Coolier - 新生・東方創想話

ぜんまいじかけのラズベリーケーキ

2012/08/05 19:47:37
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 *一部に、残酷とおもわれる描写を含んでいます。
 





 金だらいをひっくり返したような音が聞こえて、わたしは起きた。
 窓の外は、雨だった。たちまち窓は、べっとりと黒くよごれていく。
 最近の雨は、いつもこうだ。おかげで、窓は拭いても拭いても煤けた色になってしまう。
 雨に混じって、何かがばらばらと落ちてきては、屋根にぶつかって跳ねている。さっきの音の正体は、これだった。
 黒く煤けた窓をのぞきこむと、窓のサッシに何かの金属の破片や、ねじが転がっていた。
 まちのほうで、また紛争がはじまったのかもしれない。それとも、戦争だろうか。
 窓を開ける気にはならなかった。部屋が汚れるばかりだし、きっと空気も、いつも以上におかしな刺激臭がするのだろう。薬品と、火薬が燃えるにおいだ。いつもはまちのほうから流れてくるけど、今日は別の方角からもやってくるかもしれない。
 ほんとうに世界の終わりをみる羽目になるかもしれないな、と「ひきがえる」が言っていたのをおもいだす。
『こんなんだったら、仙人になって長生きだなんて、するもんじゃなかったな』
 ほんとうに、そうだ。
 わたしの知っている世界はどんどん消えていく。どんどん、壊れていく。

 一階に降りる。無数の本が並んだ本棚に囲まれて、簡素な机がひとつおいてある。
 わたしの研究室だった。みためは研究室だなんて似つかわしくないかもしれない。だけどこの本たちは、わたしが生きてきた千年間に得たものから厳選したものだ。価値ははかり知れない。
 そろそろ、本気で地下室に引越したほうがいいかも知れないな。とわたしはおもった。外がこんなんじゃあ、いつ何が起こって家ごとすっ飛ばされるかわからない。
 今あるこれらの本は、ほとんどが仙術と、あるひとつの「研究」のための本だった。
 その「研究相手」は、部屋のまんなかで、玄関のほうをむいて、立っていた。
 まるで、からっぽのかかしのように、電池の切れたおもちゃのように、ただ、立っていた。
 その顔には、なんの表情もない。
 死体の顔だった。
「芳香」とわたしは言った。
 すると、その死体の顔が、目覚めたかのように生き生きとしはじめる。どんより濁っていた目がぱっちりと覚めて、うれしそうに口角をあげて、くるり、とこちらを振り向く。
「せいが!」
 芳香は、ぴょんぴょんと跳ねながらこちらにやってくる。肌の色は悪いし、関節部分は硬直してしまっているけど、肉付きのいいからだは昔のまま、出会った頃のまま、少しも変わらない。跳ねるたびに、胸のあたりが揺れている。
「芳香。今日は、誰か尋ねてきた?」
「ううん。だれもこない。ずっとひとりだった」
「寂しかったでしょう?」
「うん。さびしかった。青娥がくるまで、さびしかったよ」
「わたしがいると、うれしい?」
「うん。うれしいよ」
「芳香、わたしが、好き?」
「すきだよ。わたし、青娥がすきだよ」
「そう。うれしいわ」
「このせかいで、いちばんすき」
「うれしいわ。芳香」
「わたし、青娥のいろんなところがすき」
「ありがとう」
「ねえ、いつもみたいにだきしめて」
 芳香は、微笑みながら、こちらを見上げている。わたしが好きな、おねだりする顔だ。
「わたしがそういう仕草を好み」だから、芳香はこんな、媚びるような笑顔を浮かべているのだ。
「……」
「どうしたの? どうして、だいてくれないの?」
 芳香は、わたしにすりすりしながらねだってきた。芳香のからだは、冷たかったけど、やわらかかった。
「わたしがそういう仕草を好み」だから、からだをすりよせてくるのだ。
「……ううん。なんでもないわ。芳香、今日は、お札を外しましょうか」
 芳香の顔が、はじめてくもった。
「せいが、やめよう」
「どうして?」
「わたし、このふだをはずされると、よくわかんなくなるの。まるでまっくらやみのそこにいるみたいになるの。じぶんが、きえてしまいそうになるの」
「……ねえ。芳香」
 ふいに、我慢できなくなった。
「もし、今のあなたは、ただ、お札に操られているだけで、このお札を外しているときのあなたが、実はほんとうのあなただったら……どうする?」
 芳香の眼差しが、不安げに揺れた。
「……なにをいっているの? せいがのいうことは、よくわからない」
「芳香は、わたしのこと、好きだって言ってくれるよね」
「うん。そうだよ。わたし、青娥のこと、すきだし」
「それは、ただ、その札に言わされているだけなのよ。いや、もっと言えば、その札を管理しているとても悪いひとに言わされているだけなのよ」
「え……じゃ、じゃあ、いま、このわたしは、だれなの? 青娥をすきだっていうこのわたしは、だれなの?」
「……その、まっくらやみの底そのもの。ただの、からっぽの、操り人形さん」
「いやだ」
 芳香は、ぶるぶると震えていた。
「……こわいよ。せいが、うそだよね。そんなの。そんなひどいこと、ないよね」
「……そうね。そんなの、ひどいよね。許されることじゃ、ないよね」
 わたしはこみあげてくる吐き気をおさえながら、にっこりと笑った。笑うふりをするのは慣れている。
「そう。うそよ。こんなの、全部うそなのよ、芳香」
 芳香は、ぽかあん、と口を開けていた。
「冗談よ。ぜんぶ、冗談よ。あはは、芳香、ほんとうに怖がっていたわね」
 それから、ようやく理解したのか、芳香は、うれしそうに微笑んだ。
「うそっこなんだね。よかった。ほんとうによかった」
「怒らないの? こんなの、たちの悪い冗談よ。ほんとうに怖かったんだから、芳香はわたしのこと、怒っていいのよ」
「だって、あんしんしてしまったの。せいががすきなわたしが、わたしでよかった、って」
「芳香は、ほんとうに、やさしいのね」
「そうかな。よくわからないや」
 芳香が、首を傾げる。
「青娥、きぶんがわるいの?」
「……ううん。そんなことないよ」
「でも、かおいろが、まっさおだよ」
 わたしは、吐き気を飲み込んで、笑顔を作った。
「ちょっと疲れただけよ。大丈夫。じゃあ芳香、お札を外しましょうか。これはたまにしないといけないのよ。気持ち悪いかもしれないけど、しないといけないことなの」
「そうなんだ。しなきゃならないことなんだ。じゃあ、しょうがないね。いいよ」
「ごめんね。芳香、ほんとうにごめんね」
「なんで青娥があやまるの? よくわかんないよ」
「……ううん。なんでもないのよ。じゃあひきがえるが来たら、いつもの部屋に行こう?」


 しばらくして、金属が落ちる音に混じってドアを叩く音がすると、ドアが開いて、ひきがえるが顔を出した。いつも頭まですっぽり被っているフードの上に、さらに頑丈な合羽を羽織っている。合羽はどろどろによごれており、金属の破片がこびりついている。
「まったくひどい天気だよ。においも最悪だ。空の上じゃあ、なにが起こっているんだろうな」
 部屋に入ると、片手は杖をついたまま、不快げにフードごと合羽を脱いだ。ぱらぱらと床にねじや破片が落ちる音とともに、目と口と鼻以外を白い布でぐるぐる巻いてある顔があらわになった。その白い包帯のような布も、黒く煤けている。
「さっきまちのほうを見たら、真っ赤に燃えていたよ」
 彼は半身がマヒしているため、杖をつきながら、ひょこひょこと歩く。背中も丸まっているせいで、まるで年老いた隠者のようだけど、彼は仙人で、わたしといっしょで、肉体的にはずっと若いままだ。仙人になる以前にひどい火災に巻き込まれたために、背骨が曲がって下半身にマヒが残り、身体じゅうにひどい火傷を負ってしまったらしい。「部品」を替えればもとに戻るのに、彼は何故だかそうしないようだった。
「すまないね。床を汚してしまった」
「いいよ。こんなときに呼んでごめんね」
 彼は、わたしと手をつないでいる芳香を、ぎろり、と見た。
「……それで、いつもの部屋に連れていくのか?」
「うん」
「……青娥様」
「わかっている」
「もう、これで最後にしよう」
「わかっている」


 いつもの部屋とは、窓がとても高いところにある、石の壁で作った部屋だった。
 鉄格子の扉を開けて、芳香と手をつなぎながら中に入ると、わたしは鍵を外に待機しているひきがえるに渡した。
 鉄格子が締まる音がすると、芳香は、さらに不安げな眼差しで、部屋をみわたしはじめた。
 石の壁で仕切られた部屋には、家具らしきものは、何もなかった。ここは、ただひとつの目的のために存在しているのだ。
 どんな衝撃や攻撃にも耐え、中にいる者を決して外に出さないために。
 壁には、ところどころに赤黒い染みがこびりついていた。
「せ、青娥、わたしを、しばって」
 芳香は、怯えた顔で、そう言った。
「どうして?」
「だって……このへや、こわい。なんか、わたし、おかしくなりそう」
「芳香は何も悪くないよ。悪いのは、こんな部屋しか用意できないわたしなの。ごめんね。ほんとうは、もっと明るくて、芳香の好きだった変なぬいぐるみとか、人形とかがたくさんある部屋がいいのだけど」
「ぬいぐるみ? ぬいぐるみなんて、わたし、すきじゃないよ」
「好きだったのよ。ずっと、ずっと、ずっと昔のことよ。あと、いっとき詩を書いたりもしたのよ。わたしがいろいろと教えたの。芳香の詩は、とても芳香らしくて、わたしは好きだった。まあ、もうあまりに昔だから、芳香も忘れちゃったかもね」
「ふうん。そうなんだ。でも、じぶんのことなのにわからないなんて、おかしいよね」
「あはは、そうよね」
 全然笑えなかったけど、わたしは笑った。
「芳香。このお札を取れば、思い出すかもしれないよ」
「そうなの?」
 わたしは芳香の額に張りつけた札を取った。

「ぁぁあああああああああああっ!」

 芳香が、悲鳴をあげながら、のたうちまわった。
「こ、こわいよ。わたしのまわりに、まっくらなものがやってくる!」
 暴れようとする芳香を、わたしは抱きしめる。
「大丈夫よ。わたしはここにいるから。芳香、大丈夫よ」
「わたしがきえていく、まっくらなものにのまれていく、たすけて、たすけて青娥、こわいよ、青娥!」
「ここよ。わたしは、ここにいるよ」
 うあああああああと再び叫ぶと、芳香は屍人のすさまじい力でわたしを突き飛ばした。自分のからだが浮き上がったかとおもうと、背中に重い衝撃が叩きつけられた。壁に激突したのだ。息が詰まる。壁にもたれかかったまま、ずるずると倒れこんだからだを起こそうとしたとき。
 わたしの上から影がさした。
 四つんばいになった芳香が、見下ろしていた。
 獰猛な、けだもののような目で、わたしを睨みつけていた。
 芳香は、わたしを、憎んでいるのだろうか?
 でも、それでもいい。
 わたしのことをおぼえてくれているのなら。
「芳香。芳香。ねえ、わたしをおぼえている? わたし、青娥よ。あなたの……あなたの、」
 その口から鮫のような歯がみえたかとおもうと、芳香は、わたしにかぶりついてきた。首筋に鋭い痛みが走り、熱い液体が肩にひろがっていく。
「芳香。わたしを憎んでいるの? そうよね。勝手にわたしの操り人形にして、すきとかあいしているとか言わされているんだものね。憎んでいるに決まっているよね。ごめんね」
 芳香は、何も言わずに、わたしの首から肩を食いちぎっていく。
 青娥様、と遠くで声がする。
「憎んでくれていいよ。殺されたってかまわない。だから、答えてよ。わたしをおぼえている? わたし、あなたの……そう、友達だったのよ。ねえ、おぼえている……」
 とつぜん、芳香のからだがびくり、と震えた。
 すると、彼女は糸が切れたように、ぐったりともたれかかってきた。
「よ、よしか……?」
 ぐったりしたまま芳香はうごかない。
 何が起こったのだろう?
 ああ、そうか。
 死んでしまったのだ。芳香は死んでしまった。死んでしまったのだ。
 いや、もう芳香は死んでいるはずだ。わたしが、殺したんだ。お父様と同じように、わたしが、ころしたんだ。
 では、ここにいる芳香はなんだろう? そうだ、からっぽの人形だ。自分で言ったじゃないか。わたしは、からっぽの人形を芳香とよんでいた。からっぽの人形を。芳香、なんで死んじゃったの? わたしが殺した芳香は誰かに殺された。誰に。誰に、殺されたのだ。芳香を。わたしの芳香を。
 殺してやる。
 そいつを殺してやる。
「青娥様」
 どうして、ひきがえるが芳香のかたわらにいるのだろう?
 そうか。
 芳香をころしたのは、おまえか。

 ちくり、と腕に軽い痛みが走った。

 どろどろとしたものがたくさんつまったような頭のなかが、急に晴れた。
 まばたきを二度すると、濃い霧のようなものが、視界から消えた。
 気づくと、額に札を貼られた芳香が、わたしの胸で眠っていた。
「目が覚めたかね。青娥様」
 ひきがえるが、手に持つ注射器を使用済みのケースにしまいながら、言った。
「錠剤も用意しようか?」
「ううん。もう、大丈夫」
 少しためらったけど、がまんできなくなって、ひきがえるの手をつかんだ。
「ごめんね。ひきがえる。わたしいま、あなたを殺そうとしたの。ごめんね」
 ひきがえるは、ただ、布の間からぎょろりと飛び出した目で、わたしを見つめた。
「だとおもったよ。ぞっとするような目だった」
「頭のなかがぐちゃぐちゃになっちゃったの。芳香の死体がたくさんみえた」
 ほんとうに、危ないところだったとおもう。
 あやうく、わたしは約束を破ってしまうところだったのだ。
 芳香と交わした約束を。
「からだは千年も万年も持つが、こころは、だんだん鈍磨していく。だから仙人なんて、俺も含めてみんな何の感情もない『かかし』ばかりだ。だけどもしそのこころが、思いが千年も変わらぬままならば……こころは磨り減り、だんだん、だんだん、こわれてきてしまう」
「わたし、こわれかけているの?」
「かもね」
 芳香は、わたしにもたれかかったまま、すうすう、と寝息をたてて、ぐっすり眠っていた。



 わたしがはじめて自分の計画を打ち明けたとき、ひきがえるはしばらく黙ったあと、言った。
「あなたは狂っているよ」
「うん。そうおもう」
「死体と死体から、新たないのちを誕生させるだなんてね。さすがに、条理を外れすぎている」
「手を引くなら、それでもいい」
「……『材料』が必要になるが」
「ええ」
「最良なのは、新鮮な材料だよ」
「芳香のことで、ひとを殺すのは、やめて」
「……ここから離れないあなたは知らないだろうけどね、まちはひどいもんだ。衣食住どころかライフラインの供給までも滞っていて、あちこちで暴動が起こっている。政府は内側の不満を外に向けさせようと戦争を本気でやろうとしている。ひとの命なんて、いまとなってはクッキーより軽いよ」
「ひとを殺すことは、絶対にしないで。おねがい」
 ひきがえるは、皮肉げな笑みを浮かべた。
「もうじき世界が終るからって、いまさら天国に行くための善行に目覚めたのか? 青娥様、あなたもわたしも、もう地獄行きは確実だよ。千年のうちに、どれだけ殺したとおもっているんだ?」
「約束したのよ。芳香と、約束をしたのよ」
 ひきがえるは、しばらく押し黙ったあと、「また芳香か」と、苛立つように言った。
「そんなにあの『死体』が大切なのか。もう百年以上も前の話なんだろう? いつまであなたは固執するつもりなんだ?」
「永遠によ」
 わたしは即座に言った。
「芳香は、わたしそのものなの。だから、手放すことは、ない」
 ひきがえるは、しばらく沈黙した。ひどく暗い目で、わたしを見つめながら。
「……それで、その娘が消滅していくのに、耐えられないのか」
「そうよ。芳香は、どんどん壊れていっている。札を取っても、もう、なにもおぼえていないの。そんな芳香をみることは、耐えられない」
「あなたの『父』と同じ末路だな。どんなに防腐術を施しても、脳髄は腐り続ける。別に驚くことじゃない。いつかくる結末だ。人間が年をとって自分自身すら認知できないようになるのと同じことだ。自然の摂理だよ」
「だけど、わたしは、芳香がいてほしいの」
「生まれてくる子どもは芳香じゃない。あなたとは、まるで関係がない、ただの子どもだ」
「違う。それは、『わたしであって芳香』なの。『もういちど産まれたわたしたち』なのよ」
「……」
「もう一度やりなおしたいの。わたしたち、もう一度、やりなおしたいの。今度はうまくやりたいの」
「……やりなおす?」
「芳香とわたしは、失敗してしまったの。わたしが失敗したの。だから、芳香は生まれ変わるの。その生まれ変わった姿はわたしでもあるの。そして、もう一度わたしたちは、やりなおすの」
 ひきがえるは、しばらく押し黙っていた。
 それから、あきらめたような目で、言った。
「あなたは、終わってしまった過去の幻を追いかけているだけだよ。そんな生き方が、生きているって言えるのか?」



 それから幾日が経った。ひきがえるは、あれからずっと来ていない。
 今度こそ愛想を尽かされたかもしれない。
 わたしはひきがえるのことはよく知らない。このまちに流れ着き、まちのそば屋で芳香とおそばを食べていたとき、話しかけてきたのがひきがえるだった。同じく仙人であることがわかると、一緒に行動しないか、と誘ってきたのだ。
 こうやって誘われることは別に珍しくなかった。ひとりでいた頃は、しょっちゅう声を掛けられた。だけどひきがえるの違っているところは、一度もからだを求めてこないことだった。それに、わたしたちとは別の場所で生活をしていた。だから、わたしはひきがえるが実際にどんな生活をしているのかわからない。
 そんな微妙な距離感のまま、ここまでなんとなく一緒に行動してきただけの関係だった。
 これで終わるのなら、それでよかった。
 わたしが気にするものは、いまでは世界でたったひとつだけ。



 わたしはいつものように棒立ちの芳香へ話しかける。
「芳香、今日は、誰か来た?」
 すると、いつものように、ぜんまいが巻かれた人形のように芳香は途端にいきいきしだす。
「ううん。誰もこないよ。青娥だけだよ」
「そう。じゃあ、今日はそろそろ札を外しましょう。今日はいつものあのひとはいないから、ずっとふたりっきりよ」
「いつものひとって?」
「……なんでもないわ」



 札を外した芳香が、叫び声をあげている。
 じきに、わたしに襲い掛かってくるだろう。
 ひきがえるがいない今度こそ、死ぬかもしれないな、とおもった。
 いまさら、死ぬことは怖くない。
 仙人なのに、お父様みたいに欲や俗世を捨てられぬまま、わたしは千年以上も生きつづけてしまった。
 いまでも現世にしがみつき、悪いことばかりするわたしを、みんな、軽蔑している。
 死んだらみんな喜ぶだけの、存在。
 だけど、たったひとつの希望だけは、捨てられない。
 そのひとつのためには、わたしはすべてを捨ててもいい。
 たったひとりになっても、いい。

 芳香。

 わたしの時間は、ずっと止まったままだ。
 あのときから、ずっと、ずっと。



 *******



 ――芳香とはじめて出会ったときのことは、今でもはっきりと思い出せる。

 その頃の日本は、立て続けに起こった世界戦争に奇跡的に勝ったけど、全土がぼろぼろになっていて、そこから這い上がろうとしているところだった。
 廃墟がみるみるうちにビルに変わり、砂利道がアスファルトの道路に変わっていった。急速に成長していくなかで、いかがわしいやつらもたくさんやってきていた。てのひらからヴェネチア人やドードー鳥を取り出してみせるカイゼル髭の手品師、あらゆる時間軸に同時に存在し、ひとりで「あっちむいてほい」ができるイギリス人、納屋より巨大なキャベツやブロッコリーが作れる謎の肥料を売るインド人、ゼリービーンズでできた猫……そういったやつらに混じって「不老不死の仙人」のわたしも存在できたのだ。
 
