紫陽花の咲く梅雨の半ば。しとしとと雨の降る日のこと。
夏も近いというのに、冷たい風が皮膚をなでる。日が通らないことも重なって、薄手では少し肌寒いほどだ。
そんなある日、女が一人、歩いていた。
右手で雨傘をさし、左手には曲がった日傘を携えて、とある店へと。
目印にしている大きな木のそばを過ぎれば、その目的の店は見えてくる。
魔法の森の入口に構えられた店。
もとより陰気な場所であるが、雨の湿気がそれをより引き立てせていた。
――きぃん、かららん。
「店主、いるわね?」
靴の泥を落とし、傘の雨粒を払ってからドアを開けた女の第一声はそれだった。
「いないよ」
奥に座る男は本から視線もあげず、その声に応える。
「あら、いないの。それならこの辺でマスタースパークの試し撃ちでもしてようかしら」
「折れた傘でマスタースパークを撃つのはやめてほしいね」
ぱたりと本を閉じ、如何にも面倒くさそうに男は顔をあげた。
女はその顔を見て、実に満足そうな笑みを浮かべる。
店の名は香霖堂。幻想郷の外から流れつく道具を売る店であると同時に、魔法具などの修理も行っている。
女の名は風見幽香。その修理の常連客であり、店主に傘の修復を頼んでいる大妖怪。
男の名は森近霖之助。香霖堂の店主であり、風見幽香の愛用の傘を直せる、幻想郷ただ一人の男だった。
◆◇◆
香霖堂の奥、霖之助の工房。その中では、霖之助がカチャカチャと工具を動かす音が響いている。
手前の母屋には、あがりこんだ幽香。修理を続ける霖之助に背中を向ける形で、茶を飲んでいた。
「あんまり美味しくないわねえ、この御茶」
「家にあるのでは一番のものだよ」
「ふうん、そうなの。まぁ無料サービスなら、この程度の物でしょう」
「無料とは一言も言っていないんだが」
「つれないこと」
工房の戸と母屋の戸は開かれているため、互いに声が届く。
「前にも頑丈に修理したんだがね。どういう使い方をしたら、こんなにすぐに曲がるんだい」
「紫と幽々子の遊びに何度か付きあったのが原因かしら」
「どんな遊びだ」
「聞きたい?」
「…………遠慮しておく」
背を向けあったまま、暇つぶし程度の会話をすること。
いつからかそれが、幽香が霖之助に修理を頼んだ際の、二人の日課となっていた。
……もっとも、幽香も霖之助も口数の多い方ではないから、会話の途切れる時間のほうが長いのだけれど。
――きりきり、キリキリ。
それまでに無かった音が工房の中から響き始める。
修理工程の段階が変わり、霖之助が別の工具を使い始めたためだ。
この段階に入ると、霖之助はめっきり口を利かなくなる。
幽香もそれを知っているため、この音が聞こえ始めると、何を言うでもなく、ただ黙して待つ。
聞こえるのは、工具の音と、雨の音だけ。
「……ところで店主」
珍しいことに、その沈黙を破ったのは幽香だった。
霖之助は答えない。
無視しているわけではなく、集中しているためにその呼びかけが聞こえていないのだ。
――ミシッ。
幽香の持つ茶碗が軋んだ。
「――店主」
幽香は少し強めの語調で、再び呼びかける。
「なんだい」
今度は聞こえたのか、霖之助はそう返事をした。
しかし、振り返ろうとはせず、修理の手を休める様子も無い。
「魔理沙の八卦炉には、ヒヒイロカネが使われているそうね」
ぴたりと。
霖之助の動きが止まった。
「……ああ、そうだが」
「ふうん、本当なの」
「それがどうかしたのかい」
「別に? あの娘の八卦炉には、良い素材を使うのね、と思っただけ」
「きちんと対価を貰ったうえでの塗装だよ」
「へえ? ヒヒイロカネと釣り合う対価を、あんな子供が手に入れられるなんて、楽な世の中になったものね」
「……」
「同じマスタースパークを撃つものには、同じ素材が使われるべきじゃないかしら、店主?」
……霖之助は、嘆息。
「分かった分かった。今は手持ちにないから、ヒヒイロカネが手に入ったら、次の機会に塗装させてもらうよ」
「結構。話が早くて助かるわ」
「はぁ……あれはとても貴重な金属なんだよ」
「あら。それほど大切なものを魔理沙の得物には使ってあげて、私の傘には使ってくれていなかった、ということね」
「……もう勘弁してくれ」
