その日は、うんざりするような夏日だった。
日差しがジリジリと照りつけて、蝉はミンミンと狂ったように末期の叫びを解き放ち、犬は舌出し、猫は死に体、庭の池を泳いでいる鯉は、ぷかーりと腹をさらして浮かんでいる始末という、嫌になるくらいに暑い日だった。
そんなに暑い日という事で、イヌネコ等のけだものと御一緒に伊吹萃香も参っていた。
天下無双で知られた鬼である彼女も、この暑さは堪えたのか、博麗神社の縁側にて死んだ魚のような目で天井を見上げながら、鯉ヘルペスにかかって打ち上げられた錦鯉のように、ぐたーと寝転がっている。
「うーん。暑い……」
その姿、無様の一言に尽きる。
だが、それだけ今年の暑さが身に染みるという事もあるのだろう。
地上の夏の何倍も暑い灼熱地獄や焦熱地獄を経験しているはずの鬼ではあるが、地底の暑さというのは、あくまでマグマやら地熱の熱さであるので暑さの質が少し違う。それに加えて、近年の地上の暑さという奴は、温暖湿潤気候に地球温暖化が加わって、フェーン現象やヒートアイランド現象もプラスされた暑さであるので、体感温度も高いのだ。
流石の鬼も、文明の熱には勝てないという所なのだろう。最も、幻想郷にはアスファルトも無ければ、コンクリートも無いので、ヒートアイランド辺りは関係ないが。
ともあれ、伊吹萃香はへたばっていた。
「酷い有様ね」
そんな暑さにやられた萃香を見下ろし、忌憚無き意見を吐く者が一人居る。
博麗神社を預かる博麗霊夢、その人だ。彼女は、南国に輸送されてきたセントバーナードのような醜態を晒している鬼を見て、一つ溜め息を吐くと、その傍に座って、
「あのさ」
「……うん?」
「凄い見苦しくて、目障りなんだけど、どうにかしてくれない?」
情け容赦ない退去命令を下してきた。
この辺りが、博麗霊夢の博麗霊夢たる所以だろう。
何ものにも囚われず、その心はあくまで自由で、己の成したいように成す。時代と場所と世界が違えば、きっと良いファラリス信者になったに違いない。
――汝の成したいように成すが良い。
閑話休題(それはさておき)。
冷酷非情な一言を言われた小鬼は、常温で放置したアイスクリームのようにだらしない姿になりながらも、涙ながらに反論した。
「ひどい、霊夢は情けの心を持っていないのかよ」
「ごめんね。昨日、質屋に入れてきて、今日は無いのよ」
ちなみに質入のお値段は、仁・義・礼・智・信の五点セットで、なんと五銭。
それだけ高値がついたのだから、世の中捨てたものではない。
「兎に角、あんたは少しだらしなさ過ぎるのよ。確かに暑いけどまだ初夏よ。これで本格的な夏日になったら、どうするのよ」
「そりゃ、困る」
それはそうだろう。
そして、この鬼には、そこからどうするのかという展望はないらしい。
「あのね。色々あるでしょ。涼しいところで涼を取るとか、冷たい食べ物を食べるとか」
「冷たい酒を飲むってのもありだねぇ」
「少し酒から離れろ」
そうして暑いさなかに萃香と霊夢がグダグダと下らない話をしていると、大きなノッポの古時計が、三回鳴って三時を知らせた。
おやつの時間である。
「霊夢。今日のおやつはなんだろうね」
「何を当然のように、おやつを要求しているのよ」
「駄目?」
萃香は捨てられた子犬のような目で霊夢を見上げた。
「いや、まあ、今日のおやつは一人では食べきれないだろうから、いいけどさ。その代わり、その目を止めて。腹が立つ」
こうして、酒浸りの鬼にもおやつが恵まれる事となり、霊夢が台所から水菓子を一品持ってくる。
それは鮮やかな赤が眩しい、実に見事な西瓜であった。
「……駄洒落?」
萃香が西瓜を指差しながら、怪訝そうな表情をする。
「こんなつまらない駄洒落の為に、わざわざ身銭を切るほど裕福じゃないわよ。貰い物。畑を荒らしてた四つ足を退治したお礼に貰ったの」
