子供は嫌いだ。
花を毟り、踏み散らし、それがさも当然のように、自らに与えられた権利だと言わんばかりに暴虐の限りを尽くす。ただ己の正しさを信じて疑わず、他者の倫理に容易く踏み込み、それを犯す。
彼らには生命の定義すらない。その手で奪った命にさえ、悼むことなどしようともしない。その所業はまさしく、自覚さえない暴君そのものだ。
だから彼女は――風見幽香は、子供が嫌いだ。
長い間、気の遠くなるほど永い間、そう思い続けてきた。
■ ■ ■
風見幽香の朝は早い。
目覚め、着替えると、朝食など摂ることもなく家の外に出る。小奇麗ながらも小さい小屋の外に広がるのは、彼女自慢の広大な畑だ。
太陽の畑と呼ばれるその場所は、実のところ幽香にとって唯一の住処ではない。だが、彼女が行き来する土地の中でも最も肥沃にして広大、夏には一面に背の高い向日葵が咲き乱れる。それ以外の季節でも、総じて草花に困らないことから、一番のお気に入りと言っていい場所だ。
今の季節は、向日葵の居並ぶ夏。まだ低い大陽は、それでも眼光鋭く熱波を降らせるが、幽香はそれに顔を顰めることもない。青々と茂り、また燦々と黄色の花を咲かせる向日葵を見やるその表情は、むしろ涼しげでさえあった。
歩を進める彼女の手には、人里で仕入れた如雨露が握られている。砂粒に削られた細やかな傷こそ見られるものの、きちんと汚れの落とされており、大事に使いこまれているのが一見して分かる。
どこから持ってきたのか、大瓶になみなみと蓄えられた水を汲み上げて、幽香は植物たちのもとへと歩み寄った。
「もう随分大きくなったわね……」
愉しげに呟きながら、背丈より高く伸びた向日葵たちにそっと手を伸ばす。
気のせいか、幽香が触れた瞬間に、茎が小さくしなったように見える。まるで幽香の言葉に首肯するかのようだ。
「ええ。今日も沢山育ちなさい」
幽香もまた、気を良くしたように言うと、手にした如雨露を傾けた。今しがた触れた向日葵の足元から順に、土に水を注いでいく。水を得た向日葵たちが、風もないのにそれぞれその葉を揺らし、さわ、と葉擦れの音を鳴らした。
次第に陽が高く昇っていく中、幽香は幾度も如雨露に水を足しながら、向日葵たちに水を撒いていく。と、そんなとき不意に、頭上を影が過った。
映ったのは一対の翼。だがその大きさは、断じて鳥のものではない。影の正体を察し、直前まで柔らかかった幽香の表情が一瞬で陰り、褪める。
向き直るまでもなく、幽香から十歩ほど距離をとった位置に、その影の主が降り立った。ふわりと着地した少女の背には、羽虫のような形をした羽が在った。蒼穹を思わせる青のワンピースと、髪の緑とのコントラストが映える黄色のリボン。足元は丸みを帯びたローファーで固めている。
髪を揺らして顔を上げた少女の面持ちは、どこか緊張しているかのように固かった。
「あ、あのっ、おはようございますっ!」
やはり緊張した声でぺこりとお辞儀をしながら、少女はそう挨拶した。小さな体躯と幼い面貌は、人間で言えば十かそこらにしか見えない。
妖精。
幽香の最も忌み嫌う、永遠に厚顔無恥な『子供』の体現。その出現に、幽香が漂わせる険呑な気配が、隠そうともせず牙を剥いた。
とはいえ、何も子供が全て、無条件に暴虐無人だとは幽香も思っていない。幼いうちから気性も大人しく、生きたままの花を愛でる子供もいよう――最も、そういう輩であっても、無自覚に花を傷つけることも多々あるのだが。
だからこそ、彼女がしたことはただの威嚇だ。草花に害を為さず、ただ見物だけして帰るというのなら、花々を晒すことも吝かではない。そう思っていた脳裏をしかし、とある記憶がちらりと過る。
「……あれ、貴女、以前にも見たことあるかしら」
感情に乏しい声で幽香が呟いた途端、妖精の肩がびくんと跳ねた。その怯えきった仕草と表情に、幽香はようやく思い出す。
つい先日、唐突に現れ、そして幾多の植物を氷漬けにしていった妖精――確かチルノとかいったか――それに付き従っていたのが、今目の前にいる彼女ではなかったか。
気づいた瞬間、思考を染め上げたのは、冷徹さと怒りの熱が曖昧に混ざりあった色。褪せた表情からは更に色彩が抜け落ち、虚無のような瞳が妖精を捉えた。
「そう。死にに来たの」
ぼそりと呟いた声に込められていたのは、混じり気のない殺気。しかもそれは、藪蚊か何かを鬱陶しがる程度の、まるで気負いのない殺意だ。それをはっきりと肌で感じ、妖精はさらに身を縮こまらせながら、
「ぁぅ……こ、この間はごめんなさいっ!!」
がたがたと震え、目からは大粒の涙を際限なく流しながらも、妖精は幼い声を張り上げた。上がりかかった幽香の手が止まる。
「本当は止めなくちゃいけなかったのに、でも私、できなくて……それでお花を凍らせちゃって……!」
口腔に貼りつきそうになる舌を必死で動かして、妖精は切れ切れに言葉を紡いだ。
「だから……許してください、なんて言えないけど……ごめんなさい!」
半ば叫ぶように言うと、少女は深く頭を下げて動きを止めた。ただでさえ小さい身体をさらに小さくする少女の姿を、幽香はしばしぼんやりと眺め続ける。
が、やがて興醒めと言わんばかりに嘆息し、妖精の少女に声を投げた。
「……そんなことを言うために、わざわざこんなところまで来たの?」
口調は変わらず平坦なまま、それでもそこに内在する感情に気づいたのだろう。少女は泣き腫らした顔を輝かせ、言葉も忘れて幽香の顔を見つめた。
どことなく、居心地の悪さを覚える幽香。
「どうなの?」
それを誤魔化すように少しだけ語気を強める幽香に、妖精はしかし、もう怖がる様子はなかった。それでも、それとは違った理由で答えづらいのか、少女は口ごもって視線を揺らした。
「えっと……実は前に来たときに、ここの向日葵、とっても綺麗だなぁって思って」
「……それで?」
幽香が言葉少なに促す。妖精はなおも数度視線を彷徨わせ、そしてその後にもう一度頭を下げながら、
「だから、ここの向日葵を一輪、いただけませんか?」
そう、上目遣いに問いかけた。先に流した涙が乾き切らぬその瞳を、幽香は無言のままに見据え、微動だにしない。
彼女の無反応をどう捉えたか、妖精は両手を胸の前で組みつつ、一歩前へ踏み出し言い募る。
「あの、家の前の土は耕しましたし、人里で肥料だって分けてもらいましたし! 絶対に枯らしたりしませんから……だから――」
「絶対に?」
妖精の吐いた言葉の一部に、無意識に零れた言葉。そんな己の反応に、幽香自身が小さく驚いていた。
意図しなかった言葉は相変わらず感情など含んでいないかのように響き、しかし幽香だけは気づいていた。自らの口を言葉とともに突いて出た、予期しなかったほどの暗い――形の掴めない情念に。
おうむ返しの幽香に、妖精はこくこくと何度も頷き、熱の籠った表情で幽香の無表情を見つめ返した。そのあわただしい表情の変化は、なるほどやはり子供らしい。
「はい、絶対です」
固く拳を握りしめ、語るのは決して叶わぬ願い。その不可能に気づかぬ無知も、やはり子供のものだ。
