」
「あ、読んでくれてるんだ。まぁそんなところよ。にしてもさぁ、なんで当主のあんたがそんなことをしてるわけ?
なんかメディスンに師事しちゃってる上に、手をそんなにかぶれさせてるなんて」
袖で手が隠れるまでのわずかな間だったが、輝夜の手首や指先に赤くなったり水疱ができたりしている部分があったのを見逃さなかった。
おそらく漆によるかぶれが原因だろう。私が弾幕撮影に勤しんでいた頃には見かけなかったから、最近になって出来たものだと思われる。
指摘を受けた輝夜は少し顔を赤らめながら口を開こうとするが、それを断ち切るようにメディスンが割って入ってきた。
「そこらへんは私が答えるから、輝夜はさっさと作業に移ってよ」
「もうっ、人が話す機会を取らないでよ。いくら先生でもちょっと怒るわよ?」
「ふん、輝夜はまだまだ下手っぴなんだから、急がないと今日中に終わらないよ。
まして塗りながら取材に答えるなんてやってたら、またそんなふうに漆を肌につけちゃうことになるんだから。
それよりも、加工してないお椀と箸は持ってきたの?」
「ええ。こちらに」
薬箪笥の存在感に完全に目を奪われていたが、よく見ると輝夜の周りにそれ以外の奇妙な物がいくつも浮かんでいた。
それは木製の汁椀や箸を大量に詰め込んだ、石造りの鉢――『仏の御石の鉢』と輝夜は呼んでいたか。
この光景はどこかで見たことがある。たしか、命蓮寺の住職がこんなふうに鉢を飛ばしていたっけ。
「準備に随分と時間がかかっていたと思ったら、一人でこれだけ運ぼうとしてたんだ。他の連中に持たせてくればよかったのに」
「生憎と鈴仙やてゐは永琳と一緒に里へ出かけているのよ。他のイナバ達もなんだか雑用で忙しそうだったからね」
浮いている鉢の一つを引き寄せながら呟くメディスンに、輝夜は苦笑を混ぜて答えた。
それから全ての鉢を私の目が行き渡る範囲に移動させてくる。
「さぁはたてさん。先生に言われて貴女に渡す食器を持ってきましたわ。どれでもお好きな物をお選びになって」
「へー、こんなにたくさん種類があるんだ。でもま、前に使ってたのとおんなじ形のやつでいいや。
ってことで、念写開始!」
周囲の鉢のことはひとまず置いて、私はカメラに「汁椀・塗り箸・姫海棠はたて」とキーワードを打ち込み、霊力をシャッターに流し込む。
すると瞬時に数枚の写真がファインダーに表示された。その全てに先日まで愛用していたマイ食器セットの壊れる前の姿が写っている。
このようにキーワードが具体性を持っていれば、狙いの定めにくい念写であってもターゲットを絞り込むことが簡単になるのだ。
現れた写真と見比べながら、私は鉢の中から木目の露わな汁椀と箸を一つずつ選び取り、それらをメディスンに渡した。
「これでいいのね。じゃ、さっそく作業に取り掛かるよ。輝夜、漆を入れる鉢をちょうだい」
「はい、先生」
メディスンの要望を受けて、輝夜は空っぽの飛鉢や色々な鉱物を入れた飛鉢をいくつか移動させる。
そして空鉢の全ての中に、メディスンは小声で呪文を唱えることで飴色の粘液を注いでいく。
次に輝夜から刷毛を二つ受け取り、片方は鉄粉を加えて黒くした鉢に、もう片方は辰砂を加えて赤くした鉢に入れ、それぞれ中身を混ぜ合わせるために使う。
そうして出来上がった様々な色の漆を他の鉢に取り分け、全種類を自分と輝夜とで分かち合う。
準備が整うや、メディスンはまず飴色の生漆の鉢を手に取り、中身を刷毛に浸してから木椀に塗りつけ始める。
「輝夜がね、私に家具や食器の修理のやり方を教わりたいって言ってきたのは、ちょうど永琳から漆のことを色々教えてもらった直後だったかな」
「……へ、あぁ、その話? でもちょっと待って。その前に写真、いい? あ、手は止めなくていいから」
同時に私の疑問に答え始めたメディスンに一言断ってから、私は作業風景を数枚の写真に収めた。
永遠亭内はあまり明るくなかったためにフラッシュが瞬くが、メディスンはそれを気にした様子もなく刷毛を動かし続ける。
