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拭い去りがたい焦燥感がレミリア・スカーレットの胸の内に燻っていた。
気分転換に弾幕ごっこをやっても、極上のブランデーを空けても、換気をしても消えない煙草の匂いのように、小さな胸の内から『それ』が消える事は無く、レミリアは憂鬱な日々を過ごしている。寝ても醒めても付き纏う『それ』の所為で、どうにも溜め息ばかりが漏れてしまうのだ。
そんなレミリアを見て、メイド長をはじめとする紅魔館の面々も心配をするのだが、レミリアは気のない返事を返す事しかできず、紅霧異変以前のフランドールのように、締め切った自室に閉じこもっている。
他人を気遣えるほどの余裕が、今のレミリアには無い。
圧倒的な権勢を誇り、幻想郷にその人ありと謳われた永遠に紅い幼き月が、今では陰鬱な表情で、ただ溜め息を吐くばかり、光輝いていたカリスマもすっかり曇ってしまい、今や天下の往来を歩いていても、一般人に埋没してしまう始末である。
何故、こうなってしまったのか。
レミリア自身が語らぬ以上、誰もその原因を知らない。そして、原因を知らぬが故に、紅魔館の面々は更に心配を募らせていた。
「はぁ……」
そして、レミリア・スカーレット自身は最近どうにもお通じが悪いことを嘆き、深い溜め息を吐くのであった。
実際、本当にお通じが悪いのだ。
レミリア・スカーレットは吸血鬼であるが、古典的吸血鬼のように血だけ吸って満足するという、発展性のない事を良しとはしない。
とても進歩的な吸血鬼である彼女は、人間の食べ物も好んで食べる。
血を用いた菓子類や吸血鬼としての栄養を満たす料理は勿論のこと、人間が食べるような食べ物も、美味しいお酒も、房総半島名物のなめろうまで、彼女は吸血鬼でありながら積極的に楽しんでいた。
だから、当然のように出るものは出てしまう。
こればっかりはどうしようもない話だ。食って、飲んで、消化をしたら、排泄物が出るのは当然の摂理である。
ただ例外もある。外の世界のアイドルとかいう幻想生物は排泄を行わないらしい。きっと遠い異世界『グローランサ』におけるエルフのように植物の類なのであろう。ならば、生きているのに排泄行為を行わないのも納得するしかない。確かにアイドルというのは高嶺の花などと呼ばれているのだから、植物なのも当然と言えるだろう。
だが、レミリア・スカーレットは違う。
吸血鬼は幻想生物の範疇に入るが、彼女は真っ当なタンパク質の肉体を有していた。細胞壁のある連中とは違うのだ。
故に食えば、ちゃんと出る。
だのに、ここ一週間程、どうにもお通じが無かった。お陰でお腹も少し張っている。その所為だろうか。体はだるいし、頭はボーっとするし、食欲もなくなるし、カリスマも曇りがちで、つい気弱になってしまう。
便秘になんて、なるもんじゃない。
「本当に、困ったな……」
更に面倒な事に、レミリアは今まで便秘になったことがなかった。それなりに長い吸血鬼人生において、初便秘だ。
五百年間生きていて、レミリアは常に快眠快便という見本的な健康優良吸血鬼で、食べれば、すぐ、出す、という便秘気味の人から見れば、実に羨ましい体質の持ち主だった。
だから、今回の便秘に、どう対処すればいいのかがわからなくて、レミリアは戸惑っている。
最も、便秘になった心当たりはあるのだ。
八雲紫ががお土産に持ってきた『ずんどこべろべろ』の所為だろう。
これを生でペロリとやるのが堪らなく美味しくて、レミリアは『ずんどこべろべろ』を山のように食べてしまった。だが、それはどうにも吸血鬼の消化器系と相性が良くなかったらしく、翌日から全く出なくなったのである。
レミリア・スカーレットが便秘になった経緯は、そんな所だ。
そして、こんな恥ずかしい事、他の誰にも相談は出来ない。
幻想郷のパワーバランスの一角を担う紅魔館当主が『ずんどこべろべろ』を食べ過ぎて便秘であるなどと、誰に相談できるものか。
あまつさえ、それが外部に漏れたりしたら……いや、詰まっているのに漏れるというのも可笑しな話であるが、それはともかく、
『紅魔館当主レミリア・スカーレット氏、なんと糞詰まり!』
そんな三面記事をレミリアは思い描いた。
これは醜聞というレベルには留まらないだろう。仮にそんな事が起こったら、レミリアは家督を妹のフランドールに譲って出家でもしないかぎり、世間はスカーレット家を許してはくれないに違いない。
だから、レミリアは便秘の事を秘匿した。
家の者を信用していないわけではない。
しかし、秘密は知る者が少なければ少ないほど漏れにくいものである事をレミリア・スカーレットは良く知っている。
この便秘は、今の時点ではレミリア以外の誰も知らない。ならば、今のうちに解決すれば、この醜聞はなかった事になる。
実際、ちょろっと出てもらえれば、それで済む程度の事でしかない。
否、そろそろ出てもらわないと、いかにレミリア・スカーレットが強靭な吸血鬼であっても、辛い。
どげんかせんといかん。
「……とりあえず、一回トイレに行ってみようか」
そう言ってトイレに行こうとしながらも、それが無駄である事はレミリアも薄々理解している。
いくら息んでも、便意がないときに出ないものは出ない。人の体とは、ままならないモノなのだ。
けれども、便秘の時、人は無駄だと知りつつトイレに入ってしまう。
慎重に周りを見回しながら、紅い悪魔はトイレに駆け込んだ。
紅魔館のトイレは、炎洗式洋式便器を採用している。
これはとある異世界にあるトイレの形式で、地獄の業火によって便器を洗浄するという水洗に比べてもクリーンで、匂いも全く残らないまことに清潔な洋式トイレである。更に下水ではなく、ゲートを利用して処理をしているので、下水の届いていない紅魔館でも、浄化槽に頼らなくて済む。ある種、外の世界よりも進んだトイレだった。
そこにレミリア・スカーレットは、ドロワを下ろして、魔王ベルフェゴールが如く座り込み、必死に唸り始めた。
「……うーっ」
だが、出ないものは出ない。
圧倒的な力を誇り、運命を操る程度の能力を持つ吸血鬼といえども、便意を操る術は無く、肝心の物は、これっぽっちも出てくれない。
吸血鬼は打ちのめされた。
このレミリア・スカーレットは自信家である。
己の力に強い自負を持ち、それに頼って天衣無縫に生きている。
だが、彼女が便りとしている力が、吸血鬼としての力が、うんこには全く通用しない。
己の体一つ自由にならないとは――
得体の知れない敗北感に、レミリアは襲われた。
その後、十分ばかり唸っていたが、どうにも出る様子がないのでレミリアは諦めてトイレから撤退する。
出てないけれど、ちゃんとお尻は拭いた。
全てを焼き尽くす地獄の炎で、便器も清めた。
レディとして、当然の事である。
○
「お嬢様、今日は夏日という事もありまして、スタミナが付くように極上の鰻を仕入れてきましたわ。私としては、これほど良い鰻は白焼きにしようと思っているのですが……蒲焼にしてうな重にするもの捨てがたいものがあります。さて、如何します?」
「ああ、今日のご飯はいらないよ」
本日の晩餐について楽しげに語っていた咲夜の提案を、レミリアはあっさりと却下した。
「え。で、でも、昨日もそう仰って、食事をとっていないじゃないですか」
「そう言われてもね。食べたくないものは食べたくないんだ。フランやパチェ、それに美鈴と相談して、お前達で好きに食べるといい」
「………………はい。分かりました」
心なしか、咲夜は寂しそうに部屋を出た。
だが、今のレミリアは気が付かない。
それに気が付くほどの余裕が無い。
それは、お腹が妙に張り出してきたからだ。
酷い膨張感が、永遠に紅い幼き月を襲っていた。
だが、それも当然であろう。一週間もお通じが無いとなれば、人も吸血鬼も関係なく、張ったお腹を抱えて苦しむ事は当然の事だ。
最早、一刻の猶予もないことは明白である。
このままでは、お腹がドンドン大きくなり、レミリア・スカーレットの便秘は白日の下に晒されてしまうだろう。
それは、このままでは確実に訪れるであろう身の破滅だった。栄光あるスカーレット家の名誉が、地に落ちてしまう。
今までは、誰もがレミリア・スカーレットを見ると羨望を眼差しで見つめていた。
宴会に顔を出せば下にも置かぬ扱いで、チーカマやビーフジャーキーが惜しげもなく振るまわれ、飲み屋に顔を出せば、厳つい顔の酒焼けをした男達がこぞって、豆腐の胡麻和えやだし巻き卵を献上し、咲夜の買い物に同行をすれば、そこらのおばちゃんから飴ちゃんを貰えるという、まさにカリスマという扱いを受けていた。
その権威が失墜する。
権威が、崩れてしまう。
それを避けるために、レミリアは動く。
「……図書館なら、きっと便秘を治す方法が見つかるはず」
現在は夕食時、紅魔館の面々は鰻を食べようと食堂に集まっている。
この間隙を突けば、誰もいない地下大図書館で安全に解決策を探す事ができるだろう。
咲夜が給仕の為に厨房に消えて、妖精メイドたちも休憩室で賄い飯を食べ始め、門番、司書、それに大図書館の主が食堂に会している今こそが、行動に出る好機である。
「ささささっ」
素早くレミリアは動く。
踊り場を華麗にすり抜け、地下へ続く階段を降り、レミリアは、幻想郷髄一の蔵書数を誇る紅魔館地下大図書館へと誰にも見つからずに足を踏み入れる事に成功した。
夏であるというのにひんやりと冷たい風が、レミリアの頬を撫でる。何でも最近はウンディーネとシルフの力を応用したエアコンなる冷房装置を取り入れているという事で、ここは夏でも常に涼しく、霧の湖の畔にあっても空気が乾いていた。
「……誰も、居ないわよね」
人気が無い事を確認し、レミリアはお腹を押さえながらも素早く、目的の本を探し始める。
見上げるほどに高い本棚の群れを、吸血鬼は突き進んだ。
目的地は医学系の本が置かれている本棚、そこに、この苦しみを解き放つ知識が納められている筈だ。
図書館を進むと、背表紙に書かれた文字列がレミリアの目に飛び込んでくる。
レメゲトン、ゴエティア、アルマンダル、ニグロマンティア。
死体の咀嚼、悪魔崇拝、魔女への鉄槌、神の法への巣箱。
エルトダウン・シャーズ、クタート・アクアディンゲン、ネームレス・カルツ、アル・アジフ。
マギステリウム完成の梗概、奇蹟の医の糧、抱朴子、エメラルド・タブレット。
エドウィン・スミス・パピルス、ターヘル・アナトミア、人体の構造についての七つの書、家庭の医学。
「これだ」
レミリア・スカーレットはそこで足を止めた。
そこは医学に関わる本が置かれている本棚であり、多種多様な医学書、健康法が納められている。これを紐解けばレミリア・スカーレットの便秘も瞬く間に解消されるだろう。
レミリアは、吸血鬼の便秘の治し方が書かれた本を探した。
だが、医学書の多くは人間を対象としており、吸血鬼の便秘の解消法などこれっぽっちも書かれていない。
辛うじて、幻想生物にまつわる医学書は見つかっても、書かれているのは『ろくろ首が寝違えた時の対処法』だの『夜雀の夜鳴きの治し方』といった妖怪に関する事ばかりで、吸血鬼の医学は影も形も無いのである。
吸血鬼とは頑丈である故に、医術は不要。
どうにもそういう事らしい。
「なら、人間の医学は適用できないだろうか」
人間と吸血鬼の体の構造は、良く似ている。目や口の数は同じだし、手足の作りもだいたい同じだ。ならばきっと、吸血鬼と人間の間にはセガ・サターンとハイサターンのように互換性がある筈だ。そう考えたレミリアは、人間用の医学書を幾つか紐解いてみる。
すると、何個かの解決策がレミリアの前に示された。
とある本によると、水を沢山取ると良いらしい。
便秘は、つまるところ、詰まっているのが問題なのだ。だから、詰まりを解消する為に潤滑剤として水分を摂取すれば、便秘はたちまち解消し、背も伸びて、視力も回復し、女の子にモテモテとなるらしい。
「水か。成程」
レミリアは、大いに頷いた。
水を飲めば、このスカーレット家の危機が救われるのだから、こんなに安上がりな事はない。これは即座に試してみるべきだろう。
「けれど、それが効かなかった時の為にプランBを用意しておくべきだね」
続いて提示された解決策が、発酵食品である。
なんでも、発酵食品を摂取すれば見事に便秘は解消され、歯は白くなり、肌は健康的な小麦色に日焼けして、ビーチの視線を独り占めできるらしい。
「発酵食品といえば、ピクルス、ザワークラウト、なれずし。そんなところかな」
ピクルスなら瓶詰めの奴が食品棚の奥にあった。ザワークラウトなら、ソーセージの付けあわせとして常に台所に常備していた筈だ。それを食べるだけで便秘が解消されるのだから、全く簡単なモノである。
更に何かないかとレミリアはページを捲った。
「……これは、便秘解消ヨーガ!?」
どうやら、便秘の解消には消化器系に作用するヨーガがてき面に効くらしい。
流石はインドが世界に誇るヨーガである。
これを極めると七つの化身に変身できたり、サイコミュ兵器が使えるようになったり、白目を剥いてテレポートしたりとやりたい放題が出来ると、近所の奥様方にも評判なのだ。これは実に具合がいいと、レミリアはヨーガの本をペラペラと捲り、便秘解消ヨーガを頭に叩き込み始めた。
だが、その途中で――
ギィィと扉が開く音が聞こえた。
「だ、誰だ?」
慌ててレミリアは本を閉じ、それを棚に戻して気配を探る。
まだ、レミリアが図書館に入って十分も経っていない。食べるのが遅いパチュリーや、それに付きっ切りの小悪魔が、こんなに早く図書館に戻ってくるはずがないのだ。
ならば、図書館に入ってきたのは誰か。
「……これが侵入者となると、魔理沙か」
侵入者=魔理沙
これは幻想郷において当然の公式である。最近は壁抜けの邪仙が、こと進入に関しては幅を利かせているらしいが、それでも紅魔館の大図書館と言ったら、あの白黒以外に考えられない。
普段であれば、遭遇した侵入者には弾幕の洗礼を浴びせるのが通例となっている。
だが――
「このお腹を抱えては、戦えないか……」
レミリア・スカーレットは歯噛みした。
弾幕ごっこの最中に腹部に一撃でも食らったら、きっと大変な事になってしまうだろうし、例え一撃を受けなくとも、激しい運動をした事で便意が加速し、大変な事になってしまう可能性は十分に考えられた。強烈な便意の湧き上がる中での弾幕ごっこ、それは地獄と同義である。
「……この私が、身を隠さなければならないとは」
レミリアは安全な場所にまで退避することを決める。
地面に伏せて両手を交互に動かして、匍匐前進によって赤じゅうたんの上を前進する。
「なんて、情けない……ッ」
そんな無様な姿をしている自分に、レミリアは強烈な怒りを覚えた。
スカーレット家当主が、侵入者を相手にして身を隠している。
それが、腹の底から悔しい。
だが、大儀の為には屈辱を飲まなければならない時もある。ここで弾幕ごっこをして便意を覚え、お腹を抱えてへっぴり腰になるという無様な姿を晒すよりは、匍匐前進をしている方が万倍良い。
そうして出口まで脱出をしようとしていて、レミリアはハタと気が付く。
何かが。おかしい。
霧雨魔理沙が侵入したにしては、静かなのだ。
今の図書館には人が居ないのだから、魔理沙が其処に進入したのであれば、片っ端から本を盗もうとバッサバッサと音が出るはず。だが、それが無い。ドアが開いた音が聞こえた後、殆ど何も聞こえてこない。
もしかしたら、魔理沙ではないのだろうか。
レミリアは音のした方に匍匐前進で忍び寄る。すると見慣れた虹色の翼が目に付いた。
フランドール・スカーレット。
レミリア・スカーレットの実妹である。
「……なんで、あの子が」
レミリアは吃驚した顔をする。
確かに、紅魔館の面々が食堂に集まっている時も、フランは例外的に地下室に居た。最近は、幾らか安定してきたとは言っても、まだ外を歩き回るよりも地下室に居る事を好むフランは、自室で食事を取るからだ。
そして、地下大図書館と地下にあるフランの部屋は近しい。そう考えれば、フランが大図書館に来る事は不思議ではないのかもしれない。
だが、今この瞬間にフランが現れるなどという事を、レミリアは全く想定していなかった。
そうして、レミリアが本棚の陰に隠れて呆然としていると、フランドールは辺りをキョロキョロ見回してから、本棚を漁り始めた。
「今日こそ見つかるといいんだけどな。さーってと、今日はこの棚から調べてみよう」
妹も本を探している。
それも『今日こそ』などと語っている以上は、少なくとも何日かに渡って調べ物をしているらしい。