 わたしは、いつものように訪問先を物色していた。このまちでまだ行ってない地域に足を伸ばす。最後の「上客」も一週間前に限界を迎え、少し早かったがやむなく「部品」に変えた。少し場所を変える必要があった。
 そうして、わたしは大きめの屋敷を見つけた。瓦屋根の木造の塀にぐるりと囲まれ、その塀の上からきちんと手入れされた松や柿の木がみえる。
 まず間違いなく家人は裕福層だ。わたしは木造の門を開くことにした。
 木造の門は手で押すと簡単に開いた。
 この国は元来島国なせいか、防犯については緩い。しかし戦争に勝って急速に西洋のおかしな人間が跋扈するようになってから、用心深い家も増えていった。
 この家は、どうやらそれほど防犯意識は無いらしい。
 となれば、「千年生きている仙人」の話をまともに聞いてくれ、「上客」となってくれる可能性も高いだろう。
 手入れされた木々が生い茂る中庭の石畳を歩くと、屋敷は思いのほか新しかった。珍しい二階建てとなっている。
 玄関口をたたきながら、「ごめんください!」と叫んだ。こういう広い家では、声を張り上げなければ気がついてもらえない。
 留守なら留守で構わない。どうせ玄関なんてわたしには関係ない。暑さのせいで「お父様」の衣類が不足している。余るほどあるはずの金を、少し頂戴しよう。
「だれえ?」
 唐突に、上から声が飛んできた。
 少し下がり、見上げると、二階の窓から少女が上半身をにゅっと出していた。
 年齢は、はっきりわからない。童顔だったが、肌着から、肉づきのいいからだがこぼれそうになっている。
 少し眠たげな目が、わたしを見つめていた。
「今日は、誰もいないよ」
 それから、にへひ、と笑いながら、「いや、今日もか」と言いなおした。
「そうですか」
「あなた、誰なの?」
「わたしは、仙人です」
「あーっ! 最近このあたりをまわっているひと?」
 そんなに有名になってしまったのか。
 そろそろこのまちも店じまいする頃だな、とおもいながら、
「そんなに仙人はいないでしょうから、わたしのことだとおもいます」
「ふうん。意外ねー。おもったより若いし、とても綺麗だし」
「仙人は年を取らないのです」
「へええ。いつから生きているの?」
「……あまりおぼえてないのですが、千年近く、でしょうか」
「うへえ! ホントに? ほんとにほんと? じゃあ、千年前ってどんなんだったの?」
「……わたしは中国にいました。そこで仙人になったのです」
「へー。どうして仙人なんかになったの?」
「お父様が……仙人になったんです。わたしは……お父様を追いかけて、仙人になったのです」
「追いかけてって? あなたのお父様は、どこかに行ってしまったの? なんで?」
 彼女は、不思議そうに尋ねてきた。
 悪気が無いのが、逆に不快だった。
 きっと彼女は、普通に両親がいて、普通に愛されているのだろう。幸せなのだろう。
「……お父様は、わたしが、好きじゃなかった。わたしは、昔から、少し変わっていたから」
 わたしがよかれとおもったことをすると、いつもお父様はかなしい顔をした。
 お父様に吼えた犬の首を引きちぎったり、お父様に言い寄ってきた悪い女を突き飛ばしたりするたびに、かなしい顔をした。そして、「あのとき」も。
「ねえ」
 少女は、ぽかあん、とわたしをみている。
「どうしたの?」
 ……嫌なことを思い出してしまい、いつの間にかぼんやりしてしまったらしい。
 もういい。この家はやめだ。今日は、もう何もする気がなくなってしまった。
「……なんでもありません。では、また両親がいるときに」
「いつもいないよ」
 彼女は、笑いながら、
「最初に言ったじゃない。今日もいないの。明日も、明後日も、そのまた次の日も、たぶんずーっといないよ。だから、私も親に捨てられちゃってるみたいなもんかな。あはは。
 あ、今、不思議だって顔をしているね。こんなでかい家に小娘がひとりで住んでいるなんて、確かにおかしいよね」
「……いや」
「うちのお父さんは、すごく忙しいのよ。やらなきゃならない仕事がたくさんあって、日本を飛び回っているの。ここにいるときなんて、一ヶ月に二、三日。お母さんはそんなお父さんと一緒にいるのに飽きちゃって、若い恋人のところにずっといるの」
 あっけらかんとそう話してきた。
 すぐに言葉が出ないわたしをみて、不思議そうに、
「あれ、わたし、なんかおかしなこと言った?」
「……いえ。ただ……防犯とか、平気なのかな、と」
 わたしには理解できない。どうして知らない人間に、「この家はいつも女の子がひとりしかいない」なんてことを話してしまうのか?
「ボーハン? あ、防犯ね。わたしのこと、心配してくれてるんだ。うれしいなあ」
「し、心配とはちょっと違うのですが」
「ねえ」
 彼女は、突然真顔になった。
「こっちまで、上がってこない? わたし、ひとりで退屈しているの。それに仙人のあなたがいてくれれば、ボーハンも問題ないでしょ?」
 わたしは、逡巡している自分に気づく。
 何を迷う? 他人と近寄りすぎては、自分の仕事の支障となる。ただでさえこの国では新聞というものが普及してきている。おかしな詐欺師が隙間が狭まってきている。
 それに……わたしの正体を知られれば、彼女を殺さなくてはいけない可能性もある。
「……申し訳ありませんが」
「いいじゃない! 仙人って人助けもするんでしょ?」
「そうですが、今日はもう時間が」
「わかったわ。じゃあ、今すぐそっちに行くから!」
 そう言うと、彼女は窓から屋根によじのぼってきた。
 白い肌着にショーツ姿の彼女が、青空を背にして、こちらを見下ろしながら笑っていた。
 呆然とするわたしの前で、うおおおお、と叫びながら、彼女は屋根から飛び降りた。



「いやあ、さすが仙人だね! 本当に死ぬかとおもったけど、全然大丈夫だった」
 彼女は、にんまり、と笑った。笑うと、彼女はほんとうに子どものようにみえる。彼女の白い肌着は彼女の肌の色が透けて、かすかに桃色がかっていた。
 わたしは今、彼女の部屋にいる。彼女の部屋は、一言で言えば、とても乱雑だった。本棚に入りきらないたくさんの本が適当に積み重ねられ、パンダみたいなカラーリングのトカゲのぬいぐるみとか、目がピカピカ光る骸骨のキーホルダーとか、狐のお面を被ったトラの人形などのわけのわからないもので埋まっていた。話を聞くと、どうやら自作製らしい。
 わたしは今、そのわけのわからないものたちに囲まれながら、彼女といっしょにいる。
「……ただの偶然ですよ。わたしがあなたをキャッチできたのは」
 彼女を抱えて二階まで飛んでもとの部屋に戻している間、彼女は「うおおおっ。うおおおおっ」と叫びながら、「あなたがいればジェット機なんて目じゃない!」と言っていた。だから、わたしはジェット機と違ってひとりくらいしか運べません、と答えると、「あなたほんとうに面白いねー」と笑った。何がどうおもしろいのかわたしにはわからなかった。
 抱きとめた彼女のからだの感触を、わたしは反芻していた。
 とてもやわらかくて、ほんのり湿り気があって、それに、とてもあたたかかった。
 そういえば、こうやってひとに触れるのなんて、久しぶりだな。
 いつもひとに触れるときは、そのひとを殺すときだけだったから。
 彼女は、うずたかく積まれている本をひっくり返して取り出してきた古い本を読み始めた。目が悪いのか、ほとんどページに目がつくくらい本に顔をつけて読んでいる。そして、そうだそうだこれこれ、とこちらを振り向いて、
「ねえ、聞いていい?」
「はい」
「ずっと疑問だったんだけどさ、霞っておいしいの?」
「ほのかにレモンがかった味がします」
「そうなの? へえー! ただの霧みたいなものだとおもってたんだけど」
「修行すると、より味わいながら食せるようになります。キジ肉とおもえばキジ肉に、桃とおもえば桃の味になるのです」
 わたしは既に味覚の欲は消えてしまっていたから、そんなことはしないのだけど。
「じゃあ、ぼたもちとか、あんこもちとかにもできちゃったりするの?」
「それくらい、朝飯前です」
「すげえ! 仙人すごい!」
 彼女は、ほかにもいろんなことを聞いてきた。仙人になるための参考書はあるのか、仙人になると時給はどれくらいなのか、空を飛ぶコツはなんなのか。そのたびに彼女は「ふへえ」「ほほう」などと妙な声をあげていた。
 やがて質問がひと段落したのか、一息つくと、
「で、その仙人さんが、うちに何しにきたの?」
 わたしは、一瞬、言いよどんだ。
「……不老不死になれる薬をお分けしよう、とおもいまして」
「それ、嘘だよね」
 わたしは、彼女の顔をみた。
 彼女は、表情のない顔で、わたしの顔をのぞきこんでいた。
「うわさになっているよ。仙人と称する女が怪しげなクスリを売りつけているって。そのクスリは気持ちよくさせるから、一回買うとやめられなくなって……お金をたくさんとられて、最後には行方不明になっちゃうんだって」
「……」
「ねえ、それって、あなたなの?」
 やはり失敗だった。彼女の突拍子もない行動に流されて、のこのこと上がりこんでしまったために、彼女を殺さなくてはならなくなってしまった。
 彼女のからだは、なるべく傷つけたくない。せっかく綺麗なからだなのに、傷がついたらかわいそうだ。
 いつものように心臓を「抜いて」しまおう。そうすれば、外見は綺麗なままだ。
「今のあなた、とても、怖い顔をしている。この世界とたったひとりで戦っているみたいな、ひどい顔。ねえ、ほんとうにそうなの? ひとをだまして、殺してしまうの?」
「……だとしたら、どうするの?」
「……どうして、殺すの? だまされたひとは、悪いことをしていないじゃない?」
「わたしが悪いことをしているからよ。悪いことをしていることを、誰かに言ってほしくないからよ」
「どうして悪いことをするの?」「生きるためよ」「それであなたはいいの?」「どういう意味なの?」「後悔しているんでしょ?」「後悔なんてない」
「じゃあ、どうして、そんなに寂しそうな顔をしているの?」
 さびしそう?
「あなた、私と話していても、ずっと無表情でさ。笑うどころか、悔しいとか、腹が立つとか、そういうものが、何もなさそうだもの」
 ……さびしいだなんて、考えたこともない。
 お父様に去られてから、わたしはずっとひとりだった。いや、お父様も、頭がおかしいわたしがきっと嫌いだったから、わたしは最初からずっとひとりだった。
 もとからなにもないのに、今の状況がどうなのかだなんて、わかるはずがない。
「ねえ、今まで千年間、どうやって暮らしていたの? ずっとそうやってひとりで暮らしていたの?」
「……お父様といっしょだったわ」
「さっき言ってたお父さん? また会うことができたの?」
「ええ。会えたわ」
「……そのわりには、ちっともうれしそうじゃないのね」
 ――わたしが「やった」ことを知ったときの、お父様の目。
 あれは、あきらめの目だった。もうだめだ。この娘は、どうにもできない。そういう目だった。
「……お父様は、ちょっとからだを悪くしていたの。今もずっと、話すことができないの」
「今も……って、お父さんも、仙人なのね」
「そう。お父様は、とても素晴らしい仙人だったわ」
 そう。お父様はわたしと違って、ほんとうの仙人だった。清い高潔な人格を持ち、みなから慕われるようなひとだった。
「……ねえ、どうして、『だった』なの」
「……」
「ねえ、その、お父さんって、病気って言ってたけど。どんな状態なの」
「……頭のなかがね、からっぽになってしまったの。喋ったりとか、笑ったりとか、泣いたりとか、そういうこと、なにもできなくなってしまったの」
「……それって、ほんとうに、生きている、の?」
「生きている」
 指示を与えれば動くことができることを、生きていると言うのなら。
「ずっと前から、なの?」
「千年ほど前から」
「……それから、あなたはずっとひとりなの?」
「ひとりよ」
「ほかに、誰もいないの?」
「いないわ。わたしの正体を知ったひとは、みんな『処分』した」
 ――だから、他人と近づいても、いいことはひとつもない。それが今まで生きてきて理解した渡世術だった。
 他人とは、欲望をぶつけあって付き合うものだ。わたしの持つ仙術や、不老不死とか、からだとかを奪いたいやつが近づき、わたしはそいつの財産や「部品」を奪う。
 そうしてわたしが生き残り、みんなが死んでいった。
「……わたしも、殺すの?」
「うん。殺す」
 彼女は、無言だった。
 ふいに、わたしの手を握ってきた。
 湿ったそのてのひらの上に、ぽたり、ぽたり、と水滴が落ちた。
 彼女の顔は、涙でぼろぼろになっていた。
 こういう反応には、なれっこだった。ひとは突然殺されることを宣言されると、冗談だとおもいたくて引きつった笑みを浮かべるか、死ぬのが怖くて涙を流すのかだった。
 次の言葉は命ごいか。それとも、殺すといわれた怯えか。そのどちらかだとおもっていた。

「ねえ。そんな生き方、つらくないの?」

 涙でぼろぼろの顔で、彼女は言った。
「千年、千年だよ。千年も、あなたのまわりには誰もいない。みんな死んじゃったり殺したりして、いるのはあなたひとりだけ。そんなの、つらくないの?」
 あまりに予想外だったので、わたしは、彼女が何を言っているのか、すぐに理解できない。
「わたしには耐えられないよ。千年もひとりぼっちなんて耐えられないよ。あなたは、これからもずっとずっとひとりぼっちでいるつもりなの?」
 ――おぼろげながら、ようやく、わたしはわかった。
 彼女は、わたしをあわれんで、泣いているのだ。
 わたしのために、泣いてくれているのだ。
「……わからない。ずっとひとりだから」わたしは正直に言った。「さびしいなんて、考えたこともない」
「幸せから遠ざかってしまったひとは、それがどういうものなのかもわからなくなってしまうのよ」
「ひとりぼっちなのは、幸せじゃないの?」
「あなたは、わたしと話しても、たのしくないの?」
「……わからない」
「……そう。だったらいいよ。殺して」
「……」
 彼女は、わたしの手を、強く握り締めた。
「私は、とても弱くて、無力で、さびしがりやなの。といってもあなたに比べたらたいしたものじゃない。ただ、お父さんとお母さんが、わたしよりほかのものを選んでいるだけ。いや……あのひとたちだけじゃない。日本は戦争に勝ったけど、みんな焼けちゃったからみんながんばっていろんなことをしなきゃなんなくて、みんなが忙しいの。だから、別に、死んでも、誰も悲しまないし、誰も失わないの」
 そして、笑った。瞳のなかにたまった涙が、頬を伝い落ちた。
「だから、別に死んでも全然いい人間だから。いいよ」
 わたしは、逡巡している。今度は、はっきり理由がわかる。
 わたしは、彼女に惹かれはじめている。
 はじめてだった。千年間で、はじめてだった。
 ――わたしのために、本気で泣いてくれたひとなんて。
 殺したくない。殺せない。それどころか、わたしは今、彼女のことを、もっと知りたいとおもっている。そんなことをしても、どうしようもないのに。
「……わたしを、殺すの?」
 わたしは、答えることができない。
 すると、わたしの手をにぎる彼女の手の力が、強まった。
 顔をあげると、彼女は、わたしの顔をみながら、やさしく笑っていた。
「……だけど、本心を言えば、すぐには死にたくないな。やっぱり死ぬのは怖いしね。だから、もしあなたが良ければ、わたしを見張っててよ」
「……見張る?」
「そう。あなたはいつでもここに来ていいの。そして、あなたが好きなときに、殺してもいいの。勿論、今殺したいなら、今でもいい」
「じ、じゃあ、わたしは、あなたを見張りに、いつでもここに来ていいの?」
「もちろん」
 わたしの顔をみながら、彼女は、うれしそうだった。
 きっと、わたしの今の表情をみて、答えがわかったからだ。
 すべて、見透かされているんだ。
 だけど、それは、決していやな気分じゃなかった。
「……わ、わかったわ。わたしは、あなたをここでは殺さない。そのかわり、いつでもあなたを見張りに来るから」
 彼女の顔が、ぱあっ、と輝いた。
「うれしい! じゃあ、絶対にまた来てよ。もっと話していれば、きっとたのしくなるよ」
 ……見張るために来ると言っているのに。
 彼女はやっぱり、どこかおかしい。いきなり下着姿で飛び降りたり、自分を殺しにくる人間に、絶対にまた来てよ、と言ったり。危機感が無いのだろうか?
 だけど、そもそも彼女が飛び降りなければ、わたしは彼女と話したりしなかったはずだ。
「ねえ」
 わたしは、どうしてもわからなくて、問いかけた。
「あなたは、わたしがひとを殺したりするような女だとわかっていたんでしょ。なのに、どうしてあんな危険なことをしてまで、わたしに話しかけたの?」
 彼女は、にへひ、と笑った。
「言ったじゃない。退屈だったからだよ」
 わたしが何か言う前に、
「それより、あなたの名前を教えてよ。わたしは、芳香。宮古芳香よ」
 


 今ならはっきりわかる。
 芳香は、わたしがさびしそうだったから、話しかけたのだ。それだけのことで、わたしみたいな危険な女に話しかけるような、とてもやさしいひとだった。
 わたしみたいなやつのために泣いてくれるような、とてもやさしいひとだった。
 だから、わたしの過去を知ったときにも、やっぱり泣いた。



 いつものように窓からわたしが入ると、古臭い本に囲まれた芳香は、一冊の本を抱えながら、沈んだ顔をしていた。彼女は最近ずっといろんな昔の本を読んでいて、部屋もかびついたような古本のにおいが充満している。
 いつにない表情だったので、どうしたの、と聞くと、しばらくしてから、
「青娥って、昔、中国に居たんだよね」
「……そうよ」
「昔、一緒に暮らしていたひとを殺したの?」
 そう言って、抱えていた本をわたしに見せた。
 中国のさまざまな怪奇事件を扱った本で、そのなかに、わたしの名前が含まれた記事がある。
『霍青娥 復讐のために蘇り、嫁ぎ先の一家を惨殺した女』
 わたしも知らなかったけど、わたしが過去にやったことは、それなりに有名だったらしい。
 まるで実際に見聞きしたようにかなり詳細に、あの日のわたしについてが書いてある。それも憶えている限りでは、かなり正確のようだ。
 記事を読むと、どうやら難を逃れた一番下の末っ子がいて、彼がわたしの行為を目撃していたらしい。今となっては、その家族の顔どころか家族構成すら思い出せないけど。
「……これ、ほんとうなの? ほんとうに、青娥がやったことなの?」
 芳香は、すがりつくように聞いてくる。
「……そうよ。わたしがやったわ」
「ぜ、ぜんぶ、このとおりなの?」
「……そうよ。自分を死んだことにしたあと、一緒に住んでいたひとたちの内蔵を引き抜いて、かわりに泥を詰めてやった。そのうえで家に火をつけて、全部燃やしてやったの」
「どうして! どうしてそんなことをしたの!」
 芳香の目には、涙がたまっていた。
 こんなことのために芳香が泣くのは、とてももったいない、とおもった。
「……お父様を、馬鹿にしたからよ」
 芳香は、こちらを振り向いた。信じられない、といった顔だった。
「それだけの、ために?」
「仙人になって、わたしを捨ててどこかに行ってしまったお父様を、ひどいやつだとか、あんなやつのことは忘れろとか、たくさん言ってきたの。だから、我慢できなくなった」
 ――おれは、天涯孤独になったおまえがかわいそうだから、拾ってやったんだ。おまえなんて死んでも誰も悲しまないんだ。だから死ね。死んでしまえば、なにをされても我慢できるだろう? 
 ――ほら、お客さんがもうじきやってくるよ。向こうには、死体だとおもって扱ってかまわないと言ってあるからね。逆らったりするんじゃないよ。
 ――あんた、親父のものなんだろう? じゃあ、息子の俺の言うことだって、聞いてくれるよな?
 ――おまえ、まだあの男を信じているのか? バカなやつだよ。おまえがこんな目になっているのはあいつのせいなんだ。どれだけあいつに幻想を抱いているんだ? あいつは現実から目をそむけた、ただのろくでなしだよ。おまえが怖くなって逃げ出した、ただの弱虫だ。
 ――おい、ほんとうに死んじまったのか? たったこれくらいで死んでたら、奴隷なんていくらいても足りやしない。
 ――親父、その死体、要らないんだったら俺にくれよ。もったいないじゃないか。 
 ――簡単に絶望して、あっさり死んじまう。あの弱虫の男の子供らしいよ。……
「……わたしは、なにをされても平気だった。だけど、お父様の悪口だけは、許せなかったの」
 芳香は、涙をいっぱい浮かべた目で、わたしをみつめていた。
 それから、顔を振った。
「青娥。きっと、たくさん嫌なことがあったんだろうね」
 そして、わたしの手をにぎった。
「だけど、やっぱり、人を殺すことは、よくないよ」
 今日の芳香の手は、湿っていて、いつもより、もっと熱かった。
「わたしはいつだって殺してもいい。それが約束だからね。だけど、他のひとは、殺さないで。私をあなたが殺すまででいいから。私、青娥がひとを殺したりすること、聞きたくもないし、見たくないの」
 芳香はやさしい。傲慢なくらい絶対的に、やさしいのだ。だから「ひとは殺してはいけない」ということに疑問をはさむ余地はいっさい、ない。
「わかった。わたし、ひとを殺さないよ。だから、泣かないで。芳香が泣いていると、わたしもかなしくなる」
 芳香は、そこで、ようやく笑った。少し無理をして笑わせてしまったみたいで、ぎこちない笑顔だった。
 わたしは悪いことをしたな、とおもったけど、そうやってわたしのために芳香が笑ってくれることが、素直にうれしかった。



