たった一枚の、紙で出来た障子。それを開けることが私にはできなかった。
この向こう側ではきっと輝夜様が寝ているから。
なにしろ相手は姫様なのだ。毎日昼過ぎまで寝てて、一日中特に何もしていない輝夜様だけど、姫様は姫様。寝所へ足を踏み入れるなんて、とてもじゃないけど許されない。
「あら、どうしたのウドンゲ」
はっとして振り返ると師匠が立っていた。
八意永琳。私のお師匠様で月から来た天才薬師様。
師匠は輝夜様の部屋の前にいる私を見てから、障子の向こうを透かし見るようにした。
そうして小首を傾げる。
「輝夜に何か用事?」
「それが……えっと、恥ずかしい限りなんですけど、兎たちが、その、またストライキを……」
「ああ、そんなこともあったわねぇ」
「あったわねぇじゃないです師匠。今まさに起きてます」
「ばしっと叱ればいいじゃない。相変わらず威厳がないのね」
ため息をつく師匠だけど、そうしたいのはこっちだ。というかもう今日だけでため息だらけだ。
先ほどの兎たちとのやりとりが思い返される。
『こら、ちゃんと仕事しなさい。掃除は終わったの?』
『終わってないー』
『遊ぶー』
『遊ぶ、じゃないでしょう。仕事はしなさいな』
『ストライキ中ー』
『ストライキー』
『またぁ!? そんなことばっかしてないで働きなさいっ』
『でも姫様も働いてないー』
『働いてないよねー』
『遊んでもないけどー』
『あそぼー』
『ちょ、ちょっとこら! 待ちなさーい!』
つまり、どちらかというと。
「――威厳がないのは輝夜様じゃないですか!」
「こら。滅多なことを言うものじゃないわ」
「でも……」
「まあまあ」
師匠は宥めるように言ってくるが、実際姫様に威厳が足りなさ過ぎるのがいけないと思うのだ。
「とりあえず、私はちょっと輝夜に用があるから起こすけど、貴方はどうする?」
「えーっと……」
ちょっと考えたけど私は首を横に振った。
師匠だから姫様の寝室に入っても何となく許されるだけで、私はそういうわけにもいかない。それに。
「別に何が言えるわけでもないし……やめときます」
「あらそう」
「では私は」
一礼して、やって来た方向へ廊下を戻る。兎たちがサボる分の仕事もやらないといけないし……はあ。
「あ、そうそう。一応結界張っとくけど、私、今日いないから」
すると私の背に声がかけられた。
ふぅん、今日は師匠いないのかぁ。
「え、いないんですか!?」
私が振り返った時には、既に師匠は寝室に入っていってしまっていた。
§ § §
「はい、起きて起きてー!」
「うぶぁ!? て、敵襲!?」
「いいえ。衛生兵ですわ」
いきなり布団を引っぺがしてきた永琳が、何か言ってる。
私これでも姫なんだけど。何考えているのかしら。
ひとまず剥ぎ取られた布団へ手を伸ばす。
「衛生兵なら私に布を巻きなさい。ほらそれを返して」
「患部を洗って消毒しないと」
「いらないわよ!?」
片手に持った水差しを揺らす永琳。
というか患部ってどこよ。私はどこも悪くないわよ。
「ふわぁ……。まったく、こんな朝早くに起こすなんてどういうつもり?」
「もう皆起きて、ご飯もとっくの昔に食べ終わってるわよ」
「私を、朝に起こすなんてどういうつもり?」
朝は寝過ごすものと、千年前から相場は決まっている。
永琳はこれ見よがしにため息をついてきたけど、甘い甘い。世の俗人がそれで少し傷ついたとしても、穢れのない月人たる私にはそんな心理攻撃など効かないわ。
「で、結局何の用事なの? そろそろ寝たいのだけれど」
「いや、寝ちゃダメよ。ちょっと用事を頼みたいから」
「んー、まあ聞くだけ聞いとくわ」
枕を抱えて、仰向けに布団へ寝っ転がる。ああ、柔らかくて気持ちいい。
首だけで永琳の方を見ると、彼女はにっこりと笑って言った。
「今日私はてゐを連れて留守にするから、永遠亭を一日よろしくお願いするわね」
「んあ? あー」
あー、あれね。留守ね。まあいつも永琳がいるわけでもないしいいんじゃないかしら。
っていうかそんなことより、それを言うためにわざわざこの私を叩き起こしたことの方が大問題よ。
「はいはい留守ねー。わかったわー」
「じゃあ頼んだわよ輝夜。たとえばの話なんだけど、もし私の薬品庫とかから薬がなくなってたりしたら、わかってるわよね?」
「えっ」
既に寝直す気満々だった私の視界の中で、永琳が再び微笑んだ。
なんか、とても邪悪な感じの笑みに見えるのは気のせいかしら。
