「あいたたた……」
紅魔館門番、紅美鈴は尻餅をつきながら頭を上げた。
暇を持て余している主、レミリアに勝負のお付き合いをさせられるのはいつものことだが、こうも毎回勝てないと、流石の美鈴も少し悲しい気持ちを抑えられなくなってくる。
「まだまだ甘いわね美鈴」
パーティーホールのど真ん中に優雅に佇む主の姿は、堂々たる姿で部下を見据えていた。その眼差しが勝利に酔っているのか、不出来な部下の成長を楽しんでいるのかを察することは難しい。
「ううー……動きが早すぎるんですよ、お嬢様は」
今、美鈴に出来る反抗はその程度だった。それは自分の敗因の押し付けであり、美しくない行為であることは分かっている。「美」、自分の名に反する行為であることは分かっていたものの、言わなければ劣等感に潰されそうな気がしたから、美鈴はついついその言葉を漏らしてしまう。
「言い訳するくらいなら精進なさい。この館の門番を続けたいのならね」
主の言葉には頭が上がらない。こちらの弾幕を悉く掻い潜り、その懐に難なく入ってきてしまうこの上司。自分が守る必要があるのだろうか?
「どうも苦手なんですよねえ、お嬢様の……」
必要があるか無いかはさておき、
「あの、バッタみたいな動き」
それは言う必要は無かったと思う。
「バッ……タ……?」
その一言は、紅魔館の主、レミリア・スカレーットの表情を凍りつかせた。一瞬で下がるホール内の気温。
「あ……」
美鈴は瞬時に判断した。自分がとんでもないスイッチを押してしまったことを。こりゃあ今晩の晩御飯どころか胃袋抉り取られるってレベルですねいやー参ったなこんなことなら冷蔵庫に密かに待機させてたアボカドを昨晩のうちに山葵醤油に漬けて食べておけばよかったな、と。
「あ、いや、えっとですね? ほら、お嬢様って羽があるのにいっつも地面と空中蹴った移動が多いなって思ってですね?」
「で、私がバッタだと……?」
「あ、いやいやいや! お嬢様くらいの脚力ならそれだけの跳躍と加速も余裕なんだなーって思って凄いなーと」
「……つまり私は厚さ1メートルのコンクリート壁を蹴り砕く節足動物の改造人間だと……?」
「そう! お姉様はバッタなのよ!」
「ぬぁんですってぇ!?」
ホールの入り口から飛んできたその声に、レミリアは赤い瞳をより血走らせて殺気を露にする。その視線の先に立っていたのは、彼女の妹、フランドール・スカーレットだった。
「フラン……言っていいことと悪い事の区別くらいは教えたはずよ……!」
「じゃあ羽使って飛べばいいじゃない」
「ふぐぅっ!」
正論を突かれ、レミリアは思わず言葉を詰まらせた。そう、紅魔館どころか、幻想郷の誰も、見たことが無かったのだ。彼女、吸血鬼の長であるレミリアが、その翼だけで空を舞う姿を。
「わ、私は別に翼使わなくたって空浮いてられるからいいのよ!」
「それじゃ巫女や魔法使いと変わらないじゃない」
焦燥の相を浮かべるレミリアに対し、フランは乾いた瞳で返す。霊力、魔力及び妖力の類さえあれば、この世界の住人は大抵空を舞うことが出来るのだ。だが、フランはそれで納得をしなかった。
「やっぱ、吸血鬼は羽を使って空を飛ばなきゃ格好が付かないじゃない。ねえ美鈴?」
「え……ええ、そうですよね! 私もお嬢様がその羽で優雅に空を舞う姿を見てみたいです!」
渡りに船とはよく言ったものだ。汚いやり方かもしれない。しかし背に腹は代えられない。美鈴はフランの言葉に乗っかった。
逆に立場が危うい状況に陥ったのはレミリアだ。
「ふ、フランだってそんな羽じゃまともに空飛べないじゃない!」
「でも、お姉様はまともな羽を持ち合わせてるから……空を飛べるはずでしょう?」
「むぎぃっ!」
フランの洗濯物干しに吊るされた靴下のような羽と、レミリアの蝙蝠を象徴する威厳ある羽とでは比較にするのが無粋というもの。これにはレミリアも反論をすることが出来なかった。
「それに私……お姉様がかっこよく羽で空を飛ぶとこ……見てみたいなー……」
「ぬぐぐぅ……!」
これぞスカーレット家奥義、上目遣いのおねだりインパルス。相手は折れる。
「わ……分かったわよ! 羽で飛べばいいんでしょ羽で!」
「やったー! 私、お姉様のそういうチョロいとこ大好き!」
「今なんつった!?」
「お姉様のそういう超凛々しいとこ大好き!」
「誤魔化せてないからね!?」
かくして、レミリアは背に生えたカリスマ溢れる翼で空を飛ぶことを余儀なくされたのだ。
「……飛ぶの?」
「勿論」
「……飛ばなきゃ駄目?」
「勿論」
「大丈夫ですお嬢様! お嬢様なら空を飛ぶくらい問題ありません!」
紅魔館二階の窓から憂鬱な表情で顔を覗かせるレミリアに対し、庭から見上げるフランはいいから早く飛べと言った様子で吐き捨てた。その横には美鈴。妹の思いつきに振り回されながらも、彼女もまた、自分の主がその大きな翼で空を飛ぶ様を期待しているようだった。
幸か不幸か、この日は曇り。昼過ぎだというのに日光は注がず、雨は降っていない。絶好のフライトシチュエーションである。
「そ、それじゃあ飛ぶわよ……」
今、幻想郷の歴史に新たなる1ページが刻まれようとしていた。吸血鬼は妖力を使わずとも、その羽で優雅に空を舞うことが出来る。そんな明日使えるトリビアが今、まさに生まれようとしていた。
「大丈夫よお姉様……お姉様ならきっと出来るわ!」
「ファイトですお嬢様! 私はお嬢様を信じてますよ!」
「だ、だだだ大丈夫問題ないわ……なんたってわちゃしは紅魔館の主ですのも……!」
そんなフランと美鈴の声援が、レミリアをより硬直させた。浮かべる笑みとは裏腹に、レミリアはその額にじっとりと脂汗を浮かべていた。
「……ごくり」
レミリアは思わず唾を飲み込んだ。いつも見ている窓から見た地面が、こんなに高く感じたことは今まであっただろうか? そこに立つ見慣れた人物二人が、こんなに小さく見えたことがあっただろうか?