「それで輝夜は私が傷ついた漆器を修理し始めたって聞いて、すぐに駆けつけて来たわ。
その時はここにあるもの全部の修理を頼まれるんじゃないかって不安になったんだけど、そうじゃなかったみたい。
まぁ自分でやってくれるのは助かるけど、なんでお姫様のあんたがそんなことを、って私も訊いたの」
話している間に作業が終わったのか、木椀と塗箸をひとまず置く。
それから漆の粘着性を利用して布を表面に貼り付け、その上にさらに漆を重ねた。
「輝夜の答えはこうだったわ。『永遠の魔法を解いたことで物が朽ちていくのを止められなくなったとしても、せめて私の手で永らえさせたい』だって。
そのへんの心意気を買って、私はあいつを弟子にしたの」
「へぇー、ただの珍品見せたがりのコレクターってわけじゃなかったんだね」
「うん? コレクターだからこそ、物の状態には気を遣っているんじゃないかな」
「あー、まぁ、そっか」
話し続けながら今度は木椀を湿らせた和紙の上に置き、それから何故か自前のカードデッキから懐中時計の描かれた『ストップウォッチ』のカードを数枚取り出す。
そして和紙の上に手を置いてからカードに霊力を込めると、粘り気を持っていた漆が瞬時に固まっていた。
「えっと……ああ、漆は湿気のある場所に放置しないと固まらないとか言ってたっけ」
「うん。ほんとは漆器を作るのって結構時間かかるものなんだけど、今日中に作ってあげるって約束したからね」
「いやー、なんか悪いなぁ。カードだってタダじゃないし」
「別にいいわよ。貴女には早くこれも記事にしてほしいし、何より前回取材された時の新聞を早く配ってほしいし」
「あ、そーだった。ま、まぁ夕方くらいから配り始めても、今日中には間に合うから大丈夫よ」
メディスンは最後にため息を返すと、以降は黙々と作業を進めていく。
珪藻土を混ぜた生漆を塗り、周囲の時間を止めて漆を固め、砥石で表面を軽く研ぎ、生まれた砥の粉を生漆に混ぜ、それを塗り重ねては研磨し――
私もその工程を写真に収めつつ、短く質問を挟んではカメラにメモをも記録していく。
その傍ら、研ぎの作業が長引いている間には輝夜の方に視線を向ける。
「……わお、なんか新鮮ねー」
そこには自慢げな表情で珍品を見せびらかしてくる有様とは一線を隔す、髪や服までも張り詰めさせた姿があった。
箪笥の引き出しを撫でつける刷毛の運びはまだ危ういものの、そこにはいささかも手を抜こうとする意志が感じられない。
私はその集中力に水を差さぬよう、カメラに「蓬莱山輝夜・ポニーテール・たすきがけ・薬箪笥・漆塗り」と打ち込み、シャッターを押す。
「蒐集家の鑑? 永遠を築くコレクター?
……うーん、どれもいまいちしっくり来ないわねー。ま、てきとーに頭の中でアイディア出し続けとけば、そのうちいいのが浮かぶでしょ」
結果出てきた写真の中から今日の姿を捉えたものを探しながら、後で隙を見て本人にもインタビューしようと私は密かに計画した。
お昼をちょっと過ぎたあたりで、メディスンは黒漆を木椀の外面に塗り終えてしまった。
いくら漆固着のステップを時間停止によって省いているとはいえ、実にスピーディーである。
ふと、艶かしい光を返す器の表面に目を奪われているうちに、私の中で小さな欲望がきらめき出した。
「あのさぁメディスン、もし良かったらお椀の外側に蒔絵を描いてくれないかな」
「ま……なにそれ?」
おや、どうやら技術は完璧なのに、あまり広い知識は持ち合わせていないらしい。
いや多分、これまでは漆の機能性ばかりに目を向けていて、漆による装飾技法は気にしてこなかったためだろう。
「あら、それなら――」
「ちょっと待っててね。『ま、き、え』っと」
輝夜が何か言いかけたような気がするが、すでに私は念写のためにカメラ付属の小さな鍵盤に指を走らせていた。
直後、金で描かれた花などを表面に飾る漆器が大量に写し出される。
「こーいうの。でも初めて見るんだったら、どうやって描けばいいかわかんないよね。いやまぁ、私もやり方知らないけどさ」
