東風谷早苗は夕餉の支度をしている。
今日は暑かったから小鉢にところてんをと思っていた。
外の世界ではスーパーで買っていたものだけれど、こちらの世界では天草を自分で煮て固めるのだ。
そんな手間も何時の間にか惜しいと思わなくなった。
それは生きる時間に余裕が生まれたからだろう。
そういう余裕が神様には必要だと思った。
1
夕餉の支度は順調だ。
軽い考え事程度で手は止まらない。
向こうでもそうだった。
何時だって人よりも多くの事が簡単に出来た。
逆に何故他の人は物事を的確に効率良く行う事が出来ないのだろうかと不思議に思っていた。
小学校に入るまでは分からなかった。
それを現す言葉を知らなかった。
ある程度の観察と扱える語彙の量的増大により自らの疑問を解決した。
言ってみれば私以外の人間は劣っているのだとその時は理解した。
成る程一面的にはその通りであろう。
この時の理解が未だ私の心の奥底にあって、全ての行動を規定しているようだ。
その時は、では何故他人は劣っているのかと踏み込む事はしなかった。
単純に自分自身が人より何事も秀でいている特別な人間だから、
他人が自分のように物事に対して振る舞えないのは仕方ないと考えていたのだ。
もう少ししてから、更に踏み込んで考えるようになった。
では何故私は他の人よりも秀でているのだろうか。
学校の授業で理解出来ない事なんて存在しなかった。
テストの問題なんてわかっている事を分かっただけ書くだけの作業に過ぎないし、
テスト前何故周囲が狼狽するのかという事を心底理解する事はついに出来なかった。
興味深い観察の結果があった。
それはテストなどで(テストに限らず何事にも)高得点を叩き出す者は学級という社会の中で疎まれるという現象だ。
実際によく勉学が出来る者は学級という社会において弱者であった。
時には生きている事を否定される事もある。
それを直接表明される事もあるし、本人には知りえぬ場所で表明される場合もある。
だからどうという事もないのだろうけど、どうも人間というものは秀でている、ないし欠落している、
つまり平均的な人間像から離れる者を疎外する傾向があるようだ。
そういう事実を把握してから後はテスト用紙を意図的に空白にする事を覚えた。
平均点という分かりやすい基準を教師が発表し皆一喜一憂するが、どれだけ平均点という物が学級の中で重要であるのか示していると思う。
そして平均点の発表は私にとっても重要であった。
どの程度の点数を取れば誰からも批判されずに済むのかと教えて貰えるからだ。
仮に親に文句を言われたとして、皆んなこれくらいだと言えるし、
友人とテストの点を教えあったとして、そんなもんだよね、という会話を行う事が出来る。
私は学校では常に適度に笑顔で気だるそうな顔をしていて、
何かの表面的な話題を薄く切り刻むようにして周囲とコミュニケーションを図っていたと思う。
そうやって何もない毎日を繰り返していたのだ。
明日や明後日ましてや今日という一日に何も期待はしていなかった。
他人の事なんか関係ない。
俺は私は我が道を行くという考え方は幼稚で甘えていると思っていた。
そのような突出や我欲をして彼らを苦しめている事に気が付かないなんてどうかしていると思った。
社会には規則やルールがあるだろう。
当然学級という社会にもルールがあるのだ。
そういうルールを把握しない者が毎日の学校生活というゲームから弾かれ辛い思いをするのは当然の事で、
それを何時まで経っても理解しないのは単純に愚かだと思っていた。
私は社会のルールをいち早く理解したが故に他人よりも秀でているのだろうか。
その場合も何故理解出来たのかという問が生まれる事になる。
では理解力とはどのように生まれるのだろう。
