一
その日、レミリア・スカーレットは、月下の散策を楽しんでいた。
雨、しとしとと降る夜道を、あえて一人散歩するところに、この当主の気質を見ることもできよう。
彼女は上機嫌で口ずさんだ。
I'm singin' in the rain
Just singin' in the rain
What a glorious feelin'
I'm happy again
I'm laughin' at clouds
So dark up above
The sun's in my heart
And I'm ready for love
"Singin' in the Rain" 『雨に唄えば』は、彼女がもっとも愛して止まない映画である。
吸血鬼である彼女は、雨の中を進めない……ということでもない。雨の中を進めば、簡単に言うと、風邪を引く。体調が悪くなる、魔力が減退する。即効で。だが、無茶をすればどうにかなるのである。
レミリア・スカーレットは、あえて雨の中を進むことに意味があると考える。
そこに、自由の謳歌がある。
自由の謳歌は、彼女を幸福にする。
幸福は、何者にも勝って素晴らしい。
幸福は醜さを消し、美しさを美しさとするからである。
彼女は醜いものが大嫌いである。だから、不機嫌や不幸を嫌悪する。これらは、全てを醜くさせるから。
何故彼女が、決して有能とはいえない妖精たちをメイドとして雇うのであろうか。
その答も、この彼女の思想の中に見出し得るだろう。
友人たちと楽しく、メイドの真似事をするとき、あの少女たちは、あたかも初恋の光が目覚めたかのような、幸福の微笑を浮かべるのである。曙でさえも、この光には劣るものである。その美しい光景を見ることは、レミリア・スカーレットを幸福にするのだ。
レミリア・スカーレットは心から信じている。
もし誰かを幸福にしてあげたいと思うのであれば、自分自身が幸福でなくてはならないと。また誰かを自由にしてあげたいならば、自分自身が自由でなくてはならないと。
およそ人を導くものは、光明である。
幸福や自由をその身にまとい、そこから打ち出でたる光明によって、人は導かれるのである。
そうして上機嫌で散歩をしていると、レミリアは、意外な人物が、雨に打たれてたたずんでいるのを見つけた。
その表情は暗い。きっと、彼女は不幸なのだろう。沈鬱な表情をする女性の存在は、レミリアを不機嫌にさせる最大のものである。
しかしレミリアは、その不幸な女を見ても、不機嫌にはならなかった。何故なら、それは醜くなかったから。光明を遮る雨雲を、憂鬱な気持ちで見上げている聖者は、むしろ不幸に輝きを与えるのだ。
その発見は、レミリアを上機嫌にさせた。
「貴方に傘をあげよう!!」
レミリアは、雨に濡れるのも構わず、この女……上白沢慧音に傘を差し出した。
「風邪を引いてしまうもの」
「雨に濡れていたいのです」
「あら、奇遇ね。私もよ」
そう言うと、レミリアは強引に慧音に傘を渡して、雨の中を踊り始めた。
「自由っていいわね」
「そうですね」
「雨の中を踊っていたって、全然かまいやしないのだもの」
「そういうわけにもいきますまい」
「どうして?」
「煙が出ている」
「おや!?」
「傘の中にお入りなさい」
そう言って、慧音は傘を前に出して、レミリアが雨に打たれないようにしようとしたが、彼女はサッと避けてしまった。
「少しくらい雨に濡れても大丈夫よ」
「そうは見えないが」
「あなたはどうなの?」
「少しくらい大丈夫よ」
「そうは見えないわね」
そう言うと、レミリアは慧音のすぐそばにまでよって来た。
「まぁ、あなたが傘持ちをするなら、入ってあげないこともないわよ。じゃ、そろそろ帰りましょうか」
「どこに?」
「我が家に」
「私はもうしばらくここにいるよ」
「ダメよ!! 吸血鬼の私が雨に濡れちゃうじゃないの」
「どうして? 傘がありますよ」
「でも、傘持ちがいないもの」
上白沢慧音は返答に窮した。
「おいでよ!! 家出少女を預かることができるくらいには、我が家は広いんだから」
「私は別に、家出したわけじゃ」
「違うの?」
「……違わないかも知れない」
「じゃ、決まりね。さぁ、行きましょうか」
そうして上白沢慧音は、紅魔館へと訪れることになった。
二
雨に濡れた上白沢慧音は、紅魔館の中に入ると、真っ先にバスルームへと案内された。
とき、藤の美しく咲く皐月。
身体を冷やせば、容易に風邪を引く季節である。
温かいシャワーが、雨に濡れて骨神冷えた身体を再起させる。
徐々に身体が温まってくると、自然と安堵感を覚える。
上白沢慧音は、ここしばらく、寺子屋の教師を辞めようかと思い悩んでいた。
人手不足という現実の問題と、また人間と深い交友を持つに至ることができずにいる友人に対する善意から、彼女は藤原妹紅に寺子屋の運営を手伝うように頼んだのが、もう五年ほど前であろうか。はじめは不慣れで、また熱意にも欠けていた妹紅であったが、次第に仕事にも慣れ、子供たちとの交流が楽しくもなってきたようで、情熱を持って指導に当たるようにもなった。このことには、慧音も大いに満足して喜んだ。子供たちやその親もまた、新しい先生を歓迎した。誰のためにも良い巡り合せであった。
だがしかし、一つ、問題が生じるようになった。
慧音と妹紅との指導方針が、うまくかみ合わないのである。
いや、もっとハッキリと言ってしまうと、教条的で柔軟な発想ができず、どこか近寄り難いところのある慧音に対して、対等な関係性の上に、子供の主体的で自由な意思を尊重する朗らかな妹紅が異議を唱えるのだ。そうして他の者もまた、妹紅の方針を支持しており、気がつけば慧音は、目の上のたんこぶとでもいうべき厄介な存在と見られるようになっていたのだ。
(私がいないほうが、皆のためにはよっぽどよいのではないか……)
そう、自問する日々が、もう一年ほど続いているのである。
あぁ、何が苦しいかと言って、正しい行いが報われぬということほど、苦しいものはない。上白沢慧音は正しい人である。しかしその正しさが、時節に合わないのである。また、藤原妹紅も正しい人なのである。そうして彼女は、時節にあった人なのである。
そんな折、あることが発端となり、慧音はもう、寺子屋にはおられなくなったのだった。
それは、あまりにも私的なことであり、どうしても口に出すことが憚られるものであるから、閉塞した苦しみを彼女は抱かねばならなくなった。
自らの悩み事を思い返して、慧音はまた沈鬱な気持ちになった。
長息を一つ、慧音はもらした。
と同時に、バスルームに入ってくる人影が一つ。
十六夜咲夜が、着替えとバスタオルを持って来たのである。
「お客様。お湯加減はいかがでしょうか」
「ちょうどよいお湯加減で、身体の芯から温まりました。本当にお世話になって恐縮です」
「ご満足いただけましたようで何よりです。お風呂をお召しになられましたら、お茶をご用意いたします」
「いえ、そんな。これ以上お邪魔するようなことはできません」
「お嬢様が、是非お客様とご歓談遊ばれたく仰せでありますので……」
「そうですか……分かりました。もう出ますので、少しお待ちいただきたい」
「かしこまりました。それでは外で待っておりますので」
上白沢慧音は、そう答えると湯から出た。
三
紅魔館の貴賓室。そこには歴史の重みを感じさせる、クラシックなティーセットが備えられていた。
「ブルルル!! 風邪を引いてしまった」
レミリア・スカーレットは、温かい紅茶に口をつけて言った。
「こういう時には、ジンジャーティーを飲むのがとても良いのよ?」
「えぇ、存じております」
椅子に座ると、上白沢慧音は、落ち着いた様子でレミリアに言葉を返した。
入浴したことにより、慧音は心穏やかになったのである。
それが、彼女の表情を少し柔らかくしている。
レミリアは、この女の幸福な変化を見て取って、大いに満足した。幸福とは、全く人を喜ばせる。幸せな人を見るだけで、胸の中が温かくなるのだ。
「あなた、甘いものはお好き?」
「嫌いではありません」
「なかなか、口にする機会もないのではなくって?」
「そうですね。砂糖は、貴重なものだから」