 思えば、この約束したときから、わたしはわかっていたのだ。
 この約束を守ることの難しさを。
 芳香は何度もわたしに言っていた。
「青娥は、さびしいから、ひとを殺したりしてしまったの」と。
「みんなそうなの。ひとりぼっちだから、追い詰められて、悪いことをしてしまうの。みんながさびしくなければ悪いことなんて起こらないのよ。だから、そういう悪いことをしたくなったら、ぜったいに、わたしに話をしてね。わたしがあなたをさびしくなんかさせないから」
 芳香の「友達」は、みんな素性のわからない、得体の知れないやつらが多かった。生きている金魚を刺青にして体の皮膚に飼っている女、セックスした男の眼球を引き抜き収集する女医、少女の陰毛を主食にしているギタリスト、手足が無い代わりに肋骨を上下させてヘビのようにすばやく動き、茂みに隠れる男女を覗く男……彼らはみな、社会にうまく溶け込むことがまるでできない不適合者たちだった。犯罪者になるか、自殺するしかない、そんなやつらだった。誰にも相手にされず、勝手に自滅していくようなやつらだった。
 芳香は、ほんとうにやさしいひとだった。
 だから、そんなやつらにも手を差し伸べてしまう。それでうまくいくと、信じている。
 わたしは、骨の髄から知っている。
 残念ながら、そういうやつらは、手を差し伸べた相手にしゃぶりつくようなやつらなのだと。
「約束するわ。わたしは、ぜったいに悪いことをしないよ」
 そういうと、芳香はいつも笑った。
 守らなければならない。
 わたしのために、はじめて泣いてくれたひとを。


 
 わざと窓からでなく、壁をすり抜けて芳香の部屋に入ると、芳香は机にかじりついてノートに何かを書いていた。相変わらず制服のスカートを脱ぎ捨てた白いワイシャツ一枚の姿だ。大学で制服は珍しいらしいが、彼女いわく、「お嬢様大学だから」らしい。別に行事以外は着なくてもいいそうだが、ファッションに無頓着な彼女は、「制服のほうがラクだから」という理由でいつも制服だ。裕福なはずなのに芳香は服をぜんぜん持っていない。両親も芳香には無関心だからだろう。そのおかげで、わたしのような得体が知れない女も自由に会うことができるのだけど。
 わたしに気づくと、彼女はあたあたしながらノートを閉じた。
「ちょ、ちょっと青娥、ちゃんとドアをノックしてから入ってよ!」
「芳香。あなたがいつも書いてるその詩って、恋文でしょ」
 すると、芳香の顔が、じわじわと赤くなってきた。
「み、見ていたの?」
「ちらっとね」
 嘘だった。わたしは芳香が買い物や友人の家へ行くために部屋を離れたときを狙って、その長い長い詩をすべて読んでいた。
 わたしが漢詩ができる、と知ってから、芳香は詩に興味がわいたらしく、最近熱心に詩についていろいろとたずねていた。ただ、芳香の作品は、素人でも内容は痛いほど理解できるはずだ。好き好き大好きさわってなでてキスして抱いて。
 彼女は恋しているのだ。
 そしてわたしはその相手も知っている。
「いいじゃない。隠す必要はないよ。いい詩だとおもうし」
「そ、そういうなぐさめかたが一番きついのよ! うー、どう考えても青娥みたいに美文にならないのよね」
「美しく整った文がいい、ってわけでもないよ。そのひとの持つ感情に直接触れたときに、ひとは、心を打たれるものなの。それは文章でも、対面でもいっしょだよ。芳香のこの文章は、すごく素直に感情が表現されていて、わたしは好きだよ」
「うー……恥ずかしいなあ」
「……この詩って、ほかのひとにみせたことある?」
 芳香は、頬を火照らせながら視線を反らして「うー」とうなっていたけど、やがて開き直ったようにあははと笑いながら、
「じ、実は一度だけあるんだよねー」
 やはり。
「へえ。どうだった? 反応は」
「い、いやー、なんか意外みたいなかんじでねー。思ったよりオトメじゃん、みたいな。やっぱり私の柄じゃないよねー」
「見せたのって、最近できた例の『友達』? 百舌鳥(モズ)、っていう」
「そ、そうだよ。よくわかるねー。あのひと見かけは怖いけど、いろいろ知ってるもんでついいろいろ聞いちゃうんだよねー」
「……芳香。そのひと、ほんとうに大丈夫なの?」
 芳香が、ぴくり、と顔つきを変えた。
「……どういう意味? モズがクスリを持ってて捕まったことがあるから、ってわけ?」
「……そういうことじゃないけど、その……話を聞いてると、ちょっと危ないひとな気がしてさ」
「青娥。そうやってひとを差別するのは、私、嫌いだよ」
 芳香は、わたしを射抜くように、まっすぐこちらを見つめている。
 こういうときの芳香は、少し、怖い。
「モズは、もう二度とクスリに手を出さないってわたしに誓ったの。そうやって頑張ろうとしているのに、怖そうとか危なさそうだとか決め付けるから、逃げ場がなくなっちゃって、また繰り返しちゃうのよ」
 その瞳は、純度が高すぎるゆえの狂的な光を帯びていた。
「ご、ごめん。その……どういうひとなのかわかんなくてさ、ちょっと芳香が心配になっちゃっただけなのよ」
「あはは、わたしを殺そうとしてる青娥が心配するだなんて、おかしいなあ」
「わ、わたしは、いつだって芳香を……し、心配してるんだよ」
「わかっているよ。あはは。青娥って、ほんとうにマジメなんだから。いつも考えすぎなんだよねー」
「そ、そうかな。で、でも、芳香も気をつけてね。ほんとうにさ」
 芳香は、わかったわかった、と苦笑いをした。



 わたしは知っている。
 その友人という女は、金のために芳香に近づき、隙があれば芳香の純粋さを踏みにじりたいとおもっている両性愛者だった。男は性欲のはけ口としてだけでしか芳香に興味がなかった。
 思いを伝えたところで、芳香は汚されるだけだった。
 だけど、男や女には、その思いは既に筒抜けだった。あの詩をみれば、もともと隠し事がうまくない芳香の思いなんてすぐにわかる。
 わたしは知っている。やつらは、彼女の思いを利用して、食い物にしようとしているのだ。
 どうして、こんなやつらが芳香に近づいてきてしまったのだろう?
 もしかすると、そういうやつらだからかも知れない。だから、わたしだって、こんなに近くにいさせてくれたのかも知れない。
 お父様はよく言っていた。「おまえはほかのひとと違いすぎている」と。
 ――だから誰もおまえを理解できない。だから、おまえはずっとひとりぼっちなんだ。たまにお前が怖くなるよ。もしかすると、いずれとんでもないことをしでかすかもしれないと。もしかするとお前がここにいること自体が……いや、なんでもない。わたしは、疲れているんだ。すまない。
 たぶん、お父様の考えは正しかった。わたしはあいつらと同じように頭のおかしくて、生きていてもしかたのない人間だ。
 だけど、芳香を守りたいというこの気持ちだけは、間違っていないはずだ。


 
 指定された地下を降りると、重量感のあるドアの前には、長髪でマスカラをつけて口紅を引いた筋肉隆々のスーツ姿のひとがいて、わたしを不審げな目で見た。あの女の名前を告げると、そのひとは頷き、ドアを開けた。重苦しい音とともに、浮遊感のある、とりとめのない音楽が聞こえてきた。
 喫茶店のなかは、紫煙で、まるで靄がかかっているようだった。
 薄暗い店内は、あちこちに女をかたどった意匠がある。天井からはホルスタイン牛のような黒いぶち模様が入ったたくさんの乳房が垂れ下がり、柱は蝿の顔をした女同士が抱き合っているオブジェとなっていた。テーブルはガラスでできていて、透けてみえる土台はロダンの銅像のようながっしりした男が、両膝を抱えてうずくまっているオブジェとなっている。
 客は女しかいない。たくさんのひとがタバコを吸いながら、そのテーブルをはさんで話し込んだり、抱き合ったりしている。急激に発展していくこの国には、欲に飽いた金持ちがたくさん生まれ、このような奇妙な店もあちこちに誕生した。
 わたしは目的のテーブルを見つけて、おおきな女の尻のかたちをした椅子に座った。
「はじめまして。青娥と申します」
「さすが仙人と名乗るだけあって、少しもひるまないのね」
 わたしの向かいに座る女が、笑った。頬や額や顎にある大きな傷跡がひきつれるのか、ぎこちない笑顔だった。女の左目は人工的な緑色をしていて、それは薄い照明の光を反射して、複雑にキラキラ輝いている。わたしは知っている。左目にはめられているのはエメラルドだった。女は綺麗な石が好きだったから、潰れてしまった眼球を抜いてはめこんだのだ。
「もっとひどい店をたくさん知っていますから」
 注文を取りにきたウェイトレスをいいように拷問できる店や、赤子の丸焼きや乳房の煮込みシチューといったメニューを出す人肉専門店を、わたしは知っていた。
 もしかするとこの国は勝ってはいけない戦争に勝ってしまったのかもしれない、とふとおもう。
「ひどい店、ねえ。私はラッキーだったとおもうけどね。だって、まともな世界なら、私なんてきっと一生刑務所の中だもの」
「……」
「どうでもいいけど、あなた、おもったよりも可愛い顔をしているのね。千年生きている仙人様なのに。まるで、私より年下みたい」
 女は、まるで蛇のような眼で、わたしを上から下までなめまわすようにみつめている。
 やがて、ウェイトレスがやってきた。顔をガスマスクで覆っている彼女は短いスカートをはいて、上着には何も着ていなかった。
「暑いでしょう。あなたも脱いでもいいのよ。私みたいに傷だらけの体じゃみっともなくてできないけどね。あなた、綺麗なからだ、しているんでしょ? 上着ごしからも、すごくわかるよ」
「……」
「心配しなくていいわ。ここはね、女だけしか入れないのよ。だから、かまうことはないの。ほら、あっちでもこっちでも、みんなはだかになっているじゃない?」
「メロンソーダをください」とわたしはウェイトレスに言った。
「仙人様は、そんな可愛らしい飲み物を飲むの?」
「別になんでもいいんです。嗜好品は、もはや不要ですから」
「あっそう。じゃあ、ほかの欲は?」
「ほかの、というと」
「まわりのやつらがおっぱじめていることよ」
「……」
「ふうん。まあ、無いわけでもないのね」
 ウェイトレスがメロンソーダを持ってきて、わたしの前に置いた。メロンソーダのなかは赤い蝶がふよふよと泳いでいた。柘榴と掛け合わせて作られた食用の水中蝶だ。まだ、生きている。
「お願いがあります」とわたしは切り出した。
「芳香から離れてくれませんか。あなたは、芳香の害になる」
「これ以上ないくらい単刀直入ね」
 女は、「恐怖の戦場」という名のまっしろなカクテルに口をつけた。底に錠剤のかたちをした真っ赤なものがコップのなかでざらざらと動いている。
「そんなにあの子を好きなのね。妬けてくるよ」
「……」
「あいつにも言うの?」
「はい」「どうして私に先に話すの? あの子、あいつに惚れているじゃない」「あなたのほうが話が早いと思いまして」「あいつは見てくれはいいけど、バカだからね」
「回答を、お願いします」
「代償は?」
 わたしはストローでメロンソーダのなかの蝶をコップの底まで突っ込んだ。蝶は、たくさんの氷にはさまれて、浮かびあがることもできずにコップの底でばたばたもがいている。
 わたしは、かんざし代わりの「鑿」を取り出してコップに刺して、底に沈んだ蝶を「抜いた」。
 はじけるソーダ水をまとっている蝶は、テーブルの上でぱたぱたともがいている。
「必要とあらば、ここのレジの中身を抜いてみせましょうか?」
 女は、熱をもった、ぎらぎらした目で、ぼんやりとさくらんぼを見つめていた。
「代償は、あなたが望むものです。何が、お望みですか?」
 


 わたしは芳香を裏切ってしまった。
 「悪いこと」に手を染めてしまったのだ。
 どうしても必要な、害虫を排除するための撒き餌だ。殺さずに消すためのやむを得ない裏切りだ。わたしはそう思っていた。
 わたしはそうするべきではなかった。
 芳香の言うとおり、彼女に相談して、正面から伝えるべきだったのだ。
 だが、もう遅い。



 女の住んでいるアパートは、川沿いの錆びたトタンのアパートだった。
 さび付いた階段をのぼると、一歩ごとに安っぽい、乾いた音がする。
 ペンキがはげてところどころがさび付いたドアを叩いた。しばらくしてドアが開いた。
 女は、黒い下着姿だった。彼女のからだは、たくさんの切り傷の痕がみみずのようにのたくっていた。腕も、腹も、足も。
 彼女は、目のまわりをどぎつく黒く塗り、色の悪い口紅を引き、それ以外の部分をおしろいのように白すぎるくらい白く塗っていた。
 その顔が、わたしを見ると、笑った。まるで時計か何かが笑うような、無機質な笑いだった。
「持ってきました」
「入って」
 六畳二間の彼女の部屋は、全体的に茶色だった。古ぼけた木と板の色に支配されていた。
 わたしは、彼女に頼まれたものを、部屋の真ん中のこたつテーブルにひろげた。銀のトカゲで作られたナイフ、南米生まれの親指ほどの豆ワニ、いばらが巻かれた鞭、ダイヤモンドが散りばめられた犬の首輪、バラで編んだキツネのお面、モルヒネ、拳銃3丁、弾丸50発。すべて、彼女の望んだもののとおりだった。
 彼女は、手に取ろうとしなかった。
 わたしをみながら、相変わらず機械じみた表情を浮かべていた。
「これであなた、立派な犯罪者ね」
「……もしわたしを訴えれば、あなたも同罪ですよ」
「そうかもしれないわね。でも、わたしとあなたが捕まったら、芳香はどんな気持ちになるかな?」
 女は知っている。わたしとこの女が逮捕されれば、芳香はひどく傷つくことを。そして、わたしがそれを望まないことを。
 慣れないことをしたからだ、とわたしは後悔した。いつもは「分解」して、それでおしまいだ。これ以上なくシンプルで後腐れの無い方法だった。死体は扱い慣れているが、生き物は慣れていなかった。
「ごめんね。私ね、ラッキーの少ない人生だったの。だから、ラッキーが転がり込んだら、なりふりかまわずしがみついちゃうのよ。クズと罵ってもかまわないわ。まあ、あなたも気がついてたよね。私がクズだってさ。だから芳香と離そうとしていたんだものね。あはは」
「……何が望みですか」
「あなた、これからわたしの奴隷になってよ。千年生きているんでしょ? 大丈夫、どうせわたしは長生きなんてできないわ。二十年くらい、わたしのためだけに使ってよ」
「あなたたちが二度と芳香と会わないこと。そして、このことを芳香に伝えないこと。その二点を守ってくださるのなら、奴隷になります」
「顔色変えずに即答するなんて、さすが仙人様ね」
 女の顔から機械の笑みが消えて、怒りと苛立ちが混じった。
「あなた、わかっているよね。たぶんそんなすまし顔は、できなくなるよ。いや、できなくしてやる」
 この女は、わたしを憎んでいる。妬んでいる。だから、わたしが怯え、恐怖することを望んでいる。ずっと芳香にも、そうしたかったのだろう。
 わたしに矛先が向けられたほうが、やりやすい。
「ずっと昔にも、そういうこと、したことがありますから」
「あっそう。じゃあ、かなり無茶をしてもいいってわけね?」
 女は、ひどく残忍な笑みを浮かべた。
 おもったとおりだ。この女、わたしがまるで動揺しないことが、気に食わないのだ。
 わたしが変わらない限り、この女の狙いはわたしに絞られるだろう。
「回答を、お願いします」
 女の笑みが、般若のようにひきつった。
「あなたが立派に奴隷をお勤めになっている間は、あの子には会わない、って約束するよ。会う必要も無いからね」
「あともうひとつは」
「……そんなにあの子の前では綺麗でありたいの?」
「芳香は、綺麗な子ですから。たぶん、悲しみます」
「……いいわ。あの子には言わない」
「わかりました」
「じゃあ、これで契約成立ね。さっそくだけど、裸になってくれないかしら。上も、下も、全部よ」
「……わかりました」
 わたしは着ているものをすべて脱いだ。女は、ふう、とため息をついて、「やっぱりね」と言った。
「しみひとつない、綺麗な肌。さすが仙人様ね。芳香とは違うタイプだけど、おなじくらい綺麗ね」
 女は、わたしのからだをながめまわしながら、つぶやいた。
「……あなたは、見たことがあるのですか。芳香の、からだを」
「ふざけた振りをしてね。そんなに怖い顔をしないでよ。別に何もしていないわ。ただの、ごっこ遊びよ。わたしね、芳香が好きなの。ほんとうに好きなの。純粋で、キラキラしていて、やさしすぎて、とても、もろくて、よわっちい子。残念だけど、じきに汚れるわ。あなたもわかっているでしょ? わたしたちみたいな底辺のクズに惹かれてしまう弱さのせいよ。だからこそ、はやくめちゃくちゃにしてやりたかったの。まっしろな雪の上に土足で汚す役をやりたかったのよ。誰かに汚されるまえに、わたしが汚してしまいたかったの」
「……芳香を汚すのは、やめてください」
「わかっているわ。あなたもわかっているでしょ? わたしの言いたいこと。悪いけど、芳香のかわりになってもらうよ。ひどいこと、たくさんしたいのよ。いいでしょ? あなた、そういうこと、たくさんしてきたんでしょ? 千年もこんな綺麗なままなんだものね。男も女も放っておくわけないよね」
「……」
「ねえ。汚れてくれる? 私くらいに、きたなくなってくれない? そこらへんを飛んでる羽虫みたいにさ、べちゃっと潰れて死んでくれない?」
 女は受話器を取って電話をする。
 しばらくして、後ろのドアが開いた。さわがしい男たちの声がした。



 この女の感情の奥底にあるものは、他人に対する劣等感だ。だから、わたしが貶められるとうれしそうにして、わたしが顔色を変えないことに、苛立った。
 そんなに自分に自信が無いのなら、世界から消してしまえばいいのに。
 わたしにとって世界は、ふたつのもので出来ている。
 お父様と、芳香。
 それ以外には、もう、何も無い。