「なんだい。霊夢は猟師の真似事をするのかい?」
「その農家の人が、妖怪だと勘違いしてウチに持ち込んだだけよ。まあ、六尺もあろうかという大イタチなんて、確かに妖怪染みた四つ足だったけどさ」
「成程ねぇ」
そんな世間話に毛の生えたような話をしながら、二人は縁側で西瓜を持って並ぶ。
お礼の西瓜は大きくて、実が詰まっていてずっしり重く、しかも、とっても甘いという上物だったので、初夏の暑さにぐだっていた萃香は、パッパと西瓜に塩をふって、これはうめぇとばかりに齧り付いた。
しゃくしゃくしゃく……ごっくん。
「いやぁ、美味しいねぇ。さっきまであんなに汗を掻いていた所為かもしらんけど、西瓜ってこんなに美味しかったっけ」
「……いや、あんたさ。種まで食べる事は無いでしょう」
「ん? 種なんて一々吐き出すのも面倒だろう」
「だからってねぇ」
「あっはっは、細かい事は良いんだよ!」
高らかに笑って、萃香は西瓜をしゃくしゃく食べる。
その西瓜は、とっても美味しかった。
○
だが、それが良くなかったのだろう。
数日後、萃香の頭から西瓜の蔦が生えてきた。
それは角を支柱代わりにして巻きついて、葉を茂らせ、すくすくと順調に育ってしまったのだ。今では角の先に可愛らしい西瓜の黄色い花が咲き、もう何日かすれば西瓜の実がたわわに実るという有様である。
「随分と、変な事になったわね」
角に西瓜の蔦を絡ませた萃香を見て、霊夢は呆れ顔で溜め息吐いた。
しかし、萃香は平気の平左だ。
「なぁに、これでどうにかなるものでもなし。どうせ冬になれば枯れるから、気にすることなんて一つもないさ。それにこの間は霊夢に西瓜をご馳走になったことだし、お返しができる良い機会だ」
「あんたの頭で育った西瓜か……あまり、食欲が湧いてこない」
「なぁに、かえって免疫がつく」
黄色い花を頭に咲かせながら、あくまで気楽に萃香は言った。
兎に角、この鬼はいつもマイペースで暢気なのだ。
○
それからまた数日が経った。
博麗神社に現れた萃香の頭には、すっかり大きな西瓜が実を結んでいた。鬼の頭の上はよほど栄養が良かったのか、実に見事な大玉の、ずっしりと実が詰まった西瓜が幾つも取れた。
とれたての西瓜を叩いてみると、まるで鼓を叩いたかのような「ポン!」といういい音が神社に響く。
そいつは、間違いなく最高級の西瓜だった。
「これ、重くなかった?」
「まあ、そこそこだね。重いってよりも、どっちかって言うと、邪魔なだけかな。さあ、霊夢、塩を持って来ておくれ。塩の無い西瓜なんてクリープの無いコーヒーみたいなものだからね」
「私、コーヒーはブラックなんだけど」
ともあれ、せっかく西瓜が取れたのだ。早く食べないと勿体無いと、萃香と霊夢は西瓜を食べる事にした。
「おいしいねぇ」
しゃくしゃくしゃく……ごっくん。
切るのを待つのが面倒臭いと、西瓜を丸ごと齧って萃香はご満悦だ。種ごと、皮ごと残さず食べて、見る見る間に西瓜を平らげていく。
その食べ方、実に豪快。ワイルドライフそのものである。
「うん。まあ、美味しいわね」
しゃくしゃくしゃく……ぷぷぷぷ。
霊夢は西瓜を真っ二つにして、それをスプーンでしゃくって食べた。
萃香のように頭から西瓜が生えては堪らないと、しっかりと種は吐き出して、神社の境内に捨てている。
頭に実った西瓜は、全部で四つ。
それを萃香が三つ食べ、霊夢も頑張って一つ食べた。もうこの夏は西瓜なんて見たくないとばかりに、二人は西瓜を胃袋に詰め込んだ。
お腹が膨れるほど西瓜を食べた二人は、畳にごろんと横になる。
「……あー、食べた食べた」
「もう、西瓜、食べたくない……」
頭に西瓜の蔦は残ってしまったけれど、それも冬にでもなれば枯れてしまうだろうし、萃香の頭の西瓜を巡る騒動は、これで終わりだと二人とも考えていた。