何を探していているのだろうか。
司書の小悪魔が無い時を狙って、レミリアと同じようにこっそりと調べ物をしている。
張っているお腹が苦しいけれど、見つかってしまったら面倒だけれど、妹の隠密行動というのは姉として気になるモノ。
レミリアは本棚の陰に隠れながら、妹の様子を窺った。
背表紙を指差し確認で確かめながら、何か気になった本を見つけると取り出して、パラパラ捲って本棚に戻す。背伸びしても届かない列は、踏み台を持って来て、上って調べる。
そうやって、フランが調べているものとは――
「お姉様を元気にする方法って、どの本を読めば分かるんだろう」
なんともピンポイントな事を探していた。
多少は安定してきたけれど、五百年も箱入り娘をしていた事で、度を過ぎた世間知らずになってしまった事は、いかんともし難い。
だから、人を元気付ける方法ではなく、レミリア・スカーレットを元気にする方法を探して――何も見つけられなくて、困っている。
「――あの子は、本当に馬鹿だな」
レミリア・スカーレットは、そこで言葉を詰まらせた。
そして、自分がどれだけ妹に、そして紅魔館の住人達に心配をかけているのかを理解する。
まだ、精神的に幼いフランでさえ、どうにか姉を元気付けられないかと、こっそり方策を調べているくらいだ。ならば、他の住人は、もっと早くからレミリアの異変に気が付いていたに違いない。
心配を、かけていた。
心苦しい思いをさせていた。
レミリアはようやく、それに気が付いた。
先に夕食を断った時に、咲夜の顔が曇ってはいなかったか。いつも心づくしの料理を作ってくれる咲夜に甘えて、ぞんざいな態度を取っていなかったか。
腹心の友であるパチュリーにしても、普段と様子が違うのにも関わらず、全く相談をしないことで、不安にさせていたのではないか。
温和な性格で紅魔館のムードメイカーをしてくれている美鈴にも、気を使わせていたのではないか。
小悪魔やメイド妖精達も、覇気の無い紅魔館当主を気遣っていた筈だ。
それをレミリアは認識する。
心が、痛んだ。
必死に姉を元気つけるための本を探そうと、高い本を取ろうとして必死に手を伸ばす妹を見てて、レミリアの視界が僅かに滲む。
声をかけて、安心をさせてやりたいと思ってしまう。
だが、ここで全てを明かす事は、許されない。
それをしては、今まで踏み拉いてきた全てを、裏切る事になってしまう。今まで秘匿してきたからこそ、この醜聞は誰の目にも触れていなかったのだ。だから、レミリア・スカーレットは心を鬼にして、素早い匍匐前進で図書館を去った。
「もう少し待っていて、きっとすぐに、出してしまうから――」
強い決意と共に腹部異変を解決する事を、家族に誓った。
――それから、一週間後。
「……うー、でない」
様々な民間療法を試したにも関わらず、レミリアのお通じに改善の傾向は見られなかった。
2
はいはい、どうも。
皆様ご機嫌如何ですか、清く正しい、皆様の射命丸文でございます。
ええ、紅魔館さんは素直に新聞を貰ってくれるので、本当に助かっております。お陰で文々。新聞も『あのカリスマも読む新聞』などというキャッチで、三部ぐらい部数が増えました。いやはや、ありがたい話です。もう、紅魔館さんには足を向けて寝られませんよ。
そんな訳で、優良読者の紅魔館さんに一つお聞きしたいというか、アンケートがしたいのですが、よろしいでしょうか――美鈴さん。
あ、良いですか。それは良かった。
いや、どうにも最近はこんなちょっとしたアンケートでも嫌だ嫌だと嫌がる人が増えましてねぇ。別に何処かに連れ込んだりして、絵を買わせたりなんてしないのに、やれ『帰れ』だの『悪徳新聞業者お断り』だの、酷い言われようでして。こちらは慈善事業をするように、清く正しく社会貢献をしているんですけどねぇ。ええ、新聞は社会の木鐸ですから。
はは、ちょっと脱線してしまいましたね。
それで、一つお聞きしたい事があるんですが、うちの新聞でどの記事が一番面白いですかね。
いえね、ちょっと実験的に芸能面とか社会面、それにスポーツ面なんて分けてみたでしょう。あれ、外の世界の新聞を参考にしてみたんですが、どれが一番人気なのかなぁ、と。
は?
あ、四コマ漫画が一番ですか。そうですか。
まー、確かにあれ。面白いですもんね。アレなら仕方ありません。しりあがり寿先生は本当に面白い。私も大好きです。なんと言っても名前が良いですしね。尻上がりするコトブキなんて、とっても縁起が良いじゃありませんか。
まあ、でも、あれ。勝手に拾った四コマ漫画を転載しているだけなんで、それを褒められると、どうにも複雑な心境なんですが。ええ、私の手柄にはなりませんから。
割と欲張りなんですよ、私。
ともあれ、それ以外だとどうですかね。
個人的に一押しは芸能面で、最近だと『鳥獣伎楽のミスティア・ローレライに熱愛発覚!』とかで、割と部数が伸びたんですよ。やっぱり、人間だろうが妖怪だろうが、ホレタハレタのゴシップは、みんな興味津々でして。
え、熱愛してたのかって?
いえ、してませんよ。だからちゃんと見出しの下には小さく『か?』は付けときました。折り返しで隠れているので、見えにくいですけれど、あの記事の正式な見出しは『鳥獣伎楽のミスティア・ローレライに熱愛発覚! ……か?』なんですよね。これも外の世界の新聞からパク……じゃなくて、参考にしたんですが、こうすると嘘を吐かずに扇情的に書けるんです。やっぱり嘘はいけません。
まあ、そんな訳で芸能ゴシップは非常に面白いんです。芸能人や有名人のゴシップが有るか無いか、でっかいスクープを掴んだかどうかで、次の新聞大会が決まるくらいに。特に、紅魔館さんの所にレミリア様なんて、幻想郷における最高のセレブリティですから、破壊力抜群ですよ。
そうそう、それで一つ、お聞きしたい事があったのを思い出しました。
「レミリア・スカーレットさんが妊娠なされたという噂があるのですが、これは本当ですかね?」
○
「た、大変です、咲夜さん! お嬢様が妊娠なさっているそうです!」
十六夜咲夜がロビーの掃除をしていると、唐突にそんな叫びが辺りに響き渡った。
絶叫の主は紅美鈴だ。肩で息をする彼女は、今日の日付の『文々。新聞』を握り締めたまま、酷く動揺した顔で咲夜に駆け寄ってくる。
「藪から棒に何を言っているの」
「さ、さっき、しゃ、射命丸さんが新聞を持って来て……それで、こう聞くんです。レミリア・スカーレットさんは妊娠していませんか? って」
「何を馬鹿な事を真に受けているのよ。お嬢様に限って、そんな事あるわけないじゃない」
「で、でも、確かに射命丸さんの言っている事は、当を得ているんです! 最近のお嬢様は、妙にピクルスだのザワークラウトだのといった酸っぱいものばかり食べていました。これって、妊娠した人の嗜好ですよね!」
「…………それは、確かにそうね」
それは美鈴の語る通りだった。
この一週間というもの、紅魔館の当主はピクルスやザワークラウトばかり食べている。本来は付け合せに過ぎない両者を、ただひたすらに単体で食べ、他のモノは殆ど口にしていないのだ。例外は、美鈴が守谷神社に出かけたときに、お土産で貰ってきたなれずしぐらいのものだろうか。だが、それもやはり酸っぱいもの。レミリア・スカーレットは本当に酸っぱいものしか食べていない。
その奇行を咲夜は注意しようとした。
そんなにザワークラウトばかり食べていると、キャベツ野郎になってしまうと叱ろうとしたのだ。
だが、その前の一週間、レミリアは殆ど何も食事をしていなかった。それを思えば、ザワークラウトでも食べないよりはマシと、咲夜はレミリアの奇行を許容していた。
それが、妊娠の兆候であったというのだろうか。
「で、でも、だからと言って、お嬢様が妊娠されたなんて決め付けるのは早計でしょ。そんな事を言ったら、酢の物好きの人はいつも妊娠している事になるじゃない」
「それだけじゃないんです」
美鈴は、ある種の確信を持った顔をしたまま続ける。
「お嬢様はヨーガを始めたでしょう」
「……始めたわね。何故か、私達に知られないように、こっそりと」
「知っていますか、咲夜さん。ヨーガにはマタニティヨガという物があるんですよ、胎教の為のヨーガが」
「まさか」
ありえない話だと、咲夜は頭を振る。
だが、唐突なヨーガに関しては咲夜も気になっていたのだ。
そもそも、レミリア・スカーレットとヨーガの間に接点がない。この幻想郷にインド人は一人も居ないし、インド的要素も殆どない。せいぜい、命蓮寺の本尊である毘沙門天ことクーベラの故郷がインドであるくらいだ。それなのに、レミリアがヨーガをしている事には咲夜も違和感を覚えていた。
「でも、だからって」
咲夜は否定の言葉を口にした。
だが、美鈴はまだ続ける。
「それに、やたらとトイレに行く事が多かったでしょう」
「……そ、そうだったかしら」
「あれって、もしかして、つわりなんじゃ」
「そ、そんなわけ無いでしょう」
咲夜は、曖昧な言葉で誤魔化そうとする。
だが、紅魔館で一番レミリアを見ているのが十六夜咲夜だ。
その咲夜から見ても、レミリアのトイレの回数は、少し気になっていた。
少なくとも一日に六回。多いときは十三回も、レミリアはトイレに駆け込んでいたからだ。今までは、暑くなってきたのでたくさん水を飲んで、それでトイレに行っていると咲夜は考えていた。
だが、今となっては、それも怪しく思えてしまう。もしかしたら、アレはつわりではなかったのか。
咲夜の心が疑心に満たされようとしていた。
もしかしたら、主人は――本当に妊娠しているのかもしれないという考えを振り払えない。それほどに、ここ一週間のレミリアの行動は、おかしかった。
「それと、これは射命丸に頂いた写真なのですが――お嬢様のお腹が、少し膨らんできているらしいのです」
「やめて」
それ以上は聞きたくないと、十六夜咲夜は耳を塞いだ。
幼い身でありながらも、他の百戦錬磨の大妖怪たちと対等以上に渡り合う永遠に紅い幼き月が、事もあろうか妊娠しているなど、そんな事があっていい筈がない。
いい筈がないのに。
現実は、残酷な答えを出そうとしている。
「真夜中の散歩に出ていたお嬢様が無防備な姿を晒しているところを激写したらしいのですが、この写真に写るお嬢様のお腹は、どう見ても不自然に膨らんでいます」
咲夜は、恐る恐る写真を見る。
それはレミリア・スカーレットが背伸びをしているところを盗撮したもので、そこに写る、ちらりと覗く吸血鬼の腹部は、確かに、僅かに、膨らんでいるようにも見える。
妊娠をしているようにも見えるし、影の加減でそう見えるだけのように見える。
「……咲夜さん!」
美鈴が不安そうな口調で、咲夜の名を呼んだ。
私は、どうしていいのか分かりません。
咲夜は、美鈴の声にならない言葉を確かに聞く。
「どうすればいいのか……」
答えは最初から出ている。
確かめる。
それが、今の咲夜がしなければならない事だ。
もしも、妊娠という醜聞が勘違いであれば笑い話にしてしまえばいい。だが、これが本当であった場合は――沢山の覚悟をしなくてはいけない。場合によっては汚れ役もしなくてはいけない。だから、惑っている暇などない。即座に行動を起こさなくてはならない。
何故なら自分は、完璧で瀟洒な従者なのだからだ。
主人の為であれば、如何なる事でも、時には主人の不興を買うようなことでもする。それが真実の忠義という物である。
だから――
「美鈴」
「は、はい」
「これは他の誰にも?」
「はい、誰にも話していません」
「そう。だったら、これは私と貴方と、鴉天狗の三人だけが知っているって認識でいいのね」
「た、多分ですが。いや、射命丸さんが私以外に話したかは、私には分かりませんけど」
「それはきっと大丈夫よ。もしも、これが本物であるならば、それは極上のネタになる。それを新聞にしない内に、アレがネタを漏らすわけがない。それに、これが事実であるならば、これほどのスキャンダル、いつものように適当にでっち上げる事もしないでしょう」
「な、成程」
「だから、美鈴。これは誰にも話さないように、あの鴉天狗の動きには十分注意をしておいて」
「ちゅ、注意を、ですか?」
「私は、これからお嬢様に真偽を確かめてくるから」
「さ、咲夜さん」
そう言い残して、十六夜咲夜は走り出した。
真実を確かめる為に。
紅魔館の当主の部屋、そこへと急ぐ。
○
レミリアの部屋に行く途中で、咲夜はメイド妖精達に出会った。
彼女達は咲夜の顔を見るなり、慌てて道を譲った。
今の咲夜は、それほどに張り詰めた顔をしているのだろう。
深紅の絨毯を踏み拉き、窓の無い廊下を突き進み、常に薄暗い、頼りない灯が点々とするだけの階段を上り、ついに咲夜はレミリアの部屋へと辿りついた。
そして、ノックをしようとし――その手を止める。
止まってしまう。
怖い、からだ。
もしも、全てが天狗の想像するように、美鈴の語るようになってしまっていたらと考えると、底知れぬ怖さに咲夜は襲われる。
十六夜咲夜の信じてきた世界が壊れてしまう。
そうなったら、どうすればいいのだろうか。残酷な結末しか、咲夜には浮かんでこない。どう処理しようとしても、破滅的な未来しかメイド長には見えてこなかった。
「ああ――」
十六夜咲夜は、その場に蹲り、苦悩する。
そうして、咲夜がドアを叩く事すらできずにいると、ふと目の前に鍵穴がある事に気が付いた。
中からは、部屋の明かりが紅魔館の薄暗い廊下へと漏れ出している。
咲夜は――鍵穴を覗いてしまった。
不忠にも程がある。主人の寝所を覗くなど目玉をくり貫かれても弁解できぬ所業だ。
それなのに、十六夜咲夜は、気が付いたらレミリアの部屋を覗いていた。
小さな鍵穴の向こうでは、天蓋付きの豪奢なベッドに身を横たえた一人の吸血鬼が、傍目からみれば滑稽な、複雑怪奇なポーズを取っている。
それは紅魔館当主のレミリア・スカーレットに間違いなかった。寝所にいる彼女は、必死な顔をしてヨーガをしている真っ最中だったのだ。
十六夜咲夜は、ヨーガをしているレミリアのお腹を注視する。
だが、ゆったりとした室内着を着ている所為で、レミリアのお腹は膨れているのかへこんでいるのか分からない。
「………………んっ、こ、これって結構苦しいわね」
そうして覗いている咲夜に気が付かず、レミリアの額には、玉の様な汗が浮かんでいる。どうやら割と長い時間をヨーガに費やしていたらしい。
しばらくして、レミリアはヨーガのポーズを解いた。
「……やっぱり、そんなに効果があるものでもないよねぇ」
綺麗なレースのハンケチで額の汗を拭いながら、レミリアは自身の下腹を何度か撫でる。それは、鍵穴から見ている咲夜には、まるで我が子を慈しむような仕草に見えた。
だが、そうして慈しむように腹を撫でた直後、レミリアは、まるで忌々しい物を見るように自身の腹を睨みつけると、
「ああ、これがなければ、こんな苦労をする事なんて無かったのに――」
怒り、否、それは憎しみの光だった。
それの光を認めて、咲夜は反射的にドアを叩く。
あのまま放置をしていては、大変な事になってしまうと、そう思ったのだ。
「誰?」
すると、レミリアは慌ててヨーガで乱れた服を直し、いつも通りの威厳たっぷりな紅魔館当主の顔になって、誰何をした。
「咲夜です」
「……入りなさい」
十六夜咲夜は、入室の許可を受ける。
それは、ある種の覚悟を決めなくてはならない時が来たという事だ。
確認を、しなければならない時間が来た。
紅魔館の小さな当主は、軽く汗を額に浮かべながら、ベッドの上に腰掛けている。その姿は、まさに幻想郷に咲いた気高き一輪の薔薇そのものだ。
そんな穢れなき薔薇に、新しい命が宿ってしまったのか、咲夜は確認しなければならない。
その為には――
つかつかと、咲夜はレミリアの所へと進み出た。
その顔は酷く強張っており、抜き放った白刃のような剣呑さを見る者に与える。
「お嬢様」
咲夜は、レミリアの肩を掴む。
「え? な、なに?」
忠実なる従者の突然の行動に、レミリアは驚きの声を上げた。だが、咲夜は構わずに、細い腕に見合わぬ強い力で、レミリアを押さえつける。
「御聞きしたい事があります。どうしても、聞かなければならないことなのです。教えていただかなくてはならない事があるのです。ですから、どうか、どうか、このご無礼をお許し下さい!」
咲夜はレミリアを押し倒した。
その姿は、傍目から見ればメイド長が思い余って、主人を手篭めにしようとしているようで――
「ちょ、ちょっと、咲夜、何を……てっ、きゃあ!」