それでも、退くわけにはいかなかった。一度言ったYESをNOとするなど、彼女には出来なかった。有言実行、初志貫徹、それは上に立つ者の義務なのだ。一度引き抜いた葉が元に戻らぬように、一度割ったグラスが元に戻らぬように、一度信頼を失えば、レミリアという名の個に対する尊厳や威光は塵と化すであろう。
だから、彼女は窓の外枠に身を乗り出した。妹と、部下の期待に応えるために、その一歩を踏み出した。
「……ええい、ままよ!」
たんっと強く跳躍し、レミリアの身体は宙に放り出された。フランと美鈴が固唾を呑んで、彼女の勇士を目に焼き付けんとその身を緊張させているのが見て取れた。レミリアはその背に生えた大きな翼を広げ、
「うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ」
両腕をぐっと胸に引き付け、両拳をぎゅっと握ったまま、その羽をばたつかせた。
「……」
「……」
その光景はある意味、幻想郷の歴史に新たなる1ページを刻んだ、かも知れない。レミリア・スカーレット。彼女は確かにその翼を使って、およそ20メートル程度の距離を飛び、大地に立っていたのだ。
「……ど、どう!? ちゃんと飛べたわよね!?」
無事飛べた。それを証明することが出来たレミリアは興奮を抑えながらも立ち尽くした二人に振り返った。
しかし、このフライトが二人の期待に添った内容で無かったことは、二人の表情を見てすぐに理解出来てしまった。美鈴は口に出す言葉を迷い、フランに至っては死んだ魚のような目でこちらを見ていたのだ。
「美鈴、これってどう見ても……」
「……滑空、ですね」
「ほあぁ!?」
「羽、ブーンて音出してたよね」
「はい」
「ぐふぁ!」
「バッタよね」
「……はい」
「ぬふあぁ!!」
立て続けのコンボにレミリアの自尊心は打ち砕かれた。なんということだろう。500年という時を経て、自らが築き上げてきた威厳は、いとも容易く灰燼と化したのだ。
「あ……ああ……!」
二、三歩後ずさり、レミリアはその場に膝を落とした。滑った芸人を目の当たりにしたように見下してくる妹と、美鈴の同情の眼差しに耐えることが出来なかった。なんで、私はここにいるのだろう? なんで、こんな日に限って曇り空なのだろう? いっそのこと私が灰になったほうが、まだ楽だったかも知れないのに。レミリアはただ地面を見つめ、バッタのようにその場で項垂れた。
「待ちなさい、レミィ!」
そんなレミリアの耳に入ってきたのは、覚えのある声だった。最も近く、最も信頼のおける友人の声。
顔を上げたレミリアの目に映ったのは、頼れる識者であり、最も付き合いの長い友人、パチュリー・ノーレッジ。涼しく、冷静で、凛々しい姿のまま、彼女はポラロイドZ34〇をその手に抱えたまま、レミリアの目の前に立っていた。
「気を落とすにはまだ早いわよ、レミィ」
「パチェ、いつからいたの?」
「一部始終覗は拝見させてもらったわ」
「そのカメラは?」
「風景を撮ってたのよ」
「……誰に売る気?」
「風景を撮ってたのよ」
パチュリーが何を撮っていたかはさておき、どうやら彼女はレミリアが空を飛ぶことをまだ諦めてはいないらしい。
「元々人間を遥かに上回る運動能力があるのだから、コツさえ覚えれば簡単に空を飛ぶことが出来るはずよ」
「パチェ……」
「調度暇を持て余してた所だし、折角だから私がサポートしてあげるわ。そんな翼が縮こまった吸血鬼なんて、見ていられないもの」
レミリアは喜びを抑えられずにはいられなかった。やはり、持つべきものは友人だ。普段は本ばかり読んで気の利かないところもあるけれど、いざという時はこうやって、黙って手を差し伸べてくれる。日頃表情をあまり変えることの無い友人の慈悲深い微笑みに、レミリアは心から感謝した。
「ありがとうパチェ。私、絶対にこの羽で空を飛んでみせるわ!」
「私がサポートするんだもの、飛んで貰わなくちゃ困るわ。たとえあなたがバッタでも」
「だからバッタじゃないっての!」
かくして、パチュリーを筆頭に、フラン、美鈴を加えた「お嬢様飛行倶楽部」が結成された。
「……で、あるからして、レミィの体重、翼面積、翼幅を比較した結果、数字的には翼による自力飛行は可能なわけ」
「ほー」
「へー」
「ふーん」
図書館の一角に黒板を貼り付け、緻密なレミリア設計データをチョークで描き記していくパチュリーの姿は、宛ら京都大学鳥人間チームばりの熱の入りようであったが、それを理解するには、三人の脳力的スペックが聊か不十分であった。とりあえず分かった風に相槌を打つのがやっとである。
「でも、鳥と違って私達の身体は重いんでしょ? ほんとに飛べるわけ?」
「いいところに気付いたわね、フラン」
分からない講義を聞くよりは自分から質問した方がまだ利がある。半分眠気覚ましに近い苦し紛れな質問だったが、フランのその問いはパチュリーにとっては意義のある質問だったらしい。
「確かにフランの言う通り、人間の骨の重さは鳥の二、三倍ある。人間より頑丈な吸血鬼なら、その更に数倍はあるでしょうね。鳥は空を飛ぶために必要な胸の筋肉を進化させ、それ以外を全て退化させてきた。だから人間が空を飛ぶには、逆に数十倍の胸筋を身に着ける必要があるのよ」
「やったねお姉様! 巨乳になれるよ!」
「フラン、それは胸であって乳じゃないわ」
「仮に乳でもバケモノだと思いますよお嬢様」
一瞬胸筋がマッスルボマーな吸血少女を想像してしまったのか、レミリアと美鈴は苦い顔をしたが、パチュリーは至って冷静である。
「鍛える必要は無いわ。吸血鬼の筋肉そのものが人間と違うんだもの。元々レミィは人間の数十倍の運動能力を持ってるんだから、生物学的にはレミリアが空を飛ぶことは可能よ」
「でもさっきは飛べなかったじゃない」
「そうね、確かにさっきはバッタだったわ」
「バッタ言うな!」
バンバン机を叩いて涙目であるレミリアをよそに、パチュリーは続ける。
「最初に言ったはずよ? コツを覚えれば簡単に飛ぶことが出来るって」
そう言って、パチュリーは黒板に一枚の写真を貼り付けた。そこに写っていたのは先程大空をバッタ飛びしていたレミリアの姿。
「少なくともさっきのフライトでは、滑空こそしたけれど翼の角度が外に向きすぎていたのよ」
説明を続けながら、パチュリーは連射撮りした写真を次々と貼っていく。なるほどこれなら翼がどう動いていたのかが分かりやすい。
「しかも左右の翼の動かし方がバラバラ」
「あ、ほんとだ」
「これじゃあ上手く飛べるはずないわね」
分かりやすい反省点と修正点に、レミリア、フランも関心を示した様子で講義に集中を始めた。
(さすがパチェね。どこからカメラを持ち出したのかはさておき、とっても分かり易いわ)
「で、アンバランスな飛び方をした結果が」
パチュリーが最後に貼った写真は、先程外でバッタ呼ばわりされてがっくり項垂れているレミリアの姿だった。
「この様である」
「ぶっ」
「ぷふっ」
「待てやコラァ!!」
横にいた二人が同時に吹き出したものだから、流石のレミリアも黙ってはいられない。
「何撮ってんの!? 何撮ってんの!?」
「落ち着きなさいレミィ」
「落ち着いてられるかぁ! 何勝手に人の黒歴史保存してんのよ! それにパチェ! あんたさっき風景撮ってたって言ってたじゃない!」
「たまたま風景に紛れ込んでたのよレミィが」
「嘘つけ! どっからどう見ても風景要素ゼロ私オンリーよ! ばっちりフォーカスロックしてあるじゃない!」
「悔しさを噛み締めることもまた修行よレミィ」
「あ、あんたねえ……!」
「とにかく、今は飛行の基礎を覚えるのが先よ」
友人の怒る様に動じることなくパチュリーが指差したのは、人の身長の数倍はあろう高さの本棚だった。
「まずはあそこから滑空する練習からね」
「ま、また私にバッタ飛びさせる気!?」
(自分でバッタ言った……)
(自分でバッタって言いましたね……)
フランと美鈴の乾いた視線に気付くことなく、レミリアはパチュリーに抗議するが、
「ただし、羽は一切動かさないこと」
「え……?」
付け加えられたその一言に、レミリアは言葉を詰まらせる。
「いくらあなたでも、延々と羽を動かし続けるのは疲れるでしょう? 羽を止めても高度をなるべく落とさないように、どうすれば自分の身体が一番安定するかを見極めるのよ」
「なるほど……ハングライダーの要領ね」
納得し、レミリアは軽く跳ねると難なく本棚に立っていた。
「いい? レミィ。いつも飛んでる時の感覚は捨てて。その羽で空気を掴むのよ」
「わ、分かった……やってみるわ」
レミリアは翼を大きく広げ、ゆっくりと地面でなく、前を見た。
(さっきは不恰好だったけど、一応落ちてはいなかった……空気を捉えてた感覚を忘れなければいけるはず)
「お姉様! 落ち着いてやれば大丈夫よ!」
「パチュリー様の計算に狂いはありません! いけますよ!」
何だかんだで、フラン、美鈴も応援してくれている。この館の長として、この声援に応えないわけにはいけない。レミリアに迷いは無かった。
無様でも、不恰好でもいい。今はただ、目の前にある目標を一つずつクリアしていくのが重要なのだ。レミリアは軽い足取りで身体を宙に預けた。
「お」
「あ」
「おおっ」
その時、小さな歓声が上がった。
「パ、パチェ……!」
一番驚いていたのはレミリア自身だった。彼女の身体はバランスを崩すことなく、確かに空を真っ直ぐに滑っていたのだ。
「やった、やったわお姉様!」
「安定してますよお嬢様!」
「とりあえず、第一段階は成功ね」
