※小傘が居候中です。それ以外で前作に関わるところは殆どありませんので、過去作はお読み頂かなくても大丈夫です。
冬も開け、暖かな日差しが差し込む春の守矢神社。
山の上であるが故に冬は雪も凄く非常に寒かったのですが、この季節ともなればそれも嘘のように温かくなります。
まあ、なんだかんだで幻想郷に来てから何年も経つので、今更な話なんですがね。
さて、春先ともなれば、私も守矢神社の風祝として忙しくなるのですよ。
冬の間はろくに下山も出来ず、布教活動も滞っていましたから。
この冬の間に、道教を信仰する仙人達が復活したため、商売敵も増えてしまいました。気合を入れていかないといけません。
……こらそこ、一時改宗したくせに、とか言わない。
とにかくまあ、冬の間に出来なかった布教活動のため、そろそろ人里に下り始めなくては、と思ったのですが……。
「早苗……寒いよぅ……」
「そうですねぇ……春はまだなんでしょうかね……」
私と、守矢神社に居候中の唐傘お化け、多々良小傘さんは、春先だというのに神社の炬燵に動きを封じられていました。
小傘さんが居候し始めた経緯が気になった方は過去作をご覧ください。もう一年以上住み着いてますが。
このまま私のところに永久就職してくれませんかね。
「もう4月半ばだって言うのになんでこんなに寒いんだろうね……」
「知りませんよ、神奈子様は低気圧がなんだとか言ってましたけど……」
守矢神社には乾を創造する神様がいますが、天を造る神も気温までは操作できませんからね。
天候くらいは操る事は出来ますが、基本的に神奈子様は天気を無闇に変更することはしませんし、つまり寒い時は寒いままなんです。
まったく、これだからダメ神様は。
「しかし、こうも寒いと外に出る気も起きませんね」
「そんな格好してるからじゃないの?」
「この袖は守矢神社の伝統なんですよ」
「えっ、そうなんだ……」
いやまあ、嘘ですけど。
しかし小傘さんに間違った知識を植えつけて、まるで私の手で汚してしまうようなこの感覚、やめられません。
そんな風にして、小傘さんと他愛もない時間を過ごしていると……。
「あれっ?」
ガランガラン、と、拝殿の方から大きな鈴の音が聞こえる。
つまりは誰かが参拝に来たということなのでしょうが……。
「こんな寒い日に、おかしな人もいるものですね」
「それって神社の巫女が言う台詞なの?」
「この幻想郷では常識に捉われてはいけないのですよ」
もう何度使ったか判らない台詞を吐きつつ、こんな日に参拝に来たという人が気になった私と小傘さんは、拝殿へと足を運ぶ事にする。
元より私たちが主に使っていた部屋は、拝殿の見える社務所のすぐ裏にあるので、一分と掛からずにそのおかしな参拝客の姿を確認する事が出来ました。
パン、パン、と二拍手し、手を合わせ深く祈念を込める、薄紫色の髪のどこか大人びた感じのする女性。
二拍手する時の手の打ち方や、その後に祈りを捧げるその姿は、風祝である私の目から見ても非常に綺麗なもので、それがいっそう彼女の大人っぽさを増徴させる。
だけど……あれっ? なんだか様子がおかしくないですか?
一分くらいずっと見ていたのですが、その女性は手を合わせたまま、次の動作に移ろうとしません。
守矢神社の拝礼は二拝二拍手一拝が基本だから、その後にもう一度礼をしなくてはいけないのですが……。
それに、祈りを捧げる女性の顔には、僅かながら汗が浮いているように見えますし、目元もなんだか辛そうですね……。
「あれ、あの人って……」
小傘さんが何か言おうとした、その時……。
「あっ!!」
参拝客の女性は突然、私たちの見ている前でばたりと倒れてしまう。
「だ、大丈夫ですか!?」
私と小傘さんは、慌ててその女性の下へと駆け寄る。
抱えあげたその女性の顔には大量の汗が浮かび真っ青になっていて、このまま放っておくのは危ないというのがすぐに判るほどでした。
「小傘さん! 私がこの人を運びますからすぐに客間に布団を!」
「あ、ちょ、待って早苗!」
ああもう! こんな時にどうしたんですか!
「その人は――……!!」
……えっ……?
* * * * * *
「……んっ……」
「気が付きましたか?」
「あれ、私は……」
場所は変わり、守矢神社の客間。先ほどの事から一時間ほど経って、漸く参拝客の女性が目覚める
小傘さんにストップを掛けられたとは言え、倒れた人を安静にさせておく場所は此処が一番ですから。
ただし、布団は敷いていません。枕だけですね。それと……。
「……あら、随分と涼しい場所ね」
「冷房の設定温度を限界まで下げましたからね……」
主に寒さによって震える声で、そう返答する。部屋の中でもマフラーと手袋を装備するくらいに寒いです。
核エネルギーによって電気機器が使えるようになったのはいいのですが、なんだって寒い日に限界まで冷房をフル運転させなくちゃいけないんでしょうね。
それはまあ、目の前にいる女性のためなんですが……。
「それより、気分は如何でしょうか?」
「おかげさまで良くなったわ。私はレティ、レティ・ホワイトロック。迷惑を掛けてしまってごめんなさい」
深々と頭を下げる、参拝客の女性……レティさん。
尤も、実は既に名前は知っていたんですがね。先ほど小傘さんに聞かされて……。
「私は東風谷早苗、この神社の風祝です。
それよりも、雪女であるあなたが、どうしてこんな雪もない春先の神社に……?」
「あら、私の事を知っていたの?」
「勉強熱心な妖怪が住み着いているものですから」
私の言っている事が理解出来なかったのか、レティさんは首を傾げる。
ちなみにその勉強熱心だけど正しい知識は身に付けない唐傘お化けは、今は冷たいお茶を入れているところでしょう。
「よく判らないけど、そうね。私も春になってから外を出歩くのは、長生きしてきた中でも殆どないから」
長生きしてる……大人びた雰囲気といい、なんだか格のある妖怪なのでは、と思ってしまいます。
「私も雪が降ってない日に雪女を見たのは初めてです」
「あら、私以外にも雪女を見た事があるの?」
「いえ、ありません。だから初めてなんですよ」
軽い冗談を言うと、レティさんは口元を隠して上品に、静かに笑い返してくれた。うーん、やっぱり何処か大人の余裕のようなものを感じます。
「お祈りしたい事があるなら、冬の間に来たほうが良かったんじゃないですか?
雪女の事をよく知っているわけではありませんけど、あなたにとってはこの気温でも暑いくらいなのでは?」
先ほどのレティさんの様子は、まるで熱中症になった人のようでしたからね。
私や小傘さんにとっては肌寒く感じるくらいでしたが、雪も残らぬ気温ではありました。レティさんにとっては、それでも辛かったのでしょう。
しかし体感気温はあまり変わらないでしょうに、外と内とでレティさんの様子にだいぶ差があるのは文明の利器の力か、単に太陽がないからか。
「そうね、おかげでさっきも気分が悪くなって……。
でも、この時期じゃなければこんなお祈りは出来なかったから。と言うより、お参りする時間がなかったと言うべきかしらね」
えっ?
