Wouldn't it be nice
我が家の黒猫がいなくなった。
それなりに長く飼っている猫で、先日晴れて100歳を迎えたばかり。
せっかくだからお祝いをしようか。
さとりがそんなふうに考えていた矢先の失踪だった。
行き先は皆目見当がつかない。
そもそも地霊殿を出て行くペットはほとんどいない。
理由は簡単で他に行くところがないからだ。
地霊殿の外に出ればそこは危険な妖怪が跋扈する無法地帯。
力の弱い猫や烏が生き伸びることは難しい。
さとりは半ば無駄だと思いながらも改めて館内を探し回った。
結果判明したのは、地霊殿のどこにも黒猫の姿はないということだった。
館内の探索を終え椅子に腰を下ろすと、どっと疲れが押し寄せてきた。
テーブルに両腕を投げ出してぼんやりと虚空を見つめる。
視界に映るのは薄汚れた天井と壁だけ。心の声も風景もまったく紛れ込んで来ない。
さとりの近くには誰もいなかった。
世界が終わってしまったような静寂の中、ときどき起こる館の軋みがひどく大きく聞こえる。
足の疲れが引くのを待って、さとりはお茶を淹れようと立ち上がった。
広々とした空間にひとりきり、静かな午後のティータイム。
ラベンダーの描かれたカップとソーサーは、こいしが少し前に地上のお土産としてくれたものだ。
新品の陶器は、くすんだ地霊殿に眩しいほど輝いて見えた。
「さて、どうしましょう」
勿論、黒猫のことだ。
放っておくのも一つの手ではある。
さとりだって事情が違えばさっさと捜索を諦めていた。
そう。理由があるのだ。
地底に数多いる他のどの黒猫でもない、さとりが探す一匹。
それはさとりがこいしに与えたペットだった。
昔、心を閉ざした妹が寂しくないよう傍にいさせた子なのだ。
こいしにとっては、地霊殿でもっとも親しみのある存在のひとつだろう。
そのペットのお祝い事となれば、風来坊の妹も家に寄ることがあるかもしれない。
それなのに肝心の役者が消えてしまった。
お燐に任せようかしら。
お燐は他者との付き合いが上手いし、何をするにしても大概要領がいい。
彼女ならば案外簡単に見つけてきてくれるかもしれない。
なにより、これ以上あちこちと歩き回りたくなかった。
億劫なのだ。日頃の運動不足がそれに拍車をかけていた。
少し室内を歩き回るだけでしんどいのだから、表に出るなど尚更だ。
だいたい外出したところで面白くない目にあうことは分かり切っている。
さとりの居場所は地霊殿のほかにない。
方針を決定したところで、騒々しい声が聞こえてきた。
噂をすればなんとやら。お燐とおくう、仲良しコンビの帰宅だ。
「ただいま。さとり様」
「おかえりなさい」
喜色満面のおくうは、しかし全身ぼろぼろだった。
顔は煤だらけで、ついこの間新調してあげたばかりのマントも穴が空いている。
また誰かと派手に遊んで来たのだろう。
はたして白黒の魔法使いと神社で一戦交えて来たらしい。
屋根や縁側の様子を見るに、明日あたり紅白の巫女が殴り込んで来ることだろう。
「楽しかったみたいね」
「はい!」
「楽しかったのはおくうだけでしょ。あたいは怒られ損だよ」
とはいえ、しっかりお寺からお土産を頂戴してきているのだから、どっちもどっちだろう。
「ねえ、さとり様。そっちのお茶貰っていいですか?」
「こらこら」
おくうがテーブルに置かれたカップに手を伸ばすのを、お燐が諭す。
「いいけど。どうせなら新しいのを淹れましょう」
おくうは一日の出来事をさとりに喋りたがっていた。
天狗に持たされた新聞もお土産としてさとりに渡したいらしい。
勿論さとりとしても不満はなかった。
心の声を聞くのとじかに聞くのとでは、やはり気分的に違う。
「でもその前に顔を洗ってらっしゃい。それと戸棚にマドレーヌがあるから持ってきて」
「はーい」
マドレーヌマドレーヌと復唱しながら、おくうは洗面所へ駆けて行く。
「こら、その汚れた服を着替えてから!」
叱りつけながら、お燐はおくうを追いかけて行く。
「さて、それじゃあ用意しなきゃ」
そう声に出して、さとりは改めてお茶の支度をしに台所へ向かった。
* * *
