蓄音機から流れる曲に蝉の声が混じる。
夏という季節は静けさとは無縁で、気が休まる時が無い。
ぱらりと本を捲る。
幻想郷縁起という、幻想郷に住まう人妖の紹介本。
その写本を捲る。流し読みだ。真面目に読む気にはなれない。
暑さのせいもあったが、紹介本という体裁こそが原因だった。
第三者の見分など所詮噂話でしかない。この眼で見なければ正確な判断は出来ぬ。
いつぞやの博麗の巫女などがいい例だ。噂とはまるで違う強さを持った少女だった。
それに、書き手があの我の強い少女では正確さなど望むべくもない。
情報の取捨選択に好みが多分に反映されているだろうことは私の紹介を見ても明らかだ。
インタビューを受けた時の印象そのまま……まあ読み物としては悪くないけれど。
頁を捲り、手が止まる。
私の紹介の次。それは芳香の紹介だった。
芳香の紹介というより僵尸の解説。他の項目に比べ情報の羅列という感が強い。
当然か。彼女は芳香と話していない。怖がって、インタビューに同席させるのも断念したのだし。
芳香には――僵尸には自我が無い、といったことが何度も書かれている。
その文面から受ける印象は、出来の悪いロボットそのものだった。
「ロボット……ロボット――ねぇ」
もし幻想郷でSF小説が流行っていたら、そう書かれただろうか?
そうかもしれない。あの少女は流行に弱そうに見えたし。
かりかりと耳に響く雑音に思考は中断される。ああ、レコード終わったのね。
次は何を聴こうか。本を閉じ席を立つ。壁際に置かれた蓄音器へと足を向ける。
針を上げ、レコードを取り出しカバーへ仕舞う。何を聴くか考えようとも思ったが面倒になって適当に手に取った円盤を乗せ針を落とした。どうせこの棚にはピアノソナタしか入っていない。
奏でられる繊細な旋律。しかし心は不快感に占められたままだった。
立って動いたからか、暑さがより一層増した気がする。
陽に当たったわけでもないのに肌がぴりぴりと痛むようですらある。
日陰に居るというのに肌は熱気に焼かれていく。
暑い暑い暑くてたまらない――蝉の声すら、不快。
くるくると回り続ける円盤が奏でる曲もそれを紛らわすには不足。
否、針に削られ時折零すノイズがより暑さを際立たせた。
音さえも暑さとなって身も心も熱に蝕まれていく。
立っているのも嫌になってベッドに身を投げ出した。
幻想郷の夏も外の茹だる暑さと変わらない。
暑いのは嫌いだ。肌に沁み込む不快感が気力をどんどん削げ落としていく。
この程度苦痛にも思わぬ筈の仙人の身体を蝕む熱気など、好きになれる筈もない。
もうどれだけ生きたのか忘れてしまったけれど、暑さに慣れることも暑さを忘れることもなかった。
精気に満ちた季節。一年の中で一番命を感じられる季節。
夏は嫌いだ――
耳障りな、肉や骨の軋む音が耳に届く。
見れば強い日差しに濃くなった陰の中に、芳香の姿があった。
棒立ちで、視線はどこに向けられているのか微かに揺れている。
案山子のようなその姿は室内で酷く浮いていた。
まるで――人間らしさを感じさせない。
感じなくて当然。彼女は人間ではなく動く死体。禁術で使役している私の僕だ。
そんなことは理解している。千数百年以上変わらぬ現実なのだから。
でも……それに、何も思わぬわけではない。
「芳香」
ぎしりと、仮面染みた笑顔が向けられる。
眺め続けてもぴくりとも動かぬその笑顔は真実貼りつけられたかのよう。
「芳香、こちらへいらっしゃい」
手招きすると彼女の笑みは深められた。
傾いだ視界の中できりきりと、時計仕掛けの動きで笑みが変わっていく。
喜んでいる。そう見えるのは私の願望なのか。
ぎしり。ぎしり。
それこそ案山子が歩く不自然さで、体を大きく揺らしながら彼女は近づいてくる。
僅かな距離に多大な時間をかけながらベッドの脇に辿り着き、表情を変えぬまま彼女は口を開いた。
「一緒に寝てもいいのか?」
焦点の定まらぬ目は私を見ているのかその後ろを見ているのかもわからない。
だらりと下げられた手を取って、私は問いに頷いた。
「ええ、一緒にお昼寝しましょう」
芳香はばたりとベッドへ倒れ込む。
