ふらふらと、何をするでもなく湖のほとりを歩く。
湖に来たはいいものの、目的なんかは何にも無く、適当に彷徨っているだけだった。特に何か理由があって部屋を出たわけでは無いのだから当然といえば当然なのだが、何かしようという気にもなってないので別にいい。なにより館に戻るのはあまり気乗りしない。
久しぶりに見あげた月は少し欠けていた。昨日は調子が良かったので、十六夜の月と言ったところか。
私は欠けた月にはさして興味が無い。だというのに、今日の月にこんなにも引き寄せられるのは何故なのだろうか?
窓から覗いた空には雲一つ無く、点々としている星が、澄み切った黒にぽつりと浮かび上がる月の存在を更に目立たせている。そこに浮かんでいる月は、今まで見たどんな月よりも奇妙で妖しくて、そして綺麗で。ずっと外に出ずにいた私を誘い出すには充分な見事さだった。
昨日おとずれた満月は、彼女が居なくなってから何回目の物だったのだろうか? いつからか、私はその数字を数えるのを辞めてしまっていた。最初のうちはきちんと数えていた。特に理由は無かったのだが、彼女が消えた日が満月だったから。
でも、途中で耐えられなくなってしまった。知らないうちに私は自分で自分の時間を止め続けていたようで、その虚構を暴くように月日の経過をしっかりと知らせる月が疎ましくなってしまって。私は滅多に夜空をみなくなった。それでも、妖怪の体は満月に反応してしまう。否が応にも高揚してしまう自分が、嫌で嫌でしかたなかった。
彼女が死んだ瞬間は本当に突然な物で、しかしそれは必然な物でもあった。時間が進むたびに、それは突然から必然へと姿を変えて行く。――寿命。誰も抗う事の出来ない絶対的な運命。彼女はそのどうしようもなく残酷で完全な運命に連れ去られてしまった。
先送りにする手段はあった。そしてその方法を私は知っていた。方法は至ってシンプルで、彼女が首を縦に振ればすぐにでも行えることだった。なので、何かきっかけがあれば彼女に話を持ちかけた。私の眷属にならないか、と。
しかし、返事は決まって「なりません」だった。人間である自分は人間のままで死にたいと、いつも同じ事を言われて断られた。
強制してでも彼女を眷属に変えるべきだったのだろうか。そんな事を考えてももう無駄だとわかっているのに、その思考は私の頭の中で勝手に廻り続けている。救いも答えも無いこの自問に、気が狂ってしまいそうになっている。
それとももう狂っているのだろうか? 月は、それを知らせてくれるために私を誘い出したのだろうか?
ふらふらと、当て所も無く湖のほとりを歩く。帰ると言う選択肢は、まだ無い。
夜の湖はとても静かで、辺りには妖精一匹存在しない。私がたまに夜にこの辺を散歩しているのは周知されているので、下手な者は現れない為だ。近頃はめっきり出歩かなくなったのだが、今夜の様子を見るとまだその時の影響は残っているようだった。
ここにはあの子とよく二人で来た。夜に散歩がしたいと一声かければ、嫌な顔一つせず、むしろ笑顔でついてきてくれたっけ。
あの頃は、空で瞬く無数の星も、心地よく吹く風も、葉の擦れる音しか聞こえないこの静かさも、私たち二人の為に自然が用意してくれているものなのだと錯覚するほどに素晴らしい物に見えた。今では、ただ寂しさしか感じる事の出来ない風景が目に入るだけだ。二人から一人になるだけで、ここまで見え方は変わってしまうものなのか。
思えば、二人で散歩していたときも、特に何もしていなかった気がする。たまにどちらかが話しかける以外は、今のように歩いているだけだった。でも、それが楽しくてしかたなかったのを覚えている。
今日外に出て見て、あらためて私の中のあの子はとても大きい物だった事を認識する。パチェにも冷やかし気味に入れ込み過ぎないようにと言われていたのだが、まさかここまで本気になっていたとは。こんなに引きずる事になるなんて……もっと大切にしてやるべきだったな。もう二人で歩くことも無いのだとあらためて思うと、私はただ一人でうなだれるしか無かった。
ふらふらと、湖のほとりを歩く。そろそろ館へ戻るべきか。
