一匹の鬼が居ました。
鬼は、いつも独りでした。
でも鬼は、それを寂しいと思ったことはありませんでした。
自分は不幸だと、考えたことはありませんでした。
鬼はいつも、自分が幸せであるかのように振舞っていました。
誰かが言いました。
「あの鬼は、幸せじゃないってことが認められないんだよ」
独りである鬼が、不幸でないと言い張る鬼が、決して幸せなどではないと。
その誰かは、口に出してしまいました。
「幸せなんて、手を伸ばせばそこにあるのに」
続けて誰かが、言いました。
鬼は、他人からは好かれていません。
ですから、このような会話の感情は、直ぐに周りに伝播します。
人々は口々に言いました。
鬼は幸せではないと。
鬼は独りで寂しいはずと。
鬼は意地っ張りなだけなのだと。
鬼はとてもとても、可哀想な存在なのだと。
人々は、言いたい事を言うだけ言って、鬼にどうこうしようという気はありません。
何故なら鬼が、怖いからです。
鬼への恐怖の届かぬところで、人々は好き勝手、自分の中の鬼を傷つけました。
さて、所変わって鬼のお話。
色々な場所で場面で交わされる、鬼への悪口、独善同情。
それらはやがて、鬼の耳に届きました。
幸い(それが幸福なのかは、わかりませんが)、鬼には力がありました。
自分を邪魔する敵を、自分の陰口を叩く輩を、叩きのめすだけの実力を持っていました。
鬼は、里に少しちょっかいを出しました。
自分の力を見せることで、鬼は自分への恐怖を思いださせようとしたのです。
ところが人は、そうは思いませんでした。
いえ確かに、鬼とは恐ろしいモノなのだと、再確認こそしたのですが、それ以上に、鬼への反感情を募らせていきました。
自分が気に入らないからと言って里を攻撃する、鬼というモノに。
恐れと、嫌悪を募らせていきました。
その中に、畏怖の念は、ありませんでした。
里の人々は、決して鬼など認めないと、結束を固めました。
とうとう鬼は、山へ隠れてしまいました。
こんな奴らに興味はないと、そう言って、山の中で酒ばかり飲んでいました。
時折訪れる、命知らずの妖や、勇気と正義に突き動かされた鬼退治の人間を、適当に痛めつけたりあしらったり、面倒くさそうに追い払いました。
やがて鬼の元を訪れる者は絶えてしまいました。
里の人々達は鬼のことなどすっかり忘れ。
山の妖怪達も鬼の強さを認め畏れたからです。
幾分か鬼は、気分が良くなりました。
鬼にとって、畏れは尊敬に等しいから。
それと、誰かと関わりを持つのは面倒くさいから。
「これで、いい」
鬼は一匹で生きていくことにしました。
自分で選んだ、一匹きりの場所で、鬼は不幸ではありませんでした。
でも鬼は、決して幸せであるとは言いませんでした。
前からそうでした。
鬼は不幸ではないけれど、自分が幸せであるとは、言いませんでした。
幸せであることは、似合わないからです。
不幸であることは、哀れであるからです。
そのどっちも、鬼は認めませんでした。
以前人は「鬼の幸せは直ぐ近くにある」と言いました。
それは間違ったことでは、ありませんでした。
鬼が幸せになりたいと願えば、きっと鬼は幸せになれました。
でもそれを、鬼が願うことはありませんでした。
願うことがないのなら、それは幸せになれないのと同じことなのに。
ですが鬼は、いつだって幸せの直ぐ近くに居ました。
手に取る訳ではありませんが、幸せからは離れようとしませんでした。
幸せを掴めないのは、格好悪いからです。
鬼が選んだ場所は、そういう場所でした。
不幸ではない。 幸せではない。 幸せになれる。 でもそれを手にとらない。
そんな道を、鬼は選んだのです。
ある日、鬼の元に誰かが訪ねてきました。
鬼にしてはずぅっとずぅっと体の小さい自分よりも、二倍くらい体の大きいその誰かを、鬼は迷わず追い出そうとしました。
しかしその誰かは、絶対に退こうとはしませんでした。
久しぶりに面倒臭い奴がきたな、と鬼は少しだけ本気を出しました。
それでもその誰かは、ビクともしません。
体と同じように大きな大きな杯で、美味そうに酒を啜りながら、快活そうに笑っています。
鬼はもう少し本気を出しました。
すると、その誰かはびっくりしたようです。
でもまた愉しそうに笑って、鬼を押し返しました。
鬼はびっくりしました。
まさか自分の力と同等に渡り合える者が居るなんて。
鬼はいつでも、誰よりもずぅっとずぅっと強かったのですから、誰かに本気を出したことはありませんでした。
その本気を出しても、笑っていられる相手など、居る訳ないとすら思っていました。
でも今確かに、その存在が居るのです。
鬼は少しずつ、愉しくなってきました。