跳ねて喜ぶフランに、拳をギュッと握って喜ぶ美鈴、小さく息を吐いて安堵するパチュリーだったが、
「パ、パチェ!」
レミリアから飛んできた声には確かに焦りがあった。
「どうしたの? レミィ。問題なく飛べてるじゃない」
「どうやって止まるの……?」
「え」
「止まり方分かんないんですけど!?」
その言葉にパチュリーはレミリアの進路の先を見る。そこには壁のように聳え立つ本棚が置かれていた。
「あ」
「あ、じゃないわよパチェ! 何とかしなさいよ!」
「レミィ」
「な、なに……?」
「……死にはしないわ」
「ちょ……!?」
時間にして僅か数秒。限られた時間の中、限られた言葉で、今のレミリアを救う術は、残されていなかった。
「いやああああやめてとめてやめてとめてやめてええぇぇ!!」
ベチャッ
「ぺぷしっ」
見守っていたフラン、美鈴、パチュリーの目に映ったのは、本棚にフレンドパークのウォールクラッシュばりに張り付いた紅魔館の主の姿だった。
「……」
「……」
「……バッ――」
「それ以上はいけないわフラン」
「まったく! パチェのせいで酷い目に遭ったわ!」
「でも、得るものはあったでしょう?」
ご機嫌斜め絶好調のレミリアとは対象的に、パチュリーは至って冷静に事を進めていた。
「これでバランスの取り方は大体掴めたはず。あとは羽ばたき方を覚えれば完璧よ」
「ほ、ほんとに大丈夫なの……?」
「羽を動かさないであれだけ滑空出来たんだから、後は動かして浮かすだけ、でしょ?」
「ま、まあそうだけど……」
「あ、さっきのも写真撮ったけど見る?」
「捨てといて!」
不安は残るが、レミリアは反論出来なかった。彼女の言葉は正論であるし、レミリア自身もまた空を飛ぶ事に対し、僅かながら手応えを感じていた。
「ここからはフランと美鈴にも手伝って貰うわ」
「え?」
「私達ですか?」
これまで傍観者の立場だった二人は唐突に名前を呼ばれ、目を丸くした。
「なんてことは無いわ。これを持って、レミィの後ろに立ってるだけでいいの」
そう言って二人が渡されたのは、取っ手の付いた風車のような道具だった。
「なんです? これ」
「風速計よ」
「二人はレミィが羽ばたいてる時の風向きと風の強さを教えて頂戴。その数字を元に計算すれば、レミィが飛べる最適な条件を割り出すことが出来るはずよ」
なるほど、と納得し、二人はレミリアの背後に立った。
「えーと、今回は飛ばなくていいのよね?」
「ええ、立ったまま私の言う通りに羽を動かすだけでいいわ」
どうやら今回は地に足をつけてもいいらしい。それならば別段被害を被ることもないだろう。飛び方を学ぶ者としては聊か不謹慎ではあるかも知れないが、レミリアは安堵した。
「まずは軽く扇ぐ程度に動かしてみて」
「えーっと、こうかしら?」
レミリアは不慣れな様子で羽をパタパタと動かしてみたが、フランの持つ風速計は殆ど反応を示さない。彼女の前髪も軽く揺れる程度である。
「レミィ、さっき言ったじゃない。左右バラバラに動かしちゃ駄目って」
「相変わらず下手ねえ」
「う、五月蝿いわね!」
妹に野次られているようでは姉としての威厳は保てない。文句を漏らしながらも、レミリアは小さく息を吸い、自らの背中に意識を集中させた。
(見てなさいフラン、私の羽は飾りじゃないのよ)
その瞬間響いたのは、ブォンっという大きな風切り音だった。それは大きな風の波を生み、後方五メートル先に立つ二人に浴びせられた。
「んぷ!?」
「むぁ!?」
このような大きな風が生まれるとは思ってなかったのだろう。予想外の出来事に、フランと美鈴は思わず息を止めてしまった。カラカラと激しく回る風速計。それは指揮監督を務めるパチュリーにとっても計算を超えた結果だったのだろう。彼女もまた黙って目を丸くしてしまっていた。
「うはぁ……! 扇ぐ程度って言ったじゃないですか」
「え、え? 私軽く動かしただけなんだけど……?」
美鈴の言葉に驚いたのはレミリアだ。さっきとは間逆の反応が返ってきたのだから、そんな風を生んだ本人は戸惑いを隠せない。
「フラン、今ので風速いくつだった……?」
「え、えっと……確か23だったかな」
二人は突然の強風に驚かされて、まともに計測に集中していなかったのだろう。それは恐らく正確な数値ではない。最高値ではない。だがその数値は、パチュリーの頬を緩ませるには充分な数字だった。
「少なくとも23ノット以上……台風一歩手前。恐るべき数値ね」
「台風手前って、完全に強風じゃないですか」
「お、お姉様の羽って結構とんでもないのね……」
「ふ、ふふ……っ、私だってやれば出来るのよ?」
ようやく良い方向に舵が向き始めたのを悟り、レミリアは満足げに笑みを浮かべた。
「それじゃあ、ちょっとずつ風を強くしていくわよ?」
「え?」
「え?」
パチュリーその言葉に乾いた返事を返したのは、計測係の二人だった。
「え、じゃないわよ。強風程度の風でレミィの身体が浮くわけ無いでしょ」
「え?」
「え?」
そう、これはレミリアが空を飛ぶに足る風の力を生み出せるかを計る実験。
「それじゃ、頼むわよフラン、美鈴。次はもうちょっと強く羽ばたくわよ?」
「え?」
「え?」
風速計を握ったまま硬直している二人をよそに、レミリアは自信満々にその翼を大きく広げたのだった。
紅魔館メイド長、十六夜咲夜は困っていた。自分が大事にしているある物が無くなったからだ。掃除中、ちょっと目を離した隙に、誰かがそれを持って行ったのかもしれない。妖精メイド達一人一人に尋問してみたものの、手掛かりは掴めなかった。
「困ったわ……あれがないと」
かと言って必要以上に取り乱すわけにはいかない。従者の長たるもの、部下達の前では示しをつけなければならないからだ。溜息を吐いているばかりでは探し物は見つからない。咲夜は屋敷内をくまなく散策している最中であった。
「あら……何の音かしら?」
そんな彼女の耳に入ってきたのは、室内では聞きなれない轟音。図書館の方からだ。
「また泥棒でも忍び込んだのかしら」
乗り気はしないが、これだけ大きな音だ。弾幕勝負を誰かがしているのは間違いないだろう。不審者ならば見逃すわけには行かない。咲夜は図書館へと足を向けた。
「な……なんなのこれ」
図書館の扉の前で、咲夜は歩みを止めていた。図書館で何かが起こっているのは間違いない。先ほどの轟音はさらに大きな音となり咲夜の鼓膜を刺激していた。しかし、それよりも目に見えて明らかな異常がそこにはあった。扉だ。閉ざされている扉はガタガタと音を立てて暴れ、今にも内側から破られそうな勢いで内部の異常を知らせていたのだ。
緊急事態。咲夜はそれを直感し、迷うことなくドアノブを回した。その瞬間、内側から押し寄せる風圧により、ドアは乱暴にこじ開けられた。思わず目を閉じそうになる咲夜、しかし怯まず前を見たその先にあったものは、
「いい! いいわよレミィ! さっきより間違いなく風速が上がってるわ!」
何やら珍しく興奮した様子の図書館の主と、
「私もだいぶコツが掴めてきたわパチェ! 今なら多分羽だけで小豆を掴めるわ!」
中腰で大きな翼を上下させ、規格外の強風を生み出している自分の主と、
「あばばばばばばばばばばば!」
「あばばばばばばばばばばば!」
その背後で風車片手にその強風に必死で耐えている、その主の妹と門番だった。
「な、何やってるんですかお嬢様!?」
「あ、ちょうどいいところに来たわね咲夜! 今日は紅魔館の歴史に残る偉大な日になるわ!」
よくは分からないが緊急事態では無いらしい。しかし異常事態であることに変わりはない。
「パ、パチュリー様、これは一体……!?」
「話は後よ咲夜、もうちょっとで最高記録を叩き出せるんだから!」
「はい!?」
「フラン、美鈴! 風速今いくつ!?」
「おぶびゅうばびばばば!」
「ばぶりーばばぼぅぶぃべぶぁ!」
「六十いくつ!? なんて言ってんのか分からないわよ!」
「とりあえず一旦落ち着きましょうか!?」
実験のようだが今はそんなことはどうでもいい。美鈴はともかく妹であるフランまでもがあまりの風圧でスカートどころか唇と瞼までめくれ上がり、パンツと歯茎と眼球が大公開状態となってしまっていたのだ。興奮状態にあるレミリアの翼に強引にしがみつき、なんとか咲夜はこの歩くジェットエンジンを止めたのだった。
「まったく、とんだ邪魔が入ったものだわ」
「……いや、すっごい助かったわ咲夜」
「目が潰れるかと思いましたよ……」
せっかくの実験を中断され頬を膨らますレミリアの横で、フラン、美鈴は満身創痍の様子で机に突っ伏していた。
「空を翼で飛びたい気持ちは分かりましたが、これはさすがにやりすぎです!」
「まあ、確かにちょっとやりすぎたかもしれないわね……」
そう言ってパチュリーは荒れに荒れた図書館無いを見て苦い顔になる。レミリアの翼から生み出された風は風速68ノットを超え、70に到達する勢いにまで上がっていたのだ。通常の人間ならとっくに吹き飛ばされている。下手すれば樹木が倒れる。一部の本は塵と化し、本棚はドミノのように寝そべっていた。咲夜が怒るのも無理はない。この惨状の後片付けの指揮監督は、後々彼女がこなさねばならなくなるのだから。
「でも、これで必要なデータは揃った……そうでしょ? パチェ」
「ええそうね。おおよそ準備は整ったわ」
そう言って、パチュリーは再び数枚の写真を黒板に貼り付けた。その写真に真っ先に反応したのは、レミリアではなく咲夜だった。
「パ、パチュリー様、その写真は……!」
「ああ、咲夜、珍しいカメラだったからちょっと借りてたわ」
「わ、私の大事なZ3〇0!」
(お前のかよ!)