しかしまあ、久々の外は泣くだけ泣いて終わりになってしまった。部屋でぼーっとし続けた方がまだましだったのでは無いだろうか。
帰ったらちょっとくつろいで、寝て、起きて、そこからはいつも通りの日々。緩やかで生ぬるい、絶望。何も変わらない、変えることが出来ない。変える気力が、もう出ない。これが人間に入れ込んだ吸血鬼の末路だ。
人為らざるものは、人の精神に強く影響を受ける。精神とはつまり心であり、その人の生きてきた証でもある。あの子の証は、とても良質なものだった。少なくとも一人の妖怪を堕とすには十分な程に。
何故逝ってしまったのか? 必然なんて言葉で納得できると思っているのか? 瀟洒で完全を自称するなら、こんなに主を悲しませるような事をしていくなよ―――
もう堪えきれないと感じた瞬間だった。辺りの空気が変わるのを感じたのは。
少々タイミングが良すぎるのではないだろうか。湖で人間の少女が倒れている事なんて、今までで一度も無かった。それが、とても久しぶりに、たまたま外に出てみたらばったり出くわすなんて。
どうしても運命的な物を感じてしまう。しかし、行き倒れている普通の少女という可能性だってある。普通の少女がこんな時間にこんなところにいるのはおかしいが、とにかくそういう事だってありえるだろう。そもそも、何故あんなところで倒れている子が生きていると考える?
でも、さっきここを通ったときにはこんな子はいなかったはずだが。さっきまでいっぱいいっぱいだった私の頭では、考えをまとめることはできなかった。
何をどうするべきか、この子に関わるべきか、そもそも何で私から関わる必要があるのか……回らない思考を一生懸命、無理やりに回転させる。
「ねえ、はねのおねえちゃん。ここ、どこ?」
「……ん?」
声のする方へ振り向くと、少女がこちらへ近づいて来たいた事にようやく気付く。
近くで見ると、少女と呼ぶにはまだ早いかもしれないぐらいの年齢だと言うことが分かった。幼女って感じでもないが。
それにしてもハネノオネエチャン、って……まあ私のことだよな。ここには私しかいないし。
というか、私が怖くないのか?
「ねーねー、どこなのここー」
表情に恐れは見えない。全く皆無。そんなに私には威厳が無いのかと、ちょっと傷つきそうになる。
「……湖よ、紅い館の近くの」
凹んでてもしょうがないので、質問に答えてやることにする。ちょっとした時間つぶしになればいいか。
「そーなんだー、ありがと! わたしはー、えーと……あれ? わたしのおなまえ、なんだっけー」
「えー……」
記憶喪失……?ちょっとややこしい事になりそうだ。
「……よし」
帰ろう。面倒ごとはもうたくさんだ。この子に構ってやる義理も無い。
「じゃあね、おちびさん。私の指差してる方へまっすぐ行けば人里があるから、そこまで精々頑張ってね」
無事につける保障は全く無いけどと、心の中で付け加える。無関係だと決めたなら関与する必要は無いはずだ。あの子が妖怪に襲われようが喰われようが、知ったことではない。
「どこいくのー?」
後ろから聞こえるあっけらかんとした声を無視して、館の方へと歩みを進める。しばらく歩いてもついて来る様子は無い。その距離はどんどん遠くなり、あの子から私は見えないだろうと言うぐらいの視程になった。
結局、外に出ても何もなかったな。ちょっと期待してたんだけど。
「もしかしたら何か変わるかと思ってたんだけどね……」
「そうなの?」
「ええ、そうなのよ、って……え!?」
いつの間にか、少女は私の横を歩いていた。ここまで走ってきたような形跡はその様子だけ見ると全く無く、変わりに、ここにいるのが当然だと言うような顔をしてついてきている。
「どうしたの?」
「いやいやいや、ちょっと待って。あなた、さっきまで大分向こうにいなかった?」
「えー、おねえちゃんがまっててくれたんじゃない」
「?? 待っててくれた? 私が?」
「おねえちゃんが見えなくなったから、ちょっとさみしかったからついていったの。そしたら、おねえちゃんじーっとして止まってたよー」
何を言ってるんだ、この子は。私は今まで立ち止まらずに歩いていたはずだ。それなのに、私自身が知らない間に私は立ち止まっていたというのか?
