非常灯の灯りだけが燈る、薄暗い厨房だった。
少女がどこからともなく現れて、にべもない足取りで作業台の間を抜けるや大きな大きな銀色の箱の前に立つ。
冷蔵庫。
腕を伸ばし手をかける。軽く背伸びをするとかかとが浮いた。
観音開きに冷気が漏れる。ダイオードが少女を照らしだした。
「…………」
一番上の棚を見渡す。ここではない。
上から二番目を見渡す。ここにもない。
もっとも大きい真ん中の棚を調べる。ここでもなかった。
いちばん下にある隔離されたチルド庫を引いたとき、思い出したようにリニアインバータが低く唸りをあげた。少しだけ少女の指先が震える。迷った手が一転、思い切りよく肉室をかき分けて、白いタッパが姿を現した。
「…………」
薄く微笑み、一個。二個。三個……あるだけのタッパを取り出すや、少女は冷蔵庫を閉めてきびすを返した。
「…………」
どこか満足げな少女。
けどあんまりたくさん持ちすぎたせいで前が見えなくなっていた。
足元に落ちていたバナナの皮を踏んで、勢いよくすっ転ぶ。
警報が鳴った。
********************
秘封倶楽部がイタダキマスというとき-When Neo Mythist Says ESSEN WIR!-
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宇佐見 蓮子 …… 女子大生。最近二の腕がガチでヤバイ
マエリベリー・ハーン …… 〃 。脂肪は胸に行くタイプだそうです
阿澄 佳奈 …… もとは落語家の修行を積んでいたのだがふとしたことからラジオDJとしての才能を開花させた国民的癒し系ポイズン。スポンサーだろうと局の重役だろうと構わず(物理的に)ぶん投げ、歯に衣着せぬトークで人気を博す。負け組青少年の理解者であったが、最近は老いが見え隠れしてきた。愛妻家で犬好き。
********************
[二〇七〇年
八月二十四日
パセッジ・オブ・ラーメンウォー]
マエリベリー・ハーンが不審な物音に目を覚ますと、既に外は仄暗く、夜明け前の空気が満ちていた。
だが残念ながら暑苦しい。いかんともしがたく熱帯朝。本来一日でもっとも涼しいこの時間帯でさえ、メリーの身体じゅうに汗を噴出させるには十分だった。
寝ている間にブランケットはどこかへ蹴飛ばしてしまったらしい。傍らを見ると居るべきはずの相方がいない。
シャツとショーツという格好のまま、ぺたぺたと膝をついてメリーは台所の引き戸を開ける。相方がどこにいるかは解っていた。
「蓮子、なにしてんの」
「うおう。メリーおはよう」
「カニカマ?」
「うん」
「私にもちょうだい」
宇佐見 蓮子もまた、メリーと同じくラフな格好で床にぺたりと座り込んでいた。汗のにじんだシャツが肌に張り付き、豊かな筋肉を浮き上がらせている。その様は冷蔵庫のホワイトLEDに照らされよく見えた。彼女が食んでいる、カニカマも含めて。
「ところでいま何時よ」
「解んない。ゆでたまごも食べる?」
二人して床に座り込んでムシャムシャとカニカマやらなにやらを食らう。冷蔵庫の扉は開けっ放しだ。電気がもったいないと頭の片隅で思いはするが、流れてくる冷気はただでさえ寝起きの思考を凍らせていた。
やがてぴぴ、と炊飯器が電子音を立てる。それで、だいたい五時なのだなと二人は察した。
「今日も暑くなりそうね」
「シャワー浴びましょ」
ようやく二人は立ち上がり、シャワールームへと姿を消す。
背後。座っていた床には、蓮子とメリーの尻の形がくっきり残っていた。
********************
炊いたご飯にゆかりを混ぜる。たまごを四つ使って厚焼きにする。油揚げとジャガイモを具に味噌汁を作り、二人は朝食に二合を平らげた。
扇風機をつけてしばらくはだらだらと過ごした。再放送されたアニメを観るメリーの横顔を、じっと蓮子が見つめる。頬を汗が伝う。セミの声が開け放った窓から濁流のように流れ込む。暑い。今日も暑い。寝転がって窓から空を見上げると、大きな入道雲が見えた。本日の気温は三十三度なり。
「あのさー。メリィーさあー」
「うん? なあに」
「ヒマなんだけど」
「そう」
「構ってよー」
「いまテレビ観てるからあとでね」
「……佐原は落ちて死ぬよそれ」
メリーが黙って蓮子をばしばしと叩いた。ため息をひとつついてテレビを消して、同じように寝転がる。
ジワジワと染み込むような熱気とセミの音が頭上を掠めていった。怠惰。無為。メリー髪を指先でもてあそんでいた蓮子が、ふとその様子から思い出して尋ねる。
「メリーさ。ラーメン食べに行こうって、言ってなかったっけ?」
「あ、そうだ。それがあったわ」
やおらメリーが弾みをつけて起き上がる。中細麺のようなブロンドの髪がふわりと翻り、そのまま蓮子に向けて倒れこんできた。
「ラーメンだよ、蓮子!」
「ぬおい。抱きつかないでよ」
胸板の上に寝転がるメリーが爛々とした目で蓮子に迫る。
「ラーメンだよ、蓮子」
「揉まないでよ」
「知ってた? 幻のラーメン屋っていうのが、最近出没しているそうなのよ」
「幻のラーメンだあ? あと痛いからやめろ乳を揉むな」
メリー言うところの"幻のラーメン屋"というのは、ここ最近人気の出始めたラーメン屋に共通する"ある現象"のことを指している。
というのはつまり、こうだ。
まず、その店の閉店間際に一人の客が入店する。客は店主にお勧めを聞き、それを一口食べるやこう言うのだ。
「このラーメンは出来損ないね、食べられないわ」
そこで店主の返す反応は様々だが、客の方は続けてこう言う。
「明日の同じ時間にまた来ますわ。本物のラーメンをごちそう致しましょう」
もちろん店主は訝しがる。しかしその客の自信満々な態度には不遜さがなく、信頼感や好奇心を持たせるもので。結局それぞれの思惑や動機から誘われた店主は翌日を待ち、そしていよいよ現れた客に付いて件の"幻のラーメン屋"に到着するのである。
そこで食ったラーメンに、店主は衝撃を受ける。
店主たちの感想は様々だ。「うちのスープと系統は同じなのに、素材同士の対立と調和が同時に増している」だとか。「うちの麺と同じ形状なのに、滑らかさが段違いだ」だとか。はたまた「ラーメン屋だと入った瞬間納得できるのにゴミゴミした感じが全くない」だとか。要するに、自分の店に足りないもの、自分の店の強みのさらに先にあるものを見せ付けられたのだという。
送られて店に帰った店主たちは翌日から研鑽に励み、そして人気店に成長した、と。そういうストーリーである。
以上が、最近流布され始めた"幻のラーメン屋"という都市伝説の概要だった。
「……この話はね。もともと、タウン情報誌『HATA’n』のラーメン屋インタビューで明らかにされたものなのよ。ここ最近人気になり始めたラーメン屋に取材をしていったところ、どの店の店主もそういう経験をしている事が解ったというワケね」
メリーが蓮子のデスクトップPCを操作して、いくつかのウェブページを開いた。PDFファイルのタウン誌だ。メリーは続ける。
「そもそも、この『HATA’n』自体、背景の掴めない、謎の多い存在なのよね。記者も編集も同じ人で、完全な個人製作。取材はすべてネットを介しているから実際に会ったという人はいない。記者だっていうのにフェイスブックもマイスペースもやってない。取材を受けた人たちはみんな、急にホームアドレスにダイレクトメッセージを受けたのがキッカケなんだって」
「送信元や、記事の発信場所は? サーバの登録情報から後追いできないの?」
蓮子がマウスを奪い、いくつかのソフトを起動する。国内のホスティング業者の本社および中継基地に作ったバックドアを任意で開放するツールも含まれていた。謎の記者、その身元を当たるのが幻のラーメン屋とやらを追いかける上では近道だろうからだ。
扇風機を片手で持ち上げ、がたがた言わせながら位置を変えたメリーが蓮子のマウスを奪い返す。片手でキーを打ちアドレスを入力。lg.jpで結ばれたサイトに接続する。
「それがね、記事は基本的に公衆のアップローダを初めとするネット上の可処分領域に置き去りにされて、リンクを掲示板に張るという形式で配信されているのよ。主な活動場所は京都市広報課の公式掲示板で、スレタイに特徴的なセンテンスが含まれているからすぐに解る。紙面でパブリックドメインを宣言しているしているから、その日のうちに有志がまとめwikiに転載、コンテンツ化される……お決まりの流れね」
「記事の内容や、取材対象とのやり取りの痕跡で記者の身元を洗えないの?」
「それはもう、藍にやらせたわ。あの娘にできなかったんだから、私たちじゃ無理よ」
ひょっこりと、画面の右端にキツネの尻尾が現れた。二人の様子をウェブカメラ越しに伺っている。蓮子が視線を送ると逃げていった。けどすぐに、こんどは左側から現れた。
彼女は名を藍という。メリーがソフトを、蓮子がハードを構築して造った式である。
苦笑いして、蓮子がひとつ汗を拭った。
メリーに向き直う。
「……そんな情報を、真に受けるワケ?」
「あら、不服かしら?」
「とんでもない! そういうのを待っていたのよ」
正体不明のソースから得られた、正体不明の存在を示唆する怪情報。
一定の事実に基づき、更なる事実を生み出そうとしている、一人歩きし始めた情報活動体、フォークロア。
同じくらい胡乱な存在である秘封倶楽部にとって、これほど滋養になる獲物はなかった。
高らかに蓮子が宣言する。
「"幻のラーメン屋"とやらを追い詰めて、私たちでその存在を食い尽くしてやりましょう」
「オーケー蓮子。秘封倶楽部、活動開始ね」
HUNTING! HUNTING! HUNTING!