時間がないって、確かにレティさんは雪の降る冬に主に活動する妖怪なのでしょうから、普通の妖怪に比べれば時間は限られているかもしれません。
ですが、お参りするだけならば一日もあれば出来ることでしょう。わざわざ熱中症覚悟でこんな季節に御参りするより、一日だけ冬の間の時間を空けたほうが……。
「そうまでして、いったいどんなお祈りを? もし力になれるのであれば、直接神社の御祭神に申し上げておきますよ?」
ハサミとなんとかは使いようですから。
「ありがとう。だけど、たぶんどうにも出来ない事よ。私の存在そのものに関わる事だから……」
……これはまた、随分と重い理由を抱えていそうですね。
だけど、この神社に仕える風祝……そして現人神として、参拝者の悩みを見過ごす事は出来ません。
おせっかいな事かもしれませんが、私も一応神様みたいなものですから。
「やらないで後悔するより、やって後悔した方がいいと思いますよ」
もっといい言葉はなかったのか私。自分で自分に突っ込んでしまった。
「そう……それなら……」
そんな言葉でも、レティさんには納得していただけたようだ。
さて、レティさんはいったいどんなお祈りを……。
「……来年もまた、あの子達と一緒に遊べますように」
……何処か遠くを見ながら、レティさんは静かにそう言った。
「あの子達、と……?」
「ええ、ちょっと馬鹿な妖精と、その子の友達達と、ね……」
それはまた、レティさんの大人びた雰囲気に似つかわしくないお祈りですね。
それに、レティさんは雪女ですよね? 妖怪と妖怪と言うなら判らなくもありませんが、妖怪と妖精が……?
「意外に思うかもしれないけどね。私自身も、最初はあの子達の事を煩い妖精くらいにしか思ってなかったから。
それに、私は雪女。気温が低くて寒い冬の日を、さらに寒くする存在。暖かい場所が好きな妖精には、好かれない妖怪だから……」
確かに、それも少々気になりますね。
寒い日を好む妖精なんて、私は今のところ一人しかいません。
尤も、知り合いって程でもないですけどね。非想天則の一件の時にちょっと弾幕ごっこをした程度ですし。
えっと、確か名前は……。
「だけど、その子は凄く変わった妖精だったのよ。妖精の癖に寒いのが大好きで、自身も氷を操る能力を持っててね」
……あれっ?
「妖精の癖に『あたいは最強なんだから!』とか、いつもそんな事を言ってて……。
妖精の中では確かに強い方なんだけど、妖怪から見れば全然まだまだ。他の妖精達も、呆れてばっかりなのにね」
……あの、ひょっとしなくても……。
「……その妖精、チルノって名前なんじゃないですか?」
「あら、知ってるの?」
「え、ええ、まあ以前ちょっと……」
やっぱりあの妖精の事だったんだ……。
あの妖精とレティさんに差がありすぎて、まさか関わりがあるだなんて思いもしませんでした。
「どうして目を逸らすの?」
「お気になさらずに。続きをオネガイシマス」
あの時弾幕勝負でボコしちゃった事は黙ってよう。
「……? まあ、いいけど……。
とにかく、最初に逢った時もいきなり突っかかってきてね。周りの友達たちが必死に止めるのも全然聞かないで。
まあ、妖精の癖に生意気だとか思っちゃって、つい本気で戦っちゃった私も私だった気もするけど……」
あら、レティさんって意外と熱くなりやすいんですかね? 雪女なのにちょっと意外です。
「それで、その勝負は?」
「圧勝だったわ。自分で言うのも難だけどね」
……まあ、聞くまでもありませんでしたね。
チルノさんも同じかもしれませんが、冬は雪女であるレティさんのホームグラウンド。
妖怪と妖精の地力の差から言っても、レティさんが負けるとはとても思えません。
「だけど、チルノは私に負けても『今日は調子が悪かっただけなんだからね!』とか言い始めて……」
ああ、なんだか物凄くリアルに想像出来ます。
「そうしたら次の日も、その次の日も、毎日のように私に挑みに来るようになって……。
私が何度勝っても、その都度明日こそ、明日こそって……一週間過ぎた頃には、もううんざりしてたわね」
気持ちは判りますよ。私も小傘さんに対して、最初は似たような感情を覚えましたからね。
そんなところが可愛らしく思えて、今では同じ屋根の下で暮らす仲になりましたけど。
居候してるだけなのに如何わしく言うな? 知りません小傘さんは私の物です。誰にも渡しません。
「そんな時、ちょっと思ったのよ。私がわざと負けてあげればあの子も満足するかもしれないのに、なんで私は本気で戦ってるんだろうって。
最初は妖怪として、妖精に負けるだなんて許せない。そんなプライドからだと思ってたんだけど……。
別に私は、元からそんな事に拘る性格じゃなかったし、だけど最初に逢った時から、何故かずっと本気で戦ってて……。
そう思いながら次にチルノと逢った時に、ちょっとだけチルノが輝いて見えたような気がしたの」
レティさんは静かに目を閉じた。これからの事が、きっと今までの話の核心なのでしょう。
「どんな相手にだって全力でぶつかって、誰よりも強くなりたいと思うその姿は、私が忘れてしまっていたものだった。
冬以外の日でも生きていられるように、そんな無謀な事に挑戦していた、ずっとずっと昔の私自身と重なって見えた」
……そう言えば、レティさんはさっき『冬以外の日に外に出た事は“殆ど”ない』って言ってましたね。
それはつまり、今日以外にも僅かながら、外に出た事があるという事。
それはレティさんの、そんな挑戦の日々を暗示していた言葉だったんだろうな。
限られた時期しか生きられない。それはきっと、とても寂しいことだと思いますしね……。
「私はチルノに、本気の私を超えて欲しかった。本当に私よりも強くなって、あの子の目指す『最強』と言う夢を現実にして欲しかった。
冬以外の季節を生きる事を諦めた、私のようになって欲しくなかった。だから私は、あの子と本気で戦ってたんだって……。
それからね。私があの子と戦うのを楽しむようになったのは。チルノの事を、友達だって思うようになったのは」
友達、か……。
幻想郷では、本当にそれが当たり前なんですね。
弾幕ごっこ、そんな遊びで本気になって、ぶつかり合って、そしてそれが友情となっていく。
本当に、外の世界ではそんな熱い友情なんて、滅多な事じゃ有り得ませんよね。漫画やドラマの世界の幻想です。
……幻想だったから、かもしれませんけどね……。
「あの子と一日一回戦って、そしてその後はそれを忘れて、あの子やその友達と一緒になって子供みたいに騒ぐ。
それで私も少しだけ、昔の私に……冬以外の季節に挑戦していた頃の気持ちを取り戻せるような気がして、それがいつの間にか、私の一番の楽しみになっていた。
いつまでも、この幸せが続けばいいな、そう思って……」
レティさんの話は、そこで終わった。最初に戻る、といったところですかね。
「ごめんなさい、こんな長話を聞いてもらって」
「いえ、とても素敵な話をありがとうございました。それに……」
私もちょっと、思い出しちゃいましたからね。
私が昔、諦めてしまったものを。もう二度と取り戻す事が出来ないと、そう思っていた事を……。
「それに?」
「いえ、なんでもないです。確かにそれは、私や神奈子様にはどうにも出来ない事かもしれませんね」
私自身の事は意識しないようにして、話をレティさんの方へと戻す。
「だと思うわ。これは、私の妖怪としての性質の問題だから」
……レティさんって、判ってるようで意外と判ってないですね。
「レティさん。それでこの神社にそんなお参りするようじゃ、昔のあなたと変わってないって事ですよ」
「えっ?」
「『来年もまた、あの子達と一緒に遊べますように』」
レティさんから先ほど聞いたお祈りを復唱する。
「これじゃあ、来年の冬にならないとチルノさん達とは逢えないって、自分で認めてるようなものじゃないですか。
そんなマイナスにばっかり向いたお祈りをされたって、私達は叶えたくはありませんよ」
目を丸くするレティさん。そんな事、思いも寄らなかったといった顔ですね。
嘗ての心を取り戻したいと思いつつ、あなたはきっと、嘗て諦めてしまった事だからこそ、冬以外の季節を生きる事を無意識のうちに諦めているんじゃないですか?