「そうでしょう、そうでしょう。うちの門番も中国の内陸から来た妖怪なのだけどね、ここに来るまでは甘いお菓子なんてほとんど食べた記憶がないと言っていたわ。お菓子はあるんだけど、そのお菓子に甘みがないのですってね。それを聞いて、私はビックリしたものよ。でも、貧しい地域では、それも仕方がないことね。実際、ほんの10年ほど前、中国のハルピンまでふらっと遊びに行ったのだけどね、お菓子屋さんに入って洋菓子を食べて仰天したわ。甘くないのよ!! あの子の言うことは本当だったのよ。パチェと二人、苦笑したわ」
「どうして中国などに?」
「だって、中国の妖怪を召したのだもの。故郷のことを知っておいてあげたほうが、あの子も喜ぶでしょう?」
「確かに……」
「実際に、喜んでくれたわよ。あなたの故郷はお菓子はないけど、スイカの名産地なのね!! って言ったら、笑いながら、食べ飽きましたって答えてくれたわ。水が悪いものだから、飲料水代わりに食べるのですってね」
慧音はレミリアという人物については、荒唐無稽にして畏怖を招く伝聞こそ数多く聞き及ぶことがあるものの、その実際の人柄についてはほとんど知る機会がなかった。だからこそ、この日の出会いは新鮮であった。この吸血鬼の令嬢が、これほどにまで他者を慮る、温かみのある存在だとは思わなかったのである。
レミリアは、慧音に問うた。
「あなたは、何をそんなに思いつめているのかしら」
慧音は返答に窮した。説明するには、なかなか簡潔に語りがたい事柄である。また、彼女の抱えている問題は、上白沢慧音一人の問題でもあるように思われたから、それを他者に語るのはどうしても憚られたのである。
「雨が晴れるのは、どうにも夜明けになりそうだわ。今宵は、誰か話し相手が欲しいところね」
慧音は、己の心境を察しての言葉掛けであることを了解した。
レミリア・スカーレットは、簡潔な説明を求めはしないと言いたかったのだ。
(ただ、ありのままに、お話なさい……)
悩めるものにとって、これほど親切な言葉はない。
レミリアの厚意が、慧音の頑なな心を解す。
「私事で恐縮でありますが……」
慧音は、その胸の内を語り始めた。
四
上白沢慧音は夜鷹の子。貧民集落「えながや」生まれの人非人である。
彼女の母は、お産と同時に死んでいる。十月十日を経ても生まれてくることがなく、常よりも半年遅れで生まれ出でた赤子は、いわゆる「鬼子」であったそうだ。
「えながや」の由来は、「餌長屋」である。
何事かがあったときに、餌として差し出される身分の者たちであって、人非人とはまさにこれを指そう。
彼女は本来、掟に従い、生まれてすぐに殺されるはずであった。
だが、現実にはそうならなかった。
理由は三つ。
一つには、母のない子供であるから、どうせじきに死ぬであろうと思われていたこと。
二つには、将来はさぞ見目麗しい女人となるものと思われたので、男どもが将来の遊びのために、生かしておくもまた良しと考えたこと。事実、彼女は五つになるまでは男どもの好意で生かされ、それより先は行為によって生き長らえることができたのである。
三つには、いざというときに、餌として投げ打つよい境遇にあったこと。スケープゴートとしての、「鬼子」に対する貧民たちの期待は切実であった。
つまりは人非人の中においても、いっそう不幸であったことが、彼女を生き長らえさせたのである。
成長するにつれて、この女子は頭角を現し始めた。
既に五歳になる頃には、大人たちと対等に会話することができたのである。
そのことが彼女の身を助けた。
賢い彼女は、自分の境遇を充分に理解することができたのである。
早晩、彼女が男どもの玩具となることは不可避であるが、しかしそれを全く受け入れては、到底生き長らえることなどできない。彼女は生前、母と交友のあった夜鷹に頼み、幼子でも男の相手をすることができる術を学ぶとともに、同時に庇護を求めたのである。
当然、庇護を求めた女には、仲介料や家賃などを含め、多額のピンハネをされることとなる。そのことを理解していた彼女は、情の深く、また頭の弱そうな女を選んで頼んでいたのであるから、この才、抜群と呼ぶより他にはあるまい。
そうして、数え年十を越えてしばらく、彼女は運命を切り開く決断をする。
末の結果がどれほど凄惨なものであるかを、知り尽くしてしまったからである。
母親代わりとなった女は、梅毒に侵されて脳が腐っていた。
また、身籠った女の残忍な堕胎は、彼女を戦慄させた。
同時に、産んでくれた母親への感謝は言語を絶した。
(このような不幸は、あってはならぬし、このような不幸からは、なんとしても脱さねばならぬ)
彼女の決意は、尋常ではないものであった。
一つ、ある言い伝えが幻想郷の人里には伝えられていた。
聖獣「白澤」の伝説である。
人里からほど近い林の中に、聖獣は住い、陰ながら人間を見守っているというのである。不思議なことに、里からは近いところにありながら、その林には誰も近づくことができないのだとか。
はじめ、彼女はあまりこの話を信じてはいなかった。が、年を経るにしたがって、不思議と人間の近寄らぬ、ある一角のあることに気がつき始めたのだ。そうしてその場所へと行こうと試みるのであるが、そうすると何故か、そうした考えがあったことそのものを忘れてしまうのである。それも、一度や二度ではなかった。どうしたことか、決してたどり着くことができぬ……というよりは、行こうとすることができぬのである。
いよいよ彼女は伝説の真実であることを疑わぬようになったのであった。
この女子は果たして鬼子であったか。
そうであろう。
彼女は何故、「白澤」に会おうと考えたのか。
それは「白澤」の脳を喰らい、人智を超えた存在になろうと思ったからである。
尋常ならざる決意が、「白澤」の神術を打ち破った。
彼女は、林へと到達したのである。
そうしてその場で見たものは、呆けて涎を垂れ流し、腰は砕け、足も立たぬ神獣の姿であった。
梅毒で脳が腐った、母親代わりの女を思い出した。
痛みすらも、感知できぬようであった。
哀れさを誘う、その形の果てに、自然と涙が降った。
しかし、殺すことに躊躇いはなかった。
神獣の脳・肝・血肉を存分に喰らい、骨髄を啜ること五日。
神獣の血を引く、神子が誕生した瞬間である。
彼女は確かに鬼子であったが、それは紙一重で神子でもあったのである。
その容貌は、数え年十の少女だった面影もなく、神々しいまでに壮麗であった。
かつては、人以下の人非人であった少女が、今は人を超えた人非人となったのである。
彼女は人里へと向かった。
正門より里を訪れるのは、これがはじめてである。
有り得ざる神々しさに、人間たちは覚えず跪いて彼女を迎えた。
彼らが見たものは、後光を浴びた神獣の姿だったのである。
里の重鎮、上白沢家に招かれた彼女が人の子らに真っ先に命じたのは、「えながや」の取り壊しと、彼らを市中に受け入れることであった。
人間が人間を虐げるという、最も愚かな行為を、神獣は厳然と許しはしなかったのだ。
だが上白沢家の当主は、低頭してこれを頑なに拒む旨申し立てた。
それを聞いた神獣の怒りは天を衝き、雷鳴が轟き渡った。
神獣の怒りが収まるのは、上白沢家当主が、腹を切って詫びたからである。
その遺骸を見て、神獣は涙を流した。
この人間たちもまた、精一杯の幸福を追求しているだけなのである。それが、人非人を踏み台にせざるを得なかったところに、哀れがあるし、また同時に、罪のない老いた「白澤」を殺して喰らわねばなかった己が身とも重なったのである。
神獣は、その神通力を極限まで開放した。
そうして、その後には、人の子で「えながや」のことを覚えている者も、人非人の存在があったことを覚えている者も、神獣のやってきたことを覚えている者も、一人としていなかったのである。
一夜明けると、上白沢の家の者は騒然とした。
当主が切腹し果て、その前に、まだ十になるか否かという少女が横たわっていたのである。
当主の妻が、少女を起こし、ことの顛末を尋ねた。
少女は答えた。
上白沢家には子がないこと。
人里には守り手が必要であること。
当主はそれらのことを憂え、毎夜神頼みをしていたこと。
その思いを受けて、神獣「白澤」は、当主の命と引き換えに、人と神獣との血を受けつぐ「私」を里に授けたこと。
