ジー、ジジジジジジ……
「あれ?」
空気を震わせる、夏の音を聞いた。
普段虫の声などしないのに、珍しい事もある物だ。顕界から迷い込んだのだろうか?
私は包丁を手に何とはなしに声の主を探した。格子窓の外は輝くような陽が煌めくだけで、小さな虫など見つかるべくもない。諦めて肩を竦めると、まな板の上に乗った大きな西瓜に刃を突き立てた。
ぱん、……と、それは小気味よく割れた。
現し身の天麩羅
縁側で待つ主人の為に、甘露滴る切れを盆に盛る。乗せきれない分は別の盆に置いて、籠をかけておいた。
運びながら先ほどの蝉の声が聞こえてこないかと、ちらと心の隅で思ったけれど、庭は何時もと変わらず静かなものだった。
「幽々子様、お待たせいたしました」
「ありがとう」
水面が光を反射して、一瞬目が眩む。透き通るような白い肌が、水の中で揺れている。主人は着物の裾をたくしあげ、水を張ったタライに足を浸していた。亡霊である彼女が、水と戯れる。果たしてそれで彼女が涼を感じる事が出来るのかは疑問けれど、好ましい光景である事に違いはない。
西瓜を横に置くと、主人は色素の薄い瞳で微笑んで……あ、この顔好きだな。なんて内心思った次の瞬間、彼女はひょいと首を傾げた。
「あら?」
「! なんでしょう」
どきりとした。
何か粗相をしてしまったのだろうか?
「……」
「あの」
「……妖夢、西瓜、つまみ食いした?」
「え?」
私は思わずがくりと姿勢を崩す。
「幽々子様じゃあるまいし、するわけないじゃないですか!」
「でも……足りないわ」
「大きい西瓜だったので、少し台所に置いてきたんです。おかわりならちゃんとありますから。もう……驚かせないでください」
彼女は「そう」と言って微笑むと、漸く盆に手を伸ばした。満足そうな表情で一つ食べ、私にも、勧めてくれる。
口元に持っていった時に僅かに感じる、既視感。恐らく瑞々しい香りが、去年の記憶を想起させるのだろう。一口齧った西瓜は、甘くとてもおいしかったのだけれど――。
「幽々子様」
「なぁに?」
「塩を、忘れました」
「そうね」
どうにも私は、詰めが甘い。
台所に塩を取りに戻ると、驚いた事に、西瓜の残りは消えていた。
呆然とする私の耳に、蝉の鳴き声が聞こえてきた。先刻よりもはっきりと、近い位置で。
……ジジジ、ジーワジーワジーワ、……ジジジ……
繰り返し歌っている。頭の中で反響する。
聴き慣れないせいか、なんだか気持ち悪くなってきた。否、実際床が揺れ出して、平衡感覚もおかしい。耳を塞ぐと、やっと煩い鳴き声が消えたけれど、冷や汗をかいてしまった。
私は額に浮かんだ汗を拭うと、きちんと整頓された台所を見渡した。使い慣れた場所の筈なのに、何故だか違和感を拭えなかった。
包丁はきちんと洗い、錆が浮かないように拭いて乾かしてある。
まな板も洗って、立てかけてある。
布巾もきちんと干してある。
……ただ、西瓜だけが調理台の上から無くなっていた。ぴかぴかに磨いた台の上には水滴さえも残っていない。
戻って、主人に残りが無くなってしまった事を告げると、彼女は「そうでしょうね」とだけ言うのだった。
×××××
たらいを片付け、冷たい足を拭う。
柔らかい布を使って、傷をつけないように拭きあげる。見上げると、彼女はどこかぼんやりとした瞳で庭を見つめていた。何か考え事をしているようで、私の視線に気づきもしない。庭ではこぼしたたらいの水が、陽炎となってゆらめいていた。
ふと、置いて行かれた様な気分になって、寂しくなった。
『……ゆ』
ジジッ……
口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。
蝉が鳴いた、気がした。どこで……? 本当にすぐ傍で、まるで縁の下か、屋根の上にいるかのように。それかまるで……。でも、……でも一声だけだったので気のせいかもしれない。そうであってほしい。
ぞくりと肌が粟立った。
「ゆ、幽々子様、……蝉の声がしましたね」
「蝉? 気付かなかったわ」