だから自分がお祈りしていた事も、マイナスの方面に意識が向いてしまうのですよ。
まあ、そんなのレティさんに限った話ではないんですけどね。神社にお参りに来る人は、よくその辺を履き違えています。
自分で頑張らなくてはいけない事でも、無意識のうちに頑張る事を諦めて、神様に頼ってしまう。外の世界にいた頃から、それは変わっていません。
何もかもを諦めて、最終的に神様に頼ってしまう。そんなお願い、私達は叶えませんよ。
神奈子様や諏訪子様は、ちょっと気前が良すぎるために、祈られただけで救いの手を差し伸べちゃいますけどね。まったく、困ったものです。
神社とは決意表明の場なのです。少なくとも、私はそういう場所だと思っています。
『願いが叶うように努力する事を約束します。なので、どうか見守っていてください』
本当は、それが正しい神へのお祈りなのです。祝詞なんかを読んでいただければ、すぐに判る事だと思います。
天は自ら助くる者を助く。神道の言葉ではありませんけど、本当に的を射ていると思いますよ。
「努力をする事は誰にだって出来ます。それを続けていく事が、本当に大切な事なんです。
レティさんがどれほどの努力をしてきたのかは、私は察する事は出来ません。ですが、あなたがどれだけのものを積み重ねていたとしても、私はそれを“足りない”と表現すると思います。
あなたの祈りに、それが表れてしまっているのですから」
……本当は、こんな事は私が偉そうに言える事ではない。
レティさんよりもずっとずっと短い人生しか歩んでいないし、それに私自身も一つだけ、諦めてしまっている事があるから。
だけど……いえ、だからこそ、私は敢えてそれを言葉にする。
レティさんがチルノさんに、自分を超える事を諦めて欲しくないのと同じように、私もレティさんに諦めて欲しくはありませんから。
それだけあなたに思われているんです。チルノさんもきっと、あなたとずっと遊んでいたいと思っているでしょうから……。
「……ふふっ」
何故か、レティさんに笑われた。
むぅ、人がせっかく真面目に語ったのに、その反応はないですよ。
「ごめんなさい。まさか人間にであるあなたにそんな事を言われるだなんて、思ってもいなかったから」
レティさんって、意外と妖怪らしく妖精や人間を下に見てますよね。
まあ、そんなの今に始まった事じゃないですから別にいいんですけど。
「でも、その通りだわ。私はそれが自分の性質なんだと言い訳をして、自分で夢を放棄していたのかもしれない。
努力しているなんて、言葉に出すだけなら簡単な事。夢を叶えられない程度の努力なんて、そんなのは努力じゃない。もっともっと、頑張らなくちゃいけないのよね」
「厳しいかもしれませんけど、それが現実なんですよね。
努力は人を裏切りません。本当に裏切っているのは、自分自身の方なんです」
だって、努力する事なんて生きている限り無限に出来る事なんですから。
「……尤も、人間はそれで死ぬ事もあるんだから、無理は出来ないのかもね」
「レティさんは妖怪なんですから、死ぬまで頑張ってみればいいんじゃないんですか?」
「あら、皮肉のつもり?」
「皮肉を言われたから皮肉で返しただけですよ」
そう返答すると、レティさんは静かに笑って返してくれた。それに釣られて、私も自然と笑ってしまう。
……諦めない、か。
私は昔、ある事を諦めてしまった。でもそれを、神奈子様や諏訪子様にお願いする事もしなかった。
それはきっと、私が本当にそれを諦めてしまっているからだと思う。
それに向かって努力すると、御二人に約束出来ない事だから。ずっと、そう思っていたんだと思う。
私がどんなに努力したって、それは叶えられる事だと思わなかったから。
レティさんにこんな事を言える資格なんて、本当はない。それは判っています。
私は、本当に卑怯ですよね。レティさんに言わせるだけ言わせておいて、語る資格もないのに偉そうな事ばかり。
昔から、私は卑怯者ですよね……。
神奈子様に、もう後ろを振り向かない、って約束したのに……。
……私は、ずっと……。
* * * * * *
うーん、なんだか部屋に入るタイミングを逃しちゃったなぁ。
早苗とレティが話し込んでいる中、私は襖の向こうでずっと縁側に腰掛けていた。
二人の会話を盗み聞きしながら、自分の分のお茶を傾ける。温かいお茶が喉を滑り降りて、私の身体も温かくしてくれた。
二人はずっと、努力する事だとか、神様へのお祈りの事だとか、そんな話をしている。
そう言えば私も、元はと言えば『早苗を驚かしたい』って願って、この神社に居候するようになったんだっけ。
神奈子が人を驚かす方法を教えてくれて、命蓮寺の墓地で人を驚かすようになって、私の空腹も満たされるようになって……。
それでも未だにこの神社に住み着いてるのは、一番の目標である早苗を驚かせていないから。
前に比べればずっと、人を驚かせるのは上手くなったと思う。だけど、早苗はまだ驚いてくれた事がない。
その理由は、実はもう判ってる。
私はそもそも、早苗を驚かそうとしていないからだ。早苗にだけはずっと、出会った頃と変わらない、何の工夫もない驚かせ方ばかりしているからだ。
判らないのは、どうして早苗を驚かせようとしないのか、と言う事。
今二人が話していたように、早苗を驚かす事が無理だって諦めてるわけじゃないと思う。
早苗を驚かせる事は、私がこの神社に住んでいる理由。私の一番の目標。なのになんで、私は早苗を驚かそうとしないんだろう。
そのために、ずっと頑張っているはずなのに……。
「私は……」
神社の中ではいつも閉じている傘を開いてみる。
私がこの姿になった時からずっと一緒にいる、もう一人の私だ。
「ねえ、どう思う?」
もう一人の私に、そう尋ねてみる。言葉は話せないけど、気持ちは繋がっているから。
とは言っても、この傘も私だから、私に判らない事は判らないんだけどね。
傘から帰ってきた返答も、やっぱり判らないと言う感じだった。
あーあ、これじゃあまだ暫く、早苗は驚かせられないなぁ。
もともと一人ぼっちの妖怪だったし、そう考えれば神社で生活してる方が、早苗や神様と一緒にいられるし、いいのかもしれないけど。
「私は、どうすればいいんだろう……」
「どうもこうもありませんよ」
「うひゃあっ!?」
いきなり後ろから声を掛けられて、吃驚してそんな声が出てしまった。
「もう、お茶を淹れに行ったきり全然帰ってこないから、なにをしてるのかと思えば……」
「さ、早苗? どうしたの急に……?」
「レティさんがもうお暇するそうですから、外まで送っていくんですよ」
見れば早苗の後ろにはレティが立っていた。そんなに考え込んでたつもりはなかったけど、意外と時間が経ってたみたいだ。
「こんなところでのんびりしてないで入ってくればいいじゃないですか」
「いや、なんだか難しい話をしてたから……」
「あら、ごめんなさい。つい話し込んじゃって……」
「謝らなくていいですよレティさん。あ、せっかくだしお茶は貰いますね」
「私もいただけるかしら?」
そう言って、早苗は温かいお茶と冷たいお茶の二つを手に取り、冷たい方をレティに渡す。
もう帰るところだったからか、二人ともそれを一気に飲み干した。
「ん、美味しかったわ。お茶を淹れるの、上手なのね」
湯飲みをこっちに渡しつつ、レティは笑顔でそう言ってきてくれた。
「勉強熱心ですからね、小傘さんは。今では私よりもずっと美味しいお茶を淹れられますよ」
早苗もそう言ってくれた。さっき飲んだお茶で温まった身体が、なんだかいっそう温かくなったような気がした。
初めて早苗に教わってからずっと、美味しいお茶を淹れられるように頑張ってきたからなぁ。
驚いてはくれなかったけど、早苗が喜んでくれた時は、なんだか私も嬉しくなったのを覚えてる。
そう言えば、早苗はずっと……。
「それじゃあレティさん、外まで案内しますね。ほら、行きますよ小傘さん」
湯飲みを置いて、早苗は玄関の方へと歩き始め、レティもそれに続く。
「あ、ま、待ってよぅ」
私も慌てて立ち上がり、その後に続いた。湯飲みはあとで片付ければいいかな。
……そう言えば、早苗はずっと、私の傍にいてくれている気がする。
人間に捨てられて、ずっと一人ぼっちで生きていた私にとって、それは初めての経験だった気がする。
一度捨てられた私にとっては、そんな状況というのは好ましいものじゃないはず。だって、また捨てられちゃうかもしれないから。
本当だったら、そう思うはずなのに……なんで、早苗の隣にいるのはこんなに安心するんだろう。
早苗は私を捨てないでくれるって、そう思うんだろう。
……判らないけど、今はその直感を信じよう。
信じていいよね。早苗は、私を捨てないって。
もうあんな思いを……それこそ、妖怪になっちゃうくらいに寂しい思いを、させないでくれるって。
……信じて、いいんだよね……?