言いながらも写真を一枚一枚拡大表示させ、作業風景を写したものがないかどうか探す。
その途中で、背後からどこか不満そうな輝夜の声が聞こえてきた。
「もう、今日はとことん話す機会が奪われているわね。そうは言っても私も蒔絵の技法とかは全然知らないから、何も教えられることがないのだけど。
でも実物なら持って来れるから、それを見て……って、あら?」
ふと、とある一枚が拡大表示されたところで輝夜がファインダーを覗き込んでくる。
そこに写っていたのは食器棚にしまわれている汁椀。それには随分と豪華な蒔絵が施されているように見える。
しかしこの写真、食器棚の方が大きく写っていて、それに比べると中の漆器――特に蒔絵の詳細は少々分かりにくい。
「あらあら、見つからないと思っていたら、こんなところに――」
「しつれいしまーす。カグヤさま、げんかんにおきゃくさまがおみえになっています」
突然、部屋の外から割り込んできた声に、輝夜の言葉はまたも遮られた。
私もつられて振り向くと、小間使いらしき妖怪兎が両膝をついてこちらを覗き込んでいる。
その姿を認めて、輝夜は少し声を固くして問いかけた。
「急患、ではないのね?」
「はい、モコウさまはいっしょではありませんでした……えっと、カギヤマヒナとなのっていましたよ」
「えっ?」
妖怪兎の口から語られた客の名前を聞いて、私は思わず声を上げる。
カギヤマヒナって、どう考えても以前取材した厄神の顔しか浮かんでこない。
などと私が記憶を探っている間に、輝夜は歩きながら髪と服を元に戻していた。
「ちょっと席を外すわ。といっても隣の部屋にいるけどね。お二人はそのままお仕事を続けてくれて構わないわ」
そして妖怪兎に客の案内を命じると、すぐに隣の部屋に行ってしまった。
「メディスン、私もちょっと行ってくる」
「えっ? どうしたの急に」
「んー、そこはかとなくネタの匂いがするのよね」
本来あの厄神は他人への迷惑を考慮してか、自分から何かに近付こうとするのを避けていたはずである。
そんな彼女が人の寄り付かない僻地とはいえ、他所様の住居に赴いてきたのには何か事情があるんじゃないだろうか。
桃の節句も近いことだし、それに絡んだネタが掴めるかも――そんなわずかな期待を胸に、私は輝夜の後を追って衾を開けた。
「あ、やっぱりあんただったのか」
「失礼します……あら?」
すると、ちょうど入室するところだった雛と鉢合わせることになった。
久しぶりにまみえたその姿は前と違って紫色の靄を一切纏っていなかったため、念写で撮影したとおりの有様だった。
その雛はこちらを見て一瞬驚くが、すぐに前歯を見せながら笑いかけてくる。
「まぁ、はたてさんじゃない。いつぞやはどうもお世話になりました。貴女が記事を書いてくれたおかげで流し雛の知名度が上がったわ」
「そうなの? そりゃよかった」
「ええ。ただそれに付随して色々と問題が出てきてしまって。それをなんとか解決するために、以前貴女に教えてもらった話を頼りに――」
「ちょっとよろしいかしら? はたてさん、そちらの方とはお知り合いなの?」
おっといけない。挨拶が長くなりすぎて焦れたのか、輝夜があからさまに険しい声音で口を挟んできた。
彼女は話好きでもあるので、あまり語る機会を奪いすぎると機嫌を損ねてしまうのだ――今日のところはかなり手遅れな気がするけど。
「ゴホン! あーうん。ちょっと前にやっぱり伝統行事の復古がらみで取材した相手よ。
たしかインスタント流し雛とか言ったかな」
「あら、それなら花果子念報で見たわね。そう、流し雛も伝統の復古という形になってしまったの。
私の覚えている時代には飾り雛の風習なんてなかったというのに」
「ねぇ、インスタント流し雛って何?」
と、今度は後ろからメディスンが話に加わろうとしてくる。
蒔絵の話が途切れたため、漆器作りも進めようがなかったのだろう。
「ああ、知らない? 弥生の三日に紙で簡単な雛人形を作って、それに厄を移してから小舟に乗せて川に流すの。