 部屋をノックした。芳香の返事がなかった。耳を澄ますと、ごそごそと音がしている。
「芳香、いるんでしょ? 入るよ」
 部屋に入ると、芳香はわずかにこちらを見るだけで、すぐにうつむいてしまった。
 沈んだ、虚ろな表情だった。
 その目をみて、背中が、ざわついた。
「どうしたの? 元気が無いじゃない」
 芳香は、うつむいたまま、
「青娥。わたしに、隠し事とか、してないよね?」
「隠し事って、どんなこと?」
「そ、その……だ、誰かとケンカしたりとか、ひどい目にあわされたりとか」
「……別に何も無いわ。どうしたの?」
 芳香がこちらを振り向いた。
 わたしを見ていた。疑いの目で。
 彼女は、誤魔化すように、ぎこちない笑みを浮かべた。
「ご、ごめんね。……わたしもよくわからないの。なにを信じたらいいのか、わからないの」
「……芳香、どうしたの。はっきり言ってよ」
「……青娥、ごめんね。私、青娥を信じている。だ、だけど、私は弱いから、すぐにちょっとしたことでうろうろしたり、迷ってしまったりするの」
 さっき、わずかに芳香が目線を向けた机を確認する。
 引き出しの一番上がわずかに開いている。
 わたしは芳香の部屋をすべて把握している。あの引き出しはいつも締まっている。中身は風邪薬や胃腸薬が入っているから、まず使わないのだ。
 では、芳香は、体調が優れないのだろうか?
 そうじゃない。であれば、さっきのセリフと繋がらない。
 引き出しの開いた隙間から茶色の封筒がわずかにみえた。
 机の上をみると、ハサミが置いてあり、封筒の切れ端が床に落ちている。
 あの茶色の封筒は、たった今届いたところなのだ。
 偶然だろうか?
 わたしが来る時間はいつも概ね決まっている。平日は、芳香が大学から帰ってきた夕方くらいに顔を出すようにしている。それから芳香が寝るまで、ほとんどずっと一緒だ。芳香に、おかしなやつらが近づかないかを確認したいために、毎日わたしはやってきている。
 芳香は、家に入る前にいつもポストをのぞきこんで郵便物を確認し、家に入るとスカートと靴下を脱ぎながら風呂場に向かい、風呂場の洗濯物入れに靴下とスカートを放りいれて風呂の掃除をして、お湯を落とすと二階に上がる。
 つまり、その日課を知る者なら、芳香が帰ってくる前のタイミングでポストに投函すればいい。
「芳香。その封筒には、消印があった?」
 芳香は、びくり、と肩を震わせた。
 その戸惑った表情は、「どうしてそんなことがわかるの」と書いてある。芳香は、ほんとうに素直で、わかりやすい。
 消印は無かったのだ。それで芳香は不思議に思ったのだ。そして、開けた。
「おかしな封筒が来たのね。それで、芳香は、混乱してしまったのね」
 写真で思い当たる節はたったひとつだけだ。あの女は、わたしを貶めたくて、わたしを怯えさせたくて、わたしのいろんな写真を何枚も撮っていた。まちを歩けなくしてやるとか言っていたけど、別に気にしなかった。ただ、約束を守ってくれれば、ほかは何に使われようとも構わなかった。
「ねえ。芳香。それって、どんなものが入っていたの?」
 もしその写真を芳香に送っていたとすれば。
 わたしは、芳香と二度と会えなくなる。
 強要されたとはいえ、わたしはとてもきたないことを、たくさんやったのだ。
「芳香。それって、わたしの写真が入っていたの?」
「ち、違うよ」
 芳香は、ぎこちない笑みを浮かべながら、わたしを見た。
「こんなの、全部嘘だよ。たちの悪い冗談だよ。そうだよね」
 芳香の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
 ――また、泣かせてしまった。
「青娥、あなたは誰かに恨まれているんでしょ? そいつがあなたの写真をでっちあげたのよ。ひどい話だよね」
「……」
「青娥はわたしと約束したしね。悪いことをしないってね。だ、だから、青娥が、こんなこと、こんなことしないものね」
「……」
「だ、だから、言ってよ! なんでそんな顔をしているのよ? 青娥、あなた、誰かにひどい目にあわされたりしてないの? ほんとうに、何もないの? ねえ!」 
「無いよ。写真にわたしが写っていたなら、それはたぶん、真実だよ」とわたしは言った。
 絶望的な顔をする芳香をみるのは、つらかった。
「せ、せいが。どんな写真が、送られてきたのか、わかるの?」
「わかるよ。わたしがいんらんだっていう証拠の写真だよね。今までだましていてごめんね」
「嘘よ!」芳香が叫んだ。
「青娥はそんなことできるひとじゃないよ! だって青娥、すごくかなしそうだもの。とてもさびしそうだもの。そんな顔をしているひとが、す、好きでこんなことするわけないよ。ねえ青娥、何があったの? 誰かにこんなひどいことさせられてるんじゃないの? ねえ、ほんとうのことを教えてよ!」
 芳香にほんとうのことはいえない。あの女は、わたしが何をされても変わらないことに業を煮やして約束を破った。わたしが恐れるのは、真実を確認するために芳香があの女と接触しようとすることだ。たぶんわたしが止めても、いや、止めれば止めるほど、芳香はそうするだろう。
 あいつは自分の巣にやってきた芳香をみて嬉々として自分の正体を明かし、芳香を絶望に叩き落したうえで、汚すはずだ。
 そんなことは、絶対にさせない。
 だからわたしは、芳香に嘘をつくしかない。
 そして、あの女は、芳香のなかではきれいなまま終わる。いや、「終わらせる」。
「言ったとおりよ。わたしは、好きでこういうことをしているの。ごめんね」
 芳香は、口をつぐんだ。
 わたしをみる目から、感情が失せていった。
 芳香が、どんどん遠ざかっていくのがわかった。
「そう、なんだ」
 芳香は、わたしから目を反らした。
 彼女は近寄ろうとした。だけど、わたしは拒絶してしまった。
 これでもう、芳香にこうやって会ったりできないんだな。とわたしはおもった。
 わたしたちはただの他人に戻るのだ。
 楽しいひとときは、終わったのだ。
「もう、ここには、来れないかな」
「……来たいなら来ていいよ。わたしを殺したいならね」
 もう友達としては、来てはいけないんだね。
「殺さないよ。わたしは、芳香が好きだから」
「……だったら、どうして、ほんとうのことを言ってくれないの?」
 芳香は、うつむきながら、悔しそうに、歯を食いしばっている。
 ――わたしのやりかたが間違っていたために、わたしはお父様を失ってしまった。
 大切なものを、もう二度と、失いたくない。
 嫌われてもいい。芳香がそこにいればいい。
「ごめんね」と言って、わたしは窓から部屋を出た。
 空に浮こうとしたその背中で、芳香の嗚咽が聞こえてきた。
 ごめんね、芳香。ほんとうに、ごめんね。


 手段はひとつだけだった。
 最初からこうするのは簡単だった。
 わたしは、芳香に約束したから、そうしなかっただけだ。芳香のために殺さなかっただけだ。
 なのに、こいつは、あっさりと約束を違えた。
 よくいる手合いだ。調子に乗って、だんだん行動がエスカレートしていって、気づいたら踏み入れてはいけない線に、土足で入り込んでしまっている。そして、手痛いしっぺ返しを受けるのだ。あの女のからだの傷の理由を聞いたことはないが、たぶん、調子に乗った結果だろう。
 残念ながら、今回の「しっぺ返し」はそんなちっぽけな傷では済まされない。
 あいつはやってはいけないことをやってしまった。
 わたしをおとしめ、汚れた姿をみて、あざ笑うために。そんな己のちっぽけな劣等感をうさばらしするためだけに。わたしは芳香に嘘をつくことになった。
 芳香を悲しませて、泣かせた。
 絶対に許せないことを、やってしまった。
 あの女のアパートの天井裏で、わたしは、鑿を突き刺して作った小さな覗き穴から下を観察している。わたしの鑿は、どんなものにでも自在に穴を開けられる。
 深夜になって、あいつが男たちと部屋に帰ってくる。男たちは何度もここで会ったことがあるやつらだ。男は三人。確か今日は三人だと女が言っていたから、これで全員だろう。
 スーパーの袋に入れた焼酎瓶を小汚いテーブルに置くと、やがて酒盛りをはじめる。今日はどうしてやろう、と話しながら、げらげら笑っている。女は、もっととりかえしのつかないことをしちゃおうよ、と言っている。今までだって相当なことをしてきたじゃねえか。これ以上どんなことをするんだよ。ねえ、あいつの目をスプーンでくり抜いちゃおうよ。だって生意気だもの、わたしだって片目しかないのよ。で、その開いた穴にビー玉を突っ込んでやるのよ。男たちは、うわそこまでやるのかよシャレにならねえよ、と言いながら笑っている。
 わたしは決行する。
 鑿を使ってわたしは天井をすり抜ける。わたしは音もなくやつらがいる部屋に降りる。
 やつらは突然現れたわたしの方を振り向く。呆気にとられた顔をしている。
「どうも。こんばんわ」
 わたしは微笑みながら、近くで座っている男に近寄ると、「失礼します」と言い、そいつの胸に鑿をあてる。わたしの鑿は、どんなものでも穴を開けられる。どんなものでも。
 穴が開いた男の胸に、わたしはもう片方の腕を突っ込む。
 わたしの腕は、男の皮膚や筋肉や肋骨をすり抜けて心臓をつかむ。そのままねじるように勢いよく引き抜く。血管まみれの心臓を穴から外まで引っ張り出すと、男の胸の穴を閉じる。心臓をつなぐ血管が千切れる。
 わたしの手のなかの心臓が脈打つ。とたんに、ぶしゅううう、と壊れた水道管みたいに血が噴出した。
 男は、そのあとも血を断続的にふきだしている自分の心臓を呆然とながめていたけど、やがて、座ったままテーブルに突っ伏した。男のからだは痙攣しながらあおざめていった。
「え?」
 わたしは心臓を捨てて、血にぬれた手をタオルで拭きながら、そう声をあげたほかの男に近づく。
「おやまあ。どうしたんでしょうね」
 そうつぶやきながら、その男の心臓も引き抜く。
 ひとりめと同じようにその男もテーブルに頭を垂れたまま、動かなくなる。
「え、どういうこと、これ?」
 残った男は、まだ目の前で起こっている現実に対応できていない。立ち上がることすらできていない。
「さあ。なんでしょうねえ」
 わたしは微笑みを絶やさずに、そいつの男の心臓も引き抜く。
 ひとを殺すのなんて、生かすことに比べたら、ほんとうに簡単だ。

 いつもなら間髪いれずに皆殺しにするのだけど、わざと女だけはゆっくりと殺すことにする。
 わたしは、呆然としている女の脇腹あたりに穴を開けて、裏にある腎臓をひとつ引き抜いた。血とできたての尿がぼたぼたとわたしの掌からこぼれている。
「ねえ。これ、あなたの、腎臓よ。わかる?」
 女は、驚いたように自分のからだに収まっていたはずの内臓を眺めていたけど、やがて足をがくがくさせながら尻餅をついた。
 両膝が別の生き物のようにがくがく痙攣している。失禁したようで、股ぐらから液体が畳にひろがる。その液体は、真っ赤だった。わたしを見上げる目が、完全に敗者の眼差しになっている。この様子では、逃げることもできないだろう。
 わたしは女の腎臓を捨てる。すると、血のにおいをかぎつけた豆ワニがやってきて、むしゃぶりつきはじめる。
「かわりに、ビー玉を入れてあげましょうか?」
「ゆ、ゆるして。ゆるして、ください。ころさないで。おねがい」
 女の声は、かわいそうなほどに震えている。歯が、カチカチとうるさかった。
「あなたは。何に対して謝っているの?」
「あ、あなたに、いろんなひどいことをして、してしまいました」
「ひどいことって?」
「あ、あの。いろんな男といっしょになってあなたを」
 女は、「わたしにしたこと」をいろいろと羅列していく。
 わたしは怒りを通り越して、あきれてしまう。
 わたしがどうして怒っているのかも、こいつはわかっていないらしい。
「ねえ。あなた。どうして芳香に写真を送ったの?」
 仕方なくわたしが言ってやると、こいつは一瞬遠い目をしたあと、思い出したのか、「あっ」と声をあげた。
 その反応で、十分だった。
 つまり、こいつを殺さなければならなくなったこと、芳香にわたしの写真を送ったことは、この女にとってただの気まぐれの、お遊びだったのだ。
 救いようがないやつだ。
 これ以上話しても無駄だった。
 わたしは女の前で両膝を折り、女の顔を近くでのぞきこむ。女は悲鳴をあげて後ずさりしようとするけど、足が笑っていてうまく動けないようだ。
「わたしが怒っているのはね。あなたのせいで、あなたを殺さなければならなくなったことよ」
 わたしは女の心臓を引き抜く。
 こんなやつのために芳香に会えなくなるとおもうと、ほんとうに、悔しかった。

 
 
 芳香に会えなくなったわたしができることは、彼女を守り続けることだった。
 芳香には嫌われてしまったけど、わたしは、芳香が好きだ。
 わたしは、芳香が幸せになるならなんでもする。そこにわたしがいなくてもいい。彼女が幸せならば、それでいい。願わくば、芳香がわたしを忘れないで、たまに思い出してくれれば、それで満足だった。
 そう、それだけなのだ。
 なのに、どうしてこんなにうまくいかないんだろう?
 


 わたしは、いつものように芳香の部屋の天井裏で、天井に耳をべったりつけて耳をすましている。
 ほんとうは芳香の姿を見ていたい。だけどそれはわたしの願望であって、芳香を守る目的から逸れてしまう。見られていると知らない芳香は当然、すべてをさらけだしたりもするだろう。そんな芳香の姿を覗き見するのは、許されない罪だ。わたしは芳香を守るためにここにいるのだ。
 今夜は、あの男が来ていた。わたしが殺したあの女と付き合っていて、芳香が恋慕していた男だ。
 なぜこんな男に芳香が惹かれたのか。芳香のまわりは、男といえば、おかしな性癖の妖怪じみたやつらばかりだ。そのなかでは、ただ単に頭が悪く性欲で動くこの男はある意味まともであり、恋愛ごっこの対象としてはちょうどよかったのだろう。つまり消去法で選ばれた男だと、わたしは確信している。
 わたしは覚悟している。芳香が幸せならわたしはそれでいい。それでいいんだ、と何度も自分に言い聞かせる。
 ふたりはあの死んだ女のことを話題にしている。空気は沈んでいる。
 芳香はしきりに男をなぐさめようとしている。芳香は男がショックを受けているとおもっているのだ。
 芳香は、ほんとうにやさしい。ほんとうに。
 その男は、女が死んだことで嘆くようなやつじゃないのに。芳香のからだにしか興味を持っていないような男なのに。
 すぐに男は、芳香のやさしさにつけ込んできた。
「や、やめて。やめてよ。モズが死んじゃってからまだ一週間も経ってないんだよ? な、なのに、どうして、わたしにそんなことをするの?」
「何言ってんだよ。おまえが部屋に誘ってきたじゃないか? そんな詩を読ませて気をもたせておいて、いまさら拒むなんてひどいじゃないか」
「わ、わたしは、ただ、あなたが、さびしそうだったから、」
「そうさ。さびしいよ。だからなぐさめてほしんだよ。おまえが好きだから、おまえになぐさめてほしいんだよ。ほんとうだよ。あいつがいたから言えなかったけど、おまえがずっと好きだったんだ。ほんとうさ。おまえは怖がっているだけさ」
「や、やめて、あっ」
「ほら、そんな声をあげてさ。ほんとうは気持ちいいんだろ? おまえのからだは俺とやりたがってるんだよ。恥ずかしいって、ほんとうにそうなんだからしょうがないだろ? ほんとうにやるきがなかったらこんなにならないよな。芳香、さびしいんだよ。おまえもさびしいだろう? だから、いいだろ?」
「も、モズがかわいそうだよ。こんなの、かわいそうだよ」
「あいつがかわいそうだって?」男はさもおかしいように笑う。「おまえってほんとうにおめでたいやつだよな。あいつは死んで当然の女だったのさ。あいつ、おまえのこと、クスリを買うための金づるとしか思ってなかったんだぜ」
 芳香の声が、しばらく聞こえなくなる。
「そ、そんなこと、だって、モズは、クスリはもうしないって、」
「あはは、そんな簡単に手が切れるんなら誰だって苦労しないさ。あいつはお前を口先でだまくらかして金をせびり、相変わらずクスリ漬けの生活を送っていたよ。あいつの腕を見れば一目瞭然だろ? で、あいつがクズいところはな、そんなおまえを憎んでいたことさ。家に金もあるし、綺麗なからだしているおまえを、めちゃくちゃに破滅させてやりたがっていたんだ。ひどい女だろ?」
 わたしは天井の壁をかきむしりたくなる。
 これ以上喋るな。芳香に汚いものを見せるな。絶望させるな。悲しませるな。あの女は、芳香のなかだけでは美しいままでいさせたかったのに。
「ど、どうして。どうしてモズがそんなにわたしのことを。わ、わたしが、なにかわるいことをしたの? なにが悪かったの? ねえ、教えてよ」
「そんなものあるわけねえだろ。あいつはもとからおかしくて、ひでえことばかりやってたんで恨みをかって殺されたってだけだ。あの自称仙人にな」
「……えっ?」
「なんだおまえ、知らなかったのかよ。お前の家にちょっと前まで出入りしてた女、あいつがブッ殺したんだよ。みんな言ってるぜ。心臓くり抜いて殺すだなんて異常な殺し方や、殺すくらい恨みを持っていたやつは、あいつしかいないってな」
「青娥は、殺さない! だ、だって、わたしと、約束をしたんだよ! もうひとを殺したり、悪いことはしないって、誓ったんだよ!」
 芳香。
 ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。
 男が笑う。卑しい、下劣な、小汚い声で。
「おまえが思うほど、この世界は綺麗にできてないんだよ。おまえ、あの自称仙人がどんな目にあわされていたのか何も知らないのか? 百舌鳥に盗みをみられて脅されて奴隷にさせられていたんだぜ。おまえだったら三日でおかしくなるようなひでえ扱いをさせられてたんだ。いくら仙人だろうが神様だろうがブッ殺すに決まってるだろ?」
「もうやめて! もう聞きたくないよ! そんなこと、もう聞きたくない!」
「まあ、でもあの女も相当なタマだったよ。あんな目をさせられても平然としていたからな。本当に仙人だったかもな」
 芳香の悲鳴が、聞こえた。
 まるで、テープが擦り切れてしまったような声だった。
 芳香の心が、切れてしまったのではないか。わたしは怖くなった。
「うるせえなあ。みんなそんなもんさ。おまえがいくらやさしくしても、腐ってるやつは腐ってるんだ。しょうがねえんだよ」
 うわあああああああああと芳香が叫んだ。
「うそよ、うそよ。ぜんぶ、うそよ!」
 もみあう音がした。
「うるせえって言ってんだろ!」
 芳香の悲鳴があがり、どん、と何かが倒れる振動が起こった。
「ああ、もう、めんどくさくなったな。今度暴れたりしたら、こいつをぶっ放すからよ」
「な、なんでそんなものを……」
「まあ、買えるわけねえから、盗んだんじゃねえの?」男がせせら笑う。
 芳香の声が、しばらく途切れた。
「……なんで、みんな、わたしには悪いこともうしないって言ってるのに……」
 男は、あははは、と笑う。
「言うは易し、行うは難しってやつだな」
 嗚咽が漏れる。
「……ぜんぶ、うそだったんだね。わたしは、ひとりでみんなの友達になっていたつもりだったけど……ぜんぶ、うそだったんだね……」
「そうさ。嘘なんだよ。おまえはずっとだまされてきてたんだよ。だから言ってるだろ? 現実は、お前が言うように理想論だけじゃ動いていかないんだ。ようやくわかってきてよかったなあ。おう、やっと静かになったな。最初からそうしていればいいんだよ。大丈夫だよ。心配するな。すぐに終わるから」
 限界だった。
 天井を抜けて、わたしは芳香の部屋に降り立った。
 芳香の上にまたがる男は、突然あらわれたわたしを一瞬呆然とながめていたが、すぐに手に持つ拳銃をこちらに向けた。いい反応だ。
「なんだてめえは!」
 いい目で睨みつける。なかなか肝も据わっている。消去法で残っただけとはいえ、芳香に選ばれただけある。
「自称仙人よ」
 男は、そこで、下卑た笑みを浮かべた。
「おまえがそうだったのか。確かに綺麗だよな。あいつがご執心になるはずだよ。で、どうするんだ? ずっと俺たちを覗き見してたんだろ? おまえもいっしょにするか? 俺は別にそれでもいいぜ」
 男のしたで、シャツをめくられた芳香は、涙でぼろぼろになった目で、わたしをぼんやりとながめているようだった。いや、何もみえてないかもしれない。虚ろで、光を失った目だった。
 許せなかった。
 芳香の名誉のためにいい部分を見つけてやったが、芳香の思いを踏みにじった罪は、それを遥かに超えている。ただ、死ぬだけでは許せなかった。
 わたしから何かをかぎとったのだろう、男は真顔に戻ると、拳銃を再び構えた。
「言っておくが、脅しじゃねえよ。近づいたら、ぶっ放す。俺は百舌鳥みたいに死にたくねえからな」
 わたしは男の言葉なんて聞いていなかった。
 わたしが見るもの、聞くものは、世界でたったひとりだけ。
「芳香。ごめんね」
 わたしが歩みだすと、男が叫びながら、拳銃の引き金を引いた。火薬の爆ぜる音がした。
 わたしは既に鑿を自分のからだに刺していた。わたしの胸は一時的に穴が開き、弾丸はその穴を抜けていく。
「まず、胃、腸、」
 あっけにとられている男の腹に鑿ごと手を突っ込んで、腸をつかんで引っ張り出した。ずるずると長い腸にひっついてくる胃も、そのまま全部引きずり出した。
「すい臓、肝臓、腎臓、」
 長い胃腸を放り捨てると、ほかの内臓をどんどん抜き取った。肝臓だけは大きいため、両手でつかんで引きちぎった。
 男は自分の内臓が次々と外に放り出されるのを、ただ、呆然と見つめていた。さすがに理解を超えているらしい。
 だからわたしは抜き取った内臓を両手で抱えながら、教えてやった。
「ねえ。これ、みんなあなたの内臓よ。これだけなくなっちゃうと、もう生きていけないの。あなた、もう死んでるのよ。わかる?」
 ようやく理解したのか、男は目をむいて、がたがたと歯を鳴らしはじめた。ズボンが濃い色に染まっている。
「次に肺を抜いちゃうから、今のうちに言いたいことがあるなら、言っておいたほうがいいよ」
 男は、立っていられなくなったのか、膝を折ると、
「し、死にたくない」
「そんなんでいいの? ねえ、芳香に何か言うことはないの?」
「死にたく、ない」
 もう男の頭のなかは、芳香のことなんてすっ飛んでしまっている。
 これ以上待っても無駄だな。
 わたしは両手で肺をつかんで一気に抜いてやった。
 たちまち男は、喉をかきむしりながら、イイイイイとおかしな声をあげながら前に倒れこんだ。顔色は紫色に変わり、白目をむいて泡を噴き始めた。
 どうせじきに死ぬ。しばらくそのまま放置してやって、芳香に行った罪を償わせるべきだ。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、ああっ、はあっ、」
 みると、芳香が、汗まみれの顔で、苦しげに喉のあたりをおさえている。死にかけの蟹のようになっている男を、飛び出さんばかりに見開いた目で凝視していた。
 芳香には、刺激が強すぎたのだ。
 わたしは、はやくこの男を死なせることにした。
 男の心臓を抜くと、それでもしばらくびくびくと痙攣していたけど、やがて、男は、動かなくなった。
「うああああああああああっ」
 芳香が叫びはじめた。
「うああああああああ。あああああああああ。ああああああ。ああああああああああ」
 芳香は、両手で顔を覆いながら、悲痛な叫びをあげつづけていた。わたしは怖くなった。芳香は壊れてしまったのだろうか? 
「芳香。芳香。大丈夫なの。芳香」
 芳香は、わたしの手を払いのけた。そして、わたしをにらみつけた。
「触らないでよ、人殺し!」
 芳香が、わたしを拒絶した。
 それから、また顔を覆うと、首を振りながら、
「もうなにもかもわからない。なにをしんじたらいいのかわからない!」
「ごめんね」とわたしは言った。
「ごめんね。芳香。ごめんね。ごめんね。ごめんね」
 わたしは、ばかみたいに繰り返した。ほかに何を言えばいいのか、わからなかった。
「やめてよ」芳香は、吐き捨てた。「どうしてわたしに謝るの? このひとに何とも思わないの? あなたには、心が無いの? 千年も生きているうちに大切なものを全部捨てちゃったの?」
「ご、ごめんね。芳香。ごめんね」
 わからない。芳香が何を怒っているのかわからない。わたしは芳香のためにやったのに。この男は芳香にひどいことをたくさん言って、芳香を汚そうとした。だから殺したのに。なにが間違っているのかわからない。
「わ、わたし、なんでもする。あなたのためなら、なんでもするから。だ、だから、ゆるして。ごめんね。だ、だから、怒らないで。また笑って。ねえ」
 わたしはただ、芳香のために、芳香が幸せになってくれればいいとおもっていただけなのに。
 なのに、わたしがやったことで芳香はひどく傷ついてしまった。
「ごめんね。ごめんね。ごめんね」
 どうすればいいのだろう? わたしにはわからない。なにもかもが、わからない。お父様の言うとおり、存在しなかったほうがよかったんだ。今すぐ自分の心臓を抜き出してしまいたい。それで芳香の気が済むなら。だけどきっと芳香は喜ばない。芳香は自分のためにひとが死んだら、きっとまた悲しむだろう。わたしは芳香を悲しませたくない。芳香。芳香。芳香。ごめんね。あたまがおかしくてごめんね。ごめんね。ぐるぐるぐる頭がまわる。わたしは、わたしはどうすればいいの、死ぬことも生きることもできずあたまのくるっているわたしはどうすればいいのあああああ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬわたしはわたしはわたしは芳香芳香芳香