そして、主人であるはずのレミリア・スカーレットは、忠実な従者に押し倒された事で動揺をし、まるでか弱い乙女のように悲鳴を上げる。人間よりも遥かに強いはずの吸血鬼が、いとも容易く組み伏せられてしまう。
「失礼いたします!」
その間隙を利用して、メイド長はレミリアのドレスを掴むと、それを強引に引き裂いた。
絹を裂くような悲鳴。
服の破れる嫌な音。
メイド長の荒い息。
ズタズタになったドレス、引き裂かれたキャミソール、純白のドロワ、そして、露になる吸血鬼の真っ白な裸体に、ぽっこりしたお腹。
「ああ――」
それが視界に入った瞬間、十六夜咲夜は崩れ落ちた。
信じられなかった。
信じたくなかった。
だが、咲夜の眼前には、レミリア・スカーレットの大きくなったお腹が、存在している。実存してしまっている。
現実という物は、途方もなく残酷である事を咲夜は心で理解した。
「……ついに、明らかになってしまったわね」
レミリアは、小さく溜め息を吐いた。
恥ずかしげに顔を赤らめながらも吸血鬼は、何処か安堵したような顔をし、視線を下に彷徨わせながら、言葉を紡いだ。
「まあ、これだけお腹が出てくれば、こうなるのは当たり前だったか」
自身の大きくなったお腹を撫でながら、自嘲気味に吸血鬼は続ける。その声に混じるのは、微かな後悔と、大きな苦しみか。
密かに子を宿して、レミリア・スカーレットは酷く苦しんでいたのだろう。
それが、こうした形でも解放された事によって、きっと彼女は――救われたのかもしれない。
「ごめんね、咲夜。ずっと黙っていて」
レミリア・スカーレットは従者に謝罪をした。
傲慢不遜なる紅魔館当主が、従者に頭を下げた。
その謝罪を受けて咲夜は、
「……………………いえ、良いんです」
随分と長い沈黙の後に、咲夜は切れ切れになりながらも、そう返し、顔を上げた。
その顔は、新雪のように真っ白で、微かに震えていて――
「えと、大丈夫?」
「……どうにか、大丈夫です。何とか、理解しようとしています。今はまだ、受け入れ切れていませんが、すぐに受け入れて見せます。私は、常にお嬢様のお味方です。どんな事があっても、お嬢さまを裏切りません」
「そ、そっか。それは良かったわ」
どうにか、現実を受け入れた咲夜に対して、レミリアはホッとしたような顔をした。それを見て、咲夜は、どんな事があろうともこの人だけは守らなくてはいけないと覚悟を新たにする。
だが、その為にも絶対に確認しておかなければならない事がある。
「それで、そのお嬢様」
「なんだ?」
「そ、そのお腹は、どうなさるつもりですか?」
「難しいな。一人でどうにかしようと考えていたんだけど、どうにもならないみたいだから、永遠亭に行って薬でも貰いに行こうかと考えている」
「……く、薬、ですか?」
「あそこなら、私にも効く薬を処方してくれるだろうしね。流石に、そろそろこのお腹をどうにかしたい」
そう言ってレミリアは、自身のぽっこりしたお腹を叩いた。
その様子を咲夜は愕然とした顔で見る。
そして――
「駄目です! 幾らお嬢様でも、それを許す事は出来ません!」
十六夜咲夜の感情が炸裂した。
それを目の当たりにして、レミリア・スカーレットは目を丸くする。
いつも瀟洒で、生の感情を表に出さなくて、閻魔からは『冷たい』などと言われていた十六夜咲夜が、こんな顔をするなんて、考えてもみなかったのだろう。
だが、そうして動揺するレミリアとは裏腹に、咲夜は激しい勢いで続けた。
「そんな簡単に薬でお腹をどうにかするなんて、そんな事を言わないでください! 確かに、お嬢様のお体で、そのお腹は辛い事と思われます。きっと、苦しいだろうと思います。ですが、誰が父親なのかは私には分かりませんが、そこに居るのは紛れもなくお嬢さまの赤ちゃんなのでしょう? それなのに、そんな簡単に薬で――」
「いや、待って」
「待ちません。ここで待つことなんて出来ません」
「いや、だから」
「命は、命は力なんですよ。命は、この宇宙を支えているものなのです。それを、それを、こうも簡単に失わせるのは、それは、それは、醜い事なんですよ!」
「いや、あの、なんか勘違いしているけど、これは…………便秘」
「それなのに、どうしてそうも簡単に………………って、え?」
そこで、ようやく二人は大きなすれ違いをしている事に気が付いた。
どうやら、レミリア・スカーレットがお腹に抱えているのは、子は子でも、うんが付く方のこである事を十六夜咲夜は理解した。そして、レミリアの方も、咲夜が自分のぽっこり膨らんだお腹について根本的な誤解をしていた事を知ったのであった。
「だからね。その、これって、う、うん…………なの」
「え、えーと。その、お、お通じですか?」
今までの言動を振り返り、顔を真っ赤にしながら咲夜が尋ねる。
「ま、まあ、そうなのよね」
対して、レミリアは照れ臭そうに、笑った。
それで、二人はようやく分かり合えたのだ。
種族も違う。
生まれた時代も違う。
生国も異なれば、立場だって大きく違う。
けれど、分かり合える事はできるのだ。
――人は、分かり合える。
お通じは無いけど、人は通じ合う事を出来る事を、二人が証明した瞬間だった。
3
たまらないな。
射命丸は、そうひとりごちた。
幻想郷をひっくり返すほどのスキャンダル、それが目の前にぶら下がっている。そいつは、とても芳しくて、危険な匂いがしているのだ。全く以ってスキャンダルとは、危険であればあるほど、たまらない。
否、既に射命丸は、危険には片足を突っ込んでいる。
先に、射命丸文は紅魔館にカマをかけた。
偶然に撮ってしまった一枚の写真から浮かび上がったネタが、モノになるのかを探ってみた。
『レミリア・スカーレットの妊娠』
それがどれくらい紅魔館の住人に浸透しているのかを確かめる為に、それに真実が一片でも含まれているのかを確かめる為に、門番に尋ねたのだ。
そして、それは予想以上の効果を上げている。
射命丸は、尾行されていた。
本来は紅魔館を守っていなければいけない筈の門番が、鴉天狗の後をこそこそと付回している。所謂、尻尾が付いた状態だ。
それは、先のカマかけに一片の真理が含まれているという事である。少なくとも、レミリア・スカーレットの腹が膨れている事は、便秘とか糞詰まりでは無いという事だ。
幻想郷がひっくり返る程のスクープを、射命丸は手に入れようとしていた。
「――ああ、堪らない」
鴉天狗は、来るべきスクープの予感に身をよじらせる。
誰も、射命丸が特ダネを掴んでいる射命丸を知らない。誰も、幻想郷をひっくり返すスキャンダルを射命丸が掴んでいる事に、気が付いていない。そんな誰も知らないことを自分だけが握っているという事が、彼女の快楽を更に増幅させる。
本当に、たまらない。
だが、浮かれてばかりもいられないだろう。
このスキャンダルが本物であるならば、紅魔館は本気で射命丸を潰しにかかって来る。場合によっては、消しにかかってくるかもしれない。殺されてしまうかもしれない。
想像するだけで、背筋が凍り――笑みも零れる。
命のやり取りをしなければいけないほどのスクープを手に入れた。それが、嬉しい。たまらない。
――射命丸文という鴉天狗、骨の髄まで記者であった。
スクープが大きければ大きいほど、その悦びは増大する。命を張るスクープなど、本当に記者冥利に尽きるというものだ。死ねばペンに全てを捧げた英雄、生きれば幻想郷をペンでひっくり返した英雄、どちらにしても射命丸には損は無い。ならば、ブレーキをかける理由など無かった。
「……ただ、まだ調べる事は多そうですね」
尾行している門番を横目で見ながら、射命丸は思索する。
幻想郷を揺るがすほどの大スクープ。
だからこそ、飛ばし記事にして、いい加減な事を書いてはスキャンダルの神に申し訳が立たぬ。しっかりと裏を取り、レミリア・スカーレットの社会生命を絶つぐらいの記事にしなければ、一新聞記者として情けないにも程がある。
その為にも、ある一点は抑えておきたい。
それは、相手だ。
レミリアが、誰の子を孕んでいるのか。
レミリアが、誰と深夜の運動会をしていたのか。
レミリアが、誰とベッドで少年律動体操をしていたのか。
これは、ゴシップ関係で一番大事なことである。
例えば、『驚愕! ミスティア・ローレライ、路上で西行寺幽々子と熱烈なベーゼ!』などと書き立ててみる。すると、最近人気急上昇中の歌手ミスティア・ローレライが西行寺家の姫君幽々子と熱愛発覚となって、多くの読者が『おお! あの有名歌手が、西行寺家の姫君と出来てたのか!』と興味を引く事だろう。
だが、これが例えば『ミスティア・ローレライと古明地さとり、地底のお泊り会!』などと書き立てても、普段の接点が無い所為で、多くの人は興味を持つよりも『あれ? 原作で接点あったっけ?』と怪訝な顔をするだろう。
カップリングは、とっても大切な事なのだ。
誰と誰がくっ付くのか、これの良し悪しで、それをおかずにご飯がどれくらい食べられるかが決まってくる。元気っ子には、お姉さんタイプやクーデレを。小生意気なツンデレには、お姉様タイプか若さの残る気苦労タイプを、不思議系には姉貴タイプか、熱血馬鹿をと、熟練のカップリング職人は最高の組み合わせを求めて日々苦労をしている。
だからこそ、レミリア・スカーレットの相手方が誰かを探る事はとても重要だ。
それに、相手方が不明瞭なまま報道すると説得力が不足する。だからこそ、レミリアの深夜のストレッチパートナーを射命丸は探さなくてはならない。
「レミリア・スカーレットの交友関係を洗うのが一番の近道ですかね……しかし」
相手方が紅魔館内部にいた場合、これは面倒臭くなりそうだ。
ともあれ、まずはやり易い所からと、射命丸は博麗神社に飛んだ。
○
「どうもご機嫌いかがですか? 品行方正な鴉天狗、皆様の射命丸文がやってまいりました」
「帰れ」
「ははは、これはいきなり手厳しい」
いきなり反発されてしまったが、取ってつけた最高の笑みで取り入って、射命丸文は神社で情報収集を開始する。
神社には常駐している巫女の他に、暇そうな魔法使い、何処か頭の螺子が外れた現人神、世間知らずの半霊とそれなりに頭数は揃っているので、それらからレミリア・スカーレットの話を聞いてみると、だいたいが似たような感想が帰ってくる。
「最近、付き合い悪いわね」
「ああ、そうだな。弾幕ごっこをしようと言っても『ちょっと、調子が悪いから』とかいって逃げるし」
「でも、本当に調子が悪いのかもしれませんよ。何か、お腹を押さえて唸ってるのを見たことありますし」
「食べすぎだったんじゃないですか?」
「あんたの主人じゃないんだから、それは無いでしょ。あいつ、小食だし」
射命丸の確信を補強する証言はあるが、新事実と呼べるようなものは、何一つ無かった。
だが、それは仕様の無い事だ。真実を手に入れるためには、相応の代価が必要とされる。そして、記者という物がその代価を支払うには、足で払うしかない。ちょっと歩いただけでスクープが手に入る程、記者家業は楽ではないのだ。
それに、全く収穫が無かったわけではない。
ここにいる四人は、レミリアの症状に対して無関心だ。
ならば、これらがレミリアの相手という事はあるまい。こうして、一歩一歩進むしか真実に近付く術など無いのである。
それと、聞き込みの最中になかなか面白い話も聞けた。
「そういえば、二週間ぐらい前、レミリアの家に紫が遊びに行ったらしいわね」
「それは……珍しい組み合わせですね」
「まあ、そうかもね。でも、アイツって神出鬼没だし、珍しいという事も無いんじゃないの」
確かに、そうだ。
八雲紫は、何処にでも現れる。
その神出鬼没さは、体を霧に変える伊吹萃香、無意識に潜む古明地こいし、壁抜けの邪仙と呼ばれる霍青娥などと並んで幻想郷四大神出鬼没に数えられるほどである。だから、彼女が紅魔館に顔を出していたとしても不思議な事は何も無い。
だが、何か引っかかるものを射命丸は感じた。
それは論理的なものではなく、記者のカンとしか言い表せないモノだ。
そして、その記者のカンが『レミリア・スカーレットの妊娠』に八雲紫が関わっている。そう、感じたのだ。
少なくとも、調べる価値はあるだろう。
射命丸は、八雲紫を探した。
神出鬼没な紫を見つける事はかなりの困難を伴ったけれども、射命丸は数多の艱難を乗り越えて、どうにか八雲紫に取材を試みる事に成功した。
「お久しぶりですね、紫さん。毎度おなじみ、清廉恪勤な射命丸文でございます。そちらの式の方にはいつもウチの新聞をご愛読していただき、本当にありがたいことです。いやはや、この射命丸。八雲家の方々には、足を向けて眠れませんよ」
「成程。足を向けられないねぇ。それだと、私の式は幻想郷中に散っているから、貴方は横になって眠れない事になるけど」
「ええ、お陰で最近は机に突っ伏して寝る事が多くて……新聞記者というのは、これでなかなか大変なんですよ」
まるで幇間のような挨拶をしながら、射命丸はじっくりと八雲紫の観察をする。
顔面からは、いつも通りの胡散臭い雰囲気を醸し出されていて、表情の読めない厭らしい笑みがひょっこり浮かんでいる。
どうにもいつも通りだった。
その態度から推察すると、八雲紫がレミリア・スカーレットを傷物にした相手という事も無いように思える。もしも紫が吸血鬼の相手であるならば、少しぐらい動揺をしていてもおかしくない。
アテが、はずれたか。
確かに、最近接触をしたからと言って、レミリア・スカーレットと八雲紫では繋がりが少しばかり薄かった。それなのに、二人が深夜のプロレスごっこをする間柄になると考えるのは、少しばかり早計であったと、射命丸は反省する。
それでも聞くべき事は聞いておこうと、射命丸は薮蛇にならない程度にカマをかけてみる。
「えー、ところで最近、レミリアさんの調子が悪いそうなんですよ」
「……え、レ、レミリアの、調子が?」
おやおや。
期待をしていなかったので、射命丸は少し驚き、そしてにまりと笑った。どうやら、記者としてのカンは鈍っていなかったらしい。
八雲紫は、レミリアの事を出すとあからさまに動揺している。
「それでなんですがね……これはオフレコですけれど。レミリアさん、どうもお腹が大きくなってしまっているようなんですよ。いやぁ、不思議ですよねぇ。いきなりお腹が大きくなるなんて……これについて、何か知っている事はありませんか、紫さん?」
畳み掛ける事を決めた射命丸は、レミリア・スカーレットの隠し撮りを紫に見せた。
「え……そ、そうなの? レミリアが……そ、そうだったの」
すると、八雲紫の顔色は――蒼白になった。
大当たりだ。
射命丸は、その反応に手ごたえを感じる。間違いなく、これは――現在のレミリア・スカーレットに起こっている問題に八雲紫は深く関わっている。
どうやら、紫はたった今までレミリアに何が起こっているのかを全く知らなかったらしい。そして、それをたった今知り、こうして動揺しているのだ。
成程、最初の余裕たっぷりの態度も、知らぬが故か。ならば、納得する事もできる。
そして今、八雲紫はレミリアの現状を知り、激しく動揺をしていた。
これは、好機だ。
だた、相手は幻想郷でも髄一の狸である。油断など、欠片も出来ない。細心の注意を払い、動揺している今の内に、情報を根こそぎに引き出す必要がある。
「あれれー、紫さん。もしかして、レミリアさんに何かしたんですか?」
まるで何処かのコナ○ン君のような口ぶりで、射命丸は聞いた。
「そ、それは……」
「口ごもるって事は、何かしたんですね?」
「あ、貴方には関係が無いでしょう」
「関係はありますよ。私とレミリアさんは、大親友ですからね。心の友ですよ。マイ・ベスト・フレンドです。一緒に水曜スペシャルで、霧の湖にてモケーレ・ンベンベの捜索をした戦友なんです。知りませんか? 『巨大水棲獣モケーレ・ンベンベ! 謎の霧の湖に巨大怪獣は実在した!!』って企画で、私とレミリアさんは一緒に大怪獣を探したんですよ。ですから、私は心配なんです。どうにも元気が無くなったレミリアさんが心配で、だからこうして、その原因を探っているのです」
「貴方達、親友……だったの?」
「ええ、そうです。なので教えて下さいませんか? 貴方がレミリア・スカーレットに何をしたのかを! どうして、あんな事になってしまったのかを!」
普段であれば、八雲紫を言いくるめるなど出来る事ではなかっただろう。スキマ妖怪が、ブンヤの鴉天狗にむざむざ情報をくれてやったりなどしなかっただろう。
しかし、八雲紫は完全に動揺してしまっていた。
闇に隠れて他人を操る策士も、自身が窮地に陥ってしまえば弱いものだ。だから『心の友』などという胡散臭いキーワードも、幻想郷の賢者は簡単に信じ込んでしまった。