* * * * * *
「此処で大丈夫よ。今日は本当にありがとう」
「いえ、困っている人を助けるのは神の役目ですから」
神社の鳥居の下、つまりは守矢神社の入り口。
本当はまた倒れてしまわないように、レティさんの家まで送っていった方がいいと思っていたのですが、まあそう言われては仕方ありません。
「この傘、本当に借りてもいいのかしら?」
せめてもの気持ちとして、レティさんには傘を渡しておいた。何の変哲もない雨傘ですけど、太陽の光を防ぐにはちょうどいいと思います。
「ええ、大丈夫ですよ。冬になったら返してくだされば」
「日傘が必要なら私が送っていくのに」
「ダメです」
小傘さんの傘は私専用です。誰にも渡しません。
「そう、なら受け取っておくわ。なにからなにまで、お世話になってしまったわね」
「大丈夫ですって。それが役目なんですから」
本当に、レティさんはしっかりしてますね。神奈子様にも見習って欲しいものです。
「それじゃあ、失礼するわ。もしチルノに逢う事があったら、宜しく伝えておいてくれるかしら?」
「承りました。それでは、また冬に。それより早くても構いませんけどね」
「ありがとう、頑張ってみるわ。また会いましょうね」
その言葉を最後に、レティさんは私達に背を向け、神社と妖怪の山を結ぶ階段を下りていく。
そしてレティさんの姿が見えなくなるまで、私達はずっと鳥居の下で、レティさんを見送る事にした。
「……友達、か……」
「えっ?」
不意に、そんな言葉が私の口から漏れた。たぶん、レティさんが最後に『チルノに逢う事があったら……』と言っていたからだと思う。
レティさんは、本当にチルノさんの事を思っているんだな。さっきの話を聞いていた時から判ってはいたけれど、改めてそう思う。
なんだか、少しだけ羨ましいな……。
「私にも、そんな友達が……」
柄にもなく、沈み込んでしまう。さっきも、ついその事を思い出してしまいましたからね。
私が諦めてしまった事……それは、私が幻想郷に来る時に手放してしまったものに、もう一度……。
「早苗!」
急に小傘さんが大声を出したものですから、少しだけ驚いた。悔しいですけど、こういう時だけはちょくちょく驚かされるんですよね。
尤も、小傘さんはこう言う驚きを、驚かせているとは思っていないみたいですけど。
「早苗と私は友達でしょ! そんな事言わないでよ!」
眼を吊り上げて、非常に珍しく本気で怒っているかのような表情を浮かべる小傘さん。
きっと、私の事を心配してくれているからこそ、私の今の言葉に怒っているんだと思うけど……。
「違いますよ、小傘さん。友達がいない、って言いたいんじゃありません」
「えっ?」
それは早とちりですよ。
小傘さんだけじゃありません。私には、この幻想郷で沢山の友達が出来ました。
霊夢さんや魔理沙さん、射命丸さんや椛さん、それ以外にも沢山、私には友達だと思える人達がいます。
……でも、幻想郷で手に入れたそんな友情と引き換えに、私には失ったものがあった。
そう、外の世界での友達を……。
「……後悔は、していないと思います。それでも、私は外の世界の全てを捨ててしまったんです。
やっぱり、時々迷ってしまうんですよ。本当に、私の選んだ道は正しかったのかって」
こんな事、神奈子様や諏訪子様の前では言えませんけどね。二人とも、きっと困ってしまうと思いますし。
それに、約束しましたからね。もう後ろを振り向かない、って……。
……それでも、未だに迷ってしまうんです。どんなに考えないようにしても、どうしても……。
「幻想郷で過ごす毎日は、本当に幸せだと思っています。
でも、それと同じくらいに、外の世界で過ごした時間も私にとっては大切な時間だったんです。
……やっぱり、秤になんて掛けられないんですよ。どっちがより大切なのか、なんて……」
この幻想郷にやってきて、もう何年も経った。
外の世界のみんなは、どうしているんだろうか。みんなは今、大学生半ばってくらいだと思うけど……。
私の事なんて忘れて、みんな自分の進んだ道を満喫しているのかな。
それとも、未だに私の事を覚えてくれている子もいるのかな……。
「……駄目ですね、私は。もう諦めてしまっているはずなのに、もう一度みんなに会えないか、なんていつも思っているんですから」
「早苗……泣きそうな顔してるよ……?」
あれっ……?