「ごめんね、青娥」

 頬を撫でられて、気がつくと、芳香の顔が、わたしのすぐ間近にあった。
 芳香は微笑んでいた。瞳を真っ赤に腫らした、ひどくさびしげな笑顔だった。
「青娥は、私のためにしてくれたんだものね。わたしが弱いのが悪かったんだよ。モズも、このひとも、みんな弱すぎたんだよ。だから、お互いにずるずると引っ張られて、ずぶずぶと井戸の底に落ちてしまうの。そんなことわかっていた。だけどどうしようもなかった。私たち、そうやって生きていくしかなかった。それを青娥は、必死になって救い上げようとしてくれたんだよね。ごめんね。ただ、青娥は、私たちと同じで、違っていただけ。弱いのに、強すぎただけ。弱いわたしたちは、青娥の力に耐え切れずに、腕が千切れてしまって次々と落ちてしまっただけ。それは青娥のせいじゃない。弱いわたしたちのせいなの」
「違う」
 芳香が何を言っているのか、正直よくわからない。
 だけど、芳香が自分のせいだって思うのは、絶対に間違っている。
「いや……青娥は、たぶん、正しいんだよ。正しすぎるんだ。黒と白が世の中にあって、黒を許せなくて、切り捨ててしまうの。それは正しいの。世の中にプラスになるかどうかっておもえば、とても正しいの。だけど……だけど、それじゃあ、正しくないひとは、どうなるの?」
「違う!」わたしは叫んだ。
「わたしは、正しいか正しくないかなんて考えたこともない。だってわたし自身が間違っている存在だもの。ひとをたくさん殺す悪いひとだもの。ただ……ただ、わたしは、芳香のためだけをおもっていただけよ。芳香、わたしには、あなただけなのよ。あなたは……あなたは……わたしのすべてなのよ。わたしは、芳香、あなたが、だいすきなの。あいしているの。それだけなのよ」
 わたしのために泣いてくれたひとは、ちょっと驚いた顔をした。
 それから、やさしく、微笑んだ。
「いいのよ。青娥は、それ以上、いいの」
 違う。
 ほんとうよ。ほんとうに、わたしは、あなたを、好きなのよ。愛しているのよ。
 どうしてそんな、あのときのお父様みたいな、優しい残酷なごまかし笑いをするの?
 わたしがおかしいの? 父親や女の子を愛することが、そんなにおかしいの? 
 どうして愛しているっていうと、みんなわたしから遠ざかるの? 
 もう、なにもかも、わからない。あたまが、おかしくなりそうだ。
 あたたかい手が、わたしの髪に、やさしくふれた。
 芳香は、これ以上ないくらい、やさしい笑顔で、わたしを見つめている。
「そんなにかなしい顔しないで、青娥」
「わ、わたしは、ど、どうすれば、いいの。おしえて、芳香」
「あなたは人を殺してしまったわ。それは、とても悪いことよ。一度殺してしまえば、いつまでもその罪はついてまわる。いつかその罪で、殺されてしまう」
「よ、芳香、わたしは死んだほうがいいのなら、そう言って。お願いだから、そう言って。も、もう、わたしはもう、十分なの。こ、この世界は、つらいことばかり。千年、千年生きてて、いいことなんて、たったひとつだけ。あなたと出会ったことだけよ」
 芳香は、やさしく微笑みながら、
「青娥、まえは寂しいだなんて考えたこともない、って言ってたよね。もしかして、中途半端にわたしが接したから、逆に辛い目にあわせちゃったかな。だとしたら、ごめんね」
「そ、そんなこと……ないよ! わたしは……お父様がいなくなってから芳香と出会うまえの千年間、何をしていたのかもほとんどおぼえていない。生きているようで生きていなかったの。芳香、あなたのおかげで、わたしは生きられたの。そ、それなのに……も、もうあのひとりぼっちの世界はいやだよ。芳香、あなたまで失うのなら、わたし、死んだほうがましよ」
「だめよ。あなたは、生きなければならないの。生きて生きて生きながら罪をあがなうの。それがあなたの贖罪なの」
「つ、罪をあがなうって、どうすればいいの? わたし、なにもわからないの」
「もう二度とひとを殺さない、って、約束して。なにがあっても、絶対に殺さないって」
「殺さない。ぜったいに殺さない」
「そして、あなたは生き続けるの。ずっとずっと、ずっと、ずっとよ」
「……わ、わかった。わかったよ。芳香がそういうのなら、わたし、そうするよ。わたしは死なない。芳香がいいっていうまで、生き続ける」
「それでいいの。あなたが生き続けることが、何よりの懺悔となるの」
 芳香の言っていることは、わたしには難しくてよくわからなかった。わたしは頭がおかしいから、しかたないのだろう。
 芳香は、わたしの頬をやさしくなでてくれる。わたしは、ためらいながら、その手を、握り締めた。芳香は、拒絶しなかった。だから、強く握った。芳香の手は、すぐに折れそうなくらい細かった。
「警察には、わたしが通報する。だから、あなたは、自分の家に戻ってちょうだい。前に一度だけ連れていってくれたよね。高台にある、古いけど、とても大きな屋敷。あそこに住んでいるんでしょ?」
 ――わたしは一度だけ芳香を自分の屋敷に連れていったことがある。仙術のいろんな本を読んでみたい、と芳香が言ったから、連れていったのだ。勿論、お父様の眠る「地下室」や、人間を解体する「屠殺場」や、解体した部品を使った「実験室」などは見せずに、二階の自分の部屋の書庫や窓からの景色を見せた。わたしの部屋からは町が一望できた。芳香はうわあ、と声をあげて、窓の外を眺めていた。初夏の日差しが窓からもれて芳香を照らし、森からやってきた涼しい風が、彼女の髪をさらっていた。
 夜には裏の森のせせらぎの近くまで行って、たくさんの蛍を見た。芳香は、こんなにたくさんのほたるを見たのははじめてだよ、と興奮していた。ほんとうにきれいだね、きれいだね、とはしゃぎまわる芳香は、たくさんの蛍にかこまれて、その白いほのかな光にてらされて、ほんとうに、きれいだった。
 わたしのなかは、たくさんの芳香で、いっぱいだった。
 もっともっと、たくさんの芳香で埋まっていくと、信じていた。
「……い、いいよ。自分で、警察に行く」
 あふれてくる過去の思い出を、やっとのことで押し込むと、なんとか、それだけ言うことができた。
「だめ、私にやらせて。これは、私の責任でもあるんだから。青娥は、それまで家を出ずに待ってて。あなたがいないと、私が困っちゃうからさ。わかった?」
 そのときの芳香の顔も、一生わたしは忘れられないだろう。
 どうして、あんなにやさしい笑顔をしていたのだろう?
 そのときのわたしは何も考られなかった。これで、すべてが終わりなんだとおもって、頭がぐちゃぐちゃになって、ほかのことを何も考えられなかった。ただ、芳香だけだった。芳香の言葉に従う、ただ、それだけしか頭になかったのだ。 



 わたしは芳香に言われたとおり、自分のすみかで、寝ずにひたすら待っていた。
 二日経っても誰も尋ねてこなかった。
 そうして少しずつ頭が冷えて、ようやくわたしは、芳香の思惑に気づいた。
 わたしはばかだった。
 芳香がどうしてあんなにもわたしに「生きる」ことを強調したのか、わかっていなかった。
 生きて生きて生きることそのものが、わたしの贖罪だとどうして言ったのか。
 芳香はわかっていたのだ。
 自分がいなくなったら、この女は死を選ぶだろう、と。
 お父様のときとおなじだと、どうして気づかなかったのだろう?
 わたしは、またしても、とりかえしのつかない失敗をしたのだ。



 どうすればいい? 芳香がいなくなった世界で、どうやって耐えればいい?
 方法は、ひとつだけだ。
 お父様とおなじようにして、わたしと、永遠にいっしょにいてもらう。
 ごめんね、芳香。



 久しく歩いていなかった地下への階段を降りる。ひんやりとした冷気が頬を撫でる。一番下に狭い石畳の部屋がある。戦時中、国に反逆する考えのひとたちを「矯正」する部屋として使用されたその部屋は、いっぺんの光も差さないじめじめした空気がいつでも流れている。
 そこに安置されている棺桶の蓋を開ける。
 そのなかには、お父様が眠っている。
 わたしを置いて、死んでしまったお父様。わたしは、ただ、お父様の悪口を言ったやつらが許せなかっただけなのに。どうしてあんなかなしい顔をしながら死んでしまったのだろう?
 防腐の術を施しても、千年の月日は、残酷なまでにお父様の身体を蝕んでいた。美しかった顔も、眼球や鼻が落ちてしまうから、人の皮で作った仮面を被らなければならなかった。身体を起こそうとすると、あちこちの肉がぼとぼととこぼれ落ちた。
 わたしは慎重に、お父様に服を着せる。とても身長が高かったお父様は、西洋風の背広がよく似合う。白いシャツに、黒いネクタイ、黒いジャケット、黒いスラックス。櫛で髪を後ろになでつけながら、わたしは、「お父様」と呼びかける。すると、ぎこちないけど、こちらを振り向いてくれた。わたしの声も認識できなくなってきているけど、今日は、うまく脳髄が接続されているようだ。
「お父様。今日は、あなたに無理をさせないといけないの。もしかすると、お父様のからだは耐え切れずに壊れてしまうかもしれない。だけど、どうしても手にいれなければならないひとがいるの。そのひとはなによりも大切なひとなの。もしかすると、お父様よりも」
 お父様は、何も話さない。既に声帯が腐りきっているからだ。
「ほんとうは、わたしも死にたいよ。お父様のいる場所には行けるはずがないけど……せめて近づきたいよ。お父様の言ってたとおり、わたしのまわりは死体ばかりで、わたしはいつまでもひとりぼっちのまま。だけど、約束してしまったの。生きなければならないの。だから、お父様、ゆるしてください」
 人間の皮ごしに、お父様の目が、こちらを見つめている。
 その目が、やさしくゆるんだようにみえた。
「ゆるしてくれるんだね。お父様。ありがとう」 



 鑿を使って芳香の住む屋敷の塀を抜けて庭に侵入すると、庭には、警官がたくさんいた。たぶん、殺された男の検分を行っているのだろう。
 警官のひとりが、唐突に庭に現れたわたしを見つけてぎょっとした顔をする。
「なんだあんたたちは? ここは関係者以外は立ち入り禁止だぞ」
 ったく、ちゃんと玄関見張ってろよな、とぐちぐち呟きながら、わたしをじろじろとみる。
「わたしは関係者です」
「あんた、ここの親族? じゃないよな。あんま適当なことを言ってると、捜査妨害で逮捕するぞ」
「わたしは、あの男を殺した犯人です」
 警官の顔色が、変わった。
「わたしは芳香を連れにきました。それ以外に望むものはありません」
 別の警官もやってくる。「なにを言ってるんだ?」「頭がおかしいんじゃないのか」
 後ろから、たくさんの悲鳴が聞こえる。「お、おい、止まれ!」「なんだあの化け物」「いやまずいぞこれは逃げ」
 すさまじい破砕音とともに、わたしの背後の壁が吹き飛んだ。
 粉塵のあがる瓦礫のなかからあらわれたのは、巨大な油圧ショベルカーを両手で持ち上げたお父様だった。
 死にながら生きるお父様は、人間の潜在的に持っている力の限界ぎりぎりいっぱいまで使うことができる。あまりの身重なためか、お父様が一歩踏み出すたびに、アスファルトが割れていた。
 青ざめる警官たちに、わたしは言った。
「だから、わたしたちの前から消えろ。今すぐに」

 お父様が放り投げたショベルカーは、屋敷に激突し、めちゃくちゃな音を立てながらそれを引き裂き、潰し、変形させた。
 わたしは警官たちをお父様に任せて、ショベルカーによって穴が開いた屋敷へ侵入する。
 屋敷には誰もいない。さっきの衝撃で、みんな慌てて逃げてしまったのだ。
 芳香は、いつもの二階の部屋ではなく、だだっぴろい大広間にひとりで寝かされていた。
 計算したことだとは言え、芳香がかわいそうになる。この事態の際に誰も芳香を連れていこうとは考えなかったし、ひとりぼっちにしたらかわいそう、と思うひともいなかったのだ。
 結局今まで芳香の親族を見かけたことはなかった。芳香は言っていた。「あのひとたちは、国のためにすごく頑張っていたり、自分の恋愛で忙しいひとたちなの」と。
「だから、私のこと、なあんにも知らないの。何してもなあんにも言わないの。すごくラクチンよ」
 そう言って芳香は笑っていた。
 会わなくてよかったとおもう。
 会っていたら、殺していたかもしれない。
 芳香は、顔に白い布を敷かれ、布団に寝かされている。その布を取ると、眠ったような安らかな顔があらわれた。
 芳香、とわたしは声を掛けた。返事は、なかった。人間である芳香は、もう返事をすることはない。
 結局、わたしは、芳香を殺してしまった。
 お父様といっしょだ。わたしがよかれとおもってやったことで、みんな、死んでしまう。わたしがあいしてるって言ったひとは、みんな死んでしまう。
 こうしてわたしは、また、ひとりぼっちになる。
 これからわたしが生きる永遠は、地獄だ。どこにも出口のない迷宮で、出口がないことを知りながら、それでも出口を探し続けなければならない。
 それが、わたしの贖罪なんだ。
 だけど、せめて、あなたの肉体は、いつまでも、いっしょでいたい。
 いいよね。芳香。あなたは言っていた。いつでも殺しにきてもいいって。
 だから、わたしが望むそのときまで生きて。それから、ほんとうに、殺すから。そうさせて。
 布団をめくると、芳香はいつものシャツではなく、白装束を着させられていた。
 ごめんね、と芳香に謝ると、わたしは装束を胸元からぐっとひろげた。傷ひとつない、綺麗な肌がそのままあらわれた。それから、腕や足やお腹のあたりをくまなく確認した。これといった傷は見当たらない。芳香は、お父様と同じ、毒死を選択したのだ。綺麗なままで、死んだのだ。わたしは少しだけ、うれしくなった。芳香はずっと、綺麗なままでいられる。
 わたしは芳香の白装束を全部脱がすと、瓶を取り出す。瓶のなかはわたしの精で満たされ、そのなかに赤色の覆盆子(キイチゴ)の実が詰まっている。ひとつひとつの粒がわずかに脈打っていた。
 わたしは、芳香のからだにまたがると、彼女の胸に鑿をあてて穴を開ける。瓶のコルクを抜いて、どろどろの液体ごと、芳香の胸に流し込んだ。覆盆子の実は、芳香のなかに落ちると、たちまち紫色に変わり、種子となり、芽生え、枝が内臓の隙間を埋めるように伸びていく。たちまち芳香のなかを、新たな血管や神経としてびっしりと埋め尽くす。
 あちこちの枝からは白い花が咲いている。小さくて、可憐な花だった。芳香にぴったりだとおもった。
 芳香の穴を閉じると、わたしは自分の手首を噛み千切り、あふれ出した血を飲み込んだ。
 芳香。ごめんね。こんなことして。
 わたしは、芳香の唇に自分の唇を重ねた。
 自分の唾液と血液が、芳香のなかに流れ込んだ。
 もし今の芳香に意識があったら、どうおもっているのだろう? おんなどうしできもちわるいとおもっているかな? きっとそうだろうな。
 ごめんね。きもちわるくてごめんね。
 芳香の胸が、どくん、どくん、と脈打つのが、自分のからだから伝わってきた。
 術は、成功したのだ。
 だけど、わたしは、芳香の唇から離れることができない。もうわたしの液体を流し込む必要はないのに。
 謝りながら、ちっとも芳香のことを考えていないわたしは、ほんとうに、くずだ。



 *******



 芳香の時間も、あれから少しも動いていない。覆盆子によって生かされている芳香は成長しない。札をつけて、さまざまなことまで全部命じれば、芳香らしいものにすることはできる。だけどそれは芳香っぽいかたちをした何かでしかない。札を外したときだけもとの芳香に戻るけど、こころはテープに残った細切れの断片として再生されるだけだ。だから現在に生きるわたしと過去の芳香とは会話することはできない。わたしはただ、過去の芳香を見るしかできない。
 そして、それすらも、確実に、少しずつ、少しずつ、壊れていく。
 確実に、破滅のときは近づいてくる。
 
 
 
「青娥様。話したいことがあるんだ。いるんだろう? 入るぞ」 
 扉が開く音で、わたしはようやく現実の世界を思い出した。
 わたしは自分の部屋で、横になっていた。眠ってはいなかった。わたしは、からっぽのまま、ただ、横になっていたのだ。
 つまり、まだ、生きているらしい。
 さすが仙人だ、と我ながら感心してしまった。
 わたしはシーツにくるまりながら、上体を起こそうとした。右腕でからだを支えようとして、そこでずるりとすべって、まだベッドに突っ伏してしまう。
 おかしいな、とおもった。からだが妙に力が入らない。
「……そのシーツ、ずいぶん赤くなっているようだが」
 ひきがえるが、いつの間にかすぐそばにいた。
「……もとからよ」
 彼は何も言わず、わたしのシーツをめくりあげた。
 そして、険しい目を、よりいっそう険しくさせて、
「バカなことを」と吐きだした。
 わたしは、「ごめんね」と謝った。
 確かにバカなことをしたとおもう。
 