上白沢の家の者は、皆、低頭してこの神託を授かった。
彼女は、上白沢の妻の養子となり、名を慧音と与えられ、神童として第二の生を食むに至ったのである。
五
上白沢慧音の生い立ちを、レミリア・スカーレットは、ただ平然と聞きとめた。
同情も驚愕も軽蔑なく、ただあるがままを受け入れたのである。
レミリアは、慧音の思いがままに語らせた。
「どうしてその話をしたのか」「それがどう悩みとつながるのか」そんなことを聞くのは、詰まらぬことだ。ただ、語りたいと思ったから語ったのである。それ以上に大事なことがあるだろうか。
慧音は、言葉を続ける。
「不幸な境遇から脱した私は、ただ一心に、使命を果たそうと考えました。不幸を脱した後は、皆を幸福にするより他にはないと思ったのです。また、不幸な人間が生まれないように、努めねばならぬとも思いました。そうした思いから、私は寺子屋をはじめることにしたのです。それがちょうど、永夜異変の少し前のことです。
あの日以降、貧民街のことを覚えている者はいなくなりましたが、依然として彼らは貧しかったですから、何とか貧しさから救ってあげねばならないとも思いました。だから最初は、彼らに学問を教えようと思ったのです。
しかし、彼らよりも先に教えを授けねばならぬ子供たちがいました。まだそれほど貧しくない家庭の子供であっても、学業を修めることができていない者が多くありましたから。また、養母の強い願いとして、家名を汚さぬということがあります。貧しく汚い者たちと交流することは、養母を必ずや悲しませることになりましょう。
結局、人非人としての差別はなくなっても、貧者に対する差別はなくなってはいないのですから、依然として彼らは蔑みの対象になっているのです」
そう言うと、慧音はうつむいて、黙ってしまった。
今、彼女は暗澹たる彼女の過去について語った。
その闇雲が、彼女の心を覆って陰らせてしまったのである。
しかし現在、彼女を悩ませているのは、彼女の「今」についての事柄である。
むしろそれを人に話すことを、慧音は戸惑っているのである。
彼女のそんな心中を、レミリアは看取した。
「ふふふ。そこまで言ったなら、全部喋っちゃいなよ」
レミリアの言葉に、慧音の頬が少し赤くなった。
「里の子供たちに学問を教えるということは、難しいことでした。私には、あの子達が、何故分からないのかが分からぬのです。教わるまでもない当然のことや、僅かに思慮を働かせれば了解されることを、皆、分からぬと教えを請うてくるのです。私はよく、難しいことを言いすぎると言われますが、私には何が難しいのかが分からぬのです。これほど簡易に説明しても、なお難しいのかと、私は数え切れぬほど苦心してまいりました。
しかしそれでも、やはり慣れというものがありますから、私もそれなりに寺子屋の教師を務めることができるようになりました。幸い、里の人々からは感謝され、学びに来る子供も増えてまいりました。そのため、私一人では手が足りなくなり、友人の藤原妹紅に、教鞭を取るよう懇願したのです。
はじめは、彼女も嫌々だったようですが、しかしそれも、本心から嫌ってのことではなく、ただ慣れぬことをするのが嫌であったのと、子供と接することにいまひとつ不安があるからだと、私は見て取りました。内心、彼女は人の役に立ちたいという優しい心持であるということを、私は充分心得ておりました。その見立ては正しく、次第次第に彼女は慣れて、本当に楽しそうに子供たちと接するようになっていくのです。私などより、よっぽど妹紅は教師に向いていたらしく、私も彼女が良い先生として、皆に受け入れられることを喜びました。
そうして、二人の先生のもと、より多くの子供たちが学びの機会を得られるはずでした。
ですが、それが少しばかり、狂ってしまったようなのです」
「狂った?」
「はい。歯車がどうにも、狂ってしまったのです」
そう言うと、慧音は悲しそうにうつむいた。
「妹紅が、私のやり方はよくないと、諫めるようになってきたのです」
「なるほど。でも、それは必ずしも、悪いことではないんじゃない?」
「はい。私も、妹紅の指摘は正しいと思いますし、そうして正直に悪いところを言ってくれる彼女を尊敬しています。そもそも、ずっと私が悩んできた、私の悪いところを、あらためて妹紅は指摘してくれるのですから、彼女に非がないことは明らかなのです。私もそのことをよく心得ていますから、いつも妹紅に謝ります。すると妹紅は、最初のころは、仕方ないとか、私の個性だからとか、そこが長所でもあるのだとか、励ましてくれました。ですが、何度も何度も、同じことを指摘されるにつれて、段々と辛辣になってまいりました。私は独り善がりが過ぎるとか、反省をしないとか、本当は嫌々教師をやっているんじゃないかとか、誠実さが足りないとか……そう言われるようになって、結局は、彼女はもう何も言ってくれないようになりました。もう、私には呆れ果てて、諦めることにするそうです。そういう、妹紅の考えを子供たちも察してのことでしょうか。何だか、私の言うことを、段々と聞いてくれなくなっていきました。また、妹紅先生じゃないのが嫌だというような子供もおりました。悪気なく、本心を子供は語りますから、それがなおのこと悲しくありました」
沈鬱な慧音の表情を見て、レミリアも思わず表情を陰らせた。
「それで、耐えかねて飛び出してしまったというわけね」
「いえ……そうではないのです」
「あら、そうなの?」
「全く違うというわけではないのですが……もう少し、複雑な事情があるのです」
「聞かせてもらえるかしら?」
「……稗田阿求を、ご存知だと思います。彼女も、妹紅が手伝ってくれるようになってほどなく、寺子屋で子供たちを教えてくれるようになりました。子供たちと年が近いことや、なかなか他の子と遊ぶ機会がなかったからでしょうね。彼女もまた、楽しそうに子供たちと接してくれていました。本当に、近しい人の笑顔を見るのは嬉しいものです。私も、その姿を見て心が和やかになりました」
慧音のこの言葉に、レミリアは内心飛び跳ねたいほど嬉しい気持ちがした。何故なら自分のお気に入りが、自分と同じ思想を持つということは、実に心を弾ませるものだからである。
「ですが、彼女が寺子屋を手伝ってくれた理由は、それだけではなかったようなのです」
「というと?」
「……あの、決して他言はしないと約束してくださいますか」
「えぇ、もちろん。神に誓って」
「ふふふ……悪魔が神に誓うのですか?」
「あら、当然よ。私は神の存在を信じているのだもの。ただ私は、神に救済されぬ者たちを哀れに思うの。その者たちに、せめて地上の幸福を与えられるようにと、そう願う気持ちから、私はルシファー様にしたがっているのよ。ルシファー様だって、神に滅ぼされざるを得ない宿命にあることはご存知だわ。だから、神を信じることと、悪魔であることは矛盾しないわ」
「それは、面白い説ですね。でも、なるほど……なんだか、あなたらしい気がします」
「そうかしら? まぁ、何にしても、他言はしないと約束しますわ」
「分かりました。約束してくださいましたから、お話します。実は阿求は、妹紅に憧れていたのです」
「あら、ステキなことね」
「はい。ステキなことです。そうしてまた、当然のことかも知れません。短命にして子を持てぬ定めの女ですもの。男ではなく、女に恋をするのもまた、道理です。そうして、妹紅は中性的な魅力があります。さらには、不老不死です。あるいは、死して分かれた後も、魂ばかりは再会して、永遠をともに築こうと夢見たのかも知れません」
「なるほどね。なかなか、ロマンチックじゃない」
「でも……恋は恐ろしいものです」
「どうして?」
「排他的なものだからです」
そう言うと、慧音はスカートの裾をギュッと掴んで言った。
「阿求は、妹紅と二人でいるとき、私のことを非常に悪く言うのです。それを、私は何度も聞いてしまったのです。それも……阿求は、私に気取られることを知った上で……」
「なるほど。それは辛いわね」
