踏みしめる大地の感触に、おかしなところなどあるはずはない。
当然である。
土は土で、地面は地面だ。それだけのことだ。
ただ、幾年ぶりかの受肉を経て顕現した彼女の身体が、未だ自らの骨肉の重みに慣れきってはいないだけだ。だが、それにしては土を蹴立てる諸々の足音の様が違う。諏訪の地を踏む者の音は、こんなにも尖った鉄のごときものではなかったが。
――――篝る火の向こうに浮かび上がったものを見て、彼女は「なるほど」と得心がいった。諏訪人(すわびと)たちとは、着物も武装も髪の結い方も違う人々が、蜂の群れみたいな鋭い眼をして彼女を睨みつけていた。足音の様が違うのは、彼らのうちに宿る凶気の“崇高さ”のゆえだった。純然な、いくさへの熱情である。何か、ひとつのものと信じきった者だけが持ち得る、信仰にも似た凶気である。
彼女と共に、馬も輿もなく御所より歩いてきたかたわらの随臣たちは、道々に「侵略者、何するものぞ」と気炎を吐いていたが、実際の敵の陣所とそこに溢れる軍兵を眼にした途端、息を呑んで後ずさった。
「重いのかな、出雲人(いずもびと)は」
「は……とは、“諏訪さま”におかれましては、此度、いかなる思し召しで」
随臣は、何か、託宣のごとき言葉を賜るものと思い込んでいるらしい。
そんなことはない、と、言いかけて、彼女――“諏訪さま”と呼ばれた少女はくすりと唇の端を歪める。年の頃は、十五、六くらいだろうか。髪の色は、どういうわけか黄金(こがね)だ。それを顔の両脇に赤い紐で結って、頬を覆うくらいに毛の先を垂らしている。髪の毛よりはくすんだ黄金色をした瞳を光らせ、“諏訪さま”は臣下たちを見渡す。
「何ということはない。ただ、諏訪人と出雲人では足音が違う。“向こう”の方が、より鋭く、重々しいものがある」
「出雲人は、他人の土地を切り崩して己が権勢の拡大を図ってきた者たちにございます。いくさを能くするべく、王は常にその懐に軍兵を潜ませて止まぬとか。つるぎ手に取ることしか頭にない、まこと恐るべき者たちです。姿形こそ人のものとは申せ、われら諏訪人とは身体のつくりからして異なっているに相違ございませぬ。ゆめ、ご油断なされますな」
「其許(そこ)たち諏訪の豪族にとっては、死活に関わる問題であろうな。父祖のころより永代(えいたい)に築き上げてきたあらゆる権益が、出雲からやって来た不埒者どもに攫われてしまうのかも知れぬのだから」
「意地の悪い物言いをしている場合ではございませぬ。われら豪族滅びれば、“諏訪さま”を祀る者が居なくなりまする。豪族の死は“諏訪さま”の死、“諏訪さま”の死は政の死に他なりなせぬ。そして、出雲人は実際にそれをやりかねない。おそろしく精強な連中にございますゆえな」
老いた臣下がそう口添えた。
なるほど道理かもしれなかった。
戦いに戦いをくり返し、出雲人の国は今や西国十数州を瞬く間に併呑(へいどん)せんとする勢いだと聞く。飛ぶ鳥も落とし、また日の出の勢いでもある。やって来たのは、戦うためだけにつくり出され鍛え上げられた、精強な軍兵である。百姓どもを糾合したにわか作りの軍勢とはわけが違う。そして、その出雲人の軍勢を統御する王の政は、多年に渡って自らの国の膨張を志してきた。近来では東国に眼を向け、今年は諏訪人といくさになった。
むろん、地の利はこちらにある。あったはず――と、彼女は思う。
二度、三度なら、どこでの戦いでもその国の者が容易に侵略者を撃破し得よう。
が、戦い慣れた万余の軍勢を支えきれるだけの地力など元よりない。兵站も無限ではなく、まして、つるぎや矛より鍬(くわ)を握っている時間の方が長いのが味方の兵であった。戦うことを生業とする出雲人の前で、劣勢にならない方がおかしい。
だが、その戦いを主導したのは元はといえば、“諏訪さま”を取り巻く随臣たち、豪族たちでもあった。勝ち目がないのなら初めから戦いを棄ててしまえば良かったと、彼女は歯噛みしたい気持ちになることもある。だが、王としての矜持はそれを許さない。いくさにて人民が味わわされる死と痛み、塗炭苦しみのを思うなら、戦いなどすべきではなかったのだ。だけれど豪族たちに祭祀され、彼らの益を護るために信仰される神である“諏訪さま”には、結局、今日この日のごとく随臣たちに伴われ、出雲人の場を目指すことしかできはしなかった。
だから、彼女は部下の心配を解くように笑ってみせる。
ぎこちなくはなかっただろうかと不安になる。
何せ、人間の姿に成るのは久方ぶりなのだ。
「案ずるな。儂(み)のこの首、黙って刎ねられにいくのではなし。此度、出雲人の陣所に其許たちとともに足を運んだのは、向こうの招きあってのこと。その軍兵の力をもって直ぐにでも諏訪の地のことごとくまで蹂躙せぬのは、わが神徳を畏れているからであろう」
「しかし」
「急がねば、われわれを迎える相手方の兵たちから、何か謀議をこらしていると疑われよう」
その言葉で、随臣たちは水を被ったように冷静になる。
困惑の色で塗り潰されていた眼も、今は沈鬱な光を称えて薄闇に浮かぶばかりだった。
改めて、“諏訪さま”とその随臣たちは篝火に照らされた闇の中を歩きだした。
火は、諏訪人と出雲人の焚くもので何も違いはないはずなのに、出雲人の陣所で明々と燃えるものは、自らの治める諏訪が御料を照らす夜の光より、幾らか硬質になものにも見えた。
足を向ける敵の陣所は、単に陣所というよりは簡便な砦か城にも見える。切り出した丸太を繋いで高々と柵を掲げ、周囲数間には浅いながらも空堀を巡らしている。どこか眠たげな殺気を持つ盾と矛の気配は、彼女たち諏訪人の特使が姿を現わしてから、その数をいや増していった。
「足を止められよ。そなたら、何者か。よもや東国の夜に跋扈する魑魅魍魎とも思えぬが」
兵どものあいだをかき分けるようにして、ひとりの男が進み出てきた。
兜に白い羽飾りのようなものがあしらわれており、腰には少しばかり綾な装いが為された剣――当然、鉄剣だろう――を帯びている。横柄な物言いなのは、たぶん、この男が城門の警護を統括する将だからなのだろうが。
「出雲人の御大将であらせられる八坂さまよりのお招きに応じて、此度、お目通りを賜りたく、われら、諏訪の地より参上つかまつりましてございます。どうか、八坂さまにお取り次ぎくだされませ。この地を治むる諏訪の神が、自ら参りましたと」
“諏訪さま”は、随臣らの言葉を介することなく自ら乞うた。心もち、頭を少し低くして。出雲人は勝ちに驕っている。こうしてあわれな敗将の姿を見れば、直ぐにでも侮りを覚えるに違いない。だが、最後の矜持までは棄てなかった。彼女は「この地を治むる諏訪の神が」と言った。未だ、完全に政を喪ったわけではないと思いたかった。
武将は、青々と無精髭に覆われた頬をなでながら、薄いあくびを吐いて聞いていた。
敗将相手とはいえ敵地の神を前にしてどこまでも不遜な態度である。だが、相手が何だったのかを知ると、さすがに表情を改めて「ほう――」と吐く。
「なるほど、お待ち申しあげておりました。八坂さまよりは、諏訪の神、参らば直ぐにお通しするよう言付かっておりまする。……おい!」
と、彼は声を掛けた。
側近のひとりに指示を下し、彼らの首魁である八坂への奏聞(そうもん)を取り次いだ。城門の内と外で合図が交わされると、門はすさまじい軋み音を立てて開いていく。盾も矛も投げ出して、諏訪人の未だ若い兵はその先に広がる闇の向こうに一散に駆けだしていった。
「あと少しお待ちくだされよ。何せ、われらとあなたがたは未だいくさのさなか。お目通りひとつとは申せ、敵を陣所に引き入れるは危うきことゆえ」
“諏訪さま”とその随臣に向き直った武将の表情は、さきほどまでとは比べ物にならないほど穏やかである。まるで祭礼の仮面を被ったかのように不自然とも思える。
不自然と言えば、彼女にとってもっと不自然なのは、諏訪特使の身体を誰も調べようとはしないということだった。危うい、と口では言いながら、武将も兵たちも、特使が武器はおろか鉄の気配を帯びているのではないかと疑うことすらしない。その必要など初めからないのだと、解っているかのごとくである。
「このようなことを口にするのは、はばかられるが……そなたらは、勝ちに驕っているのではないか。なぜわれらの身体を調べようともせぬのか。もし鉄を帯びておれば、八坂さまへのご拝顔かないしとき、機をうかがって襲いかかることさえできようものを」
たまりかねた随臣のひとりが口を滑らす。
だが、武将は怒りも驚きもせずに、
「それもまた、八坂さまよりのお言付けにござる。諏訪の神が参ったとても、身体や持ち物を調べるに及ばず、と」
ばかな、と、困惑の言葉が漏れ出た。
何を考えているのか、出雲人はかほどに勝ちに驕っているか……。
臣下輩(しんかばら)の溜め息のなか、“諏訪さま”は、にわかに唇を噛んだ。
開け放たれた門の向こうに、何か、巨大な建造物の威容を感じながら。
出雲人が諏訪を侵してより、たかだかひと月と余日。
ひと月と余日で戦いの大勢は出雲方勝利に傾き、連中は斯様(かよう)に無傷の城を築いた。そして、諏訪人と自分は無様に赦しを乞わねばならない事態になった。随臣たちには、安堵させるために「出雲人はわたしの神徳を畏れている」などと嘯いたが、内心では赴けば殺されるのではないかと不安に怯えている。
むろん、神がそう易々と死ぬはずはない。
だが諏訪の政を出雲人に明け渡すのは、自らの霊性神性を破壊するに等しいことだ。
それは神として、王としての自死にさえ等しい。まして今の彼女は現世への受肉を経、仮のものとはいえ人の身体をまとった状態だった。その、人の身体を殺されれば、残された血と屍骸とをもって諏訪の民草に神の敗北を見せつける格好の材料とされることは容易に想像がつく。
窮鼠、猫を噛むと俚諺(りげん)には言う。
だが、諏訪人と出雲人の戦いは鼠と猫どころか、蟻と大蛇の戦いだった。
それも、蟻が戦いを挑まなければならなかった相手は十数国にまたがる出雲人の権勢と軍勢という巨大すぎる大蛇なのだ。たかだか数千の蟻の群れが、数十里もの大きさを誇る大蛇に噛みついたところで、その鱗に傷など与えられようはずもない。出雲人が諏訪特使の身体を調べようともしないのは、そういうことだ。蟻の巣の様相ごとき、調べずとも容易く踏み潰せるのだと。
諏訪特使と出雲の城兵たちは、それからしばらく待った。
当夜は思いのほか冷涼になってきている。
無防備さを示すため、“諏訪さま”はあえて薄物一枚だけを身にまとっているのだが、姿もたぬ神霊の状態であるならまだしも、人の姿をとっているのだからよけいに寒々しい。随臣たちも、各々に手をこすり合わせたりしていた。未だ、雪は降らなかった。諏訪であれよその土地であれ、東国の冬は風雪はげしく、西国とは比べ物にならないほどに厳しいものだ。降り積もる雪は天然の要害として敵の侵攻を阻みもしようけれど、それとてほんの数月の猶予に過ぎない。どうせ領土を侵されるのなら、出雲人とのいくさが田畑の刈り入れより後に起こったことだけは幸いだと、彼女は思わずにはいられなかった。そのおかげで、民衆が飢えずに食い繋ぐだけの飯の種は確保できているのだから。
そのうち、言づけを受けていた兵が戻って来る。
思いのほか取り次ぎはすばやく済んだらしい。武将が何かそんなことを言っていたが、もう“諏訪さま”の耳には風の音と混じり合った粗雑な流れにしか成り得なかった。改めて武将や兵たちに先導され、特使たちは怪獣みたいに大口を開ける門をくぐる。この闇の先に諏訪人の怨敵が鎮座している。そう考えると、彼女は高揚する。
決して弱い神ではない。
それどころか、崇りの元締めのような存在だからこそ、自らの命がかかっているというときなのに、その心はいやに踊ってばかりいた。本質のひとつには、血と死とを喰らって利益(りやく)を吐き出す者でさえあるのだから。唇の端が引き上げられるところを、随臣たちは見てしまっていただろうか。だがいずれにせよ、肚(はら)はもう決まっているし、すべては手筈どおりに進むことだろう。
数日前、“諏訪さま”の御所にもたらされた出雲人からの竹簡(ちっかん)一条から成る書状には、われらが御大将たる八坂神は、諏訪国主との対話を望んでいると記されていたのである。出雲人の築きし諏訪の柵にて互いの胸襟を開き、話をしようと。だからこそ練られた計画だった。これが成功すれば、“諏訪さま”はじめ随臣たちもまた直ちに捕らえられ、処刑されるはずである。そのために、諏訪御料守護のために命を棄てても良いという者たちだけを選りすぐって来たのだ。出雲人が、自分たちの持ち物を調べすらしなかったのは意外だったが。しかし、悦ばしい誤算である。
薄物一枚の下、外から見えぬぎりぎりの場所に隠した刃の重みが、彼女の足取りをきりきりと軋ませた。踏みしめる土は――やはり、どこか慣れきった諏訪のものとは違っていた。異邦からやって来た多くの人々が、あまりにたくさん踏みならしたせいだろうと、そんなことを思っていた。
――――――
八坂の陣所は、近づいてみれば思いのほか剛健なつくりをしている。
出雲人は祭祀の宮にせよ王の住まいにせよ、とかく東国の民と比べて華美で豪奢なものを好むという噂を“諏訪さま”は耳にしたことがある。だが実際に眼にすると、むしろ自分たち諏訪人のつくる邸やら祠と大して違わないくらい質素だと思える。いやそればかりか、意匠のうえではほとんど諏訪に似通っていた。これも政の一策か、と、身構えないわけにはいかない。
いくさというものは、政に仕える婢(はしため)でしかない。
ただ敵するものを皆殺しにすればそれで済むという話ではないのだ。
征服した土地の民衆をどうやって新たな支配者に服させるかが重要なのである。
とすれば、やがて出雲人が諏訪人を従えてのち、この城は新たな行宮(あんぐう)、新たな政所(まんどころ)として機能するはずである。諏訪の地を支配する八坂なる者が、諏訪人を懐柔すべく当地の建築の様式を意図して取り込もうとしている。彼女は、そんなことを考えながら歩いていた。随臣たちはといえば――門をくぐって早々に引き離され、今は城兵の詰め所近くに足止めされていた。
壮麗な御殿、とまでは、さすがに出雲人の城も言えはしなかっただろう。
人が歩きやすいように土地はあるていどまでならされているが、血気盛んな将兵が常に行き交うものだから、いつの間にか蹴立てられた土や埃が方々に舞って、夜の冷たい風の中に踊っている。松明をかざす櫓の上や、兵たちが詰め込まれた宿舎の集中する一角を通ると、格子窓の戸をわずかに開いて隙間からこちらの姿をうかがわれているのが解った。
好奇の目だ。
自分たちが勝利した、東夷(あずまえびす)の首領がいったいどんなやつなのだろうと。
“諏訪さま”はいま人の身とはいえ、その感覚は人ならぬもののままだ。
こすり合わせる手のうちに暖かな息を吐き入れる感触が、方々から彼女の肌を刺さずにはおかない。まずもって、ここはいくさのために築かれた城である。多くの将兵にとっては、長く生活する住まいというほどには良き家に成り得ないのだろう。
八坂の陣所が在ったのは、宿舎の一角を過ぎ去った、城のもっとも奥である。
いちおう庭らしいものを備えてはいたが、その広さは他に比べれば少しはましという程度に過ぎない。それに樹木や花で飾られているわけでもないから、いやに殺風景である。せいぜい、犬猫を遊ばせておくのには適してはいるかもしれない。むしろ、“諏訪さま”の祀られている祠やら御所を取り囲む庭の方がより広い。少しだけ、自尊心を回復できる事柄だった。
先導役を仰せつかったという高級官吏に促され、彼女は庭から通ずる階(きざはし)を昇る。
昇殿しても、見えるものは高い城壁に囲まれた無骨な城中の景色だけだ。
所々に掲げられた松明と、官吏の手にする紙燭(しそく)がふたりの表情を照らしていた。相手は男だが、顔つきがやけにのっぺりとしていて感情が読めない。陣所となる邸を半分ほど取り囲んでいるらしい廊下を歩かされると、ようやく官吏は足を止め「ここでお待ちを」と、深々と頭を垂れる。城門で応対した武将よりは、礼節を知っていると見えた。
幾人か、薄闇の向こうには弓と箙(えびら)を負った兵がたたずみ、官吏の後ろに待つ“諏訪さま”をにらみつけている。とはいえ、連中も人間だ。いかに禁裏(きんり)守護の大命を帯びた精兵とは申せ、冬も間近いというのに緊張が汗となって額を濡らしているのが見える。出雲人の首領と諏訪人の頂点が介することへの、それは緊迫した心の表れなのだろうか。
「申し上げます! かねてご相聞のありし諏訪人の御首領、城中に招き入れ陣所の御前(おんまえ)にお連れいたしました由にござります!」
先導役とは別の、取り次ぎ役の官吏が大声で告げる。
“諏訪さま”には何も解らなかったのだが、八坂の居所(きょしょ)たる一室を塞ぐ木戸の向こうから、何らかの合図があったらしい。衛兵たちは互いに眼を見交わす間もなくどこかへ退き、取り次ぎ役もまた子猿のようなすばしっこさで姿を隠してしまったのだった。
「お喜びなされませ。八坂さまは、高天原より天下りし尊き血脈を受け継ぎし御方。つまり、われわれ出雲人のなかではいっとうに誇り高く、また気位も高うございます。その八坂さまが諏訪人の御首領であるあなたさまとの直の御対面をお望みになるとは、すなわち格別の御叡慮(ごえいりょ)、ならびに御厚情を賜ったことに他なりませぬぞ。くれぐれも、ご無礼のなきよう……」
先導役は、どこか陶酔した様子で居所を指し示し、“諏訪さま”を招き入れた。
どうやら、彼の中ではもう諏訪人は八坂の臣下ということになってしまっているらしい。むろん、彼は自分が招き入れた客人が主上暗殺の企てを抱いていることなど知る由もない。きっと、この男は善良な性格なのだろう。八坂が諏訪の地を平らげることは、万民の願いに適ったすばらしい事業だと信じ込んでいる。“諏訪さま”は、名前も素性も知らないこの先導役に少しだけ申しわけないと思う。許されよ、其許が慕うて止まぬ主上の居所を、わが手は血で穢そうとしているのだと。
数歩も進み出ると、八坂の居所の木戸は内から開いた。
部屋の中に何人か、召使いらしい者たちの影が見えた。
彼女はぐッと唾を飲み込む。
灯明の薄明かりの向こうから感じたのは、人の姿をした大蛇の眼に他ならなかった。
――――――
「お初にお目にかかりまする。此度はご拝顔の栄に浴し、恐悦至極に存じ上げ奉ります。いま御面前に座しておりまするわたくしが、諏訪の国主にございます。出雲人の御大将であらせられる八坂さまのご威徳、この諏訪の地にまで聞こえしこと幾久しく、またその勇名の轟きしこと、諏訪人と出雲人とのいくさが始まってからいちどとして絶えた試しはございませぬ」
思いつく限りのおべっかを並べ立てる心積もりだった。果たして八坂とやらがそれで気を許すかは解らないが。
当の八坂神の居所は、外見(そとみ)の簡素さを加えていよいよ狭苦しいつくりである。支配者だとか神だとかの壮麗さなど微塵もない。閉め切った格子窓からは星や月の明かりなど当然ながら入っては来ず、灯明一本の灯だけが、かろうじて人工の明るみに人々の影を揺らすに過ぎなかった。
潰れた蛙みたいに平伏したまま、眼だけちらと動かして辺りの様子をうかがってみる。
部屋と外とを隔てる木戸や壁の向こうからは、衛兵たちの息ひとつ聞こえてはこない。風の流れも、その風にくすぐられる樹木と葉の気配の面影もしない。城のもっとも奥に逼塞(ひっそく)した出雲東征軍の首領たる八坂神と、その身辺に侍る幾人かの廷臣の息づかいが密やかに滞留しているだけに過ぎない。
大柄な身体つきをした八坂は軽装、平服のまま、ただかたわらにつるぎのひと振りを置いただけである。その身にまとうはずの鎧らしいものは、辺りには影も見えなかった。
――否、いくさのさなかの陣所だというのに、この部屋には戦いの色があまりに薄い。
武器といえば八坂の帯びる剣だけで、後は小虫ほどの殺気もしない。とかく、物が少ないのだ。何か布らしいものをまとめた包みと、何か武器にも足らぬくらいの金属(かね)の破片が詰まっているのだろう袋が数個。他に在るものといえば侍女たちが顔を飾り立てる白粉(おしろい)の真白さと、祐筆(ゆうひつ)と思しき青年がもてあそぶ筆と墨のにおい。それから廷臣たちの身体から分泌される汗や脂の照り返しだけだ。
「甚だ遅きに失した感をぬぐうことはできませぬが、八坂さまの広大無辺なる御厚情におすがりし、その御いくさに叛き奉りし咎について直にお許しを乞う機会を賜ったは、諏訪人の祭神たるわたくしとても、僥倖と申すほかはございませぬ。今まさにこうして生きて御前に罷り出、聞き苦しき東夷の音声(おんじょう)にて言葉をさえずりしことだけでも、八坂さまの深遠なる御叡慮の一端に与ること、叶った証であると覚えまする」
長々とした謝罪とおべんちゃらを並べ立てると、座の末席に位置する廷臣のひとりが聞き届け、それを上座の八坂の元まで耳打ちをしにいった。面倒の極みとしか思えぬほどの手順だが、それが出雲人の風における儀礼というものなのだろう。政に代表される公の場にて儀礼をとかく重んじるというのも、出雲人のやり方のひとつだと噂には聞いていた。
八坂の髪の毛は、蒼々とした畝(うね)の奔る夏の田の色にも似ていた。
黒髪であることには間違いないようだったが、灯明一本のか弱い明るさの中では薄く蒼みがかっているように感じられる。その髪を後ろ頭に束ねると、長い簪(かんざし)で貫いて留めている。他の出雲人のごとく、角髪(みずら)に結ってはいなかった。顔つきは、怜悧だ。一軍の、いや一国の主を志すだけのことはあるというべきなのか、酒の残り香を漂わす気だるげな唇とは裏腹に、両眼は、眠たげな気配など微塵もなく見開かれ、自分の眼前で頭を垂れる東夷の国主を傲然と見下ろしている。理知、という名前の清水で洗われた利剣を振るうかのように。
「よう参られた。“我”が八坂神である」
八坂は、髪の毛を束ねたゆえ剥き出しになったうなじをひと掻きすると、わずらわしそうに眼を細める。それから、取り次ぎ役の廷臣を駄々っ子めいて押し遣ると、
「煩瑣な取り次ぎは無用だ。……常々に言うておろうが、我は儀礼に凝り固まった会見など苦手だとな。直ぐに人払いを致せ。それから、酒を持ってこい。我と、諏訪国主どののぶんを」
と、矢継ぎ早に命じて見せる。
「国主どのよ。そう硬くならず、面(おもて)を上げられよ。今からそなたの、この八坂への直答(じきとう)を許す」
にい、と、八坂神は不敵に笑んだ。
驚いたのは廷臣たちの方である。
侍女たちは――酒の用意もあってか――全員が静々と部屋を出ていったが、政に携わるだけの実力を持つ者たちなのだろう廷臣らは、眉根を歪めて声を震わせた。
「なりませぬ、八坂さま! 相手は東夷の首領、蛮族の元締めにござりまするぞ。同じ部屋で同じ空気を吸うだけでも、その身より放たれし蛮地の穢れがたちどころに吹き溜まりましょうものを! それを、よもや人払いを行うて一対一でお話を交わされるなど!」
「その通り。われら、臣下としてご諫言(かんげん)さし上げねばなりませぬ。そもそも、未だ諏訪人とのいくさ全うしてはおりませぬ。蛮族とは、往々にして虎狼の心を持ち、面従腹背にして人面獣心なもの。“北蕃蠻夷之鄙人 未嘗見天子 故振摺 願大王少假借之 使得畢使於前”と、燕(えん)の刺客たる荊軻(けいか)が秦王の面前にて取り繕い、その直後に暗殺を企てた故事を知らぬわけでもございますまい」