小傘さんに言われて、視界がちょっとだけ滲んでいる事に、漸く気が付いた。
ああもう、本当に駄目ですね。泣くつもりなんてなかったのに……。
でも、やっぱり抑えられない。外の世界の友達の事を思う度に、涙が溢れてくる。
もう、後ろは振り返らないって決めたのに……そう約束したはずなのに……。
「小傘さん、ごめんなさい……ちょっとだけ胸を貸してください」
「えっ? わっ、ちょ、早苗……」
小傘さんの返事は聞かず、私は小傘さんを抱きしめて……。
「ううっ……うああぁぁぁ……っ!!」
せめて声だけは押し殺して、私は我慢する事を止めた。
こんな情けない姿、小傘さんの前では見せたくなかったけど……我慢したくもなかったから。
幻想郷にやってきた事に、後悔はしていない。
それでも私は、元々は外の世界の住人なんです。外の世界の事を、忘れたくはないのです。
だから、神奈子様、諏訪子様。
今だけでいいです。どうか、約束を破らせてください。
本当に今だけ、後ろを振り向かせてください。
二度と取り戻せないと諦めた過去に思いを馳せる事を、お許しください。
どうか、この涙が落ち着くまで……。
冬も開け、暖かな日差しが差し込む春の守矢神社。
山の上であるが故に冬は雪も凄く非常に寒かったのですが、この季節ともなればそれも嘘のように温かくなります。
まあ、なんだかんだで幻想郷に来てから何年も経つので、今更な話なんですがね。
さて、春先ともなれば、私も守矢神社の風祝として忙しくなるのですよ。
冬の間はろくに下山も出来ず、布教活動も滞っていましたから。
この冬の間に、道教を信仰する仙人達が復活したため、商売敵も増えてしまいました。気合を入れていかないといけません。
……こらそこ、一時改宗したくせに、とか言わない。
とにかくまあ、冬の間に出来なかった布教活動のため、そろそろ人里に下り始めなくては、と思ったのですが……。
「早苗……寒いよぅ……」
「そうですねぇ……春はまだなんでしょうかね……」
私と、守矢神社に居候中の唐傘お化け、多々良小傘さんは、春先だというのに神社の炬燵に動きを封じられていました。
小傘さんが居候し始めた経緯が気になった方は過去作をご覧ください。もう一年以上住み着いてますが。
このまま私のところに永久就職してくれませんかね。
「もう4月半ばだって言うのになんでこんなに寒いんだろうね……」
「知りませんよ、神奈子様は低気圧がなんだとか言ってましたけど……」
守矢神社には乾を創造する神様がいますが、天を造る神も気温までは操作できませんからね。
天候くらいは操る事は出来ますが、基本的に神奈子様は天気を無闇に変更することはしませんし、つまり寒い時は寒いままなんです。
まったく、これだからダメ神様は。
「しかし、こうも寒いと外に出る気も起きませんね」
「そんな格好してるからじゃないの?」
「この袖は守矢神社の伝統なんですよ」
「えっ、そうなんだ……」
いやまあ、嘘ですけど。
しかし小傘さんに間違った知識を植えつけて、まるで私の手で汚してしまうようなこの感覚、やめられません。
そんな風にして、小傘さんと他愛もない時間を過ごしていると……。
「あれっ?」
ガランガラン、と、拝殿の方から大きな鈴の音が聞こえる。
つまりは誰かが参拝に来たということなのでしょうが……。
「こんな寒い日に、おかしな人もいるものですね」
「それって神社の巫女が言う台詞なの?」
「この幻想郷では常識に捉われてはいけないのですよ」
もう何度使ったか判らない台詞を吐きつつ、こんな日に参拝に来たという人が気になった私と小傘さんは、拝殿へと足を運ぶ事にする。
元より私たちが主に使っていた部屋は、拝殿の見える社務所のすぐ裏にあるので、一分と掛からずにそのおかしな参拝客の姿を確認する事が出来ました。
パン、パン、と二拍手し、手を合わせ深く祈念を込める、薄紫色の髪のどこか大人びた感じのする女性。
二拍手する時の手の打ち方や、その後に祈りを捧げるその姿は、風祝である私の目から見ても非常に綺麗なもので、それがいっそう彼女の大人っぽさを増徴させる。
だけど……あれっ? なんだか様子がおかしくないですか?
一分くらいずっと見ていたのですが、その女性は手を合わせたまま、次の動作に移ろうとしません。
守矢神社の拝礼は二拝二拍手一拝が基本だから、その後にもう一度礼をしなくてはいけないのですが……。
それに、祈りを捧げる女性の顔には、僅かながら汗が浮いているように見えますし、目元もなんだか辛そうですね……。
「あれ、あの人って……」
小傘さんが何か言おうとした、その時……。
「あっ!!」
参拝客の女性は突然、私たちの見ている前でばたりと倒れてしまう。
「だ、大丈夫ですか!?」
私と小傘さんは、慌ててその女性の下へと駆け寄る。
抱えあげたその女性の顔には大量の汗が浮かび真っ青になっていて、このまま放っておくのは危ないというのがすぐに判るほどでした。
「小傘さん! 私がこの人を運びますからすぐに客間に布団を!」
「あ、ちょ、待って早苗!」
ああもう! こんな時にどうしたんですか!
「その人は――……!!」
……えっ……?
* * * * * *
「……んっ……」
「気が付きましたか?」
「あれ、私は……」
場所は変わり、守矢神社の客間。先ほどの事から一時間ほど経って、漸く参拝客の女性が目覚める
小傘さんにストップを掛けられたとは言え、倒れた人を安静にさせておく場所は此処が一番ですから。
ただし、布団は敷いていません。枕だけですね。それと……。
「……あら、随分と涼しい場所ね」
「冷房の設定温度を限界まで下げましたからね……」
主に寒さによって震える声で、そう返答する。部屋の中でもマフラーと手袋を装備するくらいに寒いです。
核エネルギーによって電気機器が使えるようになったのはいいのですが、なんだって寒い日に限界まで冷房をフル運転させなくちゃいけないんでしょうね。
それはまあ、目の前にいる女性のためなんですが……。
「それより、気分は如何でしょうか?」
「おかげさまで良くなったわ。私はレティ、レティ・ホワイトロック。迷惑を掛けてしまってごめんなさい」
深々と頭を下げる、参拝客の女性……レティさん。
尤も、実は既に名前は知っていたんですがね。先ほど小傘さんに聞かされて……。
「私は東風谷早苗、この神社の風祝です。
それよりも、雪女であるあなたが、どうしてこんな雪もない春先の神社に……?」
「あら、私の事を知っていたの?」
「勉強熱心な妖怪が住み着いているものですから」
私の言っている事が理解出来なかったのか、レティさんは首を傾げる。
ちなみにその勉強熱心だけど正しい知識は身に付けない唐傘お化けは、今は冷たいお茶を入れているところでしょう。
「よく判らないけど、そうね。私も春になってから外を出歩くのは、長生きしてきた中でも殆どないから」
長生きしてる……大人びた雰囲気といい、なんだか格のある妖怪なのでは、と思ってしまいます。
「私も雪が降ってない日に雪女を見たのは初めてです」
「あら、私以外にも雪女を見た事があるの?」
「いえ、ありません。だから初めてなんですよ」
軽い冗談を言うと、レティさんは口元を隠して上品に、静かに笑い返してくれた。うーん、やっぱり何処か大人の余裕のようなものを感じます。
「お祈りしたい事があるなら、冬の間に来たほうが良かったんじゃないですか?
雪女の事をよく知っているわけではありませんけど、あなたにとってはこの気温でも暑いくらいなのでは?」
先ほどのレティさんの様子は、まるで熱中症になった人のようでしたからね。
私や小傘さんにとっては肌寒く感じるくらいでしたが、雪も残らぬ気温ではありました。レティさんにとっては、それでも辛かったのでしょう。
しかし体感気温はあまり変わらないでしょうに、外と内とでレティさんの様子にだいぶ差があるのは文明の利器の力か、単に太陽がないからか。
「そうね、おかげでさっきも気分が悪くなって……。
でも、この時期じゃなければこんなお祈りは出来なかったから。と言うより、お参りする時間がなかったと言うべきかしらね」
えっ?