「阿求は哀れな女です。幼い頃から甘やかされることなく育てられ、常に異質な存在として扱われてきました。そのことが、彼女の愛情を、やや捻じ曲げてしまったように思えます。妹紅への恋心が確かなものであるという証明のために、私という近しい存在を排斥するという方法しか思いつかなかったのでしょう」
「自分がただ、思い人一人のためにあるということを証明するために、誰かを排斥する……友情にしても愛情にしても、女にはそういうところがあるわね」
「そうして今日……阿求は、私がいなくなってくれたら良いのにと、そうまで言っておりました」
「それで、飛び出して来たというわけね」
「はい」
話の一部始終を聞き、レミリアは長い長い溜息をついた。
あるいはこの世の終わりとでも言いたいかのような深い溜息である。
するととたんに立ち上がり、声を荒げて言うのであった。
「罪深い! 恋は全く、罪深いわね! あぁ、そうして慧音! 辛かったわね。えぇ、辛かったでしょうね。あなたの話を聞いて、私も胸が詰まる思いがするわ」
「えぇ、確かに辛かったです。でも……ふふふ。おかしいです。そんな仰々しくされるなんて」
「まぁ!? 仰々しくなんてないわよ。これが本当。誇張も何もない、本当の私の反応なのよ」
「えぇ、そうでしょうね。だから、なおさらおかしくて」
「ふむ。そうして笑われるのは少し癪だけど……まぁ、許してあげましょう。あなたは笑っているほうが美しいものね」
レミリアの打ち解けて愛嬌のある様は、長らく人間関係で苦しんでいた慧音の心をどれほど優しく抱擁したことであろうか。慧音の心はもう、何ヶ月も日の光を浴びていないような、薄暗くジメジメした部屋のように病んでいたのだが、そこにレミリアは陽光を差し込んだのである。
慧音は、すっかり元気付けられた。
胸が軽くなって、息をするのが随分と楽になった。
呼吸のたびに、深い溜息が漏れそうになっていたのが嘘のようである。
「でもね、レミリア……いえ、レミリアさん」
「レミリアって呼んでくれなきゃ嫌よ?」
「ふふふ……それじゃ、レミリア。でも、私は、阿求を少しも恨んだり嫌ったりしてはいないのですよ」
「おや、それはどうして!?」
「だって、人間は自分のささやかな幸福のために、誰かを犠牲にしないではいられないじゃありませんか。私だって、そうだったのです。それは、誰かの罪じゃありません。人間は不完全ですから。その不完全さを責めることはできませんもの」
慧音の言葉を聞いて、レミリアは心底感嘆して言った。
「なんとキレイな童貞さんだろうか」
そうして心の中ではこう思った。
(まるで聖母を見ているかのようだ)
そして慧音の言葉に、深く同意するのだった。
「人間の不完全さによる罪は、あの偉大なお父様が、尊い一人子の命を差し出すことによって、償ってくださったものね……それを責めるのは、過ちだわ」
「えぇ。もととなる教えの違いはあっても、思い至ることは同じなのですね」
「そうね。教えの違いなどは、些細なことなのかも知れないわ」
そう言うとレミリアは、おもむろに慧音の近くへよって問いかけた。
「慧音。あなたは幸せかしら?」
慧音は返答に窮した。幸せではない……そう、彼女は思う。だが一方で、幼少の頃の地獄を思い浮かべれば、今の生活は決して不幸とは言えないのである。
「慧音。あなたは一つ、勘違いをしているわ」
「勘違いですか?」
「えぇ、そうよ。幸福は決して不幸とトレードオフの関係にあるとは限らないわ。何も、人を幸福にするために、自分が不幸になる必要も、自分が幸福になるために、人を不幸にする必要もないのよ」
「はい、そうでしょう」
「本当に? あなた、本当のところは、幸福を排他的なものと思っているのではなくて?」
「そんなことは……」
「そんなことは?」
「いえ、そうですね。はい。多分私は、誰かを犠牲にしないと、人は幸福になれないと思っています」
「どうして?」
「私がそうでした。また、多くの人間もそうでした。そうして阿求もそうでしたから。ただ、誰かを十ほど不幸にすることで、自分を百ほど幸福にすることができる……そういうものであるとは思っています」
「なるほどね。それは必ずしも間違った論ではないわ。でもね、幸福は、本質的には、ウィン・ウィンの関係にあるものよ」
「どういう意味ですか?」
「私もあなたも、お互い幸せになれるということよ。そうね、実証してあげましょう」
そう言うと、レミリアはテーブルの上にあるベルを鳴らして従者を呼んだ。
「お呼びでございますか、レミリアお嬢様」
「咲夜、誰でも構わないから、メイドをもう二人ほど呼んで来てちょうだい。そうね、私とあんまり面識のないのが良いわ」
「かしこまりました」
そうして、咲夜は妖精メイドを二人連れて、貴賓室へと入ってきた。
「さて、慧音。私が今から、みんなを幸せにしてあげましょう」
そう言うと、レミリアは眼鏡をかけた妖精メイドの近くへと寄って、彼女に語りかけた。
「あなた、名前は?」
「は、はい!! メ、メアリーです!!」
「よろしい。メアリー。あなたは幸福であることを求めるかしら?」
「はい。求めます……」
「では、どうしたら幸福になれると思うかしら?」
「えっと。私、本が好きなので、本を読むと幸せになれます」
「よろしい。でも、本を読むよりも、もっと幸せになれる方法があるわよ?」
「そうなんですか?」
「教えてあげましょうか?」
「は、はい」
「素直ないい子ね」
そう言うと、レミリアはメアリーの頬に口付けをしたのである。
「っっっっっつ!!」
メアリーの頬は真っ赤に染まった。
慧音は驚いて開いた口が塞がらないでいる。
咲夜は笑みがこぼれるのを抑えるので精一杯である。
もう一人の妖精は、キョロキョロと辺りを見回して狼狽している。
「さて、そこのあなた」
「は、はい!!」
「名前を聞かせてくださるかしら?」
「る、ルーシーです」
「かわいい名前ね」
「ありがとうございます」
「ところで、右と左、どちらが良いかしら?」
「な、何がですか!?」
「決まってるじゃないの!! さぁ、早くしないと……くちびるを奪ってしまうわよ!!」
そうして、ガオーっとポーズをとるレミリアに、ルーシーは顔を真っ赤にして、
「わ、私!! 付き合っている人がいるからダメです!!」
と答えたのであった。
「おや、まぁ!!」
レミリアはルーシーの手を取って言った。
「ここに春の鳥がいる」
そうしてウインクをしながら、「よくやったわ。」と褒めてやったのである。
さらにレミリアは跪き、「それではこればかりお許しあれ。」と、手の甲にキスをしたのであった。
レミリアのお茶目な姿を見て、慧音も咲夜も、妖精メイドも、誰一人として笑みを携えぬものはなかった。レミリアも、楽しげな笑顔を浮かべている。
レミリア・スカーレットは、無上の幸福児である。幸福児は偉大である。幸福児は人を幸せにするから。そうして幸福児の愛は偉大である。その愛こそが、人を幸福にする力となるのだから。
「さて、咲夜。あなたは……なまいきだから、これでお終いね」
レミリアはニヤニヤと笑いながら、咲夜にハグをした。
ハグに少し不満らしく、咲夜が残念そうにくちびるを尖らせると、
「そんなもの惜しそうな顔をしないの。まぁ、また今度、キスしてあげるわ」
そうレミリアが、言葉を投げ掛ける。
そうして、レミリアは、上白沢慧音のほうを向いて問いかけた。
「さて、慧音。どうかしら? 私は今、とても幸せよ。まぁ、好き勝手やらせてもらったものね。でもね、私が幸せなのは、自由に振舞ったからじゃないのよ。
ねぇ、メアリー。あなたは今度から、パチェのところででもお仕事をさせてあげようかしらね。あれも本好きが近くにいると喜ぶからね。で、あなたに問いたいのだけれども。今、幸せかしら?」
「えぇ、幸せです。とても、楽しくて、幸せです」
「まぁ、愉快に笑ってくれるのね。とてもいいわ。私、あなたが気に入ったわ。パチェに掛け合ってあげましょう。で、そこのあなた。春の鳥さん。あなたはもちろん幸せよね?」
「は、はい。とても、幸せです……」
「ステキ!! まぁ、真っ赤にしちゃって、かわいいわね!! その笑顔を見て幸せにならない奴は、馬に蹴られて死ぬしかないわね。あなたのことも気に入ったわ。褒めてあげる。幸せなんだもの。それだけで偉大なことよ。まぁ、嬉しいわね。恋人がいるなんて。若者たちは、もっと恋をしなくてはならないわ。えぇ、それが若者の義務だものね」