「わ、私は、こんな事になるなんて……」
八雲紫が、落ちた。
射命丸文は、心の中で舌なめずりをする。
これで幻想郷始まって以来の大スクープをモノにできると考えると、興奮を隠し切れない。かの大妖怪の二人によるスキャンダル、それは『文々。新聞』の売り上げを今だかつてないモノにしてくれるだろう。いや、鴉天狗の頂点に立つことも夢ではないかもしれない。射命丸に、我が世の春が訪れようとしていた。
そんな新聞の為に全てを犠牲とする射命丸の所業は、傍から見た場合『外道』とも受け取る人も多いだろう。
そして、それは正しい。
彼女は、スクープの為なら、親父を遊郭に売り飛ばす事もやむ無しと心に決めているほどの、新聞の鬼である。ならば、その為にあらゆる手段を許容する事は、射命丸にとって当然のことであった。
新聞の為なら、外道上等。
そう決めているのだ。
「さあ、教えて下さい!」
射命丸が、詰問する。
すると、八雲紫は観念したように話し始めた。
「……ずんどこべろべろよ。きっと、それの所為に違いないわ」
憂いに満ちた顔をして、童女のようにスカートを両手で握り締めながら、八雲紫が告白をした。
「え?」
対して射命丸は、何を言っているのか分からずに思わず聞き返す。スキマ妖怪の言葉がいまひとつ理解できなかったからだ。
だが、そんな鴉天狗の事など気にせずに、スキマ妖怪は話を続ける。
「吸血鬼にはずんどこべろべろは消化が悪いかもしれないって、分かっていたはずなのに、つい、美味しいからとおすそ分けをした私が悪かったのよ! それに、つい『生の方が美味しいわ』なんて、江戸の粋人みたいな事を言ったから、生のずんどこべろべろを進めてしまったから、こんな事になってしまったんだわ!」
そう叫ぶと、八雲紫は両手で顔を覆い『ヨヨヨ……』と泣き出してしまった。
射命丸は事態についていけていない。
そもそも、ずんどこべろべろとは何だ。
聞いていれば、それは食べ物のように聞こえる。だが、そんなけったいな名の食べ物を射命丸は知らない。何かの暗喩か、それともちゃんとした名前なのか。それすらも分からない。
「あ、あの……ずんどこべろべろってなんですか?」
それが分からないと、このスクープの本質が見えてこない。射命丸は泣き崩れている紫に聞いた。
「え……貴方って、ずんどこべろべろを知らないの?」
すると八雲紫は、素に戻って射命丸文を見た。その仕草から察するに、それは本当に常識的な事のようで――
「し、知ってますよ。そんな事は!」
射命丸は激しい羞恥心から、つい知ったかぶりをしてしまった。
それが、射命丸が『ずんどこべろべろ』を知る唯一の機会を逃した瞬間になる。
なぜなら、ここで紫が「あ、いけない! こんな事をしているより、早くお見舞いに行かないと!」と言って、スキマに潜り込んでしまい――
「え、ちょ、待って!」
スキマ妖怪は消えてしまったからだ。
残されたのは、鴉天狗が一人だけ。
他には誰もいない。
だから、ずんどこべろべろが何かも聞くことが出来ない。
そもそも、今更『やっぱり何ですか』なんて聞けやしない。
気が付けば、射命丸の後をつけて来た紅美鈴も、居なかった。恐らく射命丸が紫を探そうと飛びまわっている間に撒いてしまったのだろう。
一人っきりになった射命丸は、最早スクープどころではなくなって頭を抱える。
「ずんどこべろべろとは、一体……何なんだあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
謎である。
4
その日は、遠く山の方に入道雲が見える夏日だった。
八意永琳は、まだ日が上がり切っていないうちに打ち水をしようと水桶と柄杓を持って庭に出ると、山にかかった大きな雲を見て「あら」と声を上げる。
高い高い入道雲上にちょこんと座って休んでいる竜宮の使いが見えたからだ。
竜宮の使いがお休みしているという事は、午前中に雷が鳴る事は無いだろう。そして、竜宮の使いが入道雲に待機をしているという事は、午後辺りから雷雨が起こるに違いない。
里に使いの兎を出すならば、午前の間にしておこう。
そんな事を決めながら、永琳は庭に打ち水をする。
石畳が水に濡れて、黒く染まった。
玉砂利に水をくれてやると、それはすっかり水を素通りさせ、下の土を湿らせた。これからの夏日を考えれば、実にいい感じだ。
残りは石灯篭の汚れを流したり、微かに生えた草木にやったりしていると、近くを歩いていた兎が『喉が渇いた』とやって来た。これに、残った水をやると水桶は空になる。
これで、午前中は少しだけ涼しくなるか。
後は午前は読書でもして過ごそうかと、永琳は考える。
一冊ほど本を読み終えたら、打ち水で朝の涼しさを保っている庭先にて、輝夜と一緒に宇治金時でも食べるのだ。涼しげな庭で食べる宇治金時は、きっと、茶の香りと餡子、それに栗の食感が混ざり合い、とても美味しいに違いない。
「……と思ったのだけれど、来客のようね」
迷いの竹林の方に耳を澄ませば、小さな足音が聞こえている。
八意永琳は、竹林の方を見た。
すると、薄いピンクの日傘をクルクルと廻し、ナイトキャップを被り、紅いリボンが目に鮮やかなドレスを着ている、一人の少女が歩いてくる。
それは紅魔館の吸血鬼、レミリア・スカーレットだった。
「久しいね。前に来た時は、永夜異変の時だっけ?」
「いいえ、月都万象展が行われた時には来ているでしょう。ほら、うちの兎が御餅を突いた」
「ああ、あったね。なんか普通な御餅」
「他にも、ガガーリン五歳のみぎりの頭蓋骨を貴方が欲しがったり」
「あの額に『地球は青かった』って刻まれている奴か。あれは、とても珍奇な品だったからね。見た時に、本当に欲しかったんだよ。最も、そっちのお姫様がどうしても譲ってくれなかったけど」
「それはそうね。貴方は『お嬢様』かもしれないけど、うちの輝夜は『お姫様』なの。だから、ずっと我が侭なのよ」
本当に困ったものだと永琳は肩をすくめる。
それを見て『お嬢様』は堪えきれずに笑った。
僅かに地面の湿る永遠亭の庭先で、笑いの花が咲いた。
しばらくの間、塗れて黒くなった石畳が乾きはじめる程度の時間、益体も無い話は続き――
「それで、どうして此処に来たの?」
それは唐突に終わる。
八意永琳の問いかけに、レミリアは黙った。
口を何度か開き、そして閉じ、日傘を何度もくるくる廻している。手持ち無沙汰になっている左手は所在無く動いていた。
言いよどんでいる。
レミリア・スカーレットは、何かを言いたいという風にしながらも、それを言えずに口ごもっていた。
竹林を涼しげな風が吹きぬける。
聳える孟宗竹、石畳と玉砂利の庭、草庵、止まったししおどし、興味津々でこちらを見ているうさぎ達――
「こら、貴方達。散った散った」
永琳が負い散らかすと兎達は『わー』等と歓声を上げながら竹林の中へと消えていく。これで、レミリアの話を聞くのは永琳一人となった。
「さあ、他には誰もいないから、話してごらんなさい」
「う、うー……」
すると、レミリアは、ちょっと眉を顰めるとなんとも可愛らしい声で唸った。
それを見て、ふと八意永琳の心の内にある感情が湧き上がってくる。
それは『あら、可愛い』という物だった。
つい――八意永琳の母性本能が刺激されてしまう。
元々、八意永琳という人間は、情の深い、愛情が強い人間だ。
輝夜の為に月を捨て、かつての教え子の綿月姉妹の為に策謀を巡らす、可愛い教え子の為なら、危険な事も平然とやってのけるほど、情には弱い所がある。
だから、自分の前で少し不安げにしている五百歳児の吸血鬼が、ちょっと可愛い。あらかわいい。
そんな風になるのも仕方が無かった。
「ほら、大丈夫だから、何があったの?」
膝を曲げてレミリアと同じ視線にしてやって――まるで保母さんみたいな調子で、八意永琳は話を聞いてやろうとする。
その献身的な態度が功を奏したのだろう。それでようやく、レミリアも重い口を開いた。
「えと、その、実は……ここ二週間ぐらい――」
お通じが無い。
そうレミリアが語ろうとした瞬間、空間が凄まじい音を立てて軋み始めた。
青色の空は紫に変わり、健康的な入道雲は禍々しい黒の噴煙に変化をし、太陽は蝕でも起きたかのかのように光を失う。
それは、まるで世界の終わりの光景。
そんな漆黒に染まった天の中央に、一筋の線がすぅっと引かれ、その線は目が開かれるように広がり、無機質な視線が覗くスキマへと変化していく。
そこから、一匹の妖怪が忽然と姿を現すと、藪から棒にこう叫ぶ。
「レミリア! 私がずんどこべろべろをあげた所為で、うんこが出なくなったって本当!?」
すげぇでっかい声で、八雲紫はデリカシー無く叫んだ。
それは幻想郷全土には響き渡らんとする大きな声で、入道雲にいる永江衣玖や永遠亭のうさぎ達、それに中にいるであろう蓬莱山輝夜達が『なんだなんだ』と騒ぎ出すほどでっけぇ声であった。
「うわああああああああああああ!!」
顔を真っ赤にしたレミリアは、スキマから顔を出した紫をぶん殴る。
すると紫は「モルスァ」みたいな声を出して、何処かにすっ飛んでいったのであった。
ep
かくして、レミリア・スカーレットは吸血鬼専用の下剤を手に入れる事が叶った。
あとは、飲んで出すだけである。
たった一つ粒の錠剤を水で飲み干し、レミリア・スカーレットはトイレにこもる。
ある種の、確信はあった。
きっと出るに違いないという予感が、レミリアの胸の内に渦巻いている。
否、これは運命だろう。
今日、二週間ぶりにお通じがあるという運命、それをレミリアは引き当てたのだ。
スカートを捲りあげてドロワを下げると、炎洗式の洋風便器にちょこんと座る。
そして――
「でたー!」
レミリアはガッツポーズをしてトイレから出てくる。
二週間の長きに渡り、頑固に居座り続けた部隊を掃討し、レミリアの機嫌はとてもよろしい。
そんな吸血鬼を万雷の如き拍手が襲う。
何事かと思えば、レミリアがトイレに入っている間に沢山の人々が祝福しようと集まっていたのだ。
「お姉様、おめでとー!」
姉の為に心を砕いてくれていたフランドールが、その中から飛び出してレミリアに抱きつく。
「おめでとうございます。お嬢様」
ずっと憂い顔をしていた十六夜咲夜が、夏の空のような晴れ晴れとした顔で手を叩いていた。
「よく頑張ったわね、レミィ」
友であるパチュリー・ノーレッジも安心したように手を叩く。
「レミリア・スカーレット復活ッ!」
影でレミリアの為に動いていた紅美鈴は、とても力強い拍手をしながら、紅魔館当主をひたすらに称える。
「流石はお嬢様ですね!」
図書館の司書である小悪魔も、祝福をする。
妖精メイド達も集まって、レミリアに沢山の拍手と声援を送ってくれた。
そして、レミリア・スカーレットを祝福するのは紅魔館の住人達だけではない。
「吸血鬼に効くか少し不安だったけど、ちゃんと効いたみたいね。良かった」
「レミリア、あのパンチは体重が乗っていて、ナイスパンチだったわ」
「ずんどこべろべろとは一体……うごごご」
八意永琳、八雲紫、射命丸文も、無事にトイレを済ませたレミリアを祝福してくれている。
「あのさ、なんで私がレミリアのトイレに呼ばれているの? え? 便秘だったって? へぇ、大変だったのね」
「あー、便秘かぁ。わかるぜ。私も、前に消化器系に致命的なダメージを負わせるキノコを食った事があったけどさぁ」
「正露丸を飲めば、お腹の事はだいたい解決します!」
「ゆゆ様も、たまにお腹を壊すぐらいの可愛げがあればいいんですけど……はぁ」
霊夢、魔理沙、早苗、妖夢の四人は何で私達は呼ばれたのかと、疑問な顔をしながらも、拍手をしてくれている。
鳴り響く万雷が如き喝采の中で、レミリア・スカーレットはしばらくの間、呆然としていた。
便秘であった事を知られ、戸惑いと羞恥心が浮かんでくる。
だが、そうした負の感情など問題にならないほどに湧き上がってくるのは――感謝だった。
それこそが、最も重要な事なのだ。
誰もがレミリアを心配し、慮ってくれていた。そして、快癒した事を祝福してくれている。それこそが、形ばかりの名誉よりも、ずっと尊い事である。
だから、レミリアは集まって、拍手をしてくれている人々に「ありがとう」を言った。
そこには糞詰まりを起こして、誤解を恐れ、一人で悩んでいる吸血鬼など居ない。
友を信じ、ありのままの自分をさらけ出したデーモンロードが、可憐でありながらも威厳に満ち溢れた素晴らしい笑みを浮かべていた。
そのカリスマは、とても眩しく輝いていた。
了
拭い去りがたい焦燥感がレミリア・スカーレットの胸の内に燻っていた。
気分転換に弾幕ごっこをやっても、極上のブランデーを空けても、換気をしても消えない煙草の匂いのように、小さな胸の内から『それ』が消える事は無く、レミリアは憂鬱な日々を過ごしている。寝ても醒めても付き纏う『それ』の所為で、どうにも溜め息ばかりが漏れてしまうのだ。
そんなレミリアを見て、メイド長をはじめとする紅魔館の面々も心配をするのだが、レミリアは気のない返事を返す事しかできず、紅霧異変以前のフランドールのように、締め切った自室に閉じこもっている。
他人を気遣えるほどの余裕が、今のレミリアには無い。
圧倒的な権勢を誇り、幻想郷にその人ありと謳われた永遠に紅い幼き月が、今では陰鬱な表情で、ただ溜め息を吐くばかり、光輝いていたカリスマもすっかり曇ってしまい、今や天下の往来を歩いていても、一般人に埋没してしまう始末である。
何故、こうなってしまったのか。
レミリア自身が語らぬ以上、誰もその原因を知らない。そして、原因を知らぬが故に、紅魔館の面々は更に心配を募らせていた。
「はぁ……」
そして、レミリア・スカーレット自身は最近どうにもお通じが悪いことを嘆き、深い溜め息を吐くのであった。
実際、本当にお通じが悪いのだ。
レミリア・スカーレットは吸血鬼であるが、古典的吸血鬼のように血だけ吸って満足するという、発展性のない事を良しとはしない。
とても進歩的な吸血鬼である彼女は、人間の食べ物も好んで食べる。
血を用いた菓子類や吸血鬼としての栄養を満たす料理は勿論のこと、人間が食べるような食べ物も、美味しいお酒も、房総半島名物のなめろうまで、彼女は吸血鬼でありながら積極的に楽しんでいた。
だから、当然のように出るものは出てしまう。
こればっかりはどうしようもない話だ。食って、飲んで、消化をしたら、排泄物が出るのは当然の摂理である。
ただ例外もある。外の世界のアイドルとかいう幻想生物は排泄を行わないらしい。きっと遠い異世界『グローランサ』におけるエルフのように植物の類なのであろう。ならば、生きているのに排泄行為を行わないのも納得するしかない。確かにアイドルというのは高嶺の花などと呼ばれているのだから、植物なのも当然と言えるだろう。
だが、レミリア・スカーレットは違う。
吸血鬼は幻想生物の範疇に入るが、彼女は真っ当なタンパク質の肉体を有していた。細胞壁のある連中とは違うのだ。
故に食えば、ちゃんと出る。
だのに、ここ一週間程、どうにもお通じが無かった。お陰でお腹も少し張っている。その所為だろうか。体はだるいし、頭はボーっとするし、食欲もなくなるし、カリスマも曇りがちで、つい気弱になってしまう。
便秘になんて、なるもんじゃない。
「本当に、困ったな……」
更に面倒な事に、レミリアは今まで便秘になったことがなかった。それなりに長い吸血鬼人生において、初便秘だ。
五百年間生きていて、レミリアは常に快眠快便という見本的な健康優良吸血鬼で、食べれば、すぐ、出す、という便秘気味の人から見れば、実に羨ましい体質の持ち主だった。
だから、今回の便秘に、どう対処すればいいのかがわからなくて、レミリアは戸惑っている。
最も、便秘になった心当たりはあるのだ。
八雲紫ががお土産に持ってきた『ずんどこべろべろ』の所為だろう。
これを生でペロリとやるのが堪らなく美味しくて、レミリアは『ずんどこべろべろ』を山のように食べてしまった。だが、それはどうにも吸血鬼の消化器系と相性が良くなかったらしく、翌日から全く出なくなったのである。
レミリア・スカーレットが便秘になった経緯は、そんな所だ。
そして、こんな恥ずかしい事、他の誰にも相談は出来ない。
幻想郷のパワーバランスの一角を担う紅魔館当主が『ずんどこべろべろ』を食べ過ぎて便秘であるなどと、誰に相談できるものか。
あまつさえ、それが外部に漏れたりしたら……いや、詰まっているのに漏れるというのも可笑しな話であるが、それはともかく、
『紅魔館当主レミリア・スカーレット氏、なんと糞詰まり!』