時間がないって、確かにレティさんは雪の降る冬に主に活動する妖怪なのでしょうから、普通の妖怪に比べれば時間は限られているかもしれません。
ですが、お参りするだけならば一日もあれば出来ることでしょう。わざわざ熱中症覚悟でこんな季節に御参りするより、一日だけ冬の間の時間を空けたほうが……。
「そうまでして、いったいどんなお祈りを? もし力になれるのであれば、直接神社の御祭神に申し上げておきますよ?」
ハサミとなんとかは使いようですから。
「ありがとう。だけど、たぶんどうにも出来ない事よ。私の存在そのものに関わる事だから……」
……これはまた、随分と重い理由を抱えていそうですね。
だけど、この神社に仕える風祝……そして現人神として、参拝者の悩みを見過ごす事は出来ません。
おせっかいな事かもしれませんが、私も一応神様みたいなものですから。
「やらないで後悔するより、やって後悔した方がいいと思いますよ」
もっといい言葉はなかったのか私。自分で自分に突っ込んでしまった。
「そう……それなら……」
そんな言葉でも、レティさんには納得していただけたようだ。
さて、レティさんはいったいどんなお祈りを……。
「……来年もまた、あの子達と一緒に遊べますように」
……何処か遠くを見ながら、レティさんは静かにそう言った。
「あの子達、と……?」
「ええ、ちょっと馬鹿な妖精と、その子の友達達と、ね……」
それはまた、レティさんの大人びた雰囲気に似つかわしくないお祈りですね。
それに、レティさんは雪女ですよね? 妖怪と妖怪と言うなら判らなくもありませんが、妖怪と妖精が……?
「意外に思うかもしれないけどね。私自身も、最初はあの子達の事を煩い妖精くらいにしか思ってなかったから。
それに、私は雪女。気温が低くて寒い冬の日を、さらに寒くする存在。暖かい場所が好きな妖精には、好かれない妖怪だから……」
確かに、それも少々気になりますね。
寒い日を好む妖精なんて、私は今のところ一人しかいません。
尤も、知り合いって程でもないですけどね。非想天則の一件の時にちょっと弾幕ごっこをした程度ですし。
えっと、確か名前は……。
「だけど、その子は凄く変わった妖精だったのよ。妖精の癖に寒いのが大好きで、自身も氷を操る能力を持っててね」
……あれっ?
「妖精の癖に『あたいは最強なんだから!』とか、いつもそんな事を言ってて……。
妖精の中では確かに強い方なんだけど、妖怪から見れば全然まだまだ。他の妖精達も、呆れてばっかりなのにね」
……あの、ひょっとしなくても……。
「……その妖精、チルノって名前なんじゃないですか?」
「あら、知ってるの?」
「え、ええ、まあ以前ちょっと……」
やっぱりあの妖精の事だったんだ……。
あの妖精とレティさんに差がありすぎて、まさか関わりがあるだなんて思いもしませんでした。
「どうして目を逸らすの?」
「お気になさらずに。続きをオネガイシマス」
あの時弾幕勝負でボコしちゃった事は黙ってよう。
「……? まあ、いいけど……。
とにかく、最初に逢った時もいきなり突っかかってきてね。周りの友達たちが必死に止めるのも全然聞かないで。
まあ、妖精の癖に生意気だとか思っちゃって、つい本気で戦っちゃった私も私だった気もするけど……」
あら、レティさんって意外と熱くなりやすいんですかね? 雪女なのにちょっと意外です。
「それで、その勝負は?」
「圧勝だったわ。自分で言うのも難だけどね」
……まあ、聞くまでもありませんでしたね。
チルノさんも同じかもしれませんが、冬は雪女であるレティさんのホームグラウンド。
妖怪と妖精の地力の差から言っても、レティさんが負けるとはとても思えません。
「だけど、チルノは私に負けても『今日は調子が悪かっただけなんだからね!』とか言い始めて……」
ああ、なんだか物凄くリアルに想像出来ます。
「そうしたら次の日も、その次の日も、毎日のように私に挑みに来るようになって……。
私が何度勝っても、その都度明日こそ、明日こそって……一週間過ぎた頃には、もううんざりしてたわね」
気持ちは判りますよ。私も小傘さんに対して、最初は似たような感情を覚えましたからね。
そんなところが可愛らしく思えて、今では同じ屋根の下で暮らす仲になりましたけど。
居候してるだけなのに如何わしく言うな? 知りません小傘さんは私の物です。誰にも渡しません。
「そんな時、ちょっと思ったのよ。私がわざと負けてあげればあの子も満足するかもしれないのに、なんで私は本気で戦ってるんだろうって。
最初は妖怪として、妖精に負けるだなんて許せない。そんなプライドからだと思ってたんだけど……。
別に私は、元からそんな事に拘る性格じゃなかったし、だけど最初に逢った時から、何故かずっと本気で戦ってて……。
そう思いながら次にチルノと逢った時に、ちょっとだけチルノが輝いて見えたような気がしたの」
レティさんは静かに目を閉じた。これからの事が、きっと今までの話の核心なのでしょう。
「どんな相手にだって全力でぶつかって、誰よりも強くなりたいと思うその姿は、私が忘れてしまっていたものだった。
冬以外の日でも生きていられるように、そんな無謀な事に挑戦していた、ずっとずっと昔の私自身と重なって見えた」
……そう言えば、レティさんはさっき『冬以外の日に外に出た事は“殆ど”ない』って言ってましたね。
それはつまり、今日以外にも僅かながら、外に出た事があるという事。
それはレティさんの、そんな挑戦の日々を暗示していた言葉だったんだろうな。
限られた時期しか生きられない。それはきっと、とても寂しいことだと思いますしね……。
「私はチルノに、本気の私を超えて欲しかった。本当に私よりも強くなって、あの子の目指す『最強』と言う夢を現実にして欲しかった。
冬以外の季節を生きる事を諦めた、私のようになって欲しくなかった。だから私は、あの子と本気で戦ってたんだって……。
それからね。私があの子と戦うのを楽しむようになったのは。チルノの事を、友達だって思うようになったのは」
友達、か……。
幻想郷では、本当にそれが当たり前なんですね。
弾幕ごっこ、そんな遊びで本気になって、ぶつかり合って、そしてそれが友情となっていく。
本当に、外の世界ではそんな熱い友情なんて、滅多な事じゃ有り得ませんよね。漫画やドラマの世界の幻想です。
……幻想だったから、かもしれませんけどね……。
「あの子と一日一回戦って、そしてその後はそれを忘れて、あの子やその友達と一緒になって子供みたいに騒ぐ。
それで私も少しだけ、昔の私に……冬以外の季節に挑戦していた頃の気持ちを取り戻せるような気がして、それがいつの間にか、私の一番の楽しみになっていた。
いつまでも、この幸せが続けばいいな、そう思って……」
レティさんの話は、そこで終わった。最初に戻る、といったところですかね。
「ごめんなさい、こんな長話を聞いてもらって」
「いえ、とても素敵な話をありがとうございました。それに……」
私もちょっと、思い出しちゃいましたからね。
私が昔、諦めてしまったものを。もう二度と取り戻す事が出来ないと、そう思っていた事を……。
「それに?」
「いえ、なんでもないです。確かにそれは、私や神奈子様にはどうにも出来ない事かもしれませんね」
私自身の事は意識しないようにして、話をレティさんの方へと戻す。
「だと思うわ。これは、私の妖怪としての性質の問題だから」
……レティさんって、判ってるようで意外と判ってないですね。
「レティさん。それでこの神社にそんなお参りするようじゃ、昔のあなたと変わってないって事ですよ」
「えっ?」
「『来年もまた、あの子達と一緒に遊べますように』」
レティさんから先ほど聞いたお祈りを復唱する。
「これじゃあ、来年の冬にならないとチルノさん達とは逢えないって、自分で認めてるようなものじゃないですか。
そんなマイナスにばっかり向いたお祈りをされたって、私達は叶えたくはありませんよ」
目を丸くするレティさん。そんな事、思いも寄らなかったといった顔ですね。
嘗ての心を取り戻したいと思いつつ、あなたはきっと、嘗て諦めてしまった事だからこそ、冬以外の季節を生きる事を無意識のうちに諦めているんじゃないですか?