「さよう。当地の国主が諏訪における荊軻でないと、どうして言うことができましょうや。まして易々と人払いなどなさっては、もし万が一(まんがいつ)のこと起こりしとき、薬嚢を投げつけることのできる夏無且(かむしょ)もまたおそば近くに控えること、できませぬぞ!」
口々に、八坂の命を批判する廷臣たち。
いったい何の逸話を引用しているのか、相も変わらず平伏したままの“諏訪さま”にはよく解らなかったが、どうやら、どこか遠国(おんごく)の偉大な王を、謀略をもって害し奉ろうとした男が、あと一歩のところで失敗した故事を引き合いに出しているらしい。自らの学識を嵩に着たような口調で、出雲人の臣下らは八坂にやかましく諫言――というよりも、その“万が一”が起きてしまったときのための保身のような物言いをくり返す。確かに、それは道理だと考えないわけにはいかない。その荊軻とかいう刺客のごとく、自分は八坂神を害し奉るべくここにやって来ているのだから。
“諏訪さま”の首筋には、汗がひとすじ垂れていた。
寒々とした晩秋の夜にもそぐわない大粒の汗が。
懐に抱いた短剣が、いやに重々しく思えた。
流れ出る汗は、田畑に豊かな実りをもたらす万丈の河々の水より冷たかった。
各々の思惑など知る由もなくか、八坂はわずらわしげな表情をいっそう強くし、
「やかましき者たちだ。東征における政はこの八坂の手に任すと、そのように、われら大王(おおきみ)よりの仰せを受け、東国に向けて放たれたこと忘れたか。すなわち、諏訪国主どのとの会見もまた我が手に委ねられし政ぞ。我の意に背きしは、西国十数州を束ねる大王の御稜威(みいつ)に背くことであると知れ」
静かではあるが、重々しい口ぶり。天津神の託宣だ。
発された音声は人のものと同じ形を取っているというのに、その切れ味は鉄剣よりも鋭利であった。脅し――というには拙いほどのものだったが、主上の権威をちらつかされては、頑なな廷臣たちも引き下がらざるを得なかったのかもしれない。何人かは、渋々と八坂の居所から出ていった。それも、少しばかり荒々しい足取りで。人々の歩くことで部屋の空気がかき回され、灯明の火がわずかに揺れる。
だが、幾人かの廷臣どもは未だにその場を動こうともしなかった。
見上げた粘り強さか、いや忠節か。少なくとも、権力を目の当たりに突きつけられて直ぐに逃げ出さないだけ他とは違う。頑ななのは廷臣も八坂神も同じようで、残った臣下たちは、なおも蛮族の怖ろしさや背信の危うさなどを切々と説いていた。肝が冷えたり高揚したり、平伏したままの“諏訪さま”もずいぶんと気ぜわしかった。
「いい加減に、お諦めなされませ。八坂さまがお人払いをお望みとあらば、従うのがわれら臣下の務めというものでありましょう」
流れを変えたのは、八坂のもっともそば近くに控えていた青年のひと声である。
さっきまで、何を記すこともなく筆と墨をもてあそんでいた例の祐筆であった。
やはり黒髪。
八坂と同じような形で髪を結い、簪で留めているらしいのだが、同時に冠(こうぶり)してもおり、髻(もとどり)までは見えもしない。細面(ほそおもて)の、いかにも美青年らしく見える男。着物のつくりは諏訪人とも、他の出雲人とも違う。袖はよく見る筒袖でなく広々と垂れたもので、腕を上げれば袖の部分だけで顔を覆い隠せそうなほど。
その、奇妙な姿の祐筆が、色の薄い唇を微笑に歪めて言い渡す。
「先ほど、あなたがたは――史記は刺客列伝における荊軻の行状を根拠にして、八坂さまにご諫言なされました。なれど、刺客列伝には同じく荊軻の口にしたることとして、次のような場面がございます」
朗々と、唄うごとく響く声。
「“風蕭蕭兮易水寒 壯士一去兮不復還”。……二度と郷里に帰ることなく、敵国たる秦にその命を棄てると決めて、荊軻は旅立ちましてございます。今日、ここに居られる諏訪国主どのもまた、荊軻と同じ。自らの郷里に攻め入りし出雲人の御首領にたったひとりで相まみえるなど、見様によっては自ら首を差し出しにいくようなもの。並の豪胆さでできることではございませぬ。八坂さまは御自らもまた根っからの武神にて、諏訪国主どのとの御対面においてわざわざお人払いを為されるは、国主どののそうした尊き心意気を汲んでのことでございましょう」
残った数人の廷臣は、言葉に窮した。
しばらく、飢えた魚のように口をぱくぱくと動かしていたが、やがて小さく頭を垂れると、そそくさと部屋を出ていくのだった。「祐筆ふぜいが……いつの日か、本朝における趙高と呼ばれねば良いがな」と、そんな捨て台詞まで残して。
一部始終に無言で眼を遣っていた八坂神は、何はばかることもなく喉の奥まで見せるように「あ、ははッ! 痛快だ!」と大笑すると、
「だが、稗田。貴様は未だ居たのか。先ほど、人払いを致せと申しつけたはずであるが」
愉しさも揚々といった調子で、最後に残った部下である祐筆に語る。
「申しわけございませぬ。しかし、それがし――少々、気短(きみじか)なるところがございますゆえ。頭の固い方々に対するほんのいたずらにて、八坂神におかれましては平にご容赦のほどを願い奉ります」
「おう。許す、許す! 許すから、さっさと出ていくのだな」
膝を「ぱん、ぱん」と叩く八坂に改めて頭を下げると、“稗田”と呼ばれた青年もまた、部屋を出ていった。やっと頃合いかと見て、“諏訪さま”もようやく平伏していた頭を上げる。面白いものを見た――と言いたげな顔が、彼女をじいと見下ろしていた。間近く相まみえるのは初めてである、東征軍の御大将の顔。いわば、この諏訪の地に降り立った龍顔(りゅうがん)の持ち主。よく磨かれた鉄剣のように、鋭くうつくしいものをまとった『青年』だった。
八坂は、“諏訪さま”をまじまじと見つめると、「済まなかったな」とつぶやく。
「“あれ”は……祐筆の稗田舎人(ひえだのとねり)はな、海の向こう、はるか外なる国より渡来した者たちの子孫だと聞いておる。学識に優れ、ものを憶えることに長けておるゆえ、此度の東征にていくさのあらまし書き留めさせるため、わが主上たる大王より借り受けし者。先ほどのごとくそば近くに置くことにしておるが、なにぶん、渡来人(とらいびと)というのはものの考え方が違うのか、皆、あのように口がよう回る。端から見ていて、ご不快に思われたことであろう」
「いいえ、そのようなことは、……」
「忌憚なきところを好きに申されよ。今日は、そのためにそなたをお呼びしたのだ」
とはいえ、敗者が勝者に好き勝手にものを言うのはやはりはばかられる。
しばらく声を詰まらせたままでいると、八坂の方でこちらの心情を察したのか、もうそれ以上の追及はなかった。
やがて、侍女の手で酒が運ばれてくる。
装飾も何もない簡素な盆に、土器(かわらけ)の瓶子と杯。
たぶん、出雲人が郷里から持ち込んだものなのだろうが、諏訪人が使う道具とこれといって差異らしい差異は見出せない。
「賓客としてまともに遇することもできぬご無礼、何とぞ許されよ。いくさの最中にある城中のこととて、ろくに肴も用意できなんだ。だが、酒は良いものだ。出雲の地より、今日この日のために取り寄せた美酒(うまざけ)ぞ。東国の風土にてつくられし酒もまた格別に美味いのだろうが、われらは諏訪人の敵、さらには軍律にて略奪を禁じておるゆえ、諏訪の酒を口にする機会はついぞなかった。なれど今宵は、諏訪人が出雲人の元を訪うて(おとのうて)くれたことへの返礼として、わが郷里の良き酒を馳走すると思うてもらえればさいわいである」
“諏訪さま”の謝罪にも比するような長々しいあいさつを終えると、八坂は手ずから瓶子を手にとって、互いの杯に酒を注ぎ始めた。はや、『彼』の方では杯を手に取ったが、“諏訪さま”はそう易々と誘いに応じる気持ちにはなれなかった。
「どうされた。毒など入ってはおらぬ。遠慮のう飲(や)ってくれ」
「八坂さまよりの御厚意は、重々に感じ入っております。なれど――」
「なれど――何か。いや……肴がなければ、やはり酒を飲むのも面白うはないということかな」
そう早口に呟き、八坂は眼を細める。
「さて、では手始めに。諏訪の国主どのよ。そなた、名は何と呼べばよい」
「なぜ、急に」
「先ほどから言葉を交わしておれば、そなた、自らを諏訪国主であると名乗るばかりで、まことの名を明かす気配がない」
「東夷の名など、訊いていかにいたしまする」
「酒肴なきゆえ、互いの口よりまろび出る話を喰わねばやりきれまい」
なるほど、それは確かにそうである。
“諏訪さま”は、ここにきてようやく自分の使命を思い出した。
でき得る限り相手の警戒を解いて、隙をつくり出さなければならない。
八坂神に応じて自分も杯を手に取り、白く波立つ濁り酒をちびちびと飲んだ。
相手は、満足げに微笑する。
「わたくしは、諏訪の地にさきわう――ミシャグジと呼ばるる無数の蛇神と、そのミシャグジを奉ずる諸豪族、それらの者たちから形ばかりも王として推戴を受けし神にございます。わが神霊を人のかたちとして地上に在らしめるべく必要とされるは、わたくしが諏訪の“王”であることを民草が信じ奉ること。わたくしこそが諏訪であり、諏訪こそがわたくしなのです。ゆえに、わたくしは決まった名前というものを持ち合わせてはおりませぬ。ただ、人々からは当地の名を取りて“諏訪さま”などと、多年に渡って呼びならわされておりまする」
言うと、再び酒を口にする。
諏訪人の手になる酒よりは、幾らかまろやかな風味がある気がする。
どこかねっとりとした甘味が強いが、口当たりなら諏訪の酒にも勝っていると感じる。八坂が自信たっぷりに美酒であると喧伝するだけのことはある――と、素直に思った。
「なるほどな。解った。では、我もそう呼ぼう。良いかな、“諏訪どの”」
“諏訪さま”は、こくりとうなずいた。
うなずきながら、少しずつ酒を飲んでいく。
と、その間にも八坂神は二杯、三杯と杯を空け、今はもう五杯目に差し掛かっている由。
どうやら、かなりの“うわばみ”らしい。
「八坂と諏訪どの。我らふたり、相まみえるのは今日が初めてだな」
「否。そうではございませぬ」
「ん、そうか。どこかで、お会いしたことがあったかな。どうも思い出せぬが……」
ことり、と、土器を盆に置く。
八坂は“諏訪さま”のその様子を見、瓶子に伸ばしかけた手を止めた。
「前にいちどだけ、――はるか遠くからではございますが、八坂さまの御尊顔を拝し奉ったことが」
「なに……公の儀礼を尽くして顔を合わすは此度が最初だ。されば、」
「いくさの場にてのこと」
杯に二杯目の酒を注ぎつつ、彼女は言を継いだ。
「国境(くにざかい)の川を突破すべく出雲勢が大挙して押し寄せ、それを阻もうとするわれわれ諏訪豪族勢とぶつかったときの戦い、憶えておられますか」
「よく憶えている。千余の征矢(そや)、わが軍勢を狙い済まし、川向こうからいちどに飛び来たるのだ。先遣に発したこちらの手勢数百は瞬く間に潰え、結局、渡河には一日と半分を費やしてしまったときのことをな」
「なれど、あなたは一滴の水にも濡れることはなかった」
「その通り。……よく御存知だ。諏訪どの、そなた、どこで見ていた」
「わたくしこそが諏訪であり、諏訪こそがわたくしであると、先ほど申し上げました。今のように人の姿を取っているときにはそれは叶いませぬが、人のかたち持たぬ神霊として在るとき、諏訪の地で起こりしことは、この地に棲みしミシャグジ数万を通し、そのことごとくをわが眼で見、わが耳で聞くごとく感じ取ることができるのです。わたくしという存在は、空気のごとく、また水のごとく、諏訪という国を満たしている」
「なるほど。それが諏訪どのの神通力か」
「むろん、八坂さまのお力のほども、よくこの眼に焼きつけてございます。その、すさまじきものを」
それを告げると、八坂神はにわかに黙り込んだ。
武神軍神として、自らの権能や手柄を称賛されるのは、やはり何にも代えがたい誉れらしい。
「川を挟みての矢合わせがひときわ烈しきとき、鎧を身につけることなく、またつるぎ掲げることもなく、ただ兵らに担われた輿の上にて立ち上がり高々といくさ場を睥睨したる者を、わが神霊の眼は遠く遠くに見たのです」
傲然と――酒のためかどこか気楽になった今の姿よりも――、敵味方の双方から煙る血飛沫を見渡す敵の統領のことを、忘れることは未だにできない。その敵が、今しも手の届きそうなほど近くに居ればなおさらのこと。
「風の吹かぬ日、であったか。確か」
「はい。そうでございました」
八坂は、片手をにわかに持ち上げた。
その仕草は、まさしく渡河を巡る戦いのときと同じものである。
風吹かぬときに風吹かせる神通力の合図だった。
「その日、風はどちらの軍勢にも味方せぬはずでございました。諏訪勢、出雲勢、どちらも向かい風にぶつかりながら戦うことはなく、ためにわが方の放ちし征矢は易々と出雲勢に襲いかかりました。しかし八坂さまがその御手を輿の上にて掲げしとき、やにわに出雲勢に追い風吹きて、川面は波立ち、土と砂はまくれ、――舞いあがった小石や砂粒によってわが射手(いて)は眼を潰され、弓を射ること叶わなくなりましてございます。逆に、出雲勢の射る矢は風に乗りて諏訪勢ことごとくを討ち取る始末。まことに、武神軍神の猛々しきお力のゆえに」
「諏訪どの。おべっかもまた、程度が過ぎれば悪口雑言と同じものであるぞ。確かに、我は風吹かせて射手を封じた。事実ゆえ、それは認めよう。だが、川辺の草々を血で赤く染めたは出雲勢の将兵たちもまた同じこと。諏訪人にもまた、出雲人に伍するだけの武勇と胆力があろう」
謙遜する八坂神の言葉に、嘘はないように思えた。
仮にも八坂神が一目置くほどの力があった諏訪人だからこそ、数ではるかに勝る一万余の軍勢を、せいぜい一日半だけでも渡河の作戦に釘づけにしておくことができたのだ。
だが同時に、“諏訪どの”もまた並の嘘やおべっかのつもりで八坂の神通力のことを口にしたわけではない。出雲人の奉ずる軍神の、その実力を心から恐れていたのだから。
実際――渡河を巡る戦いまで含め、諏訪人と出雲人の争いにおいて、緒戦こそ前者は優位に立っていた。それがひと月と余日で今ほど敗北に押し込まれてしまったことは、人知を超えた神霊のはたらきによるものとしか言いようがない。そして、この戦いは人間同士の争いであるとともに、彼らが祭祀する神々の闘争でもあった。互いが奉じる存在同士の神通力がぶつかり合い、……“諏訪さま”は、負けた。
諏訪の地でのいくさの中で、彼女はいつでも、敵の御大将である八坂の采配を感じないわけにはいかなかった。
神が振るう采配なるものは、すなわち利益(りやく)と神通力である。
神通力と神通力の闘争は、それを奉じる人々の願いの強さの差でもあった。
負けいくさ続けば、自ら奉じる神の権能が薄れつつあることを思わないわけにはいかない。くり返される敗北は、いかに王なる神が神徳と戦勝を与えんと願っても、その王への信頼の阻喪しか招かないのだった。諏訪勢の築いた城や砦は出雲勢の精兵一万余に押し破られ、戦線は後退する。真正面からの戦いで敵わないことを知った“諏訪さま”は、矛の閃きで押し込められた諏訪の地の奥から、不遜きわまりし出雲勢に天罰と祟りあれかしと意気を燃やし続けるほかなかった。たとえ人間同士の戦いが敗北を重ね、諏訪人の国の滅亡が目前に迫ったときであっても。
彼女を王に推戴したミシャグジ蛇神たちは、人の眼には見えない数万の軍勢となって大地を疾駆した。怒りに満ちた尾を人々のつくった鉄剣よりもすばやく振り立て、爛と光る赤い瞳で出雲人を取り巻いた。夜ごと喉の奥から恨みを謡い、人影みえれば牙から滴る毒を霧に変じて吹きかけた。
出雲の精兵といえど幾百里にわたる行軍と、いつまた起こるか知れない夷狄(いてき)との戦いの疲れからは逃れがたい。ほどなく出雲兵に瘧(おこり)にも似た病が蔓延し始める。ミシャグジたちはその白い鱗を得意気に光らせ、『手柄』の承認を“諏訪さま”に迫ったものだった。だが、蛇神たちの行った奇襲というべきものは、十数日ほど敵方の行軍を遅らせただけに留まった。出雲勢の陣中に、見慣れぬ異国の風をまとった薬師あり。瘧を発した者たちはただちに隔離され、滋味に富んだ食餌を与えられた。どこからか取り寄せた薬を服していたという話もある。出雲勢の病は、全快した。東夷の能くする呪い(まじない)を人の手で克服するすべを、出雲人は知っていた。
諏訪勢の武器がことごとく使い物にならなくなったのは、おそらくこちらのやり口に対する報復だったのだと、“諏訪さま”は今にして思う。出雲勢の瘧が癒えてから二日と経たぬうちに、諏訪人の手にする矛や鉄剣の刃が欠け、身は折れ、その破片の一片に至るまで赤々と錆びついていった。挙句の果てに、民百姓の糧の源である鍬(くわ)、鋤(すき)、鎌まで似たような有り様では、いくさはおろか田地田畑を耕すことすらできない。
“諏訪さま”は、ついに敗北を認めざるを得なかった。
人の身として顕現したのは、出雲人の御首領である八坂神が、やはり人の姿に化身していくさを指揮していたからである。幾久しく行っていなかった人の姿への化身を、王として諏訪人の命乞いをするべく為さなければならないわが身の不幸、と、彼女は思わないでもなかったのだが。
だが、“諏訪さま”の屈辱など八坂は知る由もないのだ。
その指先は、いま空になった杯を指先だけで器用にもてあそんでいる。
「勝ちをむさぼったは互いに同じ。いくさである以上、それは仕方なき仕儀である。それに、姑息な手を尽くしてまで諏訪の地を奪い合うたこともな。言うなれば、この八坂と“諏訪どの”は、共に覇道を驀進していた者同士」
「覇道……わたくしには、聞き慣れぬ言葉」
「我もまた、祐筆の稗田から聞いたのみだ。政には覇道と王道があると、どこぞの学生(がくしょう)は史書に書いているらしい。覇道とは虎狼のごとき戦いの道。盲(めしい)のごとく力にて敵滅ぼし人心押さえつければ、いちどは天下(あまのした)平らかなれど、やがては人々の恨みを買い、滅ぼさるる元となる。つるぎにて築いた国は、つるぎにて突き殺される。人の築きし国々の興亡は、そのほとんどがこの覇道を歩んだゆえのことなのだと」
「では、王道とは」
「仁の心、慈しみの志による政だという。――王が民草の暮らしを案じ、よくその身を惜しまず施しを為し、己ひとりが富をむさぼることなく、奸臣(かんしん)佞臣(ねいしん)の甘言を正しき眼で見極め退ける。敵に対しては力で叩き伏せるのではなく知恵を絞りて誼(よしみ)を結ぶ。すると、その国は王の徳によりて千歳(せんざい)に至るまで太平を得ることになる」
覇道、王道。
燕の荊軻がどうのといった、またどこか遠国の学問が出典なのだろう。
いわば、統治者に向けた一種の訓戒である。確かに、的を射たことではある。
徳による政ということは、空虚でさえある理想そのものだ。“諏訪さま”は、人々と神霊たちの推戴によって王であることを定められた者である。もう何百年何千年、そうやって統治者を演じてきたのだろうか。『祟る』という現象の司であり王者。人々を支配する立場でありながら、自らもまた人々の祀りによって存在を左右されなければならない。各々は小さな崇りの結晶でしかない者たちを、王命という玉音のもとに神として顕わしている。民衆は王を畏れ敬う。応じて、“諏訪さま”は神徳を与える。果たして、自分の政は覇道と王道、どちらのものなのだろう。
再び杯を酒で満たしながら、八坂はふんと鼻を鳴らす。
どこか、嘲りの色を帯びている。ぴくりと“諏訪さま”は何か言いかけたが、注意が自分に向いているわけではないことに気づき、言葉なき意思は直ぐに引っ込んでいく。
「……だがな。諏訪どの。覇道だの王道だのは、しょせん学者ののたまう夢物語に過ぎぬ。いかな聖人とても、人は、喰うもの着るもの住むところなくば――いや、たとえそれらのものにまるで困らぬ者とても――途端に虎狼の心持つぞ。その虎狼じみた己らを鎮め、自ら振るうつるぎに格別の大義を与えるため、我ら神々が居るのではないか。覇道によって築かれし国が徳に満ちた政を施したことは幾らでもある。逆に、王道を歩んでいた者がいくさによって滅ぼされたこともな」
要は、矛の収めどきである。
八坂は、そう嘯いた。
その真意が、“諏訪さま”には読めない。
酒はもう何度も飲んでいるが、いっこうに酔うことができないくらいには。
こういうとき、人ならぬ神の化身としての肉体は便利だった。ものを考えるに、生粋の人の身体というものはあまりに酒に弱すぎる。
「忌憚なきところ、申し上げてもよいのでございましょう」
と、彼女はぽつぽつと口に出した。
「おお。申されよ」
「では」
杯に残った最後の酒をごくりと飲って、八坂の顔を見据える。
相も変わらず、その眼は面白げに笑っていた。
「わたくしは八坂さまの御真意御心底、まるで見えてきませぬ。武略によりてこの諏訪の地を獲らんとしているにもかかわらず、諏訪国主たるこの身を行宮にお呼びいたし、直ちに処刑するでも、こちらの命乞いを聞き届けるでもなく、出雲の美酒など振る舞うという行い。かと思えば覇道と王道についてお教えくだされ、その舌の根も乾かぬうちから覇道や王道はただの夢物語に過ぎぬという仰せにございます。子供や年寄りのたわ言でも、もう少しまともに一本筋が通っているもの」
“諏訪さま”が言い終わりもしないうちから、八坂は頬の裏を噛みつぶすようにして何かに耐えているみたいだった。直ぐに、その動きが何なのかは知れてくる。八坂神は、笑っているのだ。可笑しいのが堪え切れないというように。「く、く、く、……!」と。
「そうか! 八坂神は、女子供よりものを申すのが下手か!」
「いえ、そうでは……そういうことでは…………」
うかつなことを言って怒らせるわけにはいかない。
必死で取り繕おうとしたが、ちょうど良い言葉が少しも出てこない。
何か、八坂という神に相対していると、全身から毒気が抜かれて上手く言葉を転がすことができないような気がするのだった。
「まあ、良いわ。しかし諏訪どの。そなた、他人(ひと)の話をよく聞かぬ性質(たち)か。さきほど、我は矛の収めどきこそ物事の要だと、そのように口にしたであろうが」
また杯に酒を注いで一気に飲み干し、ぎろりと八坂は“諏訪さま”を臨む。
両の眼は、祟り神ミシャグジたちを束ねる彼女とても、身をすくませずにはいられない凄みを放っていた。はああ、と、酒の香の強くなった息を吐き、かけらほどの酔いもない明晰な言を八坂は能くした。
「諏訪国主どのへ、いくさにおける矛の収めどきをご提案いたそう。出雲人の武の司神、また、王命受けし東国の政の名代として率直に申し上げる。我は我の武勇にて獲りたるこの諏訪の地と、当地に住まう民草数千、そして諏訪を治むる諏訪どのを、出雲人の手にて買い上げたい」
いささか、冷静でいられたのは自身にとっても意外の感があった。
だが、やはり指先ほどには苛立ちが奔っているとも解る。
杯を盆に戻した“諏訪さま”の眼は、毒持つ蛇のそれだった。
「八坂神におかれましては、国主たるこのわたくしに“諏訪の国を売り渡せ”と、――そうのような仰せにございまするか」
「お嫌かな」
「仮にもミシャグジ蛇神より王として戴かれしこの祟り神に向かいて、そのような汚らわしき取り引きを持ちかけるとは、何たる不遜か! 増上慢も甚だしいッ!」
身に帯びた八坂暗殺の使命も忘れ、“諏訪さま”は絶叫する。
そうだ、と、彼女は唾を飲み込んだ。
しょせん、眼の前に座しているのは武力によって他国を併呑することしか頭にない、西方よりの侵略者だ。いくさにおける矛の収めどきなど、要するに、
『これ以上、刃を交えても意味はない。さっさと降伏してしまった方が身のためだ』
という脅しでしかないのだ!