そんな三面記事をレミリアは思い描いた。
これは醜聞というレベルには留まらないだろう。仮にそんな事が起こったら、レミリアは家督を妹のフランドールに譲って出家でもしないかぎり、世間はスカーレット家を許してはくれないに違いない。
だから、レミリアは便秘の事を秘匿した。
家の者を信用していないわけではない。
しかし、秘密は知る者が少なければ少ないほど漏れにくいものである事をレミリア・スカーレットは良く知っている。
この便秘は、今の時点ではレミリア以外の誰も知らない。ならば、今のうちに解決すれば、この醜聞はなかった事になる。
実際、ちょろっと出てもらえれば、それで済む程度の事でしかない。
否、そろそろ出てもらわないと、いかにレミリア・スカーレットが強靭な吸血鬼であっても、辛い。
どげんかせんといかん。
「……とりあえず、一回トイレに行ってみようか」
そう言ってトイレに行こうとしながらも、それが無駄である事はレミリアも薄々理解している。
いくら息んでも、便意がないときに出ないものは出ない。人の体とは、ままならないモノなのだ。
けれども、便秘の時、人は無駄だと知りつつトイレに入ってしまう。
慎重に周りを見回しながら、紅い悪魔はトイレに駆け込んだ。
紅魔館のトイレは、炎洗式洋式便器を採用している。
これはとある異世界にあるトイレの形式で、地獄の業火によって便器を洗浄するという水洗に比べてもクリーンで、匂いも全く残らないまことに清潔な洋式トイレである。更に下水ではなく、ゲートを利用して処理をしているので、下水の届いていない紅魔館でも、浄化槽に頼らなくて済む。ある種、外の世界よりも進んだトイレだった。
そこにレミリア・スカーレットは、ドロワを下ろして、魔王ベルフェゴールが如く座り込み、必死に唸り始めた。
「……うーっ」
だが、出ないものは出ない。
圧倒的な力を誇り、運命を操る程度の能力を持つ吸血鬼といえども、便意を操る術は無く、肝心の物は、これっぽっちも出てくれない。
吸血鬼は打ちのめされた。
このレミリア・スカーレットは自信家である。
己の力に強い自負を持ち、それに頼って天衣無縫に生きている。
だが、彼女が便りとしている力が、吸血鬼としての力が、うんこには全く通用しない。
己の体一つ自由にならないとは――
得体の知れない敗北感に、レミリアは襲われた。
その後、十分ばかり唸っていたが、どうにも出る様子がないのでレミリアは諦めてトイレから撤退する。
出てないけれど、ちゃんとお尻は拭いた。
全てを焼き尽くす地獄の炎で、便器も清めた。
レディとして、当然の事である。
○
「お嬢様、今日は夏日という事もありまして、スタミナが付くように極上の鰻を仕入れてきましたわ。私としては、これほど良い鰻は白焼きにしようと思っているのですが……蒲焼にしてうな重にするもの捨てがたいものがあります。さて、如何します?」
「ああ、今日のご飯はいらないよ」
本日の晩餐について楽しげに語っていた咲夜の提案を、レミリアはあっさりと却下した。
「え。で、でも、昨日もそう仰って、食事をとっていないじゃないですか」
「そう言われてもね。食べたくないものは食べたくないんだ。フランやパチェ、それに美鈴と相談して、お前達で好きに食べるといい」
「………………はい。分かりました」
心なしか、咲夜は寂しそうに部屋を出た。
だが、今のレミリアは気が付かない。
それに気が付くほどの余裕が無い。
それは、お腹が妙に張り出してきたからだ。
酷い膨張感が、永遠に紅い幼き月を襲っていた。
だが、それも当然であろう。一週間もお通じが無いとなれば、人も吸血鬼も関係なく、張ったお腹を抱えて苦しむ事は当然の事だ。
最早、一刻の猶予もないことは明白である。
このままでは、お腹がドンドン大きくなり、レミリア・スカーレットの便秘は白日の下に晒されてしまうだろう。
それは、このままでは確実に訪れるであろう身の破滅だった。栄光あるスカーレット家の名誉が、地に落ちてしまう。
今までは、誰もがレミリア・スカーレットを見ると羨望を眼差しで見つめていた。
宴会に顔を出せば下にも置かぬ扱いで、チーカマやビーフジャーキーが惜しげもなく振るまわれ、飲み屋に顔を出せば、厳つい顔の酒焼けをした男達がこぞって、豆腐の胡麻和えやだし巻き卵を献上し、咲夜の買い物に同行をすれば、そこらのおばちゃんから飴ちゃんを貰えるという、まさにカリスマという扱いを受けていた。
その権威が失墜する。
権威が、崩れてしまう。
それを避けるために、レミリアは動く。
「……図書館なら、きっと便秘を治す方法が見つかるはず」
現在は夕食時、紅魔館の面々は鰻を食べようと食堂に集まっている。
この間隙を突けば、誰もいない地下大図書館で安全に解決策を探す事ができるだろう。
咲夜が給仕の為に厨房に消えて、妖精メイドたちも休憩室で賄い飯を食べ始め、門番、司書、それに大図書館の主が食堂に会している今こそが、行動に出る好機である。
「ささささっ」
素早くレミリアは動く。
踊り場を華麗にすり抜け、地下へ続く階段を降り、レミリアは、幻想郷髄一の蔵書数を誇る紅魔館地下大図書館へと誰にも見つからずに足を踏み入れる事に成功した。
夏であるというのにひんやりと冷たい風が、レミリアの頬を撫でる。何でも最近はウンディーネとシルフの力を応用したエアコンなる冷房装置を取り入れているという事で、ここは夏でも常に涼しく、霧の湖の畔にあっても空気が乾いていた。
「……誰も、居ないわよね」
人気が無い事を確認し、レミリアはお腹を押さえながらも素早く、目的の本を探し始める。
見上げるほどに高い本棚の群れを、吸血鬼は突き進んだ。
目的地は医学系の本が置かれている本棚、そこに、この苦しみを解き放つ知識が納められている筈だ。
図書館を進むと、背表紙に書かれた文字列がレミリアの目に飛び込んでくる。
レメゲトン、ゴエティア、アルマンダル、ニグロマンティア。
死体の咀嚼、悪魔崇拝、魔女への鉄槌、神の法への巣箱。
エルトダウン・シャーズ、クタート・アクアディンゲン、ネームレス・カルツ、アル・アジフ。
マギステリウム完成の梗概、奇蹟の医の糧、抱朴子、エメラルド・タブレット。
エドウィン・スミス・パピルス、ターヘル・アナトミア、人体の構造についての七つの書、家庭の医学。
「これだ」
レミリア・スカーレットはそこで足を止めた。
そこは医学に関わる本が置かれている本棚であり、多種多様な医学書、健康法が納められている。これを紐解けばレミリア・スカーレットの便秘も瞬く間に解消されるだろう。
レミリアは、吸血鬼の便秘の治し方が書かれた本を探した。
だが、医学書の多くは人間を対象としており、吸血鬼の便秘の解消法などこれっぽっちも書かれていない。
辛うじて、幻想生物にまつわる医学書は見つかっても、書かれているのは『ろくろ首が寝違えた時の対処法』だの『夜雀の夜鳴きの治し方』といった妖怪に関する事ばかりで、吸血鬼の医学は影も形も無いのである。
吸血鬼とは頑丈である故に、医術は不要。
どうにもそういう事らしい。
「なら、人間の医学は適用できないだろうか」
人間と吸血鬼の体の構造は、良く似ている。目や口の数は同じだし、手足の作りもだいたい同じだ。ならばきっと、吸血鬼と人間の間にはセガ・サターンとハイサターンのように互換性がある筈だ。そう考えたレミリアは、人間用の医学書を幾つか紐解いてみる。
すると、何個かの解決策がレミリアの前に示された。
とある本によると、水を沢山取ると良いらしい。
便秘は、つまるところ、詰まっているのが問題なのだ。だから、詰まりを解消する為に潤滑剤として水分を摂取すれば、便秘はたちまち解消し、背も伸びて、視力も回復し、女の子にモテモテとなるらしい。
「水か。成程」
レミリアは、大いに頷いた。
水を飲めば、このスカーレット家の危機が救われるのだから、こんなに安上がりな事はない。これは即座に試してみるべきだろう。
「けれど、それが効かなかった時の為にプランBを用意しておくべきだね」
続いて提示された解決策が、発酵食品である。
なんでも、発酵食品を摂取すれば見事に便秘は解消され、歯は白くなり、肌は健康的な小麦色に日焼けして、ビーチの視線を独り占めできるらしい。
「発酵食品といえば、ピクルス、ザワークラウト、なれずし。そんなところかな」
ピクルスなら瓶詰めの奴が食品棚の奥にあった。ザワークラウトなら、ソーセージの付けあわせとして常に台所に常備していた筈だ。それを食べるだけで便秘が解消されるのだから、全く簡単なモノである。
更に何かないかとレミリアはページを捲った。
「……これは、便秘解消ヨーガ!?」
どうやら、便秘の解消には消化器系に作用するヨーガがてき面に効くらしい。
流石はインドが世界に誇るヨーガである。
これを極めると七つの化身に変身できたり、サイコミュ兵器が使えるようになったり、白目を剥いてテレポートしたりとやりたい放題が出来ると、近所の奥様方にも評判なのだ。これは実に具合がいいと、レミリアはヨーガの本をペラペラと捲り、便秘解消ヨーガを頭に叩き込み始めた。
だが、その途中で――
ギィィと扉が開く音が聞こえた。
「だ、誰だ?」
慌ててレミリアは本を閉じ、それを棚に戻して気配を探る。
まだ、レミリアが図書館に入って十分も経っていない。食べるのが遅いパチュリーや、それに付きっ切りの小悪魔が、こんなに早く図書館に戻ってくるはずがないのだ。
ならば、図書館に入ってきたのは誰か。
「……これが侵入者となると、魔理沙か」
侵入者=魔理沙
これは幻想郷において当然の公式である。最近は壁抜けの邪仙が、こと進入に関しては幅を利かせているらしいが、それでも紅魔館の大図書館と言ったら、あの白黒以外に考えられない。
普段であれば、遭遇した侵入者には弾幕の洗礼を浴びせるのが通例となっている。
だが――
「このお腹を抱えては、戦えないか……」
レミリア・スカーレットは歯噛みした。
弾幕ごっこの最中に腹部に一撃でも食らったら、きっと大変な事になってしまうだろうし、例え一撃を受けなくとも、激しい運動をした事で便意が加速し、大変な事になってしまう可能性は十分に考えられた。強烈な便意の湧き上がる中での弾幕ごっこ、それは地獄と同義である。
「……この私が、身を隠さなければならないとは」
レミリアは安全な場所にまで退避することを決める。
地面に伏せて両手を交互に動かして、匍匐前進によって赤じゅうたんの上を前進する。
「なんて、情けない……ッ」
そんな無様な姿をしている自分に、レミリアは強烈な怒りを覚えた。
スカーレット家当主が、侵入者を相手にして身を隠している。
それが、腹の底から悔しい。
だが、大儀の為には屈辱を飲まなければならない時もある。ここで弾幕ごっこをして便意を覚え、お腹を抱えてへっぴり腰になるという無様な姿を晒すよりは、匍匐前進をしている方が万倍良い。
そうして出口まで脱出をしようとしていて、レミリアはハタと気が付く。
何かが。おかしい。
霧雨魔理沙が侵入したにしては、静かなのだ。
今の図書館には人が居ないのだから、魔理沙が其処に進入したのであれば、片っ端から本を盗もうとバッサバッサと音が出るはず。だが、それが無い。ドアが開いた音が聞こえた後、殆ど何も聞こえてこない。
もしかしたら、魔理沙ではないのだろうか。
レミリアは音のした方に匍匐前進で忍び寄る。すると見慣れた虹色の翼が目に付いた。
フランドール・スカーレット。
レミリア・スカーレットの実妹である。
「……なんで、あの子が」
レミリアは吃驚した顔をする。
確かに、紅魔館の面々が食堂に集まっている時も、フランは例外的に地下室に居た。最近は、幾らか安定してきたとは言っても、まだ外を歩き回るよりも地下室に居る事を好むフランは、自室で食事を取るからだ。
そして、地下大図書館と地下にあるフランの部屋は近しい。そう考えれば、フランが大図書館に来る事は不思議ではないのかもしれない。
だが、今この瞬間にフランが現れるなどという事を、レミリアは全く想定していなかった。
そうして、レミリアが本棚の陰に隠れて呆然としていると、フランドールは辺りをキョロキョロ見回してから、本棚を漁り始めた。
「今日こそ見つかるといいんだけどな。さーってと、今日はこの棚から調べてみよう」
妹も本を探している。
それも『今日こそ』などと語っている以上は、少なくとも何日かに渡って調べ物をしているらしい。
何を探していているのだろうか。
司書の小悪魔が無い時を狙って、レミリアと同じようにこっそりと調べ物をしている。
張っているお腹が苦しいけれど、見つかってしまったら面倒だけれど、妹の隠密行動というのは姉として気になるモノ。
レミリアは本棚の陰に隠れながら、妹の様子を窺った。
背表紙を指差し確認で確かめながら、何か気になった本を見つけると取り出して、パラパラ捲って本棚に戻す。背伸びしても届かない列は、踏み台を持って来て、上って調べる。
そうやって、フランが調べているものとは――
「お姉様を元気にする方法って、どの本を読めば分かるんだろう」
なんともピンポイントな事を探していた。
多少は安定してきたけれど、五百年も箱入り娘をしていた事で、度を過ぎた世間知らずになってしまった事は、いかんともし難い。
だから、人を元気付ける方法ではなく、レミリア・スカーレットを元気にする方法を探して――何も見つけられなくて、困っている。
「――あの子は、本当に馬鹿だな」
レミリア・スカーレットは、そこで言葉を詰まらせた。
そして、自分がどれだけ妹に、そして紅魔館の住人達に心配をかけているのかを理解する。
まだ、精神的に幼いフランでさえ、どうにか姉を元気付けられないかと、こっそり方策を調べているくらいだ。ならば、他の住人は、もっと早くからレミリアの異変に気が付いていたに違いない。
心配を、かけていた。
心苦しい思いをさせていた。
レミリアはようやく、それに気が付いた。
先に夕食を断った時に、咲夜の顔が曇ってはいなかったか。いつも心づくしの料理を作ってくれる咲夜に甘えて、ぞんざいな態度を取っていなかったか。
腹心の友であるパチュリーにしても、普段と様子が違うのにも関わらず、全く相談をしないことで、不安にさせていたのではないか。
温和な性格で紅魔館のムードメイカーをしてくれている美鈴にも、気を使わせていたのではないか。
小悪魔やメイド妖精達も、覇気の無い紅魔館当主を気遣っていた筈だ。
それをレミリアは認識する。
心が、痛んだ。
必死に姉を元気つけるための本を探そうと、高い本を取ろうとして必死に手を伸ばす妹を見てて、レミリアの視界が僅かに滲む。
声をかけて、安心をさせてやりたいと思ってしまう。
だが、ここで全てを明かす事は、許されない。
それをしては、今まで踏み拉いてきた全てを、裏切る事になってしまう。今まで秘匿してきたからこそ、この醜聞は誰の目にも触れていなかったのだ。だから、レミリア・スカーレットは心を鬼にして、素早い匍匐前進で図書館を去った。
「もう少し待っていて、きっとすぐに、出してしまうから――」
強い決意と共に腹部異変を解決する事を、家族に誓った。
――それから、一週間後。
「……うー、でない」
様々な民間療法を試したにも関わらず、レミリアのお通じに改善の傾向は見られなかった。
2
はいはい、どうも。
皆様ご機嫌如何ですか、清く正しい、皆様の射命丸文でございます。
ええ、紅魔館さんは素直に新聞を貰ってくれるので、本当に助かっております。お陰で文々。新聞も『あのカリスマも読む新聞』などというキャッチで、三部ぐらい部数が増えました。いやはや、ありがたい話です。もう、紅魔館さんには足を向けて寝られませんよ。
そんな訳で、優良読者の紅魔館さんに一つお聞きしたいというか、アンケートがしたいのですが、よろしいでしょうか――美鈴さん。
あ、良いですか。それは良かった。
いや、どうにも最近はこんなちょっとしたアンケートでも嫌だ嫌だと嫌がる人が増えましてねぇ。別に何処かに連れ込んだりして、絵を買わせたりなんてしないのに、やれ『帰れ』だの『悪徳新聞業者お断り』だの、酷い言われようでして。こちらは慈善事業をするように、清く正しく社会貢献をしているんですけどねぇ。ええ、新聞は社会の木鐸ですから。
はは、ちょっと脱線してしまいましたね。
それで、一つお聞きしたい事があるんですが、うちの新聞でどの記事が一番面白いですかね。
いえね、ちょっと実験的に芸能面とか社会面、それにスポーツ面なんて分けてみたでしょう。あれ、外の世界の新聞を参考にしてみたんですが、どれが一番人気なのかなぁ、と。
は?