要領の良さとは一体なんなのであろうか。
その問題はある日唐突に解決した。
ある時、自分自身がそもそも人間ではないという事実を知ってしまったのだ。
神が内なる心のなかに降臨し、それは実態を伴って私に語りかけた。
お前は人間ではない。
神であると。
2
それは圧倒的にシンプルで全ての出来事を説明していた。
そもそも人間ではないのだから、例えるのならば生物として上位種であるのだから普通の人間よりもあらゆる事が優れていて当然だったのだ。
私は誰から見ても異常で不可解な、贔屓目に見て気が狂ったとした形容できない事態に直面して尚、
心の中は驚く程納得していたのだ。
神だと呼ばれることに違和感を少しも感じなかった。
そういう私の中の心持ちを確認することで更に内なる確信が深まったのである。
そして、それは酷く私を不安にした。
私は言ってみれば驕り高ぶっていた事を知ってしまった。
優勢種であるという簡単な事実にすら指摘されるまで気が付かなかった己の不覚から始まる後悔でもあった。
優勢種である私という存在が凡庸なる人間なる者を基準に振舞っていた時間の無駄についての後悔でもある。
後悔は人を不安にさせる。
もしかしたら全く取り返しの付かない事態に直面してしまったのではないだろうかという懸念から生じるものだ。
誰しもそのような状況が訪れたら平静を保てないものだろう。
かけがえの無いモノを失った可能性に直面したのならば尚更だ。
あんな矮小で卑近で何も出来ない人間達と今の今まで過ごしてしまった後悔は凄まじいモノがあった。
私は劣等種を相手に優越感に浸っていた救いようのない馬鹿で、
では優勢種同士と相まみえた場合既に取り返しの付かない程の差が生じているのではないだろうかという恐怖はまさに全身を凍りつかせた。
私は神であるらしい。
それも現人神であり、人間から信仰を得るに相応しい存在であるそうだ。
人間たちを教化し、彼らがよりよく生きられるように導く存在であるらしい。
成る程。
それであるならば、信仰を尊敬や畏敬に置き換えるならば彼らより多くの事が出来て当然だった。
言ってみれば多くの事が出来るというのは何も特別な事ではなく、出来て当然であって、それを今まで特別であると勘違いしていたという訳だ。
これ程の愚か者は世界を広く見渡してみてもそうは居ないだろう。
つまり私は今まで持っていたものを小出しにして世界の全てを把握していたような顔をしていた訳だ。
私は本来的な意味で成長というものをこの十何年間していなかったという事でもある。
優勢種には優勢種の、いや優勢種という言葉には若干違和感があるのでやはり神であろうか。
神には神の試練や困難が当然あって、他の神々はそういう困難を私が無為に暮らしている間にも乗り越えていて私は取り残されているのだ。
自分自身の可能性を知り、それを無視出来る者がどれだけ居るだろうか。
そんな事が出来るとは到底思えない。
けれども、このまま神としての様々な出来事を一切無視してあくまで人間として生きる事も十分可能だった。
しかも簡単な事だった。
「神とかそんな訳の居るわけないじゃん。頭大丈夫?」
と、否定すれば全て済んだ事でもある。
最初の内は小骨が引っかかったような気持ちになって落ち着かないであろうが、
毎日の多忙の中で次第にそれにも慣れて忘れる事が出来るだろう。
簡単な、酷く簡単な事であった筈だ。
3
ところで幻想入りの話を聞いた時、初めは正気の沙汰ではないと強く思った。
それは古今の常識から考えても妥当な感想であると思った。
幻想入りという言葉に嫌悪感を抱いていた。
要するに神が人間を指導する立場にあるのならば今私がするべき事は幻想入りという逃亡ではなく、
この世界の救済ではないだろうか、という思いから生じる嫌悪感だった。