そうしてレミリアは咲夜を見て、とびきりのスマイルを送る。
咲夜もそれに、笑顔で答える。
ただそれだけで、もう充分すぎるのであった。
「さて、慧音。私は今、とても幸せよ。それは何故か、分かるかしら?」
「皆が、幸せだから……」
「えぇ、その通りよ。皆が幸せだから、私も幸せなの。誰かの幸せこそが、私を幸せにするのよ。でもね、どうして皆が幸せになったのかしら? それが、分かるかしらね」
「それは……あなたがステキな人だから」
「どういうふうに?」
「陽気で、朗らかで、面白くて……」
「なるほどなるほど。他には?」
「……幸せそうだから」
「そうよ!! いいわね、さすがは先生、賢いわ。褒めてあげる。今度あなたには、折り紙とマジックで作った私の特製ワッペンをプレゼントしてあげるわ。でも、果たしてただ私が幸せだっただけで、皆が幸せになったかしらね。そうではないでしょうね。さぁ、それでは幸せであることに加えて、何が必要なのかしらね。どう? 分かるかしら?」
慧音はレミリアの問いに答えかねた。確かに、ただ幸せであるというだけでは、他者を幸せにすることにはならないハズである。他に何かあるとすれば、それはやはり、このレミリア・スカーレットという、個人の性格だろう。この人物の魅力こそが、他者を引き付け、幸福を伝播させるのだ。
「たぶん……あなたの人格からくる、魅力だと思います」
「残念!! あぁ、残念ながら不正解よ。惜しいわね。特製ワッペンに、特製クッキーもつけてあげようかと思ったのに……惜しいことをしたわね。そうではないのよ、慧音。いいかしら。皆も、心して聞くのよ。幸福を伝播する偉大なるマナ。宇宙を充たすエーテルの如き神聖なる組織液。幸福と幸福の合間にあって幸福を形作る真なる功労者。それは、愛なるかな、よ。そうよ、愛こそが、幸福を人に分け与える必要不可欠のベクトルなのよ。愛を欠いては、幸福を人に分け与えることができないわ。幸福がどれだけ井戸の中に溜め込まれていても、愛という滑車と桶がなければ幸福を人々に分け与えることはできないのよ。分かるかしら? つまりは、愛なるかな、よ。この世で最も偉大なものを二つ挙げろといわれたら、エホバもルシファーも退いて、幸福と愛とが先に出でるのよ。
ところで、慧音。あなたに言っておきたいことがあります。キレイな童貞さん。人里の女神さん。憂いてなおも美しい聖女さん。あなたに私は叱ってやらねばならないようです。あなたは若者の義務というものを心得ていない。生きとし生けるものはみな、その年齢に相応しい義務があるものです。それをあなたは心得ていない。だから私が叱ってあげましょう。四季映姫が何を説教するのか知りませんが、私がもっと大切な説教をしてあげます。
良いですか、若者の義務は恋にあります。少女と少年は恋をせねばなりません。青年になるまで恋をせねばならぬのです。それをあなたはなんですか。恋も知らぬ間に成長して、少女のうちから大人になるとは。子供の義務は遊びにあります。若者の義務は恋にあります。そうして子供を持った後に、大人の義務を果たすのです。それは何故か? 夫婦の間に誕生した、黄金の太陽を幸せにするためです。そこには幸福と愛とがあるからです。それをまぁ、なんということですかね。えぇ、あなたは不幸な身の上ですから、責めたりはしないですけどね、それでも大変な罪人ですよ。愛を知らないのですもの。幸福を知らないのですもの。満足も知らないのですもの。子供は大いに遊ばねばなりません。幸福と満足とを知るために。そうして次第に恋をせねばなりません。愛を知るために。そうして大人になったならば、幸福と満足とを分け与えねばなりません。それが、大人の義務だから。そういうものを全くあなたは了解していない!! あぁ!! なんという無知か!!
でも、許してあげます。あなたは不幸な人だから。そうして立派な人だから。キレイな童貞さんは、この世界で一番尊敬されるべき人です。エホバもルシファーも一目置くわ。だから私も許してあげる。この、紅魔館のネロもまた、ね」
そうして暴君は、童貞の前でかしずいた。
" Do you honor with me tonight? "
慧音は、レミリアが何を言っているのかが分からず、困惑したが、それを見て取った咲夜が、「一緒に踊ってくださいませんか? と誘われているのですよ。」と助言したため、自体を了解したのであった。
「でも、私は西洋の踊りなど全く心得ていませんから……」
「別に、足を踏んでも怒りはしないわよ?」
「そういうわけにも……」
「私の決定に、Noはないのよ?」
レミリアは慧音の腰に手を回して、ステップの説明をはじめた。
横には、妖精メイドの二人が、手本となるようにペアを組んでいる。
「こうまで背丈の違いがあると、ちょっとキツイわね」
「代わりましょうか、お嬢様?」
「冗談」
拙いステップの最中、何度も慧音はレミリアの足を踏むが、レミリアは微塵にも笑みを崩さず、ただただ慧音があわてて謝るばかりである。
そうして、慧音が徐々にダンスに慣れてくると、レミリアは優しく慧音に語り掛けた。
「あなたが辛い過去を背負わざるを得なかったのは、私の責任でもあるのよ」
「え? それは、どういうことですか」
「私たち吸血鬼がこの幻想郷に来たのは、外の世界での居場所を失ったというのも理由としてはあるのだけれども、半ばは私たちが、外の世界に愛想を尽かしたからなのよ。人間どもは、近世になってから、途端に低俗になったわ。表面ばかりを飾り立てて、誰でもおめかしをして、洗い立て、石鹸つけ、拭いをかけ、髭を剃り髪を梳き、靴墨をつけて、てかてかさし、磨き上げ、外部はまぁ、立派に飾り立てて、一点のほこりもつけず、小石のように光らし、用心深く、身奇麗にしているくせに、一方では肥溜め以下の汚物を心の底に持つようになったわ。不潔な純潔とでも呼んでやろうかしら。姦淫を専らにして、矜持を捨て去って、好んで貧乏人らしく装うくせに、生活は貴族そのもので、求めることは乞食同然よ。かつてあった優美さや任侠さ、礼儀正しさに細やかな作法、愉快な贅沢さや痛快な朗らかさがどこにもなくなってしまったわ。それが嫌になって、私たちはこの世界に来たのよ。
でもね、この世界を見て、私たちは愕然としたわ。
ここにメルヘンはなかった。
ここにあるのは、奴隷の世界。封建制の継続だったわ。
私たちは、この地上での幸福もまた、天上の幸福と同じように大切だと思うのよ。だから、私たちは、幸福の薄れた地上を厭い、幻想郷にやって来たわ。人間たちが幸せならば、私たちも幸せなのよ。でも、その幸福が、どうやら神の教えに叛くらしくてね。中々、相容れないわけだけれども。今の幸福よりも大切な秩序があるそうで、それは私たちには同意しかねるのよ。将来の幸福のために、今の幸福が踏み躙られてよいことなんて、あるわけがないのにね。
まぁ、そんなことはいいわ。私が言いたいのはね。あなたたちを解放するためにした戦争だったけれども、敗北してしまって、助けられなかったばかりか、下手をすると、なおさらあなたたちを追い詰めることになったことを、謝りたいと思うの。私たちは、パクス・ヴァンパイア(吸血鬼による平和)を考えたわ。吸血鬼という新しい絶対の力によって、幻想郷の民々を監督するという平和をね。でもそれは、バランス・オブ・パワー(力の均衡)による平和を構想する既存の勢力に敗れてしまったわ。そればかりか、余計な争いがあったために、妖怪に対する人間の恐怖心を煽ってしまったわ。それが、結局、人間による人間の迫害を後押しすることになったことを、私は自責せねばならないのよ……」
上白沢慧音は絶句した。
レミリア・スカーレットの言う様な歴史は、一切語られてこなかったからである。
「でも、私が性急すぎたのは事実ね。どうしても放っておけないという気持ちが強すぎてね。あのような不名誉な現実を前にして何もしないということは、誇り高き我々夜の眷族にとっては、死よりも重いことなのよ。そういう反省もあって、次はソフトパワーによる侵略を試みたわ」
「ソフトパワー?」