「それで魔理沙ってばズルくって『あれはなんだ』とか『相手は霊夢だろう』とか言って騙すんだから」
「今時そんな手に引っかかるのはあんただけだって」
「妖精も言ってたよ。あいつはズルいって」
「ああ、そうかい」
おくうは身振り手振りも交えつつ、もう30分以上話を続けていた。
何につけても楽しく、悔しく、悲しく、嬉しいことだとおくうは感じていた。
ひとつの出来事に対して、次から次へと幾つもの感情が湧きあがってくる。
さとりは天狗の作った新聞を眺めながら、おくうの話に相槌を打っていた。
ときどき質問を挟むと、おくううは嬉々としてそれについて話し始める。
たいがいは要領を得ないものだけれど、説明の巧拙は最初からどうでもいいのだ。
おくうの話を聞いたり、天狗のいんちき臭い新聞を読むのは楽しかった。
「あ、そうだ。お燐」
おくうの言葉が途切れたとき、さとりはお燐に声をかけた。
「はい」
「こいしの猫を見かけないんだけど、どこにいるか分かる?」
「はあ……こいし様の猫、ですか?」
「こいしに育てさせてた子よ」
お燐は何度か首を傾げてからポンと手を打った。
「はい。あの黒猫。ええと、なんて言いましたっけ?」
「お燐も忘れちゃったの?」
お燐の記憶力はどちらかといえば良い方のはずだ。
言いつけた仕事は欠かさないし他のペットの様子もよく見ている。
そのお燐が名前を忘れてしまったと言う。
「珍しいこともあるわね」
「はあ、申し訳ありません」
「いえ、別に構わないんだけど」
「変ですねぇ。あたいが家の子の名前を忘れるなんて」
お燐はしばらく首をひねっていたが、とうとう思い出せないままだった。
とはいえ責めることはできない。
さとり自身つい最近まで完璧に失念していたのだから。
「ちょっと他の連中にもあたってみます」
お燐はそう言ってくれたものの、期待は持てそうになかった。
自室に戻ってからも、さとりの気持ちはなんとなく落ち着かないままだった。
思い出せないでいるのが歯がゆかった。
これが他人の心であれば催眠でもかけて掘り返してみることもできただろう。
だが、さとり自身の記憶に対してはそうもいかない。
頭を絞りながら、ひとつひとつ関わりのある断片を拾い上げて行く。
さとりがその黒猫を拾ったのは、雪の降る日だった。
久しぶりの雪を眺めようと窓際に寄ったとき、弱々しい鳴き声がさとりの耳に届いた。
窓を開けて、あたりを見回す。
その黒猫は窓のすぐ下、壁に張り付くようにしてうずくまっていた。
「迷子かしら」
声をかけてみたけれど、反応はないに等しかった。
幼すぎるせいか心からも具体的な情報が読み取れない。
それこそ名前もなく、どこで生まれたのかもとんと見当がつかないという有様だ。
「仕方がないですね」
さとりは玄関を回って表に出、小さな黒猫を抱き上げた。
身体はすっかり冷えていた。
暖を求めて地霊殿に来たのかもしれない。
さとりはひとまず黒猫を館内に連れて帰った。
助かるか助からないかは本人次第だ。生き残ることができたら生きて行けばいい。
そうやって、その黒猫は地霊殿の一員となった。
ぼんやりと視線を虚空に泳がせながら、さとりは記憶を手繰る。
少しずつ、確かな手応えとともに昔日の光景が像を結ぶ。
元気を取り戻した黒猫を、さとりはこいしに与えることにした。
「この子は今日からあなたが世話をしなさい」
「私が?」
「そう」
こいしに事情を説明し、名前をつけるようにも言った。
「へえ。じゃあ、あたしが名づけと育ての親ね」
「そう。ちゃんと育てるのよ」
「責任重大だね」
こいしは嬉しいとも困るとも言わず、ただ事実として受け止めたという感じだった。
これで本当に寂しさを紛らわせることができるのだろうか。
さとりの不安とは裏腹に、こいしは笑顔で猫を抱いている。
黒猫をベッドに座らせると、向き合うように寝ころがった。
「ねえ」
こいしは鼻と鼻がくっつくくらい間近まで顔を寄せ、黒猫にたずねる。
「ソーセキとルドルフどっちがいい?」
結局、名前はそのどちらかに決まったのだろうか。
別の名前にした可能性もある。プルートー? ヤマト?
