上白沢慧音は茫然としてその場に立ち竦んでいた。鍵も突っ支い棒も手応えもなくカラリと開いた玄関扉の、その先にある屋内の有様。
土間を抜け茶の間を抜け、座敷を抜けて黒い土壁に阻まれるまで、寒々しいほど何もない。右手にある竈は空で、埋み火を隠す灰山もなければ火吹き竹もない、薪も藁束もない。
たどたどしく沓を脱ぎきざはしを上る。茶の間。書斎を兼ねた閨。暗い納戸。廊下の天井に引掛けられた隠し階段を踏み、覗いた屋根裏。
何もない。あるべきはずのものがない。いるべきはずの住人がいない。否、抑も人など住んでいなかったかのように何もない。拭ったように何もない。
グラグラと目の前が揺れる。歪む。膝の力が抜け、ぺたんと畳にへたり込む。グルグルと疑問が渦巻く。家主はどこへ行ったのだろう。どうしてこんなに家を奇麗に片付けたのだろう。家財道具が一切ないのは何故だろう。何故なのだろうか。何故。何故。
寒いわけでもないのに体が震える。何もない空間に押し潰されるように肺が軋む。掠れた笑い声が喉から滲む。混乱する頭が妄想のような回答に縋り付く。
これは間違いだ。間違って違う家へ来てしまったのだ。迷いの竹林に惑わされたのだ。そうに決まっている。間取りもそっくりだが、見慣れた内装だが、これは違う家だ。畳のコゲや柱の傷、欄間の欠けから竈の汚れ、叩きの欠け、何なら何まで瓜二つだけれども、これは違う家だ。そうに決まっている。だから、これは知らない家だ。他人の家だ。
乾いた笑い声を繰り返す。が、何かに脅かされたように息を止めた。空耳だろうか。否、玄関扉を叩く音がはっきり聞こえた。
家主が帰って来たのだろうか。玄関に走る。沓も履かず、裸足で土間を踏み、心臓を昂ぶらせて開けた戸。外にいたのは、しかし。
夥しい数の札を貼り付けた装束。夥しい数の札を貼り付けた頭巾。背後に揺れる金毛の九尾。能面師が彫り上げたように美しいかんばせ。
八雲藍。
うろたえる慧音を置き、藍はうっすらと微笑んだ、ように見えた。衣の袖から抜かれた手には封筒が握られている。
呆然とする慧音に封筒を差し出す。思わず慧音はこれを受け取り、一層困惑した顔で妖狐を見返した。が、藍は黙したまま一礼すると、くるりと背中を向け、柔らかな九尾を見せた。
空中にすいすいっと指を這わる。ぐぱ、と妙に粘着質の音を立て、空間に亀裂が生じた。
藍を飲み込むと、裂け目は傷口が塞がるようにぴったりと閉じた。一瞬の出来事で、幻覚でも見たように錯覚する。
が。突然のように封筒がその重量を主張した。我に返り目を落とした、その表に書かれた文字。
心臓が凍る。筆跡。愛おしい友の筆。その宛名。自分の名前。心臓が不吉な鼓動を再開する。震える手で封を切る。
帯のように長い便箋がバラバラッと零れ落ちる。戦慄く手で不器用に繰り、文字を読む。長い手紙。その内容。読み終えると、しかし慧音は再び便箋の冒頭を手繰った。読み終える。再び冒頭を繰る。読み終える。
幾度繰り返しただろうか。末尾に目を落としたまま、慧音はその場に立ち尽くしていた。ぱたぱたっと音を立てて便箋に雫が落ちた。蛇口が壊れたように涙が流れ落ちた。引き絞られた喉から弓弦を鳴らすような声が漏れた。
永劫の別離を告げる言葉と友の名で結ばれた手紙。慧音の咽び泣きは、やがて悲痛な慟哭へ変じた。
***
「それで、」
可笑しくて堪らぬ様子で妹紅は言った。
「不安になって、こんな夜の夜中、寝巻で裸足のまんま、わたしの家まで来たって?」