「えぇ。紅魔異変により、異変解決に赴いた巫女を退け、紅霧を解く代わりとして、我々の要求を認めさせるという構想よ」
「どういう要求を認めさせようとしたのですか?」
「幻想郷にて執り行われる全ての婚礼の儀は、紅魔館で執り行うという要求よ。私の館の庭で、私の部屋で、新郎新婦が祝福の宴を挙げる……どう? ステキでしょう?」
慧音はまたもや絶句した。まさか、と思い従者を見やるが、その目はイエスを告げていた。
「折角、式を取り仕切るために、妖精たちもたくさん雇ったというのにね」
慧音が妖精たちを見やると、かわいい笑顔でイエスと答えてくれた。
「あの、むきゅむきゅ言うのも説得して、図書館開放計画まで企んでいたのにね」
「月へ侵略したのは?」
「あ、あれはちょっとしたお遊びで……だからパチェも、着いてきてくれなかったのよね」
そういうことも、この人物ならば有り得るだろうと納得してしまうのもまた、人徳の一つだろうか。
(しかし考えようによっては、あの月への侵略があってから、月人たちは医者として、また資産家として、里の発展に寄与すべく動くことが多くなったのも事実ではないだろうか。永夜異変以降、月人たちが里の人間と交流を持つことは徐々に多くなってはいたが、一種のターニングポイントは、月への侵略にあったのではないか。そう考えると、この奔放な女王は、その奔放さが人々を幸福に導くような、そんな運命にあるのだろうか)
慧音がそんなことを考えていると、レミリアがおもむろに一つの提案をする。
「ねぇ、慧音。もしあなたさえ良かったら、紅魔館に来ないかしら? あなたにはもう、充分幸福になる権利があると思うのだけれども」
慧音は一瞬、躊躇した。確かに、この嬉しい暴君の下で生きることができるとすれば、それはどれほど幸福なことであろうか。少なくとも、あの辛く苦しく、また不毛な人間関係に悩む必要はなくなるだろう。
だがしかし、それでも容易に「はい」といえない理由もあった。
第一に、あまりにも急すぎる提案であること。寺子屋を完全に妹紅に託すとしても、それはそれで、やはり段取りというものがあるだろう。
第二に、あまりにも身勝手すぎるということ。寺子屋を辞める理由が、私的なことであるとなっては、世間が決して認めないであろう。
第三に、養母がまだ存命であるということ。養母は阿求や妹紅を、実の娘同然と思ってかわいがっている。慧音のことも、当然娘と思っている。そんな娘同士の争いを見る……つまりは骨肉の争いを見るということは、親にとっては地獄であろう。
だがそれでも、なんと魅力的な提案だろうか。
だからこそ、慧音は何ともいえぬ悲しい瞳でレミリアを見た。
レミリアはその目を見て、全てを悟った。
そうして、この娘を縛るしがらみの強いことを哀れみ、同時に辛い沈黙をせざるを得なくしたことを申し訳なく思った。
後はただ、静かに踊る二人の姿があるのみであった。
六
紅魔館での一夜は、まさに慧音にとっては夢の出来事であった。
翌朝、自宅に帰ると、まずは養母が沈鬱な表情で出迎えた。いっそ、激しく叱責してくれたらと慧音が思わざるを得ないほどに、養母の困惑と葛藤とが垣間見える一時であった。慧音は娘であるが、養子である。そうして、神獣より授けられた子である。平生、誰よりも真面目に務めを果たしている。それ故に、母もどう言葉をかけるべきか分からぬのである。
妹紅はすれ違いざまに、「ちょっと、軽蔑した。」とだけ言った。
何を推測したのかは分からぬが、ただその言葉だけでもう充分辛かった。
阿求が何も知らぬかのように振舞うのは、いつも通りのことである。影であれほど慧音を悪く言いながら、慧音の前では第一の友人であるかのように優しく振舞うのである。
慧音はただ、女子の恐ろしさを思わされるばかりである。
(これが、娑婆苦というものだろうか)
慧音の実感は一入であった。
そんな日々がまた、再開された。
三日も経たぬ間に、あの喜びに満ちた表情でレミリアと踊った一夜はウソのように、暗く沈鬱な表情で、日々を耐え忍んで生きるようになっていた。
一週間後、一日の仕事を終えて部屋に戻ると、机の上に一枚の便箋と小さな紙袋とが置かれていた。中を改めると、レミリア・スカーレットが、お手製のワッペンを、約束どおり届けてくれたのである。その温かみに、慧音は嬉しさのあまり涙した。
二週間ほど経ったとき、養母が病に臥した。もともと、歳から来る体調の悪さを訴えていた養母であるが、ここに来て悪い風邪をこじらせたようである。風邪に万能薬はなく、老いに効く薬を永遠亭の医師は決して処方しない。心細くなった養母の世話をするのは、娘の仕事と決まっているから、慧音が養母の面倒を見た。
ある日、養母の部屋へ行くと、中から話し声が聞こえてくる。それが阿求の声であると分かったとき、どうにも嫌な予感がした。
「実は私は今まで、ご母堂様のことを、本当のお母様と思ってお慕い申し上げてまいりました。稗田の家は、厳しいものですから、幼少の頃から、母に甘えさせてもらった覚えもないのです。どうか、母と思って、私にもお母様のお世話をさせてくださいませ……」
慧音は何も言わず、その場を立ち去った。
阿求の言葉に、偽りがないことは確かである。
だがその言葉が、彼女の考えの全てではないという、ただそれだけのことだと、慧音は理解していた。だからこそ、辛い。いっそ、面と向かって、彼女の考えを言ってくれたら……大事な友人たちのためである。全ての不名誉は慧音が被り、一人退くことも辞さぬというのに。その気持ちを分かってくれる者がいないことに、悲しみの涙が覚えずこぼれた。
その日、レミリアは咲夜を従えて、人里へと来ていた。
あの、キレイな童貞さんは、果たしてうまくやっているだろうかと心配して来たのである。この二週間毎日、レミリアが慧音のことを心配しない日はなかったほどである。
自慢のデビル・イヤーで、上白沢の家を探ってみると、すすり泣く女の声が聞こえてきた。その声が慧音のものであることを知って、レミリアは思わず溜息をついて言った。
「花が泣いている」
レミリアはもう、咲夜の支えなくして立ってはいられなかった。
「あんなキレイな童貞さんが泣いている!! おぉ!! 神はなんと残酷か!!」
そうして咲夜に問いかけた。
「あのように尊敬すべき友人が涙流すのをそのままにしておくことは、私の最大の不名誉です」
「存じております」
「救わなくてはならない」
「存じております」
「でもどうやって」
「妙案がございます」
「あなたにはこれをあげる!!」
レミリアは懐から、折り紙とマジックで作ったお手製の特性ワッペンを取り出して、それを咲夜の胸につけてやった。しかもそれは十回に一度しか作らぬ、ニコニコマークの「う~」ワッペンであった。
しかし咲夜は「う~」ワッペンにも関わらず、何も言わずに、ただレミリアにスマイルを送るばかりである。
「これもあげよう」
それはレミリアお手製のクッキーであって、昨日パチュリーとのお茶の時間に作ったものだが、多く作りすぎてしまったために、道中気立ての良さそうな妖精を見つけた折にはこれをスカウトするために持って来たものであった。
しかしまだ咲夜は何も言わずに、ただレミリアにスマイルを送るばかりである。
これにはレミリアが焦れてしまった。
「どうして何も言ってくれないの?」
「まだ、お約束を果たしていただいておりませんから」
「お約束?」
「二週間前の約束です」
「ふむ……あぁ!! もう、あなたは頭が高いわね!!」
そうレミリアが言うと、咲夜はやわら膝を曲げた。
するとレミリアは、背伸びをして咲夜の頬に口付けをしたのである。
「お教えいたしますわ」
「全く!! クッキーまであげるんじゃなかった」
「一度いただいたものは返さぬ主義ですので」
「早く言ってよ」
「そろそろ、ブリュアン小父様が日本にいらっしゃる頃ではありませんか?」
「それよ!!」
レミリアは咲夜の一言で万事閃いたのである。
「えぇ、そうね。きっと広島までロートレックに描かせた絵を見に来るに違いないわ。そうなると、案内が必要だものね。パチェも連れて行きましょう。アイツがいるとポストが空かないもの。それに、たまには日干ししてやらないと、ダメになっちゃうからね」