あ、四コマ漫画が一番ですか。そうですか。
まー、確かにあれ。面白いですもんね。アレなら仕方ありません。しりあがり寿先生は本当に面白い。私も大好きです。なんと言っても名前が良いですしね。尻上がりするコトブキなんて、とっても縁起が良いじゃありませんか。
まあ、でも、あれ。勝手に拾った四コマ漫画を転載しているだけなんで、それを褒められると、どうにも複雑な心境なんですが。ええ、私の手柄にはなりませんから。
割と欲張りなんですよ、私。
ともあれ、それ以外だとどうですかね。
個人的に一押しは芸能面で、最近だと『鳥獣伎楽のミスティア・ローレライに熱愛発覚!』とかで、割と部数が伸びたんですよ。やっぱり、人間だろうが妖怪だろうが、ホレタハレタのゴシップは、みんな興味津々でして。
え、熱愛してたのかって?
いえ、してませんよ。だからちゃんと見出しの下には小さく『か?』は付けときました。折り返しで隠れているので、見えにくいですけれど、あの記事の正式な見出しは『鳥獣伎楽のミスティア・ローレライに熱愛発覚! ……か?』なんですよね。これも外の世界の新聞からパク……じゃなくて、参考にしたんですが、こうすると嘘を吐かずに扇情的に書けるんです。やっぱり嘘はいけません。
まあ、そんな訳で芸能ゴシップは非常に面白いんです。芸能人や有名人のゴシップが有るか無いか、でっかいスクープを掴んだかどうかで、次の新聞大会が決まるくらいに。特に、紅魔館さんの所にレミリア様なんて、幻想郷における最高のセレブリティですから、破壊力抜群ですよ。
そうそう、それで一つ、お聞きしたい事があったのを思い出しました。
「レミリア・スカーレットさんが妊娠なされたという噂があるのですが、これは本当ですかね?」
○
「た、大変です、咲夜さん! お嬢様が妊娠なさっているそうです!」
十六夜咲夜がロビーの掃除をしていると、唐突にそんな叫びが辺りに響き渡った。
絶叫の主は紅美鈴だ。肩で息をする彼女は、今日の日付の『文々。新聞』を握り締めたまま、酷く動揺した顔で咲夜に駆け寄ってくる。
「藪から棒に何を言っているの」
「さ、さっき、しゃ、射命丸さんが新聞を持って来て……それで、こう聞くんです。レミリア・スカーレットさんは妊娠していませんか? って」
「何を馬鹿な事を真に受けているのよ。お嬢様に限って、そんな事あるわけないじゃない」
「で、でも、確かに射命丸さんの言っている事は、当を得ているんです! 最近のお嬢様は、妙にピクルスだのザワークラウトだのといった酸っぱいものばかり食べていました。これって、妊娠した人の嗜好ですよね!」
「…………それは、確かにそうね」
それは美鈴の語る通りだった。
この一週間というもの、紅魔館の当主はピクルスやザワークラウトばかり食べている。本来は付け合せに過ぎない両者を、ただひたすらに単体で食べ、他のモノは殆ど口にしていないのだ。例外は、美鈴が守谷神社に出かけたときに、お土産で貰ってきたなれずしぐらいのものだろうか。だが、それもやはり酸っぱいもの。レミリア・スカーレットは本当に酸っぱいものしか食べていない。
その奇行を咲夜は注意しようとした。
そんなにザワークラウトばかり食べていると、キャベツ野郎になってしまうと叱ろうとしたのだ。
だが、その前の一週間、レミリアは殆ど何も食事をしていなかった。それを思えば、ザワークラウトでも食べないよりはマシと、咲夜はレミリアの奇行を許容していた。
それが、妊娠の兆候であったというのだろうか。
「で、でも、だからと言って、お嬢様が妊娠されたなんて決め付けるのは早計でしょ。そんな事を言ったら、酢の物好きの人はいつも妊娠している事になるじゃない」
「それだけじゃないんです」
美鈴は、ある種の確信を持った顔をしたまま続ける。
「お嬢様はヨーガを始めたでしょう」
「……始めたわね。何故か、私達に知られないように、こっそりと」
「知っていますか、咲夜さん。ヨーガにはマタニティヨガという物があるんですよ、胎教の為のヨーガが」
「まさか」
ありえない話だと、咲夜は頭を振る。
だが、唐突なヨーガに関しては咲夜も気になっていたのだ。
そもそも、レミリア・スカーレットとヨーガの間に接点がない。この幻想郷にインド人は一人も居ないし、インド的要素も殆どない。せいぜい、命蓮寺の本尊である毘沙門天ことクーベラの故郷がインドであるくらいだ。それなのに、レミリアがヨーガをしている事には咲夜も違和感を覚えていた。
「でも、だからって」
咲夜は否定の言葉を口にした。
だが、美鈴はまだ続ける。
「それに、やたらとトイレに行く事が多かったでしょう」
「……そ、そうだったかしら」
「あれって、もしかして、つわりなんじゃ」
「そ、そんなわけ無いでしょう」
咲夜は、曖昧な言葉で誤魔化そうとする。
だが、紅魔館で一番レミリアを見ているのが十六夜咲夜だ。
その咲夜から見ても、レミリアのトイレの回数は、少し気になっていた。
少なくとも一日に六回。多いときは十三回も、レミリアはトイレに駆け込んでいたからだ。今までは、暑くなってきたのでたくさん水を飲んで、それでトイレに行っていると咲夜は考えていた。
だが、今となっては、それも怪しく思えてしまう。もしかしたら、アレはつわりではなかったのか。
咲夜の心が疑心に満たされようとしていた。
もしかしたら、主人は――本当に妊娠しているのかもしれないという考えを振り払えない。それほどに、ここ一週間のレミリアの行動は、おかしかった。
「それと、これは射命丸に頂いた写真なのですが――お嬢様のお腹が、少し膨らんできているらしいのです」
「やめて」
それ以上は聞きたくないと、十六夜咲夜は耳を塞いだ。
幼い身でありながらも、他の百戦錬磨の大妖怪たちと対等以上に渡り合う永遠に紅い幼き月が、事もあろうか妊娠しているなど、そんな事があっていい筈がない。
いい筈がないのに。
現実は、残酷な答えを出そうとしている。
「真夜中の散歩に出ていたお嬢様が無防備な姿を晒しているところを激写したらしいのですが、この写真に写るお嬢様のお腹は、どう見ても不自然に膨らんでいます」
咲夜は、恐る恐る写真を見る。
それはレミリア・スカーレットが背伸びをしているところを盗撮したもので、そこに写る、ちらりと覗く吸血鬼の腹部は、確かに、僅かに、膨らんでいるようにも見える。
妊娠をしているようにも見えるし、影の加減でそう見えるだけのように見える。
「……咲夜さん!」
美鈴が不安そうな口調で、咲夜の名を呼んだ。
私は、どうしていいのか分かりません。
咲夜は、美鈴の声にならない言葉を確かに聞く。
「どうすればいいのか……」
答えは最初から出ている。
確かめる。
それが、今の咲夜がしなければならない事だ。
もしも、妊娠という醜聞が勘違いであれば笑い話にしてしまえばいい。だが、これが本当であった場合は――沢山の覚悟をしなくてはいけない。場合によっては汚れ役もしなくてはいけない。だから、惑っている暇などない。即座に行動を起こさなくてはならない。
何故なら自分は、完璧で瀟洒な従者なのだからだ。
主人の為であれば、如何なる事でも、時には主人の不興を買うようなことでもする。それが真実の忠義という物である。
だから――
「美鈴」
「は、はい」
「これは他の誰にも?」
「はい、誰にも話していません」
「そう。だったら、これは私と貴方と、鴉天狗の三人だけが知っているって認識でいいのね」
「た、多分ですが。いや、射命丸さんが私以外に話したかは、私には分かりませんけど」
「それはきっと大丈夫よ。もしも、これが本物であるならば、それは極上のネタになる。それを新聞にしない内に、アレがネタを漏らすわけがない。それに、これが事実であるならば、これほどのスキャンダル、いつものように適当にでっち上げる事もしないでしょう」
「な、成程」
「だから、美鈴。これは誰にも話さないように、あの鴉天狗の動きには十分注意をしておいて」
「ちゅ、注意を、ですか?」
「私は、これからお嬢様に真偽を確かめてくるから」
「さ、咲夜さん」
そう言い残して、十六夜咲夜は走り出した。
真実を確かめる為に。
紅魔館の当主の部屋、そこへと急ぐ。
○
レミリアの部屋に行く途中で、咲夜はメイド妖精達に出会った。
彼女達は咲夜の顔を見るなり、慌てて道を譲った。
今の咲夜は、それほどに張り詰めた顔をしているのだろう。
深紅の絨毯を踏み拉き、窓の無い廊下を突き進み、常に薄暗い、頼りない灯が点々とするだけの階段を上り、ついに咲夜はレミリアの部屋へと辿りついた。
そして、ノックをしようとし――その手を止める。
止まってしまう。
怖い、からだ。
もしも、全てが天狗の想像するように、美鈴の語るようになってしまっていたらと考えると、底知れぬ怖さに咲夜は襲われる。
十六夜咲夜の信じてきた世界が壊れてしまう。
そうなったら、どうすればいいのだろうか。残酷な結末しか、咲夜には浮かんでこない。どう処理しようとしても、破滅的な未来しかメイド長には見えてこなかった。
「ああ――」
十六夜咲夜は、その場に蹲り、苦悩する。
そうして、咲夜がドアを叩く事すらできずにいると、ふと目の前に鍵穴がある事に気が付いた。
中からは、部屋の明かりが紅魔館の薄暗い廊下へと漏れ出している。
咲夜は――鍵穴を覗いてしまった。
不忠にも程がある。主人の寝所を覗くなど目玉をくり貫かれても弁解できぬ所業だ。
それなのに、十六夜咲夜は、気が付いたらレミリアの部屋を覗いていた。
小さな鍵穴の向こうでは、天蓋付きの豪奢なベッドに身を横たえた一人の吸血鬼が、傍目からみれば滑稽な、複雑怪奇なポーズを取っている。
それは紅魔館当主のレミリア・スカーレットに間違いなかった。寝所にいる彼女は、必死な顔をしてヨーガをしている真っ最中だったのだ。
十六夜咲夜は、ヨーガをしているレミリアのお腹を注視する。
だが、ゆったりとした室内着を着ている所為で、レミリアのお腹は膨れているのかへこんでいるのか分からない。
「………………んっ、こ、これって結構苦しいわね」
そうして覗いている咲夜に気が付かず、レミリアの額には、玉の様な汗が浮かんでいる。どうやら割と長い時間をヨーガに費やしていたらしい。
しばらくして、レミリアはヨーガのポーズを解いた。
「……やっぱり、そんなに効果があるものでもないよねぇ」
綺麗なレースのハンケチで額の汗を拭いながら、レミリアは自身の下腹を何度か撫でる。それは、鍵穴から見ている咲夜には、まるで我が子を慈しむような仕草に見えた。
だが、そうして慈しむように腹を撫でた直後、レミリアは、まるで忌々しい物を見るように自身の腹を睨みつけると、
「ああ、これがなければ、こんな苦労をする事なんて無かったのに――」
怒り、否、それは憎しみの光だった。
それの光を認めて、咲夜は反射的にドアを叩く。
あのまま放置をしていては、大変な事になってしまうと、そう思ったのだ。
「誰?」
すると、レミリアは慌ててヨーガで乱れた服を直し、いつも通りの威厳たっぷりな紅魔館当主の顔になって、誰何をした。
「咲夜です」
「……入りなさい」
十六夜咲夜は、入室の許可を受ける。
それは、ある種の覚悟を決めなくてはならない時が来たという事だ。
確認を、しなければならない時間が来た。
紅魔館の小さな当主は、軽く汗を額に浮かべながら、ベッドの上に腰掛けている。その姿は、まさに幻想郷に咲いた気高き一輪の薔薇そのものだ。
そんな穢れなき薔薇に、新しい命が宿ってしまったのか、咲夜は確認しなければならない。
その為には――
つかつかと、咲夜はレミリアの所へと進み出た。
その顔は酷く強張っており、抜き放った白刃のような剣呑さを見る者に与える。
「お嬢様」
咲夜は、レミリアの肩を掴む。
「え? な、なに?」
忠実なる従者の突然の行動に、レミリアは驚きの声を上げた。だが、咲夜は構わずに、細い腕に見合わぬ強い力で、レミリアを押さえつける。
「御聞きしたい事があります。どうしても、聞かなければならないことなのです。教えていただかなくてはならない事があるのです。ですから、どうか、どうか、このご無礼をお許し下さい!」
咲夜はレミリアを押し倒した。
その姿は、傍目から見ればメイド長が思い余って、主人を手篭めにしようとしているようで――
「ちょ、ちょっと、咲夜、何を……てっ、きゃあ!」
そして、主人であるはずのレミリア・スカーレットは、忠実な従者に押し倒された事で動揺をし、まるでか弱い乙女のように悲鳴を上げる。人間よりも遥かに強いはずの吸血鬼が、いとも容易く組み伏せられてしまう。
「失礼いたします!」
その間隙を利用して、メイド長はレミリアのドレスを掴むと、それを強引に引き裂いた。
絹を裂くような悲鳴。
服の破れる嫌な音。
メイド長の荒い息。
ズタズタになったドレス、引き裂かれたキャミソール、純白のドロワ、そして、露になる吸血鬼の真っ白な裸体に、ぽっこりしたお腹。
「ああ――」
それが視界に入った瞬間、十六夜咲夜は崩れ落ちた。
信じられなかった。
信じたくなかった。
だが、咲夜の眼前には、レミリア・スカーレットの大きくなったお腹が、存在している。実存してしまっている。
現実という物は、途方もなく残酷である事を咲夜は心で理解した。
「……ついに、明らかになってしまったわね」
レミリアは、小さく溜め息を吐いた。
恥ずかしげに顔を赤らめながらも吸血鬼は、何処か安堵したような顔をし、視線を下に彷徨わせながら、言葉を紡いだ。
「まあ、これだけお腹が出てくれば、こうなるのは当たり前だったか」
自身の大きくなったお腹を撫でながら、自嘲気味に吸血鬼は続ける。その声に混じるのは、微かな後悔と、大きな苦しみか。
密かに子を宿して、レミリア・スカーレットは酷く苦しんでいたのだろう。
それが、こうした形でも解放された事によって、きっと彼女は――救われたのかもしれない。
「ごめんね、咲夜。ずっと黙っていて」
レミリア・スカーレットは従者に謝罪をした。
傲慢不遜なる紅魔館当主が、従者に頭を下げた。
その謝罪を受けて咲夜は、
「……………………いえ、良いんです」
随分と長い沈黙の後に、咲夜は切れ切れになりながらも、そう返し、顔を上げた。
その顔は、新雪のように真っ白で、微かに震えていて――