三度手を打ち鳴らす作為。それは陸軍時代に身につけた、二人だけの符牒であった。
蓮子とメリーと、そして藍。秘封倶楽部の鬨が、夏の午前に響き渡る。
上下左右の住人が、一斉に壁ドンで返答した。
今日も秘封倶楽部は愛されています。
********************
『 しばらく夜道を歩いた。どちらも無言だった。今日は結局、ラーメンらしいラーメンを食えていない。
二人とも、腹を空かせていた。どこかに腰を落ち着けて休みたい。野営自体は、二人は慣れたものなのだが、するならばするで明るいうちに準備をしないければならない。こんなに暗くなってからでは寝床の確保はちょっとした試練だ。
そこに、天の配剤だろうか。
寂れたラーメンショップを見つけたのだ。
ちょうど良いとばかりに、魔理沙が走り寄って霊夢を手招きする。
だが、中で僅かに人の動く気配がした。霊夢が札を構える。魔理沙はそれを制し、大きな声で問うた。
「おおい、誰かいるのかー?」
返事がない。より、大きな声で。強勢を伴って声を張る。
「そこにいるのは、アヤシか、ヒトか!」
霊夢も倣う。
「そこにいるのは、アヤシか、ヒトか!」
返事がない。二人は意を決して、扉を開いた。
ひび割れたガラスの引き戸を開ける……中のカウンター席には、どんぶりが二つ。
まるで二人を待ち受けるかのように鎮座していた。』
――メリーがかつて書いたテキスト『ラーメンをめぐる論議』より。
********************
実のところメリーは重度の麺食いである。
そばにうどんにラーメンに限らず、少しく名前を聞いた店には足を運び、食ったあとは分厚い手帳に情報を記入する周到さで京都に近畿に跨ったラーメン情報網を構築しつつあった。彼女はこう自称する。「私はラーメンで出来てるの」。するとさしずめ蓮子はチャーハンか餃子か。おまえの帽子はチャーシューかメンマか。
いずれにせよ、実際に"幻のラーメン屋"に遭遇した人間への接触は容易だった。みなメリーとは顔見知りだったからだ。
しかし……。
「どういうこと、メリー? また臨時休業だって」
「三軒も続くとなると、流石になにものかの妨害を疑うわね……」
店舗に張り紙された臨時休業の文字。
わざわざ電車賃を払ってここまできたのに、これではいささかつまらないというものだ。普段なら、移動には蓮子のオートバイが使えるのだが、今日は昨日蓮子がバイト先でお中元でもらった酒をその場で飲んでしまったため、バイト先においたままにしてあるのだった。
「店主に直接連絡は取れないの?」
「出来なかないけどね。藍に頼めばその程度の情報は吸い上げてくるでしょうし。でも休みしてるカタギ相手にそこまでするのはね」
時刻はそろそろ昼に差し掛かろうとしている。蓮子がふくれっ面を作った。いい加減腹が減ってきたのだろう。美味いラーメンが食えると思ってこの暑い中二人で歩き回っているのに、この仕打ちなのだから致し方ないといえばない。
「念のため、他の店舗にも営業しているかどうか確認するわね」
今日中に回る予定だった店は全部で十三店舗ある。つまり十三杯はラーメンを食おうとしていたことになるのだが、それはまあおいといてメリーが藍に命じて営業状態を確認させた。
その間、蓮子が店の周辺をぐるぐる回る。なにかを探すかのように。やがて見つけたらしい、メリーを手招きした。
「今世紀の初めから次第に廃れていったスタイルだけど……個人経営だとね。店舗と住居が兼ねられているパターンも結構多いのよ」
「っていうと?」
「店の裏にある、垣根の勝手口で繋がってる家があるの。たぶん店主の自宅よ」
住宅街のただ中、込みごみとした塀の間を抜けると、なるほど確かに背後で店と家屋が接しているのが確認できた。この時点で既に人ん家の庭に軽く入り込んでいるのだが、もとから秘封倶楽部の主な活動内容は不法侵入である。どうということはなかった。
刈り揃えられたキンモクセイの生垣のスキマを抜けるのはいささか骨が折れそうだった。五条の目と言ってみたところで、この古都の細部は元来からして込み入った街であるし、首都に復帰してからは移民の増加で一層の無秩序を呈するようになった。増築、改築、新築、解体。仮置き、不法占拠、盗難、撤去。ありとあらゆる人間の活動が密集し、一時期は日ごとに町並みや道が変化するという1000回は遊べそうな発展を遂げたのが現在の京都なのだ。そんな街であるからして、家を挟んで垣根の向こう側へ行きたいと思っても、衛星画像なしでは無駄な時間を食うこと請け合いである。
しかし、こと秘封倶楽部に限れば話は別だ。
「久々にあれ、やる?」
「いいわね。やりましょ」
蓮子が背負っていたデイパックを降ろす。身を解して足首を確かめると、軽くジャンプして垣根の向こうの安全を確かめた。
ひとつ頷く。蓮子が頷き返す。背後へ、五メートルほど距離をとって……いざ。蓮子が走り出した。
助走をつけた蓮子は前向きのベクトルを保ったまま跳躍し、右足を組んだメリーの腕に掛ける。メリーが思い切りそれを押し返し、軽々と、蓮子の身体が三メートルの高みにまで放り投げられた。
二段階の跳躍。蓮子脚力とメリーのバネが、思い切りよい射出を可能とした。
一秒半の滞空。最後の半秒で巧みに前向きのベクトルを殺した蓮子は、軽く膝を曲げるだけでいとも容易く着地してみせた。
「さてさて、と」
ダイナミック近道をして、さてなにがしたかったのかというと単に表札を確認したかっただけである。
門柱に掛けられた名前と、次いでポストに貼られた家族構成から世帯主の名前をゲット。藍が地方裁判所から引き出してきた店の登記と比較した結果、この家の世帯主は向こう側にあるラーメン店の店主であることは間違いなさそうだった。
「ノックして、もしもぉ~し」
ピンポンピンポンとベルを連打する。やがて中年女性が玄関に姿を現した。聞き取り調査をするために身につけた人好きする笑顔、通称『秘封スマイル』を浮かべて、やんわりと蓮子は情報を引きだすべく会話を開始。
「今日はお店、お休みなんですか?」 「いったいなにがあったんですか?」 「へえ、それは大変でしたね」 「いや、私向かいに住んでるものなんですがね」 「奥さんが体調でも崩したんじゃないかと心配になっちゃって」 と適当に身元を隠しつつ相手の不信感を拭い、得るべき情報を得るべく会話を誘導。
「そういえばタウン誌見ましたよ」 「紹介されるなんてすごいですね」 「幻のラーメン屋ってのはどんな人だったんですか」 「ははは、イケメンだった。そうですか」 必要な情報が得られたら、速やかに会話を終了する。最後まで自然な表情と態度を崩さない。あくまでも相手に印象を持たせないよう、神経を使っていた。
「では、また来ますね。今度はお店に」
ガラガラと玄関扉を閉めるころ、ようやくメリーが現れる。
「どうだった?」
「どうもね。仕込んでいたスープをだめにしちゃったらしいの。それで今日はお休みにして、明日から再開するってサ」
「ふーん」
話しながら移動する。傍から見れば全く自然に歩いているようにしか見えないし、注意を払わなければ気付くこともないのだが、二人は軽く走るくらいのスピードで……逃げていた。
二人が角を曲がった数秒後。
先ほどの、ラーメン屋が玄関を開けて周囲を見渡した。
首をかしげる。そしてまた、家に戻ってゆく。
きっと彼女は、すぐに蓮子のことを忘れてしまう。既に、本当に会ったのかどうかさえ、疑い始めている。
秘封倶楽部の活動は、こんな風にして行われていた。
********************
二人は足早に一乗寺駅に向かった。上り線に沿ってぼちぼち歩いてゆくとそれだけでだらだらと顔中体中から汗が噴出す。しかし原因はこの夏晴れだけではない、この近辺には露店や闇市も含め、学生相手の雑多な飯屋が溢れかえっているのだ。少し目線をずらすと、二人の通う吉田キャンパス、一際のっぽな物理学科棟が見える。その屋上に鎮座する、対空ミサイルがギラリと光っていた。
メリーが、やれあの店はカエルを食わせる店だ、とか。やれあそこの揚げ物は廃棄油のリサイクルだ、とか。聞いてもいないにあれこれ説明して、少し遠い目をしていた蓮子を引き戻した。
「ほら見て、蓮子。あそこのお店はね、伊丹空港跡地で飼育してるダチョウの卵を毎朝直送してるから、新鮮なゆで卵を食べられるのよ。ダチョウ鍋も美味しいんだから」
「…………お腹減ったな」
「我慢よ蓮子。あとで食べられなくなるわ」
まるで夏場の厨房そのものといった熱気に包まれながら、鴨川方面へ向かって歩く。御陰橋を使って中洲に渡り、少し歩くと市バスに追い抜かれた。走ってこれを追いかけて、家庭裁判所裏のバス停から市バスに乗り上賀茂神社手前まで運ばれる。歩いてもいける距離なのだが、舗装の壊れた道のためひどく埃っぽいのだ。むかしはこの周辺に喘息患者が多発したそうだが、今では淘汰されいなくなっている。降りて少し南へ向かって歩くと、次のラーメン屋が見えてきた。
本日の営業が確認できた、十三軒のうち三軒。そのひとつが、この中華料理屋だった。
暖簾をくぐり、カウンター席へ座る。
昼時だけあって、店内は人でごった返していた。
「広東風ラーメンふたっつね!」
ようやく腰を落ち着けた二人は、帽子を脱いで汗を拭きあった。目の前で大鍋が振るわれ、豪快な火の熱さがこちらにまで照り返してくる。
蓮子はその様子を、火勢を目をキラキラさせながら見ていたが、一転メリーは鼻先で指を組み、じっとりとした目で眺めていた。その様子が、どうもおかしい。なんだか……怒っているような。
「メリー、どうしたの?」
じゃ、っじゃともやしと青梗菜が多めの油で豪快に火を通される。てらてらとした光沢に再び蓮子は感嘆の息を吐いた。だが、やはりメリーの視線は険しいままだ。
「……?」
その視線の先を追う。なにかのビンがあった。なんのビンかとラベルを読もうとしたが、横から伸ばされた手に遮られる。ビンはそのまま鍋の上に持ってゆかれ、艶を放つ黒いソースが落ちてきた。オイスターソースだ。野菜がオイスターソースで炒められる。うっとりするような香りに、蓮子がまたわくわくを募らせた。反して、メリーはいよいよ我慢の限界といった風に席を立ってしまった。
「ちょ、ちょっとメリー!」
「私のも、食べてて!」
残される蓮子。
カウンター越しに、おばちゃんが話し掛けてきた。
「え、あ。大丈夫です。食べられます。余裕です。お腹空いてるんで」
ずるずるとラーメンを食らう。もちろん、美味い。美味いのだけど、なにか物足りなさを感じた。スープを残す。メリーの分に手を伸ばし、またずるずると食べ始めたが……半分ほど食べたところで箸が進まなくなった。
「げふぅ」
お冷を注いで飲み干す。こっちのが、よっぽどうまいと思った。
なんでかな。この物足りなさは。蓮子がどんぶりの中身を箸でいじくり始めたころ、ようやくメリーが戻ってきた。
よほど外を走り回ったのだろう。煤と埃だらけの姿で、なんだろう。大きなビンを抱えていた。
「お帰り、メリー。もうだいぶ、冷めちゃったわよ」
「いいのよ、別に。それより――大将!」
厨房の奥に、やおらメリーが大声を投げた。
店内の視線が集まる。あっけにとられる蓮子。
やがて厨房の奥から店主が現れる。大将と呼ばれた割には、意外なほど小柄な女性だった。中国人だ。
「これを使ってください。マレー産よりかは、マシな味が出るはずです」
カウンター上にどん、と優に四ガロンは入りそうな大瓶が置かれる。
ラベルを読む……オイスター風ソース、とあった。
「メリー。これはいったい」
「味を見てください」
小皿に黒い液体が注がれた。先ほどのオイスターソースよりかは、ずいぶんさらさらしているように見える。しかし粘度の調整など、増粘多糖類の添加でどうにでもなることは蓮子も知っていた。店主が小指の先にソースをつけて口に運ぶ。やがて、一言だけ口をきいた。
「このソースで、作り直して差し上げなさい。いまいるお客さん、みんなにね」
歓声が上がった。先ほどまでは、どこかまんじりともせず飯を食っている風だった店内の人間が、一斉にテンションを上げてはしゃぎ始めたのだ。わけが解らないでいるのは蓮子と読者だけである。
「なに? なんなの? どういうことなの?」
「次のラーメンを食べれば、解るわよ」
「えー」
料理のつくり直しがあったため、広東風ラーメンが再び蓮子の前に現れるのは一時間後になった。