そう言うとレミリアは急いで紅魔館へと帰ったのであった。
七
レミリアが紅魔館に帰ると、早速パチュリーに命じて、使い魔を放たせた。近々、日本を訪れる運びとなっている、ブリュアンと連絡を取るためである。
ブリュアンとは、レミリアにとって大恩のある吸血鬼の同胞であり、人間世界にあって吸血鬼やワー・ウルフ、サキュバスなどのコミュニティを結成し、長く治めてきた経緯のある大人物である。彼の魁偉なる容貌は、無二の親友であるロートレックが書き残したものが存在している。黒いマント・真紅のマフラー・つばの広い帽子……一度見れば忘れられない、インパクトのある御仁である。
さて、そのブリュアンであるが、今は世界各地を歴訪することを趣味としており、現在でも人間世界で生活をしている数少ない妖怪の一人である。彼はロートレックに描かせた自分の絵を最大限愛しており、今回日本に来るのは、ひろしま美術館にその習作の一つがあるためである。
さて、そのブリュアンからの返事が、パチュリーが使い魔を放って二週間後に届いた。
その便りは、少なくともレミリアにとっては非常に好都合な内容であった。
まず、確かにブリュアンは近く日本へと来るということ。
そして、ロートレックと日本で落ち合う約束であるということ。ロートレックは魔法使いであり、その魔法は魔力を込めて描いた絵を具現化するという特殊なものであるが、その根底にあるのは精霊魔法であり、彼はパチュリーの母と同じ師の下で学んだ人であり、ほとんどパチュリーにとっては師同然の存在だからである。これで、パチュリーはレミリアの誘いを断ることができなくなってしまったのだ。
最後に、現在ブリュアンは、通称「追う者」で知られる討伐者、ジャバルに狙われているということである。このため、今回の「外出」は長引きそうであり、それは慧音にとある名誉あるポストを与えるというレミリアの計画にとっては良いことなのである。また、美鈴にとっても、多少良い報せだったかも知れない。というのも、「追う者」を退けるために、彼女もまた外界に出ることを許されたのであるから。
ブリュアンからの便りを受け取ると、レミリアは急遽、メイドたちに旅仕度をさせた。
長期に渡って、紅魔館は、その主と側近と参謀とおまけに門番を欠くのである。ただ残されるのは、妖精メイドと図書館の悪戯娘ばかりである。そのような頼りない陣容で、吸血鬼の妹を監督することは、他の勢力にとって望ましいことではないのである。
レミリアは、彼女の去った後の紅魔館を夢想した。
おそらく、陣容はすぐに補充されるだろう。
そういう、運命にあることを、彼女はなんとなく予感しているのだ。
その予感があたることを、彼女は全く疑わないのであった。
八
レミリアとの出会いがあってから二ヶ月ほどが経った。
その日も、上白沢慧音は沈鬱であった。
あの日以来、阿求は養母と誰よりも親しくしている。本当の親子と、皆が見間違えるほどである。養母からしてみると、確かに慧音というよくできた娘を持つことはできたのであるが、あまりにもこの娘はできすぎていて、どこか心安くない存在だったのである。そのことに不満を覚えたことはないが、しかしそれでも、人並みの母親らしく、娘と打ち解けて、楽しくお話などをしたいと思うのは、当然の願いだろう。自分のお下がりを着せてやったり、また新しくかわいい、若い時分にしか着れぬような色合いの服を着ているところを見たりすること……例えそれが、すこしくらいその子に似合っていなくたって、母親のためには、一番の女の子となるのである。
阿求はそんな、母親の平凡な願いを、娘の平凡な願いとして共有できる人であった。
そうして慧音は、母親のその平凡な願いを、己の平凡な願いとしては抱けぬ人であった。
慧音も、養母の気持ちを知らないわけではなかった。また、その気持ちをかなえてやろうとしたこともあった。だが、それは養母に、どこか無理矢理、この養子に来た娘を、従えさせているかのような、申し訳なさを感じさせる結果になったのであった。
慧音の脳裏には、最近、「娑婆苦」の三文字が離れない。
どうしてこうまで、思い悩まねばならぬのだろうか。
どこにも悪人はいない。それどころか、善人ばかりだというのに、人は苦しむのである。それが、「娑婆苦」である。
そんな慧音が夜一人で、レミリアからもらったワッペンを見て、あの、主張と人格と人生とが見事に合致した自由人を思い涙せざるを得なかったのは、けだし当然と言うべきである。仕えるべき正しい主君に仕えることができないというのは、臣民にとっては最大の苦しみであるのだから。
そんなある日寺子屋に、里の者が慧音を呼びにやってきた。
曰く、吸血鬼の令嬢が、彼女を探しているのだという。
慧音は真っ先に、レミリアのことを思い浮かべた。
しかし同時に、レミリアであれば、この寺子屋まで来るだろうとも思った。
やや疑問を感じながら、里の者に案内されるとおりに行くと、そこには、大きな日傘を差して里の外れにある木陰に佇む、三人の少女の姿があった。
少なくともその三人のうち二人には見覚えがあった。
以前、紅魔館を訪れたときに出会った、あの二人の妖精メイドである。
しかしもう一人の少女については、心当たりがなかった。
おそらくは、この女の子が、吸血鬼の令嬢なのであろう。
「私を捜しているというのは、君かな」
慧音がそう尋ねると、少女はもじもじしながら、上目遣いに慧音を見た。
その容貌から、慧音はこの少女が、レミリアの血族であることを看取した。
見事なブロンドと、絵画の世界から飛び出してきたかのような愛くるしい容貌。ただ虹色に輝く羽は、どうにも吸血鬼らしくはなかったが。
「頑張ってください、妹様!!」
「そうですよ、みんなで相談して、妹様がちゃんと説明するって決めたじゃないですか!!」
「うぅ、うぅ、そうだけど……うぅ……」
慧音はさすがに自体を飲み込めず、どうしたものかと悩み始めた。
とりあえず、この女の子が、レミリアの妹である、フランドール・スカーレットであることだけは、確からしい。助け舟を出してあげようか。でも、この子のためには、もうちょっと頑張らせてあげたほうが、良さそうな気もする……そんなふうに考えていると、
「あ、あの!! 上白沢慧音さんですか!!」
ようやく、言葉を発することができたようだ。
「えぇ。私が上白沢慧音です。あなたは、フランドール・スカーレットさんですね」
「はい、そうです」
「今日は、どのようなご用件でいらっしゃったのですか」
「実は、私、あなたにお願いしたいことがあって来たのです」
「なんでしょうか。できるかぎりのことは致しますが」
「その……今、紅魔館が大変なんです」
「大変? それはどういうふうに」
「みんな、いなくなっちゃったんです」
「みんな、というと?」
「レミリアお姉様と、パチェと、咲夜と、あと……あの、中国の……」
「門番の紅美鈴ですね」
「はい。いなくなってしまいました」
「それは大変なことですね……」
「私は連れて行ってくれませんでした」
「おかわいそうに」
「でも、お姉様は、お姉様がいない間は、私に紅魔館を預けると仰いました。とても大切な用事があって、外の世界に行かないといけないのだって」
「外の世界へ?」
「しばらくはお帰りになられないそうです」
「そう……ですか……」
慧音には、フランドールのその言葉が、ほとんど最後通牒のように聞こえた。
もはやあの英邁なる主君は、この幻想郷にいないのである。
「それで、お願いがあるんです」
「あぁ……そうでしたね」
「紅魔館に、来てくださいませんか?」
「それは……致しかねるご相談です」
「え、どうして!!」
「いろいろと、私にも事情がございます」
「でも、でも……私、あなたの助けが必要です。私だけじゃ、紅魔館のみんなを、ちゃんとまとめられないし、守ってあげられないもの。私、全然他の人とお話したことないし、お外に出るのも今日がほとんどはじめてのことなんです。それに、みんなで相談して決めたことです。きっと、慧音さんなら、私たちのことを助けてくれるって。みんな、慧音さんだったら、紅魔館のことをお任せしても大丈夫だって。お姉様も最近ずっと、慧音さんのことを褒めてました。だから、だから……お願いします!! 紅魔館に来てください!!」