だが、伊吹萃香に生えた西瓜は、鬼に生えた西瓜だけあって、並みの西瓜ではなかったのだ。
それは西瓜の鬼子だった。
「…………す、すいか」
「うん?」
霊夢に呼ばれたので、寝転がっていた萃香は顔を上げる。
すると、妙に頭が重い。
まるで頭に鉄球でも括りつけられた様な、奇妙な重みを萃香は感じていた。探ってみるとひんやりとした丸い物体が手に触れる。
「なんだ、こりゃ」
それを引き千切って見ると、それは黒と緑のしましま模様の球体で――
「萃香の頭に、また西瓜が生えているわ!」
食べきったはずの西瓜が、また実っていたのだ。
○
食べても食べても西瓜が実ってしまう。
これには萃香も少し困ってしまった。
そもそも萃香はそれほど西瓜が好きではない。水っぽくて甘くて、皮を漬物にでもしない限り、酒のつまみにならないからだ。
それなのに、西瓜は勝手に実る。
気が付けば、萃香の頭には立派な西瓜畑が出来ていた。
放置できればそれでもいいのだろうが、それをすると頭が重くなって、邪魔で非常にうざったい。頭に生えた西瓜は生命力が強すぎて、放置しているとドンドン西瓜を実らせてしまうのだ。
ならばいっそと、西瓜の蔦を抜いた事もある。
だが、頭から生えている西瓜を引き抜くのは死ぬほど痛くて、抜いても代わりが、あっという間に生えてしまう。
散々、種ごと食べたので、きっと西瓜の残弾は十分なのだろう。
萃香は、西瓜と共存する道を選択するしかなかった。
その為には、毎日実り続ける西瓜を処理する必要がある。
だが、もう西瓜は食べたくない。
そこで西瓜は発想を逆転させた。自分が西瓜を食べれないのなら、他の誰かに食べさせればいいのだ。
「さあ、みんな! 私の頭に生えてしまった西瓜を食べていかないか? 今ならお代は要らないよ! この頭の西瓜畑、入場無料だ!」
伊吹萃香の西瓜食べ放題ツアー。
いや、ツアーはいらないけれど、兎に角、これが大当たりした。
幻想郷の夏と言えば、川遊びに虫取り、花火や弾幕ごっこに加えて、美味しい西瓜は欠かせない。
西瓜を栽培している農家には悪いが、これで重たい西瓜を処理でき、しかも他人に喜んでもらえるとなれば、是非もなし。
萃香は人間の里に行っては、頭上の西瓜を振舞った。
「うわっ! この西瓜うめぇ!」
「ねー、私も食べたい!」
「良い西瓜だな。叩くとこんなに良い音がする」
「うまーい! こんな西瓜を食べたら、もう他の西瓜は食べられませんね!」
大評判である。
美味しい西瓜が無料で手に入るのだから、こんなに嬉しい事は無い。そして、萃香も西瓜が実りすぎて頭が重くなる事も無く、まさにWin-Winの関係だった。
だが、それも最初の内だけでしかなかった。
しばらくすると、頭の西瓜を解放する事のデメリットが鮮明になっていく。
萃香の西瓜に味を占めた連中は、四六時中――それこそ萃香がプライベートな時間を過ごしている時や、寝ている時にまで西瓜を取りに頭の上に乗り込んできたのだ。
これには萃香も参ってしまう。
寝ても醒めても朝も夕も、頭の上でゴソゴソゴソゴソされては、いかに伊吹萃香の神経が図太くても、不眠症の一つにもなる。
「やー、霊夢……」
「うわっ、顔色悪ッ」
「いやぁ、最近は眠れなくてさ……もう、頭に西瓜が実ったと見るや、誰かが頭に乗って来て、ゴソゴソゴソゴソするんだよ。挙句の果てには頭に住み着こうとする奴も現れてさ。掘っ立て小屋を建てられた日には、思わず小屋を握りつぶしちゃった」
「あんたさ。それ、もう止めにしたら?」
「でも、それだと頭が重くて、邪魔で……」
「それでも、頭に家なんて建てられたら西瓜どころじゃないでしょう。もう、西瓜畑の解放は止めなさいよ」
「それもそうだねぇ。そうするよ」
そうして、萃香は無料解放の終わりを宣言し、伊吹萃香の西瓜食べ放題ツアーは終わりを迎えたのである。
だが、それで事態は収束してはくれなかった。