おぼろげに推察する限りだが、どうやら本来使うべき調味料が質の悪いものに置き換わっていたということらしい。初めてこの店で飯を食う蓮子にしてみれば違いが解らなくても仕方がないが、メリーは食わずとも調理場を見ただけで気付いていたし、他の客も一口食ってなにか違うなと感じていたようだ。店は作り直しで対応した。昼休みが終わってしまう者には、サービス券が配られた。
ラーメンが来るまでのあいだ、秘封倶楽部には奥の部屋で店主と話をする栄誉が与えられた。蓮子は火を扱ってる現場を見るのが好きなので、そっちの方がいいと渋ったが、そもここに来た目的はこうして店主と話をするためである。メリーに首根っこを掴まれて、母猫に運ばれる子猫のように連行された。
「あのソースは、なんだったの?」
まず蓮子が当然の疑問を口にする。メリーが応えた。
「お寺とか、ベジタリアン・コミューンで使ってるオイスターソースよ」
「お寺で? なにか違うの、それ」
なお疑問符を浮かべる蓮子を右手で制し、メリーは店主に向き直った。
「今日使われていたのは、いつものオイスターソースではありませんでしたね。かといって、市販品でもなかった。普段この店で使っているのは、三陸産の本物のオイスターソース。特製の、ね。そうでしょう?」
「…………」
店主は答えず、しかし頷いた。タバコを勧めてきたが、二人は断った。
「その、三陸産オイスターソースが、どういうわけか今日は使われていなかった。なぜかは、解りませんがね。
ともかく、この場合、とりうる代替策は三つあった。
一つ目の方法は、市販のオイスターソースを使うこと。だけど、市販のオイスターソースはコハク酸にミネラルを添加して、カラメルで着色した合成もの、つまりは人工調味料だからね。良い悪いは別にして天然とは勝手が違うから、料理法全体を見直さなくちゃならなくなる。慣れていない調味料を使わされるようなものね。予め、合成オイスターを使った場合のレシピを確立しておけばクオリティを維持できたんでしょうけど、それは手順として登録していなかったんじゃないですか? このお店は国際調理規格に適合した店だからね。簡単に手順は変えられない。
そこで、今日この店は二つ目の方法をとった。合成よりは天然に近い、東南アジア産のオイスターソースを使うこと。ベストではないけど、ベターな選択だといえるわね。だけど実は、これは合成オイスターソースよりもなお、オイスターソースからはかけ離れるものだったのよ。ご存知でした?」
「…………」
店主が深くため息をついて、タバコを指で挟んだままうつむいた。
「東南アジア産のオイスターソースは、あれは牡蠣を使ったものではないんです。他の、温暖化で大量発生したムール貝とか……要するにイガイ類なんかが原料なんですよ。ゴーサインを出す前に、ご自分でご試食はなされましたか? いや、したはずだ。なにを作らせました? ……この店の一番人気は、ホイコーローと麻婆豆腐でしたね。ああいう、日本人好みに作られた豆板醤をどばどば使った料理だと、存外オイスターソースの味は陰に隠れてしまいます。それで気付けなかったか、あるいは……あなたは、違いに気付いていながらも、休業ではなくこのソースで開店する事を断行したのかもしれない。いずれにせよ、非難するつもりはありません。あなた方は三ツ星レストランのシェフではない。この町のコックさんだ。腹を空かした私たちの胃袋を満たす事を優先するというのも、正しい判断です。ですが……ならば知っておいて欲しかった。京都には無数の寺社があり、この近くにも葬式仏教でない、本当に修行を積むための施設があるということをね。そしてそこでは、ああいう第三のオイスターソースが使われているんです。そして、それこそが、第三の手段、第三のソースだった」
早口でメリーがまくし立てる。蓮子はというと、あまりの長話に既に割とどうでもよくなって、テーブルの上に置かれていた孔明鎖と呼ばれるパズルで遊んでいた。ひねったり回したりしてみたが、どうにも上手くいかない。横から店主がそれをひょいと取り上げて、いくつかのパーツを外して違う場所に付け替えてくれた。ぱっと蓮子の表情が晴れる。どうすればいいか閃いたようだ。
「そして、これこそが第三の手段だった! 蓮子、さっきの疑問に答えるわ」
「え? あ。ああ。うん?」
大事なことなので二回いったメリーが総括に入る。
「お寺で使っているとは、ナマモノを使っていないということよ。そして同時に、ケミカルも使っていない。私が持ってきたのは、天然ものではあるけれど、かといって本物かというとそれもまた違う……総天然のオイスター"風"ソースだったというわけ」
「え。どういうこと?」
「薬草とか。シイタケとか。キクラゲとか、海草とか。そういう諸々を使ってオイスターソースを再現した偽オイスターソースってところかしら。合成食品万能のこの町、この時代じゃあ、確かに流通しているものではないけれど、手に入れようと思えばなんとかなるものだった。そして、実際使用してみてどうかは、これから食べて、確かめてみましょう」
メリーが立ち上がる。
店主も同じように立ち上がった。
蓮子は……まだパズルをやっていた。再びメリーに首根っこを掴まれる。
「あ、いや、ちょっと待って! もう少しだから! ちょ、アーッ!」
ずるずると、引きずられて。秘封倶楽部はカウンター席に戻った。
ちなみに、あとで確かめたところ、孔明鎖は完成には程遠い状態だったという。
********************
二人はその後、人のまばらになってきた店内で改めて広東風ラーメンを食ってみた。
メリーは、やはり本調子には及ばないという感想を持ったが、食べ切ることで完成度の高さを証明した。蓮子は、正直そんなに違いはわからなかったけれど、まあ美味いといえば美味いと思った。
店主とひとつ握手を交わし、二人は店をあとにした。
もちろん、件の"幻のラーメン"に関する調査も忘れてはいない。
「あの店で連れ去られたのは、夜のシフトに入っている中国人留学生だったみたいね。近くの女子大に通っているっていう」
「して、その"タベラレマセンワ野郎"ってのは、じっさいどんな風貌だったの?」
「ええとね。なんでも、レゲエ風の男で身長は一七〇センチメートル程度、痩せぎすで中東形の顔立ちをしていたそうよ」
「んんん? なにそれ」
「なにっていわれても、そうだとしか」
「それで、幻のラーメン屋ってのが、実際はどこにあるっていうのは? 車両の向かった方向とかは、解らないの」
「どーも判然としないのよね。南のような、北のような、だってサ。藍がNシステムのライブラリをハックして、同時刻周辺を移動していた車両を割り出したけど……正直膨大すぎて手が回らないのよ。あの娘は器用だけど、物量があるわけじゃないから。処理には時間がかかるわ」
藍の使用できる頭脳は、物理的近距離にどれだけの知性があるかに依存している。外部に処理を委託することで軽快さを保とうとする以上、通信速度は電波の強度よりも距離の遠近により強く左右されるのは、必然といえば必然だった。藍の便宜上の本体はメリーのアパートに安置されているが、その場所を選んだのはNTTの基地局がすぐそばにあったからに他ならない。京都市内の大学、企業、研究機関、独立行政法人、寺社仏閣、ミサイルサイト、インフラ・ハブにそれぞれ点在するマス・プロセッサとHPCサーバを併せればその数は100を下らないが、このうち藍が自由に利用できるのは一割から二割の間だ。先日まで……つまりは蓮子とメリーが京都を留守にしている間は、舞鶴に停泊していたイージス艦を乗っ取りそのハードパワーとソフトパワーパワーを好き放題利用することで遠距離にいる二人のサポートを可能にしていたが、今では元の昼行灯に戻っていた。
いずれにせよ、市内に無数と存在する、監視カメラという目を利用するにも限界があるということだ。
それに、その手段を取る場合、敵に回すのは他ならぬ京都府警だ。
いかに秘封倶楽部といえど、電子戦では勝ち目がなかった。やはり足で調べてゆくしかない。
「次のお店に向かいましょう」
メリーが先導して歩き出した。
********************
大田神社前交差点を南に曲がり、しばらく歩いて北山駅へ。ふたたび車上の人となった二人は京都御苑、東本願寺を素通りし、揺られるままに京都駅まで行った。下車するや迷いのない足取りで、ふたりはずかずかと改札を出て、ドライミストを浴びながら駅近くのラーメン屋に入る。ガラッと扉を開け、バサッと暖簾をくぐり、どかっとカウンターに腰を下ろす。まるで横綱・白鵬翔の土俵入りのように、優雅で大胆で繊細で乱暴な動きだった――ともかく、女子大生の振る舞いではなかった。残念ながら。
「ブラックサンダー、ふたっつね」
注文を取りに来たのは、二人と同い年くらいの女性だった。化粧や履いている靴から、近くの看護学校に通う女子大生だろうな、とメリーはあたりをつける。
二人が注文したのはいわゆる富山ブラックと呼ばれるしょうゆ味のラーメンだ。元より海産物が豊富で、かつそこそこに雪国でもあったがためにしょっぱいものばかり食っていた県民性からか、どうかは、知れないが。富山といえば醤油ラーメンというのははるかむかしからの定説となっている。第二次大戦後の屋台に発祥した『富山ブラック』と呼ばれる嫌がらせレベルで真っ黒な醤油ラーメンは見た目のインパクトも相俟って今世紀初頭に高い知名度を獲得、秘封倶楽部の時代にまで伝えられるに至っていた。
そも、富山は先述の通り海産物が豊富であり、ゆえに富山ラーメンもスープのベースにはとんこつもしくは鶏であるが、ここにドンボなどの乾物魚介ダシを加えるのがスタンダードとなっている。『末広軒』(大手町 31')などがその好例だろう。
現在では幸か不幸か往時のまつざきしげる色は鳴りを潜め、常識的な色彩のラーメンが饗されるようになっていた。
……このような、ご当地ラーメンは、いまやこの古都に密集し、互いに鎬を削りあっていた。
戦後上京してきた地方民と難民たち。これを放置するより他に術を持たなかった、小さな日本政府。戦後三十年経ったいま、彼らは新たな文化をこの地に思い思いに花咲かせている。よって日本全国に留まらず、世界中、太陽系中のラーメンがこの京都に集まってきているのだ。
「たとえば、この店のすぐ上、二階は徳島ラーメンのお店が入っているし、この店だって、夜になると十文字ラーメンの店に早変わりしちゃうんだから。駅の反対側の中華街やらコリアタウンには行ったことあるでしょ? もっと奥には、木星連邦のアンテナショップとかがあって、旭川ラーメンが食べられるのよ。ヨコハマ以前の細めんを大事にしていてね。濃厚な醤油ダレがガツンとどんぶりの底からパンチをくれるんだー。今度行こうね。まずは、ここのブラックサンダーよ」
ちなみに木星の住民の八割は、もともと北海道からの移民だった。ゆえに木星の衛星および軌道上の都市はほとんど日本の"十二番目の島"となっている。
「っても、ブラックサンダーって。しょうゆ味のラーメンでしょ? 普通じゃない」
内装を眺めていた蓮子が上の空と言った風で返事をする。『ジェネリッ君の毒舌家庭の医学』なる、得体の知れない金言が店内のあちこちに貼られているのを見ていた。曰く「腹八分目に医者要らず、童貞男にゴム要らず」だの、なんだの。正直なにが面白いんだか解らないが、そういうのをまとめた本まで置かれていた。もともとは富山県薬業連絡会が、今世紀の初めに厚生労働省の外郭団体が数億円掛けて作り出したマスコットキャラクターを継承して展開していたPRコンテンツだったのだが、異様な毒舌が受けて今に至ったのがこれなのだ。ぐるりと見渡す。
「女同士でも性病にかかるから気をつけろ」みたいなポスターも貼ってあった。
┌(┌ ^o^)┐←こういうイラストつきで。
じっとメリーを見る。
「? なに。」
「…………メリー。私この店キライ」
「? どしたの、食べもしないで?」
そうこうしているうちにラーメンが運ばれてくる。
出されたものは食わねばならんな、と渋々蓮子も箸を割った。
ずるずると麺をすする。食ってみると、意外と悪い味ではなかった。醤油の素朴な味が出ている。もっとパンチのきついものかと思ったが、メンマと煮卵の甘みがほどよく口に嬉しい。ネギも、上手に白髪にされていてスープにマッチしている。
「うまい! これ、美味いじゃん、メリー!」
と、一転蓮子が笑顔でメリーを振り仰ぐ。
「あ、またですか……」
しかしメリーは、先ほどラーメンを食ったときと同様、馬頭観音みたいな仏頂面をしていた。
今度はなにが気に食わなかったというのだろうか?