慌ててカメラをパチュリーの手から奪い取った従者に、レミリアは心の中で叫んだ。
「中々面白いカメラね。天狗のとは違って、カメラの中から直接写真が出てくる構造になってるなんて」
「ポラロイドカメラというものらしいです。古道具屋で珍しいから買ってみたら、意外とはまってしまいまして」
「使い方が正しいかは分からないけど、かなり高性能なカメラよこれ。ほら、撮った写真の記録がこの窓から映るようになってるのよ」
「な、なんですかこのお嬢様の写真は!?」
「ああ、これは一番最初にバッタ飛びした時の――」
「あーそろそろカメラの話題はやめにしようか!?」
あのカメラの中にいくつ自分の恥ずかしい写真が埋まっているか分かったもんじゃない。レミリアは早々に飛行計画に話を移し変えた。
「でも、正直もう準備する必要も無いのよね……あれだけの風を50パーセントの力で起こせるなら、直線だけなら天狗に匹敵する速度を得られるはずだわ」
(あれで半分の力ですか……)
(お姉様……化け物ね)
(そこまで分かってるのに何で実験続けてたのでしょうか)
あれ以上風を起こしていたら冗談抜きに図書館が壊滅状態になっていたのではなかろうか? もしかしてパチュリー・ノーレッジは思いの外頭が残念な子なのではないだろうか? ていうかもう普通に飛んでいいから風起こさないほうが平和なのではなかろうか? 三人はそんな本音を表に出せず、ただただ無難な表情を維持するに留まった。
「そ、それなら……」
ごくりと息を飲むレミリアに対し、パチュリーは頷いた。
「私から教えることはもう何も無い。あとはレミィ……貴女が飛ぶだけよ」
「ふ……ふふっ」
その言葉に、レミリアは堪えていた笑いを漏らさずにはいられなかった。
「あ、咲夜、勝手にカメラ使って悪かったわね。余分なデータは消しておくわ」
「それを消すなんてとんでもない」
「おいちょっとそのカメラよこせ!」
勢いで発足したお嬢様自力飛行プロジェクトも、いよいよ最終局面を迎えようとしていた。あらゆるデータの比較、検討を繰り返し終わった頃には、時刻は既に夜の九時過ぎ。曇っていた空は回復に向かい、風は西南西3ノット。空には満月。絶好のフライトシチュエーションである。
「本当に自分の羽で飛ぶなんて」
元々の言いだしっぺであったフランは、こんなことになるとは想像もしていなかった。だから素直に驚きと同時に、この実践に不安を漏らした。
「大丈夫ですよ、お嬢様なら」
振り回されながらも自身の主を信じていた美鈴は柔らかにフランにそう言う。
「どこに行くのですか?」
咲夜のその問いに満月を背にしたレミリアはこう答えた。
「博麗神社よ」
「弾幕勝負?」
「ええ、いつぞやの借りを返すつもり」
「羨ましいなー」
「遊びじゃないのよ。紅魔館の主として、威厳を見せつけないと」
きっとフランは一緒に付いて行きたいのだろうが、今日は姉の大いなる旅立ちの日だ。妬み節を漏らしながらも我慢する妹の頭を、レミリアはそっと撫でた。
「レミィ、時間よ」
少し遅れて玄関から姿を現したのは、最後まで彼女を支えてくれた頼もしい友人だった。
「最初から飛ばしていくつもり?」
「ええ、その方が格好いいでしょ?」
「駄目よ、そんな無鉄砲じゃ。慌てずゆっくり上昇しなさい」
「嫌よ、そんな古臭いの」
「だからいいのよ、嵐にも驚かずに飛べるわ」
この友人はあくまで最後まで、自分に対し世話を焼くつもりらしい。しかしレミリアもまた、今まで忘れかけていた吸血鬼らしい飛翔に向けて、はやる気持ちを抑えられずにいた。
「せっかく苦労して練習したのに。ねえフラン?」
「私もパチュリーが正しいと思う」
「裏切り者」
悪態を吐いてはみるが、悪い気はしない。それがレミリアの正直な気持ちだった。ここにいる全ての住人が、今、この瞬間のために、自分のために集まってきてくれているのだから。
「飛ぶのに慣れてから、加速しなさい」
「……ええ」
無関心、無気力に見えても、ちゃんとこちらを見てくれている。そんな友人の言葉に、レミリアは少し不器用に言葉を返した。
「行ってくるわ」
「頑張ってね!」
もうそこには、自分のことをバッタと蔑む妹の姿は無かった。ただ素直に自分を姉と認めてくれる妹の言葉を背に受け、レミリアは翼を大きく広げた。
「ゴーゴーレーミィ! ゴーゴーレーミィ!」
突然に、美鈴が両手を挙げて声を張り上げた。恥ずかしげも無く主にエールを送る部下に、レミリアは小さくウィンクし、ゆっくりとその羽を動かし始めた。
「ゴーゴーレーミィ! ゴーゴーレーミィ!」
次第に彼女の背中を押す声は増え、美鈴だけでなく、フラン、咲夜、そしてパチュリーまでもが、出し慣れない大きな声を彼女の翼に浴びせかけた。そしてその声に押し上げられるかのように、大きな風の波と共に、レミリアの身体は浮上した。
「ゴーゴーレーミィ! ゴーゴーレーミィ!」
もはやレミリアに迷いは無かった。彼女は真下に向けていた羽を僅かに傾けた瞬間、大きく翼を振り上げると、思い切りその羽を振り下ろした。
その瞬間、大量の土煙が待った。それはレミリアの起こした風圧に押され、彼女の後方でエールを送っていた四人の顔を一瞬で泥まみれにした。
「ぶぇ!」
「えっ?」
レミリアのフライトは成功していた。彼女は間違いなく自身の翼で浮き上がり、隼のように鮮やかに空を上昇していた。だが、背後から聞こえた間の抜けた声に視線を逸らした瞬間、レミリアの身体は大きく左に傾いた。
「あ」
「あ」
「あ」
「あ」
その瞬間地上の四人の目に映ったのは、航路を大きく左に逸れ、そのまま湖に落下していく館の主のシルエットだった。
「……」
「……」
「……」
「……」
沈黙が流れた。当初徐々に高度を上げながら真っ直ぐ進み、湖を越えた辺りから高度を下げ、そのまま真っ直ぐ博麗神社に着陸するはずだったこのフライトプランには、肝心なことが抜けていたのだ。
それは、右折と左折だった。現状スペックでは両の羽を同時に同じ早さ、同じ力で動かすことしか出来ないレミリア・スカーレット機は、想定外の左への傾きに対応出来なかったのだ。
設計ミスであった。湖に浮かぶ波紋を見つめながら、悪魔の妹は呆れながら口を開いたのだった。
「相変わらず下手ねえ」
~完~
紅魔館門番、紅美鈴は尻餅をつきながら頭を上げた。
暇を持て余している主、レミリアに勝負のお付き合いをさせられるのはいつものことだが、こうも毎回勝てないと、流石の美鈴も少し悲しい気持ちを抑えられなくなってくる。
「まだまだ甘いわね美鈴」
パーティーホールのど真ん中に優雅に佇む主の姿は、堂々たる姿で部下を見据えていた。その眼差しが勝利に酔っているのか、不出来な部下の成長を楽しんでいるのかを察することは難しい。
「ううー……動きが早すぎるんですよ、お嬢様は」
今、美鈴に出来る反抗はその程度だった。それは自分の敗因の押し付けであり、美しくない行為であることは分かっている。「美」、自分の名に反する行為であることは分かっていたものの、言わなければ劣等感に潰されそうな気がしたから、美鈴はついついその言葉を漏らしてしまう。
「言い訳するくらいなら精進なさい。この館の門番を続けたいのならね」
主の言葉には頭が上がらない。こちらの弾幕を悉く掻い潜り、その懐に難なく入ってきてしまうこの上司。自分が守る必要があるのだろうか?