一度、萃香の西瓜に味を占めた人々は、それでも萃香の頭の上の西瓜畑に侵入することを止めなかったのである。つまるところ、西瓜泥棒だ。
萃香の西瓜に麻薬的成分でもあったのかと疑うほど、幻想郷の人々は萃香の西瓜に魅了され、捕まったり、懲らしめられたりするリスクを覚悟で、萃香の頭に侵入しようとした。萃香の西瓜を求めたのだ。
これには萃香は困り果てて、ついには旧地獄に避難をする事にした。
ここなら、萃香の西瓜を知るものは無く、頭に不法侵入される心配も無い。
「随分と苦労をしたもんだな」
そうしみじみと語りながら、萃香に酌をしてやるのは、一本角の鬼、星熊勇儀だ。
「全く大変だよ。たかが西瓜でこんな事になるなんてね」
「まあ、仕方がないだろうさ。確かに、この西瓜はとても美味い」
勇儀も萃香の西瓜を一つ貰って、美味そうに食べている。半分に切って、塩をふって、大胆に顔ごと齧り付くのだ。
しゃくしゃくしゃく……ぷぷぷぷ。
「なんだい。お行儀良く種を出すのかい」
「まあ、それはね。今の萃香の姿を見てれば、ちょっと種ごとは食べられないね」
仲間が増えなかった事にがっかりしたのか、それとも我が身の情けなさを実感したのか、萃香は一つ大きな溜め息を吐く。
「しかし、情けないったらありゃしないよ」
「でも、あれじゃないか。そんなに落ち込むなら、誰かに頼んで西瓜をどうにかすれば良かったんじゃなかったのか? ほら、地上は色々と便利な奴が居るんだろう」
ざっと思いつくだけでも、西瓜を枯らす薬を作れそうな八意永琳。西瓜だけをピンポイントで破壊できそうなフランドール・スカーレット。西瓜を枯らせる事が出来る秋穣子。神様だから、それなりに何でもありであろう八坂神奈子と洩矢諏訪子。それに能力の応用範囲が広い、境界を操れる八雲紫、魔法の大家であるパチュリー・ノーレッジ、神降ろしのできる博麗霊夢あたりが、どうにか出来そうな奴らだろうか。
「貸しを作るのは好きだけど、借りは極力作りたくないからなぁ。まあ、その中で、あえて選ぶなら紫かね。霊夢に宇迦之御魂神を降ろさせるのも良いかも知れないけど、それはそれで面倒だし」
「確かに、これをどうにかできそうな奴で、身内と言えそうなのはアレぐらいか」
「でもまあ、それでも西瓜なんて冬が来てしまえば枯れてしまうだろうし、そんなに真剣に考える事もないだろうさ。だから、それまではよろしく頼むよ」
だが、そうは問屋が卸さなかった。
夏が終わり、秋が来て、冬となっても、伊吹萃香の頭の西瓜畑は丸々とした豊かな実りを約束し続けてしまっていたのだ。
その上、萃香の西瓜が旧地獄にあると知った連中が、わざわざ地上から勇儀の家にまで押しかけてきた。
このままでは勇儀に迷惑をかけてしまう。
伊吹萃香は旧地獄を去った。
こうなれば、借りがどうのこうのと言ってはいられない。どうにかしないと、日常生活もままならない。
「どうにかならないか、紫」
伊吹萃香は八雲紫に問いかけた。
すると紫は難しそうな顔をしながらも、一つの解法を示した。
「そうね……私の境界を操る力を使って、西瓜と萃香の境界を曖昧にしてしまえば、どうにかなるかもしれないわ」
それは冗談のような解決策だった。
伊吹萃香と西瓜の境界線を弄る事によって、西瓜を完全に萃香に吸収させてしまおうというのが、八雲紫の案である。
そうした世迷言のようなプランを、紫は西瓜をご馳走になりながら説明した。綺麗に中身を繰り出して、カットして、塩をふって、フォークで食べる。
しゃくしゃくしゃく……ぷぷぷぷ。
「……あのさ」
「なにかしら」
「紫の能力って『生と死』とか『光と闇』とか『二次元と三次元』みたいな二つの相対する要素の境界を曖昧にして、混ぜこぜにしてしまうか、反転させるものじゃないのか? そんな駄洒落みたいに私と西瓜の境界を弄るなんて、出来るのか?」