目の前の体の大きな誰かと力比べをすることが。
自分の知らなかった世界が少しずつ拓けていくことが。
たまらなく幸せなことのように思えてきました。
それからどれくらい、力を交わしていたでしょうか。
どちらともなく、二人は倒れました。
それから、どちらともなく笑いはじめました。
山を震わせ、大地を揺らすような大笑いでした。
やがてその笑い声が消えると、二人は立ち上がり、そして腕を組み交わしました。
「アタシは、星熊勇儀。 アンタは?」
立派な角を夕陽に反射させながら、誰か、いえ勇儀は名乗ります。
「私は萃香。 伊吹萃香」
鬼は、長らく名乗ることなく忘れかけていたその名前を、久しぶりに口に出しました。
「そうか、萃香」
「おう、勇儀」
互いの名前を呼び合って、二人は笑いました。
それから、二人は酒を酌み交わしました。
いつまでもいつまでも、注いでは飲んで注いでは飲んで。
朝が来るのもお構いなしに、二人は永い宴を楽しみました。
鬼にとって、久しぶりの孤独でない夜でした。
鬼は二匹で生きていくことにしました。
勇儀と名乗った彼女は、実は萃香と同じで鬼でした。
といっても、萃香のように嫌われ疎まれ忌まれた鬼とは違い、その豪快な力と豪快な性格で、有象無象魑魅魍魎をまとめる山のリーダーのような鬼でした。
萃香は、自分を邪険にしない勇儀のことが好きになっていきました。
勇儀もまた、自分と同じくらいの力を持つ萃香のことが好きでした。
お互い初めてと言って良い程、気の合う相性の良い相手を見つけた二人は、しばらくの間幸せでした。
杯を交わしたり、力をぶつけ合ったり。
輝かしい世界には生きることのできない二人でしたが、何もなくても、二人は二人であるだけでとてもとても幸せでした。
力比べでは、最初は萃香が負ける事が多かったのですが、萃香が勘を取り戻すにつれて二人の力は拮抗するようになりました。
と言っても、どちらが勝ったからといって何かが変わる訳ではありません。
勝った方も負けた方も、力比べが終わればただ笑って、どちらともなく酒を交わします。
ただ、それだけ。
それだけで、二人はとても幸せでした。
ある日の事です。
いえ、本当の事を言うと『それ』はもっと前から始まっていました。
前々から勇儀は、とてもとても忙しい鬼でした。
頭領気質というのか、とにかくいつの間にか自分の後ろに誰かがついてくる勇儀。
彼女は、そんな誰かにも優しいので、世話をしてあげたり強くしてあげたり。
そんなことを何度も繰り返している内に、勇儀は山の本当の頭領のようになっていました。
それでも勇儀は、決して萃香からは離れませんでした。
忙しく、とても自分の時間など持てない勇儀は、しかし親友である萃香との時間を、とてもとても大切にしていました。
でも、やがて限界というのは訪れるものです。
勇儀が、僅かながらとはいえ日に日に疲弊していっているのが、萃香にもわかりました。
それでも勇儀は、自分に笑顔を向けます。
疲れている筈なのに『力比べをしよう』なんて笑います。
どんなことがあっても、勇儀は元気そうに豪快そう『平気だ』なんて言います。
それが萃香には、耐えられませんでした。
勇儀を疲れさせることが。
疲れなんて全く滲ませない、いつも通りの笑顔を見ることが。
眉を顰めて眠る勇儀の顔を見ることが。
そしてなにより、勇儀に嘘を吐かせることが。
鬼はふつう、嘘を吐きません。
何故なら嘘は、とてもとても卑怯なモノだからです。
鬼は卑怯なモノが大嫌いです。
ですから萃香は、その卑怯なモノを、大好きな大切な勇儀に強要させてしまうのが。
たまらなく苦しかったのです。
今は嘘ではないかもしれません。
でもいつか、疲れは本当の事になっていきます。
それでも勇儀はきっと、萃香には『平気だ』なんて言うでしょう。
頬が窶れても、眼に隈ができても。
勇儀はいつもの笑顔を見せるでしょう。
萃香はそれが、辛いのです。
そんなものからは、眼を逸らしてしまいたいのです。
ですから萃香は、決めました。
嘘を吐かせるのが辛いなら――――
「勇儀、アタシはちょっと、別の場所を探すことにするよ」
「……そうかい。 元気でな」
「うん」
「――――また、会おう」
「……うん、また、会おう」
そうして萃香という鬼は、また一匹で生きていくことになりました。
鬼は、いつも独りでした。
その鬼は、不幸ではありませんでした。
でも決して、幸せなんかではありません。
鬼には嫌いなモノがいくつもありました。
炒った豆。
弱いモノ。
卑怯なモノ。
嘘。
それから、『いつか』という言葉。
鬼は嘘が大嫌いです。
大嫌いなモノが、いつも自分のまわりにまとわりついているなんて、誰だって嫌でしょう?