「どうも苦手なんですよねえ、お嬢様の……」
必要があるか無いかはさておき、
「あの、バッタみたいな動き」
それは言う必要は無かったと思う。
「バッ……タ……?」
その一言は、紅魔館の主、レミリア・スカレーットの表情を凍りつかせた。一瞬で下がるホール内の気温。
「あ……」
美鈴は瞬時に判断した。自分がとんでもないスイッチを押してしまったことを。こりゃあ今晩の晩御飯どころか胃袋抉り取られるってレベルですねいやー参ったなこんなことなら冷蔵庫に密かに待機させてたアボカドを昨晩のうちに山葵醤油に漬けて食べておけばよかったな、と。
「あ、いや、えっとですね? ほら、お嬢様って羽があるのにいっつも地面と空中蹴った移動が多いなって思ってですね?」
「で、私がバッタだと……?」
「あ、いやいやいや! お嬢様くらいの脚力ならそれだけの跳躍と加速も余裕なんだなーって思って凄いなーと」
「……つまり私は厚さ1メートルのコンクリート壁を蹴り砕く節足動物の改造人間だと……?」
「そう! お姉様はバッタなのよ!」
「ぬぁんですってぇ!?」
ホールの入り口から飛んできたその声に、レミリアは赤い瞳をより血走らせて殺気を露にする。その視線の先に立っていたのは、彼女の妹、フランドール・スカーレットだった。
「フラン……言っていいことと悪い事の区別くらいは教えたはずよ……!」
「じゃあ羽使って飛べばいいじゃない」
「ふぐぅっ!」
正論を突かれ、レミリアは思わず言葉を詰まらせた。そう、紅魔館どころか、幻想郷の誰も、見たことが無かったのだ。彼女、吸血鬼の長であるレミリアが、その翼だけで空を舞う姿を。
「わ、私は別に翼使わなくたって空浮いてられるからいいのよ!」
「それじゃ巫女や魔法使いと変わらないじゃない」
焦燥の相を浮かべるレミリアに対し、フランは乾いた瞳で返す。霊力、魔力及び妖力の類さえあれば、この世界の住人は大抵空を舞うことが出来るのだ。だが、フランはそれで納得をしなかった。
「やっぱ、吸血鬼は羽を使って空を飛ばなきゃ格好が付かないじゃない。ねえ美鈴?」
「え……ええ、そうですよね! 私もお嬢様がその羽で優雅に空を舞う姿を見てみたいです!」
渡りに船とはよく言ったものだ。汚いやり方かもしれない。しかし背に腹は代えられない。美鈴はフランの言葉に乗っかった。
逆に立場が危うい状況に陥ったのはレミリアだ。
「ふ、フランだってそんな羽じゃまともに空飛べないじゃない!」
「でも、お姉様はまともな羽を持ち合わせてるから……空を飛べるはずでしょう?」
「むぎぃっ!」
フランの洗濯物干しに吊るされた靴下のような羽と、レミリアの蝙蝠を象徴する威厳ある羽とでは比較にするのが無粋というもの。これにはレミリアも反論をすることが出来なかった。
「それに私……お姉様がかっこよく羽で空を飛ぶとこ……見てみたいなー……」
「ぬぐぐぅ……!」
これぞスカーレット家奥義、上目遣いのおねだりインパルス。相手は折れる。
「わ……分かったわよ! 羽で飛べばいいんでしょ羽で!」
「やったー! 私、お姉様のそういうチョロいとこ大好き!」
「今なんつった!?」
「お姉様のそういう超凛々しいとこ大好き!」
「誤魔化せてないからね!?」
かくして、レミリアは背に生えたカリスマ溢れる翼で空を飛ぶことを余儀なくされたのだ。
「……飛ぶの?」
「勿論」
「……飛ばなきゃ駄目?」
「勿論」
「大丈夫ですお嬢様! お嬢様なら空を飛ぶくらい問題ありません!」
紅魔館二階の窓から憂鬱な表情で顔を覗かせるレミリアに対し、庭から見上げるフランはいいから早く飛べと言った様子で吐き捨てた。その横には美鈴。妹の思いつきに振り回されながらも、彼女もまた、自分の主がその大きな翼で空を飛ぶ様を期待しているようだった。
幸か不幸か、この日は曇り。昼過ぎだというのに日光は注がず、雨は降っていない。絶好のフライトシチュエーションである。
「そ、それじゃあ飛ぶわよ……」
今、幻想郷の歴史に新たなる1ページが刻まれようとしていた。吸血鬼は妖力を使わずとも、その羽で優雅に空を舞うことが出来る。そんな明日使えるトリビアが今、まさに生まれようとしていた。
「大丈夫よお姉様……お姉様ならきっと出来るわ!」
「ファイトですお嬢様! 私はお嬢様を信じてますよ!」
「だ、だだだ大丈夫問題ないわ……なんたってわちゃしは紅魔館の主ですのも……!」
そんなフランと美鈴の声援が、レミリアをより硬直させた。浮かべる笑みとは裏腹に、レミリアはその額にじっとりと脂汗を浮かべていた。
「……ごくり」
レミリアは思わず唾を飲み込んだ。いつも見ている窓から見た地面が、こんなに高く感じたことは今まであっただろうか? そこに立つ見慣れた人物二人が、こんなに小さく見えたことがあっただろうか?