私を巻き込まぬよう無理をしたのか、体はあちこちが不自然な形に曲がっていた。
うつ伏せにひん曲がっている芳香の体を整えながらひっくり返す。
ベッドの上で直立という違和感は残ったが、さっきよりはましだろう。
芳香の身体に触れる。張りのある、瑞々しい肌。色白ではあるけれど肉付きの良い肢体。
一目見ただけではとても死体だなんて思えない。生きていると錯覚する。
でも、彼女の身体はとても冷たく、生など微塵も感じさせてくれない。
「芳香」
私の呼び掛けに応じ、彼女は体を捻りこちらを向いた。
横になり、右手を彼女の体の下に差し込んでそっと抱く。
そのまま芳香の胸へと顔を埋めた。
「あなたは――冷たくて気持ち良いわね」
「そうか」
本当は、こんな冷たさ望んでいない。
暑いのは嫌だけれど、望んでいるのは身を焼く熱さ。
暑いのは嫌だけれど、彼女の熱に焼かれるのなら構わない。
だけれど、彼女の身体はどれだけ動いても熱を発することはない。
胸元に埋めた顔に音が響いてくる。
どくんどくんと脈打つ心臓。
服を皮を肉を骨を通してなお響く鼓動。
隅々まで血を流動させていても決して熱を発することはない心臓。
血を循環させるのは生きる為ではない。意味など無い、紛い物の鼓動。
ああ、最も生を感じさせる鼓動さえ、芳香の命を伝えてくれない。
彼女は死んでいる。数多の禁術を注ぎ込んでも覆せなかった。
彼女は生きてない。その事実だけを延々と突き付けられる。
脈打つ鼓動は……私を切り裂く鞭に等しかった。
「芳香の心臓は、動いているのね」
「おお、私の心臓は永久機関だ。何があろうと止まることはない」
そんなの、欺瞞だ。
何度も何度も教え込んだ嘘。
そうであればいいという、ただの願望。
あなたの心臓は止まらない――そう、願った。
彼女の心臓は作り物だ。オリハルコン、アダマント、神珍鉄、緋緋色金、賢者の石――世界中で掻き集めたあらゆる神秘を加工し組み上げ止まらぬ心臓を造り出した。だが、神秘の塊だとて……彼女が甦るわけではなかった。人間の芳香は甦らず、傀儡の芳香だけが永遠を約束された。
死者は死者のまま……作り物の心臓は止まらぬ役目だけを果たし続けている。
私の望んだ形とはかけ離れた、永遠。
されど――壊すことなんて出来なかった。
「芳香」
前へ進まぬ鼓動を抱き締める。
永遠に停滞する心臓に私の心を押し付ける。
「芳香……」
終わらせたくない。結末なんて望まない。
終わらせるくらいならこの停滞を続けたかった。
だけど、だけど――芳香は、どうなのだろう。
彼女は望むのだろうか。彼女は、このままで――……
あの、本の記述が脳裏を過る。
自我が無いと、ロボットのようだと、書かれていた。
違う。一笑に付したい。違う。この子はこんなにも感情豊かだ。違う。ロボットなんかじゃない。違う。芳香は笑っている。違う。何も感じないわけがない。違う。直接話してないから。違う。芳香だって色々考えて。違う。違う。あんなの、芳香は、違う、違う、違う――――
わかって、いる。
どれだけの禁術を用いても彼女は死人。私の与えたプログラムに従うだけのロボット。
あの本を書いた少女は何も間違っていない。会ってもいない芳香の本質を見抜いていた。
時折私が刷り込んだわけじゃない行動を取ることはある。だけどそんなの、バグと変わらない。
彼女の自我の証明にはなり得ない。芳香はロボットだと言われたら、反論も出来ない。
「好きよ」
芳香を抱く手に力を込める。
私は芳香が好きだから、死んでしまったのがどうしようもなく悲しかったから、彼女を甦らせようとした。持てる技術の全てを彼女の為に使い切った。それでも失敗した。甦ったのは身体だけで、彼女の魂は失われていた。生前の面影なんて、何一つ残らなかった。
それでも諦めなかった。神秘の心臓を作ったように、その後もありとあらゆる手段と知識と技術で芳香を生き返らせようと足掻き続けた。
千年以上、そうやって生きてきた。
「芳香、芳香……」
肯定されたいわけじゃない。否定されたって構わない。
そうされたいのは芳香だけなのだから。