よくよく、なめられたものであった。
諏訪の土着神である彼女とて無力ではない。無思慮でもない。
敗れはしても、当世無双の戦闘集団である出雲人を堂々と向こうに回し、ひと月と余日に渡る戦いをしてきただけの意地がある。それが、何ぞいくさ場で死ぬことすら許されず、敗者の王という咎のもとに首を刎ねられもせず、勝ち目がないから国を売り渡せなどと、これ以上の辱めは未だかつて考えたことすらもなかったのである。
叶うものなら唾を吐きかけて罵倒し、直ぐにでも諏訪中からミシャグジたちを呼び集めて崇り殺してやるところだった。だが、敵地の中心部――すなわち、八坂神を祀る一種の神域浄域であるこの場ではそれもできまい。個々の力は砂粒ほどのものでしかない蛇神たちは、神域の気に触れただけで滅ぼされてしまうだろうから。だからこそ随臣たちとの協議の末、隠し持った匕首(あいくち)による暗殺という策を採ったのである。
激昂する“諏訪さま”とは裏腹に、八坂神は冷静……というよりも、どこか意外の感に打たれたように「きょとん」とした顔をしている。よもや、眼の前の相手がここまで激怒するとは思ってもいなかった。という、そんなことまで言いたげだ。
「言葉が足らなかったようであるな。いや、先ほどのわが物言いに大きな語弊があったことは認めよう。ただでよこせ、などとは誰も申すつもりはない。この八坂神とても、そこまで姑息ではないのだ。出雲人にも、高天原より天下りし神々の末孫としての誇りはある」
八坂は、緩慢な手つきで瓶子を取ろうとした。
だが、ふたりで飲み続けていた酒はすでに空になっている。
酒が切れたせいで渋い顔をした八坂だが、しかし、その口ぶりはどこか揚々ともしていた。
「この盟約成れば、諏訪人は出雲人の臣下となる。しかし、その代わりに――汲めども尽きぬ太平と繁栄とを享受することにもなる。諏訪どのもまた、高天原より千歳に渡りて続く御血筋を受け継ぎしわが主上、大王の御前にかしずく諸神のひと柱として、子々孫々まで光り輝く弥栄(いやさか)を受くることができる」
「その異邦の王にかしずくこと、お断りいたさば如何様(いかよう)に」
にやと、八坂は唇を歪めた。
凶気だ、と、“諏訪さま”は直感する。
出雲人が戦いのとき、その雄叫び、その鬨(とき)の声とともに無音の乱声(らんじょう)を見せる、鋭い凶気。また殺気。意気だけで敵する者のことごとくを叩き伏せずにはおかないような。
すばやく立ち上がると、八坂は手の中の杯を床に叩きつけた。
砕け散った白い破片が四方に飛び散り、“諏訪さま”の膝元にまで転がってくる。
人の肉体に化身しているときの癖で、とっさに彼女は手をかざして眼を覆った。
少女の薄い皮膚にぱらぱらと破片が飛んでくるが、傷を負うほどのことではない。
眼を開けようとした彼女の首筋に、何か冷たいものがぴたりと押し当てられる感触がある。生き物――の骨肉が、こんなにも無機質な感覚を伴っているはずはない。これは、武器だ。戦いのため、殺しのために研ぎ澄まされた、鋭い鉄剣の感触だ。八坂神が、ただひとつかたわらにしていた武器である出雲人の鉄剣を抜き払い、その冷たい切っ先を“諏訪さま”の首筋に押し当てているのである。
「もし断らばそなたを殺し、その血と首とをもって諏訪征討の新たなる露払いと致す。この八坂神が歩む覇道はより長きものとなり、王道は遠ざかる。ために諏訪人、および、その奉ずるところの神々は、大王の御稜威に逆らいし蒙昧なる蛮地の夷狄として滅ぼされ、その御名は千年も二千年も先まで穢され続けることであろう」
つるぎの冷たさにすべての熱を奪われたかのごとく、“諏訪さま”の身体からは一滴の汗も流れなかった。その代わり、汗になることのない熱のすべてを凝集して、憤りを込めた視線で八坂を射る。だが、相手は少しも怯む気色を持たない。それでも、どうしてか切っ先に込められた力がふと緩むときがあった。“諏訪さま”は、立ち上がることができない。主導権を握っているのは依然として八坂の方である。逃げ出すことも、胸元に隠した匕首を取り出すこともできそうにない。
「諏訪どの。これは単なる脅しではないのだよ。諏訪こそそなた、そなたこそ諏訪であるのなら――万金にも勝る民草の繁栄をもって、八坂神はそなたの命を助けたいと思うておる」
「何を、ばかな申しよう」
「まことのことだ。我はな、ただひとりでこの八坂神に相対するそなたの意気を、ことのほかうつくしきものと思うておるのだ。いくさ神たる八坂は、うつくしく勇ましきもの、何より好く。米や塩の数千俵、絹の数千疋、いやもっと差し出しても未だ足らぬであろう、この諏訪の地のごとく」
「…………」
「だが、そなたが諏訪人の王として、あくまで我に背くというのであれば致し方なきこと。ただ一夜限りの友人として、その首、刎ねるより他にないのだが」
膝の上で、ぎゅうと両手を握りしめていた。
相も変わらずつるぎは“諏訪さま”の首を捉えたままでいる。
だがそれでも、彼女もまた八坂神と同じくらい、凶気と殺気を叩きつけることはできる。
「やってみよ、不遜なる出雲人。殺してみよ、その驕れる刃にて。いま直ぐにでも、この諏訪なる崇り神を亡き者にしてみよ!」
身を乗り出さんばかりの、咆哮。
その様を明瞭な表情もなく見下ろす八坂。
「わたしを殺さば諏訪の地に住まう民草数千、天地(あめつち)にさきわう神霊数万、たちどころに貴様の敵となる。千余万余の怒りはつるぎと矛とに代わりて、われらが郷里に踏み入りし出雲人、そのことごとくが死に絶えるまで、一切の憐憫も容赦も知らぬかのごとく、何度でも崇り、暴れ狂うぞ!」
八坂が、歯をむき出して嗤う、嗤う。
「やってみよ、蒙昧なる諏訪人。暴れてみよ、その神霊の群れ率いて。いま直ぐにでも、この八坂なるいくさ神を崇り殺してみよ!」
再び、鉄剣に力が込められる。
「我を殺さば出雲の地に待つ軍兵数千、威徳振るいし神の数万、たちどころに貴様の敵となる。千余万余の神威はつるぎと矛とに代わりて、身のほど知らぬ野の猿(ましら)がごとき諏訪人、そのことごとくの血を絞り取るまで、一切の憐憫も容赦も知らぬかのごとく、何度でも戦い、攻め潰すぞ!」
互いの殺気が交錯し、諏訪の晩秋の夜をぶるぶると震わせた。
心弱い人がもしこの光景を目の当たりにしていたなら、あるいはそれだけで命を喪っていたかもしれない。八坂には、武神として東国を平定せんとする意志がある。“諏訪さま”には、王として国土を護ろうとする気概がある。どちらがどちらの立場だったとしても、決して譲れない争いであることは解りきったことでもあった。
だが、突如。
八坂は険しい顔つきのまま、剣を鞘に収めたのであった。
溜め息ひとつ吐くと、また“諏訪さま”に眼を戻す。
「言うておくが、我は本気ぞ。……諏訪どの、そなたも祟る神だというのなら覚えがあろう。王が衆生を祟るごとく、衆生は王を憎み恨むのだ。衆生の恨みを引き受けるのもまた、王の仕事。王は衆生を支配し、衆生は王を支配してもいる。恨み引き受けた後は、同じほどの徳もまた施さねばならぬ。それこそがわが王道、わが覇道。いくさとは、政そのものからすれば卑しき婢でしかない」
ふッ、――と、どこか安らかな表情に変わる八坂だった。
やはり、読めないお人だ。
どうしてか、“諏訪さま”は唐突な可笑しみを感じて笑いたい気持ちになる。
「いったい何をもって……わが諏訪を買い上げるとの仰せにございまするか。米か、塩か。それとも絹か」
「ほう。盟約結ぶ気になってくれたか」
「そうではございませぬ。どうせ――どうせわが国が滅ぼされる定めにあるというのなら、あなたが歩むであろう覇道と、その先に続く王道というものを少しでも垣間見たい。そのように思うたまでのことにございます。諏訪の地も、そしてわたくしの心も、決して安きものではないゆえに」
そんな言葉は、突然の心変わりと映ったらしい。
鞘に収めた鉄剣を放り出し、八坂は部屋の隅に積み上げてあった小袋に手を伸ばした。
たぶん鹿革か何かを縫い合わせたものだ。その中から「ちゃりちゃり」と小さな金属の破片がこすれ合う音が盛んに聞こえていた。「御自ら、封を解かれてみよ」と、八坂は袋を“諏訪さま”に放り投げる。受け取り、おそるおそる、袋の口を閉じていた赤い紐を解いた。
「これは……また、見慣れぬもの。小刀にございますか。それにしてはいやに小さく、また刃の方もなまくらでしかないように見えまする」
彼女が指先に取り出したのは、人の手より少しだけ小さいかと思えるくらいの大きさをした、鈍色の『小刀』だった。ちょうど、手首から始まって手のひらを通り、中指の真ん中あたりが切っ先になるくらいの長さだ。柄にあたる部分には穴が開いており、とっさに「紐を通して持ち歩くのかもしれない」と連想させられる。刀身には、何か見たこともないような文字が幾つか記されていた。角張ったり丸かったり、形は色々である。そして、小刀に似た形状をしているというのに刃も切っ先もまるで研がれてはおらず、これではいくさや狩りはおろか、木の枝を削ることにすら耐え得ないに違いない。“諏訪さま”の眼には、せいぜい、子供のおもちゃのようにしか見えなかった。
「ものを知らぬ東夷の神と見てのおからかいは、どうか大概にしていただきたい。このようなおもちゃを用いて諏訪の地を買い上げようなどとは、幾ら八坂さまと申しましても、あまりにたわけた思し召し」
「からかってもたわけても、おらぬ。それに、直にその道具を積みて諏訪を欲するわけではない。……そもそも、諏訪どのはその“小刀”が何のために使われるものであるか、お解りか」
「いや、それは……」
解らない、というのが正直なところだった。
彼女の心のうちには、やはり未だ八坂神への不信感と憤りが残っている。
冷静に状況を判断できるだけの理性も、今ようやく戻ってきたくらいだ。
一方の八坂は、自らもまた袋から『小刀』を取り出して、手のひらに幾本かを並べてみせた。
「良いかな、諏訪どの。この道具は、“刀銭(とうせん)”という。つるぎのかたちを模して造りし、金属(かね)の銭である」
「刀銭……金属の、銭」
「さよう。我やそなたの国、……いや、どこまで続くのか未だ知れぬこの巨大なる島々の群れ、出雲人が葦原中ツ国と呼ぶ世界においては商いに米や塩や絹を介するごとく、西海数百里の波濤を越えた日没するところの大国にては、このような金属の銭を介して商いをする。政のために税も取る」
「この小刀――刀銭で」
「そうだ。そしてわれらがいま手にしている刀銭は、その大国から譲り受けし銭貨のうちの幾本かだ。その大国ではな、国を挙げて銭貨を鋳ること久しく、つくった銭はあらゆる民草に行き渡るようにしておると聞く。そうすれば、豊作不作だとか年ごとの出来不出来に左右されやすい米や塩や絹を頼ることなく、常に安らかで公正公平な商いをすることができる。民草から、多すぎず少なすぎないより適当な量の税を取ることができる。この八坂神が目指している王道とは、我の手による政をこの諏訪の地に敷き、いずれはこの銭を当たり前に用いることのできるほど、豊かなる富を蓄えし国を創ることだ」
手の中の刀銭を握り締め、八坂は言った。
再び座り込み、真正面から“諏訪さま”の顔を見据えている。
「それは、ご立派なお志にございます。なれど、諏訪は決して内に向けて閉じられた国ではございませぬ。米や塩や絹を介した取り引きにても、外なる国や人々との交わりを介さぬわけにはいかない。まして、諏訪は海なき場所。塩は、海からでないと採れませぬ。海を知る者との商いなくば、人が生きるための塩すら手に入らぬのが諏訪なのです。銭貨というものをお用いになることが八坂さまの王道との仰せなら、諏訪だけでなく他の国々にまでも、その御稜威、広げる必要がありまする」
小袋に銭貨を戻す八坂。
逆に、今度は“諏訪さま”の方が何かから隠すかのように、刀銭を握り締めることになる。
「その通り。だからこそ、わが出雲人の主上は多くの国々を併呑し、統一しようとなされておられる。諸国諸州がことごとく大王の御威光に服しその政に従うのであれば、むろん、易き金繰りのために商いの方法も統一されよう。万民が皆ひとしく富を蓄える、その足掛かりを手に入れることができるのだ」
面白きものをお見せする。
そう言って八坂はまた立ち上がったのだが、“諏訪さま”に与えた刀銭を返せと言うことはなかった。忘れているはずもないが、もしかしたら、それほど執着があるわけでもないのかもしれない。またも部屋の隅に積まれていた数少ない荷物の中から、ひどく薄い布のようなものを取り出し、眼の前に広げる。邪魔は盆や瓶子は遠くに押し遣られてしまっていた。
「諏訪どの、紙を見たことはあるか。絹より薄いが丈夫で、求める大きさに切り取ることや折り畳むこともできる。木簡(もっかん)や竹簡に比べてかさばりにくいので、ものを書くことについてこれほど便利なものもない」
「話の次第、耳にしたことぐらいなら」
「聞くところによれば、この紙という道具も西海を越えし例の大国で生まれたものらしい。稗田舎人のごとき渡来人たちの中に、紙の製法を心得た者が何人か居ったのだ。この地図は、その者たちにつくらせたもの」
やはり紐で結えられ丸められていた紙の地図は、広げてみれば大人ひとりが両腕をいっぱいに広げたほどの大きさがあった。ただでさえ広くない部屋の床に地図を敷くと、思いのほか空間が圧迫されているような気さえする。
地図に記されていたのは、八坂神にとっての都である出雲を中心とした、葦原中ツ国の地図であった。出雲を中心に畿内、それから『鎮西』と記されたひときわ巨大な西方の島らしいものの地理や国名が詳細に描き込まれている。が、諏訪を初めとする東国、そしてそれよりさらに北方の地はひどく曖昧で心もとない描写しかなされていない。地名も山並もなく、ただ『東夷』『北狄』と記されているのみ。水路によって畿内の地と分かたれた鎮西の地を臨みながら「鎮西に群れなす熊襲(くまそ)どもも、いずれ平らげねばならぬが、」と、八坂は呟いた。それから、その手で祐筆の稗田舎人が残していった筆をつかみ取ると、その先に朱をたっぷりと含ませて、出雲を中心とした畿内一円を手早く塗り潰し始めた。
「よく見られよ。諏訪の国が、いったいどんな相手と戦うておるのかを」
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ…………。
八坂が筆先を走らせれば走らせるほど地図の上での出雲人の勢力は広がっていく。
最終的には、出雲、畿内を中心にして、東国と鎮西の地へ間近に迫る十と幾つの国々が、出雲人の傘下に収まっていったのである。
「これすべて、わが主上の御威光を知りてなお手向かうことの愚を悟った国々である。大王はこれらの国々を等しく治むるべく国府国司を置き、よく人民を富ませ、ひとたび争い起これば直ぐに応ずることができるよう、勅許王命によりて動く精強な軍団を整えるおつもりだという。出雲の国にて行われている政が、他の国々までも届くことになるのだ。翻って、諏訪は――」
と、今度は『東夷』の地の片隅を朱の丸で囲む。
“諏訪どの”の眼は、その丸をただ一点として釘づけにされた。
出雲人の勢力圏の何分の一、何十分の一でしかない国が、そこにはぽつんとたたずんでいる。
「見よ。この小さき国が、そなたぞ。まこと、ほんの一握りと言うにも足らぬ、小さな砂粒のごときものだ。だが、たとえ小さくとも千の砂粒あつまれば、敵する者の眼を潰すことぐらいはできよう。そして砂粒の数も万を過ぎれば、もしかしたら巨大な岩となって抗う者を押し潰すことができるやも知れぬ」
“諏訪さま”は何も言えなかった。
大国に逆らう愚を、ようやくどこかで悟り始めてもいた。
だが、決して首を縦には振ることができない。
蜂は人よりはるかに小さけれど、その針から滴る毒で人を殺す。
諏訪人は蜂のような者たちだと、信じていたい彼女が居た。
「この狭き諏訪の地に閉じこもりて今さら何の得やある。ここらで至尊の御稜威に服し、他の国々と等しき政のもと関わりを持たれよ。さすれば国はさらに豊かとなり、諸国の品々、優れた物づくりの匠たち、次々と入ってもこよう」
「しかし」
「何か」
「諸国に等しき政と益もたらす、そのために他人の土地を次から次へと切り崩すは、詭弁の極みにございます。恥というものを、お知りなされ」
「恥か。そのようにお思いになるのも無理はあるまい。ならば、これはどうか」
にわかに苦々しい顔となり、八坂は再び朱筆を振るい始める。
列島のはるか西方、孤絶した西海の途上に、突如として巨大な陸地が描き込まれていく。その大きさは、諏訪はもちろん出雲十数国、さらには列島そのものをもはるかに凌ぎ、その全貌が見えぬほど巨大なもの――大陸の、海を挟んだごく一端の姿であった。
「西海の向こうの大国は、史上、ありとあらゆるかたちの覇道を突き進んで興隆してきた。その結果が、諏訪も出雲も足下に転がる石ころでしかないような巨大な国ということなのだ。海なき諏訪の民には与り知らぬことであろうが、これまで、わが出雲はこの国に何度頭を下げ、王として封じ給えと朝貢を重ねてきたか知れぬ。それは未だ良い。臣従しておれば出雲人の政における安寧は得られよう。なれど!」
海上に描き込まれた大陸から、八坂は列島へ向けて朱で線を引き始める。
幾本も、幾本も。
そのうち、地図上で海上を表していた部分は、そのことごとくが朱色で塗り潰される格好となった。
「彼の国がいざいくさをすると決めてしまえば、軍船が海を埋め尽くし、この列島に押し寄せることなど容易なのだ。出雲人が百の兵を揃えれば千の、千なら万を、万ならさらにその倍を、易々と敵地に送り込み征矢射かける。その後で何が残ろうか。人も神もみな殺され尽くし、後に残るは灰にもならぬ、血の香によりて生ぐさき土の連なりだけではないか」
長広舌を振るう八坂が、剣に代わって突きつけたのは朱の突きかけた筆である。
鼻先に突きつけられた獣の毛の束越しに、“諏訪さま”は八坂の顔を見つめていた。
「彼の国はな、われら出雲人の国を倭国と呼んでおる。矮小で、遅れた国と。倭国というくくりに出雲も諏訪もない。しょせん、東海の果てに蠢く夷(えびす)としか思われてはおらぬのだ。その倭国をひねり潰すことなど、出雲人が諏訪人をねじ伏せるよりはるかに容易い」
筆を祐筆の席の硯(すずり)まで戻した八坂から、先ほどまでの烈しさがにわかに消えていく。まるで駄々っ子を説き伏せるような口ぶりであった。事実、そのものの考え方の中では、あらゆる東夷は自らの征討という事業に逆らう無知な駄々っ子でしかないのだろう。その実が、自身の警戒する彼の大国と同じだけの考え方しかできていないというのに。
「だから、出雲人は決めたのだ。いずれは、わが倭国をもその大国と伍するだけの強き国家に育て上げねばならぬと。そのためにはわが君を高き御座(みくら)に据え、四囲に臨みて手足のごとく衆生を動かすことのできる政、輿を担うごとく政を支える軍兵、千代に八千代に続くそれらを築く必要がある。斯様な危急に諸国諸州が相争うていては、勝てるいくさも勝てぬというもの」
と、遠ざけていたつるぎを八坂は再び引き寄せた。
抜刀はすることなく、鞘の先だけ何度か地図に叩きつける。
“諏訪さま”は、何も動じない。威圧的な八坂神に相対すればするほど、正反対に彼女の中の冷徹は冴え渡ってしまうのだ。
「それが、あなたの覇道でございまするか」と、八坂に問う。「我が、倭国のため歩む道は果てなき覇道のそれなれど、のち、同じ道を歩む者にとっては王道となる」と、相手が答えた。
「やはり、いくさ神はいくさ神。御自らの覇道の尊卑ばかりお考えになり、民草の悲鳴、怨嗟をお聞きではない」
「悲鳴、だと」
「さようにございます。八坂さまが歩まれし覇道は、確かに後の世にまで続く王道の礎となるべきものかもしれませぬ。しかし、その足にて踏みしめたる大地には、名も知れぬ草々、虫ども、数知れず群れていたことでありましょう。いま、朱で塗り潰した出雲人の道筋にでも、倭国統一なる大義のもと、矛とつるぎで叩き潰され殺された名もなき衆生の怨嗟の声、この諏訪にまで響き渡ってくるやに思われて仕方がありませぬ」
だが――、“諏訪さま”の訴えに、八坂は鼻を鳴らして失笑した。
「我はいくさ神にて、そなたの、その言こそが詭弁に聞こゆる。この期に及んで無礼とは思うが、諏訪どのには王としての覚悟がない。国護るために、切り捨てねばならぬものを見定める覚悟が。流された血でつるぎを洗えば、その後に輝く光はあまねく先々の世を照らす。無数の屍を元として、人々の歩く道もできる。国のためのいくさに無為な死など何ひとつない。たとえ死んだとて、彼らはひとりの例外もなく英霊としてのみ、歴史に残るのだ。それこそ、いくさ神たる八坂の考える覇道の政。だからこそ、失望させてくださるな。しょせん、諏訪国主は東夷の蛮族と神霊どもに担がれた、神輿の上の王でしかないのだとな」
ふッ、……と、“諏訪さま”は唇の端を歪ませた。
急な可笑しさがこれらえきれなくなったのだ。
あまりといえばあまりな率爾(そつじ)、八坂は怪訝な表情である。
「神輿の上の王か。神も、王も、民草なくば消え去るのみの美名、輿担う者こそ王には真に必要な宝だというのに」
何もかもばかばかしく、可笑しい、笑い出したい気分になる。
だから、“諏訪さま”は笑った。自分の臆病さを笑った。八坂の蒙昧さも笑った。
見た目に相応の快活な笑いを見せる少女が、そこには居たのだった。
同時に、心の中には諏訪なる地の王としての誇りが沸々と湧きあがってくる。
数千の民草、数万の神霊、それらに推戴され、その安寧を護らなければならない王としての使命もまた。
――――気がつけば、彼女は命乞いにやって来たあわれな敗軍の将としてではなく、誇り高き諏訪の王として、言葉を紡ぎ出していた。
「聞け、外なるいくさ神よ。儂(み)は、当代にて未だかたちなき神霊であったみぎり、国と国とを隔てる川を挟みてのいくさにおいて、輿に乗りて意のままに風吹かせた其許をこの眼に見しとき、何と怜悧で誇り高き王、また神であるかと思うた。たとえ戦いに負けて滅びようとも、あのようにうつくしき王になら諏訪の地を任せても良いとまで思うたのである。それが、まことはどうか。国つくりという美名を錦旗(きんき)に諸国諸州の安寧脅かし、名もなき民を際限なく殺めては、死人は英霊として奉じらるるという恥知らずの詭弁。斯様に邪(よこしま)な心根持つ其許のごとき者に、この諏訪の地を譲り渡す儂ではないッ!」
「邪と言うたか……天照大神を高祖とする大王の血筋に連なりし、この八坂神を邪神と謗るか!」
「何度でも言う! 人々の血と死とを糧とするいくさ神の覇道、儂はこの全霊をもって拒絶してみせる。戦いにて国富ますが其許の道なら、自らの命棄つるがわが王道と知れ!」
床を軋らす音もさせず、“諏訪さま”は血を這う毒蛇の速さで立ち上がった。
そして懐に手を突っ込み、過つことなく匕首を抜き放つ。詮議に詮議を重ねて選び抜いた、暗殺のための毒のつるぎ。八坂もまたその手につるぎを擁してはいたが、せいぜい十五、六にしかならない見た目の少女のすばやさを、その思考はいくさ神らしからず侮っていた。鉄剣を鞘から引き抜くに彼女の決心は遅く、身をひねって回避を全うするにはその挙動が未だ小さい。瞬間、目蓋の裏には荊軻に狙われた秦王の情景がまざまざと想像されたかもしれない。秦王はとっさに剣で荊軻を斬りつけようとしたが、刃が鞘に引っ掛かって抜けず、やむをえず広間を逃げ回る羽目になったのである。
「土着神の頂点として、この刃もて貴様を誅伐する!」
一歩、二歩、踏み出し、筆で朱を塗っていた紙の地図を踏みつけた。
歩むというよりは初めから疾走に近い吶喊(とっかん)だったのは、人ならぬ神の化身の肉体の為せる技だからだろうか。いずれにせよ、灯明の薄明かりの下で“諏訪さま”の眼は爛と光り、同じく戦いの気配にぎらつく八坂神の眼と瞬時に交錯した。重なり合う二者の視線は、しかし、互いになに思うこともない拒絶のぶつかり合いでもあった。
祟る神としての殺意の奔流が、その軌道を喪って消失したのはまったくの不運というほかはない。あるいは、神なるものをも凌駕する天意が行われているとするのなら、この時ばかりは“諏訪さま”ではなく八坂の方に味方したのかもしれない。否、仮にそうだったとしても、せいぜい賽を振って一と二の目のどちらが出るかという程度のものでしかないのだが。
“諏訪さま”の振りかざした刃は、誅伐すべき敵の胸を突くことに失敗したのである。
なぜなら、歯を軋らせながら八坂が身をひねること一瞬、“諏訪さま”が握った刃は、そのためにほんのわずかに狙いから逸れてしまっていた。ブツブツと細く柔らかなものが途切れていく感触が、“諏訪さま”の小さな手には走っていく。だが、これは違う。生きたものの肉ではない。たとえば禰宜(ねぎ)や祝(はふり)が“諏訪さま”への供犠(くぎ)にと鹿や猪を屠るとき、彼女のうちには祟る神として持つべき残虐で原始的な好奇心と、流れ出た血の赤さによって衆生の安寧を無間に購う(あがなう)責務とがある。だが、今はそのどちらもない。あるのは、屈辱と悲嘆だった。彼女の刃の切っ先が捉えて断ち切ったものとは、八坂の着物を留めていた、帯か紐であろうものだったのである。
「なるほど。ミシャグジとか申す蛇神どもの呪詛を塗り込めし匕首(あいくち)とはな。わが出雲勢に瘧を撒き散らしたのとよく似た瘴気が、まさしく無数の小蛇がごとく渦巻いておる。――わが身は、今の諏訪どのと同じく人に化身している。人に化身しているということは、いかに物凄き神通力持つとはいえ、いずれ死にもするし病にも罹る身の脆さを常人と同じくするということ。その脆き胸を突かれてしまえば、いかに八坂神とて身のうちに蛇の毒流し込まれ、苦悶のうちに今生を終えるはずであったろうな。……臣どもが、そなたを荊軻のごとしと疑うたことも、今なら合点がいく」
右の手首を鷲掴みにされてひねり上げられ、“諏訪さま”は身体の自由を奪われた。
匕首は、とうに八坂の手のうちにある。
一瞬のこととはいえ、これだけの大暴れをしても灯明は倒れもしなかった。ばかりか、よりいっそう灯の強さを増しているようにも思える。その強い灯のさなかに、ぽたぽたと赤い滴が床を打った。八坂の手から流れた血である。かろうじて回避した土着神の刃を、彼女の右手はがしりと掴み上げ、決して離そうとはしなかった。よく研がれた匕首で指が切り破られ、その傷口から万病にも勝るミシャグジ蛇神の呪詛の力が流れ込んでいる。現に、彼女の傷口から流れた血は決して凝固する気配を見せず、皮膚の真下から透ける血の筋が、わずかずつどす黒いものに塗り潰されていた。
「おのれ……っ!」
「残念であったな、諏訪どの。御身(おんみ)、蛇神どもには慕われておるようだが、天意を味方につけることだけは叶わなかった」
何の遠慮もなく、八坂から“諏訪さま”の腹に蹴りが一発叩きこまれた。
少女の華奢な胴体は吹っ飛び、壁際まで転がされてしまう。
涎の混じった咳を吐き出しながら睨みつけると、怨敵は自らの血に濡れた匕首を投げ捨てているところである。起き上がれぬまま、その様を見た。床に突き刺さった刃から瘴気が漏れ出ていき、やがて蒸散して消え去っていくのが解った。幾重にも塗り重ねた分厚い呪詛とはいえ、八坂神を奉る浄域の気に直に触れすぎてしまったのだ。
床を引っ掻く爪が指から剥がれ去らぬほどの意気で、“諏訪さま”は這いずった。