だが、只の無知ならば別に苛立ちなど覚えない。まだ微笑ましく見ていられる。無謀な目標を掲げることはある種、今後の糧になるものだ。子供の行為の中でも、それは幽香が有意義と認める数少ないものの一つだった。
「そんなに言うならいいわ。一輪、差し上げましょう」
だというのに、この胸を満たす感情は何なのか。
怒りと呼ぶほど強くもない。憎しみと呼ぶほど暗くもない。強いて近い物を挙げるのならば、それは苛立ちに似ていた。
しかもその切っ先が捉えていたのは幽香自身。その意味を、彼女は己のことにも関わらず、まるで汲み取ることができなかった。
「けれど、絶対に枯らしては駄目よ」
意志とは正反対にそんな言葉を紡ぐ自分に、心の内に苦渋が広がる。やり場のないどす黒い感情の矛先が、その瞬間、僅かに自分に傷をつけた。
じわりと、膿むような痛みを胸中に感じながら、それでも幽香の顔には、虚飾の薄笑みが張り付いたままだった。そんな彼女に、妖精は何も知らぬまま嬉しそうに幾度も首肯する。
「任せてください。ずっと咲かせ続けてみせますから!」
「そう。楽しみね」
相槌とともに、幽香は傍らの向日葵、その一輪の茎にそっと触れた。次いで、茎を持ち上げると、果たして根の一本たりとも千切れることなく、向日葵は大地に別れを告げる。摩訶不思議な光景に、少女が目を丸くした。
「どうぞ。大きいけれど大丈夫かしら?」
差し出された向日葵の茎を、少女は両手で握りながら頷く。
とはいえ、幽香の身の丈すら優に超すほどである。妖精にとっては、最早己の丈に倍する大きさだ。遥か頭上に咲いた花を見上げながらそれを支える足元は、どこか頼りない。
「わ、わ、ありがとうございます」
それでも、彼女はふわりと宙に浮き上がり、もう一度茎を持ち直した。根を擦る心配がなくなり、幾分バランスがとりやすくなった少女は、ようやく満面の笑みを幽香へと向けた。
「この子、大事にしますね! 今度見に来てください」
「ええ、そうさせて貰うわ」
次第に遠ざかりながら声を張り上げる妖精に、幽香は手を振って見送りながら言葉を返した。妖精はそのまま、何度もお辞儀をして去っていく。
そしてその姿が完全に見えなくなってから、彼女はおもむろに重い吐息をついた。
「……なんで、あんなこと……」
苦々しく吐き捨てても、疑問は解けない。幽香は未だ疼く胸を押さえながら、一人頭を掻きむしった。
結果など見え透いている。それでは嗜虐心さえ満たせないのに。自分のたった今の行いに、彼女自身こそが何の意味も見出せないというのに。ただ無為に、向日葵を一輪枯らしにいかせてしまっただけだというのに。
一体何故、彼女に向日葵をあげてしまったのだろう。
「………………」
黙し、立ち尽くしても、やはり答えは見つからない。
そんな彼女を気遣うように、向日葵たちが静かに葉擦れを響かせた。
■ ■ ■
その後、妖精は甲斐甲斐しく向日葵の世話をし続けた。時折幽香が彼女の家に足を運ぶたび、黄色の花は彼女を出迎えた。
なるほど意気込んでいた通り、きちんと育て方は分かっているらしい。だがそれでも、季節が流れるとともに植物は次第に老い、枯れていく。その摂理には逆らえない。じきにこの花も見られなくなるだろう。
そう思っていたからこそ――そしてそれが当然だからこそ、幽香の感じる違和感は、向日葵のもとへ出向くごとに強くなっていった。
一月。二月。とうに枯れていて当たり前の時間が過ぎても、向日葵は一向に枯れる気配がなかった。夏が終わり、吹き込む風に冷たさが混じっても、燦々と照る太陽のような花を誇らしげに掲げる向日葵。その異常さに、幽香の背を得も言われる悪寒が走る。
「……ねぇ、一つ聞いてもいいかしら?」
「え、なんですか?」
胸中を押し殺して問いかける幽香に、妖精は対照的に明るい笑顔で首を傾げる。ソーサーに載せたティーカップを、彼女は危なげない所作で幽香の前に置いた。中でたゆたう琥珀色の紅茶が、芳しい香りを立ち上らせる。
妖精の家は、霧の湖に程近い小屋だ。こざっぱりした室内は、幽香の家よりもさらに一段小さいものの、どこか似通った雰囲気を醸し出している。そこに据えられた小さなテーブルを挟むようにして、妖精は幽香の対面に腰を降ろした。
それを待って、幽香は言葉を継ぐ。
「どうしてあの向日葵は枯れないのかしら? 普通なら、もうとっくに力尽きている時期だけれど」
そう言って、幽香は手にしたカップを傾けた。広がる紅茶の香りにも、胸に漂う違和感は和らぐこともない。
妖精に注がれる幽香の視線。問われた少女は、えへへ、とはにかんで頬を掻いた。照れくさそうでありつつも、それ以上に誇らしげな微笑みを見せて、妖精はゆっくりと口を開く。
そして、答えを放った。
「実は私たち妖精って、自分たちが生きるための――っていうか、何て言うのかな……存在するための力みたいなのを、まわりの自然から貰ってるんです。自然に生かされている、って感じなんですけど」
嬉しそうな声でそう語る少女。だが、その顔を見つめる幽香の表情が急速に冷えていることに、彼女は気づかなかった。
「だから、それを向日葵さんに分けて……あ、もちろんちゃんとお水や肥料もあげてますよ? あとそれから――」
「もういいわ」
少女の言葉を遮った幽香の声には、明確な敵意が込められていた。凛と叩きつけられた静かな怒声に、妖精の肩が跳ね上がった。
音を立てずに立ち上がり、幽香は身を竦めた妖精を冷然と見下ろし、告げる。
「だからあの向日葵は、あんなに醜いのね。見ていられないわ」
「……待ってください」
その時、少女が固い声を絞り出した。彼女も椅子から立ち上がると、下から幽香の双眸をキッと睨みつける。
押し潰すような幽香の眼光を、しかし少女は一歩も退かずに受け止めた。初日に見た怯えが、今この時に至って、一欠片たりとも見受けられない。そのことに、幽香は驚愕を禁じえなかった。
「醜いってどういうことですか? 枯れないように色々頑張って、ちゃんと今でもお花は綺麗に咲いてて、それで見ていられないってどういうことですか?」
口調こそ穏やかだが、その瞳が湛える怒りは、幽香の視線を押し返して余りある。幼くか弱い体躯から立ち上る気配は、整然と澄み、ぴたりと少女の影に寄り添ったまま解けない。
強く制御された、子供らしからぬ「冷静な」怒りだ。だが結局その本質は、何も理解できていない幼さの具現でしかない。一時感じた驚愕をおくびにも出さず、幽香の表情は小揺るぎもしなかった。
「貴女、植物を何だと思っているの?」
幽香の浴びせかけた声は、芯から凍えるほどに冷たい。
「種から生まれ、育ち、生きて死ぬ。そして新たに種を残して次代へ繋ぐ。それが自然なことくらい、貴女だって分かっているでしょう?」
「っ……!」
「貴女はそれを愚弄する気? その当然の摂理を。他でもない、「自然に生かされている」貴女が」
突きつけられた指摘が、妖精の身体をぐらりと揺らす。それでも彼女の瞳は、力を失うことなく幽香を睨みつけ続けていた。
「本来なら眠りについているべき花を、貴女は今、無理矢理永らえさせている。でもそれは生きているんじゃないわ。あれは向日葵じゃない――ただその形を保っただけの、屍よ」
わなわなと震える右手を左手で掴み、胸元で握りしめたまま、彼女は精一杯の気力を振り絞って言葉を紡ぐ。