「あなた、いったいなにをしたの……?」
「えーと、こころのなかで、おねえちゃんとまって! っておねがいしたら、ぜんぶとまっちゃったのー」
「は? 全部?」
「うん、ぜんぶだよ。私がおねがいしたら、みんなとまってくれるんだけど、ほかのぜんぶもとまっちゃうんだ。なんでだろ?」
「それって……」
時間を停止している、と言うこと?そんなことがありえるのか。これといって気も力も感じない、どうみてもただの『人間の』女の子が時間停止?
「……面白い、面白いわ」
いままでずっと底のほうで押し殺されていた好奇心が、沸々と沸きあがってくる。この感覚は久しぶりだった。
放っておいて帰るなんてとんでもない事をしようとしたもんだ。そもそも、あんな面白いところで落ちてた少女を、何故無視する必要があった?考える事がいっぱいだったから?馬鹿な。混沌に頭を突っ込んでこその私だったのではないか。
「どうしたの、おねえちゃん?」
「どうもしてないわ。それよりあなた、私の家にくる?」
「え? いいの?」
「ええ、いいわよ」
まあ、嫌だといっても連れて行ったが、少女のあの様子では無理やり連れて行かなくてもともいいようだった。目を爛々と輝かせ、今にも飛び跳ねそうになってるのを見ると、断られるような事にはならないだろうから。
「やったー!」
ほら跳ねた。でも、そんなに喜ぶことか?このはしゃぎようはちょっと大げさじゃないだろうか。
「そんなに嬉しい? まだ私が誰なのか、どんなところに連れて行かれるのかもわからないのに」
「いいの! おねえちゃんといっしょなら!」
「え、私と?」
「うん! だって、おねえちゃんかわいいんだもん!」
「か!?」
かわいい!? 私が可愛いだって? いやいや、そんなことより。
「なに、その理由……」
「わたしねー、かわいいものだいすきなんだー。おねえちゃんみたとき、このひとだ! ってなったんだよー」
「どういうことなの……」
言ってる事はさっぱりわからないし、子供相手に可愛いだなんて言われるのは心外だった。しかしまあ、大人しくついてきてくれるなら別にいいか。なんとなく、この子相手に何を言ったって効かない気もするし、時間の無駄だろう。
「……そうね、うん。行くわよ、あなた」
「はーい!」
「うーん……あなた、あなたって言うのもなんだか情緒が無いわね。私が名前をつけてあげる」
「なまえもつけてくれるんだー、えへへ、うれしいなー。」
浮きそうなぐらい舞い上がってる。断らないと言うことは、オッケーという事だな。
「そうね、あなたの名前は……」
名前をつける、と言う行為は本来気軽にやるものではない。名前とはそのモノのこれからの運命を司る物だからだ。それに命があろうと無かろうと、つけられた名は朽ち果てるその時まで残る。始まりから終わりまで一緒に連れ添うのだから、運命に関与してくるのは至極当然の事。
そして、名前をつけたからには最後まで面倒を見てあげなければならない。それが名前をつける側の責任だ。その責任を、私は今から負おうとしているわけだ。本当にいいのか? 今日会うまでは全く関係無かったはずだ。見捨てて帰ろうともした。そんな子の名前を、私が?