「じゃ頼んだわね」
そう言って永琳はあっさりと寝室から出ていった。私の布団を片手に軽々と持ちながら。
「うえ……なにこれ」
ぼんやりと障子の方を見ながら、背中に伝う汗を感じて顔をしかめる。
まあ、こんなところに好き好んで来る物好きもいないわよね。
嫌な汗もかいちゃったことだし、布団をどける手間がかからなくてよかったわ。
うん、寝直そう。
§ § §
ちりんちりんという音がした。
「ん、なにかしら?」
師匠と別れた後、兎たちがサボった分の掃除をして、洗濯をして、草を刈って、倉庫の整理をして、なんだかいつもと仕事の量があんまり変わらないことに気づいて、ちょっと涙が出そうになったところでそれは聞こえてきた。
風鈴みたいに軽く、けれど耳の近くで鳴っているみたいに鮮明な音。もちろん私の周りに風鈴なんて見あたらない。
「あー、そういえば師匠が結界張るって言ってたっけ」
ということは侵入者か何かなのかなぁ。なんか、さりげなさ過ぎる警告だけれど。
警告じゃなくて最初から入れないようにしてくれれば――ああ、それだと本当に用事のある人が困るか。
すると侵入者ってより、人里の方から誰かがお薬でも買いに来たのかも。
「そこのっ! ここにあるめずらしー薬っていうのはどこにあるのよ!」
無駄に威勢の良い声が、玄関へ急ぐ私の足を止めた。
空を仰ぐ。そこにふよふよと浮かんでいたのは氷精だった。
馬鹿で有名な氷精だった。
「あーっと……」
相手するのめんどくさそうだなぁ。
でも本当に困って薬を欲しがっているなら無視もできないし。
「そのめずらしー薬っていうのは何? 妖精に効く薬ってことかしら? 症状がわかれば持ってくるけど」
なるべく優しく話しかけてみたが、氷精は勢いよく首を横にぶんぶんと振った。
「違う違う! アンタらが秘密裏に開発してるすごい薬の方!」
「秘密裏に開発してる薬なんてウチにはないよ」
いや、ありそうだけど。ないと言ったらないのだ。
それを見破ったわけではないだろうが、氷精は「ふっふっふ」と笑ってから、びしぃっと擬音が出てきそうな勢いで指をつきつけてきた。
「あたい、噂で聞いたんだから! ここには頭がよくなる薬があるってね!」
「ないよ!?」
い、いや、師匠なら作れるだろうし――いやでも頭がよくなるって絶対的な基準があるわけじゃないしそんなの作れるのかな? でも師匠なら……ってそんなのどうでもいい!
「ウチにはそんな胡散臭い薬はないし、あってもほいほい売りには出せないわよ」
「まあ、そう言うと思ってたわ」
氷精は勢いよくポケットからカードを取り出した。
「弾幕ごっこで勝負よ!」
「はぁ、まあこうなるとは思ってたけど」
私もスペルカードを取り出して相手に見せる。枚数は二枚。
どこからか冷気が充満していく中、私は赤眼を発動させる。
「あたいと大ちゃんのためにアンタらの秘密はもらうわよ!」
「人を振り回すのも噂に振り回されるのも大概にしなさい!」
さあ、弾幕ごっこの始まりね。
§ § §
銅鑼を耳元で鳴らしたような、ほとんど物理的衝撃みたいな轟音。
気持ちの良い二度寝から叩き起こされて、私は狼狽した。
「な、なに敵襲!?」
おっと、別に起きる時に毎回こんなことを言っているわけじゃないわ。本当に敵襲だと思ったのよ。
「…………」
耳を澄ませてみたが、特に何か騒ぎが起きているわけではないように思えた。
轟音も再び聞こえてはこない。
あのへにょり耳のイナバがおかしくなっちゃったのかとでも思ったんだけど。
「うーん……ん?」
本来なら寝直すところなのだけれど、全身がぐっしょりと濡れているのに気がついた。
「あー、そういえばすっっごいイヤな夢みたんだった」
それはもうすごい嫌な夢だった。
むさくるしいおっさんがしつこく迫って来るもんだから無理難題ふっかけてやったらそれをクリアしてきやがった夢。じいさんが迷惑にも結婚の段取りをつけてそして――
「あああああやめよう! うん、起きよう! 鈴仙がおかしくなったんなら躾けてあげないといけないし」
それが飼い主、もとい主としての務めだものね。
うんうんと頷き、身だしなみを軽く整え、庭に面した障子を開け放つ。
するとそこには。
うつぶせで倒れている氷精と、その前に立って宙を睨む鈴仙と、その視線の先に魔理沙の姿があって、それをイナバたちが総出で見守っていた。
んー……。
どういう状況?