「……それでも、私はあの向日葵を枯らしたくありません……!」
発した声は、決して曲がらぬ意志をその骨子に秘めていた。涙こそ滲ませながらも、弱みや泣き言を零すこともなく、毅然と幽香を睨む妖精の姿に、幽香は深く嘆息した。
「絶対に、枯らしたくありません」
「……分かったわ」
「帰ってください、すみませんけど」
「言われなくても、二度と来ることはないわ。あんなにも痛ましいものを、わざわざ見物にする趣味はないから」
二度目を告げる少女の姿を、幽香はつまらなそうに窺って踵を返した。
叶わぬ願いを毅然と言い放った少女に憐れみを。
その願いが孕む、生命への冒涜に怒りを。
そんな願いを課した己に苛立ちを覚えて、彼女は妖精の家を後にする。扉を開け放ち外へ踏み出すと、振り返ることもなく後ろ手に戸を閉めた。
「…………っ」
地を蹴って飛び立とうとした瞬間、視界の端に黄色の花が留まった。狙ったように幽香の方を向いた向日葵の色が、まるで彼女を咎めるかのように映えていた。
無論、錯覚でしかない。そのはずなのに、幽香はしばし飛び立つことも忘れて凍りついた。夏の残り香を漂わせる、日輪のような花との対面。その刹那に等しい時間が、幽香ただ一人の意識の中でのみ、恐ろしく引き伸ばされて流れゆく。
結局、屈したのは向日葵だったのか、幽香だったのか。
「……ふん……」
短く不機嫌に鼻を鳴らして、彼女は今度こそ宙に舞い上がる。その身体が弾かれたように、己の家――太陽の畑の方角へと飛び去っていく。
瑞々しい黄色だけが、その影を寂しげに見送った。
■ ■ ■
再開は、思いの外早かった。妖精の家での騒動から、僅か四日後だ。
幽香が出向いたわけではない。以前と変わらず太陽の畑に留まっていた彼女の元に、妖精の方から訪ねてきたのだ。
その目を泣き腫らし、枯れた向日葵を手にして。
「…………」
「ぐずっ……ご、ごめ……幽香さん、ごめ、なさい……」
無言のまま、暗澹と見下ろす幽香に、少女はしゃくりをあげながら、ぽつりぽつりと零すように言った。
「この子、枯れちゃった……」
少女が肩を揺すると、干からびた葉がかさりと音を立てる。そんな何でもない音が、酷く物悲しく響いた。耳にした妖精が、さらに慟哭を漏らす。
「……それが自然なことだって、教えたでしょう」
「でも……ぇぐっ、だって……」
涙で顔をぐしゃぐしゃに歪めて、悲しみに全身を震わせながら、彼女はなおも手の中の向日葵を――その亡骸を放そうとはしなかった。
何度も何度も、えずくように浅い吐息を零して、少女は必死に幽香を見上げて言う。
「だって、約束、したのにッ……」
「貴女……」
「絶対枯らさないって……約束したのに……っ」
その言葉が、鋭く幽香の心を穿った。
あれほどの決別を果たして、それでも彼女は、始まりの約束を覚えて、守ろうとしていたのだ。
幽香自身が無理だと否定した約束を。決して果たせるはずのない約束を。彼女はその小さな一身に背負って、そして守れなかった。
「……諦めていなかったのね」
半ば無意識に、幽香の手が伸びる。とめどなく流れ続ける涙の一片をそっと拭って、少女の肌に触れる。涙で濡れそぼった肌はしかし、どこか乾いて張りがなく、やつれているような印象を与えた。
「こんなになるまで、その子に「生きる力」を分けていたの?」
問い糺すような一言に、少女は頷こうとしたのか、それとも違うのか、ただ頭をふらりと揺らして応える。
「ずっと一緒にいたかったんです……いつまでも、枯らさず、一緒に……」
「どうして、そんなに拘ったの?」
うわごとのように呟く少女の髪を、幽香は優しく撫でる。
こんな結末は――多少なりの差異こそあれども――初めから予想がついていた。それは幽香が望んだことではなく、しかし間違いなく彼女が招いたことだ。
あの日、あんな無茶なことを言わなければ。あの場で「枯らさないことなど不可能だ」と諭していれば、避けられたはずのことなのに。
幽香の問いに、妖精は長い間を空けて答えた。
「友達みたいだったから……です」
それは、幽香にとってあまりにも想定外の答えだった。思わず彼女は目を丸くする。だが妖精はそんな彼女の反応が解せないとばかりに、小首を傾げて続けた。
「最初に「欲しいな」って思ったのは、綺麗だったからです。でも、家に帰って土に植えて、毎日お世話をしてたら、なんだかこの子が友達みたいに思えて……だから、ずっと一緒にいたいじゃないですか。友達だったら、当たり前のことじゃないですか」
「友達……この花が……?」
呆然と繰り返す幽香の言葉を、妖精ははっきりと頷き肯定した。それでもまだ、幽香はぽかんとしたまま少女を見つめ続ける。
一向に表情を動かさない幽香を見て、やがて妖精はその背と羽を萎めた。
「やっぱり、変ですか……?」
そう、小さくなりながら問いかける。
そんな少女の頭を、幽香は改めてそっと撫で、囁いた。
「そうね……貴女の想いは、確かにとても尊いものだわ。けれど、友達になることと、ずっと一緒にいることは違うわね」
彼女自身は気づいていただろうか。その顔に薄く浮かんだ、慈母のような微笑の存在に。
「植物も妖精も、妖怪も人も皆、違う生き物なの。違うからこそ互いの差異を識り、それぞれの歩み寄りの中で一番いい関わり方を模索していく。命の長さの違いも含めてね」
「うぅ……?」
「植物と、貴女たち妖精や私たち妖怪が、ずっと一緒にいることは不可能よ。だから有限の時間の中で、そのことときちんと向き合った上で、接してあげなければならないわ。いつかこの子たちが枯れてしまうその日までに、どんな時間を過ごしていくのか、精一杯考えて、ね」
滔々と語りかける幽香に、少女は眉根を寄せながら首を傾げ、短く唸り声を上げた。右へ傾けた頭を、やがて左へ、そのまま傾きを大きくしていく。
「……よく分かりません」
やがて、妖精が折れた。上目遣いに解答を催促する少女を、幽香はクスリと笑って見下ろす。少しだけ少女の頬が膨らんだ。
「植物と友達になるのが悪いとは言わないけど、枯れてしまうのは仕方ないと諦めなさい、ということよ」
「…………はぃ……」
如何にも不服、というよりは落ち込んだ様子で、妖精は肩を落とした。
感情を隠そうともしないその反応に、幽香は苦笑とは違う、小さな笑みを零す。間を取るように少女の髪に指を滑らせて、幽香が続きを告げた。
「けれどもし、どうしてもずっと一緒にいたいと言うのなら――こういう花を選びなさい」
と、不意に差し出された幽香の手に握られたものに、妖精は思わず目を瞬いた。あるはずのないその姿が、丸い瞳に映り込む。
燦々と照る向日葵が、そこにあった。
「え……え、幽香さん!? これって……!」
泡を喰って、幽香の顔を手の中を交互に見やる妖精を窘めるように、幽香は彼女のおでこを押し返しながら答える。
「造花よ。作りものの花。形を模しただけで、本物の向日葵ではないわ」
聞いた瞬間、妖精が目をきょとん、と丸めた。おずおずと手を伸ばし、葉に触れると、確かにその表面は乾いた繊維質だ。