芳香に肯定されれば私の千年は報われる。
芳香に否定されれば私の千年は無駄になる。
それが、怖くて、待ち遠しくて、だけど、辿り着けなくて。
「……芳香……様……ッ」
応えて欲しい。
生きていた頃のように、柔らかな笑顔で語りかけて欲しい。
誰よりも優れていたあの素晴らしい詩を詠んで欲しい。
これは贅沢? なら我儘は言いません。ただあなたの心を聞かせてください。
「――よし、か」
埋めていた顔を上げる。だけど、彼女は私を見ていなかった。
首が動かないのか、顔は真っ直ぐを向いたまま。直下の私を見ていない。
目を見て会話することさえ、許されない。
拒絶された錯覚に、上げた顔を戻した。彼女の胸に埋め、もう、上げられない。
「芳香――好きよ」
「私も大好きだぞ青娥。絶対にこの手を放さない」
空虚な言葉。即座に返されたガランドウの言葉に顔が歪む。
教えた言葉を繰り返すだけ。そんな、機械仕掛けの声。
下手な芝居のような感情の欠落した口調に……心は見い出せなかった。
私には、その言葉の真偽はわからない。本物なのか、作り物なのか、わからない。わかりたくない。
怖くて怖くてたまらない。殆ど私が作り上げた芳香が、芳香様ではない芳香が私を否定したら。
きっと私は生きられない。
でも知りたい。芳香様ではない芳香に心があるのなら、どんな残酷な言葉でも告げて欲しい。
私が愛したのは芳香様。だけどこの芳香を愛していないと言えば嘘になる。
心がばらばらになっていく。全ての思考が矛盾していく。
支えが無くなり立つことも出来ずに落下していく不安感。
私を現実に引き戻したのは、芳香だった。
みしみしと音を立てながら、言葉からだいぶ遅れて彼女のかいなが私を抱いた。
痛くない。抱き潰さぬ程度の、優しい抱擁。それさえ、彼女の意思なのかわからない。
わからないわからない……彼女の心が――わからない。
「私は青娥のモノだ」
――いつの間にか、演奏は終わりかりかりと針が引っ掻くノイズだけが部屋に響いていた。
蓄音器を、止めねば。的外れなことを考え、体がそれに従おうとしたのに動けない。
強くはない芳香の抱擁に私の身体は固定されていた。
ぎしぎしと、振動が彼女の腕から伝わってくる。
動かぬ関節を、無理矢理動かしているのだ。
「……芳香?」
「この関係は誰にも壊せない。誰にも渡さない。私だけのモノだ」
そんな言葉は――教えていない。
見上げるけれど、彼女がどんな顔をしているのかよく見えない。
十中八九貼りつけられた笑みだろうけれど、今は、違う気がするのに。
かすかな痛みに、息が漏れた。
背に、芳香の腕が食い込んでいる。
動けない。少し、苦しい。
「芳香――芳香、痛いわ」
訴えても彼女は力を緩めない。
僅かに腕を食い込ませたままを維持している。
私の言葉は命令なのに、彼女はそれに背いていた。
「芳香……ッ」
強められた密着に、彼女の心臓の音が大きくなる。
一定のリズムを崩さぬ作り物の鼓動が、乱れたように聞こえる。
おかしい、こんな行動、許可していない。許可以前に、明らかに刃向っていた。
バグ? そんなものじゃない。ここまで逸脱した行動を取ったことなんて一度も無かったのに。
命令を全く聞かないなんて、それでも動き続けるなんて――
「おまえを放さない」
こんな術式、組んでない。
「よし――」
「青娥」
がくんと彼女の首が曲がる。
私を見下ろすその顔から、ゆっくりと、制御の札が剥がれていった。
芳香は笑っている。ぴくりとも動かぬ貼りつけられた笑み。
いつもと変わらぬ笑みが、何故か、違うものに見えた。
「青娥は私のモノだ」
どくんと響いた鼓動は、どちらのものだったのだろう。
読ませる文章に、ラストのホラー風味も美しくて。
何はともあれせいよしは良いものです
最後、いろいろな意味でドキリとさせられました。
芳香には男前な台詞が似合うと思うんです
彼女の中身が彼だったら、という妄想をします
人形への空虚な愛なのか、過去の幻影を見ているだけなのか。どちらにしても残酷な結果しか見えないような青娥の愛情が、好きです。
狂った愛ほど、美しくてまっすぐじゃあないですか。