だから自分がお祈りしていた事も、マイナスの方面に意識が向いてしまうのですよ。
まあ、そんなのレティさんに限った話ではないんですけどね。神社にお参りに来る人は、よくその辺を履き違えています。
自分で頑張らなくてはいけない事でも、無意識のうちに頑張る事を諦めて、神様に頼ってしまう。外の世界にいた頃から、それは変わっていません。
何もかもを諦めて、最終的に神様に頼ってしまう。そんなお願い、私達は叶えませんよ。
神奈子様や諏訪子様は、ちょっと気前が良すぎるために、祈られただけで救いの手を差し伸べちゃいますけどね。まったく、困ったものです。
神社とは決意表明の場なのです。少なくとも、私はそういう場所だと思っています。
『願いが叶うように努力する事を約束します。なので、どうか見守っていてください』
本当は、それが正しい神へのお祈りなのです。祝詞なんかを読んでいただければ、すぐに判る事だと思います。
天は自ら助くる者を助く。神道の言葉ではありませんけど、本当に的を射ていると思いますよ。
「努力をする事は誰にだって出来ます。それを続けていく事が、本当に大切な事なんです。
レティさんがどれほどの努力をしてきたのかは、私は察する事は出来ません。ですが、あなたがどれだけのものを積み重ねていたとしても、私はそれを“足りない”と表現すると思います。
あなたの祈りに、それが表れてしまっているのですから」
……本当は、こんな事は私が偉そうに言える事ではない。
レティさんよりもずっとずっと短い人生しか歩んでいないし、それに私自身も一つだけ、諦めてしまっている事があるから。
だけど……いえ、だからこそ、私は敢えてそれを言葉にする。
レティさんがチルノさんに、自分を超える事を諦めて欲しくないのと同じように、私もレティさんに諦めて欲しくはありませんから。
それだけあなたに思われているんです。チルノさんもきっと、あなたとずっと遊んでいたいと思っているでしょうから……。
「……ふふっ」
何故か、レティさんに笑われた。
むぅ、人がせっかく真面目に語ったのに、その反応はないですよ。
「ごめんなさい。まさか人間にであるあなたにそんな事を言われるだなんて、思ってもいなかったから」
レティさんって、意外と妖怪らしく妖精や人間を下に見てますよね。
まあ、そんなの今に始まった事じゃないですから別にいいんですけど。
「でも、その通りだわ。私はそれが自分の性質なんだと言い訳をして、自分で夢を放棄していたのかもしれない。
努力しているなんて、言葉に出すだけなら簡単な事。夢を叶えられない程度の努力なんて、そんなのは努力じゃない。もっともっと、頑張らなくちゃいけないのよね」
「厳しいかもしれませんけど、それが現実なんですよね。
努力は人を裏切りません。本当に裏切っているのは、自分自身の方なんです」
だって、努力する事なんて生きている限り無限に出来る事なんですから。
「……尤も、人間はそれで死ぬ事もあるんだから、無理は出来ないのかもね」
「レティさんは妖怪なんですから、死ぬまで頑張ってみればいいんじゃないんですか?」
「あら、皮肉のつもり?」
「皮肉を言われたから皮肉で返しただけですよ」
そう返答すると、レティさんは静かに笑って返してくれた。それに釣られて、私も自然と笑ってしまう。
……諦めない、か。
私は昔、ある事を諦めてしまった。でもそれを、神奈子様や諏訪子様にお願いする事もしなかった。
それはきっと、私が本当にそれを諦めてしまっているからだと思う。
それに向かって努力すると、御二人に約束出来ない事だから。ずっと、そう思っていたんだと思う。
私がどんなに努力したって、それは叶えられる事だと思わなかったから。
レティさんにこんな事を言える資格なんて、本当はない。それは判っています。
私は、本当に卑怯ですよね。レティさんに言わせるだけ言わせておいて、語る資格もないのに偉そうな事ばかり。
昔から、私は卑怯者ですよね……。
神奈子様に、もう後ろを振り向かない、って約束したのに……。
……私は、ずっと……。
* * * * * *
うーん、なんだか部屋に入るタイミングを逃しちゃったなぁ。
早苗とレティが話し込んでいる中、私は襖の向こうでずっと縁側に腰掛けていた。
二人の会話を盗み聞きしながら、自分の分のお茶を傾ける。温かいお茶が喉を滑り降りて、私の身体も温かくしてくれた。
二人はずっと、努力する事だとか、神様へのお祈りの事だとか、そんな話をしている。
そう言えば私も、元はと言えば『早苗を驚かしたい』って願って、この神社に居候するようになったんだっけ。
神奈子が人を驚かす方法を教えてくれて、命蓮寺の墓地で人を驚かすようになって、私の空腹も満たされるようになって……。
それでも未だにこの神社に住み着いてるのは、一番の目標である早苗を驚かせていないから。
前に比べればずっと、人を驚かせるのは上手くなったと思う。だけど、早苗はまだ驚いてくれた事がない。
その理由は、実はもう判ってる。
私はそもそも、早苗を驚かそうとしていないからだ。早苗にだけはずっと、出会った頃と変わらない、何の工夫もない驚かせ方ばかりしているからだ。
判らないのは、どうして早苗を驚かせようとしないのか、と言う事。
今二人が話していたように、早苗を驚かす事が無理だって諦めてるわけじゃないと思う。
早苗を驚かせる事は、私がこの神社に住んでいる理由。私の一番の目標。なのになんで、私は早苗を驚かそうとしないんだろう。
そのために、ずっと頑張っているはずなのに……。
「私は……」
神社の中ではいつも閉じている傘を開いてみる。
私がこの姿になった時からずっと一緒にいる、もう一人の私だ。
「ねえ、どう思う?」
もう一人の私に、そう尋ねてみる。言葉は話せないけど、気持ちは繋がっているから。
とは言っても、この傘も私だから、私に判らない事は判らないんだけどね。
傘から帰ってきた返答も、やっぱり判らないと言う感じだった。
あーあ、これじゃあまだ暫く、早苗は驚かせられないなぁ。
もともと一人ぼっちの妖怪だったし、そう考えれば神社で生活してる方が、早苗や神様と一緒にいられるし、いいのかもしれないけど。
「私は、どうすればいいんだろう……」
「どうもこうもありませんよ」
「うひゃあっ!?」
いきなり後ろから声を掛けられて、吃驚してそんな声が出てしまった。
「もう、お茶を淹れに行ったきり全然帰ってこないから、なにをしてるのかと思えば……」
「さ、早苗? どうしたの急に……?」
「レティさんがもうお暇するそうですから、外まで送っていくんですよ」
見れば早苗の後ろにはレティが立っていた。そんなに考え込んでたつもりはなかったけど、意外と時間が経ってたみたいだ。
「こんなところでのんびりしてないで入ってくればいいじゃないですか」
「いや、なんだか難しい話をしてたから……」
「あら、ごめんなさい。つい話し込んじゃって……」
「謝らなくていいですよレティさん。あ、せっかくだしお茶は貰いますね」
「私もいただけるかしら?」
そう言って、早苗は温かいお茶と冷たいお茶の二つを手に取り、冷たい方をレティに渡す。
もう帰るところだったからか、二人ともそれを一気に飲み干した。
「ん、美味しかったわ。お茶を淹れるの、上手なのね」
湯飲みをこっちに渡しつつ、レティは笑顔でそう言ってきてくれた。
「勉強熱心ですからね、小傘さんは。今では私よりもずっと美味しいお茶を淹れられますよ」
早苗もそう言ってくれた。さっき飲んだお茶で温まった身体が、なんだかいっそう温かくなったような気がした。
初めて早苗に教わってからずっと、美味しいお茶を淹れられるように頑張ってきたからなぁ。
驚いてはくれなかったけど、早苗が喜んでくれた時は、なんだか私も嬉しくなったのを覚えてる。
そう言えば、早苗はずっと……。
「それじゃあレティさん、外まで案内しますね。ほら、行きますよ小傘さん」
湯飲みを置いて、早苗は玄関の方へと歩き始め、レティもそれに続く。
「あ、ま、待ってよぅ」
私も慌てて立ち上がり、その後に続いた。湯飲みはあとで片付ければいいかな。
……そう言えば、早苗はずっと、私の傍にいてくれている気がする。
人間に捨てられて、ずっと一人ぼっちで生きていた私にとって、それは初めての経験だった気がする。
一度捨てられた私にとっては、そんな状況というのは好ましいものじゃないはず。だって、また捨てられちゃうかもしれないから。
本当だったら、そう思うはずなのに……なんで、早苗の隣にいるのはこんなに安心するんだろう。
早苗は私を捨てないでくれるって、そう思うんだろう。
……判らないけど、今はその直感を信じよう。
信じていいよね。早苗は、私を捨てないって。
もうあんな思いを……それこそ、妖怪になっちゃうくらいに寂しい思いを、させないでくれるって。
……信じて、いいんだよね……?