「この、浮いているピーナッツも面白くていいね。クルトンが浮いてて、まるでせんべいみたいな食感がいいわ」
ゴキゲンを取ろうとあれこれ並べ立ててみる。自分で言って、「あ、だからブラックサンダーなのだ」と蓮子は気付いた。
「ちょっと、お姉さん」
メリーが先ほどの女性店員を呼び出す。ぼそぼそとなにごとか話しはじめた。
「ええ、実は……」
瞬く間に、メリーの尋問に引っかかってしまった女性店員は、どうやら口止めされているらしい情報を打ち明けてきた。もともと話好きな性格だったのかもしれない。
話の終わり際、メリーが店員になにかを握らせた。袖の下かなにかだろう。
「蓮子、もう出ましょう」
「え、うん。ごちそうさまでした」
結局メリーは麺だけ食って、さっさと席を立ってしまった。
普段はスープまで残さない性質なのだが……丼には黒いスープが、まるで罪を映す鏡のように、油を浮かべて黒く光を反射していた。
********************
「……それで、なにがあったのよ?」
「ハアー」
大きくため息をつく。
「あの店の、チャーシュー。見た?」
「え? いや見たっていうか食べたけど」
「ひどかったわ! 赤丸ハムにも劣る代物よ! 前はあんなんじゃなかったのに! のに!!!」
「オーケー、時に落ち着け」
公衆の面前で怒り心頭のメリーをなだめながら追いかける蓮子。傍から見れば痴話喧嘩をしているようにしか見えなかった。
とりあえず、駅前から離れ、適当な喫茶店にメリーを連れ込む。店に入るや「パフェ! でっかいパフェ! 生クリームたくさん使ったやつ! はやく持ってきて! 超巻きで!」と指先をくるくるしてとにかく早く持ってきてくれと伝えてから、窓際の席に座った。
「あそこの店はね、魚介醤油……ナンプラー、魚津しょっつるを使って仕込んだチャーシューが売りだったのよ。もちろん、ラーメンとしての出来があってこそだけど、そもそも幻のラーメン屋と出会ってあの店がブレイクスルーを得たのは、そのチャーシューだったのよ」
「なんと。いったいなにがあったんだ?」
「どうやら、ね。もともと、あのチャーシューはあの店で作られていたものじゃなかったらしいのよ」
「……? ごめん、よく解んない」
メリーがお冷をとり、一気に飲み干してからぶつぶつと経緯を説明した。
あの店で人気だった自家製チャーシューは、実はあの店ではなく、店舗をシェアリングして夜の間に営業している十文字ラーメンを出す店のチャーシューを店員が無断で使用していたものだったらしい。手口はこうだ。まず同じ肉屋から、同じサイズの肉を購入する。十文字の店が閉まってから、合鍵で店に入り、仕上がった煮豚を引き上げ、代わりに新しい豚肉を入れる。細かい肉の形は煮込むうちに変化するし、個数が合っていればなかなか気付かないものだ。かくして富山ラーメンの店はまんまと仕上がった煮豚を継続的に得られるという寸法である。自らが味を開発し、維持する労力を払わずに。
「『HATA’n』のインタビューに答えた富山の店主は、単に受け売りを話していただけだったみたいね」
「十文字の店が、それに気付いたんだ!?」
「いいえ、どうやらそうでもないみたい。いや、気付かれたことは気付かれたんだけどね。気付かれたからチャーシューが出せなくなったんじゃなくて、チャーシューの鍋が丸ごとなくなっちゃったらしいのよ。それで、十文字がいよいよおかしいと思ったらしいわね。鍋がどこに行ったかは、不明。内部告発かもね」
「うーん……」
蓮子が唸る。解せぬといった顔。この話を信じるならば、十文字の店も富山の店も同じチャーシューを出していたことになる。だけど流行ったのはオリジナルではなく、富山の方だった。同じ品質を提供したとしても、立地や店の雰囲気、営業時間帯、店主の人となりや偶然から広まったうわさなどによって、ラーメン屋の繁盛/閑古鳥はがらりと変わってしまう。それがラーメンの不条理であり、面白味であった。この一軒はその象徴といえた。
「しかし、すると、メリー。幻のラーメン屋っていうのは、なにがしたいのかしら? 十文字の店はこのブレイクスルーで、益を得ていない。私はなんと言うか、ラーメン業界の発展というか、シェーン的な雰囲気を感じ取っていたんだけどな、その"タベラレマセンワ野郎"には」
メリーは気だるげに答える。頬杖をついて。
「そうね……案外、どうでもいいと思っているのかもしれないわね。自分の知っていること、自分の舌。自分の腕を自慢したいっていう、それだけなのかも……そのためだけに、不完全なラーメン屋に、自分の実力を見せて楽しんでいる……とか」
「解らないなあーもおー」
蓮子が足を投げ出して、ソファに身を預けた。
巻きでお願いしたパフェがようやく運ばれてくる。二リットルペットボトルくらいの大きさの、生クリームの塊が二人の前に現れた。
「でもね、蓮子。さっきネットで藍が調べてくれたんだけど」
「うん?」
スプーンでがしがしと生クリームを飲み込んでいた蓮子が目線を上げる。スマートフォンの中で、藍がせっせと地図を広げていた。
「十文字の店は、シェアリングを解消して自分の店を開くらしいわよ」
「へえ。それは、楽しみね」
「ええ。開店したら、今度は二人で行ってみましょう」
話がまとまったところで、メリーもスプーンをとった。
スマートフォンの画面の中から、藍が二人の顔を交互に見、そして山盛りの生クリームを見上げて、ため息をひとつ。
「なあに、藍。あなたも食べたい?」
ぷいぷいとかぶりを振って、藍は尻尾を引きずってどこかへ行ってしまった。
あとには、『3400kcal』というメモだけが残されていた。
********************
藍の精神攻撃によりここから先は徒歩を余儀なくされた秘封倶楽部は、南下して宇治キャンパス周辺の学生向け食堂へ行くか、それとも東へ向かい元祖京都ラーメンなるものを出す店へ行くかでずいぶん迷った。しかし南下した場合、蓮子がバイトに間に合わなくなる可能性もあるためここは元祖京都ラーメンを食いに行くことにした。
京都駅から東へ向かい、鴨川にかかる塩小路橋を渡って川沿いに歩く。濃緑豊かな葉月の桜並木に彩られた散歩道をしばらく歩き、歩き、歩き続けるうちに二人は汗だくになった。うなじを伝う汗を指差しあい、拭きあい、ファイト一発しあいながらどうにか一キロほど北上し、何本目かの橋で右に曲がる。境界、仏閣、神宮が立ち並ぶ道をしばらく歩くと、黒字にオレンジの特徴的な看板が目に付いた。そこがお目当てのラーメン屋だった。
「やってる?」
レンガ造りのハイソな店は、下手にラーメン屋らしい風貌のラーメン屋よりも京都の街には合っていた。カウンター席は学生で埋まっていたのでテーブル席に着く。注文するのは中華そばと決めていた。
「すいません、この中華そばをひとつください」
「あ、ごめんなさい。それ明日からなんですよ」
「えっ。なんでえ」
「いやどうもね、どうも、輸送中の事故で麺が届いていないんですよ、今日は」
「どういうことなの……」
蓮子が、だったらなんでこの店は営業できているのだろう、と疑問を持つ。だが店主も、店内の学生を主体とした客も、メリーも、さして疑問には思っていないようだった。
メリーがしょぼんとする。蓮子がメニューを掠め取り、しばし眺めて一言。
「じゃあ、この中華ざるを」
「ですからごめんなさい。中華ざるも明日からなんですよ。冷やしの麺も届いていないものでして、どうも」
「がーんだな……出鼻をくじかれた」
既に二杯ラーメンを食っているやつのいうセリフではなかった。再びメリーがメニューを奪う。
「じゃ、とりあえずから揚げとご飯ください。スープもあればいいかナ」
「かしこまりました」
店員はそう言って厨房に注文を伝えた。髪を後ろでまとめた、なかなかの美人さんだ。蓮子がその後姿を見て思い出す。あれは昨年のミス京大に選ばれた娘だ。なるほど店内はそれ目当ての女性客で溢れていた。
京都のラーメンといえば、どんなものを思い浮かべるだろうか。
京風というと、やはり関西、薄味で上品なスープを連想するかもしれないが、実のところそうではない。ひとつ例を挙げるならば――ひとつ挙げるにしては極端な例かもしれないが――京都発祥のラーメンとして、『天下一品』(京都 71')がある。わざわざ説明するまでもなく超の三乗は濃厚なスープが特徴の店だ。これに限らず、そもそも近畿地方には『渡なべ』(高田馬場 02')と並び今日の"濃厚"ブームに先鞭をつけたツートップの一角、『無鉄砲』(奈良 98')があり、とんこつベース、鶏ベースに跨った濃厚白濁スープの文化が広く浸透している。また、地ラーメンとして一定の評価がある和歌山ラーメンなどは澄んだもの、白濁したもの、鶏、魚介、豚、牛と様々な素材をラーメンに生かしてきた歴史があり、なかでもいちばん有名な和歌山井出系ラーメンなどは、とんこつと魚介をあわせたとろみのついたスープが魅力的である。
いずれにせよ、京都の人間は清ました建前とは別になんだかもうぐっちょぐっちょな内面を抱えているためだろうか、濃厚なラーメンが大好きなのである。同時にから揚げがサイドメニューとして一般的な地位に納まっている。もちろん店にもよるが、から揚げとご飯とラーメンを頼んで飯にするというのが、彼らの普遍的なスタイルなのだ。変わってるよね。
と、そんな事をメリーが蓮子に説明していると、先ほど注文したメニューが届く。
「……から揚げ定食じゃん、これ」
「ウマーイ」
ラーメンを食いに来たはずなのだけどな。蓮子はそう思ったが、とりあえずメリーが美味そうにしているのでいいかなと思った。不機嫌になられるよりかはナンボもマシである。
「ところでメリー。この店は、例の"幻のラーメン屋"からなにを賜ったの?」
「ウメエ。から揚げウメエ」
「メリー? メリー、ちょっとメリーさん!?」
まるで黒ヤギさんから届いた手紙を食べた白ヤギさんが出した手紙を食べた黒ヤギさんを丸ごとステーキにして食らうニック・スミス農林大臣(ニュージーランド 50')のようにムシャムシャと一心不乱にから揚げを食らうメリーの肩を揺さぶって、どうにか蓮子が彼女を正気に戻す。から揚げには人を魅了する魔力があるのだ。致し方ない。