風鈴がちりんと鳴る。……やはり気の所為だったのだろうか。
風がそよいで、主人の着物から良い香りが香った。私はこくりと唾を飲み込んだ。
「……見つけたら、外に逃がしてやろうと思うのですが」
「優しい子ね。それじゃあこれを持っていきなさい」
「ありがとうございます」
主人は袂から、懐紙に包んだ何かを取りだした。それを、自分の座る横に置くとにこりと微笑む。ちくりと胸が痛んだ。違うんです。私は優しい子なんかじゃない――よっぽどそう言おうかと思ったけれど、彼女の顔が曇るのが嫌で言えなかった。
うつむいて急いで拭きあげ、裾を直してそれを受け取ると、甘い香りがした。
「……これは?」
「内緒よ」
私が懐紙を握りしめていると、何時の間にか、彼女は軽やかに浮いていた。蝶々のようだな、となんとなく思った。
「見つかると良いわね。何かあったら、私の名を呼びなさい」
優しい声だけが中空に残り、彼女は姿を消した。
×××××
庭を散策する。
幽霊草に混じって生えた本物の植物たちは思った以上に成長が早い。この前刈ったばかりだと言うのに、もうトンネルを作っていた。くぐると隙間から濃い青が見える。葉の煮える匂いに取り囲まれる。
私は、蝉を見つけたら、切ってしまうつもりでいた。
なんとなく、不吉な予感がしたのだ。あの声の主は、ここに居てはいけないモノの様な気がした。……そんな心を知ってか知らずか、あれきり鳴き声は聞こえない。それでも、虫が飛べば捉える自信はあったから日が暮れるまで駆け回った。
けれど、白玉楼の庭は広い。終いには草熱れの中に倒れこんで、茜色の空を見上げる事となった。蝉どころか、生身の虫なんて何一ついなかった。
諦めて屋敷に戻ると、手を洗って夕飯を作った。
揚げ茄子の煮びたしは我ながら上手くできたと思う。刻んだ生姜をちょいと乗せて、色鮮やかに仕上げた。オクラを添えた豆腐にシジミの味噌汁。炊き立ての白米と、皮を香ばしく焼いた鮎の塩焼きなどを膳に乗せると、主人の元へ運んだ。膳を見た主人が首を傾げた気がするが、私には理由を問う事が出来なかった。
食後には、冷やした麦茶と金平糖を出した。
主人の外見は少女のそれで、甘い菓子が良く似合うのだった。
「蝉は見つかった?」
「いいえ」
「そう……」
「……」
食欲がなく、夕飯は食べずに手早く湯浴みを済ませる。主人に貰った懐紙の中身が気になったが、取り敢えず枕元に置いておいた。行燈の火を吹き消し横になると、どっと 疲労が襲ってきた。
布団の中で目を閉じ身体の力を抜くと、浮遊感と共に昼間見た景色がぱちぱちと脳裏に現れ消えていく。次第にそれらの輪郭がぼやけ、眠りがやってくる。
どれだけ眠ったのだろう?
突如、叩き起こされた。
ジジジジッ!
それは頭の中で鳴いているような煩さだった。
繰り返し、鳴きつづけている。音に脳を引っ掻かれるみたいだ。
『ぅわっ……!!!!』
背を思わずのけぞらせた。枕元に置いた刀に手を伸ばそうとして、腕が動かない事に気が付く。
“何か”が耳の奥で動いている。夢ではない証拠に、痛みを感じた。ただただ、気持ちが悪い。どきどきと、心臓が早鐘を打つ。なんだろ、これ?
『……っ』
一瞬思考が凍る。
耳の中で“何か”が急速に根を伸ばしている。
その根はぞわぞわと頭の奥深くに潜って、神経を伝って、背中に痛みを伴う異変を起こしている。声も出なかった。暗くて気が付かなかったが、視力も奪われているらしい。私に出来る事は、兎に角、呼吸をし続ける事だった。布団の下で、身体が勝手に暴れるのが分かったけれど、それを止める事など不可能だった。
ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジッ
『……ぁ』
一際大きく頭の中で鳴き出した。自分の内臓が大きく波打つ感覚。神経という神経を 一本一本引っ張られ、刺激されているような不快感。
鳴き声は蝉だが、これは蝉の仕業じゃない。蝉はこんなことしない。
じゃあ、私の身体の中に入ったコレは一体なに?
ジジジジジジッジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジッ
ジジジジジジッジジジジジーワジーワジーワジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ……ジジジジジジッジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジッ
…………
……怖い。
…………
ジワジワジワジワ
ジジジジジジジッ
……
思考を分断する鳴き声。
気持ち悪さに胃の中の物を全て吐いて、私の意識は途切れた。
×××××
「ん……」
目を開くと、蝶が目の前を過った。
私は濡らした手ぬぐいで、顔を拭われていた。
「おはよう。妖夢」
「おはようございます……って幽々子様!?」
「ふふ。早く支度なさい」
「はい、………………申し訳ないです」
身体は嘘みたいに軽く、痛みも何も残っていない。穴があったら入りたかった。枕元の懐紙は開いていて、どうやら私は主人に迷惑をかけたらしい。
部屋の中は暗かった。主人の蝶の光で辛うじて周囲が見える程度だ。圧迫感……それに何か異様な気配が辺りに満ちている。まだ先刻の不届き者がいるのなら……起き上がり、私はすぐに刀を携えた。面目躍如といきたい。
「では、これより虫を狩りに」
「御意」
主人は、私に外へと通じる障子を開くように命じた。
からりと開けると、巨大な木の根が現れた。湿った土が部屋の方へとせり出して、威圧感がある。どういった仕掛けか、そこはどこかの地中へと通じていた。木の根には大きな洞があり、幽々子様は扇で口元を隠すと、その中へと一歩踏み込んだ。
後に続いて中に入る。すぐに抜刀出来るように柄に手を掛けて。
蝶の光に照らされて、洞の中の様子が浮かび上がっていた。
「できれば、見逃したかったのだけれど、こんなに大きくなってしまっては捨て置けないわねぇ」
目の前に、握りこぶしほどもあろうか、奇妙な塊がいた。
ぼこぼこと歪な身体をしたそれは、一見蝉の幼虫のようで、そうではない。口吻を根に突き刺したまま、自身も喰われて別のものと化していた。
「……とうちゅう、かそう?」
「ええ。……あの蝉は余程外に出たかったのでしょう」
思い募って妖しとなったか。
私は深呼吸をすると、迷いを断つ、白楼剣を鞘から抜いた。
「そういえば妖夢。冬虫夏草って」
「?」
――我が主人は、大変愛らしい笑顔で、とんでもない事を宣った。
×××××
「幽々子様は、何時からお気づきになられていたのですか?」
昼食の膳を、用意した。
部屋に西瓜の種と共に転がっていた鮎の頭を思い出してしまう。とてもじゃないが食欲が湧かず、今日の昼は抜こうと密かに決意した。
「ここは白玉楼よ。私の知らない事は無いわ。例えば、あなたであって、あなたでないものが西瓜をつまみ食いしていたり、夕飯のおかずを食べていたりしたらそりゃぁすぐに……」
「……申し訳ございませんでした」
主人は、すぐに気がついたという訳だ。
自分が西瓜を食べている様子を想像して、顔から火が出そうだった。それにしても、しみついた習性というのは恐ろしいもので、無意識に私は台所を片付けたらしい。賊が食べ散らかしたにしたら調理台の上が綺麗だった理由が分かった。
律儀な自分の性格は、例え乗っ取られていても変わらない。少し、切ない。
「懐紙の中身は一体なんだったのでしょう」
「あれね……中身はお菓子よ。無くなったらすぐに気付けるようにまじないをかけておいたの」
楽しそうに語る彼女。
一見恐ろしいところなど欠片もないように思えるけれど……。
私は、彼女に用意した昼餉をなるべく見ないようにした。
……時に情け容赦ないところを見せる。
冬虫夏草の妖怪は、木の根を吸っても自分に寄生したキノコに栄養を持って行かれてしまう為に、常に腹ペコだった。
丁度食べ物を扱っていた私に憑りついて飢えを満たそうとしたのだろう。それにしても、寄生された虫に寄生されるとは……。
「うん、おいしいわ。珍味というやつね……妖夢もどう?」
「……遠慮しておきます」
昼食は、天麩羅にした。
白楼剣で叩き落とした握りこぶし大の塊り。
あんなに大きくなければ、見逃してもらえたのだろうか。
……そんな事をふと考えた。
了
冬虫夏草‥‥漢方薬の一つですけど幽霊に薬効はあるのかな?
いやぁ、いいホラーでした。
よいSSでした
でも登場人物皆食べることしかしていない……。
皆がらしく動いていたお話だったと思います
すっと頭に入ってくる文章でした。面白かったです。
最後に食べちゃうゆゆ様はもっと大好き