* * * * * *
「此処で大丈夫よ。今日は本当にありがとう」
「いえ、困っている人を助けるのは神の役目ですから」
神社の鳥居の下、つまりは守矢神社の入り口。
本当はまた倒れてしまわないように、レティさんの家まで送っていった方がいいと思っていたのですが、まあそう言われては仕方ありません。
「この傘、本当に借りてもいいのかしら?」
せめてもの気持ちとして、レティさんには傘を渡しておいた。何の変哲もない雨傘ですけど、太陽の光を防ぐにはちょうどいいと思います。
「ええ、大丈夫ですよ。冬になったら返してくだされば」
「日傘が必要なら私が送っていくのに」
「ダメです」
小傘さんの傘は私専用です。誰にも渡しません。
「そう、なら受け取っておくわ。なにからなにまで、お世話になってしまったわね」
「大丈夫ですって。それが役目なんですから」
本当に、レティさんはしっかりしてますね。神奈子様にも見習って欲しいものです。
「それじゃあ、失礼するわ。もしチルノに逢う事があったら、宜しく伝えておいてくれるかしら?」
「承りました。それでは、また冬に。それより早くても構いませんけどね」
「ありがとう、頑張ってみるわ。また会いましょうね」
その言葉を最後に、レティさんは私達に背を向け、神社と妖怪の山を結ぶ階段を下りていく。
そしてレティさんの姿が見えなくなるまで、私達はずっと鳥居の下で、レティさんを見送る事にした。
「……友達、か……」
「えっ?」
不意に、そんな言葉が私の口から漏れた。たぶん、レティさんが最後に『チルノに逢う事があったら……』と言っていたからだと思う。
レティさんは、本当にチルノさんの事を思っているんだな。さっきの話を聞いていた時から判ってはいたけれど、改めてそう思う。
なんだか、少しだけ羨ましいな……。
「私にも、そんな友達が……」
柄にもなく、沈み込んでしまう。さっきも、ついその事を思い出してしまいましたからね。
私が諦めてしまった事……それは、私が幻想郷に来る時に手放してしまったものに、もう一度……。
「早苗!」
急に小傘さんが大声を出したものですから、少しだけ驚いた。悔しいですけど、こういう時だけはちょくちょく驚かされるんですよね。
尤も、小傘さんはこう言う驚きを、驚かせているとは思っていないみたいですけど。
「早苗と私は友達でしょ! そんな事言わないでよ!」
眼を吊り上げて、非常に珍しく本気で怒っているかのような表情を浮かべる小傘さん。
きっと、私の事を心配してくれているからこそ、私の今の言葉に怒っているんだと思うけど……。
「違いますよ、小傘さん。友達がいない、って言いたいんじゃありません」
「えっ?」
それは早とちりですよ。
小傘さんだけじゃありません。私には、この幻想郷で沢山の友達が出来ました。
霊夢さんや魔理沙さん、射命丸さんや椛さん、それ以外にも沢山、私には友達だと思える人達がいます。
……でも、幻想郷で手に入れたそんな友情と引き換えに、私には失ったものがあった。
そう、外の世界での友達を……。
「……後悔は、していないと思います。それでも、私は外の世界の全てを捨ててしまったんです。
やっぱり、時々迷ってしまうんですよ。本当に、私の選んだ道は正しかったのかって」
こんな事、神奈子様や諏訪子様の前では言えませんけどね。二人とも、きっと困ってしまうと思いますし。
それに、約束しましたからね。もう後ろを振り向かない、って……。
……それでも、未だに迷ってしまうんです。どんなに考えないようにしても、どうしても……。
「幻想郷で過ごす毎日は、本当に幸せだと思っています。
でも、それと同じくらいに、外の世界で過ごした時間も私にとっては大切な時間だったんです。
……やっぱり、秤になんて掛けられないんですよ。どっちがより大切なのか、なんて……」
この幻想郷にやってきて、もう何年も経った。
外の世界のみんなは、どうしているんだろうか。みんなは今、大学生半ばってくらいだと思うけど……。
私の事なんて忘れて、みんな自分の進んだ道を満喫しているのかな。
それとも、未だに私の事を覚えてくれている子もいるのかな……。
「……駄目ですね、私は。もう諦めてしまっているはずなのに、もう一度みんなに会えないか、なんていつも思っているんですから」
「早苗……泣きそうな顔してるよ……?」
あれっ……?
小傘さんに言われて、視界がちょっとだけ滲んでいる事に、漸く気が付いた。
ああもう、本当に駄目ですね。泣くつもりなんてなかったのに……。
でも、やっぱり抑えられない。外の世界の友達の事を思う度に、涙が溢れてくる。
もう、後ろは振り返らないって決めたのに……そう約束したはずなのに……。
「小傘さん、ごめんなさい……ちょっとだけ胸を貸してください」
「えっ? わっ、ちょ、早苗……」
小傘さんの返事は聞かず、私は小傘さんを抱きしめて……。
「ううっ……うああぁぁぁ……っ!!」
せめて声だけは押し殺して、私は我慢する事を止めた。
こんな情けない姿、小傘さんの前では見せたくなかったけど……我慢したくもなかったから。
幻想郷にやってきた事に、後悔はしていない。
それでも私は、元々は外の世界の住人なんです。外の世界の事を、忘れたくはないのです。
だから、神奈子様、諏訪子様。
今だけでいいです。どうか、約束を破らせてください。
本当に今だけ、後ろを振り向かせてください。
二度と取り戻せないと諦めた過去に思いを馳せる事を、お許しください。
どうか、この涙が落ち着くまで……。
いくら幻想郷に慣れてきたとはいえ、元の世界に思いを馳せるのもまた当然かもしれない
前触れという事は、前のシリーズのように次から大きな話になるという事ですかね、期待しています