そして、傲然と立ち上がりこちらを見下ろす八坂をにらみつけた。
未だ整いきれない呼吸の荒さのもと、上目を遣った彼女の顔は、驚愕に見開かれる。
「お、女……」
「諏訪どのとて、女子(おなご)の身で一国を治むる王となっている。何か差し障りがあるとお考えか。女が、いくさの司(つかさ)たる神を名乗っていては。まして、一国の政を担おうとしていては」
理の当然、といった口調の八坂である。
だが、震えもしない声音には、どこか薄らいだ恥じらいの色があるようだった。
武神の着物は留めていた帯を失ったせいで“はだけて”い、その下にある肌が灯明の光に照らされてぼやりと浮かび上がっていた。“諏訪さま”は、それを見たのである。矢傷刃傷の跡らしいものが奔っているなかに、少しさえ想像だにしていなかったものが見えた。だから、彼女は「女」とうめいたのだ。
八坂神の胸には、女性(にょしょう)の証であるふたつの膨らみが在った。
着物の下に隠されていた乳房を、しかし、今では『彼』は隠そうともしない。
否、『彼女』は、あえて相対した“諏訪さま”の錯誤をあざ笑うかのように着物の前を開き、矮小な戦いの気配にいつしか紅潮していた己の肉体を見せつけずにはおかなかった。
「よう見るがよい。女であるそなたを打ち負かした、異邦の女の姿をな」
すると、彼女は大笑し、今度は髪の毛を留めていた簪を抜き放った。
長い髪の毛がはらはらと散らばり、頬を覆い、肩に被さっていく。
顔の周りに髪の毛が戻ってきたせいで、八坂の表情は少しだけ翳になる。
“諏訪さま”は怨敵の本当の姿を憎みながらも、いちども眼を離すことができなかった。
驚きよりも、その姿に燻ぶる不思議なうつくしさに見とれていたせいだった。
「わがまことの名は、神奈子。“私”の名は、八坂神奈子である」
四肢を突いて自身を見上げる“諏訪さま”に、八坂神――神奈子は膝立ちになって自らの名を明かすのであった。どこか、ささやきかけるような声。大事な秘密を打ち明けるごとく。
風もないのに、部屋のなかに一陣の風が吹いたような気がしていた。
凄烈で、征矢より痛々しい風が。それが何だったのか解らない。神意によってつくりだされた化身の肉体でも、錯覚ということはときおり在るのかもしれなかった。それは何より、敵である神奈子から一時も眼を離せなかったという事実を、どうにかして消し去りたいと思う“諏訪さま”自身の願いでもあったのだろうけれど。
が、二者のあいだに横たわる沈黙の清さも長くは続かない。
これだけ大騒ぎを続ければ、いかに人払いを厳命していたとしても近くで息を潜めていた衛兵たちや臣下らに漏れないはずがない。階や床を走るどころか滑るかのごとく、どたどたと大人数の足音が響いてくる。
「さすがに、外の連中に気づかれた。宴はこれで終わりといたそうか、諏訪どの」
部屋の真ん前まで走り来た足音は、何の遠慮もなく扉をぶち破った。
腰につるぎ、手には矛を持った衛兵たちが何人もなだれ込んでくる。少し遠くには、箙に矢を負った者も見える。兵らは、どうやら手から血を流す神奈子と倒れ伏した“諏訪さま”、それに床に突き立った匕首を見てすべてを察したらしい。焦慮の表情は直ぐさま激怒のそれに代わり、なおも伏したままの“諏訪さま”を改めて組み伏せ、その周りをつるぎで取り囲むまで、それほどの時間はかからない。
「八坂さま、ご無事でございますか!」
「無事である。指を少し切られた程度だ」
「汚らわしき東夷の蛮神めが! 客人(まろうど)として遇した恩を仇で返すなど、やはり装いだけでなく行いまでも卑しきものがある!」
衛兵たちのうち、若い連中は特に血気盛んな性向らしい。
誰にも命令されていないのに、自分たちの御大将を暗殺しかけた“諏訪さま”の首に鉄剣を押しつけ、今しも素っ首を掻き切ろうとする素振りさえ見せた。
「待て、早まるな。諏訪国主とやら、我が意に従わぬようなら容赦なく首刎ねようと思うておったが、気が変わった。仮にもこの者、諏訪の民草数千を統べる王にして神なのだ。殺すのが早ければ早いだけ後が厄介になる。その権威、絞れるだけ絞り取って人心の宣撫に用立てるという手もある」
神の託宣は、やはり鶴のひと声である。
命じられた衛兵たちは、ひとまず怒りの方だけを理性の鞘に収めつつ、肝心のつるぎはなおもそのぎらつきを“諏訪さま”に向け続けていた。
やがて、諏訪国主は荊軻のごとしと訴えた神奈子の廷臣たちも続々と場に戻って来る。
揃いも揃って「だから、言わぬことではないのです!」とでも言いたげだったが、行宮の床に残った血と瘴気の跡とを垣間見ると、諫言よりも恐怖の方が先に立ってしまったらしい。何も諌めらしい諌めもできず、「と、ともかくも八坂さま。蛮地の瘴気まといし毒の刃を受けたのであれば、そのお怪我からさらに穢れに侵されるやも知れませぬ。そうなれば、主上の御業たる覇業におかれましても一大事。直ぐに薬師を……」と、うろたえるばかりであった。
と、神奈子はやはり快活に大笑して、
「薬師はよい。それに、これは尋常の毒ではなく、諏訪の地に跋扈する蛇神どもの呪詛ぞ。薬ではなく祓(はらえ)が要る」
と、かぶりを振った。
「着替えと、それから禊(みそぎ)の場を設けよ。わが身の穢れを祓うぞ。また、辟邪(へきじゃ)の者どもを城中からかき集め、行宮にて梓弓(あずさゆみ)する支度急がせるのだ」
衛兵たちの手で神奈子の手の傷口には清潔な真白い布が巻かれ、応急の手当てが施されていた。その間にも、彼女は事後の後始末をあれこれと命じていく。だが、そのほとんどは“諏訪さま”の耳に入ることはなかった。入っていたのかもしれないが、それは獣のうめきとか虫たちのさえずりと一緒なもので、意味ある言葉とは感じ取れなかったのだ。
「ところで、この刺客の身柄はいかがいたしましょう。直ぐに殺さぬということは、城中に一室を設けて留め置かねばなりませぬが……」
「むろんである。本来なれば、刺客など獄(ひとや)にでも繋いでおくところであるが、この者は仮にも諏訪国主。まかり間違うても粗略に扱うことなきようにし、その旨、よく触れ回らせるのだ」
はッ、と、衛兵と廷臣たちがまばらに返答をする。
組み伏せられたままの“諏訪さま”の眼は、もう神奈子をにらむことはなかったし、悔しさで涙が溢れるということもまた、なかった。ただ、彼女はぎりりと上下の歯を固く固く噛み締め、軋らせるばかりだった。
自分が王でも神でもなく、ただの刺客、ただの人間であったなら、と、彼女は願わずにはいられない。もうしそうであったなら、すべての責務を放棄して、舌でも噛んで自殺したものを。だが、王であり神である彼女にはそれもできない。王者の軽率な自殺や自死は、すなわち一国が統御と権威を同時に喪失することを意味する。そうなれば諏訪人は出雲人に、本当のいくさをするときより容易く蹂躙されてしまうだろう。統治者として、そんなにも逃避じみた選択をすることはできなかった。
「喜ばれよ、諏訪どの。私が、自身を女であることを明かしておるのは、この城の中でもごく近しき臣ども、衛兵、それに侍女ていどだ。そなたのごとき東夷に神奈子という名を明かすこともないはずであった。わがまことの名を知るは、諸国に蠢くまつろわぬ神どものさなかにあって、格別の誉れと思うて良い。それに、」
もはや力ない視線を向けるしかできない“諏訪さま”に、八坂神奈子は言い放った。
「この八坂神奈子、此度、東夷の地にてすばらしき胆力を垣間見た。御自ら一国を統べながら、刺客に身をやつして敵の大将を討たんとするその尊き気概よ。諏訪どの、私は――自らもまた女の身でありながら、女のそなたに心底から惚れたわ。必ずや、その御心までわが威徳に服せしめて見せようぞ」
――――――
八坂神奈子の暗殺に失敗した“諏訪さま”が、出雲勢の擁する『客分』として諏訪の柵の城中に留め置かれ、はや数月が過ぎ去ろうとしていた。その間、諏訪以北の諸州は例年通り長く厳しい冬を迎え、春の訪れを待つことになった。“諏訪さま”は、出雲人とともにひと冬を凌ぐことになったのである。
元より、郷里でそれほど厳しい冬を経験しているわけでもない出雲人たちにとって、諏訪地方の猛烈な寒さと雪は、戦争をやるより厳しく、しかし面白いものがあったようだ、と、“諏訪さま”は見る。
城中には、小さいながらも練兵場らしいものが置かれたりしていたのだが、むろん、冬のあいだは雪に埋もれて使い物にならなかった。つるぎや矛より、普請のための円匙(えんし)や何かを持って、諏訪人の見よう見真似で雪かきに追われることが多々あるようだった。その反面、ときに綿のように手触りよく、ときに岩石のように硬い雪が大地の果てまで降り積もるという現象は、出雲人の好奇心を大いにそそり、連日のようにあちこちで雪玉を投げ合う兵卒たちの嬌声が絶えることはなかった。
冬のあいだ、出雲勢の糧秣が尽きなかったことは、意外というほどでもない。
雪が降るよりも前、城の中には輜重の列が盛んに行き来し、その往来は何日経とうがひっきりなしだったのだ。はじめから、出雲勢は諏訪なる異邦の地で冬を越す心積もりでいて、だからこそ兵站線を確立させる意味で、諏訪の地まで続く諸州の抵抗勢力を片っ端から叩き潰し、国という国を傘下に収めてきたのだろう。あるいは、通りがかりに服属させてきた数国を出雲の領国とし、またその経済圏に組み込むという意図があったとするのなら、商いの営みにはあの銭貨という道具も使われていたのかもしれないと思う。
そして、――その冬ももう直ぐ終わるころであった。
爾来、冬の厳しさの前では雪に慣れた諏訪人でも戦争はできないもの。
いつまでも吹き止まない矛のような寒風の痛々しさとは裏腹に、いつも、諏訪の冬は戦乱から解き放たれて、平和といえば平和な数月になる。だけれど、それは決して安眠をむさぼっているのと同義ではない。雪が解け、春が来れば、また然るべき時期を見計らって戦いは始まるのだろう。神奈子の策によって武器兵器がみな錆びついてしまったとはいえ、元より人間は理由さえあれば相闘う生き物である。その気になれば、木石の投げつけ合い、拳を振るう殴り合いなど、幾らでもできてしまう。そうして、郷里を人々の血で埋めてしまう。
城中に与えられた一室で、格子窓から差し込む光に顔を遣ることもなく、“諏訪さま”はそんなことばかり考えていた。それが、ここしばらくの彼女の習慣だった。
国主とともに出雲人の元まで赴いた随臣たちは、数日のあいだだけ諏訪の柵に留め置かれた後、ひとりも欠けることなく無事に城を出たと聞いている。実際にその様子を見たわけではないので解らないが、少なくとも自らの口でその旨を告げに来た八坂神奈子が、武神としての自らの誇りに悖る(もとる)ような策を弄したとは考えたくなかった。
けれど、それでもやはり神奈子は武神軍神、いくさ神である。
いくさとは、つるぎ閃かすことばかり言うのではないのだ。
事実、彼女は“諏訪さま”の随臣を豪族たちの元へ帰すとき、こんな意味のことを記した書状を携えさせるのを忘れなかった。諏訪大衆に布告(ふれ)を行えと言い含めて。
『あなたがた諏訪人の奉る王にして神が御身、当分のあいだ、わが出雲人の城にて客分としてお預かりすることと相成った。そもそも出雲人の目的は他国の領分をいたずらに侵しかすめ取ることではなく、諸国諸州にあまねく大王の御稜威を伝え広め、その御威光をもって千歳の繁栄を万民に約束することである。あなたがた諏訪人とは、不幸な巡り合わせにて矛を交えはしたが、それは権力を嵩にきて民を足下(そっか)に踏みつけ、人心を惑わす悪人悪神を討ち祓うための避け得ざる戦いであった。この度、“諏訪さま”がその御心をもって出雲人に賛同の意を示され、諏訪の地に新たなる政を敷く仕儀となった以上、これらの旧弊はまったく打破されつつあるということであるから、あなたがた諏訪人におかれては、安心して日々の営みを続けるが良い』
――それから、段を移して、
『また、今後、諏訪の地に敷くあらゆる政令は、八坂神と“諏訪さま”とが十全に協議を尽くしたうえで発されるものである。ゆえに諏訪人は、八坂神の言葉は他ならぬ“諏訪さま”の王命と思い、その行うところの政に叛き奉ることがなきようにせよ』
と、念押しのように記されてもあった。
思い出すだに、“諏訪さま”は苦笑を滲ませずにはいられない。
神奈子は、出雲人との戦いで荒れ果てた諏訪人民の心を宣撫すべく、また八坂神の手になる政の正当性を示すべく、元の王者である“諏訪さま”の名を引き合いに出さずにはいられなかったのだ。特に見るべきところのない施策であるとは思う。斯様な宣言のひとつふたつで直ぐに懐柔されてしまうほど、諏訪人は……というよりも、どんな国の者でさえばかではあるまい。
だけれど、その条文を自ら記したという八坂神奈子には、もっと狡いところもないではなかった。
件の書状は、諏訪の地にて諸々の文書に用いられるありきたりな竹簡木簡の類でなく、紙に書かれたものであった。出雲人が、その勢力の中に擁する渡来人の職人につくらせた紙である。“諏訪さま”と神奈子が初めて正式に相まみえたあの夜以来、諏訪人がはっきりとしたかたちで『紙』という品物に触れるのは、たぶんこれが初めてだ。諏訪には、古来、質良い鉄を産する山と技術とがある。当然、出雲人もそれを狙う意図があったのだろうが――しかし、ここから先が東国の民のかなしさだった。諏訪人は製鉄のすべを知ってはいても、紙というものを未だよく知らなかったし、もちろん製紙の技術も持ってはいなかった。
戦争というものは、勢力、国家、民族間における武力のぶつかり合いであり策謀の巡らし合いであり、また同時に、信奉する思想信条、言うなれば互いが抱く意志とその正当性の競い合いでもある。そこには、彼我が有する文化文明における諸々の技術力の差というものが、ひょっとしたからかなりの度合いで関わってくることがあるのかもしれない。
『紙』という品物は糧秣として兵馬の腹に溜まるでもなし、つるぎや矛のように敵の身体を引き裂くわけでもない。けれど、竹簡木簡のような重々しくかさばる品よりははるかに扱いやすく、持ち運びやすい。いわば、諸々の学者や職人と一緒に大陸から出雲の地へとやって来た、この時代における最先端の情報技術の結晶みたいなものだ。
その最先端の道具に政のうえでの文書を書きつけ、また惜しげもなく使うような素振りを見せることで、出雲人はひと振りのつるぎも、一本の矢さえも放つことなく、諏訪人に無言の戦いを挑んでいた。出雲人の広げた傘の下に入るのなら、西国の洗練された文化がもう直ぐ諏訪にもやって来るのだという期待感を陰ながら示すことで、少しずつ諏訪大衆の興味を自分たちの立つ方に向けさせようと目論んでいたのであった。
おおかたのいくさが終わってしまえば、後はどうやって接収した土地と人民を統治するかの方が、領土争奪を主軸とした戦争には重要となる。よほどに拙い(まずい)統治さえしなければ、人心は少しずつ自分たちの方に傾いてくると、神奈子は踏んでいた節がある。紙を使った書状による無言の宣撫政策は、その端緒であった。
「なるほど、理に適ったこと」
と、“諏訪さま”は独語した。
武張ってばかりの猪武者が八坂神奈子の本領ではないということに、彼女もようやく気づいていた。虜に対して供されるには豊富で質も味も良い食事を終え、雪の降る音がしはしないかと、黄金の髪の下から耳をそばだてていた。冬も終わりかけの朝のことだ。昨夜来、春近きにも似合わないような吹雪があったが、夜明けのころには少し濡れ気味の雪に変わっていた。暖かな寝床の中に居ながら眠れなかった彼女は、それをぼんやりと聞こうとうする。そして、今後また諏訪勢と出雲勢との戦いが続くのか、自分の名と声とが神奈子の政にどう利用されるのか、答えの出ない自問ばかりくり返している。だからここ数日、独りごとはすっかり彼女の暇つぶしになっていた。
彼女にあてがわれた一室は、牢獄と言うにしては広すぎる。
元は兵舎として使われる予定だった部家を突貫工事で改装し、東夷ながらに貴人の居所としてふさわしい場につくり変えたものらしい。隙間風どころか雨や雪のひと粒さえも入って来そうにない堅牢なつくりは、元が城のためか、それとも『客分』を逃がさぬようにするためか。
おそらく、その両方なのだと“諏訪さま”は思っている。
暖かな寝床が過不足なく用意され、一日二度の食事がきちんと出た。
献立は、どうやら出雲の領地から取り寄せた食材が多く使われている。
山国の諏訪では珍重される海産物も豊富にあった。ときおりは諏訪の地で産した野菜が出てくることもあったし、郷里の山野でよく供えられていた鹿肉の懐かしい味を、出雲人から差し入れられたこともある。常に二、三人の侍女が遣わされて、身繕いから無聊(ぶりょう)を慰めるための話相手まで何でも務めた。もっとも、監視役も兼ねてのことだったのだろうが。
それと望めば、出雲人の所蔵する書物さえ閲覧できたのである。
大概のものはやはり竹簡木簡だったが、ときどき眼にする紙の巻物の存在は、忌々しい出雲人の手になる作とはいえ、大きな興味を持って触れないわけにはいかなかった。朝に起き、身繕いをし、朝餉を口にし、出雲人の書物を読み、物思いにふけり、日の光や雨音雪音を懐かしみ、たまに独りごとを発し、夕餉を摂り、それから眠る。
平和といえば平和、無為といえば無為の極みな客分としての生活である。
ただ、そんなにまで厚遇を受けても自由な外出は許されなかったし、神奈子の政には自分の名を貸すことしかできず、自らの意思の反映など望むべくもなかった。そんなとき、“諏訪さま”は自分が『客分』という名を冠された、体(てい)の良い『人質』であることを実感する。
「どうされましたかな、諏訪子さま」
いつものごとく、そんな物思いにふけっていると、稗田舎人の怪訝そうな声が飛んでくる。薄い唇が歪み、微笑をつくっていた。やはり、見るだに美青年という感は疑いようのない男である。だが、長い睫毛の向こうにある眼のきらめきは、どこか媚びのような不快なものが残っているとも思う。
「いや、何でもない。わざわざ其許を呼びつけておいて、ひとりで呆けるとは儂の失態である。許せ」
出雲人のさなかに留め置かれた自分が客分であろうが人質であろうが、諏訪の王として然るべき態度は取るべきである。彼女はそう考えていたから、神奈子を面前にしたとき以外は、衆目をその一身に受けるときの尊大な態度を器用に使う。支配者には支配者の振る舞いようがある。蓋し、それは支配者自身が持つ誇りの源泉でもあった。今ここで稗田舎人と話をしている“諏訪さま”は、まずもって気弱い少女ではなく、偉大なる諏訪の王にして神なのだった。
もちろん、稗田がそんな深謀遠慮らしいものを知っているはずもない。
彼は、神奈子に仕える廷臣のひとりとして、あくまでその美貌を通り一片に輝かせながら、本来なれば出雲人が東夷と蔑む異邦の王に、恭しく接するのみである。
神奈子の祐筆である彼は、仕事の合間を縫って“諏訪さま”の召しに応じている今、筆や何かは身につけていない。ただ、相手方に頼まれた書物を数冊ほど持ちこみ、客人相手に出雲人が学ぶ学問の『講義』をしているだけだった。大抵は、西海の向こうに栄えてきた大国の、歴代王朝の歴史に関しての話であった。床に開かれた竹簡の束や、紙の巻物に描かれた詩文を参考に弁を振るっていながら、よくもまあ不肖の学生(がくしょう)であるわたしの情念の機微に気づけるものだと、“諏訪さま”は内々に苦笑する。
「理に適ったこと、と、先ほど仰っておいででしたが」
「八坂さまの行うておられる政のことだ。儂の政、八坂さまの政、民心はどちらを選ぶのかが未だ解らぬ。朝に夕に、それが不安でないときはない」
当たり障りのない返答ではあったが、半分は事実だった。
神奈子の宣撫政策が一から十まで完全に成功するとまでは、到底、思えない。
人も神も、諏訪の王としては未だ何の実も持たない外来の新統治者になびいてしまうほど、単純なものの考え方はするまいが。まして、人々が数十数百も集まって国だの村だの集落だのをつくってしまえば、末端が眼につきにくくなるぶん、それだけ人心の掌握は困難事と化していく。“諏訪さま”自身もまた、そうだった。
彼女は、出雲人とのいくさで戦力の中核を為していた、諏訪とその周辺の豪族たちのことを考える。仮に民心ことごとく神奈子になびいたとしても、ミシャグジたちとともにわたしを王に据えた豪族輩は決して黙ってはいまい――と。
古くから当地に基盤を持つ彼らは、すなわち諏訪という国にあって、古より既得権益を継承し続けてきた層でもある。それは農や商に関してのこともであるし、ひとたび思い立てば直ぐに軍兵を動かすことのできる武力のことでもある。各地に領地持つ氏族の結束のことでもある。そして、何よりミシャグジ蛇神を通じて“諏訪さま”を担ぎあげた祭祀の権の保持者、すなわち政の真の掌握者ということもである。
考えてみれば、郷里を護るために命さえ棄てるという涙ぐましい闘争心に燃えていたのは数千の諏訪大衆と、彼らに信仰される王にして神の“諏訪さま”ぐらいのものではなかっただろうか。彼女は出雲人が国境の川にその影を見せ始めた年のことを思い出した。御所のうちでは、近く始まるであろう出雲勢の諏訪国内への侵入にいかに対処すべきか、連日連夜に渡って評定(ひょうじょう)が行われていたが、その当時、もっとも激越に出雲人を非難していたのが件の豪族たちであったのだ。
諏訪に割拠する諸氏族は、皆、それぞれの儀礼や供犠をもって“諏訪さま”を信仰していた。奉じさえしてくれるのなら、“諏訪さま”にとっても無碍(むげ)に扱う理由にはならない。だからこそ豪族たちに与える祟りと神徳は多年に渡って同じうしていたのだし、豪族たちも豪族たちで、同じ神を奉ずる者同士として、その政は合従(がっしょう)と合議を経て運営が為されていたのだった。“諏訪さま”が実際に行っていたのは、そんな評定で示された意思に対して取捨選択を行い、最終的な御裁可、御聖断を下すことに他ならなかった。
祭祀がなくば神でない以上、豪族たちの意を汲んで、その権益を護るためだけの裁定を下さざるを得なかったことも一度や二度ではない。祟って懲らそうにも、祭祀自体は絶やされた試しがなかったし、相手が祭祀を経て“諏訪さま”の権力を保証する存在であれば、そう簡単に殺すこともできはしなかった。綸言汗のごとしという言葉もある。不本意な裁定は、かくて神の御名におき諏訪の地に跳梁することとなる。
まして、相手が祟る神ならなおさらのことで、豪族たちは自分たちの提言をもととした“諏訪さま”の裁定を、崇りそのものを権威に代えて振りかざすことがあった。豪族たちは、血と信仰の結びつき、さらには“諏訪さま”の神威と威徳を紐帯(ちゅうたい)として――さらに言うのなら、そこからもたらされる権益によってこそ、諏訪を治めていたのである。
その既得権益護持という、当然の理由ではあるが生臭くもある意思によって、評定は出雲人を侵略者と見なし、当地の奉ずる神である“諏訪さま”を旗頭にしていくさを始めることにしたのだった。
確かに――確かに、神奈子の策は理に適っているところがある。
王である“諏訪さま”の名と声望を利用して諏訪人の心を揺さぶり、なおかつ、西方からの新技術を導入して民心をつかもうと考えているらしいところは。
ただ、それが本当に豪族たちまで心服させることになるのかが、“諏訪さま”には未知数であった。彼ら豪族の第一は、父祖伝来の領地と社稷(しゃしょく)と権益を護ることである。神奈子の施策が民心を手中に収め始めるとき、豪族たちが彼女に烈しい危険を感じ取り、叛意を抱かないとも限らないのだ。
……そんな、長々とした“諏訪さま”の危惧に、稗田舎人は飽かず耳を傾ける。
そして、しばし微笑から解かれた憂いある顔になり、少しものを考えているようだった。
「されば、もし反乱が起きるとすれば、その豪族たちは再び諏訪子さまを担ぎあげるのかもしれず。また、諏訪子さまに対する祭祀の権を持っているのが彼らというのであれば、諏訪子さまもまた、豪族たちの力なくば王として在ることはできない。――つまりは、諏訪の地を治むるにおいて豪族たちを無視することはできず、その力まことに侮りがたし、と」
つまり、そういったご事情なのでしょうが。
と、稗田はまた言を継ぐ。
「しかし、なぜそのような大事なるお話をこの祐筆の舎人に打ち明けてしまわれるのです。わが言葉にて八坂神に奏聞の折は、あの猛々しき御気性のこと、喜び勇みて豪族たちの討伐に向かわれるのではありませぬか。なれば、諏訪子さまご自身の手で諏訪の地にいくさの種、ばら撒いたも同然ということになる」
「そうはならないと思いたい。思いたいからこそ、其許に打ち明けた。忌々しいことではあるが、八坂さまは、武だけでなく智も持つ聡明な御方であるというのを認めぬわけにはいかない。祐筆としておそば近くに控えおる其許なれば、いたずらな戦いにならぬよう、お諌め申し上げることも叶うはずと、そう思案した末のことだ」
それに、民心宣撫の書状に
『出雲人の戦いは、侵略ではない!』
という旨を神奈子自身の筆で記してしまったうえは、易々と軍を動かすこともできまい。
そうなれば、ますます政のうえでのみ決着を図る必要が出てくる。
新たな統治者である出雲人と、既得権益を失いたくない諏訪の豪族。
互いに互いを脅威に思い、どこかで二者の力が均衡する妥協点を見出して欲しい。
人質の身で政に関わる方法を、“諏訪さま”なりに考えに考え抜いての決断ではあった。
「……ところで、其許までも儂を“諏訪子”と呼ぶのであるか」
はや、早朝の頃も過ぎて、昼とも言えない気だるい時間だった。
稗田はどこか気ままな性格で、気が向かぬと思えば折を見て講義を切り上げてしまうことがある。今日もまたそんなところだったのだろう、彼は色白く細い手を器用に動かしながら、竹簡や巻物を片づけ、紐で留め、葛(つづら)に収めたりしていた。けれど、“諏訪さま”の怪訝な声ぶりに気がつくと、どこか彼らしくもないぎこちない笑顔になり、
「はあ。ご不快に思われたならば、平にご容赦を賜りたく」
と、頭を下げた。
「何せ、八坂神におかれましては、御自ら、先の諏訪国主であらせられるあなたさまに、新たなるお名前を下賜された由。なれば、廷臣の末席に連なるこの稗田舎人もまた、“諏訪子さま”とお呼びすることが何よりの道理にて」
むう、と、“諏訪さま”――いや、今はもう“諏訪子”と呼ばれるべき少女は、小さく頬を膨らます素振りを見せた。何だか、子供扱いをされて良いように手玉に取られているような気がしたからだった。
ふん! と、鼻を鳴らして嘲りらしい表情になる。
が、外見が少女では何の怖ろしげもないと言える。
まして、今いる諏訪の柵は出雲人が神奈子を中心にして形成した浄域である。
いわば強力無比な結界の中に幽閉されているも同然、崇り神の意思によってミシャグジ蛇神を呼び集めることも叶わない。だから、彼女の姿は見た目相応の可愛らしさばかり目立っていたとも言えた。
「八坂さまはいくさや政に長けていても、ものごとの名づけは不得手と見える。諏訪の神だから、諏訪子などとは」
「では、どのようなお名前ならば良かったのでございますか」
「そういうことではない! 勝手に他人の名前を定めるなと申したいのだ!」
着物の袖をブン回して駄々っ子のように喚く諏訪子とは反対に、もう稗田はいつもの怜悧な笑みを取り戻していた。で、また恭しく彼女にかしずくと、上目を遣って滔々と述べるのである。