「えと、大丈夫?」
「……どうにか、大丈夫です。何とか、理解しようとしています。今はまだ、受け入れ切れていませんが、すぐに受け入れて見せます。私は、常にお嬢様のお味方です。どんな事があっても、お嬢さまを裏切りません」
「そ、そっか。それは良かったわ」
どうにか、現実を受け入れた咲夜に対して、レミリアはホッとしたような顔をした。それを見て、咲夜は、どんな事があろうともこの人だけは守らなくてはいけないと覚悟を新たにする。
だが、その為にも絶対に確認しておかなければならない事がある。
「それで、そのお嬢様」
「なんだ?」
「そ、そのお腹は、どうなさるつもりですか?」
「難しいな。一人でどうにかしようと考えていたんだけど、どうにもならないみたいだから、永遠亭に行って薬でも貰いに行こうかと考えている」
「……く、薬、ですか?」
「あそこなら、私にも効く薬を処方してくれるだろうしね。流石に、そろそろこのお腹をどうにかしたい」
そう言ってレミリアは、自身のぽっこりしたお腹を叩いた。
その様子を咲夜は愕然とした顔で見る。
そして――
「駄目です! 幾らお嬢様でも、それを許す事は出来ません!」
十六夜咲夜の感情が炸裂した。
それを目の当たりにして、レミリア・スカーレットは目を丸くする。
いつも瀟洒で、生の感情を表に出さなくて、閻魔からは『冷たい』などと言われていた十六夜咲夜が、こんな顔をするなんて、考えてもみなかったのだろう。
だが、そうして動揺するレミリアとは裏腹に、咲夜は激しい勢いで続けた。
「そんな簡単に薬でお腹をどうにかするなんて、そんな事を言わないでください! 確かに、お嬢様のお体で、そのお腹は辛い事と思われます。きっと、苦しいだろうと思います。ですが、誰が父親なのかは私には分かりませんが、そこに居るのは紛れもなくお嬢さまの赤ちゃんなのでしょう? それなのに、そんな簡単に薬で――」
「いや、待って」
「待ちません。ここで待つことなんて出来ません」
「いや、だから」
「命は、命は力なんですよ。命は、この宇宙を支えているものなのです。それを、それを、こうも簡単に失わせるのは、それは、それは、醜い事なんですよ!」
「いや、あの、なんか勘違いしているけど、これは…………便秘」
「それなのに、どうしてそうも簡単に………………って、え?」
そこで、ようやく二人は大きなすれ違いをしている事に気が付いた。
どうやら、レミリア・スカーレットがお腹に抱えているのは、子は子でも、うんが付く方のこである事を十六夜咲夜は理解した。そして、レミリアの方も、咲夜が自分のぽっこり膨らんだお腹について根本的な誤解をしていた事を知ったのであった。
「だからね。その、これって、う、うん…………なの」
「え、えーと。その、お、お通じですか?」
今までの言動を振り返り、顔を真っ赤にしながら咲夜が尋ねる。
「ま、まあ、そうなのよね」
対して、レミリアは照れ臭そうに、笑った。
それで、二人はようやく分かり合えたのだ。
種族も違う。
生まれた時代も違う。
生国も異なれば、立場だって大きく違う。
けれど、分かり合える事はできるのだ。
――人は、分かり合える。
お通じは無いけど、人は通じ合う事を出来る事を、二人が証明した瞬間だった。
3
たまらないな。
射命丸は、そうひとりごちた。
幻想郷をひっくり返すほどのスキャンダル、それが目の前にぶら下がっている。そいつは、とても芳しくて、危険な匂いがしているのだ。全く以ってスキャンダルとは、危険であればあるほど、たまらない。
否、既に射命丸は、危険には片足を突っ込んでいる。
先に、射命丸文は紅魔館にカマをかけた。
偶然に撮ってしまった一枚の写真から浮かび上がったネタが、モノになるのかを探ってみた。
『レミリア・スカーレットの妊娠』
それがどれくらい紅魔館の住人に浸透しているのかを確かめる為に、それに真実が一片でも含まれているのかを確かめる為に、門番に尋ねたのだ。
そして、それは予想以上の効果を上げている。
射命丸は、尾行されていた。
本来は紅魔館を守っていなければいけない筈の門番が、鴉天狗の後をこそこそと付回している。所謂、尻尾が付いた状態だ。
それは、先のカマかけに一片の真理が含まれているという事である。少なくとも、レミリア・スカーレットの腹が膨れている事は、便秘とか糞詰まりでは無いという事だ。
幻想郷がひっくり返る程のスクープを、射命丸は手に入れようとしていた。
「――ああ、堪らない」
鴉天狗は、来るべきスクープの予感に身をよじらせる。
誰も、射命丸が特ダネを掴んでいる射命丸を知らない。誰も、幻想郷をひっくり返すスキャンダルを射命丸が掴んでいる事に、気が付いていない。そんな誰も知らないことを自分だけが握っているという事が、彼女の快楽を更に増幅させる。
本当に、たまらない。
だが、浮かれてばかりもいられないだろう。
このスキャンダルが本物であるならば、紅魔館は本気で射命丸を潰しにかかって来る。場合によっては、消しにかかってくるかもしれない。殺されてしまうかもしれない。
想像するだけで、背筋が凍り――笑みも零れる。
命のやり取りをしなければいけないほどのスクープを手に入れた。それが、嬉しい。たまらない。
――射命丸文という鴉天狗、骨の髄まで記者であった。
スクープが大きければ大きいほど、その悦びは増大する。命を張るスクープなど、本当に記者冥利に尽きるというものだ。死ねばペンに全てを捧げた英雄、生きれば幻想郷をペンでひっくり返した英雄、どちらにしても射命丸には損は無い。ならば、ブレーキをかける理由など無かった。
「……ただ、まだ調べる事は多そうですね」
尾行している門番を横目で見ながら、射命丸は思索する。
幻想郷を揺るがすほどの大スクープ。
だからこそ、飛ばし記事にして、いい加減な事を書いてはスキャンダルの神に申し訳が立たぬ。しっかりと裏を取り、レミリア・スカーレットの社会生命を絶つぐらいの記事にしなければ、一新聞記者として情けないにも程がある。
その為にも、ある一点は抑えておきたい。
それは、相手だ。
レミリアが、誰の子を孕んでいるのか。
レミリアが、誰と深夜の運動会をしていたのか。
レミリアが、誰とベッドで少年律動体操をしていたのか。
これは、ゴシップ関係で一番大事なことである。
例えば、『驚愕! ミスティア・ローレライ、路上で西行寺幽々子と熱烈なベーゼ!』などと書き立ててみる。すると、最近人気急上昇中の歌手ミスティア・ローレライが西行寺家の姫君幽々子と熱愛発覚となって、多くの読者が『おお! あの有名歌手が、西行寺家の姫君と出来てたのか!』と興味を引く事だろう。
だが、これが例えば『ミスティア・ローレライと古明地さとり、地底のお泊り会!』などと書き立てても、普段の接点が無い所為で、多くの人は興味を持つよりも『あれ? 原作で接点あったっけ?』と怪訝な顔をするだろう。
カップリングは、とっても大切な事なのだ。
誰と誰がくっ付くのか、これの良し悪しで、それをおかずにご飯がどれくらい食べられるかが決まってくる。元気っ子には、お姉さんタイプやクーデレを。小生意気なツンデレには、お姉様タイプか若さの残る気苦労タイプを、不思議系には姉貴タイプか、熱血馬鹿をと、熟練のカップリング職人は最高の組み合わせを求めて日々苦労をしている。
だからこそ、レミリア・スカーレットの相手方が誰かを探る事はとても重要だ。
それに、相手方が不明瞭なまま報道すると説得力が不足する。だからこそ、レミリアの深夜のストレッチパートナーを射命丸は探さなくてはならない。
「レミリア・スカーレットの交友関係を洗うのが一番の近道ですかね……しかし」
相手方が紅魔館内部にいた場合、これは面倒臭くなりそうだ。
ともあれ、まずはやり易い所からと、射命丸は博麗神社に飛んだ。
○
「どうもご機嫌いかがですか? 品行方正な鴉天狗、皆様の射命丸文がやってまいりました」
「帰れ」
「ははは、これはいきなり手厳しい」
いきなり反発されてしまったが、取ってつけた最高の笑みで取り入って、射命丸文は神社で情報収集を開始する。
神社には常駐している巫女の他に、暇そうな魔法使い、何処か頭の螺子が外れた現人神、世間知らずの半霊とそれなりに頭数は揃っているので、それらからレミリア・スカーレットの話を聞いてみると、だいたいが似たような感想が帰ってくる。
「最近、付き合い悪いわね」
「ああ、そうだな。弾幕ごっこをしようと言っても『ちょっと、調子が悪いから』とかいって逃げるし」
「でも、本当に調子が悪いのかもしれませんよ。何か、お腹を押さえて唸ってるのを見たことありますし」
「食べすぎだったんじゃないですか?」
「あんたの主人じゃないんだから、それは無いでしょ。あいつ、小食だし」
射命丸の確信を補強する証言はあるが、新事実と呼べるようなものは、何一つ無かった。
だが、それは仕様の無い事だ。真実を手に入れるためには、相応の代価が必要とされる。そして、記者という物がその代価を支払うには、足で払うしかない。ちょっと歩いただけでスクープが手に入る程、記者家業は楽ではないのだ。
それに、全く収穫が無かったわけではない。
ここにいる四人は、レミリアの症状に対して無関心だ。
ならば、これらがレミリアの相手という事はあるまい。こうして、一歩一歩進むしか真実に近付く術など無いのである。
それと、聞き込みの最中になかなか面白い話も聞けた。
「そういえば、二週間ぐらい前、レミリアの家に紫が遊びに行ったらしいわね」
「それは……珍しい組み合わせですね」
「まあ、そうかもね。でも、アイツって神出鬼没だし、珍しいという事も無いんじゃないの」
確かに、そうだ。
八雲紫は、何処にでも現れる。
その神出鬼没さは、体を霧に変える伊吹萃香、無意識に潜む古明地こいし、壁抜けの邪仙と呼ばれる霍青娥などと並んで幻想郷四大神出鬼没に数えられるほどである。だから、彼女が紅魔館に顔を出していたとしても不思議な事は何も無い。
だが、何か引っかかるものを射命丸は感じた。
それは論理的なものではなく、記者のカンとしか言い表せないモノだ。
そして、その記者のカンが『レミリア・スカーレットの妊娠』に八雲紫が関わっている。そう、感じたのだ。
少なくとも、調べる価値はあるだろう。
射命丸は、八雲紫を探した。
神出鬼没な紫を見つける事はかなりの困難を伴ったけれども、射命丸は数多の艱難を乗り越えて、どうにか八雲紫に取材を試みる事に成功した。
「お久しぶりですね、紫さん。毎度おなじみ、清廉恪勤な射命丸文でございます。そちらの式の方にはいつもウチの新聞をご愛読していただき、本当にありがたいことです。いやはや、この射命丸。八雲家の方々には、足を向けて眠れませんよ」
「成程。足を向けられないねぇ。それだと、私の式は幻想郷中に散っているから、貴方は横になって眠れない事になるけど」
「ええ、お陰で最近は机に突っ伏して寝る事が多くて……新聞記者というのは、これでなかなか大変なんですよ」
まるで幇間のような挨拶をしながら、射命丸はじっくりと八雲紫の観察をする。
顔面からは、いつも通りの胡散臭い雰囲気を醸し出されていて、表情の読めない厭らしい笑みがひょっこり浮かんでいる。
どうにもいつも通りだった。
その態度から推察すると、八雲紫がレミリア・スカーレットを傷物にした相手という事も無いように思える。もしも紫が吸血鬼の相手であるならば、少しぐらい動揺をしていてもおかしくない。
アテが、はずれたか。
確かに、最近接触をしたからと言って、レミリア・スカーレットと八雲紫では繋がりが少しばかり薄かった。それなのに、二人が深夜のプロレスごっこをする間柄になると考えるのは、少しばかり早計であったと、射命丸は反省する。
それでも聞くべき事は聞いておこうと、射命丸は薮蛇にならない程度にカマをかけてみる。
「えー、ところで最近、レミリアさんの調子が悪いそうなんですよ」
「……え、レ、レミリアの、調子が?」
おやおや。
期待をしていなかったので、射命丸は少し驚き、そしてにまりと笑った。どうやら、記者としてのカンは鈍っていなかったらしい。
八雲紫は、レミリアの事を出すとあからさまに動揺している。
「それでなんですがね……これはオフレコですけれど。レミリアさん、どうもお腹が大きくなってしまっているようなんですよ。いやぁ、不思議ですよねぇ。いきなりお腹が大きくなるなんて……これについて、何か知っている事はありませんか、紫さん?」
畳み掛ける事を決めた射命丸は、レミリア・スカーレットの隠し撮りを紫に見せた。
「え……そ、そうなの? レミリアが……そ、そうだったの」
すると、八雲紫の顔色は――蒼白になった。
大当たりだ。
射命丸は、その反応に手ごたえを感じる。間違いなく、これは――現在のレミリア・スカーレットに起こっている問題に八雲紫は深く関わっている。
どうやら、紫はたった今までレミリアに何が起こっているのかを全く知らなかったらしい。そして、それをたった今知り、こうして動揺しているのだ。
成程、最初の余裕たっぷりの態度も、知らぬが故か。ならば、納得する事もできる。
そして今、八雲紫はレミリアの現状を知り、激しく動揺をしていた。
これは、好機だ。
だた、相手は幻想郷でも髄一の狸である。油断など、欠片も出来ない。細心の注意を払い、動揺している今の内に、情報を根こそぎに引き出す必要がある。
「あれれー、紫さん。もしかして、レミリアさんに何かしたんですか?」
まるで何処かのコナ○ン君のような口ぶりで、射命丸は聞いた。
「そ、それは……」
「口ごもるって事は、何かしたんですね?」
「あ、貴方には関係が無いでしょう」
「関係はありますよ。私とレミリアさんは、大親友ですからね。心の友ですよ。マイ・ベスト・フレンドです。一緒に水曜スペシャルで、霧の湖にてモケーレ・ンベンベの捜索をした戦友なんです。知りませんか? 『巨大水棲獣モケーレ・ンベンベ! 謎の霧の湖に巨大怪獣は実在した!!』って企画で、私とレミリアさんは一緒に大怪獣を探したんですよ。ですから、私は心配なんです。どうにも元気が無くなったレミリアさんが心配で、だからこうして、その原因を探っているのです」