そしたら下流で雛が厄ごと回収してくれてさ。流した方は厄払いできて幸せになれるって寸法よ」
「……回収した後の紙人形はどうなるの?」
ん? なにやらメディスンの声が低くなったような気がする。
「ええとね、始めたのは百二十三季からで……去年は一昨年に作った人形をまた使おうと思って、無人の販売所を人間の里に設けたの。
でもいくら厄を完全に取り除いたと説明しても、一度川に流したものをまた渡されることに抵抗があるみたいなのよ」
「それは仕方がないことではなくて? だいたい紙で作った雛人形なんて、川にでも浸かってしまえばすぐにふやけてしまうでしょうに」
やや呆れた様子の輝夜の問いに、雛は苦笑いを浮かべながら頷く。
「ええ、だから今度の流し雛は厄を宿す以外には絶対に汚れることも破れることもないものにしたいの。
そこで貴女にお願いがあるのです。穢れなき永遠を司る月の姫、蓬莱山輝夜」
「なるほど。たしかに私の能力を使えば、その全ての問題が片付くわね」
「おおー、そりゃいい考えだわ。今度の桃の節句の時には永遠の加護を受けた流し雛のこと、ぜひとも取材したいわね」
二人のやり取りを傍で聞いていた私は腕を組んで頷く。まさか自分のもたらした情報がこんな形で活用されるとは。
事件について記した新聞がさらなる事件を誘発することもある、って文から聞いたことがあるけど、それと似たようなものだろうか。
やば、これは病みつきになりそうなほど面白いかもしれない。
いつもは後塵を拝するばかりの私が、今は伝統に新たな風が吹き込まれる瞬間を独り占めできる立ち位置にあるのだから。
「あの、どうかしら? 私の作る雛人形を貴女の永遠の――」
「ちょっと待って!」
しかし、そんな私の昂揚に冷や水を浴びせるかのように、メディスンが鋭い叫び声を轟かせた。
「新しい雛人形を作るってことは、今まで使っていた人形はどうするつもり?」
「ああ、それなら全て私の火で供養するつもりよ」
「供養……それは今まで川に流してきた全ての人形を手元に持っているってことよね?
どうなの、一つでも流しっぱなしで置き去りにされているものはないの?」
「っ……」
メディスンの容赦のない詰問を受けて、雛が言葉を詰まらせる。
たしかに以前取材した時、流し雛を回収し損ねているようなことを言っていた気がする。
「もしも川に置き去りにされた紙人形があるとしても、ひょっとしたら自我の芽生えないうちに朽ちていくかもしれないなら……そっちについては何も言わない。
でも、今度は永遠に朽ちることのない人形を作るつもりなのよね。そんな子に厄を宿したまま放置したら、どんな悲しい付喪神が生まれると思っているの!
たとえ貴女にどれだけ大切な事情があろうと、そのために人形に犠牲を強いるのは許さない」
「探すわ! 絶対に一つとして取りこぼさないように――」
「口約束だけでは不足よねぇ。何か確実な方策とかは考えていないのかしら?」
メディスンだけではない。輝夜の声も明らかに乗り気でない響きを含んでいた。
叫んだ直後の雛は口をわななかせるが、結局何も言葉は出てこないようだった。
そのまま沈黙が続いていると、やがて輝夜がため息とともに告げる。
「何もないようね。では残念だけどこの話……お断りします」
それを受けて、雛は唇を固く引き結んだ。諦めているわけではないが、かといって妙案が出ない以上は退かざるを得ないのだろう。
どうする? このままだと私も記事のネタを失うことになる。しかしせっかく芽生えかけているネタをむざむざ刈り取られてしまうのは悔しい。
文はこうも言っていた――自分の記事が引き起こした事件の責任も全て背負う覚悟が必要だ、って。
なら私もこの件と無関係ではいられない。ただ私は新聞記者であるため、主体である雛に助言を呈するだけの立場に留まらなければならないが。
いずれにせよ、メディスンや輝夜の突きつける回避できない難題に対する答えを、私か雛のどちらかが出さないと。
さあ、何がある? 今まで自分が見聞きしてきた情報の中に打開策になりそうなものは?