 ひきがえるは、シーツのなかに散らばっていたわたしの内臓をもう一度おなかに詰めて、大きく穴が開いていたおなかを塞いでくれた。どうやらわたしのからだは、半分くらい芳香にごっそり食べられてしまっていたらしい。どうやっても足りない内蔵は、再生するまで誰かの代替品を入れておこう、と彼は言ってくれたけど、わたしは断った。
「いくら仙人でも。必要不可欠な臓器を失ったままじゃ、持たない」
「……だって、その新鮮な内臓はきっと、誰かを殺して得たものでしょう?」
 ひきがえるは、ぐっ、と何かを我慢するような目で、わたしをみつめていた。
「……どうして、ひとりで芳香の札を外したんだ」
「……確かめたかったのよ。我慢していれば、わたしを思い出してくれるかもしれないって。あなたがいると、途中で止めちゃうから」
「あの死体の札を取っても無意味だよ。しかもその無意味さの代償として、青娥様のからだも、こころも、食われていく」
「芳香に食われるのなら、本望よ。わたしを殺せるのは、芳香だけなの。芳香が死なせてくれるなら、ようやく、わたしは死ねるの」
「札を外したときの芳香は、あなたの知る芳香じゃない。ただ、芳香という箱に混じった、できそこないのがらくただ。そんなものに食われたからといって、おまえの約束とやらが果たせるとは思えない」
 ひきがえるは、正しかった。彼は、いつでも正しい。
「……知ってるわ」
 だけどわたしは、もしかすると、もしかするとあれは芳香かも知れない、という思いを捨てきれなかったのだ。
 芳香は、わたしを食い殺したいのだ。わたしを憎んでくれているのだ。わたしを、おぼえていてくれているのだ。そう思いたかった。
 だけど、わたしの肉を引きちぎり、骨を砕きのみこむ芳香は、ただ、ひたすら、わたしを食料としてしかみなしていなかった。わたしの思いが、都合のいい妄想だとわかってしまった。
 だから、わたしはあきらめて、芳香の額に札を貼った。
 芳香は再び、好き好き大好きと言ってくれるわたしにとって都合のいい人形に戻った。
 わたしは、そんな芳香の首を引きちぎって、脳みそをえぐり、二度と目覚めないようにしてやることを考えていた。
 きが、くるいはじめているのだ、とおもった。
「あなたの『父』の用意ができた」
 ひきがえるが言った。その顔には、少しも達成感のようなものがにじんでいなかった。相変わらず、絶望的な、暗い目をしていた。
 今のわたしは、そんなにもひどい顔をしているのだろうか?
 いや、もしかするとひきがえるは、この計画の結末がみえていたのだろうか?
「予定よりずいぶん早いね。どんな魔法を使ったの?」
「悪いが、あなたの『父』は完成していない。目的のための必要最低限の形にしただけだ。今となっては飾りでしかない上半身は無い」
 そう言って、ひきがえるは、ゆっくりと、頭を垂れた。
「青娥様、やるなら、今しかない。これ以上待てば、あなたはあなたの過去に食われてしまう」
 ひきがえるが頭を下げたのは、これがはじめてだった。
 今回の準備も、結局彼に殆ど任せきりだった。
 どうしてこんなに彼は尽くしてくれるのだろう。
 彼が何者なのか、なにがしたいのかは、わたしにはわからない。
 だけど、彼がわたしのために言ってくれていることは、確かだった。
「頭を上げて。ひきがえる」
「……」
「わたし、やるよ。すぐに芳香を呼んでくるから」
「……『父』を一度確認しなくてもいいのか? ほんとうにひどい姿だし、あなたの希望には添えないのかも知れない」
「ううん。わたし、ひきがえるを信じている」
 ひきがえるは、「信じている、か」と、うめくように言った。
 わたしの言葉を、信じられないのだろうか?
 わたしは、ひきがえるに近づくと、その手をにぎった。
「ひきがえる、わたしは、ほんとうにあなたを信じているの。感謝しているの」
「……」
「ほんとうに今まで、わたしたちのためにいろいろしてくれたね。ごめんね」
「……」
「ねえ、ひきがえる、あなたが望むものって、なに? あなたのために、わたしはなにをすればいい?」
「……」
「わたし、あなたが望むことなら、なんでもするよ」
「何をしても構わないなんて滅多に言うべきじゃない」
 予想もしていなかったひきがえるの言葉に、わたしは戸惑った。
「え? なんで?」
「青娥様。あなたは、今まで、そんなふうに自分を捨ててきたのか? 芳香や、『お父様』という死んだ人間のために」
「自分を捨ててきた、って?」
 ひきがえるの言うことは、よくわからなかった。
「捨てるもなにも……だって、ひきがえるは、芳香のためにがんばってくれたんだ。だから、わたしは、その見返りとなるの。当たり前じゃないの?」
 ひきがえるは、井戸の底にたまった水のような、濁った暗い目で、わたしを見つめていた。
「あなたは、自分を、芳香の思い出以下の価値でしかない、とおもっているのか?」
「だって、わたしは、芳香の約束を守るために、罪をあがなうためにここにいるんだよ。そのためにもっと苦しまなければならないの。価値なんて、あるわけないよ」
 ひきがえるは、しばらく沈黙した。それから、軽く首を横に振った。
「……もういい。わかった。その話は、終わりにしよう」
「ねえ。あなたの望みは、わたしで叶えられる?」
「……ああ」
「この実験がはじまったら、どうなるかわからない。だから、やるなら、今しかないよ」
 わたしはひきがえるのからだを抱いた。包帯ごしの彼のからだは、妙に冷たかった。まるで今の芳香のように。
「……俺はこのからだだ。なにもできない。それに俺が望むのは、そんな、人形みたいなあなたじゃない」
 包帯ごしの彼の手が、わたしの背中をつかむ。
「青娥様。芳香を諦めてくれ。そして、俺と一緒になってくれ。それが、俺の望みだ」
 再び、予想もしていない言葉に、思わずわたしは、ひきがえるの顔を見てしまった。
 ひきがえるは、ひどく傷ついたような眼差しをしていた。
「そうか。そうだよな。自分というものがないあなたにとって、まるで理解できない考えだろうな。だけどこれが最後の分かれ道なんだ。あなたが前に向かってレールを変えるか、今までどおりに過去へ過去へと落ち込んでいくかの、最後の分岐点なんだ」
「もしかして、ひきがえるは、ほんとうにわたしが好きだったの?」
 ひきがえるは、相変わらず絶望的な目をしたまま、押し黙っていた。
「……そうなんだ。ごめんね。今まで気づかずに、ごめんね」
「……結局、芳香を、過去を選ぶのか。まあ、そうだろうな」
「芳香は、わたしそのものだもの。選ぶとか選ばないじゃない」
 ひきがえるは、わたしのからだを引き離した。
「……わかった。これで、俺の出来ることはもうすべて終わった。あとは、俺は俺でけりをつけるだけだ」
「ごめんね」
「……『ごめんね』って、あなたの口癖だよな。前からおもっていたけどな。あなたのその卑屈さはね、傲慢だよ。自分がなにもわからないかわいそうな生き物だから許してねって言ってるだけさ。あなたは自分がわからないから、他人もわからない。何度もやり直したって一緒だよ。どうせ一緒の結末になるだけだ。どうしてそれがわからないんだ?」
 ひきがえるの言うことは、確かにわからない。わたしは大切なもののために尽くすけど、その尽くし方がおかしい、ってことなのだろうか? 
「ごめんね」
「……いい。もういい。行こう。すべてを終わらせるんだろう?」
「終わらないよ。終わらないように、するんだよ」
「終わりがないのが終わりなんだ。そうだろう?」
 ひきがえるは目元に皮肉じみた笑みを浮かべながら、先に用意をする、と言って、部屋を去った。



「せいが。きょうは、なにをするの? かくれんぼ?」
「ううん。今日は、ちょっと変わったことをするの」
「かわったこと?」
「別に、大したことじゃないわ。ちょっとごめんね芳香」
 わたしは、寝転がった芳香のシャツをはだけた。白い肌に、きれいなへそがあらわになった。
 そのへそのあたりめがけて、覆盆子の真っ赤に熟れた実をつぶしてできた果汁を垂らした。
 芳香の白いおなかに薄く赤い液体が垂れ落ち、へそのくぼみにたまっていく。
 その液体が、まんべんなくおなかにいきわたるように、手でひろげていく。
「せ、せいが。ちょっと、くすぐったいよ」
「ごめんね。ちょっとがまんしててね」
「どろんこあそび?」
「ちょっと違うわね」
「ふうん。せいがと、するの?」
「違うわ。ほんとうは、そうできたらいいんだけどね」
「せいがは、いっしょにいるの?」
「うん。いっしょにいるよ」
「よかった。じゃあ、いいよ」
「……ありがとう。芳香。好きよ」
「よしかも、すきだよ」
「これからも、ずっとずっと、いっしょにいようね」
「いるよ。わたし、せいがといっしょに、ずっといっしょにいるよ」



 わたしは、芳香と手をつないだまま、地下への階段を降りていく。階段はかなり深い。一番下まで降りると、そこには狭い通路と、その左右に幾つかの部屋がある。おそらくずっと昔罪人を収監するところだったのだろう。いつもいつもこんな不快な場所ばかりに押し込めて、お父様にはほんとうに悪いことをしたとおもう。
 その一番奥の部屋の、錆びた鉄の扉の錠前を外して、開ける。
 ぎりぎりぎり、という音とともに、むわり、と甘酸っぱいにおいがした。
「うわあ」と、芳香がうれしそうに声をあげた。
 部屋には、覆盆子が、こんもりとおい茂っていた。緑色の葉っぱの隙間に、まっしろな花がたくさん咲いている。満開だった。
 暗い部屋なのにくっきりみえるのは、その枝と枝の間を、こうこうと光り輝くものが飛び交っているからだった。それはほの白い光を放っていて、覆盆子を照らしていた。無数の光のために、まるで、クリスマスツリーのようにみえた。
「きれいだね。とてもきれいだね、青娥」
「そうだね。芳香」
「まっしろの花がふわふわ飛んでいる光にてらされて、キラキラしているよ。ほんとうにきれいだなあ」
「うん。きれいだね。ほんとうにきれいだね」
「なんなのかなあ。このキラキラ飛んでいるもの。虫なのかな。なんだか……まえにいちど、みたことがあるような……」
 わたしの心臓が、高鳴った。
 いつもはこっちの問いかけに機械的に反応するだけの芳香が、ここまで自発的に話すなんて。
 ほんとうに、おぼえてくれているの?
「蛍だよ。芳香」
 ――蛍のなかではしゃいでいる芳香。ほんとうに、きれいだった。
「なつかしいね。ずっとむかし、むかしね、わたしたち、ふたりで、蛍をみたのよ。芳香はきれいだ、きれいだ、って言って、すごくうれしそうだったの。おぼえている? ねえ、芳香。ねえ」
 芳香は、ぼんやりと視点のあわない目でわたしの後ろあたりを眺めていた。
 それからふいに微笑むと、
「うん。おぼえているよ」
 と言った。
 いや、「言わされて」いた。
 誰に? わたしにだ。わたしが札で制御して芳香を「芳香らしく」させている。芳香はその札が発した命令に応じて、わたしが喜びそうな回答を自然に発するように「なって」いる。
 だけど、最初の蛍に反応した芳香は、確かに芳香だったはずだ。
 少しでもいい。芳香であるものが、まだ残っているのなら。

 でも、あれは蛍じゃない。

 あのほの白く光るものはヤンシャオグイ、つまり胎児の霊魂だった。
 わたしが自分の計画のために放ったものだった。
 覆盆子が茂っているその根っこには、お父様の下半身が椅子に座っている。
 この覆盆子は、千年の間、お父様の体内で育っていたものだった。
 このヤンシャオグイたちは、お父様の覆盆子の「花粉」を摂取して育ったものだった。
 お父様の上半身は存在しない。お父様は、芳香を連れ出すときに、警官たちにたくさんの銃弾を撃ち込まれてからだが砕かれてしまった。わずかに残った肉片と頭蓋と脊髄を、防腐術を施した羊水のなかで生きながらえさせてきたのだ。
 ひきがえるは、たくさんの材料を使って、下半身だけでも作ってくれたのだ。
 上半身という入れ物が無いと、こんなに覆盆子は咲き乱れるものだろうか? いや、それだけじゃない。お父様の下半身には、あちこちに点滴の針が刺さっており、その無数の管たちは地下室の片隅に置かれた巨大なフラスコへ繋がっている。フラスコはキラキラした砂のようなものが混じる液体に満たされている。不老不死になるための霊薬、仙丹だ。これだけの濃い仙丹を練るには気の長くなるような期間と多大の労力が必要のはずだ。ひきがえるは、いつの間にこんな仙丹を用意していたのだろうか?
 液体のなかに、魚のような、人間のような、おたまじゃくしのような、不思議な生物が眠っている。
「俺の作った『陽神』だよ」
 ひきがえるが、フラスコの隣にいた。
「ただ、俺自身のじゃない。西洋術を少し転用してな、ほかのひとの分身を作ってみたんだ。つまり、人造人間ってやつだな」
 陽神ということは、本来は自分自身の分身となる胎児のはずだ。ほかのひとの陽神だなんて、聞いたことがなかった。
 彼がそんな変わった研究をしていただなんて、はじめて聞いた。
「……どうしてそんなことをしていたの?」
「……あなたといっしょだよ。俺も、どうしてもやりなおしたいひとがいたんだ。この術が完成すれば、新しく生まれたそのひととやりなおせるだろう?」
 今まで時間は死ぬほどあったからな。暇にあかせてずっと作っていたんだよ、とひきがえるは自嘲気味の笑い声をたてた。
 つまり、その「誰か」を生み出すために、ひきがえるはずっとずっと大量の仙丹を練っていたのだ。そして今、それを惜しみなく使ってくれたおかげで、お父様は満開の覆盆子を咲かすことができたのだ。
「ひきがえる、ごめんね」
「いいんだ。こいつは、このフラスコの外に出ることはできないんだ。外に出ると、すぐにからだが持たなくなって、どろどろに溶けてしまう。西洋術では、それが限界なのさ。完全な人間たるには、何かが足りないんだよ。それこそ神の領域、奇跡ってやつが必要なのかもな。だから、もう、どうでもよくなったんだ」
 こんな形で使えたんだからな。無駄じゃなかったよ。
 ひきがえるはそう言うと、それ以上何も言わなかった。

 芳香がお父様のほうへ近づいていくと、ヤンシャオグイたちがいっせいに飛び交うのをやめた。
 芳香のお腹に塗られた覆盆子のにおいを、嗅ぎつけたのだ。
 ヤンシャオグイたちは、戻るべき胎内を見つけたのだ。
 同じ覆盆子を持つ、芳香のなかに。
 ヤンシャオグイを媒介として芳香を「受粉」させる。これがわたしの計画だった。
 お父様の精で育ったヤンシャオグイが芳香のなかに侵入し、芳香の胎内の覆盆子が「受粉」すれば、芳香のなかに新たな「果実」が生まれる。
 それは、お父様の精と芳香の卵によって生まれた「果実」だ。
 わたしとその「果実」は同じお父様を持つ姉妹ということになる。なおかつその「果実」は芳香の生まれ変わりでもあるのだ。
 わたしはその「果実」と、芳香と、姉妹としてもう一度やりなおすんだ。
 止まった時計をもう一度巻き戻して、出会いから、やりなおすんだ。
 今度は失敗しないように。
 いつまでもいつまでも、いっしょにいられるように。

 やがてヤンシャオグイたちは、芳香のまわりをぐるぐると飛び交いはじめた。
 芳香は、それを、不思議そうに眺めている。
 じきに、ヤンシャオグイは、芳香のお腹をめがけて飛んでいくはずだ。
 何もわからないまま、芳香はそうしてお父様の種を宿すことになる。
 ひどい話だ。ひきがえるの言うとおり、狂っているとおもう。
 だけど、それでも、わたしは、たったひとつの希望を捨てきれないのだ。
 ごめんね。芳香。ほんとうに、ごめんね。
「あれっ?」
 芳香のすっとんきょうな声で、我に返った。
 芳香のからだに、お父様の枝が、ぐるぐると巻きついている。
 枝たちは、まるでいそぎんちゃくのように、ざわざわと芳香の肌にさわりながら、やがて、彼女の服のすきまから奥のほうへと侵入していく。
「青娥。これ、なんなのかなあ? ちょっと、くすぐったいよ。ねえ、せいが」
 がんじがらめになった芳香が、わたしを呼んでいる。
 わたしにも、なにが起こっているのか、まるでわからない。
「ねえ、せい」
 芳香のからだが、びくん、と跳ねた。
 それから、ぐったりとして、動かなくなった。
 首や、手足が、だらん、と垂れさがっている。
「芳香のなかの覆盆子は、あなたの父のそれにがんじがらめにされたんだ」
 背後から、ひきがえるが、言った。
「そのために芳香は今、からだの支配をあなたの父に奪われている」
 巨大なフラスコの口の上で、ひきがえるは、奇妙な石の欠片を掲げている。
「そして、これをなかに入れれば、なかにいる『こいつ』は活性化し、周囲のエネルギーを体内に取り入れようとする。この管からあなたの父親に送られていたエネルギーは逆流して、逆に父親のエネルギーを吸い取ってしまう、というわけだ。父親とつながっている芳香といっしょにな。つまり、あなたの父も、あなたの芳香も、枯れ果てる。あなたは、すべてを、失うことになる」

 え?

「なにを……なにを、言っているの? ひきがえる、あなたが、なにを言っているのか、わからないよ」
「あなたは、俺を信用しすぎたんだ。俺の望みを聞いても、何もわかっていなかった。芳香も、あなたの父も、俺の望みのためには邪魔者でしかない。なのに俺が素直に従うことを少しも疑わなかった。青娥様、あなたは、甘すぎたんだ」 
 頭がついていけない。なにがなんだか、わからない。
 なんで?
 なんで、そんなことをするの? 
「……どうして俺がこんなひどい火傷を負ったか、話したことはなかったな」
 ――わたしはみた。
 ひきがえるの後ろで、「なにか」がゆらゆらとたちのぼってくるのを。
「俺の家族はね、皆殺しにされたあとに焼かれたんだ」
 ――それは、どすくろい影のようなものだった。
「殺したのは父の後妻だよ。小さかったわたしは箪笥のなかで、ぶるぶる震えながら、父や、祖母や、兄の悲鳴を聞いていたんだ。ひどい匂いだった。あんなに人間の内臓が臭いだなんておもわなかったよ。わたしは必死になって吐き気と戦いながら、箪笥の隙間から、それをみたんだ」
 ――どすくろいものは、ゆらり、ゆらり、と揺れながら、こちらに近づいてきた。
「そこには、内臓の山があったよ。俺は、それが家族だとは少しも思わなかった。豚の内臓と、少しも違わなかったんだ。だから、おもったより、拍子抜けというか、少しだけ冷静になった。まあたぶん、あまりのことだったもんで、現実として認識できなかったんだろうな。で、その山のそばで、あの女が立っていた」
 それに顔はなかった。目も、口も、鼻も、なにもなかった。
 ――がらんどうの顔が、わたしをのぞきこんでいた。
「彼女は、親父の内臓を引き抜いている最中だった。親父のからだを片腕でつかんで吊るし、父のからだに手を突っ込んで、内臓という内臓を捨てていたんだ。手を血に染めながら、何も言わず、淡々と、淡々と、それをやっていたんだ。返り血を浴びたその顔には、怒りも、憎しみも、なかった。ただ、さびしそうな、かなしそうな目をしていた。それから、女は、屋敷に火をつけた。わたしは、すぐに動けなくてね。逃げ遅れてしまった。このからだは、そのときの後遺症だよ。それから、その女の姿を忘れることは、片時もなかった」
 どすくろいものは、わたしのまえまでくると、ふくれあがった。
 ――そして、わらった。