「え? え、なに蓮子。あ、から揚げ食べないの? 食べちゃうわよ?」
「うわあ、やめろお!」
結局二人はから揚げを食うのに忙しくして、本日ようやく、ゆっくり楽しめる食事の時間を過ごした。
「さて、メリー。この店は、幻のラーメン屋にどんな関わりを持ったのかしら」
「ええとね、この店は、麺の質が元からよかった店だったんだけど、最近は更に舌触りの滑らかさと、食事の作業性を両立させてきて人気を博したのよ」
麺の質にはいくつか要素がある。香り、コシ、歯ざわり、舌触り、食い易さ、伸びにくさ……などなど。京都ラーメンを初め近畿地方では細麺が多く食われており、よってこの店も中細ストレート麺を近所の製麺所にオーダーメイドしていた。それが、幻のラーメン屋の出したラーメンを食ってからというもの積極的に製麺所との連絡を密にし始め、最終的には麺をカットするカッターを、わざわざ独自に購入して使わせるという独自仕様を押し通すまでになった。これにより加水率は変えずに……つまりは麺のコシはそのままに、内部応力を減らして、かつバリがない麺を……要するにコシがあって滑らかな細麺を作ることに成功したのだ。そのために購入したカッターというのがまた特徴的で、普通はステンレスでFAなのだがこの店はそれに飽き足らず、フッ素加工を施しバリ発生を抑えたカッターや、炭酸ガスレーザーを利用した超精密製麺機などのラボテストを経て、結局はただのフッ素加工ではなくカッター円周部にダイヤモンドコーティングを施すというカッターを選択するに至った。なるほど、麺に関しては京都一だろう。
「だけど、それが食べられないんじゃね」
「ええ。全く残念だわ」
「事故ってなにがあったのかしらね?」
「輸送中に麺が忽然となくなってしまったんだってさ」
「もしかして、産業スパイ?」
「かもね」
その後二人は、幻のラーメン屋に接触したという店主にアポを取ろうとしたのだが今日は出張中でいないということだったので、その日はおとなしく出直すことにした。
********************
それから、しばらく二人は店内でぐだぐだした。油でべとついた漫画本を読んでみたり、つけっぱなしのテレビでやっているくだらないバラエティにケチを付けたり。
だんだん店が混み始める。晩飯客が来る時間なのだろう。
食うものも食ったし、ここで得られる情報はもうない。
店を出る。そろそろ、暗くなる時刻だ。
「あーあ。結局、大して得られるものはなかったわねえ」
「ま、そういうもんよ。足で稼ぐっていうのはさ」
ぶらぶらと吉田キャンパス方面に向かって歩く。気の早い電灯が二人の行く道を照らした。
「……そういえば、さ。メリー」
「ん?」
少しだけ先を歩く蓮子が、振り返らずに言った。
「むかし、むかしね。まだ私たちが、高校生だったころ」
「うん」
「ラーメンの話を、書かなかった?」
「――――――……書いたわ」
「ああ、やっぱり! 今日、いろいろ食べて周って思い出したのよ」
蓮子が、疑問が氷解した事を喜んで笑った。メリーの方は……今日に限って言えばもう何度目かではあるが、ショックを受けているようであった。
「なんでだろう。いまのいままで忘れていたわ」
「あはは。なにせ、結構な数を書いているものね。すぐに思い出せなくても仕方がないわ」
蓮子はそう言ったが……確かに、蓮子から見ればそうなのかもしれない。
それもそうだろう。蓮子はその、幻想郷を舞台に少女二人がラーメンを食うという話に、直接関わったわけではないのだから。
そのストーリーは二人がサークル活動をして本にするという作業の中で生まれたものではない。たまたま気の向いたメリーがテキストに起こし、そのままネット上に放流しただけのものだった。通常二人の作品、幻想郷を描いた同人物語はメリーが見てきた風景を蓮子が肉付けする形で創造される。
この、ラーメンを食う話の場合は既にある舞台の中でキャラクタを動かしただけの……いうなれば、セルフ二次創作に近いものだった。ファンの間でも正式なソースとしては認められてはいない。そもそも、存在を知るものもいない。よしんば幻想郷で飯を食う少女二人の物語が取り上げられたとしても、それがメリーの手になるものであるか否かなどファンには知る由はなく、そしてメリーにしてみても、秘封倶楽部の作品というのはあくまでも蓮子との合作であり、同時に自分が見てきたノンフィクションであるのだから、それを幻想郷の物語に数える気はさらさらなかった。
だが、そういう事をしたのだ、と。
こういうのを書いたよ、とは。
メリーは蓮子に言っていた。なんの意味もない日々の営みとして。
だが、蓮子はそれをよく覚えていた。メリーの作品を最も愛しているのは、メリー自身。ではない。あるいは蓮子こそが、そうなのだ。
蓮子の側からラーメンを食う少女たちの話が出てきたのは、その傍証であった。
「懐かしいわね」
「ええ。よく、覚えていたわね。私なんか、自分で書いてて忘れちゃってたわ」
どんな話だったっけ――。
二人はあれこれ思い出そうとした。
メリーがスマートフォンを取り出す。藍を呼び出し、往時のテキストをネット上から拾ってくるよう命じるつもりだった、が。
藍は代わりに、蓮子に向けてこういうカンペを出した。
『今日は前のシフトの人が早く上がるから、はやくバイトにいかないといけないんじゃなかったですか?』
「あ。やっべ」
蓮子が荷物を放り投げ、メリーがキャッチする前にはもう走り出していた。
「ごめん、メリー! 先帰ってて!」
「はいはい」
たたた、と軽快に駆けてゆく。その実毎日の走り込みを欠かさない蓮子は、時速二十キロメートルで五キロくらいなら簡単に走ってしまうのだった。
こうして本日の秘封倶楽部は流れ解散となった。
一方的にメリーが荷物を押し付けられている気もするが……それも含めて、いつものことだった。
********************
さてここで問題です。
蓮子のバイトとはなんでしょう?
①死体をホルマリン漬けにする仕事
②死体を水酸化ナトリウム溶液につけて骨だけにする仕事
③定期的に酸素と触れた死体がどのように腐敗してゆくのかを調査するために何時間かおきに死体を土から掘り出してまた埋めるのを繰り返す仕事
④サークルKサンクス
答えは④のファミマである。蓮子はコンビニバイトの経験が長く、かついくつかの店を渡り歩いているので学生ゆえの身軽さも手伝って、体よくこき使われるバイト君として重宝されていた。
今日も蓮子は準夜勤を乗り切り、時間差でやってきた夜勤と一緒にだらだらと人の来ない時間を過ごした。
彼女の勤めるコンビニは観光名所からは微妙に距離が開いていて、住宅地かというとそうでもなく、いうなれば工場やオフィスのある辺りに属している。京都に直に住む人々の必要とする部分を担う仕事だといえた。景観に配慮して大人しめな看板の元、今日も蓮子は夜勤の暇つぶしに絵など書きながら、品出しや帳簿をもう一人の娘っこに丸投げしてだらだらと過ごしていた。
「いらっしゃいませー」
ふと蓮子が目線を上げると、いつの間にか客がカップラーメンの棚の前で品定めをしていた。入店するときにやはり控えめな音がなるはずなので、気付かないはずはなかったのだが。どういうわけだろうか、気付かなかっただけだろうなと思い直し、蓮子は再びレジの裏で絵を描き始めた。なんの絵かというと、先ほどメリーとの話に出てきたラーメンの絵だ。少女二人が幻想郷を旅して、ラーメンを食らう話。まだ、絵にしたことはなかった。
「もし、お湯はあるかしら?」
「あ、はい。ええと……どうぞ」
今度も、気付けなかった。いつの間にか先ほどの客がレジの前まで移動していたのだ。気配が全くない。
「ごめんなさい、これ。作り方が解らないの。やってくださらない?」
「ええ。構いませんよ」
客の風貌を確かめる。金髪で、傘を持っていて、胸が大きくて……最後の胸にばかり目が行って、蓮子は他の特徴を覚えられなかった。とにかく胸のでかい女性だった。外国人ではなさそうなのだが。
半分までフタをはがし、液体スープの袋、粉末スープの袋、先入れかやくの袋、後のせ具の袋、香味油の袋を取り出し、麺の上に先入れかやくを入れる。お湯をカップ内部の線まで注ぎ、フタの上に残りの三つの袋を置いて温めておく。
もう十年くらい前になるだろうか、フタの上に袋を乗せて温めておいてくださいという表記がなされるようになったのは。だがむかしはあんな表記はなく、それでも裏技的にそれをやっている者はいるにはいた。著者もその一人である。著者などは、液体スープが膾炙する以前から、それこそ焼きそばバゴーンなんかでそれをやっていたのだ。つまりフタの上で液体スープを温め始めたのは、著者が元祖なのである。
さてそんなどうでもいい事を書いているうちに五分経った。蓮子はふたをすべて取り、まず粉末スープ(粉末のくせに後入れ指定とは!)を混ぜた。次いで液体スープを入れ麺をほぐす。そしたら後のせの具を麺の上にあけ、最後に香味油をその上から垂らす。以上で完成だ。客の姿を探す。店のガラス際、テーブル席が置いてあるところに、いつの間にか座って待っていた。
「おまちどうさまです」
「ありがとう」
客の前にカップラーメンを持って行き、割り箸を渡す。
蓮子がレジに戻ってゆく背後で、ふーふーずるずる、と女性客が麺をすする音が聞こえた。
そして、レジの中の蓮子を振り向いて、その客はこう言った。
「このラーメンは出来損ないね、食べられないわ」
ぶっ、と音を立てて蓮子が鼻水を噴出した。
「はああああああああああ!?」
「明日の同じ時間にまた来ますわ。本物のラーメンをごちそう致しましょう」
「え、ちょ、おま!? カップ麺になに言ってんの!? てか、え、ええ!!?」
女性客は薄く微笑んで、扉を開けて出て行った。
呆気にとられた蓮子が、ふとレジカウンターに手を突く。
じゃりん、と音がした。
「…………!?」
まったく受け取った覚えはないのに、手のひらの中に、278円と20円引きのクーポンが握られていたのだ。
「……う、うおおおおおおおおおお!」
蓮子が慌てて追いかける。
彼女が、彼女こそが、探していた幻のラーメン屋なのだ。
そうに違いない!