この世界で、もはや信仰を基礎とした神と人間の関係が破綻しているというのならば、
何らかの方法で再生させる事が出来はしないだろうかという発想はあってしかるべきで、
私は強く訴えた。
その困難な道のりを自らの試練として据えようと思っていた。
これを乗り越えるならば他の神々と比肩出来る存在へと高まるのではないだろうか。
けれども、それはこの現代において畏敬を勝ち取る為に神の奇跡を具体的に発現させる事でもあった。
その奇跡は今まで人間として生きてきたしがらみが許さなかった。
神として奇跡を発現させたいのならば、それが許容される世界において発現させるべきであった。
仮そんなものがあるのならば、それこそが良識であり常識であると思った。
要するに他人に迷惑をかけるなという人間達が作ったの社会なるもののルールなのだろう。
仮に本当の奇跡というものを現代の人々の前で披露したあかつきに何が起こるだろう。
私はその想像に耐えられなかった。
同時に、想像される困難に立ち向かえない私自身にも嫌悪した。
私が初めから神として育てられていればまた違ったのかもしれない。
けれども事実として人間として育ってしまった過去は消せないものでもある。
この現代社会において人間として生き続けていればいずれ神性は失われ当たり前の人間となるらしい。
その事の真偽を確かめる術はついになかったけれど、あの時はそういうものだろうと信じた。
それは決心が付かない私を誘導する為の文句だったのかもしれないが今となってはどうという事もない。
神性が失われては、一時は良くてもその事実に後の生涯が押し潰されてしまうだろう。
日常のふとした瞬間に神となった自分を想像して身悶えるのだ。
何故、あの時幻想郷へと行かなかったのか・・・と。
そういう想像は徐々に私を蝕むだろう。
取り返しが絶対に利かないとなれば尚更。
それが分かり過ぎる位分かっていたので幻想入りを決断した。
今の所後悔はない。
神性を高め続ける事が出来るのならば幻想郷だけでなく、
いずれ外の世界へも影響を及ぼす神へと成長出来るのかもしれない。
あるいは永遠にこのままであるのかもしれないが、
可能性の中に身を置くことの安心感には代えられないだろう。
修行次第で私はどのような存在へとも昇華する事が出来るはずだ。
今は風祝として封ぜられているけれど現人神は奉り次第で如何様にも変遷出来る。
強大な信仰が得られた暁に私は何を思うだろうか。
人を導くとは何処へ導くのであろう。
より良き人生とはどのようなものであろうか。
そういう基本的な問に答えられない間はまだまだであると思うし、
幸福や吉良を規定出来るのならば私は何処までも強くなれるだろう。
私は幸福だろうか。
まずはその辺りの問から始めようと思っている。
先は長い。
けれども私は正しい道の中に居る事を今実感しているのだ。
それは向こうの世界で一度も感じた事のない感覚であった。
そういう事は沢山ある。
やはり間違いではなかったのだ。
4
本日は夏らしく玉子素麺、焼き茄子、大葉と胡瓜の酢の物、それにところてんだ。
地味目な献立かもしれないが、大地の力が豊穣である幻想郷の野菜は外の世界のどんな野菜よりも力強く旨みがある。
その味わいはまさに地から贈られる供物であった。
幻想郷の料理に余計な味付けは必要ないし複雑な工程を要する料理も不必要であった。
ただただ食材の旨さを可能な限りシンプルに提供する事。
それだけで十分だった。
同様の理由で酒も旨い。
私は幻想入りした時点では酒など一滴も飲んだことのない高校生であったが、
こちらの世界において未成年であるとかないとかそういう区別はなかった。
多少の後ろめたさがあっただけで、酒は私の身体によく馴染んだ。