私が首を捻っていると、魔理沙が口を開く。
「ちっと新しい分野の魔法薬の研究をしようと思ってな。永琳の薬が欲しいんだ。さあさ、案内してくれ」
永琳の薬? 風邪薬とかそんな類の薬ではなさそうね。
まあ、コソ泥が永琳の留守をいいことにやってきたみたいだけど、地下にある永琳の薬品庫の場所は、私と鈴仙とてゐくらいしか知らないし。
あ、そういやてゐもいないんだっけ。まあどうでもいいけど。
「ああ、そこのお姫様なら教えてくれるかもな。地下への入り口、案内してくれないか?」
魔理沙が私にニヤリと笑いかけてきて、鈴仙が驚いたようにこちらを振り向いた。
え、私いつの間に声に――出してないわよね。
ちょっとちょっと、うちの企業秘密の一つがなんで漏れてるのよ。困ったものね。
すると魔理沙は「やれやれ」と首を小さく振った。
「まあ、教えてもらわなくても自分で探せばいいだけだが――なっ!」
箒に跨がった魔理沙が、うちを目がけて突っ込んでくる。
実のところ、地下へと向かう階段は割と近く、庭の片隅にある。隠れてもいない。
「あんまりあからさまだと狙われないものよ。隠すのも面倒だし」とは永琳の弁。
永琳の頭脳にケチをつけるつもりはないけど、これあっさりと攻略されるんじゃないかしら。
なんて暢気にしている暇はない。もしも永琳のしーくれっと☆ぷれいすからちょっと人前にはお出しできない薬が持ち出されたと彼女が知ったら……。
“――留守は任せたわよね、輝夜?”
「ふぉう!?」
ここにいないはずの永琳の声があまりにもリアルに脳内で再生されて、つい動揺する。まずいまずいまずい。このままだと私の方がちょっとしーくれっと☆な感じになってしまう。
「れ、鈴仙! あのコソ泥止めるわよ!」
「は、はい! ちょっと! アンタらも見てないで手伝いなさい!」
「えー、でもー」とか「ストライキちゅうー」とか言うイナバたちに向かって、鈴仙が叫ぶ。
「……エイリン様が怒るわよっ!!」
それだけでみんな無言で武器を持ち出す辺り、永琳の支配力はすさまじいわね。
イナバたちが構えたのを見て、魔理沙は素早く屋敷の方へ身を翻した。そっちの方向は見当違いだし、地下への階段までは私の方が近いけれど、コソ泥の嗅覚はあなどれない。
鈴仙が勢いよく魔理沙を追い掛けてゆく。
「ま、ち、なさいっ、よ!」
どうやら魔理沙を追い回して地下への入り口から遠ざけようとしているらしい。ついでに破壊音が聞こえてくるんだけど、屋敷が壊れるのも怒られる対象になりそうだから控えて欲しい。
私は念のため、薬品庫へと向かう。
すると向こうの方で飛び回る魔理沙と目が合った――ような気がした。
魔理沙は見間違えようもないほど大きくニヤリと笑うとこちらに、正確には階段に向かって猛スピードで飛んでくる。
着物が重いせいでスピードが出ない! いや、運動不足じゃなくって。
勝ち誇ったような魔理沙の顔が見えた。
しかし。
「イナバ! 今よ!」
ひょこっと出てきたイナバたちが魔理沙に向けて大きな石礫を投げつける。急旋回してかわす魔理沙。
あいにく魔理沙は無事で、その隙に私は階段へと先にたどり着く。イナバたちが放った的外れな石礫は障子に穴を空け、私の胃にも穴が空きそうになったけど。
「エイリン様、か。恐怖政治は長続きしないぜ」
私から少し離れたところで宙に浮く魔理沙は、イナバたちを横目で見やり、そう言った。
「アメとムチは躾の基本、らしいわよ」
永琳がそんなことを言ってた。
「私はお前の放任主義が好きなんだけどな。ここは一つ、主としての器の広さを見せてみないか」
「話と器は広げればいいというものじゃないわ。許容範囲というものがあるの」
「行動範囲を広げてみろよ。引きこもりをやめるいい機会になるんじゃないか」
魔理沙は笑ってちらりと視線を私から外す。置いて行かれていた鈴仙はもう近くまで迫っていた。
鈴仙が指を銃のように構えた直後、一直線に放たれる弾丸の形の弾幕。それが命中する数瞬前に魔理沙は動いていた。
私の脇を抜けようとする軌道。速い。
けれど。
「まだまだ私は寝足りないわ」
――神宝「サラマンダーシールド」
私の周りを覆うように、燃えさかる皮の盾が出現する。私は熱くないし、家屋も燃えない素敵仕様。でもぶつかると熱いし痛い。案の定、魔理沙は急停止して引き返した。