「諏訪子さまのお怒りもまた、ごもっともではございます。なれど、八坂さまのそば近くにその御身をお置きでありながら、いつまでも“諏訪さま”とか“諏訪どの”とお呼びせねばならぬは甚だ不便であるのも確か。ここらでひとつ、何か御名賜ることは必要だったのではないかと思いまする」
諭すような声音で告げると、稗田はゆっくりと頭を下げた。
「解りやすき名、ひとつやふたつ在る方が、民草にもまたよう慕われるきっかけともなりましょう」
言うと、彼はいっそうにっこりと笑むのだった。
なるほど、と、諏訪子は唸る。
あの神奈子が、わざわざ祐筆としてそばに置きたがるのも何となく解る気がする、そんな明瞭な考えと弁の立つ様子だった。聞けば、稗田の名乗る『舎人』という名は雑掌(ざっしょう)程度の権限しか持たない官名というのが本来で、本当の名前は別にあるのだという話である。それが、どういうわけか本当の名前のように舎人、舎人と呼びならわされている。けれど、それは彼の学識と弁の明朗さがあってのことかもしれなかった。だからこそ、単なる雑掌役でありながら、祐筆として神奈子の側近を固めているのだとも思える。
もっとも、はっきりとした名前を名乗ることの重要さを説く稗田自身が、本来の名を示さないというのは甚だおかしな話でもあるのだが。
「名前、か。そういえば、儂は“諏訪さま”という王や神として奉じられてはいたが、それはミシャグジ蛇神たちを統べる者として、衆生に担われし称号のごときものでしかない。儂自身の名は、未だどこにもなかった」
指先で顎を撫でさすりながら、諏訪子は改めて思案するのだった。
なるほど、ひとまず諏訪を覆った戦乱は出雲人の勝利で幕を閉じつつあるとはいえ、神奈子の手になる政は未だその地盤をはっきりと固めたわけでもない。先に明かした豪族どもの動向がどうなるかも、この先、判らない。ひょっとすると、ふとしたことから難癖をつけていくさを再開しないとも限らないのである。なれば、ここはあえて神奈子の考案した『諏訪子』などという格好のつかない名前を使ってみることも一案ではあった。王の御自ら服属の素振りを見せれば、民衆にても無用の逆心を抱かせないよう示す好機ともなろう。政の実権を諏訪人の手に、力で奪い返すにせよ謀略で簒奪(さんだつ)するにせよ、今は未だ何もかも尚早である。
「解った。今後は八坂神の御意思を容れ、諏訪子と名乗ることにする」
「おお、それは何よりにございます。八坂神も、お喜びになりましょう」
「なれど、八坂さまには其許から重ねて言上致せ。儂はあくまで諏訪の地の安寧願うがゆえに、八坂さまの御意向に従っているのであることを。言うなれば、この身とともに心まで出雲人の虜となった覚えはないということである」
書物の束を抱きながら、床に手を突いて諏訪子の意を聞き届ける稗田であった。
「そういえば、少し気にはなっていた。稗田、其許の家はいちどその眼にしたもの決して忘れぬほど、ものを憶えるのが得意な一族と耳にしたが。だからこそ、舎人という低き官でありながら、八坂さまの祐筆として取り立てられたのであろう。では、それほどの力持ちながら、なぜ郷里を――西海の向こうに在るという強大なる大国を棄てて、其許の父祖はこの“倭国”の地に渡来してきたのか」
曲がった冠を直す稗田を見ているうちに、諏訪子のうちには小さな疑問が湧きあがって来た。彼の手になる講義が終われば、後はもう何もすることがない。諏訪の柵に人質として入ってから、常々、稗田には世話になっているとも思っていた。別段、友人とまで思っているわけでもないけれど、恩義くらいは感じている。この際、少し言葉を交わしてみるのも悪くない。
が、稗田は何か面白くもなさそうな顔つきをして、「そのような、つまらぬ由来話を……」と、遠慮する気配である。
「他の誰にも漏らすつもりはない。嫌なら、無理強いはせぬが」
頬の真裏では、失策を噛みつぶした気分だった。
どうやら、突っ込んだ問いをし過ぎてしまったろうか。
「は、いや。決して隠し立てをしているわけではございませぬ。僭越ながらに語らせていただきはしますなれど、わが稗田の家は、言うなれば敗者の家系なのです。かつて、西海へだてた大国に王莽(おうもう)なる者が居りましたが、その者、時の帝(みかど)を害し奉り、自ら帝を僭称(せんしょう)して国つくりましてございます。その王莽の暴政を諌めんとした稗田の祖は、偽帝の怒りに触れ命奪われました。なれど、その子は命からがら、東海の果てに新たな地を求めて渡って参りました。元より、秦の始皇帝に取り入りたる除福なる道士、神仙の薬を求むると虚言(そらごと)を称し、万金持って東方の地に姿を消したという話もある。わが祖は、斯様な風説にも一縷の望みをかけていたのかも知れませぬ。それが、倭国における稗田の由来にございます」
自らの系譜が持つかなしい歴史を噛み砕くごとく、稗田は述べた。
「よう解った。だが、其許の父祖の他に、王莽を諌める者おらなかったのか。あるいは、みな殺されてしまったのか」
「稗田とともに王莽を諌めんとし、最後に倭国に渡りし氏族は、他にも居たように聞いておりまする。確か……“上白沢”という者ありまする」
「かみしらさわ……変わった名であるな。其許たちの郷里では、珍しくもないのか」
堪え切れないという風に、稗田は笑いを漏らす。
「珍しいとお思いになるのは、たぶん、倭国にては馴染みなき響きであるゆえのこと。上白沢という姓は、倭国の風に合わせて無理に名づけたものなのですから」
「そうか。無理に、とは如何なることなのか」
「聖王の治むる御代(みよ)にその姿現す瑞獣として、“白澤”という獣がおりまする。かつて、黄帝と呼ばるる比類なき王者のもとに現れ、白澤はその叡智を授けたと古伝には見える。上白沢の家は、その白澤の血に連なりし一族であると、私は耳にしたことがございます。が、件の王莽の元にその白澤は影さえ現れなかった。それをもって諫言を行うたために、上白沢の家は海を渡る羽目になったとか。……今では、上白沢家の者は人の血おおいに混じりて、かつての神威もだいぶ薄れてはいるようでございまするが、申さば“先祖がえり”とでも称するべきか、眼にしたものの歴史を即座に脳裏に感じ取る、そんな神通力を持った子女が、ときおり産まれ来るのだとか」
どうやら、話のあらかたはこれで終いのようである。
相も変わらず神奈子気に入りの祐筆は涼しい顔ばかり見せていた。そして、なぜか肩の荷が下りたのは諏訪子も同様であった。あまり、敵方の者に気を許してはいけないのだと思う。それはよく解っているつもりだ。が、衣食住に困らないとはいえいつまでも一室に逼塞していては、幾らなんでも気が滅入る。どうにかして出雲人と心通わせ、諏訪の柵を出るだけの理由、あるいは手段を講じなければならなかった。とはいえ、今の時点での稗田舎人との会話は、まだまだ単なる気散じでしかなかったけれど。
「ときに、諏訪子さま」
「何か」
「本日の評定が終わってのち、八坂さまがお部屋にお出でになるというのは、すでにお聞き及びのこととは思いまするが」
「む……。うん、解っている。八坂さまは、いつも評定の後にお見えになる」
気散じのつもりが、また少し憂鬱な気分になった。
八坂神奈子は、出雲人の政所にて廷臣たちと評定を行ってのち、一日の終わりにはいつも諏訪子の部屋を訪ねるのをひとつの習慣としていた。今日は何が決まったとか、次には何をするのだとか。一応は先の諏訪国主の顔を立てているのか、政の実権もない諏訪子に対し、そういうことをわざわざ報告に来るのだ。その評定に、稗田は呼ばれていない。出雲人の中でも高官のみが招かれる場であるために、いかに神奈子の寵を受けた有能な臣下とはいえ、法を枉(ま)げてまで稗田を召すことはできなかったと見える。
もっとも、“あの”神奈子のことだ、とも、諏訪子は考えてしまう。
廷臣たちの意見などほとんど容れずに、ひとりで何でも決めてしまうのではないだろうかと、ちょっと思わずにはいられなかった。
「本日、諏訪子さまのもとに八坂さまがお姿見せるは、何か際だって大事なる御用向きあってのことだと命ぜられておりまする。ひょっとすると、政に関わる諸事であるのかも」
「承知した。……しかし、其許は本当によう働く。八坂さまと諏訪子の、いったいどちらに仕えているのかも解らぬほど」
「元より舎人の官は雑掌のごときもの。お気にするには及びませぬ」
では、といっそう深々と頭を下げながら、稗田は書物の束を小脇に抱えて扉に向かった。
諏訪子は組んだ足を崩すこともなく、ぼうっとその背中を見送っていたのだが。
「どちらに仕えていようが、構いはせぬ。ただ、我の行う政に適うてくれるのであればな」
――――稗田が部屋の扉に手を掛けようとするまさにそのとき。
瞬間、わずかにすばやく扉が開き、八坂神奈子の不遜な微笑が現れた。
突然のことに稗田は驚き、慌てて床にひざまずこうとするのだが、その拍子に抱えていた書物をばらばらと床に落としてしまう。神奈子は、その様子を面白そうに見下ろすと、床に敷かれた書物を悠々とまたいで諏訪子の面前へ向かった。その間、稗田は書物を拾うこともできず、自ら仕える主上に対して深々とした辞儀を見せるのを欠かさなかった。
今日の神奈子は、どこにも鉄の気配を帯びてはいない。まったくの丸腰だった。
代わりに、晩冬の半端な寒さだけまとっている。
護衛のための兵卒も、廷臣たちも、彼女が行く先の扉を開ける役目を負っているはずの雑掌や侍女たちも伴ってはいなかった。丸腰で、ひとりきりである。諏訪子の部屋が、その神威を封じる一種の結界だとして、すっかり気を許しているらしい。
やがてどっかと床に腰をおろし、神奈子はあぐらをかいて見せた。
相も変わらず尊大だが、尊大ぶりなら諏訪子の方でも負けるわけにはいかなかった。
暗殺未遂の夜のときのような“へりくだった”態度を見せることは一切なく、頭さえ少しも下げなかった。ただ、しゃんと背筋を伸ばして正面から神奈子の眼を見据えていた。ふたりが互いの視線を見交わしたことは、それほど多くはない。けれど、諏訪子が毒刀で暗殺を謀ったときに比べれば、未だ少しばかりは融和らしいものが兆していたふたつの視線ではあった。
「諏訪豪族、ミシャグジ蛇神……それらの者ども、依然として旗色を反抗に染め、おかげで矛を完全に収むる機会がなかなかつかめぬわ。昨日今日も、また小競り合いで刃交えることになった。叛かぬ者の命、決して粗略には扱わぬつもりだというのに。それは、そなたも同じこと」
膝の上に頬杖を突き、神奈子は諏訪子をじいと見つめていた。
「諏訪子。いい加減、首を縦に振れ。この神奈子の政に従うておれば、諏訪の地に国府を置いた暁には、そなたを国司として封(ほう)じるよう大王に言上するつもりでいると、再三に渡って申しておるではないか」
「其は、出雲人が敷く政のいちいちに、背くことなく諾々と従えということ。傀儡の王など、王とは呼べませぬ」
はっきりと拒絶の意を申し述べると、頬杖を突いていた手のひらで目蓋を覆う神奈子。
あまりの諏訪子の頑なさに、つい涙が出てきた――わけもない。
頭痛の種はまだまだ取れない。そういう仕草だとは思えた。
大きな溜め息をひとつ吐き出すと、彼女は言う。
「まあ、良いわ。首を縦に振ればそれで良し。横に振るなら、これまで通り“客分”としてわが手のうちに擁するまでのこと。その名を使うて私は政を行うぞ。だが、いずれ殺しはせぬ。私とて、民心の離反は何より怖いからな」
再び頬杖を突き、ほんの少しだけ思案にふける神奈子だった。
次にどんな詭弁が飛びだすのか、諏訪子の方では気が気でない。
「しかし。そなたが私に従うにせよ従わぬにせよ、諏訪の王の出雲との連衡(れんこう)、衆目に示す必要がある。すなわち、八坂神奈子と諏訪子との神威合一の様をな」
ひどく意地の悪い笑みだったと、諏訪子には感じる。
顔つきや装いには相も変わらず不思議な魅力があったのに、その弄する言葉は、正体のよく解らない狡さが混じっているように見えるのだった。
「畏れながら、わが主上なる八坂神。此度、諏訪子さまのお部屋をお訪ねになった理由(わけ)は、斯様に決まりきった問答を行うためなのでございまするか」
ひざまずいていた身を起こし、稗田が神奈子の背に声をかける。
神奈子は、振り返りもせずに答えた。
「そう慌てるな。先の評定にて決まったことを伝えに来た。まあ、いずれ皆に布告すべきことゆえ、この際、稗田にも言うておこう」
と、言うと、彼女は頬杖を突くのを止めた。
千軍万馬を動かすいくさ神らしく、背をしっかりと伸ばした姿には、諏訪子とは別種の威厳があったと言って良い。「諏訪子、そなたにも多大な関わりあることぞ」と、神奈子は告げる。
「諏訪の地においても、春来たらば百姓らによって田畑の仕事始まるであろう。が、いくさの際に武器兵器はおろか諏訪人の鍬や鋤まで錆びさせてしまったゆえ、しばらくは出雲兵の行う屯田にて飯の種を得ねばなるまい。また、銭貨を用いての商い広める好機でもある。諏訪人のつくる良き鉄器を諸国の人々と取り引きし、他の国々からも金と品物、それに食料をかき集め、諏訪の台所を富ますのだ。そのときこそ、この神奈子によるまことの政が始まる」
重々しくはあるのだが――これから何をして遊ぼうか、一生懸命に母親に述べる小さな子供みたいな純な感情が、神奈子の声音には感じ取れる。少し、諏訪子には意外なものがあった。こんなにも血だけに染まない表情を、神奈子という女はできるのだと。
それから、と、神奈子は続ける。
「良き頃合いを見計らい、改めて諏訪平定と新政の発足とを民草へ宣するつもりでいる。そこで、諏訪子」
理想の政を語る神奈子から突然に指名され、諏訪子はちょっと眼を丸くする。
そんな様子を見、神奈子はよりいっそうに愉しげな笑みを浮かべていた。
「新政発足の暁には、そなたを伴っての行幸(みゆき)をすると決めた。神奈子はまだまだ、当地の世情や民心に疎い。旧主である諏訪子が隣に居らねば、解らぬこと多い。また民どもも、諏訪子の姿をその眼で見れば、とくと心安らぐであろう」
何を勝手なことを……とは、言わない。
下賜と称して“諏訪さま”を『諏訪子』と呼びはじめた辺りから、いや、行宮でのあの夜から薄々と気づいてはいたが、八坂神奈子という神は、いちど自分がこれと決めると引き下がるということを知らないし、他人の意見などほとんど耳にも入れはしない。絶対の自信に裏づけられた尊大さと不遜さは、ともすれば人心を向こうに突き放す針鼠のごときもののはずだが、彼女に関して言うのなら、それはまったく見当違いの推測と言うほかはなかった。
一軍を率いる王にして将、一国を切り取るつもりでいる神だからこそ、彼女には常なる驕慢さが必要なのだった。
それは、ある一線では諏訪子とも似通っている。
各々の権益を護ることを第一とする豪族たちをなだめるには、その要求を取捨選択する権威をその身にまとわなければならないからだ。けれど、神奈子はどうか。彼女は、何もかも自分の意志を押し通し、逆らうものを斬り棄て、ときには利用しながらも、最後にはすべての敵を自らの膝下に進んでひざまずかせるであろう、不思議な力を持っている。
それが彼女の神通力なのか、それとも天賦のものなのか、いや長い鍛錬で見につけた帝王学なのかは解らない。が、どうにも諏訪子は悔しいと思えて仕方のないときがある。神奈子は、間違いなく諏訪子にないものをもっている。だからこそ、悔しい。彼女に対して、どこか負けを認めたがっている自分が居ることが。そして、いっそ神奈子のもとで傀儡の王になれればどれほど気が休まるだろうかと、いつの間にか王らしからぬ気弱い少女と化してしまっている自分が居ることが。
不自然に黙り込んだ諏訪子を見、神奈子は怪訝に思ったらしい。
しばらく何か思案していると、急に大きな溜め息ひとつ。
はッ、と、今度は諏訪子の方が正気に戻される番だった。
「諏訪子、そたなは――私がそなたを傀儡とし、その声望を政に利用しようと思うている。そのように考えているのであろう」
「…………むろんにございます。神奈子さまの縁辺に侍りし諏訪子の姿示すことで、われらふたりがもはや君臣の間柄であることを、民草に見せつけるお心づもりなのでございましょう」
神奈子がどこか意地悪い声をしたから、諏訪子も意地悪い声音で答えてやった。
すると、神奈子は妙に優しさのあるような声で、
「半分だけなら当たっている。民心宣撫もまた、いくさには欠かせぬことであるのだから。だが、私が諏訪子に諏訪の地の案内(あない)を頼むわけは、それだけではない」
と、告げた。
「いずれ、われらふたりで歩く地のこと、知らずにいることなどできようか」
神奈子は、いつの間にか諏訪子の顔から眼を逸らしていた。
「何を、勝手なことを」
今度こそ、諏訪子は言うことができた。
――――――
新政発足の宣言とそれに伴う神奈子の行幸は、結局、冬が終わって春が来て、その春も過ぎかけてようやく初夏のころに執り行うと決まった。ちょうど、百姓たちが田植えに精を出す時期にあたる。
多くの人々が外に出て立ち働いている季節だから、必然、そういう人たちが道々を行き交うものに注意を向ける機会も多くなる。大衆は、諏訪の国に行われる新しい政の姿を垣間見ることができるし、新統治者である神奈子と旧主の諏訪子は、その眼で直接に、民衆の現状の暮らしぶりを観察することができる。そのように考えられてのことだった。
諏訪子の人質生活そのものは、冬と春を通して相変わらずであった。
窓の向こうで雪が融け、融けた雪が幾つかの水の筋になって城内の地面をぬかるませ、春の轍(わだち)をつくるようになると、その上を人が行き交う粘ついた水音を聞いてようやく季節の移り変わりを知った。シンと刺すような土のにおいばかりが目立った冬は、もう終わりだった。春は、むしろ日の光のにおいを聞く方がよりその耳目には聡いのだった。
変化もないではない。
諏訪子の幽閉が、数月ぶりに解かれることになったのである。
驚いたのは、まず諏訪子自身だった。
犬猫にするように好き勝手に名前を与えて飼い殺しにし、旧主の権威だけ利用して政に使ううえは、受肉した人の身が朽ち果てるまで諏訪の柵の一室に留め置かれるものだと思い込んでいたからだ。それ自体を報せるのに特に面白いようなことは何もない。神奈子と初めて会った晩に、諏訪子のことを東夷だ何だと手ひどく罵った廷臣のひとりが使者に立ち、諏訪子の面前で布告を読み上げた。嫌々ながら、という顔つきは未だ残っていたが。
曰く、八坂神は諏訪子を諏訪亜相に任じるのだという。
もって、御身の幽閉は解かれおわんぬ、と。
そして、諏訪亜相が為すべき最初の仕事として、新政発足の儀式に参加せよ、というのである。
亜相(あしょう)――という官名は聞いたことがあった。
確か、稗田舎人の口からだ。大陸における官で、確か国政の枢要に関わるものである。なるほど、大陸かぶれの出雲人らしいやり方だった。彼らが、諏訪の地もまた出雲の王法王権によって塗り潰された場所だと認識しているうえは、帝を出雲本国の大王、丞相(じょうしょう)を諏訪における八坂神奈子、そして亜相に擬されているのが諏訪子という仕組みが連想される。そうやって出雲人の論理の中に諏訪子を取り込んでしまうことで、出雲と諏訪の合一を示す懐柔策のひとつなのだろうというのは容易に推測ができた。将を射んとせば先ず馬を射よ、と、大陸の人々はいくさの際に心がけるのだと稗田は言っていたくらいだ。上に立つ者が心折られれば、無言のうちに上意下達の風は吹き渡る。
「諏訪旧主諏訪子どの。――否、今からは亜相諏訪子どのとお呼びした方がよろしいか」
「どちらでも、構いませぬ」
「では、亜相諏訪子どの。畏れ多くも八坂神は、そなたの御身をお案じくだされ、諏訪の地に安寧もたらすべく亜相の官を賜ることをお定めになり申した。いわばそなたは当地において、大王の御名代であらせられる八坂神に次ぐほどの官を得たことになる。此は、東夷の王にも似合わぬほど、古今、稀なる破格の栄誉である。謹んでお受けされよ」
儀礼の意味合いを帯びた公文書は、当然、紙でできている。
部屋の床にひざまづいた諏訪子は、頭を下げたままで思案していた。
「ひとつ、問うておきたきこと、ありまする」
「む……藪から棒に、いったい何であるのか」
「その亜相という地位、政において何もできずば諏訪子にとっては髪の飾りより以上の意味など、まったく持たないもの。八坂さまはその御叡慮のうちにいかばかり、政の権をこの諏訪子に返上することお考えにございまするか」
「それは……それは、正直に申さば、廷臣のひとりとして八坂神にお仕えする私にも解らない。ただ、すべて八坂神がそのように思し召されたがゆえに、その御意思のもとにお取り計らいくだされたまでのこと。だが、わざわざ官を賜るということは、政に相応の力持つことは間違いないと思う。亜相という地位は、諏訪子どのが思うておるほど軽くはない。法と官とを平気で枉げるようでは、強く健やかな国が育つことはない。八坂神は、それをよう解っておいでなのだ」
そういう使者の顔は、未だ少し不満げであった。
それもそうだろう。ついこのあいだまで主上の命を狙っていた刺客が、今ではどういうわけか副王と称すべき地位にまで任命されてしまったのだから。神奈子の腹のうちは、諏訪子にはやはり読めない。だがそれ以上に、出雲人の高官たちにも何が何だか判じかねるに違いなかった。
「で、亜相諏訪子どの。そなたは、この官を受けるか、受けぬか」
もう『亜相』と呼んでいる以上、彼も薄々は諦めがついているはずである。
八坂神奈子は、いちど言い出せば自分の言を曲げるような者ではないのだと。
諏訪子には、埋伏の毒なる言葉がとたんに頭をもたげてくる。
まともに正面からいくさを挑んでは、諏訪勢に勝ち目はない。
一室に幽閉されたまま諏訪の旧主の名だけ貸し与えていては、徹底的にその権威を絞り取られただけで王としての命運は尽きてしまう。
ならばいっそ、利用できるものは利用するに限る。
亜相の官をもって神奈子の縁辺に侍ること許されれば、いずれ諏訪人が権力を奪回する機会をうかがうこともできるかもしれない。政の力のみによって、諏訪の政から出雲を放逐するのである。そういう、一縷の望みはある。出雲人の中で長く暮らすうち、やがてその情みたいなものにほだされたのだろうか。いや、諏訪子は信じてもいた。自分もまた、神奈子と同じほどには狡い生き物になるべきなのだと。
「謹んで、亜相の官、お受けいたしまする」
諏訪子がそんな風にあっさりと首を縦に振ったことを、まずもって神奈子は驚いた。
次に、大いに喜んだらしい。
らしいというのは、諏訪子自身が直にそんな神奈子の様子を見たわけではないからである。数日来、神奈子は種々の仕事に忙殺され尽くしていた。諏訪子の部屋を訪ねて二言三言は言葉を交わしていくという評定の後の習慣だって、近ごろではおろそかにされていた。併せて祐筆の稗田舎人も多忙になり、以前はよく行われていた学問の講義もなくなっていく。新政発足に伴う神奈子名義の公文書の発給や記録には、祐筆の力がどうしても必要なせいだ。おそらく、政情の機微に聡い幾らかの諏訪人たちからは、戦いの勝者に対して利益の安堵を願う書状や諸々の陳情もひっきりなしに届いていることだろう。
心のうちでは何を考えようが、昨日までの敵にすがりつき、その顔色をうかがってでも今日明日の飯の種を得なければならないのだから、人間とは難儀な生き物だと思う。由来、自分が神で助かったと、諏訪子は思わないでもない。
ともかくも、今や彼女の座していた御所に代わる、諏訪一国の政所として期待されるようになった諏訪の柵城中のあちこちで、竹簡木簡が行き来し、紙の束がいずこかに運ばれていく。諏訪子にとっては、与り知らない政の細かな部品たちがである。朝な夕なに食事を運び、髪を繕ってくれる侍女たちまでもが、何だかいつもより気忙しそうに見えて仕方がなかった。そんな中で諏訪亜相に任じられた彼女が最初にした仕事といえば、――新政発足の宣旨発布までの日数を、指を何度も何度も折りかえして数えることくらいだった。
正直なところ、退屈ではあったのだ。
憎むべき相手が眼の前に現れてくれないというのは、意外と辛いものがある。
それに亜相を享けたときから、少なくとも人質としての幽閉は終わっている。
外に出て日の光を浴びたいし、懐かしい諏訪の風を胸いっぱいに吸い込みたかった。
彼女はもう人質ではなかったし、もう誰に遠慮することもなく部屋を出ても良いはずだった。
どうして、今までの数月通りずっと部屋に籠りきりだったのだろう。
夜に寝床に潜り込むたび、枕にうずめた首をひねりながら考えてみたが、いっこうに答えらしい答えは浮かんでこなかった。出雲人による暗殺を恐れているのだろうか、かつて自分が神奈子に対して企てたみたいに。否、違うと思う。殺すつもりなら、こんなにも長いあいだ飼い殺すような真似をするのは辻褄が合わない。人質に与える飯だって木の股から無限に生えてくるわけでなし。では、自分は遠慮しているのだろうか。でも誰に、何に。
少女の姿を覆っていた掛け物を跳ね飛ばすと、諏訪子はとうに閉め切られていた格子戸をずらし、初夏近い晩春の夜を覗き見た。少し、暑い夜だと思える。風は生ぬるく、額にかかる黄金の髪の毛の先を揺らしていく。耳をそばだてると、遠くで、かすかに何かの音が響いていることに気がついた。楽を奏する音色だろうか。それにしては何の旋律も音階も意識されておらず、ただ弦を弾いているだけの無機質な音でしかない。それが、城中の色んな方向からときおり聞こえてくるのだった。
誰か諏訪人が、わたしのことを助けに来たのだろうか。
が、それにしては不自然だ。わざわざ音を立てる必要はない。
なおも出雲人に楯突く魑魅魍魎か物の怪の跋扈か。
幾ら考えても、夜中に鳴弦するような妖怪が諏訪に棲んでいた記憶はないのだが。
何度か、彼女は思案する。
夜中という時間はその静けさゆえ、風吹く音、樹木のざわめき、何の意味もなく大きな存在に感じられて仕方がなくなるときもある。頭の中身を切り替えて再び寝床に潜り込もうと試してみた。けれど、幾ら枕に頭を鎮めたところで弦を弾く音が絶えることはなかった。それよりも諏訪子自身が、その音を聞くために格子戸を閉めるという決断に踏み切ることができなかった。
部屋に差しこむ春の闇の中に、細い少女の腕をかざしていた。
その真白い様は、日に夜を継いでいくさを続けてきた神奈子ほどには浅黒くない。
神奈子は、今どこに居るのだろうと気にはなった。
神に対して愚かしい問いではあったが、働きづめで倒れられてはかなわない。諏訪の政を奪い取ったのは、他ならぬ八坂神奈子なのである。諏訪人の命運を担っているのは、今や彼女の力ひとつなのだ。だから、彼女には壮健でいてもらわなければならなかった。諏訪子は、初めて神奈子に憎悪と忌々しさ以外の感情を覚えてしまったような気がする。友情とか親愛でなし。まして、神奈子が諏訪子にしたような、はなはだ武骨でぎこちない求愛でもない。ただ、彼女が自分に代わる政を、しっかりと遂行してほしいと願うばかりだから。少なくとも、諏訪子自身は自分の思いの源をそう読み取っている。
「諏訪子のことを好いているのなら、後宮でもつくって思うさまわが身を辱めれば良いではないか」
そんな略奪の形態こそ戦いの勝者における当然の権利だと、諏訪子も戦争をやるうえでの苛烈な常套を知っている。神奈子が諏訪子に対して凌辱をしなかったのは、女同士だからという以前に――何か、神奈子という人自身に根差す、もっと深いわけがあるような気がする。