つけてやろうじゃないか、もう頭は突っ込んだんだ。先の事なんて知らないが、流れる今をこの世で一番楽しめばいいんだろう? 結局、一瞬先の未来が現在なんだから。
「……あなたの名前は、十六夜咲夜。十六夜に咲き、夜と言う魔の時間に出会った子」
他の意味もあるんだけど、今は伏せておこう。機会が無ければこれからも話す事はないだろうが。
「……いざよい、さくやー?」
「そう、忘れちゃ駄目よ。今ここであなたの名は決まり、運命も定まった。私に名を託したのだから、これからはずっと私と一緒よ、わかった?」
「わかった!」
「……うん、いい返事ね。それじゃ、ちゃきちゃき帰るわよ」
夜はまだまだ永いのだから。これから一杯楽しまなくちゃね。
こうやって出会ったときの話を振り返ってみると、色々と普通じゃなかったなとあらためて思う。
あの月は私の能力が私に見せたものだったのではとか、咲夜は神隠しをくらったのではないかとか二人で色々考えてみるが、これだという確証は無いので真相は闇の中だ。ティータイム中のただの雑談なので、そんなに本気で考察はしてないが、面白そうなのでまた時間のある時にでも思案してみることにしよう。
「私、あの頃から随分変わりましたね」
「変わってないわよ。言葉遣いぐらいじゃない? 変わったの」
「そうですかねー、結構成長したのではないかと思っていたのですが」
「大きくなったって本質は変わらないものよ。いつまでも咲夜は咲夜のまま」
そういうと、咲夜は満面の笑みを浮かべ、大げさに手を叩いてみせた。
「なるほど! 確かにお嬢様への愛が私の本質とすれば、全くあの頃から変わっていない!」
よくわからないところも相変わらずだな。
「でも、何回振り返っても、あなたのこと結構よくわからないままなのよね」
自分の生い立ちがよくわからないというのは気分が晴れなさそうななものだが、咲夜は今までまったくそういった素振りを見せたことが無い。こういった話しになると、必ず咲夜が口にする言葉ある。
「別にいいですよ、私は私なんですから」
「そうね、その通り」
咲夜は咲夜、それ以上でも以下でも無い。この謎、いつかは解き明かしてやるけどね。
湖に来たはいいものの、目的なんかは何にも無く、適当に彷徨っているだけだった。特に何か理由があって部屋を出たわけでは無いのだから当然といえば当然なのだが、何かしようという気にもなってないので別にいい。なにより館に戻るのはあまり気乗りしない。
久しぶりに見あげた月は少し欠けていた。昨日は調子が良かったので、十六夜の月と言ったところか。
私は欠けた月にはさして興味が無い。だというのに、今日の月にこんなにも引き寄せられるのは何故なのだろうか?
窓から覗いた空には雲一つ無く、点々としている星が、澄み切った黒にぽつりと浮かび上がる月の存在を更に目立たせている。そこに浮かんでいる月は、今まで見たどんな月よりも奇妙で妖しくて、そして綺麗で。ずっと外に出ずにいた私を誘い出すには充分な見事さだった。
昨日おとずれた満月は、彼女が居なくなってから何回目の物だったのだろうか? いつからか、私はその数字を数えるのを辞めてしまっていた。最初のうちはきちんと数えていた。特に理由は無かったのだが、彼女が消えた日が満月だったから。
でも、途中で耐えられなくなってしまった。知らないうちに私は自分で自分の時間を止め続けていたようで、その虚構を暴くように月日の経過をしっかりと知らせる月が疎ましくなってしまって。私は滅多に夜空をみなくなった。それでも、妖怪の体は満月に反応してしまう。否が応にも高揚してしまう自分が、嫌で嫌でしかたなかった。
彼女が死んだ瞬間は本当に突然な物で、しかしそれは必然な物でもあった。時間が進むたびに、それは突然から必然へと姿を変えて行く。――寿命。誰も抗う事の出来ない絶対的な運命。彼女はそのどうしようもなく残酷で完全な運命に連れ去られてしまった。
先送りにする手段はあった。そしてその方法を私は知っていた。方法は至ってシンプルで、彼女が首を縦に振ればすぐにでも行えることだった。なので、何かきっかけがあれば彼女に話を持ちかけた。私の眷属にならないか、と。
しかし、返事は決まって「なりません」だった。人間である自分は人間のままで死にたいと、いつも同じ事を言われて断られた。
強制してでも彼女を眷属に変えるべきだったのだろうか。そんな事を考えてももう無駄だとわかっているのに、その思考は私の頭の中で勝手に廻り続けている。救いも答えも無いこの自問に、気が狂ってしまいそうになっている。
それとももう狂っているのだろうか? 月は、それを知らせてくれるために私を誘い出したのだろうか?