いずれ彼女がやってくる日を見越し、その時見せるであろう表情を思って用意した代物だ。果たして期待通りの反応に幽香は内心愉しげに笑いながら、造花を前に幾つもの疑問符を浮かべる少女を見やった。見慣れないのだろう、造花に触れようとする手つきは、おっかなびっくりといった様だった。
「どうぞ」
そう言って造花の向日葵を押しつけると、妖精は慌てて両手で茎を掴み、抱えるようにしながらしげしげと見入った。
見れば見るほどに、やはりそれは生きた向日葵とは違って見える。表皮の色艶や、花びらの細やかな凹凸など、探せば幾らでも差異は見つかった。
それでも、鮮やかな黄色に映える花、その湛える輝きは、本物と変わらない眩さを感じさせた。
「確かにその子は植物ではないわ。けれど、間違いなくその子もまた、一輪の花なのよ。分かるかしら?」
諭すように語りかける幽香の言葉に、妖精は真摯に聞き入っていた。しばらく考え込む彼女だったが、やがて小さく頷き、
「何となく、ですけど……この向日葵、綺麗だなって思えます。ここに咲いていた子たちとは違う感じですけど」
答え、向日葵の造花をその腕に掻き抱いた。目を細めて、愛おしげに黄色の花びらを見つめる妖精。
幽香は少女を無言で見守る。そんな中、不意に少女が視線を上げた。花を抱えたまま、下から見上げるように幽香を見つめるその瞳は、宝石のように輝いていた。
思わず、幽香が片眉を跳ねさせる。
「あのっ、幽香さん」
まるで、初めて彼女が一人でここを訪れたときのように、弾む声で尋ねかける少女に、幽香は僅かに首を傾げて続きを促す。
彼女の反応に、少女は嬉しそうに肩を揺すって幽香の目を深く覗きこみ――
そして、その満面に、溢れんばかりの花を咲かせた。
「私、お花のこと、もっと沢山教えて欲しいです!」
破顔したその表情から零れる、花弁のような光。刹那視界に映り込んだその光景に、幽香は我知らず息を呑んだ。
そんなことなど露知らず、妖精はなおも笑顔で言い募る。
「分かったんです。お花のことは大好きで、詳しいつもりでもいたけど、でも本当は全然知らないことがいっぱいあるんだって。もっともっと、知らなきゃいけないことがあるんだって、幽香さんのおかげで分かりました」
「え……と……」
「だから、教えてください。この子みたいな、枯れない花のことも。ここに咲いてる、生きて枯れていく花のことも。もっと沢山、教えてください!」
戸惑う幽香の手を一方的に掬って、妖精は眩い笑みで頼みこんだ。その髪が、リボンが、陽光の下でさらりと揺れる。向日葵の造花が、彼女の腕の中で揺れる。
(ああ、何だ、そういう……)
今さらながらに、幽香は何故自分があの日、彼女に向日葵を渡したのか気がついた。それに、思わず微かな自嘲が胸中を過る。
何ということはない。ただ彼女は見たかったのだ。少女の望みに応えた瞬間に見られるその笑顔が――子供だけが見せる、純然たる笑顔が。忌むべきはずの子供の笑顔に、それでも期待を抱いて、花を渡した。その結果少女に訪れる結末が、少女の笑顔を曇らせると知っていても――否、だからこそそれを言い訳にして、幽香は少女の笑みにかけた期待を『是』としたのか。
そこに在るのは明白な矛盾。苛立ちもするはずだ。そんな矛盾を、幽香は見え透いた嘘を以て、自らに無理矢理受け入れさせたのだから。
「ふ……」
最初から認める以外の道はなかったのだ。子供という存在をどれほど忌んでも、その笑顔だけは望んでやまなかったことを。何故ならそれが、酷く美しく、尊いものであることを彼女は知っていたのだから。
それもまた綺麗な『花』であることを、彼女は知っていたのだから。
「……ふっ……ふふ」
前触れもなく、ゆっくりと笑い声を漏らし始めた幽香に、妖精が少しだけ不安そうに表情を曇らせた。そんな彼女に手を伸ばし、幽香は改めて少女の緑の髪を撫でながら、
「貴女、少しだけ向日葵に似てるわね」
微笑みながら囁いた幽香の言葉の意味を、少女はしばし理解できずに首を傾げた。が、遅れてはっと気づき、彼女は髪をサイドテールに束ねるリボンに触れる。
黄色のリボンと緑の髪の対比が陽光に映える様は、確かに向日葵を思わせた。初めて受ける例えに、妖精はどこか恥ずかしそうにはにかんだ。
「えへへ……ちょっと嬉しいです」
相好を崩して背の羽を羽ばたかせる少女を優しげに見やり、幽香は細い吐息を漏らす。あれほど嫌っていたはずの『子供』という存在と戯れる時間に感じる安らぎに、違和感と同じほどに愉しさを抱きながら、彼女は妖精に問いかけた。
「そういえば、ずっと聞いてなかったわね。貴女、名前は?」
すると、少女は意外そうに目をぱちりと瞬き、
「え、ありませんよ? みんなは「大妖精」とか、「大ちゃん」って呼びますけど、名前は特にないです」
「あら、そうだったの」
幽香もまた、得られた返答に軽く驚きを見せた。それなりに大きな力を持つ妖精なのだから、名前くらいは持っているかと思ったのだが。
だが、幽香はすぐに笑みを取り戻し、今度は髪のリボンの方に触れつつ、からかうような口調で囁きかける。
「それなら、「向日葵の妖精さん」なんてどうかしら? 似合うと思うのだけど」
「そ、それはちょっと恥ずかしいから遠慮したいです……」
目を伏せて口ごもるように応える大妖精だったが、それでも桃色に上気した頬は嬉しげだ。クスリと笑うと、幽香は「そうそう」と呟きながら、大妖精のおでこを軽く押して顔を上向ける。
「? 何ですか?」
「きちんと答えていなかったでしょう? 貴女の申し出に」
肩を竦める幽香に、大妖精は対照的に肩をぴくりと跳ねさせた。
「いいわよ。花のことを知りたいのなら、何だって教えてあげる。それで貴女が、次こそきちんと花と向きあうことができるのなら、ね」
「はい、そのために知りたいんです!」
大妖精が、再び花開くような笑顔を見せて言った。彼女の笑みに呼応するかのように、向日葵の造花が微風に踊る。
眼前に咲く二輪の花に笑みかけて、幽香は片手を差し出した。
「なら、まずはここの花から見てみましょうか。今の時期はそこまで沢山咲いているわけではないけれど」
ダンスにでも誘うような、そんな幽香の声。大妖精はそれに、己の幼い手を幽香の手に重ねて彼女を見上げ――
「――はいっ」
向日葵の笑みで頷いて、その足を踏み出した。
■ ■ ■
子供は嫌いだ。
花を毟り、踏み散らし、それがさも当然のように、自らに与えられた権利だと言わんばかりに暴虐の限りを尽くす。ただ己の正しさを信じて疑わず、他者の倫理に容易く踏み込み、それを犯す。
ただひたすらに無知であり、その無知を既知に変えんがために、無自覚なままに多くを切り捨てる。己の無知の深さを知らぬが故に、その行為が伴う破壊の程を弁えない。
だが、その無知故にこそ、誰よりも物事に真摯に向き合うこともまた、ある。そんな時に子供が見せる表情は、どんな花よりも美しくて――故に、憎み切れない。
だから、風見幽香は子供が嫌いだ。
憎むこともなく、怨むこともなく。好く想いと同じほどに深く――ただ、嫌いなだけだ。
花を毟り、踏み散らし、それがさも当然のように、自らに与えられた権利だと言わんばかりに暴虐の限りを尽くす。ただ己の正しさを信じて疑わず、他者の倫理に容易く踏み込み、それを犯す。