いつしか、格子窓の向こうで弦の音は止んでいた。
諏訪子は、ようやく眠りに落ちかけた意識の底で、自分の感傷を嘲笑う。
夜という時間はどうかしている。こんなにも、諏訪の地を侵す怨敵の身を案じさせる程度には、神の思考さえ魔がそうするごとく入り込んでくるのだから。
しばらくの間を置き、再び弦の鳴る音が始まっていった。
眼に見えぬ矢が、思いの向く先を誤らせる魔を祓うてくれれば良い。
諏訪子の夜は、鳴弦の音を眠りへの手向けとしたがっていた。
――――――
あらためて見回してみた諏訪の柵は、初めに見たときよりも広くなっているように思える。それが、ついに諦めて部屋を出る決断をした諏訪子の印象だった。いや、何度、眼を凝らしてみても、実際にあちこちのつくりに増築と補強が加えられ、広くなっている。
神奈子暗殺を企ててその招きにあえて応じてからは、今の時点で未だほんの数月しか経っていない。だというのに、出雲人が諏訪における戦いの拠点として築き上げたこの城は、いつの間にか戦いのためという以上に、立派に神を祀ったり人が棲むに足るだけの性能を備えているようにつくり変えられていったみたいだった。
元より、住まいと言うよりは砦や城として建造された場所だ。
頑強さに関しては依然として言うに及ばずといったところだろうが、階で地面と繋がれた、高床のつくりをした棟の数は明らかに増えていた。諏訪でも富裕な者たちの邸や、あるいは穀物倉などではまま見られる特徴であった。利便性と、あるいはそこに伴うささやかな豪奢を追求するに、人の思いは東西を問わないらしかった。しかし、概して諏訪子の思いは嘆息と一緒だ。出雲人の場といえど、以前はきらびやかな服を着た得意気な顔が竪穴から覗いている、みたいな間抜けさがないでもなかったのだが。
何となく意気を削がれたにせよ、敵情視察は必要だと思いなおす。
誰に案内を乞うこともなく、彼女はふらふらと城の中をさまよい始める。
相も変わらず、身分の上下を問うことなく出雲人たちが忙しそうに行き交っている。
皆、諏訪子の姿を認めると腰を折り、深々と頭を下げていく。
が、特にこちらの顔を見ることもなくまたどこかに行ってしまう。
蛮地の王と思って顔を忘れたわけでもないらしい。諏訪子は、それをぼうとした顔で見送ることしかできない。元が諏訪の旧主と思って遠慮しているのかばかにしているのか、それともいちいち拝顔がどうのを気にするだけの余裕がなくなっているのか。たぶん、後者ではあると彼女は思う。
練兵場の方に眼を向けると、将兵が何か鬨の声を上げながら懸命に矛を振り回していた。未だ夏の盛りに差し掛かっていないとはいえ、動けば動くだけ暑いだろうに。出雲人の首周りに滲んだ汗から、諏訪子は直ぐに視線を逸らす。新しくなった城には、未だ見るべきところが多くありそうな予感がしていた。子供のように、いま彼女はわくわくとした気持ちでいる。人質として留め置かれてしまったときの絶望は、いつの間にか薄れてしまっていただろうか。
神奈子の居所であった、例の行宮の場所まで赴いた。
その周囲を取り囲むように、いつの間にやら諏訪の柵の中でもいっとうに広大な中庭が整備されていた。
万余の軍兵を整列させるにはさすがに狭すぎるが、百人程度であれば抱えるのは易かろう。庭は剥き出しのままの土が粗末な印象を与えはしたが、周りには樹木や花々が新たに植え込まれている。初夏の香を吸ってつぼみを膨らませているのもあれば、早熟な花が鮮やかに咲き誇っているのもあった。最初に眼にした殺風景さは、とうの昔に消え去っていた。
地面には細かな枝葉や小石ひとつもなく掃き清められていて、うかつに踏み込んで足跡をつけるのが惜しいほどであった。もはや城や砦というより、城のかたちをした祠とか社(やしろ)と見た方が良い。諏訪子はそんな風に考える。同時に、神奈子の『仕事』は着実に進んでいるのだろうと実感しないわけにもいかなかった。もはや諏訪の柵に期待されているのはいくさのための砦というだけではなく、八坂神奈子の御所、また政所としての機能だった。
そういえば、未だ普請の槌音は城の中のあちこちから絶えたことがない。
新たに御所なり社なり宮殿なりを造営するよりは、今ある城をより“使える”かたちにつくり直した方が良い、と、神奈子は考えているに違いなかった。
諏訪子は感嘆すると同時に、――何だか、自分ひとりだけがひどく置き去りにされているような危うさを感じないわけにはいかなかった。 顔を見せもしない神奈子のこともそうであったし、亜相の官を与えておきながら何の相談もなく粛々と進行しているらしい彼女の政もそうだった。時間さえかけて、何もかもが上手い成り行きで運んでいけば――きっと、諏訪人も神奈子の元で、平穏な暮らしを営む方をこそ選ぶようになるのではないだろうか。牙を抜かれ、爪を削られ始めたのは諏訪子だけではないのかもしれない。だから、今に“諏訪さま”という神が存在したことさえも忘れられるに違いない。そう思うと本当の人間のように、胸の辺りが途端に苦しくなってくる。
きりきりと歯を軋らせながら、なかなか見つからない小石をどうにか見つけて拾い上げると、中庭に向かってそれを投げ入れようと決めてしまう。ちょっとした、反抗的な遊びだ。
腕に軽く力を込めて振り抜くと、石は中空に浮かび上がってきれいな弧を描き、地面に向かって落ちていく。そのときは少しの風も吹いていないはずだった。そのはずだったが、石はまるで糸に引かれるかのようにその軌道を狂わせ、神奈子の行宮を取り巻く高床の廊下に向けて飛んで行ってしまった。いつの間にか手元が狂ったのだろうか。灰色の小さな影は、かたりと音を立てて廊下に転がり行く。
しまった、と、舌を打つ間もないうちに、廊下の向こうから誰かの足音が響いてくる。
諏訪子は、わずかに身構える。
別に、凶器を隠して物陰に待ち伏せているわけでもないのだが、仮にも諏訪の旧主が石ころを投げて遊んでいたのがばれてしまうと、さすがに面子に関わる問題というもの。唇を尖らせ、うつむいていると、人の気配は次第に重々しくなっていき――最後に、小石が転がっている辺りで足を止めた。
「何だ、これは……誰か居るのか」
「や、やにわに大声など出されますな、八坂さま」
「諏訪子だな。他人を呼ぶのに大声を出して何が悪い。いや、そんなことよりも。斯様な場所に石を転がしておいたは、そなたの仕業か」
「そ、そうでございまする」
諏訪子が答えると、神奈子は訝しげながらも笑んで、
「何のために」
と、訊いた。
「企てにございます」
「企てだと」
「八坂さまがつまづき転び、頭など打って命落とせば、諏訪人おおいに喜びまする」
小石を手のひらでころころともてあそびながら、神奈子は言葉の意味をしばし吟味している風だった。剥き出しの権力権勢がぶつかり合う場所に身を置いている彼女のこと、他人の発した言葉の裏にも別なる真意が隠されているものだと疑わざるを得ない、癖のようなものがあるのだろう。たっぷりの長考を眺め、呆気に取られていたのはむしろ諏訪子の方だった。そして、彼女の言葉が何の他意もない、子供じみた言いわけ、皮肉であることに気がつくと「は、は!」と、神奈子は大笑する。
「つまらぬ嘘などつかぬことだ。どうせつくなら、もっと大きな嘘をつけよ。騙し合うことに慣れねば、いくさどころか普段の政でも寝首を掻かれよう」
出雲人らしい、すっかり耳慣れてしまった高慢な声ぶりである。
けれど、諏訪子は別に嫌な感じも覚えなかった。
神奈子は、そういう人、そういう性格であるというのを、漠然ながら把握することをようやく覚えていたのである。
「諏訪人は、政の場でそのように卑劣な策略を用いはしませぬ」
うつむいていた顔を上げると、初夏の日差しで視界が痛い。
逆光を浴びて影のさなかに取り込まれた神奈子は、
「それはどうかな」
と、にいと笑いを深めていたみたいだ。
「そなた、かつてこの八坂神奈子を暗殺せんと目論んだではないか」
「いくさに敗れた以上、出雲人を諏訪から追い落とすにはそれ以外に方策がございませんでした。ゆえに、諏訪子は――あの晩は、未だ“諏訪さま”でありましたが――、わたしを祭祀する豪族たちの献策を容れ、この身に毒の刃を帯びたのです」
まるで、荊軻のごとくに。
稗田舎人から、『史記』における秦帝国の興隆と滅亡について教授を享けたことを思い出しながら、諏訪子はそうつけ加えた。燕の太子丹の依頼によって、荊軻は秦王政の暗殺を試みた。世界――少なくとも諏訪子は諏訪や出雲ほか倭国数十国と、西海を挟んだ大陸にある数多の帝国王国の興亡の歴史こそ、世界のすべてだと思っていた――で初めて皇帝になった男の、苛烈な人生における瞬間的なきらめきである。だけれど、『壮士一度去ってまた還らず』と詠った荊軻自身にとっては、始皇帝に相対した瞬間こそ、彼の生涯がもっとも燃え盛った瞬間ではなかったか。
けれど、諏訪子は生きている。
彼女は、荊軻にはなれなかったのだ。
そして、出雲人の中に埋伏して再起をうかがう身でもある。
諏訪子が口にした荊軻の喩えに、神奈子は嬉しげな顔になる。
だが、やはりどこかに含みのある微笑だった。
彼女の歓心を買うことに成功しているらしいことに内心ではほくそ笑みながら、諏訪子は何か不安だった。自分のたくらみをすべて見透かされているような。あるいは策略以上の、もっと昂ぶった感情が自分の中で活きているような。
手にした小石を再び庭に投げ返すと、神奈子は廊下と庭を繋ぐ階まで歩き、才気煥発といった青年のような風貌に違わず、男みたいに階の一段に腰かけた。今日もまた、つるぎは帯びていない。王としての威厳を示す必要のない、私的なくつろぎの時間を求めていたのかもしれないと諏訪子は思う。神奈子の行宮は、彼女がひとりになれる数少ない場所であるのだろう。神奈子の手から投げ返された小石は庭の真中にぽとりと落ち、かすかな土埃が地を這った。
「まあ良い。諏訪子、今から私と一緒に来い。亜相としての仕事をくれてやる。そなたが喉から手が出るほど欲しておった、政のことである」
政……と、諏訪子はつい問うた。
「まさか」
「まさかも逆さまもあるものかよ。わざわざ諏訪の旧主を亜相などという高き位に就けておきながら、何もさせぬのは宝の持ち腐れというものだ。いかに鋭い刃でも使わぬうちに二年三年と経てば錆びに侵され、矢と矢の間には蜘蛛が巣を掛けよう……私は、利用できるものは最後まで利用し尽くすのが信条でな」
立ち上がって階から下りた神奈子は、緩慢な動きを見せながらも、庭の端に立ちっぱなしの諏訪子の元に近づいている。相も変わらず憎まれ口ばかりの出雲の武神。鷹揚な仕草は偽ることのない彼女の素面ではあるのだろうが。
「その口から、せいぜい大きな嘘をつく練習をしておくことだ」
妹か何かの頭を撫でるようにこちらの手を伸ばしてきた神奈子の手を、しかし、諏訪子は振り払った。
――――――
「八坂さま、ならびに諏訪亜相の御出座にございます!」
神奈子と諏訪子……というよりも、眼の色の変わりようからすれば神奈子を間近く見、評定堂を守護する衛兵は深々と頭を下げた。取り次ぎ役の舎人が大声を発して周囲に二神の来訪を告げるより早く、衛兵たちは、箙の中にしまった矢束がぶつかる音を鳴かせることもなく、粛々と左右に道を開けてふたりを通していく。
神奈子は、そんな衛兵たちの様子にはいっさい眼すら遣ることもなく、大柄な体格に任せるままずんずんと先に進んでいく。諏訪子はといえば、神奈子よりははるかに小柄な少女の姿に化身しているせいで、相手に足早に歩かれると急いで後をついていかなければならないから何かと大変なのだった。諏訪の王として、いつもこちらに合わせた早さで相手が歩いてくれることに慣れきっていたせいもあろう。こんなことなら、次に人間の姿に化身するときは大人の男にでもなるか、と、彼女は密かに決意する。
「ここは、諏訪子を城中に留め置いてからもっとも早くに建てた場所だ。いつまでもわが行宮に臣ども呼び集めていては、我も連中も何かと窮屈に過ぎる。それに、諏訪経営のためにはしっかりとした政所を築く必要もあった」
神奈子は、自分のことを『私』ではなく『我』と呼んだ。
評定堂は、今や出雲人にとっての政の中枢の場なのだ。公式には男神(おがみ)という建前になっている神奈子が、周りの眼を気にするのは当然といえた。
「正直を申せば、驚きました」
「何を驚くことがある」
「八坂さまが、斯様に立派な評定の場をおつくりになるとお決めなされたことが」
「そこまで意外というほどのことか」
「あなたは、他人の話を聞くことなく、勝手次第にものごとを進めてしまうお方であると思うておったゆえ」
ふん、と、神奈子は鼻を鳴らした。
「そう思われていたのなら、むしろさいわいだ。他者の畏れに適うことなければ、皆は言うことを聞かぬ。それに、我の立場は出雲におわす主上より、諏訪平定と統治とを命ぜられた諸王に過ぎぬ。わが政には、はじめから王命という枷がある。王命に背き勝手に自分の国をつくるは謀叛であるし、仮にそのつもりがなかったとしても、臣どもの意を用いねば何かと都合が悪かろうよ」
しがらみ、というものであろう。
と、諏訪子は無言に納得した。
出雲人は、天地に八百万の神々おわすと唱えているという。
その神々がそれぞれに天下のあちこちを司っているのだから、俗界を治める王法はじめ、数多の権門とも否応なしに絡み合い、そう容易くは収拾もつくまい。思わず肩をすくめながら、なおも足早な神奈子の背を追っていく。
評定堂は東に向いた一角に在り、どうやら諏訪の柵の中では特にたっぷりと日照を得やすい場所に建てられていたようである。が、神奈子の手によって勢いよく開かれた出入り口の扉をくぐってみると、四方の格子戸は小さいし、蔀戸もすべて閉め切られていた。太陽の熱だけが執拗にこもり、息をしただけで肺の中までうっすらと汗が滲みそうだった。秘密の談合など、うっかり外に漏れてはまずいということもあるのだろう。だから窓も小さめにつくってあるのだろうが、それにしても快適という言葉に未だ少し足りない場所とも思える。
壁際には大樹をそのまま植え替えたような図太い柱が並んでい、その影に隠れるようにして、祐筆の稗田舎人が文机で何か書き物をしていた。「稗田。一昨日の訴訟は、もう裁定に関しての記録を出雲まで書き送ったか」と神奈子が問うと、「ご安心ください。昨日のうちに、使者は諏訪を発ちましてございます」と、稗田は微笑した。彼は神奈子の横に諏訪子の姿を認めると、
「お久しうございまする、諏訪亜相」
と、笑みを崩さず頭を下げるのだった。
「む、うん。久しいな。稗田。其許がおらぬでは、話相手に困って退屈していたところだ」
「それは、嬉しきお言葉にございまする。なれど、諏訪の政は今この時が肝要。いつか国つくり終えられましたならば、また大陸の史書について講義を差し上げることも叶いましょう」
通り一片の世辞にも聞こえた。
が、諏訪人の中における数少ない話相手として足る男に再会して、諏訪子も嬉しくないと言ったら嘘になる。
「そなたらふたりの仲良きことは何よりぞ。我の企ても実を結ぼう」
「企て、にございますか」
と、諏訪子。
「おう。諏訪子。そなたを亜相の官に就けたは何ゆえと思う」
「さあ、それは……」
諏訪人懐柔のため。
小声でつけ加えると、神奈子は苦笑しながら「それもある」と答えた。
「だが、懐柔というはそなたを旗頭に諏訪人をこの八坂に靡かせようと目論んでだけのことではない。――稗田、“連中”はどこか」
「は。三の院にてお待ちあれと伝えましたところ、直ぐに従うたと」
「良し。……誰(たれ)か、ある」
いくさ場にもよく通る神奈子の声に呼び寄せられると、開きっぱなしになっていた評定堂の扉に向こうに舎人のひとりがあらわれ、すばやく膝をついた。ほとんど足音もしないような、滑るような疾走だけがあった。
「はッ。ここに!」
「逸勢(はやせ)か。三の院にて待たせてある豪族どもを、評定堂まで呼びに遣れ」
逸勢と呼ばれた若い男は、再び滑るような挙動で走り行き、いずこかへ姿をくらまして行く。後には風の音さえ残らない。俊足は、伝令の役には欠かせない技能である。
「諏訪子。そなた、この八坂の暗殺を目論んだは、当地の豪族どもの献策を容れてと言うたな」
「確かに。さっき、そのように申しあげたばかりにございますが……」
「よし、解った。やはり諏訪のことは諏訪の者に任せるに限る。敵の王を殺そうとするだけの謀(はかりごと)を巡らし、王自身を動かすほどの威勢を持つ者相手となれば、なおさらのこと」
そう言うと、神奈子はにんまりと笑った。
「英邁なる八坂神よ、よもやあなたの内に存する御叡慮は」
「政には、諏訪子を加える。それは――」
小さな鳥がその翼をいっぱいに広げて敵を威嚇するように、神奈子は胸を張った仕草をする。
「八坂の名代として、諏訪の豪族輩との折衝をして欲しい」
ぎり、と、歯を軋っているのが自分でも直ぐに解った。
まさしくこれこそが――戦火を閃かすことなく、政のうえですべての戦いを決着させることこそが、諏訪国主としての自分の願いのひとつだと案じていたはずである。そのはずなのに、いざ神奈子にそれと命じられると、未だどこかで反発のようなものがある。つまりは、諏訪国内の対抗勢力にあらかじめ傘下に収めておいた諏訪人の力をぶつけ、同胞同士での喰い合いをやらせてしまえば、第三者である出雲人は身を切ることなく旨味だけを手に入れることができる。こういうのを大陸から発した言葉で『漁夫の利』と呼ぶのだと、稗田舎人は前に言っていた。
それに、いかに神奈子の意を受けてのこととはいえ、諏訪子が出雲人の官を受けて立っているのを目の当たりにすれば、諏訪人にとっては“諏訪さま”が侵略者の走狗となったようにしか見えず、まず怒りの矛先は神奈子より前に諏訪子の方に向くだろう。唇亡ぶれば歯寒しとは、これもまた大陸の政で使われた言葉であった。諏訪子は歯を護るための唇、神奈子の盾として諏訪人と闘えと命じられたようなものだ。自然、不満に歯を軋らせたくもなる。
が、自分を睨みつける諏訪子のささやか非難の眼にも、神奈子は泰然としていたし、またいつものような不遜げな顔つきで告げるのだ。
「数月を費やした小競り合いの末、未だ抵抗を続けていた諏訪の豪族たちから、ようやく和睦の二文字を引きずりだしたのだ。ひとまず、応じるつもりでいる。しかし、見るところ未だ連中は完全に余力を失うたわけでもないし、また背後には諏訪子の統率を離れたミシャグジたちの勢力が、ほぼ無傷のままで趨勢(すうせい)次第を見つめているはず。斯様な状況で、矛を収むる機会が得られたことはむしろ僥倖なのだ。それに出雲人とて、仮に無敵ではあったところで不死身ではない。おおかた、豪族たちもまたこちらの消耗をつぶさに見て取り、自分たちの益に適う落としどころを欲しているのだろうな」
そして、ふた言目には道理に適ったことばかり言う。
彼女の眼は、やはり諏訪子の不服を見透かしていた。
「諏訪子からすれば、不服な役回りであろう。だが不服と言うなら、何のために出雲人より官を受けたかが解らぬ。まさか、いつまでも賓客として遇してもらえることに期待するほど、そなたも呆けていたわけでもあるまい」
「あなたは、卑怯だ。この身、新政への忠誠を民心に訴えるための傀儡にはなれど、政のさなかで矢面に立たされるなどとは、諏訪子は思いもしなかった」
「ふん。敗者とはそういうものではないか。しょせん、勝者に頭を垂れねば己が身の進退さえ決めあぐねる哀れさよな」
口では神奈子を非難しながらも、諏訪旧主の権威を良いように利用される事態が訪れることを、まったく予想していなかったわけではない。
いくら甘いと罵られようが、諏訪子も一国の政に携わってきた身なのである。
戦いと、戦いに付随する勝敗の果てというものが、結局は、利害の取り合い押しつけ合いでしかないというのも知っている。だが、諏訪人の権力奪回の日まで神奈子の懐に潜り込むと決めた彼女の心でも、穢されざる誇りのようなものはもちろん在る。あるいは、郷里の安寧を願う愛情みたいなものを誇りと呼んでいたのかもしれない。その愛情に自ら泥を塗ってまで、諏訪人同士の対立を煽るのに諏訪国主の権威を利用される筋合いがどこにあろうか。
「手を貸せよ、諏訪子。諏訪豪族、ならびにミシャグジたちがこの八坂神に従わぬとあらば、いずれ新たに討伐の軍を発しなければならぬ。其は、無為ぞ。収むることのできたはずのいくさを、意味なく長引かせるのは。そのような無為なるいくさが起こり、この国が諏訪人と出雲人、両者の流す千余万余という血涙で穢さるるを望まぬは、神奈子の願いである以上に、まずもってそなた自身の願いであろうが」
そんなものは、詭弁ではないか!
この地に諏訪人と出雲人の血で染まるような戦いを仕向けたのは、元をただせば神奈子に率いられた出雲人の方だったというのに。
「……諏訪では、そういう物言いを“脅し”と呼ぶのです」
「東国のものの考え方は世間擦れがしていて面白い。出雲では、“情に訴える”と言う」
きッ、と睨む諏訪子を顔を面白げに見遣り、加えて神奈子は、
「どちらにせよ、いずれ豪族どもが諏訪の地にて強き力持つ以上、急ぎ和睦の話をまとめる必要がある。戦いを煽るにせよ、恭順を促すにせよ、そなたが味方になってくれれば何かと心強い。上手くすれば、矢の一本も放つことなくすべてを終わらせることもできるのだ」
と、言った。
頬の裏で次の言葉を噛んでいた諏訪子は、いら立ちに動かされるまま、さらなる反駁を試みようとする。しかし、彼女の意を阻むかのように「私からもお願い申しあげます、諏訪亜相」と、横から口を挟む者があった。稗田舎人である。
「稗田」
彼が見せるはずだった怜悧な微笑は、今度ばかりは硬い表情に隠されていた。
「事ここに至りて、諏訪王としての面子にこだわるは愚かの一語に尽きまする。豪族たちはかつての“諏訪さま”に対して祭祀の権を握っていた、いわば政の柱石のごときもの。その柱石が、此度の出雲と諏訪とのいくさでは揺らぎかけたのです。八坂神が思し召されておられるのは、その揺らぐ柱石の“置き所”を新たに決めなければならないということ。その仕事には、土台となる土の性質、柱石のかたちや重みを御存知である諏訪亜相のお力が何より必要にございまする。八坂神お一方の強き力で押し出してしまえば柱石は崩れ去り、諏訪の国は根本から消えてなくなりましょう。それをもっとも恐れておられるのは、やはりあなたのはず」
それは、そうだが。
と、稗田の説得に諏訪子は口をつぐんだ。
間近く見ていた神奈子は苦笑を隠せず、「我の武威を野分(のわき)か何かと思うておるのか」と唇を歪めていた。
「この諏訪の地の民に安寧もたらすため、この稗田、伏してお願い申し上げ奉りまする」
文机から身体を離し、稗田は冠がずり落ちそうになるのも気にせずに深々とひざまづいた。ぎりり、と、諏訪子はまたも歯を軋る。稗田の態度まで含めて、すべては神奈子が自分を口説き落とすためにお膳立てした今日の情景だと思えなくもない。思えなくもないのだが、確かに稗田の言うことには理があった。自分を祭祀していた豪族の勢力は未だ健在で、彼らを粗略に扱えば、旗頭としての“諏訪さま”までが信仰を失いかねなかったほどだ。国にとっても諏訪子にとっても、豪族連中の力は欠かせぬ『柱石』ではあった。
――だが、その豪族という柱石を根本からつくり変える策があるとしたらどうであろう。稗田の言葉を信じるなら、八坂神奈子にならそれができるかもしれない。峻烈な力の化身である彼女に庇護されるのなら、諏訪子は自らを、豪族たちに命脈を握られた脆弱な王という存在でなくすることができるかもしれないのだ。
今の諏訪子は、八坂神奈子の膝下に仮寓する半人質であり諏訪亜相。
いわば、八坂神の威光を背負った存在である。その時点で、神奈子、諏訪大衆、ミシャグジ蛇神、そして豪族たちという四者に同時に囲われた存在であるとも言える。元より、微小な神霊の群れであるミシャグジたちを統括するだけの力を彼女は持っていた。つまり、それは諏訪子だけが指示を下し得る軍勢である。今は、神奈子の力をも十分に後ろ盾にすることが可能な立場にも居る。そして諏訪旧主としての願いは、稗田舎人の言う通り、何より諏訪人民の安寧であった。この理想を脅かすものを排除することこそが、目下、ただひとつの目的とは言えないか。
其は、儂にとりて積年の悲願ぞ。
ごくり、と、唾を飲み込む音が漏れはしないかと諏訪子は不安だった。
だが、いずれ出雲勢に敗北したときから王としては半分死んだも同然なのだ。
一瞬、閃いたこの策に賭けてみる価値はある。
出雲人の帷幕に加わることを選択したときから抱いていた『内から権力を奪回する』という朧もきわまる計略が、ようやく、そのかたちを烈しい明瞭さで帯びてきた。
「…………承知仕りました。この諏訪子、諏訪亜相として豪族たちとの折衝に当たれとの任、謹んでお受けいたしましょう」
埋伏のつるぎは、ひとまず神奈子でなく豪族たちに差し向けられる。
どこか、ほくそ笑む風な顔つきをして、諏訪子は神奈子の足下にひれ伏した。
突然に示された恭順に対し、諏訪子の意を汲み取ることができず、神奈子はひたすら眉根に皺を寄せていた。数秒、沈黙が流れた後、「かたちばかりの服従が何になる。ひれ伏すな、立て」と、神奈子は命じる。けれど、諏訪子は従わなかった。面をちらと上げたままで、神奈子の困惑を見つめていた。
「諏訪子、そなた、何を考えておる」
「ただ、諏訪人の安寧と太平を」
「それにしては、ずいぶんと怖ろしげな笑みを見せるな。それが――そなたの“崇り神”としての顔か」
「英邁なる八坂神の御叡慮がそのように思し召されるのであれば、おそらくはそうなるのでございましょう。諏訪子が祟る相手とは、このわたくしを蔑ろにする者、そして政を壟断(ろうだん)せしめる不埒の徒。まあ、申すのであれば考えることは八坂さまと同じということにございます。諏訪の太平が、何より恋しい」
もはや諏訪子の心は暗殺未遂の晩と同じような、策略家のそれだった。
八坂神奈子という人が、利用できるものを何でも利用する主義というなら、諏訪子もそれに倣おうと決めた。諏訪子と神奈子の利害は、ときに一致し得る。
『神奈子の権勢を借り受けることで豪族たちに対抗し――いずれ諏訪の政を、真にわが手のものにするための第一歩とする』
そんな、可愛らしい少女の姿にも似つかわしくない野心を抱いたのは、人の姿に化身してしまったせいもあったのかもしれない。人間の姿をして人間に混じるということは、その生き方の生臭さもまた覚えなければならないということ。政の場で息をするなら、なおさらだった。
なおも怪訝な眼をした神奈子は、沈思に沈んだようでいながらも「それなら、良い」と、うなずいた。
「だがな、諏訪子。今のそなたには、少し腹黒きところが蘇っているように見ゆる。此度、豪族どもとの折衝はそなたに任せるが、もし、連中と語らって妙な動きを示すようであれば、そのときこそ“こう”だ」
片手を刃に見立て、神奈子は自分の首に押し当てる仕草をした。
むろん、いっさいの疑念を放棄して、相手を信用しきるほど八坂神もばかではなかろう。
武力にせよ策略にせよ、刃とかつるぎというものは得意気に腰に提げるだけでなく、懐にも数本、隠しておくべきものなのだから。
「おや。八坂さまは、諏訪子を好いておいでだったのでは」
「それとこれとは別儀である。わが王道に立ちふさがるつもりなら、今度こそ容赦なくそなたを斬るぞ!」