神奈子様曰く外の世界で供物される神酒とは比べ物にならないそうだ。
これだけでも来た価値があると夜毎嬉しそうに言われる。
そういう何の作為もない純粋な幸せに触れられる事は喜びであったし、
きっと外の世界では得られなかったものだろう。
清らかな水。
どの川の水も口をつける度に何か身体が洗われるような気分がした。
山の風には何の悪しきものが含まれていなかった。
風祝である自らにとって風の質は重要であった。
こういう風が世界の情報を伝えてくれるのである。
風が生きているのだ。
風神の奇跡によって人々の信仰を集められるだろうか。
初めは恐ろしく嫌悪する対象であった妖怪や妖精に対する考え方も随分変化した。
これは自然そのものの発現であると理解するのならばむしろ賑々しい方が好ましい程である。
麓の神社の巫女は妖怪退治を専門としているらしい。
けれどもその功を広めるつもりもないそうで、それによっての信仰を集めてはいないようだ。
私は逆にその事を喧伝して信仰を得ようと思っている。
上手くいくかどうかわからないけれど、妖怪ならば掃いて捨てるほどいるし、
それによって糧である信仰を得られるのであれば何も躊躇する事はない。
人は妖かしを恐れ、妖かしは人を喰い、巫女が妖かしを退治する。
今はこの世界について学ぶべき事がまだまだ沢山ある。
麓の巫女には常に教えを請わなければならないと思っていた。
そう、麓の巫女には驚かされた。
私が懸念した全てを彼女は持っていた。
5
麓の神社の巫女。
博麗霊夢と云う。
初めて出会った時の事は鮮明に思い出せる。
きっとどれだけ時間が経とうとも忘れることは出来ないだろう。
幻想郷へと入り、妖怪の山に赴き、侵略も同然に山の一部を占拠し神社を住処を構え幻想郷に信仰を広める足掛かりを作っている最中の出来事だった。
噂には聞いていた。
麓には有名な巫女が居ると。
その巫女は人間の身でありながら空を飛び、強力な妖怪を調伏し、
神を自在に降ろし、鬼をも震え上がらせる霊力の持ち主であるそうだ。
当時の私は幻想郷を満喫していた。
まさか促されるまま空を飛ぼうとしたら本当に飛べるとは思ってもいなかったし、
身体の熱の赴くままにエネルギを開放したら幾らでも自然を特に風を操る事が可能であった。
風祝の神としての力に目覚めた私はまさに有頂天であった。
この世界の中であれば、凡そ不可能など存在しないのではないかと思えた。
それ程迄に私の中に潜む力は圧倒的で、今までこのような力を内に秘め生きていた事に戦慄を感じる程であった。
そして、この力をむざむざ埋もれさせようとしていた自分自身に恐怖していた。
そういった最中にあの巫女は現れた。
唐突に、何の前触れもなく。
彼女は怒りに満ちていた。
けれども私は彼女の事を何も知らなかった。
噂では聞いていたけれど、人間の癖に、それも私とそう歳も違わない小娘の癖に生意気な位に思っていた。
此処は人間と神との力の差というものを彼女に叩きこみ、
その勝利を持って幻想入りを祝うのだと無謀にも考えていたのであった。
彼女と対峙て数分後、私は暗闇に居た。
全身に深い傷を負い、妖怪の山の中で息も絶え絶えにうずくまっていたのだ。
あの時、よくも私は生きていられたものだ。
一つ間違えれば、山の妖怪に食い散らかされていても少しも不思議ではなかった。
諏訪子様が私に寄り添ってい居て下さらなければ確実に絶命していただろう。
私が奇跡を起し、力試しとばかりありったけの業を彼女にぶつけれみたけれど、
霊夢さんは顔色一つ変えず繰り出す攻撃を全て躱し、
その身体にかすり傷一つ負うことも無く、私を一片の慈悲無く叩きのめしたのだ。
霊夢さんは私に弾幕を浴びせる時ですら顔色を変えるという事をしなかった。
実に退屈そうに、如何にも面倒だと言わんばかりの表情で、