「おい、私今日はこれで上がるから! あと頼んだわよ!」
店の奥で休憩しているはずの後輩が、悲鳴を上げた。蓮子は聞こえないふりをして走り出した。
********************
同時刻。
メリーは大学図書館にいた。
吉田キャンパスに位置する大学付属図書館は前々世紀より度重なる戦火と災禍に耐えてきた。そしてその歴史の深さをしてなお自由とロックをはぐくむ校風を保持して生きている。二十世紀の初めまでは百万に満たなかった蔵書数は、首都に返り咲いた古都とともに拡大の一途をたどり先日めでたく一千万冊を突破。いまや国内第二位となった蔵書を擁する図書館は、学習室を学生相手に夏休み中でも二十四時間開放している。よってメリーは調べものや読みもの、考え事をするときに、よくこの場所を利用していた。
というのも、藍が活動しやすいからだ。メリーの思考を補助する藍という式は、前述の通り周囲に使える処理能力が多ければ多いほどパワーを発揮することができる。外からでも大学のスパコンをジャックすることはできるのだが、正規の回線で正規の利用申請を出したほうがはるかにやり易いのは道理である。
「『HATA’n』のバックナンバーは、これで全部ね……」
藍の集めてきたものと、図書館にあったもの。ラーメンの記事すべてに目を通し、精読する。
「うー……ん」
やはり、蓮子が言っていたように幻のラーメン屋というものが実在したとして、その意図が不明瞭である。手がかりが少ないのも確かだが、余りにも目に見えている結果が一面的過ぎるのだ。だからこそ、メリーはラーメン通としての自分だけではなく蓮子をも招いたのだが、混乱は深まる一方だ。
「ねえ藍。あなたはどう思う?」
"私ですか? 私は……"
沈黙。藍はあくまでも思考の補助ツールだ。メリーの考えを別の日本語的表現にすることで可能性の幅を広げるのが彼女のできる限界だ。だけど藍は、少しの沈黙のあとこう言った。
"私は、解らないのであれば別の視点を導入するべきだというマスターの意見に賛成です。ですが、マスターはまだ同じ問題にしか目を向けていないのではありませんか?"
「っていうと……?」
藍が懐から円グラフを取り出す。それをよく見えるよう全面に配置して説明を始めた。
"私はもっと、全体に目を向けるべきだと思うんです。幻のラーメン屋の意図を探るのは二の次にして。どういう人間であるかがわかれば、推察する材料も増えるでしょう。そこで私は記事の中でインタビューされた人がどういう言葉で謎のラーメン屋を表現しているのか統計をとってみました"
藍が円グラフのいちばん大きなところを指し示す。
"多くの接触者は男だと証言しています。どういう男だったかというと、しかしそれはばらばらですが、確率の高い順で言えばまずサラリーマン風の男。そして次に中肉中背で色白の日本人、そして短髪でガタイのいい体育会系と続きます。これらは一般的に、男性の特徴的なイメージをまとめたものに過ぎません。つまり私は、接触者の目撃情報は、これには、価値がないと考えているのです"
「なんですって?」
"いいですか……統計的に見て、もっともラーメンを食っていそうな人間のイメージが投射された結果が、接触者たちの回答そのものなんです。つまり、見るものによって姿が変わるか、見るもののイメッジが反映されるか、あるいはラーメン消費者層を店ごとに分析してもっともその店でありふれた人物に仮装あるいは交代した、複数のグループ。それが幻のラーメン屋のありうる姿として想定されるわけです"
「ま、待って待って藍。それではあまりに飛躍しすぎで使えないわ」
"ええ。本題はこれからです……私はつまり、幻のラーメン屋にではなく、幻のラーメン屋と接触したものたちに、なにが起きたのかを知るべきだと、そういいたかったのです"
「でも、なにが起こったのかって……ラーメンの質が高くなった。そうでしょう? 他にあるの?」
この、更なる問いに、藍はさも当然というように、自身たっぷりで答えた。
"あります"
「なによ?」
"本当にお気づきでない?"
「解らないわ。教えて」
"それでは申し上げますが――
どの店も、今日はマトモに営業できていなかった。違いますか"
「…………」
藍の出した答えに、メリーしばし沈黙。
確かに……今日訪れた店では、マトモなラーメンなど、一度も食えなかった。
理由は様々だ。ほとんどはそもそも営業していなかったから、ということではあるのだが、その原因に関してメリーは知らない。調査の要がある。
"もう、調べてありますよ"
藍がリストを出した。
それを見て、メリーは愕然とした。
この瞬間に、あの幻のラーメン屋がなにをしようとしていたのかを、いまだ人間にしか許されていない『論理の飛躍』を持って、メリーは突き止めたのだ。
「これって……まさか!」
メリーが目にした、10の休業理由と、マトモにラーメンを作れなかった3の理由とは。
「仕込んでいた鶏スープが消えてしまった」
「特製の醤油タレを容器ごと紛失」
「麺が届かなかった」
「調理に使用するソースが品切れ」
「スープ用の中硬水が軟水になってた」
「チャーシューが行方不明」
「水で丹念に戻していた評判のメンマが猫に食われたかしてなくなった」
「なると巻きを猫に食われた」
「魚介だしの出来が不十分」
「露地栽培の本物の野菜を使っているのだが、入荷がなかった」
「冷蔵し忘れて放置してたチー油が猫に舐められたかして無くなった」
「届いたネギが指定産地のものじゃなかった」
「業務用ガスコンロが盗まれた」
「まさか。あの、幻のラーメン屋の目的って……」
メリーが戦慄した、その時。
大学構内に、警報が鳴り響いた。
********************
京都大学を標的とした破壊工作の歴史は、三十年前の終戦とこれに伴う移民規制法案の撤廃に端を発している。現在に至るまで散発的に事件および学生を主体とした闘争が行われてきたが、それらの主戦場は鴨川を挟んだ向こう側、桂キャンパスとその周辺の宮内庁所管施設であった。宇治キャンパスは陸軍の鼻先であるため太平を保っていられるし、蓮子とメリーが座する吉田キャンパスは学生にこれといった動機もなく、たびたび火種が投げ込まれて炎上する事はあっても平時は平時、有事は有事という切り替えの速さが学生の特徴として見られ、よって普段はのどかな構内生活を送ることができていた。
しかし、この均衡も新たな秩序の到来によって破壊された。ほんの二週間前、岡崎研究室に二発のライフル弾が撃ち込まれる事件が発生したことから、バランスの取れていた危機意識は急速に強硬路線に傾き始めたのだ。桂キャンパスからの応援部隊は、夏休みの間ということで学生のまばらなうちにこの吉田キャンパスを制圧、警備体制の充実を謳って学生の自由を脅かす改修工事をあちこちで始めていた。戻ってきた学生たちは反発するだろう。これがどんな火種になり、いつまで燃えるかは未知数だ。大学側は焦りすぎた。
しかしながら、そのような警備体制が敷かれているとはいえ、吉田キャンパス内の生協にまではまだまだ手が回っていない。よって深夜の吉田食堂に忍び込んで盗みを働こうと思えば、出来ないことはないというのが実情だった。しかしひとたびへまをすれば――
――たとえば、逃走する際にバナナの皮を踏んですっ転んだりすれば、流石のニブチンモーションセンサも黙っちゃいない。警報が鳴ったのは、このためだった。吉田食堂内に、不審人物の感アリ!