「……そう、あなたの姿を、忘れることはね」

「ぅああああああああああっ! あああああああっ、ああああああああっ!」
 わたしは尻餅をついた。くろいものから逃げようとした。だけど、足がうまく動かない。
 来ないで。来ないで。なんでここまでやってくるの? 
 こんなときまで、どうしてわたしを邪魔しようとするの?
 そんなにまで、ひとを殺したわたしが悪いっていうの?
「俺は親父たちが殺されて当然だとおもっている。俺は小さかったからよくわからなかったけどな、間違いなくあなたは、殺す権利はあった。それくらいのひどい目にはあわされていたんだ」
「じゃ、じゃあ! どうしてこんなことをするのよ! ねえ、ひきがえる。確かにあなたにはひどいことをしたとおもっている。あなたの人生を狂わせたんだから。で、でも、こ、こんなのってひどいよ。わ、わたしのすべてを奪うだなんて……やめてよ」
「俺の望みは前に言ったとおりだよ。過去と決別して、俺と、いっしょになってほしいんだ」
「ど、どうして? あなた、わたしに復讐したいんでしょ?」
 そこで、わたしは、ひきがえるの意図が読めて、笑った。
「……いや、あなたはわかっている。わたしを殺せばわたしが喜ぶだけだとね。殺さずに永遠に生き地獄を与えるつもりなのね。いいわ。わたし、これ以上何も失うものなんてないもの。四肢を切断してどぶねずみの巣に放り込んでもいい。一生あなたの奴隷になってゴミ箱みたいに扱われてもいい。だから、だから……芳香を、わたしを、奪うのだけは、やめて。お願い」
 ひきがえるは、しばらく何も言わなかった。
「……なあ。どうして俺がこのからだをなおそうとしなかったのか、わかるか?」
「復讐の痛みを忘れないためでしょう?」
「……じゃあ、このフラスコのなかに入っているもの。俺がずっと作り出そうとしたひと。って、だれだと思う?」
 ひきがえるが、作り出そうとしたひと?
 話がまるでみえなかった。
 彼は、包帯の下で、笑ったようにみえた。
「これはね、あなただよ。家の残骸から見つけたあなたの頭髪や血肉から作り出した、もうひとりのあなたなんだ」
 すぐに声が、出なかった。わけが、わからなかった。
「これ一体だけじゃない。俺の住処には、たくさんの失敗作が水槽のなかでぷかぷか漂っている。俺は、ずっとずっと、あなたを作り出そうとしていたんだ」
 わたしは、フラスコのなかの胎児をみる。
 これが、わたしだって?
「俺もあなたと一緒だと言っただろう? 俺はあなたを追いかけて仙人になった頃、既にあなたは中国を去っていた。それを知らず、俺は中国全土を歩き回っていたんだ。当然あなたは見つかるはずがない。戦争に巻き込まれたか、死神の試練に失敗して死んだのかもしれない。そうおもって絶望した俺が選択した道が、新たにあなたを作り出す、という道だったのさ。まあ、そもそも想像で作り出したあなたなんてただのまがい物だし、さっきも言ったように外に出て自活できない失敗作しかできなかったけどな」
 わたしは、まだ、状況がのみこめなかった。
 彼は、「だろうな」と小さくつぶやいてから、言った。
「青娥様。血にまみれたあのときのあなたは、とてもきれいだったよ」
 そして、また笑った。
「狂っているよな。家族を皆殺しにした女を……忘れられないだなんて。これもきっと、呪いだよ。みんな呪われているんだ。俺も、あなたもな」
 だけどな、俺はおもうんだよ、と彼は続いた。
「もしかすると、俺たち、もっと普通に出会えたんじゃないかな、ってな。こんな、どうしようもない出会いじゃない。たとえば街を歩いていて、あなたが向こうの道から歩いてきて俺と出会う、みたいな、そんな出会いだよ。勿論、ただの夢物語だ。過ぎた時間は巻き戻せない。だけど、俺たちがもう一度やり直すことは、できるんじゃないのか? この世界がいつまであるのかわからないけど、俺たちは、その終わりのときまで存在できるんだ。だから、だから、これがほんとうに最後だ。俺と、最初から、やり直さないか? あんなさびしそうな顔でひとを殺すことはないんだ。過去のささいな幸せのまぼろしをいつまでも追いかけて、自分自身がどこにもいない生き方はやめるんだ。俺は……ごらんのとおり、子供も残せないかたわものだが……あなたを、ほんとうに、幸せにしてみせる。だから、だから、頼む。俺と、いっしょになってくれ」
 ひきがえるは、本気だった。本気でわたしを好きで、わたしとやり直したがっていた。
 わたしは想像する。ひきがえるといっしょになって、このまちの片隅で暮らす生活を。
 世界は滅びようとしているけど、世界が終わるそれまではきっと、今までわたしがつかもうとしてつかめなかった、平凡で、幸せな生活を送れるのだろう。ひきがえるは、わたしをほんとうに愛してくれている。わたしを誰よりも知ってなお、愛してくれているのだ。
 だけど、ふいにいつか、わたしは思い出すだろう。
 芳香のことを。
 芳香を捨てて、その生活を選んだことを。
 そのあとも、わたしは幸せでいられるだろうか?
 
「ひきがえる。ごめんね」

 ひきがえるは、押し黙っていた。
「いつもの逃げるための『ごめんね』じゃないな」
 そして、笑った。
 ほかにどうしようもなくて笑うような、ほんとうにひどい笑い声だった。
「あなたがご執心のあの娘は、見事にあなたに呪いをかけたんだ。その呪いは、もう、永遠に解けないのか? いや……呪いをかけられた眠り姫と結婚するのは王子様であってひきがえるじゃないのか?
 でも、でもな……ひきがえるは眠り姫といっしょになれないかもしれないが、呪いをかけた魔女を倒すことはできるんだよ。そうして眠り姫は目覚めて、やっと自由になるんだ」
 待って。ひきがえる、それはやめて。それだけは、やめて。
 わたしがそう叫ぼうとするまえに、
「青娥様。さようなら」
 ひきがえるはフラスコのなかに手に持つ石を落とした。
 たちまちフラスコがまばゆく輝きはじめた。
 お父様につながれた管の流れが、逆流した。
 まるで早送りをしているように、あっというまに青く茂っていた覆盆子の枝葉が、しおれ、茶色く変色していった。枝は真夏のみみずみたいに震えながらからからに痩せていき、しぼんだ葉っぱはぽとぽとと地上に落ちた。宿主を失ったヤンシャオグイたちは、いっせいに枝葉から離れ、ふわふわと浮びあがり、この部屋から去っていった。
 笑っちゃうほどあっけなく、お父様は、枯れ落ちた。
 枝葉にからまっていた芳香のからだはべちゃりと落下して、その姿のまま、ぴくりとも動かない。
 芳香も、枯れてしまったのだ。
 わたしのすべてが。
 芳香は。完全に。失われたのだ。
 ――やめて。だれかわたしを止めて。わたしの手を止めて。心が落ち着かせて。わたしはそんなことしたくないゆるさないだれかわたしをころしてやるやめてやめてころしてころしてやめ

「やっぱり。あなたは、かなしそうな顔で、殺すんだな」

 ひきがえるは、微笑んでいた。
 芳香が最後にみせた笑顔に、そっくりだった。
「そんな顔をさせて。ごめんな。でも、俺はその顔を、いつか……」
 ひきがえるは、わたしにもたれかかるように、崩れ落ちた。
 わたしは、右手にあるものをまじまじとみた。
 ひきがえるの心臓と、彼の血にまみれた手。
 ぽっかりとした静寂が、やってきた。
 わたしのほかに、誰もいなくなった。
 みんな、いなくなった。
 みんな、わたしが、ころした。
 突然、胃からせりあがってくるものをかんじた。
 わたしは耐え切れずに、その場にうずくまった。
「うええええええええっ。ええええええええっ、ええええええええっ」



 ――わたしは、ほんとうにひとりぼっちになった。
 みんな、みんな、しんでしまった。
 みんな、わたしがころした。
 みんな、しなせたくなかったのに。
 なにがいけなかったんだろう?
 なにもかもが、よくわからないんだ。
 わたしはすごくがんばったんだよ。
 なんとかしようとがんばったんだ。
 だけどどうにもならなかった。
 ねえ、よしか。
 おしえて。
 わたしは、どうすればよかったの?
 さっきいた、まっくろなものが、わたしをすっかりとりかこんでいる。
 もう、なにもわからない。なにも、みえない。



「もういいんだよ」
 まっくらな世界に、浮かび上がってきたのは……芳香だった。
「……ほんとうに、よしか、なの?」
「そうよ。久しぶりだね。青娥」
「よ、よしか。芳香なのね」
 わたしはうれしくなって立ち上がって、すぐに芳香に近寄ろうとした。
 だけど、途中で足が止まった。
「どうしたの? 青娥」
「わたし、ぜんぶまちがっちゃったの。約束も、守れなかった。ひとを殺しちゃったの。それも、わたしのためにいろいろしてくれたひとを」
「いいよ。もう、いいの」
 芳香は、こともなげに言った。
「……えっ?」
「だから、もう、約束は守らなくていいの」
「な、なんで?」
 芳香は、すべてを赦すような微笑を浮かべていた。
「もう青娥は、十分すぎるほど罪を償ったじゃない。これ以上、あなたに償わせるのは、酷じゃない?」
「……約束を守らなくていい、って、もうひとつの約束も、もういいってこと?」
「そうよ。ねえ青娥、疲れたでしょう? 長い長い長い間あなたはずっとひとりで頑張ってきたのよ。だから、もういいのよ」
 自分の手には、いつのまにか鑿が握られている。
「あなたは結局みんな殺してしまった。もう、あなたが殺すべきは、たったひとりだけ。それで、すべてが、おわる」
 芳香は、微笑みながら、
「青娥。そうすれば、ずっといっしょになれるよ?」
 わたしは、つかんだ鑿を持ち上げて、自分の胸のまえに持ってくる。
 これを刺して、心臓を抜き出せば、わたしは、やっとこの世界から解放される。
 いやなことばかりの、ひとりぼっちの世界から。
 わたしは、その鑿を振り下ろそうとした。

 手は、動かなかった。

「どうしたの? これ以上まだこの世界にとどまるつもりなの? ねえ、これから先、ここにいて、何が待っているとおもう? 何も待ってない。ほんとうの、ひとりぼっちの世界だよ。芳香、きっと、頭がおかしくなるよ。ねえ、そんな世界にこれ以上いて、何があるっていうの?」
「それは……そうだけど」
 わたしは、鑿を握る手を、ぐぅと強く握る。
「……わからない。わからないけど……わたしはいろんなひとに迷惑をかけて生きてきた。たくさんのひとを殺してしまったし、わたしのせいで死んでしまった。そうやって生きてきたわたしは、確かに死んだほうがいいのかも知れない。だ、だけど……それでわたしが死んだら……それこそ、そういったひとたちすべてをムダにしてしまうような気がしたの」
「つまり、だから、まだ生きたい、ってこと?」
 急に、芳香の声が、変調した。
「いろいろ言い訳をしながら、そこまでしてまだ生きたいの? たくさんのひとを殺しておきながら、ひとり、のうのうと生き続けるつもりなの?」
 今までみたことのないような、冷え切った目で、わたしを見ている。
「ち、ちがう。わたしは、」
「じゃあ、死んでよ。悪いとおもっているなら、死んでよ。ほら、自分で心臓を抉り取って死んでみてよ。できないってことは、ほんとうは死にたくないんでしょ? 青娥、あなたは卑怯だよ。みんな殺しておいて、ひとりだけ生きていてさ!」
 わけがわからなかった。どうしてあんな約束をしていた芳香が急に死ねだなんて言うんだろう? いや、もしかすると芳香はずっとわたしに死んでほしかったのだろうか? わたしはそれを勘違いして、額面通りに生きてしまっていたのか? よかれと思ったことが裏目に出る。そんなことばかりだったじゃないか。
 芳香が怒っている。わたしはやっぱり間違っていたのかもしれない。
 わたしが死ねばいいのか。死ねば芳香はうれしがってくれるのか。
 握り締めた鑿を、自分の胸に突き刺せばいいのか。

 ――そのとき、まばゆい光が、視界をさえぎった。

 闇の世界が溶けて、元通りのあの部屋が戻ってきた。
 光は、フラスコのなかからだった。お父様と芳香を吸い取ったそのなかには、さっきまで魚のようなものがいたのに、今は人間の赤ん坊のようなものが浸かっている。それが今、まるで太陽のように、輝いていた。
 何が起こっているのかわからないまま、わたしは芳香のほうを再び振り向こうとして、
 とす、と、自分の胸に何かが突き刺さった。
 ちょうどそれは、ペンチのように、ふたつの棒状の金属からなっている。
 それですべてを理解した。
 わたしは手にした鑿を、「芳香の姿をしていたもの」に突き刺して、一気に心臓をつかんだ。異様に硬い感触がした。間違いなかった。
「待て。待てってば」
 引き抜こうとしたとき、慌てた声がした。――目の前の「芳香の姿をしていたもの」が発した声だった。
 どろどろに腐った肉を、金属板によって継ぎ接ぎされた女のからだが発した声だった。
 百年に一度、仙人である限り、必ずやってくるもの――死神だった。
 どれだけ切羽詰っていたのか。芳香と死神の区別もつかなかったなんて!
「取引をしようか」
 死神は顔を持たない。顔にあたる部分には、青白い睡蓮が咲いている。その顔の無いからだのどこかから、死神は声を発した。おもったよりも、透き通った声だった。
「あんたが思っているとおり、この『心臓抜き』はあんたの心臓をがっちりつかんでいる。つまり、お互いが心臓をつかみ合っているわけだ。このままお互いにやりあえば、双方共倒れってことになる。俺もそんなにリスクは負いたくない。だから、俺はここで退散する。他の仙人の心臓を狙うことにするよ。だから、お互いの心臓から手をひこうじゃないか?」
 睡蓮の花が、わずかに震えながら、奇妙な苦笑をする。
「する気は無い、って、顔をしているな。なあ、俺は知っているんだ。あんたの心臓、まるで今にも止まりそうじゃないか。あんた、片腕だけじゃなくて、脇腹から内臓もごっそりもっていかれているね? そのせいで血液に毒素が混じっていろんな内臓が腐ってきているだろう? だから、そんな死体より死体じみた気味の悪い肌の色をしているんだな」
「はっきりいいなよ。わたし、もうじき死ぬんでしょ?」
「さあな」と死神は笑った。「なあ、それでもあんたも死にたくないんだろう? そんなゲロにまみれて、腐りかけのからだで、それでもこの世界でひとり、生きていたいんだろう?」
「そうよ」
 わたしは、今度は迷いなく言った。
 ひきがえるが作ったフラスコのなかには、お父様と、芳香がいる。
 みんなが、死神の正体を教えてくれたんだ。
 わたしに、生きろ、と言っているんだ。
「わたしは、死なない。絶対に」
「じゃあ、取引成立ってことで、いいな」
 わたしはうなづくと、
 残る力を振り絞って、つかんでいる死神の心臓を引き出した。
 死神特有の、錆びた色のりんごの形をした心臓だった。
 死神が奇妙な叫び声をあげて、「心臓抜き」を引き抜いた。心臓抜きの先には抉り出されたわたしの心臓があった。血管が伸びきり千切れかけて、
 わたしは死神のりんごを齧った。
「バカなことをしたよ。これであんた、もう、死ぬよ」
 そうつぶやくと、死神のからだはジグゾーパズルみたいにばらばらに砕け散った。
 睡蓮の花が、その肉片の上にひらひらと落ちる。
「ほら、もうあんたの心臓は、今にも止まりそうじゃないか。これじゃ、お互いに死ぬだけじゃないか……」
 睡蓮の花びらは、ばらばらに散った。
 わたしは、飛び出した心臓をつかんで、胸に押し込める。
 心臓の鼓動は、とても弱々しい。
 確かに、わたしはもう助からないかもしれない。
 だけど、芳香を語り、愚弄した奴を、許すわけにはいかなかった。





 きゅうううううん、と空気を切り裂く音で、わたしは目覚めた。
 気絶していたことに、ようやく気づいた。
 花火がはじけるような音とともに、地震のような揺れがあった。
 地上では、戦争がはじまったのかもしれない。
 ぱらぱらと天井の破片が落ちてきたけど、不気味なくらい、肌に触れた感覚がまったくしない。からだを動かそうとする。だけど、少しも動かない。こんなにからだが重いだなんて、はじめてだ。
 ひどいねむけが襲ってくる。
 結局わたしは、死ぬのか。
 あんな「絶対に死なない」だなんて言っておきながら。
 いや。
 まだだ。
 わたしは、生きるんだ。
 芳香といっしょに、生きるんだ。
 かすむ世界に、横たわる芳香がうつった。
 そうだよ。芳香。わたしは、まだあなたを離さないからね。
 だって、まだわたしは、あなたを殺していないんだ。
 そうだよ。芳香だけ勝手に死んじゃってさ。
 そのくせ、わたしに生きろって言ってさ。ずるいよ。
 だけど、わたしは大切にするからね。
 あなたにたすけてもらったこの命を、捨てたりしないからね。
 ぜったいに、生きてみせるからね。

「……よしか……」

 自分の意思に反して、からだはほとんど動かなかった。
 自分の脈拍が、だんだん弱まっていくのがわかる。
 立ち上がることすら、できなかった。
 わたしは、かろうじで動く足を使って床を這いずりながら、芳香に近寄る。
 まるで切れかかった蛍光灯のように、意識が断続的に飛んでいく。
 これが夢なのか現実なのかも、はっきりしない。
 芳香まで到着する頃には、地響きは、かなり強くなっていた。
 芳香のからだにもたれかかったまま、わたしは動けなかった。
 感覚が麻痺しているなかで、不思議と、芳香のからだだけは、あたたかくかんじた。
 あたたかい? いや、そんなわけがない。
 芳香は枯れてしまい、もう、二度と動かなくなってしまったのに。
 もう、そんなこともわからないくらいになってしまったのだろうか?
 でも、この熱くて、ちょっと湿っている感触を、わたしはおぼえている。
 忘れようもない、そのあたたかさ。
 ねえ、ほんとうに、あなたなの? さっきみたいに、死神の仕業じゃないの?
 うれしいよ。こんなわたしを……やさしく抱いてくれるんだね。
 ……ごめんね。いつも芳香のやさしさに、わたしは甘えてばかりいたんだ。ごめんね。
 ああ、「ごめんね」って、やめたほうがいいって、ひきがえるに言われたんだっけ?
 じゃあ、どう言えばいいんだろう?
 ……ああ。そうか。
 そうだよね。
 芳香。ありがとう。
 ほんとうにわたし、あなたのおかげで、救われたの。
 あなたが泣いてくれたとき……ほんとうに、うれしかったんだ。
 なにもない人生が、変わったんだよ。

 ねえ、これからは、ずっといっしょにいてくれるかな? 芳香……




 











 ………………

 …………

 ……

 まばゆい光をまぶたにかんじて、わたしは目を開ける。

 視界は、まっしろだった。まばゆい光ばかりで、ほかに何もみえない。

 ぱらぱらと、顔面に砂のようなものが断続的に当たってくる。

 わたしは自分が仰向けになっていることを理解する。

 わたしは、からだを起こそうとする。
 すると、なにかがぱりぱりと音を立てて崩れ落ちる。
 それは、何かの枯れ枝だった。枯れ枝は、ちょうどわたしのからだを包み込むように生えていた。
 その枯れ枝を崩しながら上体を起こす。わたしの眼球が、ぼんやりとあたりを映す。
 あたりいちめんを、たくさんのキイチゴが生い茂っていた。
 わたしはキイチゴのなかで、眠っていたのだ。
 ようやく視界がはっきりする。キイチゴとわたしは崩れかけた壁に四方を囲まれている。壁からは何の光も無いことをみると、どうやら地下らしい。
 最初にかんじた光は、何かの拍子に天井にぽっかりと穴が開いて、そこから地上の太陽の光が差し込んでいるからだった。
 ここはどこだろう?
 わたしは、なにをしているんだっけ?
 いや……わたしは、だれだろう?
 なにもかもわからないけど、とりあえず立ち上がることにする。
 関節がぎくしゃくして動かなくて、すぐに横に倒れてしまう。どうやら相当長い間使っていなかったせいか、関節がすっかり固まってるらしい。
 しかたなく、キイチゴの白い花のなかをぴょんぴょん兎みたいに跳ねながら進むと、古い鉄の扉があった。錆び付きすぎて、すっかり赤く染まっている。
 開くだろうか、とおもいながら扉の取っ手を持つ。手首はやっぱり全然曲がらない。そのまま思い切り扉を引っ張ると、ベキンと音がして、扉は外れてしまった。おもったより脆いものだ。
 通路に出る。だいぶ土に埋もれていて、通路はとても狭かった。
 奥まで行くと、階段がある。
 わたしは上がりながら、不思議な気持ちになる。
 なんだろう?
 昇った記憶はないのに、はじめての気がしない。
 