彼らには生命の定義すらない。その手で奪った命にさえ、悼むことなどしようともしない。その所業はまさしく、自覚さえない暴君そのものだ。
だから彼女は――風見幽香は、子供が嫌いだ。
長い間、気の遠くなるほど永い間、そう思い続けてきた。
■ ■ ■
風見幽香の朝は早い。
目覚め、着替えると、朝食など摂ることもなく家の外に出る。小奇麗ながらも小さい小屋の外に広がるのは、彼女自慢の広大な畑だ。
太陽の畑と呼ばれるその場所は、実のところ幽香にとって唯一の住処ではない。だが、彼女が行き来する土地の中でも最も肥沃にして広大、夏には一面に背の高い向日葵が咲き乱れる。それ以外の季節でも、総じて草花に困らないことから、一番のお気に入りと言っていい場所だ。
今の季節は、向日葵の居並ぶ夏。まだ低い大陽は、それでも眼光鋭く熱波を降らせるが、幽香はそれに顔を顰めることもない。青々と茂り、また燦々と黄色の花を咲かせる向日葵を見やるその表情は、むしろ涼しげでさえあった。
歩を進める彼女の手には、人里で仕入れた如雨露が握られている。砂粒に削られた細やかな傷こそ見られるものの、きちんと汚れの落とされており、大事に使いこまれているのが一見して分かる。
どこから持ってきたのか、大瓶になみなみと蓄えられた水を汲み上げて、幽香は植物たちのもとへと歩み寄った。
「もう随分大きくなったわね……」
愉しげに呟きながら、背丈より高く伸びた向日葵たちにそっと手を伸ばす。
気のせいか、幽香が触れた瞬間に、茎が小さくしなったように見える。まるで幽香の言葉に首肯するかのようだ。
「ええ。今日も沢山育ちなさい」
幽香もまた、気を良くしたように言うと、手にした如雨露を傾けた。今しがた触れた向日葵の足元から順に、土に水を注いでいく。水を得た向日葵たちが、風もないのにそれぞれその葉を揺らし、さわ、と葉擦れの音を鳴らした。
次第に陽が高く昇っていく中、幽香は幾度も如雨露に水を足しながら、向日葵たちに水を撒いていく。と、そんなとき不意に、頭上を影が過った。
映ったのは一対の翼。だがその大きさは、断じて鳥のものではない。影の正体を察し、直前まで柔らかかった幽香の表情が一瞬で陰り、褪める。
向き直るまでもなく、幽香から十歩ほど距離をとった位置に、その影の主が降り立った。ふわりと着地した少女の背には、羽虫のような形をした羽が在った。蒼穹を思わせる青のワンピースと、髪の緑とのコントラストが映える黄色のリボン。足元は丸みを帯びたローファーで固めている。
髪を揺らして顔を上げた少女の面持ちは、どこか緊張しているかのように固かった。
「あ、あのっ、おはようございますっ!」
やはり緊張した声でぺこりとお辞儀をしながら、少女はそう挨拶した。小さな体躯と幼い面貌は、人間で言えば十かそこらにしか見えない。
妖精。
幽香の最も忌み嫌う、永遠に厚顔無恥な『子供』の体現。その出現に、幽香が漂わせる険呑な気配が、隠そうともせず牙を剥いた。
とはいえ、何も子供が全て、無条件に暴虐無人だとは幽香も思っていない。幼いうちから気性も大人しく、生きたままの花を愛でる子供もいよう――最も、そういう輩であっても、無自覚に花を傷つけることも多々あるのだが。
だからこそ、彼女がしたことはただの威嚇だ。草花に害を為さず、ただ見物だけして帰るというのなら、花々を晒すことも吝かではない。そう思っていた脳裏をしかし、とある記憶がちらりと過る。
「……あれ、貴女、以前にも見たことあるかしら」
感情に乏しい声で幽香が呟いた途端、妖精の肩がびくんと跳ねた。その怯えきった仕草と表情に、幽香はようやく思い出す。
つい先日、唐突に現れ、そして幾多の植物を氷漬けにしていった妖精――確かチルノとかいったか――それに付き従っていたのが、今目の前にいる彼女ではなかったか。
気づいた瞬間、思考を染め上げたのは、冷徹さと怒りの熱が曖昧に混ざりあった色。褪せた表情からは更に色彩が抜け落ち、虚無のような瞳が妖精を捉えた。
「そう。死にに来たの」
ぼそりと呟いた声に込められていたのは、混じり気のない殺気。しかもそれは、藪蚊か何かを鬱陶しがる程度の、まるで気負いのない殺意だ。それをはっきりと肌で感じ、妖精はさらに身を縮こまらせながら、
「ぁぅ……こ、この間はごめんなさいっ!!」
がたがたと震え、目からは大粒の涙を際限なく流しながらも、妖精は幼い声を張り上げた。上がりかかった幽香の手が止まる。
「本当は止めなくちゃいけなかったのに、でも私、できなくて……それでお花を凍らせちゃって……!」
口腔に貼りつきそうになる舌を必死で動かして、妖精は切れ切れに言葉を紡いだ。
「だから……許してください、なんて言えないけど……ごめんなさい!」
半ば叫ぶように言うと、少女は深く頭を下げて動きを止めた。ただでさえ小さい身体をさらに小さくする少女の姿を、幽香はしばしぼんやりと眺め続ける。
が、やがて興醒めと言わんばかりに嘆息し、妖精の少女に声を投げた。
「……そんなことを言うために、わざわざこんなところまで来たの?」
口調は変わらず平坦なまま、それでもそこに内在する感情に気づいたのだろう。少女は泣き腫らした顔を輝かせ、言葉も忘れて幽香の顔を見つめた。
どことなく、居心地の悪さを覚える幽香。
「どうなの?」
それを誤魔化すように少しだけ語気を強める幽香に、妖精はしかし、もう怖がる様子はなかった。それでも、それとは違った理由で答えづらいのか、少女は口ごもって視線を揺らした。
「えっと……実は前に来たときに、ここの向日葵、とっても綺麗だなぁって思って」
「……それで?」
幽香が言葉少なに促す。妖精はなおも数度視線を彷徨わせ、そしてその後にもう一度頭を下げながら、
「だから、ここの向日葵を一輪、いただけませんか?」
そう、上目遣いに問いかけた。先に流した涙が乾き切らぬその瞳を、幽香は無言のままに見据え、微動だにしない。
彼女の無反応をどう捉えたか、妖精は両手を胸の前で組みつつ、一歩前へ踏み出し言い募る。
「あの、家の前の土は耕しましたし、人里で肥料だって分けてもらいましたし! 絶対に枯らしたりしませんから……だから――」
「絶対に?」
妖精の吐いた言葉の一部に、無意識に零れた言葉。そんな己の反応に、幽香自身が小さく驚いていた。
意図しなかった言葉は相変わらず感情など含んでいないかのように響き、しかし幽香だけは気づいていた。自らの口を言葉とともに突いて出た、予期しなかったほどの暗い――形の掴めない情念に。
おうむ返しの幽香に、妖精はこくこくと何度も頷き、熱の籠った表情で幽香の無表情を見つめ返した。そのあわただしい表情の変化は、なるほどやはり子供らしい。
「はい、絶対です」
固く拳を握りしめ、語るのは決して叶わぬ願い。その不可能に気づかぬ無知も、やはり子供のものだ。
だが、只の無知ならば別に苛立ちなど覚えない。まだ微笑ましく見ていられる。無謀な目標を掲げることはある種、今後の糧になるものだ。子供の行為の中でも、それは幽香が有意義と認める数少ないものの一つだった。
「そんなに言うならいいわ。一輪、差し上げましょう」