諏訪子は、にこりと微笑んだ。
と、神奈子の方は唇をひん曲げ、どっかと諏訪子の正面にあぐらをかいて座り込む。
一瞬だけ、――ふたりの王の眼が合った。思いのほか、諏訪子は神奈子の眼が澄んだ光を放っているように感じた。ふたりの視線が同じ高さで交錯したのは、暗殺未遂の晩以来のことだったかもしれない。では神奈子の眼からは、諏訪子の眼にはどんな昏い焔が湛えられていたと見えただろうか。そんなことまで聞き出す勇気は、さすがにない。
「叛く者は、みな討つ。そうと決めておる」
じんわりと染むような溜め息を、神奈子は吐き出した。
「戦いて、戦いて、戦い続ければ、いつかは我に敵する者、すべて滅びるように思われるときもある。だが、むやみな戦いは民心に敵の種をばらまいて、次の叛乱の芽を育てるに等しいと思えるときさえもある。要するに、戦い続きで八坂は少し疲れたのだ。諏訪子、後はそなたに任す。諏訪の夜にゆっくりと眠られるだけの静寂を、我にくれ」
なるほど、これが出雲人の言う『情に訴える』というものか。
膝に腕を乗っけて頬杖を突き、猫背になった神奈子の姿は、見たこともない矮小さ。
と、諏訪子は心ひそかに哄笑しながらも、似合いもせず気弱な相手へ、愉悦よりも憐れみの方を覚えている自分の気持ちに驚かされてしまった。
――――――
「祐筆として稗田を貸し与える。ことの次第を書き取らせよ」
かくて神奈子は堂々と評定堂から退出し、後には諏訪子と稗田だけが残される。
いつも神奈子をぐるりと取り巻く廷臣たちは影も見えない。
広い政の場はやかましいほどに沈黙だけが鳴り渡り、稗田の磨る墨のにおいばかりが、やけに鼻について仕方がない。
後はもう、豪族たちの評定堂への到着を待つばかりである。
和睦の道について探るための談合とは申せ、実際的には諏訪豪族たちが神奈子への謁見を求めてやって来るのだ。立場の上では“こちら”の方が上ということになろう。が、やはり諏訪子は手に汗が滲みもする。「崇り神でも、怖ろしきことはございまするか」と、稗田が訊く。「ある」と答えて、諏訪子は再び沈黙した。
「それは、どのようなことにて……」
稗田の問いは、純然な疑問で満ちている。
「本当の家来どもに、叱られはせぬかということをな」
どこか呆気に取られた風に、今度は稗田が沈黙した。
ふたりの会話は、それきりで本当に途切れてしまった。
だけれど、諏訪子の今を表す言葉としては短くも端的なものだったかもしれなかった。
心のどこかでは、豪族たちの機嫌をうかがわなければ祭祀を喪うことを、未だに怖ろしいと思っている。
そして――――。
例の、逸勢とかいう俊足の舎人が戻って来、
「諏訪豪族方々、評定堂に御出座とのことにございます」
と叫んだのは、それから幾らも経っていないときだ。
神奈子の退出に伴って閉め切られていた評定堂の扉が今いちど開くと、ひと群れの小山が揺れ動く様を見るように、数月ぶりに相まみえた諏訪豪族たちが諏訪子の目前に姿を現した。
案内役の舎人に促されると、咳ひとつ発することなく堂の床に座する。
堂のもっとも上座で一段高くなった御座に諏訪子、その一段下に稗田舎人が座し、豪族たちはふたりに対面しながら列をつくるように並んでいた。
軍使ではなくあくまで和睦のための談合に来たということでか、彼らは、つるぎを帯びていなかった。出で立ちは、出雲人とは違った。頭の両脇で角髪を結うことはなく、長い髪を後ろ頭に纏め上げ、紐で結い上げるに留めている。ために、彼らの額はよく目立ち、初夏の光を受けると脂混じりの薄い汗でてらてらと光っていた。また腕や頸や顔には、鉄に生じる錆より採った顔料で、蛇を象った紋様が幾重か描き込まれているのである。ミシャグジ蛇神を崇拝する者たちの、これが習慣だった。
十数人からなる諏訪豪族たちは、出雲人の城に身を置く諏訪子の懐かしい姿を見ても、少しもたじろぐことはない。なるほど、さすがの不遜さである。むしろ心のどこかでは、自分たちの王が出雲勢の虜となっていることを、当然だと承知しきっていた風が見て取れる。こんなやつらが出雲人と刃を交えていたのである。神だとか王など、しょせんは飾り物と思っていても不思議はない。不遜で、傲岸で、己の権益を保持することにまず汲々とする生ぐさき人々。世俗に跳梁する人の身をした物の怪……。
面前に座した諏訪子を前に、あらためて十数人の豪族たちは頭を垂れた。
五十絡みで、肥り肉(ふとりじし)のトムァクを筆頭に、諏訪に割拠する十数氏族の長たちは皆、最後に顔を見たときと何も変わるところがない。じっとりと湿った冷たい獣の油のような雰囲気も、諏訪子を値踏みするかのごとき視線の色までも。どこか嘲笑めいた表情で一斉に頭を垂れる豪族たちに、諏訪子は亜相として凛たるものを見せつける必要に駆られた。それは、“諏訪さま”として彼らの信仰と祭祀に担われていたころとは、どこか違った焦燥である。やがて、「異邦人の城のさなかにありながら、懐かしき御尊顔を拝することができるとは、奇妙なる縁(えにし)にございまする」とトムァクが言った。諏訪子は、あえてそれに親しく答えようとも思わない。
「……よう参られた。儂は、八坂神より其許たち諏訪豪族との和睦について任された諏訪亜相、諏訪子である」
「諏訪子さま……はて、耳慣れぬ御名にございますな。われらには、かつて崇めおりました“諏訪さま”が、その御身、出雲人の服を着て、出雲人の官を受けているようにしか見えませぬ」
「トムァク、其許の申す通りではある。今の儂は、“諏訪さま”でなく諏訪子との名を、出雲人の東征の王であらせられる八坂神より賜る仕儀となったのだ」
「なるほど。われらも敗者なら、“諏訪さま”も敗者というわけでございますなあ」
途端、頬の真裏で甘噛みするような嘲弄が場に奔ったような気がした。
むろん、その震源は豪族たちの心に違いない。
彼らは自分たちの旧主を前にすると、とても敗者らしからぬ“ふてぶてしさ”を放ちはじめていた。諏訪人との誇りとか矜持というものとは、どこか違うと諏訪子は見立てる。彼らが真に相手にしているのは八坂神だ。今や、その幕下に安穏としている諏訪子ではない。まして、旧主たる“諏訪さま”ではないのである。
「八坂さまは英邁なれど、なかなかにいたずら好きの御方。此度の和睦については、この諏訪子に概ねを一任されておられる。ゆえ、其許たちの意、八坂さまに成り代わりて名代である儂が聞き届けなければならぬのだ。時は惜しい。忌憚なきところ、疾(と)く申すが良いよ」
先を促したのは、かたわらに聞こえる筆音に刺激されたからだった。
さすが、神奈子に仕える稗田舎人は官人として隙のない仕事をやってのける。諏訪子も豪族たちも視界に収めることなく、ひたすら場に出た言葉の次第を竹簡に記録し続けていた。
「では、御名代たる“諏訪さま”」
「今は、はや諏訪子ぞ」
「ならば、あらためまして諏訪子さま」
トムァクの右方で発言を待っていたコログドが、にやにや笑いを浮かべながら諏訪子の名を呼ぶ。どこか、厭らしさを含んだ禿げ頭の男。諏訪子が少女の姿として化身するたび、いつも情欲を秘めた眼を向けていた男だった。
「御身より、八坂さまに御相聞とお口添えのほどをお願い申し上げ奉りまする。われら諏訪十数氏族、いちどは諏訪子さまを王と奉じて八坂さまの御威勢に手向かいましたなれど、今はつるぎ振り上げる力ほとんど失いて、今日この日は頭を垂れに参りましたと」
あからさまなおべっかに、諏訪子は眉根を歪ませる。
自分が神奈子に対して許しを乞うたときと、コログドの言うことはどこかよく似ていたのである。
「それは、儂自身はむろんのこと、八坂さまご自身もよくよくご承知の上。恭順の意さえ示すのなら、あのお方はかつての敵でさえも悪しく遇するような真似はせぬはずである。先にこの諏訪子に対し、其許たちが自分に逆ろうたことは許すとの仰せであった。此度の和睦、評定の場にてかかる詮議を行うまでもなく、すでに結ばれたも同然なのだ」
安堵の声ぶりが豪族の列から漏れる。
しかし、どこか嘘混じりのものとも見える。
鎌をかけるでもないが、こちらからも少し揺さぶる必要があろう。
諏訪子は、にいと優しげな笑みをつくった。
「しかしな。儂の心にてまことのことを申せば、其許たちの戦いぶりには驚かされた。出雲人の築きしこの諏訪の柵なる城にて虜となりながら、いくさの次第は時たま耳には届いていた。数月ものあいだ出雲勢と戦い続けた其許たちの胆力、まことに驚嘆すべきものがある」
半分は本当、もう半分は嘘である。
諏訪人の剛勇を見せつける気概は嬉しいものだが、その実、剛勇が蛮勇と化しては堪らない。とばっちりを受けるのは、戦いに駆り出される領民たちであったはずだ。そして“諏訪さま”の神威は、諏訪人の戦いに正当性を与えるための装置でもある。郷里のため、神のために戦うという意識あればこそ、辛い戦いでもかろうじて領民たちは立ち上がることができる。神の生とは、だから、事物の変転に正当性を与えるための装置に過ぎない面がある。その大事な装置を出雲人に奪われた後、いくさの正当性を豪族たちはどうやって確保し続けたのか。諏訪子は、豪族たちに対してそんな所までも『怖かった』。
「いやいや。諏訪子さまの御身、奪われし後のいくさはまことに骨が折れましたぞ。多くの将兵は意気を阻喪して、まるで腑抜けにございました。錆びた鉄剣を青銅のつるぎに持ち替えたところで、兵が居らねば戦いにはなりませぬからなあ。しかし、それでも県(あがた)という県、郡(こおり)という郡から兵を集むることができたは、トムァクさまよりの秘策あったからに他なりませぬ」
列の末席に連なる、若い当主のトライコが言った。
諏訪十数氏族の武門の筆頭の家柄で、この場に居並ぶ者たちの中では頭ひとつ抜きんでて大きな体格をしている。剛勇だが、しかし思慮の足りないところがあると諏訪子は踏んでいる。若さゆえの血気か、それとも単に愚かなだけなのか。戦いではしゃにむに突っ込もうとすることが多いから、この男に率いられた軍はいつも真っ先に損耗するのである。
「秘策だと。トムァク、其許は何をひねり出した」
われ知らず、諏訪子は身を乗り出してトムァクを仰ぎ見る。
毛深い腕をしたトムァクは遠慮がちに頭を垂れ、
「“諏訪さま”が居られないとなれば、代わりてミシャグジ諸神の意を束ねる者、必ず必要となりまする」
「正しきことではある。しかし、」
ミシャグジ蛇神は、諏訪子にしか従わない。
彼女の言こそミシャグジ達にとっては王命、神勅なのである。
その代わりを務められるものが、――――。
「居ったと言うのだな」
「われら十数氏族が新王を立てたは、やむを得ぬ時勢に従うたまでのこと。自らの頭上に何ものも戴くことなく戦いに向かうほど、トムァクの眼(まなこ)は曇ってはおりませぬわ」
薄黄色い歯を剥きだして、トムァクはどこか厭らしい笑いを見せる。
女に欲情している男のそれとはまるで違う、老獪で狡い政の徒に特有の表情、とでも言えそうだった。諏訪子は、トムァクのこの笑みを何より頼もしく思う。同時に、何より怖ろしく汚らしいものだとも感じていた。何らか、策を講じさせればもっとも長けているのは彼なのだ。それは疑いを容れる余地がない。しかし、要するにその策が自身の真上に戴いた王を、良いように操縦するためのものでしかないことが、諏訪子はたまらなく嫌だったのだ。
「では、」と、重ねて諏訪旧主は問うた。
「諏訪子に代わりたる新たな神でも、見つけたか」
「そうではございませぬ。いかに出雲人の奉ずるいくさ神が諏訪の地に入りしこととは申せども、根本からの諏訪の化身たる諏訪子さまに代わる神など、天地のどこを探しても居りますまい」
「さよう。諏訪子さまに代わりて諏訪から神を見つけ出そうとするは、天に唾するも同然にございまする」
諏訪子の問いを、巧みな冗談と受け取ったらしい。
豪族たちから、隔てのない笑いが漏れる。
「ならば巫(かんなぎ)か、祝(はふり)か。はるか西の地にはかつて邪馬台とか申す国が在り、そこでは鬼道なるものにて神霊と通じた巫女が政を行うていたと、諏訪人から前に聞いたことがあるぞ」
「巫女……ま、似たようなものにございます」
「ふうん。では、――そなたらが諏訪子なき後までも戦いを続けることができたは、新たな王の元に軍勢を糾合したゆえのことであるな」
トムァクは何も答えることなく、ただ深々とうなずいただけである。
今度は、諏訪子の方が何かの冗談と思って笑う番だった。
荒々しい自然神であるミシャグジ蛇神をなだめ、また束ねることができるのは、崇りの司である自分しか居ない、と、彼女は思っている。しょせん諏訪豪族たちが諏訪子に代わる新王を立てたところで、それは王者を僭称しているに過ぎないはずだった。ミシャグジたちは人間ほど脆弱ではなく、神々ほど理知に富んでいるわけでもない。諏訪の地を奪わんとする出雲人に対する剥き出しの憎悪のもと、血といくさを求め続けるだけだ。ミシャグジたちの怒りを呑み、御し、諏訪に敵する者に崇りあれかしと祈る諏訪子は、いわば人民とミシャグジたちとの仲介役とも言える。その諏訪子が居ない状態では、新王など、ミシャグジの怒りをただ伝えるだけの空っぽの筒のごときものではないか。
けれど、その空筒こそ諏訪豪族たちのもっとも欲するものだったのかもしれない。
うなずくトムァクのかたわらで、彼に遠慮するごとく縮こまっている者がひとりあった。
他の豪族たち同様に諏訪子に向かって面を上げてはいるが、どこかおどおどとして、落ち着きに欠けているのが容易に見て取れた。髪は短く、他の連中のように後ろ頭に結ってはいない。
彼は、子供だった。
十にも満たないような、あどけない少年だった。
その少年が、トムァクの存在から発する政の力学と、諏訪子の視線から感じる祟りのにおいを聡く聞き、今にも泣きそうな顔をしている。
「諏訪諸軍の力、こちらにおわします幼き新王の下にて糾合いたし、われら数月のあいだ戦い続けた由にございます」
「ほう。斯様な少年の膝下に」
と言いかけて、自分も長らく少女の姿で顕現している、と、諏訪子は苦笑する。
その諏訪子とはまるで対照的に、少年はびくびくと諏訪子に眼をやったり、床に突いた自分の手元を見つめたりしている。純な子だ、と、見ざるを得ない。未だ幼いということもあろうけれど、政のことなど何ひとつ知らないような純な子に違いない。おおかた――何か上手い方便でも駆使する豪族どもに囲い込まれ、新たに王に仕立て上げられ、諏訪人のとっての“正しいいくさ”をするための旗頭として祭りあげられてしまったのだろう。
「新王よ。この諏訪子に何かひとつ、玉音を賜ってはくれないかな」
新王とても、人と神ではさすがに格が違う。
まして相手にしているのは玉座を“たまたま”留守にしていた先王であった。
少年は自分の口から言葉を告げようとし、けれど緊張からやり遂げることができず、飢えた魚みたいに口をぱくぱくさせている。
「さ、さ! 新王よ。事前の稽古をよう思い出しなされませ」
そんな風に豪族たちに促され、少年はようやくぎこちない笑みひとつ見せた。
「こ、このたびはご拝顔の栄に浴し、恐悦至極に存じ上げ奉ります。私が、旧主諏訪子さまに代わりまして諏訪に立つことと相成りました新王にございまする」
ふるふると震える桃色の唇から、やはり緊張を堪える声が漏れていた。
「淀みない口ぶりであるな。よう稽古しておる。うっかりと余計なことを口走らないよう、トムァクたちが眼を光らせていたな。昔から、其許たちは王に対してはそういうところがあった」
嫌味混じりの牽制を、トムァクはわずか口角を歪めて聞き流すに留めた。「また、お戯れの過ぎる諏訪子さまにございます」「出雲人は、諏訪子さまの御身にいたずらの作法までも仕込んでしまったと見える……」と、言いわけじみた返答をする他の者らとはまるで対照的である。ぎらぎらとした眼光が、何もない中空で諏訪子の視線とぶつかりあった。
「…………まことに、王者というものを奉ずるには骨が折れまする。諏訪子さまがわれら衆生に対して存分にお骨折りを頂けるよう、その土台たるべき者こそわれら氏族なのですから」
「よう存じている。その力でもって新王を担ぎあげ、今日の日まで参ったのであろうよ」
苦笑していた豪族たちも、ようやくにして諏訪子の真意を朧気ながら察したようだった。
途端に顔から笑みは消え、怒りと悲しみのあいだみたいな半端な表情になる。
ただひとりだけ、何が起こっているか理解できないのは話の焦点にされた新王の少年だけであった。おろおろと、トムァクと諏訪子の顔を交互に見比べている。
たっぷりと時間を食んだ後、諏訪子は再びにいと笑って、
「新王。其許の名を申せ」
と、少年に問うた。
「は、はい……っ!」
ようやく、何の含みもない“まともな”話が向けられて、少年はぎこちないながらも笑みを浮かべた。『つくった』のではなく、『浮かべた』笑みだった。彼は、何もかも知らな過ぎるとよく解る。千余万余の利剣のごとく、嘘と方便を突きつけ合う政の場のいくさなるものをである。
「私は、モレヤ。諏訪王モレヤにございます」
新王――モレヤ少年は、自らの名を告げると、平身低頭、また諏訪子に向けてひれ伏した。まるで、力尽きて地に落ちた雛鳥のように。小柄なその体格が評定堂の床に頭を擦りつけている様は、どこか強い哀れささえ伴っていた。
「あらためまして申しあげますれば、モレヤ新王は諏訪子さまが出雲人に捕われし後、ミシャグジ諸神とわれら人民とを繋ぐべき者として見出した御玉体。なれど、ご覧の通り、未だ十にもならぬご幼少。政を導くには、いささか若うござりまする」
とは、トムァクである。
「それで、其許たちが支えるか」
「さようにございます」
「では、モレヤとはどこから見つけ出した。と申すのは、父母とか、出自とか、血筋のことであるが」
「お、畏れながら」
と、モレヤ自身が声を張り上げる。
トムァクに代わって、王者の努めを示そうという努力かもしれない。
「私に父は居りませぬ。顔も見たことございませぬ。なれど母については、よう存じておりまする。数多の国めぐりて神霊の御心、その御声を人々に伝えることを生業とする祝にございます。このモレヤは父の名も顔も存じ上げてはおりませぬが、母は“神霊の意によりてそなたを身籠ったのじゃ”と、そのような仰せにございました。モレヤは人と神と、両方の血を引く男子(おのこ)にございます。ゆえ、諏訪子さまほどではないにしろ、ミシャグジ諸神の御心、人々に伝うることできるのでございまする」
相も変わることなき緊張から、途切れ途切れの言葉ぶりであったけれど、モレヤが言ったのはだいたいがそんなところである。「そうか」とだけ諏訪子は答え、少年の出自について了解する素振りを見せた。
「では、モレヤ。ついでと言うては何だが、この場で確かめておきたいこと、ひとつ、ある」
「はい。何なりと」
「今――この諏訪子の膝下には、数十から成るミシャグジの群れが這いまわっているのだが。それが其許には見え、また声が聞こえるか」
「それは……」
モレヤは、言葉に詰まった。
次に何を言ったらいいのか、判じかねている顔だった。
それもそのはず。諏訪子は、嘘を吐いている。
本当は、諏訪子の近くにミシャグジたちなど一柱とて居ない。
彼女自身が何度も実感させられているように、出雲人の城である諏訪の柵は、八坂神奈子を祀ったうえで強力な結界が張り巡らされた、一種の浄域である。微小な崇り神の群れであるミシャグジ蛇神たちはおろか、祟りの司である諏訪子でさえその力を封じられて、見かけ相応のただの少女に成り下がっているのである。出雲人の観念は、『穢れ』というものを極度に厭うのだ。彼らにとっての異邦である東夷の地には、彼らの文化の外にある異神たちが“跳梁”している。それらは出雲人にとっては穢れなのだから、言うまでもなく封じられるべきものであった。
いわば、その穢れを無力化するための兵器である結界のうちには、ミシャグジたちは入り込むことすら許されないし、諏訪子と言葉を交わすこともまたできない。ゆえに、もしも新王モレヤが「ミシャグジが見える」などと言えば――それは単なる巧言であり、さらには端からその身に見神の才なく、豪族たちにとっての“飾り物”に過ぎないということである。こんなにも意地悪い問いかけをしたのは、もしかしたら、神奈子のやり方を知らずと真似ようとしているせいかもしれない、と、諏訪子は嫌々ながらに考える。
だがいずれにせよ……このささやかな問答を通して、モレヤに自分の後継者としての資質なるものが本当に存するのか。その一端を覗き見てみたいという、そんないたずら心が諏訪子にあったことは確かだった。
「どうか。ミシャグジたちの声、そなたも神の血引く者であるなら聞こえるはずぞ」
いっそう、笑みを深くする諏訪子。
モレヤは頬に薄い汗を浮かべ、懸命に心を鎮めようと図っているらしかった。
諏訪子への巧言と牽制に余念がなかった周りの豪族たちもさすがに口をつぐみ、ことの次第を見守っている。稗田の筆音さえも、しばし途絶えたようだった。
「ミシャグジの姿が見えぬか。神霊の声、聞こえぬか」
「諏訪子さま!」
「――どうした」
さっきまでおどおどとしていたのと同じ人とは思えないほど、少年の諏訪子を呼ばわる声は、ひどく鋭い。
「私にはこの場にてよく見えもし、聞こえもします」
そのように、モレヤは語った。
諏訪子は笑んだままだったが、内心ではにわかに落胆が広がる。
しょせん、この子も豪族たちの操り人形として命を使い潰される運命かと。
しかし。
「諏訪子さまは嘘を吐いておいでなのです。モレヤには、諏訪子さまのいたずら心がよく見えもし、またこの場にミシャグジ諸神のおわすという話に隠れた偽りの響き、よく聞こえまする。出雲人の築きしこの城のうちには、われら諏訪の地の力を封じようとする何らかの強き力、あちこちに置いてありまする。こうして息をするだけでも、未だ見たことのない出雲の地の空気が、身体の中まで入り込んでぴりぴりと痛むかのごとくに思われます。そのような場にてミシャグジ諸神の御姿や御声、また御力が現れることなど、果たしてできましょうや。それを御存知のうえで、諏訪子はさま、このモレヤの力をお試しになったのではございませぬか」
諏訪子は内心に驚いた。
どこかで、このモレヤという少年を侮っていた。
しょせん、豪族たちに良いように使われるしか能のない哀れな存在だと考えていた。
彼女がモレヤに告げたのは、ミシャグジがいま自分の周りに侍しているということだけだ。けれど、モレヤは諏訪子が嘘を吐いているという一事のみに留まることなく、彼女がひと言も口には出さなかった出雲人の結界のことまでぴたりと言い当ててしまった。なるほど、豪族たちが新たな旗頭として担ぎあげることはある、と、あらためて驚嘆した。神には遠く及ぶまいが、人の身にしてはそれなりに優れた見神の眼をしているらしい。
諏訪子の嘘を見抜いたモレヤの顔は、豪族たちに遠慮するときとはまるで違い、十に満たない男子にも似ぬ、凛々しくうつくしい輝きを放っていた。どこか、懐かしさすらある輝き。人が神なる存在を想うことを始めた古の時代には必ず見せていた、淀みない畏怖と信仰の表情によく似ていたからだ。
「解った」
諏訪子は厳かにそう告げる。
「このモレヤ新王のごとき力ある者を戴きて、ために諏訪人は不利ないくさにも豪胆さを喪わずに済んだというところであろうよ。なればこそ八坂さまも、和睦に応じる気構えになったものだと儂は思う。あの方は、強き者、何より好むご性分なのだからな」
モレヤは、再び縮こまってひれ伏した。
豪族たちもまた、小さく頭を下げる。
と同時に、「さりながら」と、トムァクが声を上げた。
「さても、このたび諏訪と出雲の和睦が相成ったならば、諏訪の地の新王は八坂神ということになりまする。すると、モレヤさまのお立場はいったいいかなる仕儀となりましょうや。われらはそれを危ぶんでおるのです。今は未だご幼少ゆえ、われら十数の氏族が政の大半を代わってはおりまする。しかしこれから先、世のことについてより多く学びゆかれるうちに、モレヤさまは次代の諏訪を担うほどのお方ともなりましょうものを」
いったんは鎮まった気持ちが、いま再び燃え上がってきた。
トムァクの言葉の裏にある者を、諏訪子は即座に見透かしてしまう。
彼は、さも幼い王を心配する忠義の徒であった。
だが、その実は八坂神が諏訪に覇権を確立することによって、モレヤ新王、果てはモレヤに仕える自分たち豪族の政治的基盤が揺るがせにされることを、何より恐怖している。
和睦を乞いに来たというのは、間違いなく真実であろう。
けれど、内実では諏訪子同様、豪族たちも心から神奈子に服従を誓うつもりはないに違いなかった。隙あらば権力の奪回をうかがい、また新政に自らの存在を楔として打ち込むべく、モレヤの地位保全を押しだして、神奈子自身を交渉の席まで引きずり出そうという腹であろうが。
「八坂神の御厚情に従いて頭を垂れることに、何ら異存も意義もございませぬ。が、諏訪子さまより八坂神にひとつ、和睦についてご相聞をいただきたい願いがございまする――」
ぎりり、と、軋られた歯の音は、トムァクかモレヤか、それとも諏訪子のものだったか。
「モレヤさまの御身、八坂神の元にお預けいたしたいということにて」
「な、に」
諏訪子には、トムァクの真意を読みかねた。
それはつまり――『新王の身柄を人質として神奈子に差し出す用意がある』ということではないか。王に仕える臣の身で、かかる不遜な企てを平然と口にするとはいかなることか。
眉根に皺を寄せ、不快を露わにした諏訪子。
だが、トムァクはなおも“諏訪を案じる忠臣ぶり”を見せ、諏訪子の表情など意にも介さない。
「八坂さまが諏訪を支配されるということは、諏訪の地の隅々までがその御手のうちに漏らさず収まるということ。われら氏族には父祖伝来の土地数多あれど、八坂さまの支配が行き届かば、恭順の証として献上すべき土地は諏訪のどこにもなくなりまする」
「そこでモレヤ王の御身、八坂さまにお預けしたいと言い出すのか」
「さようにございます。諏訪の地が出雲人のものとなるのであれば、幼き王は後の世のため、出雲のことを学び取らねばなりませぬ」
「黙れ、この愚か者めが! 恥を知れッ!」
諏訪亜相にして豪族たちとの交渉役という立場も忘れ、諏訪子は激昂した。
「王に仕える臣下という立場にありながら、こともあろうに王の幼きを理由としてその身を差し出さんと目論むなど、何たる不遜か! かかる横暴やある! 其許たちの申す和睦とは、しょせん、自分たちの身を切ることいっさいなく、誰か別の者を贄として喰わせれば良いと謀ることに他ならぬ!」
激怒した諏訪子の、そのあまりの剣幕の凄まじさに、議論の焦点であったモレヤ自身はひたすらひざまずき、豪族たちは面食らって思わず身体をのけ反らせた。今の今まで冷静だった稗田でさえ、筆を止めて諏訪子にちらと眼をやったほどだった。だが、崇り神の怒りに震える評定堂の空気を吸う者たちの中で、トムァクだけは、相も変わらず傲然とした落ち着きを貫き通していた。
「諏訪子さまのお怒りは、ごもっともございまする。このトムァクにも言葉が足りぬところございました。今いちど、話の要諦を示すことお許しくださいませ」
「奸物(かんぶつ)は、皆、そうやって優しきところを装うのだ」
「奸物も忠臣も、忠言をさえずるものは確かに同じく、この口というものにございます」
何が、忠言なものかよ。
再びの激昂に任せてそのように口走りそうになった諏訪子だったが、
――亜相!