それでも、退くわけにはいかなかった。一度言ったYESをNOとするなど、彼女には出来なかった。有言実行、初志貫徹、それは上に立つ者の義務なのだ。一度引き抜いた葉が元に戻らぬように、一度割ったグラスが元に戻らぬように、一度信頼を失えば、レミリアという名の個に対する尊厳や威光は塵と化すであろう。
だから、彼女は窓の外枠に身を乗り出した。妹と、部下の期待に応えるために、その一歩を踏み出した。
「……ええい、ままよ!」
たんっと強く跳躍し、レミリアの身体は宙に放り出された。フランと美鈴が固唾を呑んで、彼女の勇士を目に焼き付けんとその身を緊張させているのが見て取れた。レミリアはその背に生えた大きな翼を広げ、
「うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ」
両腕をぐっと胸に引き付け、両拳をぎゅっと握ったまま、その羽をばたつかせた。
「……」
「……」
その光景はある意味、幻想郷の歴史に新たなる1ページを刻んだ、かも知れない。レミリア・スカーレット。彼女は確かにその翼を使って、およそ20メートル程度の距離を飛び、大地に立っていたのだ。
「……ど、どう!? ちゃんと飛べたわよね!?」
無事飛べた。それを証明することが出来たレミリアは興奮を抑えながらも立ち尽くした二人に振り返った。
しかし、このフライトが二人の期待に添った内容で無かったことは、二人の表情を見てすぐに理解出来てしまった。美鈴は口に出す言葉を迷い、フランに至っては死んだ魚のような目でこちらを見ていたのだ。
「美鈴、これってどう見ても……」
「……滑空、ですね」
「ほあぁ!?」
「羽、ブーンて音出してたよね」
「はい」
「ぐふぁ!」
「バッタよね」
「……はい」
「ぬふあぁ!!」
立て続けのコンボにレミリアの自尊心は打ち砕かれた。なんということだろう。500年という時を経て、自らが築き上げてきた威厳は、いとも容易く灰燼と化したのだ。
「あ……ああ……!」
二、三歩後ずさり、レミリアはその場に膝を落とした。滑った芸人を目の当たりにしたように見下してくる妹と、美鈴の同情の眼差しに耐えることが出来なかった。なんで、私はここにいるのだろう? なんで、こんな日に限って曇り空なのだろう? いっそのこと私が灰になったほうが、まだ楽だったかも知れないのに。レミリアはただ地面を見つめ、バッタのようにその場で項垂れた。
「待ちなさい、レミィ!」
そんなレミリアの耳に入ってきたのは、覚えのある声だった。最も近く、最も信頼のおける友人の声。
顔を上げたレミリアの目に映ったのは、頼れる識者であり、最も付き合いの長い友人、パチュリー・ノーレッジ。涼しく、冷静で、凛々しい姿のまま、彼女はポラロイドZ34〇をその手に抱えたまま、レミリアの目の前に立っていた。
「気を落とすにはまだ早いわよ、レミィ」
「パチェ、いつからいたの?」
「一部始終覗は拝見させてもらったわ」
「そのカメラは?」
「風景を撮ってたのよ」
「……誰に売る気?」
「風景を撮ってたのよ」
パチュリーが何を撮っていたかはさておき、どうやら彼女はレミリアが空を飛ぶことをまだ諦めてはいないらしい。
「元々人間を遥かに上回る運動能力があるのだから、コツさえ覚えれば簡単に空を飛ぶことが出来るはずよ」
「パチェ……」
「調度暇を持て余してた所だし、折角だから私がサポートしてあげるわ。そんな翼が縮こまった吸血鬼なんて、見ていられないもの」
レミリアは喜びを抑えられずにはいられなかった。やはり、持つべきものは友人だ。普段は本ばかり読んで気の利かないところもあるけれど、いざという時はこうやって、黙って手を差し伸べてくれる。日頃表情をあまり変えることの無い友人の慈悲深い微笑みに、レミリアは心から感謝した。
「ありがとうパチェ。私、絶対にこの羽で空を飛んでみせるわ!」
「私がサポートするんだもの、飛んで貰わなくちゃ困るわ。たとえあなたがバッタでも」
「だからバッタじゃないっての!」
かくして、パチュリーを筆頭に、フラン、美鈴を加えた「お嬢様飛行倶楽部」が結成された。
「……で、あるからして、レミィの体重、翼面積、翼幅を比較した結果、数字的には翼による自力飛行は可能なわけ」
「ほー」
「へー」
「ふーん」
図書館の一角に黒板を貼り付け、緻密なレミリア設計データをチョークで描き記していくパチュリーの姿は、宛ら京都大学鳥人間チームばりの熱の入りようであったが、それを理解するには、三人の脳力的スペックが聊か不十分であった。とりあえず分かった風に相槌を打つのがやっとである。
「でも、鳥と違って私達の身体は重いんでしょ? ほんとに飛べるわけ?」
「いいところに気付いたわね、フラン」
分からない講義を聞くよりは自分から質問した方がまだ利がある。半分眠気覚ましに近い苦し紛れな質問だったが、フランのその問いはパチュリーにとっては意義のある質問だったらしい。
「確かにフランの言う通り、人間の骨の重さは鳥の二、三倍ある。人間より頑丈な吸血鬼なら、その更に数倍はあるでしょうね。鳥は空を飛ぶために必要な胸の筋肉を進化させ、それ以外を全て退化させてきた。だから人間が空を飛ぶには、逆に数十倍の胸筋を身に着ける必要があるのよ」
「やったねお姉様! 巨乳になれるよ!」
「フラン、それは胸であって乳じゃないわ」
「仮に乳でもバケモノだと思いますよお嬢様」
一瞬胸筋がマッスルボマーな吸血少女を想像してしまったのか、レミリアと美鈴は苦い顔をしたが、パチュリーは至って冷静である。
「鍛える必要は無いわ。吸血鬼の筋肉そのものが人間と違うんだもの。元々レミィは人間の数十倍の運動能力を持ってるんだから、生物学的にはレミリアが空を飛ぶことは可能よ」
「でもさっきは飛べなかったじゃない」
「そうね、確かにさっきはバッタだったわ」
「バッタ言うな!」
バンバン机を叩いて涙目であるレミリアをよそに、パチュリーは続ける。
「最初に言ったはずよ? コツを覚えれば簡単に飛ぶことが出来るって」
そう言って、パチュリーは黒板に一枚の写真を貼り付けた。そこに写っていたのは先程大空をバッタ飛びしていたレミリアの姿。
「少なくともさっきのフライトでは、滑空こそしたけれど翼の角度が外に向きすぎていたのよ」
説明を続けながら、パチュリーは連射撮りした写真を次々と貼っていく。なるほどこれなら翼がどう動いていたのかが分かりやすい。
「しかも左右の翼の動かし方がバラバラ」
「あ、ほんとだ」
「これじゃあ上手く飛べるはずないわね」
分かりやすい反省点と修正点に、レミリア、フランも関心を示した様子で講義に集中を始めた。
(さすがパチェね。どこからカメラを持ち出したのかはさておき、とっても分かり易いわ)
「で、アンバランスな飛び方をした結果が」
パチュリーが最後に貼った写真は、先程外でバッタ呼ばわりされてがっくり項垂れているレミリアの姿だった。
「この様である」
「ぶっ」
「ぷふっ」
「待てやコラァ!!」
横にいた二人が同時に吹き出したものだから、流石のレミリアも黙ってはいられない。
「何撮ってんの!? 何撮ってんの!?」
「落ち着きなさいレミィ」
「落ち着いてられるかぁ! 何勝手に人の黒歴史保存してんのよ! それにパチェ! あんたさっき風景撮ってたって言ってたじゃない!」
「たまたま風景に紛れ込んでたのよレミィが」
「嘘つけ! どっからどう見ても風景要素ゼロ私オンリーよ! ばっちりフォーカスロックしてあるじゃない!」
「悔しさを噛み締めることもまた修行よレミィ」
「あ、あんたねえ……!」
「とにかく、今は飛行の基礎を覚えるのが先よ」
友人の怒る様に動じることなくパチュリーが指差したのは、人の身長の数倍はあろう高さの本棚だった。
「まずはあそこから滑空する練習からね」
「ま、また私にバッタ飛びさせる気!?」
(自分でバッタ言った……)
(自分でバッタって言いましたね……)
フランと美鈴の乾いた視線に気付くことなく、レミリアはパチュリーに抗議するが、
「ただし、羽は一切動かさないこと」
「え……?」
付け加えられたその一言に、レミリアは言葉を詰まらせる。
「いくらあなたでも、延々と羽を動かし続けるのは疲れるでしょう? 羽を止めても高度をなるべく落とさないように、どうすれば自分の身体が一番安定するかを見極めるのよ」
「なるほど……ハングライダーの要領ね」
納得し、レミリアは軽く跳ねると難なく本棚に立っていた。
「いい? レミィ。いつも飛んでる時の感覚は捨てて。その羽で空気を掴むのよ」
「わ、分かった……やってみるわ」
レミリアは翼を大きく広げ、ゆっくりと地面でなく、前を見た。
(さっきは不恰好だったけど、一応落ちてはいなかった……空気を捉えてた感覚を忘れなければいけるはず)
「お姉様! 落ち着いてやれば大丈夫よ!」
「パチュリー様の計算に狂いはありません! いけますよ!」
何だかんだで、フラン、美鈴も応援してくれている。この館の長として、この声援に応えないわけにはいけない。レミリアに迷いは無かった。
無様でも、不恰好でもいい。今はただ、目の前にある目標を一つずつクリアしていくのが重要なのだ。レミリアは軽い足取りで身体を宙に預けた。
「お」
「あ」
「おおっ」
その時、小さな歓声が上がった。
「パ、パチェ……!」
一番驚いていたのはレミリア自身だった。彼女の身体はバランスを崩すことなく、確かに空を真っ直ぐに滑っていたのだ。
「やった、やったわお姉様!」
「安定してますよお嬢様!」
「とりあえず、第一段階は成功ね」