だというのに、この胸を満たす感情は何なのか。
怒りと呼ぶほど強くもない。憎しみと呼ぶほど暗くもない。強いて近い物を挙げるのならば、それは苛立ちに似ていた。
しかもその切っ先が捉えていたのは幽香自身。その意味を、彼女は己のことにも関わらず、まるで汲み取ることができなかった。
「けれど、絶対に枯らしては駄目よ」
意志とは正反対にそんな言葉を紡ぐ自分に、心の内に苦渋が広がる。やり場のないどす黒い感情の矛先が、その瞬間、僅かに自分に傷をつけた。
じわりと、膿むような痛みを胸中に感じながら、それでも幽香の顔には、虚飾の薄笑みが張り付いたままだった。そんな彼女に、妖精は何も知らぬまま嬉しそうに幾度も首肯する。
「任せてください。ずっと咲かせ続けてみせますから!」
「そう。楽しみね」
相槌とともに、幽香は傍らの向日葵、その一輪の茎にそっと触れた。次いで、茎を持ち上げると、果たして根の一本たりとも千切れることなく、向日葵は大地に別れを告げる。摩訶不思議な光景に、少女が目を丸くした。
「どうぞ。大きいけれど大丈夫かしら?」
差し出された向日葵の茎を、少女は両手で握りながら頷く。
とはいえ、幽香の身の丈すら優に超すほどである。妖精にとっては、最早己の丈に倍する大きさだ。遥か頭上に咲いた花を見上げながらそれを支える足元は、どこか頼りない。
「わ、わ、ありがとうございます」
それでも、彼女はふわりと宙に浮き上がり、もう一度茎を持ち直した。根を擦る心配がなくなり、幾分バランスがとりやすくなった少女は、ようやく満面の笑みを幽香へと向けた。
「この子、大事にしますね! 今度見に来てください」
「ええ、そうさせて貰うわ」
次第に遠ざかりながら声を張り上げる妖精に、幽香は手を振って見送りながら言葉を返した。妖精はそのまま、何度もお辞儀をして去っていく。
そしてその姿が完全に見えなくなってから、彼女はおもむろに重い吐息をついた。
「……なんで、あんなこと……」
苦々しく吐き捨てても、疑問は解けない。幽香は未だ疼く胸を押さえながら、一人頭を掻きむしった。
結果など見え透いている。それでは嗜虐心さえ満たせないのに。自分のたった今の行いに、彼女自身こそが何の意味も見出せないというのに。ただ無為に、向日葵を一輪枯らしにいかせてしまっただけだというのに。
一体何故、彼女に向日葵をあげてしまったのだろう。
「………………」
黙し、立ち尽くしても、やはり答えは見つからない。
そんな彼女を気遣うように、向日葵たちが静かに葉擦れを響かせた。
■ ■ ■
その後、妖精は甲斐甲斐しく向日葵の世話をし続けた。時折幽香が彼女の家に足を運ぶたび、黄色の花は彼女を出迎えた。
なるほど意気込んでいた通り、きちんと育て方は分かっているらしい。だがそれでも、季節が流れるとともに植物は次第に老い、枯れていく。その摂理には逆らえない。じきにこの花も見られなくなるだろう。
そう思っていたからこそ――そしてそれが当然だからこそ、幽香の感じる違和感は、向日葵のもとへ出向くごとに強くなっていった。
一月。二月。とうに枯れていて当たり前の時間が過ぎても、向日葵は一向に枯れる気配がなかった。夏が終わり、吹き込む風に冷たさが混じっても、燦々と照る太陽のような花を誇らしげに掲げる向日葵。その異常さに、幽香の背を得も言われる悪寒が走る。
「……ねぇ、一つ聞いてもいいかしら?」
「え、なんですか?」
胸中を押し殺して問いかける幽香に、妖精は対照的に明るい笑顔で首を傾げる。ソーサーに載せたティーカップを、彼女は危なげない所作で幽香の前に置いた。中でたゆたう琥珀色の紅茶が、芳しい香りを立ち上らせる。
妖精の家は、霧の湖に程近い小屋だ。こざっぱりした室内は、幽香の家よりもさらに一段小さいものの、どこか似通った雰囲気を醸し出している。そこに据えられた小さなテーブルを挟むようにして、妖精は幽香の対面に腰を降ろした。
それを待って、幽香は言葉を継ぐ。
「どうしてあの向日葵は枯れないのかしら? 普通なら、もうとっくに力尽きている時期だけれど」
そう言って、幽香は手にしたカップを傾けた。広がる紅茶の香りにも、胸に漂う違和感は和らぐこともない。
妖精に注がれる幽香の視線。問われた少女は、えへへ、とはにかんで頬を掻いた。照れくさそうでありつつも、それ以上に誇らしげな微笑みを見せて、妖精はゆっくりと口を開く。
そして、答えを放った。
「実は私たち妖精って、自分たちが生きるための――っていうか、何て言うのかな……存在するための力みたいなのを、まわりの自然から貰ってるんです。自然に生かされている、って感じなんですけど」
嬉しそうな声でそう語る少女。だが、その顔を見つめる幽香の表情が急速に冷えていることに、彼女は気づかなかった。
「だから、それを向日葵さんに分けて……あ、もちろんちゃんとお水や肥料もあげてますよ? あとそれから――」
「もういいわ」
少女の言葉を遮った幽香の声には、明確な敵意が込められていた。凛と叩きつけられた静かな怒声に、妖精の肩が跳ね上がった。
音を立てずに立ち上がり、幽香は身を竦めた妖精を冷然と見下ろし、告げる。
「だからあの向日葵は、あんなに醜いのね。見ていられないわ」
「……待ってください」
その時、少女が固い声を絞り出した。彼女も椅子から立ち上がると、下から幽香の双眸をキッと睨みつける。
押し潰すような幽香の眼光を、しかし少女は一歩も退かずに受け止めた。初日に見た怯えが、今この時に至って、一欠片たりとも見受けられない。そのことに、幽香は驚愕を禁じえなかった。
「醜いってどういうことですか? 枯れないように色々頑張って、ちゃんと今でもお花は綺麗に咲いてて、それで見ていられないってどういうことですか?」
口調こそ穏やかだが、その瞳が湛える怒りは、幽香の視線を押し返して余りある。幼くか弱い体躯から立ち上る気配は、整然と澄み、ぴたりと少女の影に寄り添ったまま解けない。
強く制御された、子供らしからぬ「冷静な」怒りだ。だが結局その本質は、何も理解できていない幼さの具現でしかない。一時感じた驚愕をおくびにも出さず、幽香の表情は小揺るぎもしなかった。
「貴女、植物を何だと思っているの?」
幽香の浴びせかけた声は、芯から凍えるほどに冷たい。
「種から生まれ、育ち、生きて死ぬ。そして新たに種を残して次代へ繋ぐ。それが自然なことくらい、貴女だって分かっているでしょう?」
「っ……!」
「貴女はそれを愚弄する気? その当然の摂理を。他でもない、「自然に生かされている」貴女が」
突きつけられた指摘が、妖精の身体をぐらりと揺らす。それでも彼女の瞳は、力を失うことなく幽香を睨みつけ続けていた。
「本来なら眠りについているべき花を、貴女は今、無理矢理永らえさせている。でもそれは生きているんじゃないわ。あれは向日葵じゃない――ただその形を保っただけの、屍よ」
わなわなと震える右手を左手で掴み、胸元で握りしめたまま、彼女は精一杯の気力を振り絞って言葉を紡ぐ。
「……それでも、私はあの向日葵を枯らしたくありません……!」