 ぴょんぴょん跳ねながら階段を昇っていくと、どんどん光は強まってくる。
 昇りきると、そこは、光が支配する世界だった。わたしは、ようやくこの光に包まれた世界が普通なのだということを理解する。
 そのまま進むと、やがてわたしの前にドアがあらわれた。
 ドアを開けると、たくさんの本が詰め込まれた本棚がずらりと並んでいる部屋があった。
 わたしは本棚と本棚の間を跳ねながら進む。白い光はだんだん強くなり、本棚のすきまを抜けると、一気にひろがっていた。
 光は、窓から差し込んでいた。
 そして、その窓の前に、小さな机があった。
 今、その小さな机の前には、窓側を向いて少女が椅子に座っていた。
 足をぶらぶらさせながら、どうやら本を読んでいるようだ。少女は頭にかんざし代わりに鑿をつけて、なんともいえない髪の縛り方をしている。机の上には自分で作ったのか、白と黒の爬虫類のようなぬいぐるみとか、あまり趣味のよくない小物がたくさん置いてある。変わった子だな、とわたしはおもった。
 くるり、と彼女が振り向いた。
 穏やかだけど、どこか人を食ったような、それでいて親しげな笑みを浮かべている。
「やっと起きたのね。予想以上におねぼうさんだったじゃないの。もうちょっと早く起きてくれてこの家を作る手助けをしてもらいたかったけどね。まあ、だけどこれで、ここに書いてあるキョンシー術はあってることが証明されたってわけか」
 少女は、よっ、と椅子から飛び降りると、わたしの前までやってきて、まじまじとわたしの顔をながめた。
「ふーん。ずっとずっと寝たわりに、きれいな顔をしているのねー。わたしも仙人じゃなくてキョンシーになろうかなあ。仙人っていろいろめんどくさそうだしね」
 だれだろう? わからないけど、なんとなくわたしは、少女の顔を、どこかで見たような気がする。この子をよおく知ってる気がする。
「なんかわけがわかんないって顔ねー。まあ、わたしもよくわかってないの。わかることを教えてあげるね。と、言ってもわたしもずっとひとりでさ。喋るってこと、あまり慣れてないのよ。だから、わかりにくてもごめんね」
 少女は、すう、と深呼吸をすると、「まずわたしのこと」と言って、びし、と部屋の片隅を指さした。
 そこには、割れたフラスコが置いてあった。結構古いのか、表面が白く濁っている。
「わたしね、気づいたら、あなたのいたあの地下室で、あそこにあるでかいフラスコのなかにいたらしいのよ。『らしい』ってつくのは、あまり自分自身おぼえていないから。フラスコのなかでおぼえているのは、とても大きな地震が起きたことだけ。ほんとうに大きい地震で、わたしはすごく怖かった。だけど、ふいに、声が聞こえたの。大丈夫、まだ寝ていていいよ、って。その声で、わたしは安心して、またずっとずっと眠って眠って眠ってたの。
 それから、あるときふいにわたしは、あーそろそろ起きなきゃ、っておもって、フラスコから出てきたのよ。いろいろ地下室の本を読んでみたけど、それってほんとうは人間の生まれ方じゃないみたいね。それに、わたしって生まれたときからこれくらいの背丈で、ちょっと慣れれば喋ったり本を読んだりできたんだけど、普通の人間はひとりじゃ生きられないくらい未熟な状態で生まれちゃうみたいよね。それにわたし、お腹が空かないのよ。いや、どういう感覚なのか全然わからないんだけどね。普通の人間はそうらしいんだよ。で、じゃあわたしって何かっていうと、どうも、仙人っぽいのよ」
 彼女は、次にわたしを指差す。
「目覚めると、あなたはわたしのそばで、ずっとキイチゴの枝にくるまれて眠っていたのよ。そのキイチゴの種があなたのなかに入って、あなたはキョンシーになっちゃったみたいなんだけど、あなたを包む枝の生え方が普通じゃなくて、まるで繭か卵みたいになっていたわ。よっぽどあなたが良さげだったのかな? わかんないわねー。ほんと世の中ってわかんないことだらけ」
 それから、にやり、といたずらっぽく笑った。
「わくわくするよね。こんなにわかんないことばかりだと。ほんとこの世界って、楽しいよ」
 そのあともしばらく彼女は、じーっ、とこちらを見ていた。
「うーん。反応なし? わたしの喋りに問題あるのかなあ。それとも、キョンシーってもう何もわかんないのかなあ。うーん」
 確かにわたしは、なにもわからない。
 だけどわたしは、この少女を、なんとなく好きになった。
 しばらく悩ましげな顔をしていた少女は、「まあいいや」と言うと、またにっこりと笑った。
「まー、どっちにしてもここはあなたとわたししかいないから。仲良くしましょう」
 すっ、と、手を差し出してきて、
「あーっ!」
 急に、彼女は叫んだ。
「大事なことを忘れていたわ! ふたりいるなら、お互いに名前が必要じゃないの。どうしよう!」
 そこまで言ってしばらくすると、彼女は、腕組みをしながら、むふへへへ、とにやけた。ちょっと頬が赤い。
「なーんてね。わたしはね、もう自分で決めた名前があるのだ」
「よしか」
 突然、わたしは言った。
 彼女は、目を丸くしていた。
「あなた、喋れたの? っていうか、『よしか』というのが、あなたの名前なの?」
 それがわたしの名前かどうかは、わからない。
 だけど、名前と言われて出てきたのが、この名前だった。
 よしか。
 自分の名前なのかは、わからない。
 だけど、とても大切なものだった気がする。
 なによりも、大事だったもののような気がする。
「よしか」と、もう一度わたしは言ってみる。
 すごくあたたかい気持ちがひろがっていく。
 なつかしい気持ちが、わたしを満たしていく。
「ふうん。じゃあ、あなたは『よしか』なのね」と彼女は言った。

「わたしは、『せいが』。変わった名前でしょう? 自分が自分だって気づいたときから、ずっと最初から心に残っていた名前なの。いい名前と思わない? わたし、この名前を言うだけで、すごく気持ちよくなれるの」

 それから、彼女は、びっくりしたような顔で、わたしをみた。
「どうして、泣いているの?」
 どうしてなのか、わからない。
 だけど、涙は、いつまでも、いつまでも、あふれてきた。

「よくわかんないねー、あなたもさ」
「せいが」は、そう言うと、にへひ、と笑った。
「わかんなくて、最高。いつかその涙の正体も突き止めてやるからね」
 じゃあ、これで自己紹介は終わりね、と「せいが」は言った。
「この世界って、ほんとヘンなんだよ。いちど村までおりてみたら、なんかさあ、やけに古臭いことやってんのよ。仏様だか神様だか、いもしないものをありがたがって拝んでいたりするのよ。そんなものより、ここの本に書いてある道教のほうがよっぽど身になるってののにねー。まあ、でも、ちょっとおもしろい人間もなかにはいるのよ。偉いひとみたいなんだけど、なんでもいっぺんに十人のひとと会話できるんだってさ。わけわかんないよねー。最高じゃない? だから、会いたいなあ、っておもっているのよ」
 「せいが」は、うまく曲がらないわたしの手を握った。
「じゃあ。あらためて。わたしは仙人だし、あなたはとっくに死んじゃったキョンシー。これから長い長い付き合いになるとおもうけど、よろしくね」
 窓から、ひゅうううん、と風が吹いた。
 その風にのって、だれかの声が、聞こえた気がした。

 ――うん。これからも、ずっといっしょだよ。
 


 風の音、だったのかもしれない。
二作目です。読んでくださった方がいらっしゃれば、うれしいです。

以下、作者レスです。
みなさま長い話を読んでいただきありがとうございます。
>1さま
 自分も泣きそうになりながら描いてました。アホですね。

>もんてまんさま
 想定された分量の十倍ほどの長さだったようでしたが、それでもめげずに読んでいただきありがとうございます。当初は舞台も原作に沿って古代中国で描いていたのですが、どうしても違和感があったために悩んだあげく、逆に振り切ることにしました。

>奇声さま
 前作に続きありがとうございます。

>5さま
 こちらこそ読んでいただきありがとうございます。

>夜空さま
 いろいろとありがとうございます。ラストのあたり、青娥に「生きる」ということを選択させたきっかけは、たまたまクイーンの「ショウ・マスト・ゴー・オン」を聴いたからかもしれないな……と今ふとおもいました。いずれにせよあのあたりはやっぱり自分のエゴというか願望でしょうね。

>9さま
 自分はどうも愛を注げば注ぐほどひどいキャラにしたりひどいめにあわせたりしてしまうようで、今回もふたりが好きな方々から石でも投げられるんじゃないのか……とかビクビクしていました。途中からふたりをもっと好きになってくれてうれしいです。
 キューブリックは自分が好きな映画監督で、時計じかけのオレンジはひとつのシーンでわりとまんまのイメージで使っちゃっています。でもタイトルも似ていますね。こっちはあまり意識してませんでしたが。

>10さま
 お読みくださりありがとうございます。

>12さま
 ありがとうございます。

>リペヤーさま
 お読みくださりありがとうございます。どうも前作も読んでいただいたようで……ほんとうれしいです。

>18さま
 近代お嬢様エンジェル芳香って表現ですね。
 青娥をああいう性格にしてしまった以上、芳香は間逆にするしかないとおもい、ああなった次第です。もっとぶっちゃけると、自分の趣味です。

>19さま
 結果からみれば、ほとんどオリジナル設定ですね。ほんとそんな作品を読んでいただきありがとうございます。

>20さま
 この青娥はバカでしょうね。でも、こういう何故か最悪の選択をしてしまう人間というのは確かにいて、そんなひとはだいたい物事の価値をあくまで個人的なものさしではかってしまう類の人間なのですが、青娥はそっちの人間、というか仙人なんじゃないのかな、とかおもって描きました。
 ですので、そこにリアリティがかんじられない、ということは、自分の描き方の問題だとおもいますので、もうしわけなかったな、とおもいます。

>21さま
 感想ありがとうございます。長文の感想はとてもうれしいものです。

グロテスクな描写は……そうですね、手癖ですね。確かに乱歩とかの笑っちゃうようなヘンテコなガジェットが好きなもので、そういうのを埋めちゃうクセがあるようです。

2、3
どうもやはりキャラの描き方が足りなかったようですね。。この枚数じゃ青娥は描ききれなかったようです。


自分もハッピーエンドが好きなので、そう言っていただけるとうれしいです。ほんとう、自分でもどうしようとかおもいながら描いてましたので。。


ツカミが弱いのは自覚していました。今回はオリ設定がてんこもりなので、ある程度そのあたりを説明しないと、とおもってましたので。それにオリキャラ残酷描写ありとかあって正直地雷臭がすごいので、それでも読んでいただいた方にはマクラを向けて眠れません。


「うそっこ」は……ぶっちゃけフィーリングで使ってるのですが(方言とも知らなかったし)、改めて考えると、たぶん自分は「うそごっこ」みたいなニュアンスで使っているのでは、とおもいます。「冗談」と「嘘」よりもうちょっと遊びがはいっているかんじでしょうか……まあ、あまり意識してないのでなんともいえないのですが。
藍田真琴
https://twitter.com/imako69
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コメント



0.580簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
 ラストで泣きそうになった。
 久しぶりに良いもの読めた。ありがとう。
2.100もんてまん削除
13KBと思って読み始めたら大変な事になったw

原作と噛み合わない所が見受けられるのでパラレルワールドなのかな?
それにしても読み応えのあるものだった。歪んだ青娥達に来るものがありました。面白かったです。
3.100奇声を発する程度の能力削除
長さが全く気にならず、
とても感動でき素晴らしかったです
5.100名前が無い程度の能力削除
「せいが」になった芳香と「よしか」になった青娥の新しい世界に祝福を。
ありがとう
8.100夜空削除
作中のサブカルチックな(と形容して正しいのかもわかりませんが)花が朽ちていくような世界観もさることながら
青娥の胸中がものすごく切実に伝わってきて、読んでいるこちらの心が痛くなるほどで……。世界とうまく付き合っていけないひとのかなしみを痛烈に感じました
共感してしまう部分は多々あるのですが、それが「生きたい」と思う気持ちに繋がるかと言えば、もしくは感動なのかと問えば複雑で、とても言葉にできないものでした
惜しむらくは最後の部分は蛇足気味かなと言いますか、はたしてふたりに新しい世界は必要だったのか疑問に思います。しかしほんとうに素晴らしい作品、ありがとうございました!
9.100名前が無い程度の能力削除
俺の好きなせいがとよしかにひどいことしやがってこの野郎と思ったけど
途中から二人が前以上に好きになってしまったよ!
この二人のダークな雰囲気をここまで大胆に丁寧に表現する力にはただ敬服するしかない。
この作品を読めたことに感謝したい。やり過ぎだとは思うけど、個人的にはやり過ぎてくれて嬉しい。
フォローしようがないほどやらかしつつも、最後は原作に繋げる健全さというか一人善がりにならない謙虚が
読後の謎のさわやかさに繋がっているのかな。

それにこのタイトルはほんとにセンスが良いな。
時計じかけのオレンジみたいなどうしようもない世界を下敷きに描きつつ、
最後によしかが生まれるシーンでタイトルをバーンと表現するところは
映画的でとてもかっこいいと思った。
この完成度はいわゆる100点じゃ足りないというやつだな。
次回作にも期待!
10.100名前が無い程度の能力削除
うおお
すげえ…
12.100名前が無い程度の能力削除
ブラボー!
14.100リペヤー削除
素晴らしい。
序盤で引きこまれ、中盤ではどこまで転げ落ちるのかわからないおぞましさを感じ、終盤のどんでん返しにやられました。
文句なく満点です。
17.50名前が無い程度の能力削除
(iPhone匿名評価)
18.100名前が無い程度の能力削除
なかなかぶっ飛んだお話で素敵でした。近代お嬢様エンジェル芳香とか見たこと無い。
充足した無垢というのも歪みなく歪んでいて何気にたちが悪いようですね。
青娥の駄目な子っぷりも心地よかったです。駄目であれば駄目であるほど可愛い法則。
所々にあるオマージュや小ネタがまた微笑みを誘います。本当に楽しく読ませて頂きました。
19.100名前が無い程度の能力削除
オリジナル設定、それも原作と全然違うものは違和感が先にきてしまっておもしろく思えないことも少なからずあるけど、言葉を尽くして語られるうちにその違和感を消し去られてしまった。
発想に万歳。
20.90名前が無い程度の能力削除
芳香をキョンシーにするシーンだったり、タイトルだったりとところどころのセンスが光っていて感嘆しました。。
この生前芳香の性格設定は素晴らしい発明品。これはキョンシーにしたくなる、死後も側におきたくなるキャラとして、説得力があります。
青娥が人を殺すまでは面白かったけれど、それ以降の青娥の暴走は理解できませんでした。
殺す意外にも、手はあったのでは? 脅すとか。以後は、青娥は馬鹿だな、と冷ややかに眺めるようになってしまったかも知れません。
そして、ひきがえるが肉親だったり、最後のタイムスリップつきの転生だったりはさすがについていけませんでした。
21.90名前が無い程度の能力削除
うーん…よかった。おもしろいなぁ。

1.
 藍田真琴さんの第二作目を読んで確信した事は、藍田さんって気持ち悪いグロテスクな描写がすごくうまいのだなぁ、ということです。
前作でもアリスの地下室や、奇形生物や黒魔術や、はたてがじわじわとアリスにいじられる描写は、僕の意表をついてグロテスクだった。
「別にこんなことしなくても、もっとソフトに描写すればいいのに…」と不思議に思ったものです。
今作を読んで、その不思議が解けた気がします。ずばり、グロテスクな描写は、藍田真琴さんの手癖でしょう!!
なんというか、とても無理なくグロテスクにしているように感じました。「無理やり、差別化のためにグロテスクにしてる…」って感じがしない。
 うん、だってね、今作も良い意味でかなりグロテスクだった。ほんと、きもちわるいぜ!
>得体の知れないやつらが多かった。生きている金魚を刺青にして体の皮膚に飼っている女、セックスした男の眼球を引き抜き収集する女医、少女の陰毛を主食にしているギタリスト、手足が無い代わりに肋骨を上下させてヘビのようにすばやく動き、茂みに隠れる男女を覗く男
 とか、吐き気がしそう!「うわああああ!こんなに描かなくても、一言『得体のしれないやつら』だけ言えばいいのに!今作も藍田真琴の手癖が冴えてるぜ!」と思いました。すごい。あと、最後の青娥の父さんの下半身だけが残ってるところも、なんていうか、すごいグロテスク…。

なんていうんだろう、決して嫌悪感は抱いてないのです。グロテスクだけど、その描写が突き抜けている感じがするので、「ワアォ!今宵も冴えてるな!」っていう称賛の気持ちですね。まぁ、ソフト百合が好きな自分にはグロテスクなことには変わりないんだけれども…。


2.
 そして、今作では芳香に若干、感情移入できました。前作では口下手でシャイだけれども、思いやりのあるはたてに感情移入できましたね。
今作の
>わたしが弱いのが悪かったんだよ。モズも、このひとも、みんな弱すぎたんだよ。だから、お互いにずるずると引っ張られて、ずぶずぶと井戸の底に落ちてしまうの。そんなことわかっていた。だけどどうしようもなかった。私たち、そうやって生きていくしかなかった。それを青娥は、必死になって救い上げようとしてくれたんだよね。ごめんね。ただ、青娥は、私たちと同じで、違っていただけ。弱いのに、強すぎただけ。弱いわたしたちは、青娥の力に耐え切れずに、腕が千切れてしまって次々と落ちてしまっただけ。それは青娥のせいじゃない。弱いわたしたちのせいなの
という芳香の台詞にはとても共感します。前作のはたてやアリスのように、「素直になれない弱さ」っていう気持ちや振る舞いを、藍田さんは上手に言葉に表現できるんだなと感じました。そういう弱さに理解があるなと感じました。


3.
 けれども、他の行動についてはリアリティを感じられなかったです。どの登場人物も「弱さゆえの行動」という説明は
されてるんですけど、「そこまでぶっちゃけるか?そこまでやっちゃうの!?」という違和感はありましたね。
登場人物がみんな狂ってるんだから仕方ないね、というべきか。
話をより悲劇的に印象強くするために、安易に都合よくぶっちゃけた行動をとらしている、というべきか。
 話の展開が気になって、読み進めることをやめようとは思いませんでした。
けれども、キャラクターの行動にやや冷ややかな目を向けはしましたね。まあ、些細な点ですけれども!
 ところで、前作ではアリスの狂いっぷりがすごかったですね。前作のアリスの狂った行動は「エッチ」と
「感動の友情」が伴ってたので、自分はリアリティの追求はせずに、さっさと納得したんですけど、今作はそうじゃないので…。
うむ…。


4.
 話の展開はおもしろかった!ヒキガエルの正体とか、ラストの転生みたいなオチとか。
前作でも、「狂ったアリスとはたての話を最後にどうもってくのかしら!?」と冷や冷やしたものです。
今作も、「ダークでグロテスクなこの二人を最後にどういうオチにもってくのか」不安半分・期待半分してました。
 個人的にハッピーエンド・救いのある話が大好きなので、今作も前作と同じように満足です。おなかいっぱい。
ダークで狂って、退廃的な序盤と中盤な分、ラストのハッピーエンドの爽快感はひとしおですね!


5.
 前作よりもなんか総得点数が低いみたいですけれど、それは前作が冒頭で萌えパターンが推測できたのに、
対して今作は冒頭だけでは、話がどう展開するか何が起こるのか不明瞭でただ淡々とまずはこのSSの世界観を取得することを
強いられたからでしょうか…?
 前作は冒頭をみただけで、「アリスのえっちぃSS」・「珍カプ?」という良くある萌えパターンが読み取れ、
この先の展開にそれなりに期待というか…安心?を感じながら読み進められたのですが、今作は冒頭だけではこの話が
勧善懲悪か百合なのか、バトルなのか、ギャグか、どういうドラマツルギーなのかわからないので、不安ではありましたね。


6.
 最後に前作から、すごく気になっていることがあるのですが、
「うそっこ」っていう言葉に、藍田真琴さんはどういう思い入れがあるのですか?
どういう表現のために出してるんでしょうか?
「うそっこ」と言う言葉は静岡県の方言のようなので、藍田真琴さんが静岡県民だからなのかなと前作では思ってました。
でも、なんか今作を読んでると、「嘘でしょ」ではなくあえて「うそっこでしょ」と書くことに、
なんらかの思い入れがあるように感じます。どうなんですか?



うおおおおおおおおおおおおおお!、深夜のテンションでなんか長く書いてしまって申し訳ない!
このSSがとても楽しめたからなのでお許しくださいね!おやすみ!
22.100名前が無い程度の能力削除
知人に薦められ読んでみたら、オリキャラオリ設定なのにも関わらずぐいぐいと惹きこまれて読破してしまいました。

芳香の異常なほどの優しさ、純粋さ、それ故に青娥とかみ合わない感じがとても素敵でした。
グロテスクな描写もSS全体の雰囲気を壊すことなくマッチしていて良かったです。

中身がずっと成熟しないまま過ちを繰り返す青娥が生まれ変わって芳香ともう一度歩んでいける結末で不覚にも涙が滲んでしまいました。
素敵な物語をありがとうございました!
24.100名前が無い程度の能力削除
よかった。
26.100名前が無い程度の能力削除
すげえ…
29.100名前が無い程度の能力削除
久々にギャグ以外の読み切りました。