ですから鬼は、幸せになんかなれっこないのです。
鬼は嘘を吐きました。
鬼は卑怯な事モノが、大嫌いです。
ですが鬼にとって、大嫌いなモノにただ顔を顰めることは、卑怯な事なのです。
ですから鬼は、笑うことにしました。
自分の交わした約束を。
自分から離れていった嘘を。
『またいつか』なんて、霧のような未来のことを。
笑うことにしました。
鬼は幸せにはなれません。
嘘を吐いた鬼は幸せにはなれません。
ですが笑うことは、できるのです。
――――そうして、未来の事を言うと、鬼が笑うようになったのです。
めでたし、めでたし。
一人の鬼が居ました。
鬼は、いつも一人でした。
でも鬼は、それを寂しいと思ったことはありませんでした。
自分は不幸だと、考えたことはありませんでした。
鬼はいつも、自分が幸せであるかのように振舞っていました。
誰かが言いました。
「いつか、あの鬼は幸せになれるさ」
鬼は、いつも独りでした。
でも鬼は、それを寂しいと思ったことはありませんでした。
自分は不幸だと、考えたことはありませんでした。
鬼はいつも、自分が幸せであるかのように振舞っていました。
誰かが言いました。
「あの鬼は、幸せじゃないってことが認められないんだよ」
独りである鬼が、不幸でないと言い張る鬼が、決して幸せなどではないと。
その誰かは、口に出してしまいました。
「幸せなんて、手を伸ばせばそこにあるのに」
続けて誰かが、言いました。
鬼は、他人からは好かれていません。
ですから、このような会話の感情は、直ぐに周りに伝播します。
人々は口々に言いました。
鬼は幸せではないと。
鬼は独りで寂しいはずと。
鬼は意地っ張りなだけなのだと。
鬼はとてもとても、可哀想な存在なのだと。
人々は、言いたい事を言うだけ言って、鬼にどうこうしようという気はありません。
何故なら鬼が、怖いからです。
鬼への恐怖の届かぬところで、人々は好き勝手、自分の中の鬼を傷つけました。
さて、所変わって鬼のお話。
色々な場所で場面で交わされる、鬼への悪口、独善同情。
それらはやがて、鬼の耳に届きました。
幸い(それが幸福なのかは、わかりませんが)、鬼には力がありました。
自分を邪魔する敵を、自分の陰口を叩く輩を、叩きのめすだけの実力を持っていました。
鬼は、里に少しちょっかいを出しました。
自分の力を見せることで、鬼は自分への恐怖を思いださせようとしたのです。
ところが人は、そうは思いませんでした。
いえ確かに、鬼とは恐ろしいモノなのだと、再確認こそしたのですが、それ以上に、鬼への反感情を募らせていきました。
自分が気に入らないからと言って里を攻撃する、鬼というモノに。
恐れと、嫌悪を募らせていきました。
その中に、畏怖の念は、ありませんでした。
里の人々は、決して鬼など認めないと、結束を固めました。
とうとう鬼は、山へ隠れてしまいました。
こんな奴らに興味はないと、そう言って、山の中で酒ばかり飲んでいました。
時折訪れる、命知らずの妖や、勇気と正義に突き動かされた鬼退治の人間を、適当に痛めつけたりあしらったり、面倒くさそうに追い払いました。
やがて鬼の元を訪れる者は絶えてしまいました。
里の人々達は鬼のことなどすっかり忘れ。
山の妖怪達も鬼の強さを認め畏れたからです。
幾分か鬼は、気分が良くなりました。
鬼にとって、畏れは尊敬に等しいから。
それと、誰かと関わりを持つのは面倒くさいから。
「これで、いい」
鬼は一匹で生きていくことにしました。
自分で選んだ、一匹きりの場所で、鬼は不幸ではありませんでした。
でも鬼は、決して幸せであるとは言いませんでした。
前からそうでした。
鬼は不幸ではないけれど、自分が幸せであるとは、言いませんでした。