少なくともさとりは、そのときこいしが口にしたどちらにも賛成できなかった。
ともあれ黒猫は間違いなく地霊殿の一員として迎えられた。
その後の記憶は、あまりなかった。
ペットは放し飼いにするのが常であったし、主であるこいしと話をする機会もそうなかった。
地獄の妖怪は、それでも大概どうにでも生きていくものなのだ。
もちろん、全員がそうだというわけではない。
危険は空気よりも身近な存在なのだ。
飼いはじめてしばらくした頃、地霊殿を抜け出してしまったことがあった。
理由はよく分からない。猫お得意の好奇心に負けたのだろう。
当時のこのあたりは今よりずっと治安が悪かった。
さとりとこいしとペット何匹かで散々探し回った覚えがある。
冷たい雨の降る日だった。
市街地はあらかた探し尽くし、さすがに捜索を諦めかけた頃、こいしが黒猫を見つけて帰ってきた。
「あははは。見つかってよかった」
着物でくるまれた猫を抱いて、こいしは笑っていた。
彼女が捜索にあたったのは、地底でも最も治安が悪い一画だった。
住み着いているのは鬼をはじめとした凶悪な妖怪ばかり。
昼間から地響き血飛沫断末魔が当たり前の場所だ。
誰の目にも映らないこいしだからこそ、平気な顔で足を踏み入れることができたのだ。
「帰ろう、お姉ちゃん。この子が起きちゃう前に」
安心しているのか怒っているのか、心を閉ざした彼女の気持ちは分からなかった。
さとりはこいしの後に従って、地霊殿に帰った。
ともかく鍋の具にはされずに済んだのだ。
こいしはそれから何日か部屋にこもっていたが、気がつくとまた姿を消していた。
その後はこれといった事件もなく、こいしのペットとしてそれなりに平和な日々を過ごしてきた。
そして、こいしも少しずつ変わっていった。
決定的だったのは確かに地上の人間との出会いだろう。
風変わりな黒白紅白がこいしに良い影響を与えたことは間違いない。
だが、その下地を用意したのは、地霊殿でこいしの帰りを待つペットだろう。
こいしは以前ほどひとの目に映ることを避けなくなった。
さらにはどういう風の吹き回しか、妖怪だらけのお寺に入門までしてしまった。
近頃では、親しい人の前だと自然と第三の目が開いていることもあるという。
古明地こいしは変わり続けている。
地霊殿にいる時間も以前よりもっと減っていた。
だがそれは望ましいことに違いない。
さとりは席を立ち、窓辺に歩み寄る。
いなくなったはずの黒猫が窓から中を覗きこんでいた……。
などということもなく、静かな夜の闇に、疲れたような自分の顔が映っているのを認めただけだった。
* * *
遠慮がちなノックの音がした。
お燐だ。
「どうぞ」
「さとり様。さっきの黒猫の話ですけれど」
「駄目でしたか」
申し訳なさそうな顔を見ればさとりでなくても胸中は理解できる。
お燐の努力はまったくの骨折り損だった
館じゅう尋ねて回ったものの黒猫の行き先を知っているものは皆無。
それどころか、その存在を知るものさえ殆どいなかった。
「さとり様、これどういうことなんでしょう」
「そうねぇ」
口調こそ落ち着いていたが、さとりの内心はそう穏やかではなかった。
誰も知らない。誰も姿を見ていない。
まるでそんな黒猫など存在しなかったかのようだ。
そんなはずはない。
平生の無関心が祟って、黒猫についての記憶が少ないだけだ。
だがそれだけ無関心であったなら、どうして唐突に思い出したりしたのだろう。
お燐に引き続きの捜索を任せて、さとりは書庫に向かった。
話に聞く魔女の図書館ほどではないものの、地霊殿にもそれなりの所蔵がある。
大半はさとりが趣味で集めた本だが、中にはさとりの手になる書物もある。
たとえば日記。これは地底に来てからこれまで続けている習慣のひとつだ。
たとえば小説。あとで読み返すのが苦痛なこともあるけれど、それもまた楽しみではある。
ただし著者名は伏せてある。理由は明かせない。
100年も前の日記を引っ張り出すのは一苦労だった。
結構な時間をかけて、さとりは目当ての日記帳を捜し当てた。
すっかり黄ばんだ小口や天地に、独り過ごしてきた時の長さを実感させられた。
恐る恐るページをめくる。
確かに黒猫の記録は残っていた。
記憶が間違っていたわけではなかった。
そのことに先ずは安堵しつつも、しかし問題が解決したわけではなかった。
なぜって、以前いたことは現在いることの証とはならないのだから。
言葉にした途端、さとりは不安に駆られた。
姿を消したのが最近ではなく、もっと以前だったとしたら。
考えてしかるべき可能性だった。