言うならば人間が特に理由もなく蟻等を潰すかのような表情で私に攻撃を加えたのだ。
それは日常的にこのような事を行なっている者でなければ不可能で、要するに私なんかとは格が違ったのだ。
これこそは私が最も恐れていた事態、つまり今の今まで怠惰に暮らしていた事による現実の残酷の認識であった。
あの時、私は暗い森の中で口から血が流れる程に悔しさを噛み締めていた。
神である私が人間の、それも巫女如きに遅れを取るなどと・・・
悔しくて何度も地面を叩き、それでも治まらずに泣いた。
まるで子供のように。
最も子供の頃に泣いた事なんてなかったけれど。
悔しさと同時に別の感情が沸き起こった事も忘れる事はないだろう。
唯一向こうの世界に残してきた心残りはついに私は人並みにときめいたり、
何か衝動的な想いに身を焦がすという体験を出来なかった事だ。
友人達とそういう会話になっても私は上辺を合わせる事しか出来ず、実際は上の空だった。
何故、彼女達はあれ程までに他人との取り分け異性との関係性において深刻であるのかついに理解出来なかった。
私の目から見れば学校に居た男子等愚鈍の塊のような存在で全く取るに足らなかった。
幾度か言い寄られたけれど、その度に煩わしいと思っていた。
何故煩わしいと思うのか当時の私は理解出来なかったけれど、今なら分かるだろう。
私は私に影響しない存在に心を許す事をしたくなかったのだ。
そういう意味において博麗霊夢の存在は強烈であった。
彼女の類まれな容姿(あの華奢で細い身体!)生き方の一切が尊敬に値し、
彼女に全力を持ってぶつかろうと弾幕戦の最中に思ったのも、
この圧倒的な存在に自らを認めて欲しいと思ったからに他ならない。
表面的には所詮巫女だの同い年程度の小娘等と思っていても、心の深い所では隠し切れない程に畏敬を感じていたのだ。
そう、あの時たった一目見ただけで、彼女の所作の一つを目撃しただけで全部分かってしまっていた。
これこそが、彼女こそが私が求めた者、つまり畏怖すべき他者。
それを求めるだけで全身が焦がれるような想いを抱かせる存在。
あるいは、このような感情を恋と呼ぶだろうか。
もっと別な言葉を当て嵌めるべきだろうか。
私は飛躍しているのだろうか。
このような気持ちを過去に経験しなかった故に分からない事ばかりだった。
そもそも人を敬うという事をしてこなかった私にとって、尊敬の念をどのように表現すればよいのか分からなかった。
まずは彼女の事を知ろうと思った。
幸いにも彼女の怒りは一度私達を叩き潰す事で晴れており、
ある程度の距離を保てばごく一般的なコミュニケーションが可能だった。
私は何かと口実を作っては博麗神社に足繁く通った。
恒例の宴会にも参加させて貰えるようにもなり、過去の異変の話を聞く機会にも恵まれた。
霊夢さんの御友人と知り合いにもなれたし、幻想郷の事を沢山教えて貰えた。
懐に一枚の写真を常に忍ばせてある。
まず、幻想郷に写真がある事に酷く驚いたがそれはともかく大切な写真があるのだ。
この写真を見る度に胸がいっぱいになる。
これがときめきというものであろうか。
この多幸感を言い表す言葉を私は見つける事が出来ないでいるのだ。
宝船が幻想郷の空を飛んでいるという事件を霊夢さんと御友人の魔理沙さん、
それに私が参加して解決に当たった事がある。
この写真は一連の事件が終わった後、記念にと天狗に撮って貰ったものだ。
ぶっきら棒の霊夢さんに大輪の笑顔の魔理沙さん。
そして多少緊張気味に写っている私。
表情はそれぞれだけれど、三人でがっちりと肩を組んでの写真だった。
月次な言い方だけれど、もしそんなものがあるのならば絆というものをこの写真から感じる事が出来る。
ついに外の世界で獲得する事が叶わなかった本当の友人関係というモノが、