「ふふ」
◆◇◆
数刻後。香霖堂店内。
修理の工程が全て完了した。
「どうぞ、お客様」
「はい、どうも」
霖之助が幽香へ傘を渡し、幽香は傘をなでる。
幽香は傘の手触りに、満足した様子で微笑んだ。
「相変わらず良い仕事するわね」
幽香を知る者がその言葉を聞けば驚くだろう。
彼女が人を褒めることなど、まず無いのだから。
「お褒めにあずかり光栄だよ」
霖之助の言葉を聞けば、その者はさらに驚くかもしれない。
幽香の滅多に聞けぬ褒め言葉を、さして嬉しそうでもなく受け取っているのだから。
「さて、と。修理の代金だが――」
「今回はツケにして頂戴」
この言葉にはさしもの霖之助も驚いた。
「……何か、あったのかい?」
「いいえ。今日も代金はちゃんと持ってきているわ」
「だったら」
「どうせ魔理沙も、ツケにしているのでしょう?」
幽香は変わらず、笑顔を絶やさない。
霖之助は顔をしかめた。
「……分かった。次に纏めて払ってくれればそれでいい」
「ふふ、ありがとう。次もまたお願いね」
くすくすと幽香は笑い、くるりと入り口に向かって歩き出す。
霖之助はその背を見て――今日の幽香のからかいに対して、反撃をしてやろうと思った。
反撃と言っても、ただの冗談だが。
「やれやれ、今日は随分と突っかかったね。まさか魔理沙に妬いてるのかい」
ぴたりと。
幽香の動きが止まった。
空気が止まる。時間が止まる。
――軽率すぎたと、霖之助は悟った。
如何に軽口をたたき合う関係といえど、霖之助は半妖で、幽香は大妖怪。
幽香を本気で怒らせてしまっては、霖之助が適う道理はない。
霖之助の背を、冷や汗が伝う。
幽香はゆっくりと振り返り――
「ええ。そうよ」
そう言って、にっこりと。
「妬いているわ。――とても」
笑った。
霖之助は、動けない。
その笑顔の視線に縛られたように。
「またね。霖之助」
幽香は出口の扉を開き、ひらりと手を振った。
――きぃん、かららん。
カウベルの音が残り、消える。
聞こえるのは、雨の音だけ。
静かな静かな、梅雨の日のこと。
《了》
夏も近いというのに、冷たい風が皮膚をなでる。日が通らないことも重なって、薄手では少し肌寒いほどだ。
そんなある日、女が一人、歩いていた。
右手で雨傘をさし、左手には曲がった日傘を携えて、とある店へと。
目印にしている大きな木のそばを過ぎれば、その目的の店は見えてくる。
魔法の森の入口に構えられた店。
もとより陰気な場所であるが、雨の湿気がそれをより引き立てせていた。
――きぃん、かららん。
「店主、いるわね?」
靴の泥を落とし、傘の雨粒を払ってからドアを開けた女の第一声はそれだった。
「いないよ」
奥に座る男は本から視線もあげず、その声に応える。
「あら、いないの。それならこの辺でマスタースパークの試し撃ちでもしてようかしら」
「折れた傘でマスタースパークを撃つのはやめてほしいね」
ぱたりと本を閉じ、如何にも面倒くさそうに男は顔をあげた。
女はその顔を見て、実に満足そうな笑みを浮かべる。
店の名は香霖堂。幻想郷の外から流れつく道具を売る店であると同時に、魔法具などの修理も行っている。
女の名は風見幽香。その修理の常連客であり、店主に傘の修復を頼んでいる大妖怪。
男の名は森近霖之助。香霖堂の店主であり、風見幽香の愛用の傘を直せる、幻想郷ただ一人の男だった。
◆◇◆
香霖堂の奥、霖之助の工房。その中では、霖之助がカチャカチャと工具を動かす音が響いている。
手前の母屋には、あがりこんだ幽香。修理を続ける霖之助に背中を向ける形で、茶を飲んでいた。
「あんまり美味しくないわねえ、この御茶」
「家にあるのでは一番のものだよ」
「ふうん、そうなの。まぁ無料サービスなら、この程度の物でしょう」
「無料とは一言も言っていないんだが」
「つれないこと」
工房の戸と母屋の戸は開かれているため、互いに声が届く。
「前にも頑丈に修理したんだがね。どういう使い方をしたら、こんなにすぐに曲がるんだい」
「紫と幽々子の遊びに何度か付きあったのが原因かしら」
「どんな遊びだ」
「聞きたい?」
「…………遠慮しておく」
背を向けあったまま、暇つぶし程度の会話をすること。