この言葉に、慧音は顔を真っ赤にしたまま答えなかった。
迷いの竹林は妹紅の家。その玄関、慧音はきざはしに腰を下ろし、ぬるま湯を張った桶に足を容れ、土に汚れたその足を妹紅の洗うがままにさせている。
「いきなり飛びつかれた時には何事かと思ったけど、夢に魘されたからっていうオチとか」
手拭いで裸足を拭うと、妹紅は慧音を家へ上げた。座布団を敷き、熱いお茶を勧めつつ、
「死せる孔明、生ける仲達を走らす、みたいな。違うっけ? で、どんな夢だったの?」
「それは、」
言おうとして、しかし慧音は言葉を詰まらせた。空の家。別離の手紙。声に出せば、あの夢が現実になりそうな気がして。
「……忘れた」
この返答に、妹紅は再び声を上げて笑った。
夜ももう遅いということで、慧音は妹紅の家に泊まることになった。
「狭くない? 枕、もっとそっちにあげようか?」
「……いい」
慧音は妹紅の寝台で一緒に寝ている。一人用の布団。一つしかない枕。二人は身を寄せ合い、鼻先が触れるほどに顔を迫らせている。
猪口一杯の梅酒は、慧音を直ぐに眠りへ誘った。安らかな、甘い香りのする寝息が鼻を、唇を擽る。妹紅は「ふふっ」と笑い、枕元のランプに手を伸ばした。
火を消す寸前、妹紅は文机を見た。
鍵穴のある抽斗。固く鍵を掛け、誰の手にも絶対に触れさせぬ、決して開かぬその中。二重底の下。決して望まぬ、しかし避けられぬその日の為の手紙。
「……ハクタクの夢、か」
ぽつりと呟く。が、不吉な未来を振り払うようにかぶりを振ると、妹紅は眠りを妨げぬようそっと、しかしぎゅっと慧音の体を抱き締め、自分も目を閉じた。
(了)
土間を抜け茶の間を抜け、座敷を抜けて黒い土壁に阻まれるまで、寒々しいほど何もない。右手にある竈は空で、埋み火を隠す灰山もなければ火吹き竹もない、薪も藁束もない。
たどたどしく沓を脱ぎきざはしを上る。茶の間。書斎を兼ねた閨。暗い納戸。廊下の天井に引掛けられた隠し階段を踏み、覗いた屋根裏。
何もない。あるべきはずのものがない。いるべきはずの住人がいない。否、抑も人など住んでいなかったかのように何もない。拭ったように何もない。
グラグラと目の前が揺れる。歪む。膝の力が抜け、ぺたんと畳にへたり込む。グルグルと疑問が渦巻く。家主はどこへ行ったのだろう。どうしてこんなに家を奇麗に片付けたのだろう。家財道具が一切ないのは何故だろう。何故なのだろうか。何故。何故。
寒いわけでもないのに体が震える。何もない空間に押し潰されるように肺が軋む。掠れた笑い声が喉から滲む。混乱する頭が妄想のような回答に縋り付く。
これは間違いだ。間違って違う家へ来てしまったのだ。迷いの竹林に惑わされたのだ。そうに決まっている。間取りもそっくりだが、見慣れた内装だが、これは違う家だ。畳のコゲや柱の傷、欄間の欠けから竈の汚れ、叩きの欠け、何なら何まで瓜二つだけれども、これは違う家だ。そうに決まっている。だから、これは知らない家だ。他人の家だ。
乾いた笑い声を繰り返す。が、何かに脅かされたように息を止めた。空耳だろうか。否、玄関扉を叩く音がはっきり聞こえた。
家主が帰って来たのだろうか。玄関に走る。沓も履かず、裸足で土間を踏み、心臓を昂ぶらせて開けた戸。外にいたのは、しかし。
夥しい数の札を貼り付けた装束。夥しい数の札を貼り付けた頭巾。背後に揺れる金毛の九尾。能面師が彫り上げたように美しいかんばせ。
八雲藍。