欠片でもいい、それを元に念写を重ねていけば、いずれはその本体にたどり着けるはずだから。
「……ああ、そういえば皆様。これをご覧になってくださる?」
と、私が決意し思考を高速で巡らそうとしたところで、輝夜が場違いに明るい声を上げた。
彼女はそれから部屋の片隅に置かれている食器棚に向かい、そこから漆器を一つ取り出す。
あれは――たしかさっき念写したものだ。まさかあの写真が永遠亭の一室を写したものだったとは。
「ほら、これが蒔絵の実物よ。それにしても、私自身これがどこに仕舞われていたか覚えてなかったのよねぇ。
まさかこんなところにあっただなんて、下手をすればずっと忘れたままだったかもしれないわね」
輝夜はそう言って漆器をメディスンの目の前に持ち運ぼうとする――途中、私に向けて須臾の間片目を瞬かせてみせた。
なんだろう、さっきのは。それにどうしてこのタイミングで蒔絵の件を蒸し返してきた? ただの珍品披露?
よく見ると、メディスンですらも困惑した表情を浮かべて漆器と輝夜とを見比べている。
いや待て。輝夜はさっき何て言っていた? 仕舞われていた場所を忘れていたのに、今は見つけている?
そのきっかけになったのは――
「――念写っ、流し雛と一緒に映る風景で、位置を念写で探せばっ!」
気付けば私は思いついた端から言葉を適当に叫んでいた。でもそれはメディスンと雛の表情を変化させるには充分だった。
だがしかし、まだ輝夜が眉の一つさえ動かしていない。
「たしかに、この漆器を私が見つけられたのは貴女の念写のおかげだったわ。
でも蒔絵という言葉によって出てきた写真の量は、先程見せてもらったとおりおびただしいものだった。
同じ問題が流し雛を探す時にも起こるんじゃないかしら?」
「ああ、さっきのは『蒔絵』一単語しか使わなかったからねー。
でも目的の物の特徴さえ分かってりゃ、それに関するキーワードを追加すればいくらかは絞り込めるのよ。探すべき場所も川に限られてるしね。
ましてこれからリニューアルされる物なんだから、今までの流し雛とは一線を隔す名前をつけてやれば確実だわ」
一度口を開いた後はすらすらと自分の考えを言葉にすることができた。
なんなら実演してみせてもいいといわんばかりにカメラを突きつけてみせる。
そんな私をしばらく見つめた後、輝夜は須臾の間満足そうな笑みを浮かべる。
しかしすぐにそれを収め、やや上目遣いになりながらメディスンに問いかけた。
「……どうかしら、先生。私が永遠の魔法を使っても怒らない?」
「……別に私はあんたを弟子にした時に能力まで禁じたわけじゃないわよ。
協力したかったんなら、あんたから教えてあげればよかったのに。さっきのはヒントのつもりだったんでしょう?」
「ええ。それはそうなのだけど、やはり一度永遠の魔法に頼らないと先生の前で宣言した以上はなかなか、ね。
それに昔から難題を出す立場だったから、ついクセで」
「面倒くさい奴ねあんたは。まぁ私はもう反対する理由はないし、好きにすれば。
一応、本当にはたての念写が有効かどうかは確かめておくけど」
それに対して、メディスンは肩をすくめながら高さの戻った声音で答える。
これは、私は難題を乗り越えることに成功したのだろうか。
だが私と雛に喜色が現れるよりも前に、輝夜が申し訳なさそうに切り出した。
「ええと、さんざん期待を持たせておいて言いにくいのだけど、永遠の魔法は個々の品々にかけるものではないの。
だから残念だけど雛人形の一つ一つを不朽の物にすることはできないわ」
「えっ!? それじゃあ――」
「大丈夫、ちゃんと代わりの方策は考えているから。要するに水を吸わず、汚れを洗い流しても破れない紙があればいいのよね?