幸せであることは、似合わないからです。
不幸であることは、哀れであるからです。
そのどっちも、鬼は認めませんでした。
以前人は「鬼の幸せは直ぐ近くにある」と言いました。
それは間違ったことでは、ありませんでした。
鬼が幸せになりたいと願えば、きっと鬼は幸せになれました。
でもそれを、鬼が願うことはありませんでした。
願うことがないのなら、それは幸せになれないのと同じことなのに。
ですが鬼は、いつだって幸せの直ぐ近くに居ました。
手に取る訳ではありませんが、幸せからは離れようとしませんでした。
幸せを掴めないのは、格好悪いからです。
鬼が選んだ場所は、そういう場所でした。
不幸ではない。 幸せではない。 幸せになれる。 でもそれを手にとらない。
そんな道を、鬼は選んだのです。
ある日、鬼の元に誰かが訪ねてきました。
鬼にしてはずぅっとずぅっと体の小さい自分よりも、二倍くらい体の大きいその誰かを、鬼は迷わず追い出そうとしました。
しかしその誰かは、絶対に退こうとはしませんでした。
久しぶりに面倒臭い奴がきたな、と鬼は少しだけ本気を出しました。
それでもその誰かは、ビクともしません。
体と同じように大きな大きな杯で、美味そうに酒を啜りながら、快活そうに笑っています。
鬼はもう少し本気を出しました。
すると、その誰かはびっくりしたようです。
でもまた愉しそうに笑って、鬼を押し返しました。
鬼はびっくりしました。
まさか自分の力と同等に渡り合える者が居るなんて。
鬼はいつでも、誰よりもずぅっとずぅっと強かったのですから、誰かに本気を出したことはありませんでした。
その本気を出しても、笑っていられる相手など、居る訳ないとすら思っていました。
でも今確かに、その存在が居るのです。
鬼は少しずつ、愉しくなってきました。
目の前の体の大きな誰かと力比べをすることが。
自分の知らなかった世界が少しずつ拓けていくことが。
たまらなく幸せなことのように思えてきました。
それからどれくらい、力を交わしていたでしょうか。
どちらともなく、二人は倒れました。
それから、どちらともなく笑いはじめました。
山を震わせ、大地を揺らすような大笑いでした。
やがてその笑い声が消えると、二人は立ち上がり、そして腕を組み交わしました。
「アタシは、星熊勇儀。 アンタは?」
立派な角を夕陽に反射させながら、誰か、いえ勇儀は名乗ります。
「私は萃香。 伊吹萃香」
鬼は、長らく名乗ることなく忘れかけていたその名前を、久しぶりに口に出しました。
「そうか、萃香」
「おう、勇儀」
互いの名前を呼び合って、二人は笑いました。
それから、二人は酒を酌み交わしました。
いつまでもいつまでも、注いでは飲んで注いでは飲んで。
朝が来るのもお構いなしに、二人は永い宴を楽しみました。
鬼にとって、久しぶりの孤独でない夜でした。
鬼は二匹で生きていくことにしました。
勇儀と名乗った彼女は、実は萃香と同じで鬼でした。
といっても、萃香のように嫌われ疎まれ忌まれた鬼とは違い、その豪快な力と豪快な性格で、有象無象魑魅魍魎をまとめる山のリーダーのような鬼でした。
萃香は、自分を邪険にしない勇儀のことが好きになっていきました。
勇儀もまた、自分と同じくらいの力を持つ萃香のことが好きでした。
お互い初めてと言って良い程、気の合う相性の良い相手を見つけた二人は、しばらくの間幸せでした。
杯を交わしたり、力をぶつけ合ったり。
輝かしい世界には生きることのできない二人でしたが、何もなくても、二人は二人であるだけでとてもとても幸せでした。
力比べでは、最初は萃香が負ける事が多かったのですが、萃香が勘を取り戻すにつれて二人の力は拮抗するようになりました。