うろたえる慧音を置き、藍はうっすらと微笑んだ、ように見えた。衣の袖から抜かれた手には封筒が握られている。
呆然とする慧音に封筒を差し出す。思わず慧音はこれを受け取り、一層困惑した顔で妖狐を見返した。が、藍は黙したまま一礼すると、くるりと背中を向け、柔らかな九尾を見せた。
空中にすいすいっと指を這わる。ぐぱ、と妙に粘着質の音を立て、空間に亀裂が生じた。
藍を飲み込むと、裂け目は傷口が塞がるようにぴったりと閉じた。一瞬の出来事で、幻覚でも見たように錯覚する。
が。突然のように封筒がその重量を主張した。我に返り目を落とした、その表に書かれた文字。
心臓が凍る。筆跡。愛おしい友の筆。その宛名。自分の名前。心臓が不吉な鼓動を再開する。震える手で封を切る。
帯のように長い便箋がバラバラッと零れ落ちる。戦慄く手で不器用に繰り、文字を読む。長い手紙。その内容。読み終えると、しかし慧音は再び便箋の冒頭を手繰った。読み終える。再び冒頭を繰る。読み終える。
幾度繰り返しただろうか。末尾に目を落としたまま、慧音はその場に立ち尽くしていた。ぱたぱたっと音を立てて便箋に雫が落ちた。蛇口が壊れたように涙が流れ落ちた。引き絞られた喉から弓弦を鳴らすような声が漏れた。
永劫の別離を告げる言葉と友の名で結ばれた手紙。慧音の咽び泣きは、やがて悲痛な慟哭へ変じた。
***
「それで、」
可笑しくて堪らぬ様子で妹紅は言った。
「不安になって、こんな夜の夜中、寝巻で裸足のまんま、わたしの家まで来たって?」
この言葉に、慧音は顔を真っ赤にしたまま答えなかった。
迷いの竹林は妹紅の家。その玄関、慧音はきざはしに腰を下ろし、ぬるま湯を張った桶に足を容れ、土に汚れたその足を妹紅の洗うがままにさせている。
「いきなり飛びつかれた時には何事かと思ったけど、夢に魘されたからっていうオチとか」
手拭いで裸足を拭うと、妹紅は慧音を家へ上げた。座布団を敷き、熱いお茶を勧めつつ、
「死せる孔明、生ける仲達を走らす、みたいな。違うっけ? で、どんな夢だったの?」
「それは、」
言おうとして、しかし慧音は言葉を詰まらせた。空の家。別離の手紙。声に出せば、あの夢が現実になりそうな気がして。
「……忘れた」
この返答に、妹紅は再び声を上げて笑った。
夜ももう遅いということで、慧音は妹紅の家に泊まることになった。
「狭くない? 枕、もっとそっちにあげようか?」
「……いい」
慧音は妹紅の寝台で一緒に寝ている。一人用の布団。一つしかない枕。二人は身を寄せ合い、鼻先が触れるほどに顔を迫らせている。
猪口一杯の梅酒は、慧音を直ぐに眠りへ誘った。安らかな、甘い香りのする寝息が鼻を、唇を擽る。妹紅は「ふふっ」と笑い、枕元のランプに手を伸ばした。
火を消す寸前、妹紅は文机を見た。
鍵穴のある抽斗。固く鍵を掛け、誰の手にも絶対に触れさせぬ、決して開かぬその中。二重底の下。決して望まぬ、しかし避けられぬその日の為の手紙。
「……ハクタクの夢、か」
ぽつりと呟く。が、不吉な未来を振り払うようにかぶりを振ると、妹紅は眠りを妨げぬようそっと、しかしぎゅっと慧音の体を抱き締め、自分も目を閉じた。
(了)
結局、何が言いたかったんでしょう…?
この二人だと基本的に慧音の一生分を妹紅が思い続けるものが多いだけに
途中で別れるということもなるほど、勿論あるはず。慧音側の夢というのも暗示的。
欲を言えば、ほのめかされた回答も一つのお話として拝見したいです。