いなくなったのが昨日今日である必要はない。それこそ50年前でも100年前でも構わないのだ。
「そんな……」
日記を抱えたまま、さとりは崩れるようにソファに身を預けた。
柔らかいソファにまるで鉛のように身体が沈みこんでゆく。
「それじゃあ。あの子がペットをどこかにやってしまった?」
さとりは湧きあがる疑惑を否定することができなかった。
こいしは時に残酷な振る舞いに及ぶことがある。
あるいは気紛れに追い出してしまったのかもしれない。
ちょっとした拍子に命を奪ってしまったのかもしれない。
ただ、そのことには気づいた者はいなかった。
不思議はない。
こいしがその気になれば、誰に感づかれることもないのだ。
地霊殿じゅうの記憶を浚っても、心当たりを見つけることなどできない。
誰だって知らないことを記憶しておくことはできないのだから。
自室の壁に塗り込まれた小さな黒猫。考えただけでもぞっとする。
だが、馬鹿げた想像だと言えるだろうか。
どちらとも断定はできない。
さとりは頭を抱えた。
「まさかあの子が――」
「お姉ちゃん、待って」
私はたまらず声をかけた。
「こいし!」
お姉ちゃんはまるで悲鳴のような声をあげた。
「そうじゃないの」
事細かに語る必要はない。
私はその記憶を残らず意識下から引き揚げた。
私が覚えているすべて。それを、お姉ちゃんなら知ることができる。
「……迷子になったとき、既に命を落としていたのですね」
お姉ちゃんがうつむく。
その胸中には、後悔や悲哀や、いろいろな感情が駆け巡っていた。
「ごめんね。嘘ついちゃった」
私が着物に包んで連れ帰ったのは、もう飼うことのできないものだった。
お姉ちゃんが悲しむことくらい、第三の目がなくても分かった。
だからそれを見つけたとき、絶対お姉ちゃんに知られてはならないと決意した。
心を閉ざしていたことは幸いだった。
素直で優しいお姉ちゃんが私の言葉を疑うことはなかった。
すべては私の心の中だけにしまっておけばいい。
それが一番だと信じてこれまでやって来た。
今思えばなんて愚かだったのだろう。
「それはお互い様ね」
ほんの一言。それだけのためにどれ程を費やしただろう。失ったものがどれだけあったろう。
それでも私は、取り戻せるるのは取り戻すつもりでいる。
いつか伝えようと思っていた言葉で。
「それじゃあ、こんどはお姉ちゃんが瞳を開く番だよ」
お姉ちゃんの閉じた瞳、地霊殿から外へ。
「そんな……いきなり言われても」
言葉には収まりきらない戸惑いが、第三の瞳を通して伝わってくる。
お姉ちゃんの感じる不安は、私よりもずっと強かった。
私たちの過去はそれだけの痛みが刻みこまれているのだから。
だから私は、この目で見てきた今を伝える。
「みんな喜ぶよ。お姉ちゃんの本、里でも人気だもん」
「え?」
お姉ちゃんの心が一瞬真っ白になった。
思考も感情も何も無い。空っぽの心から干からびた言葉だけがこぼれ出る。
「本って……まさか私の書いた本?」
「うん。~~が……する話とか、○○×△△な話とか」
これまでに持ち出した本を伝えた途端、お姉ちゃんの色白な顔が真っ青になった。
と思ったら真っ赤になって、次にはまた真っ青になった。
「どうして名前を伏せていたものばかり……」
「評判よかったよ!」
「いや! 絶対いや!」
お姉ちゃんはもう聞きたくないとばかりに両手で耳を覆う。
さとりがそんなことしても無駄なのに。
とはいえ作者を明かしたのはやっぱりまずかったのか……。
感情移入の過ぎた心理描写は往々にして黒歴史化するものである。ってそういえば誰かが言ってた気がする。
「どこにも行きません! 行けるわけないじゃないですか!」
お姉ちゃんは背中を丸めてソファにかじりついた。
弱った。良かれと思ってしたのに、逆に引きこもりレベルを上げてしまった。
「もういいです。私は死ぬまでここにいます」
でも、今更しがみついたって無駄だ。
非力なお姉ちゃんを攫っていくことなんて造作もない。
「いいからさ」
お姉ちゃんの細い腕を両手でめいっぱい引っ張る。
「きゃあ」
情けない悲鳴をあげて、小さな身体は椅子からまるで毬のように転げ落ちた。
「ああああああいやあああううう……」
地獄の底から響いてくるような呻き声を適当に聞き流し、私はお姉ちゃんを引きずって歩く。
地霊殿の外へ。地上へ。
「行こう。一緒に」
to live together
すっきり読めました
良い話でした。
背中丸めたさとりさんが可愛らしい。
これがこいしの新しいペット(猫)か。
猫は可愛いですよね。