はたてさん、『漆紙』について念写してくれないかしら」
「へ? ああ、うん」
言われるがままにキーワードを打ち込むと、ファインダーには皮革のように見える硬質な紙の束が表示された。
「え? こんな紙があるんだ。しかも意外とカラフルじゃん」
「表面が光沢を帯びていて、まるで漆器みたいね。
ああ、だからこの紙を使えば水に強い雛人形が作れるのか」
「なにこれ? 漆紙だなんて、私も知らなかったんだけど」
写真を拡大表示していると、雛やメディスンもファインダーを覗き込んでくる。
「先生が知らないのも無理はないわ。なにしろ漆紙に使われているのはカシュー樹脂といって、毒のない漆みたいなものだから。
それにちょうどいいことに、先生がいない間に塗りの練習としていくつか作っていたから、材料も充分あると思うわ。
さて、雛さんだったかしら。次の桃の節句まであと5日しかないわね。
今日からでもここに泊まり込んで、私に紙人形の作り方を教えてくれないかしら?」
「え? ああ、そうね。今から全部作り直しになるものね。
それは構わないのだけど、貴女の手を煩わせることになってもいいのかしら?」
「もちろんよ。それに永遠の魔法を頼って来たのに違うものを渡しただけで、あとは知らぬ存ぜぬというわけにはいかないでしょう?」
「……分かりました。よろしくお願いしますね」
輝夜は言うや早く、困惑する雛の手をとって部屋から出て行ってしまった。
そのあまりのはしゃぎっぷりに私は呆気にとられてしまう。
「……な、なんだか随分と積極的だったね」
「あいつはそういう奴よ。いつでも自分のやりたいことを探してて、見つけたら脇目も振らずに飛びついていく。
一時期は大人しかった頃もあったけど、昔からそんな感じだったって永琳は言ってたわね。
特に、普通の人間以外との共同作業に興味があったみたい。永琳とてゐとか、永夜の襲撃者みたいな関係を自分でも築いてみたかったんだって」
「それはまた、変わってるというか、異常な人間ならではの発想というか。
まぁでも、普通から逸脱した人間の方がネタになりそうなことをやってくれるから、そういう奴は鴉天狗的には歓迎すべきなのかなー」
雛と輝夜を奥に隠した襖を見つめながら、私は改めて輝夜について振り返る。
今回の一件で輝夜は雛という二人目の普通の人間以外と関わりを持ち、メディスンとの縁を生かして今度は自らが行事の一角を担うところまで至った。
ならば、またしばらくはこの人間らしくないお姫様を追いかけて、新聞のネタが生まれるのを待ってもいいかもしれない。
「ところで、蒔絵のことはどうするの? 輝夜は一応この漆器を置いてったけど、これだけじゃ何も分からないよね」
「あっ、忘れてた!
……はぁ、今回は諦めるわ。たとえ永遠亭の他の誰かが描き方を知っていたとしても、すぐにはできないよね。
だからまた今度作っておいてよ。その時は買いに行くから」
今回の取材は得るものばかりと思っていたが、見落としている部分もあったことをメディスンに指摘され、私は脱力して肩を落とす。
しかしまぁ一応新しい漆器は手に入るのだ。ネタもついてくるし贅沢ばかりも言っていられないか。
腰を回す。足首を捻る。髪とスカートが翻る。
その身の軌跡が、弧を描いて岸辺に寄ったかと思えば淵に渡り、そこで一回りしてまた岸に向かう。
その度に川面から流し雛が浮き上がり、紫色の靄の色濃いその身に引かれていく――
弥生の三、山の麓の樹海にて。
人間の里から続く川の上で舞い踊る雛を見つけた私は、思わず中空で足を止めた。
「妖力スポイラーの後半みたいねー。厄があんなふうに連なって吸い込まれていくのは何でだったっけ?
たしか雛の話では――」
――不幸が不幸を呼び寄せることを悪循環と呼ぶことの由来なのか、厄をもたらす不幸の幽霊はそれが旋回しているところに集まる性質があるの。
――この話を暇そうにしていた九尾の狐に伝えたら、眼の色を変えて数式を組み立てようと言っていたわ。
――電子のスピンおよび軌道運動による磁性と距離二乗の法則で近似できるとかなんとか。
結局細かいところは分からなかったが、とにかく厄を旋回させれば引き合う力が生まれ、それにつられて厄を宿した物も引き寄せられるらしい。
今日の雛は大量の流し雛を回収するためか、衣装や両腕に何条ものフリル付きリボンを飾りつけて、厄を纏わせる表面積を増やしている。
その姿を早くカメラに収めたい欲求に駆られるが、生憎今の私は里からの土産で両手が塞がっている状態である。