あるいは心の繋がった仲間というモノを得た記念という意味でも価値のある一枚であった。
この写真は生涯の宝になる。
それ故、何時も大事に懐にしまっているのだ。
霊夢さんと共に過ごした思い出をこれからも沢山作って行きたい。
彼女は結局のところ人間なのだ。
神の私とは違う。
幻想郷の巫女は酷く短命であるらしい。
それも霊夢さんのような者は非常に短命であるらしいのだ。
それを聞いた時は暗澹とした。
何故、彼女のようなまさに奇跡のような存在、圧倒的な者が、なんて理不尽な・・・
霊夢さんは自分の事を余り人に話したがらない。
だから周囲の者に彼女の話を聞くことになる。
巫女装束の身体を覆う部分が紅であるのは身体から血が吹き出しても相手に悟られないようにする為なのだとか、
彼女はどのような攻撃を受けても怯んだり、痛みを悟られるような事は決してしないそうだ。
それは相手に自らの畏れを喝破される事を防ぐ為だという。
彼女は極力水以外の物を身体に取り込まないように気をつけているらしいという事。
それは穢を体内に持ち込まない為。
酒は嗜むけれど実は酔うことはないそうだ。
そういう身体であるらしい。
彼女は普段感情の起伏に乏しいが、自らの想いを口に出す事も穢れに繋がる故にあのような表情であるのだという。
妖怪退治の際に感情が爆発するのは、そういう気持ちを強く持たないと身体がついていかないのだそうだ。
異変の解決を繰り返す度に彼女の寿命は著しく縮むらしい。
霊夢さんは人間であるにも関わらず、あらゆる点で例えば自らの存在に対する覚悟という点でも私を凌駕していた。
とても敵わないと思う。
そういった経験は向こうの世界では無かった。
全ての人々は私より劣って見えた。
この世界では仰ぎ見る存在で溢れている。
幻想郷に来て良かった。
6
焼き茄子のポイントは火通し加減だろう。
皮があるからといって火を通しすぎると味も風味も台無しになる。
厚い肉を焼く時と似ているのかもしれない。
一応中まで火が通っている程度で留める事が大事で、そういう意味では炭火で炙る方法は有利だった。
幻想郷の火は何でもかんでも炭火だ。
ガスなんてありはしなかったのだ。
幻想郷に来てからはカルチャーショックの連続だった。
まず電気がない。
水道がない。
当然ガスもなかった。
ライフラインが無いに等しく、殆どサヴァイヴァルを要求された。
流石に人里は幾らか文明的であったけれど、妖怪の山にはインフラ等存在する筈もなく途方に暮れたものだった。
けれども、神奈子様も諏訪子様も少しも動揺なされなかった。
こんな事は当然だとばかりに私にあれこれ指示をし始めた。
幻想入りは衝動的に决めた事とはいえ準備は入念に行なってきた。
最低、一ヶ月程度は現地の物を徴発しなくても生きていける程の物資は持って来ていた。
けれども何にせよ火や水がなければ米は炊けないのだ。
それらの確保する事から私達の生活は始まった。
けれども悲観する事は何もなかった。
私には奇跡の力があったし、神奈子様も諏訪子様も神様であるからそれぞれに生活に役立つ能力があった。
火がなければ風の摩擦を利用して火を起こし、水がなければ川を開いた。
平地がなければ山を削るまでだ。
それら一連の作業は驚くほどの早さで事が進められ、幻想入りして10日もしないうちに殆ど外の世界と変わらない程の生活環境を手に入れていた。
こうして台所の前に立てているのは幾つもの奇跡を経た成果に他ならなかった。
私が神ではなく只の人間であればとうの昔に野垂れ死んでいただろう。
これから私はどうするつもりだろう。
幻想郷にて信仰を十分過ぎるほど得たとしてその後はどうするつもりなのだろう。
もう向こうの世界に帰る事は出来ない。