ふらふらと、当て所も無く湖のほとりを歩く。帰ると言う選択肢は、まだ無い。
夜の湖はとても静かで、辺りには妖精一匹存在しない。私がたまに夜にこの辺を散歩しているのは周知されているので、下手な者は現れない為だ。近頃はめっきり出歩かなくなったのだが、今夜の様子を見るとまだその時の影響は残っているようだった。
ここにはあの子とよく二人で来た。夜に散歩がしたいと一声かければ、嫌な顔一つせず、むしろ笑顔でついてきてくれたっけ。
あの頃は、空で瞬く無数の星も、心地よく吹く風も、葉の擦れる音しか聞こえないこの静かさも、私たち二人の為に自然が用意してくれているものなのだと錯覚するほどに素晴らしい物に見えた。今では、ただ寂しさしか感じる事の出来ない風景が目に入るだけだ。二人から一人になるだけで、ここまで見え方は変わってしまうものなのか。
思えば、二人で散歩していたときも、特に何もしていなかった気がする。たまにどちらかが話しかける以外は、今のように歩いているだけだった。でも、それが楽しくてしかたなかったのを覚えている。
今日外に出て見て、あらためて私の中のあの子はとても大きい物だった事を認識する。パチェにも冷やかし気味に入れ込み過ぎないようにと言われていたのだが、まさかここまで本気になっていたとは。こんなに引きずる事になるなんて……もっと大切にしてやるべきだったな。もう二人で歩くことも無いのだとあらためて思うと、私はただ一人でうなだれるしか無かった。
ふらふらと、湖のほとりを歩く。そろそろ館へ戻るべきか。
しかしまあ、久々の外は泣くだけ泣いて終わりになってしまった。部屋でぼーっとし続けた方がまだましだったのでは無いだろうか。
帰ったらちょっとくつろいで、寝て、起きて、そこからはいつも通りの日々。緩やかで生ぬるい、絶望。何も変わらない、変えることが出来ない。変える気力が、もう出ない。これが人間に入れ込んだ吸血鬼の末路だ。
人為らざるものは、人の精神に強く影響を受ける。精神とはつまり心であり、その人の生きてきた証でもある。あの子の証は、とても良質なものだった。少なくとも一人の妖怪を堕とすには十分な程に。
何故逝ってしまったのか? 必然なんて言葉で納得できると思っているのか? 瀟洒で完全を自称するなら、こんなに主を悲しませるような事をしていくなよ―――
もう堪えきれないと感じた瞬間だった。辺りの空気が変わるのを感じたのは。
少々タイミングが良すぎるのではないだろうか。湖で人間の少女が倒れている事なんて、今までで一度も無かった。それが、とても久しぶりに、たまたま外に出てみたらばったり出くわすなんて。
どうしても運命的な物を感じてしまう。しかし、行き倒れている普通の少女という可能性だってある。普通の少女がこんな時間にこんなところにいるのはおかしいが、とにかくそういう事だってありえるだろう。そもそも、何故あんなところで倒れている子が生きていると考える?
でも、さっきここを通ったときにはこんな子はいなかったはずだが。さっきまでいっぱいいっぱいだった私の頭では、考えをまとめることはできなかった。
何をどうするべきか、この子に関わるべきか、そもそも何で私から関わる必要があるのか……回らない思考を一生懸命、無理やりに回転させる。
「ねえ、はねのおねえちゃん。ここ、どこ?」
「……ん?」
声のする方へ振り向くと、少女がこちらへ近づいて来たいた事にようやく気付く。
近くで見ると、少女と呼ぶにはまだ早いかもしれないぐらいの年齢だと言うことが分かった。幼女って感じでもないが。
それにしてもハネノオネエチャン、って……まあ私のことだよな。ここには私しかいないし。
というか、私が怖くないのか?