発した声は、決して曲がらぬ意志をその骨子に秘めていた。涙こそ滲ませながらも、弱みや泣き言を零すこともなく、毅然と幽香を睨む妖精の姿に、幽香は深く嘆息した。
「絶対に、枯らしたくありません」
「……分かったわ」
「帰ってください、すみませんけど」
「言われなくても、二度と来ることはないわ。あんなにも痛ましいものを、わざわざ見物にする趣味はないから」
二度目を告げる少女の姿を、幽香はつまらなそうに窺って踵を返した。
叶わぬ願いを毅然と言い放った少女に憐れみを。
その願いが孕む、生命への冒涜に怒りを。
そんな願いを課した己に苛立ちを覚えて、彼女は妖精の家を後にする。扉を開け放ち外へ踏み出すと、振り返ることもなく後ろ手に戸を閉めた。
「…………っ」
地を蹴って飛び立とうとした瞬間、視界の端に黄色の花が留まった。狙ったように幽香の方を向いた向日葵の色が、まるで彼女を咎めるかのように映えていた。
無論、錯覚でしかない。そのはずなのに、幽香はしばし飛び立つことも忘れて凍りついた。夏の残り香を漂わせる、日輪のような花との対面。その刹那に等しい時間が、幽香ただ一人の意識の中でのみ、恐ろしく引き伸ばされて流れゆく。
結局、屈したのは向日葵だったのか、幽香だったのか。
「……ふん……」
短く不機嫌に鼻を鳴らして、彼女は今度こそ宙に舞い上がる。その身体が弾かれたように、己の家――太陽の畑の方角へと飛び去っていく。
瑞々しい黄色だけが、その影を寂しげに見送った。
■ ■ ■
再開は、思いの外早かった。妖精の家での騒動から、僅か四日後だ。
幽香が出向いたわけではない。以前と変わらず太陽の畑に留まっていた彼女の元に、妖精の方から訪ねてきたのだ。
その目を泣き腫らし、枯れた向日葵を手にして。
「…………」
「ぐずっ……ご、ごめ……幽香さん、ごめ、なさい……」
無言のまま、暗澹と見下ろす幽香に、少女はしゃくりをあげながら、ぽつりぽつりと零すように言った。
「この子、枯れちゃった……」
少女が肩を揺すると、干からびた葉がかさりと音を立てる。そんな何でもない音が、酷く物悲しく響いた。耳にした妖精が、さらに慟哭を漏らす。
「……それが自然なことだって、教えたでしょう」
「でも……ぇぐっ、だって……」
涙で顔をぐしゃぐしゃに歪めて、悲しみに全身を震わせながら、彼女はなおも手の中の向日葵を――その亡骸を放そうとはしなかった。
何度も何度も、えずくように浅い吐息を零して、少女は必死に幽香を見上げて言う。
「だって、約束、したのにッ……」
「貴女……」
「絶対枯らさないって……約束したのに……っ」
その言葉が、鋭く幽香の心を穿った。
あれほどの決別を果たして、それでも彼女は、始まりの約束を覚えて、守ろうとしていたのだ。
幽香自身が無理だと否定した約束を。決して果たせるはずのない約束を。彼女はその小さな一身に背負って、そして守れなかった。
「……諦めていなかったのね」
半ば無意識に、幽香の手が伸びる。とめどなく流れ続ける涙の一片をそっと拭って、少女の肌に触れる。涙で濡れそぼった肌はしかし、どこか乾いて張りがなく、やつれているような印象を与えた。
「こんなになるまで、その子に「生きる力」を分けていたの?」
問い糺すような一言に、少女は頷こうとしたのか、それとも違うのか、ただ頭をふらりと揺らして応える。
「ずっと一緒にいたかったんです……いつまでも、枯らさず、一緒に……」
「どうして、そんなに拘ったの?」
うわごとのように呟く少女の髪を、幽香は優しく撫でる。
こんな結末は――多少なりの差異こそあれども――初めから予想がついていた。それは幽香が望んだことではなく、しかし間違いなく彼女が招いたことだ。
あの日、あんな無茶なことを言わなければ。あの場で「枯らさないことなど不可能だ」と諭していれば、避けられたはずのことなのに。
幽香の問いに、妖精は長い間を空けて答えた。
「友達みたいだったから……です」
それは、幽香にとってあまりにも想定外の答えだった。思わず彼女は目を丸くする。だが妖精はそんな彼女の反応が解せないとばかりに、小首を傾げて続けた。
「最初に「欲しいな」って思ったのは、綺麗だったからです。でも、家に帰って土に植えて、毎日お世話をしてたら、なんだかこの子が友達みたいに思えて……だから、ずっと一緒にいたいじゃないですか。友達だったら、当たり前のことじゃないですか」
「友達……この花が……?」
呆然と繰り返す幽香の言葉を、妖精ははっきりと頷き肯定した。それでもまだ、幽香はぽかんとしたまま少女を見つめ続ける。
一向に表情を動かさない幽香を見て、やがて妖精はその背と羽を萎めた。
「やっぱり、変ですか……?」
そう、小さくなりながら問いかける。
そんな少女の頭を、幽香は改めてそっと撫で、囁いた。
「そうね……貴女の想いは、確かにとても尊いものだわ。けれど、友達になることと、ずっと一緒にいることは違うわね」
彼女自身は気づいていただろうか。その顔に薄く浮かんだ、慈母のような微笑の存在に。
「植物も妖精も、妖怪も人も皆、違う生き物なの。違うからこそ互いの差異を識り、それぞれの歩み寄りの中で一番いい関わり方を模索していく。命の長さの違いも含めてね」
「うぅ……?」
「植物と、貴女たち妖精や私たち妖怪が、ずっと一緒にいることは不可能よ。だから有限の時間の中で、そのことときちんと向き合った上で、接してあげなければならないわ。いつかこの子たちが枯れてしまうその日までに、どんな時間を過ごしていくのか、精一杯考えて、ね」
滔々と語りかける幽香に、少女は眉根を寄せながら首を傾げ、短く唸り声を上げた。右へ傾けた頭を、やがて左へ、そのまま傾きを大きくしていく。
「……よく分かりません」
やがて、妖精が折れた。上目遣いに解答を催促する少女を、幽香はクスリと笑って見下ろす。少しだけ少女の頬が膨らんだ。
「植物と友達になるのが悪いとは言わないけど、枯れてしまうのは仕方ないと諦めなさい、ということよ」
「…………はぃ……」
如何にも不服、というよりは落ち込んだ様子で、妖精は肩を落とした。
感情を隠そうともしないその反応に、幽香は苦笑とは違う、小さな笑みを零す。間を取るように少女の髪に指を滑らせて、幽香が続きを告げた。
「けれどもし、どうしてもずっと一緒にいたいと言うのなら――こういう花を選びなさい」
と、不意に差し出された幽香の手に握られたものに、妖精は思わず目を瞬いた。あるはずのないその姿が、丸い瞳に映り込む。
燦々と照る向日葵が、そこにあった。
「え……え、幽香さん!? これって……!」
泡を喰って、幽香の顔を手の中を交互に見やる妖精を窘めるように、幽香は彼女のおでこを押し返しながら答える。
「造花よ。作りものの花。形を模しただけで、本物の向日葵ではないわ」
聞いた瞬間、妖精が目をきょとん、と丸めた。おずおずと手を伸ばし、葉に触れると、確かにその表面は乾いた繊維質だ。
いずれ彼女がやってくる日を見越し、その時見せるであろう表情を思って用意した代物だ。果たして期待通りの反応に幽香は内心愉しげに笑いながら、造花を前に幾つもの疑問符を浮かべる少女を見やった。見慣れないのだろう、造花に触れようとする手つきは、おっかなびっくりといった様だった。