「出来るのよ」
そもそも名には、強烈な力がある。
基督教の唯一神が、名を付ける事によって万物を創造したように。
古の呪術において、名を知ることが相手の全てを支配する事と同義だったように。
名は、最も古く、そして絶対の力を持った呪である。
つまり、西瓜と萃香。
同じ『すいか』という名で呼ばれるそれらは、呪術的に見た場合、極めて近しい存在であり、互いに影響しあう関係なのである。
だから、それらの境界は極めて近く、すこし手を加えてやれば萃香と西瓜の境界は曖昧になって――それによって、萃香の西瓜を消し去る事も不可能ではないのだと、八雲紫は西瓜を食べながら説明した。
「ただ、少し難しい事は確かよ。私は、胡瓜とか真桑瓜とか瓢箪といった、瓜科の植物の専門家ではないからね。だから、本当に頭の西瓜をどうにかしたいのであれば、秋穣子辺りに頼んだほうが……」
「いや、紫が出来るなら、紫がやってよ」
「でも」
「紫が良いんだ」
「……分かったわ」
それが伊吹萃香の選択だった。
確実な他の誰かに頼るよりも、不確実でも信頼する身内に全てを委ねたい。侠客がするような考え方で、鬼はスキマに全てを託す事を選択した。
そして、八雲紫によって、萃香と西瓜の境界は操られて――
ひと粒の黒い種が、其処に残った。
○
それから、八雲紫は種となってしまった萃香をプランターに蒔いた。
園芸知識はあるものの、庭弄りなどした事が無かった紫だが、友人を西瓜の種にしてしまった手前から、麦藁帽子に軍手を付けて、一人果敢に農業に挑んだ。
それは、苦難の連続だった。
なかなか芽が出なくてやきもきもした。
出た芽を鳥についばまれそうになって、大慌てになったこともあった。
プランターをベランダに出しっぱなしにしておいて、大雨が降って土が流されて大変な事にもなった。
だが、紫の苦労の甲斐もあってか、春が終わる頃には萃香の種は苗となり、初夏になるころにはツルが伸びてきて支柱に巻きつき、暑くなる頃になると、萃香は可憐な小さい花を咲かせた。
その頃になると蔦がだいぶ伸びた所為で、ベランダでの生育は難しくなり、紫は畑に植え替える。
すると、畑の養分を吸った萃香は黄色い可憐な花を幾つも咲かせ、その内の幾つかは花が咲き終わると大きな実を付けるようになった。
ようやく小ぶりながらも伊吹萃香が、畑に実を結んだのである。
「お帰り、萃香」
「ただいま」
かくして、愛情のこもった畑で萃香は見る見る大きくなり、十日もすると実のしっかり詰まった大きな萃香が収穫されたのだ。
「いやぁ、なかなか新鮮な体験だったよ。紫もご苦労さん、慣れない畑仕事をさせてしまって悪かったね」
奇跡の生還を果たした伊吹萃香は、用意して貰った服を着ながら、大儀そうに八雲紫を労った。
「別にこれくらいはなんでもないわよ。それに最初の一手でしくじった私も悪かったし、貴方が無事に戻ってこれたのだから、何よりだわ」
かのような次第で、とれたての萃香は紫に姿見を出してもらい、髪を梳くだの、リボンを付けるだのと、身支度を整えていたのだが、しばらくすると訝しげな顔をし始めた。
「どうしたの?」
「いや、私の顔ってこんなだったっけ。まあ、自分の顔なんてそうマジマジと見るもんじゃないからかもしれんけど、どうにも何かが足りない気がするんだが」
「そうかしらね。いつも通りの萃香だと思うけど」
「……いや、やっぱり何かが足りない」
そんな萃香の顔を紫はしばらく眺めていたが、ややあって得心したように手を叩くと、こう言った。
「そういえば、塩をふっていなかったわ」
了
本家は頭に池ができるんだっけ?
とってもうまいですね。
おみそれいたしました。
良かったです
ちょっと深読みしてました。
なるほど、こういうオチなんですね。
いいオチです。
夏の入道雲の様なさわやかな読後感でした。ありがとうございます