「ねーねー、どこなのここー」
表情に恐れは見えない。全く皆無。そんなに私には威厳が無いのかと、ちょっと傷つきそうになる。
「……湖よ、紅い館の近くの」
凹んでてもしょうがないので、質問に答えてやることにする。ちょっとした時間つぶしになればいいか。
「そーなんだー、ありがと! わたしはー、えーと……あれ? わたしのおなまえ、なんだっけー」
「えー……」
記憶喪失……?ちょっとややこしい事になりそうだ。
「……よし」
帰ろう。面倒ごとはもうたくさんだ。この子に構ってやる義理も無い。
「じゃあね、おちびさん。私の指差してる方へまっすぐ行けば人里があるから、そこまで精々頑張ってね」
無事につける保障は全く無いけどと、心の中で付け加える。無関係だと決めたなら関与する必要は無いはずだ。あの子が妖怪に襲われようが喰われようが、知ったことではない。
「どこいくのー?」
後ろから聞こえるあっけらかんとした声を無視して、館の方へと歩みを進める。しばらく歩いてもついて来る様子は無い。その距離はどんどん遠くなり、あの子から私は見えないだろうと言うぐらいの視程になった。
結局、外に出ても何もなかったな。ちょっと期待してたんだけど。
「もしかしたら何か変わるかと思ってたんだけどね……」
「そうなの?」
「ええ、そうなのよ、って……え!?」
いつの間にか、少女は私の横を歩いていた。ここまで走ってきたような形跡はその様子だけ見ると全く無く、変わりに、ここにいるのが当然だと言うような顔をしてついてきている。
「どうしたの?」
「いやいやいや、ちょっと待って。あなた、さっきまで大分向こうにいなかった?」
「えー、おねえちゃんがまっててくれたんじゃない」
「?? 待っててくれた? 私が?」
「おねえちゃんが見えなくなったから、ちょっとさみしかったからついていったの。そしたら、おねえちゃんじーっとして止まってたよー」
何を言ってるんだ、この子は。私は今まで立ち止まらずに歩いていたはずだ。それなのに、私自身が知らない間に私は立ち止まっていたというのか?
「あなた、いったいなにをしたの……?」
「えーと、こころのなかで、おねえちゃんとまって! っておねがいしたら、ぜんぶとまっちゃったのー」
「は? 全部?」
「うん、ぜんぶだよ。私がおねがいしたら、みんなとまってくれるんだけど、ほかのぜんぶもとまっちゃうんだ。なんでだろ?」
「それって……」
時間を停止している、と言うこと?そんなことがありえるのか。これといって気も力も感じない、どうみてもただの『人間の』女の子が時間停止?