跳ねて喜ぶフランに、拳をギュッと握って喜ぶ美鈴、小さく息を吐いて安堵するパチュリーだったが、
「パ、パチェ!」
レミリアから飛んできた声には確かに焦りがあった。
「どうしたの? レミィ。問題なく飛べてるじゃない」
「どうやって止まるの……?」
「え」
「止まり方分かんないんですけど!?」
その言葉にパチュリーはレミリアの進路の先を見る。そこには壁のように聳え立つ本棚が置かれていた。
「あ」
「あ、じゃないわよパチェ! 何とかしなさいよ!」
「レミィ」
「な、なに……?」
「……死にはしないわ」
「ちょ……!?」
時間にして僅か数秒。限られた時間の中、限られた言葉で、今のレミリアを救う術は、残されていなかった。
「いやああああやめてとめてやめてとめてやめてええぇぇ!!」
ベチャッ
「ぺぷしっ」
見守っていたフラン、美鈴、パチュリーの目に映ったのは、本棚にフレンドパークのウォールクラッシュばりに張り付いた紅魔館の主の姿だった。
「……」
「……」
「……バッ――」
「それ以上はいけないわフラン」
「まったく! パチェのせいで酷い目に遭ったわ!」
「でも、得るものはあったでしょう?」
ご機嫌斜め絶好調のレミリアとは対象的に、パチュリーは至って冷静に事を進めていた。
「これでバランスの取り方は大体掴めたはず。あとは羽ばたき方を覚えれば完璧よ」
「ほ、ほんとに大丈夫なの……?」
「羽を動かさないであれだけ滑空出来たんだから、後は動かして浮かすだけ、でしょ?」
「ま、まあそうだけど……」
「あ、さっきのも写真撮ったけど見る?」
「捨てといて!」
不安は残るが、レミリアは反論出来なかった。彼女の言葉は正論であるし、レミリア自身もまた空を飛ぶ事に対し、僅かながら手応えを感じていた。
「ここからはフランと美鈴にも手伝って貰うわ」
「え?」
「私達ですか?」
これまで傍観者の立場だった二人は唐突に名前を呼ばれ、目を丸くした。
「なんてことは無いわ。これを持って、レミィの後ろに立ってるだけでいいの」
そう言って二人が渡されたのは、取っ手の付いた風車のような道具だった。
「なんです? これ」
「風速計よ」
「二人はレミィが羽ばたいてる時の風向きと風の強さを教えて頂戴。その数字を元に計算すれば、レミィが飛べる最適な条件を割り出すことが出来るはずよ」
なるほど、と納得し、二人はレミリアの背後に立った。
「えーと、今回は飛ばなくていいのよね?」
「ええ、立ったまま私の言う通りに羽を動かすだけでいいわ」
どうやら今回は地に足をつけてもいいらしい。それならば別段被害を被ることもないだろう。飛び方を学ぶ者としては聊か不謹慎ではあるかも知れないが、レミリアは安堵した。
「まずは軽く扇ぐ程度に動かしてみて」
「えーっと、こうかしら?」
レミリアは不慣れな様子で羽をパタパタと動かしてみたが、フランの持つ風速計は殆ど反応を示さない。彼女の前髪も軽く揺れる程度である。
「レミィ、さっき言ったじゃない。左右バラバラに動かしちゃ駄目って」
「相変わらず下手ねえ」
「う、五月蝿いわね!」
妹に野次られているようでは姉としての威厳は保てない。文句を漏らしながらも、レミリアは小さく息を吸い、自らの背中に意識を集中させた。
(見てなさいフラン、私の羽は飾りじゃないのよ)
その瞬間響いたのは、ブォンっという大きな風切り音だった。それは大きな風の波を生み、後方五メートル先に立つ二人に浴びせられた。
「んぷ!?」
「むぁ!?」
このような大きな風が生まれるとは思ってなかったのだろう。予想外の出来事に、フランと美鈴は思わず息を止めてしまった。カラカラと激しく回る風速計。それは指揮監督を務めるパチュリーにとっても計算を超えた結果だったのだろう。彼女もまた黙って目を丸くしてしまっていた。
「うはぁ……! 扇ぐ程度って言ったじゃないですか」
「え、え? 私軽く動かしただけなんだけど……?」
美鈴の言葉に驚いたのはレミリアだ。さっきとは間逆の反応が返ってきたのだから、そんな風を生んだ本人は戸惑いを隠せない。
「フラン、今ので風速いくつだった……?」
「え、えっと……確か23だったかな」
二人は突然の強風に驚かされて、まともに計測に集中していなかったのだろう。それは恐らく正確な数値ではない。最高値ではない。だがその数値は、パチュリーの頬を緩ませるには充分な数字だった。
「少なくとも23ノット以上……台風一歩手前。恐るべき数値ね」
「台風手前って、完全に強風じゃないですか」
「お、お姉様の羽って結構とんでもないのね……」
「ふ、ふふ……っ、私だってやれば出来るのよ?」
ようやく良い方向に舵が向き始めたのを悟り、レミリアは満足げに笑みを浮かべた。
「それじゃあ、ちょっとずつ風を強くしていくわよ?」
「え?」
「え?」
パチュリーその言葉に乾いた返事を返したのは、計測係の二人だった。
「え、じゃないわよ。強風程度の風でレミィの身体が浮くわけ無いでしょ」
「え?」
「え?」
そう、これはレミリアが空を飛ぶに足る風の力を生み出せるかを計る実験。
「それじゃ、頼むわよフラン、美鈴。次はもうちょっと強く羽ばたくわよ?」
「え?」
「え?」
風速計を握ったまま硬直している二人をよそに、レミリアは自信満々にその翼を大きく広げたのだった。
紅魔館メイド長、十六夜咲夜は困っていた。自分が大事にしているある物が無くなったからだ。掃除中、ちょっと目を離した隙に、誰かがそれを持って行ったのかもしれない。妖精メイド達一人一人に尋問してみたものの、手掛かりは掴めなかった。
「困ったわ……あれがないと」
かと言って必要以上に取り乱すわけにはいかない。従者の長たるもの、部下達の前では示しをつけなければならないからだ。溜息を吐いているばかりでは探し物は見つからない。咲夜は屋敷内をくまなく散策している最中であった。
「あら……何の音かしら?」
そんな彼女の耳に入ってきたのは、室内では聞きなれない轟音。図書館の方からだ。
「また泥棒でも忍び込んだのかしら」
乗り気はしないが、これだけ大きな音だ。弾幕勝負を誰かがしているのは間違いないだろう。不審者ならば見逃すわけには行かない。咲夜は図書館へと足を向けた。
「な……なんなのこれ」
図書館の扉の前で、咲夜は歩みを止めていた。図書館で何かが起こっているのは間違いない。先ほどの轟音はさらに大きな音となり咲夜の鼓膜を刺激していた。しかし、それよりも目に見えて明らかな異常がそこにはあった。扉だ。閉ざされている扉はガタガタと音を立てて暴れ、今にも内側から破られそうな勢いで内部の異常を知らせていたのだ。
緊急事態。咲夜はそれを直感し、迷うことなくドアノブを回した。その瞬間、内側から押し寄せる風圧により、ドアは乱暴にこじ開けられた。思わず目を閉じそうになる咲夜、しかし怯まず前を見たその先にあったものは、
「いい! いいわよレミィ! さっきより間違いなく風速が上がってるわ!」
何やら珍しく興奮した様子の図書館の主と、
「私もだいぶコツが掴めてきたわパチェ! 今なら多分羽だけで小豆を掴めるわ!」
中腰で大きな翼を上下させ、規格外の強風を生み出している自分の主と、
「あばばばばばばばばばばば!」
「あばばばばばばばばばばば!」
その背後で風車片手にその強風に必死で耐えている、その主の妹と門番だった。
「な、何やってるんですかお嬢様!?」
「あ、ちょうどいいところに来たわね咲夜! 今日は紅魔館の歴史に残る偉大な日になるわ!」
よくは分からないが緊急事態では無いらしい。しかし異常事態であることに変わりはない。
「パ、パチュリー様、これは一体……!?」
「話は後よ咲夜、もうちょっとで最高記録を叩き出せるんだから!」
「はい!?」
「フラン、美鈴! 風速今いくつ!?」
「おぶびゅうばびばばば!」
「ばぶりーばばぼぅぶぃべぶぁ!」
「六十いくつ!? なんて言ってんのか分からないわよ!」
「とりあえず一旦落ち着きましょうか!?」
実験のようだが今はそんなことはどうでもいい。美鈴はともかく妹であるフランまでもがあまりの風圧でスカートどころか唇と瞼までめくれ上がり、パンツと歯茎と眼球が大公開状態となってしまっていたのだ。興奮状態にあるレミリアの翼に強引にしがみつき、なんとか咲夜はこの歩くジェットエンジンを止めたのだった。
「まったく、とんだ邪魔が入ったものだわ」
「……いや、すっごい助かったわ咲夜」
「目が潰れるかと思いましたよ……」
せっかくの実験を中断され頬を膨らますレミリアの横で、フラン、美鈴は満身創痍の様子で机に突っ伏していた。
「空を翼で飛びたい気持ちは分かりましたが、これはさすがにやりすぎです!」
「まあ、確かにちょっとやりすぎたかもしれないわね……」
そう言ってパチュリーは荒れに荒れた図書館無いを見て苦い顔になる。レミリアの翼から生み出された風は風速68ノットを超え、70に到達する勢いにまで上がっていたのだ。通常の人間ならとっくに吹き飛ばされている。下手すれば樹木が倒れる。一部の本は塵と化し、本棚はドミノのように寝そべっていた。咲夜が怒るのも無理はない。この惨状の後片付けの指揮監督は、後々彼女がこなさねばならなくなるのだから。
「でも、これで必要なデータは揃った……そうでしょ? パチェ」
「ええそうね。おおよそ準備は整ったわ」
そう言って、パチュリーは再び数枚の写真を黒板に貼り付けた。その写真に真っ先に反応したのは、レミリアではなく咲夜だった。
「パ、パチュリー様、その写真は……!」
「ああ、咲夜、珍しいカメラだったからちょっと借りてたわ」
「わ、私の大事なZ3〇0!」
(お前のかよ!)