どれほどこちらの世界で神の業を極めても所詮箱庭のような幻想郷の中で影響力を発揮するだけである。
それにどのような意味があるだろう。
今は良い。
霊夢さんも魔理沙さんも居る。
沢山の知り合った人外の者達も居る。
神奈子様も諏訪子様も居る。
最近では妖怪の山の者とのわだかまりも消えつつある。
しかしそれらは全て私の前を過ぎ去っていくだろう。
私は幾ら神であると強がった所で未だ人間の弱さをクドいほど抱えている。
けれども神奈子様や諏訪子様の苦悩が今ならば少しだけ理解出来る。
しかしながら、まだ私は決定的な体験をしていない。
大切な人を順次失うという体験を・・・
これから長い時間を生きるだろう。
沢山の者を失うだろう。
神と自らを定めた者の宿命だ。
きっと私は耐えられないだろう。
どれだけ想像しようとも、その場に直面しなければ分からない感情がある筈だ。
今でさえ失う事の恐ろしさに震えているというのに、本当にその時を平静に迎える事が出来るだろうか。
今、私達を信仰してくれている信徒たちも徐々に消えて行くのだろう。
やがて幻想郷の中ですら信仰を維持できない日がやってくるのだ。
神奈子様や諏訪子様との別れを経験しなければならないだろうか。
殆ど分身も同然の我が二柱を。
それすらも受けれいる事が神の業であろうか。
そういう事を神奈子様に話した事がある。
神奈子様は優しく、それこそが神だと言った。
神奈子様は私が居るから神奈子は果報者だと言った。
それは諏訪子も同じだろうとも言われた。
いずれ全てを失い一人になる時が必ず訪れるのだそうだ。
その時、自らを救い、次代の神を見出す力となるのは己の過去の所業と想い出の中にあるのだそうだ。
良い思い出があるのならばそれだけで神は生きていけるのだそうだ。
一度得た信仰はそれが表面的に消えてしまったとしても、神の中に何時までも宿り続けるのだそうだ。
それを存在が消えかかる寸前に思い出せるかどうか。
過去の想いに向き合い、自らの神性を肯定できるかどうか。
その時の為に全ての修行はある。
だから今は沢山の者と出会いなさい。
それが一番の修行だと教えて頂けた。
7
夏でも妖怪の山の川は冷たい。
素麺を冷やすのには最適であるし、色々な野菜を冷やしておく事も十分に可能だった。
当初全く扱えなかった包丁も随分と軽快に動くようになった。
胡瓜を短冊に刻む事も苦ではない。
勿論大葉を極細に刻む事だってお手の物だ。
夕餉の支度に掛かる時間は三時間程。
向こうの世界では考えられないような長時間。
けれど、日が暮れれば当に夜の帳が下りる幻想郷において夕餉は安息の時であった。
その安息を有意義に過ごすためにも旨い料理は欠かせないだろう。
一品一品に手間を惜しまない事。
それは一日一日を惜しまない事でもあるのだ。
向こうでは一日を幾度投げやりに過ごしていただろうか。
けれどもそれを悪いと断言できる程にはまだ私は神になりきれていない。
偶に何もせずに一日を只、過ぎるに任せたい自分も居る。
明日からも修行が続くだろう。
未だ私は何も知らないに等しいだろう。
明日も博麗神社に赴こうか。
皆とどんな話をするだろうか。
明日は晴れるだろうか。
妖怪の山が夕焼けに燃える様は圧倒的な光景だ。
夕陽が落ちるのを待たずに東風谷早苗は夕餉の支度を整えた。
綺麗に盛りつけられた一品一品は天神の清涼さを持って二柱を迎える。
その清廉さには何時残酷が眼前に現れたとしても決して動揺しない覚悟が込められている。
祓給ひ清給ふ事を 諸聞食へよと宣ふ
fin
早苗さんが、色んな経験をしながら自分の立ち位置を見極めていく過程が美しいですね。
この設定が動き出した物語を読んでみたかったです。
ま、これが良いという人もいるので、個人的な趣味嗜好の問題ですけれども。