「全方面囲うのは反則だろ!?」
「これは弾幕ごっこじゃなくて防衛戦よ」
「くそっ!」
悪態をついて魔理沙は廊下を飛び去っていった。
スペルを解く。
うーん、階段に入れないようにするのはできそうだけど、捕獲したり痛めつけたりするのは難しそう。下手に動き回って不意を突かれても困るし……。
「あっ、そうよ」
「どうしたんですか輝夜様」
やっと追いついてきた鈴仙の問いかけに、私は顔を引き締めた。
「私は薬品庫の前で籠城するわ。でも焦れた勢いで薬品庫をぶち抜く気になられても困る。ここは通さないように私が守るから――」
神妙な顔で頷く鈴仙に私は命じる。
「あのコソ泥を適当に痛めつけて放り出しなさい」
「はい。わかりました!」
鈴仙は気持ちのいい返事を返すと、近くにいたイナバに何事か指示を飛ばしながら魔理沙を追って飛んでいった。
その姿がすぐに見えなくなって、私は大きく息を吐いた。
ふぅ。
「……流石にここで寝るわけにはいかないわね」
何があるかわかったものじゃないし。
やれやれと呟きながら階段を降り、薬品庫の前に腰を据えた。
まあ、鈴仙もやるときはやる子だし、何とかなるでしょう。
§ § §
「待ちなさい!」
「待てと言われて待つヤツなんかいないぜ」
「止まりなさい!」
「止まれと言われて止まるヤツだっていないな」
「交通整理と犯人逮捕には協力しなさいよ! さあ、お前たち、やりなさい!」
わー、わー、と声が聞こえて、先ほどと同様に石礫が投げ込まれる。
ただし今回は庭に面した廊下を覆うほどの量。屋根の上に待機した大勢の兎たちがきゃいきゃい言いながら石を投げるのが見える。
「…………」
まあ、楽しんでるならそれはそれで不満も少なくなるしいいか。
「おいおい、また全方位……って、仕方ない、なっ!」
魔理沙は迫り来る石の雨の方へ一瞬顔を向け、そして石礫が着弾する前に、開いていた障子から部屋の中に飛び込んだ。それを追って私も飛び込む。
部屋の中の魔理沙を睨み据え、後ろ手で障子をぱしんと閉めた。
「あー、これはあのときの……」
「そうよ。悪いけど、ここでおとなしくしててくれるかしら」
永夜異変――と巷では言われているらしいその時と一緒。この部屋の位相をずらしたのだ。
これで、私とコイツは外に出ることはできない。
私が元に戻すか。
私を倒すまでは。
「あんまり今日はやり合う気はなかったんだけどなぁ。家壊しそうだし」
「意外ね。そういうこと考えないと思ってたけど」
「家の大切さがわかる女だからな」
魔理沙はやれやれと首を振って八卦炉をポケットから取り出して。
「……恐怖政治、か」
何事か呟いてポケットにしまい直した。
魔理沙は少しの間思案している様子だったが、やがてポケットから八卦炉の代わりにカードを取り出した。
「まあ、それはともかく」
帽子を押さえるように後ろへずらし、魔理沙は挑戦的に笑った。
「やるからには遠慮なくいくぜ」
「……ふん」
やる気になったのを見て取って、私もスペルカードを取り出す。
大局的に見れば防衛戦だけれど、局地的に見ればスペルカード戦だ。
「火遊びもほどほどにすることね!」
「火傷を恐れてちゃ魔法は撃てん!」
突っ込んでくる魔理沙。
さあ、私はコイツに勝てるだろうか。
§ § §
鈴仙と別れてからしばらくすると、戦闘の物音が聞こえなくなった。それと共に、数ある部屋の中の一つが、なんだか妙な感じになっているのに気付く。
「ああ、これはアレね。鈴仙もよくやるじゃない」
どうやら密室に閉じこめる作戦にでたらしい。これなら逃がさずに済むし、勝負を決められるし、被害も少なくて済む。……隔離されたその部屋に、貴重な物を置いてなければの話だけど。
ひとまず、ちょっと休むべく寝転がった。
うう、この体勢のなんと心地よいこと。
いつもと違う場所、ちょっと狭くて暗い場所で昼間っから寝転がるというのもなかなか風流ね。すばらしいわ。これからも時々はこうしようかしら。永琳に見つかるまで寝ていられるし。
一息ついて、現状について考える。
「これで後は、あの子が魔理沙をやっつけてくれれば――」
と思った矢先。
イナバたちがなにやら騒ぐ声が聞こえ、階段の上の方に目を向けると、外でなにやら眩い光が空に向かって迸るのが見えた。
「これは……」
魔理沙のスペル?