さっさと川岸にいる輝夜とメディスンに荷物を渡してしまおうと、私は再び空を駆けた。
「やほー、みんなそろってるわね。菱餅と白酒買ってきたよー」
「あら、お疲れ様。それって貴女の月刊『グルメかいどう』で取り上げていた、『仙人に鍛えられた団子屋』製の?」
「そそ。いやー、昔は閑古鳥が鳴くくらいだったから買いやすかったんだけどねー。
いつだったか仙人が説教垂れつつも足しげく通ってくるって聞いてからさー。いっそそれを謳い文句にしてみればってアドバイスしたら、これが大当たりで。
今じゃすっかり繁盛しちゃってさー、おかげで随分と時間がかかっちゃったわ」
「そうなの。なんだか天狗に鍛えられたと吹聴している剣豪みたいね」
おっと、なかなかに面白い喩えが輝夜から返ってきた。
ひとしきり笑い合ってから私はもう一つの荷物――『ストップウォッチ』のカードを含めた包みを開いてメディスンに渡す。
「はい、メディスンにはこっち。実はその仙人とたまたま出会ってさぁ。ちょっと低俗霊を捕まえるのをお願いしたんだよねー」
「……なんなのこれ?」
「白を緑と紫の低俗霊で挟んだ、菱餅霊よ! ご飯を食べる必要のない妖怪でも吸いやすいわよー。
大丈夫、味は私が保証するわ。さっき一個食べたからね。
あ、包みから取り出したら縮んじゃうから早く食べちゃってね。あとそのカードはおまけしてあげる」
「……ありがと」
訝しげな顔つきで菱餅霊を受け取るメディスンだったが、一口頬張ったところで眉根が緩む。
それを見届けた私は雛を被写体として新しい撮影方法を試そうと、肩に下げていたバッグから同じサイズの長方形の板を取り出した。
この板の側面とカメラとをコードで接続して両者を起動させると、板の表面にカメラのファインダー上の映像が表示される。
「よし! この液晶ディスプレイとやらを使えば念写で大きな画像を撮影出来るわ。
これなら雛人形の周りの細かい様子もばっちり写って、探しやすくなるはずよね」
「ふぅん、こんな秘密兵器があったの……あら、河童印が刻まれているわ。
しかも私の運動着についているものと同じ……製作者なのかしら?」
「きっとそうなんじゃない? そいつ、この前も耐熱・耐酸に優れるレインコートを作ったとかなんとか言ってたし。
どこで着るつもりなのかまったく想像がつかないけどさ」
意外に手広くやっているらしい知人の顔を思い浮かべつつ、私は撮影実験のためにカメラに「鍵山雛・川・舞踊・厄」あたりのキーワードを打ち込む。
そしてズーム機能を細かく調節しながら何度かシャッターを切った。
試し撮りを終え、私が菱餅を平らげるころになって、儀式を終えた雛が川から岸へ移ってきた。
ただし非常に濃密な紫の靄を纏っていたためか、私達のいる方には近付いてこない。
そしてその場に拾い上げた雛人形を置き、ペンと紙を取り出す。
「今から通し番号を確認して、ここにないものを調べるわ。ごめんなさい、かなり時間がかかると思う。
回収している間にも番号を覚えておくために数字を唱えていたのだけど……やっぱり全部覚えきるのは無理だったわ。
普段から円周率を諳んじるとかやっておけばよかったのだけど」
そんなことをしてくれていたのか。
でも数字の順番が決まっている円周率と違って、どの番号がどういう順番で来るか分からないものを覚えきるのは無理だと思うけど。
「雛さんが取りこぼしていた方の通し番号は確認し終わったわ。もっとも、おかげさまで大した数ではなかったけどね」
と、いつの間に移動していたのか、下流から輝夜がフェムトファイバーの網を持って戻ってきた。
彼女は儀式が始まる前からこれを川下に張っていて、雛が取りこぼした人形が流出していかないようにしていたのだ。
今、網の中には水をかぶった雛人形が8つ、紫の靄を宿したまま絡まっている。
その様子を見てメディスンが不安そうに呟いた。
「厄を取り除いて、汚れをちゃんと洗い流したとしても、またこの子達を手にとってもらえるのかな?」
「大丈夫よ。これを最初に人間の里に売り込んだ時、絶対に汚れることのないように永遠の魔法をかけた流し雛って言っておいたから」
「え、騙して売りつけたの!?」
「内緒よ。まぁ、きっとこれも賢者の嘘になると思うわ。それに雛さんも厄払いや洗浄に手を抜くつもりはないって言っていたし」
そんな具合に輝夜とメディスンが内緒話をしている間に、雛の方も通し番号を確認し終わったようだ。
私は輝夜から教えられた番号とそれとを照らし合わせ、ここにない人形の通し番号を割り出す。