最初に現場に到着したのはメリーだった。フットワークの軽さには定評がある。封鎖されていないのをいいことに吉田食堂内へ侵入。勝手知ったる自分の大学の食堂だ。厨房に犯人か、その痕跡が在るだろうかと思いきや。
メリーは予想だにしないものを見つけた。
境界のひび割れが。
鮮明に、残されていたのだった。
「こいつは、一大事かもしれないぞ」
マイクロカービンで武装した警備員たちが駆けつけてくるのを聞いたメリーは、すぐさまその場をあとにした。藍のナビゲーションに従って脱出。塀を飛び越え、どうにか吉田神社の境内にたどり着いた。
手水舎で喉を潤していると、スマートフォンが震える。
藍だ。
大学周辺の監視カメラをハックした映像が画面いっぱいに映されていた。
そこではいままさに、大量の白いタッパーを抱えた女性が、金髪の……やたら胸のおっきい女性が。
ホンダのNボックスの広々とした車内空間に盗品を放り込んで、余裕のあるゆったり座れるシートに腰掛けてハンドルを握るまでの一部始終が目撃できた。
「こうしちゃいられないわ……!」
監視カメラの映像からして、大学の北側、国道101号線に繋がる道を走っていったようだ。急いで追いかけなければ。走り出すメリー。その背後から、強いライトが照らされた。
「メリー乗って! "タベラレマセンワ野郎"を見つけたの!」
宇佐見 蓮子。
マエリベリー・ハーンの相棒がそこにいた。
********************
蓮子がハンドルを握るCBRは101号に出るや加速しながら交差点へ侵入。
スカートを畳んでバイクに跨るメリーが大Gに耐えながらもどうにかそのカーブを超えると、北へ逃走するワゴンの猛追を始めた。
ばさばさとヘルメットに収まりきらなかったブロンドの髪がたなびく。いやたなびくなんてちゃちなもんじゃ断じてない。風を切る高速により何度も何度も肌に打ち付けられた。
それでもメリーは蓮子に更なる加速を命じ続ける。ぎゅっと回した腕に力を込めることによって。蓮子の左目が加速度の中でも正確に目標の車両を捉える。バイト先のコンビニに愛車を置いていたのが幸いした。コンビニからここまで、ようやく姿を捉えることができたのだ。もう見失うものかと加速を続ける。
「目標曲がるぞ、メリー!」
「だいじょぶ、行って!」
流石にメリーの服装は危険すぎた。徐行とまでは行かずとも速度を緩めて十字路を曲がる。この先は滋賀・琵琶湖一本道だ。いよいよ追い詰めてやるとアクセルを握り締めた。
山道だが民家がまばらに点在し、途中途中に自動販売機のある道だ。人気が少なくなったからと蓮子はどんどんエンジンを吹かしてゆくが、住民にはいい迷惑だろう。勘弁していただきたい、これが秘封倶楽部の活動というものでして。
「……? 止まるわよ!」
肩越しにメリー。確かに、カーブを曲がった先に赤い光りが燈っている。木々にさえぎられて見えないが……蓮子が一旦、追い越し、通り抜ける。
ワゴンは廃屋の前、駐車場らしき場所に止まっていた。
Uターンして、廃屋へ。
「はて……?」
蓮子が首をひねる。こんなところに、こんな廃屋が……いや。
廃屋ではない。これは神社だ。
打ち捨てられ、寂れて久しい、あちこちが壊れた……文明の躯。無人の神社。
こんなものが、果たしてこの道にあっただろうか? この道沿いには、確か曹洞宗の寺があったはずだが。しかしこれは鳥居があるから寺ではない。神社もあるにはあったが、もっと人気の多い場所にあったはずだし……この神社は、なんなんだ?
「なにって、窃盗団のアジトかなにかじゃない?」
「そっちのが怖いけどね」
二人は単車を降りる。
蓮子の左目が周囲を索敵。
攻勢の脅威は一切検出できなかった。だが、あの神社の中には熱源がある。人間? ではないと思う。だがなにかがある……。
「ね、蓮子。私さ。さっき気付いたんだ。あの幻のラーメン屋が、なにをしようとしているのか……」
「シッ。メリー、静かにして」
蓮子がメリーのスマートフォンを奪う。藍を呼び出し、こちらの消息が絶たれたら警察を呼ぶように伝えると、二人はいよいよ神社へ向かって行った。
危険? もちろん、危険だろう。常識的に考えれば。
だが彼女たちは秘封倶楽部だ。飛び込まない、わけがなかった。
********************
蓮子は脇腹のホルスターに挿していたブローニングを抜いた。その自動拳銃は十八歳の誕生日に父がプレゼントしてくれたもので、蓮子が肌身離さず持っている宝物だった。
スライドを引き、薬室に初弾を装填。銀色のアルミ製薬莢が一瞬光り、蓮子とメリーに勇気を与えた。
二人は軽く視線を交わし、頷き合ったあと――思い切りよく、扉を蹴破った!
「動くな! 動くな! 動くな! 動くな!」
蓮子は日本語で。メリーは英語で。それぞれ叫び、室内を制圧する。
容易だった。中には誰もいなかったのだ。
「クリア!」
「クリア!」
それぞれ他の部屋も探索する。すべてを調べ終えて、待ち伏せや罠の可能性がない事を確かめると……
……二人はようやく、廃神社の本殿の中に安置されていたものと向き合った。
秘封倶楽部がそこで見つけたのは――
――どんぶり。
――九条ネギ。
――ガスコンロ。
――包丁、まな板。
――中細ストレート麺。
――淡口再仕込醤油。
――フライパン、寸胴鍋。
――タッパに入ったなると。
――三陸産オイスターソース。
――露地栽培天然ほうれん草。
――軽く火にかけられたスープ。
――ビンに入った自家製のチー油。
――鍋の中で煮汁に浸るチャーシュー。
「ラーメン……?」
「いや……」
そこで二人が見つけたのは、京都でいちばんのものを集めた、ラーメンの材料だった。
********************
「…………」
蓮子はぽかんと口を開けて、状況を飲み込めないでいた。先ほどまで追いかけていた人物はどこへ行ってしまった?
いったいなにをしようとしていたんだ? これはなんなんだ? わけが解らなかった。
「いま、ね。蓮子」
メリーがその状態のまま話しかける。
「私の目、境界を見ているの。この、神社の中。すごいたくさんの境界のほつれ、ひび割れ、スキマがある。
ホントにもう、割れていない場所の方が少ないんじゃないかってくらい」
「……なんですって?」
「だれか、境界を行き来できる誰かが。この場所とどこかを、しょっちゅう往復していたら。こうなるんじゃないかな?
ね、蓮子。それってつまりさ。この状況ってつまりさ。こういうことなんじゃないの?」
幻のラーメン屋は境界の向こう側の住民で。
彼女は最高のラーメンを作るために材料を集めていた。
あえて勉強させることで研鑽を引き出し。
『最高のラーメン』作りをしていた――。
「だけど蓮子。このままにして置いて良いと思う?」
「えっ?」
銃を持ったまま、なぜか明るい屋内で、蓮子がメリーを見やった。その目には怪しい火が燈っている。
「ここまで素材を育て上げたのは、京都に住むラーメン店主たちの努力に他ならない。
そしてこれらの資材もすべては京都の資源だ。
ならばこれより産まれ出でるラーメンは、京都の人間に食われなければならない。
少なくとも、境界の向こうの、誰か……箒さかさまにしなきゃなんない客に、食わせていいもんじゃ無いわ。
これらを使えば、きっとラーメン史上に残る一杯が作れる。
私は確信するわ。
だから蓮子……力を貸して」
蓮子のと惑いは頂点に達しつつあった。
パーツパーツはよくても、いざどんぶりの中でどうなるかはやってみなければ解らない。どれだけ個々が優れていても全体もまた優れるとは限らないのだ。それがラーメンというものだ。だがメリーには確信があり、そしてできると解った以上やらずにはいられない狂気じみた衝動があるようだった。
「……止めたって、やるんでしょう? 手を貸すわよ。秘封倶楽部じゃない」
「えへへ。ありがと。だから蓮子って好きよ」
メリーがさっそく腕まくりをして、業務用ガスコンロに火を入れた。
ラーメン作りは、時間との勝負。
ラーメン屋、秘封倶楽部。堂々の開店である。
********************
火にかけると既に麺をゆでるための湯は十分な温度を持っていた。
チャーシューを煮汁から引き上げ厚さ三ミリメートルに切り分けて、一部は細切れにして皿に取りおく。ほうれん草は軽く湯通しして、食べやすい大きさに切ったらチャーシューと一緒の皿に置いておく。
メリーがスープを小鍋にとり火にかける。魚介はあくまで熱を持たせるだけ。白く濁った白濁スープは、鶏によって出された鶏白湯。うっすらと浮くのみの油では少々油脂の旨味にかける。そこでとんこつスープもくわえて味に迫力と奥行きを持たせるようにした。
タレは生醤油の代わりに濃い目の淡口醤油を使って仕込まれた再仕込醤油で、一夏寝かせた高級品。チープなチー油を加えるのははばかられたが、これで存外美味いのだ。
オイスターソースと固形油脂、チャーシューの細切れを熱したフライパンに放り込み、ジュウジュウと油の爆ぜる音が聞こえてきたらほうれん草を放り込む。水分が飛び、表面に油の光沢がつく程度が目安。あくまでもサッと熱を加える程度を心がける。
いよいよ蓮子が麺を手に取った。静かに対流で揺れる大なべに麺を落とし、手早く、しかし優しく粉を飛ばす。そのあとは湯に任せてじんわり茹で上げ、メリーの指示したとおりの時間で引き上げる。湯切りに特別なパフォーマンスはいらない。麺を傷つけないよう、そして麺どうしがくっつかないよう空気と触れさせながら湯を切って、メリーが用意したスープの中にダイブさせた。
スープはメリーがあわせて作った。タレとチー油にまず魚介のエキスが加えられ、澄んだ上品なスープを作る。ここに今度は鶏ベースとんこつ少々のダイナミックイノシン酸エキスを投下。いよいよ白濁トリプルスープの出来上がり。
最後に具が載せられる。
数多の旨味を吸ったほうれん草。柔らかくとろけつつ、歯ごたえも忘れないチャーシュー。モチモチしたなると。穂先の部分だけを使った不思議な食感のメンマ。天然もの、新鮮で香り高い九条ネギ。ゆで卵。
ここに、日本の文化の粋を萃めたラーメンが完成した。
「名づけて、秘封麺!」
「これ食べたら、もう境界の向こうには戻れなくなるわよ」
どんぶり二つのラーメンが、本来出会うはずのなかった素材たちで作られた、在り得ざる幻想のラーメンが。
完成した。
あとは食べるだけだ。
********************
「さあ、伸びる前に食べましょう」
「うん。その前に、写メっとこ。藍、カメラ……藍?」
メリーがスマートフォンを覗き込む。
藍が困惑していた。尻尾を毛羽立たせ、ぶるぶると震えている。
「どしたの、藍」
「メリー、はやく! 伸びちゃうってヴぁ!」
「え、ええ。……藍?」
"マスター、その。……ここ。いったい、どこなんですか?"
「………………え?」
堰を切ったように藍が叫ぶ。
"電波が来てないんです、ここは! 警察に通報しようと、何度も試みましたが……
いまのいままで確かめていました。ありとあらゆる通信帯に、生きてる電波がないんです。
なにが起きているんですか、マスター。いったい、なにが? 私は怖いんです。死の恐怖を感じています。
人類が滅んでしまったかのように、静か過ぎて……怖いんです。私から目を離さないで、マスター。蓮子さん!"