そうして、妖精メイドも一緒に、フランドールと頭を下げるのだった。
慧音は少し困ってしまった。
事態が急であることもまた、多少彼女を混乱させた。
しかしその混乱が、彼女の明晰な頭脳を一時停止させ、胸の鼓動と肌の感覚とで全てを知覚する一時をもたらした。それが非常に良かった。というのは、慧音はその胸に差し込む光の一筋を確かに感じることができたからである。
(思えば、果たして私は、こうして私自身の力を請われたことがあったろうか)
上白沢慧音は、正義の人である。正義は非常に激烈なものであり、正義を行うものも、また正義を与えられるものも、往々にして傷つくものである。
彼女は正しい行いをして来た。だがそこに、彼女の救済はなかった。自らの望みではなく、自らの理性と使命感にしたがって、より正しく生きようと努めてきたのが、彼女なのである。そこに人々の感謝がなかったわけではないし、そこに彼女なりの幸福を見出せぬではなかったが、それらは本質的には、彼女の心を揺さぶるものではなかったのである。
今、この目の前にいる、三人のかわいい使者さんたちはどうであろうか。
こうして、未熟で弱く幼い者たちの、懇願を受け入れ、力を貸すということが、上白沢慧音の宿願なのではないだろうか。そこに、上白沢慧音の幸福があるのであり、また同時に、そこにおいて愛も宿るのではなかろうか。
慧音は稲妻のように全身を貫く感動を覚えた。
新たな自己の発見と、価値観の急転とはそのような衝撃をもたらすものである。
「あ、あの!! これ!!」
そう言って、内なる大改革に戸惑っている慧音に、フランドールが渡したのは、一枚の便箋である。
どうやら、レミリア・スカーレットから、慧音に当てた手紙らしい。
親愛なる上白沢慧音へ
このたび、非常に大切ないくつかの理由により、外界へと赴くことになりました。
そこで、人妖との間に永久の平和が保たれんことを願って止まぬ幻想郷の名士諸氏の切なる思いを慮り、残しおきます我が妹と紅魔館の面々と幻想郷との変わらぬ関係が維持されるよう、後任の紅魔館当主、フランドール・スカーレットの監督役に、あなたをご推薦申し上げます。
なお、既に八雲紫からは、このことに異議なき由を確認しておりますれば、あなたがこの栄誉ある任命を速やかにお受けなされることと存じております。
それでは、ご壮健あれ。
あなたの友なる暴君 レミリア・スカーレット
上白沢慧音は、はじめそこに書いている言葉の意味を了解しなかった。ようやく三度読んで、どういうことかを理解したのであった。つまり何かというと、全てがうまく収まるべきところに収まったのである。寺子屋の慧音先生は、紅魔館当主の推薦から、八雲紫の承認を受け、幻想郷の大勢力である諸氏の期待に応えるべく、紅魔館にて妹様の監督をすることになったのである。
つまり、言い換えると、止むを得ない重要な事情のために、急遽上白沢慧音は、寺子屋を友人の藤原妹紅に託し、紅魔館へと栄誉ある任務を遂行するために向かわねばならなくなったのである。
そうして、なおも言えば、その任務とは、真に上白沢慧音が望んだ仕事であり、幸福があり、愛情を覚える、そういうものだったのである。
上白沢慧音は、そのことを了解すると、その場で跪き、フランドール・スカーレットを優しく抱擁すると、その頬に口付けをしたのであった。
しかしカリスマ吸血鬼とマジメ坊の組み合わせとは新鮮だ
それにしても何故ブリュアン……しかも吸血鬼だと……
読んでてムズムズした~ 30過ぎの汚れたオッサンには恥ずかしい内容だww
ミュージカルみたいだった
あえて欲を出させて貰えれば、これほど設定もしっかりしていて面白いのだから、もっと大風呂敷でもいけるんじゃないかなと。脇役ながら阿求や妹紅、フランも立っていたし。
読んでいる間、出演者が舞台で演じているような光景が浮かんでいました。
ただ、癖が強い文なので人は選びそうですね。
蛇足になるのは承知の上で続きが知りたい作品。
とても素晴らしかったです
いいよなあ。古臭いのだろうけど、こういうお嬢様は格好いい。
テーマも素晴らしいですね。
ぜひ続きを。
こんなに苦悩するけーねは初めて見たかもしれません。
相対幸福論的なレミィの考え方も独特にわがままでよかった。
ほんだら次は、愛とは何たるや、について考えないといかんくなるんだよなあ。
やっぱりどうしても、完全には合致しない展開があったように思う。
だけど、この完成度は凄まじいと思いました。すんげぇ文章だ、オラびっくらこいたぁ。
どうせここまで派手に踊るなら、他の題材を取り入れても面白かったかもしれない。
読んでいる途中に、レゾンデートルとか運命論とかその辺なんかに派生するのを期待したのも確か。
誤字報告。
>パワー・オブ・バランス
凍れる音楽って奴ですね、これが、まさに!
文体、言葉選びがドツボでした
一概にミュージカルというより、シェイクスピアのような古典演劇的な印象を受けました。言葉の選び方や、流れるようなテンポは本当に舌を巻きます。小難しいの抜きで、単純に、スゲー!と思いました(笑)
ただ、妹紅と慧音の関係性が大好きなあたしとしては、慧音の苦悩や苦痛を教育論の相違から省みなくなる妹紅に強烈な違和感も覚えました。自身と子ども達を結びつけた最大の理解者の苦悩を理解出来ずに攻撃してしまう妹紅の幸福ってなんだろうって逆に思ってしまいます。彼女もまた、過ちに気付いて親友と再びわかり会える幸せが欲しいなぁと。そして、愛を一方的に伝えるしか出来ない健気で愚かな阿求もまた、救いが欲しかったかなぁと。
作者さんの力量がある分、ついつい高望みしてしまいます。これからも期待しております!
あまり読んだことのないタイプの文体ですが、読み進めるうちにしっくりときました。
これで十分なような続きも読んでみたいような、不思議な心持です。
個人的にはこの後なんだかんだで慧音と妹紅と阿求が和解してある程度収まるところに収まる話とか見てみたいなぁと思ったりしました。(もちろん、またしてもお嬢様の奔放な振る舞いで)
ちょっと無粋かもしれないけど、この後の話が知りたくなりました
良い作品をありがとうございました
ただ奇抜なだけでなくタイトルにあるとおり幸福論というテーマについてぶれることなく書かれていると思います。
読んでいて書き手がしっかりとテーマと伝えたいことをもって書いたことが感じられました。
慧音先生の生い立ち、レミリアのキャラクター、阿求の悪女ぶりなど思い切った設定でしたが、各人物のバックボーンの部分まで描写されているため不自然な感じはなく、むしろ斬新なものとして楽しめました。
キレイな童貞さんという言葉を作品で使い切ったことは凄いと思います。
面白い作品をありがとうございます。
厳しいかもしれないが、ぜひ続きを読んでみたい
またの機会があれば続きが読みたいですね。
慧音先生光を受けて輝け
こいつぁbigなentertainmentだ!
この作品のレミリアと慧音はもっと読みたい。
すごく面白かったです。
是非とも続きが読みたいですね。
レミリアの異変に対する解釈も目から鱗です。
頑張っている人が救われる話はいつ見ても心が洗われるようだ。
ミュージカルのような言い回し、独特な文章。
創想話ではあまり見ないSSでした。素晴らしいと思います。
ああなんと美しい小説か!
自由とは、そういう事だ!
知っていないといけない処世術や人生の様々な戦いに勝つために必須のモノ
という意味もあると思いました。慧音先生もそれを知らないばかりに
本当に奇跡的に手に入れた大事な居場所なのに負けて失いそうになってましたし、
実はシビアで残酷なことかもしれないですね。
この話も愛を知っているが故、狡猾なレミリアが愛を知らない慧音に
営業をかけて見事商談を成立させたようにも見えなくもない
色々ハンディキャップがあるこの慧音先生がどのように救われるか(?)
気になりますねw正直ここまで感情移入出来たのは久しぶりです
舞台の台本っぽい。
暴君の所にネロってルビをふっても違和感がない事に今気付いた
妹紅も阿求もひどいです。
二人共、慧音の身になってほしいです。(ブチギレ状態)