「……面白い、面白いわ」
いままでずっと底のほうで押し殺されていた好奇心が、沸々と沸きあがってくる。この感覚は久しぶりだった。
放っておいて帰るなんてとんでもない事をしようとしたもんだ。そもそも、あんな面白いところで落ちてた少女を、何故無視する必要があった?考える事がいっぱいだったから?馬鹿な。混沌に頭を突っ込んでこその私だったのではないか。
「どうしたの、おねえちゃん?」
「どうもしてないわ。それよりあなた、私の家にくる?」
「え? いいの?」
「ええ、いいわよ」
まあ、嫌だといっても連れて行ったが、少女のあの様子では無理やり連れて行かなくてもともいいようだった。目を爛々と輝かせ、今にも飛び跳ねそうになってるのを見ると、断られるような事にはならないだろうから。
「やったー!」
ほら跳ねた。でも、そんなに喜ぶことか?このはしゃぎようはちょっと大げさじゃないだろうか。
「そんなに嬉しい? まだ私が誰なのか、どんなところに連れて行かれるのかもわからないのに」
「いいの! おねえちゃんといっしょなら!」
「え、私と?」
「うん! だって、おねえちゃんかわいいんだもん!」
「か!?」
かわいい!? 私が可愛いだって? いやいや、そんなことより。
「なに、その理由……」
「わたしねー、かわいいものだいすきなんだー。おねえちゃんみたとき、このひとだ! ってなったんだよー」
「どういうことなの……」
言ってる事はさっぱりわからないし、子供相手に可愛いだなんて言われるのは心外だった。しかしまあ、大人しくついてきてくれるなら別にいいか。なんとなく、この子相手に何を言ったって効かない気もするし、時間の無駄だろう。
「……そうね、うん。行くわよ、あなた」
「はーい!」
「うーん……あなた、あなたって言うのもなんだか情緒が無いわね。私が名前をつけてあげる」
「なまえもつけてくれるんだー、えへへ、うれしいなー。」
浮きそうなぐらい舞い上がってる。断らないと言うことは、オッケーという事だな。
「そうね、あなたの名前は……」
名前をつける、と言う行為は本来気軽にやるものではない。名前とはそのモノのこれからの運命を司る物だからだ。それに命があろうと無かろうと、つけられた名は朽ち果てるその時まで残る。始まりから終わりまで一緒に連れ添うのだから、運命に関与してくるのは至極当然の事。
そして、名前をつけたからには最後まで面倒を見てあげなければならない。それが名前をつける側の責任だ。その責任を、私は今から負おうとしているわけだ。本当にいいのか? 今日会うまでは全く関係無かったはずだ。見捨てて帰ろうともした。そんな子の名前を、私が?
つけてやろうじゃないか、もう頭は突っ込んだんだ。先の事なんて知らないが、流れる今をこの世で一番楽しめばいいんだろう? 結局、一瞬先の未来が現在なんだから。
「……あなたの名前は、十六夜咲夜。十六夜に咲き、夜と言う魔の時間に出会った子」
他の意味もあるんだけど、今は伏せておこう。機会が無ければこれからも話す事はないだろうが。
「……いざよい、さくやー?」
「そう、忘れちゃ駄目よ。今ここであなたの名は決まり、運命も定まった。私に名を託したのだから、これからはずっと私と一緒よ、わかった?」
「わかった!」
「……うん、いい返事ね。それじゃ、ちゃきちゃき帰るわよ」
夜はまだまだ永いのだから。これから一杯楽しまなくちゃね。
こうやって出会ったときの話を振り返ってみると、色々と普通じゃなかったなとあらためて思う。
あの月は私の能力が私に見せたものだったのではとか、咲夜は神隠しをくらったのではないかとか二人で色々考えてみるが、これだという確証は無いので真相は闇の中だ。ティータイム中のただの雑談なので、そんなに本気で考察はしてないが、面白そうなのでまた時間のある時にでも思案してみることにしよう。
「私、あの頃から随分変わりましたね」
「変わってないわよ。言葉遣いぐらいじゃない? 変わったの」
「そうですかねー、結構成長したのではないかと思っていたのですが」
「大きくなったって本質は変わらないものよ。いつまでも咲夜は咲夜のまま」
そういうと、咲夜は満面の笑みを浮かべ、大げさに手を叩いてみせた。
「なるほど! 確かにお嬢様への愛が私の本質とすれば、全くあの頃から変わっていない!」
よくわからないところも相変わらずだな。
「でも、何回振り返っても、あなたのこと結構よくわからないままなのよね」
自分の生い立ちがよくわからないというのは気分が晴れなさそうななものだが、咲夜は今までまったくそういった素振りを見せたことが無い。こういった話しになると、必ず咲夜が口にする言葉ある。
「別にいいですよ、私は私なんですから」
「そうね、その通り」
咲夜は咲夜、それ以上でも以下でも無い。この謎、いつかは解き明かしてやるけどね。
語彙が何も思いつかなくて非常に歯がゆいんだけれど、その、なんだ。
いいと思った。