と、かたわらから小声で諌める稗田の声に、ようやくにして落ち着きを取り戻す。
――ご自身のお役目をお忘れでございますか。諏訪子さまは豪族たちとの和睦を任された八坂神の御名代。軽挙妄動は互いの立場を危うくするのみです。どうかあなたさまの本来持つ、諏訪国主としての理知を取り戻してくださいませ。
怒りは、鎮まるというよりも萎えていった。
確かに、稗田の言う通りではある。少し、わたしは豪族たちに対して血気が逸っていたのかもしれないと思わずにはいられなかった。立ち上がりかけた小さな身体を再び床の上に沈め、大きな溜め息ひとつ、吐く。
「……久方ぶりに会うた其許たちだというのに、見苦しきところを見せてしまった。許せ」
「は。諏訪子さまがお気になさることではございませぬ」
「だが、臣下の立場で王を人質に差し出すということが、言語道断の不忠であることに変わりはない。それをどのような忠言とやらで飾り立てるか、トムァク、申してみよ」
声の響きには、未だ少し苛立ちの漣(さざなみ)が残っているのであった。
そして冷徹を貫き通していたトムァクも、――おそらくは自分たちが考え出した秘中の秘であるのだろう策を諏訪子に献じるに当たり、汗と緊張とは抑えがたいようであった。ちらと、彼はかたわらのモレヤを見てから、どことなく厳かな色で塗られた声音で告げる。
「モレヤさまの御身、出雲人に差し出すはただの人質ではございませぬ。われらが意図するは、そもそもモレヤさまのご婚儀のこと」
「婚儀だと」
唐突といえばあまりに唐突な物言いだ。
思わず、諏訪子は小首を傾げる。
「モレヤさまの御玉体は、われら氏族があちこちを駆けずり回ってようやく見つけ出した、比類なき見神のそれでありまする。が、憂うべくことにては、モレヤさまは“男子なのでございまする”」
男子、男子、……声には出さず、諏訪子はその響きだけを頬の裏でひたすらに反芻する。
「よもや――欲しておるのは、妹(いも)の力というわけか」
「さすがの御慧眼、やはり諏訪子さまのお知恵は少しも衰えてはおられない」
「世辞を申すな。だが、妹の力が必要と言うなら、なぜ、ただの巫や祝ではだめなのだ」
「先に申しました通り、われらが見出したなかでは、モレヤさまこそが数多の巫女をも凌ぎて御玉体と呼ぶにふさわしき、ミシャグジ諸神と通ずることできる見神の才の持ち主でありましたゆえ。またもうひとつには、出雲人との縁談取り結び、和睦と成すには歳若き者を王に据える必要がございましたゆえ」
滔々と、トムァクは並び立てる。
「聞けば、八坂神は高き天上の御座より下りし貴き御血筋の末孫とか。なれば、その御血筋のうちからどなたか女子を賜り、諏訪人と出雲人のあいだに良き縁を取り結びまする。後にモレヤさまの血を受け継ぎし女子がお産まれになれば、その子の霊力はまことの妹の力となる。これこそ、両者の絆をいっそうに深めるための上策かと考えた次第にございまする」
『妹の力』――というのは。
男よりも、女の方が神霊に対する感受性ははるかに強いという、そんな概念のことを呼ぶものだ。ゆえに卑弥呼は男に治められなかった邪馬台国を統治し、巫女は諸国を歩き、神霊とその心を通じて恍惚のうちに神意を人々に伝える。
また、大人よりも子供たちの方が人よりも神に近い生き物で、ために現世から離れやすく、命を喪いやすいともいう。無事に生きて七つを過ぎれば、あらためて人の世に迎えることができる。後世には、そのようにも考えられた。
トムァクを始め豪族たちが意図していたのは、そうした妹の力を持つ者たちの中でももっとも優れた人物を自らの手のうちに置いておくことだというのは、容易に想像できた。それは取りも直さず、侵略者の怒りに震えるミシャグジ蛇神の言葉を代弁させ、自分たちのいくさに正当性を取り戻すための何よりの装置であったはずである。
さらに、また――もし万が一、いくさに敗れでもしたときのために。
政略結婚のための人質として、和睦の際に利用する腹があったということだ。
なるほど、と、豪族たちの小狡い計略には、諏訪子とて思わず膝を打たないわけにはいかなかった。己の保身のことに関してなら、まったく神の叡慮をも容易に上回って見せる者たちである。
モレヤ王は男子ゆえ、いずれ成人して見神の才を喪うことになる。
そこで、そうなる前にモレヤと出雲の女子が夫婦になる。
すると諏訪王と出雲人は縁続き。やがては子も産まれることだろう。
よもや出雲人とて、縁戚となった者を無碍に扱うほど鬼畜めいた集団というはずもない。
モレヤの子の地位が保証されるなら、その家系の臣たる豪族たちにも旨味はある。
旗頭として祭りあげ、戦いに負けたら人質に差し出して恭順を誓い、あわよくば政略結婚を経て、出雲人が諏訪に敷くであろう新政に喰い込むつもりでいる。それに、もし人質を殺せば出雲人はその不誠実を天下に晒すことになり、豪族たちは復讐として出雲人を攻撃する格好の大義名分を得るかたちになる。モレヤという少年は、戦いに勝っても負けても、生きても死んでも、諏訪豪族たちに何らかの益を必ず残す仕組みではないか。
「斯様な策を弄し、其許たちは八坂さまの御機嫌を取り繕うてしまうつもりか」
「あ、いやいや。それはあまりに人聞きの悪い申しよう。……諏訪子さまからも、ようご検討くださりませ。これらの策は、われら氏族が知恵を絞りて考えだした窮余のもの。ひとえに、諏訪の地に永劫の安寧もたらさんと願うがため」
にんまりと笑ったのは、トムァクひとりではない。
禿げ頭のコログドも血気盛んなトライコも、いやすべての豪族たちが、老獪さをその内に秘めた冷酷な微笑を浮かべていた。くうッ! と、諏訪子は唸りを上げたい気持ちに駆られ、しかし、寸前のところで思いとどまった。やはり、策略では豪族たちの方が一枚上手だったのかもしれない。『まつろわぬ者は討ち、恭順する者は味方にする』という八坂神奈子の信条では、豪族たちが差し出す人質を要らぬと拒絶することもできないし、今の段階でその権勢を完全に削ぎ落すことも難しい。残虐ないくさ神であるように見え、その実、彼女は変に憐れみ深いところもあるのを、この数月で諏訪子はよく解っている。
実情においてひとまずの負けを悟った諏訪人と、一刻も早く諏訪の民心を鎮めたい出雲人は、和睦を結ばないわけにはいかないだろう。その結果が今日の会談である。今は未だ、諏訪子が神奈子にも諏訪豪族たちにも与することなく、王として独り立ちするにはあまりに尚早すぎたのだ。膝の上で強く握り締めた手のひらに、鈍い痛みが奔っていた。われ知らず、爪が肌を引き裂いてしまっていたのかもしれない。
だが、そんな“負けいくさ”の中でも、諏訪子にとってさいわいなことがあるとすれば。
「和睦は、結ぼう。それが八坂さまの御叡慮に基づく王命でもある」
「は。ありがとうございまする」
「しかし、モレヤの婚儀に関しては、諏訪子の一存にてはさすがに決めかねる。其許たちの望みどおり、あらためて八坂さまに言上致し、後日、また詮議の場にかかることにもなろうよ」
――――自分が、しょせんは神奈子の名代でしかなかったことだった。
諏訪亜相の官とはいえ、豪族たちからの政略結婚の提案について、直ぐさま首を縦に振るほど愚直な性格でもなかったことだ。
「では、最後にもうひとつだけ。此度、八坂神は諏訪における新政発足の詔(みことのり)を発し、後には国情視察のために行幸を行われるとか」
「うん。そのような話、儂も聞いた」
ならば話が早い、とばかりに、ずいとトムァクは身を乗り出す。
「行幸の後には八坂神をこの私、トムァクの邸にお招きいたし、当地にてモレヤさまとの御対面、またささやかながら歓待の宴を催したいと考えておりまする」
宴……何でもない響きのようである。酒も食い物も、豪族たちのよく肥え太った倉から供出されるとなれば、これ以上もない神奈子への恭順の証となるだろうが。先ほどまで話を聞くばかりだったモレヤは、ようやくやって来た平和な事柄の話に、無邪気な微笑みを見せた。諏訪子も、モレヤの笑顔にいら立ちを吸われてしまったのかもしれなかった。「そのようなことであるなら、」。神奈子さまもお喜びに、と言いかける。しかし。
――なりませぬ、亜相。
再び、かたわらの稗田が筆を走らせつつ眼を遣った。
――なぜか、稗田。
――漢朝の高祖劉邦、楚の項羽に先駆けて咸陽入城を行うたために彼の怒りを買い、鴻門(こうもん)の会の宴にて、危うく命奪われるところであったという故事がございます。命奪われるほどのことでなくとも、敵地の宴にはどんな謀あるものか、一様には判らぬもの。ここは、どうか豪族輩の口車に乗らぬよう。
……と、再びの稗田舎人の諫言であった。
言われてみれば確かにその通りである。宴の席で謀を巡らすのは、むろん、諏訪子自身にも神奈子暗殺未遂という心当たりがある。政略に明るい王を演じるのであれば、断固として豪族たちの言葉を退けるべきであっただろう。
けれど。
諏訪子には、ここに至って妙に子供じみた意地が顔を出し始めていた。
元が、神奈子の権威を利用して豪族たちの権勢を削ぐのが目的だったのだ。
それが新王モレヤの人質策だとか政略結婚だとか、結局は良いように押しきられてしまっているではないか。あたかも未だ自分が諏訪の王として、豪族たちと日々顔を突き合わせ、思い通りに動かすことのできない政に歯噛みしていた、あの屈辱の時代のようにだ。それが嫌だったから、異邦のいくさ神である神奈子に頭を下げてまで、豪族たちに暗闘を挑もうとしていたというのに。その志は未だ消え去っていない。むしろ、つるぎではなく針の先のような痛みだけでも、一矢報いることとして与えることができれば良かった。
早い話が、今の諏訪子には豪族たちの新たな要求を飲み込むつもりはない。
そればかりか、稗田の諫言さえ素直に受け取る気もなかった。
彼女が、凛としたものを取り戻して一座を見回し語ったものは、
「解った。新政発足を祝う宴のこと、この諏訪子から八坂さまに、よう取り計らっておく」
という宣言であり、また直ぐ、
「ただし。此度の宴は其許たち氏族における誰の邸でもなく、この諏訪子の地にて行うこととせよ」
とも、言ってのけた。
「は、はあ……」
困惑したのはトムァクを始めとする豪族たちばかりでない。
モレヤもだったし、諫言を退けられた稗田までもが、生ぬるい秋の風みたいな腑抜けた声だけ出して応じるのだった。
「あらためて申し伝える。諏訪の地にて新政発足を祝う宴席の儀、これを、わが諏訪御料のうちにある、諏訪子の御所において催すが良い。儂の立場は八坂さまの名代にして、発する言葉はすなわち、八坂さまの御叡慮に基づく王命であると心得よ。モレヤの身柄と婚儀に関しては八坂さまに言上致す。また、宴は諏訪御所にて執り行う。以上が、こちらから其許たちに示す和睦の条件である」
「しかし、それは……」
「トムァク。其許もまた、己を忠臣と称するのであれば、いたずらに自らの権勢を誇るものでもあるまいよ。われら諏訪人は敗者なのだ。勝者に睨まれるようなことをせず、肩をすくめて生きていく覚悟持て。大蛇に相対した一匹の蛙がごとくに」
脂汗にまみれたトムァクの顔に、さっと朱が差したように見えた。
あからさまな赤面である。
一方、己の言葉とは裏腹に、諏訪子の顔はひどく誇らしげなものが輝いていた。
横目でではなく、首をひねってはっきりと彼女を見定める稗田は、ただ苦笑交じりの息を吐き、墨をたっぷりと含ませた筆を、硯の上で幾度も弄んでいる。
それから――。
ひれ伏した豪族たちのさなかにあって、モレヤだけは面を上げ、諏訪子の姿を見つめていた。憧れと畏れがない交ぜになった、小さな子供の眼で。敗者たちの中の勝者になろうとする、自分にとってただひとりの味方かもしれない少女に向けて。
――――
夕暮れが近づくころになると、かあかあと呑気に鳴いて飛び回っていた鴉たちも、各々、山の中にでもあるのだろう“ねぐら”に向けて空を這っていく。
あれらの鳥たちも、地を歩くことしかできない人間の目から見れば、何の束縛もなき自由な生き物に見える。だが神である自分にすれば、日々を生きんとして汲々とし続ける者たちでしかない。大きな翼で空を飛ぶのは、天敵から逃れたり、見つけた獲物の元まですばやく飛び来たるためでもあろう。鴉の言葉は解らないけれど、だから、鳥たちがやっていることは人間とさして変わらない。人間には走るべく脚が生え、いくさのために武器を取るべく手が生えている。策を弄するために頭があり、それを表すために口がある。それもこれも、すべて自分たちが生きるために違いないのだ。戦いだけが、生き物の道理だ。
粉まみれになった右の手のひらに一羽の雀を乗せながら、諏訪子はずっとそんなことを考え続けていた。神奈子の行宮の、真ん前でのことだ。左手の小袋には、穀物を挽いて潰した粉が未だ半分ほど残っていた。舎人とか兵とか、いろんな出雲人に頼み込んで少しだけ分けてもらったものである。倉の中にあるものは、たとえ米のひと粒さえも糧食として大事なもののはずだったが、亜相の頼みとあらば断わり切ることもできなかったと見える。どういうわけで穀物の粉を欲しがるのかは絶対に教えなかった。今こうして鳥どもに餌として遣るためだと聞いたら、彼らはきっと怒るだろう。
「もう食べぬか。食べぬのか」
通じるはずもない人の言葉に、諏訪子の手のひらで粉をついばんでいた雀は小首を傾げる。なぜか、この小鳥だけは大人しかった。餌を見つけて一緒に下りてきた他の雀や鴉たちは、みな諏訪子に驚いてさっさと飛んで行ってしまったのだが。
そんな一羽の雀もやがて満腹したか、それとも諏訪子以外の誰かの気配を鋭く察したせいだろうか。少女の姿をした神の後ろに、もうひとりの人物の影を見て、ふらつきながら忙しなく飛び去っていった。ざり、ざり、と、諏訪子はもうすっかり聞き慣れた足音を感じる。
「何をしている」
「城に飛び来たる鳥どもに、餌などやっておりました。雀とか、鴉とか」
やって来たのは――案の定、八坂神奈子である。
今は、腰につるぎを佩いていた。
だが、いくさ神らしい威厳はどことなく薄れていて、声音はまるで古い友人に話しかけるように穏やかなものであった。
「舎人どもが、穀物の粉を亜相が持って行ってしまったと騒いでおったが、なるほど、鳥と戯れるためか」
「いけませぬか」
「小袋ひとつでも、糧食を倉から持ち去った者は本来なら死罪。上に立つ者が法を曲げれば下々には示しがつかぬ。亜相が、貧しい諏訪人に施しを行うためだとか何とか、今回だけは皆に申し伝えておく。だが、次はないと思えよ」
そう言って、神奈子は城の廊下と中庭とを繋ぐ階に腰を下ろした。
つるぎを押し包む鞘の先が、階の端にぶつかってがちゃりと音を立てる。
諏訪子は、神奈子の行宮を取り囲む庭の、その真中に立って鳥に餌を遣っていた。
が、餌を撒くべき鳥たちはもう一羽も居ない。喰い残された餌が、地面のそこここに散らばっていた。右の手に残った粉を払いながら、あらためて神奈子の顔へ向き直る。厳しげな言葉とは裏腹に、彼女の表情は優しげだった。「だが、鴉か」と、神奈子は呟く。
「鴉を手なずけるは、まことに縁起良きことだ」
「どうして」
「われら出雲人の主上たる大王の、地上における始祖となりし神武大王(じんむのおおきみ)は、そのいくさのさなか、八咫鴉と申す三本脚の鴉に導かれたことがある。そして、後には今に繋がる強き国をおつくりになられたのだ。大陸に龍や鳳凰といった瑞獣あるごとく、出雲では、鴉を尊ぶ風もある」
左手の小袋を軽く揺らしながら、――諏訪子は神奈子の隣に腰かける。
「なんと面妖なこと」と、彼女は笑った。
「三本脚の鴉とは。まるで、物の怪のごとき姿」
「その辺を飛び回るただの鴉とて、長の生を経れば、ひょっとしたら何か霊感を経て八咫鴉のごとき霊鳥に成らぬとも限らぬ。その兆し見つけることできれば、嬉しいものであるがな」
すると、諏訪子は堪え切れずにまた笑う。
「崇り神に飼い慣らされし霊鳥があるなら、いずれ出雲人を殺しましょう」
やれるものならなあ、と、今度は神奈子がよりいっそうに笑みを深くした。
だが、急に本来の彼女らしい締まりある顔立ちに戻る。諏訪子は、神奈子の顔を視界に納めぬまま、直ぐにそれと理解した。頬杖を突いた神奈子は、ぼやりとした口調でありながらも、強い意思を放っている。
「諏訪子。豪族たちの和睦についてだが、稗田の書いた記録を読んだぞ」
「ご期待通り、諏訪豪族たちとの和睦を取り結びて参りましたが、何か」
「連中が人質のひとりやふたりを差し出して来ようとは、予想し得なかったわけではない。……よもや、幼き王自身をこちらに差し出そうとするとは思わなんだが」
溜め息をひとつ吐き、
「諏訪子も、人質にございまする」
と言った。
「そうだったか。忘れていた。亜相の官を授けたのだから、とっくに私の味方に成りきったのだと思ったが」
この神奈子は、どこかとぼけている。
そんな風に諏訪子は思う。
諏訪子にとって、八坂神奈子はもっと怖ろしい者でなければならないはずであったというのに。
「人質の件は、受ける。こちらが使える駒は多ければ多いほど良い。だが、直ぐに婚儀まで結ぶは短慮というもの。まずは臣どもと十全なる協議を重ね、そのうえで出雲本国にもお伺い立てねば何もまとまるまい」
「は。ありがとうございまする」
「なぜ、そなたが礼を申すのだ」
頬杖を解き、神奈子は姿勢をにわかにぴんと張る。
「しかしな。よくもまあ元が敗将の身で、新政発足の宴をこの神奈子の行宮でなく、自らの御所で催すべく取り計らえなどと……大口を叩いたものよな」
「豪族たちに良いように要求を呑まされるのは、甚だ業腹であるゆえ、せめても連中の面目を潰すことだけ考えておりました。いくさに負けてもなお権勢残すが諏訪豪族たちの目論見なれば、邸のうちでの宴ひとつとっても、征矢幾千に値する、己が力の誇示となりましょうから」
ただの派手好みでなしというわけかよ!
神奈子は、かッかと大笑したのであった。
「諏訪子の御所で宴を行うことできれば、力を失うまいとする豪族たちへの牽制となる。さらにわれらは人のかたちに化身しているが本分は神にて、人民よりさらなる信仰を得る契機ともなる。だが、――そのすべては、この八坂神奈子の庇護の下でのこと」
ちらと横目で隣を見遣った諏訪子だったが、神奈子はこちらを見なかった。
「それだからこそ、此度、諏訪子の策は成る。豪族たちを牽制するために御所での宴を催すのであれば、それを取り仕切らねばならぬは、そなたを庇護する私であろう。そして、いくさで荒れ果てた諏訪御料や御所の再建を行うのも、出雲人の手によりて、だ。いくさを終え新政発足で忙しい、今この時に。しかも諏訪亜相の名を使うて命じた以上、表向きには、諏訪子こそが出雲人を手足のごとく使う王であると、諏訪人の目には映らぬこともない。どうだな。当たっておるか」
ようやく諏訪子の方を見、神奈子はずいと身を乗り出した。
大柄の彼女の眼が、小柄な諏訪子とずっと近くなる。
神奈子の息は、少しだけ酒のにおいがした。
でも諏訪子は、何も答えない。
沈黙に耐えられなくなったのは神奈子の方だった。
どこかばつが悪そうに顔を離すと、ただひとりで得心が行ったというようにうなずいてみせる。
「諏訪子、そなた……この八坂神に心底から従うつもりなど、端からないのであろう」
どきりと背筋に一条の震えが走り、諏訪子は身をこわばらせる。
「かと言うて、正面から叛くのも愚かと思うておる。だから、今は私の力をつるぎとして借り受け、自らの政の障壁となるものを除く。自らの政を壟断していた諏訪豪族たちを。否、おそらくは、いずれ出雲人の存在さえも」
ゆっくり、――と、いちどだけ諏訪子はうなずくことをした。
「やはりか」とだけ神奈子は答える。「殺しまするか、諏訪子を。この首、刎ねてしまわれますか」。そんな露悪的な問いにも、神奈子は「ばかなことを。行宮で首刎ねれば、血は大いなる穢れとなりてわが身を蝕む」としか答えなかった。しばらく、沈黙だけがふたりを包んでいた。日は西の空に沈みゆき、昼そのものもやがて消え去っていく。冷たい夜がふたりの王を、いくさ神と崇り神を待ち構えていた。
ようやく神奈子が“続き”を口にしたとき。
もう昼の痕跡は、西の空の最深にしか残っていない。
「神奈子は、諏訪子を殺さぬと決めたのだよ。かつて言うたであろう。私は利用できるものは利用する性分でな。それが天候であれ、地勢であれ、時の運というやつであれ。王にして神というそなたの存在も、その武力も野心も、私が諏訪に新たな国つくる礎とする。それに、」
私は、そなたが好きなのだ。
と、諏訪子には聞こえたような気がした……のだけれど、あまり早口だったので、本当にそんなことを神奈子が言ったのか、判らずじまいだった。夜の暗みに取り込まれて、神奈子の顔はぼんやりとしか見えなくなっている。「そうでございますか」と、だけ、諏訪子は答えることにした。
「そのような者、傷つけることできようか」
と言うと、神奈子は腰のつるぎをがちゃりと言わせながら立ち上がる。
数歩も歩いて、中庭の真ん中。未だ日が落ち着る前、諏訪子が鳥に餌を撒いていた場所に立つ。相手に対して背中を晒す、まったく無防備な姿だった。いま諏訪子がその気を起こせば、真後ろから神奈子に襲いかかることも当然できる。けれど、もう彼女にそんなつもりは微塵もない。怖ろしいのか。それとも初めの志を失ってしまったのか。否、そのどちらでもないし、そのどちらでもあった。諏訪子は神奈子のことが怖ろしいし、国と政を取り戻すという目的だって失ってはいない。
ただ、今は、――この八坂神奈子といういくさ神は、恨みひとつで討つには惜しい。
野心や志まで含め、そう思えるようになっていた。
「八坂さまの申されたこと。すべて本当のことにございまする」
諏訪子もまた階から立ち上がり、神奈子の数歩うしろに歩んでいった。
首だけ振り返り、いくさ神は怪訝そうな顔を崇り神に向ける。
「わたくしが亜相の官を受け、また豪族たちとの折衝の任を受けたは、すべてあなたに取り入り、いずれ諏訪の政をわが手に取り戻すため」
「観念したか。死なずに済むと知って」
「侮りなさるな。斯様に浅ましきこと、諏訪子は考えておりませぬ」
語りながら歩みを続け、神奈子の隣に諏訪子は立った。
「八坂さまに八坂さまの政のあるごとく、諏訪子にも諏訪子の政がありまする。なれど、根の部分で思うているところは同じと信じたい。永劫の太平をもたらし、国を豊かにせんとするという」
何か気づかされたように、神奈子は諏訪子の顔を真正面から見据える。
彼女は――初めてふたりが相まみえた晩、自らの理想とする王道の政を説くときと、まったく同じ表情をしていたように見えた。
「まことに恐れがましきことではある。なれど、このわたしに諏訪子の名を与えしほどの決意あるならば、ただ東国の異神を懐柔する手段としてではなく、どうかひとりの王として誓うてはいただけませぬか。今このときより、諏訪子と神奈子とは、新たなる諏訪の国つくり、共に目指す盟友であると」
吹き渡る風は、初夏のそれであるがゆえに生ぬるい。
諏訪子は、決してひざまずかなかった。頭さえ下げることはなかった。
ここに居るのは、戦いにおける勝者と敗者だ。だが、同じ志を持つ者というなら、そこに勝敗などどうでも良くなる。神としての知恵とか老獪さに関わりなく、ひどく青くさい理想を欲しがる少女に、今の諏訪子はなっている。だから、風は等しく吹かなければならないものなのだった。勝者と敗者の肌を等しく撫で、同じだけの感慨を抱かせる風でなければ。
「諏訪子が神奈子の味方であると、証を示すもの、どこにある。悪くすれば、またあの晩のごとく毒刀を秘めた荊軻として、そなたがわが前に立ちふさがらぬとも限らぬではないか」
そう問うた神奈子の問いにも、
「証など、どこにもございませぬ」
と、諏訪子はなに疑うこともなく答えた。
「しかし、もし諏訪子を敵だと思うたならば、その腰の御剣で容赦なくこの首をお打ちなされませ。もしわたしが八坂さまを敵とするなら、今度こそミシャグジ数万の祟りが降り注ぎましょう」
ふるふると、神奈子の頬が歪むのが解る。
可笑しいのだ。彼女は、可笑しくてしかたがない。
「一方が王道誤りしときは、もう一方が相手を殺してでも、まことの王道に立ち戻らせる。これでいかがか」
「刃向け合うが、われらの誼(よしみ)か。殺伐としたことだ」
「片や崇り神、片やいくさ神。そのような者たちが刃向け合わぬことに、いったい何の面白きことありましょうや」
神奈子は、もう大笑しない。
愉しげに笑みを滲ませ、はああ、と息を吐き出すだけだ。
諏訪子もまた笑んだ。まるで、神奈子とそっくりな顔で。
ふたりが同じ笑みを見せるのは、たぶん、これが初めてだった。
「困ったな。東夷の王を懐柔するつもりが、逆に懐柔されてしまうとは」
「憎まれ口なら、今のうちに存分に叩いておかれるのがよろしい。後々になってから好き勝手なことを申されるのは、諏訪子にとっても良い迷惑」
「何を」
互いに互いのことを口々に罵りながらも、嫌悪だけは決して湧きあがってくることはない。ただ心強く、そしてわけもなく愉快だった。神奈子というやつとなら、何か大きなことができそうな気がしていた。それが何なのかは解らない。『大きなこと』を成し遂げるためには、多くの時間がかかるだろう。眼に見えぬ血を流すこともあるだろう。それでも諏訪子は、自分の決断が間違っていないと思いたかった。利害の一致というさいわいを経、この出会いを得たことも。
「ならば征くぞ、諏訪子。われらのいくさは、諏訪の地に跳梁する無数の“化け物”を相手にするのだ。私のつるぎをそなたが振るうごとく、そなたのつるぎは私が振るう。八坂神奈子も、諏訪子と同じくそれを望もう」
(続く)
かなすわの来歴を上手く史実の型にはめて落とし込んでいる傑作。一手もサボることなく折衝の様を書くのは実に心の折れる業だったと思います。
ばたばた袖を振る諏訪子やら男より漢らしいプロポーズをかます神奈子やら一切筆色を変えぬまま混ぜ込まれる表裏ない所作が良いアクセントになっています。バランスもいい。
続編を待ちます。
続編が楽しみです
そして続きも待ってます。
わりとどうでもいいことかもしれないけど、序盤の諏訪さまより豪族達の方が出雲の政について詳しくて忠臣奸臣とかの話題にも通じているのな。ちょっとびっくり。
この筆致のまま続編が出されるというのなら期待せずにはいられません。首を長くして待ちます。
みたら なんか クルものがありました 完結編読んだらもっとクルんだろうなぁ(チラッ
期待せずには居れない。
このレベルで作り上げられたこと自体に感服しました。
続きを期待しております。
続きがあってもなくても文句なしと思える作品は久しぶりです。
今日は貫徹です。(現時点で四話まで。朝までに読めるかしら?)
こういう古典的で、なおかつ壮大な話はまるで歴史書を読んでいるかのよう。
とてもワクワクします。
すごい。