ってことは、あの子ったら負けちゃったのかしら。
ううん、どうしよう。
そんな風に首を捻っていると、イナバの騒ぐ声がだんだんと叫び声に変わっているような気がした。
何かしら、と思う間もなく、外から何か白いものが放り込まれてくる。
とっさに手で受け止めてみれば、ずしっとした重量感のある白いもさもさだった。
よく見るとイナバに似ていた。
というかイナバだった。
「おわあああ!? イナバあああってあら生きてるじゃない」
なーんだ。てっきりイナバの死骸でも投げ込まれてきたのかと。もう、驚かせるんだから。
ちょっと焼けてるけど、ちゃんと生きてる。ううむ、丈夫な子に育ってくれて姫さん嬉しいわ。
そうこうしている内にもう一羽投げ込まれてきた。今度も受け取る。地味に重い……。
また一羽投げ込まれてきてその子が落ちてくる前にもう一羽投げ込まれてきてってちょっちょっちょちょっちょ!?
「何よこれー!?」
「籠城戦相手には水攻めと兵糧攻めが基本だぜ!」
どことなく楽しげな魔理沙の声と共に、さらにイナバが一羽二羽とバウンドする。
水攻めはともかく、肉を投げ込んできたら兵糧攻めにならないんじゃないかしら。
「なんて言ってる場合じゃないわね」
緩く長い階段を上る。こういうときに裾の長い着物は邪魔だ。
投げ込まれてくるイナバを受け止め投げ返しつつ、私は階段の一番上に立った。
「悪いけど、水は間に合ってるわ」
――神宝「ライフスプリングインフィニティ」
スペルの発動と同時に、湧き出す光が階段の前を照らしつける。これぞ無限の生命泉。熱くもないし家屋は壊れないし突っ込んでも痛くない素敵仕様よ。
魔理沙がこちらに投げつけてくるイナバは、無限に吹き上がる泉に阻まれて、階段の奥に落ちることなく空へ弾んだ。
負けじと魔理沙は続けて投げてくるけれど、無駄無駄。イナバたちは全て吹き上げられ、お手玉のようにぽんぽん跳ねる。
「ううむ、これじゃ埒があかんな」
「ふふん、諦めて降参なさい」
唸りながら庭の上空を飛び回る魔理沙に、私は降伏勧告をしてやった。
すると魔理沙は吹き上げられたイナバたちを見て「ふうむ」と頷く。
「案外丈夫のようだし、まあ支障はないよな」
「何が?」と聞き返す前に、魔理沙はやや高度を落とした。
そしてスペルカードを取り出して宣言した。
――恋符「ノンディレクショナルレーザー」
同時に、魔理沙を中心とした光の筋が何本か出てきてぐるぐると回り始める。
それは屋根の上で魔理沙に石を投げたり、観戦していたり、寝ていたりしていたイナバを焼いてゆく。あるイナバは屋根の上を転がって、あるイナバは屋根から転がり落ちて、あるイナバは寝転がったままだった。
「うわぁ、酷いことするわねぇ」
「お前がそこをどけばいいだけの話だぜ」
そう言っている間にも魔理沙は魔法薬をばらまいたり弾幕を放ったりして、そこかしこに攻撃を加えている。まあ家屋に被害はないからいいけど。
私がここにいれば薬品庫が陥落するおそれはないし、どうやら魔理沙も家を壊す気まではなさそうだし、私が永琳に怒られることはないわね。
というかイナバたちもどっかに逃げればいいのに。いや、逃げてるイナバもいるし、遊んでいるだけみたいなイナバもいるし、命には別状ないからいいのか。
私はとにかく永琳に怒られたくないだけだ。でもイナバたちは何を思っているのかしら。
なんてぼんやり考えていると、本当に焦れたらしい魔理沙が帽子を押さえて急上昇する。
「ふん、地下への入り口が一つだけだとこういうときに不便だぜ。非常口を作らんとな。まあ、ちょっと乱暴だが、庭は家に含まれないからいいだろ!」
いや、含まれると思うけど。
というかそれで魔理沙が何をするかわかってしまった。