慌ててカメラをパチュリーの手から奪い取った従者に、レミリアは心の中で叫んだ。
「中々面白いカメラね。天狗のとは違って、カメラの中から直接写真が出てくる構造になってるなんて」
「ポラロイドカメラというものらしいです。古道具屋で珍しいから買ってみたら、意外とはまってしまいまして」
「使い方が正しいかは分からないけど、かなり高性能なカメラよこれ。ほら、撮った写真の記録がこの窓から映るようになってるのよ」
「な、なんですかこのお嬢様の写真は!?」
「ああ、これは一番最初にバッタ飛びした時の――」
「あーそろそろカメラの話題はやめにしようか!?」
あのカメラの中にいくつ自分の恥ずかしい写真が埋まっているか分かったもんじゃない。レミリアは早々に飛行計画に話を移し変えた。
「でも、正直もう準備する必要も無いのよね……あれだけの風を50パーセントの力で起こせるなら、直線だけなら天狗に匹敵する速度を得られるはずだわ」
(あれで半分の力ですか……)
(お姉様……化け物ね)
(そこまで分かってるのに何で実験続けてたのでしょうか)
あれ以上風を起こしていたら冗談抜きに図書館が壊滅状態になっていたのではなかろうか? もしかしてパチュリー・ノーレッジは思いの外頭が残念な子なのではないだろうか? ていうかもう普通に飛んでいいから風起こさないほうが平和なのではなかろうか? 三人はそんな本音を表に出せず、ただただ無難な表情を維持するに留まった。
「そ、それなら……」
ごくりと息を飲むレミリアに対し、パチュリーは頷いた。
「私から教えることはもう何も無い。あとはレミィ……貴女が飛ぶだけよ」
「ふ……ふふっ」
その言葉に、レミリアは堪えていた笑いを漏らさずにはいられなかった。
「あ、咲夜、勝手にカメラ使って悪かったわね。余分なデータは消しておくわ」
「それを消すなんてとんでもない」
「おいちょっとそのカメラよこせ!」
勢いで発足したお嬢様自力飛行プロジェクトも、いよいよ最終局面を迎えようとしていた。あらゆるデータの比較、検討を繰り返し終わった頃には、時刻は既に夜の九時過ぎ。曇っていた空は回復に向かい、風は西南西3ノット。空には満月。絶好のフライトシチュエーションである。
「本当に自分の羽で飛ぶなんて」
元々の言いだしっぺであったフランは、こんなことになるとは想像もしていなかった。だから素直に驚きと同時に、この実践に不安を漏らした。
「大丈夫ですよ、お嬢様なら」
振り回されながらも自身の主を信じていた美鈴は柔らかにフランにそう言う。
「どこに行くのですか?」
咲夜のその問いに満月を背にしたレミリアはこう答えた。
「博麗神社よ」
「弾幕勝負?」
「ええ、いつぞやの借りを返すつもり」
「羨ましいなー」
「遊びじゃないのよ。紅魔館の主として、威厳を見せつけないと」
きっとフランは一緒に付いて行きたいのだろうが、今日は姉の大いなる旅立ちの日だ。妬み節を漏らしながらも我慢する妹の頭を、レミリアはそっと撫でた。
「レミィ、時間よ」
少し遅れて玄関から姿を現したのは、最後まで彼女を支えてくれた頼もしい友人だった。
「最初から飛ばしていくつもり?」
「ええ、その方が格好いいでしょ?」
「駄目よ、そんな無鉄砲じゃ。慌てずゆっくり上昇しなさい」
「嫌よ、そんな古臭いの」
「だからいいのよ、嵐にも驚かずに飛べるわ」
この友人はあくまで最後まで、自分に対し世話を焼くつもりらしい。しかしレミリアもまた、今まで忘れかけていた吸血鬼らしい飛翔に向けて、はやる気持ちを抑えられずにいた。
「せっかく苦労して練習したのに。ねえフラン?」
「私もパチュリーが正しいと思う」
「裏切り者」
悪態を吐いてはみるが、悪い気はしない。それがレミリアの正直な気持ちだった。ここにいる全ての住人が、今、この瞬間のために、自分のために集まってきてくれているのだから。
「飛ぶのに慣れてから、加速しなさい」
「……ええ」
無関心、無気力に見えても、ちゃんとこちらを見てくれている。そんな友人の言葉に、レミリアは少し不器用に言葉を返した。
「行ってくるわ」
「頑張ってね!」
もうそこには、自分のことをバッタと蔑む妹の姿は無かった。ただ素直に自分を姉と認めてくれる妹の言葉を背に受け、レミリアは翼を大きく広げた。
「ゴーゴーレーミィ! ゴーゴーレーミィ!」
突然に、美鈴が両手を挙げて声を張り上げた。恥ずかしげも無く主にエールを送る部下に、レミリアは小さくウィンクし、ゆっくりとその羽を動かし始めた。
「ゴーゴーレーミィ! ゴーゴーレーミィ!」
次第に彼女の背中を押す声は増え、美鈴だけでなく、フラン、咲夜、そしてパチュリーまでもが、出し慣れない大きな声を彼女の翼に浴びせかけた。そしてその声に押し上げられるかのように、大きな風の波と共に、レミリアの身体は浮上した。
「ゴーゴーレーミィ! ゴーゴーレーミィ!」
もはやレミリアに迷いは無かった。彼女は真下に向けていた羽を僅かに傾けた瞬間、大きく翼を振り上げると、思い切りその羽を振り下ろした。
その瞬間、大量の土煙が待った。それはレミリアの起こした風圧に押され、彼女の後方でエールを送っていた四人の顔を一瞬で泥まみれにした。
「ぶぇ!」
「えっ?」
レミリアのフライトは成功していた。彼女は間違いなく自身の翼で浮き上がり、隼のように鮮やかに空を上昇していた。だが、背後から聞こえた間の抜けた声に視線を逸らした瞬間、レミリアの身体は大きく左に傾いた。
「あ」
「あ」
「あ」
「あ」
その瞬間地上の四人の目に映ったのは、航路を大きく左に逸れ、そのまま湖に落下していく館の主のシルエットだった。
「……」
「……」
「……」
「……」
沈黙が流れた。当初徐々に高度を上げながら真っ直ぐ進み、湖を越えた辺りから高度を下げ、そのまま真っ直ぐ博麗神社に着陸するはずだったこのフライトプランには、肝心なことが抜けていたのだ。
それは、右折と左折だった。現状スペックでは両の羽を同時に同じ早さ、同じ力で動かすことしか出来ないレミリア・スカーレット機は、想定外の左への傾きに対応出来なかったのだ。
設計ミスであった。湖に浮かぶ波紋を見つめながら、悪魔の妹は呆れながら口を開いたのだった。
「相変わらず下手ねえ」
~完~
面白かったです。お嬢様のバッタ卒業を願ってますw
現時点であれぐらいパワフルな風力を生み出せるなら、ロリ巨乳……もといロリ巨胸筋のお嬢様はどれだけのパワーが出せるのか気になうわなにするやめ
吸血鬼の宅急便への道は遠そうですねw
面白いのが納得ですよ
通常飛行と併用してより安定した空のたびを楽しむことにはしなかったあたり、紅魔館当主としてプライドがあるんでしょうね。