いつからかそれが、幽香が霖之助に修理を頼んだ際の、二人の日課となっていた。
……もっとも、幽香も霖之助も口数の多い方ではないから、会話の途切れる時間のほうが長いのだけれど。
――きりきり、キリキリ。
それまでに無かった音が工房の中から響き始める。
修理工程の段階が変わり、霖之助が別の工具を使い始めたためだ。
この段階に入ると、霖之助はめっきり口を利かなくなる。
幽香もそれを知っているため、この音が聞こえ始めると、何を言うでもなく、ただ黙して待つ。
聞こえるのは、工具の音と、雨の音だけ。
「……ところで店主」
珍しいことに、その沈黙を破ったのは幽香だった。
霖之助は答えない。
無視しているわけではなく、集中しているためにその呼びかけが聞こえていないのだ。
――ミシッ。
幽香の持つ茶碗が軋んだ。
「――店主」
幽香は少し強めの語調で、再び呼びかける。
「なんだい」
今度は聞こえたのか、霖之助はそう返事をした。
しかし、振り返ろうとはせず、修理の手を休める様子も無い。
「魔理沙の八卦炉には、ヒヒイロカネが使われているそうね」
ぴたりと。
霖之助の動きが止まった。
「……ああ、そうだが」
「ふうん、本当なの」
「それがどうかしたのかい」
「別に? あの娘の八卦炉には、良い素材を使うのね、と思っただけ」
「きちんと対価を貰ったうえでの塗装だよ」
「へえ? ヒヒイロカネと釣り合う対価を、あんな子供が手に入れられるなんて、楽な世の中になったものね」
「……」
「同じマスタースパークを撃つものには、同じ素材が使われるべきじゃないかしら、店主?」
……霖之助は、嘆息。
「分かった分かった。今は手持ちにないから、ヒヒイロカネが手に入ったら、次の機会に塗装させてもらうよ」
「結構。話が早くて助かるわ」
「はぁ……あれはとても貴重な金属なんだよ」
「あら。それほど大切なものを魔理沙の得物には使ってあげて、私の傘には使ってくれていなかった、ということね」
「……もう勘弁してくれ」
「ふふ」
◆◇◆
数刻後。香霖堂店内。
修理の工程が全て完了した。
「どうぞ、お客様」
「はい、どうも」
霖之助が幽香へ傘を渡し、幽香は傘をなでる。
幽香は傘の手触りに、満足した様子で微笑んだ。
「相変わらず良い仕事するわね」
幽香を知る者がその言葉を聞けば驚くだろう。
彼女が人を褒めることなど、まず無いのだから。
「お褒めにあずかり光栄だよ」
霖之助の言葉を聞けば、その者はさらに驚くかもしれない。
幽香の滅多に聞けぬ褒め言葉を、さして嬉しそうでもなく受け取っているのだから。
「さて、と。修理の代金だが――」
「今回はツケにして頂戴」
この言葉にはさしもの霖之助も驚いた。
「……何か、あったのかい?」
「いいえ。今日も代金はちゃんと持ってきているわ」
「だったら」
「どうせ魔理沙も、ツケにしているのでしょう?」
幽香は変わらず、笑顔を絶やさない。
霖之助は顔をしかめた。
「……分かった。次に纏めて払ってくれればそれでいい」
「ふふ、ありがとう。次もまたお願いね」
くすくすと幽香は笑い、くるりと入り口に向かって歩き出す。
霖之助はその背を見て――今日の幽香のからかいに対して、反撃をしてやろうと思った。
反撃と言っても、ただの冗談だが。
「やれやれ、今日は随分と突っかかったね。まさか魔理沙に妬いてるのかい」
ぴたりと。
幽香の動きが止まった。
空気が止まる。時間が止まる。
――軽率すぎたと、霖之助は悟った。
如何に軽口をたたき合う関係といえど、霖之助は半妖で、幽香は大妖怪。
幽香を本気で怒らせてしまっては、霖之助が適う道理はない。
霖之助の背を、冷や汗が伝う。
幽香はゆっくりと振り返り――
「ええ。そうよ」
そう言って、にっこりと。
「妬いているわ。――とても」
笑った。
霖之助は、動けない。
その笑顔の視線に縛られたように。
「またね。霖之助」
幽香は出口の扉を開き、ひらりと手を振った。
――きぃん、かららん。
カウベルの音が残り、消える。
聞こえるのは、雨の音だけ。
静かな静かな、梅雨の日のこと。
《了》
綺麗な作品でした。
もっちっとばかし肉付けがあればなぁと