「このままじゃ研究熱心で通っている魔理沙様の名が廃るぜ」
魔理沙は八卦炉を構え直した。
あー、まあ地面がちょっと掘り返されるくらいならいいかなぁ。永琳もそこまで怒らないだろうし次の月都万象展の時にはクレーターとして紹介すればいいし。宇宙船の着陸の跡って言ってもいいわね。そう言えばまた万象展やりたいわねぇ……。
「……あら?」
ふと目が捉えたのは、こちらへ向かってくる鈴仙の姿だった。
ぼろぼろになってよろよろと歩き、顔をぷるぷると震わせながら魔理沙の方を睨む鈴仙の姿だった。
あらあ。
ちょっと見ない内に大変なことになってるようね。
光の噴水に守られながら、私は何となくそう思った。
鈴仙の方へ、何羽かのイナバが慌てたように走り寄る。
確かに今から魔理沙が撃とうとしているに巻き込まれれば、まあケロリとはしていられないだろうけど。
イナバも鈴仙も、食らえばとっても痛いだろうし何日か寝込むかもしれないわね。
でも、ちょっとのブレイクタイムだと思えばいいじゃない。死にはしないだろうし、魔理沙もそこはちゃんとわかってるだろうし。
光の噴水のこちら側の安全地帯で、私は何となくそう思った。
「さあ、いくぜ」
魔理沙の八卦炉に光が集まってくる。
もう撃つ。
魔理沙が一瞬鼻を鳴らしたような気がした。
「――星符!」
魔理沙が叫ぶ声が高く聞こえた。
「『ドラゴンメテオ』!」
§ § §
ぎゅっと目をつぶった。
強い光から目を守るために、来る衝撃に備えるために。
けれど光と熱がやってこない。
なんだろう。やめたのかな。それともアレかな、てゐがよくやる。「やるやる」って言っておいてなかなかやらなくて目を開いた瞬間にいきなりっての。アレやめてほしいんだけど。
なんて思った途端聞こえてきた、何かがぶつかり合うような振動音。
おそるおそる目を開くと。
姫様がでかい板を抱えていた。
「え……輝夜様?」
――新難題「金閣寺の一枚天井」
輝夜様がそのスペルで、魔理沙の魔砲と力の押し合いを繰り広げていた。
「おい、それどっから出したんだよ」
「月の素敵な技術よ。見られたことを感謝しなさい」
「いや、怖いぜ。そんなのを見せびらかすお前が」
やがて魔理沙の光は薄れ、消えていった。
その光の跡に輝夜様の毅然として立つ姿があった。
「それにしても」
魔理沙は八卦炉をしまい、代わりに帽子を手に取る。
「お前が本当に出てくるとは思わなかったぜ。本当に穴掘って探そうかとも思ったんだが」
「ふふ。主と仰ぐ者を、命を賭していかなる困難からも守るのが従者の役目だけれど」
輝夜様がちらりとこちらに目を向けたような気がした。瞼がいまにもひっつきそうでよくわからなかったけれど。
「従者には荷が重い強敵が現れた時、そいつを倒すのは主の役目なのよ」
「……ふぅん」
どことなく愉快そうな声で、魔理沙は唸る。
「で、今からはお前が相手か? 荷物番は大丈夫なのか」
「荷物番は交代よ。アンタが投げ込んだイナバたちと。まあ、そこまでたどり着ければの話だけどね」
私は何とか首を動かして、周囲を見た。
焼かれた子も転がっていた子も落ちた子も隠れていた子も遊んでいた子もサボっていた子も。みんな出てきて、そこら中から魔理沙と輝夜様を見つめている。
姫様がスペルカードを取り出したけど、しかし魔理沙は頭を掻くだけだった。
「……まっさか本当に出てくるとはな。まあ、私もそろそろ頃合いかと思ってたし」
魔理沙は帽子を被り直して箒の位置を確かめるようにもぞもぞと動いてから。
「今日のところはここらへんにしといてやるぜっ!」
妙に元気よく、微妙に合っていないような捨て台詞を残して魔理沙は飛び去っていった。