と言っても、どちらが勝ったからといって何かが変わる訳ではありません。
勝った方も負けた方も、力比べが終わればただ笑って、どちらともなく酒を交わします。
ただ、それだけ。
それだけで、二人はとても幸せでした。
ある日の事です。
いえ、本当の事を言うと『それ』はもっと前から始まっていました。
前々から勇儀は、とてもとても忙しい鬼でした。
頭領気質というのか、とにかくいつの間にか自分の後ろに誰かがついてくる勇儀。
彼女は、そんな誰かにも優しいので、世話をしてあげたり強くしてあげたり。
そんなことを何度も繰り返している内に、勇儀は山の本当の頭領のようになっていました。
それでも勇儀は、決して萃香からは離れませんでした。
忙しく、とても自分の時間など持てない勇儀は、しかし親友である萃香との時間を、とてもとても大切にしていました。
でも、やがて限界というのは訪れるものです。
勇儀が、僅かながらとはいえ日に日に疲弊していっているのが、萃香にもわかりました。
それでも勇儀は、自分に笑顔を向けます。
疲れている筈なのに『力比べをしよう』なんて笑います。
どんなことがあっても、勇儀は元気そうに豪快そう『平気だ』なんて言います。
それが萃香には、耐えられませんでした。
勇儀を疲れさせることが。
疲れなんて全く滲ませない、いつも通りの笑顔を見ることが。
眉を顰めて眠る勇儀の顔を見ることが。
そしてなにより、勇儀に嘘を吐かせることが。
鬼はふつう、嘘を吐きません。
何故なら嘘は、とてもとても卑怯なモノだからです。
鬼は卑怯なモノが大嫌いです。
ですから萃香は、その卑怯なモノを、大好きな大切な勇儀に強要させてしまうのが。
たまらなく苦しかったのです。
今は嘘ではないかもしれません。
でもいつか、疲れは本当の事になっていきます。
それでも勇儀はきっと、萃香には『平気だ』なんて言うでしょう。
頬が窶れても、眼に隈ができても。
勇儀はいつもの笑顔を見せるでしょう。
萃香はそれが、辛いのです。
そんなものからは、眼を逸らしてしまいたいのです。
ですから萃香は、決めました。
嘘を吐かせるのが辛いなら――――
「勇儀、アタシはちょっと、別の場所を探すことにするよ」
「……そうかい。 元気でな」
「うん」
「――――また、会おう」
「……うん、また、会おう」
そうして萃香という鬼は、また一匹で生きていくことになりました。
鬼は、いつも独りでした。
その鬼は、不幸ではありませんでした。
でも決して、幸せなんかではありません。
鬼には嫌いなモノがいくつもありました。
炒った豆。
弱いモノ。
卑怯なモノ。
嘘。
それから、『いつか』という言葉。
鬼は嘘が大嫌いです。
大嫌いなモノが、いつも自分のまわりにまとわりついているなんて、誰だって嫌でしょう?
ですから鬼は、幸せになんかなれっこないのです。
鬼は嘘を吐きました。
鬼は卑怯な事モノが、大嫌いです。
ですが鬼にとって、大嫌いなモノにただ顔を顰めることは、卑怯な事なのです。
ですから鬼は、笑うことにしました。
自分の交わした約束を。
自分から離れていった嘘を。
『またいつか』なんて、霧のような未来のことを。
笑うことにしました。
鬼は幸せにはなれません。
嘘を吐いた鬼は幸せにはなれません。
ですが笑うことは、できるのです。
――――そうして、未来の事を言うと、鬼が笑うようになったのです。
めでたし、めでたし。
一人の鬼が居ました。
鬼は、いつも一人でした。
でも鬼は、それを寂しいと思ったことはありませんでした。
自分は不幸だと、考えたことはありませんでした。
鬼はいつも、自分が幸せであるかのように振舞っていました。
誰かが言いました。
「いつか、あの鬼は幸せになれるさ」
まぁ話の内容はこれはこれでいいんだけどね…