「どうぞ」
そう言って造花の向日葵を押しつけると、妖精は慌てて両手で茎を掴み、抱えるようにしながらしげしげと見入った。
見れば見るほどに、やはりそれは生きた向日葵とは違って見える。表皮の色艶や、花びらの細やかな凹凸など、探せば幾らでも差異は見つかった。
それでも、鮮やかな黄色に映える花、その湛える輝きは、本物と変わらない眩さを感じさせた。
「確かにその子は植物ではないわ。けれど、間違いなくその子もまた、一輪の花なのよ。分かるかしら?」
諭すように語りかける幽香の言葉に、妖精は真摯に聞き入っていた。しばらく考え込む彼女だったが、やがて小さく頷き、
「何となく、ですけど……この向日葵、綺麗だなって思えます。ここに咲いていた子たちとは違う感じですけど」
答え、向日葵の造花をその腕に掻き抱いた。目を細めて、愛おしげに黄色の花びらを見つめる妖精。
幽香は少女を無言で見守る。そんな中、不意に少女が視線を上げた。花を抱えたまま、下から見上げるように幽香を見つめるその瞳は、宝石のように輝いていた。
思わず、幽香が片眉を跳ねさせる。
「あのっ、幽香さん」
まるで、初めて彼女が一人でここを訪れたときのように、弾む声で尋ねかける少女に、幽香は僅かに首を傾げて続きを促す。
彼女の反応に、少女は嬉しそうに肩を揺すって幽香の目を深く覗きこみ――
そして、その満面に、溢れんばかりの花を咲かせた。
「私、お花のこと、もっと沢山教えて欲しいです!」
破顔したその表情から零れる、花弁のような光。刹那視界に映り込んだその光景に、幽香は我知らず息を呑んだ。
そんなことなど露知らず、妖精はなおも笑顔で言い募る。
「分かったんです。お花のことは大好きで、詳しいつもりでもいたけど、でも本当は全然知らないことがいっぱいあるんだって。もっともっと、知らなきゃいけないことがあるんだって、幽香さんのおかげで分かりました」
「え……と……」
「だから、教えてください。この子みたいな、枯れない花のことも。ここに咲いてる、生きて枯れていく花のことも。もっと沢山、教えてください!」
戸惑う幽香の手を一方的に掬って、妖精は眩い笑みで頼みこんだ。その髪が、リボンが、陽光の下でさらりと揺れる。向日葵の造花が、彼女の腕の中で揺れる。
(ああ、何だ、そういう……)
今さらながらに、幽香は何故自分があの日、彼女に向日葵を渡したのか気がついた。それに、思わず微かな自嘲が胸中を過る。
何ということはない。ただ彼女は見たかったのだ。少女の望みに応えた瞬間に見られるその笑顔が――子供だけが見せる、純然たる笑顔が。忌むべきはずの子供の笑顔に、それでも期待を抱いて、花を渡した。その結果少女に訪れる結末が、少女の笑顔を曇らせると知っていても――否、だからこそそれを言い訳にして、幽香は少女の笑みにかけた期待を『是』としたのか。
そこに在るのは明白な矛盾。苛立ちもするはずだ。そんな矛盾を、幽香は見え透いた嘘を以て、自らに無理矢理受け入れさせたのだから。
「ふ……」
最初から認める以外の道はなかったのだ。子供という存在をどれほど忌んでも、その笑顔だけは望んでやまなかったことを。何故ならそれが、酷く美しく、尊いものであることを彼女は知っていたのだから。
それもまた綺麗な『花』であることを、彼女は知っていたのだから。
「……ふっ……ふふ」
前触れもなく、ゆっくりと笑い声を漏らし始めた幽香に、妖精が少しだけ不安そうに表情を曇らせた。そんな彼女に手を伸ばし、幽香は改めて少女の緑の髪を撫でながら、
「貴女、少しだけ向日葵に似てるわね」
微笑みながら囁いた幽香の言葉の意味を、少女はしばし理解できずに首を傾げた。が、遅れてはっと気づき、彼女は髪をサイドテールに束ねるリボンに触れる。
黄色のリボンと緑の髪の対比が陽光に映える様は、確かに向日葵を思わせた。初めて受ける例えに、妖精はどこか恥ずかしそうにはにかんだ。
「えへへ……ちょっと嬉しいです」
相好を崩して背の羽を羽ばたかせる少女を優しげに見やり、幽香は細い吐息を漏らす。あれほど嫌っていたはずの『子供』という存在と戯れる時間に感じる安らぎに、違和感と同じほどに愉しさを抱きながら、彼女は妖精に問いかけた。
「そういえば、ずっと聞いてなかったわね。貴女、名前は?」
すると、少女は意外そうに目をぱちりと瞬き、
「え、ありませんよ? みんなは「大妖精」とか、「大ちゃん」って呼びますけど、名前は特にないです」
「あら、そうだったの」
幽香もまた、得られた返答に軽く驚きを見せた。それなりに大きな力を持つ妖精なのだから、名前くらいは持っているかと思ったのだが。
だが、幽香はすぐに笑みを取り戻し、今度は髪のリボンの方に触れつつ、からかうような口調で囁きかける。
「それなら、「向日葵の妖精さん」なんてどうかしら? 似合うと思うのだけど」
「そ、それはちょっと恥ずかしいから遠慮したいです……」
目を伏せて口ごもるように応える大妖精だったが、それでも桃色に上気した頬は嬉しげだ。クスリと笑うと、幽香は「そうそう」と呟きながら、大妖精のおでこを軽く押して顔を上向ける。
「? 何ですか?」
「きちんと答えていなかったでしょう? 貴女の申し出に」
肩を竦める幽香に、大妖精は対照的に肩をぴくりと跳ねさせた。
「いいわよ。花のことを知りたいのなら、何だって教えてあげる。それで貴女が、次こそきちんと花と向きあうことができるのなら、ね」
「はい、そのために知りたいんです!」
大妖精が、再び花開くような笑顔を見せて言った。彼女の笑みに呼応するかのように、向日葵の造花が微風に踊る。
眼前に咲く二輪の花に笑みかけて、幽香は片手を差し出した。
「なら、まずはここの花から見てみましょうか。今の時期はそこまで沢山咲いているわけではないけれど」
ダンスにでも誘うような、そんな幽香の声。大妖精はそれに、己の幼い手を幽香の手に重ねて彼女を見上げ――
「――はいっ」
向日葵の笑みで頷いて、その足を踏み出した。
■ ■ ■
子供は嫌いだ。
花を毟り、踏み散らし、それがさも当然のように、自らに与えられた権利だと言わんばかりに暴虐の限りを尽くす。ただ己の正しさを信じて疑わず、他者の倫理に容易く踏み込み、それを犯す。
ただひたすらに無知であり、その無知を既知に変えんがために、無自覚なままに多くを切り捨てる。己の無知の深さを知らぬが故に、その行為が伴う破壊の程を弁えない。
だが、その無知故にこそ、誰よりも物事に真摯に向き合うこともまた、ある。そんな時に子供が見せる表情は、どんな花よりも美しくて――故に、憎み切れない。
だから、風見幽香は子供が嫌いだ。
憎むこともなく、怨むこともなく。好く想いと同じほどに深く――ただ、嫌いなだけだ。
次回期待してます。
ゆ う か り ん も よ う せ い ! !
似た話はけっこうあるのにこの作品からは何か威力を感じます。萌えの波動に瞬殺されました。ありがとう。
爽やかというか何というか、いい気持ちになれました。
とてもいい作品だと思いました。
次回も期待します