「今回作製された891体のうち、取りこぼしは8体で……行方知れずはこれら9体か。
なーんだ、大したことない数じゃん」
「そう、よかった。ここまで順調に儀式が進んだのも皆さんのおかげだわ。
特にはたてさん、貴女には終始お世話になりっぱなしで……いつか何かの形でお礼をさせてね」
「いやいいって! あんたには分からないだろうけど、今回の件で私が得たものって実はすっごく大きかったんだから」
なにしろ、既知のネタであっても別の何かと組み合わさることによって、今までにない形に変化することもあると分かったのだ。
ならばこれまでのように、一つのネタを深く掘り下げていくやり方でも先進的な新聞を作成可能とあって、今後の展望は明るいに違いない。
そんな思いを抱きつつ、私は深々とお辞儀する雛の手を取ろうとして、しかし厄のせいで近づけないことにやきもきした。
「ちょっと、もう終わったかのような気分になるのはまだ早いんじゃない? その残り9体を探す作業が残っていることを忘れないでよね」
と、メディスンが緩んだ私達の気を引き締めなおすように釘を刺してきた。
たしかに、最後に課せられた役割をきちんと果たさねば、この新生流し雛もここで潰えてしまう。
その危機感から内心では集中力を高めながら、表面上は余裕を匂わせるつもりで軽く答える。
「まぁまぁ、雛は自分のなすべきことをしっかりやってくれたってことで、後は私に任せてよ。
そんじゃ、記念すべき最初の新生流し雛検索を始めるわ。
キーワードは『桃の節句、漆紙、小舟、川、12、5、17、85、56、178、216、551、586――』」
私はすらすらとカメラ付属の鍵盤を操作し、回収されなかった人形の通し番号を全て入力する。
そして最後にこの流し雛に新しく与えられた名前を打ち込んでから、霊力を込めてシャッターを切った。
「――『ひめがみ流し雛125』」
色褪せぬ伝統同士のコラボレーション――漆塗りの流し雛、誕生す (花果子念報 第百二十五季 弥生の四)
第百二十三季から始まったインスタント流し雛が、この度新しく生まれ変わった姿で儀式に使用された。
「川に落ちたのか、なんだかふやけたり色が落ちたりしていた」「厄はなくなったみたいだけど、どこかに汚れとか臭いが残ってそう」
などと不評であった第百二十四季の中古品の問題点を解決するため、発起人である鍵山雛氏(厄神)は永遠の魔法を組み込むことを考案した。
紙面右の写真はその永遠亭の当主である蓬莱山輝夜氏(蓬莱人)御自らが、永遠の魔法をかけた塗料を雛人形の原料に塗っている様子である。
「不老不死の薬に私の能力を宿した時のように、この漆にはホルマリンという、生き物の標本を恒久的に保存する薬が混ぜてあるの」
輝夜氏が語るように、永遠に朽ちることのない漆を纏っているので、使用した雛人形を念入りに洗浄し、天日にさらしても癖がつくことはない。
「珠はね、少しぐらい傷付いても転がしている内にまた輝きを取り戻すものなの。
むしろ使い込むたびに味わい深くなるように仕上げたつもりよ」
なお、輝夜氏は鈴蘭畑の漆職人・メディスン=メランコリー氏(人形)の一番弟子であり、その腕前は確かなものである。
この不朽の流し雛が今年度の桃の節句で使用されたことは記憶に新しい。
紙面左に念写によって厄の影響を排除した、流し雛の回収を行う雛氏を掲載する。
こうして禍々しい厄を取り払った舞姿は、妖怪に近い存在であるとはいえ、一種の神々しささえ感じられる。
「今回使用された流し雛は協力者の能力に従って、全て私が責任を持って回収したわ。
そして厄はえんがちょによって切り離し、表面の汚れを全て洗い流した状態で、次の年には『ひめがみ流し雛126』として再び皆様に配布します。
その時までどうか息災で」
なお、初回以降の利用者はその旨を永遠亭の販売員に伝えれば、雛人形を無償で借り受けることが出来る。
また厄払いの効能をより高めるために複数購入をお考えの場合も相談は受け付けているようだ(詳しい問い合わせ先は2面下部参照)。(姫海棠はたて)
メディもちゃんと生活してんだなーってのとはたての仕事っぷりが丁寧に書かれていた
惜しむらくはタイトルが普通すぎる
今までこんな感じの言葉を組み合わせたタイトルを10回は軽く見た気がするんだ……
タイトルだけでそこらの有象無象と一緒にに埋もれてしまうのは惜しい
ただ全体としては平坦な印象があって、もう一つ二つ何か華のある場面が見たかった気もします
同じジャンルから一歩抜け出すには起伏と見せ場が必要かも。