「れ、蓮子。蓮子蓮子蓮子ぉ」
メリーが情けない声を上げる。蓮子はといえば、まだ事情を把握できないでいた。
"マスター。そして私は"
「先に食べちゃうわよ、メリー!」
"マスター。なんで、私は、"
「蓮子、藍、ええと。とりあえずあれだ」
メリーが箸を取る。
蓮子も箸を割った。
食い気優先だった。
"切り離された私は何故ここであなた方と同じように、活動できているんですか。私はいったい、どうなってしまったのですか"
秘封倶楽部が「いただきます」を言おうとする、瞬間。
「おおい、誰かいるのかー?」
四番目の少女の声がして、それを合図にしたかのように。
世界が暗転した。
ぽつん、と蓮子とメリーと藍が、真っ暗な廃神社の中にいた。
「…………いただき、ま……?」
割り箸持った蓮子が、空中の麺をすくおうとする。
「いただき……ま……」
メリーが膝から崩れ落ちた。
「やられた……やられたわ。まんまと、奪われた」
「え? あれ?」
悔しがるメリー。
まだ状況が飲み込めない蓮子。
「私のラーメン、どこ行った?」
すべては境界の向こう側に置いてきてしまったという事実に蓮子が気付くまで、しばらく時間がかかった。
********************
[八月二十五日]
廃神社を出る。砂利の敷き詰められ駐車場に、既にワゴンの姿はなかった。車両の止まっていた証拠を探す。轍も、排ガスの痕跡も、残っていた熱も、なにもない。最初からなにもいなかったという感じだ。二人の乗ってきたCBRはまだ熱を帯びていたのに。
「藍、落ち着いた?」
"すいません、取り乱してしまって"
「いいのよ。警察、来るかしら?」
藍が通報記録を確認。こちらへ向かう車両はない。通報は届かなかったようだ――つまり。
ふたりは知らず知らずのうちに、境界をまたいでいた。おそらくは、扉を蹴破った瞬間から。
「抜かったわね。まさか、向こう側に行っていたなんて」
向こう側をこちら側と誤認してしまうくらいには、二人は既に越境に慣れきってしまっていたということだろう。
「でも、こんな神社。私見たことなかったよ」
念のため藍に地図を検索させる。もしかしたら境界の向こう側からこちら側へ渡ってきた建造物かもしれない。
だとしたら大収穫だ。大いに研究のし甲斐があるだろう、だが。
"この神社、普通に地図に載ってますよ。もう、三百年以上前から。ここに"
蓮子とメリーが顔を見合わせる。するとなにか。マヌケは私たちの方か?
釈然としない心持のまま、それ以上現場で得られるものがないと判断した二人は再び単車に跨り、自宅へと戻ることにした。
切る風は、そこそこには涼しいものだ。
いつの間にかかなりの時間が経っていたようで、既に空が白み始めている。
昨日起きた時間はもっと暑苦しかったはずなのだが……。
確実に、夏の終わりが近づいている。
二人はそんな空気を感じながら、背中に朝日を受けつつ、とろとろと安全運転で帰宅した。
********************
秘封倶楽部基本方針。
私たち秘封倶楽部は創作を通じこの世の不確定を食い尽くし、不明点を足場に変えるものである。
今ある幻想を食い尽くした先に、私たちは現実の淵に達するのだ。
境界を明確にするほど、光りを当てれば当てるほど、そのダーク・エッジは深くなる。
私たちの至るべき幻想は、私たちの突破するべき境界は、そうすることで姿を現す。
そのための探求を、日々続けるのが秘封倶楽部である。
********************
そんな会則をぼんやり眺めながら、蓮子はメリーが帰ってくるのを待っていた。
アレから一眠りして、起きたのが午前十一時半。
シャワーを浴びる前に、じゃんけんで負けたメリーはノーメイクのまま近くのコンビニへアイスを買いに行かされる罰ゲームを受ける羽目になっていた。
"ねね、蓮子さん"
「ん、なあに藍」
"昨日、いただきますって言うちょうどその時、誰かの声が聞こえましたよね"
「ええ。少女の声だったわよね。なにか解った?」
"こいつを読んでみてください"
藍がそういって表示したのはテキストデータだった。ごくごく単純なテキストのみのファイルで、更新日時は……四年前。
かつてメリーが一人で世に放流した、幻想郷で少女がラーメンを食う話だ。
ネットの海に流れて、どこかへ消えてしまったものと。記憶の中にあるストーリーで諦めて満足していたのだが。
「懐かしいなあ!」
読み進める。
そのうちに、蓮子の表情が変わった。
暑苦しい空気の中で、別の種類の汗が垂れる。
「どういうことなの、これは……」
"解りません。私も、困惑しています。私もマスターの過去作は全部読んでいます。式の分際で言うのもなんですが、保証しますよ。これは絶対に、ラーメンショップでした"
「ううむ」
その折、メリーが帰宅した。
「ただいまー。あー、あっついあっつい」
「あ、メリー。たいへんたいへん!」
蓮子が先ほどのテキストデータをメリーに突きつける。突然黒歴史を目の前に出されたメリーはそのまま布団にダイブして隠れてしまいたかったが、どうやら辱めを受けさせようというのではないらしい。
選択部分が、反転表示されている。
曰く――
『 しばらく夜道を歩いた。どちらも無言だった。今日は結局、ラーメンらしいラーメンを食えていない。
二人とも、腹を空かせていた。どこかに腰を落ち着けて休みたい。野営自体は、二人は慣れたものなのだが、するならばするで明るいうちに準備をしないければならない。こんなに暗くなってからでは寝床の確保はちょっとした試練だ。
そこに、天の配剤だろうか。
寂れた神社を見つけたのだ。
ちょうど良いとばかりに、魔理沙が走り寄って霊夢を手招きする。
だが、中で僅かに人の動く気配がした。霊夢が札を構える。魔理沙はそれを制し、大きな声で問うた。
「おおい、誰かいるのかー?」
返事がない。より、大きな声で。強勢を伴って声を張る。
「そこにいるのは、アヤシか、ヒトか!」
霊夢も倣う。
「そこにいるのは、アヤシか、ヒトか!」
返事がない。二人は意を決して、扉を開いた。
重く、湿った扉が開く……中には、どんぶりが二つ。まるで二人を待ち受けるかのように鎮座していた。』
わなわなと、それを読み終わったメリーが震える。
「これって、私がむかし書いたテキスト……」
「ああ。ということは、私たちは、あの二人とニアミスしていたのよ――問題は、それだけじゃない。重要なのは、ここだ」
蓮子がひとつ、大きく息を吸った。
「メリー。文章が置き換わっている。
メリーが昔書いたテキストでは、確か二人が見つけたのは幻想入りしたラーメンショップだったはずでしょう。
だけど、このテキストでは……二人が見つけたのは、廃神社ってことになってる」
メリーが猛然と反論した。がさがさと、アイスの入ったビニール袋が床に落ちた。
「私はラーメンショップの残骸と書いたはずだ! 私はそれで、廃れ行く国道沿いのラーメン文化を描こうとしたんだ! 断じて、廃神社ではなかったわ!」
「だけど現実に、藍が拾ってきたデータではそうなっているし、スレに残された感想文や体系化されたデータベースでも、そういう風に書かれている」
「そんな……バカな」
「ね、メリー。もしかして、もしかしてなんだけど……」
「…………」
ごくり、と生唾を飲み込む。
「幻想は現実を模倣する。ならば、もしかしたら現実だって」
ごーん、と。
正午を告げる鐘が、どこからともなく響いた。
「じゃあ、なに。私たちが創ってきた幻想が……今度は、私たちを創り変え始めたと?」
「あくまでも、自分のやってきた事を信じるならばね。他にいくらでも、常識的な回答はあるわ。だけど、私はこの可能性を無視するべきではないと思う」
「はあー……」
ため息をつく。
とりあえず、アイスを食うことにした。
「いったい世の中、どうなっちゃうのかしら」
「ねえ。でも、存外悪いことにはならないかもよ。なんたって、世の中は既にじゅうぶん悪くなっているんだから」
カカカ、とアイスモナカを食いながら蓮子が笑った。
「きっと、この程度の……共有される対象が狭く浅い範囲の情報だから、書き換わったのね、誰にも気付かれずに。もっと大きなこの変化となると、こうはいかないでしょう。だけど、確実に、もっと大きな変革も起きるはず、そう……このままで終わるはずがない」
「うん。電子データも、紙媒体も。世界が変わってしまうなら証拠にはならない。上下の階層構造に跨るゴーストを持つ私たち、人間だからこそ覚えていられる情報が大事になってくる」
『なら――』
二人の声が重なった。
ほかにもいろいろなものが、重なった。
「大事にしましょう。私たちの思い出を。歴史を。一秒残さず後生まで」
「ええ。いままで通り、秘封倶楽部を続けましょう。寝ても醒めても死んでも生きても」
暑苦しさは相変わらずな、夏の正午のアパートで。
二人はそうして、強く侵蝕する幻想への向き合い方を固めた。
ところで、二人はまだ気付いていなかった。
もう一人、覚えている者がいることに。
画面の中で藍が一人。
二人を交互に見上げてため息をひとつ。
"こいつら絶対、太るよな……"
カロリー計算をする藍の気苦労は、今後も耐えそうにはなかった。
"やれやれ。幻想に挑むより、現実として二の腕に挑んで欲しいものですよ"
そうぼやく藍の下腹も意外と出てきているのだが。
三人がダイエットに邁進するのは、また別の話である。
読んでたらお腹が空いてきたよ……。
藍ちゃん可愛い。
幻想と現実のニアミスは前回もあったけど、ここまで露骨じゃなかったな。
これはまた変な裏読みができて、行間を読むのが好きな妄想家としてはわっふるわっふるしますね。
しかし、バナナの皮ですっ転ぶ手荷物いっぱいのゆかりんを想像すると、妙に笑えるなぁ。可愛い!
観てないなら観るべきです
いろんな意味で
ところで、いろんなラーメンの美味しい要素を組み合わせたラーメンって果たして美味いんですかね
非常灯
灯と燈は同じ字であり、同文章中で使い分けることはありません。
> 少女がどこからともなく現れて、にべもない足取りで作業台の間を抜けるや大きな大きな銀色の箱の前に立つ。
にべもない≒取り付く島もない
「足取り」の修飾語としては決して使いません。
いいねえ青春だねえ
メリー「ラーメンで」
こんな光景が頭に浮かんだ俺は末期
当たり前のように同性愛、京都恐るべし
高性能なうえにかわいいときた
斬新な設定を余すことなく使った文句なしに面白いSSでした
むしろこの世界観でもっと読みたいくらい
もっとひっふーすべき。
すばらしい
ああ、ラーメン食べたい
初めてあなたの作品を読みましたが、こういう作風何でしょうか。私には受け付けませんでした
然し、オリジナル設定は受け付けやすかったです。藍とか
読了後も煮え切らない感じが残る作品は久しぶりです
蓮子が「おい」と言ったのには流石に違和感を感じましたが
あのラーメンは果たして美味しいのでしょうか。果たして素材は見事に調和するのでしょうか
一度、秘封倶楽部の作った秘封麺、食べてみたいものです
独自色ある設定がすばらしい。というか作者様の引き出しのあまりの広さに脱帽。