急上昇して、ぐんぐん昇って、私の霞んだ目では見えないくらいに高く昇っていって――降りてこなかった。
本当に帰った。
びっくりするくらいあっさりと帰って行ってしまった。
ぽかんとする私たちと同様に輝夜様も拍子抜けしたようで、空を見上げて「何だったのよ……」と呟いていた。
「あっ」
その背後に、いつの間に復活したのか、氷精が浮かんでいた。手には大きな氷の塊。
「これが祖父の利ってやつね……」
違う。漁夫の利だ。
私が心の中でツッコんでいる間に、氷精はぷるぷると震える腕で氷の塊を振り上げる。
「大ちゃんと私が語り合うために、あたいと同じ天才になりたいって言ってくれた大ちゃんのために、私は薬がひつよーなんあうっ!」
氷の塊が振り下ろされる直前に何とか私の弾は間に合い、氷精のこめかみをぶち抜いた。
「大ちゃん……ごめんね……」
私は悪くないはずだけど、なんかやたらと罪悪感が残る台詞を最後に、氷精は今度こそ沈んだ。
振り向いた輝夜様は、氷精と地面に落ちて砕けた氷の塊に目をやって、それから私の方を向いた。
「あら、別に助けてくれなくてもよかったのに」
私は姫様の従者ですから。
私は守ってもらえましたから。
そんな言葉を言おうとして、せき込んだ。
すると姫様は優しくにっこりと笑った。
「――でも、ありがとう。鈴仙」
その言葉を聞いて私はとうとう意識を失い。
その日の騒動は、幕を下ろした。
§ § §
「あー、暑いわねー」
「ちょっと輝夜様! もっとしゃっきりしてください!」
「いやー!」
「あ、ちょっと! ……あ、もう」
廊下の角を曲がってどこかへ行ってしまった輝夜様にため息が漏れる。
……また輝夜様がだらしない姿を晒して。
うん? そういや先日も。
急に嫌な予感がしておそるおそる振り返った。
「あ、やっぱり!」
ストライキを終え、割と真面目に仕事をしていたはずの兎たちが仕事を放り出していた。遊ぼうとする子、だらけようとする子、既にいない子。
「こら、サボっちゃだめ!」
私が叱ると案の定、「暑いー」とか「だらけるー」とか「姫様もだらけてたー」とか、そんな言葉が返ってきた。
私はもう一度ため息をついて、腰に手を当てて兎たちを睨んだ。
「アンタたちは姫様の真似しちゃダメよ!」
そう言ってやっても、「なんでー」とか「じゅうしゃはあるじににるー」とかいう文句が返ってきた。どこで覚えてきたのよそんな言葉。
「真似してもいいけど、また誰かが攻めてきたとき、ちゃんと姫様みたいに追い払ってくれるの?」
そう聞くと、イナバたちはざわざわと数秒どよめいて、納得したように仕事に戻っていった。
「ふぅ」
今度は少し嬉しくなって一息ついた。さあ私も仕事に戻らないと――ってそうだ。今日は師匠に手伝いを頼まれてたんだっけ。
廊下を歩き、庭に出て階段を下り、先日は師匠不在の永遠亭総出で守った研究室へ向かう。
「ししょー、手伝いにきましたー!」
扉を開けると、そこには白衣を羽織った師匠と、あのコソ泥――っていうか強盗――の姿があった。
「あー! 魔理沙!」
「よう」
魔理沙は和やかに片手を上げてくるけど、私はそれどころじゃない。
「いやいやいや、ようじゃないわよ! この前はウチに攻めて来といて! っていうかししょーもししょーです! 魔理沙が攻めてきたってちゃんと報告したじゃないですか!」
「うん、まあそうなんだけどね」
師匠は言葉を選ぶように「うーん」と唸った。ついでに「こんな早くに来るから……」と呟いた。酷い。こんな扱いは慣れてるけど酷い。というかむしろ酷い扱いに慣れてることに泣きたい。
「それ、私が頼んだのよ」
「……………………は?」
その言葉を飲み込むまでにそれなりの時間がかかった。私は師匠みたいに頭がよくないから……じゃないよね!?