「貴方達、親友……だったの?」
「ええ、そうです。なので教えて下さいませんか? 貴方がレミリア・スカーレットに何をしたのかを! どうして、あんな事になってしまったのかを!」
普段であれば、八雲紫を言いくるめるなど出来る事ではなかっただろう。スキマ妖怪が、ブンヤの鴉天狗にむざむざ情報をくれてやったりなどしなかっただろう。
しかし、八雲紫は完全に動揺してしまっていた。
闇に隠れて他人を操る策士も、自身が窮地に陥ってしまえば弱いものだ。だから『心の友』などという胡散臭いキーワードも、幻想郷の賢者は簡単に信じ込んでしまった。
「わ、私は、こんな事になるなんて……」
八雲紫が、落ちた。
射命丸文は、心の中で舌なめずりをする。
これで幻想郷始まって以来の大スクープをモノにできると考えると、興奮を隠し切れない。かの大妖怪の二人によるスキャンダル、それは『文々。新聞』の売り上げを今だかつてないモノにしてくれるだろう。いや、鴉天狗の頂点に立つことも夢ではないかもしれない。射命丸に、我が世の春が訪れようとしていた。
そんな新聞の為に全てを犠牲とする射命丸の所業は、傍から見た場合『外道』とも受け取る人も多いだろう。
そして、それは正しい。
彼女は、スクープの為なら、親父を遊郭に売り飛ばす事もやむ無しと心に決めているほどの、新聞の鬼である。ならば、その為にあらゆる手段を許容する事は、射命丸にとって当然のことであった。
新聞の為なら、外道上等。
そう決めているのだ。
「さあ、教えて下さい!」
射命丸が、詰問する。
すると、八雲紫は観念したように話し始めた。
「……ずんどこべろべろよ。きっと、それの所為に違いないわ」
憂いに満ちた顔をして、童女のようにスカートを両手で握り締めながら、八雲紫が告白をした。
「え?」
対して射命丸は、何を言っているのか分からずに思わず聞き返す。スキマ妖怪の言葉がいまひとつ理解できなかったからだ。
だが、そんな鴉天狗の事など気にせずに、スキマ妖怪は話を続ける。
「吸血鬼にはずんどこべろべろは消化が悪いかもしれないって、分かっていたはずなのに、つい、美味しいからとおすそ分けをした私が悪かったのよ! それに、つい『生の方が美味しいわ』なんて、江戸の粋人みたいな事を言ったから、生のずんどこべろべろを進めてしまったから、こんな事になってしまったんだわ!」
そう叫ぶと、八雲紫は両手で顔を覆い『ヨヨヨ……』と泣き出してしまった。
射命丸は事態についていけていない。
そもそも、ずんどこべろべろとは何だ。
聞いていれば、それは食べ物のように聞こえる。だが、そんなけったいな名の食べ物を射命丸は知らない。何かの暗喩か、それともちゃんとした名前なのか。それすらも分からない。
「あ、あの……ずんどこべろべろってなんですか?」
それが分からないと、このスクープの本質が見えてこない。射命丸は泣き崩れている紫に聞いた。
「え……貴方って、ずんどこべろべろを知らないの?」
すると八雲紫は、素に戻って射命丸文を見た。その仕草から察するに、それは本当に常識的な事のようで――
「し、知ってますよ。そんな事は!」
射命丸は激しい羞恥心から、つい知ったかぶりをしてしまった。
それが、射命丸が『ずんどこべろべろ』を知る唯一の機会を逃した瞬間になる。
なぜなら、ここで紫が「あ、いけない! こんな事をしているより、早くお見舞いに行かないと!」と言って、スキマに潜り込んでしまい――
「え、ちょ、待って!」
スキマ妖怪は消えてしまったからだ。
残されたのは、鴉天狗が一人だけ。
他には誰もいない。
だから、ずんどこべろべろが何かも聞くことが出来ない。
そもそも、今更『やっぱり何ですか』なんて聞けやしない。
気が付けば、射命丸の後をつけて来た紅美鈴も、居なかった。恐らく射命丸が紫を探そうと飛びまわっている間に撒いてしまったのだろう。
一人っきりになった射命丸は、最早スクープどころではなくなって頭を抱える。
「ずんどこべろべろとは、一体……何なんだあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
謎である。
4
その日は、遠く山の方に入道雲が見える夏日だった。
八意永琳は、まだ日が上がり切っていないうちに打ち水をしようと水桶と柄杓を持って庭に出ると、山にかかった大きな雲を見て「あら」と声を上げる。
高い高い入道雲上にちょこんと座って休んでいる竜宮の使いが見えたからだ。
竜宮の使いがお休みしているという事は、午前中に雷が鳴る事は無いだろう。そして、竜宮の使いが入道雲に待機をしているという事は、午後辺りから雷雨が起こるに違いない。
里に使いの兎を出すならば、午前の間にしておこう。
そんな事を決めながら、永琳は庭に打ち水をする。
石畳が水に濡れて、黒く染まった。
玉砂利に水をくれてやると、それはすっかり水を素通りさせ、下の土を湿らせた。これからの夏日を考えれば、実にいい感じだ。
残りは石灯篭の汚れを流したり、微かに生えた草木にやったりしていると、近くを歩いていた兎が『喉が渇いた』とやって来た。これに、残った水をやると水桶は空になる。
これで、午前中は少しだけ涼しくなるか。
後は午前は読書でもして過ごそうかと、永琳は考える。
一冊ほど本を読み終えたら、打ち水で朝の涼しさを保っている庭先にて、輝夜と一緒に宇治金時でも食べるのだ。涼しげな庭で食べる宇治金時は、きっと、茶の香りと餡子、それに栗の食感が混ざり合い、とても美味しいに違いない。
「……と思ったのだけれど、来客のようね」
迷いの竹林の方に耳を澄ませば、小さな足音が聞こえている。
八意永琳は、竹林の方を見た。
すると、薄いピンクの日傘をクルクルと廻し、ナイトキャップを被り、紅いリボンが目に鮮やかなドレスを着ている、一人の少女が歩いてくる。
それは紅魔館の吸血鬼、レミリア・スカーレットだった。
「久しいね。前に来た時は、永夜異変の時だっけ?」
「いいえ、月都万象展が行われた時には来ているでしょう。ほら、うちの兎が御餅を突いた」
「ああ、あったね。なんか普通な御餅」
「他にも、ガガーリン五歳のみぎりの頭蓋骨を貴方が欲しがったり」
「あの額に『地球は青かった』って刻まれている奴か。あれは、とても珍奇な品だったからね。見た時に、本当に欲しかったんだよ。最も、そっちのお姫様がどうしても譲ってくれなかったけど」
「それはそうね。貴方は『お嬢様』かもしれないけど、うちの輝夜は『お姫様』なの。だから、ずっと我が侭なのよ」
本当に困ったものだと永琳は肩をすくめる。
それを見て『お嬢様』は堪えきれずに笑った。
僅かに地面の湿る永遠亭の庭先で、笑いの花が咲いた。
しばらくの間、塗れて黒くなった石畳が乾きはじめる程度の時間、益体も無い話は続き――
「それで、どうして此処に来たの?」
それは唐突に終わる。
八意永琳の問いかけに、レミリアは黙った。
口を何度か開き、そして閉じ、日傘を何度もくるくる廻している。手持ち無沙汰になっている左手は所在無く動いていた。
言いよどんでいる。
レミリア・スカーレットは、何かを言いたいという風にしながらも、それを言えずに口ごもっていた。
竹林を涼しげな風が吹きぬける。
聳える孟宗竹、石畳と玉砂利の庭、草庵、止まったししおどし、興味津々でこちらを見ているうさぎ達――
「こら、貴方達。散った散った」
永琳が負い散らかすと兎達は『わー』等と歓声を上げながら竹林の中へと消えていく。これで、レミリアの話を聞くのは永琳一人となった。
「さあ、他には誰もいないから、話してごらんなさい」
「う、うー……」
すると、レミリアは、ちょっと眉を顰めるとなんとも可愛らしい声で唸った。
それを見て、ふと八意永琳の心の内にある感情が湧き上がってくる。
それは『あら、可愛い』という物だった。
つい――八意永琳の母性本能が刺激されてしまう。
元々、八意永琳という人間は、情の深い、愛情が強い人間だ。
輝夜の為に月を捨て、かつての教え子の綿月姉妹の為に策謀を巡らす、可愛い教え子の為なら、危険な事も平然とやってのけるほど、情には弱い所がある。
だから、自分の前で少し不安げにしている五百歳児の吸血鬼が、ちょっと可愛い。あらかわいい。
そんな風になるのも仕方が無かった。
「ほら、大丈夫だから、何があったの?」
膝を曲げてレミリアと同じ視線にしてやって――まるで保母さんみたいな調子で、八意永琳は話を聞いてやろうとする。
その献身的な態度が功を奏したのだろう。それでようやく、レミリアも重い口を開いた。
「えと、その、実は……ここ二週間ぐらい――」
お通じが無い。
そうレミリアが語ろうとした瞬間、空間が凄まじい音を立てて軋み始めた。
青色の空は紫に変わり、健康的な入道雲は禍々しい黒の噴煙に変化をし、太陽は蝕でも起きたかのかのように光を失う。
それは、まるで世界の終わりの光景。
そんな漆黒に染まった天の中央に、一筋の線がすぅっと引かれ、その線は目が開かれるように広がり、無機質な視線が覗くスキマへと変化していく。
そこから、一匹の妖怪が忽然と姿を現すと、藪から棒にこう叫ぶ。
「レミリア! 私がずんどこべろべろをあげた所為で、うんこが出なくなったって本当!?」
すげぇでっかい声で、八雲紫はデリカシー無く叫んだ。
それは幻想郷全土には響き渡らんとする大きな声で、入道雲にいる永江衣玖や永遠亭のうさぎ達、それに中にいるであろう蓬莱山輝夜達が『なんだなんだ』と騒ぎ出すほどでっけぇ声であった。
「うわああああああああああああ!!」
顔を真っ赤にしたレミリアは、スキマから顔を出した紫をぶん殴る。
すると紫は「モルスァ」みたいな声を出して、何処かにすっ飛んでいったのであった。
ep
かくして、レミリア・スカーレットは吸血鬼専用の下剤を手に入れる事が叶った。
あとは、飲んで出すだけである。
たった一つ粒の錠剤を水で飲み干し、レミリア・スカーレットはトイレにこもる。
ある種の、確信はあった。
きっと出るに違いないという予感が、レミリアの胸の内に渦巻いている。
否、これは運命だろう。
今日、二週間ぶりにお通じがあるという運命、それをレミリアは引き当てたのだ。
スカートを捲りあげてドロワを下げると、炎洗式の洋風便器にちょこんと座る。
そして――
「でたー!」
レミリアはガッツポーズをしてトイレから出てくる。
二週間の長きに渡り、頑固に居座り続けた部隊を掃討し、レミリアの機嫌はとてもよろしい。
そんな吸血鬼を万雷の如き拍手が襲う。
何事かと思えば、レミリアがトイレに入っている間に沢山の人々が祝福しようと集まっていたのだ。
「お姉様、おめでとー!」
姉の為に心を砕いてくれていたフランドールが、その中から飛び出してレミリアに抱きつく。
「おめでとうございます。お嬢様」
ずっと憂い顔をしていた十六夜咲夜が、夏の空のような晴れ晴れとした顔で手を叩いていた。
「よく頑張ったわね、レミィ」
友であるパチュリー・ノーレッジも安心したように手を叩く。
「レミリア・スカーレット復活ッ!」
影でレミリアの為に動いていた紅美鈴は、とても力強い拍手をしながら、紅魔館当主をひたすらに称える。
「流石はお嬢様ですね!」
図書館の司書である小悪魔も、祝福をする。
妖精メイド達も集まって、レミリアに沢山の拍手と声援を送ってくれた。
そして、レミリア・スカーレットを祝福するのは紅魔館の住人達だけではない。
「吸血鬼に効くか少し不安だったけど、ちゃんと効いたみたいね。良かった」
「レミリア、あのパンチは体重が乗っていて、ナイスパンチだったわ」
「ずんどこべろべろとは一体……うごごご」
八意永琳、八雲紫、射命丸文も、無事にトイレを済ませたレミリアを祝福してくれている。
「あのさ、なんで私がレミリアのトイレに呼ばれているの? え? 便秘だったって? へぇ、大変だったのね」
「あー、便秘かぁ。わかるぜ。私も、前に消化器系に致命的なダメージを負わせるキノコを食った事があったけどさぁ」
「正露丸を飲めば、お腹の事はだいたい解決します!」
「ゆゆ様も、たまにお腹を壊すぐらいの可愛げがあればいいんですけど……はぁ」
霊夢、魔理沙、早苗、妖夢の四人は何で私達は呼ばれたのかと、疑問な顔をしながらも、拍手をしてくれている。
鳴り響く万雷が如き喝采の中で、レミリア・スカーレットはしばらくの間、呆然としていた。
便秘であった事を知られ、戸惑いと羞恥心が浮かんでくる。
だが、そうした負の感情など問題にならないほどに湧き上がってくるのは――感謝だった。
それこそが、最も重要な事なのだ。
誰もがレミリアを心配し、慮ってくれていた。そして、快癒した事を祝福してくれている。それこそが、形ばかりの名誉よりも、ずっと尊い事である。
だから、レミリアは集まって、拍手をしてくれている人々に「ありがとう」を言った。
そこには糞詰まりを起こして、誤解を恐れ、一人で悩んでいる吸血鬼など居ない。
友を信じ、ありのままの自分をさらけ出したデーモンロードが、可憐でありながらも威厳に満ち溢れた素晴らしい笑みを浮かべていた。
そのカリスマは、とても眩しく輝いていた。
了
うんこ出て
おめでとう!!
ひっでえ話wwww
とりあえず良かったなお嬢! あと美鈴は多分毎日快便なんだろうな…
レミリアが妊娠した事を、咲夜が醜聞とすぐに断じてしまう理由がよく分からないです。
妊娠を不倫や遊びの結果だと決めつけてるのかもしれないけど、真面目な交際を経ての懐妊かもしれないじゃない。
見た目幼くてもレミリアは500歳の大妖怪なのに、信用無さ過ぎじゃないですかね。
もう色々と酷かったり凄かったりです
こんな時どんな顔をすれば良いのか分かりませんが、とりあえず便通おめでとうございますお嬢様
実にスパッと、テンポよく話しが進んで個人的にはいいなと思いました。
ところでずんどこべろべろって何さ?
揚げパン?バターロール?知らんなあ?
腹に居座るヤツらは、幻想少女達にとって最大の敵なんですね…
感動モノだった。
にしても紫さん、何故にこういう時に限ってストレートな物言いをw
これが言いたかっただけだろwww
…しかし、役に立った様子は皆無!
レミリアのお尻を心配してしまう自分はちと下品ですかね!