「え、ちょ、な、なんでですか!? すっごい大変だったんですよ!?」
当事者の一人である魔理沙は笑い転げているし、まったくわけがわからない。
師匠は観念したように息をついてから。
「ほら、最近イナバが仕事をサボりがちだって貴方も嘆いてたじゃない」
「は、はい。それは言いましたけど……」
「前もストライキ騒ぎがあって、そのときも輝夜が何とかしたじゃない」
「ええ、まあそうですけど……」
なんかだんだん事態が飲み込めてきた。
「輝夜はあの通りいつもだらけきってるから、イナバたちは輝夜がどんな人だったか忘れちゃうのよ」
つまりこれは……。
「狂言、ってことですか……?」
「まあ、平たく言えばね」
「流石天才の考えることはちょっと違うな。家一つ戦場にして支持率あげるかねぇ、普通」
「あら、おかしくなんてないわ。ピンチを救ってくれる救世主っていうのはわかりやすいし、いい刺激になって気も紛れただろうし、死にはしないし」
「あいつが助けに出なかったらどうするつもりだったんだよ」
「私は輝夜を信頼してるもの」
「ふん、情の厚いこって」
「あら、どういう意味かしら」
私をおいて和やかに喋る二人だけれど、ちょっと待ってほしい。はっはっはじゃない。笑っている場合じゃない。どれだけ大変だったと思っているんだ。
「だからあの時あんなにあっさり帰ったのね」
「あの時って……ああ、輝夜が出てきた時か。そういう約束だったからな。輝夜がいいタイミングで登場して活躍すればおしまいって。家を壊さないことと痛めつけすぎないことが条件で、薬一つもらえるっていうのなら好条件だろう」
「ちなみに輝夜が出てこず、守る気がなかったらその場合も一つまでは好きな薬を持ち出していいと言っておいたわ」
魔理沙の種明かしに師匠の解説が入るけれども、私はそれが耳に入ってこなかった。
すっかり脱力した。ため息をついた。ああもう、一気に三回分くらいまとめてため息をつけないものかしら。
「ちなみに……もうなんだかどうでもいいんだけど、どんな薬をもらったの?」
「いや、今から選ぶところだぜ」
危なくないだろうか。
私の表情から考えていることを読みとったのか師匠が言う。
「あら心配しなくても大丈夫よ。全部貴方で試してあるやつだから」
「…………」
さっきまでとは比べものにならないほど気分が落ち込んでしまった。
「…………用法用量と人道を守って適切にお使い下さい……」
それだけを言いおいて私は師匠の研究室を出た。
魔理沙が薬を選ぶのには時間がかかりそうだし、師匠の手伝いは後でもいいか……。
研究室を出て屋敷に戻り、廊下を歩いていると輝夜様と兎たちが廊下に寝そべっていた。
「ちょっちょっちょ! 姫様何やってるんですか! はしたないです!」
「んー? ああ、鈴仙。いやね、こうしていると気持ちいいのよ。やってみなさい」
「え、いやでも」
「ほらほらほら、仕事で疲れているでしょう。騙されたと思って」
騙されるとか騙されないとかそういう問題ではないのだけれど……。
結局輝夜様に流されて、みんなと並んで廊下に寝そべる羽目になった。固いけどひんやりとした廊下の感触が気持ちいい。
うん……まあ、普通に気持ちよかった。
「……先日は変な一日でしたね」
「んー、先日って?」
「ほら、魔理沙が攻めてきたあの日です。師匠がいない時に限って。氷精もいましたし」
「あー、あれ」
たった今思い出したかのように姫様が頷いた。
別に何か思うところがあって話題に出したわけじゃないけれど、この無邪気な横顔を見ていると、なんだか言いたくなってしまったのだ。
「変だったじゃないですか。色々と」
「ええ、変だったかもしれないけど。まあ別にどうでもいいわ」
「……どうでもいいんですか?」
寝そべったまま言葉を交わす。
仰向けのままの私に、輝夜様がごろんと転がって顔を向けてきた。
「だって、いい暇つぶしになったじゃない」
「…………そういうものですか」
「そういうものよ。今、床に寝そべっていて気持ちいいのと一緒」
「……そう、ですか」
「ええ」
たおやかに微笑んで輝夜様はもう一度寝返りを打ち、今度はうつ伏せになって廊下に顔を擦り付けた。
汚いですよ、と言い掛けたがやめた。
ちゃんと掃除はしてあるし。
私もごろんと裏返ってうつ伏せになる。
確かに、気持ちいいし。
「平和ねー」
「平和ですねー」
なんだか色々と大変なことだとか振り回されることだとかあるけれど。
脳裏には私たちを守ってくれた時の姫様の顔が浮かび、目の前にはすっかり気の抜けた輝夜様の顔がある。
この人の傍にいられて、いいなと思うことは確かなのだ。
結局、魔理沙が戻って来て変な顔をして、一緒に来た師匠に叱られるまで、私たちは廊下にずっと寝そべっていた。
――私も姫様も、兎たちも。
終